椛の家に入るなり、布都は腕を組み、難しい顔をした。そのまま家の中をぐるりと見回している。
家主の椛も、ついてきたにとりも、思わず顔を見合わせる。
そもそもは、足の向くままに妖怪の山に来た布都に、にとりがからかい半分で椛の狭い家の風水診断を依頼したことに端を発する。
妖怪には基本的に厳しく当たる布都だが、親しくなれば人と接する時と何ら変わりない。人間好きのにとりと布都がいつの間にか親しくなっており、にとり経由で椛も顔見知りになっていた。以来、たまにここに遊びに来るようになっていたのである。
さて、話の流れで風水診断をお願いしたのだが、こうも険しい顔をされるのは予想外だった。何か余程悪いものでもあるのかもしれない。
にとりに肘で突かれるが、特段悪いことがあったわけでもなく、何も心当たりがない。
「……うーむ。空気が淀んでおる」
「あのー」
椛が恐る恐る声をかけた。
「何が悪いのかはよくわかりませんが、改善はされるんでしょうか」
「む? あぁ、それは簡単なことであろうな」
「それじゃ、一つお願いして良いですか」
「別に我でなくても良いのだが……どれ、上がらせてもらうぞ」
布都は家に上がると、窓を開け放した。
「これで良かろう」
「え?」
「いくら妖怪が頑健だとはいえ、空気は綺麗な方が心身に良いというものだ」
流石の椛も、窓を開けるだけで風水的に良くなるとは思えない。
「窓開けるだけで、何かこう、風水学的に、そんなに良くなるんですか?」
「む? いや、開閉だけだと流石にそういうことはないぞ。位置によっては色々あるが」
「でも、これだけで良いって……」
「む……そうか。勘違いさせてしまったか。そもそも風水として見たら、この家は特に問題は無いぞ」
「え?」
「空気の入れ替えをしていなくて淀んでいたから、空気の入れ替えをしただけだ」
「……」
要は、ただ単に椛が休日に寝てばかりいて、窓も開けずに惰眠を貪っていたから、不衛生だったというだけの話らしい。
「強いて言えば、ほれ、そこの箪笥の上に花を飾ると良い」
布都のついでのアドバイスは、にとりの大笑いのせいで聞こえ辛かった。
ヘッドロックでにとりの笑いを押さえつけたところで、茶を淹れて一服している。残念ながら犬走家の茶は本当に粗茶なので、有名豪族の者に出すには少々気が引けたが、他に何もないので仕方がない。
幸い布都は全く気にしていないようだったが、先ほどから部屋の隅の何かをチラチラと見ている。椛と布都は向かい合っている形になるので、何を見ているのかはわからないが、いずれにせよ椛の後方にある何かを気にしているようだ。
椛の方から切り出そうと思ったが、布都が先に口を開いた。
「あれは、将棋盤か?」
振り向くと、確かに将棋盤が置いてある。大将棋用ではなく、一般的に使われている八十一マスのタイプのものだ。
椛の家では、刀と盾を除けば最も価値のあるものかもしれない。
古く重厚で、柾目の模様が美しく、駒と合わせて犬走家で唯一の自慢の品である。ちなみに椛愛用の武具は椛自身の手足のようなものであり、例え価値は高くとも、自慢の品だとかお宝だとかいうものとはまた違うように思っている。
卓袱台をずらし、盤を駒と一緒に持ってきて布都の前に置くと、布都は目を輝かせた。
「おぉ……。我には鑑定眼なぞは無いが、重厚でいかにも価値がありそうな一品であるな」
「私も目利きでも何でもないですが、実際そうらしいです」
「布都さんは将棋を指すんですか?」
にとりが茶を啜りながら尋ねる。
「少し前に存在を知って始めたばかりでな。しかし、面白いのだが難しくて敵わぬ。眠りにつく前は無かったものだから、恥ずかしながら今更初心者という有様だ」
将棋が伝わった時期については諸説あるようだが、布都が眠りにつく前に見たことはない様子だから、どうやら飛鳥時代には無かったらしい。
「最初は誰だってそうですよ。物部さんは大将棋は知ってますか?」
大将棋の盤を持ってくると、布都は目を丸くした。
「な、何と。それは初めて目にした。そんな将棋があるのか」
「これも面白いですよ。この機会に覚えてみますか?」
そう言ってにとりが笑うが、大将棋を新規に覚えるのは容易なことではないので、あくまで冗談で言ったに過ぎない。布都も流石に首を横に振って、
「いやいや、小さい方でも手一杯なのに、そんな大規模な将棋は目が回ってしまう。小さい将棋がもっと強くなってからにしよう」
「そうですか、残念だなぁ。でもいつかはこれに挑戦してくれるってことで良いですか?」
「む……か、考えておく」
「その台詞はその気がない時の台詞ですよ。あーあ、布都さんに振られちゃったー」
「あ、いや、そういうわけではなくてだな……」
慣れてみると、布都は気さくで話しやすい。にとりがからかっているのを真に受けてあたふたしている姿などを見ていると、その顔立ちや体格も相まって、可愛らしくさえ見える。尤も体格だけなら椛も小さく、布都とあまり変わらないのだが。
将棋の話題になったところで、大将棋の盤を片付けながら、一つ提案をしてみた。
「折角なんで、一局どうですか?」
「む、我と指すと?」
「そうです」
「むぅ……だが、さっきも言った通り、我は初心者なのだ。おまけに、こんな大層な将棋盤を持っていたり、大将棋などというものにも精通しているところなどを見ると、お主らは強いのであろう?」
「まぁ……自慢するわけではないですが、結構強い方だと思います。でも、駒落ちで指しますよ」
将棋は決められた通りに点対称に駒を並べてから指し始めるのだが、両者の実力者の差が大きい場合、強い方がある特定の駒を除いた状態で開始する、ハンデをつけた対局をすることもある。この戦いを駒落ち戦と呼ぶ。逆に双方とも駒を外さず普通に指すのは平手(ひらて)戦と言う。
「それであれば……いや、それでも敵わぬだろうな。だが後学のためにも、ここは一つ指南を受けよう」
「これは面白くなってきたなぁ。椛はめっちゃ強いから気にせずガンガン指して大丈夫ですよ。ところで布都さんは将棋の実力はどんなもんですか?」
「そうだな……」
布都の話を聞き、とりあえず飛車と角行を落とす、一般的に二枚落ちと呼ばれる形で指すことになった。飛車も角行も大駒と呼ばれ、攻防に大きな役目を果たす重要な駒だ。この二枚を外して勝つには余程の実力が無いと困難である。
結果としては、二枚落ちでも椛がさほど苦労することなく勝利した。しかし思っていたよりは遥かに上手く、とっくに初心者を卒業していると言っても良いくらいの実力のように見受けられた。
将棋や囲碁等で指し手の研究をしていくうちに、互いに最善の手を指していく手順が確立される。その最善手の手順を一般に定跡と呼ぶ(囲碁だと定石と書く)が、布都の指し方は定跡を踏まえた丁寧な指し方であり、誰かに教わったか本で勉強したように思われる。
先ほど布都の実力の程度を判断するため色々と尋ねていた時には、どのように勉強していたかまでは聞いていなかった。
「いやはや……参った。手も足も出ないとはまさにこのことであるな」
「いや、全然そんなことはないですよ。定跡も知ってるみたいですし。物部さんは誰かから将棋習ったんですか?」
「人里の古本屋で見つけた本が一冊だけあってな、それが教科書替わりだ」
「一冊だけですか。それでこれほどならば、尚更大したものです」
特定の戦法を深く書いているものか、簡単な定跡を広く浅く書いてある本か、いずれにせよ一冊の本だけを頼りに、初心者の試行錯誤でここまで強くなったのなら、少々驚くべきところである。それほど布都は意外な強さを示した。
「布都さん一人でなく、えーと、道場でしたっけか、神霊廟でしたっけか、そこの皆さんと指してるんですよね」
「うむ。だが、太子様も屠自古も我同様に初心者であるから……恥ずかしい話だが、三人寄っても文殊の知恵とはならぬ。女三人寄れば姦しい、の方がしっくりくる体たらくだ」
文殊と言った時に僅かに顔をしかめているのは諺の菩薩に嫌悪感を示したからのようだ。布都の生真面目さか、宗教の根の深さか、椛には良くわからない世界である。
「なるほど。どっちにしても布都さんは初心者ではないですねぇ」
「えぇ、十分に強いと思いますよ。多分物部さんだけでなく、その道場の方も結構な腕前なんでしょうね」
「うぅむ、完敗しておいて褒められるのはどうにも……」
布都は頭を掻いて複雑な表情を浮かべる。
と、不意に布都がその手を下ろして、
「今日対局したのも何かの縁かもしれん。今後、我等に将棋の指南をしてくれぬか?」
「え?」
椛とにとりが顔を見合わせる。
「負けはしたが、対局してみて、改めて将棋というものの面白さがわかった気がした。将棋でも何でも、わかればわかるほど、わからぬということがわかって、面白いものだな。二人の時間があるときで構わぬから、指導賜りたい」
思わぬ申し出を受けて、二人とも困惑する。とはいえ将棋を指す仲間が増えるのは嬉しいことである。また、椛は哨戒の仕事、にとりは機械修理等の依頼事があるが、どちらも毎日のことではない。妖怪の山に立ち入る者は少ないから、哨戒任務は勤務日数そのものが多くないし、にとりの方も修理依頼等はそうしょっちゅう来るわけではなく、趣味で機械弄りをしている日の方が圧倒的に多い。
「……いや、すまぬ。突然変な申し出をしてしまった。お主らも事情があるだろうのぅ」
「いえ、別に良いですよ。私らの暇な日はちょっとばかり不定期ですけど、基本暇ですから」
にとりが笑顔で答えた。
「む……良いのか? 我が勝手に言い出したことであるから、無理はせんで良いのだぞ」
「別に無理してなんかないですよ。将棋仲間が増えるのは嬉しいですしね。椛なんか休みの日はどうせ寝てるだけだし」
「余計なお世話だ」
「ふむ……それでは、一つよろしくお願いする」
丁寧に深々と頭を下げられ、思わず椛も頭を下げる。敬意を払われる方には慣れていないので変な気持ちになる。
「実力が上達した暁には、お主らが望めば、こちらも道教の秘術を伝授しようぞ」
「そうですねぇ、それは考えておきます」
「おのれお主、その気が無いのだな」
「おや、ばれたか。あはは」
にとりが明るく笑い、日頃仏頂面の椛も、つい微笑した。
了承したは良いものの、数日後にいざ三人揃ってにとりのいる川沿いの工房に現れた時は、椛もにとりも緊張した。布都は「我等」と言っていたので、将棋を勉強中の三人が来ることはわかっていたのだが、所謂聖人君子と呼ばれる者達が自分達に教えを乞いに来るとなると、何となく気後れする。
帯剣し、不思議な髪形をした人物が丁寧に頭を下げた。それに合わせて後ろに控える二人も丁寧にお辞儀をする。椛達はそれを見て慌ててぺこぺこしている。
「こんにちは。君達が、私達の師となる犬走さんと河城さんですね」
師と言われて、一層困惑する。
(……困った。私は教師には向いてないなぁ)
人里の寺子屋の教師に敬意を抱いた。
将棋教室は、いつも椛とにとりが駄弁っている川沿いの草原で始まった。川のせせらぎが耳に心地よく、天気の良い日は二人で外に将棋盤を持ち出し、指していることがある。滝の裏に次ぐお気に入りスポットである。
大きな困惑と多少の緊張の中で始まった将棋教室だが、二度三度と行われると講師役にも徐々に慣れてきた。高貴なる生徒達が優秀なので教える側としても遣り甲斐があってなかなかに面白い。
何より、同じ趣味の仲間が増える喜びが思った以上に大きく、椛も何となく指導に熱が入ってくる。話し方こそいつも通り間延びしてゆったりした口調だが、口数は遥かに多い。椛自身も指導中に自分の口数の多さに驚いた。
(今日も随分喋ってるなぁ)
今日が何度目の講習かは忘れたが、慣れたにせよ、人見知りであまり話したがらないはずのいつもの自分が嘘のようだ。だが、悪い気はしない。
自分の好きなことの話をしているから、というのが一番の理由だろうから、他の話題になればきっといつも通りだんまりになってしまうと思われるが、それでもこの時間が心地良い。
「面白いですねぇ。お三方とも、指し方に性格が出てますよ」
にとりの笑い声が椛の思考を中断させた。
にとりの言う通り、三人ともそれぞれの指し方が大きく異なっている。
布都は非常に防御重視の戦法をとる。先手番でありながら先攻を許すことも多い。相手の王を詰ますのが目的のゲームなのだから、当然ながら攻撃しなければ始まらない。先に指せるというのは、基本的に先攻権があると考えて良いものだから、それを放棄するようなことは、あまり良くない指し方だ。
だが、守りの時の指し回しや感覚はかなり優れている。相手の攻めを巧妙に受けて攻撃を途切れさせて勝利に持っていく指し方を『受け潰し』と言ったりするが、布都は受け潰しが上手い。
速度と攻撃性を重視する近年の強者同士の対局では比較的珍しい指し回しである。布都の場合はどこまでも受け重視のため、消極的すぎるところはあるが、その指し方が徹底している上に受けの要所要所を的確に押さえているため、単調な攻撃では簡単に潰されたり、泥沼の対局になったりしそうだ。対局相手としては厄介だと思うだろう。
屠自古は逆に、火が出るような極端な攻撃志向である。王の守りもそこそこに、駒をガンガン前に出して攻めに攻める。傍から見ている分には危なっかしくも爽快な指し方をする。
布都とは対極の指し方だが、布都が受けの感覚に鋭いように、屠自古は攻撃の勘に優れている。決して単調な攻撃ではなく、複数の駒の連携を上手くとったり、相手の右側を攻撃していたと思えば左側を攻めたりと、とにかく攻撃に関しては油断も隙もない。
上手くいなされると防御の脆さから簡単に崩れてしまうが、相手が少し受け間違えると猛攻によって一気に勝勢に持っていく。良くも悪くも思い切りの良い指し方である。(流石の椛も口には出さないが)男らしい将棋と言えないこともない。
そして、二人の主である神子はというと、これが椛も評価に困る指し方をする。椛の見たところでは、神子には大きく二つの特徴がある。
まず、基本的に自分から形を決めて指すということがほとんど無い。
将棋は交互に指すというルールがある以上、互いに好きなようにやることはできない。相手とのやり取りの中で向こうの失着を咎めて優勢に持っていく、という形になりやすいゲームである。
そのため、最初から指したい戦法をこれと決めつけて、それだけに拘って指すようなことは基本的にはしない。双方の実力があまり離れておらず、かつ相手がその戦法について精通していれば、上手く応対されて負けるに違いないのだ。だから、最初にある程度の方向性を決めるものの、様子を見ながら指し手を変えつつ進めていくというのが普通である。場合によっては最初の方針を大きく変えることもあり得る。
神子の場合、その最初の方針すら無い。
大体の戦型に対応できるような手から指していき、相手の方針が見えたらそれに合わせて形を変えていく。
但し、椛が神子と対局した際、神子に合わせて方針をはっきりさせずに指し進めていったところ、ある程度進んだところで神子が自分で形を決める手を指した。だからどこまでも無形の方針を貫くというわけではないらしい。
そこでもう一つの特徴が現れてくる。
得意戦法が無いのである。
布都と屠自古のそれぞれの得意戦法の強さや理解度を百点、得意でも不得意でもない戦法を五十点とすると、神子はどんな戦法や戦型でも八十点くらいの指し方ができる。
そう書けばなかなか凄いことのように見えるのだが、実際は少し違う。神子の場合は、どんな戦法や戦型でも、八十点くらいの指し方『にしかならない』と書く方が正しい。苦手な戦型が無い代わりに、これなら自信がある、というものが無い。
機械が指すのではないのだから、少しは得意不得意もありそうなものだが、不思議なほどにそれが無い。
ある意味では凄い才能であるが、椛としてはあまり良い傾向ではないと考えている。
その八十点がそのまま全体的に上がっていけば、やがてオールラウンドの超強力棋士になりそうなものだが、実際にはそうはならない。簡単にそうなれたら苦労はしないのだ。
外の世界の一流棋士、または椛やにとりといった強豪でも、何かしらの得意戦法はある。『どんな戦法も完璧にできる』のではなく、『どんな戦法もかなりできるが、特に得意な戦法がある』のが自然であり、かつ望ましい。
まだまだ椛やにとりほどの一流棋士とは言い難い実力の神子の場合、同程度、またはやや上の実力者との対局の際に武器、即ち得意戦法が無いのは、何より精神的に少々辛い。ここ一番という時まで相手に応じて完全に臨機応変に、というのは無理がある。
椛もそれを何度か指摘しており、神子も気にはしているようだが、どうもいまいちピンと来ないらしい。
「それはわかっているのだけど……」
「何かこう、これは面白そうとか、そう感じるような戦法はないですか? 何でも良いですよ」
「うーん……」
神子の琴線に触れるものが見つからない様子なのである。
(為政者だからなのかな?)
為政者独特のバランス感覚のようなものがあって、なかなか決められないのかもしれない。尤も為政者ならば決断力がなければ拙そうなものだが、将棋はまつりごとではないので、そこまで責めるのは流石に酷というものだ。椛もそこまで決断力を求める気は無い。
「まぁ良いです。それじゃこの本、これにもいくつか戦法が載ってますんで。深くはないけど、ある程度までなら書いてありますから、一応参考までにどうぞ。やはり得意戦法はあった方が良いですからね」
「ありがとう、我が師」
「師というのは止めてほしいんですが……」
この神子の奇妙な特徴が、後々神子自身を苦しめることになる。
そんなある日、いつものように将棋講習をしていた時に神子達の商売敵(?)であるはずの聖白蓮やってきた時には、何かと鈍い椛も驚きを隠せなかった。布都などは露骨にむすっとした顔をしている。
椛もにとりも白蓮とは面識があるため、とりあえず戸惑いつつも挨拶をする。このような妙な状態でも白蓮は柔らかい笑みを崩さない。
「どうもお久しぶりです。白蓮さんも一緒に将棋指しません?」
こういう時はにとりの明るい雰囲気と性格が役に立つ。両陣営の微妙な空気にわざと気付かない振りをして、明るい口調で話しかけた。
「それも面白そうですが、今日は神子さん達に一つの提案があって参りました」
「提案だと?」
布都は不快そうな表情を隠そうともしない。
「えぇ。私どもと、将棋で対局をしませんか?」
「対局……。それも、『私ども』と、ね。ふむ。私達と君達との将棋の団体戦の申し込みといったところかな?」
「えぇ、そうです。元々、私どもも趣味程度で将棋は嗜んではいますが、そちらの皆さんが最近になって優秀な講師の方々から将棋の手ほどきを受けていると耳にしまして。これは一度お手合わせ願いたいと思ったのです。これで親睦が深められたらなお嬉しいのですが」
「ふん」
「布都、やめなさい。まぁ、私としては構いませんよ。確かに色々ありはしたが、私としても君達と無闇に張り合ったり争ったりするつもりはないのでね。親睦が深まるのもまた良いと思う」
「ありがとうございます」
ルールは、双方から三名ずつ代表者が出て対決。全て平手戦。先手後手は対局の度に決める。日程は十数日後の椛が非番の日。一日一局で、三日かけて行う(椛の仕事の都合上、三日連続ではない)。昼食を挟まず、午後一時から対局開始。先にどちらかが二勝しても、最終戦まで行う。但し、双方の実力を見るため、数日後に一度交流戦を行う。対抗戦の対局者の順番等は交流戦の後に双方から提出する。
「良いんじゃないですかね。ただ、交流戦以降はこちらも犬走さん達の講義を受けるのは控えた方が良いのでは?」
屠自古の申し出に神子も頷きかける。
「確かに、傾向と対策を師に聞くというのは少々ずるい気が……」
「いや」
口を挟んだのはにとりだった。
「ここは逆に、私らのどっちかがお寺の方々について、互いに作戦を練った方が面白いんじゃないですかね」
この申し出には神子も白蓮も流石に驚いた様子で、一瞬言葉を失ったようだ。
「なるほど。私らの講義を受けないとは言っても、それを証明するのは面倒だし、それよりなら最初から両陣営に分かれてた方が面白そうではあるな」
「ね。どんなもんでしょ」
「それは……私どもにとっては願ってもないお話ですが、神子さんはどうですか?」
「ふむ。ま、それも良いでしょう」
「よろしいので? 今までご指導賜っていた我等の実力やら傾向やらが、悉く筒抜けになりますぞ」
「その恐れもあるが、結局は交流戦で双方の実力が見られるのだからね。交流戦の後にということであれば、まぁ良いのではないかとは思う」
「神子様がそれでよろしいということであれば。私としては不利な条件には思えるのですが」
「我も、あまり良い条件には思われませぬが……太子様の御意のままに」
「それでは、そのようにしましょう。後はいずれの師が向こう側につくかだけど」
「ま、それは交流戦の後にでも決めましょう。私でも椛でもどっちでも良いし、決め方もコイントスでもじゃんけんでも良いけど、今からだと気分的に私らも何となくやりづらいしね」
「わかりました。それでは、とりあえず対局条件については以上ですね。本当は私も講義を受けたいのですが、それでは事前に実力を見せ合うことになってしまいますので」
「後日、交流戦の際にまた会おう」
「えぇ。それでは、今日のところはこれで失礼致します」
「妙なことになりましたね」
白蓮が去った後に最初に口を開いたのは屠自古だった。
「ふむ。確かに妙なことになった。だが、まぁ面白そうな申し出ではあった。将棋の勝ち負けでこちらの悪評を広めるとか、変な裏もなさそうだし、良いんじゃないかな」
「しかし……やるからには勝ちたいところではありますが……言いにくいことではありますが、やはり河城殿の提案は我等にとっては不利ではありませぬか」
「まぁ、そう気にするほどでもないと思うよ。そもそもこの勝負、最初からこちらが不利だろうし」
布都と屠自古は驚いて目を瞠るが、椛はいつも通りの仏頂面で、にとりはきまり悪そうに笑っている。
「何を驚いているの。考えてもみなさい。そもそも、私達と彼女らとでは、将棋というものに触れてきた時間の長さが違うでしょう」
魔界にいたり聖の復活のために奔走したりと、まともに将棋を学んだ時間は長くはないかもしれないが、それでも最近将棋に出会った神子達に比べれば、命蓮寺の面々は神子達より将棋に触れた時間は長いはずである。
「それに向こうには、最近外の世界から来た妖怪もいるという話ですしね。その妖怪が外の世界から、新たな定跡を持ち込んで学んでいる可能性だってある。つまり、総合的にこちらの方がまず間違いなく実力的に劣っていると考えて良いんだよ。師もそう思うでしょう?」
椛は未だに師と呼ばれるのに慣れていない。困ったように頭を掻いた。
「まぁ、恐らくそうですね」
「しかし、それならば追加条件は私どもにとって一層不利になりませんか?」
「まぁね。でも、交流戦後に師がいるかいないかということは、それより更に大きな違いになってくると思ったものでね」
「違い……でありますか?」
「交流戦で互いの実力を程度測った後の話だけどね。相手の実力がわかったのは良いとして、その情報を元にどんな対策をすべきか、何に注意を払うべきか、ということを考える際、私達三人だけで十分に対策を練ることができると思う?」
「む……それは……我等だけでは確かに……」
「情けない話ですが、限界がありますね……」
「そう。しかも、私達と相手方の実力を総合的に比較すると、恐らくだが先方の方が上。対策会議や研究をするにも、実力が高い者同士のグループと、低い者同士のグループ、どちらが効率的かつ効果的かと考えると……」
「かえって彼我の差が開いてしまうかも知れませぬな」
「向こうにとってはマイナスが全く無い、メリットだけを与えてしまう話だから、君達の不安も正しい。寧ろ、私の考えすぎで、ただ不利になってしまった可能性も低くないのだけど……」
神子は照れたように鼻を擦る。
「いえ。私どもの実力を良く知る上級者のアドバイスの有無と、先方に与える利を秤にかけると……難しいところではありますが、確かに神子様のご判断の方がよろしいように思われます」
「勝手に話を進めてしまったことは申し訳ないと思う」
「まぁ、元はと言えば、勝手に話を進めたのはこいつですから、豊聡耳さんは悪くないですよ。な?」
「おぅ……い、いや……それはそうだが……あの、お優しい椛さん、もう少しこう、オブラートに包んでくれませんかね」
「何言ってんだ。……まぁ、でも実際、豊聡耳さん達にとっても悪い話ではないと思いますよ。私とにとりと、どっちがどちらの陣営につくかはわかりませんが、どちらについたとしても最善のサポートをするつもりです」
「それで良いですよ。さて、そろそろ講義の続きをお願いしようか。思いがけず対抗戦も決まったことだし、ガシガシ鍛えてもらわなくては」
その交流戦の日は、神霊廟側はいつもの三人。命蓮寺側のメンバーは、白蓮、星、村紗、響子、マミゾウ。他の者は留守番とのことで、対抗戦にも出場しないとのことらしい。また、響子とマミゾウは単に見学に来ただけなので、対抗戦当日は他の三人が出てくることになる。ちなみに青娥も将棋を知っているらしいが、今回は出場しないとのことだそうだ。芳香については残念ながら語るまでもない。
「さて、これで全員ですね。それじゃ対抗戦に先立ちまして、交流戦を行いまーす」
にとりの宣言で交流戦が始まった。
なお、交流戦とは言ったものの、総当たりのリーグ戦等を行うわけではない。単に相手との申し合わせでガンガン対局していくだけである。同じ相手に複数回挑戦しても構わない。また、椛やにとり、将棋に心得のあるマミゾウに挑戦しても良いことになっている。
将棋は、対局後に基本的に感想戦というものをする。これはその対局を最初から振り返り、対局者同士、または観戦していた第三者も含めて、何が敗因か、より良い手はなかったか、等を研究するものである。
上達する手段としては、強者に単に教えを請うたり、本を読んで研究したりするよりも効果的かつ重要な勉強法と言っても良い。自分が実際に対局して勝ったり負けたりして覚えることは何よりも印象に残りやすく、覚えやすいものだ。
今回の交流戦は、単に相手の実力を測るという目的以外に、今まで対局したことのない相手と戦い、感想戦をすることで、視野を広げて更に上達するための出張講座のような意味合いも持っている。
対抗戦出場予定者達の熱戦を眺めたり、自身も請われて対局したりしながら、命蓮寺の面々の実力や指し方、傾向等をのんびりと分析する。
神子の予想通り、そして椛も思っていた通り、命蓮寺側の方が実力が上に思われる。
このメンバーの中では、出場しないマミゾウがかなり強い。椛やにとりであっても苦戦しそうなほどの実力である。命蓮寺側もそれを知っているから出場選手としなかったのだろう。
しかし、出場しないとはいえ、これほどの実力者であれば、この交流戦後の研究や検討の際には命蓮寺側に大きなプラスをもたらすだろう。
神子の危惧した通りであったわけだが、予想以上の実力者であったマミゾウに加えて椛とにとりのどちらかが更に命蓮寺側に加わるとなると、神霊廟側としてはいよいよ大変なことになりそうだ。
また、それだけでなく、命蓮寺の出場選手達も全体的に実力が高い。
命蓮寺側の選手の中で最も強いと思われるのは白蓮である。攻防のメリハリが良く、急戦でも持久戦でも指し方が丁寧で、隙が少ない。定跡をしっかり押さえ、それでいて定跡から離れた展開になっても、慌てず騒がず、あくまで丁寧に要所を捉えて指す。
何かと尖った指し方をする布都や屠自古、逆に尖ったところの無い神子、どちらが白蓮と戦うとしても、この落ち着いた指し回しを崩すのは骨が折れそうだ。
星は白蓮と同等か、少しだけ隙があるように見える。だが、他の誰よりも優れている点がある。精神的な動揺がほとんど見られないのである。どうやら勝敗に全く拘っていないようで、勝ったら無邪気に喜び、負けたら相手の指し方に素直に感心し、そしてどちらにしても楽しそうにニコニコしている。
これはある意味では単なる強弱よりも重要な要素とも言える。勝利への執念やら意気込みやらが無いのはやや問題ではあるが、精神面において強いというのも一つの武器である。
村紗は先の二人と比べれば少し落ちるように見える。布都、屠自古との比較は微妙なところで、神子ならば勝てそうに思える。指し回しとしては普通、もしくはやや持久戦志向のようだ。だが、布都のように徹底した受け潰し狙いではなく、隙あらば攻撃に転ずる鋭さがある。
守りを固めて受けに回りつつ、機会を虎視眈々と待ち、失着があればすかさずそれを捉えて反撃する。確かな定跡の知識と勝負どころの勘を併せ持った優秀な棋士と言える。但し最初の対局前に言っていた「海の女は伊達じゃないよ」という言葉は椛にはよくわからない。椛の経験上、海と将棋の強さは関係が無かったはずである。
椛の見立てでは、厳密に順位をつけるなら、白蓮、神子、星が上位三人。
残り三人は、布都と屠自古の指し方が極端なため、順位が付け難い。指し方のバランスや全体的な感覚等は村紗が優れているが、型に嵌った時の屠自古の攻勢の迫力は凄まじいものがあるし、布都の徹底した守備はそれだけで相手の心を折りかねない。単に観戦するなら面白そうではあるが、作戦を組み立てる上ではなかなか難しそうだ。
ちなみに、神子はその特性上いつも通りに指しているが、布都と屠自古はいつもの極端な指し方を控えている。少しでも実力を隠しておくためである。椛としては今日くらいの指し方の方が攻防のバランスがまずまず良いと思うのだが、当の二人は調子が出ないらしく、あまり勝率が良くない。
「今日のところはぼちぼちお開きとせんか?」
マミゾウの申し出に椛も頷いた。全員がそれなりの数の対局をこなしており、相手方の実力を見るという一番の目的は大体達成されたように思われる。
「そうですね。時間も時間ですし」
「全員の対局も終わったみたいですね。きりが良いところで、今日の交流戦はそろそろおしまいにしましょうか」
開始時と同様ににとりが大きい声で言った。丁寧に挨拶をする者、大きく伸びをする者、早くも駒を片付け始める者、それぞれが思い思いに行動する。
「それじゃ、対抗戦の出場者の順番の提出をお願いしまーす」
対局の合間に既に決めていたらしく、神子、白蓮ともにすぐに紙を提出した。
「どーも。……ふむ、それじゃ、早速、対抗戦の組み合わせを発表していきますよ」
対局終了後のゆったりした雰囲気から、また多少の緊張感が満ちる。
「それでは。一日目、屠自古さん対村紗さん」
「よろしくお願いします」
「お手柔らかにお願いしますよ」
「二日目、布都さん対星さん」
「ふむ。負けぬぞ」
「楽しみですねぇ」
「三日目、神子さん対白蓮さん」
「ま、やはり大将戦はこうなりますか」
「ふふ、頑張りますよ」
「……さて。それじゃ最後に」
椛が手近なところの盤の上にあった歩の駒を一つ手にした。
「お。振り駒で決めるのか。椛にしては粋じゃないか」
「一言多いんだよ」
どちらが命蓮寺側の臨時講師になるかを決めなければならない。
将棋で先手と後手を決める際に行う所作を振り駒と言う。一般的な方法では、対局者のどちらかが歩を五枚取り、手の中で振り混ぜて盤上や床の上に落とし、その際に表(『歩』と書いてある側)の枚数が多ければ駒を振った方が先手、そうでなければ振った方が後手となる。但し対局によっては立会人等が駒を振ることもあり、簡略化して振る駒を一枚や三枚にしたりすることもある。
今回は先後を決めるわけではないが、将棋らしく振り駒で臨時講師役を決めるというわけである。
組み合わせが決まって、また緊張気味になった面々が椛達の周りに集まってくる。
「表なら私が。裏ならお前が聖さん達のとこな」
「オッケー」
掌の中で駒を振り、盤上に落とす。
椛とにとり、ついでに星と響子以外の皆が、固唾を呑んで、放られた駒を見据える。
駒は、裏側を上に向けていた。
翌日も非番ということで、今日の反省と対策会議も兼ねて神霊廟に招待された。椛にとっては夕食を馳走になるだけでも申し訳ないのだが、酒も出て寝床も用意されているらしい。
「え? いや、しかし……」
「まぁ、堅いことは言わず、今日はじっくり飲もうじゃないか。とりあえずのお疲れ会ということで。私が言うのもなんだけど、客間は綺麗にしてあるから大丈夫だよ。今、布都が準備してるはずだけど」
「いや、そういうことではなくて……」
「寝床の用意が終わりました。これでいつ酔い潰れても平気でありますから、いくらでも飲みなさるがよいぞ」
「しかし、天狗の方はお強いという話ですよね……。神子様、ここは一つ、あの強い酒を出しましょうか」
「良し、持ってきなさい。青娥は?」
「芳香殿の手入れがもう少しで終わるので、それから来るとのことでありました。そろそろ来ると思われますな」
「おい布都、この前青娥殿が持ってきてた、あの胡散臭い、酒のような酒じゃないようなアレ、また持ってこないようにちゃんと言ったんだろうな? アレは流石に飲みたくないぞ」
「そこは念を押した。だが……青娥殿のことだからなぁ……」
「流石にお客人には出してはならないから、万が一の場合には早急に対応するようにね」
「……」
何やら不穏な話も聞こえるが、ともあれ、幻想郷に住んでいると話を聞かないようになるのか、元々そういう者ばかりが幻想郷に来るのかはわからないが、幻想郷においては椛のような性格の方が珍しいタイプに該当するようだ。
しばらくしてやってきた青娥は、幸いにもアレとやらは持参していなかった。青娥は白蓮と同様にいつも笑みを崩さないが、どこか妖艶で、かつ底知れない何かが隠されているように感じられる。
「聞きましたわ、将棋の対抗戦を行うのですってね」
「えぇ。しかし実力的に見て、こちらが少々不利のようでね」
「あらまぁ。それでは、一献汲みながら反省会といったところかしら」
「そんなところですね。犬走さんから見て、どうでしたか?」
「んー」
実力的に劣っているのは否めない。両陣営のエース格が、こちらは神子、向こうは白蓮と星。これだけでもまず不利な材料である。また、布都と屠自古の指し方が極端すぎて安定しないため、勝敗を予測しにくいのも少々厄介なところである。その旨を正直に述べた上で、「でも」と付け加えた。
「一段も二段も劣っている、というわけではなさそうですね。十分にひっくり返せる範囲内だと思います。対抗戦までに対策をしっかり練って、勝ちにいきたいところですね」
「是非お願いしたい。河城殿があちらについた以上、我等の情報も筒抜けではあるが、何とか向こうの思惑を超えて行きたいものであるな」
「そうですね」
盃を傾けながら、今後の指導について考えを巡らせる。
最大のポイントは初戦と見ている。
勝って勢いをつけたいというのもあるが、一番の理由は、二戦目がはっきり不利だと思うからである。
布都には申し訳ないが、勝ちを期待するには少々辛いように思われる。そう考えると、初戦を落としたらそれで団体戦も詰みとなる可能性が高まる。そのため、初戦は是が非でも取りたいところだと考えている。
攻撃的な指し方は止めないが、無理に攻めを続けて攻めを途切れさせてしまわないよう、屠自古に繰り返し指導するつもりでいる。無理攻めさえ抑えられれば、屠自古は村紗相手なら勝てる実力があると思われるのである。何としても勝利をもぎ取ってもらいたい。
また、布都についても、不利だからと言って勝ちを諦めるつもりはない。
布都の持ち味である超持久戦に持ち込むことで、自身の土俵に引き込みつつ、星の長所を抑えて戦うことができる。
急戦になると、その激しい戦いの中で、一気に形勢が傾きそうな妙手や予想もしなかった奇手が出やすくなるが、持久戦となると流れが遅くなり、その頻度は下がる。妙手奇手の応酬になって、何が来ても動じない星の精神的タフさが有利に働いてくる展開を作らなければ、布都にも勝機が見えてくる。
但し、持久戦にしつつも、決して受け一方にはならないようにしなくてはならない。全体的な実力は星の方が恐らく上なので、守り一辺倒で受け潰しを狙っても、先に自陣が潰される可能性の方が恐らく高い。タイミングを見計らって積極的に反撃する必要がある。二戦目までは、そのタイミングを見定めるための講義に集中した方が良いかもしれない。
(……まぁでも、このお二人はわかりやすいから、ある意味楽なんだけど)
問題は神子である。
白蓮は、非常に理想的な実力の持ち主である。どのような戦法に対しても対応でき、かつ得意戦法をいくつか持ち、その中で戦うことになれば更に高い実力を発揮する。
一方、神子は、どのような戦法に対しても対応できるのは同じだが、得意戦法が無い。
神子にできるのは、白蓮の得意戦法にならないように誘導することくらいである。この指し方も、ペースを掴ませないという意味で、有力である。しかし、上手く誘導できたところで、やっと互角といったところだ。
また、白蓮は、神子が得意戦法というものを持たないことを恐らく知っている。または、今後にとりの口から知ることになる。となれば、多少強引に自分の得意分野へ引き込もうとしてくることも考えられる。
神子が最初から何らかの戦法に焦点を搾って方針を決めていったとしても、それは普通のことであり、白蓮なら特に問題なく応対してくるはずである。しかも、神子が積極的に何らかの戦法で進めたとしても、その戦法に関して白蓮よりはっきり熟達していると言うわけでもない。
結局のところ、神子が積極的にペースを作り、優勢に持っていく方法が無いのである。
白蓮、神子、星と順位を付けたのも、その点が理由である。単純な将棋の力だけなら神子は白蓮にも恐らく劣らない。厳密に見るなら四十九対五十一くらいで僅かに不利かもしれない。しかし得意分野が無いという理由により、その差が四十五対五十五、四十対六十になりそうにも思われたのである。
何とか三戦目までに得意戦法を見つけてほしいところだが、時間はあまり無い。
椛としては、椛から何らかの戦法を決めつけて教え込むようなことはできるだけしたくない。神子自身に気に入った戦法を見つけてもらいたいと思っている。
勉強嫌いの子供に無理矢理勉強させるように、今一つ興味が湧かないままに戦法を叩き込んでも、何より将棋が面白くなくなってしまう。
とはいえ、勝つための手段として、策は考えている。この分だと、三戦目までに得意戦法は見つからないだろう。その場合はやや不本意ではあるが、ちょっとした奥義を貴人の頭脳に捻じ込み奉るつもりでいる。
(にとりの奴にでかい顔はさせたくないしな)
この対抗戦は互いの指導力の対決でもある。普段の椛らしくもなく、気分が高揚してくるのがわかった。
盃を干したところで、傍らでニコニコしている青娥と目が合った。そう言えば、青娥も将棋ができるらしいという話を耳にした気がする。
「青娥さんも将棋は指すんですよね?」
「嗜む程度ですけどね」
「でも、私は青娥と対局したことは無いな」
「我もですな」
「私も無いですね」
「誰も無いのか。酒の席ではあるが、青娥の実力を是非見せてほしいな」
「あらお恥ずかしい。何十年か、それとも何百年か振りかしら。それなら折角ですし、お相手はお師匠さんにお願いしましょうか」
「私ですか?」
「……青娥」
「あら、如何なさいましたか。何か私を見る目が物凄く冷たくて怖いのですけど」
「君……滅茶苦茶強いじゃないか」
夜も更けてきたため、一手辺りにかける時間を一分以内と決めて指した。結果としては椛の勝利である。しかしその実力は嗜む程度というレベルではなく、神子達とは一線を画す実力である。実力的にはマミゾウと同等くらいに思える。今回は平手で指し、最終的にはさほど危なげなく勝利したが、駒落ち戦だと勝つのは難しそうだ。
「青娥殿もお人が悪い。その実力があれば我等の勝利の可能性が高くなったものを」
「見せつけるほどの実力でもないもので。結果的には負けてしまいましたしね」
淡々とした口調である。青娥は自分の術を見せて驚かせたりするのが好きだが、将棋の腕の方を見せつけるのは好みに合わないらしい。青娥らしくもなく殊勝な物言いだが、卑下するのではなく、どうやら本当に自身の実力を大したものだと思っていないらしい。
「いや、これなら私らが講師役となる必要もなかったんじゃないですかね。二ッ岩さんにも負けないくらいお強いと思いますよ」
「貴方にそう言っていただけたらありがたいけど……結果は結果だものね」
「それでは、対抗戦までは犬走さんに加えて、青娥殿も特訓に付き合っていただきたいですね」
「お恥ずかしいですねぇ……でもまぁ、勝負事となればやはり勝ちたいものですし、私でよければお付き合いしましょうか。術の指導のようにはいかないでしょうから、こちらのお師匠さんのサポート程度になると思うけど」
「いや、助かります。自分だけだと気づかないこともありますから」
命蓮寺側ににとりとマミゾウがいるように、こちらも思わぬサポート役ができた。依然として厳しい状況ではあるが、先ほどよりは俄かに光が見えてきたようだ。
緊張の一日目は、いつもの川沿いの草むらで始まった。今回は響子がいない代わりにナズーリンが見物に来ている。神霊廟側も青娥が来ていた。
将棋の時間を計測する専用の時計も準備する。外の世界のものを参考ににとりが自作したものだ。
時計が二つ、横に並んだ形になっている。後手番の者が時計についているスイッチを押すと、先手番の側の時計が進み始めるようになっており、それを合図にスタート。指したら時計についているスイッチを押す。すると自分の側の時計が止まり、相手側の時計が進み始める。これを繰り返していくのである。
秒読み機能も搭載済みであり、今回は残り時間が無くなったら、一手三十秒以内に指すようにセットしてある。残り時間を使い切った後は全て三十秒以内に指さねばならず、過ぎたら時間切れ負けでブザーが鳴る。逆に言えば、毎回二十九秒までかかろうとも、一手を三十秒以内に指すことができればいくらでも延々と指し続けられるのだが、実際にそのような状況になったら、三十秒で最善手を探し続けるなど困難である。
先手は村紗。男らしく(?)胡坐をかいて膝を一つ叩き、気合を入れると、盤上に手を伸ばし、駒音高く初手を指した。交流戦の時もそうだったが、村紗が指す時の駒音は不思議と高く澄んでいて、何となく気分が良くなる。
後手盤の屠自古もさほど時間をおかずに二手目を指す。こちらは駒音は高くないが、一手一手が妙に力強い。叩き付けるでもなく、弾くように軽快に指すでもなく、駒で盤を抉ろうとでもするかのようにぐぐっと押し付ける。こちらもまた力強く気合が入っていて、男らしい(?)指し方をする。
盤を挟んで村紗と屠自古が対峙し、更に審判役の椛とにとりが盤を横に挟んで座っている。他の面々は思い思いの位置で盤を覗いている。
局面は早々に中盤に移っていった。屠自古が対局する時は大体展開が早い。攻撃を始めるのが早いため、双方の態勢に関わらず激しい攻防になるからだ。
先日の交流戦の大人しかった(それでも他の者よりはずっと攻撃的だったが)指し方はどこへやら、いつも通りの猛攻で、村紗は防戦一方である。
しかし村紗の懸命の防御により、屠自古も攻め切れない。村紗は何度も帽子を被り直し、屠自古もずっと顎に手を当てて思考に思考を重ねている。
徐々に屠自古の攻めが途切れつつある。屠自古は辛うじて攻めを繋いでいるものの、かなり苦しいところである。攻撃が完全に途切れたが最後、自身の王に殺到されて万事休すとなりかねない。
一方、村紗もまた、屠自古の強烈な攻勢に次ぐ攻勢によって気持ちが圧倒されつつあるようで、時々完璧とは言えない手を指す。守るほどではない局面でも守備に回る手を指したりして、防御の薄い屠自古の王に迫ることができない。
厳しく言うなら村紗のミスではあるのだが、今回の場合は屠自古の気迫と徹底した指し方の方を褒めるべきとも言える。屠自古の攻撃は細くなりつつあるものの、一歩受け間違えれば途端に崩される状況なのは変わりない。また、これまでに屠自古の鋭い攻撃の指し手を何度も見せつけられている。余程実力があって読み切ってしまえるなら別だが、普通はどうしても慎重にならざるを得ないところだ。
相手にそのような圧迫感や焦りを与える、屠自古の指し方の真骨頂が現れている将棋である。
動揺とほぼ無縁の星なら屠自古の攻撃を上手くいなして反撃し、屠自古はあえなく敗北していたと思われる。だが今日のこの差し回しと迫力なら、白蓮相手ならもしかしたら、と思わせるような勢いである。順番が変わっていたらまた面白い対局が見れたかもしれない。
そんな椛の想像をよそに、早めの中盤戦から終盤に移り、形勢は思わぬ方向に向かい始めた。
引き分けになりそうなのである。
将棋にも引き分けはある。種類は多少あるが、今回の場合は『持将棋(じしょうぎ)』という局面になりつつあった。
戦いの中で互いの王が相手方の陣の三段目より上、またはその付近まで移動してしまい、かつ互いに王を守りの駒で固めて、詰まそうにも詰ますことが困難になってしまうという事態が発生することがある。将棋の駒は基本的に前へ前へ進むようになっているので、相手方の陣地の方まで王が進んでしまうと、攻め難くなってしまい、このような状況に陥る場合がある。
この場合、駒に点数をつけ、双方の持っている駒を点数に換算して計算し、勝敗を判定する。具体的な計算方法は省略するが、その点数によっては引き分けとなることもある。引き分けとなれば普通は先手と後手を入れ替えて指し直しになる。持ち時間は持将棋成立時点から開始する。残り五分しかなくても、それを受け入れなくてはならない。
上記の持将棋の説明はやや不足があるものの、ここでは、村紗と屠自古の双方の王が相手陣まで移動し、互いににっちもさっちもいかなくなってしまったということが分かってもらえればとりあえずは良い。
屠自古の猛攻は残念ながらあと一歩届かず、村紗の王は屠自古の陣地にまで逃げ込む。屠自古の王も、村紗の僅かばかりの反撃によって脆い城壁を崩され、村紗の陣まで逃げることを余儀なくされている。
普段通りの指し方ならば、無理矢理に攻め続けて攻撃が途切れ、反撃を受けていたはずである。特に今回の村紗のように、相手が上手く受け続けるほど、屠自古も意地になって無理に攻めてしまう性質なのである。
今回は何とか無理攻めを抑えている。椛が繰り返し説いていたのが一応効いたようだ。強いて言えば、攻撃し続けるのが厳しくなる前にもう少し腰を落ち着けて指すことができれば良いのだが、本番でいきなり器用な指し方をするのは流石に無理だろう。屠自古らしさが存分に発揮できたので、とりあえずは十分といったところである。
互いの王がすっかり相手陣に入り、その周囲を守りの駒で埋めていく。流石の屠自古ももう無理な攻撃はしていない。
持将棋となれば、椛が頭の中で計算はしたところでは、どうやら引き分けとなるようだ。どちらも残り時間は少ない。
しかし持将棋もやむを得ない状況になっている。最早どちらも相手の王に迫る手掛かりが何もなく、これ以上は時間の無駄にしかなりそうにない。頭を上げると、にとりと目が合った。考えていることは同じだったようだ。
「えーっと、すみませんが。これ以上は埒が明かないんで、この辺で持将棋としませんか?」
本来ならば、どちらかの対局者が言い出し、同意することで成立するので、審判役であってもにとりが言い出すのは間違いではある。しかし何らかの公式な大会ではないし、当の対局者達も半ば意地になっていて言い出しそうもないので、にとりが提案したのである。
対局者二人が顔を上げ、少しだけ互いの目を睨むようにしていたが、すぐにどちらからともなく視線を外すと、にとりの申し出に同意した。
椛とにとりが駒を数えて計算するが、やはり引き分け。
双方ともに燃え尽きたといった表情だ。
「いやはや、凄い対局でしたねぇ」
この熱戦を見て特に緊張感の欠片もなかった星が、明るく声をかけた。やはり星なら今日の屠自古相手でも勝っていたように思える。他に緊張していなかったのは椛とにとりくらいである。
マミゾウを中心に感想戦が始まる。緊張感から解放された外野があちこちから口を出し、熱戦を振り返っていく。
「しんどかった……。こんな強烈な指し方聞いてない……。いや、にとりさんから聞いてはいたけどさ……」
「いや……途中何度も攻めが途切れそうになって冷や冷やだったよ。攻めてる気がしなかった。攻めさせられてる感じだった」
対局者二人はこの通り、精根尽き果てたといったところで、感想戦にもあまり参加していない。指し直しするような体力も気力もなさそうである。時間的に考えても、このまま指し直しなら夜になってしまう。
「さて」
疲労困憊の二人には申し訳ないが、一応本来のルールは伝えなければならない。
「村紗さん、蘇我さん。持将棋となると、最初から指し直しとなります」
「う……そ、そうだよね……」
「疲れたんよ……」
「本来なら、ですけどね。ですが」
『一応』はルールを伝えたが、対抗戦はあくまで公式の試合でも何でもない。
「これから指し直しだと夜になってしまうし、かといって後日指し直すにも、二戦目以降の日程も決まっている。んで、別にこの対抗戦、何かの正式な対局というわけでもない。ということで……」
向かいのにとりにも確認を取る。
「良いよな?」
「そうだね。流石にこれから指し直しも酷だし、言っちゃなんだけどあくまでお遊びの延長なんだし。今回はこれで良いと思うよ」
「決まりだな。それでは、審判係の判断により、今対局はとりあえず引き分けで終了ということにします。よろしいですね?」
対局者を含めた全員が同意した。
(それにしても、面白いことになったな)
引き分けになることもそうだが、まさか一局目からこうなるとは完全に予想外だった。この分だと一勝一敗一分の引き分けもあり得る。実際にそうなった場合は再度代表者を出して対局か、それとも引き分けでお開きか。
(ま、その時はその時か)
二日目の対局場所は、川沿いから少し離れた大木の下になった。良い天気でやや気温も高く、青空の下では少々暑いかもしれないとの判断からである。
先手は星。
布都よりやや強いと思われる相手である。布都としては、当初の予定通り、まずはいつもの超守備的な指し方を徹底させて持久戦に持ち込みたいところである。
星も布都も、一戦目の対局者二人とは違い、駒音をあまり立てず静かに指す。これから始まる長い戦いを象徴しているかのようだ。
双方とも丁寧に王の守りの形を作り、十分に固めた上で、星が先攻する形で開戦した。星が急戦模様で仕掛けてくる展開も予想して対策はしていたが、その方法は取ってこなかった。とりあえずはこちらの望み通り、持久戦風味で穏やかに進んでいる。
星の攻めは駒の連携が良く、攻め急がず、しかし着実に布都の陣に寄せてくる。屠自古の火の出るような攻撃とは違い、巨大な壁がじりじりと迫ってくるような、別種の圧力がある。
それに対し、布都の守りも良い。星の弱くない圧力を、時に真っ向から押さえ、時に巧妙に受け流し、なかなか隙を見せない。
(でも、このままじゃジリ貧だな)
星の攻撃は早いものではないが、丁寧かつ重厚で、完全に止めてしまうのは難しい。布都の受けが上手いとはいえ、やがて少しずつ王の守りが崩されていくに違いない。やはり受け潰しは難しそうだ。どこかで反撃に転じないと、がっぷり四つに組んだまま横綱相撲で寄り切られておしまいになる恐れがある。
攻撃の感覚に多少の難がある布都が、どこかで反撃を始めることができるかが鍵である。
これについては、昨夜までひたすら特訓を重ねてきた。
布都に足りないのは、単に攻撃の手筋の上手下手というよりは、相手の隙を逃さない知識、大局観、そして勘の問題であり、一朝一夕に身につくものではない。しかし短い準備期間の中で、その感覚を磨くべく勉強していた。何とかその成果を発揮してほしいところである。
幸い、星は全体のバランス感覚等が優れ、攻撃も急がないという落ち着きがあるが故に、攻撃が滞りそうになると駒を組み替えて力を溜めたりして、攻撃が一瞬止まることがある。星の攻撃が止まったその時、布都の陣の防御がすぐには崩されないと判断する感覚と、思い切って前に出る勇気があるか否か。
椛の目から見れば、つい数手前に一度、その機会を逃している。局面は中盤、そろそろ布都の王の守りに手がついてもおかしくない状況になっている。そろそろ星の陣に本格的に攻勢をかけないと拙い。
二度目の機会が来た。一度目の機会からまだ数手後だが、正直なところ、既に攻めが遅れ気味である。しかしここを逃せば、恐らく後が無くなる。
布都が口に手を当てて考え込む。
思考時間が長い。
恐らく気付いたのだろう。すぐに布都の王にまで攻撃の手が伸びる状況ではない。そして、布都の防御技術をもってしても、星の攻勢を完全に受け切るのは最早困難であり、真っ向からの攻め合いに移行しなくてはならないタイミングである。今の段階でも既に遅いくらいなのだ。
星は、布都の手をじっと待つ。椛も、布都の決断を待った。
長考の末、布都の手が動いた。
布都の手は星の陣の方に伸び、静かに駒を移動させた。
(物部さん、よくやった)
少なくとも今の局面では、最高最善の一手だった。星の攻撃が止まった、一瞬の空白を突いた良い手だ。
いつも通りの仏頂面のまま、弟子の成長を無言で褒め称えた。
双方の王の守りが崩されていく。拙かったはずの布都の攻撃が、今までにない鋭さを見せて、星の王に迫る。それでいて、自分の王の危機には、しっかり守りに戻り、丁寧に応対している。布都の中で何かが変わったのか、局面を見極める感覚が素晴らしい。
だが、それでも局面は星の優勢に傾きつつある。
最初の反撃の機会を逃したのが一番大きい。また、接戦になってきたことで、地力の差が現れてきた。星はこの状態でほぼ九十点以上の手を指すのに対し、布都は時々それに劣る手を指す。
短期間での勉強の限界が見えてきた格好だ。
加えて、接戦にも関わらず、その状況を全く意に介さない星は、恐れて消極的な手を指したりすることが無い。難しい局面でも、良いと思った手は何の躊躇も無く指す。ここに来て星の長所が指し手を誤らせない手助けになっている。ここまで来ると、星がある種の悟りを開いているようにも思えてくる。
にとりの斜め後ろで観戦しているマミゾウが、中盤からずっと顎に当てていた手を静かに下ろした。その空気を出さないように気を付けているようだが、椛の目には、マミゾウの目から緊張感が消えたのがわかる。星の勝ち、布都の負けを読み切ったのだろう。
今から星が致命的な失着を指すとも思えない。残念ながらマミゾウの予測は正しいだろう。
そして数手後、布都は蚊の鳴くような声で「負けました」と頭を下げた。
星も深く頭を下げるが、頭を上げた時には、太陽のような笑みを浮かべていた。
「良い勝負でしたねぇ」
その笑顔には一点の曇りも無い。十分に楽しみ、無邪気に喜んでいる。これが星の強みなのだろう。本人は恐らく無意識なのだろうが。
「無念。無念だ……。ぐぅ」
一方、布都は心底悔しがっている。
勝敗に全く拘らないのと、執着するのと、どちらが良いのかは椛にはわからない。椛自身はどちらかというと星タイプで、勝敗自体よりも将棋の道を究めたいという気分の方が強い。だが、やはり負けるよりは勝ちたい。特に、実力の伯仲した友人相手だと、勝利に拘りたい。だからどちらの気持ちもわかる。
(でも、どっちも楽しそうではあるんだよな)
結局は、ただ将棋自体を楽しむも良し、強くなることを喜ぶも良し。楽しめれば良いという程度に考えるのが一番良いのかもしれない。
などと考えていたが、盤の向こうのにとりが得意そうな笑顔でこちらを見ているのに気付くと、やはりこのしたり顔をやめさせたい気持ちが強くなる。
(見てろよ、馬鹿め)
第三戦の前夜、神霊廟に招待された椛は、また夕食を馳走になった後、将棋盤を挟んで神子と向き合っていた。
布都と屠自古は家事等の仕事があるらしく、不在である。青娥がいないのはよくわからない。
「……困った。困りました」
普段は動物の耳のように立っている神子の特徴的な髪が、へにょりと垂れている。神子の悩む姿よりも、意思を持つような髪の動きの方が面白くて気になるところだが、流石にそれについて聞いてみる空気でもないので、盤上に意識を戻す。
先述の、得意戦法が無いという欠点が、神子を悩ませていた。
「今更泣き言を言っても仕方ないのだけど……困った……」
交流戦以降も、対抗戦が始まってからも、様々な戦法を学んだ。全体的に実力は上がっている。
だが、どうしても、飛び抜けたものが出来上がらなかった。
(不思議な人だなぁ)
以前も思ったが、やはり一種の才能とすら思える。
(……仕方ないな)
あまりやりたくなかったので、今の今まで教えてこなかったことがある。それは博打要素が強い手段だからだ。
だが、どうしても神子がはっきり自分のペースを掴んで進めるための道が見えない。
事ここに至っては、どうやら奥義を伝授しなくてはならないようだ。
最後に、神子の意思を確認する。
「豊聡耳さん、一つ聞いて良いですか?」
「何でしょう?」
「勝ちたいですか?」
神子は一瞬きょとんとしたようだが、すぐに真剣な表情になった。
「勝ちたい」
「何としても?」
「えぇ。何としても」
「豊聡耳さんが勝っても、全体としては引き分けですよ?」
「それでもね。二人が思い切り戦ってきたのに、ここで私が本気で勝ちにいかなくてどうする、という話ですよ」
「なるほど」
今夜これからの短い時間を、一つの戦法に全て注ぐ。それが良いか悪いかは考えない。良いか悪いかはこの際問題ではない。重要なのは、勝つか負けるかということである。ついでに、にとりに勝ち誇った顔をさせたくないというのもある。
「私もですよ」
駒が平手に並んでいる盤上に手を伸ばし、一手指した。
将棋の指導と思った神子が、次の手を指す。
指していくうちに、神子は呆然となった。
一局が終了し、なおも言葉を失っている神子に、椛はいつになく鋭い視線を向ける。
「豊聡耳さん」
「……」
「明日、あなたには、この戦法と心中していただきます。その上で、絶対に勝っていただきます。勝ち以外なら、あなたは破門です」
神子の頬に冷や汗が一筋流れた。
翌日、第三戦の対局場所は、椛とにとりのお気に入りの空間である滝の裏の洞窟。夏は涼しく冬は暖かく、程よく日の光も入って明るい、何かと過ごしやすい場所である。神霊廟側は芳香以外の四人、命蓮寺側も留守番の一輪と雲山、ぬえ以外が集合し、滝の裏の洞窟は熱気に包まれていた。
神子は杓を脇に置き、代わりに扇子を手にしている。
「それでは、対抗戦第三局目、開始します」
椛の宣言で、神子と白蓮が将棋盤を挟んで丁寧に頭を下げる。先手は神子。
ここから先は今まで以上に将棋の専門的な話が出てくるが、最初の三手をとりあえず記す。
7六歩、3四歩、7七桂。
一番最初のこの三手で、対局場の空気が変わった。
多少将棋に心得があれば、これだけでも恐らくわかると思われるこの手順は、『鬼殺し』と呼ばれる奇襲戦法である。
萃香辺りと対局する際に指せば面白いことになりそうな名前のこの戦法は、奇襲戦法として有名で、有名になりすぎたあまりに十分に対策が練られ、奇襲でありながら奇襲として成立し辛くなっているという、妙な戦法である。但し対抗策を知らない場合、その破壊力は絶大、強烈無比である。
だが、受ける手順が研究されて以降、更に攻撃側の手順も研究され、今では、相手の二手目によって指し方がまた大きく変わったりする研究結果も出ている。そのため、定跡が意外に幅広く、対応し切るには結構な知識が要求される。奇襲戦法は基本的に狙いが単調になりやすく、ハメ技にも近い性格があるが、この戦法は、奇襲の割にやや異色の進化を遂げているとも言える。
昨夜だけで、複数の手順を含めて徹底的に叩き込んだ。布都と屠自古は先に寝るように指示していたので、一対一での個人授業だった。
神子も、見たことも無い手順をいきなり見せつけられて大いに困惑しながらも、必死についてきた。大まかな流れだけでなく、かなり細かい変化まで踏み込み、椛なりの研究手順を惜しまず伝授した。
翌日の対局に影響があっては本末転倒なので、日付が変わるまでと決めて、一気に進めた。
夕食後から日付が変わる頃まで、二人とも一度も席を立たず、茶にも一度も手を付けなかった。約六時間の集中講義はまさに光陰矢の如く、あっという間だった。
丁寧に応対されたら、必ずしも有利とはならない。また、今回は最も原始的な手順になった。この手順の場合、完璧な応対をされると、寧ろ不利になりやすい。博打要素のかなり強い手段だ。
だから椛はあまりこの戦法を指させたくなかった。
だが、最終的には、今まで通りに戦うことと思い切って奇襲を仕掛けることを秤にかけた上で、伝授した。
一応、それなりに成算があってのことである。
第一に、全体として引き分けに持ち込もうと意気込む神霊廟側が、大きなリスクを伴う奇襲戦法を採用するとは予想していないだろうということ。
第二に、得意戦法が無く、自分から形を決めないはずの神子が、自らこんな奇抜な戦法を仕掛けてくるとは考え辛いだろうということ。
第三に、相手が精神的に何かとタフな星ではないこと。
最後に、第一と第二の理由から、流石ににとりもこの戦法の受け方を伝授しているとは考えにくいこと。伝授しているにしても、全てのパターンについて、完全に受け切るところまで教えているとは思えないこと。
三つ目の理由以外がいずれも不確定要素を孕んでいる辺りにも、非常に博打性の高いことが窺える。
だが、今までの神子の傾向と、恐らくにとりから聞いているであろう神子の指し方を逆手に取った形でもあり、分の悪い博打というわけではない。
出会い頭に初対面の相手の頬をいきなり引っ叩くような、この奇襲戦法で挑んだ結果は。
果たして、白蓮は神子の顔と盤上をゆっくり見比べている。膝の上に置かれた白蓮の綺麗な手に、僅かに力が入るのが見て取れる。
動揺している。
奇襲は既に半分以上成功したと言っても良い。
所詮は人(それでもただの人ではないが)同士の戦いである。機械と対決するのでなければ、野暮なようだが、精神的なことがものをいう場合が多い。この重要な一戦において、いきなり相手の混乱を招くことに成功した今は、既に神子がペースを握っている。
盤の向こうで、にとりがにやっと笑うのを目の端で捉えた。
「そう来たか」とでも言わんばかりの笑みに対し、椛は気付かない振りをして、相変わらずの眠たげな仏頂面で盤上を見つめていた。
局面は、神子が常に先に先に仕掛ける展開で、白蓮がペースを握ることができない。
やるからには徹底的にということで、六時間かけてこれだけを詰め込ませた効果が出ている。
布都や屠自古の短期間集中講義以上にきつい、一夜漬け超高密度勉強法の限界か、神子の指し手も完璧ではなく、はっきりと優勢、という状況にまで持っていくことができない。だが、盤面は既に大いに荒れた。昨夜検討した局面と同一ではないが、ある程度予測できた局面である。しかも神子のペースで進めることができたため、神子から指したい手はいくつもあるが、白蓮は打開できそうな手が無く、依然として白蓮側から仕掛けることが難しい状態である。
十分に荒らしまわった後のここからは、持ち前のバランス感覚で、丁寧に指していくだけだ。
白蓮は厳しい表情のまま、懸命に考えを巡らせている。
神子はというと、この局面もどこ吹く風、何食わぬ顔で、いつも通りである。だが実は、これは椛からの教えをひたすらに守り続けているためである。
椛は昨夜の指導の最後に、更に二つのことを伝授している。
一つは、先述の通り、やるからにはとことん荒らし回ってこの戦法と心中するつもりでいくこと。そしてもう一つは、対局前も対局中も、決して辛そうな表情をせず、何食わぬ顔をしていること。
要は、相手に対して、こちらはこの戦法に自信があると思わせ、絶対に弱みを見せないという心理的な話である。
実際、神子の扇子を握る手に力が入っているのがわかる。但し、白蓮の視界に入らない盤の下で、できる限りその手を見せないようにしている。
一晩かけて詰め込んだ知識があるとはいえ、ぶっつけ本番の奇襲は流石に緊張の極みだった。清水の舞台から飛び降りる気持ちで奇襲を仕掛け、何とか自分のペースに持ち込んだ。これでミスなどして負けたりしたら、もう目も当てられない。
神子もまたこれ以上ないくらいに必死なのである。
一戦目や二戦目と違い、奇襲により序盤らしい序盤がほとんど無く、局面は早くも中盤から終盤へと移る。但し手数自体は少ないものの、一手辺りにかかっている時間が長めなので、対局全体の経過時間はあまり短くはない。
互いに王の守りは薄い。早々に脆い防壁は剥がれる。自分の王を逃がしながら、相手の王に迫る攻め合いが続く。
最初から混戦覚悟で臨んだ神子と、思うように攻撃準備が出来ないまま乱戦に引き込まれた白蓮。
精神的なものだけでなく、盤上の駒の配置も、準備していた者とそうでない者の差が現れてきている。右から左から攻撃を仕掛ける神子に対し、白蓮は攻撃の手が少なく、遅れがちになっている。
白蓮の王が詰む寸前となったところで、白蓮が最後の攻撃を仕掛ける。これを凌げば神子の勝ちである。
神子の手が盤の下で強く握られている。しかしそれでも表情は落ち着き払っており、どこかの面霊気を彷彿とさせる見事なポーカーフェイスだ。
双方の丁寧な応酬の中で、神子の王もじわじわと追いつめられる。
椛は、ミスしなければ神子が受け切れると読んだ。
神子は椛の思う通りの手を指していく。白蓮の必死の攻撃が、神子の柔らかい受けによって、途切れる方向へと向かっていく。
そして、遂に攻撃が途切れる。
神子の指し手を見て、しばしの静寂が訪れ、やがて白蓮が、はっきりとした声で言った。
「……負けました」
対局後、緊張が解れて皆がリラックスする中で、最初に明るい声を発するのは大体星である。
「凄い勝負でしたねぇ。見ている方が緊張しましたよ」
恐らく一番緊張していないはずだが、椛は突っ込むようなことは言わない。
「うぅ……神子さんがこのような激しい仕掛けをしてくるなんて予想外でした」
「私も勝ちたかったものでね。……とはいえ、素直に戦っていたら勝てる自信がなかったから、裏をかくようなことをさせてもらったんだけど」
「それにしてもなかなか見事でしたねぇ。椛がこの戦法をしっかり教えてるとは。この作戦は前々から練っていたんですか?」
「正直に言うと、完全な一夜漬けだよ。昨日の講義が終わる頃には頭がくらくらして大変だった」
「そりゃ凄い。いやはや、これは一本取られた」
にとりによると、奇襲もあり得るということで、いくつかの奇襲戦法の対応策は伝えていたとのことである。しかしいずれも軽く触れる程度で、鬼殺し戦法についても触れてはいたようだが、深く踏み込んで教えたわけではなかったようだ。
白蓮も、奇襲の可能性があるとはいえ、まさか神子がここまで思い切ったことをしてくるとは予想していなかったのだろう。白蓮の動揺はそこにあったようだ。
「お前、奇襲に触れてたんなら、鬼殺しはもう少し説明しとかないと拙いだろ」
「うーん……でも、あそこまでがっちりやってくるとは思わなくて……奇襲にばかり時間かけるわけにもいかなかったしさ。とはいえ確かに、指導者としては大きな失策だな、こりゃ」
「ほっほっ、まぁそう言うこともあるまい。実際、一夜漬けとは思えんほどの指しっぷりじゃったしのぅ。わしも驚いたわい。これを受け切る手順を学ぶとしたら、流石に時間がかかるじゃろうて」
感想戦もいつになく盛り上がり、洞窟内に明るい声が響く。
その感想戦が一段落ついたところで、にとりが切り出した。
「さぁて。これにて、とりあえずは対抗戦三戦が終了したわけだけど……」
「よもやの一勝一敗、一引き分け、か」
「私としては椛の悔しがる顔が見たかったんだけどねぇ」
「それはこっちの台詞だ」
椛も、やはり勝敗はつけたいところではある。今や互いの代理対決のような気分になっており、事実そのような形になっている以上、何かと一言余計な友人を打ち負かしてやりたい思いが強い。とはいえ当の対局者達の意向が最も重要なので、とりあえず意見を求めてみることにする。
「さて、どうしましょうかね。これにて終わりとしても良いですし、引き分けの第一戦の指し直しをして決着をつけても良いですが」
「……屠自古さん怖いからなぁ」
「何か引っ掛かる言い方だが、それは私の人格ではなく、将棋内容と捉えて良いんだね?」
「海の女は伊達じゃないとか言っておったではないか。我としては勝つにしろ負けるにしろ、勝敗がはっきりつく方が気分が良いのだが」
「海の女も幽霊の方は苦手でして……」
「おかしいな。私も船長とはそれなりの付き合いがあるが、船長は幽霊だと思っていたのだがね」
「ナズ、船長は舟幽霊です。ただの幽霊じゃありません」
「いや、しかしだねご主人様、舟幽霊も幽霊の一種だろう」
「と言うか、その話し振りだと、やはり私の人格が怖いということなのかな? ね?」
「うひ!」
「だが実際怖いではないか。我も時々、いや常々そう思うぞ」
「おい」
「蘇我様、眉間に皺を寄せてはお綺麗なお顔が台無しですわ」
「まぁまぁ。ところで、私に一つ提案があるのだけど」
神子が発言の許可を求めるかのように挙手した。白蓮が代表して先を促す。
「何でしょうか?」
「うん。先ほどの私の指し方のように急な話で、少々申し訳ないが……実は交流戦の後、私達も知らなかったある一つの事実が判明したのですよ。それは」
言葉を切って視線を横に向ける。神子の視線の先には青娥の姿があった。
「私どもの仲間である青娥が、相当な実力者だったのです。お恥ずかしい話ながら、身内の強豪の存在に全く気付かなくてね」
「あら」
急な紹介でも青娥の妖しい笑みが崩れることは無い。
「しかも、師曰く、そちらの二ッ岩さんにも劣らぬ実力であるらしい」
「なるほどのぅ」
マミゾウも顎を撫でてにやりと笑う。
「新たな代表者を立てて、エクストラマッチと言うことかぇ」
「交流戦にて青娥の実力をそちら側に見せていないのもあるから、そちらがその点を気にするのであれば、この案は素直に引っ込めようと思うけど」
「面白い。面白いではないか。祭は予想外のイベントがあった方が面白さも割増というものじゃ。わし個人としては構わぬぞ」
「これはこれは、豊聡耳様も事前に仰ってくだされば良いものを。意地の悪いこと」
「う……駄目?」
「良いですよ」
何かしら一捻りするのは青娥の癖のようなものである。
指名を受けた二人はあっさりと賛意を示す。周囲の者も思わぬ展開にそれぞれ盛り上がっている様子だ。星などは子供のように目を輝かせている。
「後は、審判員お二人と、君の判断だが」
「私はマミゾウさんを信じます」
「面白いことになりましたね。大賛成です。椛もそれで良いよね?」
「ん。それじゃ、対抗戦の特別戦を後日行うことにしましょう」
洞窟内に今日一番の歓声が上がった。
第四戦の会場は命蓮寺。外の世界でもどこかの山だったか寺だったかで何か大きな対局が行われ、将棋史に残っているとか何とか、という話を椛も耳にしたことがある。
名づけるならば命蓮寺決戦と言ったところか、と呟いたらそれを聞いていた星が大いに気に入ってしまい、布都がそれに噛み付いて、邪な寺の名なぞつけさせるものかと喚き、それにまた村紗が文句をつけて騒いで、神子が仲裁するなど、対局前から色々と騒がしくなっている。思わぬ展開になって誰もが興奮を抑えかねているのもあるのだろう。
会場が命蓮寺になった経緯としては、この特別戦を提案したのが神子なので、会場については白蓮に任せることにしたら、命蓮寺が良いということで決まっただけの話である。ずっと留守番を任せていた一輪達にも観戦してほしいという気持ちがあったようだ。
そのようなわけで、今回は双方の陣営全員が会場にいることになる。芳香は思ったことをすぐ口に出したり行動したりすることがあるため、対局の妨げになる可能性があるが、今回は会場でちょっとした特別な設営がなされているため、連れてきている。
二つの勢力それぞれの最強の実力者であり、命蓮寺決戦の主役となる二人は、会場の緊張感にも周囲の騒がしさにも影響されることなく、青娥は柔和に、マミゾウはにやにやと、しかしどちらも腹の中に一物も二物も持っていそうな笑みを浮かべている。
今回は見物人数が多いことと、屋内会場になったということもあり、少しばかり凝った趣向をしている。
対局場の天井にカメラを設置し、盤面が映るようにする。その映像がリアルタイムで別室のモニターに映され、見られるようにした。モニター自体は小さいので、できるだけ全員が見ることができるように、三つセットしている。
また、対局部屋と観戦部屋を離し、対局部屋は結界で音を遮るようにし、観戦部屋の喧騒が届かないように配慮されている。
これらの会場設営により、多くの観戦者が後ろから背伸びして盤面を覗いたりすることがなくなり、観戦しやすくなった。観戦者のちょっとした動作等で対局者の思考を妨げる等の心配も無くなった。別室での観戦により、現在の状況を好きに検討できるようになった。
妙に力の入った設営があるものだから、観戦者の気分が浮ついてくるのも仕方ないのかもしれない。
対局場に入るのは、両対局者と審判係の椛、にとりの四名である。
対局者が盤上に駒を並べ始める。今頃の観戦部屋の状況が気になる。いよいよ始まると騒いでいるのか、対局を前に静まり返っているのか。騒がしいのが好きな幻想郷の連中ならば前者だろうか。
駒を並べ終わり、所定の時間が来るのを待つ。これまでの三度の戦いとは違い、静寂が対局室内に満ちる。
(こういう静かな緊張感というのも悪くないな)
そんなことを考えているうちに、時間になった。
にとりと目が合う。
椛が、静かに開始を宣言した。
今までの対局のレベルが低かったわけではないが、今回の対局はいかにも上級者同士の戦いといった風情がある。
駒音が爽やかなだけでなく、駒の持ち方、動かし方等、ちょっとした動作一つ一つに重みと落ち着きがある。力強いというよりは、大らかかつ優雅で、いかにも余裕のある大人な雰囲気を持つ。
時々、マミゾウが扇子を開いて閉じる、パチンと鋭く乾いた音が部屋に響く。あおいだりはしないが、この動作で思考をまとめているのだろう。胡坐をかいて膝の上に肘を乗せ、扇子を操っている姿が絵になっている。
青娥はたまに静かに扇子であおいだりするが、扇子の開閉は物静かで、その美貌も相まって深窓の令嬢といったところである。この姿だけを見れば、胡散臭い話に事欠かない油断ならぬ邪仙にはとても見えない。
将棋の内容も、定跡に則った丁寧な指し方であり、この対局を見て一つ一つの手を検討していくだけでも、観戦室の者達には非常に良い勉強になるだろう。
互いに王の守りが整うまでにもそれなりの手数と時間が経過したが、やがて先手番のマミゾウから攻撃を開始した。
青娥も受け一辺倒ではなく、積極的に反撃に出る。時に鋭く、時に捻じ込むように駒を進め、しかし自陣の守りも決しておろそかにしない。
自分ならどう指すかと考え、つい審判役としての本分を忘れそうになる。
互いの駒の衝突が増え、中盤に移る。
しかし、どちらも総攻撃を仕掛ける気配はない。
どちらも守備の形が良く、その構えに隙が無いからだ。
中盤ながら、なおも自陣の守備を補強し、丁寧に陣形を整える手が多い。
特に上級者同士の戦いとなると、このような状態に陥ることもある。攻撃を仕掛けた方が、その手で逆に自分の隙を作り、却って不利になってしまうのである。
それでもマミゾウが少しずつ駒を進めて攻撃し、青娥がそれを受け流しつつ巧妙に反撃する。どちらも相手陣に飛車が突入した状態となった。
そこから双方とも攻撃が進まない。
どちらも、相手に駒を渡さないように細心の注意を払っているのが大きい。ある程度の駒の衝突はあったが、ほとんどは歩同士であり、他の駒が持ち駒になることが無かった。
飛車は強力な駒だが、それだけで勝てるわけではない。他の駒との連携が不可欠である。
その『他の駒』が無いのである。
盤上の駒は王の守りに回っており、ここから攻撃のために出動させるのは流石に無理がある。
持ち駒はどちらも歩が一枚か二枚だけ。
相手の王に迫るための手掛かりが無く、攻めるに攻められない。
一手辺りの時間が長くなり、手数も増えていく。
それでも打開する手が見つからない。
その状態のまま、ある局面で、青娥が時間を使って指した手を見て、椛は一つ思い当たった。
(……ふむ、これは)
またも『思わぬ展開』になりそうな気配を感じる。
(千日手を考えてるみたいだな)
千日手(せんにちて)も、将棋の引き分けの一種である。
千日手は時代と共に少しずつルールが変わってきているが、今日では、一局のうちに同一局面(駒の配置、持ち駒の状態、手番)が四度現れた時点で成立することになっている。
成立した場合、一方が千日手に至るまでに王手を連続でかけ続けていた場合は、王手をしていた方が負けとなるが、そうでなければ持将棋同様に、先後を入れ替え、持ち時間はそのままで指し直しである。
今回のように、指した方が不利になるために、どちらも仕掛けることができないような膠着状態になったりすると、現れることがある。
椛の見たところ、青娥の今の手は、千日手にしないか、という問いかけの手と思われた。
これに応えてマミゾウが千日手を目指す手を指すかどうか。
もう少し前の局面であれば、椛はマミゾウから仕掛けていく手を読んでいた。マミゾウの攻撃を適度に受け流しつつ、青娥も強く攻め合い、互いに相手陣に乗り込んでどちらが先に辿り着くか、というギリギリの攻防になりそうだと見ていた。そうなった場合は椛も勝負の行方が容易に見えない。
実際にはマミゾウはその手順に踏み込んでこなかった。
単に読めていなかった可能性もあるが、交流戦で青娥の実力を見ていないこともあり、マミゾウとしては自信が無かったのかもしれない。
いずれにせよ、攻め合いに突入する機会が過ぎ、膠着状態となったため、青娥が無言の提案をしたように見えた。
指し直しになった時に持ち時間はどうなるか、先手後手が変わっても良いか、等を考慮して、指し直しもやむなしと考えれば応じるかもしれないが、千日手を嫌って自分から打開しようと手を変える棋士も多い。それも一つの指し方である。
両者とも持ち時間は少なく、これから指し直すにはどちらにとっても辛い。また、日も大分傾いており、単純に一日の時間としてもそろそろ厳しいものがある。
それでも青娥がこの手を指したのは、やはり勝ちたいからなのだろう。
マミゾウも青娥の手を見て、一度扇子を鋭く鳴らした。そのまま長考に沈む。
今の手の意図がわかったのだろう。
事実ここは考えどころである。
両者とも時間が止まったように動かず、マミゾウ側の時計だけが静かに動いている。
また、扇子が鳴った。
マミゾウが目だけを動かして持ち時間を見た。
マミゾウの手が迷いなく動く。
今対局で一番高い駒音が響いた。
青娥の問いかけに対し、同意する手だった。
同じ手の繰り返しが続き、千日手成立。
今回使用しているモニターはマイクが無いので音を拾わない。そのためにとりが観戦室に千日手成立を伝えに行った。程なく結界が解かれ、賑やかな足音が近づいてきた。
「いやー、手に汗握る対局でしたねぇ。勉強になります」
星は相変わらず言っていることと表情が一致していない。
「マミゾウが将棋指すの久し振りに見たけど、やっぱり強いなー。こっち来てから将棋なんか指してたっけ? 佐渡では何回か見たけどさ」
「幻想郷に来てからは数えるほどじゃな。この前の交流戦でも思い出しながらじゃった。こんな熱戦は本当に久方振りじゃのぅ」
「ふふ、私も少しばかり緊張したけど、なかなか楽しめたわ。でも」
青娥が盤面を少し前の状態に戻す。椛も気になっていた、数少ない仕掛けのタイミングの場面だ。
「ここで仕掛けてくるとばかり思っていたけど、来なかったわね」
「うむ。ちと自信が無くてな」
マミゾウはやはり気付いてはいたようだ。
「お主が強いのは十分に分かったが、何が得意か、何をしでかすか、細かいところが良くわからんからのぅ。踏み込めんかった」
「何をしでかすかなんて、私は普通に応対するだけなのにねぇ」
「むぅ。我にはこの場面からどう進むのかがよくわからぬぞ」
青娥とマミゾウが、布都をはじめとした面々に講義するように手順を示していく。指し直しか否か等を決める前に感想戦が始まった。
感想戦がある程度落ち着いたところで、にとりが切り出す。
「さぁて。熱戦だったのは良いけど、一勝一敗二引き分けですねー。ここまでもつれるとはねぇ。指し直すにしても、残り時間も無いし、日も傾いてきたからなぁ」
「大変楽しかったですし、私は引き分けということでも良いのですが。どうしましょう」
「ここまで来たからには、勝敗をきっちりつけたいのだが……さて、どうしたものか」
白蓮も神子もやや困惑気味である。
「それでは」
先日の神子のように青娥が挙手する。
「勝ち負けをはっきりさせたい方に一票投じまーす」
「む。それなら、やはり指し直しかぇ。わしはそれも構わぬぞ」
「私も貴方とはまた指したいけど、折角なので、もう一度新たに代表者を出して指せば面白いと思うの」
「せ、青娥殿。まさか芳香殿を出すということではありますまいな」
「おー?」
「いいえ。確かに芳香ちゃんは可愛いけど、流石に将棋はちょっと無理があるものねぇ」
「これ(駒)は小さいなー。これ(盤)は食べごたえありそうだな!」
「雲山、あの子を止めてあげて」
「うおー! 何だこれは! わたあめか?」
「でも、今まで指した者も含めた全員の中からとなると、やっぱり今日と同じ組み合わせしかないんじゃないですか? もしくは姐さんと神子さんが再戦とか」
「それも面白いけど、指していない人が出た方が面白いじゃない。ねぇ、豊聡耳様」
「君は言い方が回りくどくていけない。そろそろはっきり言ってくれないかな」
「あら。何も難しいことは言っていませんわ。今まで対抗戦に出場していない、そして実力も拮抗した人達がいるじゃない。ここに」
青娥が、盤の左右にいる椛とにとりの肩を叩いた。
「……」
「……」
「この両師匠方ならば、この対抗戦のラストを飾るに相応しい実力の持ち主でしょう?」
「なるほどのぅ! そいつは良い考えじゃ」
呆気にとられる師匠二人をよそに、マミゾウが真っ先に賛成し、周囲が一斉に沸き立った。
「……」
「……」
にとりが悪戯っぽく笑った。
「良いですよ。良いよね?」
「まぁ、そうだな。お前と、この将棋を指すのは久し振りだな」
「そうだねー。この将棋は、ね……」
にとりが何か言いたそうな口振りをする。椛にもわかる。
普段は時間をかけてゆったりと大将棋を指しているのだが、ある特定の理由で、この小さい将棋を指すこともある。
二人の間では、この小さい将棋は、賭けをするときに指すことが多いのである。
最も多いのが、鰻の屋台等の店に飲みに行く前、その日の飲み代をどちらが持つか、という対決。
一手五秒以内、時には三秒以内の、三回勝負。
動機は不純だが、その短期決戦の熱いことといったらない。
にとりはそのいつものルールのことを暗に言おうとしているらしい。一応確認してみる。
「……いつもの?」
「当然」
「ふむ。それでは、ちょっとすみません。指すのは良いですが、ルールについては、一番我々の気分が乗る、少々特殊な指し方で良いですか?」
「良いと思いますよ」
何も聞かず、星が真っ先に同意する。精神的に云々ではなく、何も考えていないだけなのではと一瞬疑った。
「特別ルールでも何でも、わしは面白ければ良いわぇ」
「お師匠さん方にお任せしますわ」
特別ルールの中身も確認せず、申し出が満場一致で可決された。これが幻想郷のノリというもののようだ。
椛が座布団の上に胡坐をかき、見慣れた顔が盤の向こうに座る。
時計を手に取り、ルールの細部の確認をする。いつものルールの確認だから、意思疎通の言葉は少なくて良い。
「五秒? 三秒?」
「三秒」
「鰻屋?」
「それで良いや」
「明日仕事だから、今日でなく明日で良いか?」
「良いよ。私も明日は朝早いからね」
「良し。奢らせてしまって悪いな」
「ふふん。その油断が命取りよ。目に物見せてやる」
「あら? 今から指すのですか?」
提案した青娥が驚いたように言った。
「今からだと流石に時間が無かろう。また日にちを決めた方が良いのではないかぇ」
「いえ。これが、いつものやり方なんですよ」
椛が時計の時間設定を変える。
「さぁさぁ、お立合い。恐らく皆さんが見たことの無い、超早指し対局が始まります。モニター越しじゃ面白さが伝わりにくいから、このまま見物しても良いですよ」
駒を並べながら、にとりが商売人のような口調で周囲を煽る。
「お恥ずかしながら、代表者として推薦いただきました、命蓮寺が代表は、口八丁でならしております不肖河城。神霊廟が代表は、無愛想古今比類無しの犬走。この将棋上手だけが取り柄の変人二人が、ただ今から連続で三局、お目にかけましょう。申し訳ないが、皆さんに検討する時間を与えないこと、今からお詫び致します」
「今から三局とな? そんなことができるのか?」
布都の合いの手が妙に様になっている。にとりの口上もいよいよ好調である。
「できるのかどうか、是非見ていただきましょう。幻想郷でもそう見られない、空前絶後の早指し対局。速戦即決、目にも留まらぬ。話の種になること必至。本来なら見物料も弾むところですが、顔馴染みの皆さんには、特別に無料と致します」
「お主なかなか口が上手いのぅ。わしと何か商売でもやらんかぇ」
「そいつは魅力的なお誘いですね。その件についても後日話したいところですが、ま、とりあえずは口よりも将棋が上手いってところを見せますよ」
「ほっほっ、されば見せてもらおうかの」
駒を並べ終わり、時計もセットした。
持ち時間は、三秒。
勿論全部で三秒ではなく、一手につき三秒という意味である。
だが、指して時計のスイッチを押すという動作を考えると、思考時間はほとんどない。
観戦者達が時計を見るが、いまいち意味がわかっていないのか、反応が薄い。まさか時計の表示通り、一手三秒ということが想像がつかないのだろう。
「さて。……結局は直接対決か。さっきの落ち着いた対局からしたら、忙しない上に色々と不純だが」
「あはは。ま、でも、こうすれば燃えるからねぇ。私ららしくて良いじゃない。それに、閻魔様じゃないけど、白黒はっきりしないとさっぱりしないしね。そうでしょ?」
にとりが笑う。多分観戦者達は不純云々等といったことは気にしていないだろうが、椛は少々の罪悪感を感じた。
とはいえ、賭け要素があると燃えるのも事実である。また、早指しという方法も気に入っている。
持ち時間が多ければ、単純に考える時間が多くなり、その分双方が最善手、またはそれに近い手を指しやすい。逆に持ち時間が少ないということは、短時間で最善手を探さなければならない。早指しで勝つということは、短時間で最善手を見つける力が相手より優れている、即ち自分の方が強い、ということになる。それを実感できるのがなかなかの快感なのである。
振り駒の結果、椛が先手。この特別ルールの場合、先手後手は交互に指すように決めている。
「……」
「……」
椛は仏頂面で、にとりは悪戯っぽい笑みで、視線を合わせた。
「……行くぞ!」
にとりの手が、時計のスイッチを押した。いや、押すというよりは、百人一首で札を鋭く払うが如く、横に手を飛ばして叩いた。
椛の手が盤上に飛び、駒を動かして、素早く時計のスイッチを押す。にとりも同様だ。
駒を動かしてスイッチを押す、それだけの動作だが、それらの動作を全て二秒程度で、寸分狂わずに繰り返す。視線は常に盤上にあり、時計の方は一度も見ない。それでも時計を叩く二人の手は一度も空振りしない。
「お? おぉ? 何か凄いぞー!」
芳香が素直に驚きを口にした。
それ以外は誰も何も言わない。ただただ驚いている。
駒を取ったり、駒が成ったりと、少しだけ別の動きが加わっても、決してブザーは鳴らない。ぱしんぱしんと時計を叩く音が、ほとんど一定の間隔で響く。
それでいて、将棋の内容は先ほどの特別戦より遥かに高度であり、青娥もマミゾウも手の意味を把握しきれない。考えている間に局面が五手も六手も進む。
にとりの前口上通り、目にも留まらぬ早さで局面は進む。中盤に椛が少々よろしくない手を指したため、にとりが優勢。怒涛の早さのまま終盤に移り、激しい攻め合いが続くが、途中の失着が響いて一手届かなそうだ。
終盤の攻防の中で挽回する機会を窺っていたが、どうやらそれは無理のようだ。
強者同士の対局の場合、完全な詰みの状態になるまで指すことはあまりなく、自分に勝ちの目が無いと判断したら投了することの方が多い。椛も、とどめと言える一手を見てすぐに投了を決めた。
「負けました」
「良し!」
指す速度と同じくらいの早さで投了すると、すぐに時計の時間をセットし直し、駒を並べ直す。それらの動作まで早い。手の動きに無駄が無い。しかもそれでいて、軽口を忘れない。
「まず一つ。今回は何としても奢らせてやるからな」
「それは無理だな」
「言ってくれるじゃないか。このまま押し切ってやる」
「ここからの二連勝くらい、わけないさ。まぁ見てろ」
逆に、観戦者達の方が言葉が無い。
「行くぞ」
並べ終わると、即座に椛がスイッチを押した。二局目の先手であるにとりが初手を指し、また高速の戦いが始まる。
定跡通りに守りを固めた後のにとりの攻めは、先ほどより激しい。押し切ってやるという、先ほどの言葉通りの指し方だ。椛もそれに対し、一番激しくなる手順で応戦した。
この手順でも不利になるわけではないが、落ち着いて受け止めながら指す方が安定する。激しい攻め合いになると一手のミスが致命的なことになりやすいので、椛も高速対局でなければあまりこのような手順には踏み込まない。だが今日は、高速の戦いであることに加え、気分が高揚しているのもあり、勢いを重視した。
局面が一気に過熱する。
激戦の中で椛の攻撃が上手く決まり、後手番である椛の攻め駒が、先ににとりの陣地に飛び込んだ。椛が優勢を意識する。
すぐににとりの方も椛の陣地へと侵攻を果たし、互いの王の守りに取り付いていく。
双方の駒が真っ向からぶつかり、次々に持ち駒になっては盤上に舞い戻る。
自分の方が攻めが早いことを確信し、更に攻勢を強める。観戦者からすれば、守りが崩されていくのを無視するかのような攻撃で、怖くてとても見ていられない。
だが、椛には読めていた。自分の方が一手早い。
自信を込めて攻めの手を続ける。
椛がにとりの王の逃げ道を塞ぐように、持ち駒を打った。その手を見てにとりが頭を下げる。
「負けました!」
「おぅ」
すぐに駒をまた並べ直す。もう観戦者のことは頭に無い。目の前の宿敵を打ち破るだけだ。
「鰻屋で一番良い酒って何だったっけな」
「もう勝った気でいるの? 全く困ったもんだ」
「お前は財布の心配だけしてれば良いんだよ」
「おのれ、思い上がった狼め。吠え面かかせてやる。狼だけに」
「上手くはないぞ」
「うるさいな」
三局目はまた椛の先手。にとりが時計のスイッチを押して、正真正銘、最後の対局開始である。
時計を叩く力が強くなってきている。特に天狗である椛の力だと、うっかり強く叩きすぎたら壊れそうなものだが、そこはにとり特製の時計、滅多なことでは壊れないくらいの耐久性がある。二度ほど壊れたことがあるので耐久性については十分に強化されているのだ。
ちなみに二度とも椛が壊している。一度目は強く叩きすぎてスイッチを潰し、戻らなくなった。二度目はスイッチを叩く際に目測を誤り、日頃の鍛錬で鍛え上げられた手刀を逆水平チョップの形で時計に喰らわせて吹き飛ばし、木に叩き付けた。二度目については、椛にとって何度目かの一生の不覚だった。にとりは弁償はいらない笑っていたがそれなりの金を出した。
そんな思い出も今は蘇らない。
勝つことだけが重要である。
互いに守りの形を整えると、椛が先攻する。
二局目ほど激しい戦いではなく、互いに相手の攻撃を丁寧に受け止める展開になる。
高速でなければ、観戦者達にとっては良いお手本になる対局だったはずだが、残念ながら私欲に塗れた対局者達は既に全部忘れて、ただ勝ちにいっている。対局後に尼僧の下で修行が必要かもしれない。
中盤のある局面でにとりが指した手を見て、椛の手がほんの一瞬だけ止まり、またすぐに動いた。
指す予定の手を変えたのだ。
にとりの指した手に、隙が見えたから。
隙がある、というのが勘違いであれば、逆に椛の手が命取りになる。だが迷っている暇は無いし、実際迷いは無かった。
武術の腕と視力以外で唯一自信のある将棋において、自分の勘に狂いは少ない。無いと言えないのが苦しいところだが、将棋の勘ならば、幻想郷広しと言えども、自分に匹敵するのは目の前の強敵くらいだと思っている。今の手に間違いは無い。寧ろこの隙を逃していたら、後でにとりに笑われるだろう。
椛が予定変更したところから、形勢が椛有利に傾き始める。
しかしそれ以降のにとりの指し手が完璧に近く、なおも油断はできない。
僅かな優勢のまま終盤に移り、いよいよ互いの王の防壁が崩され始める。
押し切れる、と確信した。
直感を信じ、的確に攻撃し、油断なく守備を補強する。
ここでにとりが、また予想とは違う攻撃の手を指してきた。
にとりもきっと椛と同じように読んでおり、その読み通りにいけば、攻めが途切れると判断したのだろう。実際、椛の読み通りに進めば、にとりの攻めは途切れる予定だった。
変えてきた手も、なかなか難しい手である。しかも、にとりの応手として考えていた予想の中に、入っていない手だった。
今更ながら、流石だと思う。
椛の頭脳が極限に活動し、コンマ一秒だけ感心し、一秒とコンマ七秒で判断し、一秒で指してスイッチを押した。
後で振り返った際、我ながら完璧な一手だったと椛は自分に感心している。
にとりの変化球に即座に対応し、守りに回った。
続いてのにとりの攻撃に対し、一手だけ攻撃の手を指す。これでにとりの王は詰みを逃れられなくなった。
後は、にとりの猛攻を凌ぎ切るだけである。これを凌げば勝ちだ。
にとりの駒が殺到し、椛の守備が吹き飛ばされ、王が奥へ奥へと逃げていく。
巧妙に王を逃がし、にとりの攻めに貢献しない程度に駒を取らせ、紙一重でかわし続ける。
にとりの攻めが糸のように細くなってくる。
やがて、決着の時は来た。
最後の手は、椛が自分の王を斜め下に移動させる手だった。
駒を持ち上げず、盤を擦るようにすっと静かに動かした。鋭い駒音は無く、代わりに時計を叩く音が響く。
「負けましたっ」
「ん」
にとりが深々と頭を下げた。
「うおぉ……負けた……んぐぐ……」
「だから、二連勝ぐらいわけないって言っただろ」
相変わらずの無表情ながら、椛の声は少しだけ弾んでいる。やはりこの早指し対局は楽しい。それに勝つのは更に気分が良い。勝利の快感をゆっくりと噛み締める。
「最後のお願いまで完璧に受けられるとは思わなかったよ……」
「まぁ、あれは少し驚いたけどな。うぉっ」
強く肩を叩かれた。振り返ると、興奮の面持ちの布都がいる。
「凄いではないか! いや、中身はもうさっぱりわからんが、とにかく凄かったぞ!」
それを皮切りに、驚嘆や感嘆の声があちこちで上がる。
「いやもう、本当に凄いとしか言いようがありませんねぇ」
星だけはいつも通りであるが、白蓮は驚きを素直に表している。
「良い物を見せていただきました。あんなに早いのに、指している内容は非常に難しくて……まさに超一流の対局というものですね」
「本当にのぅ。色々と異次元で参考にならんわぃ。実に面白かったわぇ」
「どうだい、幽霊が苦手な船長、このお二人のどちらかと、蘇我さんと、対局するとしたらどっちが良い?」
「え? えーっと……こ、こちらのお二人で」
「ほぅ」
「うへ! や、やっぱり怖い……」
「屠自古、怖がらせてはいけないよ」
「何か色々と腑に落ちないのですが……」
「もう食べて良いのかー?」
「雲山」
「うお! わたあめ!」
「うふふ、芳香ちゃんは可愛いわねぇ」
「まぁ、とりあえず」
椛がおずおずと声を上げた。しばらくの間、対局を振り返ったり、驚きを語り合ったりと、話が弾んでいたが、大分日も傾いてきたところでもあるので、そろそろお開きとしなければならない。
「今回の、神霊廟さんと命蓮寺さんの対抗戦は、一応神霊廟さん側の勝利、ということで」
「最後の最後が私らだったというのは、ちょっと違う気もするけどね」
「そんなことはない。君達は我等が師にして、既にチームの一員です。これからもご指導賜りたい」
「今後は、私達も将棋教室に参加したいですね。私と星はなかなか参加できないかもしれませんが」
「まぁ、その辺は師の事情と相談してもらえれば良いだろうね」
「こちらとしては別に構いませんよ。私でも椛でも、体が空いてれば」
「ま、そうですね」
「神子さん」
「何です、改まって」
「またいつか、対抗戦を開いてもよろしいですか?」
「あぁ、勿論。次回は師が出ることもなく勝ってみせよう。個人的にも奇襲に頼らずに君に勝ちたいしね」
「ふふ、今度はそう簡単にはいきませんよ」
「それじゃ」
星がパンと手を叩いた。
「これにて、命蓮寺決戦は終了! ですね」
「ならん! 我はそんな名前は認めんぞ!」
「えー、語呂が良いじゃないですか」
「駄目だ! そもそも勝ったのは我等ではないか。それに、先ほども言ったが、邪な寺の名などもってのほかである!」
「な、何だと!」
「はいはい、落ち着きなさい」
神子が布都と村紗を左右に抑えた。
設営の片付けの手伝いをしていると、神子が近づいてきた。
「今日は本当に良い物を見せてもらった。それにこれまでもたくさんの指導をしていただいた。誠に感謝の念に堪えない」
「いえいえ。さっきの対局も、実は不純な動機がありましたし……褒められたものじゃないんですけど。すみません」
今更になって、先ほどの罪悪感が蘇ってくる。
「それは対局前の話し振りで何となくわかったけど、別に良いんだよ」
「いや……でも、純粋に勝負してた豊聡耳さん達の思いを踏みにじったというか、何と言うか、そんな気がして申し訳なくて」
「君は真面目な人だね。こう言ってはなんだが、所詮は趣味の延長の戦いのことで、わざわざそんなことを謝罪する必要なんて無いというのに。楽しかったから良いんだよ。君達も楽しそうだったしね。信仰を求めて戦っていた先日の我々の方がよっぽど不純というものさ」
神子は好意的な笑みを浮かべる。
(……まぁ、そんなもんかなぁ)
代理対局のような形だったはずが、最終的には自分達が出てきて対局することになった。子供の喧嘩に親が出てきたような感じで何か違うような気がしていたが、深く考えすぎだったかもしれない。やはり、布都と星の対局の時に思った通り、楽しかったから結果オーライと考えるくらいで丁度良いといったところなのだろう。
「ふふ、君達を師としたのは正解だったみたいだ。先ほども申し上げたが、とりあえず破門にならなくて済んだことだし、今後もどうかご指導をお願いして良いかな」
「それは勿論です。私も将棋仲間が増えて嬉しいですし」
「そう言ってもらえるとありがたい」
神子が片付けに戻ろうとして、今度は何やら悪戯っぽい笑みを浮かべてすぐに戻ってくる。
「ただ、一つだけ」
「はい?」
「私が悩んでいる時に、私を差し置いて、私のこの髪型のことを気にするのは、少々冷たいんじゃないかな」
「……」
第三戦の前夜の、神子の髪がへたっていたあの件を言っているようだ。神子は人の欲を聞くことができる。だが、あの時の素朴な疑問も欲として悟られているのは思わなかった。
「……すみません」
「まぁ良いけどね。ところで、君の思っていた、私の髪の疑問に対する回答、聞きたい?」
何と答えて良いのか、今日一番の難解な局面になったが、とりあえず穏やかな方を選ぶことにした。
「……とりあえず、後日で良いです」
「そうか。残念だ」
神子は愉快そうに笑って片付けに戻っていく。
その後ろ姿を見送って、頭を掻くと、椛はモニターの片付けを再開した。
家主の椛も、ついてきたにとりも、思わず顔を見合わせる。
そもそもは、足の向くままに妖怪の山に来た布都に、にとりがからかい半分で椛の狭い家の風水診断を依頼したことに端を発する。
妖怪には基本的に厳しく当たる布都だが、親しくなれば人と接する時と何ら変わりない。人間好きのにとりと布都がいつの間にか親しくなっており、にとり経由で椛も顔見知りになっていた。以来、たまにここに遊びに来るようになっていたのである。
さて、話の流れで風水診断をお願いしたのだが、こうも険しい顔をされるのは予想外だった。何か余程悪いものでもあるのかもしれない。
にとりに肘で突かれるが、特段悪いことがあったわけでもなく、何も心当たりがない。
「……うーむ。空気が淀んでおる」
「あのー」
椛が恐る恐る声をかけた。
「何が悪いのかはよくわかりませんが、改善はされるんでしょうか」
「む? あぁ、それは簡単なことであろうな」
「それじゃ、一つお願いして良いですか」
「別に我でなくても良いのだが……どれ、上がらせてもらうぞ」
布都は家に上がると、窓を開け放した。
「これで良かろう」
「え?」
「いくら妖怪が頑健だとはいえ、空気は綺麗な方が心身に良いというものだ」
流石の椛も、窓を開けるだけで風水的に良くなるとは思えない。
「窓開けるだけで、何かこう、風水学的に、そんなに良くなるんですか?」
「む? いや、開閉だけだと流石にそういうことはないぞ。位置によっては色々あるが」
「でも、これだけで良いって……」
「む……そうか。勘違いさせてしまったか。そもそも風水として見たら、この家は特に問題は無いぞ」
「え?」
「空気の入れ替えをしていなくて淀んでいたから、空気の入れ替えをしただけだ」
「……」
要は、ただ単に椛が休日に寝てばかりいて、窓も開けずに惰眠を貪っていたから、不衛生だったというだけの話らしい。
「強いて言えば、ほれ、そこの箪笥の上に花を飾ると良い」
布都のついでのアドバイスは、にとりの大笑いのせいで聞こえ辛かった。
ヘッドロックでにとりの笑いを押さえつけたところで、茶を淹れて一服している。残念ながら犬走家の茶は本当に粗茶なので、有名豪族の者に出すには少々気が引けたが、他に何もないので仕方がない。
幸い布都は全く気にしていないようだったが、先ほどから部屋の隅の何かをチラチラと見ている。椛と布都は向かい合っている形になるので、何を見ているのかはわからないが、いずれにせよ椛の後方にある何かを気にしているようだ。
椛の方から切り出そうと思ったが、布都が先に口を開いた。
「あれは、将棋盤か?」
振り向くと、確かに将棋盤が置いてある。大将棋用ではなく、一般的に使われている八十一マスのタイプのものだ。
椛の家では、刀と盾を除けば最も価値のあるものかもしれない。
古く重厚で、柾目の模様が美しく、駒と合わせて犬走家で唯一の自慢の品である。ちなみに椛愛用の武具は椛自身の手足のようなものであり、例え価値は高くとも、自慢の品だとかお宝だとかいうものとはまた違うように思っている。
卓袱台をずらし、盤を駒と一緒に持ってきて布都の前に置くと、布都は目を輝かせた。
「おぉ……。我には鑑定眼なぞは無いが、重厚でいかにも価値がありそうな一品であるな」
「私も目利きでも何でもないですが、実際そうらしいです」
「布都さんは将棋を指すんですか?」
にとりが茶を啜りながら尋ねる。
「少し前に存在を知って始めたばかりでな。しかし、面白いのだが難しくて敵わぬ。眠りにつく前は無かったものだから、恥ずかしながら今更初心者という有様だ」
将棋が伝わった時期については諸説あるようだが、布都が眠りにつく前に見たことはない様子だから、どうやら飛鳥時代には無かったらしい。
「最初は誰だってそうですよ。物部さんは大将棋は知ってますか?」
大将棋の盤を持ってくると、布都は目を丸くした。
「な、何と。それは初めて目にした。そんな将棋があるのか」
「これも面白いですよ。この機会に覚えてみますか?」
そう言ってにとりが笑うが、大将棋を新規に覚えるのは容易なことではないので、あくまで冗談で言ったに過ぎない。布都も流石に首を横に振って、
「いやいや、小さい方でも手一杯なのに、そんな大規模な将棋は目が回ってしまう。小さい将棋がもっと強くなってからにしよう」
「そうですか、残念だなぁ。でもいつかはこれに挑戦してくれるってことで良いですか?」
「む……か、考えておく」
「その台詞はその気がない時の台詞ですよ。あーあ、布都さんに振られちゃったー」
「あ、いや、そういうわけではなくてだな……」
慣れてみると、布都は気さくで話しやすい。にとりがからかっているのを真に受けてあたふたしている姿などを見ていると、その顔立ちや体格も相まって、可愛らしくさえ見える。尤も体格だけなら椛も小さく、布都とあまり変わらないのだが。
将棋の話題になったところで、大将棋の盤を片付けながら、一つ提案をしてみた。
「折角なんで、一局どうですか?」
「む、我と指すと?」
「そうです」
「むぅ……だが、さっきも言った通り、我は初心者なのだ。おまけに、こんな大層な将棋盤を持っていたり、大将棋などというものにも精通しているところなどを見ると、お主らは強いのであろう?」
「まぁ……自慢するわけではないですが、結構強い方だと思います。でも、駒落ちで指しますよ」
将棋は決められた通りに点対称に駒を並べてから指し始めるのだが、両者の実力者の差が大きい場合、強い方がある特定の駒を除いた状態で開始する、ハンデをつけた対局をすることもある。この戦いを駒落ち戦と呼ぶ。逆に双方とも駒を外さず普通に指すのは平手(ひらて)戦と言う。
「それであれば……いや、それでも敵わぬだろうな。だが後学のためにも、ここは一つ指南を受けよう」
「これは面白くなってきたなぁ。椛はめっちゃ強いから気にせずガンガン指して大丈夫ですよ。ところで布都さんは将棋の実力はどんなもんですか?」
「そうだな……」
布都の話を聞き、とりあえず飛車と角行を落とす、一般的に二枚落ちと呼ばれる形で指すことになった。飛車も角行も大駒と呼ばれ、攻防に大きな役目を果たす重要な駒だ。この二枚を外して勝つには余程の実力が無いと困難である。
結果としては、二枚落ちでも椛がさほど苦労することなく勝利した。しかし思っていたよりは遥かに上手く、とっくに初心者を卒業していると言っても良いくらいの実力のように見受けられた。
将棋や囲碁等で指し手の研究をしていくうちに、互いに最善の手を指していく手順が確立される。その最善手の手順を一般に定跡と呼ぶ(囲碁だと定石と書く)が、布都の指し方は定跡を踏まえた丁寧な指し方であり、誰かに教わったか本で勉強したように思われる。
先ほど布都の実力の程度を判断するため色々と尋ねていた時には、どのように勉強していたかまでは聞いていなかった。
「いやはや……参った。手も足も出ないとはまさにこのことであるな」
「いや、全然そんなことはないですよ。定跡も知ってるみたいですし。物部さんは誰かから将棋習ったんですか?」
「人里の古本屋で見つけた本が一冊だけあってな、それが教科書替わりだ」
「一冊だけですか。それでこれほどならば、尚更大したものです」
特定の戦法を深く書いているものか、簡単な定跡を広く浅く書いてある本か、いずれにせよ一冊の本だけを頼りに、初心者の試行錯誤でここまで強くなったのなら、少々驚くべきところである。それほど布都は意外な強さを示した。
「布都さん一人でなく、えーと、道場でしたっけか、神霊廟でしたっけか、そこの皆さんと指してるんですよね」
「うむ。だが、太子様も屠自古も我同様に初心者であるから……恥ずかしい話だが、三人寄っても文殊の知恵とはならぬ。女三人寄れば姦しい、の方がしっくりくる体たらくだ」
文殊と言った時に僅かに顔をしかめているのは諺の菩薩に嫌悪感を示したからのようだ。布都の生真面目さか、宗教の根の深さか、椛には良くわからない世界である。
「なるほど。どっちにしても布都さんは初心者ではないですねぇ」
「えぇ、十分に強いと思いますよ。多分物部さんだけでなく、その道場の方も結構な腕前なんでしょうね」
「うぅむ、完敗しておいて褒められるのはどうにも……」
布都は頭を掻いて複雑な表情を浮かべる。
と、不意に布都がその手を下ろして、
「今日対局したのも何かの縁かもしれん。今後、我等に将棋の指南をしてくれぬか?」
「え?」
椛とにとりが顔を見合わせる。
「負けはしたが、対局してみて、改めて将棋というものの面白さがわかった気がした。将棋でも何でも、わかればわかるほど、わからぬということがわかって、面白いものだな。二人の時間があるときで構わぬから、指導賜りたい」
思わぬ申し出を受けて、二人とも困惑する。とはいえ将棋を指す仲間が増えるのは嬉しいことである。また、椛は哨戒の仕事、にとりは機械修理等の依頼事があるが、どちらも毎日のことではない。妖怪の山に立ち入る者は少ないから、哨戒任務は勤務日数そのものが多くないし、にとりの方も修理依頼等はそうしょっちゅう来るわけではなく、趣味で機械弄りをしている日の方が圧倒的に多い。
「……いや、すまぬ。突然変な申し出をしてしまった。お主らも事情があるだろうのぅ」
「いえ、別に良いですよ。私らの暇な日はちょっとばかり不定期ですけど、基本暇ですから」
にとりが笑顔で答えた。
「む……良いのか? 我が勝手に言い出したことであるから、無理はせんで良いのだぞ」
「別に無理してなんかないですよ。将棋仲間が増えるのは嬉しいですしね。椛なんか休みの日はどうせ寝てるだけだし」
「余計なお世話だ」
「ふむ……それでは、一つよろしくお願いする」
丁寧に深々と頭を下げられ、思わず椛も頭を下げる。敬意を払われる方には慣れていないので変な気持ちになる。
「実力が上達した暁には、お主らが望めば、こちらも道教の秘術を伝授しようぞ」
「そうですねぇ、それは考えておきます」
「おのれお主、その気が無いのだな」
「おや、ばれたか。あはは」
にとりが明るく笑い、日頃仏頂面の椛も、つい微笑した。
了承したは良いものの、数日後にいざ三人揃ってにとりのいる川沿いの工房に現れた時は、椛もにとりも緊張した。布都は「我等」と言っていたので、将棋を勉強中の三人が来ることはわかっていたのだが、所謂聖人君子と呼ばれる者達が自分達に教えを乞いに来るとなると、何となく気後れする。
帯剣し、不思議な髪形をした人物が丁寧に頭を下げた。それに合わせて後ろに控える二人も丁寧にお辞儀をする。椛達はそれを見て慌ててぺこぺこしている。
「こんにちは。君達が、私達の師となる犬走さんと河城さんですね」
師と言われて、一層困惑する。
(……困った。私は教師には向いてないなぁ)
人里の寺子屋の教師に敬意を抱いた。
将棋教室は、いつも椛とにとりが駄弁っている川沿いの草原で始まった。川のせせらぎが耳に心地よく、天気の良い日は二人で外に将棋盤を持ち出し、指していることがある。滝の裏に次ぐお気に入りスポットである。
大きな困惑と多少の緊張の中で始まった将棋教室だが、二度三度と行われると講師役にも徐々に慣れてきた。高貴なる生徒達が優秀なので教える側としても遣り甲斐があってなかなかに面白い。
何より、同じ趣味の仲間が増える喜びが思った以上に大きく、椛も何となく指導に熱が入ってくる。話し方こそいつも通り間延びしてゆったりした口調だが、口数は遥かに多い。椛自身も指導中に自分の口数の多さに驚いた。
(今日も随分喋ってるなぁ)
今日が何度目の講習かは忘れたが、慣れたにせよ、人見知りであまり話したがらないはずのいつもの自分が嘘のようだ。だが、悪い気はしない。
自分の好きなことの話をしているから、というのが一番の理由だろうから、他の話題になればきっといつも通りだんまりになってしまうと思われるが、それでもこの時間が心地良い。
「面白いですねぇ。お三方とも、指し方に性格が出てますよ」
にとりの笑い声が椛の思考を中断させた。
にとりの言う通り、三人ともそれぞれの指し方が大きく異なっている。
布都は非常に防御重視の戦法をとる。先手番でありながら先攻を許すことも多い。相手の王を詰ますのが目的のゲームなのだから、当然ながら攻撃しなければ始まらない。先に指せるというのは、基本的に先攻権があると考えて良いものだから、それを放棄するようなことは、あまり良くない指し方だ。
だが、守りの時の指し回しや感覚はかなり優れている。相手の攻めを巧妙に受けて攻撃を途切れさせて勝利に持っていく指し方を『受け潰し』と言ったりするが、布都は受け潰しが上手い。
速度と攻撃性を重視する近年の強者同士の対局では比較的珍しい指し回しである。布都の場合はどこまでも受け重視のため、消極的すぎるところはあるが、その指し方が徹底している上に受けの要所要所を的確に押さえているため、単調な攻撃では簡単に潰されたり、泥沼の対局になったりしそうだ。対局相手としては厄介だと思うだろう。
屠自古は逆に、火が出るような極端な攻撃志向である。王の守りもそこそこに、駒をガンガン前に出して攻めに攻める。傍から見ている分には危なっかしくも爽快な指し方をする。
布都とは対極の指し方だが、布都が受けの感覚に鋭いように、屠自古は攻撃の勘に優れている。決して単調な攻撃ではなく、複数の駒の連携を上手くとったり、相手の右側を攻撃していたと思えば左側を攻めたりと、とにかく攻撃に関しては油断も隙もない。
上手くいなされると防御の脆さから簡単に崩れてしまうが、相手が少し受け間違えると猛攻によって一気に勝勢に持っていく。良くも悪くも思い切りの良い指し方である。(流石の椛も口には出さないが)男らしい将棋と言えないこともない。
そして、二人の主である神子はというと、これが椛も評価に困る指し方をする。椛の見たところでは、神子には大きく二つの特徴がある。
まず、基本的に自分から形を決めて指すということがほとんど無い。
将棋は交互に指すというルールがある以上、互いに好きなようにやることはできない。相手とのやり取りの中で向こうの失着を咎めて優勢に持っていく、という形になりやすいゲームである。
そのため、最初から指したい戦法をこれと決めつけて、それだけに拘って指すようなことは基本的にはしない。双方の実力があまり離れておらず、かつ相手がその戦法について精通していれば、上手く応対されて負けるに違いないのだ。だから、最初にある程度の方向性を決めるものの、様子を見ながら指し手を変えつつ進めていくというのが普通である。場合によっては最初の方針を大きく変えることもあり得る。
神子の場合、その最初の方針すら無い。
大体の戦型に対応できるような手から指していき、相手の方針が見えたらそれに合わせて形を変えていく。
但し、椛が神子と対局した際、神子に合わせて方針をはっきりさせずに指し進めていったところ、ある程度進んだところで神子が自分で形を決める手を指した。だからどこまでも無形の方針を貫くというわけではないらしい。
そこでもう一つの特徴が現れてくる。
得意戦法が無いのである。
布都と屠自古のそれぞれの得意戦法の強さや理解度を百点、得意でも不得意でもない戦法を五十点とすると、神子はどんな戦法や戦型でも八十点くらいの指し方ができる。
そう書けばなかなか凄いことのように見えるのだが、実際は少し違う。神子の場合は、どんな戦法や戦型でも、八十点くらいの指し方『にしかならない』と書く方が正しい。苦手な戦型が無い代わりに、これなら自信がある、というものが無い。
機械が指すのではないのだから、少しは得意不得意もありそうなものだが、不思議なほどにそれが無い。
ある意味では凄い才能であるが、椛としてはあまり良い傾向ではないと考えている。
その八十点がそのまま全体的に上がっていけば、やがてオールラウンドの超強力棋士になりそうなものだが、実際にはそうはならない。簡単にそうなれたら苦労はしないのだ。
外の世界の一流棋士、または椛やにとりといった強豪でも、何かしらの得意戦法はある。『どんな戦法も完璧にできる』のではなく、『どんな戦法もかなりできるが、特に得意な戦法がある』のが自然であり、かつ望ましい。
まだまだ椛やにとりほどの一流棋士とは言い難い実力の神子の場合、同程度、またはやや上の実力者との対局の際に武器、即ち得意戦法が無いのは、何より精神的に少々辛い。ここ一番という時まで相手に応じて完全に臨機応変に、というのは無理がある。
椛もそれを何度か指摘しており、神子も気にはしているようだが、どうもいまいちピンと来ないらしい。
「それはわかっているのだけど……」
「何かこう、これは面白そうとか、そう感じるような戦法はないですか? 何でも良いですよ」
「うーん……」
神子の琴線に触れるものが見つからない様子なのである。
(為政者だからなのかな?)
為政者独特のバランス感覚のようなものがあって、なかなか決められないのかもしれない。尤も為政者ならば決断力がなければ拙そうなものだが、将棋はまつりごとではないので、そこまで責めるのは流石に酷というものだ。椛もそこまで決断力を求める気は無い。
「まぁ良いです。それじゃこの本、これにもいくつか戦法が載ってますんで。深くはないけど、ある程度までなら書いてありますから、一応参考までにどうぞ。やはり得意戦法はあった方が良いですからね」
「ありがとう、我が師」
「師というのは止めてほしいんですが……」
この神子の奇妙な特徴が、後々神子自身を苦しめることになる。
そんなある日、いつものように将棋講習をしていた時に神子達の商売敵(?)であるはずの聖白蓮やってきた時には、何かと鈍い椛も驚きを隠せなかった。布都などは露骨にむすっとした顔をしている。
椛もにとりも白蓮とは面識があるため、とりあえず戸惑いつつも挨拶をする。このような妙な状態でも白蓮は柔らかい笑みを崩さない。
「どうもお久しぶりです。白蓮さんも一緒に将棋指しません?」
こういう時はにとりの明るい雰囲気と性格が役に立つ。両陣営の微妙な空気にわざと気付かない振りをして、明るい口調で話しかけた。
「それも面白そうですが、今日は神子さん達に一つの提案があって参りました」
「提案だと?」
布都は不快そうな表情を隠そうともしない。
「えぇ。私どもと、将棋で対局をしませんか?」
「対局……。それも、『私ども』と、ね。ふむ。私達と君達との将棋の団体戦の申し込みといったところかな?」
「えぇ、そうです。元々、私どもも趣味程度で将棋は嗜んではいますが、そちらの皆さんが最近になって優秀な講師の方々から将棋の手ほどきを受けていると耳にしまして。これは一度お手合わせ願いたいと思ったのです。これで親睦が深められたらなお嬉しいのですが」
「ふん」
「布都、やめなさい。まぁ、私としては構いませんよ。確かに色々ありはしたが、私としても君達と無闇に張り合ったり争ったりするつもりはないのでね。親睦が深まるのもまた良いと思う」
「ありがとうございます」
ルールは、双方から三名ずつ代表者が出て対決。全て平手戦。先手後手は対局の度に決める。日程は十数日後の椛が非番の日。一日一局で、三日かけて行う(椛の仕事の都合上、三日連続ではない)。昼食を挟まず、午後一時から対局開始。先にどちらかが二勝しても、最終戦まで行う。但し、双方の実力を見るため、数日後に一度交流戦を行う。対抗戦の対局者の順番等は交流戦の後に双方から提出する。
「良いんじゃないですかね。ただ、交流戦以降はこちらも犬走さん達の講義を受けるのは控えた方が良いのでは?」
屠自古の申し出に神子も頷きかける。
「確かに、傾向と対策を師に聞くというのは少々ずるい気が……」
「いや」
口を挟んだのはにとりだった。
「ここは逆に、私らのどっちかがお寺の方々について、互いに作戦を練った方が面白いんじゃないですかね」
この申し出には神子も白蓮も流石に驚いた様子で、一瞬言葉を失ったようだ。
「なるほど。私らの講義を受けないとは言っても、それを証明するのは面倒だし、それよりなら最初から両陣営に分かれてた方が面白そうではあるな」
「ね。どんなもんでしょ」
「それは……私どもにとっては願ってもないお話ですが、神子さんはどうですか?」
「ふむ。ま、それも良いでしょう」
「よろしいので? 今までご指導賜っていた我等の実力やら傾向やらが、悉く筒抜けになりますぞ」
「その恐れもあるが、結局は交流戦で双方の実力が見られるのだからね。交流戦の後にということであれば、まぁ良いのではないかとは思う」
「神子様がそれでよろしいということであれば。私としては不利な条件には思えるのですが」
「我も、あまり良い条件には思われませぬが……太子様の御意のままに」
「それでは、そのようにしましょう。後はいずれの師が向こう側につくかだけど」
「ま、それは交流戦の後にでも決めましょう。私でも椛でもどっちでも良いし、決め方もコイントスでもじゃんけんでも良いけど、今からだと気分的に私らも何となくやりづらいしね」
「わかりました。それでは、とりあえず対局条件については以上ですね。本当は私も講義を受けたいのですが、それでは事前に実力を見せ合うことになってしまいますので」
「後日、交流戦の際にまた会おう」
「えぇ。それでは、今日のところはこれで失礼致します」
「妙なことになりましたね」
白蓮が去った後に最初に口を開いたのは屠自古だった。
「ふむ。確かに妙なことになった。だが、まぁ面白そうな申し出ではあった。将棋の勝ち負けでこちらの悪評を広めるとか、変な裏もなさそうだし、良いんじゃないかな」
「しかし……やるからには勝ちたいところではありますが……言いにくいことではありますが、やはり河城殿の提案は我等にとっては不利ではありませぬか」
「まぁ、そう気にするほどでもないと思うよ。そもそもこの勝負、最初からこちらが不利だろうし」
布都と屠自古は驚いて目を瞠るが、椛はいつも通りの仏頂面で、にとりはきまり悪そうに笑っている。
「何を驚いているの。考えてもみなさい。そもそも、私達と彼女らとでは、将棋というものに触れてきた時間の長さが違うでしょう」
魔界にいたり聖の復活のために奔走したりと、まともに将棋を学んだ時間は長くはないかもしれないが、それでも最近将棋に出会った神子達に比べれば、命蓮寺の面々は神子達より将棋に触れた時間は長いはずである。
「それに向こうには、最近外の世界から来た妖怪もいるという話ですしね。その妖怪が外の世界から、新たな定跡を持ち込んで学んでいる可能性だってある。つまり、総合的にこちらの方がまず間違いなく実力的に劣っていると考えて良いんだよ。師もそう思うでしょう?」
椛は未だに師と呼ばれるのに慣れていない。困ったように頭を掻いた。
「まぁ、恐らくそうですね」
「しかし、それならば追加条件は私どもにとって一層不利になりませんか?」
「まぁね。でも、交流戦後に師がいるかいないかということは、それより更に大きな違いになってくると思ったものでね」
「違い……でありますか?」
「交流戦で互いの実力を程度測った後の話だけどね。相手の実力がわかったのは良いとして、その情報を元にどんな対策をすべきか、何に注意を払うべきか、ということを考える際、私達三人だけで十分に対策を練ることができると思う?」
「む……それは……我等だけでは確かに……」
「情けない話ですが、限界がありますね……」
「そう。しかも、私達と相手方の実力を総合的に比較すると、恐らくだが先方の方が上。対策会議や研究をするにも、実力が高い者同士のグループと、低い者同士のグループ、どちらが効率的かつ効果的かと考えると……」
「かえって彼我の差が開いてしまうかも知れませぬな」
「向こうにとってはマイナスが全く無い、メリットだけを与えてしまう話だから、君達の不安も正しい。寧ろ、私の考えすぎで、ただ不利になってしまった可能性も低くないのだけど……」
神子は照れたように鼻を擦る。
「いえ。私どもの実力を良く知る上級者のアドバイスの有無と、先方に与える利を秤にかけると……難しいところではありますが、確かに神子様のご判断の方がよろしいように思われます」
「勝手に話を進めてしまったことは申し訳ないと思う」
「まぁ、元はと言えば、勝手に話を進めたのはこいつですから、豊聡耳さんは悪くないですよ。な?」
「おぅ……い、いや……それはそうだが……あの、お優しい椛さん、もう少しこう、オブラートに包んでくれませんかね」
「何言ってんだ。……まぁ、でも実際、豊聡耳さん達にとっても悪い話ではないと思いますよ。私とにとりと、どっちがどちらの陣営につくかはわかりませんが、どちらについたとしても最善のサポートをするつもりです」
「それで良いですよ。さて、そろそろ講義の続きをお願いしようか。思いがけず対抗戦も決まったことだし、ガシガシ鍛えてもらわなくては」
その交流戦の日は、神霊廟側はいつもの三人。命蓮寺側のメンバーは、白蓮、星、村紗、響子、マミゾウ。他の者は留守番とのことで、対抗戦にも出場しないとのことらしい。また、響子とマミゾウは単に見学に来ただけなので、対抗戦当日は他の三人が出てくることになる。ちなみに青娥も将棋を知っているらしいが、今回は出場しないとのことだそうだ。芳香については残念ながら語るまでもない。
「さて、これで全員ですね。それじゃ対抗戦に先立ちまして、交流戦を行いまーす」
にとりの宣言で交流戦が始まった。
なお、交流戦とは言ったものの、総当たりのリーグ戦等を行うわけではない。単に相手との申し合わせでガンガン対局していくだけである。同じ相手に複数回挑戦しても構わない。また、椛やにとり、将棋に心得のあるマミゾウに挑戦しても良いことになっている。
将棋は、対局後に基本的に感想戦というものをする。これはその対局を最初から振り返り、対局者同士、または観戦していた第三者も含めて、何が敗因か、より良い手はなかったか、等を研究するものである。
上達する手段としては、強者に単に教えを請うたり、本を読んで研究したりするよりも効果的かつ重要な勉強法と言っても良い。自分が実際に対局して勝ったり負けたりして覚えることは何よりも印象に残りやすく、覚えやすいものだ。
今回の交流戦は、単に相手の実力を測るという目的以外に、今まで対局したことのない相手と戦い、感想戦をすることで、視野を広げて更に上達するための出張講座のような意味合いも持っている。
対抗戦出場予定者達の熱戦を眺めたり、自身も請われて対局したりしながら、命蓮寺の面々の実力や指し方、傾向等をのんびりと分析する。
神子の予想通り、そして椛も思っていた通り、命蓮寺側の方が実力が上に思われる。
このメンバーの中では、出場しないマミゾウがかなり強い。椛やにとりであっても苦戦しそうなほどの実力である。命蓮寺側もそれを知っているから出場選手としなかったのだろう。
しかし、出場しないとはいえ、これほどの実力者であれば、この交流戦後の研究や検討の際には命蓮寺側に大きなプラスをもたらすだろう。
神子の危惧した通りであったわけだが、予想以上の実力者であったマミゾウに加えて椛とにとりのどちらかが更に命蓮寺側に加わるとなると、神霊廟側としてはいよいよ大変なことになりそうだ。
また、それだけでなく、命蓮寺の出場選手達も全体的に実力が高い。
命蓮寺側の選手の中で最も強いと思われるのは白蓮である。攻防のメリハリが良く、急戦でも持久戦でも指し方が丁寧で、隙が少ない。定跡をしっかり押さえ、それでいて定跡から離れた展開になっても、慌てず騒がず、あくまで丁寧に要所を捉えて指す。
何かと尖った指し方をする布都や屠自古、逆に尖ったところの無い神子、どちらが白蓮と戦うとしても、この落ち着いた指し回しを崩すのは骨が折れそうだ。
星は白蓮と同等か、少しだけ隙があるように見える。だが、他の誰よりも優れている点がある。精神的な動揺がほとんど見られないのである。どうやら勝敗に全く拘っていないようで、勝ったら無邪気に喜び、負けたら相手の指し方に素直に感心し、そしてどちらにしても楽しそうにニコニコしている。
これはある意味では単なる強弱よりも重要な要素とも言える。勝利への執念やら意気込みやらが無いのはやや問題ではあるが、精神面において強いというのも一つの武器である。
村紗は先の二人と比べれば少し落ちるように見える。布都、屠自古との比較は微妙なところで、神子ならば勝てそうに思える。指し回しとしては普通、もしくはやや持久戦志向のようだ。だが、布都のように徹底した受け潰し狙いではなく、隙あらば攻撃に転ずる鋭さがある。
守りを固めて受けに回りつつ、機会を虎視眈々と待ち、失着があればすかさずそれを捉えて反撃する。確かな定跡の知識と勝負どころの勘を併せ持った優秀な棋士と言える。但し最初の対局前に言っていた「海の女は伊達じゃないよ」という言葉は椛にはよくわからない。椛の経験上、海と将棋の強さは関係が無かったはずである。
椛の見立てでは、厳密に順位をつけるなら、白蓮、神子、星が上位三人。
残り三人は、布都と屠自古の指し方が極端なため、順位が付け難い。指し方のバランスや全体的な感覚等は村紗が優れているが、型に嵌った時の屠自古の攻勢の迫力は凄まじいものがあるし、布都の徹底した守備はそれだけで相手の心を折りかねない。単に観戦するなら面白そうではあるが、作戦を組み立てる上ではなかなか難しそうだ。
ちなみに、神子はその特性上いつも通りに指しているが、布都と屠自古はいつもの極端な指し方を控えている。少しでも実力を隠しておくためである。椛としては今日くらいの指し方の方が攻防のバランスがまずまず良いと思うのだが、当の二人は調子が出ないらしく、あまり勝率が良くない。
「今日のところはぼちぼちお開きとせんか?」
マミゾウの申し出に椛も頷いた。全員がそれなりの数の対局をこなしており、相手方の実力を見るという一番の目的は大体達成されたように思われる。
「そうですね。時間も時間ですし」
「全員の対局も終わったみたいですね。きりが良いところで、今日の交流戦はそろそろおしまいにしましょうか」
開始時と同様ににとりが大きい声で言った。丁寧に挨拶をする者、大きく伸びをする者、早くも駒を片付け始める者、それぞれが思い思いに行動する。
「それじゃ、対抗戦の出場者の順番の提出をお願いしまーす」
対局の合間に既に決めていたらしく、神子、白蓮ともにすぐに紙を提出した。
「どーも。……ふむ、それじゃ、早速、対抗戦の組み合わせを発表していきますよ」
対局終了後のゆったりした雰囲気から、また多少の緊張感が満ちる。
「それでは。一日目、屠自古さん対村紗さん」
「よろしくお願いします」
「お手柔らかにお願いしますよ」
「二日目、布都さん対星さん」
「ふむ。負けぬぞ」
「楽しみですねぇ」
「三日目、神子さん対白蓮さん」
「ま、やはり大将戦はこうなりますか」
「ふふ、頑張りますよ」
「……さて。それじゃ最後に」
椛が手近なところの盤の上にあった歩の駒を一つ手にした。
「お。振り駒で決めるのか。椛にしては粋じゃないか」
「一言多いんだよ」
どちらが命蓮寺側の臨時講師になるかを決めなければならない。
将棋で先手と後手を決める際に行う所作を振り駒と言う。一般的な方法では、対局者のどちらかが歩を五枚取り、手の中で振り混ぜて盤上や床の上に落とし、その際に表(『歩』と書いてある側)の枚数が多ければ駒を振った方が先手、そうでなければ振った方が後手となる。但し対局によっては立会人等が駒を振ることもあり、簡略化して振る駒を一枚や三枚にしたりすることもある。
今回は先後を決めるわけではないが、将棋らしく振り駒で臨時講師役を決めるというわけである。
組み合わせが決まって、また緊張気味になった面々が椛達の周りに集まってくる。
「表なら私が。裏ならお前が聖さん達のとこな」
「オッケー」
掌の中で駒を振り、盤上に落とす。
椛とにとり、ついでに星と響子以外の皆が、固唾を呑んで、放られた駒を見据える。
駒は、裏側を上に向けていた。
翌日も非番ということで、今日の反省と対策会議も兼ねて神霊廟に招待された。椛にとっては夕食を馳走になるだけでも申し訳ないのだが、酒も出て寝床も用意されているらしい。
「え? いや、しかし……」
「まぁ、堅いことは言わず、今日はじっくり飲もうじゃないか。とりあえずのお疲れ会ということで。私が言うのもなんだけど、客間は綺麗にしてあるから大丈夫だよ。今、布都が準備してるはずだけど」
「いや、そういうことではなくて……」
「寝床の用意が終わりました。これでいつ酔い潰れても平気でありますから、いくらでも飲みなさるがよいぞ」
「しかし、天狗の方はお強いという話ですよね……。神子様、ここは一つ、あの強い酒を出しましょうか」
「良し、持ってきなさい。青娥は?」
「芳香殿の手入れがもう少しで終わるので、それから来るとのことでありました。そろそろ来ると思われますな」
「おい布都、この前青娥殿が持ってきてた、あの胡散臭い、酒のような酒じゃないようなアレ、また持ってこないようにちゃんと言ったんだろうな? アレは流石に飲みたくないぞ」
「そこは念を押した。だが……青娥殿のことだからなぁ……」
「流石にお客人には出してはならないから、万が一の場合には早急に対応するようにね」
「……」
何やら不穏な話も聞こえるが、ともあれ、幻想郷に住んでいると話を聞かないようになるのか、元々そういう者ばかりが幻想郷に来るのかはわからないが、幻想郷においては椛のような性格の方が珍しいタイプに該当するようだ。
しばらくしてやってきた青娥は、幸いにもアレとやらは持参していなかった。青娥は白蓮と同様にいつも笑みを崩さないが、どこか妖艶で、かつ底知れない何かが隠されているように感じられる。
「聞きましたわ、将棋の対抗戦を行うのですってね」
「えぇ。しかし実力的に見て、こちらが少々不利のようでね」
「あらまぁ。それでは、一献汲みながら反省会といったところかしら」
「そんなところですね。犬走さんから見て、どうでしたか?」
「んー」
実力的に劣っているのは否めない。両陣営のエース格が、こちらは神子、向こうは白蓮と星。これだけでもまず不利な材料である。また、布都と屠自古の指し方が極端すぎて安定しないため、勝敗を予測しにくいのも少々厄介なところである。その旨を正直に述べた上で、「でも」と付け加えた。
「一段も二段も劣っている、というわけではなさそうですね。十分にひっくり返せる範囲内だと思います。対抗戦までに対策をしっかり練って、勝ちにいきたいところですね」
「是非お願いしたい。河城殿があちらについた以上、我等の情報も筒抜けではあるが、何とか向こうの思惑を超えて行きたいものであるな」
「そうですね」
盃を傾けながら、今後の指導について考えを巡らせる。
最大のポイントは初戦と見ている。
勝って勢いをつけたいというのもあるが、一番の理由は、二戦目がはっきり不利だと思うからである。
布都には申し訳ないが、勝ちを期待するには少々辛いように思われる。そう考えると、初戦を落としたらそれで団体戦も詰みとなる可能性が高まる。そのため、初戦は是が非でも取りたいところだと考えている。
攻撃的な指し方は止めないが、無理に攻めを続けて攻めを途切れさせてしまわないよう、屠自古に繰り返し指導するつもりでいる。無理攻めさえ抑えられれば、屠自古は村紗相手なら勝てる実力があると思われるのである。何としても勝利をもぎ取ってもらいたい。
また、布都についても、不利だからと言って勝ちを諦めるつもりはない。
布都の持ち味である超持久戦に持ち込むことで、自身の土俵に引き込みつつ、星の長所を抑えて戦うことができる。
急戦になると、その激しい戦いの中で、一気に形勢が傾きそうな妙手や予想もしなかった奇手が出やすくなるが、持久戦となると流れが遅くなり、その頻度は下がる。妙手奇手の応酬になって、何が来ても動じない星の精神的タフさが有利に働いてくる展開を作らなければ、布都にも勝機が見えてくる。
但し、持久戦にしつつも、決して受け一方にはならないようにしなくてはならない。全体的な実力は星の方が恐らく上なので、守り一辺倒で受け潰しを狙っても、先に自陣が潰される可能性の方が恐らく高い。タイミングを見計らって積極的に反撃する必要がある。二戦目までは、そのタイミングを見定めるための講義に集中した方が良いかもしれない。
(……まぁでも、このお二人はわかりやすいから、ある意味楽なんだけど)
問題は神子である。
白蓮は、非常に理想的な実力の持ち主である。どのような戦法に対しても対応でき、かつ得意戦法をいくつか持ち、その中で戦うことになれば更に高い実力を発揮する。
一方、神子は、どのような戦法に対しても対応できるのは同じだが、得意戦法が無い。
神子にできるのは、白蓮の得意戦法にならないように誘導することくらいである。この指し方も、ペースを掴ませないという意味で、有力である。しかし、上手く誘導できたところで、やっと互角といったところだ。
また、白蓮は、神子が得意戦法というものを持たないことを恐らく知っている。または、今後にとりの口から知ることになる。となれば、多少強引に自分の得意分野へ引き込もうとしてくることも考えられる。
神子が最初から何らかの戦法に焦点を搾って方針を決めていったとしても、それは普通のことであり、白蓮なら特に問題なく応対してくるはずである。しかも、神子が積極的に何らかの戦法で進めたとしても、その戦法に関して白蓮よりはっきり熟達していると言うわけでもない。
結局のところ、神子が積極的にペースを作り、優勢に持っていく方法が無いのである。
白蓮、神子、星と順位を付けたのも、その点が理由である。単純な将棋の力だけなら神子は白蓮にも恐らく劣らない。厳密に見るなら四十九対五十一くらいで僅かに不利かもしれない。しかし得意分野が無いという理由により、その差が四十五対五十五、四十対六十になりそうにも思われたのである。
何とか三戦目までに得意戦法を見つけてほしいところだが、時間はあまり無い。
椛としては、椛から何らかの戦法を決めつけて教え込むようなことはできるだけしたくない。神子自身に気に入った戦法を見つけてもらいたいと思っている。
勉強嫌いの子供に無理矢理勉強させるように、今一つ興味が湧かないままに戦法を叩き込んでも、何より将棋が面白くなくなってしまう。
とはいえ、勝つための手段として、策は考えている。この分だと、三戦目までに得意戦法は見つからないだろう。その場合はやや不本意ではあるが、ちょっとした奥義を貴人の頭脳に捻じ込み奉るつもりでいる。
(にとりの奴にでかい顔はさせたくないしな)
この対抗戦は互いの指導力の対決でもある。普段の椛らしくもなく、気分が高揚してくるのがわかった。
盃を干したところで、傍らでニコニコしている青娥と目が合った。そう言えば、青娥も将棋ができるらしいという話を耳にした気がする。
「青娥さんも将棋は指すんですよね?」
「嗜む程度ですけどね」
「でも、私は青娥と対局したことは無いな」
「我もですな」
「私も無いですね」
「誰も無いのか。酒の席ではあるが、青娥の実力を是非見せてほしいな」
「あらお恥ずかしい。何十年か、それとも何百年か振りかしら。それなら折角ですし、お相手はお師匠さんにお願いしましょうか」
「私ですか?」
「……青娥」
「あら、如何なさいましたか。何か私を見る目が物凄く冷たくて怖いのですけど」
「君……滅茶苦茶強いじゃないか」
夜も更けてきたため、一手辺りにかける時間を一分以内と決めて指した。結果としては椛の勝利である。しかしその実力は嗜む程度というレベルではなく、神子達とは一線を画す実力である。実力的にはマミゾウと同等くらいに思える。今回は平手で指し、最終的にはさほど危なげなく勝利したが、駒落ち戦だと勝つのは難しそうだ。
「青娥殿もお人が悪い。その実力があれば我等の勝利の可能性が高くなったものを」
「見せつけるほどの実力でもないもので。結果的には負けてしまいましたしね」
淡々とした口調である。青娥は自分の術を見せて驚かせたりするのが好きだが、将棋の腕の方を見せつけるのは好みに合わないらしい。青娥らしくもなく殊勝な物言いだが、卑下するのではなく、どうやら本当に自身の実力を大したものだと思っていないらしい。
「いや、これなら私らが講師役となる必要もなかったんじゃないですかね。二ッ岩さんにも負けないくらいお強いと思いますよ」
「貴方にそう言っていただけたらありがたいけど……結果は結果だものね」
「それでは、対抗戦までは犬走さんに加えて、青娥殿も特訓に付き合っていただきたいですね」
「お恥ずかしいですねぇ……でもまぁ、勝負事となればやはり勝ちたいものですし、私でよければお付き合いしましょうか。術の指導のようにはいかないでしょうから、こちらのお師匠さんのサポート程度になると思うけど」
「いや、助かります。自分だけだと気づかないこともありますから」
命蓮寺側ににとりとマミゾウがいるように、こちらも思わぬサポート役ができた。依然として厳しい状況ではあるが、先ほどよりは俄かに光が見えてきたようだ。
緊張の一日目は、いつもの川沿いの草むらで始まった。今回は響子がいない代わりにナズーリンが見物に来ている。神霊廟側も青娥が来ていた。
将棋の時間を計測する専用の時計も準備する。外の世界のものを参考ににとりが自作したものだ。
時計が二つ、横に並んだ形になっている。後手番の者が時計についているスイッチを押すと、先手番の側の時計が進み始めるようになっており、それを合図にスタート。指したら時計についているスイッチを押す。すると自分の側の時計が止まり、相手側の時計が進み始める。これを繰り返していくのである。
秒読み機能も搭載済みであり、今回は残り時間が無くなったら、一手三十秒以内に指すようにセットしてある。残り時間を使い切った後は全て三十秒以内に指さねばならず、過ぎたら時間切れ負けでブザーが鳴る。逆に言えば、毎回二十九秒までかかろうとも、一手を三十秒以内に指すことができればいくらでも延々と指し続けられるのだが、実際にそのような状況になったら、三十秒で最善手を探し続けるなど困難である。
先手は村紗。男らしく(?)胡坐をかいて膝を一つ叩き、気合を入れると、盤上に手を伸ばし、駒音高く初手を指した。交流戦の時もそうだったが、村紗が指す時の駒音は不思議と高く澄んでいて、何となく気分が良くなる。
後手盤の屠自古もさほど時間をおかずに二手目を指す。こちらは駒音は高くないが、一手一手が妙に力強い。叩き付けるでもなく、弾くように軽快に指すでもなく、駒で盤を抉ろうとでもするかのようにぐぐっと押し付ける。こちらもまた力強く気合が入っていて、男らしい(?)指し方をする。
盤を挟んで村紗と屠自古が対峙し、更に審判役の椛とにとりが盤を横に挟んで座っている。他の面々は思い思いの位置で盤を覗いている。
局面は早々に中盤に移っていった。屠自古が対局する時は大体展開が早い。攻撃を始めるのが早いため、双方の態勢に関わらず激しい攻防になるからだ。
先日の交流戦の大人しかった(それでも他の者よりはずっと攻撃的だったが)指し方はどこへやら、いつも通りの猛攻で、村紗は防戦一方である。
しかし村紗の懸命の防御により、屠自古も攻め切れない。村紗は何度も帽子を被り直し、屠自古もずっと顎に手を当てて思考に思考を重ねている。
徐々に屠自古の攻めが途切れつつある。屠自古は辛うじて攻めを繋いでいるものの、かなり苦しいところである。攻撃が完全に途切れたが最後、自身の王に殺到されて万事休すとなりかねない。
一方、村紗もまた、屠自古の強烈な攻勢に次ぐ攻勢によって気持ちが圧倒されつつあるようで、時々完璧とは言えない手を指す。守るほどではない局面でも守備に回る手を指したりして、防御の薄い屠自古の王に迫ることができない。
厳しく言うなら村紗のミスではあるのだが、今回の場合は屠自古の気迫と徹底した指し方の方を褒めるべきとも言える。屠自古の攻撃は細くなりつつあるものの、一歩受け間違えれば途端に崩される状況なのは変わりない。また、これまでに屠自古の鋭い攻撃の指し手を何度も見せつけられている。余程実力があって読み切ってしまえるなら別だが、普通はどうしても慎重にならざるを得ないところだ。
相手にそのような圧迫感や焦りを与える、屠自古の指し方の真骨頂が現れている将棋である。
動揺とほぼ無縁の星なら屠自古の攻撃を上手くいなして反撃し、屠自古はあえなく敗北していたと思われる。だが今日のこの差し回しと迫力なら、白蓮相手ならもしかしたら、と思わせるような勢いである。順番が変わっていたらまた面白い対局が見れたかもしれない。
そんな椛の想像をよそに、早めの中盤戦から終盤に移り、形勢は思わぬ方向に向かい始めた。
引き分けになりそうなのである。
将棋にも引き分けはある。種類は多少あるが、今回の場合は『持将棋(じしょうぎ)』という局面になりつつあった。
戦いの中で互いの王が相手方の陣の三段目より上、またはその付近まで移動してしまい、かつ互いに王を守りの駒で固めて、詰まそうにも詰ますことが困難になってしまうという事態が発生することがある。将棋の駒は基本的に前へ前へ進むようになっているので、相手方の陣地の方まで王が進んでしまうと、攻め難くなってしまい、このような状況に陥る場合がある。
この場合、駒に点数をつけ、双方の持っている駒を点数に換算して計算し、勝敗を判定する。具体的な計算方法は省略するが、その点数によっては引き分けとなることもある。引き分けとなれば普通は先手と後手を入れ替えて指し直しになる。持ち時間は持将棋成立時点から開始する。残り五分しかなくても、それを受け入れなくてはならない。
上記の持将棋の説明はやや不足があるものの、ここでは、村紗と屠自古の双方の王が相手陣まで移動し、互いににっちもさっちもいかなくなってしまったということが分かってもらえればとりあえずは良い。
屠自古の猛攻は残念ながらあと一歩届かず、村紗の王は屠自古の陣地にまで逃げ込む。屠自古の王も、村紗の僅かばかりの反撃によって脆い城壁を崩され、村紗の陣まで逃げることを余儀なくされている。
普段通りの指し方ならば、無理矢理に攻め続けて攻撃が途切れ、反撃を受けていたはずである。特に今回の村紗のように、相手が上手く受け続けるほど、屠自古も意地になって無理に攻めてしまう性質なのである。
今回は何とか無理攻めを抑えている。椛が繰り返し説いていたのが一応効いたようだ。強いて言えば、攻撃し続けるのが厳しくなる前にもう少し腰を落ち着けて指すことができれば良いのだが、本番でいきなり器用な指し方をするのは流石に無理だろう。屠自古らしさが存分に発揮できたので、とりあえずは十分といったところである。
互いの王がすっかり相手陣に入り、その周囲を守りの駒で埋めていく。流石の屠自古ももう無理な攻撃はしていない。
持将棋となれば、椛が頭の中で計算はしたところでは、どうやら引き分けとなるようだ。どちらも残り時間は少ない。
しかし持将棋もやむを得ない状況になっている。最早どちらも相手の王に迫る手掛かりが何もなく、これ以上は時間の無駄にしかなりそうにない。頭を上げると、にとりと目が合った。考えていることは同じだったようだ。
「えーっと、すみませんが。これ以上は埒が明かないんで、この辺で持将棋としませんか?」
本来ならば、どちらかの対局者が言い出し、同意することで成立するので、審判役であってもにとりが言い出すのは間違いではある。しかし何らかの公式な大会ではないし、当の対局者達も半ば意地になっていて言い出しそうもないので、にとりが提案したのである。
対局者二人が顔を上げ、少しだけ互いの目を睨むようにしていたが、すぐにどちらからともなく視線を外すと、にとりの申し出に同意した。
椛とにとりが駒を数えて計算するが、やはり引き分け。
双方ともに燃え尽きたといった表情だ。
「いやはや、凄い対局でしたねぇ」
この熱戦を見て特に緊張感の欠片もなかった星が、明るく声をかけた。やはり星なら今日の屠自古相手でも勝っていたように思える。他に緊張していなかったのは椛とにとりくらいである。
マミゾウを中心に感想戦が始まる。緊張感から解放された外野があちこちから口を出し、熱戦を振り返っていく。
「しんどかった……。こんな強烈な指し方聞いてない……。いや、にとりさんから聞いてはいたけどさ……」
「いや……途中何度も攻めが途切れそうになって冷や冷やだったよ。攻めてる気がしなかった。攻めさせられてる感じだった」
対局者二人はこの通り、精根尽き果てたといったところで、感想戦にもあまり参加していない。指し直しするような体力も気力もなさそうである。時間的に考えても、このまま指し直しなら夜になってしまう。
「さて」
疲労困憊の二人には申し訳ないが、一応本来のルールは伝えなければならない。
「村紗さん、蘇我さん。持将棋となると、最初から指し直しとなります」
「う……そ、そうだよね……」
「疲れたんよ……」
「本来なら、ですけどね。ですが」
『一応』はルールを伝えたが、対抗戦はあくまで公式の試合でも何でもない。
「これから指し直しだと夜になってしまうし、かといって後日指し直すにも、二戦目以降の日程も決まっている。んで、別にこの対抗戦、何かの正式な対局というわけでもない。ということで……」
向かいのにとりにも確認を取る。
「良いよな?」
「そうだね。流石にこれから指し直しも酷だし、言っちゃなんだけどあくまでお遊びの延長なんだし。今回はこれで良いと思うよ」
「決まりだな。それでは、審判係の判断により、今対局はとりあえず引き分けで終了ということにします。よろしいですね?」
対局者を含めた全員が同意した。
(それにしても、面白いことになったな)
引き分けになることもそうだが、まさか一局目からこうなるとは完全に予想外だった。この分だと一勝一敗一分の引き分けもあり得る。実際にそうなった場合は再度代表者を出して対局か、それとも引き分けでお開きか。
(ま、その時はその時か)
二日目の対局場所は、川沿いから少し離れた大木の下になった。良い天気でやや気温も高く、青空の下では少々暑いかもしれないとの判断からである。
先手は星。
布都よりやや強いと思われる相手である。布都としては、当初の予定通り、まずはいつもの超守備的な指し方を徹底させて持久戦に持ち込みたいところである。
星も布都も、一戦目の対局者二人とは違い、駒音をあまり立てず静かに指す。これから始まる長い戦いを象徴しているかのようだ。
双方とも丁寧に王の守りの形を作り、十分に固めた上で、星が先攻する形で開戦した。星が急戦模様で仕掛けてくる展開も予想して対策はしていたが、その方法は取ってこなかった。とりあえずはこちらの望み通り、持久戦風味で穏やかに進んでいる。
星の攻めは駒の連携が良く、攻め急がず、しかし着実に布都の陣に寄せてくる。屠自古の火の出るような攻撃とは違い、巨大な壁がじりじりと迫ってくるような、別種の圧力がある。
それに対し、布都の守りも良い。星の弱くない圧力を、時に真っ向から押さえ、時に巧妙に受け流し、なかなか隙を見せない。
(でも、このままじゃジリ貧だな)
星の攻撃は早いものではないが、丁寧かつ重厚で、完全に止めてしまうのは難しい。布都の受けが上手いとはいえ、やがて少しずつ王の守りが崩されていくに違いない。やはり受け潰しは難しそうだ。どこかで反撃に転じないと、がっぷり四つに組んだまま横綱相撲で寄り切られておしまいになる恐れがある。
攻撃の感覚に多少の難がある布都が、どこかで反撃を始めることができるかが鍵である。
これについては、昨夜までひたすら特訓を重ねてきた。
布都に足りないのは、単に攻撃の手筋の上手下手というよりは、相手の隙を逃さない知識、大局観、そして勘の問題であり、一朝一夕に身につくものではない。しかし短い準備期間の中で、その感覚を磨くべく勉強していた。何とかその成果を発揮してほしいところである。
幸い、星は全体のバランス感覚等が優れ、攻撃も急がないという落ち着きがあるが故に、攻撃が滞りそうになると駒を組み替えて力を溜めたりして、攻撃が一瞬止まることがある。星の攻撃が止まったその時、布都の陣の防御がすぐには崩されないと判断する感覚と、思い切って前に出る勇気があるか否か。
椛の目から見れば、つい数手前に一度、その機会を逃している。局面は中盤、そろそろ布都の王の守りに手がついてもおかしくない状況になっている。そろそろ星の陣に本格的に攻勢をかけないと拙い。
二度目の機会が来た。一度目の機会からまだ数手後だが、正直なところ、既に攻めが遅れ気味である。しかしここを逃せば、恐らく後が無くなる。
布都が口に手を当てて考え込む。
思考時間が長い。
恐らく気付いたのだろう。すぐに布都の王にまで攻撃の手が伸びる状況ではない。そして、布都の防御技術をもってしても、星の攻勢を完全に受け切るのは最早困難であり、真っ向からの攻め合いに移行しなくてはならないタイミングである。今の段階でも既に遅いくらいなのだ。
星は、布都の手をじっと待つ。椛も、布都の決断を待った。
長考の末、布都の手が動いた。
布都の手は星の陣の方に伸び、静かに駒を移動させた。
(物部さん、よくやった)
少なくとも今の局面では、最高最善の一手だった。星の攻撃が止まった、一瞬の空白を突いた良い手だ。
いつも通りの仏頂面のまま、弟子の成長を無言で褒め称えた。
双方の王の守りが崩されていく。拙かったはずの布都の攻撃が、今までにない鋭さを見せて、星の王に迫る。それでいて、自分の王の危機には、しっかり守りに戻り、丁寧に応対している。布都の中で何かが変わったのか、局面を見極める感覚が素晴らしい。
だが、それでも局面は星の優勢に傾きつつある。
最初の反撃の機会を逃したのが一番大きい。また、接戦になってきたことで、地力の差が現れてきた。星はこの状態でほぼ九十点以上の手を指すのに対し、布都は時々それに劣る手を指す。
短期間での勉強の限界が見えてきた格好だ。
加えて、接戦にも関わらず、その状況を全く意に介さない星は、恐れて消極的な手を指したりすることが無い。難しい局面でも、良いと思った手は何の躊躇も無く指す。ここに来て星の長所が指し手を誤らせない手助けになっている。ここまで来ると、星がある種の悟りを開いているようにも思えてくる。
にとりの斜め後ろで観戦しているマミゾウが、中盤からずっと顎に当てていた手を静かに下ろした。その空気を出さないように気を付けているようだが、椛の目には、マミゾウの目から緊張感が消えたのがわかる。星の勝ち、布都の負けを読み切ったのだろう。
今から星が致命的な失着を指すとも思えない。残念ながらマミゾウの予測は正しいだろう。
そして数手後、布都は蚊の鳴くような声で「負けました」と頭を下げた。
星も深く頭を下げるが、頭を上げた時には、太陽のような笑みを浮かべていた。
「良い勝負でしたねぇ」
その笑顔には一点の曇りも無い。十分に楽しみ、無邪気に喜んでいる。これが星の強みなのだろう。本人は恐らく無意識なのだろうが。
「無念。無念だ……。ぐぅ」
一方、布都は心底悔しがっている。
勝敗に全く拘らないのと、執着するのと、どちらが良いのかは椛にはわからない。椛自身はどちらかというと星タイプで、勝敗自体よりも将棋の道を究めたいという気分の方が強い。だが、やはり負けるよりは勝ちたい。特に、実力の伯仲した友人相手だと、勝利に拘りたい。だからどちらの気持ちもわかる。
(でも、どっちも楽しそうではあるんだよな)
結局は、ただ将棋自体を楽しむも良し、強くなることを喜ぶも良し。楽しめれば良いという程度に考えるのが一番良いのかもしれない。
などと考えていたが、盤の向こうのにとりが得意そうな笑顔でこちらを見ているのに気付くと、やはりこのしたり顔をやめさせたい気持ちが強くなる。
(見てろよ、馬鹿め)
第三戦の前夜、神霊廟に招待された椛は、また夕食を馳走になった後、将棋盤を挟んで神子と向き合っていた。
布都と屠自古は家事等の仕事があるらしく、不在である。青娥がいないのはよくわからない。
「……困った。困りました」
普段は動物の耳のように立っている神子の特徴的な髪が、へにょりと垂れている。神子の悩む姿よりも、意思を持つような髪の動きの方が面白くて気になるところだが、流石にそれについて聞いてみる空気でもないので、盤上に意識を戻す。
先述の、得意戦法が無いという欠点が、神子を悩ませていた。
「今更泣き言を言っても仕方ないのだけど……困った……」
交流戦以降も、対抗戦が始まってからも、様々な戦法を学んだ。全体的に実力は上がっている。
だが、どうしても、飛び抜けたものが出来上がらなかった。
(不思議な人だなぁ)
以前も思ったが、やはり一種の才能とすら思える。
(……仕方ないな)
あまりやりたくなかったので、今の今まで教えてこなかったことがある。それは博打要素が強い手段だからだ。
だが、どうしても神子がはっきり自分のペースを掴んで進めるための道が見えない。
事ここに至っては、どうやら奥義を伝授しなくてはならないようだ。
最後に、神子の意思を確認する。
「豊聡耳さん、一つ聞いて良いですか?」
「何でしょう?」
「勝ちたいですか?」
神子は一瞬きょとんとしたようだが、すぐに真剣な表情になった。
「勝ちたい」
「何としても?」
「えぇ。何としても」
「豊聡耳さんが勝っても、全体としては引き分けですよ?」
「それでもね。二人が思い切り戦ってきたのに、ここで私が本気で勝ちにいかなくてどうする、という話ですよ」
「なるほど」
今夜これからの短い時間を、一つの戦法に全て注ぐ。それが良いか悪いかは考えない。良いか悪いかはこの際問題ではない。重要なのは、勝つか負けるかということである。ついでに、にとりに勝ち誇った顔をさせたくないというのもある。
「私もですよ」
駒が平手に並んでいる盤上に手を伸ばし、一手指した。
将棋の指導と思った神子が、次の手を指す。
指していくうちに、神子は呆然となった。
一局が終了し、なおも言葉を失っている神子に、椛はいつになく鋭い視線を向ける。
「豊聡耳さん」
「……」
「明日、あなたには、この戦法と心中していただきます。その上で、絶対に勝っていただきます。勝ち以外なら、あなたは破門です」
神子の頬に冷や汗が一筋流れた。
翌日、第三戦の対局場所は、椛とにとりのお気に入りの空間である滝の裏の洞窟。夏は涼しく冬は暖かく、程よく日の光も入って明るい、何かと過ごしやすい場所である。神霊廟側は芳香以外の四人、命蓮寺側も留守番の一輪と雲山、ぬえ以外が集合し、滝の裏の洞窟は熱気に包まれていた。
神子は杓を脇に置き、代わりに扇子を手にしている。
「それでは、対抗戦第三局目、開始します」
椛の宣言で、神子と白蓮が将棋盤を挟んで丁寧に頭を下げる。先手は神子。
ここから先は今まで以上に将棋の専門的な話が出てくるが、最初の三手をとりあえず記す。
7六歩、3四歩、7七桂。
一番最初のこの三手で、対局場の空気が変わった。
多少将棋に心得があれば、これだけでも恐らくわかると思われるこの手順は、『鬼殺し』と呼ばれる奇襲戦法である。
萃香辺りと対局する際に指せば面白いことになりそうな名前のこの戦法は、奇襲戦法として有名で、有名になりすぎたあまりに十分に対策が練られ、奇襲でありながら奇襲として成立し辛くなっているという、妙な戦法である。但し対抗策を知らない場合、その破壊力は絶大、強烈無比である。
だが、受ける手順が研究されて以降、更に攻撃側の手順も研究され、今では、相手の二手目によって指し方がまた大きく変わったりする研究結果も出ている。そのため、定跡が意外に幅広く、対応し切るには結構な知識が要求される。奇襲戦法は基本的に狙いが単調になりやすく、ハメ技にも近い性格があるが、この戦法は、奇襲の割にやや異色の進化を遂げているとも言える。
昨夜だけで、複数の手順を含めて徹底的に叩き込んだ。布都と屠自古は先に寝るように指示していたので、一対一での個人授業だった。
神子も、見たことも無い手順をいきなり見せつけられて大いに困惑しながらも、必死についてきた。大まかな流れだけでなく、かなり細かい変化まで踏み込み、椛なりの研究手順を惜しまず伝授した。
翌日の対局に影響があっては本末転倒なので、日付が変わるまでと決めて、一気に進めた。
夕食後から日付が変わる頃まで、二人とも一度も席を立たず、茶にも一度も手を付けなかった。約六時間の集中講義はまさに光陰矢の如く、あっという間だった。
丁寧に応対されたら、必ずしも有利とはならない。また、今回は最も原始的な手順になった。この手順の場合、完璧な応対をされると、寧ろ不利になりやすい。博打要素のかなり強い手段だ。
だから椛はあまりこの戦法を指させたくなかった。
だが、最終的には、今まで通りに戦うことと思い切って奇襲を仕掛けることを秤にかけた上で、伝授した。
一応、それなりに成算があってのことである。
第一に、全体として引き分けに持ち込もうと意気込む神霊廟側が、大きなリスクを伴う奇襲戦法を採用するとは予想していないだろうということ。
第二に、得意戦法が無く、自分から形を決めないはずの神子が、自らこんな奇抜な戦法を仕掛けてくるとは考え辛いだろうということ。
第三に、相手が精神的に何かとタフな星ではないこと。
最後に、第一と第二の理由から、流石ににとりもこの戦法の受け方を伝授しているとは考えにくいこと。伝授しているにしても、全てのパターンについて、完全に受け切るところまで教えているとは思えないこと。
三つ目の理由以外がいずれも不確定要素を孕んでいる辺りにも、非常に博打性の高いことが窺える。
だが、今までの神子の傾向と、恐らくにとりから聞いているであろう神子の指し方を逆手に取った形でもあり、分の悪い博打というわけではない。
出会い頭に初対面の相手の頬をいきなり引っ叩くような、この奇襲戦法で挑んだ結果は。
果たして、白蓮は神子の顔と盤上をゆっくり見比べている。膝の上に置かれた白蓮の綺麗な手に、僅かに力が入るのが見て取れる。
動揺している。
奇襲は既に半分以上成功したと言っても良い。
所詮は人(それでもただの人ではないが)同士の戦いである。機械と対決するのでなければ、野暮なようだが、精神的なことがものをいう場合が多い。この重要な一戦において、いきなり相手の混乱を招くことに成功した今は、既に神子がペースを握っている。
盤の向こうで、にとりがにやっと笑うのを目の端で捉えた。
「そう来たか」とでも言わんばかりの笑みに対し、椛は気付かない振りをして、相変わらずの眠たげな仏頂面で盤上を見つめていた。
局面は、神子が常に先に先に仕掛ける展開で、白蓮がペースを握ることができない。
やるからには徹底的にということで、六時間かけてこれだけを詰め込ませた効果が出ている。
布都や屠自古の短期間集中講義以上にきつい、一夜漬け超高密度勉強法の限界か、神子の指し手も完璧ではなく、はっきりと優勢、という状況にまで持っていくことができない。だが、盤面は既に大いに荒れた。昨夜検討した局面と同一ではないが、ある程度予測できた局面である。しかも神子のペースで進めることができたため、神子から指したい手はいくつもあるが、白蓮は打開できそうな手が無く、依然として白蓮側から仕掛けることが難しい状態である。
十分に荒らしまわった後のここからは、持ち前のバランス感覚で、丁寧に指していくだけだ。
白蓮は厳しい表情のまま、懸命に考えを巡らせている。
神子はというと、この局面もどこ吹く風、何食わぬ顔で、いつも通りである。だが実は、これは椛からの教えをひたすらに守り続けているためである。
椛は昨夜の指導の最後に、更に二つのことを伝授している。
一つは、先述の通り、やるからにはとことん荒らし回ってこの戦法と心中するつもりでいくこと。そしてもう一つは、対局前も対局中も、決して辛そうな表情をせず、何食わぬ顔をしていること。
要は、相手に対して、こちらはこの戦法に自信があると思わせ、絶対に弱みを見せないという心理的な話である。
実際、神子の扇子を握る手に力が入っているのがわかる。但し、白蓮の視界に入らない盤の下で、できる限りその手を見せないようにしている。
一晩かけて詰め込んだ知識があるとはいえ、ぶっつけ本番の奇襲は流石に緊張の極みだった。清水の舞台から飛び降りる気持ちで奇襲を仕掛け、何とか自分のペースに持ち込んだ。これでミスなどして負けたりしたら、もう目も当てられない。
神子もまたこれ以上ないくらいに必死なのである。
一戦目や二戦目と違い、奇襲により序盤らしい序盤がほとんど無く、局面は早くも中盤から終盤へと移る。但し手数自体は少ないものの、一手辺りにかかっている時間が長めなので、対局全体の経過時間はあまり短くはない。
互いに王の守りは薄い。早々に脆い防壁は剥がれる。自分の王を逃がしながら、相手の王に迫る攻め合いが続く。
最初から混戦覚悟で臨んだ神子と、思うように攻撃準備が出来ないまま乱戦に引き込まれた白蓮。
精神的なものだけでなく、盤上の駒の配置も、準備していた者とそうでない者の差が現れてきている。右から左から攻撃を仕掛ける神子に対し、白蓮は攻撃の手が少なく、遅れがちになっている。
白蓮の王が詰む寸前となったところで、白蓮が最後の攻撃を仕掛ける。これを凌げば神子の勝ちである。
神子の手が盤の下で強く握られている。しかしそれでも表情は落ち着き払っており、どこかの面霊気を彷彿とさせる見事なポーカーフェイスだ。
双方の丁寧な応酬の中で、神子の王もじわじわと追いつめられる。
椛は、ミスしなければ神子が受け切れると読んだ。
神子は椛の思う通りの手を指していく。白蓮の必死の攻撃が、神子の柔らかい受けによって、途切れる方向へと向かっていく。
そして、遂に攻撃が途切れる。
神子の指し手を見て、しばしの静寂が訪れ、やがて白蓮が、はっきりとした声で言った。
「……負けました」
対局後、緊張が解れて皆がリラックスする中で、最初に明るい声を発するのは大体星である。
「凄い勝負でしたねぇ。見ている方が緊張しましたよ」
恐らく一番緊張していないはずだが、椛は突っ込むようなことは言わない。
「うぅ……神子さんがこのような激しい仕掛けをしてくるなんて予想外でした」
「私も勝ちたかったものでね。……とはいえ、素直に戦っていたら勝てる自信がなかったから、裏をかくようなことをさせてもらったんだけど」
「それにしてもなかなか見事でしたねぇ。椛がこの戦法をしっかり教えてるとは。この作戦は前々から練っていたんですか?」
「正直に言うと、完全な一夜漬けだよ。昨日の講義が終わる頃には頭がくらくらして大変だった」
「そりゃ凄い。いやはや、これは一本取られた」
にとりによると、奇襲もあり得るということで、いくつかの奇襲戦法の対応策は伝えていたとのことである。しかしいずれも軽く触れる程度で、鬼殺し戦法についても触れてはいたようだが、深く踏み込んで教えたわけではなかったようだ。
白蓮も、奇襲の可能性があるとはいえ、まさか神子がここまで思い切ったことをしてくるとは予想していなかったのだろう。白蓮の動揺はそこにあったようだ。
「お前、奇襲に触れてたんなら、鬼殺しはもう少し説明しとかないと拙いだろ」
「うーん……でも、あそこまでがっちりやってくるとは思わなくて……奇襲にばかり時間かけるわけにもいかなかったしさ。とはいえ確かに、指導者としては大きな失策だな、こりゃ」
「ほっほっ、まぁそう言うこともあるまい。実際、一夜漬けとは思えんほどの指しっぷりじゃったしのぅ。わしも驚いたわい。これを受け切る手順を学ぶとしたら、流石に時間がかかるじゃろうて」
感想戦もいつになく盛り上がり、洞窟内に明るい声が響く。
その感想戦が一段落ついたところで、にとりが切り出した。
「さぁて。これにて、とりあえずは対抗戦三戦が終了したわけだけど……」
「よもやの一勝一敗、一引き分け、か」
「私としては椛の悔しがる顔が見たかったんだけどねぇ」
「それはこっちの台詞だ」
椛も、やはり勝敗はつけたいところではある。今や互いの代理対決のような気分になっており、事実そのような形になっている以上、何かと一言余計な友人を打ち負かしてやりたい思いが強い。とはいえ当の対局者達の意向が最も重要なので、とりあえず意見を求めてみることにする。
「さて、どうしましょうかね。これにて終わりとしても良いですし、引き分けの第一戦の指し直しをして決着をつけても良いですが」
「……屠自古さん怖いからなぁ」
「何か引っ掛かる言い方だが、それは私の人格ではなく、将棋内容と捉えて良いんだね?」
「海の女は伊達じゃないとか言っておったではないか。我としては勝つにしろ負けるにしろ、勝敗がはっきりつく方が気分が良いのだが」
「海の女も幽霊の方は苦手でして……」
「おかしいな。私も船長とはそれなりの付き合いがあるが、船長は幽霊だと思っていたのだがね」
「ナズ、船長は舟幽霊です。ただの幽霊じゃありません」
「いや、しかしだねご主人様、舟幽霊も幽霊の一種だろう」
「と言うか、その話し振りだと、やはり私の人格が怖いということなのかな? ね?」
「うひ!」
「だが実際怖いではないか。我も時々、いや常々そう思うぞ」
「おい」
「蘇我様、眉間に皺を寄せてはお綺麗なお顔が台無しですわ」
「まぁまぁ。ところで、私に一つ提案があるのだけど」
神子が発言の許可を求めるかのように挙手した。白蓮が代表して先を促す。
「何でしょうか?」
「うん。先ほどの私の指し方のように急な話で、少々申し訳ないが……実は交流戦の後、私達も知らなかったある一つの事実が判明したのですよ。それは」
言葉を切って視線を横に向ける。神子の視線の先には青娥の姿があった。
「私どもの仲間である青娥が、相当な実力者だったのです。お恥ずかしい話ながら、身内の強豪の存在に全く気付かなくてね」
「あら」
急な紹介でも青娥の妖しい笑みが崩れることは無い。
「しかも、師曰く、そちらの二ッ岩さんにも劣らぬ実力であるらしい」
「なるほどのぅ」
マミゾウも顎を撫でてにやりと笑う。
「新たな代表者を立てて、エクストラマッチと言うことかぇ」
「交流戦にて青娥の実力をそちら側に見せていないのもあるから、そちらがその点を気にするのであれば、この案は素直に引っ込めようと思うけど」
「面白い。面白いではないか。祭は予想外のイベントがあった方が面白さも割増というものじゃ。わし個人としては構わぬぞ」
「これはこれは、豊聡耳様も事前に仰ってくだされば良いものを。意地の悪いこと」
「う……駄目?」
「良いですよ」
何かしら一捻りするのは青娥の癖のようなものである。
指名を受けた二人はあっさりと賛意を示す。周囲の者も思わぬ展開にそれぞれ盛り上がっている様子だ。星などは子供のように目を輝かせている。
「後は、審判員お二人と、君の判断だが」
「私はマミゾウさんを信じます」
「面白いことになりましたね。大賛成です。椛もそれで良いよね?」
「ん。それじゃ、対抗戦の特別戦を後日行うことにしましょう」
洞窟内に今日一番の歓声が上がった。
第四戦の会場は命蓮寺。外の世界でもどこかの山だったか寺だったかで何か大きな対局が行われ、将棋史に残っているとか何とか、という話を椛も耳にしたことがある。
名づけるならば命蓮寺決戦と言ったところか、と呟いたらそれを聞いていた星が大いに気に入ってしまい、布都がそれに噛み付いて、邪な寺の名なぞつけさせるものかと喚き、それにまた村紗が文句をつけて騒いで、神子が仲裁するなど、対局前から色々と騒がしくなっている。思わぬ展開になって誰もが興奮を抑えかねているのもあるのだろう。
会場が命蓮寺になった経緯としては、この特別戦を提案したのが神子なので、会場については白蓮に任せることにしたら、命蓮寺が良いということで決まっただけの話である。ずっと留守番を任せていた一輪達にも観戦してほしいという気持ちがあったようだ。
そのようなわけで、今回は双方の陣営全員が会場にいることになる。芳香は思ったことをすぐ口に出したり行動したりすることがあるため、対局の妨げになる可能性があるが、今回は会場でちょっとした特別な設営がなされているため、連れてきている。
二つの勢力それぞれの最強の実力者であり、命蓮寺決戦の主役となる二人は、会場の緊張感にも周囲の騒がしさにも影響されることなく、青娥は柔和に、マミゾウはにやにやと、しかしどちらも腹の中に一物も二物も持っていそうな笑みを浮かべている。
今回は見物人数が多いことと、屋内会場になったということもあり、少しばかり凝った趣向をしている。
対局場の天井にカメラを設置し、盤面が映るようにする。その映像がリアルタイムで別室のモニターに映され、見られるようにした。モニター自体は小さいので、できるだけ全員が見ることができるように、三つセットしている。
また、対局部屋と観戦部屋を離し、対局部屋は結界で音を遮るようにし、観戦部屋の喧騒が届かないように配慮されている。
これらの会場設営により、多くの観戦者が後ろから背伸びして盤面を覗いたりすることがなくなり、観戦しやすくなった。観戦者のちょっとした動作等で対局者の思考を妨げる等の心配も無くなった。別室での観戦により、現在の状況を好きに検討できるようになった。
妙に力の入った設営があるものだから、観戦者の気分が浮ついてくるのも仕方ないのかもしれない。
対局場に入るのは、両対局者と審判係の椛、にとりの四名である。
対局者が盤上に駒を並べ始める。今頃の観戦部屋の状況が気になる。いよいよ始まると騒いでいるのか、対局を前に静まり返っているのか。騒がしいのが好きな幻想郷の連中ならば前者だろうか。
駒を並べ終わり、所定の時間が来るのを待つ。これまでの三度の戦いとは違い、静寂が対局室内に満ちる。
(こういう静かな緊張感というのも悪くないな)
そんなことを考えているうちに、時間になった。
にとりと目が合う。
椛が、静かに開始を宣言した。
今までの対局のレベルが低かったわけではないが、今回の対局はいかにも上級者同士の戦いといった風情がある。
駒音が爽やかなだけでなく、駒の持ち方、動かし方等、ちょっとした動作一つ一つに重みと落ち着きがある。力強いというよりは、大らかかつ優雅で、いかにも余裕のある大人な雰囲気を持つ。
時々、マミゾウが扇子を開いて閉じる、パチンと鋭く乾いた音が部屋に響く。あおいだりはしないが、この動作で思考をまとめているのだろう。胡坐をかいて膝の上に肘を乗せ、扇子を操っている姿が絵になっている。
青娥はたまに静かに扇子であおいだりするが、扇子の開閉は物静かで、その美貌も相まって深窓の令嬢といったところである。この姿だけを見れば、胡散臭い話に事欠かない油断ならぬ邪仙にはとても見えない。
将棋の内容も、定跡に則った丁寧な指し方であり、この対局を見て一つ一つの手を検討していくだけでも、観戦室の者達には非常に良い勉強になるだろう。
互いに王の守りが整うまでにもそれなりの手数と時間が経過したが、やがて先手番のマミゾウから攻撃を開始した。
青娥も受け一辺倒ではなく、積極的に反撃に出る。時に鋭く、時に捻じ込むように駒を進め、しかし自陣の守りも決しておろそかにしない。
自分ならどう指すかと考え、つい審判役としての本分を忘れそうになる。
互いの駒の衝突が増え、中盤に移る。
しかし、どちらも総攻撃を仕掛ける気配はない。
どちらも守備の形が良く、その構えに隙が無いからだ。
中盤ながら、なおも自陣の守備を補強し、丁寧に陣形を整える手が多い。
特に上級者同士の戦いとなると、このような状態に陥ることもある。攻撃を仕掛けた方が、その手で逆に自分の隙を作り、却って不利になってしまうのである。
それでもマミゾウが少しずつ駒を進めて攻撃し、青娥がそれを受け流しつつ巧妙に反撃する。どちらも相手陣に飛車が突入した状態となった。
そこから双方とも攻撃が進まない。
どちらも、相手に駒を渡さないように細心の注意を払っているのが大きい。ある程度の駒の衝突はあったが、ほとんどは歩同士であり、他の駒が持ち駒になることが無かった。
飛車は強力な駒だが、それだけで勝てるわけではない。他の駒との連携が不可欠である。
その『他の駒』が無いのである。
盤上の駒は王の守りに回っており、ここから攻撃のために出動させるのは流石に無理がある。
持ち駒はどちらも歩が一枚か二枚だけ。
相手の王に迫るための手掛かりが無く、攻めるに攻められない。
一手辺りの時間が長くなり、手数も増えていく。
それでも打開する手が見つからない。
その状態のまま、ある局面で、青娥が時間を使って指した手を見て、椛は一つ思い当たった。
(……ふむ、これは)
またも『思わぬ展開』になりそうな気配を感じる。
(千日手を考えてるみたいだな)
千日手(せんにちて)も、将棋の引き分けの一種である。
千日手は時代と共に少しずつルールが変わってきているが、今日では、一局のうちに同一局面(駒の配置、持ち駒の状態、手番)が四度現れた時点で成立することになっている。
成立した場合、一方が千日手に至るまでに王手を連続でかけ続けていた場合は、王手をしていた方が負けとなるが、そうでなければ持将棋同様に、先後を入れ替え、持ち時間はそのままで指し直しである。
今回のように、指した方が不利になるために、どちらも仕掛けることができないような膠着状態になったりすると、現れることがある。
椛の見たところ、青娥の今の手は、千日手にしないか、という問いかけの手と思われた。
これに応えてマミゾウが千日手を目指す手を指すかどうか。
もう少し前の局面であれば、椛はマミゾウから仕掛けていく手を読んでいた。マミゾウの攻撃を適度に受け流しつつ、青娥も強く攻め合い、互いに相手陣に乗り込んでどちらが先に辿り着くか、というギリギリの攻防になりそうだと見ていた。そうなった場合は椛も勝負の行方が容易に見えない。
実際にはマミゾウはその手順に踏み込んでこなかった。
単に読めていなかった可能性もあるが、交流戦で青娥の実力を見ていないこともあり、マミゾウとしては自信が無かったのかもしれない。
いずれにせよ、攻め合いに突入する機会が過ぎ、膠着状態となったため、青娥が無言の提案をしたように見えた。
指し直しになった時に持ち時間はどうなるか、先手後手が変わっても良いか、等を考慮して、指し直しもやむなしと考えれば応じるかもしれないが、千日手を嫌って自分から打開しようと手を変える棋士も多い。それも一つの指し方である。
両者とも持ち時間は少なく、これから指し直すにはどちらにとっても辛い。また、日も大分傾いており、単純に一日の時間としてもそろそろ厳しいものがある。
それでも青娥がこの手を指したのは、やはり勝ちたいからなのだろう。
マミゾウも青娥の手を見て、一度扇子を鋭く鳴らした。そのまま長考に沈む。
今の手の意図がわかったのだろう。
事実ここは考えどころである。
両者とも時間が止まったように動かず、マミゾウ側の時計だけが静かに動いている。
また、扇子が鳴った。
マミゾウが目だけを動かして持ち時間を見た。
マミゾウの手が迷いなく動く。
今対局で一番高い駒音が響いた。
青娥の問いかけに対し、同意する手だった。
同じ手の繰り返しが続き、千日手成立。
今回使用しているモニターはマイクが無いので音を拾わない。そのためにとりが観戦室に千日手成立を伝えに行った。程なく結界が解かれ、賑やかな足音が近づいてきた。
「いやー、手に汗握る対局でしたねぇ。勉強になります」
星は相変わらず言っていることと表情が一致していない。
「マミゾウが将棋指すの久し振りに見たけど、やっぱり強いなー。こっち来てから将棋なんか指してたっけ? 佐渡では何回か見たけどさ」
「幻想郷に来てからは数えるほどじゃな。この前の交流戦でも思い出しながらじゃった。こんな熱戦は本当に久方振りじゃのぅ」
「ふふ、私も少しばかり緊張したけど、なかなか楽しめたわ。でも」
青娥が盤面を少し前の状態に戻す。椛も気になっていた、数少ない仕掛けのタイミングの場面だ。
「ここで仕掛けてくるとばかり思っていたけど、来なかったわね」
「うむ。ちと自信が無くてな」
マミゾウはやはり気付いてはいたようだ。
「お主が強いのは十分に分かったが、何が得意か、何をしでかすか、細かいところが良くわからんからのぅ。踏み込めんかった」
「何をしでかすかなんて、私は普通に応対するだけなのにねぇ」
「むぅ。我にはこの場面からどう進むのかがよくわからぬぞ」
青娥とマミゾウが、布都をはじめとした面々に講義するように手順を示していく。指し直しか否か等を決める前に感想戦が始まった。
感想戦がある程度落ち着いたところで、にとりが切り出す。
「さぁて。熱戦だったのは良いけど、一勝一敗二引き分けですねー。ここまでもつれるとはねぇ。指し直すにしても、残り時間も無いし、日も傾いてきたからなぁ」
「大変楽しかったですし、私は引き分けということでも良いのですが。どうしましょう」
「ここまで来たからには、勝敗をきっちりつけたいのだが……さて、どうしたものか」
白蓮も神子もやや困惑気味である。
「それでは」
先日の神子のように青娥が挙手する。
「勝ち負けをはっきりさせたい方に一票投じまーす」
「む。それなら、やはり指し直しかぇ。わしはそれも構わぬぞ」
「私も貴方とはまた指したいけど、折角なので、もう一度新たに代表者を出して指せば面白いと思うの」
「せ、青娥殿。まさか芳香殿を出すということではありますまいな」
「おー?」
「いいえ。確かに芳香ちゃんは可愛いけど、流石に将棋はちょっと無理があるものねぇ」
「これ(駒)は小さいなー。これ(盤)は食べごたえありそうだな!」
「雲山、あの子を止めてあげて」
「うおー! 何だこれは! わたあめか?」
「でも、今まで指した者も含めた全員の中からとなると、やっぱり今日と同じ組み合わせしかないんじゃないですか? もしくは姐さんと神子さんが再戦とか」
「それも面白いけど、指していない人が出た方が面白いじゃない。ねぇ、豊聡耳様」
「君は言い方が回りくどくていけない。そろそろはっきり言ってくれないかな」
「あら。何も難しいことは言っていませんわ。今まで対抗戦に出場していない、そして実力も拮抗した人達がいるじゃない。ここに」
青娥が、盤の左右にいる椛とにとりの肩を叩いた。
「……」
「……」
「この両師匠方ならば、この対抗戦のラストを飾るに相応しい実力の持ち主でしょう?」
「なるほどのぅ! そいつは良い考えじゃ」
呆気にとられる師匠二人をよそに、マミゾウが真っ先に賛成し、周囲が一斉に沸き立った。
「……」
「……」
にとりが悪戯っぽく笑った。
「良いですよ。良いよね?」
「まぁ、そうだな。お前と、この将棋を指すのは久し振りだな」
「そうだねー。この将棋は、ね……」
にとりが何か言いたそうな口振りをする。椛にもわかる。
普段は時間をかけてゆったりと大将棋を指しているのだが、ある特定の理由で、この小さい将棋を指すこともある。
二人の間では、この小さい将棋は、賭けをするときに指すことが多いのである。
最も多いのが、鰻の屋台等の店に飲みに行く前、その日の飲み代をどちらが持つか、という対決。
一手五秒以内、時には三秒以内の、三回勝負。
動機は不純だが、その短期決戦の熱いことといったらない。
にとりはそのいつものルールのことを暗に言おうとしているらしい。一応確認してみる。
「……いつもの?」
「当然」
「ふむ。それでは、ちょっとすみません。指すのは良いですが、ルールについては、一番我々の気分が乗る、少々特殊な指し方で良いですか?」
「良いと思いますよ」
何も聞かず、星が真っ先に同意する。精神的に云々ではなく、何も考えていないだけなのではと一瞬疑った。
「特別ルールでも何でも、わしは面白ければ良いわぇ」
「お師匠さん方にお任せしますわ」
特別ルールの中身も確認せず、申し出が満場一致で可決された。これが幻想郷のノリというもののようだ。
椛が座布団の上に胡坐をかき、見慣れた顔が盤の向こうに座る。
時計を手に取り、ルールの細部の確認をする。いつものルールの確認だから、意思疎通の言葉は少なくて良い。
「五秒? 三秒?」
「三秒」
「鰻屋?」
「それで良いや」
「明日仕事だから、今日でなく明日で良いか?」
「良いよ。私も明日は朝早いからね」
「良し。奢らせてしまって悪いな」
「ふふん。その油断が命取りよ。目に物見せてやる」
「あら? 今から指すのですか?」
提案した青娥が驚いたように言った。
「今からだと流石に時間が無かろう。また日にちを決めた方が良いのではないかぇ」
「いえ。これが、いつものやり方なんですよ」
椛が時計の時間設定を変える。
「さぁさぁ、お立合い。恐らく皆さんが見たことの無い、超早指し対局が始まります。モニター越しじゃ面白さが伝わりにくいから、このまま見物しても良いですよ」
駒を並べながら、にとりが商売人のような口調で周囲を煽る。
「お恥ずかしながら、代表者として推薦いただきました、命蓮寺が代表は、口八丁でならしております不肖河城。神霊廟が代表は、無愛想古今比類無しの犬走。この将棋上手だけが取り柄の変人二人が、ただ今から連続で三局、お目にかけましょう。申し訳ないが、皆さんに検討する時間を与えないこと、今からお詫び致します」
「今から三局とな? そんなことができるのか?」
布都の合いの手が妙に様になっている。にとりの口上もいよいよ好調である。
「できるのかどうか、是非見ていただきましょう。幻想郷でもそう見られない、空前絶後の早指し対局。速戦即決、目にも留まらぬ。話の種になること必至。本来なら見物料も弾むところですが、顔馴染みの皆さんには、特別に無料と致します」
「お主なかなか口が上手いのぅ。わしと何か商売でもやらんかぇ」
「そいつは魅力的なお誘いですね。その件についても後日話したいところですが、ま、とりあえずは口よりも将棋が上手いってところを見せますよ」
「ほっほっ、されば見せてもらおうかの」
駒を並べ終わり、時計もセットした。
持ち時間は、三秒。
勿論全部で三秒ではなく、一手につき三秒という意味である。
だが、指して時計のスイッチを押すという動作を考えると、思考時間はほとんどない。
観戦者達が時計を見るが、いまいち意味がわかっていないのか、反応が薄い。まさか時計の表示通り、一手三秒ということが想像がつかないのだろう。
「さて。……結局は直接対決か。さっきの落ち着いた対局からしたら、忙しない上に色々と不純だが」
「あはは。ま、でも、こうすれば燃えるからねぇ。私ららしくて良いじゃない。それに、閻魔様じゃないけど、白黒はっきりしないとさっぱりしないしね。そうでしょ?」
にとりが笑う。多分観戦者達は不純云々等といったことは気にしていないだろうが、椛は少々の罪悪感を感じた。
とはいえ、賭け要素があると燃えるのも事実である。また、早指しという方法も気に入っている。
持ち時間が多ければ、単純に考える時間が多くなり、その分双方が最善手、またはそれに近い手を指しやすい。逆に持ち時間が少ないということは、短時間で最善手を探さなければならない。早指しで勝つということは、短時間で最善手を見つける力が相手より優れている、即ち自分の方が強い、ということになる。それを実感できるのがなかなかの快感なのである。
振り駒の結果、椛が先手。この特別ルールの場合、先手後手は交互に指すように決めている。
「……」
「……」
椛は仏頂面で、にとりは悪戯っぽい笑みで、視線を合わせた。
「……行くぞ!」
にとりの手が、時計のスイッチを押した。いや、押すというよりは、百人一首で札を鋭く払うが如く、横に手を飛ばして叩いた。
椛の手が盤上に飛び、駒を動かして、素早く時計のスイッチを押す。にとりも同様だ。
駒を動かしてスイッチを押す、それだけの動作だが、それらの動作を全て二秒程度で、寸分狂わずに繰り返す。視線は常に盤上にあり、時計の方は一度も見ない。それでも時計を叩く二人の手は一度も空振りしない。
「お? おぉ? 何か凄いぞー!」
芳香が素直に驚きを口にした。
それ以外は誰も何も言わない。ただただ驚いている。
駒を取ったり、駒が成ったりと、少しだけ別の動きが加わっても、決してブザーは鳴らない。ぱしんぱしんと時計を叩く音が、ほとんど一定の間隔で響く。
それでいて、将棋の内容は先ほどの特別戦より遥かに高度であり、青娥もマミゾウも手の意味を把握しきれない。考えている間に局面が五手も六手も進む。
にとりの前口上通り、目にも留まらぬ早さで局面は進む。中盤に椛が少々よろしくない手を指したため、にとりが優勢。怒涛の早さのまま終盤に移り、激しい攻め合いが続くが、途中の失着が響いて一手届かなそうだ。
終盤の攻防の中で挽回する機会を窺っていたが、どうやらそれは無理のようだ。
強者同士の対局の場合、完全な詰みの状態になるまで指すことはあまりなく、自分に勝ちの目が無いと判断したら投了することの方が多い。椛も、とどめと言える一手を見てすぐに投了を決めた。
「負けました」
「良し!」
指す速度と同じくらいの早さで投了すると、すぐに時計の時間をセットし直し、駒を並べ直す。それらの動作まで早い。手の動きに無駄が無い。しかもそれでいて、軽口を忘れない。
「まず一つ。今回は何としても奢らせてやるからな」
「それは無理だな」
「言ってくれるじゃないか。このまま押し切ってやる」
「ここからの二連勝くらい、わけないさ。まぁ見てろ」
逆に、観戦者達の方が言葉が無い。
「行くぞ」
並べ終わると、即座に椛がスイッチを押した。二局目の先手であるにとりが初手を指し、また高速の戦いが始まる。
定跡通りに守りを固めた後のにとりの攻めは、先ほどより激しい。押し切ってやるという、先ほどの言葉通りの指し方だ。椛もそれに対し、一番激しくなる手順で応戦した。
この手順でも不利になるわけではないが、落ち着いて受け止めながら指す方が安定する。激しい攻め合いになると一手のミスが致命的なことになりやすいので、椛も高速対局でなければあまりこのような手順には踏み込まない。だが今日は、高速の戦いであることに加え、気分が高揚しているのもあり、勢いを重視した。
局面が一気に過熱する。
激戦の中で椛の攻撃が上手く決まり、後手番である椛の攻め駒が、先ににとりの陣地に飛び込んだ。椛が優勢を意識する。
すぐににとりの方も椛の陣地へと侵攻を果たし、互いの王の守りに取り付いていく。
双方の駒が真っ向からぶつかり、次々に持ち駒になっては盤上に舞い戻る。
自分の方が攻めが早いことを確信し、更に攻勢を強める。観戦者からすれば、守りが崩されていくのを無視するかのような攻撃で、怖くてとても見ていられない。
だが、椛には読めていた。自分の方が一手早い。
自信を込めて攻めの手を続ける。
椛がにとりの王の逃げ道を塞ぐように、持ち駒を打った。その手を見てにとりが頭を下げる。
「負けました!」
「おぅ」
すぐに駒をまた並べ直す。もう観戦者のことは頭に無い。目の前の宿敵を打ち破るだけだ。
「鰻屋で一番良い酒って何だったっけな」
「もう勝った気でいるの? 全く困ったもんだ」
「お前は財布の心配だけしてれば良いんだよ」
「おのれ、思い上がった狼め。吠え面かかせてやる。狼だけに」
「上手くはないぞ」
「うるさいな」
三局目はまた椛の先手。にとりが時計のスイッチを押して、正真正銘、最後の対局開始である。
時計を叩く力が強くなってきている。特に天狗である椛の力だと、うっかり強く叩きすぎたら壊れそうなものだが、そこはにとり特製の時計、滅多なことでは壊れないくらいの耐久性がある。二度ほど壊れたことがあるので耐久性については十分に強化されているのだ。
ちなみに二度とも椛が壊している。一度目は強く叩きすぎてスイッチを潰し、戻らなくなった。二度目はスイッチを叩く際に目測を誤り、日頃の鍛錬で鍛え上げられた手刀を逆水平チョップの形で時計に喰らわせて吹き飛ばし、木に叩き付けた。二度目については、椛にとって何度目かの一生の不覚だった。にとりは弁償はいらない笑っていたがそれなりの金を出した。
そんな思い出も今は蘇らない。
勝つことだけが重要である。
互いに守りの形を整えると、椛が先攻する。
二局目ほど激しい戦いではなく、互いに相手の攻撃を丁寧に受け止める展開になる。
高速でなければ、観戦者達にとっては良いお手本になる対局だったはずだが、残念ながら私欲に塗れた対局者達は既に全部忘れて、ただ勝ちにいっている。対局後に尼僧の下で修行が必要かもしれない。
中盤のある局面でにとりが指した手を見て、椛の手がほんの一瞬だけ止まり、またすぐに動いた。
指す予定の手を変えたのだ。
にとりの指した手に、隙が見えたから。
隙がある、というのが勘違いであれば、逆に椛の手が命取りになる。だが迷っている暇は無いし、実際迷いは無かった。
武術の腕と視力以外で唯一自信のある将棋において、自分の勘に狂いは少ない。無いと言えないのが苦しいところだが、将棋の勘ならば、幻想郷広しと言えども、自分に匹敵するのは目の前の強敵くらいだと思っている。今の手に間違いは無い。寧ろこの隙を逃していたら、後でにとりに笑われるだろう。
椛が予定変更したところから、形勢が椛有利に傾き始める。
しかしそれ以降のにとりの指し手が完璧に近く、なおも油断はできない。
僅かな優勢のまま終盤に移り、いよいよ互いの王の防壁が崩され始める。
押し切れる、と確信した。
直感を信じ、的確に攻撃し、油断なく守備を補強する。
ここでにとりが、また予想とは違う攻撃の手を指してきた。
にとりもきっと椛と同じように読んでおり、その読み通りにいけば、攻めが途切れると判断したのだろう。実際、椛の読み通りに進めば、にとりの攻めは途切れる予定だった。
変えてきた手も、なかなか難しい手である。しかも、にとりの応手として考えていた予想の中に、入っていない手だった。
今更ながら、流石だと思う。
椛の頭脳が極限に活動し、コンマ一秒だけ感心し、一秒とコンマ七秒で判断し、一秒で指してスイッチを押した。
後で振り返った際、我ながら完璧な一手だったと椛は自分に感心している。
にとりの変化球に即座に対応し、守りに回った。
続いてのにとりの攻撃に対し、一手だけ攻撃の手を指す。これでにとりの王は詰みを逃れられなくなった。
後は、にとりの猛攻を凌ぎ切るだけである。これを凌げば勝ちだ。
にとりの駒が殺到し、椛の守備が吹き飛ばされ、王が奥へ奥へと逃げていく。
巧妙に王を逃がし、にとりの攻めに貢献しない程度に駒を取らせ、紙一重でかわし続ける。
にとりの攻めが糸のように細くなってくる。
やがて、決着の時は来た。
最後の手は、椛が自分の王を斜め下に移動させる手だった。
駒を持ち上げず、盤を擦るようにすっと静かに動かした。鋭い駒音は無く、代わりに時計を叩く音が響く。
「負けましたっ」
「ん」
にとりが深々と頭を下げた。
「うおぉ……負けた……んぐぐ……」
「だから、二連勝ぐらいわけないって言っただろ」
相変わらずの無表情ながら、椛の声は少しだけ弾んでいる。やはりこの早指し対局は楽しい。それに勝つのは更に気分が良い。勝利の快感をゆっくりと噛み締める。
「最後のお願いまで完璧に受けられるとは思わなかったよ……」
「まぁ、あれは少し驚いたけどな。うぉっ」
強く肩を叩かれた。振り返ると、興奮の面持ちの布都がいる。
「凄いではないか! いや、中身はもうさっぱりわからんが、とにかく凄かったぞ!」
それを皮切りに、驚嘆や感嘆の声があちこちで上がる。
「いやもう、本当に凄いとしか言いようがありませんねぇ」
星だけはいつも通りであるが、白蓮は驚きを素直に表している。
「良い物を見せていただきました。あんなに早いのに、指している内容は非常に難しくて……まさに超一流の対局というものですね」
「本当にのぅ。色々と異次元で参考にならんわぃ。実に面白かったわぇ」
「どうだい、幽霊が苦手な船長、このお二人のどちらかと、蘇我さんと、対局するとしたらどっちが良い?」
「え? えーっと……こ、こちらのお二人で」
「ほぅ」
「うへ! や、やっぱり怖い……」
「屠自古、怖がらせてはいけないよ」
「何か色々と腑に落ちないのですが……」
「もう食べて良いのかー?」
「雲山」
「うお! わたあめ!」
「うふふ、芳香ちゃんは可愛いわねぇ」
「まぁ、とりあえず」
椛がおずおずと声を上げた。しばらくの間、対局を振り返ったり、驚きを語り合ったりと、話が弾んでいたが、大分日も傾いてきたところでもあるので、そろそろお開きとしなければならない。
「今回の、神霊廟さんと命蓮寺さんの対抗戦は、一応神霊廟さん側の勝利、ということで」
「最後の最後が私らだったというのは、ちょっと違う気もするけどね」
「そんなことはない。君達は我等が師にして、既にチームの一員です。これからもご指導賜りたい」
「今後は、私達も将棋教室に参加したいですね。私と星はなかなか参加できないかもしれませんが」
「まぁ、その辺は師の事情と相談してもらえれば良いだろうね」
「こちらとしては別に構いませんよ。私でも椛でも、体が空いてれば」
「ま、そうですね」
「神子さん」
「何です、改まって」
「またいつか、対抗戦を開いてもよろしいですか?」
「あぁ、勿論。次回は師が出ることもなく勝ってみせよう。個人的にも奇襲に頼らずに君に勝ちたいしね」
「ふふ、今度はそう簡単にはいきませんよ」
「それじゃ」
星がパンと手を叩いた。
「これにて、命蓮寺決戦は終了! ですね」
「ならん! 我はそんな名前は認めんぞ!」
「えー、語呂が良いじゃないですか」
「駄目だ! そもそも勝ったのは我等ではないか。それに、先ほども言ったが、邪な寺の名などもってのほかである!」
「な、何だと!」
「はいはい、落ち着きなさい」
神子が布都と村紗を左右に抑えた。
設営の片付けの手伝いをしていると、神子が近づいてきた。
「今日は本当に良い物を見せてもらった。それにこれまでもたくさんの指導をしていただいた。誠に感謝の念に堪えない」
「いえいえ。さっきの対局も、実は不純な動機がありましたし……褒められたものじゃないんですけど。すみません」
今更になって、先ほどの罪悪感が蘇ってくる。
「それは対局前の話し振りで何となくわかったけど、別に良いんだよ」
「いや……でも、純粋に勝負してた豊聡耳さん達の思いを踏みにじったというか、何と言うか、そんな気がして申し訳なくて」
「君は真面目な人だね。こう言ってはなんだが、所詮は趣味の延長の戦いのことで、わざわざそんなことを謝罪する必要なんて無いというのに。楽しかったから良いんだよ。君達も楽しそうだったしね。信仰を求めて戦っていた先日の我々の方がよっぽど不純というものさ」
神子は好意的な笑みを浮かべる。
(……まぁ、そんなもんかなぁ)
代理対局のような形だったはずが、最終的には自分達が出てきて対局することになった。子供の喧嘩に親が出てきたような感じで何か違うような気がしていたが、深く考えすぎだったかもしれない。やはり、布都と星の対局の時に思った通り、楽しかったから結果オーライと考えるくらいで丁度良いといったところなのだろう。
「ふふ、君達を師としたのは正解だったみたいだ。先ほども申し上げたが、とりあえず破門にならなくて済んだことだし、今後もどうかご指導をお願いして良いかな」
「それは勿論です。私も将棋仲間が増えて嬉しいですし」
「そう言ってもらえるとありがたい」
神子が片付けに戻ろうとして、今度は何やら悪戯っぽい笑みを浮かべてすぐに戻ってくる。
「ただ、一つだけ」
「はい?」
「私が悩んでいる時に、私を差し置いて、私のこの髪型のことを気にするのは、少々冷たいんじゃないかな」
「……」
第三戦の前夜の、神子の髪がへたっていたあの件を言っているようだ。神子は人の欲を聞くことができる。だが、あの時の素朴な疑問も欲として悟られているのは思わなかった。
「……すみません」
「まぁ良いけどね。ところで、君の思っていた、私の髪の疑問に対する回答、聞きたい?」
何と答えて良いのか、今日一番の難解な局面になったが、とりあえず穏やかな方を選ぶことにした。
「……とりあえず、後日で良いです」
「そうか。残念だ」
神子は愉快そうに笑って片付けに戻っていく。
その後ろ姿を見送って、頭を掻くと、椛はモニターの片付けを再開した。
静謐で論理的な文章で淡々と語られる物語でしたが、内容が幻想郷らしくて良かったと思います。神霊廟勢、碁のほうはかなーり強そうです。実際打ってたし。
実は一番強いのはわたあめかもしれない。
導入こそちょっと唐突な気がしましたが、それ以降は将棋をルールしか知らない自分でも楽しめました
物騒だけど普段は理知的な布都、怖いとじこ、精神的に強いと言うより単純に素直で前向きな星、
「超強力棋士」や、駒を指す時の音感等の表現もいちいち小気味良く、早指し対決は、会話含めて文句無しに面白かったです
旨い料理を腹八分まで味わったような読後感でした
将棋の解説もくど過ぎず、文章も小気味良くて非常に読んでて楽しかったです
将棋を久しぶりにしたくなった!
椛に教えて欲しいワン
おかげでいい具合に余計に面白く感じて大変満足。
こういうの読むと指したくなってくる・・・弱いけどTT
今作も面白かったです。
自分は将棋は素人同然だけど、対戦の迫力が伝わってきました
いやあ面白かった。
将棋という舞台でキャラ達が生き生きとしているのが目に見えるようです。
いかにも幻想郷らしい一戦、あっという間に最後まで読んでしまいました。
これは続きも期待しちゃいますね。
作者様、ゴチでした!
あの戦法を扱ったということは、かなり将棋にお詳しいですね。
非常に楽しませていただきました。ありがとうございます。
それにしても、やっぱり芳香に将棋は無理だったかw
お札を外した状態なら大化けするかもしれないけど。
それにしても、やっぱり芳香に将棋は無理だったかw
お札を外した状態なら大化けするかもしれないけど。
それにしても、やっぱり芳香に将棋は無理だったかw
お札を外した状態なら大化けするかもしれないけど。
それにしても、やっぱり芳香に将棋は無理だったかw
お札を外した状態なら大化けするかもしれないけど。