1
「のう屠自古、この頃妙に冷えると思わんか」
布都は屠自古に話しかけた。
季節は冬。
言うまでもないが寒い。
さすがに尸解仙であっても寒いらしく、布都は小さな身体を小刻みに震わせている。
「あなた、そんなに足を出しているから寒いんじゃありませんの?」
と、屠自古。
布都は生足を惜しげもなくさらしており、外見だけで言えば、元気な小学生状態である。
ストッキングの類も履いていないとなれば足が冷えるのは当然だ。
「おぬしは足が無くていいのぉ」
「あなたがわたくしをこうしたくせに」
屠自古は釣り目気味の視線に避難の色を加えた。
「亡霊は寒くないのかの? もともと亡霊といったら夏が相場じゃしな」
「寒いに決まってます」
「足はどうなんじゃ」
「足も寒いのよ」
「無い足が寒いとはおかしいの」
「あんた喧嘩売ってんの? 買ってやんよ」
「自分を安売りするわけにはいかんな。太子様に叱られてしまう」
軽口をたたきながらも二人が到着した先は、廟の中にあっても、
現代的な……、今でいうところの居間である。
部屋の広さは畳十枚程度で、部屋のそこここにはタンスの類が置かれている。
良くも悪くも生活感のあふれる場所だった。
その部屋の中心に見慣れぬものが鎮座している。
四角い形をしたローテーブルと布団が合体したような物体である。
その布団に下半身だけをつっこんで、
神子、青娥、そしてなぜかこの前の異変の中心人物である秦こころがいた。
こころは一心不乱に、おせんべいにパクついている。
正直謎な光景であったが、一番の疑問は、その得体のしれない台座であった。
もしかすると宗教的な行為をしているのかもしれない。
「太子様、これはいったいなんなのです?」
見慣れる物体に、素直な疑問をぶつけたのは布都のほうが先だった。
「ふむ。これはな、『こたつ』というらしい」
「こたつ?」
「暖房器具の一つよ」
引き継いで言ったのは青娥だ。
「面妖な」
「世の中にはこたつむりという生物がいるらしい」と神子。「つまり、この『こたつ』というものはおそらく寄生生物であり、我々はその寄生される側となる」
「なんと恐ろしい」
布都は震えだす。
「冗談よ」と青娥。
「は?」
「この前知り合いになった河童に売ってもらったのだそうよ」
青娥は怪しく微笑んでいる。
「ふむ。なるほど……それにしても、そこな娘はなぜここにおるのです?」
「ん? ああ、こころのことか。ちょっと養子にしようと思ってな」
「なんですとおおお」
「冗談だ」
「は?」
「まあちょっとは本当にしたいかなーとは思ってるんだが、今回は寒空の中で行くあてもなくフラフラしていたからな。合法的に拉致してきた」
「あたたかい場所とおいしい食べ物をあげるから、ついてきなさいって言われた」
こころはせんべいをバリバリ食べながら言った。
果てしなく犯罪臭かった。
「それはそれとして、布都たちも入ったらどう?」
神子は優しげな声を出す。
布都と屠自古は微妙な表情になり顔を見合わせた。
「う、うむ。ちょっと怖いが失礼させてもらいます。む……、こ、これは……。ほんわりと柔らかく包まれ、冷え切っていた足がまたたく間に暖められていく。まるで母親に優しく抱かれた幼子のような気持ちにさせる。これは、これは、魔性のもの。人を堕落させる恐ろしき……はわぁぁ。たいひひゃまぁ。これらめれすぅ。しゅごくとろけちゃいまひゅう」
恍惚の表情。
「ちょ、ちょっと、布都。あなたばかりズルいんじゃなくて」
と、屠自古は布都の脇から手を入れて、ずるずるとこたつの中から引き出そうとする。
屠自古がそんなことをするわけも、もちろん理由があった。
神子が買ってきたこたつは、残念なことに小さかったのだ。
すなわち、角が四つしかないローテーブルでは必然的に使用可能人数は四人までとなる。
寒さも暑さも関係がない芳香は外で元気にフラフラしているだろうが、今現在の使用者は神子、青娥、こころの三人。
したがって、残る席はひとつしかない。
どうがんばっても一人はあぶれる計算になる。
「や、やめるのじゃ!」
こたつの縁に手をかけて、必死にしがみつこうとする布都。
屠自古のほうはほそっこい大根のような足を無理やりこたつの中に入れ込んで、布都を追い出そうとしている。
ここで他の三人のほうに行かないのは、やはり最初から占有していた者たちを追い出すのは気が引けたからである。
「先っちょ。先っちょだけだから」
「無理無理無理無理無理無理ッ~~~~~!」
布都は呼吸困難に陥った魚のようにこたつの中で暴れた。
屠自古は般若のような表情で同じく暴れまくる。
必然――、
こたつは神子が止める間もなくぶっ壊れた。
テーブルの脚は四つあるうちの二本が根本からぽっきりと折れ、テーブルの上に載っていたと思わしき、台の部分も尸解仙の馬鹿力のせいで半壊。
こたつとしての機能はまだかろうじて生きているものの、これでは使いようがない。
「なにをするきさまらー!」
いつもの余裕の表情もどこへやら怒号を発したのは神子であった。
こたつの外で場外格闘を繰り広げていた布都と屠自古も、さすがに動きを止めてシュンとなる。
「千四百年も生きているあなたたちが、こんな些細な欲望に負けるとは情けない」
「太子様、わたくし生きてません……ひっ」
ぼそりと屠自古が反論するも、神子の一睨みだけで、言葉を続けられなくなってしまう。
さすがは一国を取り仕切ってきただけのことはある。
そのカリスマはそんじょそこらの妖怪とは格が違う。
「私がせっかく買ってきたこたつを壊してしまって……、これじゃあ、こころがどこか行ってしまうではないか! 最初、こたつの中に入ったときにこころはなんと言ったと思う。『ここぽかぽかするー』だぞ。あまりのかわいらしさに私はめまいがした。それを……そんな聖域をきさまらが奪ったのだ」
「太子様。それはあまりにもご無体というもの。そもそも、千四百年も連れ添ってきたわれらを差し置いて、そこなポッと出の妖怪ごときを優先させるとは、あまりな仕打ちというものではないですか」
布都が涙目で反論した。
しかし、神子はとりあわない。
「政治の世界において、人を四つの象限に分けたとき、とりわけ使えぬのが『無能な働きモノ』。主が買ってきた宝をたった数分で壊すものなど『無能な働きモノ』に等しいと心せよ!」
「こころせよー」
せんべいをバリバリ食べながら、なぜかこころも便乗する。
「あんまりじゃ……」
ポタポタと畳の上に、水適が落ちた。
「太子様は、そこの小娘が同じことをしたとすれば、そこまで怒らなかったはずですわ。太子様の言い分は自分の都合を優先しており、それこそ欲望に支配された物言いだと愚考いたします」
屠自古はがっくりとうなだれる布都の肩に手を置きながら、滔々と説いた。
「黙りなさい! 自らの失態を棚にあげて、清純無垢なこころを引き合いに出すとは、もはや反論の余地なく下賤の極み。浅ましいことこの上ない!」
「下賤……わたくしが、下賤……」
「ねえねえ。今どんな気持ち? ねえ今どんな気持ち?」
余裕で屍体蹴りをかますこころ。
もちろん悪意などは一切なく、複雑極まる表情を自分のものにしたいという切実な想いからである。
屠自古もまた心がぽっきりと折れる音がした。
「でていきますわ」
屠自古は小さくつぶやくように言った。
神子は一瞬たじろいだが、しかしその言葉が本心からのものだと知り、ツイと顔を横に向けた。
「でていきたいのならでていきなさい。あなたの欲望を誰も止めはしない」
「ええ、でていきます。さようなら。ほら布都」
「うう、あんまりじゃ。あんまりじゃ」
屠自古は布都を抱きかかえるようにして退出した。
「あらあら、うふふ」
青娥は我関せずといった形で、嵐でも過ぎ去ったかのような部屋でただ一人幽雅に笑っている。
2
「神子さまー。ここ寒いよー」
こころが自分で自分の身体を抱くようにして言った。
今のところ廟にある暖房器具はこたつのみ。
尸解仙はもともと強靭な肉体を持ち、寒さにも強い。
妖怪であるこころも別に寒いからといって、それで命が危うくなるということはない。
ただ、尸解仙であっても妖怪であっても趣味的に暖かいところが好きなのだ。
「おお、よしよし。すまなかったな。そうだ。こうしよう。布団をここにひいて一緒に寝るというのはどうだ」
「神子さまー。それ何の表情?」
「幼気な娘の身体をあますところなく楽しみたいという下卑た表情かしら?」
青娥は軽やかに言った。
「んー。どういう意味?」
「まあそのままの意味なんですけれどね。ちょっとあなたには早すぎるかしら?」
「失礼な。私はそんな邪な考えは一切持っていないぞ」
神子は怒ったように言った。
「そうなんですか? まあその娘のことが大事なのはわかりますけれども、このあとどうなされるおつもりなんです?」
「どう、とは?」
「布都さんと屠自古さんのことですよ」
「出ていきたいというのなら止める必要はないだろう」
「しかし、このままでは寺との勢力争いで相当な劣勢になりますよ」
「う、うーむ」
「太子様にとって、お二方は両翼のようなものでしょう? 翼をもがれた鳥は飛翔できません」
「た、確かに私も言い過ぎた、かも、しれない」
「ねえねえ」
こころが神子のスカートの裾を引っ張った。
すわ何事と見てみると、両の手を頬のあたりに持って行って、
無表情のまま
「スマイルスマイル♪」
あざとかわいいこころである。
「ああ、天使がいる。天使さまが降臨されておりますよ。青娥さん」
「あらあら。もしかして、こころさんも仲直りしたほうがよいと思っているのかしら」
「うーん、こういうときはこぶしで語り合えばいいって誰かが言ってたような気がする」
「どこの戦闘民族ですか……」
「わからないことがあったら誰かに聞いてみたらいいってみんな言ってた。だからそういう人がたくさんいたほうがいいんじゃないかな」
「うふふ。私も人間はだーいすきですよ」
神子はその場から離れると、壁のハンガーラックにかけていたコートをさらりと羽織った。
「どこに行かれるんですか?」
「ちょっと、こたつの修理に行くだけだよ。べ、べつにふたりを探すわけじゃないんだからな」
「まあ、それはそれでありでしょうね。こころさんは私がキョンシーに」
「やめなさい」
「今のところはやめておきますね。芳香のほうが腐ってて可愛いですから」
「腐ると可愛いの?」とこころ。
「そうですねー。でも、鉛筆と鉛筆削りでどちらが攻めでどちらが受けなのかを考えだすようになったら、さすがに処分を考えますね」
「んん?」
「まあわからないことはわからないままにしておくのも一興です」
「わからないことは不快だ」
「お子様ね。そういえば、保護者様」
外行きの装備を整えた神子に青娥は声をかけた。
「ん?」
「そこでナチュラルに振り向くのもどうかと思いますが、まあ要はそういうことです。こころさんですがどうすればよろしいので?」
「こうなってはしかたない。こころが布団はいやだというのなら、こたつのある家に行ってもらうほかあるまい。断腸の思いであるが、確か博麗の巫女の家にもこたつはあったはず」
「霊夢も持ってるの?」
「ああ……」
「じゃあ霊夢のところに行くー」
「く、なぜだ。なぜこころはあんな貧乏巫女のほうがいいんだ」
「無味無色ですからね、何色にも染められる心配がないからそちらのほうがいいんでしょうね。私の色に染めてやると狙う気まんまんなところよりは……」
「むむ。そんなことは」
「ではお待ちしております」
反論が飛び出す前に青娥は優雅な礼をした。
「ああ、わかった。こころもこちらのこたつが治ったらまた来るといい」
「んー。わかった。これが日本の心、お・も・て・な・し」
「正解だ」
3
「店主。酒だ。酒をもってくるのじゃ」
「ちょっと、布都飲みすぎよ」
「いいんじゃ。自棄酒じゃ」
「自棄ってわかってるんなら、なおのことやめなさい。ていうかお金は持ってるの?」
「ふん。引きこもりの屠自古と違って我は『あくてぃぶ』だからの。太子様の肖像画の書かれた札を見せたら、銭と変えてくれよったわ」
袖のあたりからジャラジャラ音がして、見せてもらったのは穴の開いた銭である。
「それって……いや、別にいいわ」
「屠自古よぉ」
トロンとした目をした布都が肩を抱いてきた。
ビクっとして、顔が熱くなる。
屠自古も少しは呑んでいるが、それは寒さをしのぐためのもの。
酒精で顔が熱くなったわけではない。
「屠自古ぉ……」
「なによ」
「われらは、太子様にとってなんだったのだろうな」
「それは……」
「いうな。わかりきっておる。『こま』じゃ。我々はこまに過ぎなかったのじゃ」
「そんなのわかりきってるじゃない。私たちは太子様の部下なのよ。家族でもなければ血がつながってるわけでもない」
「だとすれば、なおのこと酷い」
「そうねぇ。さすがに今回のことは幻滅しましたわ。あの娘、秦こころは太子様が創ったお面が変化したものと聞いております。だとすれば、あの娘は太子様にとって実の娘のようなもの。大事にされるのはわかります。けれど――」
「太子様は優先順位を間違えられた」
「そういうことになりますわね」
自分の子どもを部下より優先させてしまう
これは上に立つ者としては劣悪の部類に入る。
「しかし、為政者にとって真に劣悪なのは守るべき民を忘れることにありますわ」
「何が言いたい」
「太子様はその点を間違えられたわけではない。わたくしたちは守るべき民ではないのですから」
「しかし、しかしじゃ……、それでも納得はできぬ。おぬしはだから我らは我慢すべきと言いたいのか。あれほどのことを言われて本当のこまのように唯唯諾諾と従えというのか」
「そうは言ってません。けれど、太子様がもしも誠心誠意謝るというのでしたら、私は許したいと思っていますの」
「屠自古は太子様に甘い」
「甘くて結構ですわ。そもそも何年間太子様につき従ってきたと思ってますの。あの方のいいところも悪いところもすべて見てきました。完璧な人間などいないように、いくら能力的に高くてもどこかには偏りがでるというのが人間の在り方です」
「聖人であっても偏りはでるか」
「それが無ければ、個性というものをまったくもたない道具と変わりません」
「屠自古はほんに太子様のことが好きなんじゃの」
「な、す、好きだなんて。違います。部下として身をもってお諫めしたかっただけよ」
「うぬぬ。沈んでおっただけのわしに比べて、屠自古はそこまで考えておったとは……、これは酒に逃げてはおれんな。店主。甘味をなにか」
「結局食べるのね」
「なにわしからのお礼じゃ。部下としてどうあるべきかを諭してくれたことへの、な……」
店主が持ってきてくれたのは、ぷるんとしていて黄色い何かだった。
「店主これはなんじゃ」
返ってきた答えはプリンとのこと。
よくわからなかった布都はとりあえず毒味のつもりで口にいれてみた。
瞬間、口の中に広がる味のハーモニー。
寒かろうが、暑かろうが、女の子は甘いものが大好きである。
「ヤバい。これヤバい。なんというまろやかさ。なんという恐るべき現代技術よ」
「ねえ布都」
「なんじゃ?」
「それわたくしにくれるんじゃありませんの?」
「はて、そんなこと言ったかの」
「言ったじゃありませんの」
「酒のせいですっかり忘れておるわ。ハハハ」
「てめえ。吐いた唾は呑み込めんぞ」
彼女たちが出禁になったのは五分後のことである。
4
人里はかなりの広さを誇る。
そして、妖怪たちに襲われる心配のない場所として、人間にとっての安全地帯である。
ここでは、人の流れも多い。
いくら、布都と屠自古が奇異な恰好をしているといっても、ここには妖怪もちらほらとおり、別に彼女たちだけが奇抜というわけではない。
結果、神子は彼女たちを探し切れていなかった。
そもそも人里に来たのも、おそらくそこが一番行きやすいと思われたからだ。
布都も屠自古も、そして神子もだが、基本的に妖怪があまり好きではない。
そして長く人の中で暮らしてきたという経験もある。
となれば、行くべきところは人里くらいしかないだろうという予測が立つ。
しかし、誤算だったのは人里の広さである。
通常、人口は一万人を割ると減少するほかないといわれている。
したがって、この里はかなり巨大だ。正確には集落が点在していることで大きな里を形成しているようであるが、おそらく全体の人口は三万人以上はいると思われる。
そんなところで砂粒のような立った二人を探すのはなかなか困難といえる。
目立つようなことをすればよいのだろうが、さすがに人里で騒ぎを起こすのはまずい。
「やれやれ困りましたね。昔住んでいた『ここのえ』もこれほどのにぎわいは見せておりませんでしたが」
ここのえ、というのは天子の住む都のことを言う。
昔は単純に人が少なかったというのもあるが、それ以上におそらくは商業的にも工業的にも未熟だったため、人を集中させる必要がそれほどなかったのだろう。
幻想郷は思った以上に、文化的水準が高い。
ここが隠れ里のような場所であり、外の世界とは別の文化を形成しているのは知っているが、それでもなお、千四百年の眠りは深かったのだと思わせる。
と、そこで、神子の横を数人の子どもたちが駆け抜けていった。
いつの時代も子どもが遊べる場があるということは、最高級の政治がおこなわれているといえる。
ここにたとえ政治的な機構がなくても、そういう無政府という政府があるのであって、弄る必要がないのかもしれない。
もちろん、神子は為政者だった経験から、そうではないと反論したい気持ちもあったが、しかし、子どもの前でそれを言うほど無粋ではない。
人里ではだからどこかの政治家のように演説ぶったことはない。
宗教家として、たまに人心を惑わす程度だ。
「お」
駆けていたうちのひとり、小さな女の子が転んだ。
神子は自然と近寄りながら膝を折り、その子を起こしてあげた。
泣いてはいなかった。
強い子だと思った。
「ありがとう」
礼を言い、その子は駆けていった。
視線を上にあげると、そこには長髪の奇抜な帽子をかぶった人間がいた。
いや、微妙に妖怪の気配もする。
女の子はその人物に抱きついた。
「ありがとうございます」
「いや、たいしたことではない。君は?」
「申し遅れました。私はここ人里で寺子屋の先生をやっております上白沢慧音と申す者です」
「あ、いや、ご丁寧に。私は豊聡耳神子」
「存じております」
にこりと柔らかく慧音は笑った。
「ところで太子様、このような卑賤の者が集う場へどうしてお越しになられたのです?」
「なにたいしたことではない。今と昔の差を噛みしめていたところです。まだこの世界の水準というものに慣れていませんからね」
「なるほど……」
慧音は実のところ、若干の警戒を抱いていたのである。
異変の中心人物であり、妖怪を敵であると宣言するもの。
それは幻想郷の秩序からすれば、かなりの異端的な意見であり、人里にとっても害になる恐れがあるものだった。
「要は歴史の移り変わりが知りたかったんですよ」
「なるほど、なるほど!」
ここで慧音は大きくうなずいた。
「太子様のおっしゃることよくわかりますよ。人の営みにとって歴史は欠かせませんからね!」
「う、うむ。そうですね」
ものすごい勢いで迫ってくる慧音に対し、神子は押され気味だった。
「先生は歴史に一家言あるとみえる」
「太子様、そのような……私はまだまだですよ」
明らかに嬉しそうな慧音であった。
「先生、私に教えてくれないだろうか?」
「なにをです?」
「この千と四百年の月日のなかで、最高の為政者とはどのような者を言うのか」
神子の真剣な様子に、慧音はいずまいをただした。
「ここではなんです。寺子屋のほうにご足労願えますか?」
否はなかった。
寺子屋には幾人もの生徒たちがいた。
なかには妖怪や妖精もいて、人間と席を同じくしている。
神子にとってはまだまだ異様な光景であったが、慧音の手前、正そうという気は起こらなかった。
慧音は自習を宣言し、奥の部屋へと神子を通す。
「汚いところで申し訳ございません」
「いえいえ、十分に綺麗ですよ。君のようにね」
「まあお上手ですね」
「べつに本当のことを言ってるだけなんですけどね……」
神子はふと視線を落とす。
落ち着くと、やはり今日の出来事が脳裏をよぎった。
屠自古と布都はともに生き、そしてともに死んだ仲である。
その二人を失ったことは、いまさらながら巨大な喪失感をもたらしていた。
激昂が収まり、静かな部屋の中にいるとなおさらそれが感じられた。
慧音の毛髪は澄んだ青い空のような色をしていて、神子は後悔という感情を生まれて初めて覚えたような気分になる。
「先生……」
言葉少なに神子は見つめる。
「ん。ああそうでしたね。太子様が目覚められるまでの千と有余年のなかで一番の為政とはなにかという話でしたか」
「そうです」
「とはいえ、釈迦に説法ともいえますね」
「釈迦ですか……」
仏教は対立すべき宗教であるので、神子はちょっとだけ眉をひそめる。
「あ、いや、河童に水泳を教えるようなものというか」
「なるほど……、いや、私にも迷いはあるのですよ。人間らしく、人間ですので」
「太子様は人間だったのですね」
「はあ。まあ私自身はそう思っておりますが」
「でしたら話は早いです」
「ふむん。というと?」
「妖怪には歴史はありませんからね。その者固有の歴史はあったとしても、連綿と続く歴史というものはないということです。それが妖怪の限界であり、人間の素晴らしいところです」
「ここは歴史から忘れさられた場所だと聞いておりますが」
「そうであっても、歴史は残っておりますよ。人間のそれは途切れることはございません」
「なるほど、先生がおっしゃるのならそうなのでしょうね」
「とはいえ、政治となると、私よりも太子様の方がお詳しいでしょう。私ができるのはあくまでこういう話があったといったような例示列挙にすぎません。なにかしらヒントになればよいといった具合のものです」
「お願いいたします」
「歴史的に言えば、為政者のタイプは二つに分けることができるかと思います。一つは火のようなタイプ。もう一つは水のようなタイプです」
火のようなタイプは己の政治的信念を達成するために、果断します。
すなわち、自らが動き、部下の模範となるように動きます。
部下は己の至らなさを自覚するわけですが、しかし一番上の者がやっていることを自分ができないとは言えません。
したがって、努力します。
そうすることで、上も下もともに努力するようになって、組織は力を蓄えていくわけです。
そうですね。この国で言えば、織田信長というものがそのタイプに分類されるでしょう。
他方、水のようなタイプは己をできうる限り小さくするタイプです。
このタイプは我欲とは無縁に、ただひたすら民へと奉仕します。
したがって、部下は上を尊敬し、のびのびと力を発揮することができるのです。
歴史的にはなかなか珍しいタイプなのですが、そうですね……例えば、太子様もそのように思われていたのですよ。
「そのような事は……」
「いえ、本当です。民のことをよく聞き、自らは決して表に出ない。それが水のような為政者ということです」
単に暗躍していただけとはいえない。
「しかし水のようなと言われても、具体的にどうすればいい。部下はそのまま放っておけば何かしら失敗をしてしまうと思う。そうしたときに水のような為政者は決して怒ったりはしないのだろう? では流されるままにあれというのか」
「そうではありませんよ。部下が何かしら失敗をしたのでしたら、上のものは間違いを正すまで待ってあげるのです」
「先生に言われて、なんとなくわかった気がするよ。為政者に必要なことは部下を信じることなのだな」
「そうです。ところで太子様はもしかしてご家来様と……」
「恥ずかしながら、ご想像のとおり。しかし、先生と話せてよかった。君のような人物は私の時代でも傑物と呼ばれただろう。時代が時代であればぜひ先生としてお呼びしたかったところだ」
「私には寺子屋の先生がお似合いですよ」
「美しいな。特にそのはちきれんばかりの胸が……」
「太子様、セクハラという言葉をご存知ですか?」
「いや、その、時代が違うのか横文字はよくわからないな。ハハ……」
それから神子は礼を言って、寺子屋を出た。
もはや迷いはなかった。
5
「それにしてもこれからどうするかのう」
ぶるりと身体をふるわせて、布都は屠自古に尋ねた。
「そんなの私に聞かないでくださいまし。尸解仙といっても人の身であることには変わりありません。あなたは何かを食べなければ生きていけないでしょう?」
「まあただの人間よりは飢えに強いと思うのじゃが……」
しかし、肉体を持つ以上、おのずと限界がある。
また、亡霊の屠自古も同じような境遇だ。
亡霊は実のところ人間と同じように物を食べる。
「寒いのう……ひもじいのう」
「あなたさっきからそればかりじゃありませんか。もう少し建設的な意見はだせませんの」
「とはいってものう……。あ、そういえば」
「なにか思いつきましたの」
「青娥がこれと同じような境遇の物語を言っておったの。もしかしたらなにかの参考になるかもしれん」
「ふうん。青娥さんが……。なにか嫌な予感がしますが、どういう話ですの」
「確か題名が『エッチ売りの少女』というものでな」
「……へえ」
「とある少女がな、冬の寒空の中、家族から言われて花を売るらしい。右や左の旦那様、エッチは要りませんか。エッチは要りませんかとな。おそらくエッチとは花の名前なのだろう。それでもなかなかエッチは売れない。しかたなく、少女は自らを温めるためにひとりでエッチを始めるらしい。動詞なのか名詞なのかよくわからんがの、そういうものらしいのじゃ。それでひとりでエッチをはじめると、そこには暖かな暖炉が広がり、少女はハァハァと息も荒く、手を伸ばす。しかしそれは幻なのじゃ。じきに消えてしまう。そこで少女はまたひとりエッチをする。擦るなのかするなのかはよくわからんがの。それで今度は見たこともないごちそうが目の前に広がり、またもや少女は恍惚の表情でそれらを見つめる。残念ながらそれもまた幻じゃ」
「……あの邪仙」
「ん。何か言ったかの」
「いいえ。なんでもありませんわ」
「そうか。そして最後は優しい男の買手が現れてな、無事にエッチを売ることができて万歳という話だそうじゃ」
「布都」
肩に手をおかれ、布都はきょとんしていた。
「なんじゃ?」
「いまの話、誰かにしました?」
「いや、屠自古が初めてじゃが」
「そう、誰にも話してはダメよ」
「しかしな。エッチ売りというのはどうやら元手がなくてもできるらしいからの。そこらの雑草でもひきぬいて『エッチは要りませんか』とでもいえば、心優しい旦那様が買ってくださると思うのじゃが」
ダメだこいつ、早くなんとかしないと。
「あのね、それは物語の話でしょうが、現実はそんなに甘くないわよ」
「そうか、残念じゃの。あ、そういえば」
「まだなにかあるの」
「我が履いていた下着を売るとすごく金になるらしいぞ。使用済みの中古の方が売れるとは面妖なこともあるのう」
手遅れかもしれない。
「エッチ売りも下着売りもダメったらダメです!」
「しかしこのままでは兵糧攻めにあってるようなものじゃ……、ん、そういえばよいことを思いついたぞ」
「そうですか。また下ネタじゃないことを祈ります」
「なんの話じゃ?」
「なんでもありません」
「そうか。これはズバリ言うと試練なのじゃ。太子様はおそらく我々が寺を打倒し、兵糧を奪ってこいと言外に仰せになったに違いない」
「どこをどう解釈したらそういう話になるのかまったくもって意味不明ですが、それでどうするというの?」
「今から寺のほうにかちこみに行き、うまいものを強奪する。ついでに火でもかければあったまれて一石二鳥じゃ。そうだ。そうするのじゃ。太子様もきっとほめてくださるに違いない」
「ちょ、ちょっとちょっと。布都」
布都は屠自古の制止もむなくし、勝手に寺の方に行こうとする。
しかし、寺の勢力はいまや有名どころだけども二桁に届きそうな勢い、たった二人でどうすることもできるはずもない。
「たのもう」
「バカ正直に真正面から行くなんて、あなたバカですの?」
「失礼な。正々堂々といった方が良いじゃろう。なに、妖怪変化など我の風水の前では物の数ではないわい」
「あ。こんにちわー」
ひときわ大きな声で答えたのは響子である。
特に害意らしい害意も感じられず、屠自古はひとまずほっとする。
「うむ。こんにちわ死ぬがよい」
「ちょ」
出会い頭に大皿の一撃。
さすがに構えてなかった響子では一たまりもない。
「きゅう」
憐れ響子は小さな声を出して気絶する。
「よし、一面クリアーじゃ。次に行くぞ」
「なんだか取り返しのつかないことになりそうな予感……」
しかし、もはや寺組の一人を瞬殺してしまったのだ。
あとに引けそうにはない。
屠自古は暗い顔をして、うきうきした様子の布都の後に続くのだった。
6
で、数分後。
屠自古と布都は囲まれていた。
さすがにあれだけ騒ぎを起こせば嫌でも知れようというものである。
「いやー、さすがに裏をかかれた感があるねぇ。ここまで来るといっそすがすがしいというか」
とナズーリン。
「なにかしら理由があるのではないでしょうか。もしかすると仏に助けを求めているのでは? であれば、我々は手を差し伸べなければなりません。それが野蛮な教えと仏の教えの違いなのですから」
と星が言えば、
「いや、このような仏の教えもわからぬような野蛮な輩、さっさと排除すべきです」
と一輪。
「聖の顔も三度までって言うしね。うん。またなんだすまない」
とムラサ。
「仏だけにほっとけーていうのは?」
「いやはやそれはさすがに審議不可じゃろう」
「おまえも正体不明にしてやろうか」
「私の鼠はそろそろチーズ以外も食べたいと言っているよ」
「飛べない船はただの船さ」
「だから、さっさと排除すべき」
「争え……もっと争えー♪」
「しかし、仏の教えを突き詰めると慈悲という言葉が立ち現れてきます。妖怪であっても人であってもそれは変わらない真実です」
「そんなことよりプレイステーションしようぜ」
「いい加減廊下の寒いところで話をするのはやめてほしいのう。老骨にはこたえるわい」
「鼠はチーズを食べるといわれがちだが、実際には肉の方が好物だったりするんだよね」
「仏の教えとはそもそも四苦からの解放を言うのです。妖怪であってもその苦しみから解放されるべきだと思いませんか」
「DSが許されるのは小学生までだよねー」
「カレーライスとは、カレーとライスの黄金の比! しかし福神漬けとはいったいうごごごごご……」
「大根だよ。船長。しかしよく見てみると、そこの御仁は大根のような足をしている」
「しかも皿もあるぞ。あれはよく見るとカレーライスにちょうど良い! わかったカレーだ。カレーの国からの使者なのだ」
「もう雲山りだ。違う、うんざりだ。見敵必殺。いいか。サーチ&デストロイだ」
「うぇるかむ、とぅ、でぃす、くれいじーたいむ♪」
『お静かに!』
ひときわ大きな声で響いたのは今まで黙していた聖の声だった。
一同はシンと静まり返った。
その声には、それだけの力があった。
「あなたがたに聞きます。無辜の民である響子を害したのはいったいどういう理由ですか」
いかなる遁辞も許さないと、その視線は告げていた。
「知れたこと。邪教に染まっている者も邪悪に決まっておる。我は我の正義をなしたにすぎぬ」
「思い上がりも甚だしい。あなた方が正義であり、我々が邪悪であるというのならそれもまたいいでしょう。しかし、私はその考え方に精一杯抵抗いたします」
「であるから、邪悪だというのだ。邪悪であるならば正義の前におとなしく屈服すればよい」
「もはや問答は無意味。誠に浅ましく、邪知暴虐なり! 南無三ッ!」
「ああもうどうしてこうなった」
とりあえずこの数だと逃げ切れるのも難しいかもしれないが、布都を放っておくこともできず、
屠自古は両の手のひらに雷を出現させた。
その雷で包みこむように聖の一撃を受け止める。
信じられないほど重い拳、吹き飛ばされそうになるのを必死に受け止める。
が、押し負けた。
そのまま布都ごと床に倒れこんだ。
負けると、感覚的にわかった。
この魔法使いは強い。
少なくとも太子様と同等の力はある。
屠自古がとっさに選んだのは逃亡である。
布都の手を引いて、無理やりその場から脱出する。
「またんか。屠自古。いまからいいところじゃのに」
「だからあなたはお子様だというんです。現実を見なさいな」
思えば寺の中に入ったことがそもそもの間違いである。
布都をその場で止めておけば、少なくともこのようなことにはならなかったはず。
背後から何十ものの弾幕の嵐を避けつつ、屠自古は憂鬱を通り越して、笑いたい気分だった。
それから思ったのは、この始末……、
どう落とし前をつけるべきかである。
正直なところスペルカードも糞もなく、いきなり害意もなかった響子を害したのは過失ありとされてしまう可能性がある。
我々の論理をいくら述べたところで、幻想郷には幻想郷の理があり、ルールがある。
であれば、我々がもしかすると悪とされる可能性がある。
布都はそれがわかっていないからこそ一族を私に滅ぼされた。
と、屠自古は考える。
今もわかってないんじゃないかなーとチラリと様子をうかがうと、うーうー唸りながら牽制射撃をおこなっている。
ダメだこいつわかってねー。
まあそれはそれとして、今後の推移を予想すれば、神子のところを出て行ったといえ、屠自古も布都もいまだ神子の勢力だと思われていることは間違いなく、
そうすると、屠自古たちの過失は神子の過失ということになるだろう。
屠自古自身としてはいくらでも痛めつけられてもかまわないし、私刑と称して、ここで拷問にかけられたとしてもどうということもない。
しかし――、神子が辱められるのだけは避けなければならなかった。
すなわち、屠自古の考えは一点に集中される。
・・・・・・・・・
どのように負けるか。
寺の中は不必要なまでに入り組んでおり、まるでなにかの戦艦のようだ。
しかも広い。
見た目以上に広いように思われる。
何度目かになる角を曲がり、追手が後ろにいないことを確認してから、ようやく屠自古は一息ついた。
「はぁ。どうしてこうなった。どうしてこうなった」
「屠自古よ。逃げてばかりおっては邪悪は滅ぼせんぞ」
「ですから、それが間違いでしょうに、彼女たちから見れば私たちこそが邪悪そのものなんですよ。そしてここは彼女たちにとっての聖域。逃げ帰ることをまず第一とすべきです」
「うーむ。しかしのう。太子様は暗黙のうちに寺に忍びこみ、邪悪を打ち滅ぼすことを旨とせよとおっしゃられたような気がするのだが」
「気がするだけです!」
「そうかのう?」
「叱られますよ」
「え?」
「いまの状況をお知りになったら、太子様は我々のことをお叱りになりますわ」
「え?」
「え? じゃないっつってんの。おまえ何人だよ。日本人だろ。日本語しゃべれよ。ゴルァ」
「そういうふうに怒鳴るでない。こ、怖いではないか」
ちょっぴり震えて涙目になっている布都をみると、自分が悪いことをしているみたいでいたたまれない気分になってくる。
「はぁ。いいですの。ここから誰も傷つけることなくそして傷つけられることもなく脱出する。それから速やかに太子様に状況を報告。場合によっては寺への謝罪。そして、ようやく私たちは太子様の意に沿えますのよ」
「うーむ。本当かのう。いまいち納得できないのじゃが、特に寺のやつらに謝るというところとか」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねーよ。てめぇは」
「わかった。わかった。そう怒鳴るでない。こういうときのお主の言葉はたいてい後から正しいからの。我も従うようにする」
「よし。では、まず脱出です……わ」
「CQこちらナズーリン。標的を発見」
振り返るとナズーリンがいた。
ふたりの逃走劇は続く。
「さすがに厳しいですわね」
「なんだか追い込まれているような気がするのう」
「それはそうかもしれませんわね。やむを得ない。ここは壁のどこかを吹き飛ばしてでも脱出するしかないかもしれませんわね」
「うーむ。しかし、これだけ広いとどこが外に通じているかもわからんのう」
「確かにそうですわね。でも、ずっと続いているというわけでもないですから、空を目指していけばいいんじゃありませんこと?」
「名案じゃ」
「それはやめて欲しいんだけどなぁ」
「む。誰じゃ」
「誰って、ここの船長やってます。アー。ごほん。君たちは包囲されています。この部屋が角部屋だってこと気づいてた?」
「そういうこと。袋の鼠ってやつさ。鼠は私だけで十分なんだけどね」とナズーリンが廊下の向こう側から現れる。
まずいと思って、一瞬どちらかを打倒して逃げるべきかと考えたが、しかし、遅い。
ここはL字型の通路のちょうど真ん中あたりに位置している。
どちらを逃げるにしろ相当数の妖怪たちが控えているようであるし、包囲網が完成したのも本当のことなのだろう。
「しかし――、それは甘い」と屠自古は余裕の笑みをあえて浮かべた。
「え?」
「ここが角部屋だってことは、この壁の向こう側は外ってことでしょう?」
しかし、ムラサはおもむろに巨大なイカリを召喚すると、振りかぶって壁にたたきつけた。
壁には傷ひとつついていない。
「結界だ。私たちがどれだけ結界についての研究を続けてきたと思ってる? 聖が人間の卑劣な罠にはまって魔界に封印されてから、私たちは誰よりも結界についての研究を続けてきている。お前たちのような骨董じみた呪法など、私の船には傷ひとつつけることはできないわ」
「そうですの。では試してみて、もしも壊れてしまっても文句は言わないでください、ね?」
屠自古は手のひらの雷を収束する。
自分の中にある雷がもともとは憎悪や怨念の塊であることを知っている。
しかし、今の自分にもはやそういった感情的なものは一切ない。
長い年月の中で熟成されるワインのように、いまはただ純粋な力だけが内在している。
それ、が指向性をもたなければ、ちょっとの間対象をしびれさせる程度の力しかないことを知っている。
ほんのちょっと圧力を加えればどうだろう。
ほんのちょっと速度を与えればどうだろう。
試す時間はほとんど無限にあった。
ブォンという音がして、手のひらのなかを△にする。
見る人が見れば、即座にわかっただろう。
これはフレミングの形。
ピンと張った人差し指のその両側に不可視のレールが引かれた。
極マイクロメートルごとに形成されているマグネティックフィールドを通りぬけて、
物体は――あの時布都からいくらかかすめとった金属貨幣はもはや弾丸を超越する超絶加速を成し遂げる。
「貨幣を潰すのって罪になるのかしら……憂鬱だわ」
発射寸前のロケットのような光の奔流。
誰もが見入り、しかし一番早かったのはやはり船長だ。
自分の船が壊されるかもしれないという恐怖に。
「誰でもいい。早くあいつを止めろぉぉ!」
「はぁ……憂鬱」
音が置き去りにされた。
比喩でも、漫画的表現でも、あるいは感謝の一撃でもなんでもなく、
単純にその速度は音速と呼ばれるレベルをはるかに超えている。
壁は一瞬で熱膨張し、バターように赤白い断面をのぞかせながら溶解した。
「結界なんて、あなたの想いなんて、こんなもの」
「きさまッ!」
「布都。行きますわよ」
「あいからわず、やることがむちゃくちゃじゃのう」
「あなたにだけは言われたくありませんわ」
越えられるはずのない結界を超えて、茫然としている寺の者たちを放って、
屠自古は壁を超える。
ようやく外。
「な、なんですの。これは」
屠自古は絶句した。
確かにそこは外だった。
しかし――、浮いている。
ここは命蓮寺はひとつの巨大な船なのだ。
そして船を囲むように何重もの結界が周りをとりまいている。
「逃がしませんよ」
聖が悠然と、穴の淵に手をかけ、こちらを睨みつけていた。
「知らなかったのですか? 大魔法使いからは逃げられない」
「布都、あんたなんか考えなさいよ」
「うぐぐ、そうじゃのう。この船を覆っている結界なんじゃが、構成要素を見るにこれは変則系の多重結界のようじゃ。一つが変化すれば他方が変わる可能性が高い」
「そうよ」ムラサはひときわ大きな声をあげた。「ちょっと船を傷つけられたのは許せないけれど、絶対に絶対に絶……………ッ対に許せないけど、でも! 私たちの結界が破られたわけじゃない。この結界は九重にも重なっている。そして一つ一つが修復機能を持っている」
「あ、だめだこりゃオワタ」
屠自古は再び心が折れる音がした。
案外打たれ弱い性格なのだ。
7
さすがに猿ぐつわまではされていないが、
今現在、絶賛ロープでぐるぐる巻きにされて、部屋の薄暗いところに押しこめられている。
「ハハハ、簡単につかまってしまったのう」
「つかまってしまったのうじゃなーい! そもそもあんたが馬鹿正直につっこむからこんなことになるんでしょうが!」
「しかしのう。まさかこんなに戦力があるとは思わなかったのじゃ」
「アホ布都。バカ布都! 間抜け布都!」
「うう。さすがにそこまで言わんでもよいではないか」
「もう知りません。ハァ、これから私たちどうなるのかしら」
「どうもこうも、どうしようもないんじゃなかろうか」
「ハァ……どうしてこうなった」
「お困りのようですわね?」
あらぬ方向からの声に二人は顔を見合わせた。
床からぬっと顔を出したのは二人の見知った顔だった。
「あ、青娥」
「青娥さん、どうしてここがわかったんですの」
「そりゃあ、普段ローテーションが決まっているこの船が仰々しくも空中発進して、まるで戦時体制のように結界だらけになっているのを見れば、ねえ?」
「うむむ。さすがは仙人といったところかの。助かったわい」
「あー、ダメですよ?」
「は? 何がダメなんじゃ?」
「だから、ここで逃げ出したら事態がさらに悪化しちゃいますからねー。うふふ」
「そんなこと言ってる暇はなかろう。寺の邪悪なる妖怪どもは我らをこのままにしておくとは思えん」
「いや、青娥さんの言うとおりかもしれませんわ」
「なんでじゃ」
布都はいぶかしげな表情で屠自古を見た。
「だって、私たちは彼女たちの法を犯し、法にのっとりつかまったのだから、彼女たちの法にのっとって裁きを受けなくてはならないでしょう」
「いやじゃいやじゃ、そんなことになったら死んでしまう」
「死んでいるじゃありませんか。もとより」
「まあ、そうなんじゃが、なんだか負けたような気がして嫌じゃ」
「負けたじゃありませんの」
「まあ、そうなんじゃが……」
「じゃあ、そういうわけですから、しばらく監禁ライフを楽しんでくださいねー」
「あ、ちょっと待って青娥さん」
「ん、なんですか。屠自古さん」
「布都に教えた、え、え、エッチ売りの少女の件なんですけど」
「あー。それですか。やっぱりエッチ売りの少女よりも、赤ずきんちゃんエクスタシーとかのほうがよかったですかね」
「そういうことじゃないような気がしますわ……」
「んー? そうですか。ま、ともかく監禁とはいっても変態調教とかは無いと思いますからがんばって耐えてください。もしも長くなりそうでしたら差し入れくらいはいたします」
青娥は来たときと同じようにズブズブと床に溶けていった。
それからしばらく時間が経過したのち、青白い表情をしたムラサ船長がやってきた。
傍らには一輪とナズーリンがいる。
「出ろ」
それ以上のコミュニケーションは不要ということらしかった。
心象を悪化させてもいいことはないので、ひとまず言われたとおりに従うことにする。
暗い部屋から出た先は、わりと大きな部屋だった。
畳二十枚程度はあると思われる部屋に、巨大な台座が鎮座している。
こたつ――。
しかも寺にいる主要メンバーが一同に座れるような巨大なものである。
さすがに一輪やナズーリンそしてムラサといった者は部屋の隅で腕を組んで、睨みを聞かせていたが、
マミゾウ、星そして響子などはこたつの中ですっかりくつろいでいる。
響子は怪我もなさそうである。
「まあ座りなさいな」
さっきまでの鬼の形相がウソのように聖は優しげな顔をしていた。
「と、屠自古。これはまた巨大なこたつじゃ」
「騒がないの。失礼しますわ」
初めて足――というか例の大根のような先端部分を入れると、なるほど確かにこれは心地よい。
布都が一瞬で籠絡されるのもわかった気がした。
「さて、あなた方の処遇についてですが」
「謝罪します」
と、屠自古は間髪入れずに答えた。
「当然ですね」
「そちらの方、お名前を教えてくださらないかしら」
「幽谷響子といいます」
「幽谷さん。スペルカードに従わず、あなたを傷つけてしまい、大変申し訳なく思っております。ほら、布都も」
「う、うむ。その、すまなかったのぅ」
歯切れが悪い言い方ではあるが、ひとまず第一段階はクリアだ。
「あー。私大丈夫です。鍛えてますから!」
大きな声で響子は元気よく言った。
確かに怪我はたいしたことなかっただろうが、しかし、むしろこれは響子の心性によるものだろう。
屠自古は冷静に彼女を観察し、それから、これで一応最低限のところはクリアできたと安堵した。
屠自古と布都は響子に謝罪し、響子はそれを受け入れた。
つまり、当事者どうしの示談はなったのである。
「まあいいでしょう。響子はあなたがたのような無慈悲な者たちと違い、仏の心を知っている妖怪です。響子が慈悲をもって赦すというのであれば、私も否を唱えることはありません」
「でも、私は許さないけどね」
ムラサは壁の端から、こたつのところまでズカズカと歩いてきた。
ドスっという音をたてて座り、こたつの中には入らない。
「私の船を傷つけたやつを、私は絶対に許さない」
「もうしわけございませんでした」
「それに私たちの結界も馬鹿にしたな。いいか教えてやる。あの九重結界には私、一輪、雲山、マミゾウ、ぬえ、ナズーリン、星、響子、そして聖の特性を載せている。九人合わせての九重結界だ。それをたったひとりの亡霊に過ぎないおまえは馬鹿にした」
「申し訳ございませんでした。知らなかったのですわ」
「知らなかっただと。知らなかったで済むなら仏も神様もいらないわ!」
「確かにそうですわね。この世界には神も仏もございません。私のしたことを許すことができるとすれば、本当に仏のような心の持ち主なのでしょう」
「こ、こいつは」
屠自古の論理は明白だった。
仏であるならば許せる。
仏でないならば許せないだろう。
さて、あなたはどっち?
「仏敵という言葉がある。仏だからといって誰でも許していいわけじゃない。どうしようもない邪悪がいれば闘わなくてはならない」
「本当にそうですわね。そうでなければ、千年もどこかに封じられることになりかねませんし」
チラリと聖を見る屠自古。
「あなたの主はどうして人間を許したのでしょうね?」
「……ッ」
「船長、もう良いのですよ」
聖はここでもまた優しげな声をだした。
ふわっとした動作で頭をひとなで。
それだけでムラサは何も言えなくなってしまう。
「あなたの言葉は確かに受け取りました。そうですね。よいでしょう。あなたが言うとおり仏のような心をもってあなたがたがしたことを許します」
「聖!」
ムラサが声をあげるも、聖は手を挙げるだけでそれを制する。
「ところで、少しだけお聞きしたいのですがよろしいですか?」
「なんでしょうか?」
「いえ、たいしたことではないのですが、この件にあの方……神子さんはからんでいるの?」
「太子様は関係ありません。すべてわたくしどもの一存のもと行ったことですわ」
「そうですか……であれば、ひとつだけご提案がございます」
「なんでしょう?」
「あなたがたは仏の慈悲によって許された。そして許されることを望んでもいた。であれば、仏の慈悲にすがる以上、改宗をすべきではないでしょうか。もちろん強制するものではございませんが」
「そんなこと認めるわけないのじゃ!」
いままで黙っていた布都が絶叫に近い声をあげていた。
「われらは仏教を宿敵とみなし、いままで生きてきたのじゃぞ。それがそう簡単に改宗なんぞできるか」
「であれば」聖はにこやかに笑う。「あなたは仏の慈悲を拒絶するということになりますね」
「信じる者しか救わないセコイ神様拝むよりは、そこらの石ころでも拝んでいたほうがマシじゃ」
「仏様です」
「同じようなものじゃ!」
布都が言い合ってる間に、屠自古は持ち前の頭脳でいろいろと考えたが、
しかし、どうあっても分が悪い。
いっそ形だけでも改宗してしまって、あとからやっぱ合わなかったんで辞めますというのはどうだろうかと考えたりもした。
しかし、それでは太子様への純然たる裏切りに等しい。
そんなこと、認められるわけもない。
屠自古は鬱々とした目でふたりのやりとりを見ていたが、もはや一手一手。
これから先は精神的な蹂躙が待っている。
もはやそれを止めるすべもない。
いかような言い訳をしても、神子を害するように動くだろうし、そうであるならば、我らの改宗をもって手打ちとするほうが良いかと思われた。
――太子様お許しを
「待ってください」
その声は、屠自古のものではなかった。
その場にいる全員が障子を見ると、そこには晴れ晴れとした笑顔をした神子がいた。
「おや、まあ。邪悪の首魁が現れたようですよ。聖」
ムラサはこれまた良い餌がでてきたとでも言いたげな獰猛な笑顔を見せている。
屠自古は自分の目の前の光景が信じられず、また信じたくもなかった。
あの傲岸不遜にして絶対不可侵の神子が見事なまでの土下座をしているのだから。
「部下の不始末は私の不始末。どうか赦してほしい」
「彼女たちは自分たちが勝手にやったといってますが」
聖は感情を感じさせない声で言った。
「しかし、どんな行為も結局は為政者の責任だ。つまり、私の責任だ。屠自古や布都があなたたちを不当に傷つけたというのなら、それは結局、私の責任ということになる」
「それは屠自古さんの自由意思を奪っていることになりませんか?」
「そうは思わない。私には彼女が必要なのだし、彼女を失わないためならなんでもするだろう。あなたにはそういう人はいないのか?」
「いますよ……」聖は笑った。
それまでに見たどの笑顔とも違う笑みで、聖は微笑んでいる。
「私にとっては、ここにいるみなさんがそうです。私は私の家族が何か不始末を犯したとしても赦すでしょう。百回間違いを犯せば百回叱り、ご迷惑をかけた方たちに対して謝りにいくでしょう。あなたにとっては布都さんと屠自古さんがそうだというのですね」
「ああ……」
神子は言った。はっきり言った。
誰でもない君なんだ、と。
布都と屠自古がいたからこそ、これまでやってこれたのだと。
「気取った道士にしては、ずいぶんと泥臭いことを言うんですね。案外、私とあなたは似たものどうしなのかもしれません。信ずるものが違うだけで、結局は……。いえ、いいでしょう。彼女たちがあなたを信じるというのなら、仏様を無理やり信じさせるというのも仏の教えに背くことになります。私は私の教えに従って、宣言します。赦しますからさっさと出て行ってください」
「感謝する」
「感謝なんてされる覚えはありません。ですが、いい娘たちですね」
「ああ、私にはもったいないくらいだ!」
8
「太子さまぁ」
涙でぐちょぐちょになりながら抱き着く布都。
神子はちょっと困り顔で、しかし拒絶することはなかった。
「申し訳ございません。太子様の御手を煩わせることになってしまいました」
「たいしたことじゃないさ」
と神子は言う。
「もともと、私が悪かったのだからな。こころのことを優先させすぎて屠自古や布都のことを考えることを忘れていた。言わば、自業自得だ」
「太子様……」
「それに、先生にいろいろと教えられたからな」
「先生ですか?」
「ああ、まさしく先生としか呼べない方だったぞ。特に脅威なのは胸囲だ。あの圧倒的な物量の前では、小さな悩みなど吹き飛んでしまうかのようだった」
「よくわかりませんが……」
「まあそういうわけだ。なんというかな。私は為政者としてはまだまだなんだと思う」
「そんなことありませんわ」
「いや、これは本当に思ったことだ。屠自古、君は為政者として何が一番優先されるべきだと思う。政治的能力とか計算高さとか、そういったもろもろを剥いでいき、最後に一つだけ残すとしたら、何を一番に残すべきだと思う?」
「そうですね。優先順位でしょうか」
「ふむ。屠自古らしい答えだ。布都は?」
「こたつでしょうか」
「意味が不明だが、布都ならしょうがないな」
そう、布都ならしょうがない。
それはあくまで為政者としての一つの型に過ぎない。
いわば、素描であり、デザインであり、それもまた永遠に終わらない追求の中の一つの言葉に過ぎないだろう。
けれど神子はあえて言った。
「優しくありなさい」
9
「私もいるぞ? ってあれ?」
テリーマンではない。
緑色の瞳をした少女は周りに誰もいないことにいまさらながら気づき、
小首をかしげて九重の結界をやすやすと通り抜け、彼女を愛しているであろう姉のもとへ帰っていった。
「のう屠自古、この頃妙に冷えると思わんか」
布都は屠自古に話しかけた。
季節は冬。
言うまでもないが寒い。
さすがに尸解仙であっても寒いらしく、布都は小さな身体を小刻みに震わせている。
「あなた、そんなに足を出しているから寒いんじゃありませんの?」
と、屠自古。
布都は生足を惜しげもなくさらしており、外見だけで言えば、元気な小学生状態である。
ストッキングの類も履いていないとなれば足が冷えるのは当然だ。
「おぬしは足が無くていいのぉ」
「あなたがわたくしをこうしたくせに」
屠自古は釣り目気味の視線に避難の色を加えた。
「亡霊は寒くないのかの? もともと亡霊といったら夏が相場じゃしな」
「寒いに決まってます」
「足はどうなんじゃ」
「足も寒いのよ」
「無い足が寒いとはおかしいの」
「あんた喧嘩売ってんの? 買ってやんよ」
「自分を安売りするわけにはいかんな。太子様に叱られてしまう」
軽口をたたきながらも二人が到着した先は、廟の中にあっても、
現代的な……、今でいうところの居間である。
部屋の広さは畳十枚程度で、部屋のそこここにはタンスの類が置かれている。
良くも悪くも生活感のあふれる場所だった。
その部屋の中心に見慣れぬものが鎮座している。
四角い形をしたローテーブルと布団が合体したような物体である。
その布団に下半身だけをつっこんで、
神子、青娥、そしてなぜかこの前の異変の中心人物である秦こころがいた。
こころは一心不乱に、おせんべいにパクついている。
正直謎な光景であったが、一番の疑問は、その得体のしれない台座であった。
もしかすると宗教的な行為をしているのかもしれない。
「太子様、これはいったいなんなのです?」
見慣れる物体に、素直な疑問をぶつけたのは布都のほうが先だった。
「ふむ。これはな、『こたつ』というらしい」
「こたつ?」
「暖房器具の一つよ」
引き継いで言ったのは青娥だ。
「面妖な」
「世の中にはこたつむりという生物がいるらしい」と神子。「つまり、この『こたつ』というものはおそらく寄生生物であり、我々はその寄生される側となる」
「なんと恐ろしい」
布都は震えだす。
「冗談よ」と青娥。
「は?」
「この前知り合いになった河童に売ってもらったのだそうよ」
青娥は怪しく微笑んでいる。
「ふむ。なるほど……それにしても、そこな娘はなぜここにおるのです?」
「ん? ああ、こころのことか。ちょっと養子にしようと思ってな」
「なんですとおおお」
「冗談だ」
「は?」
「まあちょっとは本当にしたいかなーとは思ってるんだが、今回は寒空の中で行くあてもなくフラフラしていたからな。合法的に拉致してきた」
「あたたかい場所とおいしい食べ物をあげるから、ついてきなさいって言われた」
こころはせんべいをバリバリ食べながら言った。
果てしなく犯罪臭かった。
「それはそれとして、布都たちも入ったらどう?」
神子は優しげな声を出す。
布都と屠自古は微妙な表情になり顔を見合わせた。
「う、うむ。ちょっと怖いが失礼させてもらいます。む……、こ、これは……。ほんわりと柔らかく包まれ、冷え切っていた足がまたたく間に暖められていく。まるで母親に優しく抱かれた幼子のような気持ちにさせる。これは、これは、魔性のもの。人を堕落させる恐ろしき……はわぁぁ。たいひひゃまぁ。これらめれすぅ。しゅごくとろけちゃいまひゅう」
恍惚の表情。
「ちょ、ちょっと、布都。あなたばかりズルいんじゃなくて」
と、屠自古は布都の脇から手を入れて、ずるずるとこたつの中から引き出そうとする。
屠自古がそんなことをするわけも、もちろん理由があった。
神子が買ってきたこたつは、残念なことに小さかったのだ。
すなわち、角が四つしかないローテーブルでは必然的に使用可能人数は四人までとなる。
寒さも暑さも関係がない芳香は外で元気にフラフラしているだろうが、今現在の使用者は神子、青娥、こころの三人。
したがって、残る席はひとつしかない。
どうがんばっても一人はあぶれる計算になる。
「や、やめるのじゃ!」
こたつの縁に手をかけて、必死にしがみつこうとする布都。
屠自古のほうはほそっこい大根のような足を無理やりこたつの中に入れ込んで、布都を追い出そうとしている。
ここで他の三人のほうに行かないのは、やはり最初から占有していた者たちを追い出すのは気が引けたからである。
「先っちょ。先っちょだけだから」
「無理無理無理無理無理無理ッ~~~~~!」
布都は呼吸困難に陥った魚のようにこたつの中で暴れた。
屠自古は般若のような表情で同じく暴れまくる。
必然――、
こたつは神子が止める間もなくぶっ壊れた。
テーブルの脚は四つあるうちの二本が根本からぽっきりと折れ、テーブルの上に載っていたと思わしき、台の部分も尸解仙の馬鹿力のせいで半壊。
こたつとしての機能はまだかろうじて生きているものの、これでは使いようがない。
「なにをするきさまらー!」
いつもの余裕の表情もどこへやら怒号を発したのは神子であった。
こたつの外で場外格闘を繰り広げていた布都と屠自古も、さすがに動きを止めてシュンとなる。
「千四百年も生きているあなたたちが、こんな些細な欲望に負けるとは情けない」
「太子様、わたくし生きてません……ひっ」
ぼそりと屠自古が反論するも、神子の一睨みだけで、言葉を続けられなくなってしまう。
さすがは一国を取り仕切ってきただけのことはある。
そのカリスマはそんじょそこらの妖怪とは格が違う。
「私がせっかく買ってきたこたつを壊してしまって……、これじゃあ、こころがどこか行ってしまうではないか! 最初、こたつの中に入ったときにこころはなんと言ったと思う。『ここぽかぽかするー』だぞ。あまりのかわいらしさに私はめまいがした。それを……そんな聖域をきさまらが奪ったのだ」
「太子様。それはあまりにもご無体というもの。そもそも、千四百年も連れ添ってきたわれらを差し置いて、そこなポッと出の妖怪ごときを優先させるとは、あまりな仕打ちというものではないですか」
布都が涙目で反論した。
しかし、神子はとりあわない。
「政治の世界において、人を四つの象限に分けたとき、とりわけ使えぬのが『無能な働きモノ』。主が買ってきた宝をたった数分で壊すものなど『無能な働きモノ』に等しいと心せよ!」
「こころせよー」
せんべいをバリバリ食べながら、なぜかこころも便乗する。
「あんまりじゃ……」
ポタポタと畳の上に、水適が落ちた。
「太子様は、そこの小娘が同じことをしたとすれば、そこまで怒らなかったはずですわ。太子様の言い分は自分の都合を優先しており、それこそ欲望に支配された物言いだと愚考いたします」
屠自古はがっくりとうなだれる布都の肩に手を置きながら、滔々と説いた。
「黙りなさい! 自らの失態を棚にあげて、清純無垢なこころを引き合いに出すとは、もはや反論の余地なく下賤の極み。浅ましいことこの上ない!」
「下賤……わたくしが、下賤……」
「ねえねえ。今どんな気持ち? ねえ今どんな気持ち?」
余裕で屍体蹴りをかますこころ。
もちろん悪意などは一切なく、複雑極まる表情を自分のものにしたいという切実な想いからである。
屠自古もまた心がぽっきりと折れる音がした。
「でていきますわ」
屠自古は小さくつぶやくように言った。
神子は一瞬たじろいだが、しかしその言葉が本心からのものだと知り、ツイと顔を横に向けた。
「でていきたいのならでていきなさい。あなたの欲望を誰も止めはしない」
「ええ、でていきます。さようなら。ほら布都」
「うう、あんまりじゃ。あんまりじゃ」
屠自古は布都を抱きかかえるようにして退出した。
「あらあら、うふふ」
青娥は我関せずといった形で、嵐でも過ぎ去ったかのような部屋でただ一人幽雅に笑っている。
2
「神子さまー。ここ寒いよー」
こころが自分で自分の身体を抱くようにして言った。
今のところ廟にある暖房器具はこたつのみ。
尸解仙はもともと強靭な肉体を持ち、寒さにも強い。
妖怪であるこころも別に寒いからといって、それで命が危うくなるということはない。
ただ、尸解仙であっても妖怪であっても趣味的に暖かいところが好きなのだ。
「おお、よしよし。すまなかったな。そうだ。こうしよう。布団をここにひいて一緒に寝るというのはどうだ」
「神子さまー。それ何の表情?」
「幼気な娘の身体をあますところなく楽しみたいという下卑た表情かしら?」
青娥は軽やかに言った。
「んー。どういう意味?」
「まあそのままの意味なんですけれどね。ちょっとあなたには早すぎるかしら?」
「失礼な。私はそんな邪な考えは一切持っていないぞ」
神子は怒ったように言った。
「そうなんですか? まあその娘のことが大事なのはわかりますけれども、このあとどうなされるおつもりなんです?」
「どう、とは?」
「布都さんと屠自古さんのことですよ」
「出ていきたいというのなら止める必要はないだろう」
「しかし、このままでは寺との勢力争いで相当な劣勢になりますよ」
「う、うーむ」
「太子様にとって、お二方は両翼のようなものでしょう? 翼をもがれた鳥は飛翔できません」
「た、確かに私も言い過ぎた、かも、しれない」
「ねえねえ」
こころが神子のスカートの裾を引っ張った。
すわ何事と見てみると、両の手を頬のあたりに持って行って、
無表情のまま
「スマイルスマイル♪」
あざとかわいいこころである。
「ああ、天使がいる。天使さまが降臨されておりますよ。青娥さん」
「あらあら。もしかして、こころさんも仲直りしたほうがよいと思っているのかしら」
「うーん、こういうときはこぶしで語り合えばいいって誰かが言ってたような気がする」
「どこの戦闘民族ですか……」
「わからないことがあったら誰かに聞いてみたらいいってみんな言ってた。だからそういう人がたくさんいたほうがいいんじゃないかな」
「うふふ。私も人間はだーいすきですよ」
神子はその場から離れると、壁のハンガーラックにかけていたコートをさらりと羽織った。
「どこに行かれるんですか?」
「ちょっと、こたつの修理に行くだけだよ。べ、べつにふたりを探すわけじゃないんだからな」
「まあ、それはそれでありでしょうね。こころさんは私がキョンシーに」
「やめなさい」
「今のところはやめておきますね。芳香のほうが腐ってて可愛いですから」
「腐ると可愛いの?」とこころ。
「そうですねー。でも、鉛筆と鉛筆削りでどちらが攻めでどちらが受けなのかを考えだすようになったら、さすがに処分を考えますね」
「んん?」
「まあわからないことはわからないままにしておくのも一興です」
「わからないことは不快だ」
「お子様ね。そういえば、保護者様」
外行きの装備を整えた神子に青娥は声をかけた。
「ん?」
「そこでナチュラルに振り向くのもどうかと思いますが、まあ要はそういうことです。こころさんですがどうすればよろしいので?」
「こうなってはしかたない。こころが布団はいやだというのなら、こたつのある家に行ってもらうほかあるまい。断腸の思いであるが、確か博麗の巫女の家にもこたつはあったはず」
「霊夢も持ってるの?」
「ああ……」
「じゃあ霊夢のところに行くー」
「く、なぜだ。なぜこころはあんな貧乏巫女のほうがいいんだ」
「無味無色ですからね、何色にも染められる心配がないからそちらのほうがいいんでしょうね。私の色に染めてやると狙う気まんまんなところよりは……」
「むむ。そんなことは」
「ではお待ちしております」
反論が飛び出す前に青娥は優雅な礼をした。
「ああ、わかった。こころもこちらのこたつが治ったらまた来るといい」
「んー。わかった。これが日本の心、お・も・て・な・し」
「正解だ」
3
「店主。酒だ。酒をもってくるのじゃ」
「ちょっと、布都飲みすぎよ」
「いいんじゃ。自棄酒じゃ」
「自棄ってわかってるんなら、なおのことやめなさい。ていうかお金は持ってるの?」
「ふん。引きこもりの屠自古と違って我は『あくてぃぶ』だからの。太子様の肖像画の書かれた札を見せたら、銭と変えてくれよったわ」
袖のあたりからジャラジャラ音がして、見せてもらったのは穴の開いた銭である。
「それって……いや、別にいいわ」
「屠自古よぉ」
トロンとした目をした布都が肩を抱いてきた。
ビクっとして、顔が熱くなる。
屠自古も少しは呑んでいるが、それは寒さをしのぐためのもの。
酒精で顔が熱くなったわけではない。
「屠自古ぉ……」
「なによ」
「われらは、太子様にとってなんだったのだろうな」
「それは……」
「いうな。わかりきっておる。『こま』じゃ。我々はこまに過ぎなかったのじゃ」
「そんなのわかりきってるじゃない。私たちは太子様の部下なのよ。家族でもなければ血がつながってるわけでもない」
「だとすれば、なおのこと酷い」
「そうねぇ。さすがに今回のことは幻滅しましたわ。あの娘、秦こころは太子様が創ったお面が変化したものと聞いております。だとすれば、あの娘は太子様にとって実の娘のようなもの。大事にされるのはわかります。けれど――」
「太子様は優先順位を間違えられた」
「そういうことになりますわね」
自分の子どもを部下より優先させてしまう
これは上に立つ者としては劣悪の部類に入る。
「しかし、為政者にとって真に劣悪なのは守るべき民を忘れることにありますわ」
「何が言いたい」
「太子様はその点を間違えられたわけではない。わたくしたちは守るべき民ではないのですから」
「しかし、しかしじゃ……、それでも納得はできぬ。おぬしはだから我らは我慢すべきと言いたいのか。あれほどのことを言われて本当のこまのように唯唯諾諾と従えというのか」
「そうは言ってません。けれど、太子様がもしも誠心誠意謝るというのでしたら、私は許したいと思っていますの」
「屠自古は太子様に甘い」
「甘くて結構ですわ。そもそも何年間太子様につき従ってきたと思ってますの。あの方のいいところも悪いところもすべて見てきました。完璧な人間などいないように、いくら能力的に高くてもどこかには偏りがでるというのが人間の在り方です」
「聖人であっても偏りはでるか」
「それが無ければ、個性というものをまったくもたない道具と変わりません」
「屠自古はほんに太子様のことが好きなんじゃの」
「な、す、好きだなんて。違います。部下として身をもってお諫めしたかっただけよ」
「うぬぬ。沈んでおっただけのわしに比べて、屠自古はそこまで考えておったとは……、これは酒に逃げてはおれんな。店主。甘味をなにか」
「結局食べるのね」
「なにわしからのお礼じゃ。部下としてどうあるべきかを諭してくれたことへの、な……」
店主が持ってきてくれたのは、ぷるんとしていて黄色い何かだった。
「店主これはなんじゃ」
返ってきた答えはプリンとのこと。
よくわからなかった布都はとりあえず毒味のつもりで口にいれてみた。
瞬間、口の中に広がる味のハーモニー。
寒かろうが、暑かろうが、女の子は甘いものが大好きである。
「ヤバい。これヤバい。なんというまろやかさ。なんという恐るべき現代技術よ」
「ねえ布都」
「なんじゃ?」
「それわたくしにくれるんじゃありませんの?」
「はて、そんなこと言ったかの」
「言ったじゃありませんの」
「酒のせいですっかり忘れておるわ。ハハハ」
「てめえ。吐いた唾は呑み込めんぞ」
彼女たちが出禁になったのは五分後のことである。
4
人里はかなりの広さを誇る。
そして、妖怪たちに襲われる心配のない場所として、人間にとっての安全地帯である。
ここでは、人の流れも多い。
いくら、布都と屠自古が奇異な恰好をしているといっても、ここには妖怪もちらほらとおり、別に彼女たちだけが奇抜というわけではない。
結果、神子は彼女たちを探し切れていなかった。
そもそも人里に来たのも、おそらくそこが一番行きやすいと思われたからだ。
布都も屠自古も、そして神子もだが、基本的に妖怪があまり好きではない。
そして長く人の中で暮らしてきたという経験もある。
となれば、行くべきところは人里くらいしかないだろうという予測が立つ。
しかし、誤算だったのは人里の広さである。
通常、人口は一万人を割ると減少するほかないといわれている。
したがって、この里はかなり巨大だ。正確には集落が点在していることで大きな里を形成しているようであるが、おそらく全体の人口は三万人以上はいると思われる。
そんなところで砂粒のような立った二人を探すのはなかなか困難といえる。
目立つようなことをすればよいのだろうが、さすがに人里で騒ぎを起こすのはまずい。
「やれやれ困りましたね。昔住んでいた『ここのえ』もこれほどのにぎわいは見せておりませんでしたが」
ここのえ、というのは天子の住む都のことを言う。
昔は単純に人が少なかったというのもあるが、それ以上におそらくは商業的にも工業的にも未熟だったため、人を集中させる必要がそれほどなかったのだろう。
幻想郷は思った以上に、文化的水準が高い。
ここが隠れ里のような場所であり、外の世界とは別の文化を形成しているのは知っているが、それでもなお、千四百年の眠りは深かったのだと思わせる。
と、そこで、神子の横を数人の子どもたちが駆け抜けていった。
いつの時代も子どもが遊べる場があるということは、最高級の政治がおこなわれているといえる。
ここにたとえ政治的な機構がなくても、そういう無政府という政府があるのであって、弄る必要がないのかもしれない。
もちろん、神子は為政者だった経験から、そうではないと反論したい気持ちもあったが、しかし、子どもの前でそれを言うほど無粋ではない。
人里ではだからどこかの政治家のように演説ぶったことはない。
宗教家として、たまに人心を惑わす程度だ。
「お」
駆けていたうちのひとり、小さな女の子が転んだ。
神子は自然と近寄りながら膝を折り、その子を起こしてあげた。
泣いてはいなかった。
強い子だと思った。
「ありがとう」
礼を言い、その子は駆けていった。
視線を上にあげると、そこには長髪の奇抜な帽子をかぶった人間がいた。
いや、微妙に妖怪の気配もする。
女の子はその人物に抱きついた。
「ありがとうございます」
「いや、たいしたことではない。君は?」
「申し遅れました。私はここ人里で寺子屋の先生をやっております上白沢慧音と申す者です」
「あ、いや、ご丁寧に。私は豊聡耳神子」
「存じております」
にこりと柔らかく慧音は笑った。
「ところで太子様、このような卑賤の者が集う場へどうしてお越しになられたのです?」
「なにたいしたことではない。今と昔の差を噛みしめていたところです。まだこの世界の水準というものに慣れていませんからね」
「なるほど……」
慧音は実のところ、若干の警戒を抱いていたのである。
異変の中心人物であり、妖怪を敵であると宣言するもの。
それは幻想郷の秩序からすれば、かなりの異端的な意見であり、人里にとっても害になる恐れがあるものだった。
「要は歴史の移り変わりが知りたかったんですよ」
「なるほど、なるほど!」
ここで慧音は大きくうなずいた。
「太子様のおっしゃることよくわかりますよ。人の営みにとって歴史は欠かせませんからね!」
「う、うむ。そうですね」
ものすごい勢いで迫ってくる慧音に対し、神子は押され気味だった。
「先生は歴史に一家言あるとみえる」
「太子様、そのような……私はまだまだですよ」
明らかに嬉しそうな慧音であった。
「先生、私に教えてくれないだろうか?」
「なにをです?」
「この千と四百年の月日のなかで、最高の為政者とはどのような者を言うのか」
神子の真剣な様子に、慧音はいずまいをただした。
「ここではなんです。寺子屋のほうにご足労願えますか?」
否はなかった。
寺子屋には幾人もの生徒たちがいた。
なかには妖怪や妖精もいて、人間と席を同じくしている。
神子にとってはまだまだ異様な光景であったが、慧音の手前、正そうという気は起こらなかった。
慧音は自習を宣言し、奥の部屋へと神子を通す。
「汚いところで申し訳ございません」
「いえいえ、十分に綺麗ですよ。君のようにね」
「まあお上手ですね」
「べつに本当のことを言ってるだけなんですけどね……」
神子はふと視線を落とす。
落ち着くと、やはり今日の出来事が脳裏をよぎった。
屠自古と布都はともに生き、そしてともに死んだ仲である。
その二人を失ったことは、いまさらながら巨大な喪失感をもたらしていた。
激昂が収まり、静かな部屋の中にいるとなおさらそれが感じられた。
慧音の毛髪は澄んだ青い空のような色をしていて、神子は後悔という感情を生まれて初めて覚えたような気分になる。
「先生……」
言葉少なに神子は見つめる。
「ん。ああそうでしたね。太子様が目覚められるまでの千と有余年のなかで一番の為政とはなにかという話でしたか」
「そうです」
「とはいえ、釈迦に説法ともいえますね」
「釈迦ですか……」
仏教は対立すべき宗教であるので、神子はちょっとだけ眉をひそめる。
「あ、いや、河童に水泳を教えるようなものというか」
「なるほど……、いや、私にも迷いはあるのですよ。人間らしく、人間ですので」
「太子様は人間だったのですね」
「はあ。まあ私自身はそう思っておりますが」
「でしたら話は早いです」
「ふむん。というと?」
「妖怪には歴史はありませんからね。その者固有の歴史はあったとしても、連綿と続く歴史というものはないということです。それが妖怪の限界であり、人間の素晴らしいところです」
「ここは歴史から忘れさられた場所だと聞いておりますが」
「そうであっても、歴史は残っておりますよ。人間のそれは途切れることはございません」
「なるほど、先生がおっしゃるのならそうなのでしょうね」
「とはいえ、政治となると、私よりも太子様の方がお詳しいでしょう。私ができるのはあくまでこういう話があったといったような例示列挙にすぎません。なにかしらヒントになればよいといった具合のものです」
「お願いいたします」
「歴史的に言えば、為政者のタイプは二つに分けることができるかと思います。一つは火のようなタイプ。もう一つは水のようなタイプです」
火のようなタイプは己の政治的信念を達成するために、果断します。
すなわち、自らが動き、部下の模範となるように動きます。
部下は己の至らなさを自覚するわけですが、しかし一番上の者がやっていることを自分ができないとは言えません。
したがって、努力します。
そうすることで、上も下もともに努力するようになって、組織は力を蓄えていくわけです。
そうですね。この国で言えば、織田信長というものがそのタイプに分類されるでしょう。
他方、水のようなタイプは己をできうる限り小さくするタイプです。
このタイプは我欲とは無縁に、ただひたすら民へと奉仕します。
したがって、部下は上を尊敬し、のびのびと力を発揮することができるのです。
歴史的にはなかなか珍しいタイプなのですが、そうですね……例えば、太子様もそのように思われていたのですよ。
「そのような事は……」
「いえ、本当です。民のことをよく聞き、自らは決して表に出ない。それが水のような為政者ということです」
単に暗躍していただけとはいえない。
「しかし水のようなと言われても、具体的にどうすればいい。部下はそのまま放っておけば何かしら失敗をしてしまうと思う。そうしたときに水のような為政者は決して怒ったりはしないのだろう? では流されるままにあれというのか」
「そうではありませんよ。部下が何かしら失敗をしたのでしたら、上のものは間違いを正すまで待ってあげるのです」
「先生に言われて、なんとなくわかった気がするよ。為政者に必要なことは部下を信じることなのだな」
「そうです。ところで太子様はもしかしてご家来様と……」
「恥ずかしながら、ご想像のとおり。しかし、先生と話せてよかった。君のような人物は私の時代でも傑物と呼ばれただろう。時代が時代であればぜひ先生としてお呼びしたかったところだ」
「私には寺子屋の先生がお似合いですよ」
「美しいな。特にそのはちきれんばかりの胸が……」
「太子様、セクハラという言葉をご存知ですか?」
「いや、その、時代が違うのか横文字はよくわからないな。ハハ……」
それから神子は礼を言って、寺子屋を出た。
もはや迷いはなかった。
5
「それにしてもこれからどうするかのう」
ぶるりと身体をふるわせて、布都は屠自古に尋ねた。
「そんなの私に聞かないでくださいまし。尸解仙といっても人の身であることには変わりありません。あなたは何かを食べなければ生きていけないでしょう?」
「まあただの人間よりは飢えに強いと思うのじゃが……」
しかし、肉体を持つ以上、おのずと限界がある。
また、亡霊の屠自古も同じような境遇だ。
亡霊は実のところ人間と同じように物を食べる。
「寒いのう……ひもじいのう」
「あなたさっきからそればかりじゃありませんか。もう少し建設的な意見はだせませんの」
「とはいってものう……。あ、そういえば」
「なにか思いつきましたの」
「青娥がこれと同じような境遇の物語を言っておったの。もしかしたらなにかの参考になるかもしれん」
「ふうん。青娥さんが……。なにか嫌な予感がしますが、どういう話ですの」
「確か題名が『エッチ売りの少女』というものでな」
「……へえ」
「とある少女がな、冬の寒空の中、家族から言われて花を売るらしい。右や左の旦那様、エッチは要りませんか。エッチは要りませんかとな。おそらくエッチとは花の名前なのだろう。それでもなかなかエッチは売れない。しかたなく、少女は自らを温めるためにひとりでエッチを始めるらしい。動詞なのか名詞なのかよくわからんがの、そういうものらしいのじゃ。それでひとりでエッチをはじめると、そこには暖かな暖炉が広がり、少女はハァハァと息も荒く、手を伸ばす。しかしそれは幻なのじゃ。じきに消えてしまう。そこで少女はまたひとりエッチをする。擦るなのかするなのかはよくわからんがの。それで今度は見たこともないごちそうが目の前に広がり、またもや少女は恍惚の表情でそれらを見つめる。残念ながらそれもまた幻じゃ」
「……あの邪仙」
「ん。何か言ったかの」
「いいえ。なんでもありませんわ」
「そうか。そして最後は優しい男の買手が現れてな、無事にエッチを売ることができて万歳という話だそうじゃ」
「布都」
肩に手をおかれ、布都はきょとんしていた。
「なんじゃ?」
「いまの話、誰かにしました?」
「いや、屠自古が初めてじゃが」
「そう、誰にも話してはダメよ」
「しかしな。エッチ売りというのはどうやら元手がなくてもできるらしいからの。そこらの雑草でもひきぬいて『エッチは要りませんか』とでもいえば、心優しい旦那様が買ってくださると思うのじゃが」
ダメだこいつ、早くなんとかしないと。
「あのね、それは物語の話でしょうが、現実はそんなに甘くないわよ」
「そうか、残念じゃの。あ、そういえば」
「まだなにかあるの」
「我が履いていた下着を売るとすごく金になるらしいぞ。使用済みの中古の方が売れるとは面妖なこともあるのう」
手遅れかもしれない。
「エッチ売りも下着売りもダメったらダメです!」
「しかしこのままでは兵糧攻めにあってるようなものじゃ……、ん、そういえばよいことを思いついたぞ」
「そうですか。また下ネタじゃないことを祈ります」
「なんの話じゃ?」
「なんでもありません」
「そうか。これはズバリ言うと試練なのじゃ。太子様はおそらく我々が寺を打倒し、兵糧を奪ってこいと言外に仰せになったに違いない」
「どこをどう解釈したらそういう話になるのかまったくもって意味不明ですが、それでどうするというの?」
「今から寺のほうにかちこみに行き、うまいものを強奪する。ついでに火でもかければあったまれて一石二鳥じゃ。そうだ。そうするのじゃ。太子様もきっとほめてくださるに違いない」
「ちょ、ちょっとちょっと。布都」
布都は屠自古の制止もむなくし、勝手に寺の方に行こうとする。
しかし、寺の勢力はいまや有名どころだけども二桁に届きそうな勢い、たった二人でどうすることもできるはずもない。
「たのもう」
「バカ正直に真正面から行くなんて、あなたバカですの?」
「失礼な。正々堂々といった方が良いじゃろう。なに、妖怪変化など我の風水の前では物の数ではないわい」
「あ。こんにちわー」
ひときわ大きな声で答えたのは響子である。
特に害意らしい害意も感じられず、屠自古はひとまずほっとする。
「うむ。こんにちわ死ぬがよい」
「ちょ」
出会い頭に大皿の一撃。
さすがに構えてなかった響子では一たまりもない。
「きゅう」
憐れ響子は小さな声を出して気絶する。
「よし、一面クリアーじゃ。次に行くぞ」
「なんだか取り返しのつかないことになりそうな予感……」
しかし、もはや寺組の一人を瞬殺してしまったのだ。
あとに引けそうにはない。
屠自古は暗い顔をして、うきうきした様子の布都の後に続くのだった。
6
で、数分後。
屠自古と布都は囲まれていた。
さすがにあれだけ騒ぎを起こせば嫌でも知れようというものである。
「いやー、さすがに裏をかかれた感があるねぇ。ここまで来るといっそすがすがしいというか」
とナズーリン。
「なにかしら理由があるのではないでしょうか。もしかすると仏に助けを求めているのでは? であれば、我々は手を差し伸べなければなりません。それが野蛮な教えと仏の教えの違いなのですから」
と星が言えば、
「いや、このような仏の教えもわからぬような野蛮な輩、さっさと排除すべきです」
と一輪。
「聖の顔も三度までって言うしね。うん。またなんだすまない」
とムラサ。
「仏だけにほっとけーていうのは?」
「いやはやそれはさすがに審議不可じゃろう」
「おまえも正体不明にしてやろうか」
「私の鼠はそろそろチーズ以外も食べたいと言っているよ」
「飛べない船はただの船さ」
「だから、さっさと排除すべき」
「争え……もっと争えー♪」
「しかし、仏の教えを突き詰めると慈悲という言葉が立ち現れてきます。妖怪であっても人であってもそれは変わらない真実です」
「そんなことよりプレイステーションしようぜ」
「いい加減廊下の寒いところで話をするのはやめてほしいのう。老骨にはこたえるわい」
「鼠はチーズを食べるといわれがちだが、実際には肉の方が好物だったりするんだよね」
「仏の教えとはそもそも四苦からの解放を言うのです。妖怪であってもその苦しみから解放されるべきだと思いませんか」
「DSが許されるのは小学生までだよねー」
「カレーライスとは、カレーとライスの黄金の比! しかし福神漬けとはいったいうごごごごご……」
「大根だよ。船長。しかしよく見てみると、そこの御仁は大根のような足をしている」
「しかも皿もあるぞ。あれはよく見るとカレーライスにちょうど良い! わかったカレーだ。カレーの国からの使者なのだ」
「もう雲山りだ。違う、うんざりだ。見敵必殺。いいか。サーチ&デストロイだ」
「うぇるかむ、とぅ、でぃす、くれいじーたいむ♪」
『お静かに!』
ひときわ大きな声で響いたのは今まで黙していた聖の声だった。
一同はシンと静まり返った。
その声には、それだけの力があった。
「あなたがたに聞きます。無辜の民である響子を害したのはいったいどういう理由ですか」
いかなる遁辞も許さないと、その視線は告げていた。
「知れたこと。邪教に染まっている者も邪悪に決まっておる。我は我の正義をなしたにすぎぬ」
「思い上がりも甚だしい。あなた方が正義であり、我々が邪悪であるというのならそれもまたいいでしょう。しかし、私はその考え方に精一杯抵抗いたします」
「であるから、邪悪だというのだ。邪悪であるならば正義の前におとなしく屈服すればよい」
「もはや問答は無意味。誠に浅ましく、邪知暴虐なり! 南無三ッ!」
「ああもうどうしてこうなった」
とりあえずこの数だと逃げ切れるのも難しいかもしれないが、布都を放っておくこともできず、
屠自古は両の手のひらに雷を出現させた。
その雷で包みこむように聖の一撃を受け止める。
信じられないほど重い拳、吹き飛ばされそうになるのを必死に受け止める。
が、押し負けた。
そのまま布都ごと床に倒れこんだ。
負けると、感覚的にわかった。
この魔法使いは強い。
少なくとも太子様と同等の力はある。
屠自古がとっさに選んだのは逃亡である。
布都の手を引いて、無理やりその場から脱出する。
「またんか。屠自古。いまからいいところじゃのに」
「だからあなたはお子様だというんです。現実を見なさいな」
思えば寺の中に入ったことがそもそもの間違いである。
布都をその場で止めておけば、少なくともこのようなことにはならなかったはず。
背後から何十ものの弾幕の嵐を避けつつ、屠自古は憂鬱を通り越して、笑いたい気分だった。
それから思ったのは、この始末……、
どう落とし前をつけるべきかである。
正直なところスペルカードも糞もなく、いきなり害意もなかった響子を害したのは過失ありとされてしまう可能性がある。
我々の論理をいくら述べたところで、幻想郷には幻想郷の理があり、ルールがある。
であれば、我々がもしかすると悪とされる可能性がある。
布都はそれがわかっていないからこそ一族を私に滅ぼされた。
と、屠自古は考える。
今もわかってないんじゃないかなーとチラリと様子をうかがうと、うーうー唸りながら牽制射撃をおこなっている。
ダメだこいつわかってねー。
まあそれはそれとして、今後の推移を予想すれば、神子のところを出て行ったといえ、屠自古も布都もいまだ神子の勢力だと思われていることは間違いなく、
そうすると、屠自古たちの過失は神子の過失ということになるだろう。
屠自古自身としてはいくらでも痛めつけられてもかまわないし、私刑と称して、ここで拷問にかけられたとしてもどうということもない。
しかし――、神子が辱められるのだけは避けなければならなかった。
すなわち、屠自古の考えは一点に集中される。
・・・・・・・・・
どのように負けるか。
寺の中は不必要なまでに入り組んでおり、まるでなにかの戦艦のようだ。
しかも広い。
見た目以上に広いように思われる。
何度目かになる角を曲がり、追手が後ろにいないことを確認してから、ようやく屠自古は一息ついた。
「はぁ。どうしてこうなった。どうしてこうなった」
「屠自古よ。逃げてばかりおっては邪悪は滅ぼせんぞ」
「ですから、それが間違いでしょうに、彼女たちから見れば私たちこそが邪悪そのものなんですよ。そしてここは彼女たちにとっての聖域。逃げ帰ることをまず第一とすべきです」
「うーむ。しかしのう。太子様は暗黙のうちに寺に忍びこみ、邪悪を打ち滅ぼすことを旨とせよとおっしゃられたような気がするのだが」
「気がするだけです!」
「そうかのう?」
「叱られますよ」
「え?」
「いまの状況をお知りになったら、太子様は我々のことをお叱りになりますわ」
「え?」
「え? じゃないっつってんの。おまえ何人だよ。日本人だろ。日本語しゃべれよ。ゴルァ」
「そういうふうに怒鳴るでない。こ、怖いではないか」
ちょっぴり震えて涙目になっている布都をみると、自分が悪いことをしているみたいでいたたまれない気分になってくる。
「はぁ。いいですの。ここから誰も傷つけることなくそして傷つけられることもなく脱出する。それから速やかに太子様に状況を報告。場合によっては寺への謝罪。そして、ようやく私たちは太子様の意に沿えますのよ」
「うーむ。本当かのう。いまいち納得できないのじゃが、特に寺のやつらに謝るというところとか」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねーよ。てめぇは」
「わかった。わかった。そう怒鳴るでない。こういうときのお主の言葉はたいてい後から正しいからの。我も従うようにする」
「よし。では、まず脱出です……わ」
「CQこちらナズーリン。標的を発見」
振り返るとナズーリンがいた。
ふたりの逃走劇は続く。
「さすがに厳しいですわね」
「なんだか追い込まれているような気がするのう」
「それはそうかもしれませんわね。やむを得ない。ここは壁のどこかを吹き飛ばしてでも脱出するしかないかもしれませんわね」
「うーむ。しかし、これだけ広いとどこが外に通じているかもわからんのう」
「確かにそうですわね。でも、ずっと続いているというわけでもないですから、空を目指していけばいいんじゃありませんこと?」
「名案じゃ」
「それはやめて欲しいんだけどなぁ」
「む。誰じゃ」
「誰って、ここの船長やってます。アー。ごほん。君たちは包囲されています。この部屋が角部屋だってこと気づいてた?」
「そういうこと。袋の鼠ってやつさ。鼠は私だけで十分なんだけどね」とナズーリンが廊下の向こう側から現れる。
まずいと思って、一瞬どちらかを打倒して逃げるべきかと考えたが、しかし、遅い。
ここはL字型の通路のちょうど真ん中あたりに位置している。
どちらを逃げるにしろ相当数の妖怪たちが控えているようであるし、包囲網が完成したのも本当のことなのだろう。
「しかし――、それは甘い」と屠自古は余裕の笑みをあえて浮かべた。
「え?」
「ここが角部屋だってことは、この壁の向こう側は外ってことでしょう?」
しかし、ムラサはおもむろに巨大なイカリを召喚すると、振りかぶって壁にたたきつけた。
壁には傷ひとつついていない。
「結界だ。私たちがどれだけ結界についての研究を続けてきたと思ってる? 聖が人間の卑劣な罠にはまって魔界に封印されてから、私たちは誰よりも結界についての研究を続けてきている。お前たちのような骨董じみた呪法など、私の船には傷ひとつつけることはできないわ」
「そうですの。では試してみて、もしも壊れてしまっても文句は言わないでください、ね?」
屠自古は手のひらの雷を収束する。
自分の中にある雷がもともとは憎悪や怨念の塊であることを知っている。
しかし、今の自分にもはやそういった感情的なものは一切ない。
長い年月の中で熟成されるワインのように、いまはただ純粋な力だけが内在している。
それ、が指向性をもたなければ、ちょっとの間対象をしびれさせる程度の力しかないことを知っている。
ほんのちょっと圧力を加えればどうだろう。
ほんのちょっと速度を与えればどうだろう。
試す時間はほとんど無限にあった。
ブォンという音がして、手のひらのなかを△にする。
見る人が見れば、即座にわかっただろう。
これはフレミングの形。
ピンと張った人差し指のその両側に不可視のレールが引かれた。
極マイクロメートルごとに形成されているマグネティックフィールドを通りぬけて、
物体は――あの時布都からいくらかかすめとった金属貨幣はもはや弾丸を超越する超絶加速を成し遂げる。
「貨幣を潰すのって罪になるのかしら……憂鬱だわ」
発射寸前のロケットのような光の奔流。
誰もが見入り、しかし一番早かったのはやはり船長だ。
自分の船が壊されるかもしれないという恐怖に。
「誰でもいい。早くあいつを止めろぉぉ!」
「はぁ……憂鬱」
音が置き去りにされた。
比喩でも、漫画的表現でも、あるいは感謝の一撃でもなんでもなく、
単純にその速度は音速と呼ばれるレベルをはるかに超えている。
壁は一瞬で熱膨張し、バターように赤白い断面をのぞかせながら溶解した。
「結界なんて、あなたの想いなんて、こんなもの」
「きさまッ!」
「布都。行きますわよ」
「あいからわず、やることがむちゃくちゃじゃのう」
「あなたにだけは言われたくありませんわ」
越えられるはずのない結界を超えて、茫然としている寺の者たちを放って、
屠自古は壁を超える。
ようやく外。
「な、なんですの。これは」
屠自古は絶句した。
確かにそこは外だった。
しかし――、浮いている。
ここは命蓮寺はひとつの巨大な船なのだ。
そして船を囲むように何重もの結界が周りをとりまいている。
「逃がしませんよ」
聖が悠然と、穴の淵に手をかけ、こちらを睨みつけていた。
「知らなかったのですか? 大魔法使いからは逃げられない」
「布都、あんたなんか考えなさいよ」
「うぐぐ、そうじゃのう。この船を覆っている結界なんじゃが、構成要素を見るにこれは変則系の多重結界のようじゃ。一つが変化すれば他方が変わる可能性が高い」
「そうよ」ムラサはひときわ大きな声をあげた。「ちょっと船を傷つけられたのは許せないけれど、絶対に絶対に絶……………ッ対に許せないけど、でも! 私たちの結界が破られたわけじゃない。この結界は九重にも重なっている。そして一つ一つが修復機能を持っている」
「あ、だめだこりゃオワタ」
屠自古は再び心が折れる音がした。
案外打たれ弱い性格なのだ。
7
さすがに猿ぐつわまではされていないが、
今現在、絶賛ロープでぐるぐる巻きにされて、部屋の薄暗いところに押しこめられている。
「ハハハ、簡単につかまってしまったのう」
「つかまってしまったのうじゃなーい! そもそもあんたが馬鹿正直につっこむからこんなことになるんでしょうが!」
「しかしのう。まさかこんなに戦力があるとは思わなかったのじゃ」
「アホ布都。バカ布都! 間抜け布都!」
「うう。さすがにそこまで言わんでもよいではないか」
「もう知りません。ハァ、これから私たちどうなるのかしら」
「どうもこうも、どうしようもないんじゃなかろうか」
「ハァ……どうしてこうなった」
「お困りのようですわね?」
あらぬ方向からの声に二人は顔を見合わせた。
床からぬっと顔を出したのは二人の見知った顔だった。
「あ、青娥」
「青娥さん、どうしてここがわかったんですの」
「そりゃあ、普段ローテーションが決まっているこの船が仰々しくも空中発進して、まるで戦時体制のように結界だらけになっているのを見れば、ねえ?」
「うむむ。さすがは仙人といったところかの。助かったわい」
「あー、ダメですよ?」
「は? 何がダメなんじゃ?」
「だから、ここで逃げ出したら事態がさらに悪化しちゃいますからねー。うふふ」
「そんなこと言ってる暇はなかろう。寺の邪悪なる妖怪どもは我らをこのままにしておくとは思えん」
「いや、青娥さんの言うとおりかもしれませんわ」
「なんでじゃ」
布都はいぶかしげな表情で屠自古を見た。
「だって、私たちは彼女たちの法を犯し、法にのっとりつかまったのだから、彼女たちの法にのっとって裁きを受けなくてはならないでしょう」
「いやじゃいやじゃ、そんなことになったら死んでしまう」
「死んでいるじゃありませんか。もとより」
「まあ、そうなんじゃが、なんだか負けたような気がして嫌じゃ」
「負けたじゃありませんの」
「まあ、そうなんじゃが……」
「じゃあ、そういうわけですから、しばらく監禁ライフを楽しんでくださいねー」
「あ、ちょっと待って青娥さん」
「ん、なんですか。屠自古さん」
「布都に教えた、え、え、エッチ売りの少女の件なんですけど」
「あー。それですか。やっぱりエッチ売りの少女よりも、赤ずきんちゃんエクスタシーとかのほうがよかったですかね」
「そういうことじゃないような気がしますわ……」
「んー? そうですか。ま、ともかく監禁とはいっても変態調教とかは無いと思いますからがんばって耐えてください。もしも長くなりそうでしたら差し入れくらいはいたします」
青娥は来たときと同じようにズブズブと床に溶けていった。
それからしばらく時間が経過したのち、青白い表情をしたムラサ船長がやってきた。
傍らには一輪とナズーリンがいる。
「出ろ」
それ以上のコミュニケーションは不要ということらしかった。
心象を悪化させてもいいことはないので、ひとまず言われたとおりに従うことにする。
暗い部屋から出た先は、わりと大きな部屋だった。
畳二十枚程度はあると思われる部屋に、巨大な台座が鎮座している。
こたつ――。
しかも寺にいる主要メンバーが一同に座れるような巨大なものである。
さすがに一輪やナズーリンそしてムラサといった者は部屋の隅で腕を組んで、睨みを聞かせていたが、
マミゾウ、星そして響子などはこたつの中ですっかりくつろいでいる。
響子は怪我もなさそうである。
「まあ座りなさいな」
さっきまでの鬼の形相がウソのように聖は優しげな顔をしていた。
「と、屠自古。これはまた巨大なこたつじゃ」
「騒がないの。失礼しますわ」
初めて足――というか例の大根のような先端部分を入れると、なるほど確かにこれは心地よい。
布都が一瞬で籠絡されるのもわかった気がした。
「さて、あなた方の処遇についてですが」
「謝罪します」
と、屠自古は間髪入れずに答えた。
「当然ですね」
「そちらの方、お名前を教えてくださらないかしら」
「幽谷響子といいます」
「幽谷さん。スペルカードに従わず、あなたを傷つけてしまい、大変申し訳なく思っております。ほら、布都も」
「う、うむ。その、すまなかったのぅ」
歯切れが悪い言い方ではあるが、ひとまず第一段階はクリアだ。
「あー。私大丈夫です。鍛えてますから!」
大きな声で響子は元気よく言った。
確かに怪我はたいしたことなかっただろうが、しかし、むしろこれは響子の心性によるものだろう。
屠自古は冷静に彼女を観察し、それから、これで一応最低限のところはクリアできたと安堵した。
屠自古と布都は響子に謝罪し、響子はそれを受け入れた。
つまり、当事者どうしの示談はなったのである。
「まあいいでしょう。響子はあなたがたのような無慈悲な者たちと違い、仏の心を知っている妖怪です。響子が慈悲をもって赦すというのであれば、私も否を唱えることはありません」
「でも、私は許さないけどね」
ムラサは壁の端から、こたつのところまでズカズカと歩いてきた。
ドスっという音をたてて座り、こたつの中には入らない。
「私の船を傷つけたやつを、私は絶対に許さない」
「もうしわけございませんでした」
「それに私たちの結界も馬鹿にしたな。いいか教えてやる。あの九重結界には私、一輪、雲山、マミゾウ、ぬえ、ナズーリン、星、響子、そして聖の特性を載せている。九人合わせての九重結界だ。それをたったひとりの亡霊に過ぎないおまえは馬鹿にした」
「申し訳ございませんでした。知らなかったのですわ」
「知らなかっただと。知らなかったで済むなら仏も神様もいらないわ!」
「確かにそうですわね。この世界には神も仏もございません。私のしたことを許すことができるとすれば、本当に仏のような心の持ち主なのでしょう」
「こ、こいつは」
屠自古の論理は明白だった。
仏であるならば許せる。
仏でないならば許せないだろう。
さて、あなたはどっち?
「仏敵という言葉がある。仏だからといって誰でも許していいわけじゃない。どうしようもない邪悪がいれば闘わなくてはならない」
「本当にそうですわね。そうでなければ、千年もどこかに封じられることになりかねませんし」
チラリと聖を見る屠自古。
「あなたの主はどうして人間を許したのでしょうね?」
「……ッ」
「船長、もう良いのですよ」
聖はここでもまた優しげな声をだした。
ふわっとした動作で頭をひとなで。
それだけでムラサは何も言えなくなってしまう。
「あなたの言葉は確かに受け取りました。そうですね。よいでしょう。あなたが言うとおり仏のような心をもってあなたがたがしたことを許します」
「聖!」
ムラサが声をあげるも、聖は手を挙げるだけでそれを制する。
「ところで、少しだけお聞きしたいのですがよろしいですか?」
「なんでしょうか?」
「いえ、たいしたことではないのですが、この件にあの方……神子さんはからんでいるの?」
「太子様は関係ありません。すべてわたくしどもの一存のもと行ったことですわ」
「そうですか……であれば、ひとつだけご提案がございます」
「なんでしょう?」
「あなたがたは仏の慈悲によって許された。そして許されることを望んでもいた。であれば、仏の慈悲にすがる以上、改宗をすべきではないでしょうか。もちろん強制するものではございませんが」
「そんなこと認めるわけないのじゃ!」
いままで黙っていた布都が絶叫に近い声をあげていた。
「われらは仏教を宿敵とみなし、いままで生きてきたのじゃぞ。それがそう簡単に改宗なんぞできるか」
「であれば」聖はにこやかに笑う。「あなたは仏の慈悲を拒絶するということになりますね」
「信じる者しか救わないセコイ神様拝むよりは、そこらの石ころでも拝んでいたほうがマシじゃ」
「仏様です」
「同じようなものじゃ!」
布都が言い合ってる間に、屠自古は持ち前の頭脳でいろいろと考えたが、
しかし、どうあっても分が悪い。
いっそ形だけでも改宗してしまって、あとからやっぱ合わなかったんで辞めますというのはどうだろうかと考えたりもした。
しかし、それでは太子様への純然たる裏切りに等しい。
そんなこと、認められるわけもない。
屠自古は鬱々とした目でふたりのやりとりを見ていたが、もはや一手一手。
これから先は精神的な蹂躙が待っている。
もはやそれを止めるすべもない。
いかような言い訳をしても、神子を害するように動くだろうし、そうであるならば、我らの改宗をもって手打ちとするほうが良いかと思われた。
――太子様お許しを
「待ってください」
その声は、屠自古のものではなかった。
その場にいる全員が障子を見ると、そこには晴れ晴れとした笑顔をした神子がいた。
「おや、まあ。邪悪の首魁が現れたようですよ。聖」
ムラサはこれまた良い餌がでてきたとでも言いたげな獰猛な笑顔を見せている。
屠自古は自分の目の前の光景が信じられず、また信じたくもなかった。
あの傲岸不遜にして絶対不可侵の神子が見事なまでの土下座をしているのだから。
「部下の不始末は私の不始末。どうか赦してほしい」
「彼女たちは自分たちが勝手にやったといってますが」
聖は感情を感じさせない声で言った。
「しかし、どんな行為も結局は為政者の責任だ。つまり、私の責任だ。屠自古や布都があなたたちを不当に傷つけたというのなら、それは結局、私の責任ということになる」
「それは屠自古さんの自由意思を奪っていることになりませんか?」
「そうは思わない。私には彼女が必要なのだし、彼女を失わないためならなんでもするだろう。あなたにはそういう人はいないのか?」
「いますよ……」聖は笑った。
それまでに見たどの笑顔とも違う笑みで、聖は微笑んでいる。
「私にとっては、ここにいるみなさんがそうです。私は私の家族が何か不始末を犯したとしても赦すでしょう。百回間違いを犯せば百回叱り、ご迷惑をかけた方たちに対して謝りにいくでしょう。あなたにとっては布都さんと屠自古さんがそうだというのですね」
「ああ……」
神子は言った。はっきり言った。
誰でもない君なんだ、と。
布都と屠自古がいたからこそ、これまでやってこれたのだと。
「気取った道士にしては、ずいぶんと泥臭いことを言うんですね。案外、私とあなたは似たものどうしなのかもしれません。信ずるものが違うだけで、結局は……。いえ、いいでしょう。彼女たちがあなたを信じるというのなら、仏様を無理やり信じさせるというのも仏の教えに背くことになります。私は私の教えに従って、宣言します。赦しますからさっさと出て行ってください」
「感謝する」
「感謝なんてされる覚えはありません。ですが、いい娘たちですね」
「ああ、私にはもったいないくらいだ!」
8
「太子さまぁ」
涙でぐちょぐちょになりながら抱き着く布都。
神子はちょっと困り顔で、しかし拒絶することはなかった。
「申し訳ございません。太子様の御手を煩わせることになってしまいました」
「たいしたことじゃないさ」
と神子は言う。
「もともと、私が悪かったのだからな。こころのことを優先させすぎて屠自古や布都のことを考えることを忘れていた。言わば、自業自得だ」
「太子様……」
「それに、先生にいろいろと教えられたからな」
「先生ですか?」
「ああ、まさしく先生としか呼べない方だったぞ。特に脅威なのは胸囲だ。あの圧倒的な物量の前では、小さな悩みなど吹き飛んでしまうかのようだった」
「よくわかりませんが……」
「まあそういうわけだ。なんというかな。私は為政者としてはまだまだなんだと思う」
「そんなことありませんわ」
「いや、これは本当に思ったことだ。屠自古、君は為政者として何が一番優先されるべきだと思う。政治的能力とか計算高さとか、そういったもろもろを剥いでいき、最後に一つだけ残すとしたら、何を一番に残すべきだと思う?」
「そうですね。優先順位でしょうか」
「ふむ。屠自古らしい答えだ。布都は?」
「こたつでしょうか」
「意味が不明だが、布都ならしょうがないな」
そう、布都ならしょうがない。
それはあくまで為政者としての一つの型に過ぎない。
いわば、素描であり、デザインであり、それもまた永遠に終わらない追求の中の一つの言葉に過ぎないだろう。
けれど神子はあえて言った。
「優しくありなさい」
9
「私もいるぞ? ってあれ?」
テリーマンではない。
緑色の瞳をした少女は周りに誰もいないことにいまさらながら気づき、
小首をかしげて九重の結界をやすやすと通り抜け、彼女を愛しているであろう姉のもとへ帰っていった。
豪族3人組は他の主従と一味違う人間関係がありそうですね
夜分に乙
命蓮寺に二人が攻め込んだあたりから中途半端にシリアスになってしまい、その割りにテンポが急ぎ足すぎてあんまり楽しめませんでした。
いやそれは流石にまずいですよ太子様(笑)
良くも悪くも、急ぎ足でまとめられる範囲のほり下げ具合
良くも悪くも、急ぎ足でまとめられる範囲のテーマの絡ませ具合
もっと丁寧に書いたものがみてみたい作者さんだと思いました
会話もネタまみれにも関わらず、軽妙でテンポよく進むので読みやすかったです。