信濃国一宮である諏訪大社には、沢山の不思議が溢れている。荒々しく天へとそびえ立つ御柱と、神の奇跡とも言われる御神渡り。そしてまた、秋宮入口にある寝入りの杉もその一つだ。この杉の木の小枝を、煎じて飲ませると、子供の夜泣きが止まるらしい。私も何度かお母さんに飲まされたらしいが、あまりに小さい頃だったので覚えていない。
「ねえ、早苗。この杉の木が、どうして寝入りの杉と呼ばれてるのか知ってるかい?」
私の隣で杉を眺めていた神奈子様が、突然口を開いた。背中に据え付けられた太く凛々しい注連縄と、胸元で光を放つ真澄の鏡が何とも神々しい。神様なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだけれど。
「え?この木の枝を煎じて飲ませると、子供の夜泣きが止まるからじゃないんですか?」
神奈子様は寝入りの杉へと近寄り、そっと表面に触れた。寝入りの杉は御柱と違い、黒々とした樹皮に覆われていて、大きく広がった枝葉も生きる力に溢れている。神奈子様は、ささくれだった樹皮を一枚静かに剥がし、スカートのポケットにしまった。
「この木の下にはね、私の古い友人が眠っているんだ。洩矢諏訪子っていう名前の、祟り神さ」
「祟り神様ですか・・・!?」
私は思わず杉の木から離れた。さっきまで光を目一杯受けて輝いていた杉の木が、突然化け物になって襲いかかってくるような気がした。枝の一本一本が赤い目をした毒々しい蛇に変わり、私の体を締めつけてくるのだ。そのうちの一匹が大きな口を開いて、私を頭からパクリと・・・・。
「あのさ、お前の隣にいる私も、一応軍神なんだぞ?祟り神だからってそんなに怖がることはない。それにこいつは信仰が足りなくて、今じゃ杉の木の下から出られなくなってしまった」
神奈子様は私の隣に戻ってきて、一つ溜息をついた。初冬の木枯らしのような、寂寥感の漂う溜息だった。
「本当なら、こいつも幻想郷に連れて行きたかったんだけどな」
私と神奈子様は、数日後に、幻想郷という所に引っ越すのだ。なんでも幻想郷には、こちらの世界で忘れられた妖怪や、道具が溢れているらしい。妖怪ってどんな奴らなんだろう?ゲゲゲの鬼太郎みたいな奴を想像しているんだけど、間違いないだろうか?
そして、なぜ幻想郷へと引っ越さなければいけないのか?それは、現代社会における信仰の不足が原因だ。全ての事象を科学で解明し、宇宙にさえその手を伸ばそうとする人間達、この世界に神の居場所は無かった。ニーチェの言うとおり、今、神は死のうとしているのだ。
「でも、早苗は本当にいいのかい?あんたは来なくても、私一人で・・・・」
「いいんです。私は現人神の東風谷早苗ですよ?どこまでも神奈子様にお供します」
それが東風谷の家のしきたりだから、そう答えたら神奈子様はどんな顔をするだろう?
ーーー
そんなある日の晩、私は夢を見た。不思議な夢だった。壁も天井も床もない真っ暗な空間に、一人の女の子がいた。見た目からすると小学生だろう。先端に奇妙な目玉の付いた薄茶色の帽子と、昔博物館で見た、壺装束という服に身を包んでいる。
少女は泣いていた。小さくうずくまって、顔を両手で塞いでいる。それでも溢れる涙は指の隙間を抜け、暗い空間をどこまでも落ちていった。時々苦しそうに大きく息を吸う。それでも涙を止まらない。何がそんなに悲しいのだろうか。分からないけれど、彼女の体は震えていた。
いつかの私みたいだと思った。神社の境内で一人泣いてた私。
近くに行って慰めてあげようと思うのだけれど、どうしても足が動かない。手を目一杯伸ばしても届かない。むしろ女の子は遠ざかって、どんどん小さく見えなくなっていく。
「待って!」
言葉は響くことなく落ちていく。私も落ちて落ちて落ちて落ちて・・・・・
ーーー
いつのまにか夢から覚めた。冬だというのにパジャマが寝汗でじっとりと湿っているのは、あんなおかしな夢を見てしまったからだろう。気持ち悪いので、急いで服を着替える。着替えて朝ご飯を食べて、今日も学校に行かなければならない。
学校は退屈だ。特に幻想郷への引越しが決まってから、授業はテレビの先の出来事のように現実味がなくなってしまった。物理法則も化学式も、もう使うことがない。頑張っていたテスト勉強も、手作りした暗記カードも水の泡。
黒板が真白な文字で埋まっていくのを、私はただぼんやりと眺めていた。できることなら早送りにしてしまいたい。先生が黒板からこちらに向き直って何か叫んでいるのだが、よく聞こえなかった。
「早苗聞いてるの?」
隣に座る遙ちゃんが話しかけてきた。
「え、ごめん。聞いてなかった」
「ねえ、最近の早苗ちょっと変だよ?なんか辛いことがあるなら、私に相談してね?」
私これから、神様と一緒に妖怪の国に引っ越すの。私は喉から出かかったそんな言葉を飲み込んで、曖昧に微笑んだ
私の祈りが神奈子様に通じたのかもしれない。いつのまにか学校の授業が終わっていて、私は帰路についていた。
信号を渡ってその先を右に曲がると、諏訪湖に夕日が沈んでいくのが見えた。毎日毎日通ってきた道、いつも俯いていたから気づかなかった。そっか、夕日ってこんなに綺麗だったんだ。丸くて赤い塊は眩しいけれど、いつまでも見ていたいと思えた。私は立ち止まって、ただただ夕日を眺めていた。
柔らかく白みがかった光を届ける夕日は、私の中の記憶をちょっとだけ揺り動かした。坂道を転がるビー玉みたいに鮮やかに軽い音を立てて、隅っこで置き去りにされてた感情が戻ってくる。拾い上げたそれはあまり良い思い出ではなかったけれど、もう数日でこの世界とおさらばするのだ、最後にもう一度見ておくのも悪くないかもしれない。
私は帰り道から少しそれて、諏訪大社秋宮を目指した。
ーーー
秋宮には全く人がいなかった。冬のこの時間はすでに寒く、参拝客は殆どいないのだ。諏訪大社を信仰する人々が減ってしまったのも、がら空きな理由の一つかもしれない。私は祟り神様のいる寝入り杉を避けるようにして境内へと入り、中央にある神楽殿の石階段に腰を下ろした。
「冷たい・・・」
石でできた階段は冬の風に晒されて、凍ったように冷たかった。太ももに伝わった冷気が全身を抜け、思わず身を震わせた。鞄を抱きしめるようにしてうずくまる。
そう、あの時も私はぶるぶる震えてたんだ。寒くて悲しくて、泣くことしかできずにいたんだ。
東風谷は、代々諏訪大社に神官として仕える家柄だ。元々は神の血筋で、中には神通力なんかを使える者もいたらしい。でも、時を重ねるごとにその力は衰えていった。代を重ねれば神の血は薄くなる、当然の帰着だろう。
そんな中、産まれたのが私だった。神の姿を見て、その言葉を伝えることができる、東風谷の家は私に大きな期待を寄せ、友達は狂信者だと私を避けていった。どれだけ神奈子様のことを伝えても、誰も信じてはくれなかった。原子やビッグバンを当然のように受け止める人々は、神の存在を信じようとはしなかった。それが、人間としての常識というやつなんだろう。
いつのまにか、夕日は殆ど見えなくなってしまっていた。残ったわずかな光を遮るように、寝入りの杉が立ちふさがっている。杉は地面に大きな影を落とし、私は小学生の頃読んだモチモチの木を思い出して、少し怖くなった。あの話ってどんな終わり方するんだったっけ?
「確かお爺ちゃんが病気になっちゃって・・・それで、えーっと・・・・」
教科書の挿絵まで思い出すことができるのに、結末だけがどうしても濁って見えない。
「・・・・・もうそろそろ帰ろうかな」
結局モチモチの木の結末は思い出せないし、嫌な記憶ばかりが鮮明に残っていることに腹が立った。こんなことなら、真っ直ぐ家に帰って、布団にくるまっていればよかった。そうすれば寒い思いなんて、しなくて済んだのに。全部夕日が悪いんだ。あれに照らされると、何でも美しく見えるから、過去の傷とも分かり合えるような気がしてしまったのだ。でも、全然そんなことは無かった。傷はやっぱり傷で、痛いままだ。
「あれ早苗。どうしたんだい?」
「神奈子様!?」
階段から立ち上がり前を向くと、いつの間にか神奈子様がいた。さすが神様、文字通り神出鬼没である。全然気づかなかった。
「神奈子様こそ、一体どうしてこちらに?」
私は神奈子様の質問に答えたくなくて、逆に問い返してみた。
「うーん。寝入りの杉の様子が見たくてな」
神奈子様は気まずそうに少し頭を掻いて、境内の入り口にある寝入りの杉の方へと歩き始めた。私も神奈子様の後ろを小走りでついて行く。砂利に躓いて少し転びそうになった。
「もうあいつ、何百年も眠ったままなんだ。だから最後に話した内容もよく覚えていないし、友と呼んでいいのかも分からない。でも、いざお別れとなると、やっぱり寂しいものだな」
「天下の軍神様が何を仰るのですか?」
神奈子様は腕を組んで首を捻って少し考えた後、綺麗な笑顔をつくって言った。
「逆だよ。軍神だから分かるんだ。一緒に戦場を駆けてくれる友が、どれだけ大事なのかってことがね」
私は何も言えなくなって、ただ俯くしか無かった。日本中にその名を轟かせる軍神、神奈子様でも、一人で戦うことはできないのか。独りぼっちというのは、そんなに寂しいことなのか。今でも私は寂しいままなのか。
「掘りましょう」
「え?」
「この杉の根元に、神奈子様のご友人が眠ってらっしゃるのでしょう?だったら掘りましょうよ」
「いや、掘るって言ったって・・・ちょっと早苗?」
私は寝入りの杉を囲む柵を飛び越え、素手のまま土を掘り始めていた。冬場の土は硬く冷たく、まるで鉄でできた壁のようだった。爪の間に砂が入って痛むし、手は寒さで痺れていく。それでもやめちゃいけない気がして、私は必死で掘り続けた。
「本当に、早苗は言うことを聞かないんだから・・・」
神奈子様はそう言って呆れたように笑いながらも、二人分のスコップを用意してくれた。
「というか、神奈子の神力で何とかならないんですか?」
「私の力も随分落ちてるからなあ。試してみたけどだめだった」
「全く。しっかりしてくださいよね」
「まさか巫女に怒られるとは・・・・」
私達は寒さも忘れて、スコップを地面に突き立てた。穴は少しずつ少しずつ広く深くなっていくが、それに伴って硬さも増していき、スコップでもなかなか掘るのが難しくなる。
「本当、お前には迷惑かけてばかりだな、早苗」
「急にどうしたんですか?」
「お前がいなければ、私はもう、この土地で死を待つだけだったかもしれない。どれだけ信仰が減っても隣にいてくれるお前の存在に、私がどれだけ救われてきたことか」
「・・・勿体無いお言葉です」
その後も私と神奈子様は穴を掘り続けたが、結局眠ったままの祟り神様に辿り着くことはできなかった。神奈子様の神力でも届かないのだ。元々無理な話だったのかもしれない。
「それでも、お前が頑張ってくれて私は嬉しかったよ」
神奈子様はそう言って、私の頭を撫でた。
ーーー
その晩、また夢を見た。前と同じように少女が泣いていた。凍えたかのように全身が震えていて、今にも溶けて、なくなってしまいそうなほど小さい。あの時の私も、これくらい小さかったのだろうか。今の私は、大きくなれているだろうか。少女のすすり泣く音がこだまして、空間全体に響き渡っている。耳を塞ぎたくなるのを必死で堪えて、私は少女を見つめていた。
「あぁ・・・」
あの少女も悲しいんだなあ。そう思うと、沢山の気持ちが、キャンバスにぶちまけられた絵の具みたいに込み上げてきた。全体的には暗色が多くて、地味な感じのキャンパスだ。きっと悲しいことが多くて、あんまり笑っていなかったからだろう。でも中には黄色とか緑とか暖かい色も混ざっていて、暗いキャンパスに光を添えていた。そういうものなのかなって、少し笑えた。
泣きじゃくる少女にも、そんな風に笑って欲しいなって思った。
「頑張って・・・・」
言葉は意識しなくても、自然と口から流れていった。少女の泣き声に負けないように、必死に声を張る。
「頑張って・・・!」
届かない手を伸ばして、動かない足を懸命に動かして、私は少女に叫んだ。聞こえなくてもいい。それでも言葉にしなきゃいけないと思った。あの時と同じように少女は遠ざかって行く。小さかった体がさらに小さく、消えてしまいそうになる。それでも叫ぶのをやめようとは思わなかった。
「大丈夫、貴方を分かってくれる人はきっとどこかに居るから、心配しなくていいよ!」
そうか、私はずっとこの言葉を待ってたんだ。些細な言葉で良かった。神楽殿で泣いていた私は、誰かに助けて欲しかったんだ。震える体を抱きしめて、一緒にいてくれる人を探してたんだ。そうすれば私は立ち上がって、前に進むことができる。あの子もきっと笑ってくれる。
私はもう一度声を張り上げて叫んだ。
「辛いのは分かる、独りぼっちはやっぱり寂しいよね。でも・・・!」
いつの間にか私も泣いていた。大粒の涙が頬を伝う。それを拭うこともせずに、思いっきり両手を伸ばす。女の子との距離は果てしなく遠くなっていたけれど、彼女が手を伸ばせば、掴むことができるような気がした。
暗かった世界は少しずつ少しずつ明るくなっていた。それはまるで、諏訪湖に落ちていく夕日のようだった。
「一緒に歩いていこう・・・?」
全てが白く染まり、私もあの子も落ちていく。涙の雫が光を反射する。世界がなくなる最後の瞬間、彼女がこっちを振り返ったような気がした。
ーーー
「さあ、行こうか」
「はい」
幻想郷への出発の時が来た。私と神奈子様は氷上を歩いて、諏訪湖の中央に来ていた。冬も終わりに近づき、氷は所々薄くなっていて、ここまで来るのに結構苦労した。氷の厚い所を見極めて進まないと、湖に落ちて凍死なんてこともありえる。
「うぅ・・・。それにしても寒いですね」
私は思わず、着てきたコートの襟を立てた。ただでさえ寒い諏訪の冬、夜の湖上ともなればその寒さは信じられないものだった。テレビでやっていた、タオルを振り回して、凍りつかせる実験を思い出す。そんな寒さの中でも、神奈子様はいつも通りの服装だった。神には、寒いなんて概念はないのかもしれない。
「結局あいつは起きて来なかった・・・。いつまで冬眠してるつもりなんだか。もうすぐ春が来るっていうのに」
神奈子様は、秋宮の方角を見つめながらそう呟いた。結局祟り神様は寝入りの杉の根元から目覚めず、幻想郷へ旅立つのは私達二人だけとなった。残念だけれど、しょうがないことなのかもしれない。
神奈子様が両手を広げ、結界に裂け目を作った。勿論神奈子様に境界を操る力はない。無理矢理こじ開けたのだ。裂け目の向こうは黒ずんでいて、様子が見えない。幻想郷は、私達のことをどんな風に迎えてくれるのか。不安だけれど、期待も大きかった。
「行こう」
神奈子様が一歩一歩裂け目へと進んでいく。そして、境を跨いだ瞬間に消えてしまった。
「そうかあ・・・。この世界ともさよならなのか・・・」
神奈子様が行ってしまうと、突然引越しが現実的に感じられてきた。もうこの景色を見ることもないし、学校に通うこともない。黒板を写す必要はなくなるし、夕日を眺めることはできなくなる。嫌な思い出ばっかりかと思っていたけど、案外楽しい思い出も多くて、私は笑ってしまった。
もう一度秋宮の方角へと視線を移す。境内の入り口には、相変わらず大きな寝入りの杉が生えていて、それを抜けると神楽殿がある。赤い屋根と白い石階段。全部全部さよならなんだ。
「さよならなんだ・・・」
「おい神奈子ー!私をおいてくな!というか神社を何処に持って行く気だー!」
突然の大声と共に、風を切って、秋宮の方から何かがものすごい勢いで飛んでくる。
「あれって・・・」
大きな薄茶色の帽子を飛ばされないようしっかりと押さえつけ、壺装束の袖をはためかせる少女。少女の軌道に合わせて湖面の氷が砕け、道を形作っていく。砕けた氷は月の光を反射して、幻想的に輝いていた。
「奇跡が起きたんだ・・・」
夢の中の女の子は、もう泣いてはいなかった。これからの未来が楽しみで仕方ないような、不敵な笑顔を浮かべている。あんなに小さく見えたのに、今では元気一杯だ。
貴方はちゃんと立ち上がれたんだね。私もちゃんと、立ち上がれたかな?
「早く・・!!」
思わず私は、彼女に向けて手を伸ばした。
「ありがと!」
私が伸ばした手を、彼女は力一杯握りしめた。
ーーー
「ニュースをお伝えします。先日、長野県諏訪湖で季節はずれの御神渡りが確認されました。 御神渡りは通常一月末から二月上旬に起こることが多く、今回のような二月下旬という観測例は、史上初とのことです」
「ねえ、早苗。この杉の木が、どうして寝入りの杉と呼ばれてるのか知ってるかい?」
私の隣で杉を眺めていた神奈子様が、突然口を開いた。背中に据え付けられた太く凛々しい注連縄と、胸元で光を放つ真澄の鏡が何とも神々しい。神様なのだから、当たり前と言えば当たり前なのだけれど。
「え?この木の枝を煎じて飲ませると、子供の夜泣きが止まるからじゃないんですか?」
神奈子様は寝入りの杉へと近寄り、そっと表面に触れた。寝入りの杉は御柱と違い、黒々とした樹皮に覆われていて、大きく広がった枝葉も生きる力に溢れている。神奈子様は、ささくれだった樹皮を一枚静かに剥がし、スカートのポケットにしまった。
「この木の下にはね、私の古い友人が眠っているんだ。洩矢諏訪子っていう名前の、祟り神さ」
「祟り神様ですか・・・!?」
私は思わず杉の木から離れた。さっきまで光を目一杯受けて輝いていた杉の木が、突然化け物になって襲いかかってくるような気がした。枝の一本一本が赤い目をした毒々しい蛇に変わり、私の体を締めつけてくるのだ。そのうちの一匹が大きな口を開いて、私を頭からパクリと・・・・。
「あのさ、お前の隣にいる私も、一応軍神なんだぞ?祟り神だからってそんなに怖がることはない。それにこいつは信仰が足りなくて、今じゃ杉の木の下から出られなくなってしまった」
神奈子様は私の隣に戻ってきて、一つ溜息をついた。初冬の木枯らしのような、寂寥感の漂う溜息だった。
「本当なら、こいつも幻想郷に連れて行きたかったんだけどな」
私と神奈子様は、数日後に、幻想郷という所に引っ越すのだ。なんでも幻想郷には、こちらの世界で忘れられた妖怪や、道具が溢れているらしい。妖怪ってどんな奴らなんだろう?ゲゲゲの鬼太郎みたいな奴を想像しているんだけど、間違いないだろうか?
そして、なぜ幻想郷へと引っ越さなければいけないのか?それは、現代社会における信仰の不足が原因だ。全ての事象を科学で解明し、宇宙にさえその手を伸ばそうとする人間達、この世界に神の居場所は無かった。ニーチェの言うとおり、今、神は死のうとしているのだ。
「でも、早苗は本当にいいのかい?あんたは来なくても、私一人で・・・・」
「いいんです。私は現人神の東風谷早苗ですよ?どこまでも神奈子様にお供します」
それが東風谷の家のしきたりだから、そう答えたら神奈子様はどんな顔をするだろう?
ーーー
そんなある日の晩、私は夢を見た。不思議な夢だった。壁も天井も床もない真っ暗な空間に、一人の女の子がいた。見た目からすると小学生だろう。先端に奇妙な目玉の付いた薄茶色の帽子と、昔博物館で見た、壺装束という服に身を包んでいる。
少女は泣いていた。小さくうずくまって、顔を両手で塞いでいる。それでも溢れる涙は指の隙間を抜け、暗い空間をどこまでも落ちていった。時々苦しそうに大きく息を吸う。それでも涙を止まらない。何がそんなに悲しいのだろうか。分からないけれど、彼女の体は震えていた。
いつかの私みたいだと思った。神社の境内で一人泣いてた私。
近くに行って慰めてあげようと思うのだけれど、どうしても足が動かない。手を目一杯伸ばしても届かない。むしろ女の子は遠ざかって、どんどん小さく見えなくなっていく。
「待って!」
言葉は響くことなく落ちていく。私も落ちて落ちて落ちて落ちて・・・・・
ーーー
いつのまにか夢から覚めた。冬だというのにパジャマが寝汗でじっとりと湿っているのは、あんなおかしな夢を見てしまったからだろう。気持ち悪いので、急いで服を着替える。着替えて朝ご飯を食べて、今日も学校に行かなければならない。
学校は退屈だ。特に幻想郷への引越しが決まってから、授業はテレビの先の出来事のように現実味がなくなってしまった。物理法則も化学式も、もう使うことがない。頑張っていたテスト勉強も、手作りした暗記カードも水の泡。
黒板が真白な文字で埋まっていくのを、私はただぼんやりと眺めていた。できることなら早送りにしてしまいたい。先生が黒板からこちらに向き直って何か叫んでいるのだが、よく聞こえなかった。
「早苗聞いてるの?」
隣に座る遙ちゃんが話しかけてきた。
「え、ごめん。聞いてなかった」
「ねえ、最近の早苗ちょっと変だよ?なんか辛いことがあるなら、私に相談してね?」
私これから、神様と一緒に妖怪の国に引っ越すの。私は喉から出かかったそんな言葉を飲み込んで、曖昧に微笑んだ
私の祈りが神奈子様に通じたのかもしれない。いつのまにか学校の授業が終わっていて、私は帰路についていた。
信号を渡ってその先を右に曲がると、諏訪湖に夕日が沈んでいくのが見えた。毎日毎日通ってきた道、いつも俯いていたから気づかなかった。そっか、夕日ってこんなに綺麗だったんだ。丸くて赤い塊は眩しいけれど、いつまでも見ていたいと思えた。私は立ち止まって、ただただ夕日を眺めていた。
柔らかく白みがかった光を届ける夕日は、私の中の記憶をちょっとだけ揺り動かした。坂道を転がるビー玉みたいに鮮やかに軽い音を立てて、隅っこで置き去りにされてた感情が戻ってくる。拾い上げたそれはあまり良い思い出ではなかったけれど、もう数日でこの世界とおさらばするのだ、最後にもう一度見ておくのも悪くないかもしれない。
私は帰り道から少しそれて、諏訪大社秋宮を目指した。
ーーー
秋宮には全く人がいなかった。冬のこの時間はすでに寒く、参拝客は殆どいないのだ。諏訪大社を信仰する人々が減ってしまったのも、がら空きな理由の一つかもしれない。私は祟り神様のいる寝入り杉を避けるようにして境内へと入り、中央にある神楽殿の石階段に腰を下ろした。
「冷たい・・・」
石でできた階段は冬の風に晒されて、凍ったように冷たかった。太ももに伝わった冷気が全身を抜け、思わず身を震わせた。鞄を抱きしめるようにしてうずくまる。
そう、あの時も私はぶるぶる震えてたんだ。寒くて悲しくて、泣くことしかできずにいたんだ。
東風谷は、代々諏訪大社に神官として仕える家柄だ。元々は神の血筋で、中には神通力なんかを使える者もいたらしい。でも、時を重ねるごとにその力は衰えていった。代を重ねれば神の血は薄くなる、当然の帰着だろう。
そんな中、産まれたのが私だった。神の姿を見て、その言葉を伝えることができる、東風谷の家は私に大きな期待を寄せ、友達は狂信者だと私を避けていった。どれだけ神奈子様のことを伝えても、誰も信じてはくれなかった。原子やビッグバンを当然のように受け止める人々は、神の存在を信じようとはしなかった。それが、人間としての常識というやつなんだろう。
いつのまにか、夕日は殆ど見えなくなってしまっていた。残ったわずかな光を遮るように、寝入りの杉が立ちふさがっている。杉は地面に大きな影を落とし、私は小学生の頃読んだモチモチの木を思い出して、少し怖くなった。あの話ってどんな終わり方するんだったっけ?
「確かお爺ちゃんが病気になっちゃって・・・それで、えーっと・・・・」
教科書の挿絵まで思い出すことができるのに、結末だけがどうしても濁って見えない。
「・・・・・もうそろそろ帰ろうかな」
結局モチモチの木の結末は思い出せないし、嫌な記憶ばかりが鮮明に残っていることに腹が立った。こんなことなら、真っ直ぐ家に帰って、布団にくるまっていればよかった。そうすれば寒い思いなんて、しなくて済んだのに。全部夕日が悪いんだ。あれに照らされると、何でも美しく見えるから、過去の傷とも分かり合えるような気がしてしまったのだ。でも、全然そんなことは無かった。傷はやっぱり傷で、痛いままだ。
「あれ早苗。どうしたんだい?」
「神奈子様!?」
階段から立ち上がり前を向くと、いつの間にか神奈子様がいた。さすが神様、文字通り神出鬼没である。全然気づかなかった。
「神奈子様こそ、一体どうしてこちらに?」
私は神奈子様の質問に答えたくなくて、逆に問い返してみた。
「うーん。寝入りの杉の様子が見たくてな」
神奈子様は気まずそうに少し頭を掻いて、境内の入り口にある寝入りの杉の方へと歩き始めた。私も神奈子様の後ろを小走りでついて行く。砂利に躓いて少し転びそうになった。
「もうあいつ、何百年も眠ったままなんだ。だから最後に話した内容もよく覚えていないし、友と呼んでいいのかも分からない。でも、いざお別れとなると、やっぱり寂しいものだな」
「天下の軍神様が何を仰るのですか?」
神奈子様は腕を組んで首を捻って少し考えた後、綺麗な笑顔をつくって言った。
「逆だよ。軍神だから分かるんだ。一緒に戦場を駆けてくれる友が、どれだけ大事なのかってことがね」
私は何も言えなくなって、ただ俯くしか無かった。日本中にその名を轟かせる軍神、神奈子様でも、一人で戦うことはできないのか。独りぼっちというのは、そんなに寂しいことなのか。今でも私は寂しいままなのか。
「掘りましょう」
「え?」
「この杉の根元に、神奈子様のご友人が眠ってらっしゃるのでしょう?だったら掘りましょうよ」
「いや、掘るって言ったって・・・ちょっと早苗?」
私は寝入りの杉を囲む柵を飛び越え、素手のまま土を掘り始めていた。冬場の土は硬く冷たく、まるで鉄でできた壁のようだった。爪の間に砂が入って痛むし、手は寒さで痺れていく。それでもやめちゃいけない気がして、私は必死で掘り続けた。
「本当に、早苗は言うことを聞かないんだから・・・」
神奈子様はそう言って呆れたように笑いながらも、二人分のスコップを用意してくれた。
「というか、神奈子の神力で何とかならないんですか?」
「私の力も随分落ちてるからなあ。試してみたけどだめだった」
「全く。しっかりしてくださいよね」
「まさか巫女に怒られるとは・・・・」
私達は寒さも忘れて、スコップを地面に突き立てた。穴は少しずつ少しずつ広く深くなっていくが、それに伴って硬さも増していき、スコップでもなかなか掘るのが難しくなる。
「本当、お前には迷惑かけてばかりだな、早苗」
「急にどうしたんですか?」
「お前がいなければ、私はもう、この土地で死を待つだけだったかもしれない。どれだけ信仰が減っても隣にいてくれるお前の存在に、私がどれだけ救われてきたことか」
「・・・勿体無いお言葉です」
その後も私と神奈子様は穴を掘り続けたが、結局眠ったままの祟り神様に辿り着くことはできなかった。神奈子様の神力でも届かないのだ。元々無理な話だったのかもしれない。
「それでも、お前が頑張ってくれて私は嬉しかったよ」
神奈子様はそう言って、私の頭を撫でた。
ーーー
その晩、また夢を見た。前と同じように少女が泣いていた。凍えたかのように全身が震えていて、今にも溶けて、なくなってしまいそうなほど小さい。あの時の私も、これくらい小さかったのだろうか。今の私は、大きくなれているだろうか。少女のすすり泣く音がこだまして、空間全体に響き渡っている。耳を塞ぎたくなるのを必死で堪えて、私は少女を見つめていた。
「あぁ・・・」
あの少女も悲しいんだなあ。そう思うと、沢山の気持ちが、キャンバスにぶちまけられた絵の具みたいに込み上げてきた。全体的には暗色が多くて、地味な感じのキャンパスだ。きっと悲しいことが多くて、あんまり笑っていなかったからだろう。でも中には黄色とか緑とか暖かい色も混ざっていて、暗いキャンパスに光を添えていた。そういうものなのかなって、少し笑えた。
泣きじゃくる少女にも、そんな風に笑って欲しいなって思った。
「頑張って・・・・」
言葉は意識しなくても、自然と口から流れていった。少女の泣き声に負けないように、必死に声を張る。
「頑張って・・・!」
届かない手を伸ばして、動かない足を懸命に動かして、私は少女に叫んだ。聞こえなくてもいい。それでも言葉にしなきゃいけないと思った。あの時と同じように少女は遠ざかって行く。小さかった体がさらに小さく、消えてしまいそうになる。それでも叫ぶのをやめようとは思わなかった。
「大丈夫、貴方を分かってくれる人はきっとどこかに居るから、心配しなくていいよ!」
そうか、私はずっとこの言葉を待ってたんだ。些細な言葉で良かった。神楽殿で泣いていた私は、誰かに助けて欲しかったんだ。震える体を抱きしめて、一緒にいてくれる人を探してたんだ。そうすれば私は立ち上がって、前に進むことができる。あの子もきっと笑ってくれる。
私はもう一度声を張り上げて叫んだ。
「辛いのは分かる、独りぼっちはやっぱり寂しいよね。でも・・・!」
いつの間にか私も泣いていた。大粒の涙が頬を伝う。それを拭うこともせずに、思いっきり両手を伸ばす。女の子との距離は果てしなく遠くなっていたけれど、彼女が手を伸ばせば、掴むことができるような気がした。
暗かった世界は少しずつ少しずつ明るくなっていた。それはまるで、諏訪湖に落ちていく夕日のようだった。
「一緒に歩いていこう・・・?」
全てが白く染まり、私もあの子も落ちていく。涙の雫が光を反射する。世界がなくなる最後の瞬間、彼女がこっちを振り返ったような気がした。
ーーー
「さあ、行こうか」
「はい」
幻想郷への出発の時が来た。私と神奈子様は氷上を歩いて、諏訪湖の中央に来ていた。冬も終わりに近づき、氷は所々薄くなっていて、ここまで来るのに結構苦労した。氷の厚い所を見極めて進まないと、湖に落ちて凍死なんてこともありえる。
「うぅ・・・。それにしても寒いですね」
私は思わず、着てきたコートの襟を立てた。ただでさえ寒い諏訪の冬、夜の湖上ともなればその寒さは信じられないものだった。テレビでやっていた、タオルを振り回して、凍りつかせる実験を思い出す。そんな寒さの中でも、神奈子様はいつも通りの服装だった。神には、寒いなんて概念はないのかもしれない。
「結局あいつは起きて来なかった・・・。いつまで冬眠してるつもりなんだか。もうすぐ春が来るっていうのに」
神奈子様は、秋宮の方角を見つめながらそう呟いた。結局祟り神様は寝入りの杉の根元から目覚めず、幻想郷へ旅立つのは私達二人だけとなった。残念だけれど、しょうがないことなのかもしれない。
神奈子様が両手を広げ、結界に裂け目を作った。勿論神奈子様に境界を操る力はない。無理矢理こじ開けたのだ。裂け目の向こうは黒ずんでいて、様子が見えない。幻想郷は、私達のことをどんな風に迎えてくれるのか。不安だけれど、期待も大きかった。
「行こう」
神奈子様が一歩一歩裂け目へと進んでいく。そして、境を跨いだ瞬間に消えてしまった。
「そうかあ・・・。この世界ともさよならなのか・・・」
神奈子様が行ってしまうと、突然引越しが現実的に感じられてきた。もうこの景色を見ることもないし、学校に通うこともない。黒板を写す必要はなくなるし、夕日を眺めることはできなくなる。嫌な思い出ばっかりかと思っていたけど、案外楽しい思い出も多くて、私は笑ってしまった。
もう一度秋宮の方角へと視線を移す。境内の入り口には、相変わらず大きな寝入りの杉が生えていて、それを抜けると神楽殿がある。赤い屋根と白い石階段。全部全部さよならなんだ。
「さよならなんだ・・・」
「おい神奈子ー!私をおいてくな!というか神社を何処に持って行く気だー!」
突然の大声と共に、風を切って、秋宮の方から何かがものすごい勢いで飛んでくる。
「あれって・・・」
大きな薄茶色の帽子を飛ばされないようしっかりと押さえつけ、壺装束の袖をはためかせる少女。少女の軌道に合わせて湖面の氷が砕け、道を形作っていく。砕けた氷は月の光を反射して、幻想的に輝いていた。
「奇跡が起きたんだ・・・」
夢の中の女の子は、もう泣いてはいなかった。これからの未来が楽しみで仕方ないような、不敵な笑顔を浮かべている。あんなに小さく見えたのに、今では元気一杯だ。
貴方はちゃんと立ち上がれたんだね。私もちゃんと、立ち上がれたかな?
「早く・・!!」
思わず私は、彼女に向けて手を伸ばした。
「ありがと!」
私が伸ばした手を、彼女は力一杯握りしめた。
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「ニュースをお伝えします。先日、長野県諏訪湖で季節はずれの御神渡りが確認されました。 御神渡りは通常一月末から二月上旬に起こることが多く、今回のような二月下旬という観測例は、史上初とのことです」
諏訪子の復活が奇跡の一言で片づけられちゃうのはちょっと納得いかないかな。超理論でもいいから何かしら説明が欲しかったところ。