レミリア・スカーレットはずんずん歩く。
鼻歌でも歌い出さんばかりの上機嫌で。
鬱陶しいほど生い茂った樹木の波をかき分け、下草を踏みしめて、蜘蛛の巣を蹴散らして、張り出した枝をバキボキと折り捨てて。道なき道に簡易通路を作成していく。
いつもなら咲夜や美鈴が率先する露払いだ。けれど、今は別だ。今はこの作業すら楽しくて仕方がない。
レミリアの後方、2メートル弱の距離をつかず離れず、パチュリー・ノーレッジが歩いている。
手には一冊も本を持たず、魔具の類も身につけずに、着の身着のままで、レミリアが作成した簡易通路を淡々と歩いている。
365日病弱のパチュリーにも体調が良い日というのが稀にある。今日がそれだ。喘息さえ発症しなければ、彼女があんがい身体を動かすこと自体は嫌いじゃないということを、レミリアは承知している。
いい気分だ。
実にいい気分だ。
笑い出したい衝動を胸で飼い慣らし、手足を思う存分じたばたさせる。
うっそうとした森には日光も射さない。お気に入りの日傘は大剣よろしく背中に袈裟懸けでバッチリ装備。日傘を覆いかぶすように背負っているのは特製ザックで、色々仕込みをしたこれは、秘密兵器みたいな塩梅なのだ。
空が見えないから判断がつかないけれど、雨の心配があるにはあった。けれどレミリアは大いに安心していた。
だってもしもの時は、後ろのパチュえもんにおねだりすればいいんだし。きっと瞬きする間に館へ戻っていることだろう。
◆ ◆ ◆
道なき道をばく進すること二時間。
ちょっと面白い光景にぶち当たったので、レミリアとパチュリーは歩みを止めた。
延々と続くかに思えた木々の弾幕が突然ひらけて、森の中にぽかりと空いた空間が現れたのだ。
ひらけているとは言っても日光はやはりわずかばかりで、せいぜい梢から覗く木漏れ日が幾らか増しているぐらいである。背の高い楡や樫の大木が空を覆い隠しているのが原因で、見上げると地上よりかはずいぶん眩しい光のまだら模様が見て取れた。
目線を下へずらせば、四畳半ほどの大きさを陣取って澄んだ水が溜まっていた。泉だ。柔らかい下草がふちを固めている。
「湧き水ね。地下水が汲み上げられているんでしょう」
後方からパチュリーの解説。
下草を踏み入って水底を覗いてみた。ゆらゆら揺れる水草の合間から絶えず水がせり出していた。ときおり気泡が迷い出て、水面まで辿り着いては弾けて消える。
「へえ。水が綺麗だし、座りやすそうなスペースもあるし、ちょうどいいな。ここにしよう」
「なにが?」
質問には応えず、レミリアは背中のザックをおろした。
ザックの口を開いて中を漁る。自分で荷造りをしていないので、どこにあるのか分からない。まず荷物の最上部にかぶせてあったタオルを剥ぎ取り、あっちこっちへ手を突っ込む。
背後のパチュリーはレミリアがザックをおろした時点で状況を把握したらしく、返事を待たず行動を開始したようだった。かすかな足音が泉のふちへと至り、それから緩慢な動作でしゃがみ込む気配。
ふと振り返って見てみると、どこから取り出したのかレジャーシートを下に敷いてお行儀よく鎮座している。隠せるような大きさではない。おかしい。魔法か。魔法なのか。
若干気にはなったが、パチュリーがよくわからない方法でよくわからない行動をするのはいつものことなので、脳裏から締め出すことにした。脳ないけど。
気を取り直して、がさごそを続行。それから数十秒ほど粘った甲斐あって、
「あ、あった!」
ついにお目当てのブツを探し当てた。藤でできた上等のバスケットだ。
ひとつ見つかると、次々と連鎖して発掘された。
紅茶を入れた魔法瓶。
透明なプラスチックのコップがふたつ。
手拭き用のウェットティッシュ。
ランチョンマット。
マットを地面に広げて、その上に戦利品を並び立てる。
したり顔をパチュリーへ向けると、稀代の魔女は眉を小さく上げた。先を促す時の彼女の癖だ。
レミリアはふふんと胸を張る。
「ピクニックにサンドイッチはつきものなのよ」
「ピクニックだったのね。知らなかったわ」
「言ってなかったからね」
レミリアはティッシュを一枚引きずり出して、パチュリーへ手渡した。それから、ふたつ重なっているコップを分けて、魔法瓶の紅茶をこぽこぽ流し入れた。ふたつ並べて平坦な地面の上へ。次いで深呼吸。……どきどきする。
実のところレミリアは柄にもなく緊張していた。
残るは藤のバスケット。これを目にするまで忘れていたけれど、今からする行為は若干勇気がいるのだ。バスケットへ手を掛けて、思わずパチュリーをちらりと窺った。
パチュリー・ノーレッジはちょっと不思議そうに首を傾げたあと、やはり小さく眉を上げる。常ならぬ緊張感を漂わせ始めた親友をみとめて、興味深げに先を促す。レミリア・スカーレットは覚悟を決めた。
それでも目を瞑ってしまったことぐらいは許して欲しい。
カチャリと金属の留め具が外れる音がして、手の中の蓋が持ち上がる感覚がして、
数秒を経たあと、おそるおそる目を開いた。
――ああ……。
藤の中には、今朝お別れした時よりも三割増しでひしゃげたサンドイッチが鎮座していた。解っていたことだけど、突きつけられた現実は山より高く海より深い。どうしよう。予想よりも悲惨なこれを、パチュリーは受け入れてくれるだろうか。自然と上目遣いになってしまった目線の先で、パチュリーは変わらぬ無表情でこちらを眺めている。
◇ ◇ ◇
パチュリーは、その眼差しを静かに受け止める。
捨て犬もかくやとばかりにしょぼくれたレミリアとは裏腹に、パチュリーが抱いた心情は『得心』だった。
凪いだ海原のように心動かされることもなく、なるほどね、と胸中で独り言つ。レミリアが日も昇らぬ早朝からばたばたと駆け回っていたことは把握していたし、それよりもさらに数日前――「最近ちょっと調子がいいの」と彼女へ話した時を起点として忙しげにしていたことも知っていた。「外へ行こう!」と連れ出されてからずっと気にかけてはいた。友人のやりたいこと。
なんとなく解った。
そして、それは、自分も嫌いではなかった。
「それ」
「……………………え」
「卵とハムの向こうにあるそれは何かしら」
「え、えっと、これ? レタスとトマトの――」
台詞が終わる前に、パチュリーは右手を差し向けた。手のひらを上にして。
数秒の間があって、ぱぁぁと花も綻ぶ笑顔があらわれた。
手渡されたサンドイッチはレミリアの幸福そうなオーラに当てられて十割増しの化粧がされて見えた。もちろん理想が現実になることはなく、サンドイッチは変わらぬ不格好な出来には違いなかった。野菜の水切りが失敗していてびしゃびしゃだったし、端の切り口も不揃いでちゃんと包丁が握れていたかも怪しい。
パチュリーはそれをしばらく眺めて、それから、小さく最初のひと口を口へ運んだ。
魔法使いに飲食の必要はなく、それでなくとも食に対して淡白なパチュリーだ。「サンドイッチは好きか」と問われれば「興味がない」と答えるだろう。そうとも興味はない。サンドイッチに興味はないのだ。
「うんうん。あんがいいけるなこれ」
現金なもので、レミリアは立ち所に機嫌を取り戻した。パチュリーの横へ並んで座って、余った卵やハムのサンドイッチを頬張り、訳知り顔で舌鼓を打つ。じっくり咀嚼し続けるパチュリーとは違って、ひょいひょい摘んでは平らげるスタイルだった。ここに咲夜がいたのなら、行儀作法を叱り、健啖家ぶりを喜んだだろう。
パチュリーは最後のひと切れを胃に収め、自分の分のコップを拾い上げた。薄いプラスチックでできたそれを両手で包んで転がす。熱伝導率が高い素材だから手のひらが熱い。息を吹きかけ、しばらく冷ましてから一口目を啜る。予想はしていた。そして想像の通りだった。
口内へ広がったのは、緑茶のように渋い紅茶だった。香りも風味もどこかへ飛んでしまっていて欠片も残っていない。
遅れて紅茶を口に含んだ隣人が、即座に表情を凍らせている様が見て取れた。どうやら茶の味のほうは敏感らしい。
一瞥。目が合った。
パチュリーは小さく眉を上げる。それから、落ち着いた手つきでゆっくりと、二口目を口に含ませた。
◆ ◆ ◆
「キャンプに焚き火はつきものなのよ」
「キャンプだったのね。知らなかったわ」
「言ってなかったからね」
サンドイッチと紅茶を消費して一呼吸、レミリアは腹ごなしの焚き火を主張した。
先ほどのピクニックが及第点とはいかなかったことは認めざるを得ない。レミリアは自省する。無念なことだ。
だからこそ、次のキャンプで名誉挽回を目指す――――というわけでは特になく、単純にやってみたかったのだ。焚き火。だって面白そうじゃない?
さいわい相方から不満の声は特になく、というよりもリアクションはほぼ得られなかった。返ってきたのはお決まりの消費 2kcal にも満たない『眉を上げる』の仕草のみ。
けれど、レミリアは破顔した。
うきうきと文字通り跳ねながら、四方八方から薪を集めて回った。
秘密兵器のザックにも薪までは用意されていなかったため現地調達はやむなしなのだ。美鈴め。使えないやつめ。
泉の淵の、ここだと決めた場所へ集めた小枝を山と積む。左手に小石。右手にも小石。カチカチフォーメーションだ。
火など、視界のすみでマイペースにも清水の成分分析なぞしているパチュリーを頼れば一瞬で解決するだろうが、そこはそれ。そんなことをしたらきっと減るのだ。浪漫的な何かが。
仁王立ちからしゃがみ込みのスタイルへと移行して、小石と小石を打ち鳴らす。
ガチンッと嫌な音がして、小石が欠けた。
レミリアは眉を怒らす。
ガッ ゴッ
ガキン ガギギギギッ
ゴゲンッ
ガリガリガリガリッ
◇ ◇ ◇
透明なプラスチックでよかった、とパチュリーは思う。おかげで紅茶の渋をすすいで落としてしまえば、こうして有効活用できる。
ガゴゴッ ゴリッ
右手をかざし魔術の光をあてる。ぽぅと淡い紫色に水が輝く。ということは――石灰が多分に含まれているらしい。この近辺で石灰を含む地層はなかったはずだ。珍しい。
座標のデータを添えて、この水はあとで転送しよう。
ガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッガッ
どうせなら、水草も一緒に送ったほうがより正確な資料となるだろう。採取方法を検討する必要がありそうだ。
「ぐああああああああ!!」
ついに咆哮。作業開始から2分58秒。予測よりも1分28秒も遅れたので、頑張ったと言える。
コップの向こう側、水壁で歪んだレミリアの顔が怒りに燃えている。歪みすぎて色合いしか判らないから、推測だけれど。
「ぐううううう……!」
ところで、はたで観察していたパチュリーは、とっくの昔に原因を特定していた。
レミリアは樹木の枝を折って薪を集めていたが、それは生木で、水分を多分に含んでいるのだから火がつくわけがない。ガチコチ打ち鳴らして今や粉骨寸前の石はその辺に落ちていた石だ。火打ち石でない石で火を熾そうとしているのだから、やはり火がつくわけがない。
レミリアは頬をむくれさせて石を投げ捨てた。集めた薪のうち、大振りなひとつを無作為に掴んで、さらにもうひとつの大振りな枝を地面に横たえさせた。掴んだほうの枝は両手で挟むように持ち、もう一方の枝に先端をあてがう。
魔女は興味深げに頷いた。なるほど。そうきたか。
「あちょーーーーーーーーーー!!」
気が抜ける掛け声だがレミリアは真剣だった。真剣に気が抜けることをしている。
パチュリーはコップから改めて顔をあげ、その様子をしげしげと見つめた。
レミリアのこういう姿は珍しかった。元来、見てくれを気にするこのお嬢様は、周囲の視線を無視して作業へ没頭することがまずないのだ。ましてや今のようにみっともない姿を晒すことなど、気位の高い彼女を思うと考えられない。
周囲の視線などまるで頓着せず、書籍ひとつ与えられれば外部情報を完全シャットアウト、ふと顔をあげると隣でレミリアが床に『の』の字を書いていたなんてことも多々ある自分とは対照的だ。
思わず作業の手も休めようというものだ。
レミリアは吸血鬼の膂力でもって、ただただ一心に枝を回している。
パチュリーの視線など忘れているのだろう。得も言われぬ速度で両手を動かし、摩擦の焦点は決して外さず、稀に見る集中力の限りをぶつけている。
甲高い掛け声はどこまでもどこまでもこだました。
――虚仮の一念、岩をも通す。
たぶん、そんな諺が最も適してるのだろう。
パチュリーには信じがたいことに、レミリアにしたら信じた通りに、生木から立ち昇った黒煙を火種として念願の『キャンプの焚き火』は無事終了した。
◆ ◆ ◆
泉を元気に出立し、レミリア・スカーレットはずんずん歩く。
鼻歌でも歌い出さんばかりの上機嫌はまだまだ続く。
鬱陶しいほど生い茂った樹木の波をかき分け、下草を踏みしめて、蜘蛛の巣を蹴散らして、張り出した枝をバキボキと折り捨てて。道なき道に簡易通路を作成していく。
――ただし上体はあまり揺すらず、背の低い枝に気をつけながら。
レミリアの後方。というよりも背中。先ほどまでザックが陣取っていたポジションに木製の椅子があり、パチュリー・ノーレッジがそこへ横向きに腰を掛けている。
つまり背負っている格好だ。
パチュリーを延々歩かせるのも気が引けるので、こっそりザックへ忍ばせていたランドセル型の椅子である。ぬくもりてぃ溢れる一品だ。
『製作者:紅美鈴』な本作は、「いい感じに作れ」というアバウトな命令を安請け合いしてくれた結果だった。胸を叩いていい笑顔だった門番の姿が思い浮かぶ。
ちなみにこの椅子、ザックから取り出してすぐのときはどこからどう見ても折り畳まれた珍妙な木材で、予想外の物体を目にしたレミリアはひどく当惑したものだった。当惑し、ザックを覗きこんで、他にそれらしい物がないか探した。……無かった。もう一度覗きこんだ。やっぱり無かった。
何度も何度も顔を出しては引っ込めてを繰り返し、とうとう途方に暮れて立ちすくんでいた折に、
「……请按这儿?」
ふと、パチュリーのつぶやき。次いで、すっと彼女の右手があがり、椅子の一点を指し示す。
パチュリーがよくわからない理屈でよくわからない行動をするのはいつものことなので危うく流すところだったけれど、その指先が答えを用意してくれていた。
指の向こうにはボタン。ボタンの上部には走り書き。『请按这儿』。
「これを押せ、と書いてあるわね。中国語で」
「なんで中国語なのよ」
あいつ帰ったら覚えてろ。
決意を胸にボタンを押した。次の瞬間、死ぬほど仰天した。木材が跳ねたのだ。3メートルほど華麗にジャンプ。着地と同時に膨張――膨張としか表現できない何かが起きた。木材がガタガタと暴れ回り、見る間に変形していったのだ。1分もしないうちに立派な座椅子の完成だった。しかもご丁寧に、ザックを引っ掛ける取手まで出現している。どうやって作ったんだこれ。
そしてまた、何よりも癪に障ったのは今パチュリーが尻を乗せている当たりにでかでかと踊っていた『紅美鈴』という達筆な署名だ。何の自己主張だ。あいつ帰ったら覚えてろ。朝もや晴れぬ正門の前、寝ぼけ顔でサムズアップしていた門番の姿が思い浮かぶ。
……まあ美鈴のことはもういい。
後回しだ。
背中のパチュリーを意識する。
唯一無二の親友は座ったまま大人しくしているわけではないようで、手が届く範囲の葉っぱや小枝を採取しているようだった。泉の時といい、今日は研究者じみている。最初にふたりで歩いていた最中も、もしかしたらこうやって知的好奇心を満たしていたのかもしれない。
歩きながらの細かい作業はけっこうな体力を消耗させるが、パチュリーになら造作も無いことだろう、とレミリアは思う。いつだったか本人に聞いたことがある。食事も睡眠も不要であるということは、すなわちエネルギー供給も疲労回復も魔力さえあればカバー可能であるということだと。魔力が続くうちであれば、彼女が倒れることはないのだと言う。そしてパチュリーは無尽蔵の魔力を有する魔女だ。おそらく、こと持久力に関しては、条件次第ではレミリアすら凌駕する。
だから、ランドセル椅子はただのレミリアの自己満足だった。パチュリーに必要だったわけではない。
事実はともかく線の細いパチュリーに負担をかけるのは嫌だったし、なんとなく、背負って歩いてみたかったのだ。それに今日は調子がいいといっても、いつなんどき発作が起こるともしれない。
……そうだ。発作が起きたらどうしよう。もしそうなったときは、一刻も早く紅魔館へ戻らなければ。
喘息で苦しむ最中ではレミリアに掴まる余力もないだろうから、両手でしっかり抱きかかえて飛んで戻ろうか。でも、ハイスピードで飛んだとなると空気抵抗も激しいわけで、パチュリーの身体に障るに違いない。もしかしたら蝙蝠の球体で包んで運ぶほうがいいかもしれない。
うん。そうだ。そうしよう。
外側から炭化するだろうけど、きっと一割ぐらいは灰を免れた状態で館へ送り届けられるだろう。
◆ ◆ ◆
道なき道を進むこと三時間。
森の切れ目に行き着いたので、レミリアとパチュリーは歩みを止めた。
「おおー……」
思わずの、感嘆の声。
眼前にそびえたのは切り立った崖だった。
頂上が見えないから、少なくとも10メートル以上のものだろう。
「レミィ?」
物言いたげなパチュリーの声。
レミリアは考える。さて、どうしよう。別に迂回してもいいのだけれど、どうにも面白くない。飛んで超えてもいいのだが、せっかくここまでずっと自分の身体だけを使って歩いて来たのに、それを破るのも気が乗らなかった。
ならば手段はただひとつ――
「レミィ、登るのはいいのだけれど、」
「よしッ、――ん? なんだ。パチェにはやっぱり見抜かれてたか」
「何点か要求があるわ」
「なに?」
レミリアはいつもの癖でパチュリーの顔を窺おうと振り返った。
ぶおんっと風を切る音がして、背中に負荷がかかる。振り返った先には森。パチュリーの姿はない。
「……………………」
「ひとつ。私は登るの嫌だから、このままここに座っているわね。運んで頂戴」
「あ、うん」
変わらず背後から聴こえるパチュリーの声は冷静で、特にツッコむ様子はないところが逆にいたたまれなさを助長させていた。
ぶおんっと風を切る音をさせて、再び崖のほうを向く。
「ふたつ。数メートルも登れば樹木の体長を超えるから日に当たるようになるでしょう。日傘は私が差すわ」
なるほど。それはありがたい。
崖登りには両手を使うだろうから、日傘を差す余裕はないだろう。
「みっつ。最後ね。登るルートは私が決めるわ。それに従って」
「ええええええええええ」
これには大いに不満だった。人の指示で登るなんて、楽しくもなんともないではないか。
レミリアはぶーぶーと文句を垂れた。当然の権利だ。要求に屈するわけにはいかない。
だというのに、冷酷な魔女はどこ吹く風だった。曰く、
「そこの取っ掛かりを右手で掴むとするじゃない。貴女は次にどこを掴む?」
突然の質問でレミリアは目を白黒させる。
言葉に従って崖のほうへ注意を向けると、影法師の世界に小さな光のスポットが浮かび上がっていた。パチュリーの魔法に違いなく、彼女の言う『そこ』を示しているのだろう。確かに掴みやすい高さの突起である。
あれを右手で掴んで、そのあと?
「そうね……あ、あの左上のやつ。ちょうどいい位置にあるじゃない」
「あそこ、岩肌が脆いから崩れるわよ」
「え、そうなの?」
「そうなの」
「じゃあ、その上のやつ」
「腕が届かないでしょう」
「む。じゃあ、そっちじゃなくて最初のやつの真上にあるの」
「あれも無理」
「え、私そんなに腕短いっけ。……………………ごめん。答えなくていい。あの右っかわのにする」
「無難な選択ね。だけどその次はどうするの? もうどこにも届かないわよ。あそこからじゃ」
「むむむ」
あっちの取手。むこうの出っ張り。
どこを選んでも返ってくるのは端的な駄目出しだった。
それからも、あれやこれやとムキになって選ぶのだけど、そのたびにあの手この手で切り返されて、レミリアは終いには投げ遣りな気持ちになってきた。だって、妹の理不尽な反抗だってここまでは続かない。気が触れていると評判なかの妹は、あれでどうして育ちの良さが影響してか暴言を吐き続ける自分自身の態度に耐えられなくなるようで、いつも決まって一定の時間が過ぎると捨て台詞を吐いて強引に終わらせるのだ。美鈴や咲夜がかまおうとするのも、あのへんの愛嬌によるところだろう。
しかしパチュリーは容赦がなかった。魔女の名に恥じぬ辛辣さだ。
レミリアはとうとう根負けして、
「ちょっとパチェ! これ正解ないんじゃない!?」
背後から、ほぅと感嘆の溜息が聞こえた。
「聡いわね。正解」
「ほんとにそうだったの!?」
流石にあんまりではないか。
再び不平不満のオーケストラを奏でるレミリアに、しかしパチュリーはしれっと答える。魔女の提示する選択肢に正解が含まれない例は多いのよ、と。
「正解ルートはそこではなく、そっちの取っ掛かりを左手で掴む、ね。右手が届く範囲に次の取っ掛かりがあるでしょう? それを掴んだあと、すぐ下の取っ掛かりに右足を移動させるのよ。丈夫な足場だから体重移動も可能よ。体重を移動させたら、今度は背伸びをして真上の取っ掛かりを左手で掴みなさい。同時に、左足は右手がある位置に移動ね。面積が小さいから爪先に力を込めて」
「……」
「ロッククライミングはある程度の知能がないと成立しないスポーツ」
「……」
「レミィは握力も背筋力もあるからその分で楽だけど、身長が足りないからルート選択がシビアね。下手な進路を選ぶと詰むわよ」
というわけで、日傘を差したパチュリーを背負いながら、彼女に事細かな指示を仰いでロッククライミングをするというよく解らない状況へ突入した。
最初は仏頂面で登っていたレミリアだったがそのうちすっかり機嫌を取り戻した。体験してみて実感するに、なるほどこれは自分でルート選択するのは難しそうだ。パチュリーに任せておいたほうが安心できる。それに、ふたり連れ立って歩いていた時よりも、彼女を背負って歩いていた時よりも、今のほうが協力して進んでいる感覚があって心地よかった。必要がなければ貝のように喋らないあのパチュリー・ノーレッジが、二拍とおかず声を発するのも楽しい。なかなか味わえない体験だ。
樹木の背丈などとうに越え、てっぺんを目指してどんどん進む。
飛翔能力を持っているのだから空へ近づく行為自体は慣れていたけれど、宙に浮くのではなく何かにしがみついて高度を増やすのは思った以上に新鮮だった。下を覗いた時の立ち眩みに似た感覚も、より強いように思う。
頬に当たるのは、崖をはね返る変則的な風。
崖を越えて半分だけ見える青い空。
足元に広がる青い森。
唯一欠点があるとするのなら、ちょっとみっともないこの格好で。登ってみたくて登ったけれど、いざ「何をしているの?」と問われれば答えに窮する。「パチェ背負って崖登りしてます」……うん。なんだそれ。他人事だったら絶対笑う。例えばあの妖怪の賢者が春の亡霊を背負って登頂していたら、少なくとも向こう一年はからかいの種にする。天狗にでも見つかろうものなら素っ破抜かれて翌朝の一面特集必至だろう。……うん。ここって妖怪の山の近くだっけ?
思わず手足を止めてきょろきょろと周囲を見回してみた。
体勢的に視界確保が難しく、結果、よくわからない。
「レミィ?」
「あ、いや、天狗でも飛んでないかと思って」
「天狗ね」
ふと、パチュリーが淡く笑った――――気がした。
虚を突かれた。
それはとても珍しい笑い方で、だから、ひどくびっくりしたのだ。気のせいだろうか。確信が持てない。背中の相棒の顔が見えないことがもどかしい。
「心配しなくても大丈夫よ、レミィ」
「え? あ、え?」
無機質なはずの彼女の声が、なんだか優しげな表情を帯びている。
それも気のせいだろうか。
けれど、確かにそう感じられる。
「姿と気配を消す魔法をかけてあるわ。泉を出てから以降ね」
「え?」
「5メートルも接近されれば機能しないような代物だけど。十分でしょう。あまり大掛かりな魔術だと、かえって違和感を覚えさせるものだし」
「え?」
「レミィ?」
「あ、な、なに?」
「どうかしたの?」
気遣いの言葉。これもおかしい。あのパチュリーが? あれ、もしかして、背中のコレはパチェではないのではないでしょうか。
「な……」
「な?」
「……なにやつ……」
ごすっ、と鈍い音がして、頭に痛みが走る。
パチュリーに鈍器のようなもので頭を小突かれたらしい。
頑丈な吸血鬼だからあまり痛くはないのだけれど、心情的にはとても痛い気がする。
「目は覚めたかしら」
「うー……」
「ともかく。そんなわけだから大丈夫よ」
「え、なにが?」
ごすっ。
もう一度パチュリーに説明され、レミリアはようやく飲み込めた。つまり我が親友はさすがは我が親友ということだ。何も語らずとも必要なものを用意してくれる。
どうだこの阿吽の呼吸。幻想郷広しといえど、ここまで息のあったコンビはそういまい。
レミリアは自信満々にふんぞり返った。崖に張り付いた体勢だからかなり無理があったが気にしない。誰かに大声で自慢したい気分だった。まったく、どうして周りに誰もいないのだろう。
炎にガソリンをぶっかけた場合と似たもので、パチュリーの後押しを受けたレミリアのやる気は烈火のごとく燃え上がった。
これまでのペースを遥かに超える速度でもって、難攻不落(今そう決めた)の崖を攻略にかかる。
吸血鬼の筋力と魔女の叡智が組み合わさるのだ。倒せぬものなどきっとない。
そうして、ただただ無心で崖にかじりつき。
レミリアとパチュリーは、とうとう登頂に成功した。
◆ ◆ ◆
ロッククライミングの醍醐味は、登り切ったあとにある。
もうこれ以上先がない頂きに辿り着いた優越感。息をつける安堵感。振り返ると出発地点は遥かな彼方の豆粒に見える。ここへ来るまでに至った苦難を反芻し、見下ろす世界全部を抱きしめるのだ。
強靭な吸血鬼なので人間ほどには苦労していないが、悪くはない気分だった。
吹き付ける風も心地いい。汗でもかいていたのなら、真夏のシャワーのように感じられただろう。
ついつい自信満々にふんぞり返る。
今度は地に足を着いていたので綺麗にできた。
「お疲れ様」
背中からのねぎらいの声。お疲れ様といえばパチュリーだってそうのはず。レミリアは首を捻らせて、
「パチェもね」
やはりパチュリーの顔は見れなかったけれど、彼女が肩をすくめただろうことは見なくてもわかる。これぐらいで疲れる身体の作りはお互いにしていない。
ふと背中の負担が軽くなった。
相棒がか弱いお姫様をご辞退なさったようだ。膝を払う気配がして、しばらくすると真横から風に乗って温かい体温が伝わってきた。そちらへ目をやるといつもの無表情。
手には閉じた日傘を下げている。
パチュリーが日傘を下げている様は、なんというか、新鮮な感じがした。意外と似合っている。レミリアはちょっと感心をする。あまり見ない組み合わせなのは、日陰の少女だからだろう。
紅魔館のどこかにはパチュリー専用の日傘もあったはずだ。咲夜が準備していないはずがない。そちらの傘だったらもっと似合っていたのかもしれない。
この傘は自分のものだから、パチュリーにはほんの少しだけちぐはぐだ。
……あれ、私の日傘? パチェが手に下げて?
「え、じゃあ、あれ、今。なんで、」
慌てて西の空へ目を向けた。上下左右と見渡して、にっくき宿敵の姿を探した。どこにも見当たらない。
一度認識をすると色々な情報が流れこんでくる。
辺りはほのかに薄暗かった。まだまだ明るくはあったけど、残り香のような感覚だった。そういえば風も寒々しい。背後の草むらから、虫の音色が響いてくる。
「え、え、あれ」
とたんに焦りが胸いっぱいに広がり始めた。
もうこんな時間になっているなんて。あといくらかしたら逢魔が時だ。血が沸き立つ時間を忘れるなど、悪魔にあるまじき失態だ。
けれど今だけは悪魔を辞めてもいい。レミリアは思う。我が宿敵よ、願わくば。あの地平線から再び顔を出してはくれまいか。
……だって。「おゆはんまでにはお帰りくださいね」って言われてるんだもの。咲夜に。
どうしよう。まだ全然足りないのに。もっともっとずっとこのままで居たいのに。
思わずスカートに手をやって、生地をつまんでは離してを繰り返した。
焦りはまるで落ち着かない。
ぱたぱたと忙しなく、背中の羽も開いては閉じる。
いっそ帰らずにおこうか。咲夜は従者だ。それでもいい。『おゆはん』だって時を止めて保存してくれるはずだ。
……ああ、でも『おゆはん』って。そういえばお腹が空いている。特製ザックにはサンドイッチしか用意していない。さっき散々漁ったから間違いない。他に食べるもの。食べるもの。あそこの虫――いやさすがにそれは。
ぶんぶんと頭を振る。
いくらなんでもあんまりだろう。
そうだ。しかも、小悪魔にも釘を刺されているんだった。「絶対絶対絶対、今日のうちにはパチュリー様をお返しくださいね」って。体調を慮ってか眉をへの字に曲げて自分に怯えながらも主張する司書を、そんなの当然よと鼻で笑っていたのになんてことだ。
だったらやっぱり帰らないと。レミリアだってパチュリーの調子が悪くなるのを歓迎しない。
でも帰りたくない。
もっとずっとこうしていたい。
どうして楽しい時間というやつは、幸せというやつは、簡単に過ぎていくものなのだろう。
◇ ◇ ◇
外で風に当たって景色を眺めるのもたまになら悪くはないものだ、とパチュリーは思う。崖の先端に腰をかければ椅子に座っているのと似た居心地になるし、だんだん夜へ向かって陰っていく世界の変化も興味深い。
ときおり横合いから悩ましげな唸り声が聞こえてくるけれど、聞き慣れた音だったのであまり気にはならなかった。理由も見当がつく。
だから、あと10分ほど放置してから、頃合いを見計らって冷水でもかけようと考える。もしもグズるようだったら、こちらが先に飛び立ってしまえばいいだろう。きっと慌てて着いてくるはずだ。
あれだけ帰りを渋っているのだから、無理矢理の帰宅は不本意に違いなく、紅魔館へ帰り着いたあとのふて腐れた姿が今から目に浮かぶようだ。素直に感情を表現する様というのは見ていて飽きない。
驚かせるのも楽しいかもしれない、とも思う。
夕暮れの景色から視線を外し、うろうろと熊のようにうろつき始めたレミリアを眺めやる。
ときおり垣間見えるのは、それは見事な困り顔。
例えば、そうね――
帰り着いてから改めて、『今日は私“も”貴女を独り占めできて嬉しかったわ』なんて明かしたら、いったいどんな面白い顔をするのだろう。
二人の親友らしいやり取りを楽しく読ませて頂きました。
寝る前に読むと良い夢が見られる気がする。
やっぱりこのコンビはいいですね!
読んでて楽しかったです。
読み終えてこちらも満足感でいっぱいです
友達。親友。以心伝心。
シンプルなタイトルがこれほど内容と合ってるのは素晴らしい
レミリアのー生懸命さが良い・・・
『幻想郷広しといえど、ここまで息のあったコンビはそういまい』というレミリアの自賛は誇張ではありませんね
パチュリーのために四苦八苦するレミリアが可愛くてもうね。パチュリーもそんなレミリアを察して暖かく見守っている、というのもまた良い。いいレミパチェでした。
まさに親友同士の阿吽の呼吸ですね。
ほっこりしました。
このゆったりとした関係になるまでの経緯が気になります。
思わずサンドイッチ持ってお出かけしたくなるお話でした。
Drコトーでタケヒロ君が喘息の女の子を連れだして島でデートする話を想起した
必要ないと分かっていてもパチュリーを背負わずにおれないレミリアの心情が
女性的なそれと言うより、少年の意地のように感じられて面白い