Coolier - 新生・東方創想話

おぞけを催す天使

2014/01/31 15:18:24
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 見開いた目よりも大きく口を開け、荒い音を繰り返す。
 胸が詰まるように苦しい。頭が内側から叩かれるように痛い。浅い呼吸しかできない。息をしたい。息を、もっと息を。
 違う。
 早苗は打ちつける勢いで口を押さえた。
 必要なのは酸素、でなく、呼吸の統制。正しい判断。
 これは過呼吸だ。そのまま酸素を求める行為は悪循環に陥る。自滅してしまう。
 手のひらを押しのけるように、熱く、枯れた息が噴き出す。もう片方の手を加え、自らの顔を抱え込むように過剰な呼気を封じた。
 と、両手が離れ、咳きこむ。渇いた喉に唾が貼りついたのだ。何度か激しく吐き出し、再び口を押さえる。
 立てる呼吸音が、かつて人里で聞いた厩舎の豚のそれを思い出させる。無様で、惨めだ。
 だが、なりふりを構っている余裕はなかった。今最優先ですべきなのは──そうだ、どんなになっても、必要なことをしなければいけない。必要なこととは、呼吸の統制と、考えること。
 ……考えるんだ。考えろ。
 考えろ。考えろ。考えろ考えろ考えろ。必ず方法はある。あるはずだ。考えて見つけろ、どうあっても。
 どうすればいい。生きるためには。逃れるためには。──あれに殺されないためには。
 混乱と恐怖で崩れそうになる頭を振って、早苗は思考を巡らせる。






「はい、お疲れ様」
「あ、どうもです」
 早苗はお茶の入った湯飲みを霊夢から受け取った。
 熱が手の平に伝わってくる。師走にしては暖かな陽気で、屋外を含めた一仕事にも差し障りはなかったが、こうしてお茶の温かさを感じると、やはり相応の寒さはあったのだなあと思えてくる。
 社務所の玄関口から見える玉砂利は赤みを帯びた陽光を照り返してまぶしいのに、入ってくる風は冷たく乾いていた。
「結局丸一日掛かっちゃいましたね、大掃除」
 お茶をすすって、早苗は言った。上がりかまちに並んで腰を掛けている霊夢は、憮然とした様子で口を尖らせる。
「本当はもっと人手があるはずだったのよ。あちこち声掛けたのに、どいつもこいつも薄情なんだから」
「あれ、私だけ呼んだんじゃなかったんですか」
「こんなだだっ広いところ、二人だけでやれるわけないでしょうが」
「やっちゃいましたけどね」
「ったく、魔理沙は居留守、萃香は消えたまま出てこないし、紫は行方不明だし。そんなのでしばらく音信不通よ。もう宴会場でウチ貸すの止めようかしら」
「皆さん、以前は手伝ったことがあるんですか?」
「まあ、そうね」
「だとすると、わからなくもないですねぇ」
「何でよ」
「だって、今回の大掃除ですけど、境内から本殿、社務所や手水舎に至るまで隅々やらされましたから。あれだけこき使われたら、次回はご勘弁と思っても仕方ないんじゃないでしょうか」
 二人ゆえの作業量だともいえるが、人数が倍に増えたところで相当の手間であることには変わりない。
 「早苗のところは今度手伝うからいいでしょ」と、霊夢がふてくされたようにお茶をすするのは、本人もわかっているのだろう。自分の家の掃除を必要としない萃香、別の意味で必要としない魔理沙、人手の足りている紫には、交換条件として割に合わないとしてるわけだ。他の面々も諸々の事情で同様に考えているに違いない。
 博麗神社に近づいたが最後、一日拘束され重労働を課せられるのは目に見えており、そんなのは真っ平ご免というので距離を置いているのだろう。この日一日、来客は誰一人としてなかった。
 でもですね、と早苗は付け加える。
「守矢神社の分社があるので、私個人はここの大掃除に協力する義務があると思ってます」
「さ、さなえ~」
 感涙にむせぶ霊夢。にじり寄ってがっちりと早苗の肩をつかむ。
「あなたの恩に報いる姿勢! 献身的な態度! 必ず神様は見てると思うわ!」
「は、はあ……そうでしょうか」
 若干引き気味で早苗は答えた。私は既に二柱と生活してるんだけどなあ。
「謙遜しないで! ほら、とりあえずお茶、じゃんじゃん飲んで! 風味豊かな出涸らしよ!」
「な、何ですか、その黒い白馬みたいな。いや、その、謹んで遠慮させていただきます」
 お湯でお腹をたぽたぽにされてはかなわない。水分摂取は湯飲み一杯で十分だ。
 それにしても霊夢のこの豹変ぶり。そこまでないがしろにされていたのだろうか? そして、そんなにも堪えて? なら、もう少し人使いの荒さを改善した方が……
「異変が起こっても私が全部まるっと解決するわ! 早苗はウチでお茶でも飲んでて!」
「えええっ、待ってください!」
 とんでもない提案に早苗は慌てる。
 博麗神社へ訪れた途端お茶を出され、そのまま。霊夢さん来ないなぁといぶかしんでいるうちに、異変解決してきたよーと霊夢が帰宅する──ありえないことではない。霊夢ならやりかねない。
「活躍の場を奪われた上に、出涸らしを飲み続けるんですか?! 罰ゲームにもほどがありますよっ。あるいは嫌がらせ!」
「早苗を危険な目に遭わせたくないのよ! わかって、この想い!」
「私の立場もわかってください! というか、異変なんて大して危険じゃないじゃないですか!」
「えー、まーそうだけどー」
「幻想郷は平和過ぎるほど平和なんですから、異変はかえって良い刺激なんです!」
 抗弁する早苗に、霊夢の顔がふと真顔になる。
「え……」
「平和、ねえ」
 表情の意味がつかめず戸惑っているところに、薄い笑みと共につぶやかれる。その意味もわからない。
「あの、だって、平和ですよね? 異変だってどんなに大騒ぎになっても、ちょっと怪我するくらいで、あとは宴会やって遺恨もなしで」
「こっちの連中でも知らないのは珍しくないし、早苗はこっちに来たばかりだもんね。そう思うのも当然か」
「それは、どういう、」
「いや、平和よ、平和。人間と妖怪もよろしくやってるし、スペルカードルールも広まったし。そう、確かに平和よね。大方はそれでいいわ」
「…………」
 得体の知れない焦りが早苗の心中に起こっていた。今までの会話とさして差のないものであるはずなのに、なぜ、こんなにも。
 我知らず胸を押さえていた。追い詰められ、潰されていくような圧迫感があった。
「でも、あれか、ここで長くやっていくつもりなら、早苗も知っておいた方がいいかもね」
「何を……」
 その台詞に問いかけようと、改めて霊夢の顔を見て、早苗はゾッとした。
 霊夢の口元には笑み。なのに、その目に宿るものは暗く、深く、まるで底のない穴のような──
 玄関口から風が入ってきた。冷たく乾いて、埃っぽい。差し込む光は赤みを増していた。
「寒くなってきたわね。閉めて中に入ろうか」
 早苗は静かに息を吐いていた。
 視線を外に向ける霊夢の印象は、常のものと変わらなくなっていた。
 多分、気のせいだったのだろう。たとえそうでなくても、事情があったのだ。たとえば、かつての異変において苛烈な争いがあり、それを思い出していたとか。
 弾幕勝負はスペルカードルールに則った試合・遊戯であるとはいえ、一歩間違えれば危険なことになるのは、早苗にもわかっている。外の世界でも、スポーツの中で死に至った事例は枚挙にいとまがない。
(そういうとこに気を回さないで、不用意な発言しちゃったかな)
 軽く反省して、霊夢にならって立ち上がる。休憩室でお茶を飲みなおそう。
 ──と、その時だった。



 ゴトリ、
 という音がした。重量感のある、硬質的な音。
「今の、何?」
 引き戸に手を掛けた霊夢が、早苗に尋ねる。早苗も首を傾げた。
「わかりません。外から聞こえましたか?」
「どうかしら」
 霊夢が戸外へ出て、確認しにいく。早苗も後についていった。玉砂利を踏む音を立て、キョロキョロ見まわしながら社務所の壁際に沿って歩く。赤みがかった周囲に人気は無い。カラスの鳴き声さえしない。風が木々の葉をこする音だけだ。
 が、ほどなく、一人の人物に行き当たった。
「何やってるのよ」
 社務所の角の向こう、見えなくなっている所に向けて、霊夢があきれた声を上げている。
 早苗は角から覗き込むようにその人物を確認すると、
「紫さん」
 その名を呼んだ。
「は~い、こんにちは」
 夕陽の差す広い境内を背に、いつもの能天気な声で挨拶する八雲紫は、いつもの服装に、いつもの日傘を差している。しかし、その様子は早苗の目を見開かせる。
 服も日傘も所々が破けていて、薄汚れている。顔も同じように汚れが付着していて、白いはずの肌は見る目も当てられない。流れるような金髪は、今はあちこちが乱れている。
「ずいぶんな格好ね。あんたも大掃除したわけ?」
「うふふ、霊夢も冗談がきついわねぇ」
 紫が否定するまでもなく、掃除などでないことは明らかだった。微笑む口の端が切れて、血が滲んでいる。服や顔に付いている汚れの中には、赤黒いものもある。
 尋常ならざる出来事を経てきたのは間違いない。激しい争いなどの──そこまで考えたとき、服に焦げ跡があることに気づく。
 では、あの丸い穴。幾つか開いているが、弾幕によるものなのだろうか。しかし、どんなスペル? よほど高密度のものが高速で当たらなければ、あのような跡はつかない。スリングショットのレベルではない。それよりもさらに……たとえば、銃弾のような。いや、まさか。
「もっと優しくしてもらいたいわぁ。せっかく愛しの霊夢に褒めてもらおうと思って、真っ先にここに来たっていうのに」
「はいはい、頑張った頑張った」
「もー、ぞんざいすぎるわよぉ。昔の純真な霊夢ちゃんはどこ行ったの?」
「あんたとつきあってりゃ、そんなもん擦り切れてとっくに消え去ってるわ。で、何を褒めてほしいわけよ。それすらわからないんじゃ、けなせもしないでしょ」
「そうそう、ようやく回収できたのよ~。苦労したわぁ」
「回収?」
「あ・れ・☆」
 長手袋をつけた指が示す方向にあったものは、
「石像、ですか?」
 見たままを早苗が言う。やや高めの上背を持った灰色の像だった。たっぷりした布の服をまとっているデザインだ。大掃除の際には見かけなかったもので、紫がスキマから出したのだろうと推測された。そもそも頭上にスキマが口を開けている。ゴトリという音は、あそこから石像を落として立てられたのだろう。
 石像は前面を社務所の壁に接するように立っており、その背中には翼が生えている。背面全体を覆い隠すほどに大きな両翼は、迦楼羅などの仏像とは違うものだ。
「天使の石像……」
「サリエルよ」
 霊夢が言った。やはり西洋のものらしいが、初めて聞く名前だ。ギリシャ神話か何かに出てきただろうか。それとも石像の作者? そういえば、歯磨き粉の成分にそんな名前があったような。
 三人は石像へ歩き、近づく。天使像は夕陽の中でその陰影を際立たせている。精巧な造りだった。羽の一枚一枚が見てとれるほどに。下げた両腕を軽く広げ、手のひらを前に向けている。
 像の一歩前で止まり、霊夢は腰に手を当てて首を伸ばす。じろじろ見まわし、そして噛み潰すように言った。
「久しぶりに見るわね。相も変わらず酷いもんだわ」
「懐かしいでしょ」
「これがここにあるってことは、外の世界で頑張ってきたわけね。見たところ、厄介なのに絡まれたみたいだけど」
「そうそう、やっと場所を特定できたと思ったら、変な組織と大仰な施設でねぇ。そりゃもう滅茶苦茶に妨害されたわよ」
「事情話して引き取ってくればよかったんじゃないの?」
「取りつく島もなかったわ。『我々が保管する』の一点張り。なら、強制徴収しちゃおうって」
「で、そのザマ」
「そう、このザマ」
 破け、すすけた袖口を持ち上げる紫。
 霊夢はハッと呆れたように息を吐く。
「奇特な奴らもいたものね。こんなのあったって、何の役にも立たないでしょうに」
「似たようなものをしこたま集めてたから、コレクションが減るのが嫌だったのかも?」
「蒐集家は救いようもないのが多いわね。身近にもそんな魔法使いがいるわ。ガラクタに囲まれてないと安心できないゴミ屋敷管理人が」
「あの、お二人とも」
 早苗の言葉に二人の顔が向く。ちょっとまずかったかな、と思ったが、言う。
「私にもその辺りの事情を教えていただけるとありがたいのですが」
 会話を中断させてしまうことに躊躇はあったものの、取り残されているいたたまれなさが勝ったのだ。好奇心も加わっていたかもしれない。
 返す紫の表情は明るいままで変わらなかった。
「あら、あなたに?」
 早苗の心中に黒煙が立ち上る。いかにも「あなたは部外者でしょう」と見下すような物言いに聞こえたからだ。
「あのね、紫」
 霊夢が取りなす。
「さっきも話してたんだけど、早苗は幻想郷が平和だって思ってるのよ」
「んー、それでオッケーでしょ。問題ないない。平和っていいことよぉ。ラブ&ピースでハッピー・ハッピー♪」
「茶化さないの。ここで長く巫女をやってくつもりらしいし、ちょっと教えてあげてもいいんじゃない?」
「長くやってく? だから深く関わりたい?」
 紫が早苗に言葉を向けた。
 妙に威圧的なものを感じて、やや惑いながらも早苗は頷く。
「は、はい。いずれは博麗神社に比肩するようになれればと」
 その気持ちは事実だ。世の中は綺麗ごとでできているわけじゃない。幻想郷も同じだろう。霊夢は幻想郷の平和・調和を為す存在であり、それを目指す者として闇の部分も知っておきたい。
 早苗なりの決意を込めた返答だった。しかし──
 くふっ、と紫が吹き出した。指を口に当て、抑えた笑い声を漏らし続ける。
「なっ、何ですか!」
 あまりの反応に早苗は思わず食ってかかってしまう。
「ご、ごめんなさい、くっくっく、いえ、ほんと、ごめんなさい。悪気はないのよぉ、くっくっ」
「悪気しか感じないわよ。慇懃無礼ですらないじゃない」霊夢がたしなめた。「……でもね、ほら、教えてあげる気にはなったでしょ?」
 霊夢と紫が視線を合わせる。
(え……)
 得体の知れない寒気が、早苗の背筋を走った。
 二人の目に見て取れたのは、暗く深い──玄関で霊夢が見せた奈落のような、
「ま、いっか」
 あっけらかんと紫は言った。不穏さは微塵も感じられなくなっている。
「説明長くなりそうだし面倒なんだけど、霊夢が言うのならね」
「いいじゃない。どうせ一仕事終えて、暇なんでしょ」
「だからこそ、くつろぎたかったんだけどぉ? 見返りくらいはあるんでしょうねぇ」
「塀のペンキ塗りでもさせたげるわ」
「どこのトムソーヤよ、もう」
 軽口を叩きながら、二人はじゃりっ、と体の角度をずらした。天使像と早苗が同時に視界に入るようになる。



「サリエルってのはね、こいつの名前」
 霊夢がわずかに顎を動かして、像の背を示す。
「スペルカードルールの成立以前、前の博麗の巫女が封印したヤツよ」
「封印……これは本人ですか」
「そうよ」
 早苗は改めて石像を見る。精緻な造形は生きているかのように感じられたが、実際に生きていたとは。
 妖狐が討ち倒されて殺生石となった伝説があるけれど、あれの見た目は普通の岩石。こちらはそのままの姿で石化していて、まるでゴーゴンと目を合わせた犠牲者のようだ。
 紫がコッコッと曲げた指でサリエルという名の石像を叩く。
「どうしようもない邪神でねぇ、たくさんの人が死んじゃったのよ。幻想郷の過疎化が深刻なことになっちゃったわ。お墓ばっかりにぎやかで」
「死……」
 言葉が詰まる。
「人死にが出る異変なんて知らないでしょお? 驚いたかしら」
 早苗が引っかかったのはそこではない。確かに犠牲者の多数出た異変は心に来るものがあったが、それ以上に紫だ。
 紫の口調には、死者を悼む感情はまるで含まれてなかった。過去の話だからかもしれないが、それでも微笑みながらするものではない。
 沈みゆく夕陽は赤みを増した光を注ぐ。それを浴びて、暗い影を長く伸ばす大妖に、不気味さが漂う。
「にしても、この子ったら、本当に困ったちゃんで困ったちゃんで。あーんな整ったお顔してバンバン見境なく殺すんだもの」
 カワイイ顔してババンバン♪と口ずさむ紫をよそに早苗は思う。そういえば像の顔を見ていない。壁に向かって立っているからだ。さらに赤い光の影になっていて、横から見たくらいでは判別できない。興味で、早苗は覗き込むように首を伸ばす。
「あ、気をつけた方がいいわよ。視線を向けるだけで絶命させるから」
「っ!」
 慌てて首を引っ込めた。のけ反りさえする。
「冗談よぉ、冗談」
 くく、と笑う紫を、早苗はにらんだ。たちが悪すぎる。
「まあ、あながち、」霊夢が言う。「冗談とも言えないけどね。封印される前はあったのよ、『邪視』の能力」
「視線に魔力を乗せるってのは珍しくないけど、生命まで奪うってのはそうないわねぇ。しかも視界に入るもの全部対象。集落一つ瞬殺されたのは、苦い思い出ねぇ」
「今は、大丈夫なんですか」
 早苗の声音は、まだ怖々といった感じだ。
「封印したって言ったでしょ。『邪視』の力を反転させた封印だから、こいつは能力を使えない」
「反転?」
「凶悪な能力を自身に向けさせて自傷させるのよ。加えて、逆に、他からの視線がこいつにとっては絶対的な枷になる」
「呪詛返しのようなものでしょうか」
「ん、ざっくり言えば、ね」
 口ぶりから察するに、自分の知っている術式とはまた違ったものなのだろう。そう考えたところで、早苗にふとある疑問が浮かぶ。
「あれ……? あの、」
「なぁに?」
「『他からの視線が枷』って、じゃあ視線がないとどうなるんですか?」
「ご明察~。いーいところに気づいたわねぇ」
 紫が軽薄な拍手をする。それから、薄汚れた長手袋でチョキを作り、左右の目を指した。
「誰かが両の眼で見ている限り、なーんにもできないんだけどね、見てないと動けちゃうのよ」
「う、動く?」
 像から身を遠ざけたくなった。それだと封印とは言わないのではないか。
「邪視はないし弾幕も撃てないけど、動けはしちゃうのよねぇ。どうしてもそこまでは封じられなかったわ。さすがは神格ってとこかしら。まあ、閉じ込めておく分には問題ないんだけど」
「そういって蔵から逃げられちゃ世話ないわね」
「霊夢ったらキツいわねぇ。まさか壊された物同士が変な共鳴するなんて、それが次元の裂け目を作るなんて、想定外にも程があるでしょ」
「蔵のスペースがもったいないからって、一緒に変なもん入れとくからよ。ちゃんと回収してきたのはいいけど、だからって苦労をねぎらうとかしないからね。あんたの自業自得。老人介護が必要な年でもないんだから、自分の尻は自分で拭くべきよ」
「つれないこと言わないでよぉ。私は是非とも霊夢にお尻を拭いてもらいたいの。霊夢のお尻は私が愛撫するから、ね?」
「その尻、蹴り飛ばそうか?」
「そこはキックじゃなくてキスが欲しいわ」
「キルして欲しいのね」
「そうねぇ、悩殺してほしいわぁ、霊夢ぅ~」
「近寄らないで。殴殺するわよ」
「動く像かぁ……」
 言葉のデッドボールは続いていたが、早苗の脳裏には、外の世界の古い特撮時代劇がある。『懐かしの番組』というコーナーだったか、それで少しだけ観た。巨人像がゆっくりと移動し、城などを破壊する内容だったと思う。
 見てないときに動きまわる石像もそれだけで気味が悪いが、ものを壊すとなると別種の問題が出てくる。
「力、強いんですね」
 「蔵」とやらを破壊できるほどではないみたいだが、つかまれたら厄介そうだ。
「あぁ、いや、強いっていうかね、」
 抱きついて口づけを迫る紫の顔を押しやりつつ、霊夢が言う。
「速いのよ」
「速い?」
「すごく速く動けるの」
「硬いのはいいけど、早いのはちょっとねえ」
「紫は黙ってて。でも確かに、この硬い物が高スピードでぶつかったら衝撃が大きいでしょ。蔵の物を壊したのはそれでよ」
「人間も殺してるけどね、たっくさん」
「……!」
 紫の言葉に絶句する。紫は「ほら」と像の手の部分を指した。大小染みのような黒い汚れがある。いや、夕陽に紛れていたのをよくよく見れば、そこは赤黒い。まさか。
「血痕。そういうことよ」
「やっぱりこいつ、向こうでもやらかしてたの」
「他に何の取り柄もないでしょう?」
「ヤな取り柄ね。まあ相手が対処法を知らないうちは、しょうがないか」
「もっとも施設に入れられてからは、やらかしたのは保管してた人たちとも言えるけどねぇ。一応近づくときは二人態勢でいたらしいけど、運が悪いのか、頭が悪いのか、事故は頻発してたみたい」
「たくさんの、人……」
 片言しか出てこない早苗に、紫はにこやかに言う。
「大丈夫大丈夫、両目を開いてさえいれば、目の端にでも捉えているだけで動けないから」
「でも、向こうの奴らはそれすらできなかったんでしょ」
「二人組なのにねえ。瞬きが重なっちゃったのかしら」
「えっ」
「どうせよそ見じゃないの。瞬きが同時に起こるなんてないでしょ」
「え、あの、ま、瞬きって」
「ん?」
 今更何を驚くのかといった様子で霊夢は早苗を見る。
「見てないと速く動けるって言ったじゃない。まさか速いって、烏天狗程度に考えてた? 文やはたて、全速力のあいつらの周りをぐるぐる回れるレベルよ」
「まぶたを閉じた一瞬で人一人殺せるわ・け♪ わかった? 早苗ちゃん」
「…………」
 じゃり、と音が立つ。早苗が後ずさりした音だった。土埃をまとった肌寒い風が流れる。日はより傾き、周囲の色は赤黒さを増した。建物がぐぅうとのしかかってくるように影が濃くなる。
 なぜこの二人は平然としているのだろう。三人で見ていれば安全だというのか。早苗の目には、どうしてもそうは映らなかった。まるで檻から出た猛獣の背を眼前にしているような……たとえ首輪をつけてリードを握っていたとしても、自分が襲われない保証はないのだ。
 それとも、弾幕を撃てない一般人はともかく、神の域に立つ自分たちならどうにかできる?
「いざというときは吹き飛ばしたり、とか、そういう、」
 だが、言い終わる前から否定された。
「ダメダメ。動かさないことだけ考えて。それ以外は何やったって、ね。私と霊夢が四重結界と夢想封印を同時にぶつけたって傷一つ付かないのよ」
「そんなにですか」
 息を呑む早苗に、霊夢が紫の言葉を継ぐ。
「じゃなかったら、とっくに粉々にしてるわ」軽いため息。「ほんと、壊せれば良かったんだけどね」
「そ、そうですね。危険過ぎます」
 早苗の同意に、しかし霊夢はちょっと首を傾げ、ああ、と手を横に振った。
「意味が違うわ。私たちにとって処理に困る粗大ゴミなのは事実だけど、さっき壊せれば良かったって言ったのは、こいつにとってよ。サリエルが不幸だって言ってんの」
「それはどういう……」
「だって、こいつ、このままなのよ。ずっと死ぬこともできずにこのまま。永遠に苦痛を感じ続ける」
「きっついでしょうねぇ」
 ニヤニヤ笑いの紫が割り込んでくる。
「ボッコボコに痛めつけて封印したから、全身に走る激痛は永久保存。それでいて、身悶えすることも叫ぶことも叶わないの」
「その上、自分の能力が魂魄を損傷し続けるんだからね」
「ぞっとしないわぁ、私なら狂っちゃう」
「狂ってたのはもともとじゃない。何があったのか知らないけれど、幻想郷に来たときから憎悪にまみれてたんでしょ」
「それとはまた別よぉ。でも、その狂気もその狂気でしっかり持ってるけどねぇ。見て、わかったでしょう?」
「まあね。そうだ、早苗も見てみる?」
 水を向けられた早苗は戸惑ってしまう。霊夢は何を見させたいのか。
「面白いものでもないけどね、一見に如かずで知れるわよ、こいつの狂気」
 そうして霊夢は早苗の肩に手を添えて、像の前が覗ける位置に導く。風がカラカラと乾ききった枯れ葉を転がした。
 壁に接しそうになっている顔面、その表情を見上げて、早苗はひっ、と悲鳴を上げた。
 悪夢の世界から現れ出たようだった。
 赤い天蓋を頂いて、眉間に、鼻梁に、深い皺が刻まれている。そこには陽の気といったものは一切ない。やり場のない怨嗟、吐き場のない憤怒が、身動きの取れない身体の中に充満している様を、その形相が余すところなく示していた。
 完全に固まった状態なのに、半ば開いた口からは呪詛の声が漏れてきそうだった。瞳も他と同じく渇いた石だったが、不吉な光を宿しているように思えるのは気のせいだろうか。
 息苦しさと悪寒が這い上がってきた。吐き気までする。見るだけで感染する病魔に思えた。長く見ていられず、早苗は顔を背けた。
「……ね、酷いもんでしょ」
 霊夢に、青ざめた顔を何とか縦に振る。筆舌に尽くしがたいおぞましさだ。この世にあっていい造形じゃない。
 霊夢は早苗の背に重なり、両肩に手を添えることで安心感を与えてくれる。一方で、像から身を離したいのが妨げられてもいるのだけれど。
「何百何千年と経っても変わらないでしょうね、こいつは。紫には未来永劫付き合ってもらうことになるわ」
「あら、付き合うのは霊夢だって一緒でしょ。死が二人を分かつまで、ってね」
「無差別通り魔とカップリングって、嬉しくて涙が出るわね」
「大丈夫よぉ、今度こそ私がちゃんと監禁しといてあげるから。間違っても霊夢に危害は加えさせないわ。博麗神社に押しかけ女房するのは私だけで十分よね」
「そういうのは早苗ほどに世話を焼いてから言ってもらいたいわ。同じ焼くでも、あんたには手を焼かせられてんだから」
「あらあら、妬けるわねぇ」
 また他愛のない言い合いが始まると思われたその時、一陣の風が吹きつけた。舞い上げられた土埃が口や目に入り、早苗は思わず顔を逸らす。



 不快な音がくぐもって聞こえた。
 早苗が間近で見たものは、現実感の伴わないものだった。
 紫の身体は傾斜して地面に向かっていた。首はありえない方向に折れ曲がっており、顔は驚きとも呆けとも──自分に何が起こったのか理解できないといった表情だった。投げ捨てられた人形のように地を擦って、横倒しになった。遅れて日傘が地に落ちる。
 紫はピクリとも動かない。見開かれたままの目は虚空を映している。
 そして、天使像が、その向きを変えて、紫の方に向いていた。腕は開いたまま、悪夢の形相もそのままで。
 早苗は一言も発しなかった。あっけに取られている。非現実の距離から引き戻されたのは、霊夢がつかんだ肩を揺すってからだった。
「早苗、しっかりして!」
「え、あっ、あっ」
「やられた! こんな間の抜けたことを……ああ、もう! 全員目をつぶるなんて!」
「死っ、死んでっ」
 血の気を失って、早苗の顔は冷たく、視界は暗くなっている。膝がガクガクと揺れる。
「今はサリエルを見て! 見るの! 絶対に目をそらすなッ!」
 霊夢は叱咤し、足のすくむ早苗を引きずるように、後ろ向きに退いていく。
 そして、投げの構えを取った。手にするは封魔の長針。
 気合い一閃。必殺の先端が像の頭部へと走る。
 岩をも貫く威力を早苗は知っていたが、金属音と共に光の筋が二つ散る。弾き返され、二つに折れたのだ。
「やっぱり無駄か」
 霊夢は舌打ちする。さらに後退しながら言う。
「社務所に入るわ! それで一時的にはしのげる!」
 もう後ろ手に玄関の引き戸を開けていた。早苗を引き込もうとする。
 だが、その早苗は震える右手を像に向けていた。手の平の前にまばゆい神力の光が発生している。
 早苗は霊夢の言葉を聞いてなかった。耳に入ってはいても、脳が認識できなかった。パニックから回復してない思考は、霊夢が像を攻撃したのにつられ、早苗にも像への攻撃をさせようとしていたのだ。
 紫の死体を前に、天使像は腕を広げて直立している。まさに生け贄を捧げられた邪神の有り様だった。
 光線を放とうとした瞬間、早苗は霊夢と目が合った、ような気がした。
 霊夢の口は意味ありげに開かれている。どんな言葉を紡ごうとしていたのか、それとも既に言っていたのか、それもわからない。
 ただ、不快なくぐもった音だけは鼓膜から脳へ響いた。
 自分の身体が均衡を失っている。痛くなるほどにつかまれ、引かれた感覚の残る身体の箇所から、霊夢の手が離れていく──それで、自分が霊夢に引っ張られたのだとわかった。それも全力で、体重を掛けた、互いの身体が入れ替わるような引っ張り方だ。
 玄関から社務所の中へ、早苗は倒れ込んでいた。上がりかまちに背中を打ちつけ、苦鳴を上げる。そして、霊夢が外で倒れているのを見た。砂利の地面に倒れ伏し、首をあらぬ方へ曲げている。動かない。
 ──……そんな、まさか、死、んだ?
 悩乱する意識は、それでも、霊夢を見下ろしている存在に気づかせる。
 あの天使像だった。離れたところにいたはずが、眼前に立っている。
 新たな供物を得ても、怨嗟と苦痛にまみれた表情は固まって動かない。だが、石化した瞳が、こちらを向いたような、
 砕けそうな音を立て、早苗は反射的に引き戸を閉めていた。そのまま手足を虫のようにバタつかせ、尻で床を擦って、後ろ向きに奥へ奥へと逃げる。土足で畳を汚して、狭い屋内の中央に身を縮ませる。震える。
 何で。何でこんなことに。霊夢さんがどうして殺されて。
 早苗の脳裏に霊夢の言葉が走る。
 『今はサリエルを見て! 絶対に目をそらすなッ!』
 ……ああ、何てことだろう。自分の光が。自分の発した光が視界の像を覆った。禁忌が破られ、像は高速で動き、霊夢を殺した。
 自分が……殺した。
 荒い息づかいが室内に満ちる。早苗の目は縫いつけられたように玄関を凝視していたが、ふと、何物かを感じて視線をそちらに向ける。
 引きつれた悲鳴がほとばしった。窓の障子に赤く貼りついた夕陽が、像の影を浮かび上がらせていたのである。






 大丈夫。
 大丈夫だ。大丈夫、のはずだ。いたずらに悩乱してはいけない。まずは平静になるんだ。
 早苗は自分に言い聞かせる。荒い息を落ち着かせる。だが、全身の血が抜けきってしまったように寒い。震えが止まらない。へたり込んだ自らを抱きしめて、それでも何とか浮かんできた考えをまとめてゆく。
 こうして無防備な状態でいても、生命の危険はない。それは事実だ。安心していい理由だ。「社務所の中でしのげる」、そう霊夢は言っていた。実際、今もって像が襲ってくる様子はない。目をそらしても、障子の影は微動だにしない。
 しかし、ずっとこの中にいることはできないだろう。
 霊夢は「一時的にはしのげる」とも言っていたのだ。一時的に、だ。ずっと籠城するのは不可能ということになる。
 理由はわからない。像が入ってこないということは、何かしらの結界が効力を発揮しているのだろうが、時間の経過がそこに変化を与えるのかもしれない。
 しかし、誰かが結界を破ろうとしてもいないのに、恒常的に張られていたであろう結界が、それほど短時間で緩んだりするものなのか……? 危機に反応して、保持する力を集中的に発揮するという仕様なら、時間が短くなることもありえなくはないが……。
 早苗は前髪をわしづかんだ。まるで浮き石の上を渡っているようだ。考えるための要素が限られているのは確かだが、それでも多くのものを見落としている気がしてならない。考えることが生きのびるための唯一の方法だというのに、あやふやな土台から間違った結論を出しそうでならない。
 「一時的」というのは、それとも、籠城戦のように「体力の続く限り」という意味で使ったのか。
 いや、違う。それなら「しばらく」とか「かなりの間」などと言ったはずだ。「一時的」は、やはり短時間であることを示している。
 それに、もし長時間いられ続けるというのなら、救援の期待に触れてもおかしくない。霊夢の様子からして、そういった希望を抱く余地は一切感じられなかった。
 救援──この場合は博麗神社に訪れる者たちのことだが、参拝客はいないに等しいのに加え、ここのところは常連の友人たちも近づかないと聞いている。たとえ翌日に至っても、誰一人来ないだろう。
(翌日……?)
 早苗はハッと顔を上げた。催事でしか使われない社務所の屋内には、ほとんど何も置かれていない。畳敷きの空間は、差し込む夕陽で血だまりに浸かったように赤黒くなっている。赤黒く──夕の赤に、夜の黒が混ざりつつある色。
 夜が、来る。
 息苦しさが増した。背筋がその寒さと裏腹に、じっとりと汗ばむ。
 早苗は気づいたのだ、翌日などとは悠長に過ぎる話だと。夜になれば、視界は闇に閉ざされる。像を見ていられなくなる。霊夢の言った「一時的」とは夜までのことに違いなかった。
 社務所を一時的な避難場所とするなら、その後はここから退出しなければならない。退出できるのは、夜が来るまでの限られた時間内でのことなのだ。恐らく霊夢は、早苗が気を落ちつけたら、すぐにこの場を離れる心づもりだったのだろう。
 事態は切迫している。もうすぐ日は沈みきってしまう。早急にここを離れなければ。
(でも、どうやって?)
 それが問題だった。二人ならば、像を見つめ続けることで距離を取ることができるだろう。しかし、今は自分一人。不可能だ。全速力で後退しても、ただの一度のまばたきで、惨殺される。命を絶たれる。
 まばたきの瞬間だけ最大限の力で防壁を張るというのは、はなから考えていない。霊夢と紫の力でどうにもならないものを、自分にどうにかできるはずがない。
 では、分社を通じて、守矢神社と連絡を取るという方法はどうか。社務所は博麗神社の東側に位置し、分社は北西側にある。境内を横切るくらいならまばたきを堪えることはできそうだった。天使像から目を離さず、一気に分社まで飛んでいって……、
(……駄目だ)
 早苗は首を振る。
 そこまでたどり着けたとしても、助けが来るまでに時間が掛かりすぎる。それ以前に、連絡を取っている間に殺されてしまう。
(じゃあ、他に、やれることは、)
 外に出て、まばたき一つの猶予でやれることは、生きるためにできることは、
 できることは、
 他に……。
(……………………ない)
 何も、ない。
 逃げることも連絡をとることも、二人いてこそ成立する話なのだ。
 たった一人でできることは、なかった。どうにもできない。詰んでいた。
(そんな……)
 早苗は絶望的な目で、玄関付近の障子窓を見る。像の影は依然としてそこにあった。
 視線の枷から解き放たれたのに、どこへも行かない。それは、恐らく、自分を攻撃の対象と見定めているからだろう。他にどのような理由があるというのか。
 像は死をもたらすその時を待っている。こうなると、ここはもう身を守る城ではなかった。囚人を閉じ込める牢だ。自分はただ死刑を待ち、恐怖に震えるしかない。
 全てから忘れ去られたような静寂が社務所を包んでいる。
 いや、かすかに何かが聞こえてくる。
 ウウウウウゥウウ……
 地の底から響いてくるような音。
 まさか像がうめいているのか、それとも風が鳴っているのか。得体のしれない空気の振動は恐れを増幅させる。
 早苗は両手で頭を抱え、顔を伏せる。だが、目をつぶり耳を塞ごうとも、心に染み込んだ恐怖は内側から責め苦を与えてきた。あふれる苦悩の濁水が呼吸すら困難にさせる。
 さっきまでここで霊夢と一緒に和やかに過ごしていたのが幻のようだった。
 お湯のような出涸らしを飲んで、他愛のないやり取りをして……。なのに、そのひとときはもう二度と帰ってこない。
 外には無残な死体が転がっている。霊夢と紫の、死体。ほどなく自分の死体もそれに加わる。死ぬ。死。私は死ぬ。
 信じたくない。信じられない。誰にも知られず死を迎えるのか、本当に。
 ──本当に?
 もしかして、何もかもが嘘、なんじゃないだろうか。夢や妄想かも、しれない?
 戸を開けてみたら何にもなくて、あの影だって屋根とか木とかのもので、普通に外に出られるんじゃないだろうか。西日に当たりながらウトウトして見た束の間の悪夢。それで頭が混乱していただけ。ああ、なんだ、そういうことか。きっとそうだ。だってあんな現実味のないことが実際に起こるわけがない。筋の通らない穴だらけの絵空事。そうに決まってる。
 早苗の顔に気の抜けた笑みが浮かぶ。すぅと立ち上がって、神社中央に面した障子戸に歩を進めた。霊夢さんに会いに行こう。ここにはいないから、多分拝殿辺りでお茶を用意して待っているはずだ。
 障子戸に手を掛けた。 
 開ける。

 

 ガッ!
 その手をつかむものがあった。早苗のもう一方の手だった。
 それぞれの手の力は拮抗して動かなかったが、やがて、ブルブルと震えながら、ゆっくりと障子戸から引き離されていく。障子戸は少しの隙間も開けなかった。
 早苗は自らの手首をつかんだまま、よろめくように後ずさると、その手を離した。弾かれたように腕が上がる。
 破裂音。
 早苗は自らの頬を叩いていた。
 痛みは疲弊した脳に走り現実に引き戻す。死の安寧への逃避からかろうじて覚醒する。
(何をやってるんだ、私は!)
 死を恐れるあまりに死を求めるなんて、愚行にもほどがある。逃げてはいけない。考えることから。生きることから。
 方法は何もないと結論づけたけれど、そのときはそう見えても、まだ見落としていることがあるかもしれないのだ。あきらめない限り、可能性は常にある。──実際、早苗は方法を一つだけ見つけていた。まさしく天啓だった。
 あのまま障子戸を開けていれば死んでいただろう。像から目を離してしまうからだ。まばたきすらしないで、天使像は見続けていなければならない。
 しかし、それが思い込みだとしたら? 像を視野に入れる必然性は、実はないのだとしたら?
 像は他者の視線が途切れたときに、高速で動いて標的を襲う。では、標的がいなかったらどうだろう。今、像はどうしているだろう。
 動いていない。暗赤色の陽光に浮かぶ影は、霊夢を殺したときのまま、微動だにしていない。
 それなら……像の目に触れないように外に出れば、逃げることができるのではないだろうか。
 盲点だった。像を見続けなければいけないという思い込みが、その発想を封じていたのだ。
 神社中央とは反対側の、そして天使像の影とは逆側の、障子戸がある。そこから出ていく。社務所が壁となって、こちらから像は見えない。像からもこちらは見えない。聴覚を有しているかはわからないが、念には念を入れて足音を立てないように、外に出てからの移動は飛ぶ。もちろん低空飛行だ。社務所とその先に続く木々で、身を隠しつつ神社から離れていけば……
(いける。多分、いや、絶対に、いける)
 早苗は静かに歩き出した。ゆっくりと、落ち着いて。向かう先は玄関。そこで呑みかけのお茶を手に取る。
 それから、脱出口たる障子戸へ向かう。やはり足音は潜めて。
 閉まった障子戸の下にかがんで、湯呑みをそっと傾け、お茶を敷居に注いだ。溝に沿って冷めた液体が薄く溜まる。
 障子戸に手を掛けた。わずかずつに力を入れていく。わずかずつに、わずかずつに。
 手ごたえがして、一筋の光が走る。一ミリの隙間。音はしなかった。
(やった……)
 水が摩擦をなくし、音を消したのだ。像の影をチラリと見る。動いていない。このまま無音で突破口を開こう。
 障子戸は二ミリ、三ミリと隙間を広げていく。外の空気が入ってきた。力の加減を一定にすることに集中する。さらに隙間は広がり、林立する木々が見えた。はやる気持ちを抑え、早苗は最小限の力で障子戸を開けていった。
 そして、ついに、身体が通れるだけの間口が開いたのだった。
(まだだ、まだこれからだ)
 そうわかってはいても、目の前に伸びているのは希望と生存の道である。輝いて見えてしまうのはどうしようもなかった。
 頬を緩ませ、早苗はその道へ一歩を踏み出した。
 だが、それまでだった。
 呼気が喉奥で固体になる。舌が感電したように痺れる。顔が凍りついたように強張る。
 錆びついた機械人形のように眼球が動き、目の端にある「それ」を瞳の中央に映した。
 像がいた。
 社務所の角に立ち、おぞましい容貌を向けている。
 ぐにゃりと視界が歪む。四角い戸口が波打ち、縦に伸びた木々はうねった。
 なぜ。なんで。どうして。
 そんな言葉の断片が渦を巻く。そうでありながら、早苗の脳は結論を見出してしまっていた。
 紫と霊夢の首を折ったとき、像の腕はどうなっていたか。犠牲者の首の位置にまで上がってなく、下に広げたままだった。いや、「そのように見えていた」。目でとらえきれないほどの速度で移動し、その後の動作においても──腕を定位置に戻したときには、こちらからはまるで一度も腕を振るったことのないような状態に見えたということだ。犠牲者が像から離れる形で飛ばされたことから、像の攻撃なのは明らかだったので、気に留めることはなかったが。
 そして、像の立つ位置についても同様のことが想定できるのだ。すなわち、ずっと同じ位置に立っていたと「見えていた」。──高速で動き回って、また定位置に戻るのを繰り返していたという……。
 そうして、今、早苗の視野に入ることで動きを止めた。新たな獲物が隙を作るのを待ち構えている。
 逃げ場などなかった。始めからどうしようもなく囚われの身だったのだ。打つ手はなく、殺されるより他に未来はなかったのだ。
(いけない……、あきらめちゃ……、視線を断っちゃ……)
 早苗は自分に言い聞かせる。だが、その言葉とは裏腹に、目の中で水膜が厚みを増すのを、もはや為すすべなく立ち尽くすことしかできなかった。
 ぼやけた視界は、像の姿を、消す。






「はい、もう安心していいわよ」
 後ろから肩に手を置かれ、見知った顔が早苗の横に並んだ。
「……れ、いむ、さん?」
 博麗霊夢が常のままの姿でそこにいた。幻覚でない証拠に、置かれた手には確かな感触がある。
「い、生きて? ど、どういう、いったい……」
「私の死体のことだったら、あれは身代わりよ。本物の私じゃないの」
「身代わり……?」
 理解が追いつかずに茫然とする早苗。霊夢は説明しようとして、ふと「んー」と何かを思いついたようにややいたずらっぽく目を上に向けると、早苗の前に回り込んできてその顔を見る。
 行動の意味がわからなかったが、胸に冷たいものが差し込まれる。今、前に来られると像が視界から──
 くぐもった音が響いて、首の折れた霊夢が横に吹っ飛んだ。そして、眼前には圧するように立つ天使像が。
 悲鳴を上げる、前に、またしても肩に手が置かれる。
「だから、身代わりって言ったでしょ。何度も同じ手に引っかからないの」
 霊夢だった。では、さっきのは。
 目を移せば、死体があるはずの場所に一片の白が落ちている。人型の紙。
「ま、そういうこと。わかった? 特殊な式を載せたカタシロってわけ。神職には珍しいもんでもないでしょ」
 こともなげに言うが、信じがたいことだった。確かに見慣れたものだが、祈祷の際の媒介に使うのが主で、こんな使い方はしない。式なり、神霊なりを載せることはできるかもしれないが、完全に本人の姿を取り、動作までを難なくこなさせるなんて芸当は……しかも、守矢の巫女たる自分に違和感なく……人間業とは思えない。さらに、これを二度目とするなら、
「そ、それじゃ、やられる前から身代わりを」
「そう言ってるじゃない。でなかったら、私はここにいないで、とっくに彼岸に旅立ってるわよ」
 では、やはり、かなりの時間にわたり術の行使をしていたのだ。途方もない力の領域に、気が遠くなりさえする。
「にしたって、こいつ、相変わらずの速さだけど、相変わらずの頭の悪さだわ。私が生まれてくる前から何度も身代わりを相手にしてきて、それでも考えなしだもの。正真正銘の石頭じゃしょうがないか」
 像を目の前にしながらも、霊夢はまったく気に留めてないふうに振る舞っていた。まるで像が自分に危害を加えられるとは寸部も思ってないように。
「でも……身代わりなんて、いつの間に、いつから」
 これまでの説明では、どうしてもその点が疑問として出てくる。カタシロを使うとすれば、天使像を目にしてから後のことになるだろうが、術を発動したり本人と入れ替わったりした様子は見られなかった。目にも留まらぬ一瞬でそれを行ったなどはありえない。
「いづがらッで、始めがラよねェ」
 奇怪なしゃがれ声が答えた。
 社務所の角から薄汚れた破れ傘、そしてそれを差す金髪の女性が現れ、歩いてくる。八雲紫だった。頭を傾け、片側がいびつに張り出した首に手を当てている。
「あハァ、ぢゃんど声出ぜないワ」
 張り出した部分を手で押し込むようにすると、ゴゴリと内部で骨が擦れあう音がした。
「あーあー、うン、だいぶ戻ったかしラ」人差し指で喉をつつく。「首の骨をやったのは久しぶりだから、加減がつかみづらいわね」
 茫然としている早苗を見て、紫はにんまりとした顔を作る。
「ドッキリ大成功ってとこかしら?」
「ドッ……? え……?」
 頭の中が白くなる。今、紫は何と言ったのか。
「でもねえ、ちょっと心外だわぁ。吸血鬼でさえ身体をすり潰されても復活できるのに、私があの程度で死んじゃうとか思われるなんてねぇ」
「私は知ってるわよ。紫は殺しても死なないくらいしぶとい。紫を一匹見たら三十匹はいると思えってね」
「霊夢ったら酷いー、紫とゴキブリって『り』しか共通点ないじゃないのよぉ」
「というか、もう日も暮れてるんだから、日傘下ろしたらどうなの」
「気分よぉ。もしくはトレードマーク。ゴキブリと間違われたくはないものね」
「ド、ドッキリって……」
 今までの全ては二人の悪ふざけだったということなのだろうか。聞き間違いだと思いたかった。あるいは九死に一生を得たことをユーモアを交えて話しているだけだと。
 だが、霊夢と紫は悪びれずに言うのだった。
「だってね、早苗は教えてほしかったんでしょ、幻想郷のホントのこと」
「平和って言ってもねぇ、私たちがこーゆーのとお付き合いした上で成り立ってるものなのよぉ」
「博麗神社の歴史の分だけ、積み重なった膨大な恨みを買ってるの。いつ殺されてもおかしくないわけ。それがどういう毎日か、ちょっとは味わえたんじゃない?」
「そんな……」
 信じられないことだったが、よくよく振り返ってみれば、つじつまの合わないことがいくつもあった。
 二人で像を見ていなければ、まばたきの瞬間に殺される。では、一人でいた紫はどのように像と共にいたのだろうか。
 考えられるのはスキマの存在だ。紫の生じさせるスキマの中にはたくさんの「目」がある。それによって視線の枷を像にはめていた。
 なのに、いつの間にか像の頭上のスキマは消えていたのだ。敢えてそうした意味は、安全策とは真逆のところにある──危険を誘発させるという……。
 また、霊夢は、自分が像に向けて光を発する前から、こちらを見ていた。何をするか予想できたはずだし、未然に止めることもできた。なのに、何もしなかったのは、つまり、意図的に像に攻撃させる機会を与えたことになる。
 限られた情報に、追い詰められた状況。それらが論理的で冷静な判断力を奪い、数々の矛盾を覆い隠してきた。今ならわかっても、あのとき、死の恐怖に取り憑かれたときに、考えが及ぶはずがなかった。
「即興でやったけど上手くいって良かったわね」
「霊夢ったら、視線だけで提案するんだもの。あれでわかった私に感謝してほしいわぁ」
「いいじゃない。あんたとは目と目で通じあう仲でしょ」
「うふふ、ここでデレがくるなんて最高の報酬ね」
 紫はコロコロ笑うと、人差し指を立てた。
「さぁてと、出し物も終わったから小道具を引き上げましょうか」
 そのまま宙に線を引く。
 すると、いつの間にか頭上で既に開いていたスキマが、大きく口を広げて下に降りてきて、像を呑みこんでしまった。後には何も残らない。あっさりしたものだった。
「本当はね、」霊夢が早苗に言った。「ずっと社務所に入ってれば襲われることはなかったのよ。いろいろ考えてたみたいだけどさ」
「霊夢が『一時的に』なんて付け加えたからじゃない?」
「そっちの方がスリルがあるでしょ。でも、余計に怖がらせちゃったみたいね。ごめんごめん」
「…………」
 軽い口調に、やはり悪びれた様子はなかった。
 そんな霊夢に、思い出したように紫が言う。
「あー、そうそう霊夢」
「何よ」
「向こう行ったときにわかったんだけどねぇ、幾人かは結界抜けて向こうに行ってたみたいよ」
「幾人か?」
「サリエルと同じ異変にいた──」
「ああ、はいはい、確か封じたけど行方不明になったとかの。時空のよじれに落ち込じゃったんでしょ」
「そう、それよ。ついでに回収しようと思ったんだけど、向こうでもさらに行方不明になったみたいね」
「ふーん。じゃあ、いつかこっちに来るかもしれないのね」霊夢は自分の首をトントンと叩く。「また首を折られるのは面倒臭いわね」
「『骨が折れる』?」
「親父ギャグはやめてほしいわ。ったく、使い捨てじゃないカタシロ作るの、やたらと手間が掛かるんだから。それを何枚も消費するイベントなんて、お菓子をせびられまくるハロウィンと同じく願い下げよ。ああ、二枚も破っちゃうなんて大盤振る舞いが過ぎたかなぁ」
「いいじゃない。今までのカタシロは耐久期限も迫ってたとこだったし、入れ替えできてちょうどよかったのよ。これを機会にものぐさ巫女の称号は返上したらどうかしら。今だって使い捨てでしょう?」
「作るの、手伝いなさいよ」
「妖怪使いが荒いわねぇ」
 早苗は両腕で自分を抱き締めるようにし、身震いした。日はすっかり落ち、薄暗闇が覆っている。生気を奪うような冷気が強くなっていた。だが、身体の寒さのためにした挙動ではない。
 わかってしまったのだ。
 霊夢は死を間近に置いた日常を送っている。
 だから、いつ殺されてもいいように身代わりを立てている。早苗は聞いた。「いつから?」と。本人にとっては愚問だったに違いない。紫の言う通り、「始めから」だったのだ。像を目にしたときよりずっと前、お茶を飲んでいたときも、大掃除をしていたときも、朝に挨拶をしたときも、そのずっと前から。「それ」は霊夢本人でなく、カタシロだったのだ。
 今、話をしている霊夢も……密室だったはずの社務所の中から現れた霊夢も、もしかして、実は。そう──紫もさっき言っていた──『今だって使い捨てでしょう?』
「じゃ、紫、いいお酒用意して」
「えぇ? 今から飲むの?」
「いいでしょ。私は大掃除が終わったし、あんたは仕事が終わった。そして、早苗は怖い思いしたんだもの。飲む理由は十分でしょ。後は明日の労働に備えての景気づけよ」
「この子が怖い思いしたのはお望み通りだったでしょうに。まあ、それを肴に、霊夢と差しつ差されつというのもオツだけど」
「酷いこと言わないの。私たちにとってはお遊びでも、何も知らず普通に生きてたら、あれは結構ショッキングだったと思うのよ。下手をすれば首を折られてたかもしれないし。ね、早苗、怖かったでしょ?」
 早苗はようやく首を縦に下ろす。
 実際、恐怖は奈落のように深い。しかし、それは殺意に満ちた像に対してのものではない。
 死を身近に置いているからか、悪ふざけのように死を扱える──
(自分の命も、相手の命も、他者の命も、そして私の命も……)
 それら生命を塵のように軽く弄んで、遊びや酒の肴にできてしまう二人が、別次元の異生物のように目に映る。
 霊夢と紫が笑っている。薄闇の中で、白い歯の列が笑みの形に浮きあがっていた。
 早苗は思う。
 サリエルは確かに恐ろしかった。おぞましかった。けれど、自分にとってはこの二人こそが──



【おぞけを催す天使:了】
SCP-173
Weeping Angel
らいじう
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コメント



0.1150簡易評価
1.100絶望を司る程度の能力削除
やっぱSPCは財団か、同レベルの組織が回収しないと大変なことになるな、としみじみ。
4.90名前が無い程度の能力削除
なに、サメ殴りを楽しむ必要はないさエージェント■■■■よ。
・・・内容は面白いですよ。
5.80非現実世界に棲む者削除
怖いわあ、ガチで。
本当に天使は幻想入りしたのか...
7.80名前が無い程度の能力削除
要するに、スキマの中の眼は有効ということですよね。そして、死体の眼や監視カメラが通用しないのなら、天使を見るのは生き物の眼でなくてはならない。
…スキマの眼って、誰の眼なんでしょうか?
8.90名前が無い程度の能力削除
読みごたえがあって面白かったです
9.100名前が無い程度の能力削除
いいね、ちょっと違う本当は怖い幻想郷って感じで
11.80奇声を発する程度の能力削除
こういうの面白いですね
17.90名前が無い程度の能力削除
土台ぶっ壊して未知を無理やり引き摺り出す。厭らしいけど効果的。
20.100名前が無い程度の能力削除
価値観の違う人間は怖い
自分が耐えられないことが自分にとって大切なものが大切でないから
つまり早苗には確たる価値観があった
ならば二人の怖さになれることは自分の確たる価値観を捨てることになる
二人を怖がらない強い新たな自分になるか、自分の価値観を貫いて二人を怖がり続けるか
それが問題だ
21.100名前が無い程度の能力削除
これはなかなか…
ホラーとしても幻想郷考としても面白いですね
24.100名前が無い程度の能力削除
これってあれですよね、石臼のような音を出して徘徊するっていう。
30.100リペヤー削除
死ぬほど怖かったです。