その日会ったメリーは、なんだか影を纏っていた。
ふわふわとした雰囲気はいつもの通りなんだけど、なんだか、暗いというか重たいというか。
西日差す喫茶店の窓際ボックス席。ラズベリーのタルトを口に運びつつ、メリーはうろんげにこちらを見つめてきて。
「‥‥なによ」
私の口元のチョコケーキが狙われている。そう思ったが、違った。
メリーはふわふわと、とんでもない台詞を口走ったのだ。
「おいしそう」
「このケーキはだめ。あげないわよ。今日はちょっと奮発したんだからね」
「ううんケーキじゃない。蓮子がおいしそうなの」
「ならよし」
「‥‥」
「えっ?」
顔を上げたら、メリーがタルトを齧ってて。いや、なんとなく流したけど今何か変なことを言わなんだか。
「あの、メリー?」
「美味しそうなの。蓮子が」
いやいや、突然何を言い出しやがりますか?私が美味しそう?これは何かしら、いわゆるそういう意味か。何を言っているのかしらん?この色ボケメリーさんは。
起きたまま寝てんじゃないわよとツッコもうとしたら、メリーは笑ってて。
「ひ?」
にちゃりと口を半開き。さっき食べたラズベリーの汁で、口の中が真っ赤。
まるで生肉を齧ってた動物みたいで。
その時私は直感した。
――ああ。
色欲じゃない。
あれは食欲だ!
「あの、メリー?」
戦慄する私をよそに、メリーは口の中の赤い汁をお茶で流し込むと、うっとりした顔で頬杖をついて、わたしを眺めてくる。
「改めて見てみれば、蓮子ってホント美味しそうなのよね。無駄な脂はないし、でもほっぺは柔らかそうだし。二の腕なんかいい味しそうよね。お腹も噛みごたえありそうだわ。ねえねえ蓮子。あなた今晩私の晩御飯にならない?ね」
「‥‥ね、じゃないわよ」
最後の私のセリフは、少しかすれていた。
ああ、どうしよう。
メリーが。
メリーが妖怪になってしまった。
***************
「――――悪夢の薬?」
「ええ。効能の欄にはそのように書いてるんだけど」
メリーがおかしくなる3日前の事。
昼2の講義が終わって、にぎやかになり出した学生会館のカフェ。隅っこのテーブルの上に丸薬の入った小瓶を置いて、わが相方はニヤリと笑って見せた。
たまたま講義が休講になり、思わぬ時間ができた私達。次の秘封倶楽部の活動計画でも立てようかと、お茶を飲んでいたらメリーが出してきたのがこれだった。非常にレトロなガラス瓶。貼られているラベルも質素なモノ。活版印刷っぽいちょっと歪みのある並び方をした文字たちが、真っ白な飾り気のないラベルにぱらぱら置かれている。‥‥しかもこのラベル、天然和紙のようであった。
メリーは小瓶を観察する私をからかうように、ひょいと瓶を持ち上げる。つられて上がる私の視線。小瓶とメリーの笑顔が並ぶ。
「飲んでみたいのかしら?」
「非常に興味深いけど。‥‥しっかしわざわざ悪夢を見せる薬とか、酔狂な薬剤師も居たもんね」
「良い夢見れるクスリだったら、ネット漁ればいくらでもあるみたいだけどね」
「それも似たようなもんじゃないの。夢見心地で地獄行き」
そうねと言ってメリーは小瓶を振る。黒い丸薬達が硬い音を立てて中で踊った。
「どこで手に入れたのよ」
「起きたら枕元に」
「また夢から拾ってきたの?」
問いかけに、メリーは「うん」と小っちゃくうなずいた。
彼女の見るビジョンは現実と同じ。境界を視るどころかしょっちゅう飛び越えている。正直危うい能力である。しかし彼女抜きには私達秘封倶楽部の結界暴きというメイン活動はできない訳で。
「夢の中で売ってたのよ」
「怪しさ200%じゃないの」
「頭にウサミミ付けたじょしこーせーのコスプレお姉ちゃんが街かどで‥‥」
「怪しさ400%になったわね」
手元のカップが空になったのでおかわりを頼む。メリーは相変わらず小瓶を持って、中の薬を見ていた。光にすかしてみたりして。なんだか無邪気にビー玉を眺める子供みたい。と、思っていた時だった。
やおらメリーは瓶のふたを開けると中の丸薬を一粒口に入れたのだ。
「まってまってまってメリー!」
「わきゃっ?」
背中の悲鳴に振り向けば、おかわりを持ってきてくれたウェイトレスさんが驚いてのけぞっている。かろうじてカップをひっくり返さずにはすんだようだ。スミマセンと謝って前を向きゃ、キャンディみたいに丸薬をしゃぶるメリーさんのお姿。あ、呑みこんだ。
大声を出したために店中の視線が集まっているのが背中越しに分かる。ナンデモナイデスヨー、とパタパタ手を振って、私は彼女を振りかえる。奴は澄ました顔して紅茶を飲んでいた。
小声で叫びながら、私はメリーを睨む。
「メリー!何やってるの!ペッしなさい!どんなものかもわからないのに!」
「ああ、これ一回バイオの人たちに調べてもらったから。別に危険なアルカロイド類とか、入ってなかったそうよ」
「サナトリウムに放り込まれたのもう忘れたの?危ない成分じゃなくても危ない病気の元とか入ってたらどうするのよ!」
「それも検査済み。さっき蓮子も飲んでみたいって言ってたじゃない」
「いきなり躊躇なく飲まないでよ!驚くから!」
「大丈夫。ハーブのいい香りしかしないから」
「‥‥答えになってないって」
「ちょっと舐めるだけのつもりだったんだけど、なんかおいしくて」
「だからねえ‥‥暢気すぎよ、あんた」
眉間を押さえてうつむいたら、鼻先に爽やかな香り。夏草の様で、なにかハーブの様で‥‥
「はうあっ!」
「ねー。良い匂いでしょ」
気が付けばあの小瓶が目の前に。あわてて顔をそむけ、思わず手で払いのけたけれど、瓶は寸でのところでひっこめられて中身が散らばることはなかった。
ちいっ。
「蓮子。これも倶楽部活動の内よ。夢の世界の夢の薬は、一体いかなる効能なりや。ってね」
「“悪夢を見る”でしょ。効能はラベルに書いてあるじゃないの」
「実際に確かめてみないと」
いったいどれだけ勇気があるというのかこの娘は。異世界から持ってきたというだけでも胡散臭いのに、おまけに悪夢を見せるという能書き付。それを良い匂いだからと躊躇なく口に運ぶなんて。普段夢の中で妖怪に追っかけられてて度胸が付いたのだろうか。
私も普段結界暴きやらメリーのビジョンにお供してトリフネ辺りまで行っちゃうようなことをしてるけど、いくらなんでも限度というものが。女子高生じゃないのだから、ノリだけで行動するのは止めた方が良いと思う。きっと。
やれやれと頭を振って、お茶を飲む。
「蓮子、顔が怖いわ。皺が増えるわよ」
「ああん?」
睨み付けたらメリーは胸に手を当てて、すっとぼけた表情で目を逸らした。
まあいい。友人の気持ちがわからないというのなら、思い知らせるまでだ。
「メリー、その薬、貸して」
「え、あっ、蓮子」
テーブルの上に置きっぱなしだった小瓶をかっさらうと、私はふたを開けて、一粒呑んだ。ハーブの香りが一瞬鼻を突き抜け、喉の奥に落ちていった。
驚いて目を白黒させるメリーに構わず、私はお冷を一気に飲み干す。
「ああ、飲んじゃった」
「度胸あるわね」
「だまらっしゃい。貴女が飲まなければ私も飲まなかったわ」
「そんな無茶苦茶」
「どっちが無茶苦茶よ」
ぎりっ、と睨んだら、メリーはしゅんとうなだれた。
小動物みたいな仕草に思わず頭を撫でたくなるのをこらえ、冷たい台詞を吐く。
「あー。今晩が楽しみだわ。悪夢にうなされたメリーさんが、泣きながら電話かけてくるのが」
「え、ウチに泊ってくれないの?」
「何当然のごとく言っちゃってるわけ?これは罰。相方の心配する声も聴かずに怪しいクスリを飲み干した友人への。ね」
「そんな、蓮子だって今日悪い夢見るかもしれないのに‥‥」
「だめ。私は私で我慢しちゃうから」
「れんこぉ‥‥」
「罰」
怯えた子犬みたいな目でメリーが訴えてくる。いまさらそんな顔されても遅い。トリフネで罹った病気のせいで彼女がサナトリウムに入れられた時、どれだけ私が心配したのか分かっていないのではなかろうか。友人に無駄な心配を掛けさせるものではない。‥‥そんなこというなら結界暴き辞めろ、という内なる声もあるのだが、今回は事情が違う。悪夢になるとわかっているのに。わざわざ危険な目に突っ込むこともないでしょう?
ビジョンならともかく、あなたはあなたの夢の中ではいつも一人で。しかも今回は、悪夢なのだ。
あなたが見てる夢には、私が一緒にいてあげられないじゃないの。
つぶらな瞳の誘惑に負けて「しょうがないわね」とか言っちゃう前に、私は心を鬼にして彼女のお願いを一蹴した。
「‥‥れんこーぉ」
「ばつーっ!」
*********************
それが3日前のことだった。
あの日薬を飲んだメリーさんは、今日は私の事をオイシソウと言ってニコニコニコニコこちらを見つめている。「美味しそうに育ったわー」とか言ってトマトをもぎ取る農家のおばちゃんのごとく。イヤわたし、トマトじゃないから。もぎたてフレッシュじゃないわ。フレッシュだけど。年齢的には。でも食べ物じゃないのよ私。だからお願いメリーそんな目で見ないで。
「美味しそうに育ってたんだね、蓮子って」
「やめて!」
悟り妖怪かあんたは!戦慄する私をよそに、やっぱりニコニコ「かーわいいー」とか言うのと全く同じ口調で「美味しそう」と言ってくる。どこまで本気か分からない。けど、私の勘が、私のさっきの感覚が正しければ、9割方本気のご様子。さっきから時々彼女の喉が動いている。唾を飲み込んでいるのだ。ひええ。
彼女の青い目が私を見つめている。視線がビタッと止まって動いていない。品定めされる家畜の気分てこういうものなんだろうか。私は牛じゃない。豚でもない。魚でもない。
一体どこを見てるんだろ。口か。腕か。お腹か。なんにせよいずこにせよ、ロクな目で見ていないことだけは確かである。
「蓮子の目も美味しそう‥‥」
目だった。目玉だった。だから恐いってば!
一体この三日の間に何があったというのか。この状況は一体何?夕暮れ時の喫茶店で、メリーは私をオイシソウって言ってうっとりしてる、この状況は。
彼女の言動が、全部私をからかうための冗談で、私は勘違いして無駄にビビってる?むしろそうであってほしい。しかし、私の知る限り普段のメリーは、こんな悪趣味な冗談を言うようなおちゃめ人間ではないということで。
「あの薬、やっぱり危ないクスリだったのね。メリー、あなた悪い夢どころか幻覚を見てる?いい?私は食べ物じゃないし、貴女はヒトを食べたりしない。普通の人間よ。おーけー?」
「私は人間よ。大丈夫。ちょっと蓮子が美味しそうに見えてるだけで」
「その時点で大丈夫じゃないのよ。医者に行きましょ。危険だわ」
「危なくないわよ。私はいたって健康」
「なら、時期の早すぎるハロウィンは止めて。お化けに仮装するにはあと半年以上は早いから」
「私は真面目。正気よ。蓮子」
「あーあーあー。それなら、やっぱり薬が脳にキてるわね。真面目に人を喰いたいとか、どう考えても正気の沙汰じゃない」
「あれは、あの薬は別にどうということはなかったわよ。確かにちょっとした悪夢は見るけれど、それだけ」
「本当に?」
「ほんとに。今はもう飲んでないし。あの一個だけ」
「‥‥」
「じゅる」
「よだれ啜らない」
喋っていたからつばを飲み込めなかったと言って、メリーはナプキンで口元を拭いた。その間も、彼女の視線はこちらから離れることが無くて。肉食獣の目の前に座っているのは非常に精神を消耗する。緊張していつの間にかにぎりしめていたカップの耳が、人差し指の腹に赤い跡を付けていた。
ちなみに私は、悪夢を見なかった。薬の効きが悪かったのか、詐欺まがいの代物だったのか。‥‥今この状況が悪夢という可能性もあるのだが。カップのあとの付いた指は骨がじんじん痛かった。
明るかった西日は、いつの間にかビルの陰に隠れていた。空が急速に青みを増している。“逢魔が時”という単語が唐突に頭に浮かんだ。‥‥魔物だったらすでに目の前にいるんだけどね。私の友人の恰好をした、金髪碧眼の人食い妖怪が。
そっか。そうだ。目の前でさっきから私の事をオイシソウと言ってきているのはメリーではないのだ。メリーに化けた妖怪なのだ。だったら――――
「私を偽物だと思っているのなら、それは間違いよ、蓮子」
「ひっ?」
また考えていたことをズバリ言われて、思わず悲鳴を上げてしまった。心臓に悪い!恐る恐る目をあげれば、頬杖をついていた手をテーブルの上で重ね、背筋を伸ばしたメリーが笑っている。
そしてやっぱりふわふわと口を開いた。
「私は本物。正真正銘、秘封倶楽部のマエリベリー・ハーンよ」
「‥‥証明してもらえるかしら。どうにもあなた、胡散臭い」
「そうね。信じてくれないなら、信じさせてあげられる方法、あるのよ」
「何。一体どんな方法で?学生証とか住基番号とかじゃないのは確かだろうけど」
「ちぇー」
「怒るわよ」
口をとがらすメリー状の物体。私の声が1オクターブ低くなったのを聞いて、「冗談よ」とか言ってくる。
これが冗談ならさっきからの言動は一体なんだというのか。
メリーは、テーブルの上に重ねていた右手をすっとあげた。いつもより白く見えた。
「目にさわってもいいかしら」
「‥‥ビジョン?」
「ええ。私の幻、貴女に見せてあげる」
ビジョンの共有。それは私とメリーがいつもやっている事。彼女の見ているものを、彼女が私の目を触ることで共有する。トリフネに行けたのもそのおかげ。わたしとメリーしか知らない二人だけの秘め事だ。
その事を、「二人だけしか知らない」という事実を彼女が知っているのが証明というのか。そうではないだろう。
メリーならばわかっているはず。あの秘め事は、私とメリーとでしか試したことが無い。でも、もし私が、たとえば――――
「それが証明になる?もし私が、貴女とだけ限定でビジョンを共有できるのではなく、誰に対しても見ているものを無理矢理共有できちゃう女だったら、それはどうなのかしらね」
「私が偽物だとするのなら、そして蓮子がそんなすごい能力を持っているというのなら、その時は私の見ているモノを蓮子が見て判断すればいいことだわ」
メリーが偽物なら、私はビジョンを視れない。メリーの様な妖怪が私にビジョンを見せることができるなら、私はビジョンを見て判断する。私が、ビジョンを見せることのできない偽物メリーの視ているものを無理矢理見れる能力を持っていたのなら‥‥
結局視るしかないのか。目の前にいる、妖怪メリーのビジョンを。
「‥‥いいわ、見てあげようじゃないの」
口から出てきたのは、自分で聞いていて、まるで観念したかのような、小さい声だった。握りしめていたカップを置く。メリーの目が細くなった。笑ってる。
「よかったぁ‥‥蓮子、私嬉しいわ」
「何が良かったのかさっぱり分からないんだけどね」
額に滲む汗。メリーが席を立って、私の隣に座った。ボックス席の壁際に押し込まれる私。胸の動悸が次第に大きくなってくる。メリーの左腕が、私の肩に回される。あー、逃げらんない。どうしよう。
「私はキャバのお姉さんじゃないんだから、その座り方はどうなのかしら。肩に手なんか回して、やらし」
「恋も食欲も性欲も根本は同じ欲なのね。獲物を逃がしたくない。だから捕まえる」
「短絡的」
「蓮子は私を信じてくれたのでしょう?だから私のビジョンを視てくれるために、こうして捕まってくれた」
「信じたんじゃない。信じるために視るのよ。分かってる?」
「そうねー」
メリーが肩を寄せてくる。暖かい。いつものメリーの匂い。そう、そうよ。これは私の親友。相方。たった二人の秘封倶楽部の。ちょっと肉食獣チックだけど、今日は。‥‥今日は!
「さあ、目を閉じて。触るわ」
「‥‥目を閉じた瞬間ガブリとか、無しだからね」
「しないよ」
メリーの優しい声が耳元に。その声に誘われるかのように、自分でもびっくりするくらい躊躇することなく、私は目を閉じた。うん。だってありえないのだから。メリーが偽物とか、妖怪とか。信じたい。メリーが本物だって。これは全部冗談だって。
あはは、ああ、私は馬鹿だなぁ。友人の“冗談”に付き合って、こんな喫茶店で妖怪ごっことか――――
そうやって、盛大に現実逃避をしていた瞬間だった。
その、嬉しくてたまらなさそうな声が聞こえたのは。
「ごめんね、蓮子」
「な!?」
「いただきまーす」
突然呟かれたその声に、悲鳴をあげるいとまも有らばこそ。
ぎゅうと押し付けられるように、私の瞼はメリーの指で、塞がれた。
****************
「うああああああ!?」
目を開く前に叫んでいた。私の目を押さえつけるメリーの手を振り払おうとしたけど、その手の感触はいきなり消えた。
「メリー!」
振り返ったが、メリーがいない。いや、ここ、喫茶店じゃない。
降り注ぐのは月の光。辺りを包むのは虫のコエ。森だ。ここ、森の中だ。
「メリー!」
のどが痛くなるくらい大きな声を出してみるけど、返事が無い。気配もしない。人をいきなりこんなところに放っておいて、一体何を考えて――――
「れーんこ」
それはいきなり耳元に現れた。脳髄を痺れさせるような、生暖かくて低い声が後頭部の夜空から降ってくる。跳ねる両肩が、柔らかな手で押さえられる。
「恐がらないで」
それは無理な話だ。
「ここは夢。私の夢」
百も承知である。
「ここ、暗いわ、メリー」
「私には暗くないわ」
「これはなに。一体どんな、悪夢を見ているの」
「今は悪夢を見ていないわよ」
「‥‥嘘つけ」
これで悪夢じゃないならどこから悪夢になるのだろうか。
振り返って睨み付けたいけど、体が動かない。
かちんこちんに固まっている私を捕まえながら、メリーがささやき続ける。
「悪夢は確かに見たけれど、今は、悪い夢は見ていないわ」
「‥‥耐性できるのが早いのかしら。一晩だけとか、随分良心的な薬じゃない。はん、よくよく見れば、良い夜よね。明るい月に、虫の歌」
皮肉のつもりで吐き捨てる。体が相変わらず動かない。動けないのではない。動かせないのだ。振り向きたくないから。振り返るのが怖いから。“今の”メリーの姿を見たくないから。
さわさわと、何かが私の全身を撫でる。視界の隅に、光る糸。髪の毛だ。メリーの髪の毛が、バラバラと伸びて私を撫でてる!
「ひ‥‥!」
「ああ、蓮子、可哀想に、そんなにふるえてしまって。まるでウサギみたい。うさみみれんこちゃん」
「‥‥そ、そのネタは子供の時から言われ続けてもう飽きたのよ」
「あらそう」
「そうよ!」
叫んで、足を後ろに蹴り出す。がくん、と何か突っ張る様な感覚。体が前に飛び出していく。走れた!
「あ、まって、蓮子、どこ行くの」
「逃げてるのよ!」
「何からぁ?」
「貴女から!」
下ばえの生い茂る道なき道を、草をかき分け走る。メリーの声が追いかけてくる。
ここがメリーの視ている世界?なんでメリーは私を食べたがる?あれは本物のメリーなの?
「蓮子ー。まってー。ひとくち齧らせてー」
「か、齧らせろって言われて待つ人間がどこにいるのよ!」
「えー。わたし、妖怪だからわかんない」
「認めたわねコノヤロー!」
「うん」
ああ言った。自分から妖怪だって認めた!
森はどこまでも続いてて、いくら月明かりがあると言っても明るさには限度がある。暗くて足元が見えない森は、全速で走れるようなコンディションじゃないわけで。でも逃げなきゃいけない。捕まったら、食べられる。メリーに私は食べられる!
「ねえ、蓮子」
メリーの声がする。近づいてきている。息が苦しい。ああ、もっと普段から運動しておくんだった!
「がんばってるところ、あれなんだけどね」
「何!わた、し、いま、逃げてる!んだから!はなし、かけ、ないで、っ!」
「んー、そうなんだよね。逃げてるんだよね。でもね」
メリーの声がすぐ近くに。やばい、やばいやばいやばい!
「貴女はもう捕まってるのよ」
「!?」
信じられない台詞が、真上から聞こえた。思わず私は見てしまった。空に浮かび、バラバラと伸びたブロンドを月夜に流して漂う、メリーの姿を。体がそのまま髪になってほどけているよう。その髪は、月明かりを反射しながら私の手足に延びていて――――
「ひいいいいいい!?」
「つーかまーえたっ」
私の体が宙に浮く。まるで操り人形のように、両手足に絡んだメリーの髪が、私を夜空へ引きずりあげていく!いや。まって、まってまってまって!
柔らかくて大きなものが、私の背中にくっついた。同時にぞわりと体を撫でるおぞましい感触。金色の髪が、私の胴体をぎちぎちに絡め取って――――
「いっただっきまぁす」
「あぎっ!」
全身に絡んだメリーの髪が、私の体を締め上げて。
暖かいものが私の体から流れて、メリーの髪を伝わってく。あー、雑巾みたいに絞られてる、わたし‥‥
何かメリーが言っているようだけど、もうおとなんか聞こえない。からっからに絞られた私を、メリーは頭から齧ってきた。
ぼりっ、って、硬いチョコを齧ったような衝撃。
ああそうか、アタマ、食べられちゃったんだものね。
激痛と一緒に、こんどこそ何も、見えなくなった。
*********************
「あああああああっ!」
「ふうー‥‥」
「はあっ、はあっ!」
「ああ、美味しかったぁ‥‥」
うっとりした声に、荒い息。額を押さえていた白い手がゆっくりと離れていく。飛び込んできた光の中に、ガラスのコップを探す。鷲掴みにして中身を一気に飲み干す。氷は全部溶けていた。私達はまた、喫茶店のボックス席にいた。
全身汗びっしょり。ずっとソファに持たれていたらしく、背中がじっとり濡れている。
「あのう‥‥お客様?大丈夫ですか?」
視線をあげれば、心配そうなウェイトレスさんが。はた目から見れば、額を押さえて背もたれに寄りかかって、あまつさえ悲鳴を上げるとか、発作か何かを起こしたとみられてもしょうがない訳で。
何か喋ればうめき声をあげそうなわたしの代わりに、メリーが答えた。
「ああ、大丈夫です。ちょっと、気分がすぐれなかったみたいで。もう落ち着きましたから」
「よろしければ、救急車お呼びしましょうか?」
「いえ、もう平気です。ね?ご心配おかけしました」
はきはきと答えるその声に、ウェイトレスさんは心配そうな顔をしながらも、奥の方に戻って行ってしまった。
「め、りー‥‥」
「ごめんね、蓮子。あれじゃ私が本物だって言っても、信じてくれないわよね」
「‥‥」
「でも、私は、メリーだから。これだけは、絶対に間違いないから」
「‥‥なに、あれは」
「夢。私の夢」
まあ、確かにあれは夢でしょうよ。とんでもなく悪い夢だけど!なにが悪夢を見ていない、よ!
「ごめんね蓮子。わたし、三つ嘘をついたわ」
「‥‥な、によ」
「一つ目、薬はとっても効き目があった。とても怖い夢を見たわ」
「‥‥」
「二つ目。私はもう一度薬を飲んだ」
「ああ、確かに、あれは、悪夢よね」
「三つ目。悪夢は確かに一回だけ見たけど、それはまだ続いてる。一晩だけじゃないの」
「は」
「いまも、夢を見ているわ」
隣り合って座るメリーの肩が震えてる。肩に回された腕が、もう一度、ぎゅう、と私の肩を掴んだ。
「私が見せるビジョンは、貴女にとっては幻。でも私にとっては、現実」
「‥‥メリー?」
「夢が現なら、現は夢。私の現実は、悪夢にすり替わった。今もそう。今の私の現は、悪夢なのよ。私が蓮子を食べちゃう、夢」
「いみ、分かんないわよ」
うつむくメリーの顔から、光る雫が流れて落ちる。紫の生地に藍色の染みを作って、涙がぽろぽろ落ちていく。
「もう一度夢と現をひっくり返そうと薬を飲んだけど、だめね。効き目を強めることしかしてくれなかったわ。私の現も、夢も、みんな悪夢になった」
そこまで言って、メリーは両手を顔に当てて、ぐずぐず泣き始めた。
「一旦は、最初の晩は夢の中であなたを食べたけど、昨日あなたに会って、においを嗅いだら、本物のあなたが食べたくなっちゃったの。もう、普通の食べ物じゃ我慢できなかった。どうしても蓮子が食べたくて。昨日は夜も眠れなかった。嘘をついたのも、ビジョンを見せたのも、みんなあなたを食べるため」
「‥‥だから、飲むなって言ったのに」
「ゴメン。ごめんなさい。まさか、こうなるなんて、思わなかった」
「‥‥」
泣くメリーを、私は無言で抱きしめる。わたしだって、まさかこうなるなんて予想もしてなかった。
今の彼女は私の事をオイシソウとか言わず、すっかり気弱なメリーになっていた。‥‥これは、お腹がいっぱいになって落ち着いたのだろうか。見れば、なんとなくメリーのお腹が膨らんでいるような‥‥
うげっ。
「蓮子、お願い。私の目を覚まして。私を悪い夢から覚まして」
「‥‥ほ、頬をつねったら、起きる?」
「だめ、それじゃ起きれなかった」
「あっちゃあ‥‥」
額を押さえて天を仰ぐ。メリーは隣でぐすぐす泣いている。
とどのつまり、メリーは薬を飲んだ悪夢の中で、夢と現の境界を飛び越えたのだ。その結果、現と夢がひっくり返ってしまった。メリーにとって、この世界は悪夢の世界。人食い妖怪になって私を食べるという悪夢の世界になっちゃってるのだ。でも実際にわたしを食べたら、私が死んじゃう。それを回避するために、わざわざビジョンの世界に私を連れ込んで、わたしを食べたのだ。
―――うわあ、めんどくさい状況!
「うう、ごめん、ごめんなさい、れんこ‥‥」
「うーん‥‥」
つねろうが何しようが、彼女の悪夢は現とすり替わっているのだ。しかも今彼女が見る夢も悪夢。現をどうやって覚ませばいいというのか。
「ふむ?」
そこまで考えたら、頭にひらめくものがあった。そうか。止めればいいのか。夢を。悪夢を悪夢では無くしたらいい。うん。意外とあっさり、解が見つかった気がする。
私はなおも涙を溢すメリーの頭を撫でて、ささやいた。
「わかった。メリー。起こしてあげる」
「え?」
「メリーの悪夢、覚ましてあげるわ」
泣きはらした目で、メリーがこちらを見上げてくる。半開きの口から、尖った犬歯が見えた。うあ、見た目も妖怪になってる。その牙に吸血鬼を思い浮かべる。そうだったら楽しかったのに。にんにくを嫌がるメリーとか、日の光を嫌がるメリーとか、見てて面白そう。
「れんこ‥‥?」
しかし現実は非情なもので。私の目の前にいるのは、闇にまぎれて私を襲う人食い泣虫妖怪メリーさん。やれやれね、とため息を吐いて、私はできるだけ優しい声で、ささやいてあげた。
「妖怪退治、しましょうね」
*******************
「おはよう、蓮子」
「‥‥おはよ。元気ね、今日も」
「昨日も蓮子をたっぷり堪能したもの。元気にならない訳がないわ」
「あっはっは。‥‥酷い目に遭わされたわ。昨日も」
「ご馳走様でした」
「っく、この、大喰らい妖怪めが」
「んふふ」
朝一の講義に向かう、大学構内の道。メリーは今日も元気だった。
今日は朝から、メリーも私もそれぞれのゼミの下級生相手に、講師をしなければならない。
目をこすりながら歩く私に、色つやのよいメリーが、うっとりした声で話しかけてくる。
「あは。でも昨日はとっても良い声で鳴いてくれたわね。すごく楽しかった。嫌がる蓮子を押さえつけて、こう、ジュルジュルって汁を啜って」
「‥‥あんまり大きな声で言わないで。捉えようによっちゃ、貴女の言動は一般的には夜の営みにしか聞こえないから」
「別に違わないでしょ。夜の営み」
「メリー‥‥」
逢瀬と言ったら、そうなるのか。昨晩も、私とメリーは会っていた。メリーの視せる、ビジョンの中で。そして確かに汁を啜られたけど、体液吸い尽くされてミイラにされたんだからね。わたし。夢の中で。
あの一件から、大分経つけれども、まだメリーの悪夢は続いてて、彼女は妖怪のままだった。でも、最初の頃みたいに、ぐずぐず泣くようなこともなく。今は明るく朗らかな、わたし限定の人食い妖怪になっちゃっているのでありまして。
――――メリーの悪夢を止める方法。私が思いついた方法はたった一つ。私を食べようとするメリーを、夢の中で返り討ちにしてやっつけること。”妖怪になって私を食べちゃう”という悪夢なのだから、私がメリーに食べられなければその悪夢は成立しない。
トリフネで少しできたように、夢の中なら、幻なら、思い通りに動けるはず。その力を使って、妖怪メリーさんを退治する。それが私の思いついた彼女の悪夢を止める唯一の方法だった。
しかし、言うは易し行うは難しっていうことわざがあるくらいで、現実はそうそう上手く行くものでもなく。
「でも昨日は惜しかったわね。もう少しで私の体、封じられたのに」
「‥‥周り中の草木に擬態して罠張ってたくせに。やられたふりして私を誘い込んだんでしょ?えげつない」
「やられていたのは半分ほんとうよ」
「半分‥‥」
「あの針の雨、久しぶりに痛かったもん。やっつけられてもいいかなって一瞬思ったわ。でも、ああもうまく準備してた罠の誘いに乗ってくれると、我慢できなくなっちゃって」
「あのさメリー、夢から覚める気、ある?」
「あるわよ?」
「嘘ばっかり」
「‥‥だって蓮子美味しいんだもの」
「うあ」
私はあれから、全戦全敗だった。メリーの食欲は、3日に一遍襲ってくるらしく、そのたびに私はメリーのビジョンの中で美味しく頂かれてしまっている。ビジョンの中で思い通りに動くところまではうまく行ったけど、空を飛ぼうが、光線を撃とうが、メリーは私を軽くあしらってしまう。
私にとって、メリーのビジョンは幻で、彼女にとっては現実というのが唯一の救いだろうか。そのおかげで、私は幻の世界の中でだけ食べられちゃって、”現”の世界では、メリーに食べられることなく生きながらえていて。メリーはビジョンの中でお腹いっぱいわたしを食べられるのだから、現の世界でわたしを食べなくても食欲を満たせていて。
‥‥正直、正気の沙汰ではないとおもう。定期的に惨殺されて喰われてるんだから。それに慣れてる自分が怖い。一応、他人に聞きゃ私達は外面上はまともに見えているようだけど、でも、もうこんなおぞましいことしてても何とも思わなくなってるってことは、心は‥‥いや、考えないようにしよう。
一回、ぼろ負けして目を覚ました時に、メリーが隣でもぐもぐ”何か”を口に含んでいた時にはさすがに絶叫したけど。だって出して見せようとするんだもの。
私の欠片なんか、夢の中から持ってくるんじゃないわよ。
もしかして、私のこの現の世界も、悪夢にすり替わっているんじゃなかろうか。狂ってるもの、この状況はどう考えても。
「次は頑張ってね。”退魔師”蓮子殿」
ヤな思い出にげんなりしているのを知ってか知らずか、妖怪少女がにっこりこちらを覗き込んでくる。次もダメかなと思いつつも、一応私は言い返す。
「ふん。今度こそは負けないから。絶対やっつけてやる」
「ふふふ。その意気その意気。ま、せいぜいがんばってね」
「あ、何よその言いぐさ!せっかく私が死ぬ思いして死にながらあなたのために頑張ってるのに!」
からかうように、強者の余裕をこれでもかと振り撒きながら、メリーが笑う。その横顔に怒鳴りつけてやったら、彼女はまたとんでもないことを言った。
「私は絶対に負けないから」
「は?」
メリーはそう言って立ち止まる。私は一歩隣で、彼女に合わせて立ち止まった。
「だって、食べちゃいたいほど可愛いんだもの。蓮子は」
「なっ」
「だから、私は妖怪になっちゃったのかもね」
振り返って笑うメリーの顔は、朝日の逆光の中で、そこだけ黒い影に染まってて。
白い歯が、そこだけ三日月みたいに浮かんでて。
怖いよ。メリー。
「‥‥歪んだ愛の告白、どうも」
「ふふふふ」
ふわりと笑うと、メリーはまた、朝日に向かって歩き出した。
――――トモダチなのにオイシソウ、ってやつ?
大昔の映画のコピーを思い出す。
この、食欲と愛欲を取り違えている腹ペコ妖怪をやっつける方法をどうにか考えなければ。
でも、その場合って、やっつけてしまったら、それはメリーを振ったことになるのかしらん。
「‥‥」
「蓮子ー。ゼミ遅れるわよー」
ヘンな思いつきに思わず立ち止まってしまった私に、メリーが遠くから声をかけてくる。
とりあえず、ゼミで講義する物理法則で頭をいっぱいにする。難しい問題は後からゆっくり考えよう。
朝日の中で人食い妖怪が私を待っている。
もう一生勝てないかもしれない、という心に浮かんだ恐ろしい予感を振り払うために、私は気だるい体に気合を入れて、ダッシュした。
ふわふわとした雰囲気はいつもの通りなんだけど、なんだか、暗いというか重たいというか。
西日差す喫茶店の窓際ボックス席。ラズベリーのタルトを口に運びつつ、メリーはうろんげにこちらを見つめてきて。
「‥‥なによ」
私の口元のチョコケーキが狙われている。そう思ったが、違った。
メリーはふわふわと、とんでもない台詞を口走ったのだ。
「おいしそう」
「このケーキはだめ。あげないわよ。今日はちょっと奮発したんだからね」
「ううんケーキじゃない。蓮子がおいしそうなの」
「ならよし」
「‥‥」
「えっ?」
顔を上げたら、メリーがタルトを齧ってて。いや、なんとなく流したけど今何か変なことを言わなんだか。
「あの、メリー?」
「美味しそうなの。蓮子が」
いやいや、突然何を言い出しやがりますか?私が美味しそう?これは何かしら、いわゆるそういう意味か。何を言っているのかしらん?この色ボケメリーさんは。
起きたまま寝てんじゃないわよとツッコもうとしたら、メリーは笑ってて。
「ひ?」
にちゃりと口を半開き。さっき食べたラズベリーの汁で、口の中が真っ赤。
まるで生肉を齧ってた動物みたいで。
その時私は直感した。
――ああ。
色欲じゃない。
あれは食欲だ!
「あの、メリー?」
戦慄する私をよそに、メリーは口の中の赤い汁をお茶で流し込むと、うっとりした顔で頬杖をついて、わたしを眺めてくる。
「改めて見てみれば、蓮子ってホント美味しそうなのよね。無駄な脂はないし、でもほっぺは柔らかそうだし。二の腕なんかいい味しそうよね。お腹も噛みごたえありそうだわ。ねえねえ蓮子。あなた今晩私の晩御飯にならない?ね」
「‥‥ね、じゃないわよ」
最後の私のセリフは、少しかすれていた。
ああ、どうしよう。
メリーが。
メリーが妖怪になってしまった。
***************
「――――悪夢の薬?」
「ええ。効能の欄にはそのように書いてるんだけど」
メリーがおかしくなる3日前の事。
昼2の講義が終わって、にぎやかになり出した学生会館のカフェ。隅っこのテーブルの上に丸薬の入った小瓶を置いて、わが相方はニヤリと笑って見せた。
たまたま講義が休講になり、思わぬ時間ができた私達。次の秘封倶楽部の活動計画でも立てようかと、お茶を飲んでいたらメリーが出してきたのがこれだった。非常にレトロなガラス瓶。貼られているラベルも質素なモノ。活版印刷っぽいちょっと歪みのある並び方をした文字たちが、真っ白な飾り気のないラベルにぱらぱら置かれている。‥‥しかもこのラベル、天然和紙のようであった。
メリーは小瓶を観察する私をからかうように、ひょいと瓶を持ち上げる。つられて上がる私の視線。小瓶とメリーの笑顔が並ぶ。
「飲んでみたいのかしら?」
「非常に興味深いけど。‥‥しっかしわざわざ悪夢を見せる薬とか、酔狂な薬剤師も居たもんね」
「良い夢見れるクスリだったら、ネット漁ればいくらでもあるみたいだけどね」
「それも似たようなもんじゃないの。夢見心地で地獄行き」
そうねと言ってメリーは小瓶を振る。黒い丸薬達が硬い音を立てて中で踊った。
「どこで手に入れたのよ」
「起きたら枕元に」
「また夢から拾ってきたの?」
問いかけに、メリーは「うん」と小っちゃくうなずいた。
彼女の見るビジョンは現実と同じ。境界を視るどころかしょっちゅう飛び越えている。正直危うい能力である。しかし彼女抜きには私達秘封倶楽部の結界暴きというメイン活動はできない訳で。
「夢の中で売ってたのよ」
「怪しさ200%じゃないの」
「頭にウサミミ付けたじょしこーせーのコスプレお姉ちゃんが街かどで‥‥」
「怪しさ400%になったわね」
手元のカップが空になったのでおかわりを頼む。メリーは相変わらず小瓶を持って、中の薬を見ていた。光にすかしてみたりして。なんだか無邪気にビー玉を眺める子供みたい。と、思っていた時だった。
やおらメリーは瓶のふたを開けると中の丸薬を一粒口に入れたのだ。
「まってまってまってメリー!」
「わきゃっ?」
背中の悲鳴に振り向けば、おかわりを持ってきてくれたウェイトレスさんが驚いてのけぞっている。かろうじてカップをひっくり返さずにはすんだようだ。スミマセンと謝って前を向きゃ、キャンディみたいに丸薬をしゃぶるメリーさんのお姿。あ、呑みこんだ。
大声を出したために店中の視線が集まっているのが背中越しに分かる。ナンデモナイデスヨー、とパタパタ手を振って、私は彼女を振りかえる。奴は澄ました顔して紅茶を飲んでいた。
小声で叫びながら、私はメリーを睨む。
「メリー!何やってるの!ペッしなさい!どんなものかもわからないのに!」
「ああ、これ一回バイオの人たちに調べてもらったから。別に危険なアルカロイド類とか、入ってなかったそうよ」
「サナトリウムに放り込まれたのもう忘れたの?危ない成分じゃなくても危ない病気の元とか入ってたらどうするのよ!」
「それも検査済み。さっき蓮子も飲んでみたいって言ってたじゃない」
「いきなり躊躇なく飲まないでよ!驚くから!」
「大丈夫。ハーブのいい香りしかしないから」
「‥‥答えになってないって」
「ちょっと舐めるだけのつもりだったんだけど、なんかおいしくて」
「だからねえ‥‥暢気すぎよ、あんた」
眉間を押さえてうつむいたら、鼻先に爽やかな香り。夏草の様で、なにかハーブの様で‥‥
「はうあっ!」
「ねー。良い匂いでしょ」
気が付けばあの小瓶が目の前に。あわてて顔をそむけ、思わず手で払いのけたけれど、瓶は寸でのところでひっこめられて中身が散らばることはなかった。
ちいっ。
「蓮子。これも倶楽部活動の内よ。夢の世界の夢の薬は、一体いかなる効能なりや。ってね」
「“悪夢を見る”でしょ。効能はラベルに書いてあるじゃないの」
「実際に確かめてみないと」
いったいどれだけ勇気があるというのかこの娘は。異世界から持ってきたというだけでも胡散臭いのに、おまけに悪夢を見せるという能書き付。それを良い匂いだからと躊躇なく口に運ぶなんて。普段夢の中で妖怪に追っかけられてて度胸が付いたのだろうか。
私も普段結界暴きやらメリーのビジョンにお供してトリフネ辺りまで行っちゃうようなことをしてるけど、いくらなんでも限度というものが。女子高生じゃないのだから、ノリだけで行動するのは止めた方が良いと思う。きっと。
やれやれと頭を振って、お茶を飲む。
「蓮子、顔が怖いわ。皺が増えるわよ」
「ああん?」
睨み付けたらメリーは胸に手を当てて、すっとぼけた表情で目を逸らした。
まあいい。友人の気持ちがわからないというのなら、思い知らせるまでだ。
「メリー、その薬、貸して」
「え、あっ、蓮子」
テーブルの上に置きっぱなしだった小瓶をかっさらうと、私はふたを開けて、一粒呑んだ。ハーブの香りが一瞬鼻を突き抜け、喉の奥に落ちていった。
驚いて目を白黒させるメリーに構わず、私はお冷を一気に飲み干す。
「ああ、飲んじゃった」
「度胸あるわね」
「だまらっしゃい。貴女が飲まなければ私も飲まなかったわ」
「そんな無茶苦茶」
「どっちが無茶苦茶よ」
ぎりっ、と睨んだら、メリーはしゅんとうなだれた。
小動物みたいな仕草に思わず頭を撫でたくなるのをこらえ、冷たい台詞を吐く。
「あー。今晩が楽しみだわ。悪夢にうなされたメリーさんが、泣きながら電話かけてくるのが」
「え、ウチに泊ってくれないの?」
「何当然のごとく言っちゃってるわけ?これは罰。相方の心配する声も聴かずに怪しいクスリを飲み干した友人への。ね」
「そんな、蓮子だって今日悪い夢見るかもしれないのに‥‥」
「だめ。私は私で我慢しちゃうから」
「れんこぉ‥‥」
「罰」
怯えた子犬みたいな目でメリーが訴えてくる。いまさらそんな顔されても遅い。トリフネで罹った病気のせいで彼女がサナトリウムに入れられた時、どれだけ私が心配したのか分かっていないのではなかろうか。友人に無駄な心配を掛けさせるものではない。‥‥そんなこというなら結界暴き辞めろ、という内なる声もあるのだが、今回は事情が違う。悪夢になるとわかっているのに。わざわざ危険な目に突っ込むこともないでしょう?
ビジョンならともかく、あなたはあなたの夢の中ではいつも一人で。しかも今回は、悪夢なのだ。
あなたが見てる夢には、私が一緒にいてあげられないじゃないの。
つぶらな瞳の誘惑に負けて「しょうがないわね」とか言っちゃう前に、私は心を鬼にして彼女のお願いを一蹴した。
「‥‥れんこーぉ」
「ばつーっ!」
*********************
それが3日前のことだった。
あの日薬を飲んだメリーさんは、今日は私の事をオイシソウと言ってニコニコニコニコこちらを見つめている。「美味しそうに育ったわー」とか言ってトマトをもぎ取る農家のおばちゃんのごとく。イヤわたし、トマトじゃないから。もぎたてフレッシュじゃないわ。フレッシュだけど。年齢的には。でも食べ物じゃないのよ私。だからお願いメリーそんな目で見ないで。
「美味しそうに育ってたんだね、蓮子って」
「やめて!」
悟り妖怪かあんたは!戦慄する私をよそに、やっぱりニコニコ「かーわいいー」とか言うのと全く同じ口調で「美味しそう」と言ってくる。どこまで本気か分からない。けど、私の勘が、私のさっきの感覚が正しければ、9割方本気のご様子。さっきから時々彼女の喉が動いている。唾を飲み込んでいるのだ。ひええ。
彼女の青い目が私を見つめている。視線がビタッと止まって動いていない。品定めされる家畜の気分てこういうものなんだろうか。私は牛じゃない。豚でもない。魚でもない。
一体どこを見てるんだろ。口か。腕か。お腹か。なんにせよいずこにせよ、ロクな目で見ていないことだけは確かである。
「蓮子の目も美味しそう‥‥」
目だった。目玉だった。だから恐いってば!
一体この三日の間に何があったというのか。この状況は一体何?夕暮れ時の喫茶店で、メリーは私をオイシソウって言ってうっとりしてる、この状況は。
彼女の言動が、全部私をからかうための冗談で、私は勘違いして無駄にビビってる?むしろそうであってほしい。しかし、私の知る限り普段のメリーは、こんな悪趣味な冗談を言うようなおちゃめ人間ではないということで。
「あの薬、やっぱり危ないクスリだったのね。メリー、あなた悪い夢どころか幻覚を見てる?いい?私は食べ物じゃないし、貴女はヒトを食べたりしない。普通の人間よ。おーけー?」
「私は人間よ。大丈夫。ちょっと蓮子が美味しそうに見えてるだけで」
「その時点で大丈夫じゃないのよ。医者に行きましょ。危険だわ」
「危なくないわよ。私はいたって健康」
「なら、時期の早すぎるハロウィンは止めて。お化けに仮装するにはあと半年以上は早いから」
「私は真面目。正気よ。蓮子」
「あーあーあー。それなら、やっぱり薬が脳にキてるわね。真面目に人を喰いたいとか、どう考えても正気の沙汰じゃない」
「あれは、あの薬は別にどうということはなかったわよ。確かにちょっとした悪夢は見るけれど、それだけ」
「本当に?」
「ほんとに。今はもう飲んでないし。あの一個だけ」
「‥‥」
「じゅる」
「よだれ啜らない」
喋っていたからつばを飲み込めなかったと言って、メリーはナプキンで口元を拭いた。その間も、彼女の視線はこちらから離れることが無くて。肉食獣の目の前に座っているのは非常に精神を消耗する。緊張していつの間にかにぎりしめていたカップの耳が、人差し指の腹に赤い跡を付けていた。
ちなみに私は、悪夢を見なかった。薬の効きが悪かったのか、詐欺まがいの代物だったのか。‥‥今この状況が悪夢という可能性もあるのだが。カップのあとの付いた指は骨がじんじん痛かった。
明るかった西日は、いつの間にかビルの陰に隠れていた。空が急速に青みを増している。“逢魔が時”という単語が唐突に頭に浮かんだ。‥‥魔物だったらすでに目の前にいるんだけどね。私の友人の恰好をした、金髪碧眼の人食い妖怪が。
そっか。そうだ。目の前でさっきから私の事をオイシソウと言ってきているのはメリーではないのだ。メリーに化けた妖怪なのだ。だったら――――
「私を偽物だと思っているのなら、それは間違いよ、蓮子」
「ひっ?」
また考えていたことをズバリ言われて、思わず悲鳴を上げてしまった。心臓に悪い!恐る恐る目をあげれば、頬杖をついていた手をテーブルの上で重ね、背筋を伸ばしたメリーが笑っている。
そしてやっぱりふわふわと口を開いた。
「私は本物。正真正銘、秘封倶楽部のマエリベリー・ハーンよ」
「‥‥証明してもらえるかしら。どうにもあなた、胡散臭い」
「そうね。信じてくれないなら、信じさせてあげられる方法、あるのよ」
「何。一体どんな方法で?学生証とか住基番号とかじゃないのは確かだろうけど」
「ちぇー」
「怒るわよ」
口をとがらすメリー状の物体。私の声が1オクターブ低くなったのを聞いて、「冗談よ」とか言ってくる。
これが冗談ならさっきからの言動は一体なんだというのか。
メリーは、テーブルの上に重ねていた右手をすっとあげた。いつもより白く見えた。
「目にさわってもいいかしら」
「‥‥ビジョン?」
「ええ。私の幻、貴女に見せてあげる」
ビジョンの共有。それは私とメリーがいつもやっている事。彼女の見ているものを、彼女が私の目を触ることで共有する。トリフネに行けたのもそのおかげ。わたしとメリーしか知らない二人だけの秘め事だ。
その事を、「二人だけしか知らない」という事実を彼女が知っているのが証明というのか。そうではないだろう。
メリーならばわかっているはず。あの秘め事は、私とメリーとでしか試したことが無い。でも、もし私が、たとえば――――
「それが証明になる?もし私が、貴女とだけ限定でビジョンを共有できるのではなく、誰に対しても見ているものを無理矢理共有できちゃう女だったら、それはどうなのかしらね」
「私が偽物だとするのなら、そして蓮子がそんなすごい能力を持っているというのなら、その時は私の見ているモノを蓮子が見て判断すればいいことだわ」
メリーが偽物なら、私はビジョンを視れない。メリーの様な妖怪が私にビジョンを見せることができるなら、私はビジョンを見て判断する。私が、ビジョンを見せることのできない偽物メリーの視ているものを無理矢理見れる能力を持っていたのなら‥‥
結局視るしかないのか。目の前にいる、妖怪メリーのビジョンを。
「‥‥いいわ、見てあげようじゃないの」
口から出てきたのは、自分で聞いていて、まるで観念したかのような、小さい声だった。握りしめていたカップを置く。メリーの目が細くなった。笑ってる。
「よかったぁ‥‥蓮子、私嬉しいわ」
「何が良かったのかさっぱり分からないんだけどね」
額に滲む汗。メリーが席を立って、私の隣に座った。ボックス席の壁際に押し込まれる私。胸の動悸が次第に大きくなってくる。メリーの左腕が、私の肩に回される。あー、逃げらんない。どうしよう。
「私はキャバのお姉さんじゃないんだから、その座り方はどうなのかしら。肩に手なんか回して、やらし」
「恋も食欲も性欲も根本は同じ欲なのね。獲物を逃がしたくない。だから捕まえる」
「短絡的」
「蓮子は私を信じてくれたのでしょう?だから私のビジョンを視てくれるために、こうして捕まってくれた」
「信じたんじゃない。信じるために視るのよ。分かってる?」
「そうねー」
メリーが肩を寄せてくる。暖かい。いつものメリーの匂い。そう、そうよ。これは私の親友。相方。たった二人の秘封倶楽部の。ちょっと肉食獣チックだけど、今日は。‥‥今日は!
「さあ、目を閉じて。触るわ」
「‥‥目を閉じた瞬間ガブリとか、無しだからね」
「しないよ」
メリーの優しい声が耳元に。その声に誘われるかのように、自分でもびっくりするくらい躊躇することなく、私は目を閉じた。うん。だってありえないのだから。メリーが偽物とか、妖怪とか。信じたい。メリーが本物だって。これは全部冗談だって。
あはは、ああ、私は馬鹿だなぁ。友人の“冗談”に付き合って、こんな喫茶店で妖怪ごっことか――――
そうやって、盛大に現実逃避をしていた瞬間だった。
その、嬉しくてたまらなさそうな声が聞こえたのは。
「ごめんね、蓮子」
「な!?」
「いただきまーす」
突然呟かれたその声に、悲鳴をあげるいとまも有らばこそ。
ぎゅうと押し付けられるように、私の瞼はメリーの指で、塞がれた。
****************
「うああああああ!?」
目を開く前に叫んでいた。私の目を押さえつけるメリーの手を振り払おうとしたけど、その手の感触はいきなり消えた。
「メリー!」
振り返ったが、メリーがいない。いや、ここ、喫茶店じゃない。
降り注ぐのは月の光。辺りを包むのは虫のコエ。森だ。ここ、森の中だ。
「メリー!」
のどが痛くなるくらい大きな声を出してみるけど、返事が無い。気配もしない。人をいきなりこんなところに放っておいて、一体何を考えて――――
「れーんこ」
それはいきなり耳元に現れた。脳髄を痺れさせるような、生暖かくて低い声が後頭部の夜空から降ってくる。跳ねる両肩が、柔らかな手で押さえられる。
「恐がらないで」
それは無理な話だ。
「ここは夢。私の夢」
百も承知である。
「ここ、暗いわ、メリー」
「私には暗くないわ」
「これはなに。一体どんな、悪夢を見ているの」
「今は悪夢を見ていないわよ」
「‥‥嘘つけ」
これで悪夢じゃないならどこから悪夢になるのだろうか。
振り返って睨み付けたいけど、体が動かない。
かちんこちんに固まっている私を捕まえながら、メリーがささやき続ける。
「悪夢は確かに見たけれど、今は、悪い夢は見ていないわ」
「‥‥耐性できるのが早いのかしら。一晩だけとか、随分良心的な薬じゃない。はん、よくよく見れば、良い夜よね。明るい月に、虫の歌」
皮肉のつもりで吐き捨てる。体が相変わらず動かない。動けないのではない。動かせないのだ。振り向きたくないから。振り返るのが怖いから。“今の”メリーの姿を見たくないから。
さわさわと、何かが私の全身を撫でる。視界の隅に、光る糸。髪の毛だ。メリーの髪の毛が、バラバラと伸びて私を撫でてる!
「ひ‥‥!」
「ああ、蓮子、可哀想に、そんなにふるえてしまって。まるでウサギみたい。うさみみれんこちゃん」
「‥‥そ、そのネタは子供の時から言われ続けてもう飽きたのよ」
「あらそう」
「そうよ!」
叫んで、足を後ろに蹴り出す。がくん、と何か突っ張る様な感覚。体が前に飛び出していく。走れた!
「あ、まって、蓮子、どこ行くの」
「逃げてるのよ!」
「何からぁ?」
「貴女から!」
下ばえの生い茂る道なき道を、草をかき分け走る。メリーの声が追いかけてくる。
ここがメリーの視ている世界?なんでメリーは私を食べたがる?あれは本物のメリーなの?
「蓮子ー。まってー。ひとくち齧らせてー」
「か、齧らせろって言われて待つ人間がどこにいるのよ!」
「えー。わたし、妖怪だからわかんない」
「認めたわねコノヤロー!」
「うん」
ああ言った。自分から妖怪だって認めた!
森はどこまでも続いてて、いくら月明かりがあると言っても明るさには限度がある。暗くて足元が見えない森は、全速で走れるようなコンディションじゃないわけで。でも逃げなきゃいけない。捕まったら、食べられる。メリーに私は食べられる!
「ねえ、蓮子」
メリーの声がする。近づいてきている。息が苦しい。ああ、もっと普段から運動しておくんだった!
「がんばってるところ、あれなんだけどね」
「何!わた、し、いま、逃げてる!んだから!はなし、かけ、ないで、っ!」
「んー、そうなんだよね。逃げてるんだよね。でもね」
メリーの声がすぐ近くに。やばい、やばいやばいやばい!
「貴女はもう捕まってるのよ」
「!?」
信じられない台詞が、真上から聞こえた。思わず私は見てしまった。空に浮かび、バラバラと伸びたブロンドを月夜に流して漂う、メリーの姿を。体がそのまま髪になってほどけているよう。その髪は、月明かりを反射しながら私の手足に延びていて――――
「ひいいいいいい!?」
「つーかまーえたっ」
私の体が宙に浮く。まるで操り人形のように、両手足に絡んだメリーの髪が、私を夜空へ引きずりあげていく!いや。まって、まってまってまって!
柔らかくて大きなものが、私の背中にくっついた。同時にぞわりと体を撫でるおぞましい感触。金色の髪が、私の胴体をぎちぎちに絡め取って――――
「いっただっきまぁす」
「あぎっ!」
全身に絡んだメリーの髪が、私の体を締め上げて。
暖かいものが私の体から流れて、メリーの髪を伝わってく。あー、雑巾みたいに絞られてる、わたし‥‥
何かメリーが言っているようだけど、もうおとなんか聞こえない。からっからに絞られた私を、メリーは頭から齧ってきた。
ぼりっ、って、硬いチョコを齧ったような衝撃。
ああそうか、アタマ、食べられちゃったんだものね。
激痛と一緒に、こんどこそ何も、見えなくなった。
*********************
「あああああああっ!」
「ふうー‥‥」
「はあっ、はあっ!」
「ああ、美味しかったぁ‥‥」
うっとりした声に、荒い息。額を押さえていた白い手がゆっくりと離れていく。飛び込んできた光の中に、ガラスのコップを探す。鷲掴みにして中身を一気に飲み干す。氷は全部溶けていた。私達はまた、喫茶店のボックス席にいた。
全身汗びっしょり。ずっとソファに持たれていたらしく、背中がじっとり濡れている。
「あのう‥‥お客様?大丈夫ですか?」
視線をあげれば、心配そうなウェイトレスさんが。はた目から見れば、額を押さえて背もたれに寄りかかって、あまつさえ悲鳴を上げるとか、発作か何かを起こしたとみられてもしょうがない訳で。
何か喋ればうめき声をあげそうなわたしの代わりに、メリーが答えた。
「ああ、大丈夫です。ちょっと、気分がすぐれなかったみたいで。もう落ち着きましたから」
「よろしければ、救急車お呼びしましょうか?」
「いえ、もう平気です。ね?ご心配おかけしました」
はきはきと答えるその声に、ウェイトレスさんは心配そうな顔をしながらも、奥の方に戻って行ってしまった。
「め、りー‥‥」
「ごめんね、蓮子。あれじゃ私が本物だって言っても、信じてくれないわよね」
「‥‥」
「でも、私は、メリーだから。これだけは、絶対に間違いないから」
「‥‥なに、あれは」
「夢。私の夢」
まあ、確かにあれは夢でしょうよ。とんでもなく悪い夢だけど!なにが悪夢を見ていない、よ!
「ごめんね蓮子。わたし、三つ嘘をついたわ」
「‥‥な、によ」
「一つ目、薬はとっても効き目があった。とても怖い夢を見たわ」
「‥‥」
「二つ目。私はもう一度薬を飲んだ」
「ああ、確かに、あれは、悪夢よね」
「三つ目。悪夢は確かに一回だけ見たけど、それはまだ続いてる。一晩だけじゃないの」
「は」
「いまも、夢を見ているわ」
隣り合って座るメリーの肩が震えてる。肩に回された腕が、もう一度、ぎゅう、と私の肩を掴んだ。
「私が見せるビジョンは、貴女にとっては幻。でも私にとっては、現実」
「‥‥メリー?」
「夢が現なら、現は夢。私の現実は、悪夢にすり替わった。今もそう。今の私の現は、悪夢なのよ。私が蓮子を食べちゃう、夢」
「いみ、分かんないわよ」
うつむくメリーの顔から、光る雫が流れて落ちる。紫の生地に藍色の染みを作って、涙がぽろぽろ落ちていく。
「もう一度夢と現をひっくり返そうと薬を飲んだけど、だめね。効き目を強めることしかしてくれなかったわ。私の現も、夢も、みんな悪夢になった」
そこまで言って、メリーは両手を顔に当てて、ぐずぐず泣き始めた。
「一旦は、最初の晩は夢の中であなたを食べたけど、昨日あなたに会って、においを嗅いだら、本物のあなたが食べたくなっちゃったの。もう、普通の食べ物じゃ我慢できなかった。どうしても蓮子が食べたくて。昨日は夜も眠れなかった。嘘をついたのも、ビジョンを見せたのも、みんなあなたを食べるため」
「‥‥だから、飲むなって言ったのに」
「ゴメン。ごめんなさい。まさか、こうなるなんて、思わなかった」
「‥‥」
泣くメリーを、私は無言で抱きしめる。わたしだって、まさかこうなるなんて予想もしてなかった。
今の彼女は私の事をオイシソウとか言わず、すっかり気弱なメリーになっていた。‥‥これは、お腹がいっぱいになって落ち着いたのだろうか。見れば、なんとなくメリーのお腹が膨らんでいるような‥‥
うげっ。
「蓮子、お願い。私の目を覚まして。私を悪い夢から覚まして」
「‥‥ほ、頬をつねったら、起きる?」
「だめ、それじゃ起きれなかった」
「あっちゃあ‥‥」
額を押さえて天を仰ぐ。メリーは隣でぐすぐす泣いている。
とどのつまり、メリーは薬を飲んだ悪夢の中で、夢と現の境界を飛び越えたのだ。その結果、現と夢がひっくり返ってしまった。メリーにとって、この世界は悪夢の世界。人食い妖怪になって私を食べるという悪夢の世界になっちゃってるのだ。でも実際にわたしを食べたら、私が死んじゃう。それを回避するために、わざわざビジョンの世界に私を連れ込んで、わたしを食べたのだ。
―――うわあ、めんどくさい状況!
「うう、ごめん、ごめんなさい、れんこ‥‥」
「うーん‥‥」
つねろうが何しようが、彼女の悪夢は現とすり替わっているのだ。しかも今彼女が見る夢も悪夢。現をどうやって覚ませばいいというのか。
「ふむ?」
そこまで考えたら、頭にひらめくものがあった。そうか。止めればいいのか。夢を。悪夢を悪夢では無くしたらいい。うん。意外とあっさり、解が見つかった気がする。
私はなおも涙を溢すメリーの頭を撫でて、ささやいた。
「わかった。メリー。起こしてあげる」
「え?」
「メリーの悪夢、覚ましてあげるわ」
泣きはらした目で、メリーがこちらを見上げてくる。半開きの口から、尖った犬歯が見えた。うあ、見た目も妖怪になってる。その牙に吸血鬼を思い浮かべる。そうだったら楽しかったのに。にんにくを嫌がるメリーとか、日の光を嫌がるメリーとか、見てて面白そう。
「れんこ‥‥?」
しかし現実は非情なもので。私の目の前にいるのは、闇にまぎれて私を襲う人食い泣虫妖怪メリーさん。やれやれね、とため息を吐いて、私はできるだけ優しい声で、ささやいてあげた。
「妖怪退治、しましょうね」
*******************
「おはよう、蓮子」
「‥‥おはよ。元気ね、今日も」
「昨日も蓮子をたっぷり堪能したもの。元気にならない訳がないわ」
「あっはっは。‥‥酷い目に遭わされたわ。昨日も」
「ご馳走様でした」
「っく、この、大喰らい妖怪めが」
「んふふ」
朝一の講義に向かう、大学構内の道。メリーは今日も元気だった。
今日は朝から、メリーも私もそれぞれのゼミの下級生相手に、講師をしなければならない。
目をこすりながら歩く私に、色つやのよいメリーが、うっとりした声で話しかけてくる。
「あは。でも昨日はとっても良い声で鳴いてくれたわね。すごく楽しかった。嫌がる蓮子を押さえつけて、こう、ジュルジュルって汁を啜って」
「‥‥あんまり大きな声で言わないで。捉えようによっちゃ、貴女の言動は一般的には夜の営みにしか聞こえないから」
「別に違わないでしょ。夜の営み」
「メリー‥‥」
逢瀬と言ったら、そうなるのか。昨晩も、私とメリーは会っていた。メリーの視せる、ビジョンの中で。そして確かに汁を啜られたけど、体液吸い尽くされてミイラにされたんだからね。わたし。夢の中で。
あの一件から、大分経つけれども、まだメリーの悪夢は続いてて、彼女は妖怪のままだった。でも、最初の頃みたいに、ぐずぐず泣くようなこともなく。今は明るく朗らかな、わたし限定の人食い妖怪になっちゃっているのでありまして。
――――メリーの悪夢を止める方法。私が思いついた方法はたった一つ。私を食べようとするメリーを、夢の中で返り討ちにしてやっつけること。”妖怪になって私を食べちゃう”という悪夢なのだから、私がメリーに食べられなければその悪夢は成立しない。
トリフネで少しできたように、夢の中なら、幻なら、思い通りに動けるはず。その力を使って、妖怪メリーさんを退治する。それが私の思いついた彼女の悪夢を止める唯一の方法だった。
しかし、言うは易し行うは難しっていうことわざがあるくらいで、現実はそうそう上手く行くものでもなく。
「でも昨日は惜しかったわね。もう少しで私の体、封じられたのに」
「‥‥周り中の草木に擬態して罠張ってたくせに。やられたふりして私を誘い込んだんでしょ?えげつない」
「やられていたのは半分ほんとうよ」
「半分‥‥」
「あの針の雨、久しぶりに痛かったもん。やっつけられてもいいかなって一瞬思ったわ。でも、ああもうまく準備してた罠の誘いに乗ってくれると、我慢できなくなっちゃって」
「あのさメリー、夢から覚める気、ある?」
「あるわよ?」
「嘘ばっかり」
「‥‥だって蓮子美味しいんだもの」
「うあ」
私はあれから、全戦全敗だった。メリーの食欲は、3日に一遍襲ってくるらしく、そのたびに私はメリーのビジョンの中で美味しく頂かれてしまっている。ビジョンの中で思い通りに動くところまではうまく行ったけど、空を飛ぼうが、光線を撃とうが、メリーは私を軽くあしらってしまう。
私にとって、メリーのビジョンは幻で、彼女にとっては現実というのが唯一の救いだろうか。そのおかげで、私は幻の世界の中でだけ食べられちゃって、”現”の世界では、メリーに食べられることなく生きながらえていて。メリーはビジョンの中でお腹いっぱいわたしを食べられるのだから、現の世界でわたしを食べなくても食欲を満たせていて。
‥‥正直、正気の沙汰ではないとおもう。定期的に惨殺されて喰われてるんだから。それに慣れてる自分が怖い。一応、他人に聞きゃ私達は外面上はまともに見えているようだけど、でも、もうこんなおぞましいことしてても何とも思わなくなってるってことは、心は‥‥いや、考えないようにしよう。
一回、ぼろ負けして目を覚ました時に、メリーが隣でもぐもぐ”何か”を口に含んでいた時にはさすがに絶叫したけど。だって出して見せようとするんだもの。
私の欠片なんか、夢の中から持ってくるんじゃないわよ。
もしかして、私のこの現の世界も、悪夢にすり替わっているんじゃなかろうか。狂ってるもの、この状況はどう考えても。
「次は頑張ってね。”退魔師”蓮子殿」
ヤな思い出にげんなりしているのを知ってか知らずか、妖怪少女がにっこりこちらを覗き込んでくる。次もダメかなと思いつつも、一応私は言い返す。
「ふん。今度こそは負けないから。絶対やっつけてやる」
「ふふふ。その意気その意気。ま、せいぜいがんばってね」
「あ、何よその言いぐさ!せっかく私が死ぬ思いして死にながらあなたのために頑張ってるのに!」
からかうように、強者の余裕をこれでもかと振り撒きながら、メリーが笑う。その横顔に怒鳴りつけてやったら、彼女はまたとんでもないことを言った。
「私は絶対に負けないから」
「は?」
メリーはそう言って立ち止まる。私は一歩隣で、彼女に合わせて立ち止まった。
「だって、食べちゃいたいほど可愛いんだもの。蓮子は」
「なっ」
「だから、私は妖怪になっちゃったのかもね」
振り返って笑うメリーの顔は、朝日の逆光の中で、そこだけ黒い影に染まってて。
白い歯が、そこだけ三日月みたいに浮かんでて。
怖いよ。メリー。
「‥‥歪んだ愛の告白、どうも」
「ふふふふ」
ふわりと笑うと、メリーはまた、朝日に向かって歩き出した。
――――トモダチなのにオイシソウ、ってやつ?
大昔の映画のコピーを思い出す。
この、食欲と愛欲を取り違えている腹ペコ妖怪をやっつける方法をどうにか考えなければ。
でも、その場合って、やっつけてしまったら、それはメリーを振ったことになるのかしらん。
「‥‥」
「蓮子ー。ゼミ遅れるわよー」
ヘンな思いつきに思わず立ち止まってしまった私に、メリーが遠くから声をかけてくる。
とりあえず、ゼミで講義する物理法則で頭をいっぱいにする。難しい問題は後からゆっくり考えよう。
朝日の中で人食い妖怪が私を待っている。
もう一生勝てないかもしれない、という心に浮かんだ恐ろしい予感を振り払うために、私は気だるい体に気合を入れて、ダッシュした。
欲だから混同しやすいというよりは
性欲と食欲は欲望のなかでもかなり近接しているといえるのかも
優しい退魔師蓮子さんと人食い泣虫妖怪メリーさんに私もお原いっぱい
背徳的(?)な蓮メリも良いものですね
このまま妖怪と人間のまま幸せに暮らすのもありなんじゃないかな!
次の作品を楽しみにしてます