赤い糸であった。
少女の口元から細い顎にかけて、赤い糸が伝っていた。
糸は顎の先で一度止まり、その先端から赤い滴を一つ、零した。
滴は二つ、三つと続けて零れ、地面に赤黒い染みを作る。
血であった。
傷ついた少女の口角から流れた血は糸のように顔を伝い、やがて顎先から垂れて地面に落ちる。
その痛々しい光景を、別の二人の少女が見下ろしていた。
「わたしの、勝ちね」
黒い髪の少女は満足げな笑みを浮かべてそう言った。
右手に持った釣竿の先から伸びた糸は、地面にへたり込み血を流す少女の口元に伸びている。
黒髪の少女は、赤い血の少女を眼前の湖から釣り上げた張本人であった。
「そもそもこれはカウント対象になるのか?」
もう一人、青白い髪の少女は訝しげな顔をして尋ねた。
こちらは釣竿を湖面に向けており、未だ釣りの途中であることがわかる。
首だけを地面に向け、黒髪の少女が釣った獲物に目を向けていた。
「少なくとも半分はね。でも、それで十分でしょう?」
「確かに、半分だけでも今日の獲物で一番大きいが」
「だったらわたしの勝ちよ。妹紅はもう、帰らなければならないでしょう?」
黒髪の少女はくすくすと笑った。
妹紅と呼ばれた青白い髪の少女は、小さくため息をつくと釣竿のリールを巻き始めた。
このリールという道具を手に入れたおかげで、従来より深い場所の魚も釣れるようになった。
外の世界の道具も馬鹿にならないものだと、妹紅は思う。
しかし今日に限っては、その文明の利器をもってしても、
もう何回目になるかわからない釣り対決に勝利することはできなかった。
満月の夜。
いつの頃からか、妹紅は目の前の黒髪の少女と、
こうして夜釣りで勝負をするのが習慣になっていたのであった。
「またお前の所の薬師が変な薬を撒いたのか」
「さすがの永琳も人魚を作り出すなんてできないわよ。…たぶん」
黒髪の少女――蓬莱山輝夜は釣り上げた獲物を見下ろし言った。
口元に刺さった針が痛々しいその少女は、着物の裾から艶めかしい魚体を晒している。
上半身が人、下半身が魚の妖怪、人魚である。
「釣った数で競えばよかったのに、あなたはお馬鹿さんね」
妹紅がこの日輝夜に持ちかけた勝負の内容は、
『その日一番の大物を釣り上げたほうが勝ち』というもの。
釣った魚の数では圧倒的に妹紅の勝利であったが、人魚ほど大きな魚を釣ることはできなかった。
「お前の腕力を舐めていたよ。そんな大物を竹竿一本で釣れるなんて知らなかった」
「あらまあ、もしかして新鮮な発見?ワイルドな一面に惚れ直した?」
「冥途の父上に伝えなきゃね。あんたが惚れたお姫様はゴリラ並の腕力持ってますよって」
ゴリラ呼ばわりされても輝夜は眉一つ動かさず、しゃがみこんで人魚と目線を合わせた。
「あなたはとっても小柄でスリムな人魚姫。だからわたしの細腕にも釣られてしまうのよね」
輝夜はその白い指先で、人魚の口元の血を拭った。
人魚は怯えた表情で輝夜を見つめるばかりで、その震える口元から言葉は出ない。
「…現実と戦え、宇宙猿人ゴリ」
「黙りなさい」
鋭い視線を妹紅に向け、輝夜は立ち上がった。
「約束だからね。釣った魚は全て負けた方が料理し、勝者に振る舞うこと」
「全ても何も、お前が釣ったのはそこの大きくて重そうな魚一匹だけだがな」
「「重くないわアホ!!」」
妹紅の挑発に、輝夜ばかりか釣られた人魚までもが大声で反論した。
「あ、しゃべれたのね」
「ふぇっ!?えと、あの、それは…だってわたし、そんな重くないし…」
「ほら妹紅、この子は重くないわ。だからわたしもゴリラみたいな腕力なんて持ってないの」
どうやら人魚は妹紅の「重い」発言に対し、反射的に声を荒げてしまったようだ。
今は大声を出してしまったことを恥じているのか、俯いて地面を見つめるばかりである。
「あと…この針、抜いてほしいな…えーと…宇宙猿人ゴリさん」
「よし、この場で三枚に下ろすわ」
「ひいいっ!?」
どこからともなく包丁を取り出した輝夜を見て、人魚は悲鳴を上げた。
哀れ罪なき人魚の柔肌に、宇宙猿人ゴリの魔の手が迫る。
「安心なさい。優れた料理人が包丁を入れた魚は、捌かれた後でも生きて泳ぎ続けるわ」
「おい」
「人魚の肉を食べると不老不死になるそうよ?妹紅、試してみたらどう?」
「おい輝夜」
「あら、怒ったかしら?あなたっていつもそう。本当に可愛いわ」
「おい輝夜、後ろ」
蠱惑的な笑みで妹紅を挑発する輝夜の背後を、妹紅は指差した。
「もう、何よ?」
「だから後ろ」
妹紅のその言葉を聞き、輝夜はようやく後ろを振り向いた。
そこで初めて、背後に立っていた人物の存在に気づく。
「す…スペクトルマン?」
勿論そんなことはなく、そこには一匹の狼が立っているのみであった。
ただし、輝夜よりも背が高い肉体を、二本の足で支えて。
そして、怒りに満ちた表情を浮かべながら、その瞳に満月をいっぱいに映して。
「宇宙…猿人…ゴォォォリィィィ…!」
「いや、だからわたしはゴリラじゃなくて――」
いつの間にか輝夜の背後に立っていた狼女は、
目の前の相手を往年の特撮ヒーローの仇敵(なのに番組名はこいつ)と勘違いしたまま、
満月の夜に力(と毛)が倍増した腕で思い切り輝夜を掴み上げ、湖に投げ飛ばした。
「――か弱い月のお姫様なのよぉぉぉ――でぃあなっ?!」
ほぼ水平に湖面の上を数十メートルも投げ飛ばされた輝夜は、少しずつ減速し着水した。
「許さない…わたしのわかさぎ姫のお口に…あんな太いモノを…」
誤解を招きそうな発言をこぼしつつ、狼女は輝夜が青黒い水面の下に沈んだのを確認した。
おそらく溺れ死んだに違いない。妹紅は思った。
「ゴリラ女はあんたの方だったか」
「誰がゴリラよ…って、妹紅?」
「そうだよ。今泉君」
人差し指を額に当て、どこかの警部補のようなポーズで妹紅は狼女に挨拶をした。
今泉影狼。
この狼女は、妹紅が住んでいる場所からほど近い、迷いの竹林に棲息する妖怪の一人だ。
普段は冷静でおとなしい性格で、積極的に人を襲うことは少ない。
妹紅は竹林で迷った人間の道案内をすることがよくある。
迷いの竹林が危険な場所であることを知らしめるため、妹紅は事前に影狼に頼み、
わざと自分が連れた人間を怖がらせるように出現させたことも一度ならずある。
その度に妹紅が影狼を追い払うという茶番劇を演じるのだが、影狼は文句ひとついわず協力してくれる。
童話のイメージには似ても似つかない、気立てがよく優しい狼であった。
そんな影狼が、今は怒りを露わに輝夜を一撃で葬って見せた。
人魚を釣竿一本で釣り上げるゴリラ女とはいえ、自分より小柄な(一応)人間の少女を、である。
「今あんたが湖にブチ込んで溺死させたのは宇宙猿人ゴリであり、同時に永遠亭の姫さ」
「ええっ!?あ、あのお屋敷のお姫様…わたしはなんてことを…」
「別に気にしなくていいよ。わたしもよくこの湖にあいつを落っことして殺すし」
同様に、輝夜によってこの湖に落とされ殺されたことも数えきれないほどある。
「それにさ、あんたはあんたのお姫様を守りたかったんでしょ?」
「そ、そうだ!わかさぎ姫!!」
影狼は慌てて、人魚――わかさぎ姫に駆け寄った。
「大丈夫!?今、この針を抜いてあげるから――」
「う、うん…ありがと、影狼ちゃん…」
返しがついた針の刺激に苦痛を覚えているのか、わかさぎ姫は時折小さく顔を歪める。
それでも、恐る恐る針を抜いて行く影狼の行為に、悲鳴一つ漏らさず身を任せていた。
「その子でしょ。あんたがよく話してるお姫様ってのは」
妹紅は苦笑した。
普段は冷静で、あまり感情的にならない影狼が、これほど取り乱すのは珍しい。
何度か聞いていた「草の根妖怪ネットワーク」での影狼の友人、
その中でも特に仲がいいという「人魚姫」とやらを、輝夜が偶然にも釣り上げてしまったようである。
「うるさい、手元が狂う。この子の顔に傷が残ったら妹紅のせいよ」
「あらまあ、怖い怖い」
影狼はなんとかしてわかさぎ姫の口元から針を抜くことに成功した。
相変わらず人魚の口から垂れてくる赤い血を、影狼は躊躇うことなく舐め取った。
少しでも早く血が止まるようにと必死で傷口を舐める光景は、ひどく淫靡なものに見えた。
「もっ…もういいよ、影狼ちゃん…恥ずかしい」
さすがに妹紅の眼前でそれを行う事に抵抗を覚えたか、わかさぎ姫本人が音を上げた。
「そ、そう…?」
「うん。そんなに深くささってたわけじゃないし…」
上半身が人間と同じ人魚を、そもそもどんな餌を使って釣り上げたのか。
妹紅は興味があったが、面倒なので特に聞かずに置いた。
輝夜のことである。どうせ意味不明な月の食物でも使ったに違いない。
「目の前に仙台名物『萩の月』がぶら下がって来ちゃって、つい…」
「くっ…!非道なり永遠亭の宇宙猿人。ほどよい甘さでお馴染の世界一うまいお土産を使うとは…」
月と言う要素に置いては、当たらずとも遠からずであった。
読者諸兄も仙台市内にお立ち寄りの際は是非ともお買い求めの上、ご賞味いただきたい。
「それにしても影狼、何であんたがここにいるのさ?」
「今日はわかさぎ姫と、ここで一緒に月を見る約束をしていたのよ」
影狼の視線の先には、雲一つない夜空の星々と、真ん丸い月を映す水面があった。
まるで湖に飛び込めばそのまま月の世界に繋がっているかのような、鮮やかな天球図である。
ただ空を見上げる普通の月見とは異なる趣を持った風景が、そこには広がっているのだった。
「あと少し遅かったら、この子が宇宙人にキャトられるところだったわ」
「キャ、キャトられる?」
「そりゃ魚じゃなくて牛肉の話だよ…ところで影狼」
安堵のため息をついた影狼に、妹紅は笑いかけた。
「その子、どうするのさ?」
「わかさぎのこと?別にどうもしないわよ」
「ああ、そうなんだ。じゃあ」
妹紅はそう言うと、わかさぎ姫に向かって一歩踏み出す。
わかさぎ姫の肩が一瞬、びくんと震えた。
影狼は一瞬怪訝な表情をし、すぐにその目を鋭く細めた。
「…妹紅。あなた、何を考えているの」
「いやあ、お姫様との約束ならこっちにもあってねぇ」
影狼は素早い動きで、妹紅とわかさぎ姫の間に割って入っていた。
「今日はわたしが負けたから、釣った魚を捌かないといけなくてね」
ルールなんだよ、と妹紅は付け加えた。
「もうあのお姫様は湖の藻屑よ。あなたが約束を守る相手はいない」
「溺れ死んだくらいで、あいつがいなくなるわけないでしょ」
「…あなたと同類ってわけか…」
冷静で理知的なニホンオオカミは、妹紅の言葉の意味をすぐに悟ったようである。
「魚は他にも釣ったんでしょう?一匹くらいリリースしてあげなさいよ」
「うーん。そこの人魚はあいつが今日釣った、たった一匹の魚だしなあ…」
妹紅は頭を掻いた。
釣りで勝負をする際に輝夜が最も楽しみにしているのは、自らが釣った魚を、
自らの手で負かした妹紅に調理させ給仕させるという、その行為である。
カスタード入りの饅頭を使って釣ったその人魚の料理がなければ、
妹紅がどれほど腕を振るったところで、輝夜は納得しないだろう。
「じゃあわたしが釣った一番大きい魚を一匹、あんたにあげる」
「そういうことじゃないの」
影狼が足を一歩後ろに踏み出し、半身の態勢になる。
明らかに、妹紅を敵として認識して構えている様子であった。
「あなたがそこまでして約束を守る理由って何?あのお姫様にわかさぎを献上することが、そんなに大事?」
「うん、大事。こういうルールは負けた時こそ守らないと」
対する妹紅は影狼の戦闘態勢を見ても、特に構えをとることはない。
元々妹紅が敵と戦う際には「構え」という発想がそもそも存在しない。
妹紅の戦闘スタイルにあるのは、ただ制圧前進のみ。
基本的に防御の型である「構え」は、妹紅の戦いには不要なものなのである。
「次にわたしが勝った時、あいつに言うこと聞かせられないじゃない」
輝夜のためでなく自身のために、妹紅はその義理を果たそうとしていた。
輝夜に対して自分がしたいこと、させたいことを挙げれば、
妹紅はそれこそ夜を徹して語り尽くせないほど多くなることを知っている。
「…それだけ?」
「うん。別にそこの人魚姫がどれだけマズくても、料理して出すってことが大事なの」
「わ、わたしマズくないです!どこかの神社の神主さんもわかさぎの天ぷらが大好きだって…」
わかさぎ姫はまたしても怯え始めていたが、マズい発言に傷ついたのか震える声で反論してきた。
「そうかぁ、美味しいならば好都合」
「ひっ!?」
「妹紅!これ以上わかさぎを怖がらせるなら容赦しないわよ!」
影狼と妹紅、両者の間の緊張の糸がいよいよ張りつめたその時。
「っぷはぁ!死ぬかと思ったわよ!!」
大きな水音と共に、竹筒を口に咥えた輝夜が水面から顔を出した。
「なんだ、生きてたのか」
「当たり前よ!今まで何度この湖で溺れ死んだと思ってるの!」
輝夜が口に咥えた太くて硬そうな竹筒は、よく見ると二本の竹を組み合わせ、
先端部分、すなわち輝夜が口に当てる部分が直角に曲がるように作られていた。
わかりやすく言えば、外の世界の道具のシュノーケルの形である。
「何それ、水遁の術?」
「ええ、これで呼吸はバッチリよ。着物が水を吸って沈みそうになったけどね」
和服にも洋服にも見える輝夜の服は、
ただでさえ重そうな生地に湖の水をたっぷりと染み込ませていた。
「ちなみにこのシュノーケルは、昔お爺ちゃんに教わった竹細工の一つよ」
「あんたの爺さん、あの時代で既にそんなものを作ってたのか…」
「どうしよう影狼ちゃん、宇宙猿人ゴリが生きてたわ」
「くそっ!こうなったら二人仲良く湖の富栄養化の原因にしてやるわ」
影狼は妹紅と輝夜を睨み付けながら、わかさぎ姫を庇うように背後に回らせた。
「わたしら相手にニ対一、どう考えてもあんたに分が悪いよ?」
「『逃がした魚は人魚やで』ってな展開は勘弁ね。その魚を渡しなさい」
「うるさい!わたしのわかさぎ姫に指一本触れてみなさい…殺すわよ!」
「ひゃわぁ!?わた、わたしの!?影狼ちゃん、い、今なんて…」
そして。
『ようやく見つけた…あれが、竹林の英雄…!』
そんな光景を、彼女たち四人に気付かれることなく、
しかし「間近」で見つめている者がいた。
※ ※ ※
彼女は事の起こりから今までの経緯を、ずっと見ていた。
最初にその者たちの名を知ったのは、里の人間が書いたという一冊の本であった。
幻想郷縁起と呼ばれるその書物の中にあった「英雄伝」という章で、
かつて戦った巫女や魔法使い、メイドと一緒に紹介されていた二人の人物。
幻想郷縁起に書かれた情報がどれだけ正確なものであるか、
それは判断が付きかねるところではあったが、
その者達について書かれた情報に、彼女――少名針妙丸は少なからず興味を持った。
一人は永遠亭の姫、蓬莱山輝夜。
自分と同じ「姫」たる身分でありながら、永遠と須臾を操るという強大な能力を持ち、
さらには謎めいた月の都にも通じているという、不思議な魅力の持ち主であった。
もう一人は「紅の自警隊」と称された不死身の人間、藤原妹紅。
輝夜同様その素性に謎は多いが、竹林に迷い込んだ人間を妖怪から救い何も言わず立ち去るという、
そのストイックなヒーロー性に、針妙丸は強く心を惹かれた。
自分の体ほどの大きな書物を一生懸命に読んだ結果、
針妙丸は「竹林の英雄」をどうしても一目見たいと、元いた場所を抜け出したのである。
『道具屋?薬屋?…そんなの英雄伝に載ってたっけ』
道具の付喪神化と、妖怪の下剋上を巡る一連の異変が終わって僅か一週間。
保護と監視の名目で自身を拘束していた博麗神社から、針妙丸の姿が消えた。
※ ※ ※
「影狼、わたしはあんたのことは買ってるんだ。争うのはやめよう」
「あなたたちがわかさぎ姫に手を出さないってなら、今すぐやめてあげるわ」
針妙丸は現在、本来の大きさである小人サイズであった。
妹紅たちが釣りをしていた場所にかなり近い場所にいるのだが、
言い争う四人はいずれもその大きさゆえに、針妙丸には気づいていないようである。
「あら、他の魚は食べてもいいって言うの?狼さん。同じ命なのに」
「ええ、当然。わたしにとって、わかさぎ姫は世界でたった一人の特別な女の子だから」
もはやわかさぎ姫の顔はゆでがにのように朱に染まっている。
「ふーん…そういう開き直り、嫌いじゃないわ」
輝夜はそう言うと、釣り道具と一緒に置いてあった平たい紙箱を手に取った。
「そうね…ここは一つ、取引きをしてはどうかしら?」
「取引き?何を馬鹿なことを…」
「あら、あなたにとっても悪い条件じゃないはずよ?」
そう言って、輝夜が紙箱を開けた。
「今なら、この仙台名物『萩の月』をあなたに一つお裾分けするわよ」
「「アホか!」」
妹紅と影狼が同時にツッコミを入れた。
(はぎの月…?これも月の都とかいう場所の秘宝の類に違いない…!)
針妙丸は高さによって見えない紙箱の中身を想像し、固唾を飲んでいた。
妹紅と、よく知らない妖怪が怒っているのは、きっとその秘宝があまりに高価なものだからだろう。
打出の小槌と同じく、みだりに持ち出してはいけないものなのだ。そうに違いない。
そんなことを思う針妙丸だったが、自分は自分で打出の小槌をまたしてもこっそり持ち出していた。
???『一族の秘宝を勝手に持ち出すなんて恥知らずな娘ね(緋想剣ドーン』
???『強大な力に振り回されて暴走すると友達が悲しむわよ(核ドバーッ』
何か、この場所にいるはずがない人物の声が聞こえているが、気にしてはいけない。
「いくらふんわり生地とマイルドなカスタードが魅力な萩の月でも、友達の命と引き換えになんかできるか!」
「か、影狼ちゃん…!」
わかさぎ姫は先ほどからの影狼の啖呵に感動しっぱなしである。
頬をさらに真っ赤に染め、目を潤ませて影狼を見つめる仕草はまさに恋する乙女のそれだ。
「じゃあ、二個あげるわ」
「ふざけないで、個数の問題じゃないわよ!」
「なら三個」
「……くっ」
「「いや悩むなよ!!」」
ぎり、と歯ぎしりをした影狼に、今度は妹紅とわかさぎ姫が二人でツッコんだ。
乙女の夢を一瞬で打ち砕いた腹ペコ狼(甘い物好き)は、気を取り直して輝夜を正面から睨み付ける。
「はっ…萩の月をいくつ積まれようと、わたしは絶対に釣られないわよ!」
「あんたの人魚姫は一つでも釣られたけどな」
「饅頭三個…よく考えたらさっき影狼ちゃん『友達』って言ってるし…そっか、ただの友達なんだ…」
「わーっ!うるさいうるさいうるさい!!」
呆れる妹紅といじけるわかさぎ姫から必死で目を逸らしつつ、影狼がやけっぱち気味に吠えた。
「と、とにかくわかさぎ姫は渡さないの!これは絶対よ!!」
「あらあら…それじゃこっちも力ずくで行くわよ?」
輝夜もここに来てようやく、影狼との戦闘が避け得ない状況を認めたようだった。
「おお、ゴリラ姫お得意の力ずくだな」
「もうそのネタ引っ張るのやめてよ!泣くわよ!!」
妹紅も輝夜の横に並び立ち、影狼と対峙する。
「か…影狼ちゃん。さっきの発言はあとで追及するとして、今は…」
「安心して。あなたのことは、わたしが命に代えても守る」
「ううん。わたしも一緒に戦う。怖いけど…」
わかさぎ姫は相変わらず弱々しい声であったが、その目に戦う覚悟を湛えていた。
「ば、馬鹿なこと言わないで!虫も殺せないあなたが、あんな化け物と戦うなんて無理よ!」
「でも、目の前で影狼ちゃんが傷つく方が、もっと怖いの!」
毛深い狼女と魚体をぬめらせる人魚、どう見ても化け物はこっちなのだが、
相手の人間さん(らしきもの)サイドが捕食者側に立っているせいか、影狼から主人公オーラが出始めている。
「お願い、一緒に戦わせて!絶対に足手まといにならないから!」
「陸上にいる時点でそれは基本的に無理な気がするけど、そうね…わかさぎの気持ち、受け取ったわ!」
二人はお互いの手をしっかりと握りあい、悪質な釣り人コンビに正面から向かい合う。
二対二の構図になった少女たちの間で、空気が急速に張りつめていく。
一触即発――どちらが先に仕掛けるか、その読み合いの中であった。
『待ちなさい強者たち!無益な争いは憎しみしか生まないわ!!』
針妙丸はそのタイミングを見計らっていたかのように、四人の間に割って入った。
しかしその声を合図にして、人間と妖怪たちは同時に攻撃を仕掛けた。
針妙丸の身体相応の声帯から絞り出された停戦勧告は、
緊迫感漂う四人にはうまくその意味が伝わらず、単なる「物音」として戦いの火蓋を切って落としてしまったのである。
『ちょ、ちょっと、どうしてそこで戦い始めるのー!?』
まさに針妙丸の頭上で、最初に飛び出した妹紅と影狼の拳がぶつかり合っていた。
「満月の夜にわたしを怒らせたこと、後悔するがいいわ!」
「ははっ、後悔なんてとんでもない!」
妹紅の背後に、不死鳥を模した炎の翼が展開される。
「狼女と戦うのに、満月以上の吉日があるかっての!」
「このっ…化け物が!」
その翼の熱気に顔をしかめつつ、影狼が後ろに大きく跳び退る。
先ほどまで影狼がいた場所に、炎の柱が立ち上った。
「さすが、獣は炎に敏感ね」
「髪に引火したらどうしてくれるのよ…!」
気圧されたように目を丸くするわかさぎ姫の傍に立ち、再び身構えた。
二人の間の地面では、先ほどの炎に焼かれた雑草が細い煙を上げている。
『あっ…熱い!火、火がついてる!?助けてー!!』
そしてそこに立っていた針妙丸も、火が付いた着物の裾を掴んで走り回っていた。
「影狼ちゃん」
「大丈夫。妹紅の炎は見慣れてるし」
「ううん、そうじゃなくて」
後方支援に回るべく間合いを取っていたわかさぎ姫が、何かに気付いた。
彼女の指差す先には、まだ火を消すに至っていない針妙丸の姿があった。
「あれは…!」
「え?何々?」
上空に飛び攻撃の隙を伺っていた輝夜も、二人の様子に気づき降りてきた。
「…ってお前、敵に隙ができてるんだから攻撃しろよ」
「てへ♪」
どこぞの軍神よろしくてへぺろをしてみせる輝夜。
眉間に皺を寄せる妹紅だが、彼女も針妙丸の存在に気付いていた。
「うう…新しい着物が…」
転んで地面をのた打ち回った結果火は消えたが、
針妙丸の着物の裾は無残に焼け焦げ、大部分の布面積が失われていた。
「…何だあれ」
「えっと…わたしはちょっと見たことないなぁ」
「わたしも、あんな生き物初めて見るわ」
「何よあなたたち、知らないのぉ?」
他三名が針妙丸を見て首を傾げるが、輝夜だけはどや顔を浮かべていた。
「あれは、少し前に外の世界で有名になった妖怪よ」
「外の世界?なんだ、最近こっちに来た妖怪なのか」
「でしょうね。わたしも実物を見るのは初めてだけど…」
へたり込んでめそめそ泣き始めた針妙丸を、輝夜は指差した。
「あれこそ知る人ぞ知る都市伝説の妖怪『小さいおじさん』よ!」
「「「「えええええええええ!?」」」」
妹紅、影狼とわかさぎ姫、そして針妙丸本人が驚きの声を上げた。
「輝夜、小さいおじさんといったらあの…」
「なんだ、妹紅も知ってたの?」
「相手を殴ろうとして腕グルグルする奴だっけ」
新喜劇の大御所芸人だ。
「違うでしょ妹紅。小さいおじさんはロボットアニメの主題歌を歌う人よ」
「そうなの影狼ちゃん?わたしは消臭剤のCMソングの人って聞いてたけど…」
ザフトの軍人(専用MS持ち)だ。
「馬鹿ねぇ貴方たち。小さいおじさんってのは学ラン着て食事の値段を当てる人よ」
「うん、おいしい!…って、んなわけあるかー!!」
ついに針妙丸がキレた。
「おい輝夜、めだか師匠が怒ったぞ」
「違うわよ、西川さんでしょ」
「も、もしかして岡村さんかも…」
「全部ちがーう!ってか、小さいおじさんじゃなーい!!」
針妙丸が精一杯にあげた怒りの叫びは、なんとかその場の全員に聞こえた。
「さっきから聞いてれば好き勝手言ってくれちゃって!」
「あら、よく見たら女の子じゃない」
輝夜はそこでようやく針妙丸に近づき、その姿をまじまじと見つめた。
どうやら先ほどまでは、単に小さな人間としか見ていなかったようである。
「どこをどう見たらわたしがおじさんに見えるってのよ!」
「あらまあ…ごめんなさいね。最近外の世界の都市伝説に興味があって…」
輝夜以外の面々も、針妙丸の周辺に集まってきた。
自分をぐるりと取り囲む巨人(針妙丸視点)にも怖気づくことなく、針妙丸は話を続ける。
先ほどまで頬を濡らしていた涙は乾いた。
針妙丸はあの英雄、一寸法師の末裔なのだ。根は強い子なのである。
「小さくてかわいいじゃないか。ホビット…それ以上かなぁ」
「湖の妖精さんよりも小さいのね。頭撫でていい?」
針妙丸は小人の中でもまだ幼い年齢であり、間近でその外見を見れば、
小さいおじさんなどとんでもない、和製親指姫とでも言うべき可憐な少女である。
「もーっ!何よあんたたちは!子ども扱いするのも怒るわよ!!」
あどけない顔立ちと桃のように薄く紅潮した頬、そして真っ赤な唇は、
膝丈にも満たない大きさの彼女であっても、近くにいればはっきりとわかる。
今現在、この人形サイズの美少女を取り囲んでいる四人も、それゆえに自然と頬を緩めてしまうのである。
つまり、未だに針妙丸の怒りはあまり真剣に伝わってはいない。
「いいじゃない。わかさぎ姫に頭撫でられるなんて、羨ましくて踏みつぶしたくなるわよ」
「足を上げるな足を!怖いわ!…もーっ!わたしの話を聞きなさいっての!!」
針妙丸は腰に差した針の剣を振り回し、四人に向かって怒鳴り散らした。
「こんな月が綺麗な晩に、喧嘩なんてしちゃ駄目でしょう!」
四人に対して言いたかった言葉を、針妙丸はようやく発することができた。
言われた四人は一様に目を丸くしたまま、何も言わない。
さては自分の言葉が彼女たちの心に響いたか、と針妙丸は勢いづく。
「そもそも原因が下らない。お魚の取りあいで竹林の英雄が妖怪と喧嘩なんて」
「竹林の…」
「…英雄?」
妹紅と輝夜はそれぞれ首を傾げた。
「そっちの妖怪も、人が釣った魚を狙うなんてさもしいわよ」
「え、さもしい?」
影狼は困惑した表情で針妙丸の言葉を反芻した。
「人の物をとったら泥棒。まして魚なんて、猫じゃあるまいし」
「ね、猫?」
なおも困惑の表情を強める影狼を見て面白がったのか、
妹紅がにやついた笑みを浮かべながら、おもむろに歌い始める。
「わかさぎ咥えた影狼~追っかけて~♪」
輝夜がすぐさま調子を合わせるように、
「裸足で~駆けてく~♪」
と後を引き継ぐ。
最後は二人で調子を合わせ、
「「妖忌な早苗さ~ん♪」」
「「「誰だよ」」」
わかさぎ姫と影狼、針妙丸は綺麗なユニゾンで突っ込んだ。
影狼を追いかけているのは魂魄流の剣技を極めた現人神なのか、
あるいは青い腋出し巫女服を着た白髪の爺さんなのか。
「と、とにかくね。もうそんな猫みたいな真似はやめて、お魚を返しなさい」
「何、あなたも結局こいつらの味方なわけ?」
わかさぎ姫の引き渡しを求める針妙丸に対し、影狼は敵意の視線を向ける。
「そうじゃないわ」
針妙丸はそんな視線を物ともせずに、影狼に微笑みかけた。
「ここは仲良く皆で分け合いましょ。このお魚を三枚におろして、
右を英雄さんたち、左を狼さんに。余った中骨はわたしがあら汁にでもします」
「だってよ、輝夜」
針妙丸の提案に対し、妹紅はまず輝夜に意見を求めた。
先ほど語っていた敗者の矜持は、絶対のようである。
「うーん、確かにおろした状態で貰えるのはありがたいわねえ。どう?狼さん」
「そうねえ…どうせなら中骨も貰おうかしら。あら汁好きだし」
「か、影狼ちゃん!?」
「え?あ、いやいやじょ、冗談ですヨ?!…さ、三枚おろしなんてさせるわけないでしょ!この鬼畜こけし!」
口元の涎を拭いつつ、影狼は鬼畜こけしこと針妙丸を中断した。
「誰がこけしよ!?」
「あんたよあんた!大きさといい髪型といい!!」
思わず逆上する針妙丸であったが、
同時に今の影狼と同じように、自分をこけし呼ばわりした者を思い出してもいた。
今はもう自分の傍にはいない、口の悪い仲間の存在を。
しかし、すぐにそんな一瞬の追憶は意識の外へ吹っ飛んで消える。
「その小さい身体でわかさぎを内側から食い荒らすつもりだったのね。このアニサキス!寄生虫めが!」
そう言いながら、影狼は針妙丸の身体を捕まえ、眼前に持ってきた。
影狼の叫びは針妙丸の頭に響き、最後の「寄生虫めが」という言葉が、脳内に何度も反響した。
『寄生虫めが…寄生虫めが…寄生虫目が…』
「うわあああああああああああああ!!!」
針妙丸は悲鳴を上げるが、狼女の腕力から逃れられるはずもない。
影狼は既に大きく口をあけ、針妙丸を頭から食う構えであった。
「カヲルくん状態?」
「マミさんね」
「あの…お二人とも、小さいおじ…女の子が影狼ちゃんに食べられちゃいますよ…」
竹林の英雄たちは特に助けるそぶりも見せない。
むしろ三枚おろしを提案されたわかさぎ姫が針妙丸の心配をする始末。
(く、食われる…いや、これこそ『ピンチはチャンス』!)
自分をこけし呼ばわりしたかつての仲間が言っていた、
外の世界の魔法使い(マヨラー)の名言を、針妙丸は思い出していた。
一寸法師の正当な末裔たる針妙丸、勿論先祖の英雄伝説を知らないはずがない。
一度は鬼に食われた初代一寸法師は、体内から鬼の内臓を攻撃し、見事勝利を収めた。
それと同じことが、その子孫たる自分にできないはずがない――針妙丸はそう考えた。
しかも異国の伝説には、狼に食われながらも生きていた人間や仔山羊の伝説が存在する。
そうして狼に食われた者達は、体内から狼を攻撃できない普通の大きさの生物である。
しかし自分はこの大きさだ。自ら攻撃できる点において、さらに彼ら以上のアドバンテージがある。
負ける気せえへん、小人やし――針妙丸の心に、なぜか関西弁で勝利への確信が湧きあがる。
「わたし、カロリーコントロールのためにご飯は三十回以上噛むようにしてるからね」
「Vやねん!一寸法師!はい逝きましたー!!」
針妙丸が「絶対こいつの腹とか二の腕の肉になってやる」、
と壮絶に後ろ向きな最後の抵抗を決め込んだ、その時であった。
「待て」
怒りを含んで重く、しかし凛として明朗に響く声が聞こえた。
その声は大きく、針妙丸と影狼はおろか、
一気コールをしていた輝夜と妹紅、はわわわと狼狽えていたわかさぎ姫の動きをも止めた。
威圧感を感じさせずにはいられない、そんな声であった。
さながら、普段は温厚で生徒たちを怒ることも少ない担任の教師が、
ホームルーム中にいつまでたっても静まらない糞餓鬼共を一言で黙らせたかのようである。
「こんなところで、何をしている」
そして、月の光に照らされたその声の主が姿を現す。
「…け、慧音」
「またお前たちか…今度は湖に来てまで荒事を起こすつもりか」
文字通り頭に角を生やしてお怒りのその人物は、
これまた文字通りの女教師、人里の守護神こと上白沢慧音先生であった。
※ ※ ※
異変の度に神社を飛び出しては妖怪と戦い、人間を守る博麗の巫女は有名だが、
それとは異なる方法で人間を妖怪の脅威から守る、里の守り人がいた。
その人物こそ、いつからか人里に住み着いた半獣、上白沢慧音である。
彼女は半分は獣――ハクタクという異形の存在という一面を持ちつつも、
決して己の長い寿命や強い力で人間を脅かすことなく、里の人間を守り、
また子供や若者に学を与えるという形で人材育成にも貢献してきた。
彼女を知る者からの信頼は厚く、寺子屋の子どもたちも彼女を恩師と慕う。
勿論その美貌と抜群のスタイルに注目する者も多く、
強くて美人で女教師で巨乳でケモ属性な彼女のファンは人妖問わず後を絶たない。
孤独で壮絶な人生を千年近く送ってきた妹紅の理解者でもあり、
同じ半獣人の仲間として、影狼も一目置く人格者が、この慧音であった。
「影狼。そこの馬鹿二人はともかく、普段冷静なあなたまで…呆れましたよ」
「すいません…でもこの鬼畜こけしがわかさぎ姫を三枚に下ろすとかいうから」
「この湖で暴れれば、妖精も騒ぎ出しかねません。面倒なことになりますよ」
慧音が周りを見渡した限りでは、騒ぎを聞きつけて寄ってきた妖精の類はいないようである。
「なんだ慧音、影狼にはまだその口調なの?」
「お前たちと違って、彼女はまだ理性的な話ができるからな」
慧音は余程気心が知れた仲の人物か、あるいは敵とみなした相手以外は、
丁寧な口調でコミュニケーションを取る、礼儀正しい半獣である。
迷い人を助けてくれる妹紅や、医療機関でもある永遠亭の主の輝夜に、
慧音は当初こそ慇懃な口調で当たってはいたが、
殺し合いの果てに竹林を全焼させるなどのアホな騒動に付き合っている内に、
『ああ、こいつらは寺子屋の悪餓鬼たちと大差ないレベルなんだなあ』
と、今ではぞんざいな態度で接しているのである。
「おい鬼畜こけし、お前と輝夜が馬鹿をやったせいで慧音が怒ってるぞ」
「は?馬鹿はあなたでしょう。慧音は今あなたとこけしをチラチラ見てたわよ」
「お、お二人とも、こけ…小人さんがなんだかご立腹のようですが…」
輝夜と妹紅は「馬鹿二人」の一枠をお互いに譲り合い憎まれ口を叩いていた。
両方が馬鹿に数えられているという発想は、
今まで幾度となく慧音に喧嘩を止められた歴史があっても、決して出て来はしない。
「おかっぱだからってすぐこけしって言わないでよ!正邪もあんたらも!!」
「ん、正邪って誰だ?」
「えーと…ちょっとわからないです…ごめんなさい」
わかさぎ姫はどんな時でもいい子である。
彼女の口元の傷に黴菌が入らないことを切に望む。
「あらまあ。あなたの場合、大きさもちょうどこけしっぽいのよ?」
無邪気な笑顔で輝夜が言った。
時の帝も惚れた絶世の美少女の無垢な笑顔を向けられても、
身長のことまで含めてこけし呼ばわりされた針妙丸が怒りを覚えぬ道理はない。
「また正邪と同じこと…何あんたリアル天邪鬼!?そういや髪黒いし…」
針妙丸は怒りを溜めた目を輝夜に向ける。
「誰が天邪鬼よ」
「輝夜は天邪鬼じゃないぞ。こいつは思ったことはすぐそのまま口にする」
「うむ、彼女の認識としてはそれでいいだろう」
妹紅と慧音のフォローは、あまり輝夜本人の人格を擁護できていない。
「とにかくだ」
慧音はちょうど全員の中心に入るように位置取り、大きくないがよく響く声で言った。
里で教師を務める彼女には、喧嘩の仲裁など慣れたものであろう。
「まず何があったか、正直に話してみなさい」
まさに女教師の本領発揮、その口調は厳しくも優しかった。
「この二人がわたしの友達を釣って捌いて食べようとしたのよ」
「影狼ちゃんもそれに便乗してわたしを食べようとしました。今も涎が出てます」
「そこの二人にこけし呼ばわりされました」
「ぐすっ…慧音ぇ…怖かったよぅ。輝夜がそこの可愛い人魚さんを殺せって無理矢理…」
「妹紅が、言うとおりにしないとうちの兎を全部鶏肉と偽って命蓮寺に流すぞって脅したの…」
慧音はゆっくりと頷き、言った。
「よし、とりあえず妹紅と輝夜が悪いのはわかった」
「「なんでよ!!」」
「影狼と…えーと、人魚姫さん?ひとまずお逃げなさい。
この二人は話が通じない上に殺しても死なないから、まともに相手をするだけ時間の無駄です」
「「ひでえ!!」」
「ありがとう慧音…わかさぎ、とりあえずわたしの家に行くわよ」
「なんかそれはそれで食われそうな気がするんだけど…」
不審な表情を向けるわかさぎ姫を抱え上げると、影狼はあっという間に走り去った。
「わ、わたしは?わたしもこの二人にこけしと言われました、先生!」
教え子でも何でもない針妙丸だったが、なんとなく雰囲気に流され慧音を先生と呼んでしまう。
針妙丸が読んだ英雄伝には彼女のことも記載されていた。
里に留まり人間を守る、そんなスタンスを持った半獣だったと、針妙丸は記憶している。
「ふむ、こけしか…人形が動く、それはこの幻想郷でも珍しくないことです。
でも、妖怪はそのルーツがあってこそ。こけしとしての自分に誇りを持つのも大切ですよ」
「ほ…誇り?」
「そう。あなたを作ったこけし職人がいて、こけしとして過ごした歳月があって、
そして付喪神のあなたがいる。その歴史を蔑にしていては、妖怪としての格も下がるというもの」
慧音はそう言って、針妙丸に微笑みかけた。
「せ…先生!」
「でも、新しい自分を認めてほしいという気持ちも、先生はわかりますよ?
こけしのあなたも、妖怪のあなたも、どちらもあなたなのですから」
「わ、わたし、目が覚めました!」
針妙丸の脳裏に、忘れていた記憶が蘇ってくる。
一本の木材から、腕利きの職人により彫り出され、こけしとして生を受けた日。
民家の床の間に飾られ、その家の日々を、四季を見守り続けた時間。
そして、歳月を経た自分が、付喪神としての新たな人生を歩み始めた瞬間を。
「…って、そんな記憶あるかい!!」
「なんだ、忘れているのか?おい妹紅、ハートのウロコを持って来い」
「ウロコがついてそうな奴は影狼が抱えて逃げちゃったよ」
「『思い出しました』でサヨナラホームランも打てるわね(ニッコリ」
優しく語りかける慧音の先生オーラに流され、
針妙丸は危うくこけしの付喪神としてのアイデンティティに目覚めそうになった。
「わたしは小人よ!こけしの妖怪なんかじゃないの!!」
「小人?なるほど…それではあなたが…」
慧音はしげしげと針妙丸の顔を見ながら、その場にしゃがみこんだ。
既に影狼とわかさぎ姫はその場を去っており、針妙丸を囲むのは他に妹紅、輝夜のみ。
「なるほど、よく見れば霊夢が言っていた通りの容姿だ」
「れい…む…?」
その名を聞いた瞬間、針妙丸の背筋をひやりとしたものが伝った。
「丁度よかった、あなたを探していたんです」
慧音は慇懃な口調に戻り、針妙丸に微笑みかけた。
霊夢の名に一瞬身構えた針妙丸であったが、慧音の表情に緊張も若干和らぐ。
その一方で、自分を探していたという発言には内心で舌打ちをした。
(思ったより早かったわね…)
慧音の目線が自分の顔から、背中の得物に移っていることにも、針妙丸は気づいた。
「確か名前は…少名針妙丸さん。小人族のお姫様と聞いていますが」
「あら奇遇ね。わたしもお姫様なのよ」
あの神社から解放されたことでテンションが上がり、
竹林の英雄たちの荒事に首を突っ込んだ結果がこれである。
ちなみに自分を散々こけし呼ばわりした二人を、今の針妙丸は勿論英雄などとは思っていない。
「ひ、人違いです」
「え?」
「わたしは少名針妙丸じゃないですよ…姫なんかでもない、ただの一般通過小人です」
とにかくここから逃れなければ――針妙丸は先ほどまでの怒りも忘れ、
名乗っていないことを幸いにシラを切り通すという作戦を実行し始めていた。
「でも、その背にあるのは小人族の至宝、打出の小槌では?」
「違います。これは単なるハリボテで、中身はスカスカの5tウソップハンマーです」
打出の小槌――それは針妙丸の遠い先祖、一寸法師が鬼から奪った小人族の秘宝。
あらゆる願いをかなえる代わりに、それに見合う代償を求めるその小槌は、
過去に幾度か小人族により封印と解放を繰り返され、今は針妙丸の手元にある。
少し前、針妙丸はこの小槌を使い、
もういない仲間と共に幻想郷の強者たちに戦いを挑んだ。
弱者が強者に力でなり代わる、すなわち下剋上。
結果としてその下剋上は阻止され、小槌は叶えた願いの代償を回収し魔力を回復していた。
一度は博麗の巫女が預かることとなったその秘宝は、
神社を抜け出す際、針妙丸によって持ち出され今に至る。
目の前の女教師が何を目的に自分を探しているのかはわからないが、博麗の巫女――霊夢と通じていることは間違いない。
「う~ん、お椀のメットに針の剣、里へはるばる下りゆくという情報だったし…」
「やだなあ先生。そんなのは小人の標準装備、ユニフォームみたいなものですよ」
二枚舌な仲間と過ごしていた経験からか、針妙丸は異変以前に比べて嘘がうまくなっていた。
「なんだ慧音、人探し?」
「ああ…霊夢から頼まれてな。捕縛した異変の犯人が逃げ出したらしい」
「あらまあ、わたしの後輩さんね」
輝夜がくすくすと笑う。
「打出の小槌を持ったこけしみたいな女の子だ、と霊夢は言っていたんだが」
「あんの苺大福巫女!里にまでわたしのイメージをこけしで広める気か!!」
「「先生こいつだよ」」
小人の姫の肉体相応の脳はこけしの三文字に反応し、あっという間にボロを出した。
色々な意味で年季が違う月の姫と平安貴族の姫は、その隙を逃すことなく畳み掛ける。
「やはり貴方ですか…どうしてそんな嘘をついたんだ?話しなさい。先生怒らないから」
「せ、先生こそ怒らないなんて嘘でしょ!そんな恐ろしい角を生やして…」
「これは満月になると勝手に生えてくるだけ。今夜の影狼の濃い目な腕・腋・スネ毛みたいなものだ」
その場に影狼がいたら喉笛を噛み千切られそうなことを慧音は口にした。
針妙丸が嘘をついていたとわかるや、口調を変えて一気に説教モードに入っている。
「さあ針妙丸、嘘をつくのはよくない。一緒に神社へ帰ろう」
「嫌よ!せっかく外に出られたのに…もう虫籠の中で飼われる生活には飽きたのよ!」
「霊夢は言っていたぞ。あれはお前を虫や獣から守るためのものだと…」
「でも、小槌が力を取り戻せばわたしだって自分で身を守れるもん!!」
現在、魔力の回収期に入っている小槌ではあるが、
大がかりな魔力を必要にする願いでなければ、叶えることが可能なレベルに回復している。
針妙丸自身も、人間たちとの戦いを経て少しは強くなった自信がある。
「小人族は死にかける度に、それまでよりもはるかに強くなるんだから!!」
「…小人族って戦闘民族か何かか?」
「知らないわよ」
針妙丸にとっては、竹林の英雄に出会う、という目的そのものは通過点でしかない。
それよりももっと大きな目的のために、自分を捕縛した博麗の巫女の元から逃げ出したのだ。
その目的を果たすまでは、優しい女教師に諭されても、神社はおろか逆さ城にも帰るつもりはない。
「神社に戻るつもりがないのであれば、せめてその危険な宝だけでも置いて行ってもらおうか」
慧音はそう言って、針妙丸が背負った小槌を指差した。
「…何、あなたも小槌が目当てなの?」
「そうじゃない。小人でないわたしにその小槌は使えないし、誰かに売ったりもしないよ」
もちろんそれを壊したりするつもりもない、慧音はそう付け加える。
「しかし、その小槌は幻想郷にとっても危険すぎる。霊夢はしばらく神社で預かりたいそうだ」
「しばらくって…その後は、どうする気よ!」
「それは霊夢の判断次第だろう。問題がなければ、小人族に…君の一族に返すはず」
慧音は「君の一族に」と発言した。
それはつまり、子どもの針妙丸ではなく、一族の大人たちの手に返すということだ。
自分は嘘つきな妖怪に騙されて宝を持ち出し、幻想郷を騒がせ人間に退治された。
そんな者に小槌を渡さず、分別ある大人に返そうとする霊夢や慧音の考えは、至極当然と言える。
だが、子どもには子どもの、ちっぽけでつまらない意地があった。
「…やだ」
針妙丸は小槌を自分の身体の前面に回すと、両手でしっかりと抱きしめた。
月夜の冷たい空気の中でも失われない、柔らかい温もりを確かに感じた。
「わたしは、霊夢にもあんたにも、お城の大人たちにも…この小槌を渡すのだけは嫌だ!」
針妙丸は叫んだ。
「この小槌は…この小槌は、わたしの全部だから!わたしの体で!わたしの牙で!わたしの心で!
一緒に泣いて!一緒に走って!一緒に歩いてきた!この幻想郷でのわたしの全てなのよ!
小槌をこのまま渡しちゃったら、わたしはこの先一歩も進めない!」
「その台詞の元ネタわかる人、どんだけいるかなぁ…」
メタ発言で茶化す妹紅には目もくれず、針妙丸は慧音を睨み付けた。
「どうしても小槌を奪うっていうなら、わたしは精一杯抵抗します!!」
「慧音、先輩ラスボスの台詞をパクるこけしは…食べても、いいのよ」
「お前それ、ブーメランも釣り針もデカすぎてツッコむ気にならんから」
「わたしは影狼とは違う。目の前の女の子を食べたりはしない!」
慧音、またしても影狼に喉笛を噛み千切られたいとしか思えない発言。
「魔力の回収期の小槌は不安定だと聞く。悪いようにはしないから、まずは我々に預けてくれまいか」
「…まあ、人の手に余る宝は人生を狂わすわよ。色々とね」
「お前が言うと説得力ある分、いつでも新鮮に殺意が湧くな」
輝夜と妹紅も、ひとまずは慧音の要求に異を唱える様子はないようだった。
自分より遥かに体躯が大きい三人に囲まれ、針妙丸は絶体絶命。
慧音の口調は相変わらず優しいものであったが、
一方で、有無を言わせない強い意志がこもったものであることを針妙丸に感じさせた。
危険な宝、と判断した小槌は、里の守り人にとって絶対に見逃せない代物だろう。
小槌を手放すことなくこの場を切り抜けることは、針妙丸には到底、可能とは思えなかった。
慧音は身を固くする針妙丸を見て、さらに声を和らげて話しかけ続ける。
「もし預けることが不安ならば、ひとまず一緒に里へ…っ!?」
「慧音、危ない!!」
何かの気配を感じたように慧音が振り向くのと、
その慧音に妹紅が飛び掛かり、地面に押し倒すのはほぼ同時であった。
地面に倒れた二人の身体の上を、矢のような形をした光弾が幾筋か、飛び過ぎていった。
「弾幕…後ろか!?」
慧音が視線を向けた先には、追撃の光弾も、それを放った何者かの姿もない。
一方の妹紅はすぐに身体を起こすと周囲を見回し、次なる攻撃に備える姿勢を取った。
攻撃は一旦途切れ、周囲の物陰からは何者も姿を見せない。
『こっちだよ』
一瞬の静寂の後、その声は慧音の頭の真上から聞こえた。
慧音と妹紅はすぐさま元いた場所から飛びのきつつ、上空を見上げた。
…が、今度も空にはただ満月が浮かぶばかり、鳥の姿一つない。
「あれ、今の声…はわっ!?」
聞き覚えのある声に反応した針妙丸の身体が、不意に上方へ引き上げられた。
身体をつまみ上げられ、抱え込んだ小槌ごと中空に浮く形になる。
『こっちこっち。上だけ見てると涙も乾いちゃうよ』
「「何だと!?」」
慧音と妹紅の視線が再び地上へ戻り、ようやくそこに声の主を捉えた。
先ほどまで誰もいなかった場所、
針妙丸の頭の真上にあたる空間を埋めるように、一人の少女が立っていた。
上下の矢印をあしらった独特の服装。
赤黒白の三色からなる髪。
そして、その髪の間からのぞく2本の短い角。
「初登場です。天邪鬼要素はありません」
「せ…正邪!?」
「正邪?何のこったよ。あんたの彼女か?」
針妙丸の襟首をつまんで持ち上げたその少女こそ、
かつての異変での協力者、天邪鬼の鬼人正邪であった。
「貴様、いつの間にそこに…」
「ん~、あんたたちがキョロキョロ周りを見渡してる時かな」
突然の襲撃から周囲に気を配っていた慧音も妹紅も、正邪の存在に気付かなかった。
四方の物陰から上空まで、見回していない場所はなかったにも関わらず、
正邪は誰に止められることもないまま、針妙丸を捕縛していたのである。
「外側から弾が来れば外を見る。上から声がすれば上を見る。実に短絡的ね」
この発言から、やはり先ほどの弾幕が正邪によるものだったことがわかる。
弾幕は慧音の背後、つまり針妙丸を囲んでいた三人の輪の外から飛んできており、
慧音と妹紅は自分たちの「周囲」に敵の姿を求めた。
「…元々わたしたちの内側にいた、そう言うのか?」
「まさか、地底から這い出して来たなんて言わないだろうな」
妹紅の言葉に、正邪は笑って首を振った。
一部分だけ赤く染まった前髪が、左右に揺れる。
「その子、最初は上にいたわよ」
先ほどまで何をするでもなく事の成り行きを見ていた輝夜が、呟いた。
「上?」
「そう。二人が周りを見回してる間にこけしちゃんの上に降り立って、そのままそこにいるわ」
「だからナチュラルにこけしって言わないで」
「へえ…」
正邪は輝夜の発言に一瞬目を丸くすると、にやりと笑った。
「上から声がしたときにはもう地面にいた。あなた、面白い芸をするのね」
「これはこれは…物事がよく見えていらっしゃる。どこかの小動物とは大違いだ」
「小動物って誰のことよ」
弾幕も声も、正邪がいるのとは反対の方向から放たれていた。
輝夜には最初からそれがわかっていたというのである。
針妙丸も、それを理解してようやく正邪の能力を思い出した。
彼女は弾幕や空間など、あらゆるものを「ひっくり返す」ことができる。
「ずっと上からこっちを見ていたから、神社の関係者かとも思ったんだけど」
「うふふ、残念ながら違います」
「いやお前…そんな早くから気づいてたんなら言えよ」
妹紅は不機嫌そうな顔で輝夜を睨み付けた。
「うーん、いきなり妹紅が慧音を押し倒すものだからびっくりしちゃって…この場でおっぱじめるのかと」
「なんと濡れ場をお邪魔してしまったか!これは申し訳ない」
正邪は全く申し訳なさそうにない表情で謝罪の言葉を述べた。
「馬鹿を言うな。まあ、あのまま妹紅に組み敷かれ、事に及ばれてもわたしは一向に構わなかったが…」
「え、何この淫乱女教師は…そうじゃなくて、わたしら攻撃されてたんだぞ?何で止めない」
妹紅は正邪と輝夜の双方に敵意の視線を向けつつ、言った。
「だって本当に妹紅と慧音の濡れ場だったら、邪魔しちゃえと思ったから」
輝夜は頬をぷくーっと膨らませ、妹紅に拗ねた視線を返した。
妹紅・輝夜・慧音と実際に会うのは今日が初めての針妙丸であったが、
なんとなく彼女たち三人の関係の一端が見えた気がした。
何はともあれ、今の状況は針妙丸にとってチャンスである。
まさか正邪が――一度は自分を騙して利用し、異変後自分をさっさと見捨てた彼女が、
こうして自分の窮地に駆け付けてくれるとは思いもしなかった。
「正邪、これはいわゆる修羅場よ。ヤックでデカルチャーなトライアングラーだわ」
「ますます邪魔をしてはいけない場面か。馬に蹴られる前にサヨナラノツバサだね」
正邪が針妙丸をつまみ上げたまま、ふわりと空中に浮きあがった。
針妙丸の咄嗟の発言に対し、その意図をしっかり汲み取っての逃亡のアクション。
流れで痴話喧嘩が始まりそうな英雄たち三人の隙を突き、一気に上空へ間合いを取ることに成功した。
「あ、逃げられたわよ」
「くそっ!目的は打出のこけしの方だったか、あの糸ミミズ頭め」
「慧音、混ざってる混ざってる」
慧音の「糸ミミズ」という発言に正邪の赤い前髪がぴくりと動くのを、針妙丸は見逃さなかった。
人に嫌われて喜ぶ天邪鬼だが正邪もそこは女の子、服装や髪形にはこれで結構気を使っているのである。
そして最終的に打出の小槌込みで自分を馬鹿にした淫乱乳牛も、針妙丸の脳内英雄名鑑から除名された。
針妙丸は正邪の肩の上に乗り、小槌を両手で振りかざし地上を見下ろす。
「それでは、わたしを散々こけし呼ばわりしてくれたエセ英雄の皆様」
「弱い妖怪を勝手に三枚おろしで切り分けようとする糞ったれ強者共」
「「永遠に、ごきげんよう」」
その言葉を捨て台詞に、正邪は針妙丸を肩に乗せたまま一気に飛び去った。
※ ※ ※
人里からも、竹林からも離れた林の中に正邪は降り立った。
あたりに人影はなく、巫女が探しに来るような気配もない。
妖怪としては力が弱い正邪は、こうして逃げ隠れするときには非常に役立つ人材だった。
強い妖怪や、権力者の息がかかった者が寄り付かない場所をよく知っている。
傍目に見れば弱小なる者の臆病な習性と見れなくもないそのスキルが、針妙丸は好きだった。
恐れを認め、危険を察知できる者こそが最も生き残る可能性が高い。
それは人間も妖怪も、動物であっても同じことである。
小人族よりも大きな体を持っているにも関わらず、
正邪の狡猾な思考や、逃げ隠れに躊躇がない判断力は、自分にひどく近しいものに見えたのである。
それでいて、いつまでも強者の陰に怯えてなるものかという反骨精神を持った正邪は、
まさに針妙丸が目指す「弱者の英雄」であった。
天邪鬼特有の姑息さや底意地の悪さすら、針妙丸の目にはダークヒーローめいた魅力に映った。
それはさながら不良少年の生き様に初恋を覚える深層の令嬢のようだったが、
強者に中指を立てる天邪鬼と、由緒ある小人の姫君という構図を考えれば、それはあながちただの比喩ではない。
だから正邪が自分を騙していたとわかったときも、
巫女に捕まった自分を助けもせずに逃げたときも、
『正邪ならそうするだろう』
そう思ったくらいで、大したショックを受けてはいなかった。
ただ、自分の傍に彼女がいないという喪失感は、針妙丸の小さな身体には少々ボリュームがありすぎた。
「来てくれるって、思わなかった」
正邪の左肩の上に腰かけ、針妙丸は夜風を受けていた。
風に揺れた正邪の髪が揺れ、右腕に触れるのを感じる。
「わたしはもう、正邪にとって利用価値がないと思ってたから」
「……」
正邪は何も言わない。
柄にもなく照れているのだろうか…?
そんな想像をしてしまい、針妙丸は思わずくすりと笑ってしまう。
「これから、どうしよっか?」
小槌が魔力を失ってしまっても、
一度コテンパンに大敗を喫した後であっても、
正邪が傍にいることで、まだ何かができるような気がしていた。
自分を騙して嘘の歴史を吹き込んだことや、
結局神社までは助けに来なかったことなど、憎まれ口を叩きたかったはずが、
今はそんな過去への言及が一切浮かんでこないほど、次なる何かへと、気持ちが高揚している。
「ね、正邪」
その名前を口にしただけで、逆さ城で彼女と過ごした時に戻れたような気がした。
だから自分の身体が急に中空に投げ出されたことに、針妙丸はいつもより大分遅く気づいた。
正邪が自分を肩から引きはがし、思い切り投げつけたのだと知った時には、
既に針妙丸は受け身もとれない無防備な態勢で頭を地面に向けていた。
落ちる。
常人より体格がずっと小さく、軽い自分であっても、
身長の何倍もの高さから地面に向かって投げ出されれば、無事では済まない。
「え…?」
正邪の顔が逆さまになっていた。
彼女は自分の能力を使う時、よく天地をひっくり返しては逆さまの笑みを自分に向けた。
一瞬表情を読みづらい逆さまの状態でも、正邪であれば、今どんな顔をしているか、針妙丸にはすぐわかる。
だが、今の正邪はその顔に何の感情も表してはいなかった。
上下左右東西南北全てをひっくり返しても変わらないだろう、ベクトルゼロの無表情。
正邪はそんな顔で針妙丸を見ながら、その手にしっかり打出の小槌を握っていた。
彼女の口元が小さく動き「さよなら」の形を作るのが、見えた気がした。
地面はまだだろうか…?
時間が止まり、自分が空中に縫い付けられたかのように、落下速度が落ちていた。
周囲の景色も、目の前の正邪の顔の高さも、変わらない。
「やれやれ、間に合ったかしらね」
というか、実際に自分の身体は空中に静止していた。
投げ出された身体を、咄嗟に伸ばされた両手にしっかりと掴まれて。
「粗末に扱っては駄目。こけしは日本の伝統工芸よ?」
ついさっき逃げ出した湖畔にいたはずの黒髪の姫君は、針妙丸をキャッチした姿勢のまま、
相変わらず無表情の正邪に向かって不敵な笑みを浮かべて見せた。
※ ※ ※
輝夜は針妙丸を抱きかかえると、正邪と正面から向き合った。
追いつかれたという構図だが正邪の表情に焦りや狼狽は見えない。
しかし小槌をしっかり握りしめ、輝夜に対しても一定の距離を保っているあたり、
ここからどうやって逃げようか、という算段をしていることも、針妙丸には見て取れるのだった。
「怖がらなくてもいいわよ。別にとって食おうってわけじゃない」
どうやら輝夜もそれを察したようで、柔らかい口調で正邪に言葉をかけた。
「怖がってなんかないね。お姫様ってのは、昔話じゃ天邪鬼のカモの典型さ」
「あらやだ、こちらが怖がるシチュエーションだったのね」
輝夜は針妙丸を抱えていない腕を持ち上げ、着物の袖で口元を隠した。
「そこの親指姫がいい例だよ。まさか二回も続けて引っかかるとは思わなかったけど」
正邪は針妙丸を指差し、にやりと笑った。
もう片方の手では小槌を見せびらかすように掲げており、その意図するところは針妙丸にもすぐわかった。
わかったが――それは実に悔しく、情けないことだが――遅すぎた。
「…最初から、小槌が目当てだったの!?」
「そゆこと。今更あんたを助けになんて来るわけないだろ」
正邪があの場に現れ、針妙丸連れ出した目的。
それは今や彼女の手の内にある、打出の小槌であった。
慧音たちの間に割って入ったのも当然、あの場で何もしなければ、小槌は再び霊夢の元に戻っていた。
あの時自分が何故素直に正邪を信じ、自分を助けてくれたなどという、
好意的を超越しもはや妄想といってもいいレベルの解釈をしたか、今になって針妙丸は理解に苦しむ。
正邪は一度、自分をこれでもかという卑劣な嘘で騙した天邪鬼であり、
そのことを謝るどころか自分に何も言わず去ってしまった薄情な妖怪である。
「それとも何?まだわたしのこと仲間とか…友達とか思ってるわけ?」
「…誰が、あんたなんか!!」
自分と正邪、双方への怒りを吐き出すように針妙丸は怒鳴った。
「打出の小槌は小人族にしか使えない。あんたが使っても、それはただの木槌でしかないわ」
「知ってるよ。でも、それを知ってる奴が他にどれくらいいるかな?」
小人の世界の外でも有名だった打出の小槌である。
虚弱貧弱無知無能な人間を脅し、恐れおののかせることなど容易いだろう。
あるいは、その万能の力を餌に欲深い者たちをたぶらかすことも可能だ。
小人族にしか使えないなどという肝心の事実は、残念なことにこの幻想郷でもほとんど知られてはいない。
その存在が広く知られながらも、現物を秘匿してきた小人たちこそが、
打出の小槌という概念に逆にロマンと畏怖を与え続けてきたのかもしれないのであった。
「こいつを一目見せるだけでコロッと騙される連中が、この世界にはいくらでもいるんだよ」
そこに正邪の弁舌が加われば、ものの数時間で里を大混乱に陥れるのも可能だろう。
里にあの半獣女教師がいることも今は失念している針妙丸は、ぐっと唇を噛んだ。
「ふふふ…確かにね。使えないとしても、その小槌は『本物の』お宝ですものね」
輝夜は含みのある笑みを浮かべながら、正邪の言葉に同意した。
自分を助けてくれた以上は敵ではないはずだが、この少女の態度にも、どこか内心を読めない不気味さがある。
「そ、そんなのすぐにばれるわ!あんたみたいな弱小妖怪、里で捕まって釜茹でにされちゃうわよ!」
「ははっ!そしたらわたしの十三代目の子孫に、つまらんものでも斬ってもらうか!?」
正邪は全く動じない。
針妙丸は輝夜の顔を見上げると、必死の形相で訴えかけた。
「くっ…ちょ、ちょっとあんた!あいつから打出の小槌を取り返して!!」
「あら、まさかわたしがお宝の献上を求められるなんて」
「お礼に小槌で願いを叶えてあげるわ!ト●ポのCMに出してもいい、ジ○リ映画の主役にだってなれるわよ!!」
「どっちももうやったからいいわよ」
輝夜は苦笑しながら針妙丸を地面に優しく降ろすと、正邪に向かって一歩足を踏み出した。
「なんだい債務が残ってそうな方のお姫様、わたしとやるってのか?」
「ふふ、深夜アニメでセーラー服に話しかけてそうな妖怪さん。それでもいいのよ」
たおやかな笑みが浮かんでいるのに、輝夜の表情からはどこか不気味さを感じる。
それは正邪も針妙丸と同じなのか、輝夜の接近に対し動けないままでいるのが見えた。
正邪も余裕の笑みを顔に貼りつかせてはいるが、その心には余裕がないことが、針妙丸にはわかった。
「天邪鬼なあなたをここで倒すのもマーイーカ、でも何か物足りないジャロって思うのよね」
輝夜は正邪の力の弱さを既に見抜いているようであった。
腐っても英雄伝に紅白巫女や白黒魔法使いと並び列せられる実力者、やはり輝夜は強いのだ。
顔を近づける輝夜に対し、のけぞることしかできない正邪を見ながら、針妙丸は思う。
「ねえ、逃がしてあげましょうか?勿論その小槌つきで」
「は…?」
「えええ!?ちょっとあんた、何言ってんのよ!?」
針妙丸は輝夜の胸倉にしがみつき、叫んだ。
「何、わたしの条件じゃ不満だっての?!サンラ●ズのロボアニメや、東○の戦隊特撮にだって出られるのに!!」
「だからそのへんも一応やってるから…それに●映特撮の方は一話限りのゲストだし」
「くっ…じゃあ切り札よ!モンキー・パ○チ先生が構想に十二年かけた時代劇アニメのヒロインはどう!?」
「その小槌がまともな作画スタッフを出してくれるなら考えるわ」
今にして考えると、アニメにも特撮にも「かぐや」という単語が溢れかえっていたあの数年間、
やはり月面探査機のニュースが日本のエンターテイメント界に及ぼした影響は計り知れなかったということか。
「何だい、わたしをこのまま見逃してくれるってのか?」
「ええ、わたしはそう思ってるの」
輝夜はさらにもう一歩、正邪との距離を詰めた。
針妙丸は輝夜と正邪、共に慎ましやかな胸板に挟まれるような形になってしまい、身動きが取れない。
背後を輝夜の、正面を正邪の胸元に挟まれ、ちょうど針妙丸の口は塞がれる格好である。
息も苦しい。
視線を下にずらせば、正邪の手に握られた小槌がすぐ近くにある。
しかし、今の針妙丸の小さな掌は、悲しいかなその小槌にあと数十センチの距離を詰められないのである。
「…そりゃまた何で?」
「決まってるじゃない。あなたがこのまま逃げおおせるなんて思ってないからよ」
正邪の顔を上から覗き込むように前傾していた輝夜が、相手の額をつん、と指先で小突いた。
のけぞりの限界に達していた正邪の身体はバランスを崩し、その場に尻もちをついた。
顔に貼り付いたような笑みはそのままであったが、正邪は完全に輝夜に圧倒されていた。
弱者の本能、とでも言うべき危険察知能力が、正邪に「一切の抵抗は無駄」と教えたか。
「…ぷはっ、そ、そう思える自信があるなら、なんでこいつをこの場から逃がすのよ!」
針妙丸はようやく出せた声で、輝夜を罵倒した。
「ふふふ、だってわたしやあなたが今この子を捕まえるより、面白くなりそうなんですもの」
「面白い?あんた、小人族の宝を何だと思って…」
「それはもう、クッソ穢い地上の矮小な人間の中でも、とりわけ矮小な下等生物の玩具って感じかしら?」
輝夜は小人を見下す人間よりもさらに高い位置から、打出の小槌を見下した。
彼女がどんな高みからそんな態度をとっているか、針妙丸にはわからない。
しかし、間違いなく小人や弱小妖怪では至れない高みに、彼女がいることだけは分かった。
「ほらほら天邪鬼(笑)さん、さっさとその打出の小槌(暗黒微笑)とやらを大事に抱えてお逃げなさいな(マジキチスマイル)」
敢えて使い古されたネットスラングを輝夜の台詞に盛り込むなら、こんな字面であろうか。
正邪はここで初めて笑顔をその表情から消し、輝夜に憎悪を込めた視線をぶつけると、そのまま遁走した。
その手にはしっかりと小槌を握りしめ、針妙丸を一瞥することもなく。
一切の躊躇を見せずに立ち上がると、輝夜の視線に背を向け走り去ったのであった。
「正邪…っ!!」
針妙丸は大きな声を上げ、その名を呼んだ。
正邪は足を止めることも、針妙丸を振り向くこともしなかった。
「せい…じゃ…」
その言葉を発した時には、もう正邪の背中は視界から消えていた。
※ ※ ※
数日が経った。
霊夢や慧音が相変わらず自分を探しているという噂は針妙丸の耳にも入ったが、
あの釣りの日の夜以降、彼女たちのどちらとも顔を合わせてはいない。
自分が今いるこの屋敷は、迷いの竹林の奥にあるという立地だけでなく、
何か魔法めいた力が働いて、自分を存在ごと隠してしまっているのではないか。
そんな馬鹿げた妄想をしてしまうほどに、捜索の手がこの場所まで及ぶことがなかった。
「針妙丸、ご飯の時間よ」
ふすまが開き、輝夜が顔を出した。
正邪に小槌を奪われたあの夜、呆然自失した針妙丸を抱えたまま、輝夜はまっすぐにこの屋敷に戻った。
途中妹紅や慧音、さらに霊夢を含めた人間たちに出会うこともなく、針妙丸を連れ込み、隠した。
そのような事態を迎えた経緯はともかく、
今の針妙丸にとって、この屋敷に匿われている状態はそれほど不都合ではなかった。
人間たちの捜索は相変わらず続いているだけでなく、
一度騙された相手に、今度は小槌を奪われたなどとあっては、小人の国にも帰れない。
輝夜に「ここにいなさい」と言われるまま、気が付けばこの屋敷――永遠亭で数日を過ごしていた。
一日の殆どは輝夜の部屋で、しかも小鳥のように籠に入れられて過ごす。
何度か逃亡を試みたが、屋敷を出る前に必ず連れ戻され、この籠に無理やり入れられた。
仮に屋敷から出る気がなくとも、輝夜が籠に自分を軟禁する理由は、よくわからない。
ただ漠然と「ああ逃れられない」と理解することはできた。
「今日はあなたサイズの箸を作ってみたの。明日は食器に挑戦ね」
「…随分、器用なのね」
「昔お爺ちゃんに教わった技術よ。大抵の物は竹で作れてしまうんだから」
輝夜はくすくすと笑いながら、針妙丸を閉じ込めた竹の籠の錠前を外し、蓋を開けた。
その錠前も、見ている限り材質は竹でできているのである。
「普通の竹細工で、こんな頑丈な檻や錠前を作れるかしら。っていうか錠前って…」
「簡単には壊れないでしょう?もしあなたがわたしくらいの背丈になっても、多分無理」
一体どういう原理なのか、輝夜が針妙丸を閉じ込めているこの竹籠は、
どれだけ暴れても、壊れるどころか傷一つつくことがなかった。
こうして輝夜が錠前を外してくれた時だけ、針妙丸は籠の外に出ることができた。
「さあおいでなさい、お酒もあるわよ」
「それマジ?小人に缶ビール渡すなんて最低じゃないの…」
なぜか輝夜はいかにも安物といった感じの缶ビールを出してきた。
針妙丸の背丈にしてみれば、人間が樽ごと酒を飲まされるようなものである。
「冗談よ。このお猪口に注いであげるから」
「おちょこでビール飲むのもやだなあ…」
しかも、その猪口は人間サイズなので、自分にとっては底が深くて重い盃である。
輝夜は針妙丸が両手で猪口を抱え眉をひそめる様子を、楽しげに眺めながら缶ビールを口に運んだ。
「…うん、おいしい。おかわり欲しかったら言ってね」
「何、今あんたが口付けた缶から注ぐの?」
「そうよ」
輝夜は唇についた泡を指先で拭いながら、躊躇うことなく言った。
こちらは冗談には聞こえない。
この数日を屋敷で共に過ごしたことで、輝夜が冗談を言う時と、
本気で冗談のようなことを口にするときの違いが、針妙丸にもなんとなくわかり始めていた。
「まあ、いいけどさ」
相変わらず何を考えているかわからない輝夜の顔を見上げながら、
針妙丸はこの数日間、輝夜に幾度となく投げかけた問いを口にした。
「いつになったら、小槌が返ってくるっていうのよ」
輝夜はこの屋敷に針妙丸を連れ込む際、
『必ず小槌を取り返すチャンスが来るわ。それまでここにいなさい』
と告げた。
それから今日まで、輝夜が作った籠の中に寝泊まりしながら、
時折訪れる屋敷の兎や、輝夜の保護者代わりだとかいう薬師を相手にお喋りをし、
一日三回の食事をこうして輝夜と共に取るのであった。
自分がなぜ籠に閉じ込められているのか。
屋敷の外ではこの数日間何が起こっているのか。
いつまでこうしてこの屋敷にいればいいのか。
様々な問いを投げかけるも、輝夜は勿論、屋敷の者たちも一向に答えようとはしない。
ただ『小槌は返ってくる』と針妙丸に強く言い含めるばかりであった。
その小槌に関する情報も何も入ってこず、針妙丸は次第に不信感を募らせ始めていた。
「もうすぐかしらね」
「もうすぐって、いつよ」
「もうすぐはもうすぐよ。…ふふ、そろそろ不安になって来たかしら?」
さすがにその不信感が表に出たか、輝夜は針妙丸の目を見て少し意地悪く微笑んだ。
「当たり前よ。どうして皆何も教えてくれないの?小槌のことも、正邪のことも」
「皆知らないからよ。知っていたら教えるわ」
「じゃあ、なんでそんなに自信満々で『返ってくる』なんて言えるのよ!!」
針妙丸の叫びに、泡が薄くなったビールの水面が小さく揺れた。
「そりゃまあ、信じてるからかしら」
「何をよ?!」
「強いて言うならば、そうねえ…人の『欲望』かしら」
相変わらずの煙に巻くような言い回しに針妙丸は頬を膨らませるが、
輝夜はそれを見てもなお、その微笑みを崩すこともなかった。
そしてその翌日、針妙丸は輝夜の言葉の意味を知ることになる。
※ ※ ※
『あーあー、マイクテステス』
永遠亭の庭で、二匹の妖怪兎がマイクを片手に音響のチェックを行っていた。
『本日は晴天なり。鍋の具は鈴仙なり』
『こら、誰が鍋の具よ!!』
この日は朝から、屋敷の門前に大きな人だかりができていた。
決して突然の流行病で患者が殺到したわけでも、月の都の博覧会が開催されたわけでもない。
集まった者は人間だけでなく、妖怪や亡霊など様々な種族が集まっていた。
種族を問わず大半が男性で、特に若い見た目をした者がその多くを占めている。
ごく一部の女性も若い者ばかりで、男性の来訪者同様、興奮した面持ちで屋敷の開門を待っていた。
「それにしても、集まりに集まったものねえ」
永遠亭の薬師、八意永琳は門の外の喧騒を耳にし、ぽつりと呟いた。
「当然でしょう?あれだけ頑張って広告を出したんだから」
奥から出てきた輝夜は長い着物の裾を引きずりながら、永琳の隣に並んだ。
いつものロングスカートとは違い、平安の昔を思わせるきらびやかな十二単姿。
丁寧に化粧を施したその顔も、まさに「やんごとなき身分」という言葉が相応しい美貌であった。
「こんなことをやって、問題がこじれたら大事よ?」
「問題ある行動をしているのはうちじゃないわ。お外に集まった皆さんだもの」
「ちょっとちょっと、話が読めないっての」
針妙丸は輝夜の着物の裾を引っ張り、二人の会話に割り込んだ。
朝からいきなり籠の外に出されるやいなや、輝夜に屋敷中を連れ回され、
なぜか彼女と一緒に高そうな和服を身に着けさせられ、化粧をされた。
「あら可愛らしい。あなたも輝夜と一緒におめかししたの?」
「うちの兎たちも、こけしの絵付けなんてやったことないから苦労してたわ」
「ここに来てまだ言うかあんたは!!…そうじゃなくて、何なのよこの騒ぎは!!」
朝から兎たちが屋敷の中を忙しなく動き回っており、
今日、永遠亭で何か大きな仕事が行われていることはわかった。
だが、輝夜と自分が朝からこんな格好をさせられている理由も、
屋敷の前に早朝から大勢の群衆が詰めかけている目的も、まるでわからない。
この屋敷にいる限り、針妙丸の疑問はその数を増していくばかりなのであった。
「今にわかるわよ。ついでにあなたがこの数日間、抱えていた疑問の答えも、全部」
「何よ、外で騒いでる連中が小槌を持ってきてくれるっての?」
「ええ、そうよ」
「全く、またそうやってはぐらかして…って、え?」
針妙丸が目を丸くした時には、輝夜は屋敷の表に向けて歩き出していた。
『御来場の皆様、本日はようこそおいでくださいました』
黒い髪をした妖怪兎が、庭へ招き入れた群衆を前にマイクをとった。
集まった者たちはこの時を待っていたとばかりに、兎に向けて声を上げる。
「もう待ちきれないよ、姫を早く出してくれ!」
「おう、早くしろよ」
「やっぱ永遠亭の姫様は…最高やな!」
「誰が兎に出て来いっつったオラァ!!」
「輝夜様に会いたいんだよぉぉ!!」
「姫様と俺のよ、子どもが出来たらどうする?え、オイ。総理大臣の誕生か?」
彼らは口々に、早く輝夜を出せという要求を口にする。
そしてその手に握られているのは――打出の小槌。
驚くべきことに、人妖問わず全ての者の手に、小槌が握られていたのだった。
『我らが姫の求める難題…小人族の秘宝、打出の小槌は勿論、お持ちですね?』
兎の言葉に応えるように、彼らは一斉にその手に持った小槌を掲げる。
「当たり前だよなぁ?」
「(小槌を)出せば結婚していただけるんですか」
「出ますよ~小槌」
「蓬莱山輝夜ー!蓬莱山輝夜見てるかー!!」
そしてその光景は、御簾越しに庭先を見ていた針妙丸の目にも入っていた。
「何これ…小槌が…」
「どう?あなたが待ち望んでいたものよ。それもあんなに沢山」
同様に御簾の陰に控えていた輝夜も、満足げに目を細める。
「いやいやいや、ちょっと待ってホント」
「なあに?嬉しすぎてその小さなおつむの容量をオーバーしちゃった?」
「オーバーしてるのは小槌の数だっつーの!!おかしいでしょ沢山ある時点で!!」
打出の小槌は小人族の秘宝、当然唯一無二の特別な存在である。
同じものはこの世に二つとあるはずがなく、
これほど多くの人物が小槌をその手にできることなどありえない。
「何なのよあれ。偽物?それともまたあんたが竹で作ったとでも言うの?」
「さすがにお爺ちゃんの竹細工でも、打出の小槌は作れないわね」
御簾の向こうでは、そんな二人をよそに兎が小槌の持ち主たちを煽り続けていた。
『結婚がしたいかー!!』
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!』
『姫が欲しいか!!』
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!』
永琳が説明してくれた、この謎のイベントの趣旨は以下のようなものであった。
数日前から幻想郷のあちこちに広告を打ち、
『打出の小槌を持ってきた者に、永遠亭の姫と結婚する権利を与える』
という難題を広めさせたのである。
結果は今目の前にある通り、輝夜との結婚を目当てにした者たちが、
手に手に小槌をとって永遠亭に朝から押しかけたのである。
「じゃ、やっぱりあの連中が持ってきてる小槌は…」
「十中八九偽物でしょうねえ」
「人間も妖怪も、欲に目がくらむとあの手のインチキは平気でやるものよ」
輝夜が昨晩言っていた「欲望」とはこのことであったと、針妙丸は理解した。
まさか輝夜自身に対する欲望だったとは、思いもよらなかったことである。
「わたしのためにあんなにも多くの人が…ああ、美しさって罪」
「久々にあなたが他人の人生を台無しにしてるところを見たわねえ」
「そんなことより、小槌が偽物じゃ意味ないでしょうが!!」
「大丈夫よ」
御簾の外に走り出ようとした針妙丸の首根っこを捕まえ、輝夜は言った。
「言ったでしょう?『十中八九は』偽物でしょうって」
『それでは小槌をお持ちの皆様、あちらをご覧ください!!』
黒い髪の兎が指差す先、屋敷の一角に求婚者たちの目が向いた。
そこには今まで誰も気に留めていなかったが、
針妙丸たちがいるのとは別の部屋が開けられ、そこにも御簾が垂れ下がっている。
「何よあれ」
「さてさて、ここからがお楽しみよ」
傍に立っていた髪の長い兎が紐を引くと、一気に御簾が引き上げられ、
部屋の中で待機していた者たちが姿を現した。
彼らは年齢や背格好は様々であったが、いずれにも共通していたのは、
求婚者たちに対し、怒りや焦りを含んだ非難の視線を向けていることであった。
『さあ職人の皆様方、ただ今より製作費用の請求タイムでございます!!』
黒髪兎の言葉を皮切りに、御簾の陰に潜んでいた職人たちが、
一斉に求婚者の一団に向かって駆け寄り始めた。
「お前いつ払うんだ金よお、協会に言うぞお前」
「製作費は三十分で、五万!パパパっと払ってくれたら、終わりっ!」
「じゃあ俺、ギャラ貰ったら帰るから」
「お代一万円くれたら喋らないであげるよ?」
職人たちは口々に料金の支払を求めながら求婚者に詰め寄る。
請求しているのが、求婚者たちが手に持った小槌の製作費であることは明白だった。
『それでは皆さん、ご自身の作品は見つかりましたかぁ?』
黒髪兎のマイクからその言葉が放たれる頃には、
求婚者たちはつい数日前、もしかしたらこの日に作られたかもしれない小槌を手に、
製作費を請求する職人から逃げようと必死で走り回っていた。
「俺知ってるんですよぉ~?依頼した小槌使って嘘つこうとしてたこと」
「すいません黙っててください!何でもしますから!」
往生際悪く職人を口封じしようとする者がいると思えば、
「金金って言うんじゃねえよ三流職人の癖によオォン!?」
「調子こいてんじゃねーぞ結婚詐欺師野郎!ニセ小槌作らせたくせによー何が婚活だぁ?」
しまいには小槌を手に取り殴り合いが始まる始末である。
永遠亭の庭はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図、詐欺師と職人入り乱れての大乱闘スマッシュブラザーズである。
『はぁ~い、それでは偽物の小槌を持ってきたウソつき連中は速やかに御退場願いますねぇ~!』
兎たちは職人と、彼らに追い回されている偽小槌の持ち主を速やかに庭から追い出した。
「御覧なさい針妙丸、クッソ穢い地上人の浅ましい策が次々と破綻していく様を」
「…どうやって、あの職人共を集めたのよ」
「簡単な話よ」
輝夜の説明によれば、事前に幻想郷中の木工職人に根回し(山吹色のお饅頭つき)をし、
この数日間で小槌の作成依頼を受けた場合、永遠亭に申し出るように伝えたという。
既に代金を受け取っていた職人には永遠亭側から倍の料金を渡し、
代わりに依頼人へ製作費用を返金させ、偽小槌の回収を行った。
一方で、今日のために職人に偽小槌を作らせ、
さらに求婚の日が終わるまで代金を支払っていなかった者たちは、
当日、秘密裏に屋敷に呼んでおいた職人によって、輝夜の眼前でその嘘を暴かれることとなったのである。
余談ではあるが、巫女や半獣が小槌を探し回っている話が里を中心に広まっていたことで、
小槌を餌に輝夜を手に入れようとした者たちは、今日の今日までその所持を秘匿していた。
かくして小槌は輝夜や針妙丸が屋敷の外に出ることなく、この永遠亭に運ばれたのである。
「そして、今ここに集まった中で、職人に言い寄られていない者こそ――」
目の前の御簾がゆっくりと上がり、輝夜が正面に指先を向けた。
「――あなたが求める、本物の小槌の持ち主よ」
その者は周囲を右往左往する職人と求婚者たちの中にあって、
うんざりした表情を浮かべながら、その手の小槌に視線を落としていた。
「あれは…!」
「あの子が持ってくるってのは、予想外だったけどねえ」
御簾の向こうにいた輝夜と目が合うと、数少ない女性参加者の一人でもあるその少女は、
よりその表情の「うんざり」の度合いを強め、小槌を無造作に振りながら、言った。
「こっちはお前のやることなんてお見通しだよ」
「あら残念。でも嬉しいわ、あなたがわたしをお嫁に欲しいだなんて」
「いい加減にしろ。久々に本気でお前を殺してやりたい、そんな気分」
藤原妹紅は針妙丸の存在に気付くと、小槌を差し出した。
「あの天邪鬼、嬉々としてこいつを売りさばこうとしてたぞ」
「正邪め…自分が使えないからってそんな軽々しく…」
針妙丸はぶつぶつと文句を言いながらも、
小槌が戻って来た安堵に口元を緩ませ、眼前の宝物に手を伸ばした。
色、形、あちこちについた小さな傷に至るまで、紛れもない本物である。
輝夜のえげつない作戦や、正邪の行動など、言いたいことは尽きないが、
まずはこの小槌が手元に戻って来たことで、ひとまず小人の国には帰れるのだ。
「ありがとうございます。えーと…藤原、さん?」
「ん?ああ。妹紅でいいよ」
妹紅はそう言って微笑むと、針妙丸の手に小槌を渡し――はせず、
「何勘違いしてるか知らないけど、渡すつもりはないわよ。輝夜にも、あんたにも」
その手に強く小槌の柄を握り、その先を輝夜の顔に向けた。
「ふーん。じゃあ、小槌もわたしも両方モノにする気?そういう強引さ、好きよ」
「いい加減にしろって言ったよね?」
妹紅の顔が怒りに歪んでいる。
「宝を持ってきたら結婚してやる、ねえ。それで偽物持ってきたら職人がネタバラシと来た」
「千年経っても、男の性欲ってホント穢いわよね。あ、今回は女もいたんだっけ?」
「ふざけてるのか」
「ふざけてないわ。悪い天邪鬼から、打出の小槌をこの子に取り返してあげたかったの。
わたしは思いつく限りで一番効率が良くて、霊夢や慧音に小槌が渡らない方法を考えただけよ」
輝夜のとった作戦は確かに、人の恋心に付け込んだ点では非道なものであったが、
平気な顔で偽の小槌を作ってきた連中には、針妙丸は正直言ってあまり同情できない。
それでも妹紅のように腹を立てる者がいるのも納得はできたが、
これほどまでに妹紅が強い怒りを露わにする理由としては、不十分に感じた。
「あなたが本物の小槌をゲットするのは計算外だったけどね」
「わたしが慧音にこいつをそのまま渡してたら、どうする気だったのよ」
「あ、その可能性もあったわね。危なかったわ」
「危なかったって、ええ!?ちょっと輝夜、それマズいんじゃないの!?」
今更ながら作戦の穴が見つかったことで、針妙丸は大いに狼狽えた。
それ以前に、妹紅は小槌を返さないと言っている。
輝夜のことはともかく、自分にまで怒りを向け、意地悪をするのはさすがに理不尽だ。
「まあいいじゃない。こうして小槌がここに来たんだから」
「この人返さないって言ってるけど」
「妹紅、その宝は彼女の物よ。わたしへの文句は後でいくらでも聞くから、返してあげて」
「断る」
妹紅の目には確かな意思が見て取れた。
「慧音に頼まれた?でもそれなら、わざわざここには持って来ないか」
「この件は慧音にも内緒だよ。お前の意図も大体わかってる。そこの小人は、
幻想郷中どこを探しても見つからなかったんだ。永遠亭の中を含めてもね」
「え、永遠亭の中――って」
針妙丸が記憶している限りでは、屋敷の中に自分を探しに来た者はいない。
それらしい人物が来ていた、という話も、誰もしてはいなかった。
「何から何まで筒抜けなのね。あなたって本当に…わたしをよくわかってる。大好き」
「屋敷や地上そのものを外から切り離してしまえるんだ。そんな小動物一匹、隠すのは余裕だろう」
「大好きって言ったんだけど」
「わたしは嫌い」
輝夜の顔に唾でも吐きかけそうな顔で、妹紅は輝夜の告白を切って捨てた。
二人の顔を交互に見て困惑する針妙丸に目もくれることなく、妹紅は低い声で話を続ける。
「わかってないとは言わせないから。あんたが今触ってるのは私の逆鱗」
「千年間も同じ出来事を逆鱗にしてるのって、飽きない?」
「謝らないどころか、こうやって忘れた頃に逆撫でしてくる粘着女がいるからね」
「あ~ら、粘着し始めたのはどっちかしら?」
二人の間の空気が次第に張りつめていく。
あの釣り対決の夜とは違い、明らかに何かドロドロとした怨念が渦巻いているのが、針妙丸にもわかった。
が、それに気圧されている場合ではない。
妹紅と輝夜の間にどんな確執があったとしても、自分にとっての最優先事項は小槌なのだ。
「あ、あの半獣にも秘密ってなら、なんで小槌を返さないのよ!?それはわたしたち小人族にしか」
「使えないんでしょ?知ってる。わたしもこんなもん使うつもりはない」
「じゃあ、なんで!!」
苛立って妹紅を睨み付けた針妙丸の問いに、新たに現れた者の声が答えた。
「そりゃ、あんたたちに嫌がらせがしたいからだよ」
妹紅の背後から、その声の主はゆっくりと姿を現した。
にやついた笑みを浮かべながら、針妙丸を見下ろし、次いで輝夜に視線を向ける。
「こちらの姐さんはさぞやお怒りさ、針妙丸にジブリ姫」
「正邪…!」
鬼人正邪は妹紅の肩に馴れ馴れしく手を乗せると、赤い舌で唇をちろりと舐めた。
正邪が妹紅の手に己の指を重ね、二人で小槌を握る格好を取る。
挑発するような仕草が、針妙丸の苛立ちを余計に強めた。
「何、妹紅ったらいつの間に天邪鬼とお友達になってたの?角があれば誰でもいいの?」
輝夜の顔からもここに来て急に笑顔が消え、呆れたような口調で妹紅に問いを投げかける。
「こいつの言う通りだ。わたしらは、この小槌でお前らに嫌がらせがしたいのよ」
「あんた達が、可哀そうな独身共に嫌がらせをしたみたいにねぇ?」
妹紅はしなだれかかってくる正邪を押しのけることもせず、にやりと笑う。
正邪は正邪で、妹紅の言葉に同調し、彼女に身体を密着させたまま皮肉を言ってみせた。
「ふーん」
輝夜は無表情のまま二人を見比べ、何度か頷いて見せた。
「嫌がらせかぁ。確かに」
彼女がさっ、と右手を上げた瞬間、庭のあちこちで幾つもの人影が動いた。
針妙丸がそれに気付いた瞬間には、妹紅と正邪の周囲を何匹もの妖怪兎が取り囲んでいた。
「鈴仙、今年の姫様と妹紅のマジ喧嘩の回数は?」
黒髪兎はマイクを巨大な杵に持ち替え、正邪の脳天に狙いを定めていた。
「双方がキレた時のみをカウントしていくと、今年初よ」
その隣の長髪兎は、銃のように形作った人差し指の先を妹紅の後頭部に向けている。
「わたしキレてないし」
「キレたよ、さっき」
「キレてましたね」
「キレてたわよ輝夜」
永琳まで加わり、輝夜の言葉を三人がかりで否定した。
勿論針妙丸には、輝夜がどこで何にキレたのかはわからない。
「妹紅、その天邪鬼…と、えーとそれ、何だっけ?小槌を置いて今すぐ去りなさい。興が冷めたわ」
「え、今小槌がすごいついで感バリバリに言われてたような」
「黙りなさい針妙丸。妹紅、聞こえた?痛い目にあいたくなかったら、今すぐ消えて」
いつの間にか、輝夜が妹紅を見据える目から楽しげな光が消えていた。
「わたしはいいわよ?帰ってから、ありのままに今起こったことを話すだけだし」
「何ですって?」
「今日は慧音と一緒に、博麗神社の宴会にお呼ばれしてたのを思い出したんだ。早く帰してくれ」
その言葉が意味するところは、針妙丸にもわかった。
このまま妹紅が小槌を置いて行っても、すぐにその所在が霊夢と慧音に伝わる。
正邪が必死で笑いを堪えている様を見ても、妹紅の意図がそこにあることは明確であった。
「姐さん、わたしもお供してよござんすか」
「あー、いいんじゃない?悪さしなきゃ酒くらいもらえるっしょ」
次第に余裕が出てきた妹紅の態度に、今度は輝夜の表情が歪み始めた。
「…あなたたち、何が望みなの」
「その言葉を待ってた。輝夜は理解が早くて助かるね、大好きよ」
「さすがは姐さん、大胆な告白は女の子の特権?妬けるねえ」
「…っ…!いいから言いなさい!!こんなちゃちな嫌がらせで済ませるつもりじゃないでしょう!!」
針妙丸は初めて、輝夜が声を荒げるのを聞いた。
ほんのつい数分まで、余裕たっぷりに作戦のネタバラシをし、現れた妹紅をからかっていたとは思えない。
屋敷にいる時にも聞いたことがない、子どものように感情を露わにした怒声であった。
「鈴仙、姫様の方がキレてた喧嘩は?」
「うーん。記憶してる限りだと、初めて慧音さん連れてきた時以来かなあ」
「相変わらずわかりやすいわね、この子ったら」
兎たちと薬師は慣れた表情で、今や縁側に座り茶を煎れ始めていた。
針妙丸にはそんな余裕が持てるはずもなく、ただ妹紅と輝夜の表情を見比べることしかできない。
「お前はそこの小人と小槌を使って、わたしに喧嘩を売ってきた」
「あなたに売った覚えなんてない。自意識過剰なんじゃないの?」
余裕を持って小馬鹿にする、という先ほどの態度ではなく、完全に相手の怒りを煽る態度で輝夜は言う。
妹紅も反射的なものなのか、そこに余裕ではなく、再燃させた怒りを顔に表すことで応えた。
「黙れ暇人!お前が思い入れを持ってるのがこの小槌か、そこの小動物のどっちかは知らないが、
こうして小槌を取り返せないまま、屋敷の評判だけを落とすわけにもいかないだろう?」
既に嘘がばれた求婚者たちは屋敷の庭を去っている者がほとんどであったが、
いかに輝夜を騙すつもりであった彼らも、同時に騙されていた者たちであったことには変わりない。
永遠亭に対し、少なからず悪い印象を持ってここを去ったことは想像に難くはない。
輝夜がその目論見の結果、小槌も何も手に入れられなかったとあっては、なおのこと。
「そこでだ輝夜」
「早く言いなさい、下郎」
「わたしも自分ではなく、小槌と別の誰かを使ってお前たちに喧嘩を売ろうと思う」
妹紅はそう言って、正邪の首根っこを掴み、自分の前に立たせた。
「へ?」
他ならぬ正邪自身が、その行動に目を丸くしていた。
「わたしは小槌をもう一度、この天邪鬼に預ける」
後方から、妹紅は無理矢理正邪に打出の小槌を握らせ、その手をがっしりと拘束した。
妹紅の手は色白で一見普通の少女のように細かったが、正邪が痛みに顔を歪めたことからその膂力が見て取れる。
「お前はお前で、この件の当事者に全てを任せ、こいつと戦わせればいい」
妹紅は輝夜を睨み付けた後で、針妙丸に視線を移した。
突然自分を射抜くように向けられた赤い瞳に、針妙丸は一瞬たじろぐ。
「そこの親指姫様がこの天邪鬼を倒せたら、晴れてその手に小槌を返してやるというのは…どう?」
※ ※ ※
鬼人正邪がこれまで生きてきた中で「仲間」と呼べる存在がいたことは、意外にも多くあった。
古くは腕力、現代では弾幕が妖怪の強さを決めるこの世界では、
非力な正邪が何かを成し遂げようとするには、自分一人の力では足りないことが多くあった。
正邪はその度に口八丁手八丁、手取り足取り胸取り腰取り、
とにかく様々な手段を使って他者に取り入り、自らの味方としてきた。
が、誠意を持った対応や、対等な取引きがそこにあったことは一度もなく、
皆どこかで騙され、利用されていたことに気付き、正邪の元を去って行った。
味方の(正当な)裏切りにより策が破綻したこと、自らが痛い目を見たことは一度や二度ではない。
それでも人に嫌われることが喜びの正邪にとって、それは快感でしかなかったし、
何か大きな結果を残すより、その失敗の過程で周囲に混乱や騒ぎを振りまけたことで、彼女は満足した。
「弱者が強者を倒し、下剋上を成す」という野望だけが「叶えるべき目標」として正邪の心にあったのは、
どこかでそんな弱く狡い自分を否定したいという願望があったからなのか、それは自分でもわからない。
だがその望みを叶えるという意思だけは間違いなく本当で、
だからこそ、実際にそれを成せるほどの大きな力をもった秘宝――打出の小槌に正邪は目をつけ、
嘘の歴史という土産話と共に、少名針妙丸に近づいたのである。
「…そんな話で、本当に感動できると思ったのか?あんた」
囲炉裏の反対側に座る下着姿の正邪を、妹紅は呆れ顔で見ながら言った。
「そんなこと言われても」
ここは迷いの竹林の近くにある妹紅の家。
正邪はつい先ほどまで、この家の庭先にある柿の木の根本に埋められていた。
小槌を渡すことなく永遠亭から戻り、正邪は妹紅に自分と針妙丸の因縁を話した。
『どうせ雑魚同士の小競り合いか何かだろ』
と馬鹿にしてきた妹紅に対し、正邪は思わず、
『血沸き肉躍る一大スペクタクル、これは感動間違いなし』
『もし感動できなかったら、自分を庭の木の下に埋めてもらって構わない』
と大風呂敷を広げてしまい、結果として柿の木の肥やしになりかけたのである。
恐るべきは藤原妹紅という女、自分が冗談混じりに言ったことを一切の躊躇なく実行したのだ。
「仮に感動できても、あんたただのゲスい小悪党ポジションじゃん」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてないよ」
正邪は窒息寸前で掘り起こされ、光が当たる世界へ顔を出した。
泥まみれになった服は妹紅が洗濯をしてくれるという。
優しいのかえげつないのかよくわからない人物だったが、今の自分は妹紅の手から逃れることができない。
里の人間を相手に小槌を売りさばこうとしていたところを、
妹紅に無理やり拘束されこの家に監禁されたのはつい数日前。
抵抗しても全く敵わず、散々痛めつけられた後で逃げようとしたら、いきなり頭に火をつけられた。
『宇宙警備隊の隊長みたいにしてやるよ』
『腹筋ボコボコにパンチくらって力尽きるか?そういう姿ってドキドキする』
と笑顔で脅す火山怪鳥女には逆らうだけ無駄だと、ウルトラ弱者な正邪の勘が告げていた。
それから今日まで妹紅は自分を縛って物置に監禁していたが、
食事の際には暖かい手料理を振舞い、酒の相手までさせ、寝る時には布団を貸してくれた。
勿論、布団の中でも全身を縛られたままであったが。
本当に、その行動原理が読めない人間であった。
そして今日、正邪は拘束を解かれ、妹紅に連れられて永遠亭に向かった。
そこで謎の婚活イベントに巻き込まれ、ついノリで妹紅と輝夜の喧嘩に介入し、
さらにその妹紅の手によって針妙丸との決闘の約束までさせられた。
この数日間であまりにも多くのことが起こりすぎて、
この状況を喜ぶべきか悲しむべきか、正邪には判断がつかない。
天邪鬼特有のひねくれた性格が、さらにその状況に対する理解の難易度を高めていた。
得体の知れない、しかしその強さとえげつなさだけは確かな妹紅への畏怖が、
いつしか正邪に彼女を「姐さん」と自然に呼ばせるに至っていた。
「お、煮えたね。あんた大根好き?」
「好きです」
「そうか。まあ嫌いでも食わせるけどねー」
目の前の囲炉裏ではおでんを煮る鍋が火にくべられており、
煮卵、大根、牛すじ、糸蒟蒻といったお馴染みの具材が湯気を立てていた。
暖かい囲炉裏の傍では、下着姿でもそれ程寒さを感じない。
妹紅は洗濯はしてくれるが、代わりの服を貸してくれることはしなかった。
正邪を半裸の状態にしたまま食事をしてみたくなったのだという。
妹紅は完全に、気分次第で正邪を好き勝手に扱っていた。
「好きなものを食べるのは美味しいから好き」
「ほう」
「嫌いなものを無理矢理食べさせられるのも、気持ちいいから好き」
「ほう」
妹紅は天邪鬼のひねくれた性格が、自身への嫌がらせをどこまで喜ぶか、それを試しているような節があった。
正邪が普通に妹紅の優しい振舞いや、えげつない嫌がらせに反応する度、
感心したような顔で頷くのであった。
「じゃあ何が嫌なんだ?」
「何も食べられないこと、でしょうか」
「あはは、飢え死には辛いもんね」
あれは何度やっても慣れないよ、と妹紅は笑う。
自分がこれまで経験した死に方を嬉々として自慢する妹紅には、当初さすがの正邪も引いたが、
今ではそれなりに慣れ、食事中に四肢切断や内臓摘出の話をされても食欲を失わなくなった。
元々、正邪にとって他人の不幸は蜜の味だったのだ。
妹紅の場合はそれが自慢話になっているので、結果として味気ないことになっているが。
「まあ、話を戻そう。あのこけしみたいなのを、あんたはそうやって騙して利用したってわけだ」
「あそこまでチョロいとは思いませんでしたが」
最初に痛めつけられて以降、正邪は自然に妹紅に対しては丁寧語を使っている。
下剋上を願う妖怪の自分がこうして人間に服従している構図は非常に腹立たしいが、
妹紅の実力と、絶対に死なないというふざけた仕様、さらに意味不明な性格を目の当たりにし、
抵抗も逃亡も一切無駄、と悟りひとまずは大人しく従うことにしているのだった。
「ありゃ箱入りのお姫様だね、世間知らずなさ」
「はあ」
「わたしも昔はあんなだったからよくわかるよ。一族とか親とかさ、そういうの出されるとさらに弱い」
目の前の不死生物にも針妙丸のように純真無垢な時代があったというのか。
あんな風に、曇りのない目で正邪を真っ直ぐに見つめて、心の底から信頼して。
騙されていることも知らず、自分の手を取って、眩しい笑顔で笑って。
「ないなあ」
「何がよ?」
「姐さんがあのコロポックルみたいに純な少女だったって、まったくイメージできない」
妹紅は無言で熱々の煮卵を箸で掴み、正邪の頬に押し当てた。
「アツゥイ!?」
正邪はその発言がなんとなく妹紅を怒らせるだろう、ということは予想できていたが、
なんとなく、そう言わずにはいえなかったのである。
妹紅にどんな過去があったかは知らないが、針妙丸のあの頭の悪い純粋さは、他の人間には真似できない。
何故か、それだけは伝えなければならないと感じたのであった。
「お前、今すぐ小説版げっしょー買って来いや。んで読め」
「あ、姐さんがクスリ目当てに強盗殺人やらかす話でしたっけ?」
正邪の頭に、キャンプファイヤーよろしく炎が点された。
「アツゥイ! ヒュゥー、アッツ!アツウィー、アツーウィ!アツー、アツーェ!すいませへぇぇ~ん!」
「ジュ~ジュ~になるまでやるからな~?メタ発言は許さねえからな~?」
そんなこんなで、時折妹紅に苛められながら、正邪は初めて自分の身の上を話した。
もう正邪に逃げる意思がないと踏んだのか、妹紅は物置に正邪を閉じ込めないまま過ごした。
夜が更けた。
逃げたらわたしの不死鳥があんたに憑依して追っかけるだけよ、と釘を刺して、
妹紅は正邪を自分と同じ布団へ入れた。元々、この家には正邪に貸していた一式しかないという。
「あんたさ」
「…え?」
妹紅は眠りに落ちる前、正邪に一つだけ尋ねて来た。
「あのちっこいの以外にもさ、あんなイキイキして意地悪してるわけ?」
「…どうでしょう?」
正邪は首を傾げた。同じように騙した相手は数知れず、
だが、一度騙した後も自分を避けず、ああして向かい合ってきた者は少ない。
数日前の針妙丸のように、まさかもう一度自分を信じてきた、みたいな手合いは皆無だ。
大抵の者が、一度嫌った、懲らしめた正邪に対しては、一切の興味を失うのだから。
「もしあいつだけ、そういう風にしたくなるんならさ」
妹紅の口元に微笑みが浮かんだ。
「逃げられないように…ね」
そう言って、妹紅は一度だけ、正邪の頭を撫でた。
その手は炎のように熱い…ということはなく、普通の人間の体温を帯びていた。
次の日から、妹紅は正邪を縛ることも、閉じ込めることもしなくなったが、
今度は「針妙丸に勝つための特訓」と称してしごきを始めた。
その内容は苛烈を極め、例を挙げていくと、
・流れ落ちる滝を手刀で断ち切る
・巨大な丸太の振り子を避ける
・河童が作った自動車(オール電化)で正邪を追いかけ回す
といったもので、最後の自動車(ジープ型)の特訓ではバンパーに正邪の足が触れるなど、
一歩間違えば轢き殺されそうになるレベルであった。
河童の科学力は便利である。…と妹紅(無免許)は語る。決して作者が思っているわけではない。
毎日、特訓の後には妹紅が作る美味しい料理が待っており、
正邪は夕飯を済ませ、妹紅が沸かしてくれたドラム缶風呂からあがると、泥のように眠った。
小槌を持たない針妙丸はただの小動物、自分がこんなに鍛える必要はあるか?と妹紅に尋ねたが、
「輝夜がついている時点で、まともに戦える相手だと思わない方がいい」
妹紅はそう言って、変わらず正邪をしごくのであった。
途中、本当にこのまま殺されるのではと思い、逃亡を考えたが、相手は妹紅だ。逃げられない。
結局、あのまま毎日縛られていた方が遥かに楽だった、と思いつつも、
正邪は妹紅が持ってくる宇宙人めいた特訓をこなさざるを得なかった。
※ ※ ※
一方の針妙丸も「絶対に負けるな、負けたらあんたにウサ耳を移植してイナバにする」と脅す輝夜により、
打出の小槌を賭けた正邪との決闘に向け、着々と準備を進めさせられていた。
「お疲れ様、どう?乗り心地は」
「ターンピックが冴えないわ」
針妙丸は正邪とは違う形で、輝夜により毎日、過酷な特訓を課されていた。
ここは永遠亭の倉の一角を改造したメカドック。
輝夜があの婚活イベントの日に徹夜をして作ったという、竹細工の巨人の格納庫であった。
巨人と言っても、その大きさは普通の人間レベル。針妙丸基準での「巨人」である。
精巧に作られたその見た目は、ポニーテールを結った少女のように見えた。
「ふむ、まだまだ調整が必要ね」
そしてこの竹細工の巨人「ビルド依姫」は、なんと針妙丸の操縦により駆動するのだ。
小槌を奪われた小人の肉体のままで針妙丸が正邪に勝利するため、輝夜が発案した秘密兵器であった。
『わたしが作って、あなたが戦う』
をコンセプトに、輝夜は針妙丸の決闘に全面協力を申し出た。
一晩で作ったとは思えない出来のビルド依姫だったが、針妙丸により最適化するため、
こうして毎日テストを行い、操作性や強度、機動性の調整を行っていた。
針妙丸自身も、永遠亭の妖怪兎を相手に、スペシャルな模擬戦を二千回近く行い腕を磨いている。
「…なんで輝夜は、依姫をモチーフにしたのかしら?」
「はあ、なんでも『ファンから反感を買うレベルのチート級な無双っぷり』に元ネタとの共通点を見出したとか」
「正確には元ネタの元ネタね。ビルドがつかない方のストライク…のパイロット」
永琳、鈴仙、てゐの三名は相変わらずほのぼのとお茶を飲みながらその様子を眺めている。
怪我をすれば彼女たちがすぐに手当てをしてくれるのである。
「これ、いつも気になるんだけど…何の力で動いてるの?」
「基本的なエネルギーはミステリウム粒子よ。あとお爺ちゃん直伝の竹細工」
この屋敷では、もはや何でもアリであった。
自分がこれまで軟禁されていた鳥籠が「開けられない」どころか「外部から認識できない」完全密室になっていたことや、
輝夜の能力による「永遠の魔法」により歴史が進まなくなった道具の、不可思議な強度と耐久性。
『あんまり外で大っぴらに使うと、また霊夢や慧音に怒られる』
そう言いながらも、輝夜たちは針妙丸のためにそうした能力を惜しげもなく使っていたのだった。
今度は(針妙丸にとっての)巨大ロボである。もう、滅多なことでは驚かなくなっていた。
「間違ってもあなたの命とか、記憶情報では動いてないから安心してね」
「材質が竹っていうのが一番命の不安だよ…」
わざわざ針妙丸サイズのパイロットスーツを用意してきたあたりも、輝夜の本気が伺えた。
「大丈夫よ、これで妹紅と戦うっていうなら可燃性の材質は問題だけど…相手はあのキルラキルでしょう?」
「キルラキルが何かはわかんないけど、まあ正邪は火とか吹かないわね」
「ビルド依姫の太刀は竹光だけど、刃先の厚さは単分子レベルに薄くしてあるからね。切れ味は神剣フラガラッハに匹敵するわ」
切れ味はともかく、単分子並に薄い竹とは強度が恐ろしく心配である。
「あなたの宝物、取り戻したいのでしょう?」
「そりゃまあ、勿論」
あの時、輝夜は妹紅の挑発に乗っかり、針妙丸と正邪の対決を了承した。
針妙丸にしてみれば、何故そこで正邪と…と異を唱えるべきところだったが、何も言わずに納得した。
小槌を奪われていたこともあったが、それ以上に、自分がもう一度、正邪と向かい合う機会であるということが大きかった。
「正邪に言いたいこと…沢山あるから」
「ふふ、でしょう?」
あれから、輝夜は怒ったり、声を荒げたりすることはなくなった。
針妙丸が正邪の話をすると、輝夜はいつも楽しそうに笑った。
そしていつも、その後でこう言うのであった。
「あの子の相手をしてあげられるのはね」
輝夜はそれを言う時、それまでにも増して楽しそうな顔をしていた。
「きっと、あなた一人だけなのよ」
輝夜の目には、ここにはいない誰かの姿が映っているようであった。
針妙丸はもう身を隠す必要がなくなったためか、今では輝夜と布団を並べて寝ている。
一緒に寝る?とも誘われたが、いかに華奢な輝夜の体躯でも針妙丸にとっては巨人である。
押しつぶされてはたまらないと、別の布団を敷いて寝ることにした。
寝物語に輝夜が話す過去のエピソードは、とても面白いものばかりだった。
妹紅の家から干し柿を盗んで食べたこと。
初めて湖で釣りをして、妹紅と張り合ったこと。
ダイエットをしようとして妹紅と競い、結局三日坊主に終わったこと。
妹紅の家から漬物を盗んで食べたこと。
庭に海水浴場(?)を作ったら、妹紅のせいでそこが露天風呂になったこと。
輝夜の話には、やたらと高い頻度で妹紅が登場した。
勿論他の様々な人物(特に、霊夢や魔理沙、咲夜と戦っていたことには驚いた)も、
永遠亭の住人達の珍事を並び様々なエピソードを伝えてくれたが、
くだらない話や、無駄にエログロナンセンスが盛り込まれた話には、妹紅が必ずいた。
『あんな面白い玩具は、こんな狭い地上では滅多に見つからない』
輝夜はいつも妹紅のことをそう評する。
好事家で暇人で、いつも何か面白いこと、やりたいことを探している輝夜が、
それだけの評価を与えているのは、妹紅だけであった。
妹紅の話をするときの輝夜の目は、意地悪に、残酷に輝いていた。
騙すことも苛めることも殺すことも全く躊躇わないその目が、
ここに本人がいるといないとに関わらず、妹紅を見ているのが、針妙丸にもわかった。
妹紅があの時、小槌を持ってきた時あんなに怒ったのは、輝夜がこうして、
いつも妹紅にえげつない嫌がらせを繰り返しているからなのだろうか。
妹紅は輝夜が自分をそういう風に見ていることをどう感じているのだろうか。
妹紅は輝夜のことをどう思っているのだろう。
そして――自分ならば、誰かにそんな風に思われた時、何を思うのだろうか。
そんな誰かがいる人生は、どんなものなのだろうか。
「ねえ、輝夜」
針妙丸は、傍らで横になる輝夜に尋ねてみた。
「なあに?」
「輝夜はさ」
輝夜は針妙丸の方に顔を向け、微笑んだ。
月明かりが青白く照らした彼女の顔は、人形のように端正で、美しい。
「なんであの時、妹紅にあんなに怒ったの?」
「あの時って?」
「妹紅と正邪が、小槌を返さないって言った時」
輝夜は一瞬目を見開き、針妙丸から視線を外した。
「…さあ、何でかしら」
これも、針妙丸がまだ見たことがない輝夜の表情であった。
苦虫を噛み潰したようなその顔は、新鮮である。
「あなたこそ、あの時ムカつかなかったの?」
「わたし?」
「そうよ。あの天邪鬼が妹紅にベタベタしてた時」
あの時、事態が二転三転しており、怒る前に混乱していたが…確かに、
ようやく帰ってきたと思ったら、妹紅の私怨で小槌が返って来なかったことには、怒りを覚えた。
その他にも何かに苛立ちを覚えていた気もするが、よく思い出せない。
「まあ…小槌返さないとか、ふざけんなって思ったけど」
「……」
輝夜は何も言わず、
「痛いっ」
針妙丸の額にデコピンをかました。
体格差から、針妙丸は布団の外に弾き飛ばされた。
「針妙丸ってばホントに子どもねー」
「うぐぐ、どこのドラゴンマスター志望よあんた」
這いずって布団に戻る針妙丸は、目に涙を浮かべて輝夜を睨み付ける。
そんな針妙丸を見てくすりと笑うと、輝夜は優しくその頭を撫でた。
「きっとね、あの子と本気で決闘してみたら、わかるわよ」
「わかるって、何が」
輝夜は、その問いには答えず、針妙丸に布団をかけなおした。
「…おやすみ。明日も気合入れていくわよ」
「何なのよもう」
頬を膨らませる針妙丸に微笑みかけ、輝夜は目を閉じた。
※ ※ ※
それから数日間、針妙丸と正邪は、それぞれ置かれた状況下で鍛錬を重ねた。
正邪は少なくともそこらの人間に嘗められない程度には「妖怪らしく」強くなっていたし、
針妙丸はビルド依姫をある程度自由自在に操り、永遠亭の兎を圧倒できるレベルまで熟達していた。
輝夜は毎日針妙丸の模擬戦に立ち会い、己が作った竹細工の巨人(全長160cm)を夜遅くまで整備していたし、
妹紅は正邪の傍を離れることなくしごき続け、スタミナ満点の手料理を振る舞っていた。
針妙丸は一族の秘宝を取り戻すため、
正邪は妹紅に逆らうと確実に殺されるからという理由で過酷な特訓に耐えていたが、
いつしかそんな理由よりも、互いに戦う相手のことを意識するようになっていった。
(わたしは今度こそ、正邪と決着をつけるんだ)
(針妙丸…あんたを、今度こそ絶望させてやる)
針妙丸は正邪への心残りを清算するため、正邪は針妙丸の馬鹿げた勘違いにとどめを刺すため、
妹紅と輝夜が取り決めた決戦の日を、今か今かと待つようになっていた。
相変わらず小槌と針妙丸を探し回っていた霊夢は、
妹紅から事情を聞いた慧音に説得され、二人の決着がつくまで捜索を一時中断した。
どちらが勝っても、小槌を今後も悪用するならば容赦はしないという条件付きである。
これにはこれまで針妙丸を匿ってきた永遠亭の面々も、輝夜には内緒で了承した。
妹紅と輝夜が決めた決戦の場所は、迷いの竹林の一角。
天然の空き地のように開けた場所を使い、関係者以外に見られることなく、
二人の雌雄を決しようとしたのである。
ちなみに時刻は深夜十二時。日付の変更をもって永遠亭は針妙丸を匿うための全ての術を解き、
この決戦の結果がどうなろうと、その後の行く末は針妙丸本人に任せることにした。
立会人は当の妹紅と輝夜、そして小槌の行方に関し責任を負う慧音。
そして本来招かれざる客ではあるが――決着の日、つまり今日のこの場所に立っていた者は、他にもいた。
「…こんな夜遅くに、うちの近くで何やってくれてるかな」
偶然にも、針妙丸と正邪の決闘の場所は、今泉影狼の住む場所の近くであった。
決闘の立会人は三人しかいなかったが、妹紅と輝夜が出会い頭にドンパチをやらかしたため、
うるさく思った影狼がこうしてここまで足を運んできたものと見える。
「あら、この間の腹ペコ狼じゃない」
「そういうあんたは宇宙猿人ゴリ。今日は萩の月は持ってきてないの?」
影狼は、輝夜に対しては相変わらずいい印象を持っていないようだ。
明らかに敵意を含んだ視線で輝夜を睨み付けている。
「だからそのネタやめなさいっての。泣くわよ」
「影狼ちゃん、女の子にそんなこと言ったらだめよ」
自分を食べようとした相手すら庇う優しい少女は、わかさぎ姫。
影狼の両手にお姫様抱っこされた状態でやってきた彼女は、
最初輝夜と妹紅、そして慧音の姿を見て恐怖の表情を浮かべたが、すぐに平静を取り戻し影狼を叱った。
「あんたこそ、こんな夜遅くに彼女連れ込んで何やってたんだか」
「「か、彼女!?」」
妹紅の言葉に、影狼とわかさぎ姫は見事なハーモニーで狼狽える。
「人魚は歩けない、あなたは歩ける。ここまで連れてきちゃえばやりたい放題ですものね?」
「こちらのマーメイド殿も、逃げるふりをしてそっと潜る感じだったに違いない。捕まえて好きだと言って欲しかったんだな」
輝夜と慧音の顔にも何かを察するかのような表情が浮かんでいた。
影狼が牙をむき出しているのは、自分たちの行動を邪推されたからか、あるいは図星を突かれたからか。
「わ、わたしらが家で何しようが勝手でしょ!?」
「そうです!!影狼ちゃんが毛深くならないよう、わざわざ満月の日を外したのに…」
どうやら影狼が毛深くなる満月の日では不都合なことをしていたようである。
「へー、なんで影狼が毛深いと駄目なのさ?」
「ぐーや子どもだからわかんなーい」
「こらお前たち、他人の性生活を面白がるものじゃないぞ」
二人を諫めるようで「性生活」などと露骨な単語を出しているこの教師が一番の害悪である。
「こ、こいつら…こうなったら、この場で全員二回戦のスタミナにしてくれる」
「三人も食べれば、二回戦と言わず朝までイケるよ影狼ちゃん!!」
ここに至っては、もはや二人にも先ほどまで何をしていたか隠す気もないようであった。
「輝夜は運動不足で脂がよく乗ってるからな。食うならそっちにしとけば?」
「失礼ね。ま、あんたは胸も尻も貧相で食べ応えある場所がないからね」
そう言いながら、輝夜と妹紅は戦闘態勢をとるように影狼たちと向かい合った。
草の根妖怪コンビVS畜生アンデッドの対決、
あの満月の夜の続きとも言うべき戦いの火蓋が切って落とされようとした、その時である。
「ちょっと待ちなよ、あんたたち」
密集した竹の陰から、黒髪有角の少女――正邪が姿を現した。
「今日の主役はわたしらでしょ?いつまで前座試合やってるつもりさぁ」
そして、正邪が現れたのとは別の暗闇から、ポニーテールの少女人形が姿を見せた。
それは全身を竹細工で作られた、小人から見れば「巨人」サイズの人型兵器、ビルド依姫。
「そうだよ輝夜、待ってる間に眠っちゃうよ」
今夜の決戦の主役たる二人はそれぞれ、妹紅と輝夜が呼ぶまで竹の陰で待たされていたが、
案の定と言うべきか、当初の目的を忘れた蓬莱人コンビのせいで、
約束の時間を大幅に過ぎてもなお自分たちの対決の時間を迎えられないでいた。
※ ※ ※
「もう、輝夜は妹紅が絡むといつもそうなんだから」
ビルド依姫の操縦席に座った針妙丸は、片目を擦りながら口を尖らせた。良い子はもう寝る時間帯なのだ。
身長以外も含めて小っちゃい子な針妙丸にとっては、この時間帯ははっきり言って夜更かしだ。
「ふぁ…やっぱり眠い。居眠り運転で捕まっちゃうよ、もう」
決闘をしようというのにこんな時間帯をわざわざ選ぶあたり、
輝夜は本当に針妙丸を勝たせる気があるのか、大いに疑問を感じるところではあった。
ビルド依姫の操縦席には何故かウイスキーが入ったスキットル(勿論小人サイズ)があり、
輝夜からは「戦う前に飲んでね」と笑顔で言われたのであるが、針妙丸は何故か不穏な雰囲気を感じた。
ロボの操縦席でウイスキー、それはガトリングでブチ抜かれて死ぬフラグではないのか、と。
「おい針妙丸、あんたいつからそんなにおっきくなったのさ」
決戦の相手たる正邪が、挑発するようにビルド依姫を眺めまわしている。
ようやく、彼女の前に立つことができた。
打出の小槌を取り戻すことは勿論、正邪に言いたかった幾つものことをぶつける機会に巡り合うことができた。
怒りも悲しみも、悔しさ、寂しさも、この場で全て正邪に叩きつけてやりたかった。
「正邪の目は節穴かな?わたしはここよ」
操縦席のハッチ――ビルド依姫の胸部を上に開き、針妙丸は正邪に己の姿を見せた。
「なんだあんた、こけしからマトリョシカにジョブチェンジか?感度良好5to4?」
「うっさい。さっさと戦う準備しなさい、この馬鹿溜まり」
久しぶりに真正面から向かい合う正邪の下衆な笑顔も、憎まれ口も絶好調だ。
腹立ち以上に懐かしさを感じ、針妙丸は思わず微笑んでしまう。
不思議なものだ。正邪がああして悪意をぶつけてきたことはそれほど多くはなく、
異変の間は素性も本音も隠し、針妙丸に甘い言葉と微笑みばかりを与えてきたというのに。
「あんたの二枚舌引っこ抜いて、里の居酒屋に売りつけてやる」
正邪の本当の姿がわかった今、彼女が「らしい」言動を自分に見せることが、
目の前に、手が届く距離に正邪がいるということを実感させてくれる。
その事実が、これから始まる決闘に向け、針妙丸の心を大きく高揚させていた。
「何やら妙な道具を手に入れたみたいだけど、姐さんの地獄のシゴキに耐えたわたしには敵わないよ」
「ちょっと妹紅、こんな小さな子に何したの?恥辱の仕置きなんて、いやらしい」
「お前女性ホルモンで耳の穴が詰まってるんじゃないのか」
自分は輝夜の技術の、正邪は妹紅の鍛錬の助けを借りて今日の準備をしてきた。
二人の代理戦争をやるつもりなど毛頭ないが、自分たちの決闘を盛り上げてくれるなら大歓迎だ。
「そこな天邪鬼さん。妹紅の性奴隷という不名誉な立場で一生を終えるなんて可哀想だけど」
「滅相もない、わたしは姐さんの玩具として腹上死できるなら本望でさあ」
「お前は黙って戦えっての。あとわたしは一回殺して死ぬような奴は性奴隷になんてしないし」
「わたしの作った1/1ビルド依姫の竹光のサビになってね。…って妹紅、それはつまり、死なないわたしは性奴隷の資格アリってこと?!」
なぜか嬉しそうな輝夜。
「あと貧乳は資格なしな。ゆえに正邪も輝夜もNGってことで」
「え、永琳に豊胸剤作ってもらうもん!」
「妹紅の姐さん、わたしは乳属性をひっくり返すことで巨乳になれます。ただし乳首もひっくり返ってその、陥没を…」
「妹紅、それはつまりわたしが不死身になれば完璧ということ…だな?」
今度は妹紅の性奴隷の座争奪戦が始まりそうだったので、針妙丸はビルド依姫に大きな音で足踏みをさせた。
軽い竹を使った材質ながら、人間の少女一人分を上回る重量が周囲の竹を大きく揺らす。
「いいからさ、さっさと始めようよ。それに正邪、今度は妹紅を騙そうとしてるの?殺すよ」
「いや、わたしは姐さんならこのまま奴隷にされても…」
「よし殺す。余力があったら妹紅も殺す」
正邪がこうやって、騙して誰かに取り入ろうとするのは止めるべきなのだ。
自分のように正邪に利用されたり、陥れられたりする者は他に増やすべきではない。
よくわからないが、怒りを感じた。ましてあの正邪が性奴隷など、ありえない。ありえるはずがない。
性奴隷がどういうものなのかは針妙丸にはぶっちゃけよくわからないが、とにかく正邪がそうなるのは防ぎたい。
刀身が長い竹光を青眼に構えたビルド依姫の操縦席のハッチが閉じ、その目が三日月のように鋭く光った。
繰り返すようだが、ビルド依姫の駆動には輝夜が地上で学んだ竹細工を使用している。
その竹細工が何やかんや機能し、何やかんやでミステリウム粒子を作用させ竹の少女人形を動かしているのだ。
何やかんやは何やかんやである。
「どうかしら妹紅?わたしが手に塩かけて育てたパイロットは」
「手塩にかけて、だ。日本語は正しくな」
「ぶっ」
「か、影狼ちゃん、笑ったら悪いよ…くすっ」
輝夜の誤用を慧音先生が正す。こういうことは放っておくと本人のためにならない。
影狼とわかさぎ姫は口元を抑えるだけの気遣いを見せたが、妹紅には勿論そんな慈悲はない。
「いいよ!来いよ!手にかけて手に!」
「ううううっさいわよこの没落貴族!針妙丸、いますぐ妹紅を斬っちゃいなさい!!」
顔を真っ赤にした輝夜の指示には従うことなく、針妙丸は正邪に竹光の剣先を向けた。
ビルド依姫の操縦席は何やかんやで視界良好に作られていたが、もはや針妙丸の目には正邪しか映らない。
「正邪、まさかわたしみたいな小物にビビったりしないよね?それとも、天邪鬼って普通に戦うと小人より弱いのかな?」
「そんなお人形さんに頼ってて『普通に戦う』も糞もあるか、虫ケラ」
正邪は針妙丸が珍しく自分を挑発したことに一瞬驚き、その後ですぐに笑みを浮かべて中指を立てた。
その様子を見て輝夜と妹紅も言い争いを止め、慧音は正邪と針妙丸の間に立つ。
わかさぎ姫と影狼は先ほどまでの不毛なやり取りに呆れ家に帰ろうとしていたが、その足を止めた。
二人の間の空気が張りつめていた。
「…えー、その。挨拶が遅れて申し訳ないが、今宵の決闘を預かる上白沢慧音だ」
「「知ってる」」
針妙丸と正邪は同時に応える。
「それはありがたい。鬼人正邪、少名針妙丸。君たち両名、勝った方が相手の用意した条件を飲む…で、いいかな?」
「わたしが勝ったら、正邪にジャンピング土下座で打出の小槌を返してもらう」
「わたしが勝ったら、そこのちっこい奴は小槌を妖怪に奪われた大罪人として、小人族全員に全裸土下座だ」
「ふむ。互いに小槌と土下座をかけた真剣勝負というわけだ。ルールは…論じるだけ無駄か」
慧音は針妙丸が乗ったビルド依姫を見てため息をついた。
正邪も妹紅も文句を言わないということは、さすがに針妙丸が丸腰で対等に戦えるとは思っていないのだろう。
これは巫女が定めたスペルカード戦などではなく、人ならざる立会人の前で行われる闇の決闘だ。
針妙丸は恥じることなく輝夜から与えられた戦力を行使するし、正邪がどんな手を使おうとも文句を言うつもりはない。
しかし、正邪はビルド依姫の竹光を指差し、一つだけ要求を口にした。
「そっちは刀を持ってる。わたしも何か武器を使わせてほしい」
「…だ、そうだが?」
「別に構わないよ。正邪が好きな武器を使ったらいいわ」
追い込まれても手より先に口が出る正邪に、まともに武器が使えるなどとは思えない。
「後悔するなよ、ちっこいの。姐さん、何かいい武器はある?」
「そう言うと思った。天邪鬼、お前のために武器を用意しておいたよ」
妹紅はこれを待っていたと言わんばかりに、正邪に武器を手渡した。
それは切っ先も鋭い巨大な裁ち鋏…の、片割れ。
「何これ」
「片裁ち鋏に決まってるでしょ。あんたにピッタリの武器だ」
「…いらない」
正邪は心底嫌そうな顔で妹紅の申し出を断ると、少し考え…そして、にやりと笑った。
「わたしは、こいつを武器にして戦うよ。正々堂々、真剣勝負だ」
あろうことか、正邪は打出の小槌をその右手に構えた。
ややリーチは短いが、本来その形状は何かを打つためのもの。
小槌の魔力を使用できない正邪からすれば、その使い道は確かに理に適っていると言えた。
「その悪趣味な人形からあんたが出てきたところを、モグラ叩きみたいに潰してやる」
「真剣勝負、ね…どこまでわたしたち小人を馬鹿にしたら気が済むのかしら」
一族の至宝を敢えて武器に使う正邪の行為、それは挑発以外の何でもない。
戦い方云々ではなく、単純に正邪の性格をよく表した選択と言えた。
そんな正邪は小槌を無造作に右手に持ったまま、特に構えをとることなく、再び針妙丸の前に立った。
対する針妙丸――が乗ったビルド依姫は、相変わらず竹光を青眼に構えたままである。
「…白沢の先生、始めて」
「いいのか、あの小槌はあなたたち小人族の…というか何かあったらわたしの監督責任なんだけど」
「どうせ正邪には使いこなせない。倒した瞬間に取り上げてやるんだから」
挑発に腹が立ったこと以上に、正邪らしさを感じる選択だと思ったことで自然に笑みが浮かんだ。
そんな相手を、これから自分が叩きのめして小槌を取り返すのだ。そう思うとわくわくした。
「…そうか、わかった」
慧音は針妙丸と正邪の間の位置から一歩後ろに下がり、相撲の行司のように二人から距離をとった。
誰も、物を言わなかった。
竹林が夜風に葉を揺らす音だけが、針妙丸の耳に聞こえていた。
ようやく始まる。
あの逆さ城で止まっていた自分と正邪の時間が、ここから再び動き出すのだと、針妙丸は思った。
※ ※ ※
数秒間の沈黙の後で、慧音が口を開いた。
「では両名、いざ尋常に――」
「死にな、このエセ胎内仏め!!」
「そう来ると思ったわよ!!」
開始合図を待たず仕掛けてきた正邪の小槌を、針妙丸はビルド依姫の腕を上げ受け止めた。
太い竹を使用し作られたその腕は、勢いよく振り下ろされた小槌の一撃にも折れることはない。
ビルド依姫の右足が前蹴りを正邪の腹に叩き込み、相手を後方に弾き飛ばしつつ間合いを取った。
対する正邪は蹴りが当たる前に自ら後方に飛び、ダメージを殺しつつ着地をした。
互いの得物の間合いから外れていることを確認すると同時に、針妙丸は再び竹光を構え直した。
「慧音、もう始まってる!」
「見ればわかる。全く、お前たち二人に匹敵する悪餓鬼のようだな」
慧音はこうなっては審判役など無意味、とばかりに溜め息をつくと、影狼とわかさぎ姫に並んで腰を下ろした。
二人は一度慧音に視線を向けるが、すぐにその目は正邪と針妙丸が対峙する姿に釘付けになる。
「ははぁ。あんた成長したね。さすがに騙されないか」
「正邪の口から『正々堂々』とか、ズルしますって宣言して貰ってるようなもんよ!!」
永遠亭の兎たちを訓練相手に操縦技術を磨いた針妙丸にとって、
ビルド依姫はもはや人馬一体ならぬ人機一体、自由自在に動かせる己のもう一つの肉体であった。
輝夜が当初思っていた以上に、針妙丸は乗機を自分の戦力とするに至っていたのである。
「その二枚舌、こいつで三枚に下ろしてあげるんだから!!」
本来は殺傷能力を削ぐための材質で刀身を作られた竹光であったが、
輝夜お得意の竹細工により何やかんや刃先の厚みを単分子並に削られており、大抵のものを両断できる必殺武器だ。
「さ…三枚に…?や、やっぱり小人もお魚を食べるんだ…」
「落ち着いてわかさぎ、小人と人魚の体格差を考えて」
「ねえ妹紅、二枚舌を三枚に下ろしたら六枚になるのかしら?」
「あの天邪鬼以外にちょうど六人いるから、皆で分けられるな」
輝夜と妹紅はさらに慧音の隣に座り、五人がベンチのように並んで二人の対決を見守る形になった。
ちなみに五人が腰を下ろしているのは倒れた竹を数本並べ、重ねた即製の長椅子である。
わかさぎ姫はさすがに竹に腰を下ろすのは難しいのか、影狼にお姫様抱っこされたままであった。
針妙丸は勢いよくビルド依姫を突っ込ませ、竹光で切りかかる。
正邪はそれに対し――躊躇いなく、小槌でその斬撃を受けようとした。
竹光の刃はその防御ごと正邪を一刀両断…
「できるかーっ!!」
…しそうになったところを危うく寸止めし、針妙丸は刃を引いた。
奪われたどころか自ら小槌を破壊してしまっては、自分が一族の手により三枚に下ろされかねない。
そもそも魔力の回収期の不安定な小槌を壊すなど、何が起こるか分かったものではない。
「正邪、あんた小槌でガードするとか何考えてんの!?」
「何って?わたしは相手が武器で攻撃してきたから、自分の武器で受けただけよ」
「壊れたらどうするのよ!?」
「別にどうもしない。元々わたしの持ち物じゃないしね」
そう言って舌を出す正邪の顔を見れば、白々しい、などという言葉すら浮かんでこない。
針妙丸はぎり、と奥歯を軋らせた。
打出の小槌を文字通り盾に取られてしまったような構図である。
「…ていうか、武器に選ばれた時点で気づきなさいよ…」
「うるさい!輝夜こそ、何で教えてくれなかったの!?」
ひとまずビルド依姫は竹光の刃を返し、正邪に峰を向ける形をとった。
これはこれで、鍔迫り合いになれば自身が単分子カッターと化した刃に切断されかねない。
「さあ、今度はこっちから行くよ!!」
正邪はこの状況を有利と見るや、勢いづいて小槌で打ち掛かってきた。
小槌はリーチが短いがその分軽く、正邪の非力な腕でも矢継ぎ早の攻撃を可能としていた。
ビルド依姫の竹光も軽さが強みではあるが、元ネタよろしく長い刀身により取り回しが悪く、
小柄ですばしこい正邪に懐に入られると、針妙丸は一方的に防戦を強いられることになった。
「ほらほらどうしたぁ!?勢いがよかったのは最初だけかい!?」
「くそっ…輝夜、こいつ他に武器とかないの!?」
正邪に小槌を武器として使わせてしまったこと、
そして今までの訓練で、長刀を使った戦法しか練習してこなかったことは、
戦闘経験の少なさから来る油断か、それとも小人サイズの脳味噌が招いた浅慮か。
「ていうかそれも今まで教えてくれなかったの!?ねえ輝夜!!」
「いや、その…ちゃんと理由があるのよ」
針妙丸の怒りももっともである。
敵陣の妹紅も含めた四人も、輝夜に非難の視線を向けていた。
輝夜はばつが悪そうに頭を掻くと、その場で立ち上がりこう宣言した。
「さっきの『他に武器はないの!?』っていう台詞を、一度パイロットに言わせたかった!!」
「そんな理由で―!?」
そう叫んだ針妙丸は一瞬の隙を突かれ、操縦席のハッチ部分に小槌の一撃を食らう。
頑丈なビルド依姫の装甲は簡単には壊れないが、その衝撃により針妙丸の身体が大きく揺さぶられる。
視界が揺れ、背中は操縦席のシートにしたたかに打ち付けられる。一瞬呼吸が止まった。
「うぐっ…!!」
さらに正邪はその隙を逃さず、動きを止めたビルド依姫の手元を打ち、竹光を弾き飛ばした。
呼吸が整わないまま針妙丸はなんとか操縦桿を操作し、正邪から距離をとる。
既に竹光は竹林の暗闇に消え、簡単に手元に戻せそうにはなかった。
「ほら輝夜、武器落としちゃったぞ。早く教えてあげたら」
「ふっふっふ…当然。メカニックの夢を叶えてくれた針妙丸ちゃんにご褒美よ」
小槌の一撃をなんとか防御しつつ、ビルド依姫は正邪の追撃から逃げ回っていた。
動き自体が鈍っていないのは訓練の賜物だが、攻撃の手が見いだせない針妙丸は焦る。
「いいから、勿体付けてないで早く教えなさい!!」
輝夜は針妙丸の叫びを聞いて満足げに頷くと、満面の笑みを浮かべて言った。
「…足元、右側のボタンを押しなさい」
「なんでそんな押しにくい場所に作るかなぁ!!」
文句を言いながらも、針妙丸はどうにか足元に手を伸ばしボタンを押した。
「間違って押したら困るからよ、あなたが」
輝夜の楽しそうな声が聞こえた。
その瞬間、操縦席の周囲が一瞬暗転し――針妙丸の意識は、闇に飲まれた。
※ ※ ※
正邪は針妙丸が持ってきたという竹細工の人形の予想外の性能に驚いていたが、
それ以上に、自分自身の身体の軽さ、技の速さに感動を覚えていた。
あの地獄の鍛錬は、単に自分の身柄を拘束したドSな不死生物の暇潰しかと思ったが、
実際に自身の俊敏さ、体力ともに短期間で大きく強化されており、
これまで武器として使ったことがなかった小槌を操り、針妙丸のビルド依姫を追い詰めていった。
こちらの意図にも気づかず小槌の使用を認めた針妙丸の頭の悪さは相変わらずだが、
相手の戦力は決して低くはない。妹紅と同じく長い年月を生きる得体の知れない不死生物、
輝夜の入れ知恵と謎の技術による武装(特に異常な切れ味の竹光)は脅威であった。
それでも小槌を攻撃と防御に使う作戦は思い通りに運び、
針妙丸をこの手で追い詰めていく快感を十分に味わうことができた。
「よお、小人の姫さん…もう終わりか?」
武器を失い逃げ回った挙句、ついには動きを止めた竹人形に向かって、正邪は声をかけた。
竹製とは到底思えない強度を誇るその体には大きなダメージを与えられないでいたが、
戦意を失ったところに駄目押しの一撃をくれてやれば、矮小な箱入り娘の針妙丸は必ず音を上げる。
先ほどの正邪の挑発にも返事をしなかったことから、もう彼女には最初の勢いはないはずであった。
「ていうかさ、あんた勢い込んで来たわりに、特になにもしてないよね?」
言いながら、正邪の胸の内には苛立ちにも似た感情が湧き上がってきた。
自分を騙し、見捨て、さらに一族の宝までも奪おうとした悪党に対し、
この程度の劣勢で白旗を上げてしまうのが、英雄・一寸法師の末裔たる彼女の限界なのか。
決戦の開始前、針妙丸が自分にかけた言葉と声には、確かに今までとは違う強さがあった。
精神的に成長した――それが何によるものなのかは、正邪にはわからない。
永遠亭にいたという日々の中で彼女に起きた変化か、
あるいは自分と共に起こした下剋上と、そこで起こった戦いの経験によるものか。
どちらにせよ、正邪にとってそんな相手を再びドン底へ突き落とし、
絶望に泣き崩れる表情を見るのは至上の喜びでしかなかった。
時間をかけて騙し、痛ぶり、敗北と絶望を味あわせる。
そうして針妙丸が涙を流して悔しがる顔を、自分の目で拝んでやりたかった。
かつての自分にはそれをやるだけの力量はなかったが、今の針妙丸に小槌はなく、
正邪自身は妹紅の鍛錬により妖怪としての力を明らかに増している。
「正直、がっかりなんだけど」
下剋上が失敗に終わり、針妙丸が霊夢に捕獲されたのを見て、正邪は何も言わずに姿を消した。
それからずっと、針妙丸のことが頭を離れなかった。
彼女を騙した上に見捨てたことを、怒り、嘆き、恨んで欲しかった。
罵倒の言葉をぶつけ、嫌悪を露わにした顔で自分を追いかけてきて欲しかった。
だが針妙丸は博麗神社にとらわれ、弱い自分は巫女に退治されることを恐れ、近づくこともできない。
神社の近くまで行っては引き返し、自分は何をやっているんだと苛立つ日々であった。
そんなある日、針妙丸が小槌を持って神社を脱走したことを知り、正邪は大喜びで針妙丸を探した。
これでようやく、誰にも邪魔されることなく、針妙丸に真正面から嫌われることができる。
どんな顔で煽ってやろう。どんな言葉で嘲ってやろう。
針妙丸はそんな自分にどれほどの怒りをぶつけてくるだろう?もしかして刺されるか?
そんな期待に胸を膨らませながら見つけた針妙丸は、今度は得体の知れない人間のような連中に捕まっていた。
邪魔をするな、とばかりに割り込んだ正邪に対し、針妙丸はあろうことか感謝の言葉をかけた。
針妙丸は正邪のことをまだ味方と思っており、自分を助けに来てくれたと本気で信じていた。
どこまでも純粋でお人好しなお姫様。
自分ような下衆で卑劣な天邪鬼に、なぜこんなにまで好意を持っていられるのか?
正邪にはまずそれが理解できず、次いで期待していた悪意を受けることができなかったことで、
混乱と困惑、落胆が入り混じった感情のまま、針妙丸を再び突き放した。
嫌ってくれないなら、改めて徹底的に嫌われに行ってやろう。
そうして小槌まで奪って去ろうとした正邪に、針妙丸は怒りや罵倒でなく、ただひたすら悲しい目を向けた。
その目は正邪が期待した悪意でも絶望でもなく、歯痒いだけのものだった。
正邪には針妙丸の視線を真正面から受け続けることができず、輝夜に見逃されるままその場を去った。
自分が何をどうしたいのか、正邪にはわからなくなっていた。
それから奪った小槌を使うこともできないまま彷徨い、自棄になって小槌を手放そうとしたが、
そこを妹紅に捕まり、永遠亭で思いがけず針妙丸と再会した。
そして妹紅と輝夜の確執に巻き込まれるように、針妙丸と対決する機会を得た。
今度こそ、針妙丸の悪意を全身で真正面から味わうことができる。
「正邪、さっさととどめを刺してあげな」
「…わかってますよ」
そうして始まったこの対決は、正邪にとって本当に幸せな瞬間だった。
針妙丸は強気で自分を挑発し、殺傷能力たっぷりの武器を使い、本気で切りかかってきた。
その敵意、悪意、害意、殺意が、気持よくてしかたなかった。
もっと全力で、自分を叩き潰しにかかってほしかった。
そんな相手をさらに騙し、責め、苦痛を与えることもまた、楽しかった。
針妙丸はさらに自分に怒り、反撃をしてくる。
こうして真正面から戦うことで、どれだけ自分を嫌ってくれるだろう?
この小さくて、馬鹿で、単細胞で、お人好しで――最高に可愛いお姫様は。
だから、この対決がこんなにあっさりと終わってしまうのは、正邪にとってひどく寂しいことであった。
せめて針妙丸が、悔し涙を溜めた目で自分を睨んでくれていることを願い、
正邪はビルド依姫の操縦席のハッチに手をかけた。
「さよなら、針妙丸」
大好きだったよ、と声には出さず、口の動きだけで言った。
「…モード反転…」
輝夜が横で何かを言っていた。このお姫様にもがっかりだ。
自分の満足のためだけに針妙丸を利用し振り回す、そんな非道な輩は自分だけでいいのだ。
正邪はこの戦いを演出してくれたことだけは輝夜に感謝していたが、こんな終わりは望んでいない。
なぜ、もっと本気で自分を殺しにかかれる武器を、針妙丸に与えてくれなかったのか。
「…っ!?正邪、離れて!!」
「え?」
妹紅が何かに気付き、叫んだ。
「…裏コード、ザ・ビースト!!」
輝夜がそう叫んだ瞬間、ビルド依姫が再び動き出した。
正邪はそれを認識するとすぐさま、妹紅の指示通りに大きく距離をとる。
「嘘!?こいつ、まだ動けるの?!」
先ほどまで正邪がいた場所を、ビルド依姫の腕が空振りしていた。
動くのが一瞬でも遅れていれば、そのまま頭を飛ばされていそうな勢いであった。
「あら、今の一撃を躱すのねえ」
竹人形の作り主は、驚いた顔で正邪を見ていた。
ビルド依姫は先ほどまでの剣士のような姿勢ではなく、身を低くし、地面に手をついた獣のような構え。
背中からは何本もの竹筒が飛び出し、さらに人形の顔は口が大きく裂け、鋭い牙がのぞいている。
そこに集まった妖怪連中より、よほど化け物じみた外見になっていた。
その外見から想像される以上の敏捷性で迫るビルド依姫の攻撃に、今度は正邪が逃げ回ることしかできない。
「ねえ影狼ちゃん、機動戦士だと思ってた竹人形が、汎用人型決戦兵器になってるよ」
「モデルになった依姫って子、どんな恐い妖怪なのかしら…」
おそらくモデルの本人も、地上で自分への風評被害がこんな形で広まっているとは思うまい。
「おい輝夜!なんだこれ、本当に人形か!?」
「お爺ちゃんの竹細工に不可能はないのよ!」
その万能性は、もはや隙間妖怪の境界操作や、八意先生の薬、
河童の科学力といった二次創作向け便利ツールに匹敵する。
魔法の森の人形師がここに居たら、間違いなく輝夜にその技術の教えを請うだろう。
最もこのおぞましい変貌は、彼女のセンスが許すところではないかもしれないが…。
「汚染区域突入もいとわないとはな…しかし、中のパイロットは無事なのか?」
慧音も、先ほどまでとはまるで動きが違う竹人形に疑惑の目を向けた。
確かに、再び動き始めてから針妙丸は何も言っていない。
もはやなんでもありなこの人形、勝手に動いていても誰も驚かないだろう。
「勿論よ。針妙丸、顔を見せてあげなさい」
四足に近い状態だったビルド依姫が動きを止め、二本の足で立った。
それでもその背筋が獣めいた猫背になっているあたり、先ほどまでとは明らかに骨格(?)が異なっている。
胸元のハッチが開き、操縦席の針妙丸が顔を出した。
「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬も…あれ!(迫真)」
「いや誰だよお前」
なぜか針妙丸までも獣のようにギラついた表情で歯を剥き出している。
もはや別人のような迫力があったが、針妙丸が戦意を取り戻していることに正邪は安堵した。
「おい輝夜、お前変な薬でも盛っただろ。なんだよ(迫真)って」
「ビーストモードはミステリウム粒子と竹の成分が何やかんや作用してビルド依姫と、
そのパイロットの戦闘能力、機動性、そして精神的なテンションを大幅に上げるの。
それこそビースト…つまり、野獣のようにね。文字で表すと(迫真)が語尾についちゃうくらい」
妹紅は苛立った表情でその説明を聞いていた。
「だからその『何やかんや』って何なんだよ」
「何やかんやは――」
詰め寄られた輝夜は、おもむろにその場から立ち上がった。
一同の視線が自分に集まっていることを確認し、小さく息を吸って、言った。
妹紅に慧音、影狼とわかさぎ姫、戦いの手を止めた正邪と針妙丸も息を呑んで次の言葉を待つ。
「――何やかんやよ!」
「皆、喉が乾かないか?暖かいお茶を持ってきたぞ」
「さすが慧音、気が利くわね」
「ありがとうございます~」
影狼とわかさぎ姫は、慧音が水筒から注いだお茶を受け取る。
妹紅は忌々しげに輝夜とビルド依姫を見比べ、言った。
「おい正邪、とにかく何でもいいからその人形早くぶっ壊せ」
「言われなくても!」
正邪は針妙丸を睨みつけ、再び小槌を構えた。
対する針妙丸もギラついて血走った目に怒りをたたえ、正邪を睨み返した。
「正邪、小槌を返してもらうわよ!!(迫真)」
「はっ、やれるもんならやってみな!」
ビルド依姫の胸元のハッチが閉じ、人形の目に毒々しい眼光がともった。
まだ戦える。まだ針妙丸は、自分を打ち負かそうと向かって来てくれる。こんなに嬉しいことはなかった。
戦闘再開。
ビルド依姫の大きく開いた口に向かって、正邪は小槌を振り下ろした。
※ ※ ※
「その顔を剥いでやる、正邪!!(迫真)」
爪が長く、鋭く伸びたビルド依姫の手が、正邪の顔に伸びる。
正邪は小槌を顔の前にかざし、その一撃を受け止めた。
「今度はトランスフォーマーかよ、何でもアリだな!!」
針妙丸側は武器を失ったことで、誤って小槌を壊す危険が減り、攻撃に躊躇がなくなった。
一方正邪は竹光を持たない相手の懐に入りやすくなり、至近距離で小槌を打ち込めるチャンスが増えた。
小槌には細かい傷がいくつかできてはいたが、大きな破損はない。さすが鬼の宝だ。
「…輝夜。依姫って奴は本当にあんな妖怪なの?」
「うーん、あんまり話したことはないし、実際はよく知らないんだけど。
永琳が言うには神が憑いてる、って話だし、弾幕をバリバリ食べるとかの情報もあって…」
「何だそれ」
「神憑き→かみつき→噛み付き、って感じで、獣みたいに弾幕を食べる生き物なのかと」
「どこの霊長兵器だよ…」
竹人形のモデルを見たことがない一同の中では「依姫」なる人物が、
ニンゲンヤメマスカの問いにYESで答えてしまった系のキャラを確立しつつあった。
さらにこれまでに見た色々な要素も混じっており、誰も彼女が妖怪であると疑わない。
そして、目の前で繰り広げられる戦いは一進一退だったが、
スピードとパワー、そしてテンションを上げた針妙丸がやや優勢に見えた。
「まあ、あのビーストモードにも弱点はあってね」
「弱点?」
息をつかせぬ攻撃に疲れを見せた正邪が、バランスを崩し転んだ。
尻餅をついた正邪に、ビルド依姫が勢いよく飛び掛かる。
起き上がろうとした両手を押さえつけられ、正邪は背中、次いで後頭部を地面に打ち付けた。
「捕まえた!!(迫真)」
ビルド依姫の身体を通じ、針妙丸の嬉しそうな声が響く。
「くそっ、放せこら!!」
「暴れないで…暴れないでよ、正邪!(迫真)」
正邪を組み敷いた状態のまま、針妙丸は操縦席のハッチを開けた。
「ここで降参して小槌を返せば、痛い目を見なくて済むわよ?(迫真)」
「はっ、この程度で勝ったつもりか?そっちも手を動かせないだろう」
「それはあくまで、人形の手よ!(迫真)」
針妙丸はそう言うと、操縦席を立ち、正邪の胸元に降り立った。
操縦者を失ったビルド依姫の腕から力が抜けるが、正邪は起き上がることができない。
既に、正邪の喉笛に、針妙丸が抜いた針の剣の切っ先が向けられていたのである。
「勝負あったね、正邪」
ビルド依姫を降りたことで野獣系のテンションが抜けたのか、針妙丸はいつもの口調と表情で言った。
一応審判役の慧音が針妙丸の勝利を認めたのか、席を立ちあがろうとした、その瞬間。
ビルド依姫の背中――正確にはその背中から飛び出していた数本の竹筒が、爆発した。
「何だっ?!」
中腰になったままの慧音の、驚きの声が響いた。
文字通り爆竹が炸裂するような音が響き、次いでビルド依姫の四肢と胴体が誘爆するように爆ぜた。
「おい、爆発したぞ?!」
「…あーあ、やっぱりか」
正邪は、最初に爆発した箇所が背中だったことで、爆発に巻き込まれる前にビルド依姫の身体の下から抜け出せた。
急いで地面を転がり、なんとか膝立ちになったのと同時に、次の爆発で胴体が派手に壊れた。
針妙丸の小さな身体は最初の爆発で、どこかに吹き飛ばされていた。
「針妙丸…」
正邪は針妙丸の姿を探し、周囲を見回す。
大破したビルド依姫の付近にはその姿が見えない。
「お、おい、針妙丸!!」
先ほどまで戦っていたことも忘れ、正邪は不安げな声で叫んだ。
こんな形で決着がつくことなど、自分は望んでいない。
あのまま針妙丸に針の剣を刺され、死んでしまっていた方がまだ、よかった。
「やっぱりって、何か知ってたのか?」
「だから弱点よ、弱点」
輝夜は特に焦ることもなく、自分が作った竹人形の残骸を眺めていた。
「ビーストモードはミステリウム粒子を過熱させてものすごい出力を出してるの。
二、三分もしたら竹のボディが耐えられる限界を超えて引火しちゃうのよね」
「…よくわかんないけど、あの手のパワーアップにありがちなオーバーヒートだな」
「ま、そんな感じよ」
「お前たち、そんな話をしている場合か!!」
逆に焦っているのは慧音で、正邪と一緒に針妙丸を必死に探していた。
「こけしの姫様、無事なら返事しなさーい」
「だ、大丈夫ですか~?」
影狼とわかさぎ姫も、不安そうに辺りを見回し始めている。
「おいジブリ姫!お前の人形のせいだろ!なんで探さないんだ!!」
「あなたこそ戦ってた相手が吹っ飛んだのに、何を必死に探してるの?天邪鬼っておかしいわねえ」
輝夜はビルド依姫の傍に近づくと、その残骸の一つを手に取る。
「爆竹は音の割に大した爆発じゃないし、あの子もこの程度で死んだりしないわよ」
「死…!!」
その言葉に、正邪は顔から血の気が引くのを感じた。
「そんな顔しないの。ビルド依姫は壊れ、あなたは五体満足で立ってる。勝ったんだから喜べば?」
晴れて小槌もあなたのものよ、と輝夜は笑った。
正邪は唇を噛み、輝夜を睨み付けるが――小槌、と言われ、自分が先ほどまで持っていた得物を思い出した。
今の正邪の両手には何もない。小槌は先ほどの爆発を逃れる際に手放し、そのままになっていた。
だが、ビルド依姫の残骸の周りには、小槌は見当たらない。どこかに吹き飛ばされたか?
再び、正邪は泣きそうな顔で周囲を見回し始める。
「…正邪。小槌を探してるの?」
その時、竹林の闇から針妙丸の声が響いた。
全員が一斉に、その声をした方を振り向く。
針妙丸がそこから現れることを期待し、全員視線を地面に集中させた。
「針妙丸!よかった、無事で…え?」
だが、そこに見えたのは小人の全身像ではなく、人間大の素足だけであった。
そこから視線を上に移すと――桃色の着物の裾、帯、襟元――そして、針妙丸の顔があった。
「魔力の回収期でも、これくらいは使えるのね」
正邪とほぼ同じ背丈になった針妙丸が、打出の小槌を手に、ゆっくりと姿を現した。
※ ※ ※
小槌が文字通り手元に戻ってきても、針妙丸はそれで勝負を終わらせる気はなかった。
先ほど一度は追い詰めた正邪は武器を失ったものの五体満足で立っており、
逆にビルド依姫を失った針妙丸自身も、小槌の力で巨大化し、こうして正邪の前に立っている。
まだ勝負は終わっていないのだ。
「正邪」
あの下剋上異変の時と同じように、正邪と同じ目線で向かい合うことができた。
これでようやく、本当に、あの時止まった時間が動き出した。
「言ってないぞ」
「え?」
「さっき、無事でよかったとか…言ったのは。あんたに言ったんじゃない。小槌だ」
正邪はそう言って、目元を何度もゴシゴシと擦っていた。
「そうなの?わたしは、正邪が無事で良かったって思ってるよ」
そう言って、正邪に微笑みかけてみた。
性格上、正邪はこういうことを言うとひどく気分を悪くするのだ。
案の定、正邪は胸糞悪い、といった感じの表情で舌を出してきた。
「ばーか、わたしは姐さんに鍛えてもらったんだ。小人じゃあるまいし、あの程度で死ぬか」
「だよね。でも本当に無事で良かった。だって…」
針妙丸は針の剣を抜き、構えた。
あの竹光ほどの切れ味はないが、この大きさでの刺突は殺傷力十分。
妖怪退治にはうってつけな、先祖伝来の輝く針の剣である。
「この手で正邪を倒さないと、勝った気になれないし!!」
「そっち?そっちなら…嬉しいね!!」
武器がない正邪が、今度は己の能力を使うべく、妖力を全身に滾らせるのが見えた。
そうだ、英雄の妖怪退治はこうでなくてはならない。
正邪の能力で二人がいる空間の天地がひっくり返り、全身が頭上からの重力に引っ張られるのを感じた。
逆さまの笑みを満面に浮かべた正邪に向け、針妙丸は何も躊躇うことなく跳躍した。
二人の対決は、夜が明けるまで続いた。
どちらから言い出すわけでもなく、互いにスペルカードを駆使しての弾幕戦となり、
互いに魔力を使い果たせば、今度は武器を使って何度も打ち合った。
正邪は針妙丸が落としたビルド依姫の竹光を見つけ、それを使った。
妹紅の鍛錬に剣術の稽古までは含まれていなかったのか、
せっかく切れ味抜群の竹光も、その威力をいまいち発揮できなかった。
針妙丸は針妙丸で、自分で剣をとっての戦いは経験が浅く、
一寸法師の末裔とは到底思えない、拙い剣捌きで、正邪とチャンバラごっこのような立ち合いを演じた。
輝夜と妹紅は時折やじを飛ばしながら、慧音と影狼は微笑ましそうに、
そしてわかさぎ姫は痛そうな場面がある度に目をつぶりながら、ずっと二人の戦いを見守っていた。
針妙丸は何度も、正邪に対して抱えていた思いを叫び、吐き出した。
――仲間だと思っていたのに。
――正邪を、信じていたのに。
――どうして助けてくれなかったの。
――所詮一人じゃ何もできない、人間より弱い妖怪の癖に。
――許さない。
――卑怯者。
――嘘吐き。
――大嫌い。
もう自分のような犠牲者が出ないよう、ここで正邪を倒す。
卑怯卑劣卑屈な悪い天邪鬼をやっつけて、本当の英雄になる。
そう宣言し、針妙丸は無駄な力が入りまくった、あまり重くない一撃を正邪に何度も見舞った。
恨み言を吐き続けながらも、針妙丸は自分の胸のつかえが一言ごとに取れていくのを感じた。
この思いを全て吐き出してしまえば、自分は正邪をどんな風に思うのだろう?
自分の心の行く末を、針妙丸は見てみたかった。
一方の正邪は、針妙丸の罵倒を耳に心地よく感じながら、幾度となく嘲笑と挑発を繰り返した。
――天邪鬼を仲間と思うなんて、正気か。
――小槌が使えれば、お前なんて最初から必要なかった。
――身体が大きくなっても、脳味噌の大きさは変わらないんだな。
――騙される奴が悪いんだよ。
――怒ったって、怖くない。
――単細胞。
――世間知らず。
――虫ケラ。
ここでわたしに負けて、小槌を奪われて、さらに恥の上塗りをするがいい。
小槌がなければ、お前らの一族を丸ごと皆殺しにすることだってできる。
正邪のその言葉に激昂した針妙丸の目は、ずっとぶれることなく、正邪を見ていた。
もっと睨んで欲しい。
その美しい瞳を、もっともっと、自分への怒りと恨みで光らせてほしい。
いつまでもこうして、針妙丸に敵意を向けられていたい。
四六時中、息をする暇もないほど、その剣で自分の心臓を狙い続けてほしい。
そのために、針妙丸が困ることだったら、何だってしてやろう。
いつでも、どんな時でも。彼女一人、自分を嫌ってくれれば、それで生きていける気がした。
「大好きだよ、針妙丸」
「わたしは嫌い!」
今度は声に出して告げた想いは、全くの躊躇もない言葉の一撃で斬って捨てられた。
どこかでそんなやりとりを聞いたことがある気がするが、そんなことはどうでもよかった。
大好きな相手に真正面から嫌いと言われた。嬉しくて、涙が溢れてくる。
涙で滲んだ視界が正邪に隙を作り、針妙丸の剣が竹光を正邪の手から叩き落とした。
得たり、と笑った針妙丸にも油断が生まれたか、正邪の蹴り上げを躱せず、その手から剣を飛ばされる。
互いに得物がなくなった。
針妙丸は正邪のように小槌を武器にすることはせず――人など殴ったことがないような細腕で、正邪に殴り掛かってきた。
正邪もそれに応えた。体力面では妹紅に鍛えられているとはいえ、正邪にも元々、武術の心得はない。
まして少女の身体では、妖力がない状態の徒手空拳で発揮できる戦闘力など、針妙丸と大差ないのであった。
チャンバラごっこから、さらに子どもの喧嘩レベルになった戦いだが、当の二人は大真面目に決闘の続きをしていた。
「おーい二人とも、いい加減に仲直りしないか」
「慧音、先生の顔になってるよ…」
妹紅は、あんな取っ組み合いを普段から見慣れているであろう友人に苦笑した。
「案外わたしたちの殺し合いも、端から見たらあんな感じなのかもね」
輝夜は相変わらず楽しそうに二人の戦いを眺めていた。
その横で影狼がぶんぶんと首を振っている。
「あなたたちのは戦い方がグロ過ぎてR指定がかかるでしょ」
「心外ね。サービスシーンが多いと言ってもらえないかしら」
「内臓や骨がチラリするシーンのどこがサービスよ!」
人食い狼の妖怪とは思えない影狼の発言に、わかさぎ姫がくすくすと笑う。
おっとりした臆病な人魚姫は、案外ホラーやグロは平気なタイプのようだ。
「…輝夜。あの二人、ここで決着がつくと思う?」
「どうかしら。それこそ本当に、会う度殺し合う仲になっちゃうかもね」
「お前たちみたいな手合いが増えるのか?里の側としては勘弁願いたいな」
慧音は溜め息をつく。
「しかしまあ、わたしも十中八九そうなる気がする」
そう言う彼女の目の前で、針妙丸と正邪はお互いの髪を引っ張りあっていた。
正邪は瞼の上が腫れ、針妙丸は唇が切れて血がにじんでいるのがわかる。
「ああも仲良く、楽しそうに喧嘩をされてはね」
そう言って、慧音は溜め息をもう一つついた。
輝夜と妹紅は顔を見合わせ、少しの間のあと、同時に吹き出した。
「あはは、慧音何言ってんの?そんな喧嘩、あるわけないじゃん」
「そうよねえ。仲良く喧嘩なんて、どこの猫と鼠かしら」
二人はとても、楽しそうだった。
「…そういや、なんでわたしら、あいつらの戦いのセッティングなんてしたんだっけ?」
「さあ?何だったかしら。釣り対決の時にあの子たちが出てきて…そうだ、お魚!!」
「ひいっ!?」
「ちょっと、思い出したようにわかさぎ姫を見て涎たらさないでよ!!」
影狼が慌ててわかさぎ姫をかばい、輝夜たちに背を向ける。
二人の視線の先では、もはや立っているのもやっとという二人が、力の入らない腕で平手打ちの応酬をしていた。
その痛ましい、しかし満ち足りた二人の姿を見て――影狼は抱え上げたわかさぎ姫に、視線を落とした。
「…ねえ、わかさぎ」
「何?」
「…一度、本気で喧嘩とか…してみる?」
わかさぎ姫は一瞬、影狼が何を言っているかわからない、という表情を見せ、すぐにびくっと身を震わせた。
「えっ?!ど、どうして…?か、影狼ちゃん、わたし何か、悪いこと…した?」
既に涙目になり、自分の腕の中で不安げに震えるわかさぎ姫を見て、影狼は苦笑した。
「冗談よ」
そう言って、影狼はわかさぎ姫を抱く腕に力を込めた。
腕の中の震えが止まるまで、ずっとそうしていた。
既に体力が尽き、意地を張り合うように立っていた針妙丸と正邪が、ついに倒れた。
最後の平手打ちが互いの頬に同時に入った瞬間、全く同じタイミングで、折り重なるようにその場に崩れ落ちた。
「…三…六…十」
慧音があくびを噛み殺しながら十数え、頭上で両の手を交差させた。
二人は既に意識を失い、ぴくりとも動かない。
「はーい、ダブルノックダウン。終わり終わり―」
そう言う慧音の頭上に、竹と竹の隙間を縫って朝の日差しが降り注いでいた。
影狼があくびをすると、わかさぎ姫、輝夜、妹紅…という順番で、それが伝染していった。
「これ、小槌はどうなるのかしら?」
「わたしが預かって霊夢に返しておく。彼女たちは二人とも勝てなかった、文句は言わせないよ」
針妙丸の帯に刺された小槌を、慧音が手に取った。
その場の誰も、異を唱えることはなかった。
「ここに放っておくと狼に食われる。ひとまず永遠亭に運んでくれるか」
「食べないわよ!!」
「影狼ちゃん、そこは別に否定しなくてもいいんじゃ…妖怪的に考えて」
慧音の提案に、屋敷の主も首肯した。
「それがいいわね。じゃあ妹紅、よろしく」
「阿呆、永遠亭ならお前が連れて行け。わたしは帰る」
「お・ね・が・い。家で朝御飯ご馳走するから…皆もどう?お腹、空いたでしょう?」
またしても影狼から、お腹が鳴る音が一同の間に伝染していく。今度は慧音も含めて、だ。
ひとまず全員、輝夜の提案を断る雰囲気ではなさそうであった。
「…ま、竹林の行き倒れを永遠亭に運ぶのは、いつもやってるからな」
「こちらの天邪鬼はわたしが持とう。輝夜と妹紅は二人で針妙丸を運べ」
「「えー」」
唇を尖らせる輝夜と妹紅を横目に、影狼がわかさぎ姫を抱え上げた。
「わたしはわかさぎ姫を抱く仕事があるから、そっちでよろしくね」
「あら、抱く仕事ですってよ妹紅さん」
「朝からお盛んねえ」
「だ、抱くっていうのはそういう意味じゃない!!」
※ ※ ※
結局、針妙丸と正邪は気を失ったまま、仲良く永遠亭まで運ばれ、
目が覚めるのを待って全身の生傷の治療を受けることとなった。
昼過ぎ、針妙丸は先に目を覚ましたため、横の布団で寝ていた正邪を残して部屋を出た。
輝夜と共に過ごしていたのとは別の部屋だったが、
廊下にいた兎がすぐに永琳に知らせ、診察室で手当てを受けた。
妹紅たちは既に朝食を食べ終え、午前中の内に屋敷を出ていた。
小槌がないことに気付き、慌てて輝夜にその行く末を聞いたが、時すでに遅し。
体格が人間大のままで小槌を回収されたのは幸いというべきか。
しばらく博麗神社に帰らなくても、虫や獣を恐れる必要はないだろう。
用意されていた遅い朝食を食べていると、少し遅れて正邪が入ってきた。
輝夜曰く、手当てを受けず屋敷を抜け出そうとした所を捕縛し、
無理矢理治療を受けさせ、ついでに食事もしていくよう「お誘い」をしたという。
正邪は部屋に入り、針妙丸がいることに気付くと一瞬肩を震わせたが、
何も言わずお膳の前に座り、向かい合う形で食事を始めた。
針妙丸は何を言うべきか、あれこれと考えたが…昨日の戦いの最中の舌戦が嘘のように、言葉が出てこない。
そうしている間に正邪の食器からは料理がどんどん消えていき、針妙丸は焦った。
焦った挙句、上ずった声で、ひとまず正邪の名前を呼んだ。
「せ、正邪!!」
正邪はまたしても肩をびくっ、と震わせ、
「…何」
と、不機嫌そうな声で答えた。
針妙丸はまた言葉を探して少し迷った後、相変わらず上ずった声で言った。
「今度はわたしが勝つから!絶対、やっつけてやるんだから!!」
「…今度…?」
「そ、そうだよ!今度!正邪がまた悪いことをしたら、わたしが必ず止めに行くからね!!」
今度、また、そういった言葉を針妙丸が口にする度に、正邪の目が大きく見開かれていった。
「あ…あんたごときに、そんなこと、できるわけないだろうが!!ばーか!!」
「できるもん!!」
「小槌もまた取られちゃったんだってぇ?そんな状態のあんたに何ができる!!」
正邪の顔に、いつもの下衆な笑みが浮かんでいた。
初めて出会った頃から何度も見た、針妙丸が大嫌いな、いつもの正邪の顔だった。
「正邪みたいな弱い妖怪、大きくなったわたしなら、小槌なしでも余裕だし!」
「おーおー大した自信だな。…あれ、太陽が黄色いよ?」
「え、うそ?」
「もーらいっ」
正邪が箸を伸ばし、針妙丸の膳の上から卵焼きを奪った。
そのまま赤い唇と舌を使い、卵焼きを一口に飲み込む。
「あーっ!!わたしの卵焼き!!」
「また騙されてやんの!!あんた、本当に単細胞だねー!!」
「うぐぐぐぐ…正邪ーっ!!!」
針妙丸が立ち上がり掴みかかろうとするが、正邪は咄嗟にその場を逃げ出した。
そのまま部屋を飛び出し、正邪は永遠亭の廊下を走って逃げる。
「こらーっ、待ちなさい正邪ー!!」
「やーだーよ!!悔しかったらもうちょい利口になんな、お姫様!!」
やがて、正邪は庭に面した縁側からふわりと飛び上がり、宙に浮かんだ。
「じゃあね!今日はこの辺で勘弁しといてやるよ!!」
「降りてきなさい、この馬鹿ーっ!!」
「これでわたしに勝ったと思うなよ!また会おう!覚えときやがれー!!」
そう言って、正邪は空の彼方へと飛び去って行った。
あの勝負は引き分け、元より針妙丸は勝ったとは思っていない。
だが、正邪が残したベタベタな悪役の捨て台詞…それはいずれも最終回ではなく、
次の回がある、また何か事件を起こすことを前提に、叫ばれるものだった。
「…今度こそ、絶対やっつけてやるんだから」
正邪が去った空を見つめる針妙丸の顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「…またね、正邪」
少女の口元から細い顎にかけて、赤い糸が伝っていた。
糸は顎の先で一度止まり、その先端から赤い滴を一つ、零した。
滴は二つ、三つと続けて零れ、地面に赤黒い染みを作る。
血であった。
傷ついた少女の口角から流れた血は糸のように顔を伝い、やがて顎先から垂れて地面に落ちる。
その痛々しい光景を、別の二人の少女が見下ろしていた。
「わたしの、勝ちね」
黒い髪の少女は満足げな笑みを浮かべてそう言った。
右手に持った釣竿の先から伸びた糸は、地面にへたり込み血を流す少女の口元に伸びている。
黒髪の少女は、赤い血の少女を眼前の湖から釣り上げた張本人であった。
「そもそもこれはカウント対象になるのか?」
もう一人、青白い髪の少女は訝しげな顔をして尋ねた。
こちらは釣竿を湖面に向けており、未だ釣りの途中であることがわかる。
首だけを地面に向け、黒髪の少女が釣った獲物に目を向けていた。
「少なくとも半分はね。でも、それで十分でしょう?」
「確かに、半分だけでも今日の獲物で一番大きいが」
「だったらわたしの勝ちよ。妹紅はもう、帰らなければならないでしょう?」
黒髪の少女はくすくすと笑った。
妹紅と呼ばれた青白い髪の少女は、小さくため息をつくと釣竿のリールを巻き始めた。
このリールという道具を手に入れたおかげで、従来より深い場所の魚も釣れるようになった。
外の世界の道具も馬鹿にならないものだと、妹紅は思う。
しかし今日に限っては、その文明の利器をもってしても、
もう何回目になるかわからない釣り対決に勝利することはできなかった。
満月の夜。
いつの頃からか、妹紅は目の前の黒髪の少女と、
こうして夜釣りで勝負をするのが習慣になっていたのであった。
「またお前の所の薬師が変な薬を撒いたのか」
「さすがの永琳も人魚を作り出すなんてできないわよ。…たぶん」
黒髪の少女――蓬莱山輝夜は釣り上げた獲物を見下ろし言った。
口元に刺さった針が痛々しいその少女は、着物の裾から艶めかしい魚体を晒している。
上半身が人、下半身が魚の妖怪、人魚である。
「釣った数で競えばよかったのに、あなたはお馬鹿さんね」
妹紅がこの日輝夜に持ちかけた勝負の内容は、
『その日一番の大物を釣り上げたほうが勝ち』というもの。
釣った魚の数では圧倒的に妹紅の勝利であったが、人魚ほど大きな魚を釣ることはできなかった。
「お前の腕力を舐めていたよ。そんな大物を竹竿一本で釣れるなんて知らなかった」
「あらまあ、もしかして新鮮な発見?ワイルドな一面に惚れ直した?」
「冥途の父上に伝えなきゃね。あんたが惚れたお姫様はゴリラ並の腕力持ってますよって」
ゴリラ呼ばわりされても輝夜は眉一つ動かさず、しゃがみこんで人魚と目線を合わせた。
「あなたはとっても小柄でスリムな人魚姫。だからわたしの細腕にも釣られてしまうのよね」
輝夜はその白い指先で、人魚の口元の血を拭った。
人魚は怯えた表情で輝夜を見つめるばかりで、その震える口元から言葉は出ない。
「…現実と戦え、宇宙猿人ゴリ」
「黙りなさい」
鋭い視線を妹紅に向け、輝夜は立ち上がった。
「約束だからね。釣った魚は全て負けた方が料理し、勝者に振る舞うこと」
「全ても何も、お前が釣ったのはそこの大きくて重そうな魚一匹だけだがな」
「「重くないわアホ!!」」
妹紅の挑発に、輝夜ばかりか釣られた人魚までもが大声で反論した。
「あ、しゃべれたのね」
「ふぇっ!?えと、あの、それは…だってわたし、そんな重くないし…」
「ほら妹紅、この子は重くないわ。だからわたしもゴリラみたいな腕力なんて持ってないの」
どうやら人魚は妹紅の「重い」発言に対し、反射的に声を荒げてしまったようだ。
今は大声を出してしまったことを恥じているのか、俯いて地面を見つめるばかりである。
「あと…この針、抜いてほしいな…えーと…宇宙猿人ゴリさん」
「よし、この場で三枚に下ろすわ」
「ひいいっ!?」
どこからともなく包丁を取り出した輝夜を見て、人魚は悲鳴を上げた。
哀れ罪なき人魚の柔肌に、宇宙猿人ゴリの魔の手が迫る。
「安心なさい。優れた料理人が包丁を入れた魚は、捌かれた後でも生きて泳ぎ続けるわ」
「おい」
「人魚の肉を食べると不老不死になるそうよ?妹紅、試してみたらどう?」
「おい輝夜」
「あら、怒ったかしら?あなたっていつもそう。本当に可愛いわ」
「おい輝夜、後ろ」
蠱惑的な笑みで妹紅を挑発する輝夜の背後を、妹紅は指差した。
「もう、何よ?」
「だから後ろ」
妹紅のその言葉を聞き、輝夜はようやく後ろを振り向いた。
そこで初めて、背後に立っていた人物の存在に気づく。
「す…スペクトルマン?」
勿論そんなことはなく、そこには一匹の狼が立っているのみであった。
ただし、輝夜よりも背が高い肉体を、二本の足で支えて。
そして、怒りに満ちた表情を浮かべながら、その瞳に満月をいっぱいに映して。
「宇宙…猿人…ゴォォォリィィィ…!」
「いや、だからわたしはゴリラじゃなくて――」
いつの間にか輝夜の背後に立っていた狼女は、
目の前の相手を往年の特撮ヒーローの仇敵(なのに番組名はこいつ)と勘違いしたまま、
満月の夜に力(と毛)が倍増した腕で思い切り輝夜を掴み上げ、湖に投げ飛ばした。
「――か弱い月のお姫様なのよぉぉぉ――でぃあなっ?!」
ほぼ水平に湖面の上を数十メートルも投げ飛ばされた輝夜は、少しずつ減速し着水した。
「許さない…わたしのわかさぎ姫のお口に…あんな太いモノを…」
誤解を招きそうな発言をこぼしつつ、狼女は輝夜が青黒い水面の下に沈んだのを確認した。
おそらく溺れ死んだに違いない。妹紅は思った。
「ゴリラ女はあんたの方だったか」
「誰がゴリラよ…って、妹紅?」
「そうだよ。今泉君」
人差し指を額に当て、どこかの警部補のようなポーズで妹紅は狼女に挨拶をした。
今泉影狼。
この狼女は、妹紅が住んでいる場所からほど近い、迷いの竹林に棲息する妖怪の一人だ。
普段は冷静でおとなしい性格で、積極的に人を襲うことは少ない。
妹紅は竹林で迷った人間の道案内をすることがよくある。
迷いの竹林が危険な場所であることを知らしめるため、妹紅は事前に影狼に頼み、
わざと自分が連れた人間を怖がらせるように出現させたことも一度ならずある。
その度に妹紅が影狼を追い払うという茶番劇を演じるのだが、影狼は文句ひとついわず協力してくれる。
童話のイメージには似ても似つかない、気立てがよく優しい狼であった。
そんな影狼が、今は怒りを露わに輝夜を一撃で葬って見せた。
人魚を釣竿一本で釣り上げるゴリラ女とはいえ、自分より小柄な(一応)人間の少女を、である。
「今あんたが湖にブチ込んで溺死させたのは宇宙猿人ゴリであり、同時に永遠亭の姫さ」
「ええっ!?あ、あのお屋敷のお姫様…わたしはなんてことを…」
「別に気にしなくていいよ。わたしもよくこの湖にあいつを落っことして殺すし」
同様に、輝夜によってこの湖に落とされ殺されたことも数えきれないほどある。
「それにさ、あんたはあんたのお姫様を守りたかったんでしょ?」
「そ、そうだ!わかさぎ姫!!」
影狼は慌てて、人魚――わかさぎ姫に駆け寄った。
「大丈夫!?今、この針を抜いてあげるから――」
「う、うん…ありがと、影狼ちゃん…」
返しがついた針の刺激に苦痛を覚えているのか、わかさぎ姫は時折小さく顔を歪める。
それでも、恐る恐る針を抜いて行く影狼の行為に、悲鳴一つ漏らさず身を任せていた。
「その子でしょ。あんたがよく話してるお姫様ってのは」
妹紅は苦笑した。
普段は冷静で、あまり感情的にならない影狼が、これほど取り乱すのは珍しい。
何度か聞いていた「草の根妖怪ネットワーク」での影狼の友人、
その中でも特に仲がいいという「人魚姫」とやらを、輝夜が偶然にも釣り上げてしまったようである。
「うるさい、手元が狂う。この子の顔に傷が残ったら妹紅のせいよ」
「あらまあ、怖い怖い」
影狼はなんとかしてわかさぎ姫の口元から針を抜くことに成功した。
相変わらず人魚の口から垂れてくる赤い血を、影狼は躊躇うことなく舐め取った。
少しでも早く血が止まるようにと必死で傷口を舐める光景は、ひどく淫靡なものに見えた。
「もっ…もういいよ、影狼ちゃん…恥ずかしい」
さすがに妹紅の眼前でそれを行う事に抵抗を覚えたか、わかさぎ姫本人が音を上げた。
「そ、そう…?」
「うん。そんなに深くささってたわけじゃないし…」
上半身が人間と同じ人魚を、そもそもどんな餌を使って釣り上げたのか。
妹紅は興味があったが、面倒なので特に聞かずに置いた。
輝夜のことである。どうせ意味不明な月の食物でも使ったに違いない。
「目の前に仙台名物『萩の月』がぶら下がって来ちゃって、つい…」
「くっ…!非道なり永遠亭の宇宙猿人。ほどよい甘さでお馴染の世界一うまいお土産を使うとは…」
月と言う要素に置いては、当たらずとも遠からずであった。
読者諸兄も仙台市内にお立ち寄りの際は是非ともお買い求めの上、ご賞味いただきたい。
「それにしても影狼、何であんたがここにいるのさ?」
「今日はわかさぎ姫と、ここで一緒に月を見る約束をしていたのよ」
影狼の視線の先には、雲一つない夜空の星々と、真ん丸い月を映す水面があった。
まるで湖に飛び込めばそのまま月の世界に繋がっているかのような、鮮やかな天球図である。
ただ空を見上げる普通の月見とは異なる趣を持った風景が、そこには広がっているのだった。
「あと少し遅かったら、この子が宇宙人にキャトられるところだったわ」
「キャ、キャトられる?」
「そりゃ魚じゃなくて牛肉の話だよ…ところで影狼」
安堵のため息をついた影狼に、妹紅は笑いかけた。
「その子、どうするのさ?」
「わかさぎのこと?別にどうもしないわよ」
「ああ、そうなんだ。じゃあ」
妹紅はそう言うと、わかさぎ姫に向かって一歩踏み出す。
わかさぎ姫の肩が一瞬、びくんと震えた。
影狼は一瞬怪訝な表情をし、すぐにその目を鋭く細めた。
「…妹紅。あなた、何を考えているの」
「いやあ、お姫様との約束ならこっちにもあってねぇ」
影狼は素早い動きで、妹紅とわかさぎ姫の間に割って入っていた。
「今日はわたしが負けたから、釣った魚を捌かないといけなくてね」
ルールなんだよ、と妹紅は付け加えた。
「もうあのお姫様は湖の藻屑よ。あなたが約束を守る相手はいない」
「溺れ死んだくらいで、あいつがいなくなるわけないでしょ」
「…あなたと同類ってわけか…」
冷静で理知的なニホンオオカミは、妹紅の言葉の意味をすぐに悟ったようである。
「魚は他にも釣ったんでしょう?一匹くらいリリースしてあげなさいよ」
「うーん。そこの人魚はあいつが今日釣った、たった一匹の魚だしなあ…」
妹紅は頭を掻いた。
釣りで勝負をする際に輝夜が最も楽しみにしているのは、自らが釣った魚を、
自らの手で負かした妹紅に調理させ給仕させるという、その行為である。
カスタード入りの饅頭を使って釣ったその人魚の料理がなければ、
妹紅がどれほど腕を振るったところで、輝夜は納得しないだろう。
「じゃあわたしが釣った一番大きい魚を一匹、あんたにあげる」
「そういうことじゃないの」
影狼が足を一歩後ろに踏み出し、半身の態勢になる。
明らかに、妹紅を敵として認識して構えている様子であった。
「あなたがそこまでして約束を守る理由って何?あのお姫様にわかさぎを献上することが、そんなに大事?」
「うん、大事。こういうルールは負けた時こそ守らないと」
対する妹紅は影狼の戦闘態勢を見ても、特に構えをとることはない。
元々妹紅が敵と戦う際には「構え」という発想がそもそも存在しない。
妹紅の戦闘スタイルにあるのは、ただ制圧前進のみ。
基本的に防御の型である「構え」は、妹紅の戦いには不要なものなのである。
「次にわたしが勝った時、あいつに言うこと聞かせられないじゃない」
輝夜のためでなく自身のために、妹紅はその義理を果たそうとしていた。
輝夜に対して自分がしたいこと、させたいことを挙げれば、
妹紅はそれこそ夜を徹して語り尽くせないほど多くなることを知っている。
「…それだけ?」
「うん。別にそこの人魚姫がどれだけマズくても、料理して出すってことが大事なの」
「わ、わたしマズくないです!どこかの神社の神主さんもわかさぎの天ぷらが大好きだって…」
わかさぎ姫はまたしても怯え始めていたが、マズい発言に傷ついたのか震える声で反論してきた。
「そうかぁ、美味しいならば好都合」
「ひっ!?」
「妹紅!これ以上わかさぎを怖がらせるなら容赦しないわよ!」
影狼と妹紅、両者の間の緊張の糸がいよいよ張りつめたその時。
「っぷはぁ!死ぬかと思ったわよ!!」
大きな水音と共に、竹筒を口に咥えた輝夜が水面から顔を出した。
「なんだ、生きてたのか」
「当たり前よ!今まで何度この湖で溺れ死んだと思ってるの!」
輝夜が口に咥えた太くて硬そうな竹筒は、よく見ると二本の竹を組み合わせ、
先端部分、すなわち輝夜が口に当てる部分が直角に曲がるように作られていた。
わかりやすく言えば、外の世界の道具のシュノーケルの形である。
「何それ、水遁の術?」
「ええ、これで呼吸はバッチリよ。着物が水を吸って沈みそうになったけどね」
和服にも洋服にも見える輝夜の服は、
ただでさえ重そうな生地に湖の水をたっぷりと染み込ませていた。
「ちなみにこのシュノーケルは、昔お爺ちゃんに教わった竹細工の一つよ」
「あんたの爺さん、あの時代で既にそんなものを作ってたのか…」
「どうしよう影狼ちゃん、宇宙猿人ゴリが生きてたわ」
「くそっ!こうなったら二人仲良く湖の富栄養化の原因にしてやるわ」
影狼は妹紅と輝夜を睨み付けながら、わかさぎ姫を庇うように背後に回らせた。
「わたしら相手にニ対一、どう考えてもあんたに分が悪いよ?」
「『逃がした魚は人魚やで』ってな展開は勘弁ね。その魚を渡しなさい」
「うるさい!わたしのわかさぎ姫に指一本触れてみなさい…殺すわよ!」
「ひゃわぁ!?わた、わたしの!?影狼ちゃん、い、今なんて…」
そして。
『ようやく見つけた…あれが、竹林の英雄…!』
そんな光景を、彼女たち四人に気付かれることなく、
しかし「間近」で見つめている者がいた。
※ ※ ※
彼女は事の起こりから今までの経緯を、ずっと見ていた。
最初にその者たちの名を知ったのは、里の人間が書いたという一冊の本であった。
幻想郷縁起と呼ばれるその書物の中にあった「英雄伝」という章で、
かつて戦った巫女や魔法使い、メイドと一緒に紹介されていた二人の人物。
幻想郷縁起に書かれた情報がどれだけ正確なものであるか、
それは判断が付きかねるところではあったが、
その者達について書かれた情報に、彼女――少名針妙丸は少なからず興味を持った。
一人は永遠亭の姫、蓬莱山輝夜。
自分と同じ「姫」たる身分でありながら、永遠と須臾を操るという強大な能力を持ち、
さらには謎めいた月の都にも通じているという、不思議な魅力の持ち主であった。
もう一人は「紅の自警隊」と称された不死身の人間、藤原妹紅。
輝夜同様その素性に謎は多いが、竹林に迷い込んだ人間を妖怪から救い何も言わず立ち去るという、
そのストイックなヒーロー性に、針妙丸は強く心を惹かれた。
自分の体ほどの大きな書物を一生懸命に読んだ結果、
針妙丸は「竹林の英雄」をどうしても一目見たいと、元いた場所を抜け出したのである。
『道具屋?薬屋?…そんなの英雄伝に載ってたっけ』
道具の付喪神化と、妖怪の下剋上を巡る一連の異変が終わって僅か一週間。
保護と監視の名目で自身を拘束していた博麗神社から、針妙丸の姿が消えた。
※ ※ ※
「影狼、わたしはあんたのことは買ってるんだ。争うのはやめよう」
「あなたたちがわかさぎ姫に手を出さないってなら、今すぐやめてあげるわ」
針妙丸は現在、本来の大きさである小人サイズであった。
妹紅たちが釣りをしていた場所にかなり近い場所にいるのだが、
言い争う四人はいずれもその大きさゆえに、針妙丸には気づいていないようである。
「あら、他の魚は食べてもいいって言うの?狼さん。同じ命なのに」
「ええ、当然。わたしにとって、わかさぎ姫は世界でたった一人の特別な女の子だから」
もはやわかさぎ姫の顔はゆでがにのように朱に染まっている。
「ふーん…そういう開き直り、嫌いじゃないわ」
輝夜はそう言うと、釣り道具と一緒に置いてあった平たい紙箱を手に取った。
「そうね…ここは一つ、取引きをしてはどうかしら?」
「取引き?何を馬鹿なことを…」
「あら、あなたにとっても悪い条件じゃないはずよ?」
そう言って、輝夜が紙箱を開けた。
「今なら、この仙台名物『萩の月』をあなたに一つお裾分けするわよ」
「「アホか!」」
妹紅と影狼が同時にツッコミを入れた。
(はぎの月…?これも月の都とかいう場所の秘宝の類に違いない…!)
針妙丸は高さによって見えない紙箱の中身を想像し、固唾を飲んでいた。
妹紅と、よく知らない妖怪が怒っているのは、きっとその秘宝があまりに高価なものだからだろう。
打出の小槌と同じく、みだりに持ち出してはいけないものなのだ。そうに違いない。
そんなことを思う針妙丸だったが、自分は自分で打出の小槌をまたしてもこっそり持ち出していた。
???『一族の秘宝を勝手に持ち出すなんて恥知らずな娘ね(緋想剣ドーン』
???『強大な力に振り回されて暴走すると友達が悲しむわよ(核ドバーッ』
何か、この場所にいるはずがない人物の声が聞こえているが、気にしてはいけない。
「いくらふんわり生地とマイルドなカスタードが魅力な萩の月でも、友達の命と引き換えになんかできるか!」
「か、影狼ちゃん…!」
わかさぎ姫は先ほどからの影狼の啖呵に感動しっぱなしである。
頬をさらに真っ赤に染め、目を潤ませて影狼を見つめる仕草はまさに恋する乙女のそれだ。
「じゃあ、二個あげるわ」
「ふざけないで、個数の問題じゃないわよ!」
「なら三個」
「……くっ」
「「いや悩むなよ!!」」
ぎり、と歯ぎしりをした影狼に、今度は妹紅とわかさぎ姫が二人でツッコんだ。
乙女の夢を一瞬で打ち砕いた腹ペコ狼(甘い物好き)は、気を取り直して輝夜を正面から睨み付ける。
「はっ…萩の月をいくつ積まれようと、わたしは絶対に釣られないわよ!」
「あんたの人魚姫は一つでも釣られたけどな」
「饅頭三個…よく考えたらさっき影狼ちゃん『友達』って言ってるし…そっか、ただの友達なんだ…」
「わーっ!うるさいうるさいうるさい!!」
呆れる妹紅といじけるわかさぎ姫から必死で目を逸らしつつ、影狼がやけっぱち気味に吠えた。
「と、とにかくわかさぎ姫は渡さないの!これは絶対よ!!」
「あらあら…それじゃこっちも力ずくで行くわよ?」
輝夜もここに来てようやく、影狼との戦闘が避け得ない状況を認めたようだった。
「おお、ゴリラ姫お得意の力ずくだな」
「もうそのネタ引っ張るのやめてよ!泣くわよ!!」
妹紅も輝夜の横に並び立ち、影狼と対峙する。
「か…影狼ちゃん。さっきの発言はあとで追及するとして、今は…」
「安心して。あなたのことは、わたしが命に代えても守る」
「ううん。わたしも一緒に戦う。怖いけど…」
わかさぎ姫は相変わらず弱々しい声であったが、その目に戦う覚悟を湛えていた。
「ば、馬鹿なこと言わないで!虫も殺せないあなたが、あんな化け物と戦うなんて無理よ!」
「でも、目の前で影狼ちゃんが傷つく方が、もっと怖いの!」
毛深い狼女と魚体をぬめらせる人魚、どう見ても化け物はこっちなのだが、
相手の人間さん(らしきもの)サイドが捕食者側に立っているせいか、影狼から主人公オーラが出始めている。
「お願い、一緒に戦わせて!絶対に足手まといにならないから!」
「陸上にいる時点でそれは基本的に無理な気がするけど、そうね…わかさぎの気持ち、受け取ったわ!」
二人はお互いの手をしっかりと握りあい、悪質な釣り人コンビに正面から向かい合う。
二対二の構図になった少女たちの間で、空気が急速に張りつめていく。
一触即発――どちらが先に仕掛けるか、その読み合いの中であった。
『待ちなさい強者たち!無益な争いは憎しみしか生まないわ!!』
針妙丸はそのタイミングを見計らっていたかのように、四人の間に割って入った。
しかしその声を合図にして、人間と妖怪たちは同時に攻撃を仕掛けた。
針妙丸の身体相応の声帯から絞り出された停戦勧告は、
緊迫感漂う四人にはうまくその意味が伝わらず、単なる「物音」として戦いの火蓋を切って落としてしまったのである。
『ちょ、ちょっと、どうしてそこで戦い始めるのー!?』
まさに針妙丸の頭上で、最初に飛び出した妹紅と影狼の拳がぶつかり合っていた。
「満月の夜にわたしを怒らせたこと、後悔するがいいわ!」
「ははっ、後悔なんてとんでもない!」
妹紅の背後に、不死鳥を模した炎の翼が展開される。
「狼女と戦うのに、満月以上の吉日があるかっての!」
「このっ…化け物が!」
その翼の熱気に顔をしかめつつ、影狼が後ろに大きく跳び退る。
先ほどまで影狼がいた場所に、炎の柱が立ち上った。
「さすが、獣は炎に敏感ね」
「髪に引火したらどうしてくれるのよ…!」
気圧されたように目を丸くするわかさぎ姫の傍に立ち、再び身構えた。
二人の間の地面では、先ほどの炎に焼かれた雑草が細い煙を上げている。
『あっ…熱い!火、火がついてる!?助けてー!!』
そしてそこに立っていた針妙丸も、火が付いた着物の裾を掴んで走り回っていた。
「影狼ちゃん」
「大丈夫。妹紅の炎は見慣れてるし」
「ううん、そうじゃなくて」
後方支援に回るべく間合いを取っていたわかさぎ姫が、何かに気付いた。
彼女の指差す先には、まだ火を消すに至っていない針妙丸の姿があった。
「あれは…!」
「え?何々?」
上空に飛び攻撃の隙を伺っていた輝夜も、二人の様子に気づき降りてきた。
「…ってお前、敵に隙ができてるんだから攻撃しろよ」
「てへ♪」
どこぞの軍神よろしくてへぺろをしてみせる輝夜。
眉間に皺を寄せる妹紅だが、彼女も針妙丸の存在に気付いていた。
「うう…新しい着物が…」
転んで地面をのた打ち回った結果火は消えたが、
針妙丸の着物の裾は無残に焼け焦げ、大部分の布面積が失われていた。
「…何だあれ」
「えっと…わたしはちょっと見たことないなぁ」
「わたしも、あんな生き物初めて見るわ」
「何よあなたたち、知らないのぉ?」
他三名が針妙丸を見て首を傾げるが、輝夜だけはどや顔を浮かべていた。
「あれは、少し前に外の世界で有名になった妖怪よ」
「外の世界?なんだ、最近こっちに来た妖怪なのか」
「でしょうね。わたしも実物を見るのは初めてだけど…」
へたり込んでめそめそ泣き始めた針妙丸を、輝夜は指差した。
「あれこそ知る人ぞ知る都市伝説の妖怪『小さいおじさん』よ!」
「「「「えええええええええ!?」」」」
妹紅、影狼とわかさぎ姫、そして針妙丸本人が驚きの声を上げた。
「輝夜、小さいおじさんといったらあの…」
「なんだ、妹紅も知ってたの?」
「相手を殴ろうとして腕グルグルする奴だっけ」
新喜劇の大御所芸人だ。
「違うでしょ妹紅。小さいおじさんはロボットアニメの主題歌を歌う人よ」
「そうなの影狼ちゃん?わたしは消臭剤のCMソングの人って聞いてたけど…」
ザフトの軍人(専用MS持ち)だ。
「馬鹿ねぇ貴方たち。小さいおじさんってのは学ラン着て食事の値段を当てる人よ」
「うん、おいしい!…って、んなわけあるかー!!」
ついに針妙丸がキレた。
「おい輝夜、めだか師匠が怒ったぞ」
「違うわよ、西川さんでしょ」
「も、もしかして岡村さんかも…」
「全部ちがーう!ってか、小さいおじさんじゃなーい!!」
針妙丸が精一杯にあげた怒りの叫びは、なんとかその場の全員に聞こえた。
「さっきから聞いてれば好き勝手言ってくれちゃって!」
「あら、よく見たら女の子じゃない」
輝夜はそこでようやく針妙丸に近づき、その姿をまじまじと見つめた。
どうやら先ほどまでは、単に小さな人間としか見ていなかったようである。
「どこをどう見たらわたしがおじさんに見えるってのよ!」
「あらまあ…ごめんなさいね。最近外の世界の都市伝説に興味があって…」
輝夜以外の面々も、針妙丸の周辺に集まってきた。
自分をぐるりと取り囲む巨人(針妙丸視点)にも怖気づくことなく、針妙丸は話を続ける。
先ほどまで頬を濡らしていた涙は乾いた。
針妙丸はあの英雄、一寸法師の末裔なのだ。根は強い子なのである。
「小さくてかわいいじゃないか。ホビット…それ以上かなぁ」
「湖の妖精さんよりも小さいのね。頭撫でていい?」
針妙丸は小人の中でもまだ幼い年齢であり、間近でその外見を見れば、
小さいおじさんなどとんでもない、和製親指姫とでも言うべき可憐な少女である。
「もーっ!何よあんたたちは!子ども扱いするのも怒るわよ!!」
あどけない顔立ちと桃のように薄く紅潮した頬、そして真っ赤な唇は、
膝丈にも満たない大きさの彼女であっても、近くにいればはっきりとわかる。
今現在、この人形サイズの美少女を取り囲んでいる四人も、それゆえに自然と頬を緩めてしまうのである。
つまり、未だに針妙丸の怒りはあまり真剣に伝わってはいない。
「いいじゃない。わかさぎ姫に頭撫でられるなんて、羨ましくて踏みつぶしたくなるわよ」
「足を上げるな足を!怖いわ!…もーっ!わたしの話を聞きなさいっての!!」
針妙丸は腰に差した針の剣を振り回し、四人に向かって怒鳴り散らした。
「こんな月が綺麗な晩に、喧嘩なんてしちゃ駄目でしょう!」
四人に対して言いたかった言葉を、針妙丸はようやく発することができた。
言われた四人は一様に目を丸くしたまま、何も言わない。
さては自分の言葉が彼女たちの心に響いたか、と針妙丸は勢いづく。
「そもそも原因が下らない。お魚の取りあいで竹林の英雄が妖怪と喧嘩なんて」
「竹林の…」
「…英雄?」
妹紅と輝夜はそれぞれ首を傾げた。
「そっちの妖怪も、人が釣った魚を狙うなんてさもしいわよ」
「え、さもしい?」
影狼は困惑した表情で針妙丸の言葉を反芻した。
「人の物をとったら泥棒。まして魚なんて、猫じゃあるまいし」
「ね、猫?」
なおも困惑の表情を強める影狼を見て面白がったのか、
妹紅がにやついた笑みを浮かべながら、おもむろに歌い始める。
「わかさぎ咥えた影狼~追っかけて~♪」
輝夜がすぐさま調子を合わせるように、
「裸足で~駆けてく~♪」
と後を引き継ぐ。
最後は二人で調子を合わせ、
「「妖忌な早苗さ~ん♪」」
「「「誰だよ」」」
わかさぎ姫と影狼、針妙丸は綺麗なユニゾンで突っ込んだ。
影狼を追いかけているのは魂魄流の剣技を極めた現人神なのか、
あるいは青い腋出し巫女服を着た白髪の爺さんなのか。
「と、とにかくね。もうそんな猫みたいな真似はやめて、お魚を返しなさい」
「何、あなたも結局こいつらの味方なわけ?」
わかさぎ姫の引き渡しを求める針妙丸に対し、影狼は敵意の視線を向ける。
「そうじゃないわ」
針妙丸はそんな視線を物ともせずに、影狼に微笑みかけた。
「ここは仲良く皆で分け合いましょ。このお魚を三枚におろして、
右を英雄さんたち、左を狼さんに。余った中骨はわたしがあら汁にでもします」
「だってよ、輝夜」
針妙丸の提案に対し、妹紅はまず輝夜に意見を求めた。
先ほど語っていた敗者の矜持は、絶対のようである。
「うーん、確かにおろした状態で貰えるのはありがたいわねえ。どう?狼さん」
「そうねえ…どうせなら中骨も貰おうかしら。あら汁好きだし」
「か、影狼ちゃん!?」
「え?あ、いやいやじょ、冗談ですヨ?!…さ、三枚おろしなんてさせるわけないでしょ!この鬼畜こけし!」
口元の涎を拭いつつ、影狼は鬼畜こけしこと針妙丸を中断した。
「誰がこけしよ!?」
「あんたよあんた!大きさといい髪型といい!!」
思わず逆上する針妙丸であったが、
同時に今の影狼と同じように、自分をこけし呼ばわりした者を思い出してもいた。
今はもう自分の傍にはいない、口の悪い仲間の存在を。
しかし、すぐにそんな一瞬の追憶は意識の外へ吹っ飛んで消える。
「その小さい身体でわかさぎを内側から食い荒らすつもりだったのね。このアニサキス!寄生虫めが!」
そう言いながら、影狼は針妙丸の身体を捕まえ、眼前に持ってきた。
影狼の叫びは針妙丸の頭に響き、最後の「寄生虫めが」という言葉が、脳内に何度も反響した。
『寄生虫めが…寄生虫めが…寄生虫目が…』
「うわあああああああああああああ!!!」
針妙丸は悲鳴を上げるが、狼女の腕力から逃れられるはずもない。
影狼は既に大きく口をあけ、針妙丸を頭から食う構えであった。
「カヲルくん状態?」
「マミさんね」
「あの…お二人とも、小さいおじ…女の子が影狼ちゃんに食べられちゃいますよ…」
竹林の英雄たちは特に助けるそぶりも見せない。
むしろ三枚おろしを提案されたわかさぎ姫が針妙丸の心配をする始末。
(く、食われる…いや、これこそ『ピンチはチャンス』!)
自分をこけし呼ばわりしたかつての仲間が言っていた、
外の世界の魔法使い(マヨラー)の名言を、針妙丸は思い出していた。
一寸法師の正当な末裔たる針妙丸、勿論先祖の英雄伝説を知らないはずがない。
一度は鬼に食われた初代一寸法師は、体内から鬼の内臓を攻撃し、見事勝利を収めた。
それと同じことが、その子孫たる自分にできないはずがない――針妙丸はそう考えた。
しかも異国の伝説には、狼に食われながらも生きていた人間や仔山羊の伝説が存在する。
そうして狼に食われた者達は、体内から狼を攻撃できない普通の大きさの生物である。
しかし自分はこの大きさだ。自ら攻撃できる点において、さらに彼ら以上のアドバンテージがある。
負ける気せえへん、小人やし――針妙丸の心に、なぜか関西弁で勝利への確信が湧きあがる。
「わたし、カロリーコントロールのためにご飯は三十回以上噛むようにしてるからね」
「Vやねん!一寸法師!はい逝きましたー!!」
針妙丸が「絶対こいつの腹とか二の腕の肉になってやる」、
と壮絶に後ろ向きな最後の抵抗を決め込んだ、その時であった。
「待て」
怒りを含んで重く、しかし凛として明朗に響く声が聞こえた。
その声は大きく、針妙丸と影狼はおろか、
一気コールをしていた輝夜と妹紅、はわわわと狼狽えていたわかさぎ姫の動きをも止めた。
威圧感を感じさせずにはいられない、そんな声であった。
さながら、普段は温厚で生徒たちを怒ることも少ない担任の教師が、
ホームルーム中にいつまでたっても静まらない糞餓鬼共を一言で黙らせたかのようである。
「こんなところで、何をしている」
そして、月の光に照らされたその声の主が姿を現す。
「…け、慧音」
「またお前たちか…今度は湖に来てまで荒事を起こすつもりか」
文字通り頭に角を生やしてお怒りのその人物は、
これまた文字通りの女教師、人里の守護神こと上白沢慧音先生であった。
※ ※ ※
異変の度に神社を飛び出しては妖怪と戦い、人間を守る博麗の巫女は有名だが、
それとは異なる方法で人間を妖怪の脅威から守る、里の守り人がいた。
その人物こそ、いつからか人里に住み着いた半獣、上白沢慧音である。
彼女は半分は獣――ハクタクという異形の存在という一面を持ちつつも、
決して己の長い寿命や強い力で人間を脅かすことなく、里の人間を守り、
また子供や若者に学を与えるという形で人材育成にも貢献してきた。
彼女を知る者からの信頼は厚く、寺子屋の子どもたちも彼女を恩師と慕う。
勿論その美貌と抜群のスタイルに注目する者も多く、
強くて美人で女教師で巨乳でケモ属性な彼女のファンは人妖問わず後を絶たない。
孤独で壮絶な人生を千年近く送ってきた妹紅の理解者でもあり、
同じ半獣人の仲間として、影狼も一目置く人格者が、この慧音であった。
「影狼。そこの馬鹿二人はともかく、普段冷静なあなたまで…呆れましたよ」
「すいません…でもこの鬼畜こけしがわかさぎ姫を三枚に下ろすとかいうから」
「この湖で暴れれば、妖精も騒ぎ出しかねません。面倒なことになりますよ」
慧音が周りを見渡した限りでは、騒ぎを聞きつけて寄ってきた妖精の類はいないようである。
「なんだ慧音、影狼にはまだその口調なの?」
「お前たちと違って、彼女はまだ理性的な話ができるからな」
慧音は余程気心が知れた仲の人物か、あるいは敵とみなした相手以外は、
丁寧な口調でコミュニケーションを取る、礼儀正しい半獣である。
迷い人を助けてくれる妹紅や、医療機関でもある永遠亭の主の輝夜に、
慧音は当初こそ慇懃な口調で当たってはいたが、
殺し合いの果てに竹林を全焼させるなどのアホな騒動に付き合っている内に、
『ああ、こいつらは寺子屋の悪餓鬼たちと大差ないレベルなんだなあ』
と、今ではぞんざいな態度で接しているのである。
「おい鬼畜こけし、お前と輝夜が馬鹿をやったせいで慧音が怒ってるぞ」
「は?馬鹿はあなたでしょう。慧音は今あなたとこけしをチラチラ見てたわよ」
「お、お二人とも、こけ…小人さんがなんだかご立腹のようですが…」
輝夜と妹紅は「馬鹿二人」の一枠をお互いに譲り合い憎まれ口を叩いていた。
両方が馬鹿に数えられているという発想は、
今まで幾度となく慧音に喧嘩を止められた歴史があっても、決して出て来はしない。
「おかっぱだからってすぐこけしって言わないでよ!正邪もあんたらも!!」
「ん、正邪って誰だ?」
「えーと…ちょっとわからないです…ごめんなさい」
わかさぎ姫はどんな時でもいい子である。
彼女の口元の傷に黴菌が入らないことを切に望む。
「あらまあ。あなたの場合、大きさもちょうどこけしっぽいのよ?」
無邪気な笑顔で輝夜が言った。
時の帝も惚れた絶世の美少女の無垢な笑顔を向けられても、
身長のことまで含めてこけし呼ばわりされた針妙丸が怒りを覚えぬ道理はない。
「また正邪と同じこと…何あんたリアル天邪鬼!?そういや髪黒いし…」
針妙丸は怒りを溜めた目を輝夜に向ける。
「誰が天邪鬼よ」
「輝夜は天邪鬼じゃないぞ。こいつは思ったことはすぐそのまま口にする」
「うむ、彼女の認識としてはそれでいいだろう」
妹紅と慧音のフォローは、あまり輝夜本人の人格を擁護できていない。
「とにかくだ」
慧音はちょうど全員の中心に入るように位置取り、大きくないがよく響く声で言った。
里で教師を務める彼女には、喧嘩の仲裁など慣れたものであろう。
「まず何があったか、正直に話してみなさい」
まさに女教師の本領発揮、その口調は厳しくも優しかった。
「この二人がわたしの友達を釣って捌いて食べようとしたのよ」
「影狼ちゃんもそれに便乗してわたしを食べようとしました。今も涎が出てます」
「そこの二人にこけし呼ばわりされました」
「ぐすっ…慧音ぇ…怖かったよぅ。輝夜がそこの可愛い人魚さんを殺せって無理矢理…」
「妹紅が、言うとおりにしないとうちの兎を全部鶏肉と偽って命蓮寺に流すぞって脅したの…」
慧音はゆっくりと頷き、言った。
「よし、とりあえず妹紅と輝夜が悪いのはわかった」
「「なんでよ!!」」
「影狼と…えーと、人魚姫さん?ひとまずお逃げなさい。
この二人は話が通じない上に殺しても死なないから、まともに相手をするだけ時間の無駄です」
「「ひでえ!!」」
「ありがとう慧音…わかさぎ、とりあえずわたしの家に行くわよ」
「なんかそれはそれで食われそうな気がするんだけど…」
不審な表情を向けるわかさぎ姫を抱え上げると、影狼はあっという間に走り去った。
「わ、わたしは?わたしもこの二人にこけしと言われました、先生!」
教え子でも何でもない針妙丸だったが、なんとなく雰囲気に流され慧音を先生と呼んでしまう。
針妙丸が読んだ英雄伝には彼女のことも記載されていた。
里に留まり人間を守る、そんなスタンスを持った半獣だったと、針妙丸は記憶している。
「ふむ、こけしか…人形が動く、それはこの幻想郷でも珍しくないことです。
でも、妖怪はそのルーツがあってこそ。こけしとしての自分に誇りを持つのも大切ですよ」
「ほ…誇り?」
「そう。あなたを作ったこけし職人がいて、こけしとして過ごした歳月があって、
そして付喪神のあなたがいる。その歴史を蔑にしていては、妖怪としての格も下がるというもの」
慧音はそう言って、針妙丸に微笑みかけた。
「せ…先生!」
「でも、新しい自分を認めてほしいという気持ちも、先生はわかりますよ?
こけしのあなたも、妖怪のあなたも、どちらもあなたなのですから」
「わ、わたし、目が覚めました!」
針妙丸の脳裏に、忘れていた記憶が蘇ってくる。
一本の木材から、腕利きの職人により彫り出され、こけしとして生を受けた日。
民家の床の間に飾られ、その家の日々を、四季を見守り続けた時間。
そして、歳月を経た自分が、付喪神としての新たな人生を歩み始めた瞬間を。
「…って、そんな記憶あるかい!!」
「なんだ、忘れているのか?おい妹紅、ハートのウロコを持って来い」
「ウロコがついてそうな奴は影狼が抱えて逃げちゃったよ」
「『思い出しました』でサヨナラホームランも打てるわね(ニッコリ」
優しく語りかける慧音の先生オーラに流され、
針妙丸は危うくこけしの付喪神としてのアイデンティティに目覚めそうになった。
「わたしは小人よ!こけしの妖怪なんかじゃないの!!」
「小人?なるほど…それではあなたが…」
慧音はしげしげと針妙丸の顔を見ながら、その場にしゃがみこんだ。
既に影狼とわかさぎ姫はその場を去っており、針妙丸を囲むのは他に妹紅、輝夜のみ。
「なるほど、よく見れば霊夢が言っていた通りの容姿だ」
「れい…む…?」
その名を聞いた瞬間、針妙丸の背筋をひやりとしたものが伝った。
「丁度よかった、あなたを探していたんです」
慧音は慇懃な口調に戻り、針妙丸に微笑みかけた。
霊夢の名に一瞬身構えた針妙丸であったが、慧音の表情に緊張も若干和らぐ。
その一方で、自分を探していたという発言には内心で舌打ちをした。
(思ったより早かったわね…)
慧音の目線が自分の顔から、背中の得物に移っていることにも、針妙丸は気づいた。
「確か名前は…少名針妙丸さん。小人族のお姫様と聞いていますが」
「あら奇遇ね。わたしもお姫様なのよ」
あの神社から解放されたことでテンションが上がり、
竹林の英雄たちの荒事に首を突っ込んだ結果がこれである。
ちなみに自分を散々こけし呼ばわりした二人を、今の針妙丸は勿論英雄などとは思っていない。
「ひ、人違いです」
「え?」
「わたしは少名針妙丸じゃないですよ…姫なんかでもない、ただの一般通過小人です」
とにかくここから逃れなければ――針妙丸は先ほどまでの怒りも忘れ、
名乗っていないことを幸いにシラを切り通すという作戦を実行し始めていた。
「でも、その背にあるのは小人族の至宝、打出の小槌では?」
「違います。これは単なるハリボテで、中身はスカスカの5tウソップハンマーです」
打出の小槌――それは針妙丸の遠い先祖、一寸法師が鬼から奪った小人族の秘宝。
あらゆる願いをかなえる代わりに、それに見合う代償を求めるその小槌は、
過去に幾度か小人族により封印と解放を繰り返され、今は針妙丸の手元にある。
少し前、針妙丸はこの小槌を使い、
もういない仲間と共に幻想郷の強者たちに戦いを挑んだ。
弱者が強者に力でなり代わる、すなわち下剋上。
結果としてその下剋上は阻止され、小槌は叶えた願いの代償を回収し魔力を回復していた。
一度は博麗の巫女が預かることとなったその秘宝は、
神社を抜け出す際、針妙丸によって持ち出され今に至る。
目の前の女教師が何を目的に自分を探しているのかはわからないが、博麗の巫女――霊夢と通じていることは間違いない。
「う~ん、お椀のメットに針の剣、里へはるばる下りゆくという情報だったし…」
「やだなあ先生。そんなのは小人の標準装備、ユニフォームみたいなものですよ」
二枚舌な仲間と過ごしていた経験からか、針妙丸は異変以前に比べて嘘がうまくなっていた。
「なんだ慧音、人探し?」
「ああ…霊夢から頼まれてな。捕縛した異変の犯人が逃げ出したらしい」
「あらまあ、わたしの後輩さんね」
輝夜がくすくすと笑う。
「打出の小槌を持ったこけしみたいな女の子だ、と霊夢は言っていたんだが」
「あんの苺大福巫女!里にまでわたしのイメージをこけしで広める気か!!」
「「先生こいつだよ」」
小人の姫の肉体相応の脳はこけしの三文字に反応し、あっという間にボロを出した。
色々な意味で年季が違う月の姫と平安貴族の姫は、その隙を逃すことなく畳み掛ける。
「やはり貴方ですか…どうしてそんな嘘をついたんだ?話しなさい。先生怒らないから」
「せ、先生こそ怒らないなんて嘘でしょ!そんな恐ろしい角を生やして…」
「これは満月になると勝手に生えてくるだけ。今夜の影狼の濃い目な腕・腋・スネ毛みたいなものだ」
その場に影狼がいたら喉笛を噛み千切られそうなことを慧音は口にした。
針妙丸が嘘をついていたとわかるや、口調を変えて一気に説教モードに入っている。
「さあ針妙丸、嘘をつくのはよくない。一緒に神社へ帰ろう」
「嫌よ!せっかく外に出られたのに…もう虫籠の中で飼われる生活には飽きたのよ!」
「霊夢は言っていたぞ。あれはお前を虫や獣から守るためのものだと…」
「でも、小槌が力を取り戻せばわたしだって自分で身を守れるもん!!」
現在、魔力の回収期に入っている小槌ではあるが、
大がかりな魔力を必要にする願いでなければ、叶えることが可能なレベルに回復している。
針妙丸自身も、人間たちとの戦いを経て少しは強くなった自信がある。
「小人族は死にかける度に、それまでよりもはるかに強くなるんだから!!」
「…小人族って戦闘民族か何かか?」
「知らないわよ」
針妙丸にとっては、竹林の英雄に出会う、という目的そのものは通過点でしかない。
それよりももっと大きな目的のために、自分を捕縛した博麗の巫女の元から逃げ出したのだ。
その目的を果たすまでは、優しい女教師に諭されても、神社はおろか逆さ城にも帰るつもりはない。
「神社に戻るつもりがないのであれば、せめてその危険な宝だけでも置いて行ってもらおうか」
慧音はそう言って、針妙丸が背負った小槌を指差した。
「…何、あなたも小槌が目当てなの?」
「そうじゃない。小人でないわたしにその小槌は使えないし、誰かに売ったりもしないよ」
もちろんそれを壊したりするつもりもない、慧音はそう付け加える。
「しかし、その小槌は幻想郷にとっても危険すぎる。霊夢はしばらく神社で預かりたいそうだ」
「しばらくって…その後は、どうする気よ!」
「それは霊夢の判断次第だろう。問題がなければ、小人族に…君の一族に返すはず」
慧音は「君の一族に」と発言した。
それはつまり、子どもの針妙丸ではなく、一族の大人たちの手に返すということだ。
自分は嘘つきな妖怪に騙されて宝を持ち出し、幻想郷を騒がせ人間に退治された。
そんな者に小槌を渡さず、分別ある大人に返そうとする霊夢や慧音の考えは、至極当然と言える。
だが、子どもには子どもの、ちっぽけでつまらない意地があった。
「…やだ」
針妙丸は小槌を自分の身体の前面に回すと、両手でしっかりと抱きしめた。
月夜の冷たい空気の中でも失われない、柔らかい温もりを確かに感じた。
「わたしは、霊夢にもあんたにも、お城の大人たちにも…この小槌を渡すのだけは嫌だ!」
針妙丸は叫んだ。
「この小槌は…この小槌は、わたしの全部だから!わたしの体で!わたしの牙で!わたしの心で!
一緒に泣いて!一緒に走って!一緒に歩いてきた!この幻想郷でのわたしの全てなのよ!
小槌をこのまま渡しちゃったら、わたしはこの先一歩も進めない!」
「その台詞の元ネタわかる人、どんだけいるかなぁ…」
メタ発言で茶化す妹紅には目もくれず、針妙丸は慧音を睨み付けた。
「どうしても小槌を奪うっていうなら、わたしは精一杯抵抗します!!」
「慧音、先輩ラスボスの台詞をパクるこけしは…食べても、いいのよ」
「お前それ、ブーメランも釣り針もデカすぎてツッコむ気にならんから」
「わたしは影狼とは違う。目の前の女の子を食べたりはしない!」
慧音、またしても影狼に喉笛を噛み千切られたいとしか思えない発言。
「魔力の回収期の小槌は不安定だと聞く。悪いようにはしないから、まずは我々に預けてくれまいか」
「…まあ、人の手に余る宝は人生を狂わすわよ。色々とね」
「お前が言うと説得力ある分、いつでも新鮮に殺意が湧くな」
輝夜と妹紅も、ひとまずは慧音の要求に異を唱える様子はないようだった。
自分より遥かに体躯が大きい三人に囲まれ、針妙丸は絶体絶命。
慧音の口調は相変わらず優しいものであったが、
一方で、有無を言わせない強い意志がこもったものであることを針妙丸に感じさせた。
危険な宝、と判断した小槌は、里の守り人にとって絶対に見逃せない代物だろう。
小槌を手放すことなくこの場を切り抜けることは、針妙丸には到底、可能とは思えなかった。
慧音は身を固くする針妙丸を見て、さらに声を和らげて話しかけ続ける。
「もし預けることが不安ならば、ひとまず一緒に里へ…っ!?」
「慧音、危ない!!」
何かの気配を感じたように慧音が振り向くのと、
その慧音に妹紅が飛び掛かり、地面に押し倒すのはほぼ同時であった。
地面に倒れた二人の身体の上を、矢のような形をした光弾が幾筋か、飛び過ぎていった。
「弾幕…後ろか!?」
慧音が視線を向けた先には、追撃の光弾も、それを放った何者かの姿もない。
一方の妹紅はすぐに身体を起こすと周囲を見回し、次なる攻撃に備える姿勢を取った。
攻撃は一旦途切れ、周囲の物陰からは何者も姿を見せない。
『こっちだよ』
一瞬の静寂の後、その声は慧音の頭の真上から聞こえた。
慧音と妹紅はすぐさま元いた場所から飛びのきつつ、上空を見上げた。
…が、今度も空にはただ満月が浮かぶばかり、鳥の姿一つない。
「あれ、今の声…はわっ!?」
聞き覚えのある声に反応した針妙丸の身体が、不意に上方へ引き上げられた。
身体をつまみ上げられ、抱え込んだ小槌ごと中空に浮く形になる。
『こっちこっち。上だけ見てると涙も乾いちゃうよ』
「「何だと!?」」
慧音と妹紅の視線が再び地上へ戻り、ようやくそこに声の主を捉えた。
先ほどまで誰もいなかった場所、
針妙丸の頭の真上にあたる空間を埋めるように、一人の少女が立っていた。
上下の矢印をあしらった独特の服装。
赤黒白の三色からなる髪。
そして、その髪の間からのぞく2本の短い角。
「初登場です。天邪鬼要素はありません」
「せ…正邪!?」
「正邪?何のこったよ。あんたの彼女か?」
針妙丸の襟首をつまんで持ち上げたその少女こそ、
かつての異変での協力者、天邪鬼の鬼人正邪であった。
「貴様、いつの間にそこに…」
「ん~、あんたたちがキョロキョロ周りを見渡してる時かな」
突然の襲撃から周囲に気を配っていた慧音も妹紅も、正邪の存在に気付かなかった。
四方の物陰から上空まで、見回していない場所はなかったにも関わらず、
正邪は誰に止められることもないまま、針妙丸を捕縛していたのである。
「外側から弾が来れば外を見る。上から声がすれば上を見る。実に短絡的ね」
この発言から、やはり先ほどの弾幕が正邪によるものだったことがわかる。
弾幕は慧音の背後、つまり針妙丸を囲んでいた三人の輪の外から飛んできており、
慧音と妹紅は自分たちの「周囲」に敵の姿を求めた。
「…元々わたしたちの内側にいた、そう言うのか?」
「まさか、地底から這い出して来たなんて言わないだろうな」
妹紅の言葉に、正邪は笑って首を振った。
一部分だけ赤く染まった前髪が、左右に揺れる。
「その子、最初は上にいたわよ」
先ほどまで何をするでもなく事の成り行きを見ていた輝夜が、呟いた。
「上?」
「そう。二人が周りを見回してる間にこけしちゃんの上に降り立って、そのままそこにいるわ」
「だからナチュラルにこけしって言わないで」
「へえ…」
正邪は輝夜の発言に一瞬目を丸くすると、にやりと笑った。
「上から声がしたときにはもう地面にいた。あなた、面白い芸をするのね」
「これはこれは…物事がよく見えていらっしゃる。どこかの小動物とは大違いだ」
「小動物って誰のことよ」
弾幕も声も、正邪がいるのとは反対の方向から放たれていた。
輝夜には最初からそれがわかっていたというのである。
針妙丸も、それを理解してようやく正邪の能力を思い出した。
彼女は弾幕や空間など、あらゆるものを「ひっくり返す」ことができる。
「ずっと上からこっちを見ていたから、神社の関係者かとも思ったんだけど」
「うふふ、残念ながら違います」
「いやお前…そんな早くから気づいてたんなら言えよ」
妹紅は不機嫌そうな顔で輝夜を睨み付けた。
「うーん、いきなり妹紅が慧音を押し倒すものだからびっくりしちゃって…この場でおっぱじめるのかと」
「なんと濡れ場をお邪魔してしまったか!これは申し訳ない」
正邪は全く申し訳なさそうにない表情で謝罪の言葉を述べた。
「馬鹿を言うな。まあ、あのまま妹紅に組み敷かれ、事に及ばれてもわたしは一向に構わなかったが…」
「え、何この淫乱女教師は…そうじゃなくて、わたしら攻撃されてたんだぞ?何で止めない」
妹紅は正邪と輝夜の双方に敵意の視線を向けつつ、言った。
「だって本当に妹紅と慧音の濡れ場だったら、邪魔しちゃえと思ったから」
輝夜は頬をぷくーっと膨らませ、妹紅に拗ねた視線を返した。
妹紅・輝夜・慧音と実際に会うのは今日が初めての針妙丸であったが、
なんとなく彼女たち三人の関係の一端が見えた気がした。
何はともあれ、今の状況は針妙丸にとってチャンスである。
まさか正邪が――一度は自分を騙して利用し、異変後自分をさっさと見捨てた彼女が、
こうして自分の窮地に駆け付けてくれるとは思いもしなかった。
「正邪、これはいわゆる修羅場よ。ヤックでデカルチャーなトライアングラーだわ」
「ますます邪魔をしてはいけない場面か。馬に蹴られる前にサヨナラノツバサだね」
正邪が針妙丸をつまみ上げたまま、ふわりと空中に浮きあがった。
針妙丸の咄嗟の発言に対し、その意図をしっかり汲み取っての逃亡のアクション。
流れで痴話喧嘩が始まりそうな英雄たち三人の隙を突き、一気に上空へ間合いを取ることに成功した。
「あ、逃げられたわよ」
「くそっ!目的は打出のこけしの方だったか、あの糸ミミズ頭め」
「慧音、混ざってる混ざってる」
慧音の「糸ミミズ」という発言に正邪の赤い前髪がぴくりと動くのを、針妙丸は見逃さなかった。
人に嫌われて喜ぶ天邪鬼だが正邪もそこは女の子、服装や髪形にはこれで結構気を使っているのである。
そして最終的に打出の小槌込みで自分を馬鹿にした淫乱乳牛も、針妙丸の脳内英雄名鑑から除名された。
針妙丸は正邪の肩の上に乗り、小槌を両手で振りかざし地上を見下ろす。
「それでは、わたしを散々こけし呼ばわりしてくれたエセ英雄の皆様」
「弱い妖怪を勝手に三枚おろしで切り分けようとする糞ったれ強者共」
「「永遠に、ごきげんよう」」
その言葉を捨て台詞に、正邪は針妙丸を肩に乗せたまま一気に飛び去った。
※ ※ ※
人里からも、竹林からも離れた林の中に正邪は降り立った。
あたりに人影はなく、巫女が探しに来るような気配もない。
妖怪としては力が弱い正邪は、こうして逃げ隠れするときには非常に役立つ人材だった。
強い妖怪や、権力者の息がかかった者が寄り付かない場所をよく知っている。
傍目に見れば弱小なる者の臆病な習性と見れなくもないそのスキルが、針妙丸は好きだった。
恐れを認め、危険を察知できる者こそが最も生き残る可能性が高い。
それは人間も妖怪も、動物であっても同じことである。
小人族よりも大きな体を持っているにも関わらず、
正邪の狡猾な思考や、逃げ隠れに躊躇がない判断力は、自分にひどく近しいものに見えたのである。
それでいて、いつまでも強者の陰に怯えてなるものかという反骨精神を持った正邪は、
まさに針妙丸が目指す「弱者の英雄」であった。
天邪鬼特有の姑息さや底意地の悪さすら、針妙丸の目にはダークヒーローめいた魅力に映った。
それはさながら不良少年の生き様に初恋を覚える深層の令嬢のようだったが、
強者に中指を立てる天邪鬼と、由緒ある小人の姫君という構図を考えれば、それはあながちただの比喩ではない。
だから正邪が自分を騙していたとわかったときも、
巫女に捕まった自分を助けもせずに逃げたときも、
『正邪ならそうするだろう』
そう思ったくらいで、大したショックを受けてはいなかった。
ただ、自分の傍に彼女がいないという喪失感は、針妙丸の小さな身体には少々ボリュームがありすぎた。
「来てくれるって、思わなかった」
正邪の左肩の上に腰かけ、針妙丸は夜風を受けていた。
風に揺れた正邪の髪が揺れ、右腕に触れるのを感じる。
「わたしはもう、正邪にとって利用価値がないと思ってたから」
「……」
正邪は何も言わない。
柄にもなく照れているのだろうか…?
そんな想像をしてしまい、針妙丸は思わずくすりと笑ってしまう。
「これから、どうしよっか?」
小槌が魔力を失ってしまっても、
一度コテンパンに大敗を喫した後であっても、
正邪が傍にいることで、まだ何かができるような気がしていた。
自分を騙して嘘の歴史を吹き込んだことや、
結局神社までは助けに来なかったことなど、憎まれ口を叩きたかったはずが、
今はそんな過去への言及が一切浮かんでこないほど、次なる何かへと、気持ちが高揚している。
「ね、正邪」
その名前を口にしただけで、逆さ城で彼女と過ごした時に戻れたような気がした。
だから自分の身体が急に中空に投げ出されたことに、針妙丸はいつもより大分遅く気づいた。
正邪が自分を肩から引きはがし、思い切り投げつけたのだと知った時には、
既に針妙丸は受け身もとれない無防備な態勢で頭を地面に向けていた。
落ちる。
常人より体格がずっと小さく、軽い自分であっても、
身長の何倍もの高さから地面に向かって投げ出されれば、無事では済まない。
「え…?」
正邪の顔が逆さまになっていた。
彼女は自分の能力を使う時、よく天地をひっくり返しては逆さまの笑みを自分に向けた。
一瞬表情を読みづらい逆さまの状態でも、正邪であれば、今どんな顔をしているか、針妙丸にはすぐわかる。
だが、今の正邪はその顔に何の感情も表してはいなかった。
上下左右東西南北全てをひっくり返しても変わらないだろう、ベクトルゼロの無表情。
正邪はそんな顔で針妙丸を見ながら、その手にしっかり打出の小槌を握っていた。
彼女の口元が小さく動き「さよなら」の形を作るのが、見えた気がした。
地面はまだだろうか…?
時間が止まり、自分が空中に縫い付けられたかのように、落下速度が落ちていた。
周囲の景色も、目の前の正邪の顔の高さも、変わらない。
「やれやれ、間に合ったかしらね」
というか、実際に自分の身体は空中に静止していた。
投げ出された身体を、咄嗟に伸ばされた両手にしっかりと掴まれて。
「粗末に扱っては駄目。こけしは日本の伝統工芸よ?」
ついさっき逃げ出した湖畔にいたはずの黒髪の姫君は、針妙丸をキャッチした姿勢のまま、
相変わらず無表情の正邪に向かって不敵な笑みを浮かべて見せた。
※ ※ ※
輝夜は針妙丸を抱きかかえると、正邪と正面から向き合った。
追いつかれたという構図だが正邪の表情に焦りや狼狽は見えない。
しかし小槌をしっかり握りしめ、輝夜に対しても一定の距離を保っているあたり、
ここからどうやって逃げようか、という算段をしていることも、針妙丸には見て取れるのだった。
「怖がらなくてもいいわよ。別にとって食おうってわけじゃない」
どうやら輝夜もそれを察したようで、柔らかい口調で正邪に言葉をかけた。
「怖がってなんかないね。お姫様ってのは、昔話じゃ天邪鬼のカモの典型さ」
「あらやだ、こちらが怖がるシチュエーションだったのね」
輝夜は針妙丸を抱えていない腕を持ち上げ、着物の袖で口元を隠した。
「そこの親指姫がいい例だよ。まさか二回も続けて引っかかるとは思わなかったけど」
正邪は針妙丸を指差し、にやりと笑った。
もう片方の手では小槌を見せびらかすように掲げており、その意図するところは針妙丸にもすぐわかった。
わかったが――それは実に悔しく、情けないことだが――遅すぎた。
「…最初から、小槌が目当てだったの!?」
「そゆこと。今更あんたを助けになんて来るわけないだろ」
正邪があの場に現れ、針妙丸連れ出した目的。
それは今や彼女の手の内にある、打出の小槌であった。
慧音たちの間に割って入ったのも当然、あの場で何もしなければ、小槌は再び霊夢の元に戻っていた。
あの時自分が何故素直に正邪を信じ、自分を助けてくれたなどという、
好意的を超越しもはや妄想といってもいいレベルの解釈をしたか、今になって針妙丸は理解に苦しむ。
正邪は一度、自分をこれでもかという卑劣な嘘で騙した天邪鬼であり、
そのことを謝るどころか自分に何も言わず去ってしまった薄情な妖怪である。
「それとも何?まだわたしのこと仲間とか…友達とか思ってるわけ?」
「…誰が、あんたなんか!!」
自分と正邪、双方への怒りを吐き出すように針妙丸は怒鳴った。
「打出の小槌は小人族にしか使えない。あんたが使っても、それはただの木槌でしかないわ」
「知ってるよ。でも、それを知ってる奴が他にどれくらいいるかな?」
小人の世界の外でも有名だった打出の小槌である。
虚弱貧弱無知無能な人間を脅し、恐れおののかせることなど容易いだろう。
あるいは、その万能の力を餌に欲深い者たちをたぶらかすことも可能だ。
小人族にしか使えないなどという肝心の事実は、残念なことにこの幻想郷でもほとんど知られてはいない。
その存在が広く知られながらも、現物を秘匿してきた小人たちこそが、
打出の小槌という概念に逆にロマンと畏怖を与え続けてきたのかもしれないのであった。
「こいつを一目見せるだけでコロッと騙される連中が、この世界にはいくらでもいるんだよ」
そこに正邪の弁舌が加われば、ものの数時間で里を大混乱に陥れるのも可能だろう。
里にあの半獣女教師がいることも今は失念している針妙丸は、ぐっと唇を噛んだ。
「ふふふ…確かにね。使えないとしても、その小槌は『本物の』お宝ですものね」
輝夜は含みのある笑みを浮かべながら、正邪の言葉に同意した。
自分を助けてくれた以上は敵ではないはずだが、この少女の態度にも、どこか内心を読めない不気味さがある。
「そ、そんなのすぐにばれるわ!あんたみたいな弱小妖怪、里で捕まって釜茹でにされちゃうわよ!」
「ははっ!そしたらわたしの十三代目の子孫に、つまらんものでも斬ってもらうか!?」
正邪は全く動じない。
針妙丸は輝夜の顔を見上げると、必死の形相で訴えかけた。
「くっ…ちょ、ちょっとあんた!あいつから打出の小槌を取り返して!!」
「あら、まさかわたしがお宝の献上を求められるなんて」
「お礼に小槌で願いを叶えてあげるわ!ト●ポのCMに出してもいい、ジ○リ映画の主役にだってなれるわよ!!」
「どっちももうやったからいいわよ」
輝夜は苦笑しながら針妙丸を地面に優しく降ろすと、正邪に向かって一歩足を踏み出した。
「なんだい債務が残ってそうな方のお姫様、わたしとやるってのか?」
「ふふ、深夜アニメでセーラー服に話しかけてそうな妖怪さん。それでもいいのよ」
たおやかな笑みが浮かんでいるのに、輝夜の表情からはどこか不気味さを感じる。
それは正邪も針妙丸と同じなのか、輝夜の接近に対し動けないままでいるのが見えた。
正邪も余裕の笑みを顔に貼りつかせてはいるが、その心には余裕がないことが、針妙丸にはわかった。
「天邪鬼なあなたをここで倒すのもマーイーカ、でも何か物足りないジャロって思うのよね」
輝夜は正邪の力の弱さを既に見抜いているようであった。
腐っても英雄伝に紅白巫女や白黒魔法使いと並び列せられる実力者、やはり輝夜は強いのだ。
顔を近づける輝夜に対し、のけぞることしかできない正邪を見ながら、針妙丸は思う。
「ねえ、逃がしてあげましょうか?勿論その小槌つきで」
「は…?」
「えええ!?ちょっとあんた、何言ってんのよ!?」
針妙丸は輝夜の胸倉にしがみつき、叫んだ。
「何、わたしの条件じゃ不満だっての?!サンラ●ズのロボアニメや、東○の戦隊特撮にだって出られるのに!!」
「だからそのへんも一応やってるから…それに●映特撮の方は一話限りのゲストだし」
「くっ…じゃあ切り札よ!モンキー・パ○チ先生が構想に十二年かけた時代劇アニメのヒロインはどう!?」
「その小槌がまともな作画スタッフを出してくれるなら考えるわ」
今にして考えると、アニメにも特撮にも「かぐや」という単語が溢れかえっていたあの数年間、
やはり月面探査機のニュースが日本のエンターテイメント界に及ぼした影響は計り知れなかったということか。
「何だい、わたしをこのまま見逃してくれるってのか?」
「ええ、わたしはそう思ってるの」
輝夜はさらにもう一歩、正邪との距離を詰めた。
針妙丸は輝夜と正邪、共に慎ましやかな胸板に挟まれるような形になってしまい、身動きが取れない。
背後を輝夜の、正面を正邪の胸元に挟まれ、ちょうど針妙丸の口は塞がれる格好である。
息も苦しい。
視線を下にずらせば、正邪の手に握られた小槌がすぐ近くにある。
しかし、今の針妙丸の小さな掌は、悲しいかなその小槌にあと数十センチの距離を詰められないのである。
「…そりゃまた何で?」
「決まってるじゃない。あなたがこのまま逃げおおせるなんて思ってないからよ」
正邪の顔を上から覗き込むように前傾していた輝夜が、相手の額をつん、と指先で小突いた。
のけぞりの限界に達していた正邪の身体はバランスを崩し、その場に尻もちをついた。
顔に貼り付いたような笑みはそのままであったが、正邪は完全に輝夜に圧倒されていた。
弱者の本能、とでも言うべき危険察知能力が、正邪に「一切の抵抗は無駄」と教えたか。
「…ぷはっ、そ、そう思える自信があるなら、なんでこいつをこの場から逃がすのよ!」
針妙丸はようやく出せた声で、輝夜を罵倒した。
「ふふふ、だってわたしやあなたが今この子を捕まえるより、面白くなりそうなんですもの」
「面白い?あんた、小人族の宝を何だと思って…」
「それはもう、クッソ穢い地上の矮小な人間の中でも、とりわけ矮小な下等生物の玩具って感じかしら?」
輝夜は小人を見下す人間よりもさらに高い位置から、打出の小槌を見下した。
彼女がどんな高みからそんな態度をとっているか、針妙丸にはわからない。
しかし、間違いなく小人や弱小妖怪では至れない高みに、彼女がいることだけは分かった。
「ほらほら天邪鬼(笑)さん、さっさとその打出の小槌(暗黒微笑)とやらを大事に抱えてお逃げなさいな(マジキチスマイル)」
敢えて使い古されたネットスラングを輝夜の台詞に盛り込むなら、こんな字面であろうか。
正邪はここで初めて笑顔をその表情から消し、輝夜に憎悪を込めた視線をぶつけると、そのまま遁走した。
その手にはしっかりと小槌を握りしめ、針妙丸を一瞥することもなく。
一切の躊躇を見せずに立ち上がると、輝夜の視線に背を向け走り去ったのであった。
「正邪…っ!!」
針妙丸は大きな声を上げ、その名を呼んだ。
正邪は足を止めることも、針妙丸を振り向くこともしなかった。
「せい…じゃ…」
その言葉を発した時には、もう正邪の背中は視界から消えていた。
※ ※ ※
数日が経った。
霊夢や慧音が相変わらず自分を探しているという噂は針妙丸の耳にも入ったが、
あの釣りの日の夜以降、彼女たちのどちらとも顔を合わせてはいない。
自分が今いるこの屋敷は、迷いの竹林の奥にあるという立地だけでなく、
何か魔法めいた力が働いて、自分を存在ごと隠してしまっているのではないか。
そんな馬鹿げた妄想をしてしまうほどに、捜索の手がこの場所まで及ぶことがなかった。
「針妙丸、ご飯の時間よ」
ふすまが開き、輝夜が顔を出した。
正邪に小槌を奪われたあの夜、呆然自失した針妙丸を抱えたまま、輝夜はまっすぐにこの屋敷に戻った。
途中妹紅や慧音、さらに霊夢を含めた人間たちに出会うこともなく、針妙丸を連れ込み、隠した。
そのような事態を迎えた経緯はともかく、
今の針妙丸にとって、この屋敷に匿われている状態はそれほど不都合ではなかった。
人間たちの捜索は相変わらず続いているだけでなく、
一度騙された相手に、今度は小槌を奪われたなどとあっては、小人の国にも帰れない。
輝夜に「ここにいなさい」と言われるまま、気が付けばこの屋敷――永遠亭で数日を過ごしていた。
一日の殆どは輝夜の部屋で、しかも小鳥のように籠に入れられて過ごす。
何度か逃亡を試みたが、屋敷を出る前に必ず連れ戻され、この籠に無理やり入れられた。
仮に屋敷から出る気がなくとも、輝夜が籠に自分を軟禁する理由は、よくわからない。
ただ漠然と「ああ逃れられない」と理解することはできた。
「今日はあなたサイズの箸を作ってみたの。明日は食器に挑戦ね」
「…随分、器用なのね」
「昔お爺ちゃんに教わった技術よ。大抵の物は竹で作れてしまうんだから」
輝夜はくすくすと笑いながら、針妙丸を閉じ込めた竹の籠の錠前を外し、蓋を開けた。
その錠前も、見ている限り材質は竹でできているのである。
「普通の竹細工で、こんな頑丈な檻や錠前を作れるかしら。っていうか錠前って…」
「簡単には壊れないでしょう?もしあなたがわたしくらいの背丈になっても、多分無理」
一体どういう原理なのか、輝夜が針妙丸を閉じ込めているこの竹籠は、
どれだけ暴れても、壊れるどころか傷一つつくことがなかった。
こうして輝夜が錠前を外してくれた時だけ、針妙丸は籠の外に出ることができた。
「さあおいでなさい、お酒もあるわよ」
「それマジ?小人に缶ビール渡すなんて最低じゃないの…」
なぜか輝夜はいかにも安物といった感じの缶ビールを出してきた。
針妙丸の背丈にしてみれば、人間が樽ごと酒を飲まされるようなものである。
「冗談よ。このお猪口に注いであげるから」
「おちょこでビール飲むのもやだなあ…」
しかも、その猪口は人間サイズなので、自分にとっては底が深くて重い盃である。
輝夜は針妙丸が両手で猪口を抱え眉をひそめる様子を、楽しげに眺めながら缶ビールを口に運んだ。
「…うん、おいしい。おかわり欲しかったら言ってね」
「何、今あんたが口付けた缶から注ぐの?」
「そうよ」
輝夜は唇についた泡を指先で拭いながら、躊躇うことなく言った。
こちらは冗談には聞こえない。
この数日を屋敷で共に過ごしたことで、輝夜が冗談を言う時と、
本気で冗談のようなことを口にするときの違いが、針妙丸にもなんとなくわかり始めていた。
「まあ、いいけどさ」
相変わらず何を考えているかわからない輝夜の顔を見上げながら、
針妙丸はこの数日間、輝夜に幾度となく投げかけた問いを口にした。
「いつになったら、小槌が返ってくるっていうのよ」
輝夜はこの屋敷に針妙丸を連れ込む際、
『必ず小槌を取り返すチャンスが来るわ。それまでここにいなさい』
と告げた。
それから今日まで、輝夜が作った籠の中に寝泊まりしながら、
時折訪れる屋敷の兎や、輝夜の保護者代わりだとかいう薬師を相手にお喋りをし、
一日三回の食事をこうして輝夜と共に取るのであった。
自分がなぜ籠に閉じ込められているのか。
屋敷の外ではこの数日間何が起こっているのか。
いつまでこうしてこの屋敷にいればいいのか。
様々な問いを投げかけるも、輝夜は勿論、屋敷の者たちも一向に答えようとはしない。
ただ『小槌は返ってくる』と針妙丸に強く言い含めるばかりであった。
その小槌に関する情報も何も入ってこず、針妙丸は次第に不信感を募らせ始めていた。
「もうすぐかしらね」
「もうすぐって、いつよ」
「もうすぐはもうすぐよ。…ふふ、そろそろ不安になって来たかしら?」
さすがにその不信感が表に出たか、輝夜は針妙丸の目を見て少し意地悪く微笑んだ。
「当たり前よ。どうして皆何も教えてくれないの?小槌のことも、正邪のことも」
「皆知らないからよ。知っていたら教えるわ」
「じゃあ、なんでそんなに自信満々で『返ってくる』なんて言えるのよ!!」
針妙丸の叫びに、泡が薄くなったビールの水面が小さく揺れた。
「そりゃまあ、信じてるからかしら」
「何をよ?!」
「強いて言うならば、そうねえ…人の『欲望』かしら」
相変わらずの煙に巻くような言い回しに針妙丸は頬を膨らませるが、
輝夜はそれを見てもなお、その微笑みを崩すこともなかった。
そしてその翌日、針妙丸は輝夜の言葉の意味を知ることになる。
※ ※ ※
『あーあー、マイクテステス』
永遠亭の庭で、二匹の妖怪兎がマイクを片手に音響のチェックを行っていた。
『本日は晴天なり。鍋の具は鈴仙なり』
『こら、誰が鍋の具よ!!』
この日は朝から、屋敷の門前に大きな人だかりができていた。
決して突然の流行病で患者が殺到したわけでも、月の都の博覧会が開催されたわけでもない。
集まった者は人間だけでなく、妖怪や亡霊など様々な種族が集まっていた。
種族を問わず大半が男性で、特に若い見た目をした者がその多くを占めている。
ごく一部の女性も若い者ばかりで、男性の来訪者同様、興奮した面持ちで屋敷の開門を待っていた。
「それにしても、集まりに集まったものねえ」
永遠亭の薬師、八意永琳は門の外の喧騒を耳にし、ぽつりと呟いた。
「当然でしょう?あれだけ頑張って広告を出したんだから」
奥から出てきた輝夜は長い着物の裾を引きずりながら、永琳の隣に並んだ。
いつものロングスカートとは違い、平安の昔を思わせるきらびやかな十二単姿。
丁寧に化粧を施したその顔も、まさに「やんごとなき身分」という言葉が相応しい美貌であった。
「こんなことをやって、問題がこじれたら大事よ?」
「問題ある行動をしているのはうちじゃないわ。お外に集まった皆さんだもの」
「ちょっとちょっと、話が読めないっての」
針妙丸は輝夜の着物の裾を引っ張り、二人の会話に割り込んだ。
朝からいきなり籠の外に出されるやいなや、輝夜に屋敷中を連れ回され、
なぜか彼女と一緒に高そうな和服を身に着けさせられ、化粧をされた。
「あら可愛らしい。あなたも輝夜と一緒におめかししたの?」
「うちの兎たちも、こけしの絵付けなんてやったことないから苦労してたわ」
「ここに来てまだ言うかあんたは!!…そうじゃなくて、何なのよこの騒ぎは!!」
朝から兎たちが屋敷の中を忙しなく動き回っており、
今日、永遠亭で何か大きな仕事が行われていることはわかった。
だが、輝夜と自分が朝からこんな格好をさせられている理由も、
屋敷の前に早朝から大勢の群衆が詰めかけている目的も、まるでわからない。
この屋敷にいる限り、針妙丸の疑問はその数を増していくばかりなのであった。
「今にわかるわよ。ついでにあなたがこの数日間、抱えていた疑問の答えも、全部」
「何よ、外で騒いでる連中が小槌を持ってきてくれるっての?」
「ええ、そうよ」
「全く、またそうやってはぐらかして…って、え?」
針妙丸が目を丸くした時には、輝夜は屋敷の表に向けて歩き出していた。
『御来場の皆様、本日はようこそおいでくださいました』
黒い髪をした妖怪兎が、庭へ招き入れた群衆を前にマイクをとった。
集まった者たちはこの時を待っていたとばかりに、兎に向けて声を上げる。
「もう待ちきれないよ、姫を早く出してくれ!」
「おう、早くしろよ」
「やっぱ永遠亭の姫様は…最高やな!」
「誰が兎に出て来いっつったオラァ!!」
「輝夜様に会いたいんだよぉぉ!!」
「姫様と俺のよ、子どもが出来たらどうする?え、オイ。総理大臣の誕生か?」
彼らは口々に、早く輝夜を出せという要求を口にする。
そしてその手に握られているのは――打出の小槌。
驚くべきことに、人妖問わず全ての者の手に、小槌が握られていたのだった。
『我らが姫の求める難題…小人族の秘宝、打出の小槌は勿論、お持ちですね?』
兎の言葉に応えるように、彼らは一斉にその手に持った小槌を掲げる。
「当たり前だよなぁ?」
「(小槌を)出せば結婚していただけるんですか」
「出ますよ~小槌」
「蓬莱山輝夜ー!蓬莱山輝夜見てるかー!!」
そしてその光景は、御簾越しに庭先を見ていた針妙丸の目にも入っていた。
「何これ…小槌が…」
「どう?あなたが待ち望んでいたものよ。それもあんなに沢山」
同様に御簾の陰に控えていた輝夜も、満足げに目を細める。
「いやいやいや、ちょっと待ってホント」
「なあに?嬉しすぎてその小さなおつむの容量をオーバーしちゃった?」
「オーバーしてるのは小槌の数だっつーの!!おかしいでしょ沢山ある時点で!!」
打出の小槌は小人族の秘宝、当然唯一無二の特別な存在である。
同じものはこの世に二つとあるはずがなく、
これほど多くの人物が小槌をその手にできることなどありえない。
「何なのよあれ。偽物?それともまたあんたが竹で作ったとでも言うの?」
「さすがにお爺ちゃんの竹細工でも、打出の小槌は作れないわね」
御簾の向こうでは、そんな二人をよそに兎が小槌の持ち主たちを煽り続けていた。
『結婚がしたいかー!!』
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!』
『姫が欲しいか!!』
『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!』
永琳が説明してくれた、この謎のイベントの趣旨は以下のようなものであった。
数日前から幻想郷のあちこちに広告を打ち、
『打出の小槌を持ってきた者に、永遠亭の姫と結婚する権利を与える』
という難題を広めさせたのである。
結果は今目の前にある通り、輝夜との結婚を目当てにした者たちが、
手に手に小槌をとって永遠亭に朝から押しかけたのである。
「じゃ、やっぱりあの連中が持ってきてる小槌は…」
「十中八九偽物でしょうねえ」
「人間も妖怪も、欲に目がくらむとあの手のインチキは平気でやるものよ」
輝夜が昨晩言っていた「欲望」とはこのことであったと、針妙丸は理解した。
まさか輝夜自身に対する欲望だったとは、思いもよらなかったことである。
「わたしのためにあんなにも多くの人が…ああ、美しさって罪」
「久々にあなたが他人の人生を台無しにしてるところを見たわねえ」
「そんなことより、小槌が偽物じゃ意味ないでしょうが!!」
「大丈夫よ」
御簾の外に走り出ようとした針妙丸の首根っこを捕まえ、輝夜は言った。
「言ったでしょう?『十中八九は』偽物でしょうって」
『それでは小槌をお持ちの皆様、あちらをご覧ください!!』
黒い髪の兎が指差す先、屋敷の一角に求婚者たちの目が向いた。
そこには今まで誰も気に留めていなかったが、
針妙丸たちがいるのとは別の部屋が開けられ、そこにも御簾が垂れ下がっている。
「何よあれ」
「さてさて、ここからがお楽しみよ」
傍に立っていた髪の長い兎が紐を引くと、一気に御簾が引き上げられ、
部屋の中で待機していた者たちが姿を現した。
彼らは年齢や背格好は様々であったが、いずれにも共通していたのは、
求婚者たちに対し、怒りや焦りを含んだ非難の視線を向けていることであった。
『さあ職人の皆様方、ただ今より製作費用の請求タイムでございます!!』
黒髪兎の言葉を皮切りに、御簾の陰に潜んでいた職人たちが、
一斉に求婚者の一団に向かって駆け寄り始めた。
「お前いつ払うんだ金よお、協会に言うぞお前」
「製作費は三十分で、五万!パパパっと払ってくれたら、終わりっ!」
「じゃあ俺、ギャラ貰ったら帰るから」
「お代一万円くれたら喋らないであげるよ?」
職人たちは口々に料金の支払を求めながら求婚者に詰め寄る。
請求しているのが、求婚者たちが手に持った小槌の製作費であることは明白だった。
『それでは皆さん、ご自身の作品は見つかりましたかぁ?』
黒髪兎のマイクからその言葉が放たれる頃には、
求婚者たちはつい数日前、もしかしたらこの日に作られたかもしれない小槌を手に、
製作費を請求する職人から逃げようと必死で走り回っていた。
「俺知ってるんですよぉ~?依頼した小槌使って嘘つこうとしてたこと」
「すいません黙っててください!何でもしますから!」
往生際悪く職人を口封じしようとする者がいると思えば、
「金金って言うんじゃねえよ三流職人の癖によオォン!?」
「調子こいてんじゃねーぞ結婚詐欺師野郎!ニセ小槌作らせたくせによー何が婚活だぁ?」
しまいには小槌を手に取り殴り合いが始まる始末である。
永遠亭の庭はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図、詐欺師と職人入り乱れての大乱闘スマッシュブラザーズである。
『はぁ~い、それでは偽物の小槌を持ってきたウソつき連中は速やかに御退場願いますねぇ~!』
兎たちは職人と、彼らに追い回されている偽小槌の持ち主を速やかに庭から追い出した。
「御覧なさい針妙丸、クッソ穢い地上人の浅ましい策が次々と破綻していく様を」
「…どうやって、あの職人共を集めたのよ」
「簡単な話よ」
輝夜の説明によれば、事前に幻想郷中の木工職人に根回し(山吹色のお饅頭つき)をし、
この数日間で小槌の作成依頼を受けた場合、永遠亭に申し出るように伝えたという。
既に代金を受け取っていた職人には永遠亭側から倍の料金を渡し、
代わりに依頼人へ製作費用を返金させ、偽小槌の回収を行った。
一方で、今日のために職人に偽小槌を作らせ、
さらに求婚の日が終わるまで代金を支払っていなかった者たちは、
当日、秘密裏に屋敷に呼んでおいた職人によって、輝夜の眼前でその嘘を暴かれることとなったのである。
余談ではあるが、巫女や半獣が小槌を探し回っている話が里を中心に広まっていたことで、
小槌を餌に輝夜を手に入れようとした者たちは、今日の今日までその所持を秘匿していた。
かくして小槌は輝夜や針妙丸が屋敷の外に出ることなく、この永遠亭に運ばれたのである。
「そして、今ここに集まった中で、職人に言い寄られていない者こそ――」
目の前の御簾がゆっくりと上がり、輝夜が正面に指先を向けた。
「――あなたが求める、本物の小槌の持ち主よ」
その者は周囲を右往左往する職人と求婚者たちの中にあって、
うんざりした表情を浮かべながら、その手の小槌に視線を落としていた。
「あれは…!」
「あの子が持ってくるってのは、予想外だったけどねえ」
御簾の向こうにいた輝夜と目が合うと、数少ない女性参加者の一人でもあるその少女は、
よりその表情の「うんざり」の度合いを強め、小槌を無造作に振りながら、言った。
「こっちはお前のやることなんてお見通しだよ」
「あら残念。でも嬉しいわ、あなたがわたしをお嫁に欲しいだなんて」
「いい加減にしろ。久々に本気でお前を殺してやりたい、そんな気分」
藤原妹紅は針妙丸の存在に気付くと、小槌を差し出した。
「あの天邪鬼、嬉々としてこいつを売りさばこうとしてたぞ」
「正邪め…自分が使えないからってそんな軽々しく…」
針妙丸はぶつぶつと文句を言いながらも、
小槌が戻って来た安堵に口元を緩ませ、眼前の宝物に手を伸ばした。
色、形、あちこちについた小さな傷に至るまで、紛れもない本物である。
輝夜のえげつない作戦や、正邪の行動など、言いたいことは尽きないが、
まずはこの小槌が手元に戻って来たことで、ひとまず小人の国には帰れるのだ。
「ありがとうございます。えーと…藤原、さん?」
「ん?ああ。妹紅でいいよ」
妹紅はそう言って微笑むと、針妙丸の手に小槌を渡し――はせず、
「何勘違いしてるか知らないけど、渡すつもりはないわよ。輝夜にも、あんたにも」
その手に強く小槌の柄を握り、その先を輝夜の顔に向けた。
「ふーん。じゃあ、小槌もわたしも両方モノにする気?そういう強引さ、好きよ」
「いい加減にしろって言ったよね?」
妹紅の顔が怒りに歪んでいる。
「宝を持ってきたら結婚してやる、ねえ。それで偽物持ってきたら職人がネタバラシと来た」
「千年経っても、男の性欲ってホント穢いわよね。あ、今回は女もいたんだっけ?」
「ふざけてるのか」
「ふざけてないわ。悪い天邪鬼から、打出の小槌をこの子に取り返してあげたかったの。
わたしは思いつく限りで一番効率が良くて、霊夢や慧音に小槌が渡らない方法を考えただけよ」
輝夜のとった作戦は確かに、人の恋心に付け込んだ点では非道なものであったが、
平気な顔で偽の小槌を作ってきた連中には、針妙丸は正直言ってあまり同情できない。
それでも妹紅のように腹を立てる者がいるのも納得はできたが、
これほどまでに妹紅が強い怒りを露わにする理由としては、不十分に感じた。
「あなたが本物の小槌をゲットするのは計算外だったけどね」
「わたしが慧音にこいつをそのまま渡してたら、どうする気だったのよ」
「あ、その可能性もあったわね。危なかったわ」
「危なかったって、ええ!?ちょっと輝夜、それマズいんじゃないの!?」
今更ながら作戦の穴が見つかったことで、針妙丸は大いに狼狽えた。
それ以前に、妹紅は小槌を返さないと言っている。
輝夜のことはともかく、自分にまで怒りを向け、意地悪をするのはさすがに理不尽だ。
「まあいいじゃない。こうして小槌がここに来たんだから」
「この人返さないって言ってるけど」
「妹紅、その宝は彼女の物よ。わたしへの文句は後でいくらでも聞くから、返してあげて」
「断る」
妹紅の目には確かな意思が見て取れた。
「慧音に頼まれた?でもそれなら、わざわざここには持って来ないか」
「この件は慧音にも内緒だよ。お前の意図も大体わかってる。そこの小人は、
幻想郷中どこを探しても見つからなかったんだ。永遠亭の中を含めてもね」
「え、永遠亭の中――って」
針妙丸が記憶している限りでは、屋敷の中に自分を探しに来た者はいない。
それらしい人物が来ていた、という話も、誰もしてはいなかった。
「何から何まで筒抜けなのね。あなたって本当に…わたしをよくわかってる。大好き」
「屋敷や地上そのものを外から切り離してしまえるんだ。そんな小動物一匹、隠すのは余裕だろう」
「大好きって言ったんだけど」
「わたしは嫌い」
輝夜の顔に唾でも吐きかけそうな顔で、妹紅は輝夜の告白を切って捨てた。
二人の顔を交互に見て困惑する針妙丸に目もくれることなく、妹紅は低い声で話を続ける。
「わかってないとは言わせないから。あんたが今触ってるのは私の逆鱗」
「千年間も同じ出来事を逆鱗にしてるのって、飽きない?」
「謝らないどころか、こうやって忘れた頃に逆撫でしてくる粘着女がいるからね」
「あ~ら、粘着し始めたのはどっちかしら?」
二人の間の空気が次第に張りつめていく。
あの釣り対決の夜とは違い、明らかに何かドロドロとした怨念が渦巻いているのが、針妙丸にもわかった。
が、それに気圧されている場合ではない。
妹紅と輝夜の間にどんな確執があったとしても、自分にとっての最優先事項は小槌なのだ。
「あ、あの半獣にも秘密ってなら、なんで小槌を返さないのよ!?それはわたしたち小人族にしか」
「使えないんでしょ?知ってる。わたしもこんなもん使うつもりはない」
「じゃあ、なんで!!」
苛立って妹紅を睨み付けた針妙丸の問いに、新たに現れた者の声が答えた。
「そりゃ、あんたたちに嫌がらせがしたいからだよ」
妹紅の背後から、その声の主はゆっくりと姿を現した。
にやついた笑みを浮かべながら、針妙丸を見下ろし、次いで輝夜に視線を向ける。
「こちらの姐さんはさぞやお怒りさ、針妙丸にジブリ姫」
「正邪…!」
鬼人正邪は妹紅の肩に馴れ馴れしく手を乗せると、赤い舌で唇をちろりと舐めた。
正邪が妹紅の手に己の指を重ね、二人で小槌を握る格好を取る。
挑発するような仕草が、針妙丸の苛立ちを余計に強めた。
「何、妹紅ったらいつの間に天邪鬼とお友達になってたの?角があれば誰でもいいの?」
輝夜の顔からもここに来て急に笑顔が消え、呆れたような口調で妹紅に問いを投げかける。
「こいつの言う通りだ。わたしらは、この小槌でお前らに嫌がらせがしたいのよ」
「あんた達が、可哀そうな独身共に嫌がらせをしたみたいにねぇ?」
妹紅はしなだれかかってくる正邪を押しのけることもせず、にやりと笑う。
正邪は正邪で、妹紅の言葉に同調し、彼女に身体を密着させたまま皮肉を言ってみせた。
「ふーん」
輝夜は無表情のまま二人を見比べ、何度か頷いて見せた。
「嫌がらせかぁ。確かに」
彼女がさっ、と右手を上げた瞬間、庭のあちこちで幾つもの人影が動いた。
針妙丸がそれに気付いた瞬間には、妹紅と正邪の周囲を何匹もの妖怪兎が取り囲んでいた。
「鈴仙、今年の姫様と妹紅のマジ喧嘩の回数は?」
黒髪兎はマイクを巨大な杵に持ち替え、正邪の脳天に狙いを定めていた。
「双方がキレた時のみをカウントしていくと、今年初よ」
その隣の長髪兎は、銃のように形作った人差し指の先を妹紅の後頭部に向けている。
「わたしキレてないし」
「キレたよ、さっき」
「キレてましたね」
「キレてたわよ輝夜」
永琳まで加わり、輝夜の言葉を三人がかりで否定した。
勿論針妙丸には、輝夜がどこで何にキレたのかはわからない。
「妹紅、その天邪鬼…と、えーとそれ、何だっけ?小槌を置いて今すぐ去りなさい。興が冷めたわ」
「え、今小槌がすごいついで感バリバリに言われてたような」
「黙りなさい針妙丸。妹紅、聞こえた?痛い目にあいたくなかったら、今すぐ消えて」
いつの間にか、輝夜が妹紅を見据える目から楽しげな光が消えていた。
「わたしはいいわよ?帰ってから、ありのままに今起こったことを話すだけだし」
「何ですって?」
「今日は慧音と一緒に、博麗神社の宴会にお呼ばれしてたのを思い出したんだ。早く帰してくれ」
その言葉が意味するところは、針妙丸にもわかった。
このまま妹紅が小槌を置いて行っても、すぐにその所在が霊夢と慧音に伝わる。
正邪が必死で笑いを堪えている様を見ても、妹紅の意図がそこにあることは明確であった。
「姐さん、わたしもお供してよござんすか」
「あー、いいんじゃない?悪さしなきゃ酒くらいもらえるっしょ」
次第に余裕が出てきた妹紅の態度に、今度は輝夜の表情が歪み始めた。
「…あなたたち、何が望みなの」
「その言葉を待ってた。輝夜は理解が早くて助かるね、大好きよ」
「さすがは姐さん、大胆な告白は女の子の特権?妬けるねえ」
「…っ…!いいから言いなさい!!こんなちゃちな嫌がらせで済ませるつもりじゃないでしょう!!」
針妙丸は初めて、輝夜が声を荒げるのを聞いた。
ほんのつい数分まで、余裕たっぷりに作戦のネタバラシをし、現れた妹紅をからかっていたとは思えない。
屋敷にいる時にも聞いたことがない、子どものように感情を露わにした怒声であった。
「鈴仙、姫様の方がキレてた喧嘩は?」
「うーん。記憶してる限りだと、初めて慧音さん連れてきた時以来かなあ」
「相変わらずわかりやすいわね、この子ったら」
兎たちと薬師は慣れた表情で、今や縁側に座り茶を煎れ始めていた。
針妙丸にはそんな余裕が持てるはずもなく、ただ妹紅と輝夜の表情を見比べることしかできない。
「お前はそこの小人と小槌を使って、わたしに喧嘩を売ってきた」
「あなたに売った覚えなんてない。自意識過剰なんじゃないの?」
余裕を持って小馬鹿にする、という先ほどの態度ではなく、完全に相手の怒りを煽る態度で輝夜は言う。
妹紅も反射的なものなのか、そこに余裕ではなく、再燃させた怒りを顔に表すことで応えた。
「黙れ暇人!お前が思い入れを持ってるのがこの小槌か、そこの小動物のどっちかは知らないが、
こうして小槌を取り返せないまま、屋敷の評判だけを落とすわけにもいかないだろう?」
既に嘘がばれた求婚者たちは屋敷の庭を去っている者がほとんどであったが、
いかに輝夜を騙すつもりであった彼らも、同時に騙されていた者たちであったことには変わりない。
永遠亭に対し、少なからず悪い印象を持ってここを去ったことは想像に難くはない。
輝夜がその目論見の結果、小槌も何も手に入れられなかったとあっては、なおのこと。
「そこでだ輝夜」
「早く言いなさい、下郎」
「わたしも自分ではなく、小槌と別の誰かを使ってお前たちに喧嘩を売ろうと思う」
妹紅はそう言って、正邪の首根っこを掴み、自分の前に立たせた。
「へ?」
他ならぬ正邪自身が、その行動に目を丸くしていた。
「わたしは小槌をもう一度、この天邪鬼に預ける」
後方から、妹紅は無理矢理正邪に打出の小槌を握らせ、その手をがっしりと拘束した。
妹紅の手は色白で一見普通の少女のように細かったが、正邪が痛みに顔を歪めたことからその膂力が見て取れる。
「お前はお前で、この件の当事者に全てを任せ、こいつと戦わせればいい」
妹紅は輝夜を睨み付けた後で、針妙丸に視線を移した。
突然自分を射抜くように向けられた赤い瞳に、針妙丸は一瞬たじろぐ。
「そこの親指姫様がこの天邪鬼を倒せたら、晴れてその手に小槌を返してやるというのは…どう?」
※ ※ ※
鬼人正邪がこれまで生きてきた中で「仲間」と呼べる存在がいたことは、意外にも多くあった。
古くは腕力、現代では弾幕が妖怪の強さを決めるこの世界では、
非力な正邪が何かを成し遂げようとするには、自分一人の力では足りないことが多くあった。
正邪はその度に口八丁手八丁、手取り足取り胸取り腰取り、
とにかく様々な手段を使って他者に取り入り、自らの味方としてきた。
が、誠意を持った対応や、対等な取引きがそこにあったことは一度もなく、
皆どこかで騙され、利用されていたことに気付き、正邪の元を去って行った。
味方の(正当な)裏切りにより策が破綻したこと、自らが痛い目を見たことは一度や二度ではない。
それでも人に嫌われることが喜びの正邪にとって、それは快感でしかなかったし、
何か大きな結果を残すより、その失敗の過程で周囲に混乱や騒ぎを振りまけたことで、彼女は満足した。
「弱者が強者を倒し、下剋上を成す」という野望だけが「叶えるべき目標」として正邪の心にあったのは、
どこかでそんな弱く狡い自分を否定したいという願望があったからなのか、それは自分でもわからない。
だがその望みを叶えるという意思だけは間違いなく本当で、
だからこそ、実際にそれを成せるほどの大きな力をもった秘宝――打出の小槌に正邪は目をつけ、
嘘の歴史という土産話と共に、少名針妙丸に近づいたのである。
「…そんな話で、本当に感動できると思ったのか?あんた」
囲炉裏の反対側に座る下着姿の正邪を、妹紅は呆れ顔で見ながら言った。
「そんなこと言われても」
ここは迷いの竹林の近くにある妹紅の家。
正邪はつい先ほどまで、この家の庭先にある柿の木の根本に埋められていた。
小槌を渡すことなく永遠亭から戻り、正邪は妹紅に自分と針妙丸の因縁を話した。
『どうせ雑魚同士の小競り合いか何かだろ』
と馬鹿にしてきた妹紅に対し、正邪は思わず、
『血沸き肉躍る一大スペクタクル、これは感動間違いなし』
『もし感動できなかったら、自分を庭の木の下に埋めてもらって構わない』
と大風呂敷を広げてしまい、結果として柿の木の肥やしになりかけたのである。
恐るべきは藤原妹紅という女、自分が冗談混じりに言ったことを一切の躊躇なく実行したのだ。
「仮に感動できても、あんたただのゲスい小悪党ポジションじゃん」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてないよ」
正邪は窒息寸前で掘り起こされ、光が当たる世界へ顔を出した。
泥まみれになった服は妹紅が洗濯をしてくれるという。
優しいのかえげつないのかよくわからない人物だったが、今の自分は妹紅の手から逃れることができない。
里の人間を相手に小槌を売りさばこうとしていたところを、
妹紅に無理やり拘束されこの家に監禁されたのはつい数日前。
抵抗しても全く敵わず、散々痛めつけられた後で逃げようとしたら、いきなり頭に火をつけられた。
『宇宙警備隊の隊長みたいにしてやるよ』
『腹筋ボコボコにパンチくらって力尽きるか?そういう姿ってドキドキする』
と笑顔で脅す火山怪鳥女には逆らうだけ無駄だと、ウルトラ弱者な正邪の勘が告げていた。
それから今日まで妹紅は自分を縛って物置に監禁していたが、
食事の際には暖かい手料理を振舞い、酒の相手までさせ、寝る時には布団を貸してくれた。
勿論、布団の中でも全身を縛られたままであったが。
本当に、その行動原理が読めない人間であった。
そして今日、正邪は拘束を解かれ、妹紅に連れられて永遠亭に向かった。
そこで謎の婚活イベントに巻き込まれ、ついノリで妹紅と輝夜の喧嘩に介入し、
さらにその妹紅の手によって針妙丸との決闘の約束までさせられた。
この数日間であまりにも多くのことが起こりすぎて、
この状況を喜ぶべきか悲しむべきか、正邪には判断がつかない。
天邪鬼特有のひねくれた性格が、さらにその状況に対する理解の難易度を高めていた。
得体の知れない、しかしその強さとえげつなさだけは確かな妹紅への畏怖が、
いつしか正邪に彼女を「姐さん」と自然に呼ばせるに至っていた。
「お、煮えたね。あんた大根好き?」
「好きです」
「そうか。まあ嫌いでも食わせるけどねー」
目の前の囲炉裏ではおでんを煮る鍋が火にくべられており、
煮卵、大根、牛すじ、糸蒟蒻といったお馴染みの具材が湯気を立てていた。
暖かい囲炉裏の傍では、下着姿でもそれ程寒さを感じない。
妹紅は洗濯はしてくれるが、代わりの服を貸してくれることはしなかった。
正邪を半裸の状態にしたまま食事をしてみたくなったのだという。
妹紅は完全に、気分次第で正邪を好き勝手に扱っていた。
「好きなものを食べるのは美味しいから好き」
「ほう」
「嫌いなものを無理矢理食べさせられるのも、気持ちいいから好き」
「ほう」
妹紅は天邪鬼のひねくれた性格が、自身への嫌がらせをどこまで喜ぶか、それを試しているような節があった。
正邪が普通に妹紅の優しい振舞いや、えげつない嫌がらせに反応する度、
感心したような顔で頷くのであった。
「じゃあ何が嫌なんだ?」
「何も食べられないこと、でしょうか」
「あはは、飢え死には辛いもんね」
あれは何度やっても慣れないよ、と妹紅は笑う。
自分がこれまで経験した死に方を嬉々として自慢する妹紅には、当初さすがの正邪も引いたが、
今ではそれなりに慣れ、食事中に四肢切断や内臓摘出の話をされても食欲を失わなくなった。
元々、正邪にとって他人の不幸は蜜の味だったのだ。
妹紅の場合はそれが自慢話になっているので、結果として味気ないことになっているが。
「まあ、話を戻そう。あのこけしみたいなのを、あんたはそうやって騙して利用したってわけだ」
「あそこまでチョロいとは思いませんでしたが」
最初に痛めつけられて以降、正邪は自然に妹紅に対しては丁寧語を使っている。
下剋上を願う妖怪の自分がこうして人間に服従している構図は非常に腹立たしいが、
妹紅の実力と、絶対に死なないというふざけた仕様、さらに意味不明な性格を目の当たりにし、
抵抗も逃亡も一切無駄、と悟りひとまずは大人しく従うことにしているのだった。
「ありゃ箱入りのお姫様だね、世間知らずなさ」
「はあ」
「わたしも昔はあんなだったからよくわかるよ。一族とか親とかさ、そういうの出されるとさらに弱い」
目の前の不死生物にも針妙丸のように純真無垢な時代があったというのか。
あんな風に、曇りのない目で正邪を真っ直ぐに見つめて、心の底から信頼して。
騙されていることも知らず、自分の手を取って、眩しい笑顔で笑って。
「ないなあ」
「何がよ?」
「姐さんがあのコロポックルみたいに純な少女だったって、まったくイメージできない」
妹紅は無言で熱々の煮卵を箸で掴み、正邪の頬に押し当てた。
「アツゥイ!?」
正邪はその発言がなんとなく妹紅を怒らせるだろう、ということは予想できていたが、
なんとなく、そう言わずにはいえなかったのである。
妹紅にどんな過去があったかは知らないが、針妙丸のあの頭の悪い純粋さは、他の人間には真似できない。
何故か、それだけは伝えなければならないと感じたのであった。
「お前、今すぐ小説版げっしょー買って来いや。んで読め」
「あ、姐さんがクスリ目当てに強盗殺人やらかす話でしたっけ?」
正邪の頭に、キャンプファイヤーよろしく炎が点された。
「アツゥイ! ヒュゥー、アッツ!アツウィー、アツーウィ!アツー、アツーェ!すいませへぇぇ~ん!」
「ジュ~ジュ~になるまでやるからな~?メタ発言は許さねえからな~?」
そんなこんなで、時折妹紅に苛められながら、正邪は初めて自分の身の上を話した。
もう正邪に逃げる意思がないと踏んだのか、妹紅は物置に正邪を閉じ込めないまま過ごした。
夜が更けた。
逃げたらわたしの不死鳥があんたに憑依して追っかけるだけよ、と釘を刺して、
妹紅は正邪を自分と同じ布団へ入れた。元々、この家には正邪に貸していた一式しかないという。
「あんたさ」
「…え?」
妹紅は眠りに落ちる前、正邪に一つだけ尋ねて来た。
「あのちっこいの以外にもさ、あんなイキイキして意地悪してるわけ?」
「…どうでしょう?」
正邪は首を傾げた。同じように騙した相手は数知れず、
だが、一度騙した後も自分を避けず、ああして向かい合ってきた者は少ない。
数日前の針妙丸のように、まさかもう一度自分を信じてきた、みたいな手合いは皆無だ。
大抵の者が、一度嫌った、懲らしめた正邪に対しては、一切の興味を失うのだから。
「もしあいつだけ、そういう風にしたくなるんならさ」
妹紅の口元に微笑みが浮かんだ。
「逃げられないように…ね」
そう言って、妹紅は一度だけ、正邪の頭を撫でた。
その手は炎のように熱い…ということはなく、普通の人間の体温を帯びていた。
次の日から、妹紅は正邪を縛ることも、閉じ込めることもしなくなったが、
今度は「針妙丸に勝つための特訓」と称してしごきを始めた。
その内容は苛烈を極め、例を挙げていくと、
・流れ落ちる滝を手刀で断ち切る
・巨大な丸太の振り子を避ける
・河童が作った自動車(オール電化)で正邪を追いかけ回す
といったもので、最後の自動車(ジープ型)の特訓ではバンパーに正邪の足が触れるなど、
一歩間違えば轢き殺されそうになるレベルであった。
河童の科学力は便利である。…と妹紅(無免許)は語る。決して作者が思っているわけではない。
毎日、特訓の後には妹紅が作る美味しい料理が待っており、
正邪は夕飯を済ませ、妹紅が沸かしてくれたドラム缶風呂からあがると、泥のように眠った。
小槌を持たない針妙丸はただの小動物、自分がこんなに鍛える必要はあるか?と妹紅に尋ねたが、
「輝夜がついている時点で、まともに戦える相手だと思わない方がいい」
妹紅はそう言って、変わらず正邪をしごくのであった。
途中、本当にこのまま殺されるのではと思い、逃亡を考えたが、相手は妹紅だ。逃げられない。
結局、あのまま毎日縛られていた方が遥かに楽だった、と思いつつも、
正邪は妹紅が持ってくる宇宙人めいた特訓をこなさざるを得なかった。
※ ※ ※
一方の針妙丸も「絶対に負けるな、負けたらあんたにウサ耳を移植してイナバにする」と脅す輝夜により、
打出の小槌を賭けた正邪との決闘に向け、着々と準備を進めさせられていた。
「お疲れ様、どう?乗り心地は」
「ターンピックが冴えないわ」
針妙丸は正邪とは違う形で、輝夜により毎日、過酷な特訓を課されていた。
ここは永遠亭の倉の一角を改造したメカドック。
輝夜があの婚活イベントの日に徹夜をして作ったという、竹細工の巨人の格納庫であった。
巨人と言っても、その大きさは普通の人間レベル。針妙丸基準での「巨人」である。
精巧に作られたその見た目は、ポニーテールを結った少女のように見えた。
「ふむ、まだまだ調整が必要ね」
そしてこの竹細工の巨人「ビルド依姫」は、なんと針妙丸の操縦により駆動するのだ。
小槌を奪われた小人の肉体のままで針妙丸が正邪に勝利するため、輝夜が発案した秘密兵器であった。
『わたしが作って、あなたが戦う』
をコンセプトに、輝夜は針妙丸の決闘に全面協力を申し出た。
一晩で作ったとは思えない出来のビルド依姫だったが、針妙丸により最適化するため、
こうして毎日テストを行い、操作性や強度、機動性の調整を行っていた。
針妙丸自身も、永遠亭の妖怪兎を相手に、スペシャルな模擬戦を二千回近く行い腕を磨いている。
「…なんで輝夜は、依姫をモチーフにしたのかしら?」
「はあ、なんでも『ファンから反感を買うレベルのチート級な無双っぷり』に元ネタとの共通点を見出したとか」
「正確には元ネタの元ネタね。ビルドがつかない方のストライク…のパイロット」
永琳、鈴仙、てゐの三名は相変わらずほのぼのとお茶を飲みながらその様子を眺めている。
怪我をすれば彼女たちがすぐに手当てをしてくれるのである。
「これ、いつも気になるんだけど…何の力で動いてるの?」
「基本的なエネルギーはミステリウム粒子よ。あとお爺ちゃん直伝の竹細工」
この屋敷では、もはや何でもアリであった。
自分がこれまで軟禁されていた鳥籠が「開けられない」どころか「外部から認識できない」完全密室になっていたことや、
輝夜の能力による「永遠の魔法」により歴史が進まなくなった道具の、不可思議な強度と耐久性。
『あんまり外で大っぴらに使うと、また霊夢や慧音に怒られる』
そう言いながらも、輝夜たちは針妙丸のためにそうした能力を惜しげもなく使っていたのだった。
今度は(針妙丸にとっての)巨大ロボである。もう、滅多なことでは驚かなくなっていた。
「間違ってもあなたの命とか、記憶情報では動いてないから安心してね」
「材質が竹っていうのが一番命の不安だよ…」
わざわざ針妙丸サイズのパイロットスーツを用意してきたあたりも、輝夜の本気が伺えた。
「大丈夫よ、これで妹紅と戦うっていうなら可燃性の材質は問題だけど…相手はあのキルラキルでしょう?」
「キルラキルが何かはわかんないけど、まあ正邪は火とか吹かないわね」
「ビルド依姫の太刀は竹光だけど、刃先の厚さは単分子レベルに薄くしてあるからね。切れ味は神剣フラガラッハに匹敵するわ」
切れ味はともかく、単分子並に薄い竹とは強度が恐ろしく心配である。
「あなたの宝物、取り戻したいのでしょう?」
「そりゃまあ、勿論」
あの時、輝夜は妹紅の挑発に乗っかり、針妙丸と正邪の対決を了承した。
針妙丸にしてみれば、何故そこで正邪と…と異を唱えるべきところだったが、何も言わずに納得した。
小槌を奪われていたこともあったが、それ以上に、自分がもう一度、正邪と向かい合う機会であるということが大きかった。
「正邪に言いたいこと…沢山あるから」
「ふふ、でしょう?」
あれから、輝夜は怒ったり、声を荒げたりすることはなくなった。
針妙丸が正邪の話をすると、輝夜はいつも楽しそうに笑った。
そしていつも、その後でこう言うのであった。
「あの子の相手をしてあげられるのはね」
輝夜はそれを言う時、それまでにも増して楽しそうな顔をしていた。
「きっと、あなた一人だけなのよ」
輝夜の目には、ここにはいない誰かの姿が映っているようであった。
針妙丸はもう身を隠す必要がなくなったためか、今では輝夜と布団を並べて寝ている。
一緒に寝る?とも誘われたが、いかに華奢な輝夜の体躯でも針妙丸にとっては巨人である。
押しつぶされてはたまらないと、別の布団を敷いて寝ることにした。
寝物語に輝夜が話す過去のエピソードは、とても面白いものばかりだった。
妹紅の家から干し柿を盗んで食べたこと。
初めて湖で釣りをして、妹紅と張り合ったこと。
ダイエットをしようとして妹紅と競い、結局三日坊主に終わったこと。
妹紅の家から漬物を盗んで食べたこと。
庭に海水浴場(?)を作ったら、妹紅のせいでそこが露天風呂になったこと。
輝夜の話には、やたらと高い頻度で妹紅が登場した。
勿論他の様々な人物(特に、霊夢や魔理沙、咲夜と戦っていたことには驚いた)も、
永遠亭の住人達の珍事を並び様々なエピソードを伝えてくれたが、
くだらない話や、無駄にエログロナンセンスが盛り込まれた話には、妹紅が必ずいた。
『あんな面白い玩具は、こんな狭い地上では滅多に見つからない』
輝夜はいつも妹紅のことをそう評する。
好事家で暇人で、いつも何か面白いこと、やりたいことを探している輝夜が、
それだけの評価を与えているのは、妹紅だけであった。
妹紅の話をするときの輝夜の目は、意地悪に、残酷に輝いていた。
騙すことも苛めることも殺すことも全く躊躇わないその目が、
ここに本人がいるといないとに関わらず、妹紅を見ているのが、針妙丸にもわかった。
妹紅があの時、小槌を持ってきた時あんなに怒ったのは、輝夜がこうして、
いつも妹紅にえげつない嫌がらせを繰り返しているからなのだろうか。
妹紅は輝夜が自分をそういう風に見ていることをどう感じているのだろうか。
妹紅は輝夜のことをどう思っているのだろう。
そして――自分ならば、誰かにそんな風に思われた時、何を思うのだろうか。
そんな誰かがいる人生は、どんなものなのだろうか。
「ねえ、輝夜」
針妙丸は、傍らで横になる輝夜に尋ねてみた。
「なあに?」
「輝夜はさ」
輝夜は針妙丸の方に顔を向け、微笑んだ。
月明かりが青白く照らした彼女の顔は、人形のように端正で、美しい。
「なんであの時、妹紅にあんなに怒ったの?」
「あの時って?」
「妹紅と正邪が、小槌を返さないって言った時」
輝夜は一瞬目を見開き、針妙丸から視線を外した。
「…さあ、何でかしら」
これも、針妙丸がまだ見たことがない輝夜の表情であった。
苦虫を噛み潰したようなその顔は、新鮮である。
「あなたこそ、あの時ムカつかなかったの?」
「わたし?」
「そうよ。あの天邪鬼が妹紅にベタベタしてた時」
あの時、事態が二転三転しており、怒る前に混乱していたが…確かに、
ようやく帰ってきたと思ったら、妹紅の私怨で小槌が返って来なかったことには、怒りを覚えた。
その他にも何かに苛立ちを覚えていた気もするが、よく思い出せない。
「まあ…小槌返さないとか、ふざけんなって思ったけど」
「……」
輝夜は何も言わず、
「痛いっ」
針妙丸の額にデコピンをかました。
体格差から、針妙丸は布団の外に弾き飛ばされた。
「針妙丸ってばホントに子どもねー」
「うぐぐ、どこのドラゴンマスター志望よあんた」
這いずって布団に戻る針妙丸は、目に涙を浮かべて輝夜を睨み付ける。
そんな針妙丸を見てくすりと笑うと、輝夜は優しくその頭を撫でた。
「きっとね、あの子と本気で決闘してみたら、わかるわよ」
「わかるって、何が」
輝夜は、その問いには答えず、針妙丸に布団をかけなおした。
「…おやすみ。明日も気合入れていくわよ」
「何なのよもう」
頬を膨らませる針妙丸に微笑みかけ、輝夜は目を閉じた。
※ ※ ※
それから数日間、針妙丸と正邪は、それぞれ置かれた状況下で鍛錬を重ねた。
正邪は少なくともそこらの人間に嘗められない程度には「妖怪らしく」強くなっていたし、
針妙丸はビルド依姫をある程度自由自在に操り、永遠亭の兎を圧倒できるレベルまで熟達していた。
輝夜は毎日針妙丸の模擬戦に立ち会い、己が作った竹細工の巨人(全長160cm)を夜遅くまで整備していたし、
妹紅は正邪の傍を離れることなくしごき続け、スタミナ満点の手料理を振る舞っていた。
針妙丸は一族の秘宝を取り戻すため、
正邪は妹紅に逆らうと確実に殺されるからという理由で過酷な特訓に耐えていたが、
いつしかそんな理由よりも、互いに戦う相手のことを意識するようになっていった。
(わたしは今度こそ、正邪と決着をつけるんだ)
(針妙丸…あんたを、今度こそ絶望させてやる)
針妙丸は正邪への心残りを清算するため、正邪は針妙丸の馬鹿げた勘違いにとどめを刺すため、
妹紅と輝夜が取り決めた決戦の日を、今か今かと待つようになっていた。
相変わらず小槌と針妙丸を探し回っていた霊夢は、
妹紅から事情を聞いた慧音に説得され、二人の決着がつくまで捜索を一時中断した。
どちらが勝っても、小槌を今後も悪用するならば容赦はしないという条件付きである。
これにはこれまで針妙丸を匿ってきた永遠亭の面々も、輝夜には内緒で了承した。
妹紅と輝夜が決めた決戦の場所は、迷いの竹林の一角。
天然の空き地のように開けた場所を使い、関係者以外に見られることなく、
二人の雌雄を決しようとしたのである。
ちなみに時刻は深夜十二時。日付の変更をもって永遠亭は針妙丸を匿うための全ての術を解き、
この決戦の結果がどうなろうと、その後の行く末は針妙丸本人に任せることにした。
立会人は当の妹紅と輝夜、そして小槌の行方に関し責任を負う慧音。
そして本来招かれざる客ではあるが――決着の日、つまり今日のこの場所に立っていた者は、他にもいた。
「…こんな夜遅くに、うちの近くで何やってくれてるかな」
偶然にも、針妙丸と正邪の決闘の場所は、今泉影狼の住む場所の近くであった。
決闘の立会人は三人しかいなかったが、妹紅と輝夜が出会い頭にドンパチをやらかしたため、
うるさく思った影狼がこうしてここまで足を運んできたものと見える。
「あら、この間の腹ペコ狼じゃない」
「そういうあんたは宇宙猿人ゴリ。今日は萩の月は持ってきてないの?」
影狼は、輝夜に対しては相変わらずいい印象を持っていないようだ。
明らかに敵意を含んだ視線で輝夜を睨み付けている。
「だからそのネタやめなさいっての。泣くわよ」
「影狼ちゃん、女の子にそんなこと言ったらだめよ」
自分を食べようとした相手すら庇う優しい少女は、わかさぎ姫。
影狼の両手にお姫様抱っこされた状態でやってきた彼女は、
最初輝夜と妹紅、そして慧音の姿を見て恐怖の表情を浮かべたが、すぐに平静を取り戻し影狼を叱った。
「あんたこそ、こんな夜遅くに彼女連れ込んで何やってたんだか」
「「か、彼女!?」」
妹紅の言葉に、影狼とわかさぎ姫は見事なハーモニーで狼狽える。
「人魚は歩けない、あなたは歩ける。ここまで連れてきちゃえばやりたい放題ですものね?」
「こちらのマーメイド殿も、逃げるふりをしてそっと潜る感じだったに違いない。捕まえて好きだと言って欲しかったんだな」
輝夜と慧音の顔にも何かを察するかのような表情が浮かんでいた。
影狼が牙をむき出しているのは、自分たちの行動を邪推されたからか、あるいは図星を突かれたからか。
「わ、わたしらが家で何しようが勝手でしょ!?」
「そうです!!影狼ちゃんが毛深くならないよう、わざわざ満月の日を外したのに…」
どうやら影狼が毛深くなる満月の日では不都合なことをしていたようである。
「へー、なんで影狼が毛深いと駄目なのさ?」
「ぐーや子どもだからわかんなーい」
「こらお前たち、他人の性生活を面白がるものじゃないぞ」
二人を諫めるようで「性生活」などと露骨な単語を出しているこの教師が一番の害悪である。
「こ、こいつら…こうなったら、この場で全員二回戦のスタミナにしてくれる」
「三人も食べれば、二回戦と言わず朝までイケるよ影狼ちゃん!!」
ここに至っては、もはや二人にも先ほどまで何をしていたか隠す気もないようであった。
「輝夜は運動不足で脂がよく乗ってるからな。食うならそっちにしとけば?」
「失礼ね。ま、あんたは胸も尻も貧相で食べ応えある場所がないからね」
そう言いながら、輝夜と妹紅は戦闘態勢をとるように影狼たちと向かい合った。
草の根妖怪コンビVS畜生アンデッドの対決、
あの満月の夜の続きとも言うべき戦いの火蓋が切って落とされようとした、その時である。
「ちょっと待ちなよ、あんたたち」
密集した竹の陰から、黒髪有角の少女――正邪が姿を現した。
「今日の主役はわたしらでしょ?いつまで前座試合やってるつもりさぁ」
そして、正邪が現れたのとは別の暗闇から、ポニーテールの少女人形が姿を見せた。
それは全身を竹細工で作られた、小人から見れば「巨人」サイズの人型兵器、ビルド依姫。
「そうだよ輝夜、待ってる間に眠っちゃうよ」
今夜の決戦の主役たる二人はそれぞれ、妹紅と輝夜が呼ぶまで竹の陰で待たされていたが、
案の定と言うべきか、当初の目的を忘れた蓬莱人コンビのせいで、
約束の時間を大幅に過ぎてもなお自分たちの対決の時間を迎えられないでいた。
※ ※ ※
「もう、輝夜は妹紅が絡むといつもそうなんだから」
ビルド依姫の操縦席に座った針妙丸は、片目を擦りながら口を尖らせた。良い子はもう寝る時間帯なのだ。
身長以外も含めて小っちゃい子な針妙丸にとっては、この時間帯ははっきり言って夜更かしだ。
「ふぁ…やっぱり眠い。居眠り運転で捕まっちゃうよ、もう」
決闘をしようというのにこんな時間帯をわざわざ選ぶあたり、
輝夜は本当に針妙丸を勝たせる気があるのか、大いに疑問を感じるところではあった。
ビルド依姫の操縦席には何故かウイスキーが入ったスキットル(勿論小人サイズ)があり、
輝夜からは「戦う前に飲んでね」と笑顔で言われたのであるが、針妙丸は何故か不穏な雰囲気を感じた。
ロボの操縦席でウイスキー、それはガトリングでブチ抜かれて死ぬフラグではないのか、と。
「おい針妙丸、あんたいつからそんなにおっきくなったのさ」
決戦の相手たる正邪が、挑発するようにビルド依姫を眺めまわしている。
ようやく、彼女の前に立つことができた。
打出の小槌を取り戻すことは勿論、正邪に言いたかった幾つものことをぶつける機会に巡り合うことができた。
怒りも悲しみも、悔しさ、寂しさも、この場で全て正邪に叩きつけてやりたかった。
「正邪の目は節穴かな?わたしはここよ」
操縦席のハッチ――ビルド依姫の胸部を上に開き、針妙丸は正邪に己の姿を見せた。
「なんだあんた、こけしからマトリョシカにジョブチェンジか?感度良好5to4?」
「うっさい。さっさと戦う準備しなさい、この馬鹿溜まり」
久しぶりに真正面から向かい合う正邪の下衆な笑顔も、憎まれ口も絶好調だ。
腹立ち以上に懐かしさを感じ、針妙丸は思わず微笑んでしまう。
不思議なものだ。正邪がああして悪意をぶつけてきたことはそれほど多くはなく、
異変の間は素性も本音も隠し、針妙丸に甘い言葉と微笑みばかりを与えてきたというのに。
「あんたの二枚舌引っこ抜いて、里の居酒屋に売りつけてやる」
正邪の本当の姿がわかった今、彼女が「らしい」言動を自分に見せることが、
目の前に、手が届く距離に正邪がいるということを実感させてくれる。
その事実が、これから始まる決闘に向け、針妙丸の心を大きく高揚させていた。
「何やら妙な道具を手に入れたみたいだけど、姐さんの地獄のシゴキに耐えたわたしには敵わないよ」
「ちょっと妹紅、こんな小さな子に何したの?恥辱の仕置きなんて、いやらしい」
「お前女性ホルモンで耳の穴が詰まってるんじゃないのか」
自分は輝夜の技術の、正邪は妹紅の鍛錬の助けを借りて今日の準備をしてきた。
二人の代理戦争をやるつもりなど毛頭ないが、自分たちの決闘を盛り上げてくれるなら大歓迎だ。
「そこな天邪鬼さん。妹紅の性奴隷という不名誉な立場で一生を終えるなんて可哀想だけど」
「滅相もない、わたしは姐さんの玩具として腹上死できるなら本望でさあ」
「お前は黙って戦えっての。あとわたしは一回殺して死ぬような奴は性奴隷になんてしないし」
「わたしの作った1/1ビルド依姫の竹光のサビになってね。…って妹紅、それはつまり、死なないわたしは性奴隷の資格アリってこと?!」
なぜか嬉しそうな輝夜。
「あと貧乳は資格なしな。ゆえに正邪も輝夜もNGってことで」
「え、永琳に豊胸剤作ってもらうもん!」
「妹紅の姐さん、わたしは乳属性をひっくり返すことで巨乳になれます。ただし乳首もひっくり返ってその、陥没を…」
「妹紅、それはつまりわたしが不死身になれば完璧ということ…だな?」
今度は妹紅の性奴隷の座争奪戦が始まりそうだったので、針妙丸はビルド依姫に大きな音で足踏みをさせた。
軽い竹を使った材質ながら、人間の少女一人分を上回る重量が周囲の竹を大きく揺らす。
「いいからさ、さっさと始めようよ。それに正邪、今度は妹紅を騙そうとしてるの?殺すよ」
「いや、わたしは姐さんならこのまま奴隷にされても…」
「よし殺す。余力があったら妹紅も殺す」
正邪がこうやって、騙して誰かに取り入ろうとするのは止めるべきなのだ。
自分のように正邪に利用されたり、陥れられたりする者は他に増やすべきではない。
よくわからないが、怒りを感じた。ましてあの正邪が性奴隷など、ありえない。ありえるはずがない。
性奴隷がどういうものなのかは針妙丸にはぶっちゃけよくわからないが、とにかく正邪がそうなるのは防ぎたい。
刀身が長い竹光を青眼に構えたビルド依姫の操縦席のハッチが閉じ、その目が三日月のように鋭く光った。
繰り返すようだが、ビルド依姫の駆動には輝夜が地上で学んだ竹細工を使用している。
その竹細工が何やかんや機能し、何やかんやでミステリウム粒子を作用させ竹の少女人形を動かしているのだ。
何やかんやは何やかんやである。
「どうかしら妹紅?わたしが手に塩かけて育てたパイロットは」
「手塩にかけて、だ。日本語は正しくな」
「ぶっ」
「か、影狼ちゃん、笑ったら悪いよ…くすっ」
輝夜の誤用を慧音先生が正す。こういうことは放っておくと本人のためにならない。
影狼とわかさぎ姫は口元を抑えるだけの気遣いを見せたが、妹紅には勿論そんな慈悲はない。
「いいよ!来いよ!手にかけて手に!」
「ううううっさいわよこの没落貴族!針妙丸、いますぐ妹紅を斬っちゃいなさい!!」
顔を真っ赤にした輝夜の指示には従うことなく、針妙丸は正邪に竹光の剣先を向けた。
ビルド依姫の操縦席は何やかんやで視界良好に作られていたが、もはや針妙丸の目には正邪しか映らない。
「正邪、まさかわたしみたいな小物にビビったりしないよね?それとも、天邪鬼って普通に戦うと小人より弱いのかな?」
「そんなお人形さんに頼ってて『普通に戦う』も糞もあるか、虫ケラ」
正邪は針妙丸が珍しく自分を挑発したことに一瞬驚き、その後ですぐに笑みを浮かべて中指を立てた。
その様子を見て輝夜と妹紅も言い争いを止め、慧音は正邪と針妙丸の間に立つ。
わかさぎ姫と影狼は先ほどまでの不毛なやり取りに呆れ家に帰ろうとしていたが、その足を止めた。
二人の間の空気が張りつめていた。
「…えー、その。挨拶が遅れて申し訳ないが、今宵の決闘を預かる上白沢慧音だ」
「「知ってる」」
針妙丸と正邪は同時に応える。
「それはありがたい。鬼人正邪、少名針妙丸。君たち両名、勝った方が相手の用意した条件を飲む…で、いいかな?」
「わたしが勝ったら、正邪にジャンピング土下座で打出の小槌を返してもらう」
「わたしが勝ったら、そこのちっこい奴は小槌を妖怪に奪われた大罪人として、小人族全員に全裸土下座だ」
「ふむ。互いに小槌と土下座をかけた真剣勝負というわけだ。ルールは…論じるだけ無駄か」
慧音は針妙丸が乗ったビルド依姫を見てため息をついた。
正邪も妹紅も文句を言わないということは、さすがに針妙丸が丸腰で対等に戦えるとは思っていないのだろう。
これは巫女が定めたスペルカード戦などではなく、人ならざる立会人の前で行われる闇の決闘だ。
針妙丸は恥じることなく輝夜から与えられた戦力を行使するし、正邪がどんな手を使おうとも文句を言うつもりはない。
しかし、正邪はビルド依姫の竹光を指差し、一つだけ要求を口にした。
「そっちは刀を持ってる。わたしも何か武器を使わせてほしい」
「…だ、そうだが?」
「別に構わないよ。正邪が好きな武器を使ったらいいわ」
追い込まれても手より先に口が出る正邪に、まともに武器が使えるなどとは思えない。
「後悔するなよ、ちっこいの。姐さん、何かいい武器はある?」
「そう言うと思った。天邪鬼、お前のために武器を用意しておいたよ」
妹紅はこれを待っていたと言わんばかりに、正邪に武器を手渡した。
それは切っ先も鋭い巨大な裁ち鋏…の、片割れ。
「何これ」
「片裁ち鋏に決まってるでしょ。あんたにピッタリの武器だ」
「…いらない」
正邪は心底嫌そうな顔で妹紅の申し出を断ると、少し考え…そして、にやりと笑った。
「わたしは、こいつを武器にして戦うよ。正々堂々、真剣勝負だ」
あろうことか、正邪は打出の小槌をその右手に構えた。
ややリーチは短いが、本来その形状は何かを打つためのもの。
小槌の魔力を使用できない正邪からすれば、その使い道は確かに理に適っていると言えた。
「その悪趣味な人形からあんたが出てきたところを、モグラ叩きみたいに潰してやる」
「真剣勝負、ね…どこまでわたしたち小人を馬鹿にしたら気が済むのかしら」
一族の至宝を敢えて武器に使う正邪の行為、それは挑発以外の何でもない。
戦い方云々ではなく、単純に正邪の性格をよく表した選択と言えた。
そんな正邪は小槌を無造作に右手に持ったまま、特に構えをとることなく、再び針妙丸の前に立った。
対する針妙丸――が乗ったビルド依姫は、相変わらず竹光を青眼に構えたままである。
「…白沢の先生、始めて」
「いいのか、あの小槌はあなたたち小人族の…というか何かあったらわたしの監督責任なんだけど」
「どうせ正邪には使いこなせない。倒した瞬間に取り上げてやるんだから」
挑発に腹が立ったこと以上に、正邪らしさを感じる選択だと思ったことで自然に笑みが浮かんだ。
そんな相手を、これから自分が叩きのめして小槌を取り返すのだ。そう思うとわくわくした。
「…そうか、わかった」
慧音は針妙丸と正邪の間の位置から一歩後ろに下がり、相撲の行司のように二人から距離をとった。
誰も、物を言わなかった。
竹林が夜風に葉を揺らす音だけが、針妙丸の耳に聞こえていた。
ようやく始まる。
あの逆さ城で止まっていた自分と正邪の時間が、ここから再び動き出すのだと、針妙丸は思った。
※ ※ ※
数秒間の沈黙の後で、慧音が口を開いた。
「では両名、いざ尋常に――」
「死にな、このエセ胎内仏め!!」
「そう来ると思ったわよ!!」
開始合図を待たず仕掛けてきた正邪の小槌を、針妙丸はビルド依姫の腕を上げ受け止めた。
太い竹を使用し作られたその腕は、勢いよく振り下ろされた小槌の一撃にも折れることはない。
ビルド依姫の右足が前蹴りを正邪の腹に叩き込み、相手を後方に弾き飛ばしつつ間合いを取った。
対する正邪は蹴りが当たる前に自ら後方に飛び、ダメージを殺しつつ着地をした。
互いの得物の間合いから外れていることを確認すると同時に、針妙丸は再び竹光を構え直した。
「慧音、もう始まってる!」
「見ればわかる。全く、お前たち二人に匹敵する悪餓鬼のようだな」
慧音はこうなっては審判役など無意味、とばかりに溜め息をつくと、影狼とわかさぎ姫に並んで腰を下ろした。
二人は一度慧音に視線を向けるが、すぐにその目は正邪と針妙丸が対峙する姿に釘付けになる。
「ははぁ。あんた成長したね。さすがに騙されないか」
「正邪の口から『正々堂々』とか、ズルしますって宣言して貰ってるようなもんよ!!」
永遠亭の兎たちを訓練相手に操縦技術を磨いた針妙丸にとって、
ビルド依姫はもはや人馬一体ならぬ人機一体、自由自在に動かせる己のもう一つの肉体であった。
輝夜が当初思っていた以上に、針妙丸は乗機を自分の戦力とするに至っていたのである。
「その二枚舌、こいつで三枚に下ろしてあげるんだから!!」
本来は殺傷能力を削ぐための材質で刀身を作られた竹光であったが、
輝夜お得意の竹細工により何やかんや刃先の厚みを単分子並に削られており、大抵のものを両断できる必殺武器だ。
「さ…三枚に…?や、やっぱり小人もお魚を食べるんだ…」
「落ち着いてわかさぎ、小人と人魚の体格差を考えて」
「ねえ妹紅、二枚舌を三枚に下ろしたら六枚になるのかしら?」
「あの天邪鬼以外にちょうど六人いるから、皆で分けられるな」
輝夜と妹紅はさらに慧音の隣に座り、五人がベンチのように並んで二人の対決を見守る形になった。
ちなみに五人が腰を下ろしているのは倒れた竹を数本並べ、重ねた即製の長椅子である。
わかさぎ姫はさすがに竹に腰を下ろすのは難しいのか、影狼にお姫様抱っこされたままであった。
針妙丸は勢いよくビルド依姫を突っ込ませ、竹光で切りかかる。
正邪はそれに対し――躊躇いなく、小槌でその斬撃を受けようとした。
竹光の刃はその防御ごと正邪を一刀両断…
「できるかーっ!!」
…しそうになったところを危うく寸止めし、針妙丸は刃を引いた。
奪われたどころか自ら小槌を破壊してしまっては、自分が一族の手により三枚に下ろされかねない。
そもそも魔力の回収期の不安定な小槌を壊すなど、何が起こるか分かったものではない。
「正邪、あんた小槌でガードするとか何考えてんの!?」
「何って?わたしは相手が武器で攻撃してきたから、自分の武器で受けただけよ」
「壊れたらどうするのよ!?」
「別にどうもしない。元々わたしの持ち物じゃないしね」
そう言って舌を出す正邪の顔を見れば、白々しい、などという言葉すら浮かんでこない。
針妙丸はぎり、と奥歯を軋らせた。
打出の小槌を文字通り盾に取られてしまったような構図である。
「…ていうか、武器に選ばれた時点で気づきなさいよ…」
「うるさい!輝夜こそ、何で教えてくれなかったの!?」
ひとまずビルド依姫は竹光の刃を返し、正邪に峰を向ける形をとった。
これはこれで、鍔迫り合いになれば自身が単分子カッターと化した刃に切断されかねない。
「さあ、今度はこっちから行くよ!!」
正邪はこの状況を有利と見るや、勢いづいて小槌で打ち掛かってきた。
小槌はリーチが短いがその分軽く、正邪の非力な腕でも矢継ぎ早の攻撃を可能としていた。
ビルド依姫の竹光も軽さが強みではあるが、元ネタよろしく長い刀身により取り回しが悪く、
小柄ですばしこい正邪に懐に入られると、針妙丸は一方的に防戦を強いられることになった。
「ほらほらどうしたぁ!?勢いがよかったのは最初だけかい!?」
「くそっ…輝夜、こいつ他に武器とかないの!?」
正邪に小槌を武器として使わせてしまったこと、
そして今までの訓練で、長刀を使った戦法しか練習してこなかったことは、
戦闘経験の少なさから来る油断か、それとも小人サイズの脳味噌が招いた浅慮か。
「ていうかそれも今まで教えてくれなかったの!?ねえ輝夜!!」
「いや、その…ちゃんと理由があるのよ」
針妙丸の怒りももっともである。
敵陣の妹紅も含めた四人も、輝夜に非難の視線を向けていた。
輝夜はばつが悪そうに頭を掻くと、その場で立ち上がりこう宣言した。
「さっきの『他に武器はないの!?』っていう台詞を、一度パイロットに言わせたかった!!」
「そんな理由で―!?」
そう叫んだ針妙丸は一瞬の隙を突かれ、操縦席のハッチ部分に小槌の一撃を食らう。
頑丈なビルド依姫の装甲は簡単には壊れないが、その衝撃により針妙丸の身体が大きく揺さぶられる。
視界が揺れ、背中は操縦席のシートにしたたかに打ち付けられる。一瞬呼吸が止まった。
「うぐっ…!!」
さらに正邪はその隙を逃さず、動きを止めたビルド依姫の手元を打ち、竹光を弾き飛ばした。
呼吸が整わないまま針妙丸はなんとか操縦桿を操作し、正邪から距離をとる。
既に竹光は竹林の暗闇に消え、簡単に手元に戻せそうにはなかった。
「ほら輝夜、武器落としちゃったぞ。早く教えてあげたら」
「ふっふっふ…当然。メカニックの夢を叶えてくれた針妙丸ちゃんにご褒美よ」
小槌の一撃をなんとか防御しつつ、ビルド依姫は正邪の追撃から逃げ回っていた。
動き自体が鈍っていないのは訓練の賜物だが、攻撃の手が見いだせない針妙丸は焦る。
「いいから、勿体付けてないで早く教えなさい!!」
輝夜は針妙丸の叫びを聞いて満足げに頷くと、満面の笑みを浮かべて言った。
「…足元、右側のボタンを押しなさい」
「なんでそんな押しにくい場所に作るかなぁ!!」
文句を言いながらも、針妙丸はどうにか足元に手を伸ばしボタンを押した。
「間違って押したら困るからよ、あなたが」
輝夜の楽しそうな声が聞こえた。
その瞬間、操縦席の周囲が一瞬暗転し――針妙丸の意識は、闇に飲まれた。
※ ※ ※
正邪は針妙丸が持ってきたという竹細工の人形の予想外の性能に驚いていたが、
それ以上に、自分自身の身体の軽さ、技の速さに感動を覚えていた。
あの地獄の鍛錬は、単に自分の身柄を拘束したドSな不死生物の暇潰しかと思ったが、
実際に自身の俊敏さ、体力ともに短期間で大きく強化されており、
これまで武器として使ったことがなかった小槌を操り、針妙丸のビルド依姫を追い詰めていった。
こちらの意図にも気づかず小槌の使用を認めた針妙丸の頭の悪さは相変わらずだが、
相手の戦力は決して低くはない。妹紅と同じく長い年月を生きる得体の知れない不死生物、
輝夜の入れ知恵と謎の技術による武装(特に異常な切れ味の竹光)は脅威であった。
それでも小槌を攻撃と防御に使う作戦は思い通りに運び、
針妙丸をこの手で追い詰めていく快感を十分に味わうことができた。
「よお、小人の姫さん…もう終わりか?」
武器を失い逃げ回った挙句、ついには動きを止めた竹人形に向かって、正邪は声をかけた。
竹製とは到底思えない強度を誇るその体には大きなダメージを与えられないでいたが、
戦意を失ったところに駄目押しの一撃をくれてやれば、矮小な箱入り娘の針妙丸は必ず音を上げる。
先ほどの正邪の挑発にも返事をしなかったことから、もう彼女には最初の勢いはないはずであった。
「ていうかさ、あんた勢い込んで来たわりに、特になにもしてないよね?」
言いながら、正邪の胸の内には苛立ちにも似た感情が湧き上がってきた。
自分を騙し、見捨て、さらに一族の宝までも奪おうとした悪党に対し、
この程度の劣勢で白旗を上げてしまうのが、英雄・一寸法師の末裔たる彼女の限界なのか。
決戦の開始前、針妙丸が自分にかけた言葉と声には、確かに今までとは違う強さがあった。
精神的に成長した――それが何によるものなのかは、正邪にはわからない。
永遠亭にいたという日々の中で彼女に起きた変化か、
あるいは自分と共に起こした下剋上と、そこで起こった戦いの経験によるものか。
どちらにせよ、正邪にとってそんな相手を再びドン底へ突き落とし、
絶望に泣き崩れる表情を見るのは至上の喜びでしかなかった。
時間をかけて騙し、痛ぶり、敗北と絶望を味あわせる。
そうして針妙丸が涙を流して悔しがる顔を、自分の目で拝んでやりたかった。
かつての自分にはそれをやるだけの力量はなかったが、今の針妙丸に小槌はなく、
正邪自身は妹紅の鍛錬により妖怪としての力を明らかに増している。
「正直、がっかりなんだけど」
下剋上が失敗に終わり、針妙丸が霊夢に捕獲されたのを見て、正邪は何も言わずに姿を消した。
それからずっと、針妙丸のことが頭を離れなかった。
彼女を騙した上に見捨てたことを、怒り、嘆き、恨んで欲しかった。
罵倒の言葉をぶつけ、嫌悪を露わにした顔で自分を追いかけてきて欲しかった。
だが針妙丸は博麗神社にとらわれ、弱い自分は巫女に退治されることを恐れ、近づくこともできない。
神社の近くまで行っては引き返し、自分は何をやっているんだと苛立つ日々であった。
そんなある日、針妙丸が小槌を持って神社を脱走したことを知り、正邪は大喜びで針妙丸を探した。
これでようやく、誰にも邪魔されることなく、針妙丸に真正面から嫌われることができる。
どんな顔で煽ってやろう。どんな言葉で嘲ってやろう。
針妙丸はそんな自分にどれほどの怒りをぶつけてくるだろう?もしかして刺されるか?
そんな期待に胸を膨らませながら見つけた針妙丸は、今度は得体の知れない人間のような連中に捕まっていた。
邪魔をするな、とばかりに割り込んだ正邪に対し、針妙丸はあろうことか感謝の言葉をかけた。
針妙丸は正邪のことをまだ味方と思っており、自分を助けに来てくれたと本気で信じていた。
どこまでも純粋でお人好しなお姫様。
自分ような下衆で卑劣な天邪鬼に、なぜこんなにまで好意を持っていられるのか?
正邪にはまずそれが理解できず、次いで期待していた悪意を受けることができなかったことで、
混乱と困惑、落胆が入り混じった感情のまま、針妙丸を再び突き放した。
嫌ってくれないなら、改めて徹底的に嫌われに行ってやろう。
そうして小槌まで奪って去ろうとした正邪に、針妙丸は怒りや罵倒でなく、ただひたすら悲しい目を向けた。
その目は正邪が期待した悪意でも絶望でもなく、歯痒いだけのものだった。
正邪には針妙丸の視線を真正面から受け続けることができず、輝夜に見逃されるままその場を去った。
自分が何をどうしたいのか、正邪にはわからなくなっていた。
それから奪った小槌を使うこともできないまま彷徨い、自棄になって小槌を手放そうとしたが、
そこを妹紅に捕まり、永遠亭で思いがけず針妙丸と再会した。
そして妹紅と輝夜の確執に巻き込まれるように、針妙丸と対決する機会を得た。
今度こそ、針妙丸の悪意を全身で真正面から味わうことができる。
「正邪、さっさととどめを刺してあげな」
「…わかってますよ」
そうして始まったこの対決は、正邪にとって本当に幸せな瞬間だった。
針妙丸は強気で自分を挑発し、殺傷能力たっぷりの武器を使い、本気で切りかかってきた。
その敵意、悪意、害意、殺意が、気持よくてしかたなかった。
もっと全力で、自分を叩き潰しにかかってほしかった。
そんな相手をさらに騙し、責め、苦痛を与えることもまた、楽しかった。
針妙丸はさらに自分に怒り、反撃をしてくる。
こうして真正面から戦うことで、どれだけ自分を嫌ってくれるだろう?
この小さくて、馬鹿で、単細胞で、お人好しで――最高に可愛いお姫様は。
だから、この対決がこんなにあっさりと終わってしまうのは、正邪にとってひどく寂しいことであった。
せめて針妙丸が、悔し涙を溜めた目で自分を睨んでくれていることを願い、
正邪はビルド依姫の操縦席のハッチに手をかけた。
「さよなら、針妙丸」
大好きだったよ、と声には出さず、口の動きだけで言った。
「…モード反転…」
輝夜が横で何かを言っていた。このお姫様にもがっかりだ。
自分の満足のためだけに針妙丸を利用し振り回す、そんな非道な輩は自分だけでいいのだ。
正邪はこの戦いを演出してくれたことだけは輝夜に感謝していたが、こんな終わりは望んでいない。
なぜ、もっと本気で自分を殺しにかかれる武器を、針妙丸に与えてくれなかったのか。
「…っ!?正邪、離れて!!」
「え?」
妹紅が何かに気付き、叫んだ。
「…裏コード、ザ・ビースト!!」
輝夜がそう叫んだ瞬間、ビルド依姫が再び動き出した。
正邪はそれを認識するとすぐさま、妹紅の指示通りに大きく距離をとる。
「嘘!?こいつ、まだ動けるの?!」
先ほどまで正邪がいた場所を、ビルド依姫の腕が空振りしていた。
動くのが一瞬でも遅れていれば、そのまま頭を飛ばされていそうな勢いであった。
「あら、今の一撃を躱すのねえ」
竹人形の作り主は、驚いた顔で正邪を見ていた。
ビルド依姫は先ほどまでの剣士のような姿勢ではなく、身を低くし、地面に手をついた獣のような構え。
背中からは何本もの竹筒が飛び出し、さらに人形の顔は口が大きく裂け、鋭い牙がのぞいている。
そこに集まった妖怪連中より、よほど化け物じみた外見になっていた。
その外見から想像される以上の敏捷性で迫るビルド依姫の攻撃に、今度は正邪が逃げ回ることしかできない。
「ねえ影狼ちゃん、機動戦士だと思ってた竹人形が、汎用人型決戦兵器になってるよ」
「モデルになった依姫って子、どんな恐い妖怪なのかしら…」
おそらくモデルの本人も、地上で自分への風評被害がこんな形で広まっているとは思うまい。
「おい輝夜!なんだこれ、本当に人形か!?」
「お爺ちゃんの竹細工に不可能はないのよ!」
その万能性は、もはや隙間妖怪の境界操作や、八意先生の薬、
河童の科学力といった二次創作向け便利ツールに匹敵する。
魔法の森の人形師がここに居たら、間違いなく輝夜にその技術の教えを請うだろう。
最もこのおぞましい変貌は、彼女のセンスが許すところではないかもしれないが…。
「汚染区域突入もいとわないとはな…しかし、中のパイロットは無事なのか?」
慧音も、先ほどまでとはまるで動きが違う竹人形に疑惑の目を向けた。
確かに、再び動き始めてから針妙丸は何も言っていない。
もはやなんでもありなこの人形、勝手に動いていても誰も驚かないだろう。
「勿論よ。針妙丸、顔を見せてあげなさい」
四足に近い状態だったビルド依姫が動きを止め、二本の足で立った。
それでもその背筋が獣めいた猫背になっているあたり、先ほどまでとは明らかに骨格(?)が異なっている。
胸元のハッチが開き、操縦席の針妙丸が顔を出した。
「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬も…あれ!(迫真)」
「いや誰だよお前」
なぜか針妙丸までも獣のようにギラついた表情で歯を剥き出している。
もはや別人のような迫力があったが、針妙丸が戦意を取り戻していることに正邪は安堵した。
「おい輝夜、お前変な薬でも盛っただろ。なんだよ(迫真)って」
「ビーストモードはミステリウム粒子と竹の成分が何やかんや作用してビルド依姫と、
そのパイロットの戦闘能力、機動性、そして精神的なテンションを大幅に上げるの。
それこそビースト…つまり、野獣のようにね。文字で表すと(迫真)が語尾についちゃうくらい」
妹紅は苛立った表情でその説明を聞いていた。
「だからその『何やかんや』って何なんだよ」
「何やかんやは――」
詰め寄られた輝夜は、おもむろにその場から立ち上がった。
一同の視線が自分に集まっていることを確認し、小さく息を吸って、言った。
妹紅に慧音、影狼とわかさぎ姫、戦いの手を止めた正邪と針妙丸も息を呑んで次の言葉を待つ。
「――何やかんやよ!」
「皆、喉が乾かないか?暖かいお茶を持ってきたぞ」
「さすが慧音、気が利くわね」
「ありがとうございます~」
影狼とわかさぎ姫は、慧音が水筒から注いだお茶を受け取る。
妹紅は忌々しげに輝夜とビルド依姫を見比べ、言った。
「おい正邪、とにかく何でもいいからその人形早くぶっ壊せ」
「言われなくても!」
正邪は針妙丸を睨みつけ、再び小槌を構えた。
対する針妙丸もギラついて血走った目に怒りをたたえ、正邪を睨み返した。
「正邪、小槌を返してもらうわよ!!(迫真)」
「はっ、やれるもんならやってみな!」
ビルド依姫の胸元のハッチが閉じ、人形の目に毒々しい眼光がともった。
まだ戦える。まだ針妙丸は、自分を打ち負かそうと向かって来てくれる。こんなに嬉しいことはなかった。
戦闘再開。
ビルド依姫の大きく開いた口に向かって、正邪は小槌を振り下ろした。
※ ※ ※
「その顔を剥いでやる、正邪!!(迫真)」
爪が長く、鋭く伸びたビルド依姫の手が、正邪の顔に伸びる。
正邪は小槌を顔の前にかざし、その一撃を受け止めた。
「今度はトランスフォーマーかよ、何でもアリだな!!」
針妙丸側は武器を失ったことで、誤って小槌を壊す危険が減り、攻撃に躊躇がなくなった。
一方正邪は竹光を持たない相手の懐に入りやすくなり、至近距離で小槌を打ち込めるチャンスが増えた。
小槌には細かい傷がいくつかできてはいたが、大きな破損はない。さすが鬼の宝だ。
「…輝夜。依姫って奴は本当にあんな妖怪なの?」
「うーん、あんまり話したことはないし、実際はよく知らないんだけど。
永琳が言うには神が憑いてる、って話だし、弾幕をバリバリ食べるとかの情報もあって…」
「何だそれ」
「神憑き→かみつき→噛み付き、って感じで、獣みたいに弾幕を食べる生き物なのかと」
「どこの霊長兵器だよ…」
竹人形のモデルを見たことがない一同の中では「依姫」なる人物が、
ニンゲンヤメマスカの問いにYESで答えてしまった系のキャラを確立しつつあった。
さらにこれまでに見た色々な要素も混じっており、誰も彼女が妖怪であると疑わない。
そして、目の前で繰り広げられる戦いは一進一退だったが、
スピードとパワー、そしてテンションを上げた針妙丸がやや優勢に見えた。
「まあ、あのビーストモードにも弱点はあってね」
「弱点?」
息をつかせぬ攻撃に疲れを見せた正邪が、バランスを崩し転んだ。
尻餅をついた正邪に、ビルド依姫が勢いよく飛び掛かる。
起き上がろうとした両手を押さえつけられ、正邪は背中、次いで後頭部を地面に打ち付けた。
「捕まえた!!(迫真)」
ビルド依姫の身体を通じ、針妙丸の嬉しそうな声が響く。
「くそっ、放せこら!!」
「暴れないで…暴れないでよ、正邪!(迫真)」
正邪を組み敷いた状態のまま、針妙丸は操縦席のハッチを開けた。
「ここで降参して小槌を返せば、痛い目を見なくて済むわよ?(迫真)」
「はっ、この程度で勝ったつもりか?そっちも手を動かせないだろう」
「それはあくまで、人形の手よ!(迫真)」
針妙丸はそう言うと、操縦席を立ち、正邪の胸元に降り立った。
操縦者を失ったビルド依姫の腕から力が抜けるが、正邪は起き上がることができない。
既に、正邪の喉笛に、針妙丸が抜いた針の剣の切っ先が向けられていたのである。
「勝負あったね、正邪」
ビルド依姫を降りたことで野獣系のテンションが抜けたのか、針妙丸はいつもの口調と表情で言った。
一応審判役の慧音が針妙丸の勝利を認めたのか、席を立ちあがろうとした、その瞬間。
ビルド依姫の背中――正確にはその背中から飛び出していた数本の竹筒が、爆発した。
「何だっ?!」
中腰になったままの慧音の、驚きの声が響いた。
文字通り爆竹が炸裂するような音が響き、次いでビルド依姫の四肢と胴体が誘爆するように爆ぜた。
「おい、爆発したぞ?!」
「…あーあ、やっぱりか」
正邪は、最初に爆発した箇所が背中だったことで、爆発に巻き込まれる前にビルド依姫の身体の下から抜け出せた。
急いで地面を転がり、なんとか膝立ちになったのと同時に、次の爆発で胴体が派手に壊れた。
針妙丸の小さな身体は最初の爆発で、どこかに吹き飛ばされていた。
「針妙丸…」
正邪は針妙丸の姿を探し、周囲を見回す。
大破したビルド依姫の付近にはその姿が見えない。
「お、おい、針妙丸!!」
先ほどまで戦っていたことも忘れ、正邪は不安げな声で叫んだ。
こんな形で決着がつくことなど、自分は望んでいない。
あのまま針妙丸に針の剣を刺され、死んでしまっていた方がまだ、よかった。
「やっぱりって、何か知ってたのか?」
「だから弱点よ、弱点」
輝夜は特に焦ることもなく、自分が作った竹人形の残骸を眺めていた。
「ビーストモードはミステリウム粒子を過熱させてものすごい出力を出してるの。
二、三分もしたら竹のボディが耐えられる限界を超えて引火しちゃうのよね」
「…よくわかんないけど、あの手のパワーアップにありがちなオーバーヒートだな」
「ま、そんな感じよ」
「お前たち、そんな話をしている場合か!!」
逆に焦っているのは慧音で、正邪と一緒に針妙丸を必死に探していた。
「こけしの姫様、無事なら返事しなさーい」
「だ、大丈夫ですか~?」
影狼とわかさぎ姫も、不安そうに辺りを見回し始めている。
「おいジブリ姫!お前の人形のせいだろ!なんで探さないんだ!!」
「あなたこそ戦ってた相手が吹っ飛んだのに、何を必死に探してるの?天邪鬼っておかしいわねえ」
輝夜はビルド依姫の傍に近づくと、その残骸の一つを手に取る。
「爆竹は音の割に大した爆発じゃないし、あの子もこの程度で死んだりしないわよ」
「死…!!」
その言葉に、正邪は顔から血の気が引くのを感じた。
「そんな顔しないの。ビルド依姫は壊れ、あなたは五体満足で立ってる。勝ったんだから喜べば?」
晴れて小槌もあなたのものよ、と輝夜は笑った。
正邪は唇を噛み、輝夜を睨み付けるが――小槌、と言われ、自分が先ほどまで持っていた得物を思い出した。
今の正邪の両手には何もない。小槌は先ほどの爆発を逃れる際に手放し、そのままになっていた。
だが、ビルド依姫の残骸の周りには、小槌は見当たらない。どこかに吹き飛ばされたか?
再び、正邪は泣きそうな顔で周囲を見回し始める。
「…正邪。小槌を探してるの?」
その時、竹林の闇から針妙丸の声が響いた。
全員が一斉に、その声をした方を振り向く。
針妙丸がそこから現れることを期待し、全員視線を地面に集中させた。
「針妙丸!よかった、無事で…え?」
だが、そこに見えたのは小人の全身像ではなく、人間大の素足だけであった。
そこから視線を上に移すと――桃色の着物の裾、帯、襟元――そして、針妙丸の顔があった。
「魔力の回収期でも、これくらいは使えるのね」
正邪とほぼ同じ背丈になった針妙丸が、打出の小槌を手に、ゆっくりと姿を現した。
※ ※ ※
小槌が文字通り手元に戻ってきても、針妙丸はそれで勝負を終わらせる気はなかった。
先ほど一度は追い詰めた正邪は武器を失ったものの五体満足で立っており、
逆にビルド依姫を失った針妙丸自身も、小槌の力で巨大化し、こうして正邪の前に立っている。
まだ勝負は終わっていないのだ。
「正邪」
あの下剋上異変の時と同じように、正邪と同じ目線で向かい合うことができた。
これでようやく、本当に、あの時止まった時間が動き出した。
「言ってないぞ」
「え?」
「さっき、無事でよかったとか…言ったのは。あんたに言ったんじゃない。小槌だ」
正邪はそう言って、目元を何度もゴシゴシと擦っていた。
「そうなの?わたしは、正邪が無事で良かったって思ってるよ」
そう言って、正邪に微笑みかけてみた。
性格上、正邪はこういうことを言うとひどく気分を悪くするのだ。
案の定、正邪は胸糞悪い、といった感じの表情で舌を出してきた。
「ばーか、わたしは姐さんに鍛えてもらったんだ。小人じゃあるまいし、あの程度で死ぬか」
「だよね。でも本当に無事で良かった。だって…」
針妙丸は針の剣を抜き、構えた。
あの竹光ほどの切れ味はないが、この大きさでの刺突は殺傷力十分。
妖怪退治にはうってつけな、先祖伝来の輝く針の剣である。
「この手で正邪を倒さないと、勝った気になれないし!!」
「そっち?そっちなら…嬉しいね!!」
武器がない正邪が、今度は己の能力を使うべく、妖力を全身に滾らせるのが見えた。
そうだ、英雄の妖怪退治はこうでなくてはならない。
正邪の能力で二人がいる空間の天地がひっくり返り、全身が頭上からの重力に引っ張られるのを感じた。
逆さまの笑みを満面に浮かべた正邪に向け、針妙丸は何も躊躇うことなく跳躍した。
二人の対決は、夜が明けるまで続いた。
どちらから言い出すわけでもなく、互いにスペルカードを駆使しての弾幕戦となり、
互いに魔力を使い果たせば、今度は武器を使って何度も打ち合った。
正邪は針妙丸が落としたビルド依姫の竹光を見つけ、それを使った。
妹紅の鍛錬に剣術の稽古までは含まれていなかったのか、
せっかく切れ味抜群の竹光も、その威力をいまいち発揮できなかった。
針妙丸は針妙丸で、自分で剣をとっての戦いは経験が浅く、
一寸法師の末裔とは到底思えない、拙い剣捌きで、正邪とチャンバラごっこのような立ち合いを演じた。
輝夜と妹紅は時折やじを飛ばしながら、慧音と影狼は微笑ましそうに、
そしてわかさぎ姫は痛そうな場面がある度に目をつぶりながら、ずっと二人の戦いを見守っていた。
針妙丸は何度も、正邪に対して抱えていた思いを叫び、吐き出した。
――仲間だと思っていたのに。
――正邪を、信じていたのに。
――どうして助けてくれなかったの。
――所詮一人じゃ何もできない、人間より弱い妖怪の癖に。
――許さない。
――卑怯者。
――嘘吐き。
――大嫌い。
もう自分のような犠牲者が出ないよう、ここで正邪を倒す。
卑怯卑劣卑屈な悪い天邪鬼をやっつけて、本当の英雄になる。
そう宣言し、針妙丸は無駄な力が入りまくった、あまり重くない一撃を正邪に何度も見舞った。
恨み言を吐き続けながらも、針妙丸は自分の胸のつかえが一言ごとに取れていくのを感じた。
この思いを全て吐き出してしまえば、自分は正邪をどんな風に思うのだろう?
自分の心の行く末を、針妙丸は見てみたかった。
一方の正邪は、針妙丸の罵倒を耳に心地よく感じながら、幾度となく嘲笑と挑発を繰り返した。
――天邪鬼を仲間と思うなんて、正気か。
――小槌が使えれば、お前なんて最初から必要なかった。
――身体が大きくなっても、脳味噌の大きさは変わらないんだな。
――騙される奴が悪いんだよ。
――怒ったって、怖くない。
――単細胞。
――世間知らず。
――虫ケラ。
ここでわたしに負けて、小槌を奪われて、さらに恥の上塗りをするがいい。
小槌がなければ、お前らの一族を丸ごと皆殺しにすることだってできる。
正邪のその言葉に激昂した針妙丸の目は、ずっとぶれることなく、正邪を見ていた。
もっと睨んで欲しい。
その美しい瞳を、もっともっと、自分への怒りと恨みで光らせてほしい。
いつまでもこうして、針妙丸に敵意を向けられていたい。
四六時中、息をする暇もないほど、その剣で自分の心臓を狙い続けてほしい。
そのために、針妙丸が困ることだったら、何だってしてやろう。
いつでも、どんな時でも。彼女一人、自分を嫌ってくれれば、それで生きていける気がした。
「大好きだよ、針妙丸」
「わたしは嫌い!」
今度は声に出して告げた想いは、全くの躊躇もない言葉の一撃で斬って捨てられた。
どこかでそんなやりとりを聞いたことがある気がするが、そんなことはどうでもよかった。
大好きな相手に真正面から嫌いと言われた。嬉しくて、涙が溢れてくる。
涙で滲んだ視界が正邪に隙を作り、針妙丸の剣が竹光を正邪の手から叩き落とした。
得たり、と笑った針妙丸にも油断が生まれたか、正邪の蹴り上げを躱せず、その手から剣を飛ばされる。
互いに得物がなくなった。
針妙丸は正邪のように小槌を武器にすることはせず――人など殴ったことがないような細腕で、正邪に殴り掛かってきた。
正邪もそれに応えた。体力面では妹紅に鍛えられているとはいえ、正邪にも元々、武術の心得はない。
まして少女の身体では、妖力がない状態の徒手空拳で発揮できる戦闘力など、針妙丸と大差ないのであった。
チャンバラごっこから、さらに子どもの喧嘩レベルになった戦いだが、当の二人は大真面目に決闘の続きをしていた。
「おーい二人とも、いい加減に仲直りしないか」
「慧音、先生の顔になってるよ…」
妹紅は、あんな取っ組み合いを普段から見慣れているであろう友人に苦笑した。
「案外わたしたちの殺し合いも、端から見たらあんな感じなのかもね」
輝夜は相変わらず楽しそうに二人の戦いを眺めていた。
その横で影狼がぶんぶんと首を振っている。
「あなたたちのは戦い方がグロ過ぎてR指定がかかるでしょ」
「心外ね。サービスシーンが多いと言ってもらえないかしら」
「内臓や骨がチラリするシーンのどこがサービスよ!」
人食い狼の妖怪とは思えない影狼の発言に、わかさぎ姫がくすくすと笑う。
おっとりした臆病な人魚姫は、案外ホラーやグロは平気なタイプのようだ。
「…輝夜。あの二人、ここで決着がつくと思う?」
「どうかしら。それこそ本当に、会う度殺し合う仲になっちゃうかもね」
「お前たちみたいな手合いが増えるのか?里の側としては勘弁願いたいな」
慧音は溜め息をつく。
「しかしまあ、わたしも十中八九そうなる気がする」
そう言う彼女の目の前で、針妙丸と正邪はお互いの髪を引っ張りあっていた。
正邪は瞼の上が腫れ、針妙丸は唇が切れて血がにじんでいるのがわかる。
「ああも仲良く、楽しそうに喧嘩をされてはね」
そう言って、慧音は溜め息をもう一つついた。
輝夜と妹紅は顔を見合わせ、少しの間のあと、同時に吹き出した。
「あはは、慧音何言ってんの?そんな喧嘩、あるわけないじゃん」
「そうよねえ。仲良く喧嘩なんて、どこの猫と鼠かしら」
二人はとても、楽しそうだった。
「…そういや、なんでわたしら、あいつらの戦いのセッティングなんてしたんだっけ?」
「さあ?何だったかしら。釣り対決の時にあの子たちが出てきて…そうだ、お魚!!」
「ひいっ!?」
「ちょっと、思い出したようにわかさぎ姫を見て涎たらさないでよ!!」
影狼が慌ててわかさぎ姫をかばい、輝夜たちに背を向ける。
二人の視線の先では、もはや立っているのもやっとという二人が、力の入らない腕で平手打ちの応酬をしていた。
その痛ましい、しかし満ち足りた二人の姿を見て――影狼は抱え上げたわかさぎ姫に、視線を落とした。
「…ねえ、わかさぎ」
「何?」
「…一度、本気で喧嘩とか…してみる?」
わかさぎ姫は一瞬、影狼が何を言っているかわからない、という表情を見せ、すぐにびくっと身を震わせた。
「えっ?!ど、どうして…?か、影狼ちゃん、わたし何か、悪いこと…した?」
既に涙目になり、自分の腕の中で不安げに震えるわかさぎ姫を見て、影狼は苦笑した。
「冗談よ」
そう言って、影狼はわかさぎ姫を抱く腕に力を込めた。
腕の中の震えが止まるまで、ずっとそうしていた。
既に体力が尽き、意地を張り合うように立っていた針妙丸と正邪が、ついに倒れた。
最後の平手打ちが互いの頬に同時に入った瞬間、全く同じタイミングで、折り重なるようにその場に崩れ落ちた。
「…三…六…十」
慧音があくびを噛み殺しながら十数え、頭上で両の手を交差させた。
二人は既に意識を失い、ぴくりとも動かない。
「はーい、ダブルノックダウン。終わり終わり―」
そう言う慧音の頭上に、竹と竹の隙間を縫って朝の日差しが降り注いでいた。
影狼があくびをすると、わかさぎ姫、輝夜、妹紅…という順番で、それが伝染していった。
「これ、小槌はどうなるのかしら?」
「わたしが預かって霊夢に返しておく。彼女たちは二人とも勝てなかった、文句は言わせないよ」
針妙丸の帯に刺された小槌を、慧音が手に取った。
その場の誰も、異を唱えることはなかった。
「ここに放っておくと狼に食われる。ひとまず永遠亭に運んでくれるか」
「食べないわよ!!」
「影狼ちゃん、そこは別に否定しなくてもいいんじゃ…妖怪的に考えて」
慧音の提案に、屋敷の主も首肯した。
「それがいいわね。じゃあ妹紅、よろしく」
「阿呆、永遠亭ならお前が連れて行け。わたしは帰る」
「お・ね・が・い。家で朝御飯ご馳走するから…皆もどう?お腹、空いたでしょう?」
またしても影狼から、お腹が鳴る音が一同の間に伝染していく。今度は慧音も含めて、だ。
ひとまず全員、輝夜の提案を断る雰囲気ではなさそうであった。
「…ま、竹林の行き倒れを永遠亭に運ぶのは、いつもやってるからな」
「こちらの天邪鬼はわたしが持とう。輝夜と妹紅は二人で針妙丸を運べ」
「「えー」」
唇を尖らせる輝夜と妹紅を横目に、影狼がわかさぎ姫を抱え上げた。
「わたしはわかさぎ姫を抱く仕事があるから、そっちでよろしくね」
「あら、抱く仕事ですってよ妹紅さん」
「朝からお盛んねえ」
「だ、抱くっていうのはそういう意味じゃない!!」
※ ※ ※
結局、針妙丸と正邪は気を失ったまま、仲良く永遠亭まで運ばれ、
目が覚めるのを待って全身の生傷の治療を受けることとなった。
昼過ぎ、針妙丸は先に目を覚ましたため、横の布団で寝ていた正邪を残して部屋を出た。
輝夜と共に過ごしていたのとは別の部屋だったが、
廊下にいた兎がすぐに永琳に知らせ、診察室で手当てを受けた。
妹紅たちは既に朝食を食べ終え、午前中の内に屋敷を出ていた。
小槌がないことに気付き、慌てて輝夜にその行く末を聞いたが、時すでに遅し。
体格が人間大のままで小槌を回収されたのは幸いというべきか。
しばらく博麗神社に帰らなくても、虫や獣を恐れる必要はないだろう。
用意されていた遅い朝食を食べていると、少し遅れて正邪が入ってきた。
輝夜曰く、手当てを受けず屋敷を抜け出そうとした所を捕縛し、
無理矢理治療を受けさせ、ついでに食事もしていくよう「お誘い」をしたという。
正邪は部屋に入り、針妙丸がいることに気付くと一瞬肩を震わせたが、
何も言わずお膳の前に座り、向かい合う形で食事を始めた。
針妙丸は何を言うべきか、あれこれと考えたが…昨日の戦いの最中の舌戦が嘘のように、言葉が出てこない。
そうしている間に正邪の食器からは料理がどんどん消えていき、針妙丸は焦った。
焦った挙句、上ずった声で、ひとまず正邪の名前を呼んだ。
「せ、正邪!!」
正邪はまたしても肩をびくっ、と震わせ、
「…何」
と、不機嫌そうな声で答えた。
針妙丸はまた言葉を探して少し迷った後、相変わらず上ずった声で言った。
「今度はわたしが勝つから!絶対、やっつけてやるんだから!!」
「…今度…?」
「そ、そうだよ!今度!正邪がまた悪いことをしたら、わたしが必ず止めに行くからね!!」
今度、また、そういった言葉を針妙丸が口にする度に、正邪の目が大きく見開かれていった。
「あ…あんたごときに、そんなこと、できるわけないだろうが!!ばーか!!」
「できるもん!!」
「小槌もまた取られちゃったんだってぇ?そんな状態のあんたに何ができる!!」
正邪の顔に、いつもの下衆な笑みが浮かんでいた。
初めて出会った頃から何度も見た、針妙丸が大嫌いな、いつもの正邪の顔だった。
「正邪みたいな弱い妖怪、大きくなったわたしなら、小槌なしでも余裕だし!」
「おーおー大した自信だな。…あれ、太陽が黄色いよ?」
「え、うそ?」
「もーらいっ」
正邪が箸を伸ばし、針妙丸の膳の上から卵焼きを奪った。
そのまま赤い唇と舌を使い、卵焼きを一口に飲み込む。
「あーっ!!わたしの卵焼き!!」
「また騙されてやんの!!あんた、本当に単細胞だねー!!」
「うぐぐぐぐ…正邪ーっ!!!」
針妙丸が立ち上がり掴みかかろうとするが、正邪は咄嗟にその場を逃げ出した。
そのまま部屋を飛び出し、正邪は永遠亭の廊下を走って逃げる。
「こらーっ、待ちなさい正邪ー!!」
「やーだーよ!!悔しかったらもうちょい利口になんな、お姫様!!」
やがて、正邪は庭に面した縁側からふわりと飛び上がり、宙に浮かんだ。
「じゃあね!今日はこの辺で勘弁しといてやるよ!!」
「降りてきなさい、この馬鹿ーっ!!」
「これでわたしに勝ったと思うなよ!また会おう!覚えときやがれー!!」
そう言って、正邪は空の彼方へと飛び去って行った。
あの勝負は引き分け、元より針妙丸は勝ったとは思っていない。
だが、正邪が残したベタベタな悪役の捨て台詞…それはいずれも最終回ではなく、
次の回がある、また何か事件を起こすことを前提に、叫ばれるものだった。
「…今度こそ、絶対やっつけてやるんだから」
正邪が去った空を見つめる針妙丸の顔には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。
「…またね、正邪」
喧嘩ってのはそうでなくっちゃあ……後腐れなくお互いボロボロになるのは良い事だ、青春だ……
息抜きにはちょうど良い内容だったかと思います。
にしても輝夜器用だね。やりたいこと竹細工にすればいいと思う。
何故かわかさぎ姫が凄く可愛く見えた。
笑わせてもらいました。
堪能させて頂きました。114514点。
ともかく、面白い話でした。各キャラクターの書き分けから、輝夜と妹紅、正邪と針妙丸のそれぞれの興味深い対比まで、ギャグの皮を被りながらも、その下ではかなり考えて書かれている印象。それだけに、後半のクライマックスに向けての部分はギャグがシリアスに水を差しているような気がして、そういう意味でギャグ抜きのシリアス一本で通した方が通りが良かったのでは。ただ、序盤で話に惹きこんだのは間違いなくギャグだったので、兼ね合いが難しいところ。
なんにせよ、正邪と針妙丸、異変後の二人は想像しがたいと思っていたけど、なかなかどうして面白い関係になったものよ。そして、影狼とわかさぎ姫の二人も見ていてほっこりするので好き。
なんやかんやでてるもこ、けねもこ分も強力だったでござる
永琳「妹紅がそんなに好きかァ!!!」
話がブレてる感はあったけども、正邪の書き方が一貫してて面白かったー
正邪と針妙丸を扱った作品では現状最高傑作ではなかろうか
今後この二人の印象はこの作品のイメージで固まりそうだ
債務が残ってるほうの姫様で草不可避
ワカサギ姫さいこー
正邪がただのツンデレじゃなく天邪鬼として針妙丸を好いてるのも俺得