夕焼けの赤よりも紅く染まった空が私に語り掛けてくるようだった。悲しいような、腹立たしいような、何よりも怖かったのかもしれない。前回の異変からまだ一月経っていないというのに、夜の闇すら覆い尽くして彼女の幻想が私を包み込んでゆく。
彼女は私を殺そうというのだろうか、それとも私に殺してくれと言っているのだろうか。どちらにしても、この夜に私は何かを失うことになるんだろう。
「おい霊夢、聞いてるのか?」
先ほど駆けつけてきた魔理沙はいつもの様に楽しげな顔をしていない。その緊張した顔つきが余計に私を苛立たせる。
「聞いてるわ、あの吸血鬼の仕業でしょうね」
「でしょうねって、こりゃまずいだろ」
魔理沙の言うとおりだった。
異変を起こすのは良い、それは妖怪の楽しみであり仕事のようなものでもあるから。けれど立て続けになればそれは幻想郷への反逆ともみなされかねない。現にもう動いている妖怪がいるはずだった。その妖怪は容赦をしないだろう。
「どうする? このままじゃレミリアの奴下手をすれば……」
「行くしかないでしょう。呼ばれているんだもの」
そう、行くしかない。一月前と同じように、あの紅い館へ。
「でもさあ、あのバカ自分が何してるのか分かってるのかな?」
魔理沙はすっかりあそこの連中を気に入っているようで、心から心配している。
私はどうなんだろう? あの永い夜のことをどう思っているのだろう。
もう少し考える時間が欲しかったけれど、それは叶わなかった。
「お二人とものんびりしていますね」
八雲藍はそう言って私と魔理沙を交互に睨みつけた。魔理沙はそれに対して露骨に嫌な顔をしていて、何だかおかしくなった。
「何のようだ」
魔理沙がわかりきったことを聞いた。
「この霧のことですよ、あなた達ちゃんと退治したんですか?」
藍はあくまで私に向かって言葉を投げてくる。わかっている、わかっているからもう少し時間が欲しい。
「ちゃんとメタメタにしてやったさ、しばらくは大人しく紅茶でも飲んで暮らすって言ってたな」
魔理沙は目線を足元に落としながら、苦い顔をしている。あなたがそんな顔をすること無いのに。
「では、何故?」
藍はあくまで事務的に話そうとする。その取り繕った表情に博麗への遠慮が無ければ殺してやりたいくらいに。
「そんなのわかるわけないだろ? もしかしたらまだルールを飲み込んでないのかもしれないな」
「それでは済みませんよ、あまりにも間隔が短すぎる」
私は二人が怒気を孕んだ言葉を交わしている間も、ずっと黙っていた。本当に少しで良い、考える時間が欲しかった。
「あなたはどう考えているんですか? そしてどうするおつもりですか?」
藍はすこし屹然とした態度を崩さないまま、けれどどこか怯えた風に聞いた。私は苛立ちを抑えて笑いかけてやった。
「そりゃあ、この異変を解決しに行くわ」
藍がまだ何か言おうとしたが、それを遮るように魔理沙が私の肩を掴んだ。小さく震える手がとても暖かい。
「行こうぜ」
私はできるだけ静かに頷いてから、念のため藍に釘を刺しておいた。
「紫に言っておいて。私が死んでから動けって」
わざと時間をかけて神社を離れたけれど、とうとう返事が聞こえることは無かった。
紅魔館への道中、妖怪どころか妖精一匹邪魔をしてくることは無かった。
宵闇の妖怪も、喧しい氷精もみんな怯えている。これがいつもの遊びで無いことを感じ取っているのだろう。
「なあ、レミリアに会ってどうしようか。ここまで馬鹿だったなんてなあ」
魔理沙の軽口もどこか虚しさを感じさせる。
「そうね、本当にどうしたら良いんだろう」
「おいおい、おまえがそんな調子でどうするんだよ」
「そうね……」
霧が濃くなってゆく。レミリアの激情がより深く私に突き刺さって来る。
「ねえ魔理沙、私はどうしたら良いんだろう」
魔理沙の困ったような、悲しんでいるような瞳が私をじっとみつめている。もうとっくに日は暮れているけれど、暗闇はその姿を見せようともしない。
紅魔館の門にはいつもの様に紅美鈴がいた。ただ彼女の目はいつもの穏やかなものでは無かった。私と魔理沙はどちらともなく地上に降りていく。
「こんばんわ」
声だけが優しい。精一杯のかすれ声のようにも聞こえるけれど。
「どういうつもり?」
彼女は私の言葉に答えることなく言った。
「お嬢様は霊夢さんを待っています。お通り下さい」
そういって彼女は半身になったが、魔理沙へのきつい視線は変えないでいる。魔理沙が手を振って私を促す。
「行けよ霊夢。私はいつも通りに遅れていくから」
そう言って門から距離をとった。美鈴もそれに追従していく、私とすれ違い様に小さな声で言った。
「助けてあげて下さい」
私は即答してやることができなかった。
血の色をした扉を開けても誰も出迎えに来ない。後ろにはごっこ遊びでは決して聞こえることのない音がする、妖怪と人の殺し合いの音がする。
まっすぐレミリアの部屋へ向かった。いつも喧しい妖精メイド達の姿も無く、ただでさえ広い館の廊下が余計に長く感じる。
あの吸血鬼は一体何の不満があるというんだろう。幻想郷で何不自由なく生きている、仲間に囲まれて、外の煩わしさに構わずに気楽にやっていると思っていた。ここは妖怪の楽園のはずだ、それなのにこんな馬鹿な事をしでかして、わざわざ自分の身を危険にさらすというならそれは、もうここで生きていたく無いということなのだろうか。
あの夜、初めて彼女と会った夜のことを思い出す。彼女はとても楽しそうで、とても無邪気な、純粋な遊びがなんだか心地よかった。激しい弾幕を掻い潜りながら、幻想郷らしい時間だと再確認することができた。
誰を恨むことも無く、何を壊すでもなく、その時間を輝かせること。それが幻想の価値だと私は思っていて、あの子も同じ思いなんだと感じた。
あの子が私にじゃれてくることが、本当は嬉しかった。
「なのに、何で? 何でその幻想を壊そうとするの、レミリア」
独り言を言うなんて初めてかもしれない。私は動揺しているのだろうか? 数少ない本当の友達を失くしてしまうかもしれないことが、やっぱり怖いのだろうか。
長い廊下の果てに一際大きい扉がある。センスの悪い装飾が煌びやかに施されたその先にレミリアがいるだろう。辺りには美しさすら感じさせる霧が濃厚に漂っていた。その霧の中で静かに佇む人影がこちらに近づいてくる。
「あんた達息苦しくないの?」
「少し、ね」
咲夜はいつもと変わらないように見える。攻撃の意思も無いようだ。
「ならさっさと止めるように言いなさい、迷惑よ」
「それはあなたの仕事でしょ? 私はこの家の者だもの」
「もうそんな段階じゃ無いって言ってんのよ、このままじゃあいつ本当に殺されるわよ」
咲夜はほんの少しだけ間を空けてから私を睨みつけた。ただ、その瞳は美鈴のそれとそっくりだった。助けを求める色をしている。
「あなたが殺すの?」
それまで黙っていたパチュリーがそう言って私の袖を引いた。普段は開けているのか分からないような目を見開いている。目元にはひどいくまができていて、かなりやつれてみえる。
「私は」
二人をできるだけ優しく押しのけながら、扉に手をかけた。
「私は、あいつを殺したくないわ」
その時やっと、自分の気持ちを口にすることができた。そうだ、私はレミリアを失いたくない。
「入るわよ」
扉は妙に重く、開かれた隙間からは一際濃い紅霧が漏れ出してくる。
あの小さな体には不釣り合いなベッド、趣味の悪い調度品、そして大きな鏡。以前入った時と何も変わっていないように見えたけれど、鏡の前で俯いている吸血鬼だけが大きく違っている。
髪は乱れ、掻き毟った後だろうか、辺りには青色に光る髪が散っている。幼さを感じさせた小さな手には乾いた血がこびりついていて、爪が剥がれている指もある。しかしなにより違ったのは、彼女が泣いていたことだった。
「あのねえ、泣いてる場合じゃないのよ。この霧、止めなさい」
レミリアはゆっくりこちらを向いた。その顔は歪んで見えた。
「霊夢、よく来てくれたわ。ありがとう」
「そんなの良いから、止めなさい。自分のやってることわかってんの?」
「うん、わかってる。あなたに来て欲しかったの」
ボロボロになった手が徐々に元に戻っていく、便利なものだ。そしてそれは永遠に自分を傷つけることができてしまうことでもある。
「一体どうしたのよ、ここのルールくらい知ってるでしょ?」
彼女はそれに答えること無く、私に近づいてくる。笑っている様な、全てをなげうっている様な悲壮な表情をしているのが、たまらなく私の心を痛めた。
「霊夢、私を殺して」
やっぱりそうなのか。
「いやよ」
「お願い」
「死にたいだけなら、もうすぐあんたを殺しにうるさいのがやってくるわ」
「あなたに殺してほしい」
彼女はそっと私の肩に手を回した。異変を起こしている相手とは思えないほどその動作が優しかった。
「霊夢、あれを見て」
レミリアが指差したのは鏡だった。私の何倍も大きい鏡には二人の姿がはっきりと映っている。最初は何のことかわからなかったけれど、やがて違和感に襲われた。
「……何故あんたが映ってるの?」
吸血鬼は鏡に映らないはずだった。けれど今私に抱き付いているレミリアの後姿がちゃんと映っている。
「一週間くらい前からなの、何気なく見たら私が映ってた」
彼女は独り言のように話し出した。
「誰だろうって思ったわ。今まで自分を見ることなんて無かったから。でも服装や動きでわかった。初めは何だか楽しかったの。幻想郷は特別なんだって思った」
外ではまだ轟音が鳴り響いている。魔理沙と美鈴の闘いが続いている。
「でもね、だんだんおかしいと思うようになった。だって私が鏡に映るということは、吸血鬼としての特性が薄れているってことだもの。それはつまり……」
それは、彼女の存在が危うくなるということだ。本来精神を何よりの基とする妖怪がその本質をころころ変えることはありえない。もしそれがあるのなら、人々から忘れられた妖怪が、むしろしがらみから解き放たれたように感じた時だろう。けれどそんな例はあまり聞かない。
大抵の妖怪はそうなった時に消えてしまうことを選ぶから。
それほど妖怪と人は密接な関係にある。妖怪は人の記憶に残っていたいのだ。
けれど元々幻想郷は忘れられた妖怪の避難所の様な処でもあり、楽園でもあるはずだ。何故今頃になってそんな変化が起きるのだろう?
「霊夢、あなたは知らないだろうけど、外ではまだ吸血鬼ってある程度有名だったのよ。少なくとも私がここに来る時には、恐怖こそ薄れていたものの忘れられた存在とは言われていなかったの」
そういえば彼女が幻想郷にやって来たのは割と最近のことだったらしい。それでも私はその時いなかったけれど。
「私は忘れられたんじゃない、自分の意思でここに来たんだって、そう思っていた。でも」
彼女は俯きながら肩を震わせている。吸血鬼の気位の高さがが彼女をこんなにも締め付けている、私には何て言ってやればいいのかわからない。
「私は幻想的な妖怪でいたかった。幻想になってしまった妖怪になんてなりたくないの。私は、私はここに来てから幻想に揺蕩っているのが心地よかった。
それはきっと、他の忘れられた妖怪を見下していたんだと思う。今になってそのことがわかるの。そして自分がそんな風になってしまうことに耐えられない」
「だから、殺してほしい?」
レミリアはこっくりと頷いた。それがあまりにも幼くて、もし妹がいたらこんな感じなのかな、なんて思った。
「何で私なの?」
「あなたがこの幻想郷そのものだと思うから」
彼女はそれから、と言って続けた。
「あなたが一番の人間のお友達だから。せめて人に殺してほしいの、あなたの記憶に残っていたい」
私は奥歯を噛みしめた。それは怒りでは無くて、嬉しかったのだと思う。私がレミリアに惹かれるように、彼女も私を必要としている。幻想の中に取り残されている人間の私を。
「我儘を言っているのはわかる。でも、私は妖怪としてあなたに」
それ以上言わせないように彼女を強く抱きしめた。
幻想郷に生きる人間は不安定な存在だ。言ってしまえば何故ここにいるのかすら、生きる理由すら無いようなものだ。それは魔理沙や咲夜、博麗の巫女である私も変わらないことだ。
それでもみんな必死にこの世界の遊びに興じようとする、そうやって少しでも生に輝きを持たそうとする。
でもやっぱり、寂しい。
私はこの孤独をどう扱えばいいのか今まで解らなかった。幻想郷の大本に位置しながら、何のためにそうするのか答えがみつけられないでいた。でも、レミリアの言葉に少しだけ、救われたような気がした。
「ねえ、私の血を吸ってもいいわよ」
レミリアは驚きを隠しきれないと言ったように私をみた。
「そんなことしたらあなたも吸血鬼になるわ」
「良いよ、そうして一緒に忘れられた存在として生きていきましょう。あんたが私に言ってくれた言葉への、せめてもの気持ちよ」
わかっている、彼女はそうしないだろう。それなのにそんなことを言う自分は残酷だろうか。
「できない」
一瞬私の肩を強く握りしめたけれど、結局彼女は私の胸に顔を埋めた。
「何故?」
レミリアはそれに答えずに、私以上の力で抱き返してくる。彼女の周りから段々と霧が薄くなっていき、夜の闇が戻って来る。
「ありがとう」
そう言って、また泣き出した。彼女はこれからもずっと消えない悲しみに苛まれながら生きなければいけない。でも、彼女は妖怪にも、人間にも友達がいるのだ。
私は彼女が顔をあげないように少しだけ体を丸めながら、視線を窓に移した。陽を嫌う癖に設けられたその小さな窓に、細い亀裂が出来ている。そのスキマに向かってありったけの力を込めて睨みつけた。そこから気味が悪いほどに細い腕がゆっくりと出てくる様は不愉快なものですらある。
その腕はゆらゆらと手首を振って答えた。すぐにスキマは閉じられ、八雲紫の気配は消えた。
それとほぼ同時に窓に魔理沙の傷だらけの顔が張り付いたのには驚いた。そういえば辺りは静まり返っている。
気恥ずかしかったけれど、私たちはガラス越しに笑いあった。魔理沙は指で合図して下へ降りていった。あの表情ならどちらもそこまでの怪我をしなかったのだろうし、現状を部屋の外で心配している二人に伝えてくれるだろう。ほっとして力が抜けそうになった。残ったのは鏡に映る人と妖怪の二人だけだった。
更に強くレミリアを抱きしめる。彼女は何も言わずに小さく嗚咽を繰り返している。
今私は幻想を抱いている。人の一生よりも儚げな、こんなにも愛らしい幻想を。
彼女は私を殺そうというのだろうか、それとも私に殺してくれと言っているのだろうか。どちらにしても、この夜に私は何かを失うことになるんだろう。
「おい霊夢、聞いてるのか?」
先ほど駆けつけてきた魔理沙はいつもの様に楽しげな顔をしていない。その緊張した顔つきが余計に私を苛立たせる。
「聞いてるわ、あの吸血鬼の仕業でしょうね」
「でしょうねって、こりゃまずいだろ」
魔理沙の言うとおりだった。
異変を起こすのは良い、それは妖怪の楽しみであり仕事のようなものでもあるから。けれど立て続けになればそれは幻想郷への反逆ともみなされかねない。現にもう動いている妖怪がいるはずだった。その妖怪は容赦をしないだろう。
「どうする? このままじゃレミリアの奴下手をすれば……」
「行くしかないでしょう。呼ばれているんだもの」
そう、行くしかない。一月前と同じように、あの紅い館へ。
「でもさあ、あのバカ自分が何してるのか分かってるのかな?」
魔理沙はすっかりあそこの連中を気に入っているようで、心から心配している。
私はどうなんだろう? あの永い夜のことをどう思っているのだろう。
もう少し考える時間が欲しかったけれど、それは叶わなかった。
「お二人とものんびりしていますね」
八雲藍はそう言って私と魔理沙を交互に睨みつけた。魔理沙はそれに対して露骨に嫌な顔をしていて、何だかおかしくなった。
「何のようだ」
魔理沙がわかりきったことを聞いた。
「この霧のことですよ、あなた達ちゃんと退治したんですか?」
藍はあくまで私に向かって言葉を投げてくる。わかっている、わかっているからもう少し時間が欲しい。
「ちゃんとメタメタにしてやったさ、しばらくは大人しく紅茶でも飲んで暮らすって言ってたな」
魔理沙は目線を足元に落としながら、苦い顔をしている。あなたがそんな顔をすること無いのに。
「では、何故?」
藍はあくまで事務的に話そうとする。その取り繕った表情に博麗への遠慮が無ければ殺してやりたいくらいに。
「そんなのわかるわけないだろ? もしかしたらまだルールを飲み込んでないのかもしれないな」
「それでは済みませんよ、あまりにも間隔が短すぎる」
私は二人が怒気を孕んだ言葉を交わしている間も、ずっと黙っていた。本当に少しで良い、考える時間が欲しかった。
「あなたはどう考えているんですか? そしてどうするおつもりですか?」
藍はすこし屹然とした態度を崩さないまま、けれどどこか怯えた風に聞いた。私は苛立ちを抑えて笑いかけてやった。
「そりゃあ、この異変を解決しに行くわ」
藍がまだ何か言おうとしたが、それを遮るように魔理沙が私の肩を掴んだ。小さく震える手がとても暖かい。
「行こうぜ」
私はできるだけ静かに頷いてから、念のため藍に釘を刺しておいた。
「紫に言っておいて。私が死んでから動けって」
わざと時間をかけて神社を離れたけれど、とうとう返事が聞こえることは無かった。
紅魔館への道中、妖怪どころか妖精一匹邪魔をしてくることは無かった。
宵闇の妖怪も、喧しい氷精もみんな怯えている。これがいつもの遊びで無いことを感じ取っているのだろう。
「なあ、レミリアに会ってどうしようか。ここまで馬鹿だったなんてなあ」
魔理沙の軽口もどこか虚しさを感じさせる。
「そうね、本当にどうしたら良いんだろう」
「おいおい、おまえがそんな調子でどうするんだよ」
「そうね……」
霧が濃くなってゆく。レミリアの激情がより深く私に突き刺さって来る。
「ねえ魔理沙、私はどうしたら良いんだろう」
魔理沙の困ったような、悲しんでいるような瞳が私をじっとみつめている。もうとっくに日は暮れているけれど、暗闇はその姿を見せようともしない。
紅魔館の門にはいつもの様に紅美鈴がいた。ただ彼女の目はいつもの穏やかなものでは無かった。私と魔理沙はどちらともなく地上に降りていく。
「こんばんわ」
声だけが優しい。精一杯のかすれ声のようにも聞こえるけれど。
「どういうつもり?」
彼女は私の言葉に答えることなく言った。
「お嬢様は霊夢さんを待っています。お通り下さい」
そういって彼女は半身になったが、魔理沙へのきつい視線は変えないでいる。魔理沙が手を振って私を促す。
「行けよ霊夢。私はいつも通りに遅れていくから」
そう言って門から距離をとった。美鈴もそれに追従していく、私とすれ違い様に小さな声で言った。
「助けてあげて下さい」
私は即答してやることができなかった。
血の色をした扉を開けても誰も出迎えに来ない。後ろにはごっこ遊びでは決して聞こえることのない音がする、妖怪と人の殺し合いの音がする。
まっすぐレミリアの部屋へ向かった。いつも喧しい妖精メイド達の姿も無く、ただでさえ広い館の廊下が余計に長く感じる。
あの吸血鬼は一体何の不満があるというんだろう。幻想郷で何不自由なく生きている、仲間に囲まれて、外の煩わしさに構わずに気楽にやっていると思っていた。ここは妖怪の楽園のはずだ、それなのにこんな馬鹿な事をしでかして、わざわざ自分の身を危険にさらすというならそれは、もうここで生きていたく無いということなのだろうか。
あの夜、初めて彼女と会った夜のことを思い出す。彼女はとても楽しそうで、とても無邪気な、純粋な遊びがなんだか心地よかった。激しい弾幕を掻い潜りながら、幻想郷らしい時間だと再確認することができた。
誰を恨むことも無く、何を壊すでもなく、その時間を輝かせること。それが幻想の価値だと私は思っていて、あの子も同じ思いなんだと感じた。
あの子が私にじゃれてくることが、本当は嬉しかった。
「なのに、何で? 何でその幻想を壊そうとするの、レミリア」
独り言を言うなんて初めてかもしれない。私は動揺しているのだろうか? 数少ない本当の友達を失くしてしまうかもしれないことが、やっぱり怖いのだろうか。
長い廊下の果てに一際大きい扉がある。センスの悪い装飾が煌びやかに施されたその先にレミリアがいるだろう。辺りには美しさすら感じさせる霧が濃厚に漂っていた。その霧の中で静かに佇む人影がこちらに近づいてくる。
「あんた達息苦しくないの?」
「少し、ね」
咲夜はいつもと変わらないように見える。攻撃の意思も無いようだ。
「ならさっさと止めるように言いなさい、迷惑よ」
「それはあなたの仕事でしょ? 私はこの家の者だもの」
「もうそんな段階じゃ無いって言ってんのよ、このままじゃあいつ本当に殺されるわよ」
咲夜はほんの少しだけ間を空けてから私を睨みつけた。ただ、その瞳は美鈴のそれとそっくりだった。助けを求める色をしている。
「あなたが殺すの?」
それまで黙っていたパチュリーがそう言って私の袖を引いた。普段は開けているのか分からないような目を見開いている。目元にはひどいくまができていて、かなりやつれてみえる。
「私は」
二人をできるだけ優しく押しのけながら、扉に手をかけた。
「私は、あいつを殺したくないわ」
その時やっと、自分の気持ちを口にすることができた。そうだ、私はレミリアを失いたくない。
「入るわよ」
扉は妙に重く、開かれた隙間からは一際濃い紅霧が漏れ出してくる。
あの小さな体には不釣り合いなベッド、趣味の悪い調度品、そして大きな鏡。以前入った時と何も変わっていないように見えたけれど、鏡の前で俯いている吸血鬼だけが大きく違っている。
髪は乱れ、掻き毟った後だろうか、辺りには青色に光る髪が散っている。幼さを感じさせた小さな手には乾いた血がこびりついていて、爪が剥がれている指もある。しかしなにより違ったのは、彼女が泣いていたことだった。
「あのねえ、泣いてる場合じゃないのよ。この霧、止めなさい」
レミリアはゆっくりこちらを向いた。その顔は歪んで見えた。
「霊夢、よく来てくれたわ。ありがとう」
「そんなの良いから、止めなさい。自分のやってることわかってんの?」
「うん、わかってる。あなたに来て欲しかったの」
ボロボロになった手が徐々に元に戻っていく、便利なものだ。そしてそれは永遠に自分を傷つけることができてしまうことでもある。
「一体どうしたのよ、ここのルールくらい知ってるでしょ?」
彼女はそれに答えること無く、私に近づいてくる。笑っている様な、全てをなげうっている様な悲壮な表情をしているのが、たまらなく私の心を痛めた。
「霊夢、私を殺して」
やっぱりそうなのか。
「いやよ」
「お願い」
「死にたいだけなら、もうすぐあんたを殺しにうるさいのがやってくるわ」
「あなたに殺してほしい」
彼女はそっと私の肩に手を回した。異変を起こしている相手とは思えないほどその動作が優しかった。
「霊夢、あれを見て」
レミリアが指差したのは鏡だった。私の何倍も大きい鏡には二人の姿がはっきりと映っている。最初は何のことかわからなかったけれど、やがて違和感に襲われた。
「……何故あんたが映ってるの?」
吸血鬼は鏡に映らないはずだった。けれど今私に抱き付いているレミリアの後姿がちゃんと映っている。
「一週間くらい前からなの、何気なく見たら私が映ってた」
彼女は独り言のように話し出した。
「誰だろうって思ったわ。今まで自分を見ることなんて無かったから。でも服装や動きでわかった。初めは何だか楽しかったの。幻想郷は特別なんだって思った」
外ではまだ轟音が鳴り響いている。魔理沙と美鈴の闘いが続いている。
「でもね、だんだんおかしいと思うようになった。だって私が鏡に映るということは、吸血鬼としての特性が薄れているってことだもの。それはつまり……」
それは、彼女の存在が危うくなるということだ。本来精神を何よりの基とする妖怪がその本質をころころ変えることはありえない。もしそれがあるのなら、人々から忘れられた妖怪が、むしろしがらみから解き放たれたように感じた時だろう。けれどそんな例はあまり聞かない。
大抵の妖怪はそうなった時に消えてしまうことを選ぶから。
それほど妖怪と人は密接な関係にある。妖怪は人の記憶に残っていたいのだ。
けれど元々幻想郷は忘れられた妖怪の避難所の様な処でもあり、楽園でもあるはずだ。何故今頃になってそんな変化が起きるのだろう?
「霊夢、あなたは知らないだろうけど、外ではまだ吸血鬼ってある程度有名だったのよ。少なくとも私がここに来る時には、恐怖こそ薄れていたものの忘れられた存在とは言われていなかったの」
そういえば彼女が幻想郷にやって来たのは割と最近のことだったらしい。それでも私はその時いなかったけれど。
「私は忘れられたんじゃない、自分の意思でここに来たんだって、そう思っていた。でも」
彼女は俯きながら肩を震わせている。吸血鬼の気位の高さがが彼女をこんなにも締め付けている、私には何て言ってやればいいのかわからない。
「私は幻想的な妖怪でいたかった。幻想になってしまった妖怪になんてなりたくないの。私は、私はここに来てから幻想に揺蕩っているのが心地よかった。
それはきっと、他の忘れられた妖怪を見下していたんだと思う。今になってそのことがわかるの。そして自分がそんな風になってしまうことに耐えられない」
「だから、殺してほしい?」
レミリアはこっくりと頷いた。それがあまりにも幼くて、もし妹がいたらこんな感じなのかな、なんて思った。
「何で私なの?」
「あなたがこの幻想郷そのものだと思うから」
彼女はそれから、と言って続けた。
「あなたが一番の人間のお友達だから。せめて人に殺してほしいの、あなたの記憶に残っていたい」
私は奥歯を噛みしめた。それは怒りでは無くて、嬉しかったのだと思う。私がレミリアに惹かれるように、彼女も私を必要としている。幻想の中に取り残されている人間の私を。
「我儘を言っているのはわかる。でも、私は妖怪としてあなたに」
それ以上言わせないように彼女を強く抱きしめた。
幻想郷に生きる人間は不安定な存在だ。言ってしまえば何故ここにいるのかすら、生きる理由すら無いようなものだ。それは魔理沙や咲夜、博麗の巫女である私も変わらないことだ。
それでもみんな必死にこの世界の遊びに興じようとする、そうやって少しでも生に輝きを持たそうとする。
でもやっぱり、寂しい。
私はこの孤独をどう扱えばいいのか今まで解らなかった。幻想郷の大本に位置しながら、何のためにそうするのか答えがみつけられないでいた。でも、レミリアの言葉に少しだけ、救われたような気がした。
「ねえ、私の血を吸ってもいいわよ」
レミリアは驚きを隠しきれないと言ったように私をみた。
「そんなことしたらあなたも吸血鬼になるわ」
「良いよ、そうして一緒に忘れられた存在として生きていきましょう。あんたが私に言ってくれた言葉への、せめてもの気持ちよ」
わかっている、彼女はそうしないだろう。それなのにそんなことを言う自分は残酷だろうか。
「できない」
一瞬私の肩を強く握りしめたけれど、結局彼女は私の胸に顔を埋めた。
「何故?」
レミリアはそれに答えずに、私以上の力で抱き返してくる。彼女の周りから段々と霧が薄くなっていき、夜の闇が戻って来る。
「ありがとう」
そう言って、また泣き出した。彼女はこれからもずっと消えない悲しみに苛まれながら生きなければいけない。でも、彼女は妖怪にも、人間にも友達がいるのだ。
私は彼女が顔をあげないように少しだけ体を丸めながら、視線を窓に移した。陽を嫌う癖に設けられたその小さな窓に、細い亀裂が出来ている。そのスキマに向かってありったけの力を込めて睨みつけた。そこから気味が悪いほどに細い腕がゆっくりと出てくる様は不愉快なものですらある。
その腕はゆらゆらと手首を振って答えた。すぐにスキマは閉じられ、八雲紫の気配は消えた。
それとほぼ同時に窓に魔理沙の傷だらけの顔が張り付いたのには驚いた。そういえば辺りは静まり返っている。
気恥ずかしかったけれど、私たちはガラス越しに笑いあった。魔理沙は指で合図して下へ降りていった。あの表情ならどちらもそこまでの怪我をしなかったのだろうし、現状を部屋の外で心配している二人に伝えてくれるだろう。ほっとして力が抜けそうになった。残ったのは鏡に映る人と妖怪の二人だけだった。
更に強くレミリアを抱きしめる。彼女は何も言わずに小さく嗚咽を繰り返している。
今私は幻想を抱いている。人の一生よりも儚げな、こんなにも愛らしい幻想を。
半端過ぎて何を思ってこれを書いたのかよくわからん
前回の異変というのが別の異変ならばいいのですが。
まあ厳しく言うと説明不足ということだと思います。
内容はとても良かったです。
SSも書いててすごいな。多分同じ人だろうからどちらもがんばってください
それ以外はいい雰囲気でした
レミリアよりも、ガチバトルをしちゃったらしい美鈴の方が粛清されてそうで怖い…
これが長編のクライマックスくらいの場面だったら面白かったかも。