1.
冬ももう終わり、いよいよ日差しも温くなってきた。
そう思って油断したためだろうか、冬の寒が急に戻ってきた際、僕は風邪を引いたらしい。いや、そのせいばかりとも言えないのだが。
冬の盛りが過ぎ、すでに残雪がところどころに見えるだけになっていたから、そろそろ衣替えだし、一時遠のいていたお客の足も戻ってくるだろうと、少し忙しくしていた面もある。あるいは、この冬の疲れが溜まっていたのか。
なんにせよ、この冬の総決算として僕はいま、一人で布団を敷いて横になっていた。男の一人暮らしで病を得る、というのはこういうことかもしれない。
見上げる天井は冬の色を受けて、味気なく見える。自分から生じる熱のせいで頭は痛いし、視界もやや霞む。身体はじんわりと痺れや痒みにも似た感覚があって、動かすにも大儀だ。腕一本を動かすにも気だるさや鬱陶しさがあって、正直、眠る以外のことをしたくなくなる。
だが、眠るといっても何日間も寝続けることは難しいものだ。病気になっていつも気付かされることは、「眠ることには体力がいる」ということだろう。
眠る体力すら失われ、かと言って身体を動かすのも億劫、とくると、ただの屍のようだ。返事すらできない。一人ならその必要もないわけだ。
僕にできることは、頭痛と戦いつつ眠れない状態で、思索に拘泥していくくらいなのだろう。
しかし、理性が働いていないせいだろうか、常にも増して取り留めがない。……いや、これでいつも通りなのか?
結果として、頭で色々考えはするものの、身体については咳をするかくしゃみをするか寝返りをうつか、そんなことくらいでしか動いていない。
……咳をしても一人。
半人半妖を人で数えて良いのなら、そのような。
あとはせいぜい、人間、いや、半人半妖の尊厳を守るため、最低限の排泄行為を辛うじてこなすくらいだろうか。
食事を作るため、部屋を暖めるために火を起こすこともおぼつかないし、入浴することはなおさら難しかった。
あるいはこのまま孤独に誰にも気付かれず、などと考えてしまっていた。
いつもなら、元気の良い闖入者があっても良さそうだが、店をしっかり閉めているし、訪ねに来られても外へ出て行く気力もないので対応できないのだから、来客が無くてもしょうがないだろうう。
いや、決して僕の人付き合いが悪いせいではない、はずだ。
布団の中でどんどん悪い方向に向かっていく思索を止めるように、閉じられた襖の向こうから声が聞こえる。
「店主さん、卵は嫌いじゃなかった?」
気軽な調子で、彼女の声が聞こえてくる。
「嫌いじゃないよ」
咳のせいで痛めている喉から、少し嗄れた声で僕は答えた。
「じゃあ、落とし卵をしましょう。あとは……葱と茗荷を多めに散らす?」
「ありがとう」
風邪に良いと言われる薬味の名前を続けて言う。
……うん?
いや、確かに僕は一人で寝ている。ただ、今、台所に立つ者がいない、とは言っていなかったはずだ。
ついでに言えば、彼女を人という単位で数えるべき存在なのかどうか。
「はい、お粥ね。梅干しは小皿に乗せたから」
彼女は静かで優しげな声で続け、そっと襖を開いた。前掛け、あるいはエプロンをした彼女は、僕を見ておっとり微笑む。
「すまないね」
「それは言わない約束、だったはずね?」
彼女は苦笑して返した。まだ悪い、なんて思っているの、と。
「本来、僕一人で治すはずだったからね。君を巻き込む気はなかったわけで」
「こっちの余計なお世話なんだから、気にしないで、何度も言ったわね?」
僕の強情さに呆れてみせるが、決して機嫌を損ねたわけでもないらしい。彼女は悪戯っぽく僕に聞いてくる。
「眠るのに飽きてきたんでしょ?」
「その通りだよ。ついでに言えば、この風邪にもね」
僕の言葉に彼女はうなずいた。
「ようやく皮肉を言えるようになってきたのね。そろそろ大丈夫そうだわ」
彼女はそういって、僕の枕元にお粥と生姜湯、梅干しの小皿、それに備え付けである永遠亭の薬売りから購入していた薬の乗る盆を置いてくれた。
「もう、一人で食べられる?」
「勿論だとも。だいぶ、楽にはなってきたんだ」
そう、一時、一番悪い時期よりは。
「そう?無理しないでね。汗は一人でふけるかしら?」
「大丈夫だよ、ありがとう。……しかし、君たちの一族は情が深くて申し訳なくなるな。そこまで気にしなくても大丈夫なんだが」
「……あら、本当にらしくもない。やけに素直ねぇ。でも、情が深いのはこっちの連中って言ったわよね。私はそうじゃない、って何度も」
彼女は照れ隠しなのか、本気でそう思っているのか、全く読めない飄々とした口調で答えた。
「さ、食事に薬、それに布巾もある。お湯も沸かしてくれたみたいだから、本当に大丈夫だよ。残り少ない時間だ、彼女たちのために使ってくれ」
僕は匙を握ると、いただきます、と頭を下げる。
彼女はしばらく物思いにふけると、どうぞ、と微笑んだ。
「そうね。でも、後かたづけは、あとでするから、置いておいてね。無理は禁物、よ」
彼女の言葉にうなずきながら、僕はお粥を口に含む。米の澱粉質の甘みが、じんわりと舌に染みてくる。鼻は詰まっているし、喉も痛いのだが、なぜか粥の甘みだけは残るのだ。熱がゆっくりと雪を溶かしていくように、粥も機能しない味蕾に染み込んでいってる感じ、だろうか。
「味、わかるようになったの?」
一匙掬って咀嚼した僕に、彼女は嬉しそうに聞いてくる。
「ああ、少しづつ、ね。おいしいよ。もう少ししたらきっと、もっとおいしく感じるはずだ」
僕の言葉に彼女はくすくす笑う。
「そうかしら?味覚が戻ったら、実はおいしくなかった、のかもしれないわよ?」
そう答えると、さっ、と彼女は席を立った。
「大丈夫そうだから、お言葉に甘えて行くわね」
「ああ、ありがとう。君も気をつけてくれ。彼女たちにもよろしく」
僕がなんとか手を振ると、彼女はうなずいた。
「伝えるわ。じゃ、またあとで」
僕はお粥の湯気に顎を当てている様子に苦笑して、彼女は去っていく。その後ろ姿が少し横に数人分にぼやけるのは熱のせいらしい。言うほど、良くもなっていないのか。
とはいえ、彼女にはもう時間がないのだ。いつまでも、男所帯にかまってもらうのも良くないだろう。
……それにしても。
それにしても、何でこんなことになったのだろうか?
いや、そりゃ、ここに至った経過は分かってはいるんだが、現在だけ切り出すと、何とも不思議な気分になってくる。
いや、心の底から、感謝はしているんだ。
しかし、あの時点ではこんなことになるとはとても予想はできなかったろう。そう、「あの時点」。今考えれば、発端はなんだったか。
僕はそんなことを、頭痛と熱に邪魔されながら考える。
味はほとんど、分からなかったが優しく薄い甘味のするお粥と、本来、強い香りがあるはずの生姜湯を飲み干し、そして苦い薬を水で飲み込む。
食器をまとめて置くと、一人で汗にまみれた身体を拭いている頃には、発端となった場面を思い出して、人知れず苦笑を浮かべていた。
そう、彼女たちだった。
そして。
僕は枕元に置いておいたビー玉を見つめた。
これだった。
僕は身体を拭き終わると、そのビー玉を握って目を閉じた。
もう、考えるのが面倒くさくなってきたからだった。
そう、後は夢でも見てればいいだろう。
このビー玉が見せてくれるかもしれない。
望みの叶うビー玉、か。
少なくとも、彼女はそんなことを言っていたのだっけか。
2.
僕には特に、興味のないことだった。
「いや、香霖、そこで間違いなく赤化するはずだったんだよ。錬金術的には。でも、あれかね、霊薬の技法と錬金の技法は異なるのかな?」
魔理沙がいつものように現れ、我が商品たちをツケで購入し、ツケの支払いを催促する。いつもの風景で、特に大きな問題があるわけじゃなかった。
「金属系と植物系を同様に扱うのは無理があるんじゃないか?少なくとも陰陽五行的には金剋木だったかな」
冬も大詰め、寒波により客足も遠のいていたが、想定以上に酷いわけじゃなかった。
実際、魔理沙はこの冬の降雪などを幸いと、自宅でキノコ類や薬草類を使って霊薬、エリクシールの研究に勤しんでいたくらいだ。降雪といっても、雪国なら別段、酷いと感じる量ではなかったし。
「ああ、五行だと「金」と「木」でジャンル違いになるからな。でも、東洋の仙人たちの仙丹はこれらを複合させてるだろ?」
せっかく冬籠もりをするのだから、と当店で器材や材料を買い揃えていったのが、だいぶ前のこと。途中、器材が壊れたのを買い直したり、材料を補充したりと当店を訪れていたが、いよいよそれも大詰めとのことで、魔理沙は大層、熱心な様子だった。
「まぁね。ただ、それが逆に毒になった、ってのが専らの噂だね。重金属中毒、だったかな。慧音あたりは金丹なんて、そんなものを信じるのか、と眉を顰めるレベルだ」
里の知識半人にして、中華の聖人君主の前に現れる妖怪の血を半分引くという旧友の名前を出す。なお、その旧友の友人は蓬莱の薬の服用者であるが。
「だろうねぇ。だとすると、やっぱりキノコと植物を中心にした方が良いな」
「ついでに言えば、動物の体液とか、勘弁してくれよ。こっちもプロだから仕入れるよう努力はするが、場合によっては取り扱いに困るものが多すぎる」
僕がぼやくと魔理沙はにやっ、と魔女みたいに笑った。いや、魔女だったか。
「ま、私もそんなの飲みたくないからな」
「なら、誰に飲ませる気だい?」
魔理沙は暫くふむ、と唸ってから重々しく口を開いた。
「私の大切な人たちに」
「残念だな、僕は半人半妖なんだ」
「知ってる」
魔理沙は即座に答えて、また、にやっ、と笑った。もはや魔女というより、チェシャ猫の笑みだった。
「でも、香霖は特別さ。私が香霖を仲間はずれにするわけないだろ?」
「……その哀れな犠牲者の中に、魔理沙、君は入っているんだろうな?」
「なんで効能の怪しい薬なんか、飲まきゃいけないんだ?」
僕はその返答に苦笑すると、魔理沙はふぅ、とこれ見よがしに溜息をつく。
「大丈夫だって、ちゃんと飲める薬にするさ。ハーブとかを主体にして、こう、都会派?な感じに」
お澄まし気味にして言う魔理沙は、多分、アリスの真似をしたつもりなのだろう。
「主体、じゃなくて成分はそれだけにしてくれ。まだましだろうから」
「それじゃ意味がないんだがなぁ。ただのおいしいハーブティーになっちゃうぜ?」
そう言って笑うと、霊薬の研究の話ばかりでは艶に欠くと思ったのか、魔理沙は他にも茶飲み話をするべく、ほい、っと文々。新聞を投げてよこす。
魔理沙が指さしたのは、当然のごとく文々。新聞の記事、ではなく、その広告記事の方だった。
文々。新聞の内容に信用をおいていない魔理沙にしても、広告欄はそれなりに楽しめるものなのだろうか。
なにせ、広告欄には文のサービス精神、つまり「より面白くしてやろう」という悪意、もしくは善意が存在しないのだから安心して読めるというものだ。
その広告欄には、いつも通り、「売ります買います」だの「ペットの赤ん坊の飼い主募集」だの「信徒募集」だの「仕事募集」だのが書き込まれている。
やや胡散臭いものから非常に胡散臭いものまで、バラエティに富んでいるのは良いことだが、どこまでがまともな広告なのか、信用できるものじゃない。
偽の蓬莱の玉の枝、売ります。蓬莱山輝夜とか、ペットの赤ん坊の飼い主募集。地霊殿とか、信徒募集、三食昼寝付き、明るい雰囲気で御利益あります。守矢神社、の横に、来たれ労働者、三食昼寝付き、無給、明るい雰囲気の職場です、守矢神社、とある、これはどういうことなのか。
何か敵対組織と情報戦でもしているのだろうか。
そんなことを考えさせる一方で、他にもこんなのがある。
おくりびと、メリー今どこで迷ってるの?帰ってきなさい、蓮子
今、会いに行きます。蓮子はそこにいて。迎えに行くから、メリー
……この二人、文々。新聞のところでニアミスしてるんじゃないか?少し周囲を探せば見つかった気がする。
第七艦隊いずこにありや、全世界は知らんと欲す。
誰向けなのか、この文章は。
しかし、魔理沙が指さしたのはそれらの欄ではなかった。
「貴重な霊薬の材料、求む。その価値に応じて魔法のアイテムと交換。霧雨魔法店」
ちなみに、その価値に応じた魔法のアイテムがなんなのかは、一切不明だ。
魔理沙は微笑みながら「香霖、お前もどうだい、交換したくならないかい?」と言ってきたものだから、僕は厳かに首を横に振った。
「しかし魔理沙、これじゃ怪しすぎて誰も交換に来ないだろう?それも、こんな冬の雪の中に」
「いや、そうでもないのさ。少なくともパチュリーやアリスは来たぜ?」
それは口実だな、とは思ったがそれを口に出さない程度には、僕は空気を読むほうだ。
「他には?」
「霊夢が、この御札とかどう?あるいはこの針とか、陰陽玉とかは?って。過去の文々。新聞の束と交換してやろうと言ったんだが、喧嘩になったっけな」
そりゃ、どっちもどっちだ。弾幕と古新聞を交換するとか、もう、何をしているんだが。
「あとは妖精たちが来たくらいだな。捨てられていた新聞を見たらしい。チルノと大妖精が凍らせたカエル、みたいな各種氷結両生類を持参してくれたよ。カラフルではあったね、上品とは思えなかったが。まぁ、あんまりにも高い価値のものだったんで、何でも望みの叶う、ってことにその場で決めたビー玉と交換してさしあげた」
「……それ、ラムネの中のビー玉、じゃないのか?」
ラムネを飲んだ後に取り出した、緑色のガラス玉。魔理沙は軽くうなずいてみせる。
「鰯の頭も信心から、さ。萃香だって鰯の頭と柊の葉が苦手なんだから、なんとなく意味はあるだろ?少なくとも、チルノは「うぉ、すっごいね」って喜んでたぞ?」
「大妖精は?」
「なんとも、微妙な表情をしてたな。もともと来店したときもハラハラしてたから、なおさらな。とはいえ、チルノが嬉しそうだったから、最後はニコニコしてたけどな」
良いことしたろ?と魔理沙が悪びれず言った。
「それで、貴重な代物はあったのかい?」
「残念ですが、ありませんでした。まぁ、何年も開いている道具屋ですらこうだもんな。一朝一夕で貴重品、とはいきませんわ」
魔理沙が皮肉を言ってウィンクした。
「それも文々。新聞じゃ、なおさらだろうな。信頼性が失われる」
僕の指摘にも魔理沙は軽く頷いてみせるだけだ。分かっているのだろう。
少なくとも僕はその方法だけは、選ばない。
「だからこそ、曰くありげな品物も来るかもな、と思ったのさ。ちょっと霊薬研究にも壁を感じてたから、気分転換にはちょうど良かったかな」
そう言って笑う魔理沙の表情は、本当に楽しそうだった。確かに魔理沙の今の姿を見れば、研究に集中していたことが分かる。
黒白を基調とする魔理沙の、魔女のエプロンの先には菌糸類が白くうっすらとまぶされていたし、千切れた葉やすりつぶされた根っこなどが付いていたりするので、溜息混じりに僕が払ってやったほどだ。
少し、外見に気を使ったら、と聞いたら、白い目で「どの口がそれを言うのか」などと言い返してきた。非常に心外だ。
「ま、霊薬の材料じゃなくても、交換するのは吝かじゃないぜ?香霖、たとえばあれとかどうだい?」
魔理沙がそう言って指さしたのは、紫から強制的に商品を没収された際に交換材として渡された、機械類だった。天狗が使っている写真機?らしきものや、阿求が使っている蓄音機?らしきものなど、多種多様だが、使い方を覚えるのに一苦労だ。
いや、説明書もないので、ひたすら八雲紫のご機嫌を取り、謎めいた言葉のはしばしから使い方を知る、っていうのは難しいものだ。河童に協力してもらうのも良いんだが、あの連中、分解するからな。時に水中で調査したりするから始末に終えない。
「あの辺は、天狗や河童に売れる可能性が万が一にもあるんでね。そう、やすやすとは出せないな」
「……売る気なんて、あるのかね」
魔理沙は苦笑すると、さて、と席を立った。
「久しぶりに古馴染み一同にご挨拶もしたし、帰るとするかね」
「ああ、せっかくだからじっくりと冬篭りをするといい」
颯爽とマフラーをする魔理沙に声をかけると、彼女は片手を軽く上げて答える。
「そうだな。霊夢も冬の寒さで冬眠しそうだからなぁ」
うちより先に訪れたであろう旧友の報告をすると、魔理沙はにっ、とやはりチェシャ猫みたいな笑みだけ残して、商品を抱えて帰って厳重に厚着をして出ていった。
そう、今年の冬は、少し冷えたのだ。
3.
お子さまを店内で自由に遊ばせてはいけない。
基本的な原則、戒めである。
特に道具屋、骨董屋、美術品屋、工芸屋などという壊れ物が致命傷となる店ではなおさらのことだ。
もちろんそれは、当、香霖堂でも同様である。
お葬式や墓地で子供たちが遊び回ってはいけないし、道で走り回ってはいけない。これは親の躾によって伝えられるところだ。
勿論、それが難しいことは、自分が子供であった頃を思い出せばよく分かる。
子供というのは、そういうのが苦手なものなのだ。礼儀を守れない大人がいる以上、子供がなかなか最低限の礼儀を守れないのは、理解できなくはない。
だからといって、躾をしなければ礼儀を守れない大人になるだけだ。大人になっても同様なことをしでかすだろう。
大人になってそうした行いを許されるのは、お金持ちか権力者か、暴力を振るいなれている無宿人ぐらいなものだ。無論、許されてはいけないことなのだが。
で、今、当店内では絶賛、子供たちがはしゃいで回っている。
いや、子供たちならまだ良い。大人を呼ぶなり、叱れば良いのだから。また、子供が壊したものについては、親に請求することもできるだろう。
だが。
「大ちゃん、ほら、これこれ!あたいが見つけたやつ!」
妖精の場合、どうしたものか?
支払い能力は皆無であり、一方で親がいるわけでもない。ついでに言えば、下手をして逆恨みでもされれば、たとえ妖精といえども、迷惑なことになるものだ。
古来、妖精の類の悪戯で、その人生を狂わされた者の物語は数知れない。
「どう?すっごい、きれいでしょう?」
そういって我がもののように氷精が威張って、商品を鷲掴んだ。その様子に、大妖精が僕の方をちらちら伺う。
「綺麗だけど、その、商品は置いておいた方が……」
大妖精の気遣いに、チルノは首を傾げてみせる。
「だって、簪だよ?髪に飾るんだよ?」
そう。それは翡翠でできた簪だった。そこに美しい飾りが施してある。
「そういうのは、買ってからじゃないと……」
「でも、試着してみないと分からないじゃない」
チルノはそう答えて、自分にではなく、大妖精の髪に挿した。
「ち、ちるのちゃん!?」
「やっぱり、似合ってるよ!大ちゃんの長い髪に似合ってる!」
慌てふためく大妖精を後目に、チルノはとても満足そうに腕を組んでうなずいた。
「えっ!?えっ?」
「この間、ここに潜入したときに見つけたんだ。あたい、これ、絶対大ちゃんに似合うと思ったんだよ」
そういえば、この間もチルノは来ていた。とはいえ、商品に触れて壊すとか、悪戯をする、とか言うのではなかった。なぜか、じっとあの簪を見ていたのだ。買うのかい、と近づいた気配を察知して、脱兎のごとく逃げてしまったが。
あれ、潜入、だったのか。
「これ、してもらおう、って思って」
確かに、短髪のチルノがするより、長髪の大妖精の方が様になるだろう。しかし。
「で、でもね、こういうのは……」
「かわいいなぁ、大ちゃん」
「……そ、そう?」
大妖精が少しその気になったのだろうか、ちょっとチルノの方へ姿勢をただした。
「うん!かわいい!」
確かに、その姿は清楚な少女、といった面もちである。誉められて満更でもないのか、大妖精ははにかんだ。ここだけ切り取れば、とても美しい少女たちの姿である。
そう。ここだけ、切り取れば。
ちなみに、今、まさに大妖精の髪を飾っているあの簪は、我が店の商品である。試着して良いか確認があるべきなんだが。
「ああ、君たち」
いよいよ、仲良し二人組の世界に入ろうとした矢先、僕は声をかけた。店主さん、邪魔をしないで、と言いたいところかもしれないが、見過ごすのもどうかと思うし。これから良いところなの、と言われたらなおさら困る。
「なに?霖之助?」
チルノが初めて僕の方に顔を向ける。
「いや、それ、買うのかい?」
「……これ?」
そう言うと、チルノが大妖精の髪を指さした。途端に、大妖精が慌てて簪を抜く。
「ご、ごめんなさい、霖之助さん。あの、これ」
大妖精が元の位置に戻そうとすると、チルノはその簪を手に取った。
「ねえ、霖之助。これ、あたいに頂戴」
その言葉に大妖精がなおさら慌てる。
「……チルノ、お金はあるのかい?」
「お金は、ないけど」
チルノはそう言って、なお僕を見つめた。
「それでは売れないね。ついでに、無償で差し上げたりはしないぞ」
僕が言うと、チルノは怒った。
「あたいだって、これをくれ、とは言ってない!物を買うのにお金が必要だ、ってことは分かってる!」
バカにするな、とでも言いたげに続けた。
「ただ、あたいはお金を持ってない。だから、何かと交換して欲しい」
チルノは真剣な表情で言う。
「交換?」
「だって、お金とこれを交換するのは、私がこれを欲しくて、霖之助がお金が欲しいからでしょ?お金じゃなくても、霖之助が欲しいものと交換したら、問題ないじゃない!」
チルノがまくし立てる。
そう、そりゃそうだ。
お金というのは、あくまで交換するための標識だ。
全員が欲しがるものが「お金」ということにしているから、お金は流通し交換されている。相手が何が欲しい、自分が何が欲しい、と考えなくても価値を交換することができて、かつ、貯めることができるところがお金の一番の利点なのだ。
そして、それを支えるのは、いつでもお金があれば商品と交換できるという信頼があることだ。
逆にある日、そのお金が信頼を失って商品と交換できない、となったなら誰もお金を欲しがらなくなるだろう。珈琲一杯飲むのに、トラック荷台一杯の紙幣というのでは、誰がその紙屑を欲しがるだろうか。
チルノが言っていることは、十分、正しい。……けれども。
「とすると、君は僕の欲しがる物を持っているのかい?」
「……見てみないと分からないでしょう?」
僕の言葉に、チルノが少し自信なげに答える。
正直言ってしまうが、そんなものがあるとは思えない。だから、妖精相手に何を本気で、と言われるかもしれない。
しかし、商店を経営しているとき、子供に対応するということは、こういうことだとも思っている。
ずっと店の前で立っている子供に、鯛焼き屋や饅頭屋が「今日、お前にだけだよ、誰にも言っちゃだめだよ」と言って一つ渡してやるのは、善意だけではない。
もちろん、善意が重要なのは確かだ。その店主に善意がなければできない。
しかし、ずっと店先に子供が立っている店、という感じの悪さや、二度目はないと言って相手に商売の原則を教えてやること、子供が約束を破って親にそのことを告げたとすれば、その親が来店して商品を購入してくれるだろう、そんなところまで想定しているものだ。
もちろん、その子供が友達に「お前もやってみろよ、ただでもらえるぞ」などと言うかもしれないが、そのときは敢えて子供をずっと立たせておけば良い。そうすれば、嘘を言ったとその子供と友達の間で喧嘩が起こるだけなのだ。
商売というのは、全体として信頼で成り立っているし、善意が前提になる。みんなが顔見知りの社会で行う狭い商売となれば、なおさらだ。一度、信頼を失ったら、その店主は二度とその社会で商いをすることはできなくなるのだから。
僕も個人商店主である以上、妖精相手だからといっていい加減にする気はない。
「待ってね、ええっと」
チルノはそう言って、ポケットの中を探り出す。案の定、出てくるものはガラクタばかりだ。
王冠、ベーゴマ、メンコに竹蜻蛉。蝉の抜け殻に、どこで見つけたのだろう桜色の小さな貝殻。縞模様の小石に、蝋石、ゴム紐、リリアン糸。
出てくるものは少し懐かしく、あるいは不思議な気持ちにさせるものばかりだ。よくもまぁ、壊れずに入り込んでいたものだ。とはいえ、これらが価値のあるものとも言えない。
「チルノちゃん、もう良いよ。私、チルノちゃんの気持ちだけですごく嬉しかったから」
大妖精が心配そうにそう言って止めるけれど、チルノはポケットを探り続ける。好きな女の子の前で引くに引けない男の子みたいだ、と思って、いや、この子も女の子だったな、と思い返す。
まるで整理されていないポケットから、目的の道具を見つけだそうとする青狸の大妖怪のように、必死に物を取り出す。うん、大妖怪、だったかな?とにかく、大妖精あたりが、だからいつも整理しておけといったのに、などと言いそうな。
「これでも、……ない。これは、どう?……えっと、これは?」
そう言って出てくる、不思議な御札や魔理沙の書いたと思われる鑑定書、そして綺麗な文字で書かれた手紙。
「ね、チルノちゃん。やめよ。それみんな、チルノちゃんの宝物じゃない!」
大妖精が懇願するように言う。
そうだった、子供の頃はこうしたものが全部、宝物に見えるものだった。かく言う僕にもそういうときがあったのだ。
「私、そこまでしてもらったら、逆に嬉しくないよ」
「でもさ、とっても、とても似合うんだよ?」
チルノが悔しげに僕をにらんで言う。それは本当に悔しそうな目で。そして、それは僕を恨んでいるというよりは、無力な自分が悔しい、という目で。
ああ、やめて欲しいものだ。
そういう目は、悪人に向けるものであって、僕のような善人に向けるものじゃない。
「良いかい、その簪はね」
僕はチルノが取り出したガラクタを番台に一つずつ並べながら静かに言った。
「この間、村の長者の倉で引き取ったんだ」
チルノは急に僕が話を始めたのに驚いて、目をぱちくりさせる。
「そこでね、何でも長者の先々代のお妾さんが亡くなったんだそうだ」
「おめかけさん?」
チルノが首を傾げ、大妖精が顔を紅潮させる。大妖精は少し、ませたところがあるらしい。
「そこは良いんだけどね」
僕はチルノが出してきたガラクタを、いつもの商品と同様に丁寧に取り扱いながら続ける。そっと手に取り、壊さぬように。
「で、お妾さんは先々代が亡くなったあと、ずっとその倉で生きていたらしい。長者の家では誰も相手にしなかったらしくてね、捨て扶持じゃないが、食事だけもらって、あとはずっと日陰者だったそうだ。で、このたび亡くなりましたんで、やっと片づけられることになりまして、ってことで僕が遺品を引き取った。長者の祖母、って人は人一倍、彼女を憎んでたらしくってね」
よくある話、よくある話だ。
しかし、妖精たちは何を言っているんだろう、という目をしている。そりゃ、そうだろう。
「で、遺品を整理している中に、この簪があった。もっと色褪せていたし、欠けもあったんだが、その辺は僕が手を入れた。何でも、彼女が一番大切にしていたものらしい。先々代にもらったものらしくて、とても大事にしていたそうだがね、それがなおさら正妻には気に入らなかったようだね」
僕はチルノのガラクタを並べ終えて、苦笑した。さて、どうしたものか。
「二束三文、だったよ。捨ててくれても良い、って言われたほどさ」
「捨てて良い?だって、大事なものなんでしょ?」
「君も言ってたろう?誰かにとって欲しいものでも、誰かにとっては欲しいものじゃない。だから、お金は便利だし、物々交換をするのは難しいんだ」
正妻が憎むほど、捨ててしまいたいほどの簪。しかし、妾にとっては命よりも大事なもの。これが同じ価値を持つと考えていいものだろうか。
「さて、じゃあチルノ。君に聞くがね。ここにある全ての君の宝物、これと同じくらい、この簪には価値があるのかい?」
「ある!」
チルノは胸を張っていった。
「大ちゃんに良く似合うんだもん。すっごくかわいいんだもん」
「よろしい。それでは僕の条件を提示しよう。最後に残っているポケットの中身を出せるのかい?」
さっきから、ずっとポケットをいじっていたチルノ。つまり、それを出すかどうか、ずっと悩んでいたのだろう。
「ねぇ、もう、やめて。意地を張らないで」
「出せるよ」
チルノがそういって、握りしめた拳をつきだした。
「良いのかい?後悔しないのかい?」
「私が後悔するよ、やめてよ、チルノちゃん」
大妖精にしてみれば、チルノの気持ちが分かるから、なおさら止めたいのだろう。
だが、僕たち二人に言われても、チルノは笑った。
「でも、ここで出さなきゃ、あたいも後悔する」
そう言って、氷精は率先して番台の上に、それを置いた。そして、それは番台を滑っていき、床に落ちてカツンという音をさせた。
「これで、どうだ!」
僕の足下まで転がってきたもの。これはビー玉、か?
「これは、願いが叶うビー玉なんだ。これはとっておきなのさ!」
「チルノちゃん……」
涙目になる大妖精に、チルノが言い切る。だが、僕は冷や水を浴びせるように首を振った。
「……いや、まだ不足だね」
僕がそう言うと、今度は大妖精が僕を睨む。
「そんな、酷いです!」
「商売は酷いものなんだよ。良いかい。君たちにはお金がない。だからそれに等価値のものを出す必要があるんだ。第一、本当にこんなビー玉で願いが叶うものか」
僕はそう答えて、帳簿をこれみよがしに出して見せる。
だいたい、願いが叶うなら、このビー玉の力で簪が手に入っても良いはずじゃないか。
そうだろう、魔理沙。
「良いかい。今、チルノが出した宝物。このうち、僕にとってこれは無価値だから返すが」
そう言って、チルノが大切にしているであろう、冬の忘れ物の書き残したひらがなだけの手紙を返す。チルノが目を丸め、大妖精も僕の真意が分からないのか瞬きした。
「あとは全てもらい受けよう。それに、君たちのせいで僕の時間がこれ以上無駄にされても困るんだ。僕の時間は翡翠で出来た砂よりも貴重でね。その時間の代金を加えよう。それから、チルノ、君のさっきの啖呵は決して見せ物として悪くはなかった」
「あたい、見せ物じゃない!」
「それに、大妖精、君の言葉も泣かせるものだったよ」
「そ、そういうつもりじゃ……」
「その見物料を足そう。それに、今後、こんな商いはしないという約束だな。僕は君たちと、二度とお金のない商売はしない、そう約束できるかい?」
「……できる」
チルノがしっかりうなずき、大妖精も首を何度も縦に振った。
「よろしい。ついでに、村でもこんなことはやらないこと。お金なしで何かを入手することなんて、本来できないものだからね」
説教がましく言うとチルノは慧音みたいだ、などと言って舌を出した。半人半妖に共通するところらしい。
「そして最後、これが一番重要なんだ。これがなければ、この簪は渡せないな」
僕が言うと、二人が息をのむのが分かる。
「チルノ、良いかい。この条件で簪を手に入れた、なんてことは絶対他人に言っては駄目だぞ。君以外に僕はこんな取引をする気はないからね」
僕の言葉に、チルノはしっかりうなずいた。
とりあえず、チルノとだけ約束をする。色々言われているチルノだが、約束を破るような娘ではないからだ。
それに、大妖精は賢いから大丈夫だろう。いろいろな意味で。敢えて大妖精とは約束をする必要はないと思っていた。
まぁ、こんな約束をしなくちゃいけないのは、この取引を聞いた、などと魔理沙や霊夢に言われたら僕は幻想郷から逃げ出す必要があるだろうからだ。
二人から、同じように商品を要求されたら、これ以上ないほど面倒になる。
良くて夜逃げするね、僕は。
それに、チルノや大妖精に親がいるわけじゃない。
親から、人の物を盗んできたのか、などと詰め寄られることもないだろうから、口止めしておいても問題は生じないだろう。
「約束するよ」
「そうかい。ならその約束の分もお代に含めよう」
僕はうなずいて帳簿を置いた。
「ふむ、これでようやく等価値、だな」
僕が言うと、二人が目を輝かせる。
「じゃ、じゃあ」
「二度目はないぞ」
その言葉に大妖精が何度も頭を下げる。
「ほら、君たちのものだ」
僕はその簪を再び大妖精の髪に戻す。そして、領収書となる紙を一枚、筆を走らせて、チルノに渡した。もし仮に、村人あたりに見咎められたときには、これで答えることができるだろう。
するとチルノは、床に落ちていたビー玉を拾い上げて、重々しく僕に握らせた。
「霖之助のものだよ」
チルノのその言葉に、僕も重々しくうなずいて言った。
「返さないからな」
「もちろん」
「ありがとうございます、霖之助さん」
彼女たちはそういうと、二人とも胸を張って店を後にする。
二人は嬉しそうにお互いを誉め称え、何よりチルノは大妖精の髪を何度も撫でて満足顔だった。
ほら、大ちゃん、願いが叶うビー玉、本物だったでしょ?
チルノがそう言って得意げなのを、何度も大妖精が嬉しそうにうなずく。そして頭上の簪を大切そうに両手で触れて微笑む。
そんな様子を、僕はため息まじりに見送りつつ、宝物を紙箱に仕舞い始めた。価値があるものなんて何もありゃしない。
そう考えて、苦笑した。
いや、赤字には違いない。
だが、あの簪も二束三文で買い叩いたものだ。あるいは、あの簪の主も捨てられるなり陳列されて埃を被るなりするより、喜ぶのではないだろうか。
いや、これも自分への言い訳か。
「これが霊夢や魔理沙なら断れるんだがなぁ」
僕はぼやいて一つ、くしゃみをした。
考えてみれば、先ほどから氷精が緊張のせいか、この部屋の空気を冷やしていたらしい。ふと見ると、せっかくの八雲印のストーブも止まっていた。
やはり、氷精に関わっている場合じゃなかったかな、とそこで自嘲した僕は、寒気におそわれながらストーブを点け直すことにした。
そして、ストーブを待つ間、身体をこすり続けながら、僕は最後のビー玉を見つめた。何でも願いが叶う、誰から聞いた与太話だか。
もちろん、分かっている。あの新聞広告欄の話、あれだ。
そう思って魔理沙の鑑定書に目をやる。それはビー玉についてのもののようだった。
「チルノの主張通り、願いが叶うかもしれないビー玉と鑑定する。霧雨魔理沙。ただし、効力は不明」
その文章に苦笑を浮かべた僕は、魔理沙が妖精たちにせがまれてやれやれと首を振る姿を幻視した。なるほど、魔理沙が騙したわけではないらしい。
確かに、綺麗なビー玉は、幼心には不思議なものにみえるかもしれない。魔理沙だって小さいころは、そんな目でビー玉を見ていたのだ。
そう考えると、あれで付き合いの良いことだ。魔理沙らしい。
次に魔理沙が来たらなんと言ってからかってやろうか、とそのラムネに入っていたであろうビー玉をポケットに入れた。
まぁ、そのくらいの役得がないと困る、と僕は考えながら、もう一度、くしゃみをしたのだった。
4.
一度は春めいて来たか、と思ってストーブを片づけるかどうか迷っていた僕の前に、再び冬のような寒が戻ってきていた。
チルノたちと話していた頃には春が近づいていたという開放感もあったのだが、冬は未だ幻想郷でしぶとく粘っているようだった。
そういえば、西行妖異変のときも冬が長引いていたものだが、あのときと違って、今回は気候的なものなのだろう。でなければ、この暖かくなったり寒くなったり、三寒四温の気候は続くまい。
なんにせよ、昨日暖かく今日寒いという気候のせいか、チルノの相手をしていた時間が長すぎたせいか、体調を崩した実感はあった。
ただ、そんなに悪くなることもあるまい、とたかをくくっているところもあって、仕事は続けていた。
なんとなく喉はいがらっぽいし、身体はだるい、とは思っていたけれど、店を閉めるというとなんだか後ろめたい気分がするのだ。香霖堂は僕の存在そのものだし、自分に何の問題もないのに閉店させるのは、なんだか誰かに責められているような気がする。
客がいないんだから店を開けなくても良いのに、と言うかもしれないが、これは性分みたいなものだから、しょうがない。魔理沙に言わせれば、そいつは勤勉じゃなくて神経症じゃないか、ということになるが、別に誉めてもらおうと思ってやってるわけでもないのだ。
とはいえ、もともと客が少ないことは事実だし、寒が戻って雪が振ると途端に客足は途絶える。いや、もともと少ないために、途絶える客足が聞こえていたかも疑問だ。
客足の響きが聞こえる。
もちろん、幻聴です。ありがとうございました。
「良いのね?入るわよ?」
その声がドアのベルとともに響いて、初めて幻聴ではないことに気付く。軽く雪が振ったせいか、外部の音が消えていたらしい。雪は音を吸収するからね。
「ああ、すみません。どうぞ入ってください」
僕は慌てて答えると、彼女は店の外で身体を叩いて粉雪を落として入店した。冬の寒が戻ってきたというのに、軽装ぎみの青を基調とする洋装のままでいる女性。彼女は店に入るや僕を見つけて、おっとりと微笑みかけてきた。
「こんにちわ、店主さん」
「いらっしゃいませ……、これは珍しい」
相手が客であるかどうかはともかく、珍しい妖怪の来店に手元の本を置く。
「何かご入り用、ですか?」
「ええっと、ご入り用、という訳じゃないんだけど」
そう言いながら彼女、レティ・ホワイトロックは巾着袋を取り出してみせた。
「お支払いに来た、ってところかしら」
「お支払い?あなたに売ったものはないはずですが……」
僕は訝しく思う気持ち半分、それに心当たりを伺う部分が半分あったが、それを口に出すわけにはいかなかった。
無論、そういう約束をしていたからだ。
「そうもいかないわ。あの簪の代金がまだでしょう?」
「ああ、やっぱりあれのことか」
僕は不意にため息を吐いて答える。なるほど、お客ではないのだ、と辺りを決めて僕はぶっきらぼうに言う。
それにしても、チルノらしくもないじゃないか。
「いや、あれは彼女と物々交換したんだ。代金をもらうものではないし」
僕はそう言ってから、かなり重たい様子の巾着袋に指さす。
「それに、そのお金はどうやって調達したんだい?」
「これ?」
レティはずっしりとした重量感のある巾着袋を上下させた。
「ああ、これはちゃんとした対価としていただいたものよ?村の偉い人に氷室を作ってあげた、そのお礼」
彼女はそう言って僕の表情を伺う。
「だから、非合法な手段で入手したわけじゃないのよ?」
「なるほど。氷室ね」
確かに、冬はもうすぐ終わる。その時期に余分に氷を蓄えておこうとすれば、有力者の中にはお金を払う輩もいるだろう。これからの夏を見据えて贅沢品である「氷」を用意するとあれば、これは十分な対価が得られるだろう。
それも、山など遠くの洞窟に氷室を作るのではなく、自宅の近くに「人為的」に氷室を作ってもらえるとあれば。
「そうすると、あの簪の代金のために?」
「ええ。そのつもりなのだけれど」
彼女は僕の顔を見つめて、ふぅ、とため息を吐いた。
「なんだか、ご機嫌斜め、かしら?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
僕は喉のいがらっぽさに軽い咳を放つ。
「なんだかね、色々、もやもやしたものがあってね」
「もやもや、ね」
レティはその言葉を反芻するようにうなずくと、しばらくしてうちの店の椅子に腰掛けた。
「なんとなく、あなたの言いたいことは分かるのだけれど」
巾着袋を膝元において、どうぞ、と僕に手の平を見せた。
「色々、私に言いたいのでしょう?」
「まぁ、ね。僕も君の気持ちは分かるんだが……」
優しい母性を感じさせる笑みに、居心地悪く僕は続けた。
「もともと、あれはちゃんとした契約だったんだ。チルノからは商品代はきちんとせしめたんだ。これ以上の代金をいただくのは筋が通らない。もちろん、君の立場も理解できるよ?保護者的な立場にいたら、相手の店に迷惑をかけたかも、とは思うだろう。なんらか、補償しないと、ってのは分かるさ。でも、うちも乞食じゃないからね、契約外のものは貰えないんだ」
そこまで一気にまくし立てると、彼女はえぇ、えぇ、と孫の言葉を聞く祖母のような物わかりの良さでうなずく。
「なるほど、分かるわ。でも、あの簪、お高いんでしょう?」
「いやいや、あれで曰く付きの物件でね。……聞いていないのかい、チルノから」
僕の言葉に、レティは一転、厳しい表情に変わる。
「あら、店主さんは、チルノが約束を破ったと思ってるの?……あの娘が?」
「いや、そうは思っていなかったんだ。でも、君が知っている理由が思いつかない」
僕が即答して肩をすくめると、彼女は微苦笑を浮かべた。
「なら、良いわ。あなたもチルノが口を滑らせたとは、本心から思っていないようね」
「チルノなら、強情を張って、何を言われても約束を守るだろうからね。あの馬鹿正直さというのは、誉めるべきか叱るべきか、大人としちゃ迷うところだね」
そう、チルノには確かに口止めしたはず。そして、口止めされてそれをすぐに喋ってしまうような奴でもない。
「そこまで分かっているのなら、分かるでしょう。なぜ、私に漏れたか」
「つい、うっかり、ってのがあるのがチルノだと思ってるけど」
僕はそう答えて彼女を伺うと、ゆっくり首を横に振る。
「じゃあ、大妖精か」
「……やっぱりあなた、意図的に?」
「そんなことも、あるかもとは思ってはいたけどね」
見透かすように僕を見つめてくるレティの視線から逃れるように、僕は席を立つ。
「今、お茶を淹れるよ」
「あら、お構いなく」
「いやいや。それこそご遠慮なく。それで、熱いお茶で良いかい?」
「もちろん、冷たいお茶で。私、見かけによらず、猫舌なものだから」
レティは悪戯っぽくそう答える。
「分かったよ。しばらく待ってくれ」
僕の答えに、レティがうなずいて返す。
そうしてしばらく僕がお茶を淹れていると、彼女は待ちくたびれたかのように、店から声をかけてきた。
「店主さん、私がチルノを責めると思ってたの?」
「まぁ、妖精たちのしていることに気付く存在は少ないからね。もし、商品を持っていたら、悪戯したか、盗んできたか、そんなことを聞かれるな、とは漠然とね」
そう、あの妖精たちには親はいないが、親みたいな存在はいたわけだ。冬だけ、期間限定の、優しい母親が。
その母親、レティに聞こえるように少し大声で返すと、喉がきりきり痛む。
「でも、チルノには領収書を渡してあったんだがね」
「だから、私には不思議だったのよ。でもチルノに聞いても、約束で言えない、の一点ばりでしょう?チルノが盗んでない、って言うんだから、盗んでいないとは思ったけれど」
レティはしばらく言葉を選ぶように黙った。
「でも、何か勘違いしていたり、誰かに騙されていたりしたら、どうしようとは思ったのよ」
「勘違い、はともかくだ……」
僕は湯呑みを二つ、一つは自分用の熱い緑茶、もう一つは水出しの緑茶を持って、店に戻る。
「騙す、っていうのは?」
「そうねぇ。村で盗みをした人が、自分の犯行を隠すために盗んだ品物をチルノに渡して、チルノのせいにする、とか」
なるほど、そんなことになれば人間は、妖精退治や嫌がらせをしてくるかもしれない。具体的にチルノに身の危険が及ぶ可能性すらあるだろう。そういう意味では、確かに僕のしたことは軽率なのかもしれない。
「だが、あれは僕が交換したものだ。出所も確かだよ」
「ええ、大妖精から聞いたわ。あなた、敢えて大妖精とは約束しなかったのね?」
僕はそれには何も答えず、はい、っと彼女の手に水出しした緑茶を渡した。彼女はそれを受け取ると、口元に運ぶ。
「この世の中には、不器用な奴の方が多いものだからね」
レティに答えて僕はお茶をすすった。痛みのある喉を熱い緑茶が通り抜ける。痛みは走るが、それが熱さと苦みで洗い流されるようで心地よい。
というか、段々、味がしなくなってきたな。
「チルノはあの性格だからね、聞かれれば聞かれるほど強情になって答えなくなるだろうからね。逆に大妖精はああいう性格だ。チルノがつらい立場になればなった分だけ、我が事のように思って助けようとするだろう。二人が一緒にいれば、まぁ、大丈夫だろうと」
そこまで言うと、レティがやれやれ、と首を振った。
「私は責めるとか叱るとか、そんな気持ちはなかったのよ。でも、心配だったから聞いて見ただけなんだけど……」
多分、保護者的な気持ちで聞いただけなのだろう。
だが、そのときのチルノの反応は想像に難くない。
「レティには言いたいけど、でも言っちゃ駄目だ、って約束したの、……なんて言うのよ。そんな約束する相手が、本当に真っ当な相手か、気になるでしょう?」
真っ当ではないわね、とでも言いたげに含み笑いをして僕を見る。
「あんまりチルノが強情だったから、大妖精が泣き出して答えてくれたわ。最初はチルノが言っちゃ駄目だよ、大ちゃん、なんて言ってたけどね。大妖精は私は約束していないもん、ってチルノに言ってね。大妖精が教えてくれたわ、あなたの不思議な契約について」
彼女は呆れたような表情で僕をみる。
「店主さん、あなた、何か悪いものでも食べたのかしらね?」
「なるほど、風邪はそのせいか」
受け流すように僕がお茶をまた啜る。
「あなたらしくもない取引、じゃないかしら?」
「僕らしい取引かもしれないだろう?」
上目遣いに僕の意図を探ろうとするレティ。
「あなたらしい取引、ね」
「そうさ。何、曰くありげな品物は早めに処理するに限るのさ。さて、ご納得いただけましたら、その曰くありげな巾着袋は納めてくださいな」
丁寧に、あるいは慇懃に僕が言うと、レティは困ったような表情を浮かべる。
「でも、これ、私にはあまり使い道がないのだけれど?」
さすが、冬の妖怪。
言う事が違う。
金銭を指して、使い道がない、などとは。
「チルノや大妖精に渡せば……」
「金銭は、価値の分かる範囲で持っていないといけないでしょう?甘やかしては駄目よ」
「なるほど、同感だね」
レティの育児術、あるいは教育論に僕はうなずいた。
「私もそろそろ春眠、春籠の時期だもの。持って帰るのも面倒だし」
「とはいえ、捨てて良いものじゃないだろう」
困ったわねぇ、とレティは湯呑みを啜る。
「じゃ、あなたに預けておくわ」
「どうしてそうなるんだい?」
僕の言葉に彼女はにっこり微笑んだ。
「だって、あなたチルノや大妖精に言ったのでしょう?今後はお金以外の取引はしない、って」
「言ったね」
「じゃあ、あの子達がどうしても欲しいものがあったときに、これから天引きしたらどう?」
彼女はあっけらかん、とそう答える。
「良いかい?欲しいもの全てが与えられる、っていうのは、子供を甘やかすことと同じだよ?」
「ええ。もちろん。だから、あなたが判断するのよ?これをこの娘たちに売って良いか?」
あまりの言葉に僕はレティをじっと見つめた。しかし、彼女はちっともおかしなことを言っているつもりはないらしい。
「なんだい、その変な責任は」
「じゃぁ、あの簪の代金、ってことで受け取ってくれて良いけど」
「それは困る」
「強情ね?」
レティはそう言ってから、ややあって付け加えた。
「チルノみたい」
「僕は強情じゃない、筋を通しているだけだ」
「……あたい、強情じゃないもの、約束、守ってるだけだもの」
レティがおっとりと、似てないチルノの真似をする。
「そっくりよ?」
「いや、違うね。はっきりと分かる。違うさ」
「そうかしらねぇ」
彼女はいぶかしむように僕をまじまじと見つめた。
「僕は強情じゃなくて、変わり者なんだ」
しれっと言った僕に、彼女はくすくす笑った。
「分かったわ。確かに違う。あなた、チルノより性質が悪いもの」
「それならまぁ、甘んじて」
僕は痛む喉を鳴らして、かろうじて答える。
「じゃあ、はい」
彼女は巾着袋を僕の番台に置いた。
「……君ね、僕の話を?」
「預かり証を、くださいな」
「……うちは土倉の類じゃないんだが」
満面の笑みを浮かべる冬の妖怪を前に、抵抗は無意味だと僕は感じた。
妖怪という類のものは、自分の行動を思い直したりはしないものだ。いや、唯一方法は「懲らしめる」ことだろうが、僕のような文治派で腕力からきしの存在にはそんなことはできない。
あるとすれば、頓知と説得だが、どうやら今の彼女には無駄らしい。
僕は和紙と筆を取り出し、そして中身を数える。
「結構、あるな」
「そうなの?」
僕と一緒にお金を番台に広げながら、数える度に頭をうなずかせる彼女が、しみじみと僕を見つめた。
「私、お金持ち?」
「小金持ち、かな?」
彼女の言葉に僕は軽くうなずく。
ある程度の小銭は紐でくくり、銀貨・金貨の類を紙の袱紗に包んでいく。
「じゃあ、この金額でまず、預かり証を書くけどね」
僕はレティの前で筆を走らせる。
「預かり代は期間ごとに頂くからね?僕が借りたわけじゃない、利子は払わないよ?」
「かまわないわ。でも、あんまりチルノや大妖精を甘やかしても駄目よ?」
本題はそこにしかないのだろうか、レティが心配そうに僕の腕を掴んで言う。なんだか妻が夫に子供の教育方針を伝えているようだな、この光景。
「それなら、定期的にお小遣いを渡すようにすれば良いじゃないか?それ以上は普段は貰えない仕組みにすれば良いだろう?」
「なるほどね。人里の子供みたいね」
彼女は人里の子供を思い出してか、笑みを漏らす。
確かに、人里の子供は1文、2文と手に握って駄菓子屋に行ったり、団子屋に行ったりするものだ。ときにはそのお金を貯めて紙芝居を見たり、人形芝居を見たり。あるいはもっともっと、貯めに貯めて職人が作ったお手玉や竹蜻蛉を入手するとか。それは自家製にはない高度な技術の詰め込まれたものですらある。
「そうやってお金の使い方を覚えていくのさ」
「そうねぇ。私には関係ないけど」
妖怪、レティはぼやくようにそう言った。
確かに、妖怪にとって人間の商行為や交換といった経済行為は意味をなさないだろう。人間が衣食住や文化・社会に束縛され、妖精が自然に束縛されるように、妖怪はその「意味」「存在意義」に束縛されている。
逆に言えば、妖怪は自身の「意味」や「存在意義」さえ把握していれば、人間のように経済行為をすることも、妖精のように自然に制限されることもない。
冬の妖怪であるレティにとって、冬という「季節」の意味に束縛されこそすれ、それ以外に彼女を束縛するものはない。冬以外は春眠・夏眠・秋眠していれば良いのであって、冬にだけ活動すれば良い。
そのときだけ、その意味の中でだけ、彼女はその能力とともに活動するのだ。それは、経済行為や自然に束縛される生き方とは全く違う。
レティは「冬」を体現することを求められているのだ。
……にしては。
「でも、君はお金を稼いできたじゃないか。あの子達のためとはいえ」
「私の能力で稼ぐ方法があったから、だけどね。でも、そのせいで少し寒くなったじゃない?」
レティが舌を出す。
「この寒の戻りは、君のせいかい?」
「まさか。私は冬の終わりとともに去っていく存在よ?もうすぐ春ですもの、冬が永遠に続くことなんてないのだし」
冬来たりなば、春遠からじ、よ?とレティが耳元で囁く。
「とはいえ、寒くなったのは少し私が寒波をいじったからかもしれない。でも、冬は終わるわ。もうすぐ、春が来るのね」
彼女は少し寂しげに、しかし満足そうに言う。
「春が来る、か」
僕はうなずくと預かり証を彼女に手渡す。ようやく耳元の冬の妖怪の息遣いが遠のく。彼女は満足そうに証書を手にとって眺めて、また席に戻っていった。
「そうよ。そうしたら、私もしばらくゆっくりしないと」
「あの子達の面倒を見られるのも、もう少しだけ、か」
僕の言葉に、彼女がうなずく。
「ええ。ただ、あの子達の方こそ、私に付き合ってくれているのかもしれないけど」
妖精達の戯れにつきあっている妖怪。
人の事を変わり者、などと言っているが、彼女も大変なものだ。
「あれだね、君たちの種族はいつも、そう情が濃いのかい?」
僕は巾着袋を整理できて手元ぶさたになっているのか、品物を手に取る彼女に言う。
「私たち?」
「雪女とか、氷の女王とか」
「……あぁ」
レティはしばらく僕を不思議そうに見ていたが、やがて手をたたいた。
「雪女、ね。でもあの娘はこっちの種族でしょ?私は「冬の」妖怪。そりゃ、雪女の一種、みたいなものですけどね。でも、雪女は冬に活動する「雪」の妖怪でしょ?」
彼女の言葉に、僕もまた不思議そうに見つめ返す。
「うん?そこは違うのかい?」
「雪女は確かにとても情の濃い妖怪だと思うし、可愛いとか、可哀想とかは思うけど、冬に主たる活動をする妖怪、であって冬の妖怪じゃないのよ」
「……難しいね」
阿求でもつれてくれば良かったかな、と痛切に思う。
「雪女って、あれでしょ。ある夜、山小屋の老人と青年の枕元に立って、老人は凍死させたけど、青年には自分を見たことを口止めして、消えていく、っていう」
そう、巷間に流布し、有名になったものは確かにその話だ。ギリシア生まれのイギリス人が広めた、世界でも知られる話。
「そして、その後に美女が現れて、青年と添い遂げる。子供もできて一番、幸せな時に、青年が口止めを破ってしまって、彼女を失うのよね」
多分、幻想郷に来て何度も耳にしたのだろうか、レティは立て板に水とばかりに言う。
「そう、その話だね。本当は青年を殺すところだけど、自分と青年の子供のために、青年は殺さない。ただ、青年が子供に酷い目にあわせたらただじゃおかない、って言って終わるんだったかな」
僕の言葉に彼女もうなずいた。いつもこの話を聞くと思うのだ。雪女と青年の子供。半人半妖の子供は、その後どう生きていったのだろうか。
人間として?妖怪として?
半分ずつ、という概念が持つ、普遍的な問題だろうか。
「本当に情の濃い娘よ。だって、人間を一目見て気に入って、その男と添い遂げて、冬以外の季節にもずっと暮らしていたのよ」
私なら眠くなってるわね、とレティが苦笑する。
「人間が食べられる食事を作って、一緒に食事して、夫婦の愛情を大切に守って、嫁姑関係もうまくやって、子供を育てていったのでしょう?」
ある意味、そこまでできる、ってすばらしいことよねぇ、とレティがラブロマンスの感想を言うようにまとめる。
「この国の雪女は、本当に不思議に思えるわ。他の国の雪や氷の妖怪なら、人間と生活することよりも、氷漬にして妖怪の世界で一緒に暮らすことを考えるでしょう」
レティはふっと、鋭い表情で言ってから、僕を柔らかい目で見て笑って言う。
「なーんて、思わない?」
「思うのかい?」
僕の質問に、彼女は何も答えない。
確かに、氷・雪の女妖怪に共通したものがある。それは「男を氷漬けにすること」だ。考えてみれば、冬に氷や雪が見られる世界では、そうした存在は普通のもののように受け止められたのだろう。
冬の猛吹雪にあっても、生活のために外出するのは男の仕事だったろう。そして、外出した男が凍死する。凍死した姿は普通の「腐乱していく死体」とは異なり、綺麗な姿で封じ込められるものだ。
その死体を見た者はみんな思ったのだろう。男に恋した氷の、あるいは雪の妖怪が彼を自分のところに拐ってしまったのだ、と。外傷のない死体、場合によっては感覚が麻痺した結果として多幸感の中で死んだ男の凍死体は、何者かに愛されたがために魂を奪われた死体に見えたはずだ。
だからこそ、各地の氷や雪の妖怪は、時に残酷で時に理不尽で、また男を大量に死に追いやる。それは「寒さ」の象徴であり「凍死」の象徴であるからだ。
そして、凍死の特徴である「優しい麻痺する死」はもっとも人間の姿をとどめる「優しい死」にすら見える。
無論、そこから生還した者にですら「凍傷」という恐るべき後遺症がその全身に疵痕を残すのだが、向こう側へ行ってしまえば、それは穏やかな死となるかもしれない。
「甘き死」。
ケーキの名前ではないが、なかなかに魅力的な響きだと思う。先人によればもっともすばらしい死は酒で泥酔した上での凍死なのだというらしいが。
残念ながら、僕は死んだことがないので、何ともいえない。
何にせよ、人間たちは古来から凍死する男の姿に、雪や氷の純白なイメージを重ねて美女の妖怪との愛情を見いだしたのだろうか。やや、病んだ愛情ではあるが。
「そうねぇ、不思議なのはね。大人の男だけじゃないのよ?子供もときには、冬の世界の中で事故にあったりするの。それも人間は思うのね。あいつ等が連れ去ったんだろう。あの子は愛らしかったから」
確かに、そうだ。子供も時には事故にあう。
誤って凍死することもあるだろう。
それを見た人々は思うのだ。
氷・雪の女が連れ去ったんだ。あんまりに愛らしくて可愛くて、一人で孤独にしているのが可哀想だから、自分の子供にしてしまおう、と。
なんとも情の深い妖怪ではないか。そして、その考え方がどこか病んでいて、しかしどこか熱いものを秘めているように思える。
氷や雪の女妖怪が、美しく、軽装で、情熱を秘めていて、少々病んですらいるのは、それが冬の純白の姿に共通するイメージなのかもしれない。一方で、雪男は、動物的で、毛むくじゃらで、少々滑稽に見えるのは、冬の中で生活する動物としての側面ばかり重視されたからなのかもしれない。
そう考えると、雪・氷の自然側面を象徴した女妖怪と、雪・氷の中で生きていく生物的側面を象徴した男妖怪との対比は面白く感じられる。なぜ、こんな分け方になっているのだろうか?
「私はそこまで情熱的ではないでしょう?私は「冬の」妖怪なのよ。もっと広くて、曖昧で、ぼんやりとした」
彼女は物思いに耽っている僕に、語りかける。のんびりした口調はなんだかとても心地よいものだった。徐々に寒さが麻痺していくような、そんな心地よさで。
「氷や雪は、すぐに人の死に直結するのね。だから、人は恐れるのね。それに氷や雪は純白だったり透明だったり、純潔で美しいわ。だから、人は美しいと思うのね。そして触ればとても冷たくて、ときに痛いくらい。だから、人は冷たい、鋭い、痛い、などと思うのね」
彼女は繰り返すように、民話でも語るように言う。
「でも、「冬」はそれだけじゃないわ。寒い氷と雪の中にある「暖かさ」も冬なのよ?猛吹雪の中のペチカ、しんしんと積もる雪の中のこたつ、冬晴れの底冷えの中のストーブ。どれも冬でしょう?雪に音を吸われた静かな世界で響く沸騰したサモワールの音、吹雪の中のトロイカのベル、暖炉の中で煉瓦をたたく引っかき棒の音。たっぷりと栄養を取った熊がどこかで冬眠していて、秋に堅い殻をかぶった種子が土の温もりの中にくるまって、魚たちは氷の下で眠っていて、根菜は土のすみずみに根を広げて、春に大地を潤す氷が、山で雪解けを待っている。冬に蓄えられた氷が、春の日差しで溶けるから、山は緑なすことができるのよ」
レティはうっとりと陶酔した目で僕をみる。
底冷えし、身体の芯まで凍えるような季節だからこそ、その中に生きている生活の温もり。死の世界の中で浮かび上がる、暖かい生活の世界。
「くすんでどんよりとした灰色の不機嫌な雲も、体中を切り裂くような凛とした朝の冷気も、猛烈に身体に吹き付ける吹雪も、外套に降りかかった途端に溶けてしまう粉雪も、全部、冬なのよ。ただ寒いだけじゃなくて、その寒さに濃淡があるのよ。春みたいに鮮明じゃないけど、白・黒・灰色、モノクロームの美しさは魅力的だと思わない?」
確かに、春は鮮やかな暖かい色に満ちていて美しいし、それに対して冬はどこか色彩に乏しい印象あがって、白黒に近い。
それでも、その色遣いは必ずしも均一ではないのかもしれない。モノクロームにはモノクロームの美しさが、当然あるのだろう。
「毛皮の外套を着て粉雪で包まれた姿で仕事から帰ってくるお父さんやおじいさんも、暖かい手料理を作って毛糸の服を編んでいるお母さんやおばあさんも、両手をくるんでくれたり息を吹きかけて手を暖めてくれる兄弟姉妹や友人がいるのも、暖炉の前でおとぎ話をせがむ子供たちがいるのも、全部、冬なのよ?」
彼女の語りは、まるで僕がそこにいたような風景を幻視させてくれる。とはいえ、僕の家族と言っても、それは……。
「ねぇ、想像して、川魚にたっぷりのバターをかけて、包み焼きにするの。包みの中のバターの黄色いスープの中で浮かぶ、魚の身とタマネギとエノキダケ、それにレモンの汁が少しかかったご馳走を。ねぇ、想像して、人参、ジャガイモ、タマネギに塩漬け豚肉、たっぷりの牛乳とクリームで作ったシチューの中に具材を木の杓子で掬って熱々で食べる姿を。ねぇ、想像して、カリカリに焼いたパンを溶けたチーズの中に入れて、たっぷり付けて食べるのを。溶けたチーズが糸を引いてパンとともに伸び上がっていく姿を……」
なんだか、幻想郷的ではない、とても西洋的な光景ではある。
だが、それはとても暖かい姿で、次々とまるで走馬燈のように映し出されていく。あるいは、風邪の熱のせいなのだろうか。
「ねぇ、冬は氷と雪だけではないでしょう?冬は冷たいだけじゃないのだもの」
彼女はそう言って、うとうとし始めた僕に微笑んだ。
「眠いの?店主さん」
「いや、少しだるいだけだよ。それにしても……」
彼女が語った言葉はどこにでも寒さがあるはずなのに、それだけではない何かがあった。
彼女が操るのが「寒波」だとして、そこに彼女はそれ以上の意味を見いだしているのかもしれない。あるいは、それ以上の意味が、彼女にとってのチルノや大妖精たちとの生活なのかもしれないし、冬に幻想郷を訪ね歩くことなのかもしれない。
「なんだかこう聞いてくると、冬が素敵な季節に聞こえてくるから不思議だな」
「あら、冬はみなさんおなじみの恐ろしい季節に決まってるわ」
彼女は打って変わって、似合いもしない悪人風に言う。
「冬の寒さは言わずもがなね。弱い老人、子供、病人、貧者に等しく凍死を与えるわ。凍死でなくても病死を招くのは寒さを与える冬なのよ?冬の乾燥した空気は火事を起こして家も人も焼くし、伝染病を巻き起こすもの。いつだって病気の大流行は冬に起こり続けるの。食べ物だって収穫できるものはほとんどなくて、餓死者がでるのも冬。雪や冷たい雨で泥土になって、人々の足をぬかるみに止めるのも冬。いえいえ、なにより雪や氷が人を封じ込めるのは、もちろん、冬よ」
レティが力強く言う。
「そうそう、ついでに言えば、お正月に餅を食べて喉を詰まらせるのも冬よね」
永遠になくならない死因、我々の宿痾。
美食の中の美食、喉越しを楽しむ「餅」の誤嚥。これは最も恐ろしく、最も苦しい死に方なのに、なぜか無くなることはない。餅というものは、遺伝子レベルで我々に刷り込まれているのだろうか。そう考えると、ちょっとした中毒のように思える。
「いわばね、人の死の黒幕は、冬なのよ」
「とすれば、冬は残酷な季節だね」
別に餅の誤嚥は冬のせいではなく、餅という食べ物の魔性の魅力だと思うのだが、それはそれとして、冬の時期の死因ではあるので、僕も苦笑してうなずいた。
「あら、でも不思議ね。残酷な季節は4月、じゃなかったかしら?」
レティが微笑む。
「春、かい?」
「そう。最も残酷な季節は4月。土にくるまれていたライラックの種を咲かせるから」
彼女は歌うように言った。何かの詩を暗誦するように。
「こういう事を言う人っているわよね、母親の胎児でいるときが一番幸せだ。母親に包まれている安心感の中でいられるから。あるいは子供の頃が幸せだ。それは周囲の大人たちが善意で守っていてくれるから。あるいは夢を見ているときが幸せだ。それは現実から自分を守ってくれるから」
なるほど。
確かに、人間の中には何かに守られている、あるいは守られていた、と信じるに値するときがあるのかもしれない。そして、その自分が体験したかどうかすら怪しい「原風景」に幸福を見いだす人もいるのかもしれない。
もちろん、成長するにつれ、自我が目覚め、守られていることをすら快く思わないようになることもある。反抗期はやがて独立につながっていくだろう。
にも関わらず、人は大人になっても神仏やご先祖様、先に逝ってしまった大切な人に守られているとも感じるのだ。
ことほど、自我というのは勝手なものだとも思える。
「それと同じ事よ。4月になれば、春になれば、種子は芽吹かないわけにはいかない。そのまま腐って死んでしまうから。どんなに冬の大地の中が暖かくて、居心地が良くても、種は芽吹かなければならない。それがどんなに残酷なことに思えるか」
レティが詩人を代弁するように続ける。
「もちろん、夢見るままではいられないでしょうけど、夢を見ることができた幸福を疑うなら、春は残酷な季節としか思えないわね」
僕はレティの芝居がかった仕草に、微笑んで返す。
「それでも春は、気候も暖かくて、種子が芽吹いて、樹木の枝に満開の花が開く、その姿が目にも艶やかな季節だよ」
人間お気に入りの季節、と言っても良いだろう。
「そう。とても素敵で、とても明るくて。まるで冬なんてなかったかのように振る舞うのよね。だから、ときに眩しすぎると思うけどね」
レティが僕の意地の悪い言葉にうなずいた。
「桜が咲いて、春が来る。いえ、春が来たから桜が咲くのだったかしら」
遠くを見つめるような目でレティが言った。そう、彼女たちは春度を集めて桜を咲かせようとしたのだった。
「山に来て、里に来て、野にも来る、のね」
「まぁ、まだ少し、冬が残っているさ」
僕はレティを気遣うように言うと、彼女は分かってる、とばかりに元気よく立った。
「そうね。残りの時間を満喫するとしましょう」
あの子達にも会いに行かなきゃいけないし、と微笑む。
「ああ。そうすると良い。ついでに、この預かり証のことも伝えておいて」
僕がくしゃみをしながら言うと、彼女はうなずき、しばらく何か言うまいか、逡巡した。
「どうしたんだい?」
「あなた、もう少し強くストーブを焚いた方が良いわよ?」
「そうかい?」
「長話に付き合わせた私が悪いのかもしれないけれど……」
レティは僕の傍に近づいて、その冷たい白い手を差し出した。
「顔色がとても悪いのよ」
「……いつも、そう言われているからね、たいしたことじゃない」
僕の額に手をふれた彼女は、じっと僕に顔を近づかせる。
「あんまり、無理しては駄目よ」
母親のような表情になって彼女は言った。なるほど、チルノや大妖精にもこんな感じで接しているのか。
「分かってるさ。先日、永遠亭の薬売りからもらった薬もあるからね。少し、安静にすることにするよ」
せき込みながらそんなことを言うと、彼女は暫く心配げに店の中を見回した。
「ほら、もう行くと良い。あの子達が待っているよ。あの子達の期待を裏切っちゃいけないだろうし」
僕は今にも何かを提案しそうになるレティの背中を押すように、微笑んで言った。彼女が何度か振り返る度に、僕は手を振ると、彼女はため息混じりに出て行った。
僕はしばらく彼女が出て行った後、ぼんやりと佇むと、やがて戸を閉めることにする。
「閉店」の札を出すために。
母親のような忠告をする人には、逆らわない方が良いのだから。
5.
愚かさにも色々な種類がある。
具体的には、過去に学ばない、他人の存在を無視する、忠告を聞かない、同じ事を繰り返す、危険・失敗を想定しない、備えを用意しない、できるつもりになっている、などなど。共通するのは、事前に努力していない、ということだ。
分からない・できないこと・失敗することが愚かさではない。そうではなく、なぜ分からないか、なぜできないか、なぜ失敗するかを問わないことこそが、愚かさなのだ。
よろしい、結論から言おう。僕は愚かだった。
少しばかり、風邪を甘く見ていたのだ。風邪というものは、もともと発汗・発熱・喉の痛み・頭痛・下痢・咳・身体の痛みを伴うが、まぁ、しばらく安静にすれば徐々に治癒に向かうものだ。逆に言えば、滅多に悪化することはないのであって、家で安静にし、薬などを服用すれば普通、自然治癒力によって回復するのが本当だ。
そう、今まではそれでうまくいっていたのだから、何か疑問に思うことがあるだろうか。今回もそれで乗り切れると踏んでいたし、事実、それほど体調も悪くなかった。永遠亭の薬売りから、「万病に効く」という風邪薬を買って服用もしていたから、ある程度安心感もあった。ある程度なのは、鈴仙に言わせると人間用にしろ妖怪用にしろ、あなたには半分しか効かない可能性があるので、と説明する部分が気になったからではある。
ちなみに、効かない半分の成分は「優しさ」だそうだ。あの人当たりにむらのある月兎は、ときどきおかしいことを言うので困る。普段は穏やかで実直な気性に見えるが、ときにこう、説明に困るような感じになるのだ。
とはいえ、薬の成分の半分が抽象的概念でできているなど、納得いきかねるのは確かだ。それでも、それに頼らざるを得ないのが現状だ。
店を閉め、布団の中で寝込む。本当はストーブを付けるべきなんだが、眠ってしまって一酸化中毒死というのでは笑えない。ついでに言えば、食事を作るために火を付けるのも億劫だったせいで、現在の暖房器具は布団と湯たんぽのみである。付け加えるなら、自分自身も発熱してはいた。
眠るかせき込むか、ただ頭痛に悩みつつ朦朧とするかの選択肢しないわけで、こういうときは孤独な自営業者の身の上の寂しさが分かる。
もともと客足の乏しい香霖堂だ。店を閉めていても、店に来る客自体が多いわけでもない。幸いなのか、不幸にもなのか、閉じた扉を強引に開くような来客も闖入者もなかった。人、あるいは妖怪に感染させる可能性がある以上、あまり他人に触れない方が良いのだから。
そう考えていても暇は暇、それでいて頭痛のせいで書物を読むことも手作業もすることもできないとなると、退屈と疲労感で神経がやられる。
元気なときは孤独も楽しいが、病を得ると途端に人寂しくなるのは、我ながら我が儘だとも思う。
まぁ、なんにせよ、冬の風音と自分の気管支の咳からでる、ヒューという音を子守歌に僕は眠り続けることを望んでいた。だが、半人半妖である僕が冬眠をするのは難しいようで、眠っても眠っても、すぐに起きてしまう。そしてそのたびに時計を見ては、時間が経っていないことや症状が続いていることに失望するのだ。
それでも、痛む関節を動かして寝返りを打ち、とにかく目を閉じていた。そうすれば、いつか回復するだろうと信じて。
ふと、目が覚めた。
というより、意識が戻った、という感じだろうか。
目を閉じたままで、何か意識だけが戻ったような感じだ。
これで今日は何度目だろう、また眠らなければ。
そう思ったときだった。
自分がなぜ目が覚めたのか、分かったのは。
店の中に気配があるのだ。
いや、もっと正しく言えば、僕のすぐ傍、枕元。
「……」
それはかがみ込んで、じっと僕を伺っているような気配がある。
「……」
そういえば、先日レティとした話もこんな話しだった。あのとき、青年である巳之吉は助かった。しかし、年老いた茂作は雪女の手で凍死させられたのだった。
だとすれば、半人半妖の僕は、どっちになるんだ?
「……」
このままではどうにもならない。意を決して目を開ける。
「……起きたの?」
そこには眼鏡をしていない僕にも分かるほど、近い位置に顔があった。
「どっちだろう?」
「どっち?私が?」
不思議そうに首を傾げる彼女に、僕はかろうじて首を振った。
「いや、僕の方が」
彼女の顔を見たとき、僕は考えるのをやめた。聞いてしまった方が早いと思ったからだ。しかし、彼女は僕のその質問に、怪訝そうな顔をした。
「夢でも見ていたの?」
「そうじゃなくて……」
心配そうな声で聞く彼女に、眼鏡なしのぼやけた焦点を集中させながら答えた。
「僕は茂作なのか巳之吉なのか、だよ」
「……私は雪女じゃないと言っているでしょう」
あくまでその一種ですから、とそこまで言うと笑って立ち上がる。もう少し寝ていた方が良いのじゃないかしら、くるりと背を向けて部屋を出て行った。
彼女が障子を閉じるのを僕は目で追っていた。
「それにあなた、茂作のように年寄りには見えないし、巳之吉のように不憫っていう感じでもないでしょう」
その障子に映る影は、眼鏡がないせいか、ぼんやりしている。それの影が映っているということは、店側に明かりがついている、ということだ。そして、部屋の暖かさを感じるということは、ストーブを焚いているということでもある。
「……」
彼女は、店で何かをしていたが、さらにまた、違う部屋へと移動していく。その様子は漠然と障子に写り、影絵のようにも見えた。そのシルエットを確認するために、僕は気怠いまま、眼鏡を手に取る。
本来、その影は不法侵入者だと言える。本当ならもっと恐怖や身の危険を感じるはずだ。実際、彼女自身が言うように彼女は雪女ではないかもしれないが、目的は不明なのだから。
しかし、風邪のせいか、あるいは彼女の気性のせいか、そんな疑いを持ちはしなかった。第一、彼女が僕に悪意があったとして、今の僕にはどうすることもできないだろう。
重要なことは、相手は僕のすぐ傍にいたのに、害をなすことはなかった、ということだ。
彼女、レティは一体、なぜここにいるのか?
眼鏡をした僕に見えたのはまず、時計だった。
時間は夜半を指していて夕食時だ。そして、障子の向こうに何かを持って来るレティのシルエットが見えた。
「どう、気分の方は?」
眼鏡をした僕の目に映った彼女は、やはり間違うことなき冬の妖怪だった。
「ああ。だいぶ良いよ。……それで君は何でここに?」
僕の言葉に彼女は目を瞬かせ、不思議そうに目の前のお盆を掲げて見せた。
「はい、これ」
「これ?」
彼女はお盆を僕の枕元の畳の上におき、鍋の蓋を開ける。
「お粥。食べるでしょう?」
「ああ、ありがとう」
久しぶりとなる暖かい食事を前に、僕はただうなずく。僕の反応にうなずいた彼女は畳の上で正座すると、お粥をお椀によそい始めた。
「和食派でない私には難しかったのだけれど」
オートミールみたいなものよね、と言いながら、彼女は鍋の中のお粥を、少しづつこぼさないようお椀に移す。
「ミスティアが言ってたから、これで良いと思うのよね」
よろよろと起きあがった僕に、レティはお粥と匙を手渡してくれる。
「ありがとう、その、看病してくれている、のかい?」
「それ以外に何をしているように見えるの?」
彼女もまた、僕に聞き返した。
「いや、君が僕を覗いていたときには、さすがに肝が冷えたものだから」
「凍死させに来た、とでも?でも、ストーブも焚かないでいるんだったら、あなた自然に凍死していたんじゃないかしら?」
「そうかもしれない」
とはいえ、半人半妖の身でそう簡単に死ぬものでもない気もする。
「でも、君が僕を凍死させようとするなら、簡単だろう?」
「それは、まぁ、そうかもね。でも、今のあなたならチルノでも凍死させられるんじゃないかしら」
そこまで酷い病状かな、と思わないではないが、僕は有り難くお粥を受け取った。病は人の気を弱くさせるから、あるいはあり得る話かもしれない。
「てっきり僕に死期が来ているのを見て、介錯とばかりに君が僕を凍死させに来たのかと思ったんだが……」
「多分、その場合には私の前に死神が来てるんじゃないのかしら?」
レティはそう答えて、湯飲みに生姜湯を注ぎ始めた。残念ながら、鼻が詰まっている僕にはその香りがしてこないが。湯気が立つ様子には暖かみがある。
「あの死神が、かい?彼女はサボリ屋だからね。ついでにこんな寒い日に外出なんてするのかな」
「なるほど、それだと幻想郷の冬は、ほかの場所より人死が少ないのかもね」
そんなことを言ったら、一年中少ないことになってしまう。いや、小野塚小町もサボっていないところでは、せっせと仕事をしているのかもしれない。その正確な比率は分かりかねる。
「さ、あなたを凍えさせるために来たわけじゃないのだから、安心して」
そう促されて、匙で掬って食べたお粥は暖かく心地よいものだった。
味について評価できないのは、鼻づまりや喉の痛みのせいだ。だが少なくとも、病人が食べてのたうち回るようなものではなかったので、とても有り難い。
こうして僕が問題なく食事しているのを見て安心したのか、レティはまた席を立った。
「レティ?」
「ああ、洗い物をね、店の中に広げているものだから」
彼女は微笑みながら障子を開いていく。すると、そこにはため込んでいた服や下着の類が、店の道具と相まって干されていた。
「……すごい光景だな」
「ストーブで乾かせるし、ある程度湿気にもなるしね。ちょっとした加湿器代わりね」
彼女は楽しそうに僕の言葉に答えると、洗い物の残りを道具屋の中の空間にまた広げ始める。
「湿気で駄目になりそうなものは、奥の部屋に置いておいたわ」
「助かるな。けれど、何もここまでしなくても良かったんだが……」
おそるおそる僕は言う。好意は有り難い。好意は有り難いのだが。
いや、大の大人の男の洗い物など、他人にさせるものではない。それも冬の妖怪相手とあってはなおさら恐れ多い。
「別にそんなに手間というわけじゃないから」
そう言った上で、レティは何かを思い出したようにこちらに向いた。
「で、結局、あれからずっと倒れてたの?」
あれ、というのは前回、レティがお金を払う、と言ったときのことだろう。
「まぁ4日くらい、かな?」
「その間、食事はどうしてたの?」
「干し米とか味噌玉とか、まぁ、そうした保存食で」
僕が答えると、レティは真顔で僕を見つめた。
「……胃腸が弱ってるときに?」
「……返す言葉がない」
「呆れた」
本来、暖かい食事をするのが原則なんだが、面倒くさいし火の始末も大変だと思っていい加減に済ましていたところはある。
正直、身体を動かしていないからあまり空腹感はなかったのだ。だからといって、栄養を取らないで良いということではないんだが。
「……誰かを頼れば良かったのに。あなたなら、頼る相手はそれなりにいるでしょう?」
レティがやれやれ、といった表情で続ける。それなりに、というのは正しく僕を評価していると言える。たくさん、ではない。
それに。
「誰か、と言われてもね」
香霖堂の位置は人里や魔法の森、博麗神社などから程良い位置にある。逆に言えば、程良く行きにくいところ、とも言える。どこから人を呼ぶ、と言ってもそう簡単なことではない。
「心当たりはないし、第一、誰を使いに出す、っていうんだい?」
僕自身で行く、というのなら、永遠亭で入院した方がましだろう。ただし、その前に迷いの竹林を抜けていく必要があるんだが。病身には少し気が重い仕事だ。
「孤独死の典型例ねぇ」
一人で頑張れるうちには誰も頼らず、いざもう駄目だというときには連絡する気力も残っていない。孤独でいるということは、そのギリギリの線で他人を頼れるかどうかにかかってくるわけだ。
「たまに訪れてくれる気の良い友人が、気付いて見つけてくれるパターンかな」
幻想郷の影でひっそり孤独死した自営業店主。話しかけても返事がない、ただのしかばねのようだ。閉店状態にあったのは知っていたが、まさか、実際その中で死んでいたとは誰も思わなかった。
見つけてくれるのは、魔理沙か霊夢あたりだろうか。
ありそうな話である。
文あたりが飛びつきそうなネタかもしれない。いや、こんな社会派な記事では地味すぎるだろうか。
「その上、そうなってもたいして悪いことだと思っていない辺りに、あなたの罪深さを感じるわね」
レティがため息混じりに総括しながら、洗い物の残りをさっさと干していく。それを眺めながら、僕は鍋に残っていたお粥も食べ尽くしていき、そのまま生姜湯を啜った。こうしてみると、空腹を感じなかっただけで、実際は腹は減っていたらしい。食べれば食べるほど、お腹が空いていることに気付くやつだ。
「あら、完食?」
レティは干し物を終えると、こちらに来てにこにこ微笑んだ。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
僕が頭を下げると彼女もそう答えて頭を下げて、お盆を回収する。
「いや、食器はそのままにしておいてくれ」
「もうここまでしちゃってるんだから、良いじゃないの。ほら、また寝てなさいな」
彼女は促すように視線を向けた。
「だが、ここまでしてもらうと……」
「申し訳ない?別に気にする事じゃないのよ」
はいはい、と聞き流すように背を向けるので、僕も思わず言わずもがなのことを言ってしまう。
「……恩返し、かい?」
「……そうねぇ。それが本当なら、最初にこの障子は開かないでください、って言っておくべきだったわね」
レティは苦笑いするような声で答えた。
「気にしないで、というのはあなたには無理そうだから言っておくけど、これは恩返しじゃないし、チルノが買った商品への代価でもないわよ」
障子を片手で閉めて、影になった彼女が答える。
「これは単純なことじゃないかしら。いわば、ただの人助けね」
冬の妖怪は笑いの成分を含んだ声で続ける。
「あなたは商売人で代価とかにこだわるのでしょうけど、私はただの妖怪なのだし。対価とか、そういうものは求めないのよ。妖怪ってのは理不尽なものなんだから」
彼女はそこまで言い終えて冬の夜の水場に向かう。台所で、食器を洗うのだろうか。
「……いえ、私も妖怪だものね、なにか大変なものを要求した方が良いのかしらねぇ」
レティが暢気な声で僕に語りかける。
「大変なもの?」
「ああ、別にあなたの心とか、喜怒哀楽の感情とか、あなたの空想上の恋人とか、若さとか、大切な仲間たちとの絆とか、そういう精神的なものじゃなくて」
水飛沫の音などが聞こえる中、楽しそうに言うレティの声が響く。
「いろいろあるでしょう?子供が16歳になったら貰っていく、とか、親の形見とか、幼なじみの羽帽子とか、肉1ポンドとか」
それだって十分、物理的じゃなくて精神的なものだと思うのだが。
レティは大変なものを要求してきました?
確かに妖怪がそうした恐ろしいモノを代償として求める話は良く聞く。人は超自然的なものに力を借りるときには、代償が付き物だと考えるらしい。それは妖怪だけでなく、神や悪魔、その他さまざまなものに共通している特徴ではある。ときには人間同士ですら、人に恐ろしい代償を求めるものだ。
「せいぜい僕にあるのは店の商品くらいだけれど」
「あら、それじゃあ代価になっちゃうわ。つまらないわねぇ」
レティはそう答えると、しばらく食器の音だけが響く。そして、水の音がしなくなると、手を布で拭いてレティが戻ってきた。自分の分とは別に、湯で濡らして絞った布を持ってくる。
「はい、身体を拭いてね。着替えはこっちにあるから」
「……ありがとう。あとは自分でできるよ」
「ええ。そのつもりよ?それとも拭いてほしい?」
彼女は悪戯っぽく笑う。思わずにらみ返すと、彼女は訳知り顔でうなずいた。
「はいはい。それじゃ、私はあの子達のところに戻るとしましょう。ストーブは消せる?それとも私が消して置いた方が良い?」
「消しておくよ。干して貰った服を乾かす必要もあるからね」
彼女はうなずくと、続けた。
「それじゃ、また明日来るから、干してあるものはそのままにしておいてね」
「……明日?」
僕が素っ頓狂な声を出すと、彼女は微笑んだ。
「だって、これで放っておいたら、中途半端でしょ?」
「いや、もう、十分してもらった。本心から感謝しているんだ」
これは嘘じゃない。
「それはあなたから見たら、そうでしょうね?あなたの中では」
僕の驚いた表情を見て、なぜかレティは満足そうにうなずいた。
「でも、私の中ではそうじゃないのよ。今日だけ親切にするのなら、ただの気の迷いになってしまうでしょう?人助けだもの、私が納得するまで、余計なお世話をさせてもらうわ?」
そういうと、にこやかに僕の方へ手を出す。
「なんだい?」
「鍵、頂戴」
…そうだった、彼女はどうやって鍵もなく、この部屋へ……。
「ああ、簡単よ。雪を鍵穴に詰めて、外まで出したものを凍らせて硬めて回したの」
……。
「それ、錠前は壊れていないかい?」
「大丈夫、みたいよ?お湯をかけたら元通り?」
……しばらく僕は彼女の目を見つめていたが、彼女の鉄壁の微笑みは崩れなかった。
「ちょっと待っててくれ」
僕がよろけながら立ち上がると、彼女は介助するように僕に寄り添う。あのストーブを焚いた部屋にいたはずなのに、彼女は冷気をまとっていた。にもかかわらず、それは悪寒のような不愉快な印象ではなかった。
「ほら、これだ。錠前が壊れてなければ、これで開くはずだよ?」
「……大丈夫、錠前が開かなかったら、完全に壊すから」
強い金属も寒暖差には弱いのよ、と笑って言う彼女はどこまで本気なのか。僕が手渡した鍵を楽しそうにひらめかせ、彼女はそれをポケットを仕舞った。そして店に向かって出て行くと、マフラーらしきものを首に巻く。その姿は颯爽としていて、僕は箪笥に寄りかかりながら、なんとなく見惚れる。
「お節介だけど、もう少しだけね」
僕に晴れやかな表情で言い切った。
「もうすぐ、春が来るわ。もう少しでね。それまでだけよ、……それまでだけ」
彼女はそういうと、扉を開いて出て行く。外はしんしんと粉雪が降っていた。積もらない類の雪だ。今日は晴れの日だったはずなのだが。
もうすぐ春だというのに、その天候にはまだ、どこか冬の名残があった。
6.
結局、それから僕はほんの数日とはいえ、レティの世話になることになった。
幸いなことに、錠前は無事だったようで、合い鍵は十分役に立っているようだ。
とはいえ、ずっと来ているわけではない。
寒くなるとやって来て、ストーブを焚いて夕食分を作り、翌日の朝食用の食事を作っていくだけだ。その間だけ適当に僕と話をしながら、店の椅子にかけて編み物なんかをしている。
なんでもそれ以外の時間は、帰ってチルノや大妖精たちと最後の数日を過ごしているのだそうな。ときどき、彼女たちの話を聞かせて貰ったりする。
そういう意味では、チルノや大妖精との貴重な時間を浪費させている意味で、逆に申し訳ない気分にもなる。
だが、看てくれる人がいるおかげで、実際体調が良くなっているのは確かだった。一人で籠もっていると気分も落ちていく一方だが、彼女が来て話し相手もしてくれるので、気分も良くなる。まぁ、一言で言えば、甘えっぱなしということになるのか。
我ながら、少々気恥ずかしい。
彼女もそんな気持ちを察してくれているのか、あまり長居はしない。それだけに何か申し訳ない気分にもなる。彼女は自分が雪女とは違うのよ、と言うが、今の状況は十分に情の濃いように思えるのだが。
「で、あなたはそんなに雪女が好きなの?」
「好き、というか、不思議だな、と思うんだ」
僕はいつも通り、雪女・冬の妖怪論争をしている。レティは僕のしつこい話にあきれ半分で答えていた。
「だって、愛らしい、自分にとって年端もいかないような存在を見て不憫だと思ったんだろう?その上にそこで恋をして彼の前に現れて結ばれた。子供まで作って幸せだった」
それを母性と女性の愛が重なった深い愛情と見るか、年下の青年に恋した年齢不詳の年上女性の妄執と見るかで、この物語も全く違った話に見えるが。
まぁ、どちらにしても、雪女が本気であったことは確かだろう。
「そうなのよね。西洋とは違って、東洋の妖怪はみんな、人間と家庭を作るわよねぇ」
レティが不思議そうに言う。編み目を数えながら、それでも僕の話に律義に答える。
「まぁね、震胆でも狐や幽霊と結ばれる科挙の受験生の話は多いし、本朝でも雪女だけじゃなくて幽霊や柳の精なんかと結ばれて子供を作る話があるね」
なぜかしらね、とレティが首を傾げる。
「西洋だと、妖怪が恋した人間は連れて行かれたり、殺されたり、戻ってこれなったりするのに」
あれかしら、あっちの妖怪は直接的なのかしらね、そう言ってレティが笑う。
「東洋の妖怪は婚家に嫁ぐものね」
レティがそこまで言って、ふっとため息をついた。
「嫁姑問題がうまくいく、って必ず物語られるわよね。とっても良いお嫁さんだ、って。ローマ、ギリシア、ケルトやゲルマン、スラヴの話で、嫁姑間に注釈を入れる話なんて、聞いたことがないもの」
そう言って楽しそうに編み物をまた続けて言う。
「こっちの妖怪は、人間の生活が好きなのかもしれないわねぇ」
そう言えば、二口女もそうだったな。彼女も思えば、人より働き者で、人より食べるだけで、夫にとって悪い妖怪だったのだろうか?
「雪女もそうだったのかな?」
「そうかもね。氷の妖精や雪の女王は、決して人間に嫁いだりしないわ。面倒くさいもの」
そして、嫁姑の間で頭を悩ませたりも。
たいてい、西洋の妖怪は相手を自分のものにしてしまう。その方法は、ほとんど人間の死と同義語だ。勿論、人魚姫のような例外はいくつもあるにしろ。
「でも、こっちの娘たちが可哀想だと思うのは、たいてい幸せな最後までたどり着かないこと、かしら」
「そうだなぁ。雪女は自分を見たことを言うな、と誓わせた。その誓いをやぶった時、夫と子供を捨てる。絶対に愛していたはずなんだが」
そう、子供を。
正しくは、半人半妖の子を。
「それも、雪女の子供だと知ったからって、いじめたりしたら許さない、って釘をさしてまでね」
「そこまで考えていたのだから、本気だったのよ。そして、いつかその日が来るって心のどこかでは思ってた」
レティがしんみり言った。
「ならなんで、そんな約束をしたのかな。大切な人を捨てる約束なんて」
「……人魚姫なのかもしれないわね」
レティが想像するようにつぶやく。
「人魚姫?」
「彼女は何かを代償にして、何かを得た。物語の魔術の鉄則ね。彼女が声を失って足を得るように、雪女も約束をした代わりに結ばれて、約束を破られるとともに絆を失うのよ。もしかすると、最後まで約束が守られるかもしれない可能性に賭けて」
彼女はしばらく黙り込む。編み目をまた、数えていたようだ。
「でも、子供が」
「ええ。でも、不思議ね。人間と妖怪の子供なのに、父親は人間の子供と信じて疑わなかったのだもの。半人半妖といっても、人間と同じなのかしら」
彼女は僕の様子を伺うように言った。
「そうかもね。まぁ、柳の精の話もそうだけど、半人半妖なんて、人間と同じなのかもしれない」
そう。僕が雪女の話にこだわってしまう理由。
雪女はあんなに情が濃いのに、子供たちはどうなってしまうのだろう。母親があんなに心配して、釘まで指すということは子供を愛しているはずなのだ。絶対に、捨てたくはないはずなのだ。なのに、約束を破った事実を前には、彼女は何もできない。
辛い話じゃないか。
子供が妖怪としての力がないなら、なおさらだ。約束なんて、放ってしまえばいいのに。そうもいかないのが、物語、なのだろう。
「雪女も、ずっと見守っていたのじゃないかしらね。子供の行く末を。妻を失った夫の悲哀を。夫の裏切りに傷つけられて、でもまだ愛していて。そんな気がするわ」
彼女はそう続けて、また、ため息をついた。
「本当はずっと見守っていたいけど、そうもいかないのは世界の常ね。私だって、許されればずっとあの子たちを見ていたいけど」
彼女はもう完成に近づいている編み物を見つめて、そう嘆息した。
「春が来たら、春眠しなきゃいけないし、夏が来たら夏眠をとって、秋が来たら秋眠しなきゃいけないのよ。ちょっと長いけど、まぁそれが定めだから仕方がないわね」
レティが自分を納得させるように続けた。
「別に冬以外に消えているわけじゃないけれど、活動らしいことはできないからね。でも、ときどき、ふと目覚めてあの子達のことを思い出すの。幻想郷の冬を思い出すの。そして、本当に希に、ときどきだけどね、声が聞きたいな、って思ったりしちゃうのよ」
慣れているはずなのにね、と編み物を見つめながら、こちらを見向きもせずに言った。
「ああ、ほら、あなたが雪女の話をするから。湿めっぽくなっていけないわね」
彼女はすぐに柔らかい笑みに戻る。
「あれよ、水分の多い雪は重たくて湿るのよ。水分が少ないとさらさら、さっぱりとした粉雪になるのよ」
そう言って窓の外に目を向ける。しかし、もう雪は降っていない。ここ数日は雪も降らなくなり、寒さも和らぎつつあった。寒の戻りも最後のようだった。
「それにしても、春が遅いわねぇ」
レティが窓の外に顔を向けて言う。編み物はマフラーのようで、チルノや大妖精たちのために編んでいるのだそうな。ちなみに、来年の冬用とのこと。
「もうすぐだ、と言ってたのは君じゃないか?」
僕も軽口を返す程度には体調が戻ってきている。
「えぇ、そうよ。でも、春の方で何かモタモタしているのかしらね?このままじゃ間に合わないのじゃないかしら」
レティはそんなことを言って首を傾げる。
「間に合う?」
「春に、よ。でも、おかしな話ねぇ。本当はもっと早いはずだったのだけれど。何かしているのかしらね?」
「春告妖精のことかい?」
リリーホワイト、あの幻想郷で春を叫ぶ妖精は弾幕をばらまきながら春の到来を告げて回るのだ。
「ああ、彼女はもうすぐよ。だから春が来るの。でも、そうではなくてね、あなたの春が来るのは……」
レティはふと番台へ目をやる。
「……やっぱり今、幻想郷も冬なのね。みんな家で暖かくして出てきやしないわね」
まるで熊みたいね。
そうぼやいたレティが魔理沙が持ってきたのと同じ新聞、文々。新聞を手に取る。
契約している僕の家にも、勿論不定期に文々。新聞は届いている。僕の店の窓は魔理沙や文のおかげで紫がどこかから仕入れてくれた防弾硝子仕様になっているので、硝子を割って店内に配達されることは無くなった。
そのため逆に、僕の店の前には文々。新聞が積んであったらしい。それがレティの不法侵入の原因だったようだ。何でも、支払いは断られたが、体調が悪そうだった僕を気遣って見に来てくれたらしい。そうしたら案の定、粉雪をかぶった文々。新聞に、閉店の札。何かあったんじゃないかと不法侵入してくれたわけだ。
「その記事っていうと、魔理沙の商品募集かい?」
「そう。でも、魔理沙なら買いに行けば良いのに」
「霊薬の研究とかで家に籠もってるのさ。他人に持ってこさせよう、という目論見だったんだが」
本人の「思惑通りに」、うまくいかなかったらしいがね。最初から、うまくいかせる気がないのだからしょうがない。
僕がそう続けると彼女も笑う。
「ええ、楽しかったでしょうねぇ。チルノや大妖精も行ったみたいで、大層、喜んでたっけ」
「何でも、氷結両生類を持って行ったらしいね」
「ええ。それで、素敵なビー玉をもらったそうね?」
レティが編み物を続けながら、悪戯っぽく笑って言う。そこに魔理沙に対する悪意は見えない。どちらかというと、相手にしてくれたことを喜んでいるようだ。
「素敵なビー玉か」
「ええ。それが今度は簪になった。まるで、わらしべ長者みたいね」
レティが本朝のおとぎ話、あるいは霊験あらたかな長谷観音の仏教説話を口に出して微笑む。彼女の視線は手元の編み物に注がれているが、その柔らかい雰囲気が伝わってくる。
「次には田畑になるのかな?」
「あら、あの簪と交換した時点で、もう十分にハッピーエンドだと思うわ」
新聞の広告欄も、馬鹿にできないものね。彼女はそう言って、すっと手元の編み物を整えた。
「さて、それじゃ私は行こうかしら」
「ああ、ありがとう。それと、もうそろそろ、僕も治ったとみて良いと思うよ」
「ええ、そのつもり」
レティはそう言って周囲を見渡す。すでに洗い物はなくなり、すっかり店は元の雰囲気に戻っている。
「そろそろ、あなたも元気になったし、ここに来る理由もなくなるものね」
彼女は別に寂しいという感じではなく、さっぱりとした口調で言った。
「まぁ、まだ春じゃないんだろう?」
そんな彼女に、なんとなく僕はつぶやく。僕のその言葉が意外だったのか、彼女は手提げ袋に編み物を入れる手を止めて、僕を見つめた。
「あなたも、感傷的になるのね?」
「僕は常に感傷的さ」
桜のときも、雨叢雲剣のときも。
「……そうねぇ、あなたがそう言うなら、そういうことにしておきましょうか。でも、それが本当なら、情緒不安定なだけよ?」
何か、わざとらしく皮肉を言って、また、いつもの落ち着いた表情に戻るレティ。
「常に、は言い過ぎたかな?」
「ねぇ?……まぁ、でも、珍しい言葉が聞けたし、良いことも思いついたし」
編み物を手提げ袋に入れたレティは、何かを企むように言う。
「おいおい、何だい」
「春を呼ぶ方法よ。でも、あなたがあんなこと言うから、もう少し様子を見ようかしら、なんて思っちゃったわ。……ええ、ええ、罪な男よねぇ」
不誠実な口調でくすくす笑って、レティは手を振った。
「さ、安静にしててね。多分、次回が最後だと思うから」
「そうか。ありがとう。気を付けて」
僕の言葉にレティはうなずくと、綺麗に晴れ渡った外へと出て行った。
「最後ねぇ」
なんだか、非常に惜しいような、日常に戻れるのが待ち遠しいようなそんな気分になる。とはいえ、彼女には十分以上にお世話になった。
何か、贈りたいものだが。そう思うと、ゆっくり僕は売れ残りに手を伸ばし、和紙に書き物を始める。
こんなことくらしか出来ないが、そう思うと、チルノの偉大さが思い起こされた。彼女にとって大切な人に何かを贈るためには、自分の物はたいした価値を持たなかったのだろう。自分の望みを叶えるビー玉の、その望みが大妖精のため、だったのだから。
たいした馬鹿だな、と思う。
あそこまでに、なることは難しい。それも大人となれば。
僕は彼女からせしめたビー玉をまた握った。さて、愚かになることは望まないが、馬鹿になることは、十分な望みとなるのじゃないかな。
これが本物なのだとすれば、魔理沙。
君の鑑定書にも重みがでるというものだ。
7.
どんなものにだって、最後の日はある。
いや、義務がないにも関わらず、続けてくれた行為であればなおさらだ。
本来、いつ止めてもいいはずだったのに、彼女は最後まで続けてくれた。
レティ・ホワイトロックはほぼ完成したマフラーを整形しながら、僕の店のストーブの前で座っていた。
「ありがとう、おかげで本当に元気になれた」
少し枯れた声なのは、痰が切れたからで、もうすぐ治る証拠でもある。
「そのようね。顔色も良いし」
レティも我が事のように微笑んでくれる。その様子をしばらく見ていたが、僕はおもむろに喉をならした。
「喉、まだ痛いの?」
「いや、そうじゃないんだが」
なんとなく、気後れする。こんなことなら、あんなに商売人がどうのこうの、対価がどうのこうの、と理屈をこねなければ良かったかもしれない。
とはいえ、それをしてしまうのが僕なのだ、と開き直る。
そんな葛藤を続ける僕を、彼女は不思議そうにじっと見ていた。
「ロティ」
噛んだ。
この大事なときに、僕は噛んだ。格好つかないこと、おびただしい。
なにより、白を黒にしてしまったじゃないか。四季映姫様もご立腹だろう。
「……店主さん。私はイミテーションの首飾りをしてないわよ?ついでに姉妹が幻想郷に来たなんて話は聞かないわね?」
レティは悪戯っぽく笑って僕を見つめる。
「確かに、文々。新聞にもあんな広告は見なかったな」
苦し紛れに僕が言うと、レティも微笑む。
「良かった、「可哀想なマーガトロイドさん」はいなかったのね?幻想郷のマーガトロイドさんは素敵な人形遣い、都会派の魔女ですものね」
そこまで話すと、二人して目を見合わせて、お互いに黙って微笑した。
「すまない。噛んだんだよ、レティ」
「……いろいろ、台無しねぇ」
らしいといえば、らしいけど、とレティは微笑んだ。
「これを」
「……あら、私は対価はいらない、って言わなかったかしら?」
僕が手渡そうとするものを見て、彼女はやんわりと首を振った。しかし、その鋭い目は冬の妖怪らしい、厳しい目だった。
「勿論、聞いた。ついでに言えば、これは君の看病への対価じゃない。君が看病してくれたのが、あの簪の対価じゃなかったように」
僕の目を見つめていた彼女は、ふと妖怪としての表情を消して、いつもの穏やかな表情に戻る。
「じゃあ、何なのかしら?」
「口止め料だ」
暫く彼女は驚いたように目を開き、そしてしばらくして何度か小声でつぶやいた。
「口止め料?」
首を傾げるレティに、僕はまた一つ、咳をする。
「そう。仮にも男女が密室で時間をともにしていた、そんな噂が立ったら、僕も君も困るだろうから、それの口止め料だ」
自分でも何を言ってるんだろうと思うほど稚拙で、ばかばかしい話だった。だが、特に良い考えもなかったし、なによりビー玉を握ったときにはこれが良い考えのように思えたのだ。
魔理沙、恨むぞ。
「……男女が、密室で、ね」
レティはすっと、冷たい表情で僕を見つめる。冬の女王。あるいは雪の女王の目。
「そんなことを考えていたの?」
「……その、それだが、ええっとだね」
レティは軽蔑するような目で見て、そしてそれから、絶句する僕を前にたおやかに微笑んだ。
「……あなたって、本当に不器用なのね」
綺麗な、優しい微笑みをうかべて、しかしそれは、不憫な子を見る目だった。
「これ、何なのかしら。ねぇ、教えて」
彼女は僕の出した物を大切そうに抱きしめて、そして僕のすぐ傍に立った。彼女はその機械を取り出すと、僕に手渡して聞いてくる。
その彼女の急激な感情の変化は、全然、僕が付いていけないものだった。
「ね、どう使うの?」
「あ、ええと、これは」
「うん」
彼女は促すように、興味津々といった表情で隣で見つめてくる。
「紫が持ってきたものでね。「歩く者」って意味の道具らしい。まぁ、名前はどうでも良くて」
僕はそう言って、なんだか少し焦る気持ちでその機械を開け、記録媒体を入れる。表裏に録音できる記録媒体だという。
「これに音を記録できるんだ。この赤いボタンがあるだろう?これと三角形の再生といいうボタンを押して、相手の声を記録する」
僕はレティの口元に機械を置いて、彼女を促した。
「えっと、これでいいの?あー、あー、我々は冬の妖怪だ」
僕は違うけどね。
そこまで聞いて正方形の描かれた停止のボタンを押した。
「で、この三角形が二つ、後ろ向きなもの「巻き戻し」を押すと、時間が戻るから」
すぐに、カチャと音がして、押し込まれていたボタンが戻る。
「それで?」
「また、三角形の再生を押す」
二人でじっと機械を見ていると、やがて音が「ジー」と聞こえた後に続いた。
「えっと、これでいいの?あー、あー、我々は冬の妖怪だ」
見事にレティの声がする。しかし、彼女は納得できないように僕をみた。
「別人じゃない」
「いや、君だったよ?」
「私、こんな声してるかしら?」
彼女は納得行かない様子だったので、機械を渡す。
「じゃあ、試してみるかい?」
「今度は、あなたが喋ってみてくれる?」
僕は自分の説明した内容を書き込んでおいた和紙を渡す。彼女はその和紙を見てにこにこ笑った。
「ありがとう、じゃ、やってみるわね」
彼女は僕の口元で、録音のボタンを押した。
「流れよ我が涙、と道具屋は言った」
「なにそれ?」
思わずレティがつぶやき、停止ボタンを押す。
「今のなに?」
「とっさに何も思いつかなかったんだよ。それでどうだい?」
おっかなびっくり、巻き戻しをしてまた再生する。
「えっと、これでいいの?あー、あー、我々は冬の妖怪だ……流れよ我が涙、と道具屋は言った……なにそれ?」
レティはびっくりしたように僕を見る。
「本当だわ。私の声は違うけど、あなたの声はそっくり」
「ちなみに、僕はこんな声なのか」
なんだか変に落ち着いた、嫌味な感じの声に聞こえたが。少なくとも、僕が思っていた「僕の声」とは全く違う。
「ええ、あなたの声だわ。低くて、落ち着いて、不器用そうな声」
彼女はにっこり笑って言う。多分、ほめられたのだろうが、なんだか納得いかない評価ではある。
「でも、君の声は違うのかい?」
「私、こんなに暢気な声してるかしら?」
もっとこう、鋭い冷たい声だと思ってたのだけれど、とレティが言う。
「もしかすると、自分で聞く声と他人が聞いている声は別物に聞こえるのかもしれないね」
僕の言葉にレティがうなずく。
「不思議なものねぇ。自分の声が他人の声に聞こえるなんて」
そう言いながらも、レティは大切そうにその機械を抱きしめた。
「ありがとう。素敵な口止め料ね。次に脅迫することが思い浮かばないくらいだわ」
レティが暢気な口調で、剣呑なことを言う。
まぁ、僕が悪いんだが。
少しどぎまぎする僕を横に、レティが嬉しそうに機械をああでもない、こうでもないといじくり回している。
「ああ、それでだね」
「ええ」
レティの様子を見つめながら、僕はまた咳を一つする。
「僕も回復したし、うちに来る理由なんてもうないけど」
「……そうね」
レティはわかっているわ、とでも言いそうな顔でうなずく。
「ちなみに、その機械、電池が必要なんだ。電池っていうのは、その機械のエネルギー源、つまり、その食事みたいなものでね。それはうちか、あるいは河童の連中しか扱っていないものだから」
そこまで言うと、レティはじっと僕を見つめた。
「……それと、記録媒体もね。それは表裏で1刻分しか記録できないんだ。もっと必要ならうちの商店にこないといけない。それに壊れたら直せるのは、河童か、僕……でも無理なら紫を頼らないといけなくて」
レティの顔に理解の表情が浮かぶ。そして、彼女は彼女らしくもなく、苦笑いを、しかめっ面しながらうかべていた。
「理由ができてしまうわね?」
「そうだねぇ。次の冬あたり、電池は切れているだろうねぇ」
しばらく僕たちは黙り込んでいたが、やがてレティが笑いだし、僕も笑わずにはいられなくなっていた。
「なるほど、口止め料をもらったけど、これからは私が払いにこなくちゃいけないのね?」
「その道具が、お気に召していただけましたら、是非ともご来店いただきたく」
かしこまって頭を下げると、彼女は笑った。
「使ってみないと、何とも言えませんわ」
レティはそう言って、チルノや大妖精の声を録音しないとね、と息を弾ませる。
「ああ。使い方がわからなかったら、それを見てみてくれ」
「ええ。ありがとう」
彼女はじっと機械を見ていたが、やがて、僕に言った。
「ねぇ、これは口止め料なのだから、看病のことは他人に言ってはいけないのよね?」
「……そういうことになるのかな?」
適当に思いついた言い訳だったから、そこまで考えていたわけじゃない。
「じゃあ、あなたも他人に言ってはいけないわよね?」
彼女が何か、おかしなことを言い出す。
「あ、ああ、そうなのかな?」
「そうよ。ね、約束を破ったらだめよ。それから、私がいない間、あの子達のこと、お願いね」
楽しそうに彼女は言った。あの子達、というのはチルノや大妖精のことだろう。
……そう、つまりこれは「雪女」のちょっとしたヴァリエーションとなる、そういう話なのだ。そう、雪女の一種の。
「約束を破ったら、みんなに言い触らすから、気をつけてね」
「君もだぞ。口止め料なんだから」
僕の言葉に彼女はうなずいた。
「雪女は、約束がしたかったのね、きっと」
彼女はそう言うと、機械を持ったまま頭を下げた。
「それじゃ、また次の冬ね」
「またね」
僕も、感謝の気持ちを込めて頭を下げる。彼女はうれしそうに僕に手を振る。そして、窓の外を見て一つうなずいた。
「そろそろ春がここに来るわ。もう、すぐ。だから私は行くけれど」
彼女はくるりとまた後ろを向いた。
「あの子達の声を録音しないといけないわね」
彼女はそう言ってドアを開ける。カランとベルの音が鳴る。その後ろ姿に僕は思わず呼びかけた。
「レティ!ところで、それ録音のままになっているよ?」
さっき彼女が機械をいじっていたときから、ずっと録音になっていたのだ。
しかし、彼女は慌てた風でもなく、後ろ姿で頷きながら言い返してきた。
「もちろん、分かっているわ、霖之助さん」
そう言い残して、冬の忘れ物は出て行った。
かくて、うちに籠もっていてくれた冬は、出て行ってしまった。なんだか、少し名残惜しい気もした。
とはいえ。
彼女はまた、冬に来るだろう。僕が生きてさえいれば。
そして、僕に死ぬ気はない。
春来たりなば、冬遠からじ。
二つ季節を省略したが。
無論、夏も秋もあるとはいえ時間はいつか、経つのだ。また、彼女に会うこともあるだろう。
僕らしく、ここが重要なんだが、僕らしく感傷的になってレティが出て行った店の外へと出る。
レティが窓の外を見つめていたとき、何が見えていたのだろう。そう思ったからだ。
春がここに来る、と言っていたが。
ほぼ健康になった身体で、閉店としてた札を開店とする。そのとき、そこには確かにレティの言っていた、春が来ていた。
おなじみの黒いシルエット。それはかなりの速度で近づいてくると、帽子を片手で抱えたまま、魔法の箒から飛び降りて来た。
「おい、香霖、大丈夫なのか?風邪、だったんだろ?」
文々。新聞を握りしめて、魔法の箒から飛び降りた魔理沙は、店の外にでていた僕を心配そうに見つめた。
「ほら、見てみろよ」
そう言って見せてくれたのは、広告欄。
「病人の快癒予告をお知らせ申し上げます、
本日、香霖堂にて
お知り合いの方のお越しをお待ちしております。右、ご通知まで。押し掛け女房より」
魔理沙はふてくされて言う。
「風邪を知らせなかったのは水くさいな。知らせれば、まぁ、実験の後くらいには来てやったのに。それに、なんだ、この病人の快癒予告って、なんなんだ?そんなに皆を集めたいのか?らしくないじゃないか、香霖。だいたい、本来、親しい連中、それこそ私や霊夢とか、あるいは慧音あたりを頼るのが順番であって……」
魔理沙は最初、呆れたような口調だったが、徐々に調子を上げていく。
「それも、使いをやれば良いだけじゃないか。だいたい、この店の位置が均等に遠いから、いざとなると誰も来てくれないわけだろ?それにしたって、知らせない、っていう意味が分からないし、だいたい、何だよ、この押し掛け女房ってのは!?」
なるほど、レティが考えていたのはこれだったのか。
新聞の広告欄も馬鹿にならないわね、と。
「押し掛け女房、って女っ気のない香霖が、それも自分で、そのうえ文々。新聞に広告記事出すとか、どんな羞恥行為だよ?あれか、自殺願望か?社会的な地位を殺したいとか、そういう。いや、そういうのから一番遠いのが香霖だとは分かってるけどさ」
大変、にぎやかな感じで魔理沙は続ける。一通りまくし立てると、やがて落ち着いたのか、じろっと僕をにらむ。
このにぎやかさ、これが春、ということなのだろうか。
彼女の言っていた春。「そう。とても素敵で、とても明るくて。まるで冬なんてなかったかのように振る舞うのよね。だから、ときに眩しすぎると思う」、そんな春。
つまり、君の言っていた春、ってのは魔理沙のことだったのだろうか?
そんなことを考える僕に、魔理沙は続ける。
「説明してもらうからな、香霖!」
「説明、って言われてもなぁ」
ちょっとした剣幕の魔理沙に、僕は病み上がりの声で答える。魔理沙は少し、ふっと勢いが削がれたように僕を見た。
「おいおい、香霖、本当に病気良くなったのか?」
「ああ、ご心配には及ばないさ」
さっきまでと打って変わって、やや心配気にこっちを見る。お互い目があうと、魔理沙はむっと不機嫌そうな表情に戻る。
そんな風にじっと魔理沙を見ていたせいだろうか、不意に気づく。
その袖に付いている種に。
「これ、芽が出てる?」
「ああ、これか」
魔理沙は苦笑してその種を拾い上げた。
「ライラックだな。最近、ハーブ中心でエリクシールの研究をしてたからなぁ。葉っぱだけじゃなく、根や種を使ってたから、付いてたのかもしれない」
でも、いつの間に付いたのかな、そう言って首を傾げる。
……なるほど。
残酷な月の到来、というわけだね、レティ。
「春が来た、のか」
レティが春を呼び出して、帰って行った、ということらしい。
自分じゃ面倒をみきれないから、春とバトンタッチしたのよ、そんな感じだろうか。
「春?香霖、何を言ってるんだ?」
「いや、こっちのことだよ。さて、説明よりも前に霊薬の方はどうなったんだい?」
「あ?ああ、それか。それも説明するが……」
その前に、この押し掛け女房の方だ!、魔理沙はそう言い切ると、勝手知ったる店内に入っていく。
「山に来た、里に来た……」
僕は呟きながら苦笑して、魔理沙の後についていく。
とはいえ、レティのことは内緒なのだ。どうやって言い逃れるものか。これはちょっとした春の嵐だろう。
そして、魔理沙に聞かなきゃいけないこともある。望みを叶えてくれるビー玉の話を。君の鑑定が正しかったこと教えてやらねばなるまい。
しかし、レティに触れないで、どう説明したものか。それがうまく出来たら、「椿事」と言えよう。
「ほら、早く、お茶を淹れてくれよ、香霖」
無遠慮な声で魔理沙が言う。その賑やかな様子に僕はうなずいた。
明るく賑やかで色彩に満ち始めた店内の雰囲気に。そして、魔理沙のちょっとした剣幕に。レティの言葉を思い出しながら。
春は残酷な季節なのよ、と。
勿論、残酷なだけではないとはいえ。
春とは喜びの季節でもあるわけだが。
僕の春が今。
「……店に来た」
-了-
冬ももう終わり、いよいよ日差しも温くなってきた。
そう思って油断したためだろうか、冬の寒が急に戻ってきた際、僕は風邪を引いたらしい。いや、そのせいばかりとも言えないのだが。
冬の盛りが過ぎ、すでに残雪がところどころに見えるだけになっていたから、そろそろ衣替えだし、一時遠のいていたお客の足も戻ってくるだろうと、少し忙しくしていた面もある。あるいは、この冬の疲れが溜まっていたのか。
なんにせよ、この冬の総決算として僕はいま、一人で布団を敷いて横になっていた。男の一人暮らしで病を得る、というのはこういうことかもしれない。
見上げる天井は冬の色を受けて、味気なく見える。自分から生じる熱のせいで頭は痛いし、視界もやや霞む。身体はじんわりと痺れや痒みにも似た感覚があって、動かすにも大儀だ。腕一本を動かすにも気だるさや鬱陶しさがあって、正直、眠る以外のことをしたくなくなる。
だが、眠るといっても何日間も寝続けることは難しいものだ。病気になっていつも気付かされることは、「眠ることには体力がいる」ということだろう。
眠る体力すら失われ、かと言って身体を動かすのも億劫、とくると、ただの屍のようだ。返事すらできない。一人ならその必要もないわけだ。
僕にできることは、頭痛と戦いつつ眠れない状態で、思索に拘泥していくくらいなのだろう。
しかし、理性が働いていないせいだろうか、常にも増して取り留めがない。……いや、これでいつも通りなのか?
結果として、頭で色々考えはするものの、身体については咳をするかくしゃみをするか寝返りをうつか、そんなことくらいでしか動いていない。
……咳をしても一人。
半人半妖を人で数えて良いのなら、そのような。
あとはせいぜい、人間、いや、半人半妖の尊厳を守るため、最低限の排泄行為を辛うじてこなすくらいだろうか。
食事を作るため、部屋を暖めるために火を起こすこともおぼつかないし、入浴することはなおさら難しかった。
あるいはこのまま孤独に誰にも気付かれず、などと考えてしまっていた。
いつもなら、元気の良い闖入者があっても良さそうだが、店をしっかり閉めているし、訪ねに来られても外へ出て行く気力もないので対応できないのだから、来客が無くてもしょうがないだろうう。
いや、決して僕の人付き合いが悪いせいではない、はずだ。
布団の中でどんどん悪い方向に向かっていく思索を止めるように、閉じられた襖の向こうから声が聞こえる。
「店主さん、卵は嫌いじゃなかった?」
気軽な調子で、彼女の声が聞こえてくる。
「嫌いじゃないよ」
咳のせいで痛めている喉から、少し嗄れた声で僕は答えた。
「じゃあ、落とし卵をしましょう。あとは……葱と茗荷を多めに散らす?」
「ありがとう」
風邪に良いと言われる薬味の名前を続けて言う。
……うん?
いや、確かに僕は一人で寝ている。ただ、今、台所に立つ者がいない、とは言っていなかったはずだ。
ついでに言えば、彼女を人という単位で数えるべき存在なのかどうか。
「はい、お粥ね。梅干しは小皿に乗せたから」
彼女は静かで優しげな声で続け、そっと襖を開いた。前掛け、あるいはエプロンをした彼女は、僕を見ておっとり微笑む。
「すまないね」
「それは言わない約束、だったはずね?」
彼女は苦笑して返した。まだ悪い、なんて思っているの、と。
「本来、僕一人で治すはずだったからね。君を巻き込む気はなかったわけで」
「こっちの余計なお世話なんだから、気にしないで、何度も言ったわね?」
僕の強情さに呆れてみせるが、決して機嫌を損ねたわけでもないらしい。彼女は悪戯っぽく僕に聞いてくる。
「眠るのに飽きてきたんでしょ?」
「その通りだよ。ついでに言えば、この風邪にもね」
僕の言葉に彼女はうなずいた。
「ようやく皮肉を言えるようになってきたのね。そろそろ大丈夫そうだわ」
彼女はそういって、僕の枕元にお粥と生姜湯、梅干しの小皿、それに備え付けである永遠亭の薬売りから購入していた薬の乗る盆を置いてくれた。
「もう、一人で食べられる?」
「勿論だとも。だいぶ、楽にはなってきたんだ」
そう、一時、一番悪い時期よりは。
「そう?無理しないでね。汗は一人でふけるかしら?」
「大丈夫だよ、ありがとう。……しかし、君たちの一族は情が深くて申し訳なくなるな。そこまで気にしなくても大丈夫なんだが」
「……あら、本当にらしくもない。やけに素直ねぇ。でも、情が深いのはこっちの連中って言ったわよね。私はそうじゃない、って何度も」
彼女は照れ隠しなのか、本気でそう思っているのか、全く読めない飄々とした口調で答えた。
「さ、食事に薬、それに布巾もある。お湯も沸かしてくれたみたいだから、本当に大丈夫だよ。残り少ない時間だ、彼女たちのために使ってくれ」
僕は匙を握ると、いただきます、と頭を下げる。
彼女はしばらく物思いにふけると、どうぞ、と微笑んだ。
「そうね。でも、後かたづけは、あとでするから、置いておいてね。無理は禁物、よ」
彼女の言葉にうなずきながら、僕はお粥を口に含む。米の澱粉質の甘みが、じんわりと舌に染みてくる。鼻は詰まっているし、喉も痛いのだが、なぜか粥の甘みだけは残るのだ。熱がゆっくりと雪を溶かしていくように、粥も機能しない味蕾に染み込んでいってる感じ、だろうか。
「味、わかるようになったの?」
一匙掬って咀嚼した僕に、彼女は嬉しそうに聞いてくる。
「ああ、少しづつ、ね。おいしいよ。もう少ししたらきっと、もっとおいしく感じるはずだ」
僕の言葉に彼女はくすくす笑う。
「そうかしら?味覚が戻ったら、実はおいしくなかった、のかもしれないわよ?」
そう答えると、さっ、と彼女は席を立った。
「大丈夫そうだから、お言葉に甘えて行くわね」
「ああ、ありがとう。君も気をつけてくれ。彼女たちにもよろしく」
僕がなんとか手を振ると、彼女はうなずいた。
「伝えるわ。じゃ、またあとで」
僕はお粥の湯気に顎を当てている様子に苦笑して、彼女は去っていく。その後ろ姿が少し横に数人分にぼやけるのは熱のせいらしい。言うほど、良くもなっていないのか。
とはいえ、彼女にはもう時間がないのだ。いつまでも、男所帯にかまってもらうのも良くないだろう。
……それにしても。
それにしても、何でこんなことになったのだろうか?
いや、そりゃ、ここに至った経過は分かってはいるんだが、現在だけ切り出すと、何とも不思議な気分になってくる。
いや、心の底から、感謝はしているんだ。
しかし、あの時点ではこんなことになるとはとても予想はできなかったろう。そう、「あの時点」。今考えれば、発端はなんだったか。
僕はそんなことを、頭痛と熱に邪魔されながら考える。
味はほとんど、分からなかったが優しく薄い甘味のするお粥と、本来、強い香りがあるはずの生姜湯を飲み干し、そして苦い薬を水で飲み込む。
食器をまとめて置くと、一人で汗にまみれた身体を拭いている頃には、発端となった場面を思い出して、人知れず苦笑を浮かべていた。
そう、彼女たちだった。
そして。
僕は枕元に置いておいたビー玉を見つめた。
これだった。
僕は身体を拭き終わると、そのビー玉を握って目を閉じた。
もう、考えるのが面倒くさくなってきたからだった。
そう、後は夢でも見てればいいだろう。
このビー玉が見せてくれるかもしれない。
望みの叶うビー玉、か。
少なくとも、彼女はそんなことを言っていたのだっけか。
2.
僕には特に、興味のないことだった。
「いや、香霖、そこで間違いなく赤化するはずだったんだよ。錬金術的には。でも、あれかね、霊薬の技法と錬金の技法は異なるのかな?」
魔理沙がいつものように現れ、我が商品たちをツケで購入し、ツケの支払いを催促する。いつもの風景で、特に大きな問題があるわけじゃなかった。
「金属系と植物系を同様に扱うのは無理があるんじゃないか?少なくとも陰陽五行的には金剋木だったかな」
冬も大詰め、寒波により客足も遠のいていたが、想定以上に酷いわけじゃなかった。
実際、魔理沙はこの冬の降雪などを幸いと、自宅でキノコ類や薬草類を使って霊薬、エリクシールの研究に勤しんでいたくらいだ。降雪といっても、雪国なら別段、酷いと感じる量ではなかったし。
「ああ、五行だと「金」と「木」でジャンル違いになるからな。でも、東洋の仙人たちの仙丹はこれらを複合させてるだろ?」
せっかく冬籠もりをするのだから、と当店で器材や材料を買い揃えていったのが、だいぶ前のこと。途中、器材が壊れたのを買い直したり、材料を補充したりと当店を訪れていたが、いよいよそれも大詰めとのことで、魔理沙は大層、熱心な様子だった。
「まぁね。ただ、それが逆に毒になった、ってのが専らの噂だね。重金属中毒、だったかな。慧音あたりは金丹なんて、そんなものを信じるのか、と眉を顰めるレベルだ」
里の知識半人にして、中華の聖人君主の前に現れる妖怪の血を半分引くという旧友の名前を出す。なお、その旧友の友人は蓬莱の薬の服用者であるが。
「だろうねぇ。だとすると、やっぱりキノコと植物を中心にした方が良いな」
「ついでに言えば、動物の体液とか、勘弁してくれよ。こっちもプロだから仕入れるよう努力はするが、場合によっては取り扱いに困るものが多すぎる」
僕がぼやくと魔理沙はにやっ、と魔女みたいに笑った。いや、魔女だったか。
「ま、私もそんなの飲みたくないからな」
「なら、誰に飲ませる気だい?」
魔理沙は暫くふむ、と唸ってから重々しく口を開いた。
「私の大切な人たちに」
「残念だな、僕は半人半妖なんだ」
「知ってる」
魔理沙は即座に答えて、また、にやっ、と笑った。もはや魔女というより、チェシャ猫の笑みだった。
「でも、香霖は特別さ。私が香霖を仲間はずれにするわけないだろ?」
「……その哀れな犠牲者の中に、魔理沙、君は入っているんだろうな?」
「なんで効能の怪しい薬なんか、飲まきゃいけないんだ?」
僕はその返答に苦笑すると、魔理沙はふぅ、とこれ見よがしに溜息をつく。
「大丈夫だって、ちゃんと飲める薬にするさ。ハーブとかを主体にして、こう、都会派?な感じに」
お澄まし気味にして言う魔理沙は、多分、アリスの真似をしたつもりなのだろう。
「主体、じゃなくて成分はそれだけにしてくれ。まだましだろうから」
「それじゃ意味がないんだがなぁ。ただのおいしいハーブティーになっちゃうぜ?」
そう言って笑うと、霊薬の研究の話ばかりでは艶に欠くと思ったのか、魔理沙は他にも茶飲み話をするべく、ほい、っと文々。新聞を投げてよこす。
魔理沙が指さしたのは、当然のごとく文々。新聞の記事、ではなく、その広告記事の方だった。
文々。新聞の内容に信用をおいていない魔理沙にしても、広告欄はそれなりに楽しめるものなのだろうか。
なにせ、広告欄には文のサービス精神、つまり「より面白くしてやろう」という悪意、もしくは善意が存在しないのだから安心して読めるというものだ。
その広告欄には、いつも通り、「売ります買います」だの「ペットの赤ん坊の飼い主募集」だの「信徒募集」だの「仕事募集」だのが書き込まれている。
やや胡散臭いものから非常に胡散臭いものまで、バラエティに富んでいるのは良いことだが、どこまでがまともな広告なのか、信用できるものじゃない。
偽の蓬莱の玉の枝、売ります。蓬莱山輝夜とか、ペットの赤ん坊の飼い主募集。地霊殿とか、信徒募集、三食昼寝付き、明るい雰囲気で御利益あります。守矢神社、の横に、来たれ労働者、三食昼寝付き、無給、明るい雰囲気の職場です、守矢神社、とある、これはどういうことなのか。
何か敵対組織と情報戦でもしているのだろうか。
そんなことを考えさせる一方で、他にもこんなのがある。
おくりびと、メリー今どこで迷ってるの?帰ってきなさい、蓮子
今、会いに行きます。蓮子はそこにいて。迎えに行くから、メリー
……この二人、文々。新聞のところでニアミスしてるんじゃないか?少し周囲を探せば見つかった気がする。
第七艦隊いずこにありや、全世界は知らんと欲す。
誰向けなのか、この文章は。
しかし、魔理沙が指さしたのはそれらの欄ではなかった。
「貴重な霊薬の材料、求む。その価値に応じて魔法のアイテムと交換。霧雨魔法店」
ちなみに、その価値に応じた魔法のアイテムがなんなのかは、一切不明だ。
魔理沙は微笑みながら「香霖、お前もどうだい、交換したくならないかい?」と言ってきたものだから、僕は厳かに首を横に振った。
「しかし魔理沙、これじゃ怪しすぎて誰も交換に来ないだろう?それも、こんな冬の雪の中に」
「いや、そうでもないのさ。少なくともパチュリーやアリスは来たぜ?」
それは口実だな、とは思ったがそれを口に出さない程度には、僕は空気を読むほうだ。
「他には?」
「霊夢が、この御札とかどう?あるいはこの針とか、陰陽玉とかは?って。過去の文々。新聞の束と交換してやろうと言ったんだが、喧嘩になったっけな」
そりゃ、どっちもどっちだ。弾幕と古新聞を交換するとか、もう、何をしているんだが。
「あとは妖精たちが来たくらいだな。捨てられていた新聞を見たらしい。チルノと大妖精が凍らせたカエル、みたいな各種氷結両生類を持参してくれたよ。カラフルではあったね、上品とは思えなかったが。まぁ、あんまりにも高い価値のものだったんで、何でも望みの叶う、ってことにその場で決めたビー玉と交換してさしあげた」
「……それ、ラムネの中のビー玉、じゃないのか?」
ラムネを飲んだ後に取り出した、緑色のガラス玉。魔理沙は軽くうなずいてみせる。
「鰯の頭も信心から、さ。萃香だって鰯の頭と柊の葉が苦手なんだから、なんとなく意味はあるだろ?少なくとも、チルノは「うぉ、すっごいね」って喜んでたぞ?」
「大妖精は?」
「なんとも、微妙な表情をしてたな。もともと来店したときもハラハラしてたから、なおさらな。とはいえ、チルノが嬉しそうだったから、最後はニコニコしてたけどな」
良いことしたろ?と魔理沙が悪びれず言った。
「それで、貴重な代物はあったのかい?」
「残念ですが、ありませんでした。まぁ、何年も開いている道具屋ですらこうだもんな。一朝一夕で貴重品、とはいきませんわ」
魔理沙が皮肉を言ってウィンクした。
「それも文々。新聞じゃ、なおさらだろうな。信頼性が失われる」
僕の指摘にも魔理沙は軽く頷いてみせるだけだ。分かっているのだろう。
少なくとも僕はその方法だけは、選ばない。
「だからこそ、曰くありげな品物も来るかもな、と思ったのさ。ちょっと霊薬研究にも壁を感じてたから、気分転換にはちょうど良かったかな」
そう言って笑う魔理沙の表情は、本当に楽しそうだった。確かに魔理沙の今の姿を見れば、研究に集中していたことが分かる。
黒白を基調とする魔理沙の、魔女のエプロンの先には菌糸類が白くうっすらとまぶされていたし、千切れた葉やすりつぶされた根っこなどが付いていたりするので、溜息混じりに僕が払ってやったほどだ。
少し、外見に気を使ったら、と聞いたら、白い目で「どの口がそれを言うのか」などと言い返してきた。非常に心外だ。
「ま、霊薬の材料じゃなくても、交換するのは吝かじゃないぜ?香霖、たとえばあれとかどうだい?」
魔理沙がそう言って指さしたのは、紫から強制的に商品を没収された際に交換材として渡された、機械類だった。天狗が使っている写真機?らしきものや、阿求が使っている蓄音機?らしきものなど、多種多様だが、使い方を覚えるのに一苦労だ。
いや、説明書もないので、ひたすら八雲紫のご機嫌を取り、謎めいた言葉のはしばしから使い方を知る、っていうのは難しいものだ。河童に協力してもらうのも良いんだが、あの連中、分解するからな。時に水中で調査したりするから始末に終えない。
「あの辺は、天狗や河童に売れる可能性が万が一にもあるんでね。そう、やすやすとは出せないな」
「……売る気なんて、あるのかね」
魔理沙は苦笑すると、さて、と席を立った。
「久しぶりに古馴染み一同にご挨拶もしたし、帰るとするかね」
「ああ、せっかくだからじっくりと冬篭りをするといい」
颯爽とマフラーをする魔理沙に声をかけると、彼女は片手を軽く上げて答える。
「そうだな。霊夢も冬の寒さで冬眠しそうだからなぁ」
うちより先に訪れたであろう旧友の報告をすると、魔理沙はにっ、とやはりチェシャ猫みたいな笑みだけ残して、商品を抱えて帰って厳重に厚着をして出ていった。
そう、今年の冬は、少し冷えたのだ。
3.
お子さまを店内で自由に遊ばせてはいけない。
基本的な原則、戒めである。
特に道具屋、骨董屋、美術品屋、工芸屋などという壊れ物が致命傷となる店ではなおさらのことだ。
もちろんそれは、当、香霖堂でも同様である。
お葬式や墓地で子供たちが遊び回ってはいけないし、道で走り回ってはいけない。これは親の躾によって伝えられるところだ。
勿論、それが難しいことは、自分が子供であった頃を思い出せばよく分かる。
子供というのは、そういうのが苦手なものなのだ。礼儀を守れない大人がいる以上、子供がなかなか最低限の礼儀を守れないのは、理解できなくはない。
だからといって、躾をしなければ礼儀を守れない大人になるだけだ。大人になっても同様なことをしでかすだろう。
大人になってそうした行いを許されるのは、お金持ちか権力者か、暴力を振るいなれている無宿人ぐらいなものだ。無論、許されてはいけないことなのだが。
で、今、当店内では絶賛、子供たちがはしゃいで回っている。
いや、子供たちならまだ良い。大人を呼ぶなり、叱れば良いのだから。また、子供が壊したものについては、親に請求することもできるだろう。
だが。
「大ちゃん、ほら、これこれ!あたいが見つけたやつ!」
妖精の場合、どうしたものか?
支払い能力は皆無であり、一方で親がいるわけでもない。ついでに言えば、下手をして逆恨みでもされれば、たとえ妖精といえども、迷惑なことになるものだ。
古来、妖精の類の悪戯で、その人生を狂わされた者の物語は数知れない。
「どう?すっごい、きれいでしょう?」
そういって我がもののように氷精が威張って、商品を鷲掴んだ。その様子に、大妖精が僕の方をちらちら伺う。
「綺麗だけど、その、商品は置いておいた方が……」
大妖精の気遣いに、チルノは首を傾げてみせる。
「だって、簪だよ?髪に飾るんだよ?」
そう。それは翡翠でできた簪だった。そこに美しい飾りが施してある。
「そういうのは、買ってからじゃないと……」
「でも、試着してみないと分からないじゃない」
チルノはそう答えて、自分にではなく、大妖精の髪に挿した。
「ち、ちるのちゃん!?」
「やっぱり、似合ってるよ!大ちゃんの長い髪に似合ってる!」
慌てふためく大妖精を後目に、チルノはとても満足そうに腕を組んでうなずいた。
「えっ!?えっ?」
「この間、ここに潜入したときに見つけたんだ。あたい、これ、絶対大ちゃんに似合うと思ったんだよ」
そういえば、この間もチルノは来ていた。とはいえ、商品に触れて壊すとか、悪戯をする、とか言うのではなかった。なぜか、じっとあの簪を見ていたのだ。買うのかい、と近づいた気配を察知して、脱兎のごとく逃げてしまったが。
あれ、潜入、だったのか。
「これ、してもらおう、って思って」
確かに、短髪のチルノがするより、長髪の大妖精の方が様になるだろう。しかし。
「で、でもね、こういうのは……」
「かわいいなぁ、大ちゃん」
「……そ、そう?」
大妖精が少しその気になったのだろうか、ちょっとチルノの方へ姿勢をただした。
「うん!かわいい!」
確かに、その姿は清楚な少女、といった面もちである。誉められて満更でもないのか、大妖精ははにかんだ。ここだけ切り取れば、とても美しい少女たちの姿である。
そう。ここだけ、切り取れば。
ちなみに、今、まさに大妖精の髪を飾っているあの簪は、我が店の商品である。試着して良いか確認があるべきなんだが。
「ああ、君たち」
いよいよ、仲良し二人組の世界に入ろうとした矢先、僕は声をかけた。店主さん、邪魔をしないで、と言いたいところかもしれないが、見過ごすのもどうかと思うし。これから良いところなの、と言われたらなおさら困る。
「なに?霖之助?」
チルノが初めて僕の方に顔を向ける。
「いや、それ、買うのかい?」
「……これ?」
そう言うと、チルノが大妖精の髪を指さした。途端に、大妖精が慌てて簪を抜く。
「ご、ごめんなさい、霖之助さん。あの、これ」
大妖精が元の位置に戻そうとすると、チルノはその簪を手に取った。
「ねえ、霖之助。これ、あたいに頂戴」
その言葉に大妖精がなおさら慌てる。
「……チルノ、お金はあるのかい?」
「お金は、ないけど」
チルノはそう言って、なお僕を見つめた。
「それでは売れないね。ついでに、無償で差し上げたりはしないぞ」
僕が言うと、チルノは怒った。
「あたいだって、これをくれ、とは言ってない!物を買うのにお金が必要だ、ってことは分かってる!」
バカにするな、とでも言いたげに続けた。
「ただ、あたいはお金を持ってない。だから、何かと交換して欲しい」
チルノは真剣な表情で言う。
「交換?」
「だって、お金とこれを交換するのは、私がこれを欲しくて、霖之助がお金が欲しいからでしょ?お金じゃなくても、霖之助が欲しいものと交換したら、問題ないじゃない!」
チルノがまくし立てる。
そう、そりゃそうだ。
お金というのは、あくまで交換するための標識だ。
全員が欲しがるものが「お金」ということにしているから、お金は流通し交換されている。相手が何が欲しい、自分が何が欲しい、と考えなくても価値を交換することができて、かつ、貯めることができるところがお金の一番の利点なのだ。
そして、それを支えるのは、いつでもお金があれば商品と交換できるという信頼があることだ。
逆にある日、そのお金が信頼を失って商品と交換できない、となったなら誰もお金を欲しがらなくなるだろう。珈琲一杯飲むのに、トラック荷台一杯の紙幣というのでは、誰がその紙屑を欲しがるだろうか。
チルノが言っていることは、十分、正しい。……けれども。
「とすると、君は僕の欲しがる物を持っているのかい?」
「……見てみないと分からないでしょう?」
僕の言葉に、チルノが少し自信なげに答える。
正直言ってしまうが、そんなものがあるとは思えない。だから、妖精相手に何を本気で、と言われるかもしれない。
しかし、商店を経営しているとき、子供に対応するということは、こういうことだとも思っている。
ずっと店の前で立っている子供に、鯛焼き屋や饅頭屋が「今日、お前にだけだよ、誰にも言っちゃだめだよ」と言って一つ渡してやるのは、善意だけではない。
もちろん、善意が重要なのは確かだ。その店主に善意がなければできない。
しかし、ずっと店先に子供が立っている店、という感じの悪さや、二度目はないと言って相手に商売の原則を教えてやること、子供が約束を破って親にそのことを告げたとすれば、その親が来店して商品を購入してくれるだろう、そんなところまで想定しているものだ。
もちろん、その子供が友達に「お前もやってみろよ、ただでもらえるぞ」などと言うかもしれないが、そのときは敢えて子供をずっと立たせておけば良い。そうすれば、嘘を言ったとその子供と友達の間で喧嘩が起こるだけなのだ。
商売というのは、全体として信頼で成り立っているし、善意が前提になる。みんなが顔見知りの社会で行う狭い商売となれば、なおさらだ。一度、信頼を失ったら、その店主は二度とその社会で商いをすることはできなくなるのだから。
僕も個人商店主である以上、妖精相手だからといっていい加減にする気はない。
「待ってね、ええっと」
チルノはそう言って、ポケットの中を探り出す。案の定、出てくるものはガラクタばかりだ。
王冠、ベーゴマ、メンコに竹蜻蛉。蝉の抜け殻に、どこで見つけたのだろう桜色の小さな貝殻。縞模様の小石に、蝋石、ゴム紐、リリアン糸。
出てくるものは少し懐かしく、あるいは不思議な気持ちにさせるものばかりだ。よくもまぁ、壊れずに入り込んでいたものだ。とはいえ、これらが価値のあるものとも言えない。
「チルノちゃん、もう良いよ。私、チルノちゃんの気持ちだけですごく嬉しかったから」
大妖精が心配そうにそう言って止めるけれど、チルノはポケットを探り続ける。好きな女の子の前で引くに引けない男の子みたいだ、と思って、いや、この子も女の子だったな、と思い返す。
まるで整理されていないポケットから、目的の道具を見つけだそうとする青狸の大妖怪のように、必死に物を取り出す。うん、大妖怪、だったかな?とにかく、大妖精あたりが、だからいつも整理しておけといったのに、などと言いそうな。
「これでも、……ない。これは、どう?……えっと、これは?」
そう言って出てくる、不思議な御札や魔理沙の書いたと思われる鑑定書、そして綺麗な文字で書かれた手紙。
「ね、チルノちゃん。やめよ。それみんな、チルノちゃんの宝物じゃない!」
大妖精が懇願するように言う。
そうだった、子供の頃はこうしたものが全部、宝物に見えるものだった。かく言う僕にもそういうときがあったのだ。
「私、そこまでしてもらったら、逆に嬉しくないよ」
「でもさ、とっても、とても似合うんだよ?」
チルノが悔しげに僕をにらんで言う。それは本当に悔しそうな目で。そして、それは僕を恨んでいるというよりは、無力な自分が悔しい、という目で。
ああ、やめて欲しいものだ。
そういう目は、悪人に向けるものであって、僕のような善人に向けるものじゃない。
「良いかい、その簪はね」
僕はチルノが取り出したガラクタを番台に一つずつ並べながら静かに言った。
「この間、村の長者の倉で引き取ったんだ」
チルノは急に僕が話を始めたのに驚いて、目をぱちくりさせる。
「そこでね、何でも長者の先々代のお妾さんが亡くなったんだそうだ」
「おめかけさん?」
チルノが首を傾げ、大妖精が顔を紅潮させる。大妖精は少し、ませたところがあるらしい。
「そこは良いんだけどね」
僕はチルノが出してきたガラクタを、いつもの商品と同様に丁寧に取り扱いながら続ける。そっと手に取り、壊さぬように。
「で、お妾さんは先々代が亡くなったあと、ずっとその倉で生きていたらしい。長者の家では誰も相手にしなかったらしくてね、捨て扶持じゃないが、食事だけもらって、あとはずっと日陰者だったそうだ。で、このたび亡くなりましたんで、やっと片づけられることになりまして、ってことで僕が遺品を引き取った。長者の祖母、って人は人一倍、彼女を憎んでたらしくってね」
よくある話、よくある話だ。
しかし、妖精たちは何を言っているんだろう、という目をしている。そりゃ、そうだろう。
「で、遺品を整理している中に、この簪があった。もっと色褪せていたし、欠けもあったんだが、その辺は僕が手を入れた。何でも、彼女が一番大切にしていたものらしい。先々代にもらったものらしくて、とても大事にしていたそうだがね、それがなおさら正妻には気に入らなかったようだね」
僕はチルノのガラクタを並べ終えて、苦笑した。さて、どうしたものか。
「二束三文、だったよ。捨ててくれても良い、って言われたほどさ」
「捨てて良い?だって、大事なものなんでしょ?」
「君も言ってたろう?誰かにとって欲しいものでも、誰かにとっては欲しいものじゃない。だから、お金は便利だし、物々交換をするのは難しいんだ」
正妻が憎むほど、捨ててしまいたいほどの簪。しかし、妾にとっては命よりも大事なもの。これが同じ価値を持つと考えていいものだろうか。
「さて、じゃあチルノ。君に聞くがね。ここにある全ての君の宝物、これと同じくらい、この簪には価値があるのかい?」
「ある!」
チルノは胸を張っていった。
「大ちゃんに良く似合うんだもん。すっごくかわいいんだもん」
「よろしい。それでは僕の条件を提示しよう。最後に残っているポケットの中身を出せるのかい?」
さっきから、ずっとポケットをいじっていたチルノ。つまり、それを出すかどうか、ずっと悩んでいたのだろう。
「ねぇ、もう、やめて。意地を張らないで」
「出せるよ」
チルノがそういって、握りしめた拳をつきだした。
「良いのかい?後悔しないのかい?」
「私が後悔するよ、やめてよ、チルノちゃん」
大妖精にしてみれば、チルノの気持ちが分かるから、なおさら止めたいのだろう。
だが、僕たち二人に言われても、チルノは笑った。
「でも、ここで出さなきゃ、あたいも後悔する」
そう言って、氷精は率先して番台の上に、それを置いた。そして、それは番台を滑っていき、床に落ちてカツンという音をさせた。
「これで、どうだ!」
僕の足下まで転がってきたもの。これはビー玉、か?
「これは、願いが叶うビー玉なんだ。これはとっておきなのさ!」
「チルノちゃん……」
涙目になる大妖精に、チルノが言い切る。だが、僕は冷や水を浴びせるように首を振った。
「……いや、まだ不足だね」
僕がそう言うと、今度は大妖精が僕を睨む。
「そんな、酷いです!」
「商売は酷いものなんだよ。良いかい。君たちにはお金がない。だからそれに等価値のものを出す必要があるんだ。第一、本当にこんなビー玉で願いが叶うものか」
僕はそう答えて、帳簿をこれみよがしに出して見せる。
だいたい、願いが叶うなら、このビー玉の力で簪が手に入っても良いはずじゃないか。
そうだろう、魔理沙。
「良いかい。今、チルノが出した宝物。このうち、僕にとってこれは無価値だから返すが」
そう言って、チルノが大切にしているであろう、冬の忘れ物の書き残したひらがなだけの手紙を返す。チルノが目を丸め、大妖精も僕の真意が分からないのか瞬きした。
「あとは全てもらい受けよう。それに、君たちのせいで僕の時間がこれ以上無駄にされても困るんだ。僕の時間は翡翠で出来た砂よりも貴重でね。その時間の代金を加えよう。それから、チルノ、君のさっきの啖呵は決して見せ物として悪くはなかった」
「あたい、見せ物じゃない!」
「それに、大妖精、君の言葉も泣かせるものだったよ」
「そ、そういうつもりじゃ……」
「その見物料を足そう。それに、今後、こんな商いはしないという約束だな。僕は君たちと、二度とお金のない商売はしない、そう約束できるかい?」
「……できる」
チルノがしっかりうなずき、大妖精も首を何度も縦に振った。
「よろしい。ついでに、村でもこんなことはやらないこと。お金なしで何かを入手することなんて、本来できないものだからね」
説教がましく言うとチルノは慧音みたいだ、などと言って舌を出した。半人半妖に共通するところらしい。
「そして最後、これが一番重要なんだ。これがなければ、この簪は渡せないな」
僕が言うと、二人が息をのむのが分かる。
「チルノ、良いかい。この条件で簪を手に入れた、なんてことは絶対他人に言っては駄目だぞ。君以外に僕はこんな取引をする気はないからね」
僕の言葉に、チルノはしっかりうなずいた。
とりあえず、チルノとだけ約束をする。色々言われているチルノだが、約束を破るような娘ではないからだ。
それに、大妖精は賢いから大丈夫だろう。いろいろな意味で。敢えて大妖精とは約束をする必要はないと思っていた。
まぁ、こんな約束をしなくちゃいけないのは、この取引を聞いた、などと魔理沙や霊夢に言われたら僕は幻想郷から逃げ出す必要があるだろうからだ。
二人から、同じように商品を要求されたら、これ以上ないほど面倒になる。
良くて夜逃げするね、僕は。
それに、チルノや大妖精に親がいるわけじゃない。
親から、人の物を盗んできたのか、などと詰め寄られることもないだろうから、口止めしておいても問題は生じないだろう。
「約束するよ」
「そうかい。ならその約束の分もお代に含めよう」
僕はうなずいて帳簿を置いた。
「ふむ、これでようやく等価値、だな」
僕が言うと、二人が目を輝かせる。
「じゃ、じゃあ」
「二度目はないぞ」
その言葉に大妖精が何度も頭を下げる。
「ほら、君たちのものだ」
僕はその簪を再び大妖精の髪に戻す。そして、領収書となる紙を一枚、筆を走らせて、チルノに渡した。もし仮に、村人あたりに見咎められたときには、これで答えることができるだろう。
するとチルノは、床に落ちていたビー玉を拾い上げて、重々しく僕に握らせた。
「霖之助のものだよ」
チルノのその言葉に、僕も重々しくうなずいて言った。
「返さないからな」
「もちろん」
「ありがとうございます、霖之助さん」
彼女たちはそういうと、二人とも胸を張って店を後にする。
二人は嬉しそうにお互いを誉め称え、何よりチルノは大妖精の髪を何度も撫でて満足顔だった。
ほら、大ちゃん、願いが叶うビー玉、本物だったでしょ?
チルノがそう言って得意げなのを、何度も大妖精が嬉しそうにうなずく。そして頭上の簪を大切そうに両手で触れて微笑む。
そんな様子を、僕はため息まじりに見送りつつ、宝物を紙箱に仕舞い始めた。価値があるものなんて何もありゃしない。
そう考えて、苦笑した。
いや、赤字には違いない。
だが、あの簪も二束三文で買い叩いたものだ。あるいは、あの簪の主も捨てられるなり陳列されて埃を被るなりするより、喜ぶのではないだろうか。
いや、これも自分への言い訳か。
「これが霊夢や魔理沙なら断れるんだがなぁ」
僕はぼやいて一つ、くしゃみをした。
考えてみれば、先ほどから氷精が緊張のせいか、この部屋の空気を冷やしていたらしい。ふと見ると、せっかくの八雲印のストーブも止まっていた。
やはり、氷精に関わっている場合じゃなかったかな、とそこで自嘲した僕は、寒気におそわれながらストーブを点け直すことにした。
そして、ストーブを待つ間、身体をこすり続けながら、僕は最後のビー玉を見つめた。何でも願いが叶う、誰から聞いた与太話だか。
もちろん、分かっている。あの新聞広告欄の話、あれだ。
そう思って魔理沙の鑑定書に目をやる。それはビー玉についてのもののようだった。
「チルノの主張通り、願いが叶うかもしれないビー玉と鑑定する。霧雨魔理沙。ただし、効力は不明」
その文章に苦笑を浮かべた僕は、魔理沙が妖精たちにせがまれてやれやれと首を振る姿を幻視した。なるほど、魔理沙が騙したわけではないらしい。
確かに、綺麗なビー玉は、幼心には不思議なものにみえるかもしれない。魔理沙だって小さいころは、そんな目でビー玉を見ていたのだ。
そう考えると、あれで付き合いの良いことだ。魔理沙らしい。
次に魔理沙が来たらなんと言ってからかってやろうか、とそのラムネに入っていたであろうビー玉をポケットに入れた。
まぁ、そのくらいの役得がないと困る、と僕は考えながら、もう一度、くしゃみをしたのだった。
4.
一度は春めいて来たか、と思ってストーブを片づけるかどうか迷っていた僕の前に、再び冬のような寒が戻ってきていた。
チルノたちと話していた頃には春が近づいていたという開放感もあったのだが、冬は未だ幻想郷でしぶとく粘っているようだった。
そういえば、西行妖異変のときも冬が長引いていたものだが、あのときと違って、今回は気候的なものなのだろう。でなければ、この暖かくなったり寒くなったり、三寒四温の気候は続くまい。
なんにせよ、昨日暖かく今日寒いという気候のせいか、チルノの相手をしていた時間が長すぎたせいか、体調を崩した実感はあった。
ただ、そんなに悪くなることもあるまい、とたかをくくっているところもあって、仕事は続けていた。
なんとなく喉はいがらっぽいし、身体はだるい、とは思っていたけれど、店を閉めるというとなんだか後ろめたい気分がするのだ。香霖堂は僕の存在そのものだし、自分に何の問題もないのに閉店させるのは、なんだか誰かに責められているような気がする。
客がいないんだから店を開けなくても良いのに、と言うかもしれないが、これは性分みたいなものだから、しょうがない。魔理沙に言わせれば、そいつは勤勉じゃなくて神経症じゃないか、ということになるが、別に誉めてもらおうと思ってやってるわけでもないのだ。
とはいえ、もともと客が少ないことは事実だし、寒が戻って雪が振ると途端に客足は途絶える。いや、もともと少ないために、途絶える客足が聞こえていたかも疑問だ。
客足の響きが聞こえる。
もちろん、幻聴です。ありがとうございました。
「良いのね?入るわよ?」
その声がドアのベルとともに響いて、初めて幻聴ではないことに気付く。軽く雪が振ったせいか、外部の音が消えていたらしい。雪は音を吸収するからね。
「ああ、すみません。どうぞ入ってください」
僕は慌てて答えると、彼女は店の外で身体を叩いて粉雪を落として入店した。冬の寒が戻ってきたというのに、軽装ぎみの青を基調とする洋装のままでいる女性。彼女は店に入るや僕を見つけて、おっとりと微笑みかけてきた。
「こんにちわ、店主さん」
「いらっしゃいませ……、これは珍しい」
相手が客であるかどうかはともかく、珍しい妖怪の来店に手元の本を置く。
「何かご入り用、ですか?」
「ええっと、ご入り用、という訳じゃないんだけど」
そう言いながら彼女、レティ・ホワイトロックは巾着袋を取り出してみせた。
「お支払いに来た、ってところかしら」
「お支払い?あなたに売ったものはないはずですが……」
僕は訝しく思う気持ち半分、それに心当たりを伺う部分が半分あったが、それを口に出すわけにはいかなかった。
無論、そういう約束をしていたからだ。
「そうもいかないわ。あの簪の代金がまだでしょう?」
「ああ、やっぱりあれのことか」
僕は不意にため息を吐いて答える。なるほど、お客ではないのだ、と辺りを決めて僕はぶっきらぼうに言う。
それにしても、チルノらしくもないじゃないか。
「いや、あれは彼女と物々交換したんだ。代金をもらうものではないし」
僕はそう言ってから、かなり重たい様子の巾着袋に指さす。
「それに、そのお金はどうやって調達したんだい?」
「これ?」
レティはずっしりとした重量感のある巾着袋を上下させた。
「ああ、これはちゃんとした対価としていただいたものよ?村の偉い人に氷室を作ってあげた、そのお礼」
彼女はそう言って僕の表情を伺う。
「だから、非合法な手段で入手したわけじゃないのよ?」
「なるほど。氷室ね」
確かに、冬はもうすぐ終わる。その時期に余分に氷を蓄えておこうとすれば、有力者の中にはお金を払う輩もいるだろう。これからの夏を見据えて贅沢品である「氷」を用意するとあれば、これは十分な対価が得られるだろう。
それも、山など遠くの洞窟に氷室を作るのではなく、自宅の近くに「人為的」に氷室を作ってもらえるとあれば。
「そうすると、あの簪の代金のために?」
「ええ。そのつもりなのだけれど」
彼女は僕の顔を見つめて、ふぅ、とため息を吐いた。
「なんだか、ご機嫌斜め、かしら?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
僕は喉のいがらっぽさに軽い咳を放つ。
「なんだかね、色々、もやもやしたものがあってね」
「もやもや、ね」
レティはその言葉を反芻するようにうなずくと、しばらくしてうちの店の椅子に腰掛けた。
「なんとなく、あなたの言いたいことは分かるのだけれど」
巾着袋を膝元において、どうぞ、と僕に手の平を見せた。
「色々、私に言いたいのでしょう?」
「まぁ、ね。僕も君の気持ちは分かるんだが……」
優しい母性を感じさせる笑みに、居心地悪く僕は続けた。
「もともと、あれはちゃんとした契約だったんだ。チルノからは商品代はきちんとせしめたんだ。これ以上の代金をいただくのは筋が通らない。もちろん、君の立場も理解できるよ?保護者的な立場にいたら、相手の店に迷惑をかけたかも、とは思うだろう。なんらか、補償しないと、ってのは分かるさ。でも、うちも乞食じゃないからね、契約外のものは貰えないんだ」
そこまで一気にまくし立てると、彼女はえぇ、えぇ、と孫の言葉を聞く祖母のような物わかりの良さでうなずく。
「なるほど、分かるわ。でも、あの簪、お高いんでしょう?」
「いやいや、あれで曰く付きの物件でね。……聞いていないのかい、チルノから」
僕の言葉に、レティは一転、厳しい表情に変わる。
「あら、店主さんは、チルノが約束を破ったと思ってるの?……あの娘が?」
「いや、そうは思っていなかったんだ。でも、君が知っている理由が思いつかない」
僕が即答して肩をすくめると、彼女は微苦笑を浮かべた。
「なら、良いわ。あなたもチルノが口を滑らせたとは、本心から思っていないようね」
「チルノなら、強情を張って、何を言われても約束を守るだろうからね。あの馬鹿正直さというのは、誉めるべきか叱るべきか、大人としちゃ迷うところだね」
そう、チルノには確かに口止めしたはず。そして、口止めされてそれをすぐに喋ってしまうような奴でもない。
「そこまで分かっているのなら、分かるでしょう。なぜ、私に漏れたか」
「つい、うっかり、ってのがあるのがチルノだと思ってるけど」
僕はそう答えて彼女を伺うと、ゆっくり首を横に振る。
「じゃあ、大妖精か」
「……やっぱりあなた、意図的に?」
「そんなことも、あるかもとは思ってはいたけどね」
見透かすように僕を見つめてくるレティの視線から逃れるように、僕は席を立つ。
「今、お茶を淹れるよ」
「あら、お構いなく」
「いやいや。それこそご遠慮なく。それで、熱いお茶で良いかい?」
「もちろん、冷たいお茶で。私、見かけによらず、猫舌なものだから」
レティは悪戯っぽくそう答える。
「分かったよ。しばらく待ってくれ」
僕の答えに、レティがうなずいて返す。
そうしてしばらく僕がお茶を淹れていると、彼女は待ちくたびれたかのように、店から声をかけてきた。
「店主さん、私がチルノを責めると思ってたの?」
「まぁ、妖精たちのしていることに気付く存在は少ないからね。もし、商品を持っていたら、悪戯したか、盗んできたか、そんなことを聞かれるな、とは漠然とね」
そう、あの妖精たちには親はいないが、親みたいな存在はいたわけだ。冬だけ、期間限定の、優しい母親が。
その母親、レティに聞こえるように少し大声で返すと、喉がきりきり痛む。
「でも、チルノには領収書を渡してあったんだがね」
「だから、私には不思議だったのよ。でもチルノに聞いても、約束で言えない、の一点ばりでしょう?チルノが盗んでない、って言うんだから、盗んでいないとは思ったけれど」
レティはしばらく言葉を選ぶように黙った。
「でも、何か勘違いしていたり、誰かに騙されていたりしたら、どうしようとは思ったのよ」
「勘違い、はともかくだ……」
僕は湯呑みを二つ、一つは自分用の熱い緑茶、もう一つは水出しの緑茶を持って、店に戻る。
「騙す、っていうのは?」
「そうねぇ。村で盗みをした人が、自分の犯行を隠すために盗んだ品物をチルノに渡して、チルノのせいにする、とか」
なるほど、そんなことになれば人間は、妖精退治や嫌がらせをしてくるかもしれない。具体的にチルノに身の危険が及ぶ可能性すらあるだろう。そういう意味では、確かに僕のしたことは軽率なのかもしれない。
「だが、あれは僕が交換したものだ。出所も確かだよ」
「ええ、大妖精から聞いたわ。あなた、敢えて大妖精とは約束しなかったのね?」
僕はそれには何も答えず、はい、っと彼女の手に水出しした緑茶を渡した。彼女はそれを受け取ると、口元に運ぶ。
「この世の中には、不器用な奴の方が多いものだからね」
レティに答えて僕はお茶をすすった。痛みのある喉を熱い緑茶が通り抜ける。痛みは走るが、それが熱さと苦みで洗い流されるようで心地よい。
というか、段々、味がしなくなってきたな。
「チルノはあの性格だからね、聞かれれば聞かれるほど強情になって答えなくなるだろうからね。逆に大妖精はああいう性格だ。チルノがつらい立場になればなった分だけ、我が事のように思って助けようとするだろう。二人が一緒にいれば、まぁ、大丈夫だろうと」
そこまで言うと、レティがやれやれ、と首を振った。
「私は責めるとか叱るとか、そんな気持ちはなかったのよ。でも、心配だったから聞いて見ただけなんだけど……」
多分、保護者的な気持ちで聞いただけなのだろう。
だが、そのときのチルノの反応は想像に難くない。
「レティには言いたいけど、でも言っちゃ駄目だ、って約束したの、……なんて言うのよ。そんな約束する相手が、本当に真っ当な相手か、気になるでしょう?」
真っ当ではないわね、とでも言いたげに含み笑いをして僕を見る。
「あんまりチルノが強情だったから、大妖精が泣き出して答えてくれたわ。最初はチルノが言っちゃ駄目だよ、大ちゃん、なんて言ってたけどね。大妖精は私は約束していないもん、ってチルノに言ってね。大妖精が教えてくれたわ、あなたの不思議な契約について」
彼女は呆れたような表情で僕をみる。
「店主さん、あなた、何か悪いものでも食べたのかしらね?」
「なるほど、風邪はそのせいか」
受け流すように僕がお茶をまた啜る。
「あなたらしくもない取引、じゃないかしら?」
「僕らしい取引かもしれないだろう?」
上目遣いに僕の意図を探ろうとするレティ。
「あなたらしい取引、ね」
「そうさ。何、曰くありげな品物は早めに処理するに限るのさ。さて、ご納得いただけましたら、その曰くありげな巾着袋は納めてくださいな」
丁寧に、あるいは慇懃に僕が言うと、レティは困ったような表情を浮かべる。
「でも、これ、私にはあまり使い道がないのだけれど?」
さすが、冬の妖怪。
言う事が違う。
金銭を指して、使い道がない、などとは。
「チルノや大妖精に渡せば……」
「金銭は、価値の分かる範囲で持っていないといけないでしょう?甘やかしては駄目よ」
「なるほど、同感だね」
レティの育児術、あるいは教育論に僕はうなずいた。
「私もそろそろ春眠、春籠の時期だもの。持って帰るのも面倒だし」
「とはいえ、捨てて良いものじゃないだろう」
困ったわねぇ、とレティは湯呑みを啜る。
「じゃ、あなたに預けておくわ」
「どうしてそうなるんだい?」
僕の言葉に彼女はにっこり微笑んだ。
「だって、あなたチルノや大妖精に言ったのでしょう?今後はお金以外の取引はしない、って」
「言ったね」
「じゃあ、あの子達がどうしても欲しいものがあったときに、これから天引きしたらどう?」
彼女はあっけらかん、とそう答える。
「良いかい?欲しいもの全てが与えられる、っていうのは、子供を甘やかすことと同じだよ?」
「ええ。もちろん。だから、あなたが判断するのよ?これをこの娘たちに売って良いか?」
あまりの言葉に僕はレティをじっと見つめた。しかし、彼女はちっともおかしなことを言っているつもりはないらしい。
「なんだい、その変な責任は」
「じゃぁ、あの簪の代金、ってことで受け取ってくれて良いけど」
「それは困る」
「強情ね?」
レティはそう言ってから、ややあって付け加えた。
「チルノみたい」
「僕は強情じゃない、筋を通しているだけだ」
「……あたい、強情じゃないもの、約束、守ってるだけだもの」
レティがおっとりと、似てないチルノの真似をする。
「そっくりよ?」
「いや、違うね。はっきりと分かる。違うさ」
「そうかしらねぇ」
彼女はいぶかしむように僕をまじまじと見つめた。
「僕は強情じゃなくて、変わり者なんだ」
しれっと言った僕に、彼女はくすくす笑った。
「分かったわ。確かに違う。あなた、チルノより性質が悪いもの」
「それならまぁ、甘んじて」
僕は痛む喉を鳴らして、かろうじて答える。
「じゃあ、はい」
彼女は巾着袋を僕の番台に置いた。
「……君ね、僕の話を?」
「預かり証を、くださいな」
「……うちは土倉の類じゃないんだが」
満面の笑みを浮かべる冬の妖怪を前に、抵抗は無意味だと僕は感じた。
妖怪という類のものは、自分の行動を思い直したりはしないものだ。いや、唯一方法は「懲らしめる」ことだろうが、僕のような文治派で腕力からきしの存在にはそんなことはできない。
あるとすれば、頓知と説得だが、どうやら今の彼女には無駄らしい。
僕は和紙と筆を取り出し、そして中身を数える。
「結構、あるな」
「そうなの?」
僕と一緒にお金を番台に広げながら、数える度に頭をうなずかせる彼女が、しみじみと僕を見つめた。
「私、お金持ち?」
「小金持ち、かな?」
彼女の言葉に僕は軽くうなずく。
ある程度の小銭は紐でくくり、銀貨・金貨の類を紙の袱紗に包んでいく。
「じゃあ、この金額でまず、預かり証を書くけどね」
僕はレティの前で筆を走らせる。
「預かり代は期間ごとに頂くからね?僕が借りたわけじゃない、利子は払わないよ?」
「かまわないわ。でも、あんまりチルノや大妖精を甘やかしても駄目よ?」
本題はそこにしかないのだろうか、レティが心配そうに僕の腕を掴んで言う。なんだか妻が夫に子供の教育方針を伝えているようだな、この光景。
「それなら、定期的にお小遣いを渡すようにすれば良いじゃないか?それ以上は普段は貰えない仕組みにすれば良いだろう?」
「なるほどね。人里の子供みたいね」
彼女は人里の子供を思い出してか、笑みを漏らす。
確かに、人里の子供は1文、2文と手に握って駄菓子屋に行ったり、団子屋に行ったりするものだ。ときにはそのお金を貯めて紙芝居を見たり、人形芝居を見たり。あるいはもっともっと、貯めに貯めて職人が作ったお手玉や竹蜻蛉を入手するとか。それは自家製にはない高度な技術の詰め込まれたものですらある。
「そうやってお金の使い方を覚えていくのさ」
「そうねぇ。私には関係ないけど」
妖怪、レティはぼやくようにそう言った。
確かに、妖怪にとって人間の商行為や交換といった経済行為は意味をなさないだろう。人間が衣食住や文化・社会に束縛され、妖精が自然に束縛されるように、妖怪はその「意味」「存在意義」に束縛されている。
逆に言えば、妖怪は自身の「意味」や「存在意義」さえ把握していれば、人間のように経済行為をすることも、妖精のように自然に制限されることもない。
冬の妖怪であるレティにとって、冬という「季節」の意味に束縛されこそすれ、それ以外に彼女を束縛するものはない。冬以外は春眠・夏眠・秋眠していれば良いのであって、冬にだけ活動すれば良い。
そのときだけ、その意味の中でだけ、彼女はその能力とともに活動するのだ。それは、経済行為や自然に束縛される生き方とは全く違う。
レティは「冬」を体現することを求められているのだ。
……にしては。
「でも、君はお金を稼いできたじゃないか。あの子達のためとはいえ」
「私の能力で稼ぐ方法があったから、だけどね。でも、そのせいで少し寒くなったじゃない?」
レティが舌を出す。
「この寒の戻りは、君のせいかい?」
「まさか。私は冬の終わりとともに去っていく存在よ?もうすぐ春ですもの、冬が永遠に続くことなんてないのだし」
冬来たりなば、春遠からじ、よ?とレティが耳元で囁く。
「とはいえ、寒くなったのは少し私が寒波をいじったからかもしれない。でも、冬は終わるわ。もうすぐ、春が来るのね」
彼女は少し寂しげに、しかし満足そうに言う。
「春が来る、か」
僕はうなずくと預かり証を彼女に手渡す。ようやく耳元の冬の妖怪の息遣いが遠のく。彼女は満足そうに証書を手にとって眺めて、また席に戻っていった。
「そうよ。そうしたら、私もしばらくゆっくりしないと」
「あの子達の面倒を見られるのも、もう少しだけ、か」
僕の言葉に、彼女がうなずく。
「ええ。ただ、あの子達の方こそ、私に付き合ってくれているのかもしれないけど」
妖精達の戯れにつきあっている妖怪。
人の事を変わり者、などと言っているが、彼女も大変なものだ。
「あれだね、君たちの種族はいつも、そう情が濃いのかい?」
僕は巾着袋を整理できて手元ぶさたになっているのか、品物を手に取る彼女に言う。
「私たち?」
「雪女とか、氷の女王とか」
「……あぁ」
レティはしばらく僕を不思議そうに見ていたが、やがて手をたたいた。
「雪女、ね。でもあの娘はこっちの種族でしょ?私は「冬の」妖怪。そりゃ、雪女の一種、みたいなものですけどね。でも、雪女は冬に活動する「雪」の妖怪でしょ?」
彼女の言葉に、僕もまた不思議そうに見つめ返す。
「うん?そこは違うのかい?」
「雪女は確かにとても情の濃い妖怪だと思うし、可愛いとか、可哀想とかは思うけど、冬に主たる活動をする妖怪、であって冬の妖怪じゃないのよ」
「……難しいね」
阿求でもつれてくれば良かったかな、と痛切に思う。
「雪女って、あれでしょ。ある夜、山小屋の老人と青年の枕元に立って、老人は凍死させたけど、青年には自分を見たことを口止めして、消えていく、っていう」
そう、巷間に流布し、有名になったものは確かにその話だ。ギリシア生まれのイギリス人が広めた、世界でも知られる話。
「そして、その後に美女が現れて、青年と添い遂げる。子供もできて一番、幸せな時に、青年が口止めを破ってしまって、彼女を失うのよね」
多分、幻想郷に来て何度も耳にしたのだろうか、レティは立て板に水とばかりに言う。
「そう、その話だね。本当は青年を殺すところだけど、自分と青年の子供のために、青年は殺さない。ただ、青年が子供に酷い目にあわせたらただじゃおかない、って言って終わるんだったかな」
僕の言葉に彼女もうなずいた。いつもこの話を聞くと思うのだ。雪女と青年の子供。半人半妖の子供は、その後どう生きていったのだろうか。
人間として?妖怪として?
半分ずつ、という概念が持つ、普遍的な問題だろうか。
「本当に情の濃い娘よ。だって、人間を一目見て気に入って、その男と添い遂げて、冬以外の季節にもずっと暮らしていたのよ」
私なら眠くなってるわね、とレティが苦笑する。
「人間が食べられる食事を作って、一緒に食事して、夫婦の愛情を大切に守って、嫁姑関係もうまくやって、子供を育てていったのでしょう?」
ある意味、そこまでできる、ってすばらしいことよねぇ、とレティがラブロマンスの感想を言うようにまとめる。
「この国の雪女は、本当に不思議に思えるわ。他の国の雪や氷の妖怪なら、人間と生活することよりも、氷漬にして妖怪の世界で一緒に暮らすことを考えるでしょう」
レティはふっと、鋭い表情で言ってから、僕を柔らかい目で見て笑って言う。
「なーんて、思わない?」
「思うのかい?」
僕の質問に、彼女は何も答えない。
確かに、氷・雪の女妖怪に共通したものがある。それは「男を氷漬けにすること」だ。考えてみれば、冬に氷や雪が見られる世界では、そうした存在は普通のもののように受け止められたのだろう。
冬の猛吹雪にあっても、生活のために外出するのは男の仕事だったろう。そして、外出した男が凍死する。凍死した姿は普通の「腐乱していく死体」とは異なり、綺麗な姿で封じ込められるものだ。
その死体を見た者はみんな思ったのだろう。男に恋した氷の、あるいは雪の妖怪が彼を自分のところに拐ってしまったのだ、と。外傷のない死体、場合によっては感覚が麻痺した結果として多幸感の中で死んだ男の凍死体は、何者かに愛されたがために魂を奪われた死体に見えたはずだ。
だからこそ、各地の氷や雪の妖怪は、時に残酷で時に理不尽で、また男を大量に死に追いやる。それは「寒さ」の象徴であり「凍死」の象徴であるからだ。
そして、凍死の特徴である「優しい麻痺する死」はもっとも人間の姿をとどめる「優しい死」にすら見える。
無論、そこから生還した者にですら「凍傷」という恐るべき後遺症がその全身に疵痕を残すのだが、向こう側へ行ってしまえば、それは穏やかな死となるかもしれない。
「甘き死」。
ケーキの名前ではないが、なかなかに魅力的な響きだと思う。先人によればもっともすばらしい死は酒で泥酔した上での凍死なのだというらしいが。
残念ながら、僕は死んだことがないので、何ともいえない。
何にせよ、人間たちは古来から凍死する男の姿に、雪や氷の純白なイメージを重ねて美女の妖怪との愛情を見いだしたのだろうか。やや、病んだ愛情ではあるが。
「そうねぇ、不思議なのはね。大人の男だけじゃないのよ?子供もときには、冬の世界の中で事故にあったりするの。それも人間は思うのね。あいつ等が連れ去ったんだろう。あの子は愛らしかったから」
確かに、そうだ。子供も時には事故にあう。
誤って凍死することもあるだろう。
それを見た人々は思うのだ。
氷・雪の女が連れ去ったんだ。あんまりに愛らしくて可愛くて、一人で孤独にしているのが可哀想だから、自分の子供にしてしまおう、と。
なんとも情の深い妖怪ではないか。そして、その考え方がどこか病んでいて、しかしどこか熱いものを秘めているように思える。
氷や雪の女妖怪が、美しく、軽装で、情熱を秘めていて、少々病んですらいるのは、それが冬の純白の姿に共通するイメージなのかもしれない。一方で、雪男は、動物的で、毛むくじゃらで、少々滑稽に見えるのは、冬の中で生活する動物としての側面ばかり重視されたからなのかもしれない。
そう考えると、雪・氷の自然側面を象徴した女妖怪と、雪・氷の中で生きていく生物的側面を象徴した男妖怪との対比は面白く感じられる。なぜ、こんな分け方になっているのだろうか?
「私はそこまで情熱的ではないでしょう?私は「冬の」妖怪なのよ。もっと広くて、曖昧で、ぼんやりとした」
彼女は物思いに耽っている僕に、語りかける。のんびりした口調はなんだかとても心地よいものだった。徐々に寒さが麻痺していくような、そんな心地よさで。
「氷や雪は、すぐに人の死に直結するのね。だから、人は恐れるのね。それに氷や雪は純白だったり透明だったり、純潔で美しいわ。だから、人は美しいと思うのね。そして触ればとても冷たくて、ときに痛いくらい。だから、人は冷たい、鋭い、痛い、などと思うのね」
彼女は繰り返すように、民話でも語るように言う。
「でも、「冬」はそれだけじゃないわ。寒い氷と雪の中にある「暖かさ」も冬なのよ?猛吹雪の中のペチカ、しんしんと積もる雪の中のこたつ、冬晴れの底冷えの中のストーブ。どれも冬でしょう?雪に音を吸われた静かな世界で響く沸騰したサモワールの音、吹雪の中のトロイカのベル、暖炉の中で煉瓦をたたく引っかき棒の音。たっぷりと栄養を取った熊がどこかで冬眠していて、秋に堅い殻をかぶった種子が土の温もりの中にくるまって、魚たちは氷の下で眠っていて、根菜は土のすみずみに根を広げて、春に大地を潤す氷が、山で雪解けを待っている。冬に蓄えられた氷が、春の日差しで溶けるから、山は緑なすことができるのよ」
レティはうっとりと陶酔した目で僕をみる。
底冷えし、身体の芯まで凍えるような季節だからこそ、その中に生きている生活の温もり。死の世界の中で浮かび上がる、暖かい生活の世界。
「くすんでどんよりとした灰色の不機嫌な雲も、体中を切り裂くような凛とした朝の冷気も、猛烈に身体に吹き付ける吹雪も、外套に降りかかった途端に溶けてしまう粉雪も、全部、冬なのよ。ただ寒いだけじゃなくて、その寒さに濃淡があるのよ。春みたいに鮮明じゃないけど、白・黒・灰色、モノクロームの美しさは魅力的だと思わない?」
確かに、春は鮮やかな暖かい色に満ちていて美しいし、それに対して冬はどこか色彩に乏しい印象あがって、白黒に近い。
それでも、その色遣いは必ずしも均一ではないのかもしれない。モノクロームにはモノクロームの美しさが、当然あるのだろう。
「毛皮の外套を着て粉雪で包まれた姿で仕事から帰ってくるお父さんやおじいさんも、暖かい手料理を作って毛糸の服を編んでいるお母さんやおばあさんも、両手をくるんでくれたり息を吹きかけて手を暖めてくれる兄弟姉妹や友人がいるのも、暖炉の前でおとぎ話をせがむ子供たちがいるのも、全部、冬なのよ?」
彼女の語りは、まるで僕がそこにいたような風景を幻視させてくれる。とはいえ、僕の家族と言っても、それは……。
「ねぇ、想像して、川魚にたっぷりのバターをかけて、包み焼きにするの。包みの中のバターの黄色いスープの中で浮かぶ、魚の身とタマネギとエノキダケ、それにレモンの汁が少しかかったご馳走を。ねぇ、想像して、人参、ジャガイモ、タマネギに塩漬け豚肉、たっぷりの牛乳とクリームで作ったシチューの中に具材を木の杓子で掬って熱々で食べる姿を。ねぇ、想像して、カリカリに焼いたパンを溶けたチーズの中に入れて、たっぷり付けて食べるのを。溶けたチーズが糸を引いてパンとともに伸び上がっていく姿を……」
なんだか、幻想郷的ではない、とても西洋的な光景ではある。
だが、それはとても暖かい姿で、次々とまるで走馬燈のように映し出されていく。あるいは、風邪の熱のせいなのだろうか。
「ねぇ、冬は氷と雪だけではないでしょう?冬は冷たいだけじゃないのだもの」
彼女はそう言って、うとうとし始めた僕に微笑んだ。
「眠いの?店主さん」
「いや、少しだるいだけだよ。それにしても……」
彼女が語った言葉はどこにでも寒さがあるはずなのに、それだけではない何かがあった。
彼女が操るのが「寒波」だとして、そこに彼女はそれ以上の意味を見いだしているのかもしれない。あるいは、それ以上の意味が、彼女にとってのチルノや大妖精たちとの生活なのかもしれないし、冬に幻想郷を訪ね歩くことなのかもしれない。
「なんだかこう聞いてくると、冬が素敵な季節に聞こえてくるから不思議だな」
「あら、冬はみなさんおなじみの恐ろしい季節に決まってるわ」
彼女は打って変わって、似合いもしない悪人風に言う。
「冬の寒さは言わずもがなね。弱い老人、子供、病人、貧者に等しく凍死を与えるわ。凍死でなくても病死を招くのは寒さを与える冬なのよ?冬の乾燥した空気は火事を起こして家も人も焼くし、伝染病を巻き起こすもの。いつだって病気の大流行は冬に起こり続けるの。食べ物だって収穫できるものはほとんどなくて、餓死者がでるのも冬。雪や冷たい雨で泥土になって、人々の足をぬかるみに止めるのも冬。いえいえ、なにより雪や氷が人を封じ込めるのは、もちろん、冬よ」
レティが力強く言う。
「そうそう、ついでに言えば、お正月に餅を食べて喉を詰まらせるのも冬よね」
永遠になくならない死因、我々の宿痾。
美食の中の美食、喉越しを楽しむ「餅」の誤嚥。これは最も恐ろしく、最も苦しい死に方なのに、なぜか無くなることはない。餅というものは、遺伝子レベルで我々に刷り込まれているのだろうか。そう考えると、ちょっとした中毒のように思える。
「いわばね、人の死の黒幕は、冬なのよ」
「とすれば、冬は残酷な季節だね」
別に餅の誤嚥は冬のせいではなく、餅という食べ物の魔性の魅力だと思うのだが、それはそれとして、冬の時期の死因ではあるので、僕も苦笑してうなずいた。
「あら、でも不思議ね。残酷な季節は4月、じゃなかったかしら?」
レティが微笑む。
「春、かい?」
「そう。最も残酷な季節は4月。土にくるまれていたライラックの種を咲かせるから」
彼女は歌うように言った。何かの詩を暗誦するように。
「こういう事を言う人っているわよね、母親の胎児でいるときが一番幸せだ。母親に包まれている安心感の中でいられるから。あるいは子供の頃が幸せだ。それは周囲の大人たちが善意で守っていてくれるから。あるいは夢を見ているときが幸せだ。それは現実から自分を守ってくれるから」
なるほど。
確かに、人間の中には何かに守られている、あるいは守られていた、と信じるに値するときがあるのかもしれない。そして、その自分が体験したかどうかすら怪しい「原風景」に幸福を見いだす人もいるのかもしれない。
もちろん、成長するにつれ、自我が目覚め、守られていることをすら快く思わないようになることもある。反抗期はやがて独立につながっていくだろう。
にも関わらず、人は大人になっても神仏やご先祖様、先に逝ってしまった大切な人に守られているとも感じるのだ。
ことほど、自我というのは勝手なものだとも思える。
「それと同じ事よ。4月になれば、春になれば、種子は芽吹かないわけにはいかない。そのまま腐って死んでしまうから。どんなに冬の大地の中が暖かくて、居心地が良くても、種は芽吹かなければならない。それがどんなに残酷なことに思えるか」
レティが詩人を代弁するように続ける。
「もちろん、夢見るままではいられないでしょうけど、夢を見ることができた幸福を疑うなら、春は残酷な季節としか思えないわね」
僕はレティの芝居がかった仕草に、微笑んで返す。
「それでも春は、気候も暖かくて、種子が芽吹いて、樹木の枝に満開の花が開く、その姿が目にも艶やかな季節だよ」
人間お気に入りの季節、と言っても良いだろう。
「そう。とても素敵で、とても明るくて。まるで冬なんてなかったかのように振る舞うのよね。だから、ときに眩しすぎると思うけどね」
レティが僕の意地の悪い言葉にうなずいた。
「桜が咲いて、春が来る。いえ、春が来たから桜が咲くのだったかしら」
遠くを見つめるような目でレティが言った。そう、彼女たちは春度を集めて桜を咲かせようとしたのだった。
「山に来て、里に来て、野にも来る、のね」
「まぁ、まだ少し、冬が残っているさ」
僕はレティを気遣うように言うと、彼女は分かってる、とばかりに元気よく立った。
「そうね。残りの時間を満喫するとしましょう」
あの子達にも会いに行かなきゃいけないし、と微笑む。
「ああ。そうすると良い。ついでに、この預かり証のことも伝えておいて」
僕がくしゃみをしながら言うと、彼女はうなずき、しばらく何か言うまいか、逡巡した。
「どうしたんだい?」
「あなた、もう少し強くストーブを焚いた方が良いわよ?」
「そうかい?」
「長話に付き合わせた私が悪いのかもしれないけれど……」
レティは僕の傍に近づいて、その冷たい白い手を差し出した。
「顔色がとても悪いのよ」
「……いつも、そう言われているからね、たいしたことじゃない」
僕の額に手をふれた彼女は、じっと僕に顔を近づかせる。
「あんまり、無理しては駄目よ」
母親のような表情になって彼女は言った。なるほど、チルノや大妖精にもこんな感じで接しているのか。
「分かってるさ。先日、永遠亭の薬売りからもらった薬もあるからね。少し、安静にすることにするよ」
せき込みながらそんなことを言うと、彼女は暫く心配げに店の中を見回した。
「ほら、もう行くと良い。あの子達が待っているよ。あの子達の期待を裏切っちゃいけないだろうし」
僕は今にも何かを提案しそうになるレティの背中を押すように、微笑んで言った。彼女が何度か振り返る度に、僕は手を振ると、彼女はため息混じりに出て行った。
僕はしばらく彼女が出て行った後、ぼんやりと佇むと、やがて戸を閉めることにする。
「閉店」の札を出すために。
母親のような忠告をする人には、逆らわない方が良いのだから。
5.
愚かさにも色々な種類がある。
具体的には、過去に学ばない、他人の存在を無視する、忠告を聞かない、同じ事を繰り返す、危険・失敗を想定しない、備えを用意しない、できるつもりになっている、などなど。共通するのは、事前に努力していない、ということだ。
分からない・できないこと・失敗することが愚かさではない。そうではなく、なぜ分からないか、なぜできないか、なぜ失敗するかを問わないことこそが、愚かさなのだ。
よろしい、結論から言おう。僕は愚かだった。
少しばかり、風邪を甘く見ていたのだ。風邪というものは、もともと発汗・発熱・喉の痛み・頭痛・下痢・咳・身体の痛みを伴うが、まぁ、しばらく安静にすれば徐々に治癒に向かうものだ。逆に言えば、滅多に悪化することはないのであって、家で安静にし、薬などを服用すれば普通、自然治癒力によって回復するのが本当だ。
そう、今まではそれでうまくいっていたのだから、何か疑問に思うことがあるだろうか。今回もそれで乗り切れると踏んでいたし、事実、それほど体調も悪くなかった。永遠亭の薬売りから、「万病に効く」という風邪薬を買って服用もしていたから、ある程度安心感もあった。ある程度なのは、鈴仙に言わせると人間用にしろ妖怪用にしろ、あなたには半分しか効かない可能性があるので、と説明する部分が気になったからではある。
ちなみに、効かない半分の成分は「優しさ」だそうだ。あの人当たりにむらのある月兎は、ときどきおかしいことを言うので困る。普段は穏やかで実直な気性に見えるが、ときにこう、説明に困るような感じになるのだ。
とはいえ、薬の成分の半分が抽象的概念でできているなど、納得いきかねるのは確かだ。それでも、それに頼らざるを得ないのが現状だ。
店を閉め、布団の中で寝込む。本当はストーブを付けるべきなんだが、眠ってしまって一酸化中毒死というのでは笑えない。ついでに言えば、食事を作るために火を付けるのも億劫だったせいで、現在の暖房器具は布団と湯たんぽのみである。付け加えるなら、自分自身も発熱してはいた。
眠るかせき込むか、ただ頭痛に悩みつつ朦朧とするかの選択肢しないわけで、こういうときは孤独な自営業者の身の上の寂しさが分かる。
もともと客足の乏しい香霖堂だ。店を閉めていても、店に来る客自体が多いわけでもない。幸いなのか、不幸にもなのか、閉じた扉を強引に開くような来客も闖入者もなかった。人、あるいは妖怪に感染させる可能性がある以上、あまり他人に触れない方が良いのだから。
そう考えていても暇は暇、それでいて頭痛のせいで書物を読むことも手作業もすることもできないとなると、退屈と疲労感で神経がやられる。
元気なときは孤独も楽しいが、病を得ると途端に人寂しくなるのは、我ながら我が儘だとも思う。
まぁ、なんにせよ、冬の風音と自分の気管支の咳からでる、ヒューという音を子守歌に僕は眠り続けることを望んでいた。だが、半人半妖である僕が冬眠をするのは難しいようで、眠っても眠っても、すぐに起きてしまう。そしてそのたびに時計を見ては、時間が経っていないことや症状が続いていることに失望するのだ。
それでも、痛む関節を動かして寝返りを打ち、とにかく目を閉じていた。そうすれば、いつか回復するだろうと信じて。
ふと、目が覚めた。
というより、意識が戻った、という感じだろうか。
目を閉じたままで、何か意識だけが戻ったような感じだ。
これで今日は何度目だろう、また眠らなければ。
そう思ったときだった。
自分がなぜ目が覚めたのか、分かったのは。
店の中に気配があるのだ。
いや、もっと正しく言えば、僕のすぐ傍、枕元。
「……」
それはかがみ込んで、じっと僕を伺っているような気配がある。
「……」
そういえば、先日レティとした話もこんな話しだった。あのとき、青年である巳之吉は助かった。しかし、年老いた茂作は雪女の手で凍死させられたのだった。
だとすれば、半人半妖の僕は、どっちになるんだ?
「……」
このままではどうにもならない。意を決して目を開ける。
「……起きたの?」
そこには眼鏡をしていない僕にも分かるほど、近い位置に顔があった。
「どっちだろう?」
「どっち?私が?」
不思議そうに首を傾げる彼女に、僕はかろうじて首を振った。
「いや、僕の方が」
彼女の顔を見たとき、僕は考えるのをやめた。聞いてしまった方が早いと思ったからだ。しかし、彼女は僕のその質問に、怪訝そうな顔をした。
「夢でも見ていたの?」
「そうじゃなくて……」
心配そうな声で聞く彼女に、眼鏡なしのぼやけた焦点を集中させながら答えた。
「僕は茂作なのか巳之吉なのか、だよ」
「……私は雪女じゃないと言っているでしょう」
あくまでその一種ですから、とそこまで言うと笑って立ち上がる。もう少し寝ていた方が良いのじゃないかしら、くるりと背を向けて部屋を出て行った。
彼女が障子を閉じるのを僕は目で追っていた。
「それにあなた、茂作のように年寄りには見えないし、巳之吉のように不憫っていう感じでもないでしょう」
その障子に映る影は、眼鏡がないせいか、ぼんやりしている。それの影が映っているということは、店側に明かりがついている、ということだ。そして、部屋の暖かさを感じるということは、ストーブを焚いているということでもある。
「……」
彼女は、店で何かをしていたが、さらにまた、違う部屋へと移動していく。その様子は漠然と障子に写り、影絵のようにも見えた。そのシルエットを確認するために、僕は気怠いまま、眼鏡を手に取る。
本来、その影は不法侵入者だと言える。本当ならもっと恐怖や身の危険を感じるはずだ。実際、彼女自身が言うように彼女は雪女ではないかもしれないが、目的は不明なのだから。
しかし、風邪のせいか、あるいは彼女の気性のせいか、そんな疑いを持ちはしなかった。第一、彼女が僕に悪意があったとして、今の僕にはどうすることもできないだろう。
重要なことは、相手は僕のすぐ傍にいたのに、害をなすことはなかった、ということだ。
彼女、レティは一体、なぜここにいるのか?
眼鏡をした僕に見えたのはまず、時計だった。
時間は夜半を指していて夕食時だ。そして、障子の向こうに何かを持って来るレティのシルエットが見えた。
「どう、気分の方は?」
眼鏡をした僕の目に映った彼女は、やはり間違うことなき冬の妖怪だった。
「ああ。だいぶ良いよ。……それで君は何でここに?」
僕の言葉に彼女は目を瞬かせ、不思議そうに目の前のお盆を掲げて見せた。
「はい、これ」
「これ?」
彼女はお盆を僕の枕元の畳の上におき、鍋の蓋を開ける。
「お粥。食べるでしょう?」
「ああ、ありがとう」
久しぶりとなる暖かい食事を前に、僕はただうなずく。僕の反応にうなずいた彼女は畳の上で正座すると、お粥をお椀によそい始めた。
「和食派でない私には難しかったのだけれど」
オートミールみたいなものよね、と言いながら、彼女は鍋の中のお粥を、少しづつこぼさないようお椀に移す。
「ミスティアが言ってたから、これで良いと思うのよね」
よろよろと起きあがった僕に、レティはお粥と匙を手渡してくれる。
「ありがとう、その、看病してくれている、のかい?」
「それ以外に何をしているように見えるの?」
彼女もまた、僕に聞き返した。
「いや、君が僕を覗いていたときには、さすがに肝が冷えたものだから」
「凍死させに来た、とでも?でも、ストーブも焚かないでいるんだったら、あなた自然に凍死していたんじゃないかしら?」
「そうかもしれない」
とはいえ、半人半妖の身でそう簡単に死ぬものでもない気もする。
「でも、君が僕を凍死させようとするなら、簡単だろう?」
「それは、まぁ、そうかもね。でも、今のあなたならチルノでも凍死させられるんじゃないかしら」
そこまで酷い病状かな、と思わないではないが、僕は有り難くお粥を受け取った。病は人の気を弱くさせるから、あるいはあり得る話かもしれない。
「てっきり僕に死期が来ているのを見て、介錯とばかりに君が僕を凍死させに来たのかと思ったんだが……」
「多分、その場合には私の前に死神が来てるんじゃないのかしら?」
レティはそう答えて、湯飲みに生姜湯を注ぎ始めた。残念ながら、鼻が詰まっている僕にはその香りがしてこないが。湯気が立つ様子には暖かみがある。
「あの死神が、かい?彼女はサボリ屋だからね。ついでにこんな寒い日に外出なんてするのかな」
「なるほど、それだと幻想郷の冬は、ほかの場所より人死が少ないのかもね」
そんなことを言ったら、一年中少ないことになってしまう。いや、小野塚小町もサボっていないところでは、せっせと仕事をしているのかもしれない。その正確な比率は分かりかねる。
「さ、あなたを凍えさせるために来たわけじゃないのだから、安心して」
そう促されて、匙で掬って食べたお粥は暖かく心地よいものだった。
味について評価できないのは、鼻づまりや喉の痛みのせいだ。だが少なくとも、病人が食べてのたうち回るようなものではなかったので、とても有り難い。
こうして僕が問題なく食事しているのを見て安心したのか、レティはまた席を立った。
「レティ?」
「ああ、洗い物をね、店の中に広げているものだから」
彼女は微笑みながら障子を開いていく。すると、そこにはため込んでいた服や下着の類が、店の道具と相まって干されていた。
「……すごい光景だな」
「ストーブで乾かせるし、ある程度湿気にもなるしね。ちょっとした加湿器代わりね」
彼女は楽しそうに僕の言葉に答えると、洗い物の残りを道具屋の中の空間にまた広げ始める。
「湿気で駄目になりそうなものは、奥の部屋に置いておいたわ」
「助かるな。けれど、何もここまでしなくても良かったんだが……」
おそるおそる僕は言う。好意は有り難い。好意は有り難いのだが。
いや、大の大人の男の洗い物など、他人にさせるものではない。それも冬の妖怪相手とあってはなおさら恐れ多い。
「別にそんなに手間というわけじゃないから」
そう言った上で、レティは何かを思い出したようにこちらに向いた。
「で、結局、あれからずっと倒れてたの?」
あれ、というのは前回、レティがお金を払う、と言ったときのことだろう。
「まぁ4日くらい、かな?」
「その間、食事はどうしてたの?」
「干し米とか味噌玉とか、まぁ、そうした保存食で」
僕が答えると、レティは真顔で僕を見つめた。
「……胃腸が弱ってるときに?」
「……返す言葉がない」
「呆れた」
本来、暖かい食事をするのが原則なんだが、面倒くさいし火の始末も大変だと思っていい加減に済ましていたところはある。
正直、身体を動かしていないからあまり空腹感はなかったのだ。だからといって、栄養を取らないで良いということではないんだが。
「……誰かを頼れば良かったのに。あなたなら、頼る相手はそれなりにいるでしょう?」
レティがやれやれ、といった表情で続ける。それなりに、というのは正しく僕を評価していると言える。たくさん、ではない。
それに。
「誰か、と言われてもね」
香霖堂の位置は人里や魔法の森、博麗神社などから程良い位置にある。逆に言えば、程良く行きにくいところ、とも言える。どこから人を呼ぶ、と言ってもそう簡単なことではない。
「心当たりはないし、第一、誰を使いに出す、っていうんだい?」
僕自身で行く、というのなら、永遠亭で入院した方がましだろう。ただし、その前に迷いの竹林を抜けていく必要があるんだが。病身には少し気が重い仕事だ。
「孤独死の典型例ねぇ」
一人で頑張れるうちには誰も頼らず、いざもう駄目だというときには連絡する気力も残っていない。孤独でいるということは、そのギリギリの線で他人を頼れるかどうかにかかってくるわけだ。
「たまに訪れてくれる気の良い友人が、気付いて見つけてくれるパターンかな」
幻想郷の影でひっそり孤独死した自営業店主。話しかけても返事がない、ただのしかばねのようだ。閉店状態にあったのは知っていたが、まさか、実際その中で死んでいたとは誰も思わなかった。
見つけてくれるのは、魔理沙か霊夢あたりだろうか。
ありそうな話である。
文あたりが飛びつきそうなネタかもしれない。いや、こんな社会派な記事では地味すぎるだろうか。
「その上、そうなってもたいして悪いことだと思っていない辺りに、あなたの罪深さを感じるわね」
レティがため息混じりに総括しながら、洗い物の残りをさっさと干していく。それを眺めながら、僕は鍋に残っていたお粥も食べ尽くしていき、そのまま生姜湯を啜った。こうしてみると、空腹を感じなかっただけで、実際は腹は減っていたらしい。食べれば食べるほど、お腹が空いていることに気付くやつだ。
「あら、完食?」
レティは干し物を終えると、こちらに来てにこにこ微笑んだ。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
僕が頭を下げると彼女もそう答えて頭を下げて、お盆を回収する。
「いや、食器はそのままにしておいてくれ」
「もうここまでしちゃってるんだから、良いじゃないの。ほら、また寝てなさいな」
彼女は促すように視線を向けた。
「だが、ここまでしてもらうと……」
「申し訳ない?別に気にする事じゃないのよ」
はいはい、と聞き流すように背を向けるので、僕も思わず言わずもがなのことを言ってしまう。
「……恩返し、かい?」
「……そうねぇ。それが本当なら、最初にこの障子は開かないでください、って言っておくべきだったわね」
レティは苦笑いするような声で答えた。
「気にしないで、というのはあなたには無理そうだから言っておくけど、これは恩返しじゃないし、チルノが買った商品への代価でもないわよ」
障子を片手で閉めて、影になった彼女が答える。
「これは単純なことじゃないかしら。いわば、ただの人助けね」
冬の妖怪は笑いの成分を含んだ声で続ける。
「あなたは商売人で代価とかにこだわるのでしょうけど、私はただの妖怪なのだし。対価とか、そういうものは求めないのよ。妖怪ってのは理不尽なものなんだから」
彼女はそこまで言い終えて冬の夜の水場に向かう。台所で、食器を洗うのだろうか。
「……いえ、私も妖怪だものね、なにか大変なものを要求した方が良いのかしらねぇ」
レティが暢気な声で僕に語りかける。
「大変なもの?」
「ああ、別にあなたの心とか、喜怒哀楽の感情とか、あなたの空想上の恋人とか、若さとか、大切な仲間たちとの絆とか、そういう精神的なものじゃなくて」
水飛沫の音などが聞こえる中、楽しそうに言うレティの声が響く。
「いろいろあるでしょう?子供が16歳になったら貰っていく、とか、親の形見とか、幼なじみの羽帽子とか、肉1ポンドとか」
それだって十分、物理的じゃなくて精神的なものだと思うのだが。
レティは大変なものを要求してきました?
確かに妖怪がそうした恐ろしいモノを代償として求める話は良く聞く。人は超自然的なものに力を借りるときには、代償が付き物だと考えるらしい。それは妖怪だけでなく、神や悪魔、その他さまざまなものに共通している特徴ではある。ときには人間同士ですら、人に恐ろしい代償を求めるものだ。
「せいぜい僕にあるのは店の商品くらいだけれど」
「あら、それじゃあ代価になっちゃうわ。つまらないわねぇ」
レティはそう答えると、しばらく食器の音だけが響く。そして、水の音がしなくなると、手を布で拭いてレティが戻ってきた。自分の分とは別に、湯で濡らして絞った布を持ってくる。
「はい、身体を拭いてね。着替えはこっちにあるから」
「……ありがとう。あとは自分でできるよ」
「ええ。そのつもりよ?それとも拭いてほしい?」
彼女は悪戯っぽく笑う。思わずにらみ返すと、彼女は訳知り顔でうなずいた。
「はいはい。それじゃ、私はあの子達のところに戻るとしましょう。ストーブは消せる?それとも私が消して置いた方が良い?」
「消しておくよ。干して貰った服を乾かす必要もあるからね」
彼女はうなずくと、続けた。
「それじゃ、また明日来るから、干してあるものはそのままにしておいてね」
「……明日?」
僕が素っ頓狂な声を出すと、彼女は微笑んだ。
「だって、これで放っておいたら、中途半端でしょ?」
「いや、もう、十分してもらった。本心から感謝しているんだ」
これは嘘じゃない。
「それはあなたから見たら、そうでしょうね?あなたの中では」
僕の驚いた表情を見て、なぜかレティは満足そうにうなずいた。
「でも、私の中ではそうじゃないのよ。今日だけ親切にするのなら、ただの気の迷いになってしまうでしょう?人助けだもの、私が納得するまで、余計なお世話をさせてもらうわ?」
そういうと、にこやかに僕の方へ手を出す。
「なんだい?」
「鍵、頂戴」
…そうだった、彼女はどうやって鍵もなく、この部屋へ……。
「ああ、簡単よ。雪を鍵穴に詰めて、外まで出したものを凍らせて硬めて回したの」
……。
「それ、錠前は壊れていないかい?」
「大丈夫、みたいよ?お湯をかけたら元通り?」
……しばらく僕は彼女の目を見つめていたが、彼女の鉄壁の微笑みは崩れなかった。
「ちょっと待っててくれ」
僕がよろけながら立ち上がると、彼女は介助するように僕に寄り添う。あのストーブを焚いた部屋にいたはずなのに、彼女は冷気をまとっていた。にもかかわらず、それは悪寒のような不愉快な印象ではなかった。
「ほら、これだ。錠前が壊れてなければ、これで開くはずだよ?」
「……大丈夫、錠前が開かなかったら、完全に壊すから」
強い金属も寒暖差には弱いのよ、と笑って言う彼女はどこまで本気なのか。僕が手渡した鍵を楽しそうにひらめかせ、彼女はそれをポケットを仕舞った。そして店に向かって出て行くと、マフラーらしきものを首に巻く。その姿は颯爽としていて、僕は箪笥に寄りかかりながら、なんとなく見惚れる。
「お節介だけど、もう少しだけね」
僕に晴れやかな表情で言い切った。
「もうすぐ、春が来るわ。もう少しでね。それまでだけよ、……それまでだけ」
彼女はそういうと、扉を開いて出て行く。外はしんしんと粉雪が降っていた。積もらない類の雪だ。今日は晴れの日だったはずなのだが。
もうすぐ春だというのに、その天候にはまだ、どこか冬の名残があった。
6.
結局、それから僕はほんの数日とはいえ、レティの世話になることになった。
幸いなことに、錠前は無事だったようで、合い鍵は十分役に立っているようだ。
とはいえ、ずっと来ているわけではない。
寒くなるとやって来て、ストーブを焚いて夕食分を作り、翌日の朝食用の食事を作っていくだけだ。その間だけ適当に僕と話をしながら、店の椅子にかけて編み物なんかをしている。
なんでもそれ以外の時間は、帰ってチルノや大妖精たちと最後の数日を過ごしているのだそうな。ときどき、彼女たちの話を聞かせて貰ったりする。
そういう意味では、チルノや大妖精との貴重な時間を浪費させている意味で、逆に申し訳ない気分にもなる。
だが、看てくれる人がいるおかげで、実際体調が良くなっているのは確かだった。一人で籠もっていると気分も落ちていく一方だが、彼女が来て話し相手もしてくれるので、気分も良くなる。まぁ、一言で言えば、甘えっぱなしということになるのか。
我ながら、少々気恥ずかしい。
彼女もそんな気持ちを察してくれているのか、あまり長居はしない。それだけに何か申し訳ない気分にもなる。彼女は自分が雪女とは違うのよ、と言うが、今の状況は十分に情の濃いように思えるのだが。
「で、あなたはそんなに雪女が好きなの?」
「好き、というか、不思議だな、と思うんだ」
僕はいつも通り、雪女・冬の妖怪論争をしている。レティは僕のしつこい話にあきれ半分で答えていた。
「だって、愛らしい、自分にとって年端もいかないような存在を見て不憫だと思ったんだろう?その上にそこで恋をして彼の前に現れて結ばれた。子供まで作って幸せだった」
それを母性と女性の愛が重なった深い愛情と見るか、年下の青年に恋した年齢不詳の年上女性の妄執と見るかで、この物語も全く違った話に見えるが。
まぁ、どちらにしても、雪女が本気であったことは確かだろう。
「そうなのよね。西洋とは違って、東洋の妖怪はみんな、人間と家庭を作るわよねぇ」
レティが不思議そうに言う。編み目を数えながら、それでも僕の話に律義に答える。
「まぁね、震胆でも狐や幽霊と結ばれる科挙の受験生の話は多いし、本朝でも雪女だけじゃなくて幽霊や柳の精なんかと結ばれて子供を作る話があるね」
なぜかしらね、とレティが首を傾げる。
「西洋だと、妖怪が恋した人間は連れて行かれたり、殺されたり、戻ってこれなったりするのに」
あれかしら、あっちの妖怪は直接的なのかしらね、そう言ってレティが笑う。
「東洋の妖怪は婚家に嫁ぐものね」
レティがそこまで言って、ふっとため息をついた。
「嫁姑問題がうまくいく、って必ず物語られるわよね。とっても良いお嫁さんだ、って。ローマ、ギリシア、ケルトやゲルマン、スラヴの話で、嫁姑間に注釈を入れる話なんて、聞いたことがないもの」
そう言って楽しそうに編み物をまた続けて言う。
「こっちの妖怪は、人間の生活が好きなのかもしれないわねぇ」
そう言えば、二口女もそうだったな。彼女も思えば、人より働き者で、人より食べるだけで、夫にとって悪い妖怪だったのだろうか?
「雪女もそうだったのかな?」
「そうかもね。氷の妖精や雪の女王は、決して人間に嫁いだりしないわ。面倒くさいもの」
そして、嫁姑の間で頭を悩ませたりも。
たいてい、西洋の妖怪は相手を自分のものにしてしまう。その方法は、ほとんど人間の死と同義語だ。勿論、人魚姫のような例外はいくつもあるにしろ。
「でも、こっちの娘たちが可哀想だと思うのは、たいてい幸せな最後までたどり着かないこと、かしら」
「そうだなぁ。雪女は自分を見たことを言うな、と誓わせた。その誓いをやぶった時、夫と子供を捨てる。絶対に愛していたはずなんだが」
そう、子供を。
正しくは、半人半妖の子を。
「それも、雪女の子供だと知ったからって、いじめたりしたら許さない、って釘をさしてまでね」
「そこまで考えていたのだから、本気だったのよ。そして、いつかその日が来るって心のどこかでは思ってた」
レティがしんみり言った。
「ならなんで、そんな約束をしたのかな。大切な人を捨てる約束なんて」
「……人魚姫なのかもしれないわね」
レティが想像するようにつぶやく。
「人魚姫?」
「彼女は何かを代償にして、何かを得た。物語の魔術の鉄則ね。彼女が声を失って足を得るように、雪女も約束をした代わりに結ばれて、約束を破られるとともに絆を失うのよ。もしかすると、最後まで約束が守られるかもしれない可能性に賭けて」
彼女はしばらく黙り込む。編み目をまた、数えていたようだ。
「でも、子供が」
「ええ。でも、不思議ね。人間と妖怪の子供なのに、父親は人間の子供と信じて疑わなかったのだもの。半人半妖といっても、人間と同じなのかしら」
彼女は僕の様子を伺うように言った。
「そうかもね。まぁ、柳の精の話もそうだけど、半人半妖なんて、人間と同じなのかもしれない」
そう。僕が雪女の話にこだわってしまう理由。
雪女はあんなに情が濃いのに、子供たちはどうなってしまうのだろう。母親があんなに心配して、釘まで指すということは子供を愛しているはずなのだ。絶対に、捨てたくはないはずなのだ。なのに、約束を破った事実を前には、彼女は何もできない。
辛い話じゃないか。
子供が妖怪としての力がないなら、なおさらだ。約束なんて、放ってしまえばいいのに。そうもいかないのが、物語、なのだろう。
「雪女も、ずっと見守っていたのじゃないかしらね。子供の行く末を。妻を失った夫の悲哀を。夫の裏切りに傷つけられて、でもまだ愛していて。そんな気がするわ」
彼女はそう続けて、また、ため息をついた。
「本当はずっと見守っていたいけど、そうもいかないのは世界の常ね。私だって、許されればずっとあの子たちを見ていたいけど」
彼女はもう完成に近づいている編み物を見つめて、そう嘆息した。
「春が来たら、春眠しなきゃいけないし、夏が来たら夏眠をとって、秋が来たら秋眠しなきゃいけないのよ。ちょっと長いけど、まぁそれが定めだから仕方がないわね」
レティが自分を納得させるように続けた。
「別に冬以外に消えているわけじゃないけれど、活動らしいことはできないからね。でも、ときどき、ふと目覚めてあの子達のことを思い出すの。幻想郷の冬を思い出すの。そして、本当に希に、ときどきだけどね、声が聞きたいな、って思ったりしちゃうのよ」
慣れているはずなのにね、と編み物を見つめながら、こちらを見向きもせずに言った。
「ああ、ほら、あなたが雪女の話をするから。湿めっぽくなっていけないわね」
彼女はすぐに柔らかい笑みに戻る。
「あれよ、水分の多い雪は重たくて湿るのよ。水分が少ないとさらさら、さっぱりとした粉雪になるのよ」
そう言って窓の外に目を向ける。しかし、もう雪は降っていない。ここ数日は雪も降らなくなり、寒さも和らぎつつあった。寒の戻りも最後のようだった。
「それにしても、春が遅いわねぇ」
レティが窓の外に顔を向けて言う。編み物はマフラーのようで、チルノや大妖精たちのために編んでいるのだそうな。ちなみに、来年の冬用とのこと。
「もうすぐだ、と言ってたのは君じゃないか?」
僕も軽口を返す程度には体調が戻ってきている。
「えぇ、そうよ。でも、春の方で何かモタモタしているのかしらね?このままじゃ間に合わないのじゃないかしら」
レティはそんなことを言って首を傾げる。
「間に合う?」
「春に、よ。でも、おかしな話ねぇ。本当はもっと早いはずだったのだけれど。何かしているのかしらね?」
「春告妖精のことかい?」
リリーホワイト、あの幻想郷で春を叫ぶ妖精は弾幕をばらまきながら春の到来を告げて回るのだ。
「ああ、彼女はもうすぐよ。だから春が来るの。でも、そうではなくてね、あなたの春が来るのは……」
レティはふと番台へ目をやる。
「……やっぱり今、幻想郷も冬なのね。みんな家で暖かくして出てきやしないわね」
まるで熊みたいね。
そうぼやいたレティが魔理沙が持ってきたのと同じ新聞、文々。新聞を手に取る。
契約している僕の家にも、勿論不定期に文々。新聞は届いている。僕の店の窓は魔理沙や文のおかげで紫がどこかから仕入れてくれた防弾硝子仕様になっているので、硝子を割って店内に配達されることは無くなった。
そのため逆に、僕の店の前には文々。新聞が積んであったらしい。それがレティの不法侵入の原因だったようだ。何でも、支払いは断られたが、体調が悪そうだった僕を気遣って見に来てくれたらしい。そうしたら案の定、粉雪をかぶった文々。新聞に、閉店の札。何かあったんじゃないかと不法侵入してくれたわけだ。
「その記事っていうと、魔理沙の商品募集かい?」
「そう。でも、魔理沙なら買いに行けば良いのに」
「霊薬の研究とかで家に籠もってるのさ。他人に持ってこさせよう、という目論見だったんだが」
本人の「思惑通りに」、うまくいかなかったらしいがね。最初から、うまくいかせる気がないのだからしょうがない。
僕がそう続けると彼女も笑う。
「ええ、楽しかったでしょうねぇ。チルノや大妖精も行ったみたいで、大層、喜んでたっけ」
「何でも、氷結両生類を持って行ったらしいね」
「ええ。それで、素敵なビー玉をもらったそうね?」
レティが編み物を続けながら、悪戯っぽく笑って言う。そこに魔理沙に対する悪意は見えない。どちらかというと、相手にしてくれたことを喜んでいるようだ。
「素敵なビー玉か」
「ええ。それが今度は簪になった。まるで、わらしべ長者みたいね」
レティが本朝のおとぎ話、あるいは霊験あらたかな長谷観音の仏教説話を口に出して微笑む。彼女の視線は手元の編み物に注がれているが、その柔らかい雰囲気が伝わってくる。
「次には田畑になるのかな?」
「あら、あの簪と交換した時点で、もう十分にハッピーエンドだと思うわ」
新聞の広告欄も、馬鹿にできないものね。彼女はそう言って、すっと手元の編み物を整えた。
「さて、それじゃ私は行こうかしら」
「ああ、ありがとう。それと、もうそろそろ、僕も治ったとみて良いと思うよ」
「ええ、そのつもり」
レティはそう言って周囲を見渡す。すでに洗い物はなくなり、すっかり店は元の雰囲気に戻っている。
「そろそろ、あなたも元気になったし、ここに来る理由もなくなるものね」
彼女は別に寂しいという感じではなく、さっぱりとした口調で言った。
「まぁ、まだ春じゃないんだろう?」
そんな彼女に、なんとなく僕はつぶやく。僕のその言葉が意外だったのか、彼女は手提げ袋に編み物を入れる手を止めて、僕を見つめた。
「あなたも、感傷的になるのね?」
「僕は常に感傷的さ」
桜のときも、雨叢雲剣のときも。
「……そうねぇ、あなたがそう言うなら、そういうことにしておきましょうか。でも、それが本当なら、情緒不安定なだけよ?」
何か、わざとらしく皮肉を言って、また、いつもの落ち着いた表情に戻るレティ。
「常に、は言い過ぎたかな?」
「ねぇ?……まぁ、でも、珍しい言葉が聞けたし、良いことも思いついたし」
編み物を手提げ袋に入れたレティは、何かを企むように言う。
「おいおい、何だい」
「春を呼ぶ方法よ。でも、あなたがあんなこと言うから、もう少し様子を見ようかしら、なんて思っちゃったわ。……ええ、ええ、罪な男よねぇ」
不誠実な口調でくすくす笑って、レティは手を振った。
「さ、安静にしててね。多分、次回が最後だと思うから」
「そうか。ありがとう。気を付けて」
僕の言葉にレティはうなずくと、綺麗に晴れ渡った外へと出て行った。
「最後ねぇ」
なんだか、非常に惜しいような、日常に戻れるのが待ち遠しいようなそんな気分になる。とはいえ、彼女には十分以上にお世話になった。
何か、贈りたいものだが。そう思うと、ゆっくり僕は売れ残りに手を伸ばし、和紙に書き物を始める。
こんなことくらしか出来ないが、そう思うと、チルノの偉大さが思い起こされた。彼女にとって大切な人に何かを贈るためには、自分の物はたいした価値を持たなかったのだろう。自分の望みを叶えるビー玉の、その望みが大妖精のため、だったのだから。
たいした馬鹿だな、と思う。
あそこまでに、なることは難しい。それも大人となれば。
僕は彼女からせしめたビー玉をまた握った。さて、愚かになることは望まないが、馬鹿になることは、十分な望みとなるのじゃないかな。
これが本物なのだとすれば、魔理沙。
君の鑑定書にも重みがでるというものだ。
7.
どんなものにだって、最後の日はある。
いや、義務がないにも関わらず、続けてくれた行為であればなおさらだ。
本来、いつ止めてもいいはずだったのに、彼女は最後まで続けてくれた。
レティ・ホワイトロックはほぼ完成したマフラーを整形しながら、僕の店のストーブの前で座っていた。
「ありがとう、おかげで本当に元気になれた」
少し枯れた声なのは、痰が切れたからで、もうすぐ治る証拠でもある。
「そのようね。顔色も良いし」
レティも我が事のように微笑んでくれる。その様子をしばらく見ていたが、僕はおもむろに喉をならした。
「喉、まだ痛いの?」
「いや、そうじゃないんだが」
なんとなく、気後れする。こんなことなら、あんなに商売人がどうのこうの、対価がどうのこうの、と理屈をこねなければ良かったかもしれない。
とはいえ、それをしてしまうのが僕なのだ、と開き直る。
そんな葛藤を続ける僕を、彼女は不思議そうにじっと見ていた。
「ロティ」
噛んだ。
この大事なときに、僕は噛んだ。格好つかないこと、おびただしい。
なにより、白を黒にしてしまったじゃないか。四季映姫様もご立腹だろう。
「……店主さん。私はイミテーションの首飾りをしてないわよ?ついでに姉妹が幻想郷に来たなんて話は聞かないわね?」
レティは悪戯っぽく笑って僕を見つめる。
「確かに、文々。新聞にもあんな広告は見なかったな」
苦し紛れに僕が言うと、レティも微笑む。
「良かった、「可哀想なマーガトロイドさん」はいなかったのね?幻想郷のマーガトロイドさんは素敵な人形遣い、都会派の魔女ですものね」
そこまで話すと、二人して目を見合わせて、お互いに黙って微笑した。
「すまない。噛んだんだよ、レティ」
「……いろいろ、台無しねぇ」
らしいといえば、らしいけど、とレティは微笑んだ。
「これを」
「……あら、私は対価はいらない、って言わなかったかしら?」
僕が手渡そうとするものを見て、彼女はやんわりと首を振った。しかし、その鋭い目は冬の妖怪らしい、厳しい目だった。
「勿論、聞いた。ついでに言えば、これは君の看病への対価じゃない。君が看病してくれたのが、あの簪の対価じゃなかったように」
僕の目を見つめていた彼女は、ふと妖怪としての表情を消して、いつもの穏やかな表情に戻る。
「じゃあ、何なのかしら?」
「口止め料だ」
暫く彼女は驚いたように目を開き、そしてしばらくして何度か小声でつぶやいた。
「口止め料?」
首を傾げるレティに、僕はまた一つ、咳をする。
「そう。仮にも男女が密室で時間をともにしていた、そんな噂が立ったら、僕も君も困るだろうから、それの口止め料だ」
自分でも何を言ってるんだろうと思うほど稚拙で、ばかばかしい話だった。だが、特に良い考えもなかったし、なによりビー玉を握ったときにはこれが良い考えのように思えたのだ。
魔理沙、恨むぞ。
「……男女が、密室で、ね」
レティはすっと、冷たい表情で僕を見つめる。冬の女王。あるいは雪の女王の目。
「そんなことを考えていたの?」
「……その、それだが、ええっとだね」
レティは軽蔑するような目で見て、そしてそれから、絶句する僕を前にたおやかに微笑んだ。
「……あなたって、本当に不器用なのね」
綺麗な、優しい微笑みをうかべて、しかしそれは、不憫な子を見る目だった。
「これ、何なのかしら。ねぇ、教えて」
彼女は僕の出した物を大切そうに抱きしめて、そして僕のすぐ傍に立った。彼女はその機械を取り出すと、僕に手渡して聞いてくる。
その彼女の急激な感情の変化は、全然、僕が付いていけないものだった。
「ね、どう使うの?」
「あ、ええと、これは」
「うん」
彼女は促すように、興味津々といった表情で隣で見つめてくる。
「紫が持ってきたものでね。「歩く者」って意味の道具らしい。まぁ、名前はどうでも良くて」
僕はそう言って、なんだか少し焦る気持ちでその機械を開け、記録媒体を入れる。表裏に録音できる記録媒体だという。
「これに音を記録できるんだ。この赤いボタンがあるだろう?これと三角形の再生といいうボタンを押して、相手の声を記録する」
僕はレティの口元に機械を置いて、彼女を促した。
「えっと、これでいいの?あー、あー、我々は冬の妖怪だ」
僕は違うけどね。
そこまで聞いて正方形の描かれた停止のボタンを押した。
「で、この三角形が二つ、後ろ向きなもの「巻き戻し」を押すと、時間が戻るから」
すぐに、カチャと音がして、押し込まれていたボタンが戻る。
「それで?」
「また、三角形の再生を押す」
二人でじっと機械を見ていると、やがて音が「ジー」と聞こえた後に続いた。
「えっと、これでいいの?あー、あー、我々は冬の妖怪だ」
見事にレティの声がする。しかし、彼女は納得できないように僕をみた。
「別人じゃない」
「いや、君だったよ?」
「私、こんな声してるかしら?」
彼女は納得行かない様子だったので、機械を渡す。
「じゃあ、試してみるかい?」
「今度は、あなたが喋ってみてくれる?」
僕は自分の説明した内容を書き込んでおいた和紙を渡す。彼女はその和紙を見てにこにこ笑った。
「ありがとう、じゃ、やってみるわね」
彼女は僕の口元で、録音のボタンを押した。
「流れよ我が涙、と道具屋は言った」
「なにそれ?」
思わずレティがつぶやき、停止ボタンを押す。
「今のなに?」
「とっさに何も思いつかなかったんだよ。それでどうだい?」
おっかなびっくり、巻き戻しをしてまた再生する。
「えっと、これでいいの?あー、あー、我々は冬の妖怪だ……流れよ我が涙、と道具屋は言った……なにそれ?」
レティはびっくりしたように僕を見る。
「本当だわ。私の声は違うけど、あなたの声はそっくり」
「ちなみに、僕はこんな声なのか」
なんだか変に落ち着いた、嫌味な感じの声に聞こえたが。少なくとも、僕が思っていた「僕の声」とは全く違う。
「ええ、あなたの声だわ。低くて、落ち着いて、不器用そうな声」
彼女はにっこり笑って言う。多分、ほめられたのだろうが、なんだか納得いかない評価ではある。
「でも、君の声は違うのかい?」
「私、こんなに暢気な声してるかしら?」
もっとこう、鋭い冷たい声だと思ってたのだけれど、とレティが言う。
「もしかすると、自分で聞く声と他人が聞いている声は別物に聞こえるのかもしれないね」
僕の言葉にレティがうなずく。
「不思議なものねぇ。自分の声が他人の声に聞こえるなんて」
そう言いながらも、レティは大切そうにその機械を抱きしめた。
「ありがとう。素敵な口止め料ね。次に脅迫することが思い浮かばないくらいだわ」
レティが暢気な口調で、剣呑なことを言う。
まぁ、僕が悪いんだが。
少しどぎまぎする僕を横に、レティが嬉しそうに機械をああでもない、こうでもないといじくり回している。
「ああ、それでだね」
「ええ」
レティの様子を見つめながら、僕はまた咳を一つする。
「僕も回復したし、うちに来る理由なんてもうないけど」
「……そうね」
レティはわかっているわ、とでも言いそうな顔でうなずく。
「ちなみに、その機械、電池が必要なんだ。電池っていうのは、その機械のエネルギー源、つまり、その食事みたいなものでね。それはうちか、あるいは河童の連中しか扱っていないものだから」
そこまで言うと、レティはじっと僕を見つめた。
「……それと、記録媒体もね。それは表裏で1刻分しか記録できないんだ。もっと必要ならうちの商店にこないといけない。それに壊れたら直せるのは、河童か、僕……でも無理なら紫を頼らないといけなくて」
レティの顔に理解の表情が浮かぶ。そして、彼女は彼女らしくもなく、苦笑いを、しかめっ面しながらうかべていた。
「理由ができてしまうわね?」
「そうだねぇ。次の冬あたり、電池は切れているだろうねぇ」
しばらく僕たちは黙り込んでいたが、やがてレティが笑いだし、僕も笑わずにはいられなくなっていた。
「なるほど、口止め料をもらったけど、これからは私が払いにこなくちゃいけないのね?」
「その道具が、お気に召していただけましたら、是非ともご来店いただきたく」
かしこまって頭を下げると、彼女は笑った。
「使ってみないと、何とも言えませんわ」
レティはそう言って、チルノや大妖精の声を録音しないとね、と息を弾ませる。
「ああ。使い方がわからなかったら、それを見てみてくれ」
「ええ。ありがとう」
彼女はじっと機械を見ていたが、やがて、僕に言った。
「ねぇ、これは口止め料なのだから、看病のことは他人に言ってはいけないのよね?」
「……そういうことになるのかな?」
適当に思いついた言い訳だったから、そこまで考えていたわけじゃない。
「じゃあ、あなたも他人に言ってはいけないわよね?」
彼女が何か、おかしなことを言い出す。
「あ、ああ、そうなのかな?」
「そうよ。ね、約束を破ったらだめよ。それから、私がいない間、あの子達のこと、お願いね」
楽しそうに彼女は言った。あの子達、というのはチルノや大妖精のことだろう。
……そう、つまりこれは「雪女」のちょっとしたヴァリエーションとなる、そういう話なのだ。そう、雪女の一種の。
「約束を破ったら、みんなに言い触らすから、気をつけてね」
「君もだぞ。口止め料なんだから」
僕の言葉に彼女はうなずいた。
「雪女は、約束がしたかったのね、きっと」
彼女はそう言うと、機械を持ったまま頭を下げた。
「それじゃ、また次の冬ね」
「またね」
僕も、感謝の気持ちを込めて頭を下げる。彼女はうれしそうに僕に手を振る。そして、窓の外を見て一つうなずいた。
「そろそろ春がここに来るわ。もう、すぐ。だから私は行くけれど」
彼女はくるりとまた後ろを向いた。
「あの子達の声を録音しないといけないわね」
彼女はそう言ってドアを開ける。カランとベルの音が鳴る。その後ろ姿に僕は思わず呼びかけた。
「レティ!ところで、それ録音のままになっているよ?」
さっき彼女が機械をいじっていたときから、ずっと録音になっていたのだ。
しかし、彼女は慌てた風でもなく、後ろ姿で頷きながら言い返してきた。
「もちろん、分かっているわ、霖之助さん」
そう言い残して、冬の忘れ物は出て行った。
かくて、うちに籠もっていてくれた冬は、出て行ってしまった。なんだか、少し名残惜しい気もした。
とはいえ。
彼女はまた、冬に来るだろう。僕が生きてさえいれば。
そして、僕に死ぬ気はない。
春来たりなば、冬遠からじ。
二つ季節を省略したが。
無論、夏も秋もあるとはいえ時間はいつか、経つのだ。また、彼女に会うこともあるだろう。
僕らしく、ここが重要なんだが、僕らしく感傷的になってレティが出て行った店の外へと出る。
レティが窓の外を見つめていたとき、何が見えていたのだろう。そう思ったからだ。
春がここに来る、と言っていたが。
ほぼ健康になった身体で、閉店としてた札を開店とする。そのとき、そこには確かにレティの言っていた、春が来ていた。
おなじみの黒いシルエット。それはかなりの速度で近づいてくると、帽子を片手で抱えたまま、魔法の箒から飛び降りて来た。
「おい、香霖、大丈夫なのか?風邪、だったんだろ?」
文々。新聞を握りしめて、魔法の箒から飛び降りた魔理沙は、店の外にでていた僕を心配そうに見つめた。
「ほら、見てみろよ」
そう言って見せてくれたのは、広告欄。
「病人の快癒予告をお知らせ申し上げます、
本日、香霖堂にて
お知り合いの方のお越しをお待ちしております。右、ご通知まで。押し掛け女房より」
魔理沙はふてくされて言う。
「風邪を知らせなかったのは水くさいな。知らせれば、まぁ、実験の後くらいには来てやったのに。それに、なんだ、この病人の快癒予告って、なんなんだ?そんなに皆を集めたいのか?らしくないじゃないか、香霖。だいたい、本来、親しい連中、それこそ私や霊夢とか、あるいは慧音あたりを頼るのが順番であって……」
魔理沙は最初、呆れたような口調だったが、徐々に調子を上げていく。
「それも、使いをやれば良いだけじゃないか。だいたい、この店の位置が均等に遠いから、いざとなると誰も来てくれないわけだろ?それにしたって、知らせない、っていう意味が分からないし、だいたい、何だよ、この押し掛け女房ってのは!?」
なるほど、レティが考えていたのはこれだったのか。
新聞の広告欄も馬鹿にならないわね、と。
「押し掛け女房、って女っ気のない香霖が、それも自分で、そのうえ文々。新聞に広告記事出すとか、どんな羞恥行為だよ?あれか、自殺願望か?社会的な地位を殺したいとか、そういう。いや、そういうのから一番遠いのが香霖だとは分かってるけどさ」
大変、にぎやかな感じで魔理沙は続ける。一通りまくし立てると、やがて落ち着いたのか、じろっと僕をにらむ。
このにぎやかさ、これが春、ということなのだろうか。
彼女の言っていた春。「そう。とても素敵で、とても明るくて。まるで冬なんてなかったかのように振る舞うのよね。だから、ときに眩しすぎると思う」、そんな春。
つまり、君の言っていた春、ってのは魔理沙のことだったのだろうか?
そんなことを考える僕に、魔理沙は続ける。
「説明してもらうからな、香霖!」
「説明、って言われてもなぁ」
ちょっとした剣幕の魔理沙に、僕は病み上がりの声で答える。魔理沙は少し、ふっと勢いが削がれたように僕を見た。
「おいおい、香霖、本当に病気良くなったのか?」
「ああ、ご心配には及ばないさ」
さっきまでと打って変わって、やや心配気にこっちを見る。お互い目があうと、魔理沙はむっと不機嫌そうな表情に戻る。
そんな風にじっと魔理沙を見ていたせいだろうか、不意に気づく。
その袖に付いている種に。
「これ、芽が出てる?」
「ああ、これか」
魔理沙は苦笑してその種を拾い上げた。
「ライラックだな。最近、ハーブ中心でエリクシールの研究をしてたからなぁ。葉っぱだけじゃなく、根や種を使ってたから、付いてたのかもしれない」
でも、いつの間に付いたのかな、そう言って首を傾げる。
……なるほど。
残酷な月の到来、というわけだね、レティ。
「春が来た、のか」
レティが春を呼び出して、帰って行った、ということらしい。
自分じゃ面倒をみきれないから、春とバトンタッチしたのよ、そんな感じだろうか。
「春?香霖、何を言ってるんだ?」
「いや、こっちのことだよ。さて、説明よりも前に霊薬の方はどうなったんだい?」
「あ?ああ、それか。それも説明するが……」
その前に、この押し掛け女房の方だ!、魔理沙はそう言い切ると、勝手知ったる店内に入っていく。
「山に来た、里に来た……」
僕は呟きながら苦笑して、魔理沙の後についていく。
とはいえ、レティのことは内緒なのだ。どうやって言い逃れるものか。これはちょっとした春の嵐だろう。
そして、魔理沙に聞かなきゃいけないこともある。望みを叶えてくれるビー玉の話を。君の鑑定が正しかったこと教えてやらねばなるまい。
しかし、レティに触れないで、どう説明したものか。それがうまく出来たら、「椿事」と言えよう。
「ほら、早く、お茶を淹れてくれよ、香霖」
無遠慮な声で魔理沙が言う。その賑やかな様子に僕はうなずいた。
明るく賑やかで色彩に満ち始めた店内の雰囲気に。そして、魔理沙のちょっとした剣幕に。レティの言葉を思い出しながら。
春は残酷な季節なのよ、と。
勿論、残酷なだけではないとはいえ。
春とは喜びの季節でもあるわけだが。
僕の春が今。
「……店に来た」
-了-
いいお母さんだなー
パーフェクトぉ!!
雰囲気とセリフ回しが良かったです。それっぽい。キャラクターが立ってます。
あ、それと映姫が英姫になってましたよ~
チルノと霖之助の交渉には実にほんわかさせられました。
レティの語る寒さの中の暖かさのくだりも実に素敵。
でも一番熱くなったのは最後のレティの台詞という。御馳走様でした。
…あぁ、春は遠いなぁ( 'A`)
面白かったです
お疲れ様です。
チルノと大ちゃん、魔理沙のやりとりを想像するとほっこりします。
レティが情の濃いおなごですね!いいですね!
ウチにも来て欲しいです><
数々の小ネタにも笑わせて貰いましたwロティって誰やねん?w
作者様、冬の寒さを吹き飛ばす暖かなお話、ありがとうございました。
>第七艦隊いずこにありや、全世界は知らんと欲す。
春ゼイ提督ですね。わかりますw
レティ霖に栄えあれ
しかし、霖之助はあわや死亡フラグでしたな。
レティは大妖精から全部聞いてるわけだし、村の偉い人の氷室は故妾の倉だと推察する。
二束三文で手に入れた曰く付きの品を、チルノの宝物と交換した挙句、保護者から金までせしめたなんて日には・・・・・・