せめて、自分の子供だけは、賑やかな、明るい、美しい町で育てて大きくしたいという情から、女の人魚は、子供を陸おかの上に産み落そうとしたのであります
小川未明「赤い蝋燭と人魚」より
湖畔に生えた一本の木の横に、魔女が佇んでいた。ネグリジェのような服を着た、髪が紫色の魔法使いである。彼女の名はパチュリー・ノーレッジといった。
彼女は気だるそうな目でじっと湖を眺めている。しかし湖は濃い霧に包まれているので、彼女にはほとんど何も見えていないはずだ。
首に巻いた赤いマフラーをずらしてため息をつくと、それは白い息となって霧に紛れて消えた。
「さて、人魚はどの辺にいるのかしらね」
どこか呆れたような口調だ。ここまで霧が濃いとは思っていなかったのだろう。
魔女は人魚を探していた。彼女が住んでいる館のメイドから、この湖に人魚が住んでいることを聞いたのだが、どの辺りにいるのかはさっぱりだった。
「まあ人魚は中々出会えないと相場は決まってるし……索敵魔法でも」
「私に何か御用かしら?」
「むきゅ?!」
いきなり頭上から声が聞こえてきたので、思わず妙な悲鳴が漏れた。驚いたパチュリーはそのまますっころんで、あおむけの体制になってしまう。
あおむけの状態になったおかげで、彼女からも木の上に人魚が座っているのが見えた。青い髪に、フリルのついた緑色の着物を着ている。
倒れたままに、眉間にしわを寄せてパチュリーはぼやいた。
「……まさか人魚が木の上にいるとは思わなかったわ」
「巫女が空を飛ぶくらいなんだから、人魚が木に上っててもおかしくないでしょ?」
人魚は太い枝に膝の裏をひっかけ、逆さまになって宙ぶらりんになった。もっとも彼女の下半身は魚なので、膝という言葉が正しいかは微妙なところだ。
青い髪が風に揺られ、額が空気に晒されている。
パチュリーは彼女が自分の顔面に落下してこないか、少しだけ不安になったので、立ち上がることにした。服についた汚れを払いながら、魔女は名乗る。
「自己紹介がまだだったわね。私はパチュリー・ノーレッジよ」
彼女が自分の名を言うと、人魚は何か思い出したのか両手を胸の前で合わせた。
「前にメイドさんが異変での乱暴を謝りに来た時、言ってた人ね。そこの赤い館の居候だとか」
「……そうね。私のことは居候ではなく、魔法使いと覚えてもらいたいのだけれど」
居候と呼ばれて口がへの字になるも、純然たる事実なので否定はできない。
人魚は木から飛び降りて、空中で半回転して魔女の前にふわりと着地した。頭を軽く下げて、彼女も名乗り返す。
「私はわかさぎ姫と言います。それで、何の用かしら?」
前回の異変以来、人魚は魔女の住む紅魔館のメイドと、ちょくちょく会話する仲になっていた。その話の中で、パチュリーという居候は滅多に外に出ないと聞いていたので、何か特別な用事があるのではと、彼女は推測したのだ。
「お言葉に甘えて単刀直入に言わせてもらうと、あなたの血が欲しいのよ」
わかさぎ姫は着物の袖で口元を抑え、少し目を丸くした。
「へえ。魔女さんも吸血鬼だとは知らなかったわ」
「そうじゃないわよ……人魚の血は魔力的な価値がとても高いのよ」
「カボチャの馬車でも作りたいの?」
「その程度、貴方の血が無くても朝飯前よ。賢者の石の材料に必要なの」
材料といっても、媒体としたい石に振りかけるだけなんだけどね、と彼女は続ける。
紅魔館にはレミリアとフランドールという二人の吸血鬼姉妹が住んでいる。つい先日、香霖堂という古道具屋で手に入れたスプラッタ映画を見た際、レミリアが意外とグロテスクなものに弱いことが判明した。それをフランが煽り始め、やがては大ゲンカに発展してしまった。
仕方なくパチュリーが仲裁に入ったのだが、その過程で七つある賢者の石の内一つ(七曜の中で水をつかさどる石)が、偶発的に壊れてしまった。流石はありとあらゆるものを破壊する程度の能力である。
当然パチュリーは二人に気が済むまで折檻を加えたが、賢者の石は戻ってこない。仕方なく新たに生成することにしたのだった。
「勿論対価は払うわ。私のちからでできる範囲で、だけど」
「そうねぇ……」
彼女は顎に手を当てて考える。しばらく後、何かを思いついたのか、ポンと手を叩いた。
「あなたの持っている賢者の石をいただけないかしら?」
「え」
パチュリーが口元を引きつかせる。
賢者の石を生成するために、賢者の石を渡してしまっては本末転倒だ。それでは意味がない。
「私、珍しい石を集めるのが趣味なのよ。メイドさんに魔女さんが珍しい石を持ってるって聞いてて、前々から欲しいって思ってたの」
「うーん、それはちょっと……」
「今なら私の全財産をつけるわよ」
そう言って彼女は帯のあたりから、がま口財布を取り出す。
パチュリーとしてはいくらだったとしても賢者の石を譲る気はないが、一応金額を聞いてみた。
「ちなみに全財産っていくらくらい?」
「198円」
「いちきゅっぱじゃ譲れないわね……」
わかさぎ姫は残念そうに財布をしまった。
彼女はお金を稼ぐ術を持っていないので、基本的には拾った小銭しか持っていない。その上湖から出ることも無いので、お金を使う機会もない。行きもしない外国の通貨を持っているようなものだ。
「他の条件はないかしら? カボチャの馬車が欲しいなら作ってあげるし、今なら毒林檎をつけてあげてもいいけど」
「どっちも要らないなぁ……あ、そうだ。貴方は物知りなのよね」
「勿論。伊達に図書館に引き篭もっているわけではないわ」
自信満々にパチュリーは答える。あまり誇れるようなことでもないが、彼女は何故か得意げだった。
わかさぎ姫は真剣な表情で、胸の上で右手を握りしめた。
「私がどうして生まれたかを教えてほしいの」
……幻想郷において、どのようにして妖怪が生まれるかは、大きく二種類に分けられる。このような定義が元々存在しているわけではなく、この章における理解を円滑にするために、便宜上二種類あるとする。妖怪が外から流入したものを入れれば三種類だが、ここでのあくまで幻想郷での妖怪の発生についてなので、割愛しよう。
一つは自然発生。長年使用された道具に霊魂が宿ることによって生まれる付喪神などは、その典型例と呼べるだろう。化け狸や橋姫のように、獣や人から妖怪になった場合も、この一つ目の種類に含めるとする。
二つに妖怪が生殖行為を行って発生する場合。これは主に天狗や河童など、人間のように社会を形成している種類の妖怪に多く見られる。双子島に伝わる鬼の親子の伝承のように、妖怪が子を産んで育むのは、何も幻想郷に限った特殊なケースということではない。
しかし鬼は生殖行為で、化け狸は自然発生で、というように妖怪の種類ごとに、生まれる方法が決まっているとは限らない。例えば橋姫は一つ目のケースに該当するが、鬼というカテゴリに含まれる。また化け狸の親子の話も何ら珍しいことではない。
妖怪は非常に概念によっている生き物であるのだから、その性質も明確に区切られるものではないのだろう……
「つまり、よくわからないってことじゃない」
周りに聞こえない程度の大きさでそうぼやき、パチュリーは栗みたいな口をして重そうな本を閉じた。それをテーブルの上に積まれた本の山の頂上に置く。
あまり明るくない魔法灯に照らされた彼女の顔は、くっきりとした隈が出来ていて、不健康さが一段と増していた。
ぎしり、と椅子にもたれかかって宙を見上げと、背骨がぼきりとなる。ずっと同じ姿勢で本を読んでいたせいだろう。
頭上では空中をいくつもの本棚が、水族館の魚のようにゆっくりと漂っていた。魔法図書館ならではの光景である。天井ははるか高く、魔法灯の明かりすら届かず、奈落のような暗闇が見えるだけだ。
「それ、何の本だったの?」
パチュリーが顔を正面に戻すと、この館の主である吸血鬼、レミリア・スカーレットがいた。彼女は頬杖をついて、つまらなそうに本のページをめくっていた。
「あら。いつからいたの?」
「ずっとよ。パチェは本を読んでいるとき、いつもそうね」
レミリアが呆れ交じりにため息をついた。
彼女が本を読み始めると周りが見えなくなるのは、今に始まった話ではない。
「で、何読んでたのよ」
「幻想郷を作った賢者のまとめた資料よ」
「ふーん。あのスキマ妖怪が書いたのかしら」
「筆跡が男性だからその線は薄いと思うけど。まーあの胡散臭い妖怪が、昔は男だったとしても大して驚かないけど」
八雲紫は幻想縁起でも、収録される巻数によって見た目に関する記述が全く異なっていたりする。姿形は彼女にとって服装程度の意味しかないのだろう。そんな彼女なら、性別の境界を歪めて男性として生きるぐらい容易いはずだ。
「あんまり面白くなさそうね」
「実際面白くないわ。調べもののために読んでるだけだもの」
「へえ、調べものって?」
レミリアが身を乗り出すと、パチュリーは腕を組んで話し始めた。
賢者の石を作るために人魚の血を探しに行ったこと。対価として人魚に自分がどうやって生まれたかを調べてほしいと言われたこと。
「どうして生まれたか、なんて哲学的なことを聞かれて少し驚いたけど、彼女は自分の出自を知りたいだけみたいね。彼女、物心がついたころには、もうあの湖にいたみたい」
意外と自分がどうやって生まれたかを知っている妖怪は意外に少ない。常闇の妖怪や昆虫の女王なんかがその例だ。
ふうん、とレミリアは相槌をうった。彼女は目深に帽子をかぶっており、魔法灯の弱い光では表情を見ることはできない。
机に置かれた本を見てみると、タイトルは人魚や妖怪の出自に関するものばかりだった。
「で、成果は」
「三日三晩資料をあさってみたけど、さっぱりね」
できた隈をこすりながらパチュリーは答える。食事もろくにとってないのだろう。ただでさえ色白な肌が、今は青白く見える。
そのことに気付いたレミリアは眉をひそめた。この親友は何かに夢中になると、周りはおろか自分の体調すら目に入らなくなってしまうのだ。恐らく、食事も満足にとっていないのだろう。
「淡水の人魚、と触れ込んでいるからその辺も調べたんだけど、大して珍しいものでもないらしいわね」
わかさぎ姫の二つ名は淡水の人魚であるが、別に人魚は海だけに生息しているわけではない。
ドイツのライン川では昔からローレライと呼ばれる人魚の伝承がある。その声に魅了された漁師は船の舵を取り違え、水底に沈んでしまうという。
「出自を特定できる条件にはならないと」
そう言いながらレミリアが持っていた文庫本を横に置くと、パチュリーの興味がそちらに移る。
古びてはいるが、製本技術からして古文書の類ではないだろう。
「そういえばレミィの読んでたその本は何なの?」
「この机の上に置いてあった本さ。赤い蝋燭と人魚っていう童話ね」
レミリアが文庫本サイズのそれを、手に取ってひらひらと顔の前で振る。
赤い蝋燭と人魚は、大正十年に小川未明によって書かれた創作童話である。
「あれ……タイトルに聞き覚えはあるんだけど、どんな内容だったかしら」
「んーと、身籠った人魚が自分の子を、人間の町に産み落とすの。人間は優しくて、街は楽しい場所だと聞いていたから。ほどなくして子供の人魚は蝋燭屋の老夫婦に拾われて……」
パチュリーが話の途中で目を小さく見開いた。
「思い出した思い出した。その人魚の子供が蝋燭に赤い絵具で絵を描くと、蝋燭が飛ぶように売れ始めるのよね」
何だ覚えてるじゃないの、とレミリアはその小さな本を横に置いた。
「しかし本当に人魚関連の本なら何でもかき集めたのね。童話までなんて」
「集めたのは小悪魔だけどね。それに、童話に学術的価値が無いわけじゃないわ。当時の風俗を知るための良い資料よ……ま、これは創作童話だから、割と新しいものだけど」
ケホケホとせき込みながら、パチュリーはまた別の本のページをめくり始める。今度は中国の人魚の伝承を集めたものだ。
いつもより具合の悪そうな魔女を見て、吸血鬼は不安になった。
「……何時ぐらいからずっと、そうして調べているの?」
「さっきも三日三晩って言ったじゃない」
心はここにあらず、というように本から視線を逸らさないままにパチュリーは答える。
その様子にレミリアに不安を抱かせた。
「ちょっとは図書館以外の空気も吸ったほうがいいんじゃない?」
「んー、そーね」
「……いつまで図書館に缶詰してるつもりよ」
「んー」
「……少しは休憩したら?」
「んー」
「…………パチュリーの紫もやしー」
「んー」
イラッとした。
こっちが心配してやっても、この魔女の耳には全く届かない。新しい興味の対象である、あの人魚にお熱なのだ。
イラッとしたので、レミリアは指で小気味良いを鳴らした。
「咲夜」
「はっ、ここに」
まるでずっと前からそこにいたかのように、咲夜はレミリアの背後からすっと現れた。
別に指を鳴らしたからといって必ず現れるとも限らず、出現確率は五分くらいなのだが、今日は機嫌がいいのか一発で現れた。
そしてレミリアは堂々と命を下す。
「あなた、そろそろ人里に買出しに行くといっていたでしょう。この引きこもりを連れていきなさい。というわけよ、パチェ」
「んー?」
「失礼します、パチュリー様」
「んんん?! ちょっと、何すんのよ!」
咲夜は有無を言わさず、パチュリーを俵のように担ぎ上げた。
パチュリーは顔を真っ赤にしてじたばたと抵抗するが、弱った彼女にメイドの手を逃れるほどの力はない。というか常時それほどの力は無いが。
「それでは行ってまいります」
「それでは行ってらっしゃい。あ、お土産買ってきてね」
「ちょっとー! 離しなさい!」
「レミリア様のご命令ですので、申し訳ありませんが我慢してください」
咲夜は心底楽しそうな笑顔でそう答えるのだった。
時を止めて移動したのか、二人はその場からぱっといなくなってしまった。
冬が近づいてきていて肌寒い季節になったのにも関わらず、人里の熱気が衰えることはない。大通りでは八百屋が客を呼び込む声、追いかけっこをしている子供の声、寺小屋の前で世間話に花を咲かせる親御さんたちの声など、様々な音が入り乱れている。
そんな通りの真ん中を、メイド服とネリグジェのような服を着た二人が歩いている。明らかに周りから浮いているのだが、妙な服を着ている妖怪が闊歩していることなど日常茶飯事で、誰も気に留める様子はない。強いて言えば滅多に紅魔館を出ないパチュリーを珍しがっている人がいるくらいだろうか。
「ぐ……重い」
「日ごろから運動してないからですよ」
パチュリーのうめきに、咲夜は笑顔で答えた。散々買い物をした後なのか、二人は両手に荷物を抱えている。パチュリーの顔は青ざめていて、肩で息をしている。
とはいえ咲夜の持っている荷物の量は、軽く見積もってもパチュリーの倍ほどはある。そのせいか、魔女の方もメイドにもっと荷物を持てなどと言うことはできなかった。
「えーと、次は」
「ま、まだあるの……?」
げっそりとした表情でパチュリーが言うと、やはり咲夜は笑顔を崩さずに答える。
「あと一軒だけですよ。ご主人様へのお土産だけです。その程度でへばっていては、紅魔館の居候は務まりませんよ」
咲夜のよくわからない指摘に、パチュリーは「ああ……そう……」というような感じのもごもごとした呼吸を返すだけだった。
「にしても……お菓子買いすぎじゃない?」
パチュリーの指摘した通り、二人はやたらとお菓子屋を回った。一軒につき一品とかいう買い方だったので、全部合わせた量はそれほどでもないのだが。
「あくまで自分の作るお菓子の研究用ですので。今回は、助六さんというお菓子好きの町医者が、色々おいしいお店を教えてくれたんです」
「ああ……あの」
パチュリーがあの、と言ったのは彼がセクハラで有名なことからだ。彼の場合、女性に叱られたいからセクハラをする、という具合なのでさほど性質は悪くないのだが、それでも寺小屋のハクタクはかんかんだった。そのリアクションこそが助平な町医者を喜ばせるとも知らずに。
ちなみに咲夜は笑ったままナイフを突きつけたところ、その後一度もセクハラされることはなくなったという。
「まあえっちなおじいちゃんですからね。でも最近は産婆のトメさんに叱られてからは大人しくなったそうですよ」
「怒ると怖いらしいからなぁ……トメさん」
そんな感じでごちゃごちゃと話していると、ある店の前で咲夜は立ち止った。
「ここです、ここ」
大通りに面している割には古臭い店だった。くすんだ看板には、雑貨屋笠木と記されている。屋号は笠木で、店の内容は雑貨屋ということだ。
良くつぶれないな、この店。パチュリーはそんな感想を抱いた。
「すいませーん」
「どうぞご自由にご覧ください」
建物の奥から、しわがれたお爺さんの声が聞こえてくる。お言葉に甘えて、二人は陳列された商品を眺めた。
品は統一性が見られず、本当に雑貨屋という感じだった。壁時計や蓄音機などあまり幻想郷では見られない品もあり、雰囲気が香霖堂にとても似ている。
パチュリーはよく見ると明らかに中古品が混じっているのに目が留まり、質屋でも兼業しているのだろうかと推測した。
「パチュリー様の予想どおり、ここは質屋まがいのこともしてますよ」
咲夜は笑顔でパチュリーの考えていたことを言い当てた。彼女は呆れ交じりにため息を吐く。
「何で私の考えてることがわかるのよ……」
「こう長い間同じ屋根の下で暮らしていれば、そのくらい普通ですよ」
私は貴女の考えてることはさっぱりわからないけど、と口には出さすにパチュリーはつっこむ。真顔でつまらないボケをかましたり、かと思えば鋭い発言で周りをどきりとさせたりと、いまいち行動の予測がつかない。
案外レミリアなどは、その辺を気に入って従者として迎え入れたのかもしれない。
「何でも貧しい人に頼まれると、売値より高く買い取ってしまうんだとか。ここの店主、ちょっと優しすぎるんですよね」
「それじゃ商売成り立たないでしょうに」
「でもその分好かれてますから。皆良くここで買い物をしますよ。優しいと評判だから、人里ではふざけて笠木上人と呼んだりするんです」
「ふぅん……」
人里のような閉鎖的かつ排他的な場所では、信頼こそが最も重要なファクターである。詐称などの問題を引き起こせば、瞬く間に噂は広がり、ある種の村八分のような事態になるだろう。逆に信頼を獲得すれば、多少高くても客は付き合いがあるから、と言ってその店で買い物を続ける。
知ってやっているとしたら大したものだな、とパチュリーはちょっとスレた発想に行き着く。
「上人だなんて、恥ずかしいから止めてほしいんですけどね」
建物の奥から、店主と思わしき人物が現れた。
顔にはいくつものしわが刻まれていて、細くて優しげな目が印象的な、六十歳くらいの好々爺だ。身長はさほど高くなく、白髪が若干混じった髪はパッと見灰色にも見える。緑色の着物が、本人の柔らかそうな雰囲気を助長している。
「あら次郎さん、いいじゃないですか。この前調子に乗って買い物をしてしまったとき、荷物を預かってくれてありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそ頼っていただき、ありがとうございます」
頭を下げる咲夜に、店主は両手を振って謙遜する。
彼の名前は笠木次郎というらしい。
そんな雑貨屋の店主にパチュリーは疑問を抱く。腹の中に一物抱えていそうな微笑み方だ。特に理由もないのだが、何処か見覚えのあるその笑い方が妙に癪に障った。
「? 私の顔に何かついているでしょうか」
不思議そうな顔で店主は問う。自分がずっと彼の顔を睨みつけていたことに気づき、パチュリーはバツが悪くなった。
その場を取り繕うと口を開くと、図らずとも本音に近い質問をぶつけてしまった。
「あなたは、何故人に親切にしようとするの?」
つまりはそういうことだ。
パチュリーは魔法使いであり、何事にも対価が存在するという考え方が身についてしまっている。平たく言えば等価交換だ。
そうすると店主が無償の愛をもって周りに接している、などとは到底考えられないのである。何かしらの対価を彼も求めて行動してるはずだ。さっき言ったように、人里の信頼を勝ち取ることで商売を成り立たせている、というような。もしくは彼が他人に尽くすことでしか、己の存在意義を確認できない一種の精神疾患を抱えているだとか。
「人様とそう大差無いと思うんですがね……」
頭を掻きながら店主は答える。
そして手を下ろして、細い目を少しだけ開いて言葉を続けた。
「贖罪、のつもりかもしれませんね」
寂しそうな瞳で彼はそう答えた。
その眼を見て、パチュリーはさっきまでの自分を責めた。理由はわからないけど、この人には六十年以上の歴史があって、その中で様々なことがあったのだ。それに自分は気安く踏み入ってしまった。
彼女は紫色の長い髪を揺らして、頭を下げた。
「……変な質問をしてごめんなさい」
「いえいえ、私の方こそ妙なことを言って申し訳ありませんでした。それで、今日は何をお探しで?」
彼はぽんと手を叩いて、恐らく何千回と繰り返しているであろう台詞を口にした。
流石は商人である。その大きくはないが明るい声で、さっきまでの雰囲気を切り替かえた。
「お嬢様にお土産に買っていきたいんですが、丁度いいのありませんかね?」
「ああ、それなら……」
そう言いながら彼は店の奥の方に咲夜を案内する。二人は何かしらの商品を手に取ってについて話し始めた。
一方パチュリーはあるモノに目をとらわれた。
「これは……」
それは宝石だった。限りなく透明に近いブルー、とでも呼ぶべき色をしていた。大きさは親指の第一関節くらいまでで、透明で小さい箱に納められていた。しかし、宝石のくせに他の雑貨と同じように並べられて、ずいぶんと雑な扱いだった。
パチュリーは恐らくブルートパーズだろう、と推測する。
この宝石が彼女の目を引いた理由は、宝石の種類ではない。そこに込められた念のせいだ。呪われたルビーだとか、そういう都市伝説の品と同じような気配を持っていた。これを所持していると、滅びが訪れるだとか、そういう類の宝石だ。その気配たるや一般人でも気づくほどで、だからこそこの宝石は売れ残っているのだろう。それに気づかない店主は、あまり霊感がないのかもしれない。
しかし、こういう宝石こそ賢者の石の媒体としては相応しい。
彼女としては喉から手が出るほど欲しかったが、咲夜に頼みづらい理由がある。先ほど鈴奈庵で無理を言って、大量の本を借りてきたのだ。そこに加えて宝石を買ってほしい、とは口が裂けても言えない。
「さて、パチュリー様。そろそろ帰りましょうか」
「え。あ、うん」
言うなら今しかない。
そう思いパチュリーは咲夜の顔色を窺ったが、彼女はいつも通りの良く分からない笑顔を浮かべていた。
「どうなさいました?」
「いや、何でもないわ」
家に自分の財布はあるし、多少面倒だがまた今度自分で買いに来れば良い。わざわざここで咲夜にお金を建て替えてもらって、余計な借りを作る必要はないだろう。
あらかさまに嫌な瘴気を発しているあの状態では、誰かに買われることも無いはずだ。
「またお越しください」
店主がそう言ったのに対し、二人は振り向きながら頭を下げて帰路についた。
「そういえば、レミィのお土産には何を買ったの?」
「竹トンボです」
「……そう」
そんな下らないもの買って、怒られなければいいけど。
パチュリーはそう口の中で言葉を転がしながら、山の向こうで輝く夕日に目を細めた。
今日も湖には霧が立ち込めていた。そんな湖畔に立つ木の根元に、人魚と魔女は並んで座っている。
二人は、何やら楽しそうに話していた。
「賢者の石は完成という概念が存在しない代物なのよ。常に魔法使いは賢者の石という触媒の改良や最適化を考えているの。私は七曜につき一つずつ賢者の石を持っているけれど、いずれもどれもまだまだ弄び甲斐があるわ」
「じゃあ賢者の石を生成する、という言い方は正しくないのね。どちらかと言えば、鍛え上げるが正解かしら」
「その理解は間違ってないわ。材料を窯にぶち込んで煮込んだら完成、というものでもないし。RPGで言えば、レベルの上限が無いキャラを育成するようなものよ。酔狂な魔法使いは、道端の石ころから賢者の石を作り出したりするわ」
「成程……ある程度の妥協点はあっても、限界点はないと。完成がないとすると、賢者の石に明確な定義は存在しないのかしら」
「中々鋭いわね。結局のところ、賢者の石とは魔法使いが一番使っている触媒のことを言うの。だから石の形状をしてるとも限らなくて、人形や巻物を賢者の石と呼ぶ魔法使いもいるわ」
「ふむふむ。その辺の木の棒を拾って、それを魔法使いが賢者の石と言い張れば、それは賢者の石となると」
パチュリーはふふ、と笑ってから「極論そうなるわね」と肯定した。
彼女にとって、わかさぎ姫はとかく話しやすい相手だった。年中湖にいるせいか、パチュリーが何を話しても新鮮に感じるらしい。また知的好奇心も強く、魔女の話にぐいぐい食いついてくるのだ。
紅魔館にはお世辞にも人の話をゆっくり聞けるタイプの人間、または妖怪はいない。レミリアは自分に気ままで興味の対象がころころ変わるし、咲夜は何を考えているのかいまいちわからず、的外れな返事が多い。フランドールはじっとしていられずに体を動かしたがるし、美鈴は難しい話に興味がない。
同居人がそんなものだから、パチュリーはわかさぎ姫と話すのが楽しくて仕方ないのだ。
またパチュリーの小さくて早い聞き取りづらいボソボソとした喋り方も、わかさぎ姫にはあまり気にならないようだった。本人曰く、ろくろ首の友達は口元を隠したまま喋るし、狼女の友達はいつも早口だから、聞き取りづらい話し方には慣れているそうだ。
「やっぱり魔法って面白いわね」
気づけばパチュリーは、体調の良い日はいつもわかさぎ姫のところに来るようになっていた。
それは彼女のルーツを解き明かすには、彼女自身を知るところから始めるべきでは、という考えもあってのことだった。
「貴女にも魔法は使えるわよ」
「本当?!」
人魚は胸の前で両手を合わせて、瞳を輝かせて言った。
パチュリーは首を縦に振る。
「ええ。元々人魚の歌には魔力があるとも言うしね。種族的に魔法の素養が備わってるのよ。文献でしか見たことが無いけれど、青い髪の人魚の魔女もいたそうよ」
今日はその話をしようと思って来たのよ、と言いながらパチュリーは懐からマッチの箱を取り出す。
それを手渡しながら、「ちょっと火を起こしてみて」と言う。
「集中してね。貴女なら必ず成功するわ」
マッチを擦ると何が起こるかも分からないままに、人魚は箱から棒を取り出して構えた。
どんな魔法なのか楽しみだが、気持ちを落ち着けようと目を閉じて深呼吸をする。二、三度それを行ったあと、一気にマッチ棒で、箱の側面をこすった。
するとシュボ、という短い音とともに、火がともる。
「……ふむ」
「火はついたけど、何も起こらないんだけど……」
しばらく観察したのち、わかさぎ姫は残念そうにつぶやく。
パチュリーは微笑みながらゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、成功よ。実はそれ、マッチ棒じゃなくて、棒を墨で塗っただけのものなの」
彼女がわかさぎ姫の持っていた箱の方を取って、中からマッチ棒を出して同じように擦ってみるも、火はつかない。
その様子を見て、人魚はほう、と感嘆の息を漏らす。
「魔法っていうのは自己暗示の占めるウエイトも大きいの」
魔法使いと狂人は紙一重だ。自己暗示を高めるために、阿片などの薬物を使用している魔法使いもいるくらいだ。
人が出来ないことを、出来ると思い込める馬鹿にこそ魔法使いの素質がある。魔法が使えた少女が、大人になるに従い常識を身に着けていって、魔法が使えなくなるのも珍しい話ではない。
案外魔理沙なんかはそうなってしまうかも、と思うとパチュリーは少しだけ寂しくなった。
「へぇ……ほんとだ、火がつかない!」
わかさぎ姫は、興味深そうにマッチをもてあそぶ。火のつかないことを確認しては、顔を輝かせていた。
魔法が使えたことが嬉しいのだろう。パチュリーは自分が最初に魔法を使った時のことを思い出した。こんな初歩的な魔法が使えることが、楽しかった日々もあったのだと、懐かしい気分になった。
そう考えてから、自分はわかさぎ姫の出自の手掛かりを探して、こうして会いに来ていることを思い出した。
「そういえば、昔のことを思い出したりとかしてない?」
「うーん……」
彼女は首をひねる。彼女の出自の調査は、ほとんど袋小路に突入していた。いくつかの仮説は成り立っているが、どれも真実と断定するには今一つ材料が足りない。
最終手段として退行催眠を使ってみたものの、素直な性格が災いして、術がかかりすぎて前世に飛んでしまって、全く成果が出なかった。調子に乗って彼女の前世を巡っていたら、宇佐八幡宮信託事件で有名な和気広虫が出てきた際には、さしものパチュリーも驚いたものだ。
「そういえば私、ちょくちょく同じ夢を見るのよ」
「どんな夢?」
「よく分からないんだけど……ずっと暗闇が広がってて何も見えなくて、女の人の声がごめんなさい、ごめんなさいってずっと謝ってるの」
これは大きな手掛かりかもしれない、とパチュリーは考える。深層心理や自分の根幹を成す出来事が、夢となって表れることは多々あることだ。
この時点で魔女は、人魚の出自をある程度見当がつき始めていた。
早速図書館で、調べ物をしないと。
「ん?」
パチュリーがふと前方を見やると、霧に紛れて赤い点がぼんやり見える。それは段々と大きくなってきて、やがては人の形になる。
誰かと思えば、鈴蘭畑に住んでいるという毒と人形の妖怪、メディスン・メランコリーであった。
「珍しい子が来てるわね」
「メディスンさんのことね。良く湖に遊びに来てくれるのよ」
何でも自分と同じ臭いがするんだとか、と言ってわかさぎ姫は笑う。
同じ臭いとはどういうことだろうか。鈴蘭の香りがするのだろうか。
そんなことをパチュリーが考えていると、メディスンが殺気に満ち溢れていることに気づいた。
「姫ちゃん! その魔女から離れなさい!!」
「えっ」
――――譫妄「イントゥデリリウム」
カラフルな大玉が飛んできて、パチュリー達の近くで爆発し、紫色の霧が巻き起こる。
パチュリーが風を起こしてそれを吹き飛ばすと、わかさぎ姫が目をぐるぐる回して泡を吹いて倒れていた。彼女も妖怪だから、鈴蘭の毒程度で死ぬことも無いだろうが、それでもパチュリーは憤りを覚えた。
「ちょっと、あなたいきなり何をするのよ!」
「くッ……遅かったようね。姫ちゃんのカタキは私がとるわ!」
それはお前がやったんだろ、と突っ込む気すらパチュリーは起こらなかった。
「そこの悪い魔女! 私が相手になるわ!!」
そう言ってメディスンはスペルカードを取り出す。
パチュリーとしては毒霧を吸いたくないし、彼女と戦うには相性が悪いので、一応話し合いでの解決を求める。
「何で私が良い魔女とは思わないのかしら」
「変なメイドが魔女は人形を爆発させると言っていたからよ! そんなひどい奴が姫ちゃんを誑かそうとしているのを、ほっとけるわけないじゃない!」
明らかに人違いだった。
咲夜にも悪気はなかったのだろうが、余計なことを言ったせいで余計な誤解が生まれている。
わかさぎ姫に自分が悪者でないと説明してもらおうにも、彼女は気絶真っ最中である。叩き起こそうとも、立ちはだかるメディスンがそれを許してくれはしないはずだ。
この思い込みの激しいタイプには言葉では伝わらない。弾幕言語で説得するしかないだろう。
既に弾幕ごっこする気満々にスペルカードを構えたメディスンの名乗りの口上に、パチュリーも口上を吐き捨てる。
「私は癇癪持ちの毒薬、メディスン・メランコリー。悪い魔女は悪魔の館に帰りなさい!」
「……この七曜の魔女。一曜欠けて六曜になろうとも、人形ごときに負けはしないわ」
パチュリーの周りに水を抜かして、日月火木金土の賢者の石が展開される。
互いがスペルカードを切ると、まばゆい光が辺りを包み込んだ。
暗い廊下が消失点まで続いている。勿論そんなはずないのだが、咲夜の能力のおかげで、紅魔館は摩訶不思議空間になっている。妖精メイドが行方不明になるのも珍しくはない。
真っ赤な絨毯と壁を、蝋燭の形をした魔法灯がぼんやりと照らしていた。主人がすっかり丸くなったせいで、人里などからの館のイメージは改善したものの、依然として館には不気味な雰囲気が漂っている。
そんな廊下を、パチュリーはせき込みながら歩いていた。
「本当……無茶はするもんじゃないわね」
メディスンとの弾幕ごっこから既に何日か経っているのだが、その後遺症は未だに残っている。勝つには勝って、誤解も解くことが出来たが、健康という代償を支払わなければならなかった。
おかげさまでここ数日、パチュリーはずっと紅魔館に引き篭もる羽目になっている。
笠木屋の例の呪われた宝石も、まだ買いに行けていない。どうせ一般人であれに手を出そうとする好事家はいないだろうし、買うとしたら知り合いの魔女二人だ。もっとも魔理沙は実家がすぐ近くにあるのであの店自体に寄り付かないだろうし、アリスは言えばきちんと交渉に乗ってくれるので、心配は要らない。
今までならもっと早く回復できるのだろうが、水の賢者の石というファクターが欠けているせいで、いつもより治癒する速度が遅い。RPGなどでは回復魔法に、水属性が割り振られていることも多い。それが欠けているのだから、不健康っぷりが加速するのも当然のことと言える。
「この部屋ね」
彼女はある扉の前で立ち止まった。
この向こうにあるのはバルコニー付きの部屋で、パチュリーの探査魔法はここにレミリアがいることを示していた。
わかさぎ姫の出自の調査が、完全に行き詰ってしまったので、親友に相談しようと考えたのである。正確に言えば、いくつかの仮説は出来上がっている。しかしいずれも今一歩、何かしらのピースが欠けているのだ。
扉を開けようとすると、ぎい、と木のきしむ音がする。
部屋の中には、竹とんぼで遊ぶレミリアの姿があった。
「……何してんの」
「見ての通り、竹とんぼだけど」
部屋は意外と小さく、いくつかの家具と部屋の真ん中にテーブルがあるくらいである。バルコニーの方から日光が差し込んでいたが、彼女はそれを気にする素振りはない。パチュリーは「私にとって日の光は大敵ではない。大嫌いなだけだ」と彼女が言っていたことを思い出した。
レミリアは行儀悪くテーブルの上に座っており、いくつかある椅子の一つに咲夜が腰かけていて、編み物をしている。
「ほれ」
彼女が竹とんぼを飛ばすと、それは大きな弧を描いてパチュリーの前を通過し、やがて持ち主の元へ戻ってくる。
さながらブーメランのようである。微妙に物理法則を凌駕しているような芸当だ。
「手元に戻ってくるようにはなったんだけどね。今はコブラができるように練習中よ」
「……竹とんぼでそこまで遊べるのはあんたくらいのものよね」
ちなみにコブラとは、戦闘機が航空ショーなどで行う空戦機動のことである。進行方向と高度を変えずに機体を縦にして、その後水平に戻る。低速時での機動性が高い機体と、熟達したパイロットが揃ってはじめて可能となるアクロバットだ。
ため息をつきながらパチュリーが咲夜の反対側の椅子に腰をおろすと、テーブルの上に積まれた本が目に留まった。
それは明らかに魔法図書館から無断で持ち出されたものであったが、それ以上に目を惹いたのはそのラインナップだ。
「古今東西死体図鑑、世界の奇形児大全、夫を拷問する百の方法、初心者でも作れる人肉料理レシピ……こんな趣味の悪い本、何で持ってきたのよ」
竹とんぼに夢中な主人に代わり、咲夜が答える。
「こないだ、お嬢様と妹様がスプラッタ映画を見た後、喧嘩になったじゃないですか」
「忘れるわけないじゃない……」
ドスのきいたパチュリーの声に恐れをなしたのか、レミリアは口笛を吹いてごまかそうとする。それをパチュリーは無言で本のカドで小突いた。
賢者の石が壊れた発端になった事件なのだから、忘れられるはずもない。意外とグロに弱かったレミリアを、フランドールが煽りに煽って喧嘩になり、仲裁に入ったパチュリーの賢者の石が壊れたことは、先にも述べたとおりだ。
「これを機にグロ耐性を付けようと思い、小悪魔に頼んでグロい本を持ってきてもらったんですが……」
「小悪魔のセレクションが想像以上にえげつなかったと」
「そんなとこです」
様子から察するに、咲夜もお手上げレベルのものだったのだろう。
「ちゃんと返してよね」と言いながら、パチュリーは適当にその中の一つを手に取る。
パラパラとその本をめくっていると、彼女の眉間にしわが寄る。本はイラストつきで、いかに魔法の実験などでこういうものに慣れたパチュリーですら、顔をしかめるようなものだった。恐るべきは小悪魔の趣味のひどさか。
そして、とあるページを見た瞬間、パチュリーの動きが固まった。
「これって……」
無意識の内に手のひらで口元を覆う。
様々な単語が、パチュリーの頭蓋の中を錯綜する。
わかさぎ姫という名前、メディスンと似た臭い、暗闇で謝る女性の夢、誰かとダブる老人の笑み、石を集める理由、赤い蝋燭と人魚……
そして一つの絵が浮かび上がった。欠けていたパズルのピースが今、すべて揃ったのだ。
「咲夜」
「はい」
パチュリーは立ち上がってメイドの名を呼んだ。
まだ仮説だが、上手くいけばそこで確証が得られる。
「産婆のトメさんは、どの辺に住んでたかしら」
「確か中心地から少し離れた、命蓮寺のすぐ近くです。あとは寺にでも聞けば答えてくれるはずです」
「ちょっと出かけてくるわ!」
はやる気持ちを抑えきれないのか、パチュリーはバルコニーから直接外へ出ていった。
彼女を見送った後、残された二人は何も話さない。しばしの沈黙が流れる。
そして咲夜が口を開いた。
「運命を、操りましたか?」
「……嫌なこときくね、お前は。してないわよ」
レミリアは竹とんぼを小指だけで支えながら、ぶっきらぼうに答えた。
「元々私がこの能力を好きじゃないのを知っているだろう。つまらなくなるし」
口調が刺々しくなる。
レミリアは運命を操る程度の能力を持つが、本人としては余り自身の能力を使いたくないと考えている。なるべく運命を見ないようにして、サイコロを振るのが好きなのだ。
その答えに納得がいかなかったのか、顎に人差し指を当てながら、咲夜は少し考えた後、笑顔でえげつないことを言い出した。
「嫉妬ですか?」
レミリアの小指から、竹とんぼが落ちる。
完全に図星だったのだろう。
竹とんぼを拾って、椅子の上にどかりと座り込んだ。歯をむき出しにして口角を下げながら、バツの悪そうな顔で彼女は答えた。
「……まあ、半分くらい」
本当にこのメイドは何も考えてなさそうで良く他人を見ている。やはりこいつを自分の従者にして良かったな、とレミリア半分真面目に、半ばやけ気味に思った。
「お嬢様もかわいいですね」
口元を抑えながら、クスクスと笑う。レミリアは不機嫌そうに頬杖をついた。
運命を操らなかったのは、レミリアの微妙な心理によるものだ。
親友であるパチュリーがあの人魚にご執心だったのに、彼女は少し嫉妬していたのは事実だ。認めたくはないが、パチュリーを孤独から解き放ったのは自分だ、という傲慢な認識がそこには混じっている。
かといって運命を操って二人の仲を引き裂くのは、プライドが許さないし、そこまでするほどでもない。では運命を二人が仲良くするように弄ぶか、と言われればわざわざしてやる義理もない。それに何だか無粋な真似な気がする。
運命を操らない、という行動は何もしないという意味ではあるが、色んな感情が入り乱れての結果である。自分が嫉妬しているという感情に気づかないふりをするため、その選択から目を背けたと言うべきか。
「それでも、あの二人にはハッピーエンドを迎えてほしいと思ってるよ」
「意外と殊勝ですね。何故ですか?」
「そうね……」
少し言いよどみ、彼女は竹とんぼを手で弄ぶ。
「人魚が出る話は大抵バッドエンドだと思わない?」
「確かにハッピーエンドの話はあまり聞きませんね」
ディズニーのリトルマーメイドはその範疇でないかもしれないが、原作であるアンデルセン作の人魚姫は、恋は成就しないまま人魚は泡になって消えていってしまう。
人魚は美しいという話もあってか(勿論醜い種類の人魚も沢山いる)、恋物語が他の妖怪に比べれば非常に多い。しかし異種婚姻譚がそうなのだからかもしれないが、大抵は悲恋に終わる。
そもそも人魚は不幸や不吉の象徴である。美しいなどのイメージが先行するようになったのは、現代の創作物によるところが大きい。そんな人魚が登場人物として出てくる作品なら、バッドエンドに終わるのが自然かもしれない。
「母様がよく寝る前に色んな話を聞かせてくれたけど、人魚が出てくる話は全部すっきりしない結末だった。人魚が好きだった私は、それが気に入らなくてね」
「だから、あのパチュリー様とわかさぎ姫には……ということですね」
「ま、そんなところ」
レミリアは椅子から立ち上がり、バルコニーに出る。日光を気にもかげず、柵に手を乗せて人里の方角を見た。
彼女がこの前読んでいた、赤い蝋燭と人魚という童話は例に漏れずバッドエンドだった。
人間の元で育てられた人魚の子は、蝋燭に赤い絵を描き、それは飛ぶように売れた。育ての親である蝋燭屋の老夫婦と一緒に、幸せに暮らしていた。
しかしある日悪い行商人が現れ、老夫婦に人魚を売るように迫る。勿論断った老夫婦だったが、「昔から人魚は、不吉なものとしてある。今のうちに手許てもとから離さないと、きっと悪いことがある」などと言葉巧みに言いくるめ、彼らは結局人魚を売り飛ばしてしまう。
その後は人魚の娘が残した真っ赤な蝋燭による祟りの話になり、物語はバッドエンドで幕を降ろす。
「あれも、私が嫌いなお話だったな」
彼女は竹とんぼを両手でこすって飛ばした。
流石は身体能力の高い吸血鬼。竹とんぼは人里の方へ向かって、遠くへ遠くへ飛んでいく。
「二人の物語が、幸せな結末ならいいけど……」
小さくなっていく竹とんぼを眺めながら、彼女はそう独りごちた。
二人は並んでちゃぶ台の前で、座布団の上に正座していた。六畳半のさして広くもない部屋には、箪笥と折りたたまれた布団しか置いておらず、もの寂しげな様相を呈している。
パチュリーの口は真一文字に結ばれており、その表情から心境を読み取ることが出来なかった。
一方のわかさぎ姫は、きょろきょろと視線がせわしなく動いていて、落ち着きがない。彼女はこれから何の話をするのかもわからず、ここにいるのだ。
数刻前、パチュリーが湖に現れ、こう告げた。
『貴女の出自をこれから確かめに行くのだけれど、自分の耳で直接聞きたい? それとも後で私から聞きたい?』
わかさぎ姫は迷うことなく前者を選んだ。
すると魔女は魔法を使って、人魚に足を与えた。耳も普通の人間のものに擬態させている。
『声は奪わなくていいの?』
人魚姫の話にちなんで、彼女は魔女に冗談めかして聞いた。
『……それはいらないけど、代わりに午後12時までには元に戻るわ』
その後二人は人里の笠木屋という雑貨店に行き、話がしたいと店主に言った。すると彼は二人を家の中に案内した。
つまり彼女たちがいるこの部屋は、笠木屋の一角なのである。
「すいません。茶葉の位置を変えたのを忘れて、遅くなってしまいました」
「いえ。お気遣い痛み入ります」
笠木屋の店主が丸い盆にのせたお茶を持って、襖を開けて部屋に入る。パチュリーは小さく頭を下げ、遅れてわかさぎ姫もそれにならった。
彼が二人の向かいに座ると、パチュリーはこほんと咳をすると、話を始めた。
「申し遅れましたが私はパチュリーと言います。隣にいらっしゃるのはわかさぎ姫と言います」
わかさぎ姫はおどおどと頭を下げる。
店主も同じように「笠木次郎です」と名乗った。
自己紹介も程々に、パチュリーはいきなり突飛なことを言い始めた。
「単刀直入に申しあげましょう。この間、店主の顔を見たとき、私はピンと来ました。貴方は霊に憑りつかれています」
「な、なんと……」
非常にうさん臭い切り口だった。
これが現代社会なら奇人狂人扱いされるのだろうが、ここは幻想郷である。その程度なら日常茶飯事なのだ。笠木老人も特に疑う様子もない。
「ですが心配は要りません。貴方についた霊は、専門家である彼女、わかさぎ姫にお任せください」
「本当ですか!」
「えっ」
唐突に自分に話が回ってきて、わかさぎ姫は思わず間の抜けた声が出てしまった。
そんな彼女にパチュリーはひそひそと耳打ちする。
(いいからこっちに話を合わせて。これから彼にはあまり話したくないことを話してもらいたいから、そのための戦略よ)
事前に打ち合わせぐらいできただろうに。
しかしここでおどおどしても、話は前に進まない。すぐに腹をくくり、わかさぎ姫は咳払いをした。
「あ、あなたの霊は責任をもって私が祓いましょう」
ただし嘘をつくのは下手だった。言葉はつっかえるし、声は少し震えている。
パチュリーは横で面白いんだかひやひやしているんだかわからない表情をしていた。
それでも人を疑わない店主は、信じたのか「ありがとうございます」と頭を下げる。
「これから話すことに、嘘偽りなくお答えください。それだけで霊を祓うことが出来ます」
パチュリーは素知らぬ顔ですらすらと嘘を述べる。
しかし話すだけで霊が落ちるのは流石に疑わしかったのか、笠木老人は首をひねる。
「今までそのような除霊方法は聞いたことがないのですが……」
「霊を落とすというのは語弊がありましたね。正確に言えば、貴方の憑き物を落とすんです。何よりもあのことを気に病んでるのは、貴方自身なのですから」
彼は痛いところをつかれたのか、黙り込んでしまう。わかさぎ姫には何を言っているのかさっぱりだった。
パチュリーはお茶をすすってから、湯呑をちゃぶ台の上に置いた。
「貴方が気に病んでいるのは、ある赤子のことですね?」
「………………はい」
しばしの沈黙の後、彼はしわがれた声で首肯した。
この時点で、わかさぎ姫はある程度の察しがついてしまった。
まず人里に正体を確かめに来た時点で、自分が元々人間であった公算が高い。そしてそこから一番考えやすいストーリーはこうだ。
自分はかつて人間であり、そこから妖怪になった。そして今の話からするに、死んだ赤子が妖怪化したのがわかさぎ姫である。こう考えるのが自然だ。
(そうすると、この人が私の父親なのかもしれない)
わかさぎ姫はそのように推測した。
しかし話はそれだけでは終わらない。
「この里において、赤ん坊の間引きはさして珍しいことではありません」
急に赤ん坊や小さい子供が消えても、近所の人は「ああ、そうなってしまったか」と思う程度である。無論表立って言うことではないし、隠すべきことであるが、誰もその家を責めるような真似はしない。
幻想郷では貨幣経済が浸透しているのだから、貧富の差は自然と生まれやすい。また閉鎖的な環境であるが故、凶作などになったときに他の地域からの支援など望むべくもない。
それでも人里がもっているのは、結界の管理者である妖怪の手助けや、彼らが信心深いために豊穣の神がきちんと手助けしてくれるからだろう。
しかし神や妖怪の賢者も万能ではなく、ましてや完璧に人里をコントロールできるわけでもない。そうしてしまったら、幻想郷は完全にディストピアと化してしまう。
幻想郷の仕組みは適度に大ざっぱであり、それが故に古き良き楽園たりえているのだ。
「確か、貴方の生まれた年も凶作だったはずです。そういうときに一番あおりを食らうのは、農業を専業している人ではありません」
「……うちのような、娯楽品を多く扱う店ですね」
目の前にいるこの少女たちには、もう全てわかっているのだろうと、彼は呆らめて口を開く。
しかしわかさぎ姫はあれ、と思った。この老人が自分の父親であるなら、つじつまが合わない。
「そんな時期に赤子が生まれてしまっては、育て上げることは難しい」
パチュリーは、はっきりした口調で伝えた。
「ましてや――――双子が生まれてしまっては」
事実を告げられ、店主は手元に視線を移す。
そのあとゆっくりと口を開く。
「……その通りです。私には、姉がいたんです」
わかさぎ姫は自分が少しずれた推理をしていることに気が付いた。
(この人は、私の双子の弟なんだ)
彼女は自らの弟の姿を見る。
肌に刻まれた深いしわ。白髪が混じって灰色に見える髪。
外見だけで判断すれば、はるかに年上である彼が、自分の弟なのだと思うと妙な気分だった。二人が並んだとしても、流石に姉弟であるとは誰も思わないだろう。
しかし彼と彼女は似ている部分もある。嘘をつくことが出来ず、他人の話をうのみにしてしまうのはそっくりだ。笠木老人もまた、わかさぎ姫と同様虫も殺せない人物として評されている。他にも笑い方なんかもよく似ている。
世代はおろか、種族すら違う。
それでも肉親がこの世界に、今目の前にいるという事実は、彼女の中に何かこみ上げるものを生じさせた。
「いつ双子の姉の存在を知ったのですか?」
「私の名前は笠木次郎です。次郎なのに私には姉も兄もいない。漠然と不思議に思っていたのですが、寺小屋を卒業する少し前、その疑問を母親にぶつけました」
すると彼の母親は夫を呼び、家族三人でその話をした。両親は全てを包み隠さず話してくれた。
彼がその事実を受け止められる年齢になったからだろう。また、隠し通すより話すことによって救われたいという気持ちが、何処かにあったのかもしれない。
「母は最後まで反対していたそうですが、父に諭されて……姉を川に流したそうです。ごめんなさい、ごめんなさい、と泣いて謝りながら」
「……」
パチュリーには容易に想像がついた。
他人にばれないように、月の明かりだけが照らす夜、川に愛しい我が子を流す母親の姿が。嗚咽を漏らしながら、謝ることしか出来なかったのだろう。川に流された娘の姿が見えなくなっても、そこに倒れ伏したまましばらく動けず泣き続けたのだろう。
暗闇で泣きながら謝る女性の夢、というのはこのことだったのだ。
またメディスンがわかさぎ姫に似た臭いを感じ取っていたのにも合点がいく。その臭いは、メディスンの住む無名の丘の臭いだ。
無名の丘という呼称は、まだ名付け前の名無しの幼子を、鈴蘭の毒気で安楽死させて間引きに来る場所だったことに因んでいる。ひょっとしたらメディスン自体も、水子の霊が人形に憑依し、やがて妖怪として昇華したものかもしれない。わかさぎ姫自体元々水子だったのだから、似た臭いを感じ取るのも当然だ。
「両親は姉を殺めてしまったことを、ずっと気に病んでいました」
「それは貴方も……」
わかさぎ姫がそう言うと、弟である彼は寂しそうに笑って言う。
「ええ……そうですね。こんな私じゃなくて、姉が生きていればと思いながら、ここまで生きてしまいました」
彼は手の中の湯呑をじっと見つめた。
ここからはパチュリーの推測だが、わかさぎ姫の石を集める趣味は自らが捨て子であることに端を発しているのではないだろうか。
賽の河原の石積みという言葉がある。親より先に死んだ子供は、三途の川の河原で石積みの塔を作らなければならない。彼女は最初、本能的に石を積んでいた。それが時を経て理性を身に着けていくうちに、石を積む理由が分からなくなり、やがて石を集めるという趣味だけが残ったのではないだろうか。
もっとも三途の川でそうしなければならなくても、現世で妖怪と化した彼女がそれを行わねばならない理由はない。ただし妖怪は概念に近い生き物であり、自分を表す象徴的な行動を本能として行うことは多々ある。
またわかさぎ姫という名前も、笠木という苗字から来ているのかもしれない。もしかすると姫だとか、それに近い名前が付けられていた可能性もある。
とはいえやはり、これらはパチュリーの推測であり、何の関係性もない場合もある。
「ん……?」
他の二人には聞こえないぐらいの声で、わかさぎ姫はつぶやく。
自分が捨て子であり、この人の姉であったことはわかった。しかし自分は何故人魚なのだろうか。
捨て子がこの世に具現化したなら、それは水子にしかならない。何故人魚なのか。それはパチュリーがずっと思い悩んだ、最後の一ピースであった。
「それと、笠木さん。まだ話していないことがありますね」
パチュリーが産婆に会ってまで確認したのはそのことだ。
わかさぎ姫がふっと面を上げて彼の顔を見ると、ため息をついて苦笑していた。
「双子が生まれたとして、何故貴方の方を生かしたのでしょうか。家を継がせるためには男の子が必要ですが、彼らは家を継がせたいと考えたのでしょうか」
「……本当に、何もかもお見通しなんですね」
勿論、間引くなら女の子の方を選ぶのが普通だ。それはパチュリーもわかっている。
しかし彼女は、彼の両親がわかさぎ姫の方を流した決定的な理由があるのを知っていた。
「――――奇形児だったんです、姉は」
思わずわかさぎ姫は口元を両手で押さえた。息が詰まる。
パチュリーは目を閉じて唇を噛んだ。
店主も、苦しそうに言葉を続ける。
「二本あるはずの足が、一つになっていたんです」
「人魚症候群、と呼ばれているものですね」
わかさぎ姫が人魚なのは、そういう理由からだった。
人魚症候群とは、奇形児の中でも、二本の足が一本に結合して生まれた赤子のことを言う。名前の通り、その姿は人魚に似ている。
多くの場合、内臓やその他器官が複雑に絡み合ったりして、中でぐちゃぐちゃになっているので、あまり長く生きられない。
「……姉の方が間引かれたのは、当然の話ですよね」
暗いトーンで、わかさぎ姫が話す。うつむいていて、パチュリーは彼女がどんな表情をしているのかわからなかった。
二人も子供を育てる余裕がなく、しかも片方が不吉の象徴である人魚の形をした子供だったなら、どちらを育てようと思うかは自明の理かもしれない。
恐らく、母親は彼女を捨てる際に、こう思っていたのではないだろうか。いっそ本当の人魚に生まれ変わって欲しい、と。そうして幸せに生きてほしいと。
その祈りを強く受けた水子は、わかさぎ姫という人魚として生まれ変わったのだ。
「ずっと思っていたんです。何故私は健康に生きてきて、姉はそんな結末を迎えなければなかったのか。ひょっとして、私は姉に不幸を全部押し付けて……のうのうと生きているんじゃないかと」
老人の肩は震えていた。何十年間も抱えてきた思いなのだろう。
彼が以前、パチュリーに人に親切をする理由を贖罪と答えたのは、その罪悪感からだろう。彼には義務感というか、強迫観念があったのだ。姉の分の人生も、自分は背負って生きねばならないと。彼の人生は、人に親切にすることで、ようやく生きることを許される。そういうものだったのだろう。
わかさぎ姫は、そんな彼の姿など見たくはなかった。自分のことなど気にせず、幸せに生きてほしい。
だから、嘘をついた。
「……どうやら、あなたの憑き物は落ちたようです。彼女の言葉が聞こえました」
涙にうるんだ瞳で、弟は姉を見た。
人魚は、目を閉じて、優しい笑みで答えた。
「自分のことを気に病んでほしくないと。あなたが幸せな日々を送ることこそが、一番の喜びだと……そう言っています」
それは紛れもない、自分の本心だった。
「今日はありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそ急に押しかけてしまい、申し訳ありませんでした」
深々と三人は頭を下げる。
パチュリーが外に出ると、もう日が沈み始めていた。オレンジ色の光が目に染みる。
「あら……?」
店を出ようとすると、あるものがわかさぎ姫の目に留まる。それは、パチュリーが賢者の石の媒体用に欲しがった、あのブルートパーズだった。
それを見た笠木老人は、彼女がそれを欲しがったのだと思った。
「欲しいなら差し上げますよ。お礼にどうぞ」
パチュリーは自分が欲しかったのにと思ったが、わかさぎ姫の手に渡るのなら悪い気分はしなかった。
彼女はただで貰うのに気が引けたのか、ぶんぶんと両手を振る。
「そ、そんなわけにはいきません! 少ないですが、受けとって下さい」
がま口財布を、わかさぎ姫は彼に渡した。例の198円が入っている財布である。
主人は受け取れないと突き返そうとしたが、わかさぎ姫が譲らないので結局受け取ることにした。額が少なかったのも後押しをしたのだろう。
「二人とも、ありがとうございました。正直、救われた気分です」
「救うだなんて、そんな……」
パチュリーとしても、話を進めるためとはいえ、下らない嘘をついた罪悪感があった。感謝されてしまうと、どうにも調子が狂う。
二人は彼に別れをつげ、笠木屋を後にした。
しかし途中で立ち止まり、わかさぎ姫は振り返って言った。
「あ、あの……」
「はい」
「また……また来ても、いいですか?」
わかさぎ姫の質問に、彼はにっこりと笑って答えた。
「もちろんですとも。いつでも大歓迎です」
もう一度頭を下げ、彼女はパチュリーに追いつく。
夕日に消えていく彼女らを、老人はすがすがしい気持ちで見送った。
自分が姉であることを告げるか。
それはわかさぎ姫にとって、すぐに決断できるものではなかった。
もしかしたら信じてくれないかもしれないし、彼を悲しませるだけかもしれない。ここまで姉弟は別々の人生を歩んできてしまったのだ。今更無理にその道を交える必要もない。
それでも二人は元は血のつながった家族だ。できることなら、一緒に暮らすのもいい。
結論は早めに出そう。わかさぎ姫はそう決意した。人間の寿命は、妖怪の気持ちを待ってくれたりしないのだ。
「パチュリー……」
「ん?」
そういえば、ようやく名前を呼ばれた気がする。パチュリーは何だか、胸のあたりがむず痒くなるのを感じた。
「ありがとね」
「ううん……重要な話に、土足で上がりこんじゃって、悪かったわね」
謝らないでよ、と苦笑する彼女の顔が、夕日に照らされていて、いやにまぶしかった。
「そうだ」
わかさぎ姫はナイフをふところから取り出した。
パチュリーがそれを不思議そうに見ていると、彼女はいきなり自分の手のひらを切り裂いた。
「ちょっ……何してるのよ!」
声を荒げて焦るパチュリーをよそに、わかさぎ姫は自分の血を、彼からもらったブルートパーズに滴らせた。
「人魚の血の加工法は、付着させるだけで十分。そうよね」
確かにその方法を教えたのはパチュリーだった。
赤く染まったブルートパーズを差し出して、わかさぎ姫はほほ笑む。
「これ、あげるわ」
「……いいの?」
呪われた宝石に人魚の血。賢者の石の素材としては申し分ない。
しかし、彼からわかさぎ姫が受け取ったものを貰い受けるのは、若干の抵抗があった。
彼女がパチュリーに石を渡すと、ただし、と付け加える。
「条件があるわ」
こくりとパチュリーは頷く。
代わりに別の賢者の石が欲しいのか、魔道書が欲しいのか。何が条件に示されても、パチュリーは彼女の要望を叶えようと思っていた。
「早く体を治して、また私に色んな話を聞かせてほしいの」
ほほえむわかさぎ姫に、パチュリーはきょとんとした。それから少し遅れて、笑った。
つまり、これからも友達でいましょう、ということだった。照れくさくて、パチュリーは口元がゆるんでしまう。
わかさぎ姫は舞踏会でダンスの相手を申し込むように、少し気取ってこう言った。
「素敵な物語をもっと沢山聞かせていただけますか。魔法使いさん」
「夜が更け、蝋燭という蝋燭が溶けるまで、沢山のお話をさせていただきますわ。人魚姫さん」
パチュリーは胸の上で、198円の賢者の石を握りしめながら答えた。
パチュわかってのもそうだけどわかさぎ姫元人間説ですか、いいですね
わかさぎ姫はこういう優しい話がよく似合いますね。
本文最初の額だけ198円なのは誤字でしょうか?
いや、面白い話でした。
さらに読み終えてからふとタイトルを見てみれば「なるほど」と頷き。
などなど、とっても好い作品だと思いました。お手本にしたいです。
タイトル見て、ギャグ物かと思ってました。ごめんなさい。
以下、誤字報告です。
ネリグジェ ×
ネグリジェ ○
「いずれもどれもまだまだ弄び甲斐があるわ」いずれ、どれもが重複してました。
あと、仕方ないかとも思うのですが、会話の中でRPGのくだりが出てきたのは何とか出来たらより良いなと感じました。
僭越ながら批評としていくつか点を挙げるとすれば、
・笠木雑貨店に積もっているであろう長い年月と悲哀がなんとなくでもより伝わる表現が欲しかった
・スペルカードを取り出して二人が戦うシーン、アニメなんかでキャラのカットインが入るようなイメージで読んでいくと、一触即発といったピリピリした空気がもう一声あってもよかったのではないか
・メディスン戦から数日たってパチュリーが引きこもりに、とありましたが元々引きこもりチックなパチュリーだとイマイチ深刻さが伝わらなかったのが残念です。
「元々引きこもりがちな彼女であるが、そのことを知っている彼女の周りでさえ心配をするほどに姿を見せる頻度が減っていた」
即興で書いてしまいましたが、私ならこんな感じで表現すると思います。
長文失礼しました。
出現率50バーセントなら半分怠慢じゃないですかーやだー
欲を言えばメディの登場がやや唐突に思われ、事前か事後にもう一度くらい顔を出してほしい気もしました。
題材にシンクロニシティを感じつつ。
新作キャラの中では個人的に印象の薄かったわかさぎ姫が好きになれた、素敵な作品でした。
魔法使いの世界観が複雑過ぎずわかりやすくていいですね
自己暗示が魔法の基本というのはありそうでなかったので凄くしっくりきて良かったです
細かいですけどマイナス四十点は微妙に間引きを肯定している気がするので
面白かったです、こういう普段見ない組み合わせっていいですよね
ちょっと気になった点ですが、わかさぎ姫が「また来ても、いいですか?」と言うところで、その度にパチュリーに魔法かけてもらう必要がありますよね?
そこでなにかしら伺いを立てるやりとりが欲しかったかなと思います。
少し悲しくて、でもほんわかな気分になれました。パチュわか万歳!
あれは悲しかった
パチェわかはこれからも仲良しでいてほしい
咲夜さんのよくわからなさがサブとしていい味出してましたw
レミリアや咲夜と言った脇役もコミカルでいい味を出していて、小悪魔の悪魔っぷりにも戦慄が禁じえませんw
ただ他の方も言われているように、メディスンに関しては本当にその場限りの出番だったので、使うならもうちょっとうまく使ってあげてほしかったな、と思います。
それにしても『癇癪持ちの毒薬』って自分で名乗るような二つ名だろうか・・・?
小気味良いを鳴らした→小気味良い音を
タイトルの198円が出落ちに終わらず、最後の最後でいい味を出してきました。タイトルが活きている作品って良いですね。
次は泡姫(ジェリーフィッシュプリンセス)纏って水中で百九十八物語する二人、ですね。
若くして川を下り初めた魚は雪客に捕らえられて、また湖に戻ってくる。
楽しませていただきました
よく出来ていて飽きさせない
また読みたくなる素晴らしいお話でした
それに何より、これまであまりスポットライトの当たる事のなかったわかさぎ姫をパチュリーと共に主役に置いたのが素晴らしい。このお話の後のわかさぎ姫の笠木老との関係が気になるところですね。今回はパチュリーが語り手という事もあってわかさぎ姫の心情はあまり描かれていませんでしたが、わかさぎ姫を主体にした後日談などがあれば、是非読みたいところです。
これは間違いなく輝針城SSの名作の一つに数えられるでしょう。今後輝針城SSがもっと増える事を私も楽しみにしています。
パチュわかとは新しいな
こういう人物の柔らかい幻想郷は一番好きです
こういう話が思いつけるなんて、素晴らしい。
パチュわかいいですね!
作者さんは新たなジャンルを切り開くパイオニアやで!
ゴチです。
精製、プライスレス。
精製、プライスレス。
精製、プライスレス。
とても素敵なお話でした
ちょっと嫉妬していながらも幸せな結末を願うレミリアも可愛いですね。
やはり魔女と人魚はいいですね。
他作品も含めて作者さんのこだわりを感じました。
若干繰り返しというか説明過多な印象を受けましたが、
話の流れはとても楽しませていただきました。