「――――っ!」
悲鳴の様な、それでいて絶叫の様な、声なき声。
そんなものをあげながら、私は目覚めた。
見上げれば、いつもの天井。
見下ろせば、いつものベッド。
見渡せば、いつもの私の部屋。
その確実な現実を確かめて、私は大きくため息を吐いた。
「……良かった、夢だった」
瞬時に理解する。
さっき見たものは、ぜんぶ夢だったんだ。
良かった。
本当に良かった。
「…………」
まだ若い、自分の指。
夢で見た、年老いた手。
まだ若い、自分の顔。
夢で見た、幸せそうな老婆。
「……」
夢だ。
ただの夢。
もう一度眠れば、すっかりと忘れてしまう夢。
だけど。
だけど、不安感が胸に残る。
「うぅ」
すぐさま誰かに助けてもらいたい。
そう思って、私こと十六夜咲夜はいつものメイド服に着替え、私室を飛び出したのだった。
~☆~
「お嬢様ぁ!」
「うわぁ、びっくりした!?」
ノックもなしに紅魔館の主たるレミリア・スカーレットの寝室のドアを力いっぱいに開いた私は、許可もなく部屋の中へと侵入した。
いや、進入した。
どうやらお嬢様は寝ていたらしい。
時間にして真夜中の3時。
なんて健康的な吸血鬼でしょう。
「なにごと!? どうしたの咲夜!? 幻想郷戦争でも始まった!?」
「恐い夢を見ました」
「は?」
「恐い夢を見ました」
パチクリ、と擬音語が聞こえそうなくらいにお嬢様は瞬きを繰り返した。
そして合点がいったのでしょうか、可愛らしい真ん丸の瞳を半眼へと変貌させ、私をやぶ睨みするのです。
「……へぇ~。それだけの理由で私の眠りを邪魔するなんて、偉くなったものね」
「はい」
「いや、そんな偉くなられても困る」
「聞いてください、お嬢様」
「はいはい、聞くわよ。聞いてあげるわ。これでも紅魔館の主ですから、メイド長のお世話は私の仕事よ。どんな夢を見たの?」
「私が死ぬ夢です」
「へ?」
そこで私は先程みた夢の内容を語った。
なんてことはない。
私がこのまま年を取り、紅魔館のみんなに見守られながら幸せに寿命を迎えるという内容だ。
人間として、とても幸せな最後。
そんな夢。
「それが……恐い夢?」
お嬢様の言葉に、私はひとつ頷いた。
「その後に、私がいません。その事に、私は今更ながらに気付きました」
「あと?」
「私が死んだ後も、紅魔館はあり続けます。お嬢様も妹様もパリュリー様も美鈴も小悪魔も妖精メイドも居るのに、私が居ません」
虚無感。
というのだろうか、それとも孤独感だろうか。
とにかく、私はその感覚に恐怖した。
とても幸せな死を迎えた後、その事実に恐れた。
寂しかった。
恐かった。
仲間ハズレにされる感覚。
仲の良い者達に置いてけぼりにされてしまう感覚。
ひとりぼっちになったしまった錯覚。
私がいないのに、時間が流れていくというのが、本当に恐かった。
「そ、そう……」
「そこでお嬢様、お願いがあります」
「なに?」
「私を眷属にしてください」
「ほぁ?」
お嬢様がマヌケな表情で私を見た。
眷属。
つまり、吸血鬼の仲間いり。
そうなれば、私の寿命は延びる。
更に、眷属である限り、お嬢様の死が私の死となる。
だから、私は死なない限り、死なない。
死ねない。
そんな存在に、吸血鬼になる事が出来れば、もう恐怖する事はない。
「本気で言ってるの、咲夜?」
「私が冗談を言った事がありますか?」
「掃いて捨てる程あるわよ。ちょっと待ちなさい」
「はぁ」
「吸血鬼の眷属になるって事は、吸血鬼になるって事よ」
「なにをそんな当たり前の事を」
「いや、だからね。そういう当たり前の事を言ってるの。いいの? あなた人間なのよ? そりゃ時間を止められるかもしれないけど、人間なのよ、人間。そんな安易な決定、後悔するわよ」
「いえ、後悔しません。先に死ぬ事を後悔します」
「えらく頑固ね」
はぁ、とお嬢様は息を吐きました。
「いいわ、わかった。その変わり皆に相談してきなさい」
「相談?」
「えぇ。とにかく眷属になると話してきなさい。結果、意思が変わればこの話を忘れてあげるわ。結果、意思が変わらなければ……私はあなたの血を喜んで飲むでしょう」
少しだけ寂しそうに笑ったお嬢様。
口元からのぞく牙は、キラリとも光はしなかった。
~☆~
「こんばんは、美鈴」
「おや、珍しいですね咲夜さん。こんな夜中は危ないですよ、っと」
迫る不定形な闇を、七色に光る腕で貫く。
それだけでぐにゃりと闇は歪み、霧散した。
「今のは?」
「さぁ、なんでしょう? 有象無象の魑魅魍魎、という具合じゃないでしょうか」
パンパンと両手の埃を払うようにして、美鈴は門へと戻ってきた。
「それで何の用ですか?」
「私ね、お嬢様の眷属になろうと思うの」
「えぇ!? 急な話ですね、どうしたんです?」
実はね、と先程に見た夢の話をした。
美鈴は全てを聞き終わると、なるほど、と笑顔を見せる。
「それは確かに、恐い夢ですね」
「あなたもそう思う?」
「えぇ。私も、いえ、私は守る事に特化したモノですからね。一度、守ると決めたものを守れなかった時がありました」
「あなたに守れなかったものがあるなんて、よっぽどね」
「そうなんですよ。その時の恐怖と絶望感は恐ろしいものがありました。自分が自分じゃなくなるっていうんでしょうかね。その時に助けてもらったのがお嬢様なんですけどね」
あはは、と美鈴は笑う。
「メイリン、という名前に美鈴という字を……そして、ホンという『紅』……スカーレットの称号をもらいました。スカーレットは、まぁ、緋色なんですけど、紅も似た様なものです。それから私は誓いを立てました。お嬢様を守る番人となる事を」
「その割には、警備はスカスカじゃない」
「昼間はいいんですよ。お嬢様や妹様、パチュリー様に益となる者しか来ませんから」
私は魔理沙を思い出す。
紅魔館にかなりの頻度でやって来ては、パチュリー様の蔵書を盗んでいる。
しかし、あの暗かった図書館が少しだけ明るくなった様に感じた。
妹様もそうだ。
狂ってはいる。
だけど、正常でもある。
その天秤を、あの魔法使いが揺れ動かしている気がしないでもない。
「私を通したのも、そういう理由?」
「さぁ、そんな昔の事は忘れましたね」
「嘘おっしゃい。あなた達妖怪は、ずっと古くから生きているんでしょ。私との出会いなんて昨日ぐらいの印象じゃない?」
「さすがに昨日ではありませんが……まぁいいじゃないですか。これからの生活が無限に続くのであれば、出会いなど些細なものですよ」
「無限?」
「無限は言いすぎですかね。有限でも悠久ですから、私もお供しますよ」
「ん?」
「あれ、お嬢様の眷属になるんですよね?」
「美鈴は賛成?」
「えぇ。もちろんです。だって、これからもずっと咲夜さんと一緒にいられるんですから」
~☆~
「失礼します、パチュリー様」
「あら、こんな真夜中にお茶の時間かしら?」
魔導書から顔をあげたパチュリー様は、手ぶらの私を見て、少しだけ首を傾けた。
「少しお話がありまして」
「あら、珍しい。またレミィのわがまま?」
「いえ、私のわがままです」
ほう、とパチュリー様は口元を歪め、顔だけではなく全身をこちらに向けた。
「咲夜がわがままを言うなんて珍しい……いえ、初めてね。どういうわがままかしら。もちろん、聞かせてくれるのよね?」
「えぇ、もちろんです」
私は夢の内容を語り、そしてお嬢様の眷属になる話を伝えた。
「ふ~ん、なるほどね」
「パチュリー様としては、どう思われます?」
「私達魔法使いにしてみれば、難しい問題ね。いえ、これが寿命の差というヤツよね。咲夜も知っての通り、魔法使いの寿命は長いわ」
「はい」
「でも、人間から魔法使いになる者がいる」
「それは、どうしてでしょうか?」
「死ぬのが恐いからじゃないわ。自分が研究している魔法の答えが、寿命のせいで間に合わないから」
「研究の為?」
「えぇ、そう。研究の為、魔法の為。言ってしまえば、死ぬのが恐いに似た事なのかもしれない。死んでしまっては研究の続きが出来ないものね。更に老いてしまっては不便になる。だから『捨虫の術』を使用した。そうしたら今度は食事の時間も勿体無くなってくる。なので『捨食の術』を使った。魔法使いにとって、魔法の研究は生きる意味も同義よ」
成長を止めて、食事さえも止める。
そのストイックな種族を、魔法使いと呼ぶのかもしれない。
「魔理沙とは正反対のイメージですね」
「あの子は恥ずかしがり屋なのよ。魔導書をポエムか何かと勘違いしてるんじゃないかしら。別に笑ったりしないのだから堂々としてればいいのに」
そういってパチュリー様は笑った。
なるほど、美鈴の言うとおりなのかもしれない。
「生きる意味があるのならば、寿命を延ばすだけの価値があるのならば、眷属になる事は否定しないわ。でもね、咲夜」
「は、はい」
「寿命を延ばす方法はいくらでもあるわ。さっき言った捨虫の術もそうだもの。あとは仙人になる方法もある。どれもこれも勉強と修行が必要よ。でも、吸血鬼のそれだけは別」
「そう……ですね」
私の言葉に、パチュリー様は頷いた。
「安易な方法に飛びつくリスクを考えてね。ほら、さすがの私も経験がないから」
「わ、分かりました。心します」
「えぇ。でも安心したわ」
「なにがですか?」
「これで一生、美味しい紅茶が飲めるって事よ」
~☆~
ノックしたと同時に「どうぞ」という言葉。
それと共に鍵が物理的に破壊された。
良かった。
妹様は現在、機嫌が良いみたいだ。
「お邪魔します、フランドール様」
「いらっしゃい咲夜。真夜中のメイドコールを送った覚えはないのだけれど?」
「ちょっとした相談がありまして……」
妹様が手招きしたので、私は遠慮なく部屋の中へと入った。
「まぁまぁ座ってよ。私だけベッドの上じゃ、偉そうじゃない」
「では、遠慮なく」
ベッドの縁に腰掛ると、妹様がズルズルと布団から這い出てきて私の肩へと登った。
何故、肩車?
意味が分からない。
「これで私の方が明らかに、物理的に咲夜より身分が高いでしょ。誤解されなくて安心だわ。それで相談って何? 美味しいお姉様の食べ方とか?」
「似た様な話です。実は――」
私は夢と眷属の話を妹様へと話した。
「おぉ、咲夜がスカーレット家入りするなんて。いいの? ウチはすでに落ちぶれちゃった一族だよ。落ちた貴族よ、堕落した貴族よ、フォーリンノーブルよ。昔は有名だったけど、今やスカーレット家なんて誰も知らないからね。お姉ちゃんは頑張ってたけど、頑張っちゃったせいで、レミリア・オレンジなんて呼ばれてたわ。半端者って意味よ。私なんて外にすら出してもらっていないのだから。スカーレット家の恥ずかしい部分あつかい。恥部よ、えろいよね」
「エロいですね」
「で、咲夜はそんなえっちなの? えっちな一族になっちゃうの?」
「どう思います?」
「大歓迎よ。私達と一緒に永遠に、悠久に恥を晒し続けましょ」
妹様はそう言うと、ケタケタケタケタと笑い続けた。
賛成されるとも反対されるとも思っていなかっただけに、少し意外だった。
妹様は妹様で、きっちりとスカーレット家の事を考えてはいるらしい。
「そうなると、私はフランドール様の妹になるのでしょうか?」
「あ、どうなんだろ?」
珍しく腕を組み考えるポーズを取る妹様。
直感のみで生きているのに、考えを巡らせてくれるとは……ちょっと感動した。
「立場的にはお姉様の眷属となる。お姉様の命令は絶対になるはずよ。でも、私との関係はどうなるんだろ? 同列かしらね」
「私にしてみれば恐れ多いですけれど」
「遠慮しないで。これからはタメ口でいいわ。そうね、咲夜が吸血鬼になったら、立場が同じ。A=BならばB=Aよね! という事は私がメイド長でもいいって事よね」
同列というのならば、そうかもしれない。
「お姉様の為に紅茶を入れてスコーンを焼けるのよね。ホットケーキも焼いちゃっていいのよね。うふふ、うふふふふうふふふふふふふ」
なにがそんなに楽しみなのか、サッパリと分からない。
でも、まぁ、妹様が楽しそうなので良しとしよう。
「あぁ、楽しみだわ! 早く、早く明日がこないかしら!」
ケラケラ、ケタケタと笑いながら妹様は私の肩から飛び降りる。
そしてベッドに座る私の前に着地した。
「咲夜、あなたがスカーレットの末席に位置する事を私は歓迎するわ」
その優雅な妹様の一礼を、私は生涯……長く永くなる一生を、忘れる事はないだろう。
~☆~
ダメもとで、私は紅魔館の屋根に上り、釣竿を垂らしてみた。
空を飛ぶ魚を釣る訳ではない。
餌は油揚げ。
得物は狐という訳だ。
「あ、かかった」
「はむはむはむ……何事か用があるのか、あむあむあむあむ」
こんな夜中に掛かるとは思わなかったのだけれど、狙い通り八雲藍を釣り上げる事に成功した。
物は試し。
やってみるものだ。
もしかしたら、八雲家に連絡をとるのは酷く簡単なのかもしれない。
「ちょっと八雲紫のところへ連れて行ってもらえないかしら?」
「ふむ……訳有りのようだ。しかし、私の一存では――」
藍がどうしようか、と考えを巡らそうとした瞬間、私達を飲み込むようにして空間が裂けた。
悪趣味なリボンがしゅるりとまかれ、固定される。
でも、それが見えたのも一瞬。
気がつけば、日本家屋の一室に私達は居た。
背中で空間の裂け目が消えた雰囲気。
振り返ろうとする前に、目の前に座っていた大妖怪が口を開いた。
「よんだ?」
八雲紫だった。
何もかもをお見通しの様な、そんな雰囲気を感じる。
思わず身構えかけたが、用事があるのはこちらだった。
「はい」
ひとつ返事をしてから、私はあらかじめ用意されていた座布団へと座った。
「こんな夜中に申し訳ありません」
「いいえ。起きていたので問題ないわ」
不思議な事もあるものだ。
八雲紫といえば、いつも眠っているイメージがある。
夜中に起きているとは思わなかった。
それはともかく、私は素直に紫へと用件を話した。
「私は、吸血鬼になろうと思います。阻止するなら、今の内ですがよろしいでしょうか?」
「あなたが心配しているのは、幻想郷のパワーバランスの影響ね」
紫の言葉に、私は頷いた。
「紅魔館は、そのものずばり霧の湖周辺を管轄としてもらっています。それは間違いなく妖怪としての力の一反。妖怪の山に相反する勢力として充分な役割です」
「そのバランスを、私のせいで崩すのではないかと」
「崩れはしませんが、影響はするでしょうね」
紫は右手を顕現させたスキマへと突っ込むと、中から薄い箱の様な物を取り出した。
その箱の一面をポンポンと触っていくと、不思議な映像がうつしだされた。
「これが幻想郷です」
紫が見せてくれたのは、緑ばかりで時折茶色の線が入った写真の様なもの。
「これは?」
「幻想郷を空高くからとった写真ね。現像しなくても見れる便利なカメラと思ってください」
「はぁ……」
生返事。
知らない間にカメラも変わったものになっていたのね。
「あなたが吸血鬼になる事によっての影響は、恐らくこんなもの」
紫が写真に指をすべらせる。
すると、その部分が赤く線が引かれた。
「みたところ、大した影響が無い様に思えますが……」
「えぇ、その通り。あなた如きが吸血鬼になったところでそんなに変わらないわ」
「……そうですか」
思い上がりも甚だしい、という話だった。
もしかしたら幻想郷のバランスが崩れ、八雲紫に睨まれるかもしれない。
そう思っての心配事だったのだが……とんだ恥をかいてしまったものだ。
「ちなみに、あなたが居なくなった影響がこんなものね」
紫は新しい線を書き加えた。
「紅魔館勢がここまで引くので、妖怪の山がここ。更に人間の里がこうなって、すると命蓮寺がここにきて、豊聡耳勢もここまで影響してきて、あぁこの隙に永遠亭が動くかもしれないし、地底も見張らなきゃね。そうすると博麗神社の影響がここまでになってしまうから香霖堂の事を考えなければならないわね」
写真には次々に新しい線が書き込まれていった。
私が吸血鬼になった時以上に、複雑怪奇に。
「……私が死んだ方が」
「そういう事。あなたに死なれた方が大変なのよ。吸血鬼化なんてものを推奨はしないけれど、十六夜咲夜が幻想郷から……紅魔館から居なくなる方がよっぽど迷惑って話」
私はひとつ、大きくため息をはいた。
「私に、そんな大きなものが乗っていたなんて知りませんでしたわ」
「当たり前よ。言う訳ないじゃない。本来、聞かれたって教えないわ。でも、あなたの背中を押すのは現実的な言葉でしょ。嘘でもいいでしょうが、あなたには通じそうにないわ。真実であなたを納得させ、私は楽をする。これって良い事ばかりよね」
「堕落してましね」
「スカーレット家ほどじゃないわよ。気をつけなさい、吸血鬼見習い。弱点だらけの生活は思いのほか、厳しいかもしれないわよ」
「存じております」
「ならばよし」
紫は微笑み、扇子を広げて口元を隠した。
「それでは御機嫌よう、吸血鬼さま。新しい死と新しい生を祝福しますわ」
~☆~
「おかえり、咲夜」
八雲紫のスキマへ落とされたと思ったら、お嬢様のベッドの上に降って来た様だ。
「すいません、お嬢様。受け止めて頂いたのですね」
まるで初めから分かっていたかの様に、私はお嬢様に受け止められた。
「よもや咲夜をお姫様抱っこする日が来るとは思わなかったわ」
お嬢様は私を抱きかかえたまま、ベッドから飛び降りた。
衝撃などこない。
ふわりとした着地。
「どうだった、みんなの意見は?」
「みんな賛成でした。反対する者は一人もいませんでした」
「愛されているのね」
「そうでしょうか」
素直に、そう言葉にされると、どうにも照れてしまう。
「謙遜する必要はないわ。あなたは紅魔館のメイド長なのよ。愛されていないのであれば、このレミリア・スカーレットの目が節穴も同然って事よ」
「私を通しての自画自賛ですか」
「えぇ。愛すべき主を称えなさいな」
お嬢様から降ろされた私は片膝をつき、その手にくちづけをした。
「もちろんですわ、お嬢様」
「よろしい」
にっこりと笑ったお嬢様。
そこで、ひとつ息を吐き、表情を消す。
口元から牙がのぞいた。
「それじゃぁ、あなたを吸血鬼にするわ」
「はい」
「後悔はない?」
「はい」
「準備はいい?」
「はい」
「もう二度と日光浴を気持ちいいと思えないわよ?」
「はい」
「もう二度とにんにく料理を美味しいと思えないわよ?」
「はい」
「もう二度と雨の日にルンルン気分でおろしたての傘で散歩できないわよ?」
「はい」
「もう二度と普通の鏡で身嗜みを整える事はできないわよ?」
「はい」
「もう二度と気兼ねなく川の上を渡る事は出来ないわよ?」
「はい」
「最初の百年」
「はい?」
百年が、どうしたのだろう?
「最初の百年が一番つらいそうよ。知っている人間が、同じ時間を生きていた人間が先に死んでいくからね。古い友人の言葉。覚えておきなさい。覚悟をしていなさい」
「……はい」
脳裏に、あの紅白の巫女が浮かんだ。
彼女は……きっと、私を笑うだろう。
死の恐怖に耐え切れなかった、弱い人間の成れの果て。
それが、吸血鬼なのかもしれない。
「私は歓迎するわよ。スカーレット家に一人加わるのですもの。もうあなたに与える名前も考えてあるの」
「ありがとうございます」
「ちょっとした嫁入りね。明日は、盛大に結婚式でも開こうかしら」
「準備はお任せください」
「なに言っているの。主役は椅子に座って、踏ん反り返っているものよ」
「あぁ、そうでした」
嫁入り。
結婚式。
そうか。
結婚を人生の墓場と言う人がいる。
今の私にピッタリだ。
なにせ、人間として死のうとしているのだから。
「お嬢様、十六夜咲夜の名をお返しします」
「うん。それじゃぁ、血を吸うわよ。痛くて気持ちいいけど、ガマンしてね」
「わかりました」
私は立ち上がり、ゆっくりとメイド服のボタンを外した。
丁寧に服を折り畳むと、ゆっくりとお嬢様を抱きしめる。
「綺麗よ。あなたはこのまま悠久を生きるわ」
「はい、お嬢様」
お嬢様が口を開く。
まるで恋人同士がキスをする様に、お嬢様は私の首筋へとくちづけした。
~☆~
こうして、私は死んだ。
こうして、私は生まれた。
その聖なる死に祝福を。
その呪われた生に祝福を。
私は、新しい名前のもと、今日も紅魔館で生きています。
悲鳴の様な、それでいて絶叫の様な、声なき声。
そんなものをあげながら、私は目覚めた。
見上げれば、いつもの天井。
見下ろせば、いつものベッド。
見渡せば、いつもの私の部屋。
その確実な現実を確かめて、私は大きくため息を吐いた。
「……良かった、夢だった」
瞬時に理解する。
さっき見たものは、ぜんぶ夢だったんだ。
良かった。
本当に良かった。
「…………」
まだ若い、自分の指。
夢で見た、年老いた手。
まだ若い、自分の顔。
夢で見た、幸せそうな老婆。
「……」
夢だ。
ただの夢。
もう一度眠れば、すっかりと忘れてしまう夢。
だけど。
だけど、不安感が胸に残る。
「うぅ」
すぐさま誰かに助けてもらいたい。
そう思って、私こと十六夜咲夜はいつものメイド服に着替え、私室を飛び出したのだった。
~☆~
「お嬢様ぁ!」
「うわぁ、びっくりした!?」
ノックもなしに紅魔館の主たるレミリア・スカーレットの寝室のドアを力いっぱいに開いた私は、許可もなく部屋の中へと侵入した。
いや、進入した。
どうやらお嬢様は寝ていたらしい。
時間にして真夜中の3時。
なんて健康的な吸血鬼でしょう。
「なにごと!? どうしたの咲夜!? 幻想郷戦争でも始まった!?」
「恐い夢を見ました」
「は?」
「恐い夢を見ました」
パチクリ、と擬音語が聞こえそうなくらいにお嬢様は瞬きを繰り返した。
そして合点がいったのでしょうか、可愛らしい真ん丸の瞳を半眼へと変貌させ、私をやぶ睨みするのです。
「……へぇ~。それだけの理由で私の眠りを邪魔するなんて、偉くなったものね」
「はい」
「いや、そんな偉くなられても困る」
「聞いてください、お嬢様」
「はいはい、聞くわよ。聞いてあげるわ。これでも紅魔館の主ですから、メイド長のお世話は私の仕事よ。どんな夢を見たの?」
「私が死ぬ夢です」
「へ?」
そこで私は先程みた夢の内容を語った。
なんてことはない。
私がこのまま年を取り、紅魔館のみんなに見守られながら幸せに寿命を迎えるという内容だ。
人間として、とても幸せな最後。
そんな夢。
「それが……恐い夢?」
お嬢様の言葉に、私はひとつ頷いた。
「その後に、私がいません。その事に、私は今更ながらに気付きました」
「あと?」
「私が死んだ後も、紅魔館はあり続けます。お嬢様も妹様もパリュリー様も美鈴も小悪魔も妖精メイドも居るのに、私が居ません」
虚無感。
というのだろうか、それとも孤独感だろうか。
とにかく、私はその感覚に恐怖した。
とても幸せな死を迎えた後、その事実に恐れた。
寂しかった。
恐かった。
仲間ハズレにされる感覚。
仲の良い者達に置いてけぼりにされてしまう感覚。
ひとりぼっちになったしまった錯覚。
私がいないのに、時間が流れていくというのが、本当に恐かった。
「そ、そう……」
「そこでお嬢様、お願いがあります」
「なに?」
「私を眷属にしてください」
「ほぁ?」
お嬢様がマヌケな表情で私を見た。
眷属。
つまり、吸血鬼の仲間いり。
そうなれば、私の寿命は延びる。
更に、眷属である限り、お嬢様の死が私の死となる。
だから、私は死なない限り、死なない。
死ねない。
そんな存在に、吸血鬼になる事が出来れば、もう恐怖する事はない。
「本気で言ってるの、咲夜?」
「私が冗談を言った事がありますか?」
「掃いて捨てる程あるわよ。ちょっと待ちなさい」
「はぁ」
「吸血鬼の眷属になるって事は、吸血鬼になるって事よ」
「なにをそんな当たり前の事を」
「いや、だからね。そういう当たり前の事を言ってるの。いいの? あなた人間なのよ? そりゃ時間を止められるかもしれないけど、人間なのよ、人間。そんな安易な決定、後悔するわよ」
「いえ、後悔しません。先に死ぬ事を後悔します」
「えらく頑固ね」
はぁ、とお嬢様は息を吐きました。
「いいわ、わかった。その変わり皆に相談してきなさい」
「相談?」
「えぇ。とにかく眷属になると話してきなさい。結果、意思が変わればこの話を忘れてあげるわ。結果、意思が変わらなければ……私はあなたの血を喜んで飲むでしょう」
少しだけ寂しそうに笑ったお嬢様。
口元からのぞく牙は、キラリとも光はしなかった。
~☆~
「こんばんは、美鈴」
「おや、珍しいですね咲夜さん。こんな夜中は危ないですよ、っと」
迫る不定形な闇を、七色に光る腕で貫く。
それだけでぐにゃりと闇は歪み、霧散した。
「今のは?」
「さぁ、なんでしょう? 有象無象の魑魅魍魎、という具合じゃないでしょうか」
パンパンと両手の埃を払うようにして、美鈴は門へと戻ってきた。
「それで何の用ですか?」
「私ね、お嬢様の眷属になろうと思うの」
「えぇ!? 急な話ですね、どうしたんです?」
実はね、と先程に見た夢の話をした。
美鈴は全てを聞き終わると、なるほど、と笑顔を見せる。
「それは確かに、恐い夢ですね」
「あなたもそう思う?」
「えぇ。私も、いえ、私は守る事に特化したモノですからね。一度、守ると決めたものを守れなかった時がありました」
「あなたに守れなかったものがあるなんて、よっぽどね」
「そうなんですよ。その時の恐怖と絶望感は恐ろしいものがありました。自分が自分じゃなくなるっていうんでしょうかね。その時に助けてもらったのがお嬢様なんですけどね」
あはは、と美鈴は笑う。
「メイリン、という名前に美鈴という字を……そして、ホンという『紅』……スカーレットの称号をもらいました。スカーレットは、まぁ、緋色なんですけど、紅も似た様なものです。それから私は誓いを立てました。お嬢様を守る番人となる事を」
「その割には、警備はスカスカじゃない」
「昼間はいいんですよ。お嬢様や妹様、パチュリー様に益となる者しか来ませんから」
私は魔理沙を思い出す。
紅魔館にかなりの頻度でやって来ては、パチュリー様の蔵書を盗んでいる。
しかし、あの暗かった図書館が少しだけ明るくなった様に感じた。
妹様もそうだ。
狂ってはいる。
だけど、正常でもある。
その天秤を、あの魔法使いが揺れ動かしている気がしないでもない。
「私を通したのも、そういう理由?」
「さぁ、そんな昔の事は忘れましたね」
「嘘おっしゃい。あなた達妖怪は、ずっと古くから生きているんでしょ。私との出会いなんて昨日ぐらいの印象じゃない?」
「さすがに昨日ではありませんが……まぁいいじゃないですか。これからの生活が無限に続くのであれば、出会いなど些細なものですよ」
「無限?」
「無限は言いすぎですかね。有限でも悠久ですから、私もお供しますよ」
「ん?」
「あれ、お嬢様の眷属になるんですよね?」
「美鈴は賛成?」
「えぇ。もちろんです。だって、これからもずっと咲夜さんと一緒にいられるんですから」
~☆~
「失礼します、パチュリー様」
「あら、こんな真夜中にお茶の時間かしら?」
魔導書から顔をあげたパチュリー様は、手ぶらの私を見て、少しだけ首を傾けた。
「少しお話がありまして」
「あら、珍しい。またレミィのわがまま?」
「いえ、私のわがままです」
ほう、とパチュリー様は口元を歪め、顔だけではなく全身をこちらに向けた。
「咲夜がわがままを言うなんて珍しい……いえ、初めてね。どういうわがままかしら。もちろん、聞かせてくれるのよね?」
「えぇ、もちろんです」
私は夢の内容を語り、そしてお嬢様の眷属になる話を伝えた。
「ふ~ん、なるほどね」
「パチュリー様としては、どう思われます?」
「私達魔法使いにしてみれば、難しい問題ね。いえ、これが寿命の差というヤツよね。咲夜も知っての通り、魔法使いの寿命は長いわ」
「はい」
「でも、人間から魔法使いになる者がいる」
「それは、どうしてでしょうか?」
「死ぬのが恐いからじゃないわ。自分が研究している魔法の答えが、寿命のせいで間に合わないから」
「研究の為?」
「えぇ、そう。研究の為、魔法の為。言ってしまえば、死ぬのが恐いに似た事なのかもしれない。死んでしまっては研究の続きが出来ないものね。更に老いてしまっては不便になる。だから『捨虫の術』を使用した。そうしたら今度は食事の時間も勿体無くなってくる。なので『捨食の術』を使った。魔法使いにとって、魔法の研究は生きる意味も同義よ」
成長を止めて、食事さえも止める。
そのストイックな種族を、魔法使いと呼ぶのかもしれない。
「魔理沙とは正反対のイメージですね」
「あの子は恥ずかしがり屋なのよ。魔導書をポエムか何かと勘違いしてるんじゃないかしら。別に笑ったりしないのだから堂々としてればいいのに」
そういってパチュリー様は笑った。
なるほど、美鈴の言うとおりなのかもしれない。
「生きる意味があるのならば、寿命を延ばすだけの価値があるのならば、眷属になる事は否定しないわ。でもね、咲夜」
「は、はい」
「寿命を延ばす方法はいくらでもあるわ。さっき言った捨虫の術もそうだもの。あとは仙人になる方法もある。どれもこれも勉強と修行が必要よ。でも、吸血鬼のそれだけは別」
「そう……ですね」
私の言葉に、パチュリー様は頷いた。
「安易な方法に飛びつくリスクを考えてね。ほら、さすがの私も経験がないから」
「わ、分かりました。心します」
「えぇ。でも安心したわ」
「なにがですか?」
「これで一生、美味しい紅茶が飲めるって事よ」
~☆~
ノックしたと同時に「どうぞ」という言葉。
それと共に鍵が物理的に破壊された。
良かった。
妹様は現在、機嫌が良いみたいだ。
「お邪魔します、フランドール様」
「いらっしゃい咲夜。真夜中のメイドコールを送った覚えはないのだけれど?」
「ちょっとした相談がありまして……」
妹様が手招きしたので、私は遠慮なく部屋の中へと入った。
「まぁまぁ座ってよ。私だけベッドの上じゃ、偉そうじゃない」
「では、遠慮なく」
ベッドの縁に腰掛ると、妹様がズルズルと布団から這い出てきて私の肩へと登った。
何故、肩車?
意味が分からない。
「これで私の方が明らかに、物理的に咲夜より身分が高いでしょ。誤解されなくて安心だわ。それで相談って何? 美味しいお姉様の食べ方とか?」
「似た様な話です。実は――」
私は夢と眷属の話を妹様へと話した。
「おぉ、咲夜がスカーレット家入りするなんて。いいの? ウチはすでに落ちぶれちゃった一族だよ。落ちた貴族よ、堕落した貴族よ、フォーリンノーブルよ。昔は有名だったけど、今やスカーレット家なんて誰も知らないからね。お姉ちゃんは頑張ってたけど、頑張っちゃったせいで、レミリア・オレンジなんて呼ばれてたわ。半端者って意味よ。私なんて外にすら出してもらっていないのだから。スカーレット家の恥ずかしい部分あつかい。恥部よ、えろいよね」
「エロいですね」
「で、咲夜はそんなえっちなの? えっちな一族になっちゃうの?」
「どう思います?」
「大歓迎よ。私達と一緒に永遠に、悠久に恥を晒し続けましょ」
妹様はそう言うと、ケタケタケタケタと笑い続けた。
賛成されるとも反対されるとも思っていなかっただけに、少し意外だった。
妹様は妹様で、きっちりとスカーレット家の事を考えてはいるらしい。
「そうなると、私はフランドール様の妹になるのでしょうか?」
「あ、どうなんだろ?」
珍しく腕を組み考えるポーズを取る妹様。
直感のみで生きているのに、考えを巡らせてくれるとは……ちょっと感動した。
「立場的にはお姉様の眷属となる。お姉様の命令は絶対になるはずよ。でも、私との関係はどうなるんだろ? 同列かしらね」
「私にしてみれば恐れ多いですけれど」
「遠慮しないで。これからはタメ口でいいわ。そうね、咲夜が吸血鬼になったら、立場が同じ。A=BならばB=Aよね! という事は私がメイド長でもいいって事よね」
同列というのならば、そうかもしれない。
「お姉様の為に紅茶を入れてスコーンを焼けるのよね。ホットケーキも焼いちゃっていいのよね。うふふ、うふふふふうふふふふふふふ」
なにがそんなに楽しみなのか、サッパリと分からない。
でも、まぁ、妹様が楽しそうなので良しとしよう。
「あぁ、楽しみだわ! 早く、早く明日がこないかしら!」
ケラケラ、ケタケタと笑いながら妹様は私の肩から飛び降りる。
そしてベッドに座る私の前に着地した。
「咲夜、あなたがスカーレットの末席に位置する事を私は歓迎するわ」
その優雅な妹様の一礼を、私は生涯……長く永くなる一生を、忘れる事はないだろう。
~☆~
ダメもとで、私は紅魔館の屋根に上り、釣竿を垂らしてみた。
空を飛ぶ魚を釣る訳ではない。
餌は油揚げ。
得物は狐という訳だ。
「あ、かかった」
「はむはむはむ……何事か用があるのか、あむあむあむあむ」
こんな夜中に掛かるとは思わなかったのだけれど、狙い通り八雲藍を釣り上げる事に成功した。
物は試し。
やってみるものだ。
もしかしたら、八雲家に連絡をとるのは酷く簡単なのかもしれない。
「ちょっと八雲紫のところへ連れて行ってもらえないかしら?」
「ふむ……訳有りのようだ。しかし、私の一存では――」
藍がどうしようか、と考えを巡らそうとした瞬間、私達を飲み込むようにして空間が裂けた。
悪趣味なリボンがしゅるりとまかれ、固定される。
でも、それが見えたのも一瞬。
気がつけば、日本家屋の一室に私達は居た。
背中で空間の裂け目が消えた雰囲気。
振り返ろうとする前に、目の前に座っていた大妖怪が口を開いた。
「よんだ?」
八雲紫だった。
何もかもをお見通しの様な、そんな雰囲気を感じる。
思わず身構えかけたが、用事があるのはこちらだった。
「はい」
ひとつ返事をしてから、私はあらかじめ用意されていた座布団へと座った。
「こんな夜中に申し訳ありません」
「いいえ。起きていたので問題ないわ」
不思議な事もあるものだ。
八雲紫といえば、いつも眠っているイメージがある。
夜中に起きているとは思わなかった。
それはともかく、私は素直に紫へと用件を話した。
「私は、吸血鬼になろうと思います。阻止するなら、今の内ですがよろしいでしょうか?」
「あなたが心配しているのは、幻想郷のパワーバランスの影響ね」
紫の言葉に、私は頷いた。
「紅魔館は、そのものずばり霧の湖周辺を管轄としてもらっています。それは間違いなく妖怪としての力の一反。妖怪の山に相反する勢力として充分な役割です」
「そのバランスを、私のせいで崩すのではないかと」
「崩れはしませんが、影響はするでしょうね」
紫は右手を顕現させたスキマへと突っ込むと、中から薄い箱の様な物を取り出した。
その箱の一面をポンポンと触っていくと、不思議な映像がうつしだされた。
「これが幻想郷です」
紫が見せてくれたのは、緑ばかりで時折茶色の線が入った写真の様なもの。
「これは?」
「幻想郷を空高くからとった写真ね。現像しなくても見れる便利なカメラと思ってください」
「はぁ……」
生返事。
知らない間にカメラも変わったものになっていたのね。
「あなたが吸血鬼になる事によっての影響は、恐らくこんなもの」
紫が写真に指をすべらせる。
すると、その部分が赤く線が引かれた。
「みたところ、大した影響が無い様に思えますが……」
「えぇ、その通り。あなた如きが吸血鬼になったところでそんなに変わらないわ」
「……そうですか」
思い上がりも甚だしい、という話だった。
もしかしたら幻想郷のバランスが崩れ、八雲紫に睨まれるかもしれない。
そう思っての心配事だったのだが……とんだ恥をかいてしまったものだ。
「ちなみに、あなたが居なくなった影響がこんなものね」
紫は新しい線を書き加えた。
「紅魔館勢がここまで引くので、妖怪の山がここ。更に人間の里がこうなって、すると命蓮寺がここにきて、豊聡耳勢もここまで影響してきて、あぁこの隙に永遠亭が動くかもしれないし、地底も見張らなきゃね。そうすると博麗神社の影響がここまでになってしまうから香霖堂の事を考えなければならないわね」
写真には次々に新しい線が書き込まれていった。
私が吸血鬼になった時以上に、複雑怪奇に。
「……私が死んだ方が」
「そういう事。あなたに死なれた方が大変なのよ。吸血鬼化なんてものを推奨はしないけれど、十六夜咲夜が幻想郷から……紅魔館から居なくなる方がよっぽど迷惑って話」
私はひとつ、大きくため息をはいた。
「私に、そんな大きなものが乗っていたなんて知りませんでしたわ」
「当たり前よ。言う訳ないじゃない。本来、聞かれたって教えないわ。でも、あなたの背中を押すのは現実的な言葉でしょ。嘘でもいいでしょうが、あなたには通じそうにないわ。真実であなたを納得させ、私は楽をする。これって良い事ばかりよね」
「堕落してましね」
「スカーレット家ほどじゃないわよ。気をつけなさい、吸血鬼見習い。弱点だらけの生活は思いのほか、厳しいかもしれないわよ」
「存じております」
「ならばよし」
紫は微笑み、扇子を広げて口元を隠した。
「それでは御機嫌よう、吸血鬼さま。新しい死と新しい生を祝福しますわ」
~☆~
「おかえり、咲夜」
八雲紫のスキマへ落とされたと思ったら、お嬢様のベッドの上に降って来た様だ。
「すいません、お嬢様。受け止めて頂いたのですね」
まるで初めから分かっていたかの様に、私はお嬢様に受け止められた。
「よもや咲夜をお姫様抱っこする日が来るとは思わなかったわ」
お嬢様は私を抱きかかえたまま、ベッドから飛び降りた。
衝撃などこない。
ふわりとした着地。
「どうだった、みんなの意見は?」
「みんな賛成でした。反対する者は一人もいませんでした」
「愛されているのね」
「そうでしょうか」
素直に、そう言葉にされると、どうにも照れてしまう。
「謙遜する必要はないわ。あなたは紅魔館のメイド長なのよ。愛されていないのであれば、このレミリア・スカーレットの目が節穴も同然って事よ」
「私を通しての自画自賛ですか」
「えぇ。愛すべき主を称えなさいな」
お嬢様から降ろされた私は片膝をつき、その手にくちづけをした。
「もちろんですわ、お嬢様」
「よろしい」
にっこりと笑ったお嬢様。
そこで、ひとつ息を吐き、表情を消す。
口元から牙がのぞいた。
「それじゃぁ、あなたを吸血鬼にするわ」
「はい」
「後悔はない?」
「はい」
「準備はいい?」
「はい」
「もう二度と日光浴を気持ちいいと思えないわよ?」
「はい」
「もう二度とにんにく料理を美味しいと思えないわよ?」
「はい」
「もう二度と雨の日にルンルン気分でおろしたての傘で散歩できないわよ?」
「はい」
「もう二度と普通の鏡で身嗜みを整える事はできないわよ?」
「はい」
「もう二度と気兼ねなく川の上を渡る事は出来ないわよ?」
「はい」
「最初の百年」
「はい?」
百年が、どうしたのだろう?
「最初の百年が一番つらいそうよ。知っている人間が、同じ時間を生きていた人間が先に死んでいくからね。古い友人の言葉。覚えておきなさい。覚悟をしていなさい」
「……はい」
脳裏に、あの紅白の巫女が浮かんだ。
彼女は……きっと、私を笑うだろう。
死の恐怖に耐え切れなかった、弱い人間の成れの果て。
それが、吸血鬼なのかもしれない。
「私は歓迎するわよ。スカーレット家に一人加わるのですもの。もうあなたに与える名前も考えてあるの」
「ありがとうございます」
「ちょっとした嫁入りね。明日は、盛大に結婚式でも開こうかしら」
「準備はお任せください」
「なに言っているの。主役は椅子に座って、踏ん反り返っているものよ」
「あぁ、そうでした」
嫁入り。
結婚式。
そうか。
結婚を人生の墓場と言う人がいる。
今の私にピッタリだ。
なにせ、人間として死のうとしているのだから。
「お嬢様、十六夜咲夜の名をお返しします」
「うん。それじゃぁ、血を吸うわよ。痛くて気持ちいいけど、ガマンしてね」
「わかりました」
私は立ち上がり、ゆっくりとメイド服のボタンを外した。
丁寧に服を折り畳むと、ゆっくりとお嬢様を抱きしめる。
「綺麗よ。あなたはこのまま悠久を生きるわ」
「はい、お嬢様」
お嬢様が口を開く。
まるで恋人同士がキスをする様に、お嬢様は私の首筋へとくちづけした。
~☆~
こうして、私は死んだ。
こうして、私は生まれた。
その聖なる死に祝福を。
その呪われた生に祝福を。
私は、新しい名前のもと、今日も紅魔館で生きています。
一反
堕落してましね
思えば、咲夜さんが死んじゃう話は多いけれど、吸血鬼の眷属になる話はほとんど見かけません。これもひとつの答えだと思いますけどね。一生死ぬ人間から同じ時を生きる吸血鬼になる、という。案外、咲夜さんのほうが看送るには向いているのかもしれません。
欲を言えばもうちょっとやり取りがあって吸血鬼にとかは思うけど
案外なんのこともないきっかけでなる方がリアルなのかな
こういう話は珍しいですが、これはこれで
何だか感慨深いです。
藍釣りには正直吹いた(笑笑)。
面白かった
・・・新しい名前がどうなってるのか、を含めて(を
咲夜さんは頑として眷属入りを固持し続けてそのまま逝っちゃう話しか読んだことなかったからかえって新鮮でした。
かくいう私もなって欲しいのですが
冒頭を読んだときは、咲夜さん吸血鬼を志す→みんなが人として生きることの素晴らしさを説く→咲夜さん人間として生きることに決める→レミリア納得、ハッピーエンド、という、ある意味テンプレな流れを予想したのに。そういう意味で、いきなり美鈴がすっげえあっさり賛成しちゃったときは、思わずうれしくなった。そうそう、こういう展開が見たかったんだよ、と。なんか妙な爽快感。
紅魔館の面子の十人十色の意見も、それぞれそのキャラ「らしさ」が生きていて、一つ一つのやりとりが楽しい。特にフランドールはすっげえいいキャラしてる。
よし、釣れるなw
100年以降も辛くなりそう…呼ばれ方的な意味でw
100年以降は辛くならない事を願ってる!