師走の末日。辺りはとうに暗くなり今にも日付が変わろうとしている時刻に、人間の里の命蓮寺では住職から修行僧までが一堂に会していた。
毎年恒例、年の瀬の除夜の鐘である。
人間の煩悩は百八あると言われ、その回数鐘をつくことで煩悩を取り払い、新たな心で新年を迎えることが出来る。
命蓮寺では聖白蓮が実際に撞木を扱い、その他の妖怪たちは撞木に取り付けられた綱を握ることとなる。
その綱を手に取るのは、寅丸星、村沙水蜜、雲居一輪、封獣ぬえ、二ッ岩マミゾウ、そして幽谷響子。
普段寺にいる古明地こいしは、年末年始を実家で過ごす為地底へ帰っていった。少々身勝手さを感じる一方、彼女にも家族を愛する心が芽生えたのは喜ばしい、と後に寅丸は語っている。
鐘をつく毎に、精神の底深くまで響き渡る音がこだまする。それは人里のみならず、遠く離れた妖怪の山や魔法の森まで聞こえるそうだ。
そして百七回目がつき終わる。最後の一回は日付が替わってからつくのだが、この瞬間を、修行僧である幽谷響子は密かに心待ちにしていた。
脇に控えていた村沙水蜜が懐中時計を見る。松明の火で照らし出された文字盤が、丁度真上を指した。
「――零時になりました」
その言葉に、白蓮は無言で頷く。吊るされた撞木が静止しているのを確認し、一度鐘から離れる。
(遂に来た……)
響子は脈拍が上がり、全身に緊張が走るのを感じた。あまりにも静かな境内で浮いている意識はあったが、去年も一昨年もこの光景を見て圧倒せざるをえなかったのだ。
目を閉じた白蓮が呼吸を整える。失敗は許されない。失敗すれば幻想郷中に醜態を晒してしまうばかりか、新年早々『怪我をする』ことになってしまう。
「――行きますッ!」
カッと目を見開き助走を始める。ある程度の速度をつけて、大きく跳びあがる。響子には白蓮のその様子が、猛進する獅子のように見えた。
体勢を整え、助走の力と全体重を足先一点に集中する。そして、全力でもって撞木に『跳び蹴り』を放った。
――ゴガァァァァン! と凄まじい音が響く。鐘よ割れろと言わんばかりの衝撃が鋼鉄の剛体を突き抜ける。
それと同時に、他の妖怪たちは全力で撞木につながる綱を引く。勢い余って『百九回目』をつかないためだ。
華麗に着地した白蓮は、ふぅと一息つき、そして落ち着いた表情で合掌する。子供のように瞳を輝かせていた響子も、周囲が白蓮に合わせるのを見て、慌てて合掌した。
「――はい、お疲れ様でした。明日も早いので、すぐに床につきましょう。」
白蓮がいつもと同じ、決まりきった台詞で締めくくる。こうして命蓮寺の新年が始まった。
*
「一輪一輪、起きてってば」
月明かりが照らす十二畳間の寝室。寝巻き姿の響子は、隣で眠る同僚に小声で呼びかけた。
同じ部屋には一輪の他、白蓮、星、水蜜、ぬえ、マミゾウが寝息を立てている。他の者を起こさないように気を付けながら、響子は一輪の布団を揺さぶる。
「起きてよぅ、一輪」
「んー、こんな時間に何ですか。まだ朝げには早すぎますよ」
「やっと起きた……あのね、ちょっと表に出て欲しいんだけど」
「…………」
寝ぼけ眼の一輪はしばし熟考した。たっぷり時間をかけて考えて、
「――お休みなさい」
「ああっ、誤解だよ! 今のは私の言い方が悪かったよぉ!」
「やかましい。聖様が起きてしまわれます」
「おっと……危ない危ない。いやね、妖怪退治をしようと思ったから手伝って欲しくて」
「妖怪退治? 我々は妖怪を護る為修行に励んでいるのを忘れたの?」
「そうなんだけど……うーん、ちょっと事情が違うんだよ。知ってるでしょ?墓地に住み着いてる『アレ』のこと」
「……『アレ』ですか」
アレと言われて一輪はすぐに理解した。
アレはこの地に命蓮寺が建ってすぐに現れた。それ以降墓地に居付いて離れない物の怪、宮古芳香。キョンシーである。
芳香は墓地に現れるなりその一角を護り始めた。その後一年半の歳月を経て、その場所からとある仙人が復活し一悶着あったのだが、騒ぎが落ち着いてからも何故か墓地を離れないのだ。
何者かに使役されているようだが、その使役者はめったに姿を見せない。たまに見かけても、真夜中芳香に妖しげなことを教え込んでいたりするため、響子には怖くて近寄れなかった。
「ねえ一輪。新年を気持ちよく迎えるために、負の権化は取り払うべきだと思わない?」
「確かに……いい加減立ち退いて欲しいとは思ってました」
「でしょ? お寺に蔓延る悪を退治し、聖様に良い所を見せるのよ!」
その一言が決定的だった。白蓮を深く尊敬している一輪には、彼女に一目置かれたいという思いが常にあった。
「……分かったわ。協力しましょう」
同意し、起き上がる一輪。寝巻き姿のまま抜き足差し足する二人は、皮肉にも盗人のように見えた。
*
「うっ……寒い」
外に出ると、体の芯まで凍えるような感覚を覚えた。当然である。響子も一輪も、布団の中と同じ格好で外にいるのだ。
「さっさと終わらせて、布団に潜りましょう」
「そうだね」
雪かきのされた道を墓地へ向けて歩き出す二人に、ひゅうと風が吹きつける。思わず身震いし、先ほどまで包まっていた布団が恋しくなってくるが、響子にも一輪にも、それを我慢するだけの根性があった。
「あの辺に……いたいた」
遠く墓地の隅に、突っ立っている一人の影がある。これだけで十分ホラーだが、その実態を知っているので二人は迷わず歩を進めた。
気付かれないようにある程度近づいたら、手近な墓石に身を隠しつつさらに隙を見計らって接近する。
「やっぱり夜襲に限るよね」
「物陰からサクっと一撃……華麗に決めてあげましょう」
念のために注釈するが、二人はこれでも聖職者である。
芳香は明後日の方向を向いているが、何か物音でもすればすぐに気付くだろう。細心の注意を払って、最後の墓石に跳び移ろうとしたときだった。
パキッ――と、小枝の折れる音を立ててしまった。
『!』
慌てて墓石の裏に舞い戻る。火事場の何とかというものだろうか。その時の動作は、二人の気配を微塵も感じさせない完璧なものだった。
他に足音などは聞こえない。気付かれなかっただろうか。きっと大丈夫だろう。二人はアイコンタクトを取り、響子が代表してゆっくりと顔を覗かせる。
目と鼻の先に、芳香の顔があった。
「ギャァァァァァァァァァァッッ!」
「イヤァァァァァァァァァァッッ!」
響子が悲鳴を上げ、一輪も釣られて驚き叫ぶ。
ズササササッ! と後退し、二人は背後の墓石に背中を合わせる。
一方の芳香は、肘と膝を動かさない独特な歩き方で近寄ってくる。足音は立たなかった。そして、首をフラフラさせながらおもむろに口を開いて、
「ち……」
『……ち?』
「ち……」
『……血ッ!?』
「ちーかよーるなー!」
『…………』
ヒィヒィと大きく息をする二人。恐怖と混乱の混じりあった奇妙な感情を表現するには、そうするしかなかった。
*
「お前達は墓参りに来た人間か?」
響子と一輪が落ち着くと、改めて芳香が質問した。
「こんな時間に墓参りに来る人間はいませんよ。あと私も響子も人間じゃありません」
「ん? じゃあ何の用だ?」
当たり前のことを訊き返す芳香だが、これには一輪も響子を口を閉ざしてしまった。今さら『お前を討伐する!』なんて言えない。言いたくない。
何とか穏やかにお帰り願いたい二人としては、対話の道を歩みたかった。一輪が一歩前に出る。
「ええと、あなたがよくここにいらっしゃることは存じ上げておりますが、あまりいつまでも居座られますと、他の参詣者の迷惑になりますので……」
一輪としては、可能な限り穏やかな表現を選んだつもりだったのだが、
「……うむ! 私の使命はこの場所に待機することだ!」
微妙に的外れな回答を堂々と宣言されただけだった。
『…………』
代わって響子が対話を試みる。
「社会のルールって分かる? あなたがいるこの墓地は、私達の土地であって、私達が管理してるの! そこを我が物顔で陣取ってもらっちゃ困るわけ! 誰に頼まれたか知らないけど、住むところが欲しけりゃ森の奥でも山の中でも人様の迷惑にならないところに行きなさいよ!」
「ちょっと、響子……」
強気な物言いを止めようとする一輪だが、響子は構わず続ける。
「そもそも頼まれたって、誰に頼まれたの? 神様? 仏様? そいつの名前を言いなさいよ。あなたにこんな無責任な命令をする使い主は、どこのどいつなのよ!」
「う……」
困り顔で思案する芳香。しかし、無い頭を絞って、とはこのことを言うのだろう。だんだん顔を赤らめてきた芳香は、
「う……うおぉぉぉぉぉぉ!」
遂に爆発した。
「響子! だから止めたのに!」
「うぅ……いや、でもこうなったら私達が有利よ! 実力勝負に持ってこれたもの!」
響子の思惑通りなのかはさておき、目の前のキョンシーは戦闘態勢に入った。互いに距離をとると、早速芳香がカードを切る。
「ポイズンマーダー!」
闇雲に突撃し、前方も確認しないで力任せに腕を振るった。深夜で視界が悪いため、攻撃が当たるかどうかは誰にも判らない。
だから、響子と一輪は必要以上の力で地面を蹴り、それぞれ逆方向に緊急回避をした。
直後、バリバリィ! と音が聞こえ、響子も一輪も背筋が冷たくなる。芳香の爪が剥がれたのか、それとも墓石が甚大な被害を受けたのか。
しかし芳香の影は止まらない。目標が分散してしまったため、より近くにいた一輪に狙いを定める。
もう一度跳びかかってくるのを見て、一輪は己の唯一の獲物である鉄製のリングを取り出した。
リングは幽かな月の光を照り返し、深夜でも神々しく輝いている。それを遠めで見た響子は、これから一輪が相棒、雲山を呼び出すのかと思っていた。が、
一輪は一つのリングを両手で持ち、跳びかかる芳香にフルスイングする。
「うがっ……!」
直撃し、真横に飛ばされる芳香。予想外の反撃に目を白黒させている――と思いきや、その表情に変化は無い。やはり何も考えていないのだろう。
唖然とした顔で一輪を見ていた響子だが、やがて芳香がこちらに飛んでくるのを見て、我に返りカードを切った。
「アンプリファイエコー!」
飛び込んでくる芳香を包み込むように、前後左右から弾幕で挟み撃ちにする。一輪のもとへ跳び込んでからこの間約十秒。芳香はあまりにあっさりと地に伏してしまった。
『やったね!』
お互い駆け寄り、ハイタッチをする。決着はついた。スペルカードルールで負けた以上、こちらの要求は呑まなければならない。次に使い主が訪れたら、聖を通して正式に要求してもらえばよい。
思えば、響子と一輪が二人で一つのことを成し遂げる機会などこれまで無かった。お互いの絆もいっそう深まり、目的以上のものが得られたと、強く感じられたのだった。
*
「ところで一輪。この墓石、どうしよう?」
「傷が……非常に目立ちますね」
改めて寝床に戻ろうとした二人だが、戦場に残された傷跡は思いの外大きかった。
ポイズンマーダーをまともに喰らった墓石は、丁度銘文の彫刻を切り裂くように深手を負っている。
芳香の討伐には成功したものの、これでは聖から大目玉を食らってしまうだろう。
「すぐにはバレないかもしれないけど、三が日は石工も休みだろうし……」
「う……」
「う?」
唸るような声に反応した響子。しかし、一輪は首を傾げるだけでなんとも無い。直後、響子が叫ぶ。
「一輪、後ろッ!」
「!」
一輪が振り返るより速く、いつの間にか立ち上がっていた芳香がその首筋に牙を剥く。
「うおぉぉぉっ!」
「はっ、しまっ――」
咄嗟のことで、回避行動が取れなかった。芳香は一輪の首に吸血鬼の如く噛み付き、勢い余ってそのまま傷ついた墓石に倒れこむ。
「一輪ッ! しっかり!」
響子の呼びかけに応答は無い。その代わり、芳香が離れると同時にゆっくりと起き上がり、生気の抜けた目で響子を見る。
「一輪……」
その様子は、どう見ても尋常ではなかった。携えていた鉄製のリングが拳から滑り落ち、カラン、と虚しい音を立てる。
「ぅあ……響……子……」
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃ!」
戦友の容態などお構い無し。響子は一目散に逃げ出した。
(一輪はもう駄目だ! きっと怒られるけど、これは聖様に助けを乞うしか……!)
何度も躓きそうになりながら、墓地を出るために走り続ける。暗闇の中、道を把握していることが幸いだった。
ところが、響子の目の前に突然壁が現れる。予想もしなかった障害物に顔をぶつけてしまったが、怪我一つ負わなかったのは、それが壁ではなく見知った妖怪だったからだ。
「騒がしさに目が覚めて来てみれば……こんな時間に何をしているのですか、あなたたちは」
「と、寅丸様……うぇぇぇぇぇぇ……」
そこに現れたのは、寝巻きに室内用の羽織を重ね着した毘沙門天の化身、寅丸星。
思わず抱きついたまま顔をうずめて泣き出す響子だったが、しかし星はそんな響子を引き剥がし、頬を平手で打った。
「痛っ……」
「事情を説明なさい。何があったのですか」
「う……墓地にいたキョンシー――宮古芳香を退治しようと思って、ぐすっ、そうしたら一緒にいた一輪が……一輪が……」
「何? 一輪がどうしたのですか」
聞き返した星だが、それと同時に響子の背後から忍び寄る影が見えた。他でもない、一輪である。
「響……子……仲……間に……」
「ひぃぃ!」
再び星に抱きつく響子。しかし星は冷静だった。懐から黄金色に輝く宝塔を取り出す。
「焦土曼荼羅」
そう唱えると、宝塔から格子状に光線が放たれて一輪を包囲した。
いまだ意識のはっきりしない一輪は、光線に触れようとして寝巻きの袖が焦げたことに驚いたりしている。
「一輪が……悪霊にでも取り付かれたのですか?」
「ぁ……あいつに……宮古芳香に噛み付かれて、そうしたらあんなふうにフラフラって……」
「なるほど。概ねの事情は察しました。ではもう一つ。何故宮古芳香を退治しようと思ったのです?」
「それは……私達の墓地にいつまでも居座ってて……迷惑だからです」
「ほう。迷惑ですか。私や聖が、いつ迷惑だと言いましたか?」
「……ふぇ?」
「戯け者っ!」
「っっ!」
「いいですか。確かに墓地に宮古芳香が現れたときは、私も聖も議論を余儀なくされました。その結果、彼女には居場所を狭めてもらう代わりに、我々は手を出さないことに決めているのです」
「でもそれでは……いつまでもそこに居っぱなしじゃ無いですか」
「現在の宮古芳香は、あの場所を護るためだけに生きています。その目的を奪うことが、彼女にとってどれほど辛いことであるか、想像できないのですか?」
「……あれでは他の参詣者の迷惑じゃないですか。これでは寺が寂れてしまいます」
「そうなったとしても、在るがままを受け入れるのが仏教の基本です。栄えようと廃れようと、我々が仏の道を貫くことに変わりはなし」
包囲されている一輪の後ろから、芳香が顔を出した。焦土曼荼羅に阻まれて先に進めないが、その目だけは星と響子を真っ直ぐ見ていた。
「こんな寒い夜中でもひたむきに役目を全うしようとする姿勢を、あなたは己の主観だけで排斥しようとするのですか?」
「…………」
返す言葉の無くなった響子。そこへ、星の背後にもう一つの人影が現れた。
「話は聞かせてもらったよ」
「ぬえ……盗み聞きは感心しませんね」
寝巻き姿のままそこに立つのは、封獣ぬえ。いつから聞かせてもらっていたのか響子には判らなかったが、いつに無く得意げなその様子に少し安心感を覚えた。
「私に任せてくれれば、誰も辛い目に遭わない結末を迎えられる。誰もが幸せに元旦を迎えられるよ」
星はやや考え込んだ。
「そんなに上手く事が進むのですか?」
「まあ任せてよ。本人の同意も取る。悪いようにはしないからさ」
「はあ……わかりました。あなたを信用しましょう。後で面倒なことになっても、放り投げずに責任持って対処してくださいね」
「大丈夫大丈夫。一輪の方も何とかするから、お二人は寝室に戻っててよ」
胡散臭さすら感じる自身だが、星が認めたのならこれに従うほか無い。
「あの、寅丸様」
「何ですか」
やや苛ついて返事をする星。
「迷惑をかけてしまったこと、できれば聖様には……」
言いにくそうに言葉尻を弱める響子。星は溜息をついて、
「あなたも反省したようですし、分かりました。今回の件は大ごとにしないようにしましょう」
「あっ、ありがとうございます!」
「じゃあぬえも、後を頼みましたよ」
「了解よ」
一輪達の前で立ち塞がるぬえに背を向け、響子と星は寝室へと戻ったのだった。
*
翌朝。すなわち元旦である。
結局あの後はほとんど眠れなかった響子だが、早起きには慣れているのでそこまで辛い思いはしなかった。
目が覚めたときには一輪もぬえも布団の中におり、昨晩のことがまるで夢だったのかとも思える。
朝の読経を済ませた後、冬の日課である雪かきをした。あまり雪が積もっておらずすぐに終わったため、一輪が炊事をしている台所へ向かう。
「一輪、手伝うよ」
「ありがとうございます。そちらに焼き上がった鮭がありますので、重箱に詰めてもらえますか?」
言われた通り、菜箸で鮭の切身を詰めていく。しばらく無言だった二人だが、やがて一輪がおもむろに口を開いた。
「昨夜はすみませんでしたね。その……見苦しい姿を晒してしまって」
「うん……気にしてないよ。一歩間違えたら私も巻き添えだったし、ちゃんと元に戻れたんだからよかったじゃない」
「実は襲われてからのことをよく覚えていないのだけど、響子を危険に追い込んでしまったのではないかと気が気でなかったんですよ」
本当に申し訳なさそうに言う一輪。一時的にキョンシーとなってしまったことがよほどショックだったのだろう。
「いやあ、あれくらい非常事態の内にも入らないよ。私が本気を出せばあれくらい……」
「……そうですか? 俄かに信じがたいけど……記憶が無い以上、疑いようもありませんね」
少し空気が和らいだところで、お互い再び口を閉ざしてしまった。その後も一輪が簡単に指示を出すだけで、大した会話の無いまま朝食の準備が終了した。
*
「ええ、皆さん。あけましておめでとうございます」
『おめでとうございます』
白蓮の挨拶で皆が頭を下げる。十二畳間に集まった修行僧達の前には、響子と一輪が重箱に詰めたおせち料理が並んでいる。
勿論獣肉は厳禁であるし、質素倹約を常とする修行生活においてあまり華やかな食事は出来ないが、それでも許容される限りの贅沢がそこにあった。
川蟹、焼鮭、煮豆、錦卵など、日常生活ではまず口に出来ない甘味たちに、思わず面々の頬も緩んでしまう。
「今年も一年、仏の教えを堅く守って、健康に過ごすことが出来ますように……合掌」
白蓮に合わせて皆が合掌し、食事前のお経を唱える。とはいえ、落ち着いて唱えていたのは白蓮と星ぐらいのもので、残りの者は目の前に広がる楽園に目を奪われてしまっていた。
「――はい。それではいただきます」
『いただきます!』
誰もが最高の味に舌鼓を打ち、近くの者と歓談しながら朝食は進行していく。酒も無ければ餅も無い正月だが、それでも十二分に楽しんでいた。
響子も一輪も、勿論星も、昨夜のことについては全く触れずに食べていたが、ふと響子は気になってぬえの方を向いた。
ぬえは座敷の一番端、マミゾウと向かい合う席で二人談笑している。相変わらず周囲から浮いているが、それでも元旦を普通に満喫しているようだ。
(……そういえば、ぬえはあの後どうやって芳香を言いくるめたんだろう?)
こればかりは本当に、誰も真実を知らない。しかし、雪かきをしながら墓地を覗いたところ、本当に芳香はいなくなっていた。
(まあ……いっか)
この場で問いただすわけにもいかないし、現状問題が起きていないのだから、気にすることは無いのかもしれない。むしろ響子としては、この件を一つの悪夢と結論付けてしまいたいくらいなのだ。
在るがままを受け入れよう。星に教わった通りに考えてみたら、スッと心が軽くなったのを感じた。
*
時を同じくして、墓地を囲む雑木林の奥の方に芳香はいた。辺りは一面の雪である。
そこで芳香はいつものように、ポケーっとした顔で突っ立っている。何かを護っているような、そうでもないような。
彼女の周りに墓地は無い。あるのは種類も高さもまちまちな整備の行き届いていない林である。
ぬえの力によって、彼女は今も墓地を護っているつもりでいる。周囲の木々を墓石と見間違えている事も知らずに。
とはいえ、あの場所から霊廟が復活した時点で墓地を護る意味はなくなっていたし、少し居場所がずれただけで芳香に直接の影響は無い。
また、無事に邪魔者を排除して職務を全うしたからだろうか、常に生気の無いその顔も、些かながら達成感を感じるものになっている。
「新年の目標……」
おもむろに口を開く。そこに本人の意思はない。ただ、林に射し込む冬の太陽を浴び、自然と口が動いていた。
「私の心で、ご主人様の命を受けること……」
A Happy New Year!
毎年恒例、年の瀬の除夜の鐘である。
人間の煩悩は百八あると言われ、その回数鐘をつくことで煩悩を取り払い、新たな心で新年を迎えることが出来る。
命蓮寺では聖白蓮が実際に撞木を扱い、その他の妖怪たちは撞木に取り付けられた綱を握ることとなる。
その綱を手に取るのは、寅丸星、村沙水蜜、雲居一輪、封獣ぬえ、二ッ岩マミゾウ、そして幽谷響子。
普段寺にいる古明地こいしは、年末年始を実家で過ごす為地底へ帰っていった。少々身勝手さを感じる一方、彼女にも家族を愛する心が芽生えたのは喜ばしい、と後に寅丸は語っている。
鐘をつく毎に、精神の底深くまで響き渡る音がこだまする。それは人里のみならず、遠く離れた妖怪の山や魔法の森まで聞こえるそうだ。
そして百七回目がつき終わる。最後の一回は日付が替わってからつくのだが、この瞬間を、修行僧である幽谷響子は密かに心待ちにしていた。
脇に控えていた村沙水蜜が懐中時計を見る。松明の火で照らし出された文字盤が、丁度真上を指した。
「――零時になりました」
その言葉に、白蓮は無言で頷く。吊るされた撞木が静止しているのを確認し、一度鐘から離れる。
(遂に来た……)
響子は脈拍が上がり、全身に緊張が走るのを感じた。あまりにも静かな境内で浮いている意識はあったが、去年も一昨年もこの光景を見て圧倒せざるをえなかったのだ。
目を閉じた白蓮が呼吸を整える。失敗は許されない。失敗すれば幻想郷中に醜態を晒してしまうばかりか、新年早々『怪我をする』ことになってしまう。
「――行きますッ!」
カッと目を見開き助走を始める。ある程度の速度をつけて、大きく跳びあがる。響子には白蓮のその様子が、猛進する獅子のように見えた。
体勢を整え、助走の力と全体重を足先一点に集中する。そして、全力でもって撞木に『跳び蹴り』を放った。
――ゴガァァァァン! と凄まじい音が響く。鐘よ割れろと言わんばかりの衝撃が鋼鉄の剛体を突き抜ける。
それと同時に、他の妖怪たちは全力で撞木につながる綱を引く。勢い余って『百九回目』をつかないためだ。
華麗に着地した白蓮は、ふぅと一息つき、そして落ち着いた表情で合掌する。子供のように瞳を輝かせていた響子も、周囲が白蓮に合わせるのを見て、慌てて合掌した。
「――はい、お疲れ様でした。明日も早いので、すぐに床につきましょう。」
白蓮がいつもと同じ、決まりきった台詞で締めくくる。こうして命蓮寺の新年が始まった。
*
「一輪一輪、起きてってば」
月明かりが照らす十二畳間の寝室。寝巻き姿の響子は、隣で眠る同僚に小声で呼びかけた。
同じ部屋には一輪の他、白蓮、星、水蜜、ぬえ、マミゾウが寝息を立てている。他の者を起こさないように気を付けながら、響子は一輪の布団を揺さぶる。
「起きてよぅ、一輪」
「んー、こんな時間に何ですか。まだ朝げには早すぎますよ」
「やっと起きた……あのね、ちょっと表に出て欲しいんだけど」
「…………」
寝ぼけ眼の一輪はしばし熟考した。たっぷり時間をかけて考えて、
「――お休みなさい」
「ああっ、誤解だよ! 今のは私の言い方が悪かったよぉ!」
「やかましい。聖様が起きてしまわれます」
「おっと……危ない危ない。いやね、妖怪退治をしようと思ったから手伝って欲しくて」
「妖怪退治? 我々は妖怪を護る為修行に励んでいるのを忘れたの?」
「そうなんだけど……うーん、ちょっと事情が違うんだよ。知ってるでしょ?墓地に住み着いてる『アレ』のこと」
「……『アレ』ですか」
アレと言われて一輪はすぐに理解した。
アレはこの地に命蓮寺が建ってすぐに現れた。それ以降墓地に居付いて離れない物の怪、宮古芳香。キョンシーである。
芳香は墓地に現れるなりその一角を護り始めた。その後一年半の歳月を経て、その場所からとある仙人が復活し一悶着あったのだが、騒ぎが落ち着いてからも何故か墓地を離れないのだ。
何者かに使役されているようだが、その使役者はめったに姿を見せない。たまに見かけても、真夜中芳香に妖しげなことを教え込んでいたりするため、響子には怖くて近寄れなかった。
「ねえ一輪。新年を気持ちよく迎えるために、負の権化は取り払うべきだと思わない?」
「確かに……いい加減立ち退いて欲しいとは思ってました」
「でしょ? お寺に蔓延る悪を退治し、聖様に良い所を見せるのよ!」
その一言が決定的だった。白蓮を深く尊敬している一輪には、彼女に一目置かれたいという思いが常にあった。
「……分かったわ。協力しましょう」
同意し、起き上がる一輪。寝巻き姿のまま抜き足差し足する二人は、皮肉にも盗人のように見えた。
*
「うっ……寒い」
外に出ると、体の芯まで凍えるような感覚を覚えた。当然である。響子も一輪も、布団の中と同じ格好で外にいるのだ。
「さっさと終わらせて、布団に潜りましょう」
「そうだね」
雪かきのされた道を墓地へ向けて歩き出す二人に、ひゅうと風が吹きつける。思わず身震いし、先ほどまで包まっていた布団が恋しくなってくるが、響子にも一輪にも、それを我慢するだけの根性があった。
「あの辺に……いたいた」
遠く墓地の隅に、突っ立っている一人の影がある。これだけで十分ホラーだが、その実態を知っているので二人は迷わず歩を進めた。
気付かれないようにある程度近づいたら、手近な墓石に身を隠しつつさらに隙を見計らって接近する。
「やっぱり夜襲に限るよね」
「物陰からサクっと一撃……華麗に決めてあげましょう」
念のために注釈するが、二人はこれでも聖職者である。
芳香は明後日の方向を向いているが、何か物音でもすればすぐに気付くだろう。細心の注意を払って、最後の墓石に跳び移ろうとしたときだった。
パキッ――と、小枝の折れる音を立ててしまった。
『!』
慌てて墓石の裏に舞い戻る。火事場の何とかというものだろうか。その時の動作は、二人の気配を微塵も感じさせない完璧なものだった。
他に足音などは聞こえない。気付かれなかっただろうか。きっと大丈夫だろう。二人はアイコンタクトを取り、響子が代表してゆっくりと顔を覗かせる。
目と鼻の先に、芳香の顔があった。
「ギャァァァァァァァァァァッッ!」
「イヤァァァァァァァァァァッッ!」
響子が悲鳴を上げ、一輪も釣られて驚き叫ぶ。
ズササササッ! と後退し、二人は背後の墓石に背中を合わせる。
一方の芳香は、肘と膝を動かさない独特な歩き方で近寄ってくる。足音は立たなかった。そして、首をフラフラさせながらおもむろに口を開いて、
「ち……」
『……ち?』
「ち……」
『……血ッ!?』
「ちーかよーるなー!」
『…………』
ヒィヒィと大きく息をする二人。恐怖と混乱の混じりあった奇妙な感情を表現するには、そうするしかなかった。
*
「お前達は墓参りに来た人間か?」
響子と一輪が落ち着くと、改めて芳香が質問した。
「こんな時間に墓参りに来る人間はいませんよ。あと私も響子も人間じゃありません」
「ん? じゃあ何の用だ?」
当たり前のことを訊き返す芳香だが、これには一輪も響子を口を閉ざしてしまった。今さら『お前を討伐する!』なんて言えない。言いたくない。
何とか穏やかにお帰り願いたい二人としては、対話の道を歩みたかった。一輪が一歩前に出る。
「ええと、あなたがよくここにいらっしゃることは存じ上げておりますが、あまりいつまでも居座られますと、他の参詣者の迷惑になりますので……」
一輪としては、可能な限り穏やかな表現を選んだつもりだったのだが、
「……うむ! 私の使命はこの場所に待機することだ!」
微妙に的外れな回答を堂々と宣言されただけだった。
『…………』
代わって響子が対話を試みる。
「社会のルールって分かる? あなたがいるこの墓地は、私達の土地であって、私達が管理してるの! そこを我が物顔で陣取ってもらっちゃ困るわけ! 誰に頼まれたか知らないけど、住むところが欲しけりゃ森の奥でも山の中でも人様の迷惑にならないところに行きなさいよ!」
「ちょっと、響子……」
強気な物言いを止めようとする一輪だが、響子は構わず続ける。
「そもそも頼まれたって、誰に頼まれたの? 神様? 仏様? そいつの名前を言いなさいよ。あなたにこんな無責任な命令をする使い主は、どこのどいつなのよ!」
「う……」
困り顔で思案する芳香。しかし、無い頭を絞って、とはこのことを言うのだろう。だんだん顔を赤らめてきた芳香は、
「う……うおぉぉぉぉぉぉ!」
遂に爆発した。
「響子! だから止めたのに!」
「うぅ……いや、でもこうなったら私達が有利よ! 実力勝負に持ってこれたもの!」
響子の思惑通りなのかはさておき、目の前のキョンシーは戦闘態勢に入った。互いに距離をとると、早速芳香がカードを切る。
「ポイズンマーダー!」
闇雲に突撃し、前方も確認しないで力任せに腕を振るった。深夜で視界が悪いため、攻撃が当たるかどうかは誰にも判らない。
だから、響子と一輪は必要以上の力で地面を蹴り、それぞれ逆方向に緊急回避をした。
直後、バリバリィ! と音が聞こえ、響子も一輪も背筋が冷たくなる。芳香の爪が剥がれたのか、それとも墓石が甚大な被害を受けたのか。
しかし芳香の影は止まらない。目標が分散してしまったため、より近くにいた一輪に狙いを定める。
もう一度跳びかかってくるのを見て、一輪は己の唯一の獲物である鉄製のリングを取り出した。
リングは幽かな月の光を照り返し、深夜でも神々しく輝いている。それを遠めで見た響子は、これから一輪が相棒、雲山を呼び出すのかと思っていた。が、
一輪は一つのリングを両手で持ち、跳びかかる芳香にフルスイングする。
「うがっ……!」
直撃し、真横に飛ばされる芳香。予想外の反撃に目を白黒させている――と思いきや、その表情に変化は無い。やはり何も考えていないのだろう。
唖然とした顔で一輪を見ていた響子だが、やがて芳香がこちらに飛んでくるのを見て、我に返りカードを切った。
「アンプリファイエコー!」
飛び込んでくる芳香を包み込むように、前後左右から弾幕で挟み撃ちにする。一輪のもとへ跳び込んでからこの間約十秒。芳香はあまりにあっさりと地に伏してしまった。
『やったね!』
お互い駆け寄り、ハイタッチをする。決着はついた。スペルカードルールで負けた以上、こちらの要求は呑まなければならない。次に使い主が訪れたら、聖を通して正式に要求してもらえばよい。
思えば、響子と一輪が二人で一つのことを成し遂げる機会などこれまで無かった。お互いの絆もいっそう深まり、目的以上のものが得られたと、強く感じられたのだった。
*
「ところで一輪。この墓石、どうしよう?」
「傷が……非常に目立ちますね」
改めて寝床に戻ろうとした二人だが、戦場に残された傷跡は思いの外大きかった。
ポイズンマーダーをまともに喰らった墓石は、丁度銘文の彫刻を切り裂くように深手を負っている。
芳香の討伐には成功したものの、これでは聖から大目玉を食らってしまうだろう。
「すぐにはバレないかもしれないけど、三が日は石工も休みだろうし……」
「う……」
「う?」
唸るような声に反応した響子。しかし、一輪は首を傾げるだけでなんとも無い。直後、響子が叫ぶ。
「一輪、後ろッ!」
「!」
一輪が振り返るより速く、いつの間にか立ち上がっていた芳香がその首筋に牙を剥く。
「うおぉぉぉっ!」
「はっ、しまっ――」
咄嗟のことで、回避行動が取れなかった。芳香は一輪の首に吸血鬼の如く噛み付き、勢い余ってそのまま傷ついた墓石に倒れこむ。
「一輪ッ! しっかり!」
響子の呼びかけに応答は無い。その代わり、芳香が離れると同時にゆっくりと起き上がり、生気の抜けた目で響子を見る。
「一輪……」
その様子は、どう見ても尋常ではなかった。携えていた鉄製のリングが拳から滑り落ち、カラン、と虚しい音を立てる。
「ぅあ……響……子……」
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃ!」
戦友の容態などお構い無し。響子は一目散に逃げ出した。
(一輪はもう駄目だ! きっと怒られるけど、これは聖様に助けを乞うしか……!)
何度も躓きそうになりながら、墓地を出るために走り続ける。暗闇の中、道を把握していることが幸いだった。
ところが、響子の目の前に突然壁が現れる。予想もしなかった障害物に顔をぶつけてしまったが、怪我一つ負わなかったのは、それが壁ではなく見知った妖怪だったからだ。
「騒がしさに目が覚めて来てみれば……こんな時間に何をしているのですか、あなたたちは」
「と、寅丸様……うぇぇぇぇぇぇ……」
そこに現れたのは、寝巻きに室内用の羽織を重ね着した毘沙門天の化身、寅丸星。
思わず抱きついたまま顔をうずめて泣き出す響子だったが、しかし星はそんな響子を引き剥がし、頬を平手で打った。
「痛っ……」
「事情を説明なさい。何があったのですか」
「う……墓地にいたキョンシー――宮古芳香を退治しようと思って、ぐすっ、そうしたら一緒にいた一輪が……一輪が……」
「何? 一輪がどうしたのですか」
聞き返した星だが、それと同時に響子の背後から忍び寄る影が見えた。他でもない、一輪である。
「響……子……仲……間に……」
「ひぃぃ!」
再び星に抱きつく響子。しかし星は冷静だった。懐から黄金色に輝く宝塔を取り出す。
「焦土曼荼羅」
そう唱えると、宝塔から格子状に光線が放たれて一輪を包囲した。
いまだ意識のはっきりしない一輪は、光線に触れようとして寝巻きの袖が焦げたことに驚いたりしている。
「一輪が……悪霊にでも取り付かれたのですか?」
「ぁ……あいつに……宮古芳香に噛み付かれて、そうしたらあんなふうにフラフラって……」
「なるほど。概ねの事情は察しました。ではもう一つ。何故宮古芳香を退治しようと思ったのです?」
「それは……私達の墓地にいつまでも居座ってて……迷惑だからです」
「ほう。迷惑ですか。私や聖が、いつ迷惑だと言いましたか?」
「……ふぇ?」
「戯け者っ!」
「っっ!」
「いいですか。確かに墓地に宮古芳香が現れたときは、私も聖も議論を余儀なくされました。その結果、彼女には居場所を狭めてもらう代わりに、我々は手を出さないことに決めているのです」
「でもそれでは……いつまでもそこに居っぱなしじゃ無いですか」
「現在の宮古芳香は、あの場所を護るためだけに生きています。その目的を奪うことが、彼女にとってどれほど辛いことであるか、想像できないのですか?」
「……あれでは他の参詣者の迷惑じゃないですか。これでは寺が寂れてしまいます」
「そうなったとしても、在るがままを受け入れるのが仏教の基本です。栄えようと廃れようと、我々が仏の道を貫くことに変わりはなし」
包囲されている一輪の後ろから、芳香が顔を出した。焦土曼荼羅に阻まれて先に進めないが、その目だけは星と響子を真っ直ぐ見ていた。
「こんな寒い夜中でもひたむきに役目を全うしようとする姿勢を、あなたは己の主観だけで排斥しようとするのですか?」
「…………」
返す言葉の無くなった響子。そこへ、星の背後にもう一つの人影が現れた。
「話は聞かせてもらったよ」
「ぬえ……盗み聞きは感心しませんね」
寝巻き姿のままそこに立つのは、封獣ぬえ。いつから聞かせてもらっていたのか響子には判らなかったが、いつに無く得意げなその様子に少し安心感を覚えた。
「私に任せてくれれば、誰も辛い目に遭わない結末を迎えられる。誰もが幸せに元旦を迎えられるよ」
星はやや考え込んだ。
「そんなに上手く事が進むのですか?」
「まあ任せてよ。本人の同意も取る。悪いようにはしないからさ」
「はあ……わかりました。あなたを信用しましょう。後で面倒なことになっても、放り投げずに責任持って対処してくださいね」
「大丈夫大丈夫。一輪の方も何とかするから、お二人は寝室に戻っててよ」
胡散臭さすら感じる自身だが、星が認めたのならこれに従うほか無い。
「あの、寅丸様」
「何ですか」
やや苛ついて返事をする星。
「迷惑をかけてしまったこと、できれば聖様には……」
言いにくそうに言葉尻を弱める響子。星は溜息をついて、
「あなたも反省したようですし、分かりました。今回の件は大ごとにしないようにしましょう」
「あっ、ありがとうございます!」
「じゃあぬえも、後を頼みましたよ」
「了解よ」
一輪達の前で立ち塞がるぬえに背を向け、響子と星は寝室へと戻ったのだった。
*
翌朝。すなわち元旦である。
結局あの後はほとんど眠れなかった響子だが、早起きには慣れているのでそこまで辛い思いはしなかった。
目が覚めたときには一輪もぬえも布団の中におり、昨晩のことがまるで夢だったのかとも思える。
朝の読経を済ませた後、冬の日課である雪かきをした。あまり雪が積もっておらずすぐに終わったため、一輪が炊事をしている台所へ向かう。
「一輪、手伝うよ」
「ありがとうございます。そちらに焼き上がった鮭がありますので、重箱に詰めてもらえますか?」
言われた通り、菜箸で鮭の切身を詰めていく。しばらく無言だった二人だが、やがて一輪がおもむろに口を開いた。
「昨夜はすみませんでしたね。その……見苦しい姿を晒してしまって」
「うん……気にしてないよ。一歩間違えたら私も巻き添えだったし、ちゃんと元に戻れたんだからよかったじゃない」
「実は襲われてからのことをよく覚えていないのだけど、響子を危険に追い込んでしまったのではないかと気が気でなかったんですよ」
本当に申し訳なさそうに言う一輪。一時的にキョンシーとなってしまったことがよほどショックだったのだろう。
「いやあ、あれくらい非常事態の内にも入らないよ。私が本気を出せばあれくらい……」
「……そうですか? 俄かに信じがたいけど……記憶が無い以上、疑いようもありませんね」
少し空気が和らいだところで、お互い再び口を閉ざしてしまった。その後も一輪が簡単に指示を出すだけで、大した会話の無いまま朝食の準備が終了した。
*
「ええ、皆さん。あけましておめでとうございます」
『おめでとうございます』
白蓮の挨拶で皆が頭を下げる。十二畳間に集まった修行僧達の前には、響子と一輪が重箱に詰めたおせち料理が並んでいる。
勿論獣肉は厳禁であるし、質素倹約を常とする修行生活においてあまり華やかな食事は出来ないが、それでも許容される限りの贅沢がそこにあった。
川蟹、焼鮭、煮豆、錦卵など、日常生活ではまず口に出来ない甘味たちに、思わず面々の頬も緩んでしまう。
「今年も一年、仏の教えを堅く守って、健康に過ごすことが出来ますように……合掌」
白蓮に合わせて皆が合掌し、食事前のお経を唱える。とはいえ、落ち着いて唱えていたのは白蓮と星ぐらいのもので、残りの者は目の前に広がる楽園に目を奪われてしまっていた。
「――はい。それではいただきます」
『いただきます!』
誰もが最高の味に舌鼓を打ち、近くの者と歓談しながら朝食は進行していく。酒も無ければ餅も無い正月だが、それでも十二分に楽しんでいた。
響子も一輪も、勿論星も、昨夜のことについては全く触れずに食べていたが、ふと響子は気になってぬえの方を向いた。
ぬえは座敷の一番端、マミゾウと向かい合う席で二人談笑している。相変わらず周囲から浮いているが、それでも元旦を普通に満喫しているようだ。
(……そういえば、ぬえはあの後どうやって芳香を言いくるめたんだろう?)
こればかりは本当に、誰も真実を知らない。しかし、雪かきをしながら墓地を覗いたところ、本当に芳香はいなくなっていた。
(まあ……いっか)
この場で問いただすわけにもいかないし、現状問題が起きていないのだから、気にすることは無いのかもしれない。むしろ響子としては、この件を一つの悪夢と結論付けてしまいたいくらいなのだ。
在るがままを受け入れよう。星に教わった通りに考えてみたら、スッと心が軽くなったのを感じた。
*
時を同じくして、墓地を囲む雑木林の奥の方に芳香はいた。辺りは一面の雪である。
そこで芳香はいつものように、ポケーっとした顔で突っ立っている。何かを護っているような、そうでもないような。
彼女の周りに墓地は無い。あるのは種類も高さもまちまちな整備の行き届いていない林である。
ぬえの力によって、彼女は今も墓地を護っているつもりでいる。周囲の木々を墓石と見間違えている事も知らずに。
とはいえ、あの場所から霊廟が復活した時点で墓地を護る意味はなくなっていたし、少し居場所がずれただけで芳香に直接の影響は無い。
また、無事に邪魔者を排除して職務を全うしたからだろうか、常に生気の無いその顔も、些かながら達成感を感じるものになっている。
「新年の目標……」
おもむろに口を開く。そこに本人の意思はない。ただ、林に射し込む冬の太陽を浴び、自然と口が動いていた。
「私の心で、ご主人様の命を受けること……」
A Happy New Year!
新たな恒例行事とします。
命蓮寺一同の年明けはバタバタしつつもまったりとしてますね。
良い作品でした。作者さんも良い一年を!