庭先に赤い色を見て、諏訪子は少なからず驚いた。
目を凝らすと、その正体は紫陽花だった。庭の花壇を埋め尽くす落葉低木の一種で、萼(がく)が大きく発達した装飾花を持つ植物である。青から赤まで幅広く色を変化させることから、七変化や八仙花とも呼ばれる。……何だ、だったらそう珍しいことじゃないじゃないか。ここが自分の庭でなければ、諏訪子もそんなことを考えていただろう。それだけ赤の紫陽花はポピュラーな植物なのだが。
ただし、ここ以外では、という前置きが付けばの話だ。自分の神力が“青い色”として見えている諏訪子は、当然の如く青が好きだ。かつて好いた相手――今も守矢に息づく風祝の祖が好きだった色でもある。それゆえ、紫陽花たちを植える際に青のままを保つよう“言い聞かせ”た。ちょっとばかり神様の力まで注ぎ込んで。その甲斐あってか色を変じやすいはずの紫陽花は、一途に青を選び続けて諏訪子の目を楽しませてきた。
なのに何故だか、そのうちの一株が深い赤に染まっていたのである。
諏訪を治める土地神にのみ立ち入りを許された聖域。諏訪中の龍脈が集う場所。祟り神を統べる諏訪子が、“諏訪様”として君臨を続けられた力の源。そして――諏訪子の“好き”を詰め込んだ、為政者としての仮面を外せる唯一の場。
そんな庭で赤を見たのは、実に数世紀ぶりのこととなる。最後に見たのは他でもない、諏訪を治める神が二人に増えた、諏訪大戦のときである。それまでは聖域であるがゆえに、諏訪様のお庭を汚そうとする輩はいなかった。どんなに強くても人間は人間なのだ。祟りは怖い。傲岸不遜な侵略者を迎え撃つ場としてここを選んだのは、そうした効果をわずかなりとも期待したからだったのか。今となっては霞の向こうにあるような記憶だ。定かではない。それでもあのとき、二人ぶんの血が、肉が、魂までもが赤くこの庭を染め上げたことは覚えている。そのときから赤は諏訪子の少しばかり苦手な色となっているのだ。さんざん供物を喰らってきた手前、その事実を知るものには笑われていたのだが。今となっては色々と懐かしい思い出だ。
あの戦のような大きな事件が身の回りに起きているはずがない。幻想郷に来て、最初の梅雨。まだ一年と経っていない訳であって、大事を起こすには早過ぎる。守矢神社の祭神二人はそう考えていた。今が重要な時期なのだ。元いる妖怪たちを変に怒らせてはならぬ。たとえ、ゆくゆくはその全てを守矢神社の氏子にしてしまおうと企んでいるにしても――である。
「……なんなんだろ」
ちゃぷ。
縁側で諏訪子は盃をゆらり揺らして呟いた。霧雨のように降る雨の下、せっかく花見酒と――季節も花もだいぶ違っているが――洒落こんでいたのに。視線は庭の端に咲いた赤い紫陽花に固定されている。言葉こそ呑気に聞こえるが、盃から溢れた酒が服の袖を濡らしていた。驚きすぎて言葉もないのだ。
腐り落ちる寸前に見られるような、くすんだピンクのような色ではない。鮮やかな、それこそ血を思わせるような、赤。
裏切り。何となくそんな単語が脳裏をよぎる。あれだけ言い聞かせたというのに。無論従わせるだけならばともかく、双方向に会話ができるわけではないので、真偽の程は分からないのだが。
何はともあれ同居人たちに知られるのはマズい。好みは知られ、許容されている。従って心変わりか何かなのかと問われることは避けられず、そして諏訪子は嘘が下手だ。墓穴を掘って、やれまた力が弱まったのではないか、幻想郷であっても信仰心は無くなっているのではないかと根掘り葉掘り訊かれることは確実である。水が合うだの合わないだのの結果はこれから出てくるものなのに、あの二人はとかく心配しすぎるきらいがある。わずかでも変調を疑われれば、ひどく面倒なことになるはずだ。光景が容易に思い浮かび、若干げんなりした気分が芽生える(諏訪子には消滅しかけた前科があるので自業自得とも言えるけれども)。
さて、どうしよう。
証拠は隠滅しておきたい。しかし摘み取るとしてもその先はどうする。捨てるか? ゴミ箱に? 一発で事が露見する。じゃあ庭にでも埋めておくか。これもあまり上策とは思えない。洗濯物を干すのは風祝の役目だが、干す場所はこの庭である。あれに違和感を覚えられたが最後、全部吐くまで追及されるに決まっている。
それに――諏訪子はあまり好まない色ではあるが、もう一人の好戦的な神様は好きな色なのだ、この赤色という奴は。彼女自身の神力が“赤い色”を帯びている所為なのかもしれない。昔から色の好みは合わなかった。それでも、諏訪子の中に相手を尊重しようという心はある。だから、ただ捨てるという手段は忍びない。
痕跡を全く残さないようにしたい。できれば捨てる以外の手段を取りたい。考えて考えて、春先に流行したとある遊びを思い出した。幻想郷中で流行していたそれは、桜を料理に載せて食べるというものだ。早々と廃れてしまったけれど、廃れてしまったがゆえに乗り遅れてしまった身としては、何となくやってみたいなとも思っていたのである。
「ちょうどいい機会だと思えばいいのかなあ」
組んでいたあぐらをやおら解いて、諏訪子は玉砂利の庭へと下りた。人ならざる神の身で風邪を引くこともないのだからと、雨に濡れることは厭わない。じゃっ、じゃっ、と足音を立てて歩み寄る。聖域と言っても面積的にはそう広くない庭だ。水をやる手間を省こうとものぐさに引いた用水路の水源、その近くに生えた赤い花は、すぐに目の前へと近づいて。
摘み取る。まじまじと見る。やっぱり赤い。おもむろに口へ。噛みしめる。じんわりと口中に汁が広がる。……何とも言いがたい味。ううむ、これは。
「あんまり直食いするもんじゃないね」
アクセントに使うくらいが花にとっても良かったんだろうなあ。そんなことを思いながら、とりあえず花序(装飾花のひとかたまり)を完食した。口の中を酒ですすぐ。度数の高い酒であったことが幸いして、後味の悪さはあっという間になくなった。やれやれだ。
辺りをぐるりと見回す。ぱっと見、他に赤い色は見当たらない。結局これ一つか。
やはり、何かの間違いだったのだろう。たまたま赤くなってみたいと思う奴がいたのだ。半分がた、ここの紫陽花は妖怪になりかけているようなものばかりだし。こっちに来たことをきっかけに、本格的に妖怪化が進行し始めたのかもしれない。だとしたら、そのうちこの庭から旅立とうという奴も出るのだろうか。そうなったら面白いが、今のところそんな気配も感じないなあ。
その程度にしか、考えずに。
玉砂利を鳴らして縁側に戻った諏訪子は、再びちゃぷんと盃を揺らしたのだった。
◆
梅雨晴れの日が何日か続いた。
何度か気になって庭を覗いては見たけれど、特に何の変化も起こっていなかった。それなりに安心した諏訪子は、ふらふらと幻想郷中を観光していた。夏前の少し湿った空気の中を出歩くのが、彼女はとても好きなのだ。人間には危険な場所でも、妖怪や神様ならば大丈夫。そんな場所が幻想郷には多くあり、そういう場所に限ってこの世のものとは思えない風景を持っていたり、珍しい動植物が生息していたりするのだった。その幾つかは既に外では絶滅した動植物や現象で、外界では決して見られないものなのだが、諏訪子はその辺りの事情をまだよく知らない。
観光中も何となく赤が気になって、出先でも注意して見るようにしていた。やっぱり色とりどりの紫陽花はそこかしこに咲いていて、青や赤、白、挙句の果てには緑といったカラーリングで諏訪子の目を楽しませてくれた。
きっと。
これが自然なんだろうな――そんなことを考えた。庭に色を取り入れるのもありか。もはやかつて好いたひとの好きだった色に縛られることもない。そのうち、同居人たちに相談してみよう。そう思った。
……あるいは、それがいけなかったのかもしれない。
「お?」
次に雨が降った日だった。再び霧雨のような雨粒の小さい、それ。さすがに観光という気分にもならなくて、また花見酒を楽しもうとした諏訪子の眼前に、その光景は現れた。
増えている。
明らかに。
赤い紫陽花が、今日は片手では数え切れないくらいに散っている。
言霊を掛けた相手の心変わりに、紫陽花がいち早く反応したものだったのか。花言葉にも“移り気”というそれを持つ花だ。そういう感情には敏感なのだろうかもしれない。諏訪子がそんなことを思ってしまうくらいには、状況の進行は早かった。庭の三分の一程度がごくまばらな赤色に染まっている。
「……やっぱちゃんと原因探っといた方が良かったかな?」
ぽりぽりと頭を掻きつつ、溜息のように言葉を漏らした。
先日同様同居人が外しているからいいようなものの、結局のところ露見したら厄介なことになるという懸念は変わらない。一瞬だけ考えて、諏訪子は今日も同じように処理することを心に決めた。味はさておき、とりあえず食べたこと自体はバレなかったので、その手法に自信を深めたのだ。
台所へ向かい酒と砂糖、空き瓶を拝借してきて、ひょいと縁側から降りる。家の中では市女笠を脱いでいるので、諏訪子を霧雨から守るものは何もない。あっという間に全身が湿り気を帯びていくが、彼女はそれに構うこともなく片端から花を千切り、空き瓶に詰め始めた。
花、砂糖の順で積層させていく。砂糖菓子状態にしてやろうという腹づもりだった。これなら、酒の肴にすることもできてちょうどいい。そう思ったのだが、摘み終えた段階で嵩が割とあったために途中で路線変更。花と砂糖を積み上げて押しこんだ瓶の中へ、とぽとぽと酒を注いでいく。よく撹拌して、
「よし」
と、一息入れる。そして。
ごっごっごっと喉を鳴らしながらのラッパ飲みを開始。こちらの酒は度数が強めなので、こういうふうに一気飲みするのには本来向いていない。けれどいつ同居人達が帰ってくるのか分からない状況ではそうも言っていられないと思ったのだ。幻想郷ではまだわりあい貴重な砂糖をこんな風に使ってしまう背徳感と、強くも美味い酒精に喉を焼く。紫陽花のあのなんとも言えない味が、甘みと絡み合ってするすると口中を通過していく。うむ。それなりに食べられる味にはなった、ような。そんな気がして。しかし、
「……多い」
いかんせん量が量だった。もともと、そこまで酒豪なわけでもない。もう一人の祭神はそれこそ際限なく飲み続けられるウワバミなのだが、諏訪子はちびちびやって半升程度が関の山なのだ。
困ったなあ。一升瓶に七割がた残った酒を見つめてそう思う。一人で飲みきれないから残しちゃいました、では意味がない。全てを腹の中に隠蔽しなければならないわけで、だからこそ飲み下しやすいようにわざわざ手を加えたのだし。
仕方がない。あまりこういう形で使いたくはないが、瓶を見ているだけでは酒も花も減ってはくれない。この色は――あいつの。独占欲が首をもたげる。けれど、心配はさせたくない。諏訪子は意を決して、
「赤口」
と呼んだ。すると何もいないはずの虚空から、
「お傍に」
という応えがあった。諏訪子が従える、諏訪子の諏訪子たる所以――ミシャグジの集合意識だ。ゆらゆらと陽炎のように空間が揺らぐ。しかしその揺らぎはすぐに雨にかき消されて見えなくなった。どうにも存在感がないけれど、これでも長きにわたって諏訪を支配していた土着神である。そこに“ある”が“ない”もの。“ない”ゆえに退治することも叶わず、それでも“ある”ために影響を及ぼしてくる厄介なもの。最近ではずいぶん丸い性格になってしまったが。
彼/彼女に、諏訪子は確認の問いを投げかける。
「言いたいことは分かるよね」
「一部始終は見ておりましたゆえ」
「じゃこれ」
「……我/我らに身体などありませぬ」
背後に向けて酒瓶を突き出すと、声は静かに反駁した。まあそれはそうなのだが、他に使える駒は手元にない。どうにかして飲んでもらわなければ困るのだ。分かるよね? くるりと首だけで振り向きもう一度訴える。数秒の沈黙。……嘆息がかすかに首筋を撫でた、ような気がして。
「無体な」
「ちょっと融通利かすから」
「そういう取引は」
「じゃあ行くよ?」
ミシャグジの話をまるきり無視して、諏訪子は彼/彼女との間にチャンネルを繋げる。
今や龍脈の集う場所たるここでのみ可能な技。それはミシャグジを一時的なりとも実体化させること。白い腕のような蛇の尾が、虚空にふわりと浮き上がる。彼/彼女の意思を無視した無理矢理の行為。その代償に、諏訪子の体力が大きく消耗する。しかし彼女はお構いなしに酒瓶を尻尾に押し付けた。いやいやをするように白がのたうつ。
「逆らおうっての? だったら」
「諏訪様。お戯れを」
「戯れにこんなことしないっての」
目が据わっている。
尾はしぶしぶといった動作で酒瓶に巻きつくと、ゆっくり空中を移動した。傾ける。何もないはずの空中に、淡い色の液体が消えてゆく。砂糖漬けの萼も一緒に。飲み干しても残っている中身に、新たな酒を注ぎ足して、また混ぜる。飲め。無言の圧力。何度か繰り返してようやく中身が空になったとき、同時に白い尾も消え去った。よし。諏訪子は満面の笑みをたたえた。
「ごくろーさま」
「……謝意を感じないのは何故でしょうな」
じっとりとした視線めいたものを感じたが、
「そんなことより」
と適当に受け流して、諏訪子は同じ問いを繰り返す。
「言いたいことは分かるよね」
「分かりますが、分かりかねるとしかいいようがありませぬ」
静かなトーンではあるが、微妙に拗ねたような声音で、声は告げてくる。それでもと、諏訪子はあえて問うた。
「何でだと思う?」
ため息を吐くような、間。しかしミシャグジは諏訪子の意思には逆らえないようになっている。
「土は以前よりも力を増し、雨もまた同様に健やか。故はあるのでしょうが、我/我らには及びもつかぬこと」
「訊いたことの答えになってないよ」
「御身に分からぬことが我/我らに分かる道理はありますまい。……ただ」
「ただ?」
考えこむような沈黙が降りて、やがてミシャグジは言う。
「土地の質、というものは確かに変わっているのかもしれませぬ。“持ってきた”とはいえ、諏訪の全てではないのですから。湖に流れる水は既にこの土地のものと成り果てております」
そう言われれば確かにそうか。龍脈を流れる力の変質によって、花々が色を維持できなくなったのだろうか?
「んー、自然現象としてしっかりと説明がつけば楽だと思うんだけどなあ」
「我/我らを従えておきながらよく言う。自然でありながら現象ではないものの筆頭ですよ」
空気が振動する。笑われたのだ。
「何となれば、あの女に質してみるのもよろしいかと」
「何で?」
「あめつちのうち、あめを統べるものです。仮にあめが絡んで花色の変化が起きるのだとすれば、何か分かるやも」
……ふむ。
「通らない道理じゃない、けれど」
「此処から先は御身の考えられること。我/我らはただその結論に従いまする」
「あ、投げた」
「何とでも」
言い捨てて、ミシャグジの気配は消失する。しとどに濡れそぼりながら、諏訪子は考える。あの女――ミシャグジは何故か同居人を未だ侵略者として扱いたがり、なかなか名前を呼ぼうとはしない――神奈子を強く問い質すことは、あまりしたくないことだった。糾弾の中身が的外れであったならば、割と長いこと尾を引いてしまう気がする。からっとしているように見えて、案外爬虫類のように陰湿なところも持ち合わせているので、一度臍を曲げると長いのだ。
もう少し。
もう少しだけ、様子を見よう。諏訪子はそう決意する。今日のところは何事もなかったように装おう。ひとまずタオルを取りに行こうか。縁側から上がろうと足を動かして、
瞬間、
腹の中で何かが脈動した、ような気がした。どくん、と一つだけ感覚があって、すぐさま分からなくなってしまったのだけれど――諏訪子はただならぬ不安を感じた。
◆
夕刻。
降り続く雨は一日中止むことなく、晩の食卓はいつもより静かなものとなっていた。普段は今日あった出来事を諏訪子が話したり、神奈子が面倒な政治の愚痴をこぼしたり、目新しいものを見聞きした早苗がはしゃいだりするのだ。それを違和感と捉えたのは諏訪子だけではなかったらしく、
「今日は静かですね、洩矢様?」
早苗が痛いところを突いてくる。何でこっちに話を振るかなこの子は。確かにいつもと比べれば食べている量も少ないかもしれないけれど。どきっとした心中を押し隠して、諏訪子は何でもないことのように言う。
「私だけじゃないでしょ別に。あんたも神奈子も静かだし」
「私は今日は買い物に行ってただけですし。そろそろ里の方だと新鮮さが無くなってきたんですよねー。八坂様は、えーと」
「いつもの会合。今日は――あーと」
「……寝てたんじゃん?」
「そんなことはないぞ! たとえ寝ていたとしてもその辺の鴉天狗を捕まえて内容を訊いたから同じことだ!」
「何でそんな偉そうなんだお前……」
「そうそうそんな感じですそんな感じです。こういうときに盛り上げようとするじゃないですか洩矢様は」
やりとりをスルーした早苗が箸でしれっとこちらを指す。やめんか行儀の悪い。というか最近、神に対する扱いがぞんざい過ぎる。麓のアレの影響か。
「どうしたんです?」
「ふふん、心配?」
「というか、気持ち悪い」
「神奈子は黙ってな」
「三割くらい私も同じ気持ちですが」
「よーしお前ら表出ろー」
「嫌ですよ雨降ってますし。あとの七割は一応心配なんで訊いてるんですよ」
辛辣である。神奈子に至っては何言ってんだこいつみたいな顔をしてくれやがった。腹立つ。
「……私にもいろいろあるんだよ、ってのはダメなのかな」
「ダメとは言いませんけどね。何だか食べる量も少ないみたいですし、お酒が一本なくなっていましたし、それにお風呂場には着替えた痕跡もありましたし。外に出ていたんならそれで構わないんですけど」
出てないでしょう今日――と、早苗は言う。諏訪子が山を出歩くと何となく山中がざわつくので分かるのだ、と以前言われたことがある。こちらへ来る前はそういうスキルを持ちあわせてはいなかったはずなのだが。こちらに来て明るくなったのはいいが、勘の鋭さ等まで研ぎ澄まされてきたらしい。幻想郷の巫女というものはそういう属性を獲得するのだろうか。
諏訪子は背中に冷や汗を感じながら、
「や、ホラ。ちょっとね。何ていうか……宅飲み? 飲み過ぎた感じかな」
「はあ」
「ちょうど肴を河童が持ってきてさ。早いうちにやっとかないと取り分減っちゃうじゃん? 神奈子の飲み食いするスピードには私追いつけないしー」
「私はそこまで大食らいじゃないだろが」
「自分のことになると見えなくなるよねアンタ」
「ああ、御供物の量が減っているように見えなかったのはそういうことで――って、洩矢様、その肴ってもしかしてきゅうりの漬物だったりします?」
「う、うん?」
「あれ私も好きなんですけどねー」
「いいじゃん。たまには独り占めもさせてよね」
「諏訪子はたまにじゃないと思う」
「あんたが入って来るとややこしくなるから黙ってて。そういうワケだから」
別に早苗の料理が不味かったとか言うわけじゃないんだよ、と諏訪子は取り繕うように言った。はあそうなんですか、とあんまり釈然としていないような表情で早苗は首を傾げる。切り抜けられた――か? 逃げよう。諏訪子はそう判断して、座布団から腰を上げた。
「もうよろしいのですか?」
「ん、寝る。やっぱり飲み過ぎるとダメね。だから神奈子」
「うん?」
「今日は一人で寝るんだよ? 私を抱っこしちゃダメだからね」
「仕方ないわね。分かったわよ」
「は、歯磨きはきちんとして下さいね!」
「ふぁーい」
微妙に赤くなった早苗にわざとらしく欠伸をして、奥の間へ続く襖を開ける。ちなみに洗面所とは真反対の方向だが、早苗も言った傍から諦めているのか何も言ってくることはなかった。一応、背中に刺々しいものを感じはしたのだが。
二人分のお休みなさいに見送られ、後ろ手に襖を閉めて。
そこで。
諏訪子は軽く咳き込んだ。同時にまたしても、どくん、と腹の中で何かが蠢いたような気がした。漏れ出る薄明かりに眼を凝らすと、足元には見覚えのある萼が落ちている。血の色と見まごう赤では、既に無くなっていた。紫色の、何だかよく分からないそれへと変化している。腹の中で何かが起こっている――のか? まさか。単に消化されかけているだけだ。さっと青ざめた諏訪子は何も考えずに――考えられずに拾い上げて、たたたと廊下を駆けた。
襖の向こうから送られていた心配げな視線には、ついぞ気付くこともなく。
◆
眠れなかった。
指先で紫色の萼を転がしながら、まんじりともせずに夜を明かし、空が白み始めた頃になるといの一番に庭先へ顔を出した。朝の四時。早苗すら起きだしていない早朝に。花色がどうしても気になって仕方がなかったのだ。ざあざあ降りになった雨音が家中に響いている。それが何だか、余計に不安を掻き立てていて。普段は雨音なんて、好きな部類の音に入るのに。
同じ寝室で呑気に眠りこけている神奈子を起こさないよう慎重に。けれど敏速に行動する。廊下をできるだけ静かに駆けてゆく。足取りが重い。逸る気持ちに身体が追いついてこない。行きたくないのか、私は。それとも――。
縁側へ出た。
果たしてそこで諏訪子を待ち受けていたのは、
「……赤い」
半ば愕然として呟く。薄明の光にもはっきり分かる、深紅の花々。
「……ここまでアレだともはや壮観だね、赤口」
「まことに。ある種の欲を呼び覚ます色ですな」
赤。
闘争心。食欲。肥大した愛情、あるいは性欲であるのかもしれない。それらをごちゃ混ぜにして、ぶちまければこんな色になるのかもしれなかった。紫陽花の装飾花はそもそもが大きいため、葉や茎といった他のパーツを押し隠してしまうこともよくなかったのだろう。
赤しか見えぬ。こんな庭は、本当にあのときの戦禍を思い出させていけない。支配するものとして、支配されかけている気配には敏感なのであって――、
「諏訪様」
「っ」
背後から掛けられた声に、諏訪子はびくりと肩を震わせる。
「如何なさいます。これではさすがに食べるというわけにもゆきますまい」
ミシャグジは言う。量が量だ、冷静に考えろと。それは諏訪子も分かっている。だが、
どくん。
まただ。昨夜感じたあの鼓動のような感覚が諏訪子の腹を襲う。
早く、食え。
まだ足らぬ。
催促なのか。
食わなければ。そんな感覚にさせられる。それは諏訪子の思い違いであるはずなのだ。それにきっと、同居人たちは頼めば色々と考えを巡らせてくれるはずなのに。しかし、食欲を抑えることができない。何より、手を加えなければあれだけ不味かった紫陽花の花が、
美味そうに見えるのだ。
食え。
食え。
食わねばならぬ。腹の底から突き動かされて。
ひょい、と。
雨の庭へと諏訪子は下りた。
「埋めることも選択肢の一つとして――諏訪様、何を」
「決まってる。あいつらが起きる前に」
全部食べちゃわないと――独り占めができないじゃない。
「諏訪様っ!」
「五月蝿い!」
玉砂利の庭をひとっ飛び。じゃり。庭の端から、順に次々と口へ放り込み始めた。雨粒でどんどん流しこむ。実際に味を感じている暇はそれほどなかった。が、甘露を飲んでいるような感覚が喉を通り過ぎて行くことだけは分かる。単なる味ではない。祭事で捧げられた供物を食うような感覚。不思議だった。
食べないと。
食べないと。
諏訪子は得体のしれない衝動に突き動かされるまま、手と口を動かしてゆく。
庭から赤を消すために。
ひいては同居人たちを心配させないために。
それが最も心配をさせてしまう行為なのだ、という理屈は今の諏訪子には通用しない。
ただ。
食う。
感情も何も、そこには介在していない。諏訪子を突き動かしているのは、ただひたすらに衝動なのだ。食わねばならぬという、理屈なき――飽くなき、それ。腹の中でこごった赤の塊が、諏訪子の“青”を“赤”に変えようとしているかのような。
収まるのは。
食べきった時なのだと。
頭のどこかが、そう理解だけはしているかのような動作で。
食う。
食う。
――食う。
やがて。
その行為にも終わりが見え始めた。そう広くない庭の終端が近づいてきたのだ。
これで、終わる。
思い、
否、
思ったのかすら定かではないまま、視線を来た方へと振り向けた。
それがいけなかった。
紫陽花は。
諏訪子の行いをあざ笑うかのように、片端から蕾を開かせ始めていた。
その色は、青でも赤でもなく――紫色で。
「そん、な」
さっきまで。
蕾の色は――確かに。
草色をして、咲きそうにはなかったのに。
もはや色を気にすることはできなかった。普段と異なる色であるというだけで、諏訪子の目には異物と映った。食わねばならぬ。全てを消し去らねばならぬ。
しかし、いずれにせよ腹の容量は一杯だった。
「何で」
こぼした瞬間、諏訪子の中で何かが決壊した。
「う、ぉえ」
はらりと一枚の萼が諏訪子の口からこぼれ落ちた。そこからは堰を切ったようだった。はらはらと、次々に紫色舞い落ちる。
落ちる。
落ちる。
すわさま、と呼ぶ声。それすらも耳には届かない。
四肢をつく。花の流れ。嘔吐。不思議なのは、当たり前に吐出されてしかるべき腹の中身が一切混ざっていなかったことだ。苦し涙の向こうにそれを見て、諏訪子は妙に落ち着いたような、不思議な気持ちになっていく。さらさらと散る桜のように、ただ花吹雪が舞う。落ちる。落ちた端から、砂利にたまった水に流されてゆく。川だ。
紫陽花の、川。
紫色のそれは庭の傾斜に沿って用水路へ流れ込んでいく。これを片付けて隠すのは大変だ。そのチャンスはもう残されていないかもしれない。つらつらとそんなことを考える。何かで頭をいっぱいにしていなければ“堕ちる”。その確信があったから、考え事を続けていた。
しかし――、
やがて考えることにも耐え切れなくなった諏訪子は、そのまま紫の流れへとくずおれた。
◆
陽射しが顔に当たって目が覚めた。
「……ん」
微睡みの中、疑問がよぎる。雨はもう上がったのだろうか。だったらいいが。洗濯物が溜まっていたはずだから。朦朧とした意識の中で、そんなことを考えて、
「って、ちょっと」
がば、と上半身を起こす。
ふわふわしていた意識が一気に覚醒する。
身体に視線を落とすと、濡れて汚れているはずの身は綺麗に清められ、服も新しいものに着替えさせられている。それにここはいつもの寝室だ。庭ではない。そもそも陽が差し込んでいること自体が不自然だ。この部屋は西向きの窓しかないのだから、朝日が差し込んでくることはないはず。
そこまでを考えて、諏訪子はようやく気がついた。
そうか。
ボンヤリしたままだった頭が回転を始める。妙に赤錆びていて、この部屋に差し込んでいて、更に天候が回復していて……その全てに説明が付けられる現象は、これしかない。
これは夕日なのだ。
だったら。
自分は一体、どれだけの間眠っていた?
「あああ」
これは面倒なことになるぞ、と諏訪子は頭を抱えた。庭先に倒れていたはずなのだから、誰かにここまで運ばれたわけで、要するに苦労して隠蔽しようとしていた諸々が露見してしまっているわけで。どう説明をしたものか。困った。そういうことを説明するのはひどく苦手だ。流れに身を任せて生きているので論理立てて話すことが嫌いなのである。
「赤口」
とりあえず仔細を把握しようとミシャグジを呼ぶ。しかし、声は聞こえない。過去にも何度か経験したことではあるけれど、いったいあのあと何があったんだ?
無意識に腹をさする。あれだけ吐き出したからなのか、もはや鼓動のようなものは感じられなかった。あれも何だったのだろうか。原因も因果関係も分からないことが、今になって不安と不快感を呼び起こす。よくもまああんなに正体不明な代物を食べたものである。最終的には戻してしまったわけだが。
しばらくして少しだけ落ち着くと、今度はどうしても庭のことが気になり始めた。布団からもそもそと抜け出して、庭へ。足取りは朝よりもなお重い。待ち受ける何かが怖いのだ。下手をすると、ミシャグジを黙らせるだけの何か。認めたくはなかったけれど。……“一人きり”という状況が久しすぎて調子が狂っているらしい。
そんなことを考えているうちにも、足は動いた。あと一つ角を曲がれば庭だ。足を止める。意を決して、再び進む。
そして、
「……これは」
諏訪子は呆然と呟いた。
紫色の咲く庭がそこにあった。
……食べ尽くしたあとに咲き始めた花は、確かに紫色をしていた。見間違いではないかと思って――願って――いた。現実、だったのか。赤であったなら、今度こそ埋めるなりして処理すればいいと思っていた。赤は人に似た身で食うには毒のようなものだったが、ミシャグジが変調を来さなかったということは、少なくとも土に害なすものではなかったのだろう。紫は? どうなんだ。土にすら毒になるものであったら、埋めることもできはしない。とりあえず、また自分の体で実験してみるか?
ぽかん、と口を開けたまま考えていた諏訪子は、それゆえ“彼女”の接近に気が付かなかった。
「諏訪子!」
「はえ」
右手に顔を振り向ける。神奈子が玉砂利の庭に立っていた。なぜだか里でよく見る農婦のような出で立ちで。少し泥に汚れている。心配そうな顔にはわずかに汗が浮いている。……何をやっているんだ。思うが、先に口火を切ったのは神奈子だった。
「身体は? もう大丈夫なの?」
「あう、なんとか。起きても大丈夫なくらいには」
「びっくりしたわよ。白蛇が起こしに来るわ、花葬でもされたのかってくらいに花まみれだわ。何があったの?」
正直には言えない。
「まあ色々? ちょっと庭いじりしてたら手違いが。……っていうか、赤口が起こしに行ったって本当?」
ミシャグジが神奈子を嫌っているというのは前述の通りである。にわかには信じ難いが。神奈子は狐につままれたような表情で、
「よっぽど切羽詰まってたんでしょう。すごい剣幕で一撃ぶちかましてくれたわよ。そのあと“庭へ”だけ言って消えるし」
もうちょっと見ていたかったなあ、などと嘯く。そういえばこいつの方はミシャグジを大きな蛇であるというだけで割と好いているのだったか。まともに姿を見せたことがあるのはあのときを置いて他にないが。
「そのあとが大変よ。早苗にバレないようにあんたを運んで、ついでに花の後片付けもして」
「ちょちょちょ、何であの子に知らせなかったのよ? 一人で片付けとかその方が大変だったでしょうが」
「あれが知らせに来たのが私ってことは、それだけ内密にしておきたかったってことなんじゃないかと思ってね」
「……それは――まあ」
その通りではあるのだけれども。
それよりも、と諏訪子は思い直した。神奈子から無理やり視線を外し、紫陽花たちを指差す。
「この花とあんたの関係を教えなさい。その格好、伊達じゃないんでしょう? 片付けのためだけとは言わせないわよ」
「ええとね、諏訪子を驚かせようと思ってたんだけど。バレたんなら仕方ないか」
バレたって何だ。……やっぱりこいつの仕業なのか。
「何なのよこれは。ここが私の庭だってことを分かった上でやってるの?」
「何言ってんだか。ここはうちの庭でしょうが。私にだって庭いじりの一つや二つ、する権利はあるはずよ?」
「なくはないけどさ」
そういうことをする前には一応断りを入れて欲しい。問い質してこなかったのは、もしかして自分が何かやっていたからだったのか? しかし神奈子は微妙に険悪になって行くこちらの雰囲気を意に介さず、続ける。
「前々から寒色系ばっかりで面白みがない庭だと思ってたのよねー。暖色系を取り入れてみようと思いたったはいいけど、これがなかなか上手く行かなくて」
「そんな苦労話いらないから」
「紫陽花って条件によって色を変化させるじゃない? だから色々と手を入れてみてね。でも人間妖怪両方のやり方を真似ても色が変わらないのなんの」
「……おーい」
「こういうときには外の情報が欲しくなるわよね」
「……で結局どうして」
「ちょうどいい色になるような念を込めて、水回りに血をね。これも今ひとつ効いたのかどうか分からなかったんだけど。あんまり色変わってくれなかったから」
「聞け!」
「はい」
「どうしてこんなことをしたの? とりあえず理由だけ言いなさい。事と次第によっては色々と言いたいことがある」
すると。
なぜだか神奈子は言葉を止めて、わずかばかり頬を染めた。
「……どうしてもそこ必要?」
「言え」
「あー……」
あんたの庭に私の居場所が欲しかったのよ――と。
出し抜けに神奈子はそう言った。
「……は?」
「いやほら、青色は諏訪子の色、赤色は私の色、ってスタンスでここまでやってきたじゃない?」
「スタンスっていうか、神としてのパーソナルカラーみたいなのがそれだからじゃん」
「だからってわけじゃないんだけど。最近になって落ち着き始めると、この庭に私の居場所がないような気がしてね。だからちょっとだけ赤をと思ったんだけど、上手く行かなかったから、どうにかして青と赤の折衷を――つまり紫を目指してみたのよ。いやあ、今日になっていきなりこういうちょうどいい色を出してくれたのは驚きだったけど。結果オーライって感じ?」
「……あのさ」
確かに、神の血は諏訪子が紫陽花たちに“言い聞かせた”ことと同じような効果を持つかもしれないが――“受肉した天つ神の血”なんて異物を”土着神の庭”に混ぜることがどういう意味を持つのか考えなかったのかこいつは。
色が変化していないように見えたのは、もちろん諏訪子がそれを摘み取ってしまっていたからだ。時間差を以て変化していたものをないものとしていたから、神奈子は気付くことなく血の量を増やしていたのだろう。拒絶反応だったのか? だとしたら、あの訳の分からない衝動めいたものの説明はどうなる。“神奈子の血”という異物が神の身を食い破ろうとした、とでも言うのか。否――このところご無沙汰だったから、“神奈子”を身体が求めた結果だったのかもしれない。足りないと訴えていたのは、だったら自分の肉体だったのか。立派な依存症じゃないか。色んな意味で目眩がした。
――気づかない私も間抜けだけどさあ……。
思い切り深い溜息を吐いて、諏訪子は神奈子に詰め寄った。胸ぐらを掴み上げようとして、縁側の高さをプラスしてすら敵わない彼我の体格差を久しぶりに邪魔くさく思い、仕方なく神奈子に、
「しゃがめ」
と言った。ここに来てようやく不機嫌そうな諏訪子の様子に気づいたらしく、神奈子は少々訝しげにしながら指示に従う。
諏訪子はその肩をがっしと掴んで、
「今夜は色々と教えてあげるから」
「……はい?」
「終わるまで――寝かさないぞ?」
神の聖域に不純物を混ぜ込むことがどういう反応を引き起こすのか。身体に教えこんでやる。少なくとも、変な気を二度と起こさないように。
――ま、自分の色だけで染め上げようと思わなかったのは……嬉しかったけどさ。
くすり、と笑う。神奈子は目を白黒させていたかと思うと、やがてもっと赤くなった。何でだよ。そこは照れるところじゃないだろ――突っ込みたくなったが、その顔を見ているとこちらまで照れてきた。考えなしに取った行動だったがやっぱりこれ、顔が近い。諏訪子もだんだんと照れてくる。これを解消して、そこから説教するとなると――。
……今宵は長くなりそうだった。
目を凝らすと、その正体は紫陽花だった。庭の花壇を埋め尽くす落葉低木の一種で、萼(がく)が大きく発達した装飾花を持つ植物である。青から赤まで幅広く色を変化させることから、七変化や八仙花とも呼ばれる。……何だ、だったらそう珍しいことじゃないじゃないか。ここが自分の庭でなければ、諏訪子もそんなことを考えていただろう。それだけ赤の紫陽花はポピュラーな植物なのだが。
ただし、ここ以外では、という前置きが付けばの話だ。自分の神力が“青い色”として見えている諏訪子は、当然の如く青が好きだ。かつて好いた相手――今も守矢に息づく風祝の祖が好きだった色でもある。それゆえ、紫陽花たちを植える際に青のままを保つよう“言い聞かせ”た。ちょっとばかり神様の力まで注ぎ込んで。その甲斐あってか色を変じやすいはずの紫陽花は、一途に青を選び続けて諏訪子の目を楽しませてきた。
なのに何故だか、そのうちの一株が深い赤に染まっていたのである。
諏訪を治める土地神にのみ立ち入りを許された聖域。諏訪中の龍脈が集う場所。祟り神を統べる諏訪子が、“諏訪様”として君臨を続けられた力の源。そして――諏訪子の“好き”を詰め込んだ、為政者としての仮面を外せる唯一の場。
そんな庭で赤を見たのは、実に数世紀ぶりのこととなる。最後に見たのは他でもない、諏訪を治める神が二人に増えた、諏訪大戦のときである。それまでは聖域であるがゆえに、諏訪様のお庭を汚そうとする輩はいなかった。どんなに強くても人間は人間なのだ。祟りは怖い。傲岸不遜な侵略者を迎え撃つ場としてここを選んだのは、そうした効果をわずかなりとも期待したからだったのか。今となっては霞の向こうにあるような記憶だ。定かではない。それでもあのとき、二人ぶんの血が、肉が、魂までもが赤くこの庭を染め上げたことは覚えている。そのときから赤は諏訪子の少しばかり苦手な色となっているのだ。さんざん供物を喰らってきた手前、その事実を知るものには笑われていたのだが。今となっては色々と懐かしい思い出だ。
あの戦のような大きな事件が身の回りに起きているはずがない。幻想郷に来て、最初の梅雨。まだ一年と経っていない訳であって、大事を起こすには早過ぎる。守矢神社の祭神二人はそう考えていた。今が重要な時期なのだ。元いる妖怪たちを変に怒らせてはならぬ。たとえ、ゆくゆくはその全てを守矢神社の氏子にしてしまおうと企んでいるにしても――である。
「……なんなんだろ」
ちゃぷ。
縁側で諏訪子は盃をゆらり揺らして呟いた。霧雨のように降る雨の下、せっかく花見酒と――季節も花もだいぶ違っているが――洒落こんでいたのに。視線は庭の端に咲いた赤い紫陽花に固定されている。言葉こそ呑気に聞こえるが、盃から溢れた酒が服の袖を濡らしていた。驚きすぎて言葉もないのだ。
腐り落ちる寸前に見られるような、くすんだピンクのような色ではない。鮮やかな、それこそ血を思わせるような、赤。
裏切り。何となくそんな単語が脳裏をよぎる。あれだけ言い聞かせたというのに。無論従わせるだけならばともかく、双方向に会話ができるわけではないので、真偽の程は分からないのだが。
何はともあれ同居人たちに知られるのはマズい。好みは知られ、許容されている。従って心変わりか何かなのかと問われることは避けられず、そして諏訪子は嘘が下手だ。墓穴を掘って、やれまた力が弱まったのではないか、幻想郷であっても信仰心は無くなっているのではないかと根掘り葉掘り訊かれることは確実である。水が合うだの合わないだのの結果はこれから出てくるものなのに、あの二人はとかく心配しすぎるきらいがある。わずかでも変調を疑われれば、ひどく面倒なことになるはずだ。光景が容易に思い浮かび、若干げんなりした気分が芽生える(諏訪子には消滅しかけた前科があるので自業自得とも言えるけれども)。
さて、どうしよう。
証拠は隠滅しておきたい。しかし摘み取るとしてもその先はどうする。捨てるか? ゴミ箱に? 一発で事が露見する。じゃあ庭にでも埋めておくか。これもあまり上策とは思えない。洗濯物を干すのは風祝の役目だが、干す場所はこの庭である。あれに違和感を覚えられたが最後、全部吐くまで追及されるに決まっている。
それに――諏訪子はあまり好まない色ではあるが、もう一人の好戦的な神様は好きな色なのだ、この赤色という奴は。彼女自身の神力が“赤い色”を帯びている所為なのかもしれない。昔から色の好みは合わなかった。それでも、諏訪子の中に相手を尊重しようという心はある。だから、ただ捨てるという手段は忍びない。
痕跡を全く残さないようにしたい。できれば捨てる以外の手段を取りたい。考えて考えて、春先に流行したとある遊びを思い出した。幻想郷中で流行していたそれは、桜を料理に載せて食べるというものだ。早々と廃れてしまったけれど、廃れてしまったがゆえに乗り遅れてしまった身としては、何となくやってみたいなとも思っていたのである。
「ちょうどいい機会だと思えばいいのかなあ」
組んでいたあぐらをやおら解いて、諏訪子は玉砂利の庭へと下りた。人ならざる神の身で風邪を引くこともないのだからと、雨に濡れることは厭わない。じゃっ、じゃっ、と足音を立てて歩み寄る。聖域と言っても面積的にはそう広くない庭だ。水をやる手間を省こうとものぐさに引いた用水路の水源、その近くに生えた赤い花は、すぐに目の前へと近づいて。
摘み取る。まじまじと見る。やっぱり赤い。おもむろに口へ。噛みしめる。じんわりと口中に汁が広がる。……何とも言いがたい味。ううむ、これは。
「あんまり直食いするもんじゃないね」
アクセントに使うくらいが花にとっても良かったんだろうなあ。そんなことを思いながら、とりあえず花序(装飾花のひとかたまり)を完食した。口の中を酒ですすぐ。度数の高い酒であったことが幸いして、後味の悪さはあっという間になくなった。やれやれだ。
辺りをぐるりと見回す。ぱっと見、他に赤い色は見当たらない。結局これ一つか。
やはり、何かの間違いだったのだろう。たまたま赤くなってみたいと思う奴がいたのだ。半分がた、ここの紫陽花は妖怪になりかけているようなものばかりだし。こっちに来たことをきっかけに、本格的に妖怪化が進行し始めたのかもしれない。だとしたら、そのうちこの庭から旅立とうという奴も出るのだろうか。そうなったら面白いが、今のところそんな気配も感じないなあ。
その程度にしか、考えずに。
玉砂利を鳴らして縁側に戻った諏訪子は、再びちゃぷんと盃を揺らしたのだった。
◆
梅雨晴れの日が何日か続いた。
何度か気になって庭を覗いては見たけれど、特に何の変化も起こっていなかった。それなりに安心した諏訪子は、ふらふらと幻想郷中を観光していた。夏前の少し湿った空気の中を出歩くのが、彼女はとても好きなのだ。人間には危険な場所でも、妖怪や神様ならば大丈夫。そんな場所が幻想郷には多くあり、そういう場所に限ってこの世のものとは思えない風景を持っていたり、珍しい動植物が生息していたりするのだった。その幾つかは既に外では絶滅した動植物や現象で、外界では決して見られないものなのだが、諏訪子はその辺りの事情をまだよく知らない。
観光中も何となく赤が気になって、出先でも注意して見るようにしていた。やっぱり色とりどりの紫陽花はそこかしこに咲いていて、青や赤、白、挙句の果てには緑といったカラーリングで諏訪子の目を楽しませてくれた。
きっと。
これが自然なんだろうな――そんなことを考えた。庭に色を取り入れるのもありか。もはやかつて好いたひとの好きだった色に縛られることもない。そのうち、同居人たちに相談してみよう。そう思った。
……あるいは、それがいけなかったのかもしれない。
「お?」
次に雨が降った日だった。再び霧雨のような雨粒の小さい、それ。さすがに観光という気分にもならなくて、また花見酒を楽しもうとした諏訪子の眼前に、その光景は現れた。
増えている。
明らかに。
赤い紫陽花が、今日は片手では数え切れないくらいに散っている。
言霊を掛けた相手の心変わりに、紫陽花がいち早く反応したものだったのか。花言葉にも“移り気”というそれを持つ花だ。そういう感情には敏感なのだろうかもしれない。諏訪子がそんなことを思ってしまうくらいには、状況の進行は早かった。庭の三分の一程度がごくまばらな赤色に染まっている。
「……やっぱちゃんと原因探っといた方が良かったかな?」
ぽりぽりと頭を掻きつつ、溜息のように言葉を漏らした。
先日同様同居人が外しているからいいようなものの、結局のところ露見したら厄介なことになるという懸念は変わらない。一瞬だけ考えて、諏訪子は今日も同じように処理することを心に決めた。味はさておき、とりあえず食べたこと自体はバレなかったので、その手法に自信を深めたのだ。
台所へ向かい酒と砂糖、空き瓶を拝借してきて、ひょいと縁側から降りる。家の中では市女笠を脱いでいるので、諏訪子を霧雨から守るものは何もない。あっという間に全身が湿り気を帯びていくが、彼女はそれに構うこともなく片端から花を千切り、空き瓶に詰め始めた。
花、砂糖の順で積層させていく。砂糖菓子状態にしてやろうという腹づもりだった。これなら、酒の肴にすることもできてちょうどいい。そう思ったのだが、摘み終えた段階で嵩が割とあったために途中で路線変更。花と砂糖を積み上げて押しこんだ瓶の中へ、とぽとぽと酒を注いでいく。よく撹拌して、
「よし」
と、一息入れる。そして。
ごっごっごっと喉を鳴らしながらのラッパ飲みを開始。こちらの酒は度数が強めなので、こういうふうに一気飲みするのには本来向いていない。けれどいつ同居人達が帰ってくるのか分からない状況ではそうも言っていられないと思ったのだ。幻想郷ではまだわりあい貴重な砂糖をこんな風に使ってしまう背徳感と、強くも美味い酒精に喉を焼く。紫陽花のあのなんとも言えない味が、甘みと絡み合ってするすると口中を通過していく。うむ。それなりに食べられる味にはなった、ような。そんな気がして。しかし、
「……多い」
いかんせん量が量だった。もともと、そこまで酒豪なわけでもない。もう一人の祭神はそれこそ際限なく飲み続けられるウワバミなのだが、諏訪子はちびちびやって半升程度が関の山なのだ。
困ったなあ。一升瓶に七割がた残った酒を見つめてそう思う。一人で飲みきれないから残しちゃいました、では意味がない。全てを腹の中に隠蔽しなければならないわけで、だからこそ飲み下しやすいようにわざわざ手を加えたのだし。
仕方がない。あまりこういう形で使いたくはないが、瓶を見ているだけでは酒も花も減ってはくれない。この色は――あいつの。独占欲が首をもたげる。けれど、心配はさせたくない。諏訪子は意を決して、
「赤口」
と呼んだ。すると何もいないはずの虚空から、
「お傍に」
という応えがあった。諏訪子が従える、諏訪子の諏訪子たる所以――ミシャグジの集合意識だ。ゆらゆらと陽炎のように空間が揺らぐ。しかしその揺らぎはすぐに雨にかき消されて見えなくなった。どうにも存在感がないけれど、これでも長きにわたって諏訪を支配していた土着神である。そこに“ある”が“ない”もの。“ない”ゆえに退治することも叶わず、それでも“ある”ために影響を及ぼしてくる厄介なもの。最近ではずいぶん丸い性格になってしまったが。
彼/彼女に、諏訪子は確認の問いを投げかける。
「言いたいことは分かるよね」
「一部始終は見ておりましたゆえ」
「じゃこれ」
「……我/我らに身体などありませぬ」
背後に向けて酒瓶を突き出すと、声は静かに反駁した。まあそれはそうなのだが、他に使える駒は手元にない。どうにかして飲んでもらわなければ困るのだ。分かるよね? くるりと首だけで振り向きもう一度訴える。数秒の沈黙。……嘆息がかすかに首筋を撫でた、ような気がして。
「無体な」
「ちょっと融通利かすから」
「そういう取引は」
「じゃあ行くよ?」
ミシャグジの話をまるきり無視して、諏訪子は彼/彼女との間にチャンネルを繋げる。
今や龍脈の集う場所たるここでのみ可能な技。それはミシャグジを一時的なりとも実体化させること。白い腕のような蛇の尾が、虚空にふわりと浮き上がる。彼/彼女の意思を無視した無理矢理の行為。その代償に、諏訪子の体力が大きく消耗する。しかし彼女はお構いなしに酒瓶を尻尾に押し付けた。いやいやをするように白がのたうつ。
「逆らおうっての? だったら」
「諏訪様。お戯れを」
「戯れにこんなことしないっての」
目が据わっている。
尾はしぶしぶといった動作で酒瓶に巻きつくと、ゆっくり空中を移動した。傾ける。何もないはずの空中に、淡い色の液体が消えてゆく。砂糖漬けの萼も一緒に。飲み干しても残っている中身に、新たな酒を注ぎ足して、また混ぜる。飲め。無言の圧力。何度か繰り返してようやく中身が空になったとき、同時に白い尾も消え去った。よし。諏訪子は満面の笑みをたたえた。
「ごくろーさま」
「……謝意を感じないのは何故でしょうな」
じっとりとした視線めいたものを感じたが、
「そんなことより」
と適当に受け流して、諏訪子は同じ問いを繰り返す。
「言いたいことは分かるよね」
「分かりますが、分かりかねるとしかいいようがありませぬ」
静かなトーンではあるが、微妙に拗ねたような声音で、声は告げてくる。それでもと、諏訪子はあえて問うた。
「何でだと思う?」
ため息を吐くような、間。しかしミシャグジは諏訪子の意思には逆らえないようになっている。
「土は以前よりも力を増し、雨もまた同様に健やか。故はあるのでしょうが、我/我らには及びもつかぬこと」
「訊いたことの答えになってないよ」
「御身に分からぬことが我/我らに分かる道理はありますまい。……ただ」
「ただ?」
考えこむような沈黙が降りて、やがてミシャグジは言う。
「土地の質、というものは確かに変わっているのかもしれませぬ。“持ってきた”とはいえ、諏訪の全てではないのですから。湖に流れる水は既にこの土地のものと成り果てております」
そう言われれば確かにそうか。龍脈を流れる力の変質によって、花々が色を維持できなくなったのだろうか?
「んー、自然現象としてしっかりと説明がつけば楽だと思うんだけどなあ」
「我/我らを従えておきながらよく言う。自然でありながら現象ではないものの筆頭ですよ」
空気が振動する。笑われたのだ。
「何となれば、あの女に質してみるのもよろしいかと」
「何で?」
「あめつちのうち、あめを統べるものです。仮にあめが絡んで花色の変化が起きるのだとすれば、何か分かるやも」
……ふむ。
「通らない道理じゃない、けれど」
「此処から先は御身の考えられること。我/我らはただその結論に従いまする」
「あ、投げた」
「何とでも」
言い捨てて、ミシャグジの気配は消失する。しとどに濡れそぼりながら、諏訪子は考える。あの女――ミシャグジは何故か同居人を未だ侵略者として扱いたがり、なかなか名前を呼ぼうとはしない――神奈子を強く問い質すことは、あまりしたくないことだった。糾弾の中身が的外れであったならば、割と長いこと尾を引いてしまう気がする。からっとしているように見えて、案外爬虫類のように陰湿なところも持ち合わせているので、一度臍を曲げると長いのだ。
もう少し。
もう少しだけ、様子を見よう。諏訪子はそう決意する。今日のところは何事もなかったように装おう。ひとまずタオルを取りに行こうか。縁側から上がろうと足を動かして、
瞬間、
腹の中で何かが脈動した、ような気がした。どくん、と一つだけ感覚があって、すぐさま分からなくなってしまったのだけれど――諏訪子はただならぬ不安を感じた。
◆
夕刻。
降り続く雨は一日中止むことなく、晩の食卓はいつもより静かなものとなっていた。普段は今日あった出来事を諏訪子が話したり、神奈子が面倒な政治の愚痴をこぼしたり、目新しいものを見聞きした早苗がはしゃいだりするのだ。それを違和感と捉えたのは諏訪子だけではなかったらしく、
「今日は静かですね、洩矢様?」
早苗が痛いところを突いてくる。何でこっちに話を振るかなこの子は。確かにいつもと比べれば食べている量も少ないかもしれないけれど。どきっとした心中を押し隠して、諏訪子は何でもないことのように言う。
「私だけじゃないでしょ別に。あんたも神奈子も静かだし」
「私は今日は買い物に行ってただけですし。そろそろ里の方だと新鮮さが無くなってきたんですよねー。八坂様は、えーと」
「いつもの会合。今日は――あーと」
「……寝てたんじゃん?」
「そんなことはないぞ! たとえ寝ていたとしてもその辺の鴉天狗を捕まえて内容を訊いたから同じことだ!」
「何でそんな偉そうなんだお前……」
「そうそうそんな感じですそんな感じです。こういうときに盛り上げようとするじゃないですか洩矢様は」
やりとりをスルーした早苗が箸でしれっとこちらを指す。やめんか行儀の悪い。というか最近、神に対する扱いがぞんざい過ぎる。麓のアレの影響か。
「どうしたんです?」
「ふふん、心配?」
「というか、気持ち悪い」
「神奈子は黙ってな」
「三割くらい私も同じ気持ちですが」
「よーしお前ら表出ろー」
「嫌ですよ雨降ってますし。あとの七割は一応心配なんで訊いてるんですよ」
辛辣である。神奈子に至っては何言ってんだこいつみたいな顔をしてくれやがった。腹立つ。
「……私にもいろいろあるんだよ、ってのはダメなのかな」
「ダメとは言いませんけどね。何だか食べる量も少ないみたいですし、お酒が一本なくなっていましたし、それにお風呂場には着替えた痕跡もありましたし。外に出ていたんならそれで構わないんですけど」
出てないでしょう今日――と、早苗は言う。諏訪子が山を出歩くと何となく山中がざわつくので分かるのだ、と以前言われたことがある。こちらへ来る前はそういうスキルを持ちあわせてはいなかったはずなのだが。こちらに来て明るくなったのはいいが、勘の鋭さ等まで研ぎ澄まされてきたらしい。幻想郷の巫女というものはそういう属性を獲得するのだろうか。
諏訪子は背中に冷や汗を感じながら、
「や、ホラ。ちょっとね。何ていうか……宅飲み? 飲み過ぎた感じかな」
「はあ」
「ちょうど肴を河童が持ってきてさ。早いうちにやっとかないと取り分減っちゃうじゃん? 神奈子の飲み食いするスピードには私追いつけないしー」
「私はそこまで大食らいじゃないだろが」
「自分のことになると見えなくなるよねアンタ」
「ああ、御供物の量が減っているように見えなかったのはそういうことで――って、洩矢様、その肴ってもしかしてきゅうりの漬物だったりします?」
「う、うん?」
「あれ私も好きなんですけどねー」
「いいじゃん。たまには独り占めもさせてよね」
「諏訪子はたまにじゃないと思う」
「あんたが入って来るとややこしくなるから黙ってて。そういうワケだから」
別に早苗の料理が不味かったとか言うわけじゃないんだよ、と諏訪子は取り繕うように言った。はあそうなんですか、とあんまり釈然としていないような表情で早苗は首を傾げる。切り抜けられた――か? 逃げよう。諏訪子はそう判断して、座布団から腰を上げた。
「もうよろしいのですか?」
「ん、寝る。やっぱり飲み過ぎるとダメね。だから神奈子」
「うん?」
「今日は一人で寝るんだよ? 私を抱っこしちゃダメだからね」
「仕方ないわね。分かったわよ」
「は、歯磨きはきちんとして下さいね!」
「ふぁーい」
微妙に赤くなった早苗にわざとらしく欠伸をして、奥の間へ続く襖を開ける。ちなみに洗面所とは真反対の方向だが、早苗も言った傍から諦めているのか何も言ってくることはなかった。一応、背中に刺々しいものを感じはしたのだが。
二人分のお休みなさいに見送られ、後ろ手に襖を閉めて。
そこで。
諏訪子は軽く咳き込んだ。同時にまたしても、どくん、と腹の中で何かが蠢いたような気がした。漏れ出る薄明かりに眼を凝らすと、足元には見覚えのある萼が落ちている。血の色と見まごう赤では、既に無くなっていた。紫色の、何だかよく分からないそれへと変化している。腹の中で何かが起こっている――のか? まさか。単に消化されかけているだけだ。さっと青ざめた諏訪子は何も考えずに――考えられずに拾い上げて、たたたと廊下を駆けた。
襖の向こうから送られていた心配げな視線には、ついぞ気付くこともなく。
◆
眠れなかった。
指先で紫色の萼を転がしながら、まんじりともせずに夜を明かし、空が白み始めた頃になるといの一番に庭先へ顔を出した。朝の四時。早苗すら起きだしていない早朝に。花色がどうしても気になって仕方がなかったのだ。ざあざあ降りになった雨音が家中に響いている。それが何だか、余計に不安を掻き立てていて。普段は雨音なんて、好きな部類の音に入るのに。
同じ寝室で呑気に眠りこけている神奈子を起こさないよう慎重に。けれど敏速に行動する。廊下をできるだけ静かに駆けてゆく。足取りが重い。逸る気持ちに身体が追いついてこない。行きたくないのか、私は。それとも――。
縁側へ出た。
果たしてそこで諏訪子を待ち受けていたのは、
「……赤い」
半ば愕然として呟く。薄明の光にもはっきり分かる、深紅の花々。
「……ここまでアレだともはや壮観だね、赤口」
「まことに。ある種の欲を呼び覚ます色ですな」
赤。
闘争心。食欲。肥大した愛情、あるいは性欲であるのかもしれない。それらをごちゃ混ぜにして、ぶちまければこんな色になるのかもしれなかった。紫陽花の装飾花はそもそもが大きいため、葉や茎といった他のパーツを押し隠してしまうこともよくなかったのだろう。
赤しか見えぬ。こんな庭は、本当にあのときの戦禍を思い出させていけない。支配するものとして、支配されかけている気配には敏感なのであって――、
「諏訪様」
「っ」
背後から掛けられた声に、諏訪子はびくりと肩を震わせる。
「如何なさいます。これではさすがに食べるというわけにもゆきますまい」
ミシャグジは言う。量が量だ、冷静に考えろと。それは諏訪子も分かっている。だが、
どくん。
まただ。昨夜感じたあの鼓動のような感覚が諏訪子の腹を襲う。
早く、食え。
まだ足らぬ。
催促なのか。
食わなければ。そんな感覚にさせられる。それは諏訪子の思い違いであるはずなのだ。それにきっと、同居人たちは頼めば色々と考えを巡らせてくれるはずなのに。しかし、食欲を抑えることができない。何より、手を加えなければあれだけ不味かった紫陽花の花が、
美味そうに見えるのだ。
食え。
食え。
食わねばならぬ。腹の底から突き動かされて。
ひょい、と。
雨の庭へと諏訪子は下りた。
「埋めることも選択肢の一つとして――諏訪様、何を」
「決まってる。あいつらが起きる前に」
全部食べちゃわないと――独り占めができないじゃない。
「諏訪様っ!」
「五月蝿い!」
玉砂利の庭をひとっ飛び。じゃり。庭の端から、順に次々と口へ放り込み始めた。雨粒でどんどん流しこむ。実際に味を感じている暇はそれほどなかった。が、甘露を飲んでいるような感覚が喉を通り過ぎて行くことだけは分かる。単なる味ではない。祭事で捧げられた供物を食うような感覚。不思議だった。
食べないと。
食べないと。
諏訪子は得体のしれない衝動に突き動かされるまま、手と口を動かしてゆく。
庭から赤を消すために。
ひいては同居人たちを心配させないために。
それが最も心配をさせてしまう行為なのだ、という理屈は今の諏訪子には通用しない。
ただ。
食う。
感情も何も、そこには介在していない。諏訪子を突き動かしているのは、ただひたすらに衝動なのだ。食わねばならぬという、理屈なき――飽くなき、それ。腹の中でこごった赤の塊が、諏訪子の“青”を“赤”に変えようとしているかのような。
収まるのは。
食べきった時なのだと。
頭のどこかが、そう理解だけはしているかのような動作で。
食う。
食う。
――食う。
やがて。
その行為にも終わりが見え始めた。そう広くない庭の終端が近づいてきたのだ。
これで、終わる。
思い、
否、
思ったのかすら定かではないまま、視線を来た方へと振り向けた。
それがいけなかった。
紫陽花は。
諏訪子の行いをあざ笑うかのように、片端から蕾を開かせ始めていた。
その色は、青でも赤でもなく――紫色で。
「そん、な」
さっきまで。
蕾の色は――確かに。
草色をして、咲きそうにはなかったのに。
もはや色を気にすることはできなかった。普段と異なる色であるというだけで、諏訪子の目には異物と映った。食わねばならぬ。全てを消し去らねばならぬ。
しかし、いずれにせよ腹の容量は一杯だった。
「何で」
こぼした瞬間、諏訪子の中で何かが決壊した。
「う、ぉえ」
はらりと一枚の萼が諏訪子の口からこぼれ落ちた。そこからは堰を切ったようだった。はらはらと、次々に紫色舞い落ちる。
落ちる。
落ちる。
すわさま、と呼ぶ声。それすらも耳には届かない。
四肢をつく。花の流れ。嘔吐。不思議なのは、当たり前に吐出されてしかるべき腹の中身が一切混ざっていなかったことだ。苦し涙の向こうにそれを見て、諏訪子は妙に落ち着いたような、不思議な気持ちになっていく。さらさらと散る桜のように、ただ花吹雪が舞う。落ちる。落ちた端から、砂利にたまった水に流されてゆく。川だ。
紫陽花の、川。
紫色のそれは庭の傾斜に沿って用水路へ流れ込んでいく。これを片付けて隠すのは大変だ。そのチャンスはもう残されていないかもしれない。つらつらとそんなことを考える。何かで頭をいっぱいにしていなければ“堕ちる”。その確信があったから、考え事を続けていた。
しかし――、
やがて考えることにも耐え切れなくなった諏訪子は、そのまま紫の流れへとくずおれた。
◆
陽射しが顔に当たって目が覚めた。
「……ん」
微睡みの中、疑問がよぎる。雨はもう上がったのだろうか。だったらいいが。洗濯物が溜まっていたはずだから。朦朧とした意識の中で、そんなことを考えて、
「って、ちょっと」
がば、と上半身を起こす。
ふわふわしていた意識が一気に覚醒する。
身体に視線を落とすと、濡れて汚れているはずの身は綺麗に清められ、服も新しいものに着替えさせられている。それにここはいつもの寝室だ。庭ではない。そもそも陽が差し込んでいること自体が不自然だ。この部屋は西向きの窓しかないのだから、朝日が差し込んでくることはないはず。
そこまでを考えて、諏訪子はようやく気がついた。
そうか。
ボンヤリしたままだった頭が回転を始める。妙に赤錆びていて、この部屋に差し込んでいて、更に天候が回復していて……その全てに説明が付けられる現象は、これしかない。
これは夕日なのだ。
だったら。
自分は一体、どれだけの間眠っていた?
「あああ」
これは面倒なことになるぞ、と諏訪子は頭を抱えた。庭先に倒れていたはずなのだから、誰かにここまで運ばれたわけで、要するに苦労して隠蔽しようとしていた諸々が露見してしまっているわけで。どう説明をしたものか。困った。そういうことを説明するのはひどく苦手だ。流れに身を任せて生きているので論理立てて話すことが嫌いなのである。
「赤口」
とりあえず仔細を把握しようとミシャグジを呼ぶ。しかし、声は聞こえない。過去にも何度か経験したことではあるけれど、いったいあのあと何があったんだ?
無意識に腹をさする。あれだけ吐き出したからなのか、もはや鼓動のようなものは感じられなかった。あれも何だったのだろうか。原因も因果関係も分からないことが、今になって不安と不快感を呼び起こす。よくもまああんなに正体不明な代物を食べたものである。最終的には戻してしまったわけだが。
しばらくして少しだけ落ち着くと、今度はどうしても庭のことが気になり始めた。布団からもそもそと抜け出して、庭へ。足取りは朝よりもなお重い。待ち受ける何かが怖いのだ。下手をすると、ミシャグジを黙らせるだけの何か。認めたくはなかったけれど。……“一人きり”という状況が久しすぎて調子が狂っているらしい。
そんなことを考えているうちにも、足は動いた。あと一つ角を曲がれば庭だ。足を止める。意を決して、再び進む。
そして、
「……これは」
諏訪子は呆然と呟いた。
紫色の咲く庭がそこにあった。
……食べ尽くしたあとに咲き始めた花は、確かに紫色をしていた。見間違いではないかと思って――願って――いた。現実、だったのか。赤であったなら、今度こそ埋めるなりして処理すればいいと思っていた。赤は人に似た身で食うには毒のようなものだったが、ミシャグジが変調を来さなかったということは、少なくとも土に害なすものではなかったのだろう。紫は? どうなんだ。土にすら毒になるものであったら、埋めることもできはしない。とりあえず、また自分の体で実験してみるか?
ぽかん、と口を開けたまま考えていた諏訪子は、それゆえ“彼女”の接近に気が付かなかった。
「諏訪子!」
「はえ」
右手に顔を振り向ける。神奈子が玉砂利の庭に立っていた。なぜだか里でよく見る農婦のような出で立ちで。少し泥に汚れている。心配そうな顔にはわずかに汗が浮いている。……何をやっているんだ。思うが、先に口火を切ったのは神奈子だった。
「身体は? もう大丈夫なの?」
「あう、なんとか。起きても大丈夫なくらいには」
「びっくりしたわよ。白蛇が起こしに来るわ、花葬でもされたのかってくらいに花まみれだわ。何があったの?」
正直には言えない。
「まあ色々? ちょっと庭いじりしてたら手違いが。……っていうか、赤口が起こしに行ったって本当?」
ミシャグジが神奈子を嫌っているというのは前述の通りである。にわかには信じ難いが。神奈子は狐につままれたような表情で、
「よっぽど切羽詰まってたんでしょう。すごい剣幕で一撃ぶちかましてくれたわよ。そのあと“庭へ”だけ言って消えるし」
もうちょっと見ていたかったなあ、などと嘯く。そういえばこいつの方はミシャグジを大きな蛇であるというだけで割と好いているのだったか。まともに姿を見せたことがあるのはあのときを置いて他にないが。
「そのあとが大変よ。早苗にバレないようにあんたを運んで、ついでに花の後片付けもして」
「ちょちょちょ、何であの子に知らせなかったのよ? 一人で片付けとかその方が大変だったでしょうが」
「あれが知らせに来たのが私ってことは、それだけ内密にしておきたかったってことなんじゃないかと思ってね」
「……それは――まあ」
その通りではあるのだけれども。
それよりも、と諏訪子は思い直した。神奈子から無理やり視線を外し、紫陽花たちを指差す。
「この花とあんたの関係を教えなさい。その格好、伊達じゃないんでしょう? 片付けのためだけとは言わせないわよ」
「ええとね、諏訪子を驚かせようと思ってたんだけど。バレたんなら仕方ないか」
バレたって何だ。……やっぱりこいつの仕業なのか。
「何なのよこれは。ここが私の庭だってことを分かった上でやってるの?」
「何言ってんだか。ここはうちの庭でしょうが。私にだって庭いじりの一つや二つ、する権利はあるはずよ?」
「なくはないけどさ」
そういうことをする前には一応断りを入れて欲しい。問い質してこなかったのは、もしかして自分が何かやっていたからだったのか? しかし神奈子は微妙に険悪になって行くこちらの雰囲気を意に介さず、続ける。
「前々から寒色系ばっかりで面白みがない庭だと思ってたのよねー。暖色系を取り入れてみようと思いたったはいいけど、これがなかなか上手く行かなくて」
「そんな苦労話いらないから」
「紫陽花って条件によって色を変化させるじゃない? だから色々と手を入れてみてね。でも人間妖怪両方のやり方を真似ても色が変わらないのなんの」
「……おーい」
「こういうときには外の情報が欲しくなるわよね」
「……で結局どうして」
「ちょうどいい色になるような念を込めて、水回りに血をね。これも今ひとつ効いたのかどうか分からなかったんだけど。あんまり色変わってくれなかったから」
「聞け!」
「はい」
「どうしてこんなことをしたの? とりあえず理由だけ言いなさい。事と次第によっては色々と言いたいことがある」
すると。
なぜだか神奈子は言葉を止めて、わずかばかり頬を染めた。
「……どうしてもそこ必要?」
「言え」
「あー……」
あんたの庭に私の居場所が欲しかったのよ――と。
出し抜けに神奈子はそう言った。
「……は?」
「いやほら、青色は諏訪子の色、赤色は私の色、ってスタンスでここまでやってきたじゃない?」
「スタンスっていうか、神としてのパーソナルカラーみたいなのがそれだからじゃん」
「だからってわけじゃないんだけど。最近になって落ち着き始めると、この庭に私の居場所がないような気がしてね。だからちょっとだけ赤をと思ったんだけど、上手く行かなかったから、どうにかして青と赤の折衷を――つまり紫を目指してみたのよ。いやあ、今日になっていきなりこういうちょうどいい色を出してくれたのは驚きだったけど。結果オーライって感じ?」
「……あのさ」
確かに、神の血は諏訪子が紫陽花たちに“言い聞かせた”ことと同じような効果を持つかもしれないが――“受肉した天つ神の血”なんて異物を”土着神の庭”に混ぜることがどういう意味を持つのか考えなかったのかこいつは。
色が変化していないように見えたのは、もちろん諏訪子がそれを摘み取ってしまっていたからだ。時間差を以て変化していたものをないものとしていたから、神奈子は気付くことなく血の量を増やしていたのだろう。拒絶反応だったのか? だとしたら、あの訳の分からない衝動めいたものの説明はどうなる。“神奈子の血”という異物が神の身を食い破ろうとした、とでも言うのか。否――このところご無沙汰だったから、“神奈子”を身体が求めた結果だったのかもしれない。足りないと訴えていたのは、だったら自分の肉体だったのか。立派な依存症じゃないか。色んな意味で目眩がした。
――気づかない私も間抜けだけどさあ……。
思い切り深い溜息を吐いて、諏訪子は神奈子に詰め寄った。胸ぐらを掴み上げようとして、縁側の高さをプラスしてすら敵わない彼我の体格差を久しぶりに邪魔くさく思い、仕方なく神奈子に、
「しゃがめ」
と言った。ここに来てようやく不機嫌そうな諏訪子の様子に気づいたらしく、神奈子は少々訝しげにしながら指示に従う。
諏訪子はその肩をがっしと掴んで、
「今夜は色々と教えてあげるから」
「……はい?」
「終わるまで――寝かさないぞ?」
神の聖域に不純物を混ぜ込むことがどういう反応を引き起こすのか。身体に教えこんでやる。少なくとも、変な気を二度と起こさないように。
――ま、自分の色だけで染め上げようと思わなかったのは……嬉しかったけどさ。
くすり、と笑う。神奈子は目を白黒させていたかと思うと、やがてもっと赤くなった。何でだよ。そこは照れるところじゃないだろ――突っ込みたくなったが、その顔を見ているとこちらまで照れてきた。考えなしに取った行動だったがやっぱりこれ、顔が近い。諏訪子もだんだんと照れてくる。これを解消して、そこから説教するとなると――。
……今宵は長くなりそうだった。
新年早々良い諏訪子様分が補給できて感謝!
花園(意味深)と蛇(意味深)が妙に目を引く話だったと思います。
登場人物が本当に息してるような自然さが好きです