寒い日は鍋に限る。
吐く息すら凍りつきそうな夜、熱々の土鍋にぐつぐつと煮える肉や魚や野菜をほふほふと頬ばり、汁を啜る。スープは味噌が好みだが、あっさり水炊きも良い。これに熱燗があればなお言うことなし。食い終わる頃には体の内からぽかぽかと火照り、もはや寒さなど感じなくなるだろう。
そんなことを、博麗霊夢は思った。
良く晴れた冬のある日のことである。
年も改まり、例年のごとく人外だらけの年賀客と新年会と称したどんちゃん騒ぎで三が日が過ぎた。おせちもお餅も食い飽きて、少々だらしなくなった腹回りを出張初詣と称する無差別訪問弾幕勝負にて引き締め、七草粥をもそもそといただき、ようやく新年を新年として意識しない日常が帰ってきた。そんな頃であった。
暦の上では春を迎えても、この時期寒さは厳しくなるばかり。朝方などはことさら辛く、指先が布団から出ただけで、その冷たさに目が覚める。
起きたら起きたで、とにかく何かしら体を動かさないと寒くて仕方がない。一日中炬燵と火鉢にかじりついて絶対外になど出るものかと思ったりもするが、暖房だってタダではないのだ。限られた炭で一冬を越すには我慢も必要である。
まあ、そんなわけで。
鍋だ。
かじかんだ手で境内の雪を掃除しながら、霊夢はそう思ったのである。
昨日降った雪で、博麗神社はすっかり白銀に染まっていた。参道はおろか植え込みの境すらわからない有様で、少しの晴れ間ではとうてい溶けそうにない。雪が固まらないうちにと、霊夢はせっせとスコップを振るう。そうやって手を動かしながらも、頭では鍋についてぼんやりと考えを巡らせていた。
白菜はある。ネギもあるし人参も残ってたはず。豆腐は切らしてたっけ。えのきも欲しいなあ。あとは肉か魚、どうしようかしら。
などと鍋への思いを募らせていた時だった。
視界を、すっと赤い物が横切った。
なんだろう、と思う間もなく霊夢はつられるようにそちらを向いた。
蟹がいた。
「蟹かー。蟹鍋、良いなあ」
妄想がそのまま口をついた。視線は釘付けのまま、スコップで雪をすくって放る。
そこで、ようやく視覚に認識が追いついた。
「蟹!?」
今度は目を見開いて、しっかりと焦点を合わせた。
蟹である。
雪の上に、鮮やかな紅色の蟹がいたのである。
霊夢は目をごしごしと手で擦った。あまりに鍋のことを考えすぎて、幻覚でも見ているのかと本気で思ったのだ。幻想郷では、たいてい自分の頭がおかしかったり他人の頭がイカれてたり世界そのものが間違ってたりするので、目がおかしいことなど普通にある。
だが、蟹は消えることなく、そこにいた。
でかい蟹であった。
甲羅ももちろんそれなりだが、とにかく足が長い。体の倍ほども長かった。差し渡し1メートルくらいあるのではないか。
幻想郷に海はない。蟹といえばせいぜいが沢ガニ程度で、今霊夢が目にしているような大きい蟹などいない。
外の世界の蟹であった。
博麗神社は外と幻想郷の境に位置する。外の物が流れ着くのはよくあることだ。
だが、海の生き物は珍しい。希有といってもいい。
ゆえに。
幻想郷において海産物というのは、とんでもなく希少な高級食材だった。購うには親兄弟を質に入れてもまだ足りぬ。それほどの代物である。実際、この手の食材を扱うブラックマーケットがあるらしいというまことしやかな噂があって、マグロの切り身が冗談のような高値で取引されたりとか、タコやイカを巡って血みどろの抗争勃発とかいう怪しげな記事が新聞を賑わせたりする。
無論、蟹もまた然り。滅多に食べられるものではない。
そして、霊夢は、蟹が初めてではない。
かつて、八雲紫がお土産として持ってきたことがあったのだ。
初めて食べた蟹は、殻を割るのにたいそう苦労したものの、それはもう旨かった。
ぷりぷりとした食感。淡白なのにほんのり染み出す甘み。じゅわっと舌の上で溶ける蟹味噌。
その美味を思い出して、ごくり、と霊夢は唾を飲み込んだ。
その蟹が今、目の前にいる。
霊夢は、蟹から視線を外さないまま、そろりとスコップを脇に置いた。
両の手を空けて、構える。
もはや、霊夢の思いは決まっていた。
蟹鍋で熱燗をきゅっと一杯。
もうそのことしか考えられなかった。
それだけで、舌には蟹肉の味覚が蘇り、唾が溢れる。じゅるり。
はやる心に指が震え、自然と鼓動が速くなった。
いやいや、まだ早い。
霊夢はそんな自分を諫めた。急いては事をし損じる。たかが蟹。されど蟹。この手でしっかと掴むまで、喜んではならない。
あたらめて、霊夢はじっくりと観察する。
やはり大きい。
一匹だけで鍋が一杯になるだろう。太い足には肉がたっぷり付いてそうだ。見たところ特に傷は無く、色つやも良い。雪の上で腹這いのまま、じっとしているが死んでいるわけでも眠っているわけでもなさそうだ。まるで霊夢を挑発するかのように、ゆらゆらとハサミを動かしている。
一歩。霊夢がそっとだけ足を進める。すると、蟹もまた、のっそりと一歩動いた。
もう一歩。すると、今度は二歩蟹が動く。
そこで、霊夢は静かに力を矯める。
蟹との距離を目測し、相手がどちらへ逃げても一息で捕らえきれるだけの力を己の中に練る。
息を吸って、吐いて、吸って、
霊夢は飛びかかった。
積もった雪の上を走っては間に合わない。そういう判断であった。
蟹も動く。だが、霊夢の速さに比べて、それはあまりにも遅すぎた。
霊夢はたちまちに蟹へと肉迫する。そして、その甲羅へと手が届いた。
がっしと分厚い蟹の胴体を掴む。
捕らえた。
そう、霊夢が思った瞬間だった。
つるり、と甲羅が滑った。
そして、逃れた蟹は、霊夢へとハサミを振りかざす!
その狙いは、霊夢の目。
「ちっ!」
強引に身を捻って躱した。
ハサミは霊夢の前髪を掠め、霊夢は姿勢を崩して雪の中へ突っ込む。転がりながら勢いを殺し、地を蹴って跳ね起きた。
「どこいった!」
雪まみれのまま、霊夢は辺りを見回した。だが、蟹の姿は無い。
先ほどの場所へ戻り、手当たり次第に雪を掻き分けた。それでも、やはり見つからない。
逃げられた。
霊夢は、ぎりりと奥歯を噛んだ。
蟹と侮っていた自分に腹が立ったのだ。
蟹にとって、これは死活問題。負ければ食われる。そういう戦いなのだ。
当然、本気の勝負となる。そうでなければならない。だからこそ、あの蟹は急所を狙ったのだ。迷いなく。
だが、と霊夢は己を振り返る。
霊夢にはそこまでの意識がなかった。当然のようにあの蟹を捕らえ、食べられるものだと勝手に思い込んでいた。
そこに慢心があった。
ゆえに無様を晒した。
霊夢は、手が白くなるほど拳を握りしめた。蟹を逃したのは全て己が未熟がため。そのことを霊夢は深く戒める。
蟹を食らいたければ、蟹の本気へ相対せねばならぬ。
本気には本気で応えなければならぬ。
蟹を食うと、
覚悟せねばならぬ。
霊夢は大きく深呼吸した。内へ取り込んだ冬の冷気は熱を鎮め、箍を締める。
目を閉じて、静かに深く深く己の中が澄んでいく感覚に身を委ねる。
どこまでも透明に。そうすることで、周りが鮮明に色づくのだ。どんな微かな気配も逃さぬくらいに。
蟹は、まだこの境内にいる。
そのことを霊夢は確信している。
根拠は無い。ただの勘である。
だが、それは多くの異変を解決してきた霊夢の天性。霊夢は誰よりも自分のそれを信じている。
待った。
いかに体が冷えようと、ただ、じっと待った。
いずれは奴も動く。獲物を確実に狩るためならば、その機を逃さぬためならば、寒さなど苦にならない。
どれほど待っただろうか。
ばさり、と木の枝の雪が落ちたその時だった。
霊夢は、それを捉えた。
「そこか!」
袂から取り出した符が放たれた。
霊力を込めたそれは、狙った相手をどこまでも追う必中必滅の術。霊夢が捉えた気配目がけて矢のように飛び、
賽銭箱を爆散させた。
「IEEEYYYHAAAEHRHHHYEEUAAA!!!!」
言語化不能の悲鳴であった。
はたして何が起こったのか。それを理解することも認識することも拒絶する慟哭が冬の空に震えた。
細切れの木屑が舞い散る中、蟹は悠然と歩き去る。だが、霊夢はそれを見ても動けないでいた。
体はおこりのように震え、目はかつてそれがあった場所から離れず、足は鉛でも入っているかの如くずしりと重い。
脳裏には在りし日のかの姿が蘇る。あの日も空。あの日も空。あの日も空。思い出すだけで涙が溢れた。
後悔はいつだって遅すぎるし、起きたことは覆せない。もはやあの賽銭箱はこの世に無く、それを為したのが誰あろう自分であることに、霊夢は深く打ちのめされた。
がくりとうなだれて、霊夢はぽろぽろと涙をこぼした。
ああ、私はなんてことをしでかしてしまったのだろう。一時の欲に駆られてこのような巫女としてあるまじき所業。こんなところを人に見られでもしたら――
「よーっす霊夢。なんだか面白そうなことをしてるじゃないか。その賽銭箱は」
反射的な行動であった。
振り向きざまに放った神速の掌底は、背後の霧雨魔理沙の顎を精確に捉えた。
ちょうど箒から降り立ったばかりの魔理沙には、何が起こったかすらわからなかっただろう。言葉を言い終える間もなく、魔理沙は意識を刈り取られてばったりと倒れた。
魔理沙にとっては間が悪かった。
そうとしか言えない。
肩で息をしながら、霊夢はあおむけで白目を剥いた魔理沙を見下ろした。
受け身も取らずぶっ倒れたが、分厚い雪の上だったのが幸いした。どうやら気絶しているだけで怪我はないらしい。ひとまずそのことに霊夢は安堵した。
咄嗟のことで加減が効かなかったが、まあ、結果オーライ。
そして、体を動かしたおかげか、図らずも霊夢は自分を取り戻した。
今、大事なのは何か。
今、為すべき事は何か。
無論、蟹である。
既に霊夢は冷静であった。
賽銭箱などまた作ればいい。だが、蟹は一期一会。今、この時、この場所が全てなのだ。ならば、何をすべきかなど自明である。
今、怖れるべきは何か。
無論、蟹に逃げられることである。
霊夢は、境内全体に簡単な結界を張った。
もはや、何者もここから逃れることはできぬ。
ついでにいえば、誰の侵入も許さぬ。魔理沙のようなイレギュラーは二度と御免である。
省みれば、どうにも気負いすぎていたらしい。
そもそもの目的を考えれば、蟹を捕らえるのに賽銭箱を吹っ飛ばす威力を用いるなど、もってのほかであった。
そのことを、賽銭箱は身をもって霊夢に教えてくれた。かの犠牲は決して無駄ではなかったのだ。
それに報いるためにも、霊夢は蟹を捕らえねばならない。
捕らえて鍋にして熱燗でおいしくいただかねばならない。
だが、殺めるは易く、捕らえるは難し。
さすがは幻想郷へ流れ着いた蟹。一筋縄ではいかなかった。
しばし霊夢は思案して、魔理沙の服を脱がせた。
久々にまじまじと見た友の身体、その成長の具合にほほうふふんと頷きながら(近頃は魔理沙が恥ずかしがるのでなかなか見る機会がないのだ)霊夢は手早く作業を終える。
白い雪の上でしどけなく横たわる少女の肢体。その肌ときたら雪よりも白く滑らかで、それでいて健康的に肉が付いていて柔らかそうで。
ずばり、美味そうである。
「良し」
霊夢は腕を組んで呟いた。
相手が逃げるなら、追うのではなくおびき寄せる。
押してもダメならなんとやら。餌で釣ろうというのだった。
友人を餌にする非道に霊夢は迷いが無い。倒れている者は友でも使う。それが幻想郷流である。友達なにそれ蟹より美味いの?
霊夢は魔理沙からやや離れたところで、雪の中に隠れた。
腹這いになって己の気配を絶ち、ただその時を待つ。
はたして、蟹は釣れるか?
釣れる。
霊夢は既に確信している。
この戦いで相手も疲弊しているはず。ならば腹も減ろう。
あとは根比べだった。
蟹が空腹に負けるか。
霊夢が蟹を諦めるか。
やがて。
霊夢の思いに応えるように、それはのっそりと姿を現した。
白い雪の中、くっきりと浮かび上がる紅。
おそらくは霊夢を警戒しているのだろう。蟹の動きは、もどかしくなるほどにのろかった。
しかし霊夢は焦らない。蟹をしっかと手中に収めるまでは、期待も喜びもしないと決めた。今の霊夢は、雪よりも冷たく、静かであった。
少しずつ、少しずつ、複雑に蛇行しながら、しかし確実に、蟹は魔理沙へ近づいていった。
五メートル、一メートル、五〇センチ、そして一〇センチ。
ゼンマイが切れかけたオルゴールにも似た時の流れを経て、ついに蟹のハサミが魔理沙の太ももへと届き――
「いっでえぇぇぇぇぇーッ!!」
魔理沙の乙女らしからぬ悲鳴とともに、霊夢は飛び出した。
手には新たな呪符。裂帛の気合いと共に放ったそれは、蟹の周りを包むように広がり、全てを捕らえて縛る。
神技「八方鬼縛陣」
文字通り、鬼の動きすら止める術である。
「あいだだだだだだ!!!」
魔理沙巻き添え。
だが、その犠牲の甲斐はあった。蟹は地へ縫い付けられたように、足先一つすら動かせない。これまで霊夢を手こずらせたとはいえ、やはり蟹は蟹でしかないのだ。
霊夢は臨戦態勢のまま、蟹の前に立った。
見下ろしたわずかの時間、何事かを言おうとして、止める。
この戦いで蟹へ語ることなど何もないことに気付いたからだ。
しゃがんで、蟹へ手を伸ばした。
その時である。
なんと、蟹は霊夢目がけて飛びかかった!
霊夢が蟹を手に取るために術を外そうとした瞬間だった。
まだ呪縛が残る中で、蟹はそれでも諦めなかったのだ。
その恐るべき執念。振り上げたハサミが今再び霊夢を狙う!
だが、
霊夢は動かなかった。
避けなかった。
必要なかったからだ。
蟹は、霊夢へ届く前に失速した。
そのまま、足掻く様も見せず落下し、地へ落ちる前に霊夢の手が胴体を掴んだ。
その時には、もう蟹はぴくりとも動かなくなっていた。
鬼縛陣から逃れるために、命の全てを使い切ったのだ。
霊夢にはそのことがわかっていた。妖力も持たぬ一介の蟹では本来為せぬ事を為したのだ。当然である。
霊夢は蟹を憐れんだりはしなかった。
蟹は最後まで戦った。ただそれだけだ。
ただそれだけを見届けた霊夢は、だから何も言わず何も思わず、黙祷だけを捧げた。
「おい、なんで私は裸なんだ?」
寒さに震えて恨みがましく睨む魔理沙。やがて黙祷を終えた霊夢は、にっこりと笑って言った。
「おはよう、魔理沙。今夜は蟹鍋よ」
さて、宣言どおり、その日の夜は蟹鍋となった。
久方ぶりの蟹の味ときたら、それはもう至高の美味で、鍋をつつきながら飲む酒がこれまた旨いこと旨いこと。まさにとろけるような心地であった。
その晩、霊夢とご相伴にあずかった魔理沙の二人は存分に鍋を楽しんだ。
あたった。
三日三晩、霊夢は地獄の苦しみにのたうち回った。あの天下無敵傍若無人な彼女をして、トイレで幾度となく死を予感したというからその苦痛は想像を絶する。
魔理沙は辛うじて難を逃れた。後日、その理由を新聞記者に問われた時、魔理沙は青い顔で答えたという。
「生は止めとけって言ったんだがな……」
つまり、せっかくの貴重なレア食材ということで刺身も作ったらしい。でかい蟹だったし足の一本二本くらいよかろうと欲が出たのがいけなかったのか。
ともあれ、死して食われてもなお博麗の巫女に苦杯を嘗めさせたということで、蟹は一躍幻想郷に勇名を馳せた。
一部の妖怪や妖精では蟹が崇められ、ブラックマーケットでは蟹が高騰。里では御守代わりにと蟹を象った飾り物が売れに売れた。
では、当の蟹はというと。
博麗神社の片隅に埋められ、今ではその上に小さな祠が建つ。
ごくたまに、霊夢が神妙な顔つきで拝んでいると噂されるが、もしその姿を見かけたとしても、その日の献立を彼女に尋ねる者は誰もいない。
吐く息すら凍りつきそうな夜、熱々の土鍋にぐつぐつと煮える肉や魚や野菜をほふほふと頬ばり、汁を啜る。スープは味噌が好みだが、あっさり水炊きも良い。これに熱燗があればなお言うことなし。食い終わる頃には体の内からぽかぽかと火照り、もはや寒さなど感じなくなるだろう。
そんなことを、博麗霊夢は思った。
良く晴れた冬のある日のことである。
年も改まり、例年のごとく人外だらけの年賀客と新年会と称したどんちゃん騒ぎで三が日が過ぎた。おせちもお餅も食い飽きて、少々だらしなくなった腹回りを出張初詣と称する無差別訪問弾幕勝負にて引き締め、七草粥をもそもそといただき、ようやく新年を新年として意識しない日常が帰ってきた。そんな頃であった。
暦の上では春を迎えても、この時期寒さは厳しくなるばかり。朝方などはことさら辛く、指先が布団から出ただけで、その冷たさに目が覚める。
起きたら起きたで、とにかく何かしら体を動かさないと寒くて仕方がない。一日中炬燵と火鉢にかじりついて絶対外になど出るものかと思ったりもするが、暖房だってタダではないのだ。限られた炭で一冬を越すには我慢も必要である。
まあ、そんなわけで。
鍋だ。
かじかんだ手で境内の雪を掃除しながら、霊夢はそう思ったのである。
昨日降った雪で、博麗神社はすっかり白銀に染まっていた。参道はおろか植え込みの境すらわからない有様で、少しの晴れ間ではとうてい溶けそうにない。雪が固まらないうちにと、霊夢はせっせとスコップを振るう。そうやって手を動かしながらも、頭では鍋についてぼんやりと考えを巡らせていた。
白菜はある。ネギもあるし人参も残ってたはず。豆腐は切らしてたっけ。えのきも欲しいなあ。あとは肉か魚、どうしようかしら。
などと鍋への思いを募らせていた時だった。
視界を、すっと赤い物が横切った。
なんだろう、と思う間もなく霊夢はつられるようにそちらを向いた。
蟹がいた。
「蟹かー。蟹鍋、良いなあ」
妄想がそのまま口をついた。視線は釘付けのまま、スコップで雪をすくって放る。
そこで、ようやく視覚に認識が追いついた。
「蟹!?」
今度は目を見開いて、しっかりと焦点を合わせた。
蟹である。
雪の上に、鮮やかな紅色の蟹がいたのである。
霊夢は目をごしごしと手で擦った。あまりに鍋のことを考えすぎて、幻覚でも見ているのかと本気で思ったのだ。幻想郷では、たいてい自分の頭がおかしかったり他人の頭がイカれてたり世界そのものが間違ってたりするので、目がおかしいことなど普通にある。
だが、蟹は消えることなく、そこにいた。
でかい蟹であった。
甲羅ももちろんそれなりだが、とにかく足が長い。体の倍ほども長かった。差し渡し1メートルくらいあるのではないか。
幻想郷に海はない。蟹といえばせいぜいが沢ガニ程度で、今霊夢が目にしているような大きい蟹などいない。
外の世界の蟹であった。
博麗神社は外と幻想郷の境に位置する。外の物が流れ着くのはよくあることだ。
だが、海の生き物は珍しい。希有といってもいい。
ゆえに。
幻想郷において海産物というのは、とんでもなく希少な高級食材だった。購うには親兄弟を質に入れてもまだ足りぬ。それほどの代物である。実際、この手の食材を扱うブラックマーケットがあるらしいというまことしやかな噂があって、マグロの切り身が冗談のような高値で取引されたりとか、タコやイカを巡って血みどろの抗争勃発とかいう怪しげな記事が新聞を賑わせたりする。
無論、蟹もまた然り。滅多に食べられるものではない。
そして、霊夢は、蟹が初めてではない。
かつて、八雲紫がお土産として持ってきたことがあったのだ。
初めて食べた蟹は、殻を割るのにたいそう苦労したものの、それはもう旨かった。
ぷりぷりとした食感。淡白なのにほんのり染み出す甘み。じゅわっと舌の上で溶ける蟹味噌。
その美味を思い出して、ごくり、と霊夢は唾を飲み込んだ。
その蟹が今、目の前にいる。
霊夢は、蟹から視線を外さないまま、そろりとスコップを脇に置いた。
両の手を空けて、構える。
もはや、霊夢の思いは決まっていた。
蟹鍋で熱燗をきゅっと一杯。
もうそのことしか考えられなかった。
それだけで、舌には蟹肉の味覚が蘇り、唾が溢れる。じゅるり。
はやる心に指が震え、自然と鼓動が速くなった。
いやいや、まだ早い。
霊夢はそんな自分を諫めた。急いては事をし損じる。たかが蟹。されど蟹。この手でしっかと掴むまで、喜んではならない。
あたらめて、霊夢はじっくりと観察する。
やはり大きい。
一匹だけで鍋が一杯になるだろう。太い足には肉がたっぷり付いてそうだ。見たところ特に傷は無く、色つやも良い。雪の上で腹這いのまま、じっとしているが死んでいるわけでも眠っているわけでもなさそうだ。まるで霊夢を挑発するかのように、ゆらゆらとハサミを動かしている。
一歩。霊夢がそっとだけ足を進める。すると、蟹もまた、のっそりと一歩動いた。
もう一歩。すると、今度は二歩蟹が動く。
そこで、霊夢は静かに力を矯める。
蟹との距離を目測し、相手がどちらへ逃げても一息で捕らえきれるだけの力を己の中に練る。
息を吸って、吐いて、吸って、
霊夢は飛びかかった。
積もった雪の上を走っては間に合わない。そういう判断であった。
蟹も動く。だが、霊夢の速さに比べて、それはあまりにも遅すぎた。
霊夢はたちまちに蟹へと肉迫する。そして、その甲羅へと手が届いた。
がっしと分厚い蟹の胴体を掴む。
捕らえた。
そう、霊夢が思った瞬間だった。
つるり、と甲羅が滑った。
そして、逃れた蟹は、霊夢へとハサミを振りかざす!
その狙いは、霊夢の目。
「ちっ!」
強引に身を捻って躱した。
ハサミは霊夢の前髪を掠め、霊夢は姿勢を崩して雪の中へ突っ込む。転がりながら勢いを殺し、地を蹴って跳ね起きた。
「どこいった!」
雪まみれのまま、霊夢は辺りを見回した。だが、蟹の姿は無い。
先ほどの場所へ戻り、手当たり次第に雪を掻き分けた。それでも、やはり見つからない。
逃げられた。
霊夢は、ぎりりと奥歯を噛んだ。
蟹と侮っていた自分に腹が立ったのだ。
蟹にとって、これは死活問題。負ければ食われる。そういう戦いなのだ。
当然、本気の勝負となる。そうでなければならない。だからこそ、あの蟹は急所を狙ったのだ。迷いなく。
だが、と霊夢は己を振り返る。
霊夢にはそこまでの意識がなかった。当然のようにあの蟹を捕らえ、食べられるものだと勝手に思い込んでいた。
そこに慢心があった。
ゆえに無様を晒した。
霊夢は、手が白くなるほど拳を握りしめた。蟹を逃したのは全て己が未熟がため。そのことを霊夢は深く戒める。
蟹を食らいたければ、蟹の本気へ相対せねばならぬ。
本気には本気で応えなければならぬ。
蟹を食うと、
覚悟せねばならぬ。
霊夢は大きく深呼吸した。内へ取り込んだ冬の冷気は熱を鎮め、箍を締める。
目を閉じて、静かに深く深く己の中が澄んでいく感覚に身を委ねる。
どこまでも透明に。そうすることで、周りが鮮明に色づくのだ。どんな微かな気配も逃さぬくらいに。
蟹は、まだこの境内にいる。
そのことを霊夢は確信している。
根拠は無い。ただの勘である。
だが、それは多くの異変を解決してきた霊夢の天性。霊夢は誰よりも自分のそれを信じている。
待った。
いかに体が冷えようと、ただ、じっと待った。
いずれは奴も動く。獲物を確実に狩るためならば、その機を逃さぬためならば、寒さなど苦にならない。
どれほど待っただろうか。
ばさり、と木の枝の雪が落ちたその時だった。
霊夢は、それを捉えた。
「そこか!」
袂から取り出した符が放たれた。
霊力を込めたそれは、狙った相手をどこまでも追う必中必滅の術。霊夢が捉えた気配目がけて矢のように飛び、
賽銭箱を爆散させた。
「IEEEYYYHAAAEHRHHHYEEUAAA!!!!」
言語化不能の悲鳴であった。
はたして何が起こったのか。それを理解することも認識することも拒絶する慟哭が冬の空に震えた。
細切れの木屑が舞い散る中、蟹は悠然と歩き去る。だが、霊夢はそれを見ても動けないでいた。
体はおこりのように震え、目はかつてそれがあった場所から離れず、足は鉛でも入っているかの如くずしりと重い。
脳裏には在りし日のかの姿が蘇る。あの日も空。あの日も空。あの日も空。思い出すだけで涙が溢れた。
後悔はいつだって遅すぎるし、起きたことは覆せない。もはやあの賽銭箱はこの世に無く、それを為したのが誰あろう自分であることに、霊夢は深く打ちのめされた。
がくりとうなだれて、霊夢はぽろぽろと涙をこぼした。
ああ、私はなんてことをしでかしてしまったのだろう。一時の欲に駆られてこのような巫女としてあるまじき所業。こんなところを人に見られでもしたら――
「よーっす霊夢。なんだか面白そうなことをしてるじゃないか。その賽銭箱は」
反射的な行動であった。
振り向きざまに放った神速の掌底は、背後の霧雨魔理沙の顎を精確に捉えた。
ちょうど箒から降り立ったばかりの魔理沙には、何が起こったかすらわからなかっただろう。言葉を言い終える間もなく、魔理沙は意識を刈り取られてばったりと倒れた。
魔理沙にとっては間が悪かった。
そうとしか言えない。
肩で息をしながら、霊夢はあおむけで白目を剥いた魔理沙を見下ろした。
受け身も取らずぶっ倒れたが、分厚い雪の上だったのが幸いした。どうやら気絶しているだけで怪我はないらしい。ひとまずそのことに霊夢は安堵した。
咄嗟のことで加減が効かなかったが、まあ、結果オーライ。
そして、体を動かしたおかげか、図らずも霊夢は自分を取り戻した。
今、大事なのは何か。
今、為すべき事は何か。
無論、蟹である。
既に霊夢は冷静であった。
賽銭箱などまた作ればいい。だが、蟹は一期一会。今、この時、この場所が全てなのだ。ならば、何をすべきかなど自明である。
今、怖れるべきは何か。
無論、蟹に逃げられることである。
霊夢は、境内全体に簡単な結界を張った。
もはや、何者もここから逃れることはできぬ。
ついでにいえば、誰の侵入も許さぬ。魔理沙のようなイレギュラーは二度と御免である。
省みれば、どうにも気負いすぎていたらしい。
そもそもの目的を考えれば、蟹を捕らえるのに賽銭箱を吹っ飛ばす威力を用いるなど、もってのほかであった。
そのことを、賽銭箱は身をもって霊夢に教えてくれた。かの犠牲は決して無駄ではなかったのだ。
それに報いるためにも、霊夢は蟹を捕らえねばならない。
捕らえて鍋にして熱燗でおいしくいただかねばならない。
だが、殺めるは易く、捕らえるは難し。
さすがは幻想郷へ流れ着いた蟹。一筋縄ではいかなかった。
しばし霊夢は思案して、魔理沙の服を脱がせた。
久々にまじまじと見た友の身体、その成長の具合にほほうふふんと頷きながら(近頃は魔理沙が恥ずかしがるのでなかなか見る機会がないのだ)霊夢は手早く作業を終える。
白い雪の上でしどけなく横たわる少女の肢体。その肌ときたら雪よりも白く滑らかで、それでいて健康的に肉が付いていて柔らかそうで。
ずばり、美味そうである。
「良し」
霊夢は腕を組んで呟いた。
相手が逃げるなら、追うのではなくおびき寄せる。
押してもダメならなんとやら。餌で釣ろうというのだった。
友人を餌にする非道に霊夢は迷いが無い。倒れている者は友でも使う。それが幻想郷流である。友達なにそれ蟹より美味いの?
霊夢は魔理沙からやや離れたところで、雪の中に隠れた。
腹這いになって己の気配を絶ち、ただその時を待つ。
はたして、蟹は釣れるか?
釣れる。
霊夢は既に確信している。
この戦いで相手も疲弊しているはず。ならば腹も減ろう。
あとは根比べだった。
蟹が空腹に負けるか。
霊夢が蟹を諦めるか。
やがて。
霊夢の思いに応えるように、それはのっそりと姿を現した。
白い雪の中、くっきりと浮かび上がる紅。
おそらくは霊夢を警戒しているのだろう。蟹の動きは、もどかしくなるほどにのろかった。
しかし霊夢は焦らない。蟹をしっかと手中に収めるまでは、期待も喜びもしないと決めた。今の霊夢は、雪よりも冷たく、静かであった。
少しずつ、少しずつ、複雑に蛇行しながら、しかし確実に、蟹は魔理沙へ近づいていった。
五メートル、一メートル、五〇センチ、そして一〇センチ。
ゼンマイが切れかけたオルゴールにも似た時の流れを経て、ついに蟹のハサミが魔理沙の太ももへと届き――
「いっでえぇぇぇぇぇーッ!!」
魔理沙の乙女らしからぬ悲鳴とともに、霊夢は飛び出した。
手には新たな呪符。裂帛の気合いと共に放ったそれは、蟹の周りを包むように広がり、全てを捕らえて縛る。
神技「八方鬼縛陣」
文字通り、鬼の動きすら止める術である。
「あいだだだだだだ!!!」
魔理沙巻き添え。
だが、その犠牲の甲斐はあった。蟹は地へ縫い付けられたように、足先一つすら動かせない。これまで霊夢を手こずらせたとはいえ、やはり蟹は蟹でしかないのだ。
霊夢は臨戦態勢のまま、蟹の前に立った。
見下ろしたわずかの時間、何事かを言おうとして、止める。
この戦いで蟹へ語ることなど何もないことに気付いたからだ。
しゃがんで、蟹へ手を伸ばした。
その時である。
なんと、蟹は霊夢目がけて飛びかかった!
霊夢が蟹を手に取るために術を外そうとした瞬間だった。
まだ呪縛が残る中で、蟹はそれでも諦めなかったのだ。
その恐るべき執念。振り上げたハサミが今再び霊夢を狙う!
だが、
霊夢は動かなかった。
避けなかった。
必要なかったからだ。
蟹は、霊夢へ届く前に失速した。
そのまま、足掻く様も見せず落下し、地へ落ちる前に霊夢の手が胴体を掴んだ。
その時には、もう蟹はぴくりとも動かなくなっていた。
鬼縛陣から逃れるために、命の全てを使い切ったのだ。
霊夢にはそのことがわかっていた。妖力も持たぬ一介の蟹では本来為せぬ事を為したのだ。当然である。
霊夢は蟹を憐れんだりはしなかった。
蟹は最後まで戦った。ただそれだけだ。
ただそれだけを見届けた霊夢は、だから何も言わず何も思わず、黙祷だけを捧げた。
「おい、なんで私は裸なんだ?」
寒さに震えて恨みがましく睨む魔理沙。やがて黙祷を終えた霊夢は、にっこりと笑って言った。
「おはよう、魔理沙。今夜は蟹鍋よ」
さて、宣言どおり、その日の夜は蟹鍋となった。
久方ぶりの蟹の味ときたら、それはもう至高の美味で、鍋をつつきながら飲む酒がこれまた旨いこと旨いこと。まさにとろけるような心地であった。
その晩、霊夢とご相伴にあずかった魔理沙の二人は存分に鍋を楽しんだ。
あたった。
三日三晩、霊夢は地獄の苦しみにのたうち回った。あの天下無敵傍若無人な彼女をして、トイレで幾度となく死を予感したというからその苦痛は想像を絶する。
魔理沙は辛うじて難を逃れた。後日、その理由を新聞記者に問われた時、魔理沙は青い顔で答えたという。
「生は止めとけって言ったんだがな……」
つまり、せっかくの貴重なレア食材ということで刺身も作ったらしい。でかい蟹だったし足の一本二本くらいよかろうと欲が出たのがいけなかったのか。
ともあれ、死して食われてもなお博麗の巫女に苦杯を嘗めさせたということで、蟹は一躍幻想郷に勇名を馳せた。
一部の妖怪や妖精では蟹が崇められ、ブラックマーケットでは蟹が高騰。里では御守代わりにと蟹を象った飾り物が売れに売れた。
では、当の蟹はというと。
博麗神社の片隅に埋められ、今ではその上に小さな祠が建つ。
ごくたまに、霊夢が神妙な顔つきで拝んでいると噂されるが、もしその姿を見かけたとしても、その日の献立を彼女に尋ねる者は誰もいない。
蟹はよくがんばった。まさか、相手が親友を囮にするばかりか巻き添えにしてまで自分を仕留めに来るとは思わなかったでしょう。
面白かったです。
流石は五欲の巫女、埋めるためなら手段は選ばず。
まあ私は蟹嫌いだからここまで命張らないけどね。
とってもおもしろかったよ!蟹は何かの神だったんだねww
安らかに眠れ……蟹よ……。
食べている、そのときはおいしいということである
腐りかけは別にして、おいしい状態で後になってくるタイプは
避けようのない弾幕のようなものだ
三日
時間にすれば、それだけ奪われた
食中毒になった時に気を付けるべきは水分補給です。
点滴がベストですが、そうでない場合は経口補水液を飲みましょう
肝心なところは水だけを飲むと、体内のミネラルなどの成分が薄まり
躰が水分を排出しようとするので、さらに水分が失われてしまうということです
お茶や水などではあまり水分補給の効果がないので、某なにがしなどを飲むほうがいいでしょう
蟹おいしいですもんね
逆に考えるんだ。
あたってもいいさと考えるんだ。
悔いはない、この作品はそんな妄想とは関係なく面白かった
これで霊夢は博麗神社の祭神は何なのかという疑問に答えらるようになった訳ですなw
面白かったです。
魔理沙の意識を狩るあたりなど特に
かにもば かにできないな。
そして素晴らしい蟹との奮闘
面白かったです
蟹鍋食べたいです
時折挟まれる台詞の雰囲気も良いと思います。
笑わせていただきました。
挟まれるまで放置してるところに笑った。
いや、もう面白かったとしか。
面白かったです
魔理沙ちゃんは美味しそうでしたか、そうですか。
幻想少女vs蟹、これは終わりなき命題か
ナンチテ
蟹食いたい。
魔理沙はかわいそうな役どころかと思ったけど、最終的には蟹食べれたし、まずまず報われててよかったぜw
面白かったです。
むしろ蟹の生き様に乾杯です。