Coolier - 新生・東方創想話

夢が偽りだというのならこの世界は嘘吐き達の住む箱庭 第七章

2013/12/29 22:23:41
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第一章 夢見る理由を探すなら

一つ前
第六章 確かな自分を得たいなら



   第七章 道に明かりが無いのなら

「楽しそうにしていたけど、何を話していたの?」
 突然現れた女性が重ねてそう尋ねてきた。柔らかな笑みを浮かべていて、何処かメリーに似ている。
 闖入者の出現に面食らって蓮子と化け物が何も言えずに黙っていると、女性は困った様に眉を顰めて悲しそうに言った。
「あなた達、地球から来たんでしょう? 蓮子ちゃんと文乃ちゃんよね? 折角会ったんだから何かお話しましょう? ね? 恋愛の話とかしてみたいわ」
 女性が蓮子の手を取って上下に振りながらせがむ様に二人を見る。蓮子はどうしたものか困って文乃と呼ばれた化け物に目を向けたが、文乃もまた困った様に眉間に皺を寄せていた。
 仕方無しに蓮子が女性を見て口を開くと、女性はぱっと顔を明るくする。その笑顔があまりにも幸せそうで、今の今まで感じていたちゆりへの不信感がぼやけていくのを感じた。調子が狂う。
「あの、どなたですか?」
 蓮子が問うと、女性が感じ入った様子で何度か頷いた。
「そうよね。まずは自己紹介をしないと。それであなたの名前は?」
「え? でもさっき、名前を呼んで」
 女性が笑顔を崩さず再度尋ねてくる。
「あなたのお名前は?」
 何だか有無を言わさぬ雰囲気を感じて、蓮子は空恐ろしいものを感じた。柔らかな笑顔を浮かべているのに、何処か威圧的な雰囲気がある。
「宇佐見蓮子です」
「うん、知ってる」
「え?」
「で、あなたは?」
 面食らっている蓮子を余所に、今度は文乃へ質問が向いた。
「えっと、平井文乃です!」
「うん、知ってる」
 笑顔で断じる女性を見て蓮子は思う。
 何だか変な人だ。
 馬鹿にされている気がした。
 女性が不意に後ろを向いた。どうしたのだろうと思って蓮子も外に広がる夜を見る。空を覆い尽くす程の星がきらめいていて、地球の電灯に彩られた夜よりも暗く、けれど満月の星明かりよりも明るい夜景。相も変わらず、寝殿造りに、高層ビルに、オスマン様式宮殿、ギリシア風の神殿、真四角なアドベの建築等、ごちゃまぜに建っている。地球ではない場所、けれど見覚えのある景色。今自分が何処にいるのだか分からなくなりそうだ。
「私は綿月豊姫。あなた達は何処から来たの?」
 蓮子が夜景から豊姫の笑顔に視線を戻す。
「京都から。あ、あの地球から」
「私も同じ」
「地球から来たのであれば。依姫とは会っているでしょう? その姉が私。よろしくね」
 昼間のハリセンの人のお姉さんか。ハリセンで部下の玉兎達をしばきまくっていた依姫の姿を思い出す。
「で、好きな人は居るの?」
 そんなに恋愛の話がしたいのかこの人は。
 初対面の人間と話す話題では無い。しかし今蓮子の知りたい事、例えば月からの脱出手段や人類の侵略について今唐突に聞くのも憚られる。怪しまれ、要らぬ警戒を与えてしまうかもしれない。
 蓮子は少し考えてから豊姫の質問に対して真っ正直に答えた。
「いえ、特には」
 誰も居ない。恋愛感情を抱いた覚えはない。誰かを大切に思う気持ちだとか、普通の好意を抱く事はあるけれど。ふとメリーの顔が思い浮かんだ。多分今一番大切な人であるけれど、それだって恋愛感情じゃない。メリーは仲間だ。今の自分にとって、恋愛なんかよりずっと大事なんじゃないかと思う、二人っきりのオカルトサークル、秘封倶楽部の掛け替えの無い仲間。
「居ないの? どうして?」
 どうしてだろう。
 意識して恋愛感情を抱かない様にしている訳じゃない。何かが足りない訳でも無いと思う。周りには誰かと既に付き合っている友達、誰かに一方的な好意を抱いている友達、誰かから一方的な好意を寄せられている友達、様様に居るけれど、それを羨ましいと思いつつも、自分でしたいとは思っていない。その理由は上手く説明出来ないけれど、強いて言うならそれは、
「私にはまだ早いから」
 まだその時期じゃない。
 そんな気がする。
 それが蓮子に出来る最大の説明だったが、豊姫は納得しなかった。
「どうして? だって、地球は月と違って、恋愛感情も恋愛対象もずっと広いんでしょう? 年齢も性別も人種も思想も能力も地位も気にせずに、十になる前から恋をするって聞いたわ」
「それはそうですけど、でも私はまだ」
「そうなの。じゃあ、文乃ちゃんは?」
 話題が自分から逸れてほっとする。
 文乃を見ると、毛の無い男の顔を歪めて照れた様に笑っていた。
「居た事は居たんだけど、三年も連絡してないし忘れられてるなぁ、きっと」
「あら、そんな事は無いと思うけど。大切な人の事はいつまでも忘れないものよ。ね、蓮子ちゃん」
「え、あ、そうですね。うん、忘れないと思います」
 蓮子が頷くと、文乃は力無さ気な笑みを浮かべてありがとうと呟いた。どうやら気に病んでいる事の様だ。当たり前だろう。化け物の姿にされて三年間誰とも会えずに森の中に居たのだから。家族や友達や恋人がどうしているのか、自分の事を覚えているのか、不安で仕方が無い筈だ。その根深い悩みが豊姫と蓮子の言葉一つで吹っ切れる筈が無い。
「私もね、大切な人が居るわ。勿論守らなくちゃいけない月の民もそうだけれど、もっと特別な。一人は私の妹。もう一人は私のお師匠様。そしてそのお師匠様とはもうずっと会っていない」
 豊姫が寂しげな表情を浮かべる。ほの明るい暗がりの中で妙に艶かしく美しく見える。やっぱりメリーに似ていると、蓮子は思った。
「私にとってお師匠様は憧れなの。何でも出来る人だった。能力も人格も素晴らしかった。あの方の判断は全てが正しくて、私はいつも嫉妬混じりに憧れていた。それがね……あ、輝夜姫の話は知ってる? 地上では説話として語り継がれている筈だけど」
「知ってます。凄く有名な昔話ですから」
「私も地球の絵本を読んだ事がある。その中で月の使者が出ていたでしょう? そのリーダーがお師匠様だったの」
「え? でもかぐや姫って本当であれば千年位前の話ですよね。お師匠様って、幾らなんでも寿命が」
「月の民は地球の人間に比べてずっと長生きなの。穢れが無いからね」
「穢れ?」
 そう言えば、月の民は穢れを嫌うとちゆりが言っていた。
「穢れって言うのはね、生きる事と死ぬ事。生命を連鎖させる事に強い感情を抱く事。例えば月の民は恋愛をしないわ。だって恋愛は子を宿す為の強い感情で、それを持ったら私達は穢れてしまうもの。反対にその穢れが無ければそれだけ長く生きられる。私だってこう見えて、もう千歳なんてとっくに超えているのよ。桁が違うわ」
 途方も無い。想像する事すら出来無い。信じる信じないの前に、思考が停止する。
「お師匠様は他の使者を欺いて輝夜姫と一緒に地上へお隠れになってしまった。だから今私達は探しているの、あの方をずっと」
「じゃあ、もう千年近く豊姫さんはその方に会っていないんですか?」
「いいえ……あ、いや、そうね、連絡一つもらっていない。けれどあの方を思う気持ちは今も変わっていないわ。ずっと尊敬している。そういう憧れはいつまでも消えないものよ。文乃ちゃんは? そういう人居ないの? 思うのでも、思われるのでも」
「うち、大学で吹奏楽部やってたんですけど、その先輩達が凄かったです。私だって小さい頃からずっとやってきたのに、それが何だったんだろうって思う位に、みんなレベルが違くて。憧れました。でも部活やっていけるのかなって不安にもなりました。まあ、化け物になってそれどころじゃなくなっちゃいましたけど」
「きっと続けていたら届いていたわよ。確かに自分よりも優れた人を見ると届かないんじゃないかって思ってしまうけど。私もね、初めてお師匠様から教え受けた時は絶対に理解出来無いって思ったもの。でもね、それが段段と理解出来る様になって。今では道を繋げる能力を手に入れて、お師匠様の代わりに月の使者のリーダーをやっているんだから」
「道を繋げる能力?」
「そう。実は見えないだけで全ての物には繋がりがあるの。エネルギーのやり取りがどんな物同士でも行われる事を不思議に思った事は無い?」
 蓮子が口を挟む。
「それは振動する弦で表せるじゃないですか。場の中で弦が相互作用をするからで」
「地球ではそういう解釈なの? 良く分からないけれど。でも私流に言えば、弦じゃなくて道。全ての物が道で繋がっているからなの。それは本来であればとても儚くて見えないんだけれど、道という概念を理解して見つめれば、その道を見る事が出来る。こじ開ければはっきりとした道を作り上げて通り抜ける事が出来る」
 何だかメリーの事を思い出した。メリーも普通の人には見えない境界が見えて、それをこじ開ける事で、境界の向こう側にある不思議な世界へ行く事が出来た。
「私はお師匠様から月の使者のリーダーになる為の教育を受けていて、ある日突然閃いた。道を見る事が出来る様になっていた。それはお師匠様にも出来無い事で、凄く褒められて……嬉しかった。だからお師匠様は私の事を覚えてくれている。だって他に無い特別な能力を持ったんだもの。ふふ、その所為で周りからの嫉妬も多かったけれど。ああ、いけない。私の事ばかり語って。それで、蓮子ちゃんは? 憧れの人は居ないの?」
「私は、最近会った岡崎教授が。色色な事を知っていて、いつだって自信に溢れていて、それに大きな発見をして世界から称賛を受けていて」
 凄い人だった。けれどもしかしたらテロリストかもしれなくて、私達をはめようとしているのかもしれなくて。
「それは、あなたと一緒に月に来た方?」
「いえ、違います。私と一緒に来たちゆりさんは岡崎教授の助手です」
「その岡崎教授っていうのはどんな人なの?」
「どんな? 非統一魔法世界論を発見した大有名人で、なんていうか研究の為なら他を切り捨てる様な」
 だからその研究の為に、自分達を利用しようとしているのだろうか。だとすればそれは一体どんな研究だろう。
「外見は?」
「何だか凛々しくて、赤髪の」
「そう。他には? あなたの憧れる人はその人だけ? あるいはあなたに憧れている人は居ないの?」
「え? えっと。他にあこがれている人は特に。私に憧れている人はきっと居ないです。私は特に何の才能も無いし。変な目だけはありますけど」
「変な目?」
 豊姫が興味深げに身を乗り出してきた。そんな大した物では無いので気恥ずかしい。
「月と星を見ると、自分の居る場所と今の時間が分かるんです。ただそれだけ」
「あら凄いじゃない。今は何時?」
「いえ、それも何だかここでは分からないみたいで」
「あら、そうなの? でも、そう、目……ね」
 豊姫の声の調子がふと落ちた。失望させてしまった様で、蓮子はいたたまれなくなって慌てて言葉を継いだ。
「でも、私の友達のメリーは、私と違って凄いんです。あの子は人には見えない境界を見る事が出来るから。その境界を開いて別の世界に行く事も出来て。ああ、憧れているっていうのならメリーにも憧れているのかな」
 自分には無い物を持っていた。欲しいと思う物を持っていた。
 だから憧れていたのだろうか。
 憧れ、だろうか。
 それだけじゃない。
 憧れという言葉だけでは説明のつかない感情が湧いていた。
 焦がれる様な思い。
 気にしていなかったけれど、さっきの豊姫の言葉を聞いて、ぼんやりと思った。
 きっとこの感情は嫉妬だ。
 何も無い自分に比べて、メリーはいつだって可愛らしくて、他人の目なんて気にも留めず、そして境界を見る不思議な目を持っている。自分が心の底から欲しいと願って止まない物をみんな持っている。
 メリーの事を心の底から羨んで嫉妬している。
 でもそれだけじゃない。
 あこがれと嫉妬だけではまだ自分の感情に説明がつかない。
 メリーを思う気持ちにはまだ何かある。
 けれどそれが何かは幾ら考えても思いつかない。
「そのメリーっていうのはこの子?」
 思考に没頭して俯いていたところへ、豊姫から声を掛けられてはっとした。慌てて顔を上げると、豊姫が隣の空間に映像を映していた。アメリカへ行く車両が爆発して海へ投げ出され溺れていた時の映像だ。豊姫の指差す先には、メリーが勢い良く手足をばたつかせて溺れている。
「そうです」
 映像の中でメリーは笑っていた。映像の中の私を見つめながら、笑いながら手足をばたつかせている。それは何だかふざけている様に見えた。
「そう。やっぱりね。外れるなんておかしいと思った」
「え?」
 どういう事だろう。
 いやそもそもどうしてそんな映像を?
 映像から豊姫へ視線を戻すと、豊姫は後ろを向いていた。
「玉兎、今すぐ準備を」
「はい、畏まりました」
 廊下の向こうから誰かの声が返ってきて、それから走り去る足音が聞こえた。
 誰も居ないと思っていたのに。
 どういう事だろう。
「豊姫さん、今のは」
 豊姫が顔をこちらに向ける。先程から変わらない優しげな笑顔だ。
「貴重な情報をありがとう。それでは今日はもう遅いですし、この辺りで失礼致しますね」
「待って! どういう事? メリーに何をするつもりなの?」
 立ち上がった豊姫が変わらぬ笑顔のまま見下ろしてくる。
「どうもしませんよ。あるべき場所に戻っていただくだけです。分からぬ振りをしている様ですが、本当は分かっているのでしょう?」
「メリーが……月の民だって事?」
「そうです。三年前に失った我等月の子。地球の人間では持ち得ない特別な才能を持っているのが何よりの証拠。外見もこの映像では遠くて分かりづらいですが、何処と無くあの頃の面影が見える」
「嘘だ! だって三年前なんて! もっと昔から私達は」
「それはありえません。彼女が地球へ行ったのは三年前の筈です」
「でも」
 あ、違う。それで良いんだ。私達は大学で出会ったんだ。
 だから三年前からの付き合いなんだ。
 何故かもっと昔から出会っていた気がした。
 そういえば、メリーの家族は?
 会った事が無い。
 メリーの家族もその過去も聞いた事が無かった。
 知らなかった。メリーが大学に入る前に何をしていたのか。小学校は何処へ通っていた? 外国人と思っていたけど、何処の国かも知らなかった。苗字が苗字だから、イギリスかギリシャかなと思っていた位で。大学でサークルを立ち上げていつも一緒に居たのに。お互い別別の寮に住んでいたけど、考えてみれば相手の部屋に遊びに行った事はこの三年間不自然な程無くて、いつも会うのは何処かの喫茶店。考えてみれば、不気味な程にメリーの過去を追わなかった。
 ああ、でも、いつだったか、友達と話している時に過去の話題が出てきた事が。あの時はどうだった。良く思い出せない。ただ何となくはぐらかして終わった気がする。
 ふと、もしかしたら分かっていたのかもしれないと思った。メリーの過去に不自然な空白がある事に気がついていて、だから無意識の内に気がつかない振りをしていたのかもしれない。
「分かりました? 出会ったのは三年前。その様子ですとそれ以前の事を何も知らないのでは? 彼女の名前すら。少なくともメリーなんて言う名前じゃありませんよ」
 呼吸が止まりそうになった。
 もしも名前すら違ったのであれば、本当に自分はメリーについて何も知らない事になる。
「マエリベリーじゃないの? マエリベリー・ハーン」
「あら、それは」
 豊姫が初めて表情を崩した。驚いた表情の豊姫は嬉しそうに言った。
「ハーンは偽名でしょうけど、マエリベリーは、そうですね、あの子の本当の名前です。地球流の発音になっていますけど。音は近い。名を残していたのですね」
 豊姫は背を向ける。
 蓮子も慌てて立ち上がった。
「最初からメリーの事を聞く為に私を攫ったの?」
 振り返った豊姫はまた笑顔に戻っていた。
「いいえ、ただの間違い。月人の気配を探っていたら偶偶反応を見つけたんです。けれど実際に迎えに行ったら反応が無くなっていて、近くには昔月人の住んでいた屋敷があるばかり。誤反応かなと残念に思ってその屋敷だけ回収しようとしたら、玉兎達が近くで月人らしい名前の人を見つけたなんて言い出して。マーキングから探しだして連れて来たらそれが大間違い。宇佐見とうさ耳が似ているから等とおかしな理由で。全く笑ってしまいますね」
 そう言って豊姫が笑顔で廊下を見ると、廊下の方から何かがたがたと複数の足音が聞こえた。
「けれど最初の反応はやはり間違いでは無かった様ですね。蓮子ちゃんのお陰でそれが分かりました。ありがとう」
「じゃあ、今私が話すまで、あなた達はメリーが月人だって知らなかったの?」
「ええ、その通りです。私達の探知能力は地球にほとんど届きませんから。けれどメリーちゃんだと分かればもう大丈夫。念の為にあの二人にもマーキングをしておいたのが功を奏しました」
「私がメリーの事を話してしまったから」
「ええ、あなたのお陰です」
 私がばらしてしまった。
 メリーが月人だと。
 その所為でメリーが狙われてしまう。
 私の所為で。
「待ってください!」
 豊姫に縋ろうとしたが額を指で押されて止められる。
「それでは失礼致しますね。おやすみなさい」
 豊姫が去っていく。
「待って! お願いだからメリーには何もしないで! メリーを攫わないで! 月に連れてこないで! ねえ! 待ってってば! 止めて! メリーを苦しめないで!」
 蓮子が廊下へ飛び出し、去っていく豊姫に必死の思いで叫び続けていると、豊姫が急に振り返った。
「反対ですよ。穢れた地球で暮らすなんて地獄と同じ。メリーちゃんは月で初めて幸せになれるのです」
「違う!」
「安心してください。どうしてか分からないけれど、幸いにもあなたも穢れがほとんど無い。メリーちゃんの友達というのであれば、月に住まわせてあげても良い」
 また豊姫が背を向ける。
「違うの! メリーは地球じゃなくちゃ駄目なの! お願いだからメリーに手を出さないで! メリーを苦しめないで!」
 蓮子が幾ら叫んでも、もう豊姫は振り返らなかった。そのまま玉兎達を伴って屋敷を出て行った。
 蓮子は豊姫の姿が見えなくなると、廊下にうずくまって泣いた。大きな声を上げて泣きながら、自分は何で泣いているんだろうと疑問に思った。だってメリーは月人で、だとすれば故郷である月へ帰る方が寿命も伸びてきっと良い筈だ。それに今自分は月に居るのだから、むしろメリーが月に来てくれた方が嬉しいのに。どうして自分が悲しんでいるのか、幾ら考えても分からなかった。ただ胸の内の奇妙な熱にうかされて、後から後から涙と声が溢れてくる。
 しばらく泣いていると、文乃が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫? 友達が危ないの?」
 危なくはない。攫われたって月人だから大事にされるだろう。
「駄目なの。メリーを月に連れ帰るなんて」
「そりゃそうだよね。友達まで攫われたら嫌だよね。私にも何か出来る事があったら言ってよ。何でも手伝うから」
 手伝ってもらう事は特に無い。だって自分が何をすれば良いのかすら分かっていないんだから。
 でも気遣いは嬉しかった。
「ありがとう」
 気が付くと涙が止まっていた。励まされた所為か。もしも一人だったら、もっともっと泣き続けていただろう。話の出来る存在がありがたかった。このまま励まされて居たかったけれど、それでは駄目になるばかりで。
 蓮子は立ち上がって空を見上げた。やはり正確な場所と時間は分からない。
「それじゃあ、行くね」
「あ、うん。本当に何かあったら手伝うから」
「うん、ありがとう」
 どうすれば良いのかを考えながら、自分にあてがわれた部屋に戻るとちゆりが居た。何か作業をしている。ICBMを作っているのだろうか。
 戻ってきた蓮子に一目視線を向けると、ちゆりはまた作業に戻った。
「何処へ言ってたんだ? こんな夜更けに」
「月の使者のリーダーと話していました」
「あの依姫とかいう?」
「いえ、その姉の豊姫さんです」
 ちゆりの手が止まった。
 何か考えている様な沈黙の後、ちゆりがまた作業に戻る。
「何の話をしてたんだ?」
 メリーが月人でそれを月が狙っているという話を言っていいものか躊躇した。文乃は岡崎夢美と北白河ちゆりがテロリストだと言っていた。文乃があえて嘘を吐いていたとは思えない。真偽はどうあれ、目の前の存在を簡単に信用してはいけない。
 気が付くとまた涙が出てきた。
 何度も確認してきた様に自分は無力で、周囲を取り巻く異常事態に対処出来ない。それに対抗する為には、例え毒であってもそれを利用しなければならない。例え自分とメリーを陥れようとしている相手であろうと。
 涙を流し始めた蓮子に気がついて、驚いたちゆりが寄ってきた。
「おい、どうしたんだぜ? 何かされたのか?」
 何も。ただずっと自分の無力さに気付かされ続けてきただけだ。
「月の狙いはメリーだったんです。メリーが月人だから連れ戻そうとしているんです。お願いです。何とかなりませんか? どうにかして月の民を止められませんか?」
 それから蓮子が涙混じりに豊姫と会っていた時の事を語ると、ちゆりは分かったと言って、先程まで作業していた場所に戻り、機器へ向けてメリーの危機を訴え始めた。どうやら岡崎と連絡をとっているらしい。地球でメリーと一緒に居る岡崎がメリーの秘密を知る事は恐ろしかったけれど、まずは月からの脅威に対処しなければならない。岡崎夢美と北白河ちゆりからメリーを守るのはその後だ。
 蓮子は無為にちゆりの背を眺めながら考える。
 自分は無力で出来る事は少ない。
 だからと言って何もしない訳にはいかない。
 何かメリーの為に出来る事を。メリーの為に行動出来るのは自分だけなんだから。
 まずは初心に帰ろうと思った。
 そもそもの発端はメリーの病気を治すという事だった。境界を見る目が暴走して、メリー自身が境界に取り込まれそうなのを何とか防ぎたくて。その方法が全く分からずに岡崎教授に頼みに行って、今は月に軟禁されている。
 目的には近づいているのだ。
 さっき豊姫が、メリーの能力をまるで月の民が持つ特別な才能であるかの様に言っていた。もし本当なら、月にはメリーの病気を治す方法があるかもしれない。月の民ならそれを知っているかもしれない。
 知っているとすれば、似た能力を持っている豊姫とその妹である依姫。二人から聞き出せば良い。幸いにも居場所は分かっている。ただ聞き出すのは難しい。月の民はメリーを連れ戻そうとしている。メリーが病気だと知ったところでそれなら連れ戻して治しましょうと言われてしまうかもしれない。だからと言って交渉で聞き出そうにも材料がまるで無い。手札を集めている時間も無い。
 とにかく一度行って、話をしてみよう。
 動かなければ始まらない。
 そう決心した蓮子は立ち上がった。
 ちゆりはまだ岡崎と話し合っている。好都合だ。ちゆりに相談する必要は無い。むしろ介入されたくない。
 外を見るともう曙なのか、空は相変わらず暗いけれど、辺りが次第に明るくなり始めていた。丁度良い。少し早いかもしれないけれど、きっと依姫も起きているだろう。
「蓮子ちゃん」
 突然ちゆりに声を掛けられて蓮子は驚きに身を震わせた。内緒でメリーの病気を治そうとしている事を気が付かれたのか。怒って邪魔されるのではないかと蓮子は怯えたが、ちゆりは視線を向けずにじっと通信機器を見つめたまま、声だけを蓮子に向けてくる。
「辺りは暗いから気をつけるんだぜ」
 その言葉に、蓮子の肩の力が抜けた。どうやら糾弾される訳ではないようだ。
「大丈夫です。もう夜は空けるみたいですから。空は相変わらず星空ですけど」
「蓮子ちゃんの進む道は暗闇に覆われていて、私達もまだそこに光は見出だせない。だから気をつけて」
「え? あの」
 月の民がメリーを狙っている事についてだろうか。
 意味深な言葉に戸惑う蓮子を余所に、ちゆりはまた教授との通信に戻った。しばらくちゆりの言葉を待って立ち尽くしていたが、もう話しかけてくる事が無かったので、蓮子は心に引っかかりを感じつつも部屋を出て依姫の居た屋敷へ向かう。
 もしかしたら月の民に見張られていて外に出られないかもという心配は杞憂に終わった。必要なら塀を乗り越えていこうと思ったが、そもそも門が開けられていてあっさりと外に出られた。
 掃き清められた道を見渡しても誰の姿も見えない。森閑と静まった道を朝の清清しい空気を吸いながら歩いて行く。
 どうやら月の都は地球を模して作られている。建築物や服装もそうだし、重力も体感では地球と同じ、言語が日本語なのはこちらに合わせてくれているのかもしれないけれど、朝の空気や周りに生える植物を見ると気温の変化や気候も日本の夏に近い。地球の、それも今の日本がある場所に住んでいた者が月の都の建設に関わっているのかもしれない。
 と、そこまで考えたところで、お風呂に入っていない事に気が付いた。海で溺れて連れ去られた時と服装が変わっていない。試しに自分の匂いを嗅いでみると、磯と汗の香りが混ざり合って変な匂いがした。
 今の今までこの格好で居た事が途端に恥ずかしくなった。人に会える様な状態じゃない。
 慌てて、戻ろうと考えたが、すぐに思い直す。
 そんな小心で良いのかと。
 自分一人で行動すると決めたのだ。それなのに小心じゃ出来る事も出来無い。もっと堂堂としていないと。
 その堂堂とした人間の最もたる岡崎とちゆりを思い出す。
 月に来ても臆する事無くICBMを作り脱出を図るちゆりはどうだ。昨日と同じ服装だった。匂いを嗅いだ訳じゃないけれど、きっと今の自分と同じだ。それでもあれだけ堂堂としていた。
 今や地球で英雄視されている岡崎はどうだ。初めて出会った時等、素っ裸だった。蓮子はそれを面と向かって見てしまったけど、教授はその後も堂堂としていた。
 堂堂とした自信をつけるのに瑣事を気にしていてはならない。
 むしろ変な行動をして相手にペースを掴ませない様にしなくちゃいけない。
 考えている内に依姫の屋敷についた。息を吐いて心を落ち着ける。とにかく堂堂と。門番に依姫と話したい旨を伝えると、あっさりと快諾されて、中からやって来た玉兎に案内される。
 そうして通されたのは最初に来た時と同じ部屋で、中に入ると依姫が奥に座り、その両脇に玉兎が二人ずつ控えていた。
「ようこそ。私と話したいと聞いたけど」
「はい!」
「そう。どうしたの急に。こんな朝っぱらに。そんなに重要な事?」
 堂堂と。
 自分のペース。
「はい!」
「それは一体何?」
 蓮子は息を吸ってから、はっきりと依姫を見据えて言った。
「お風呂貸してください!」
 依姫が「阿呆か!」と叫び、四人の玉兎が盛大にずっこけた。



続き
第八章 変化を成長と呼ぶのなら
覚 醒 し た 蓮 子
What Mad Renko-chan
烏口泣鳴
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コメント



0.300簡易評価
1.100非現実世界に棲む者削除
うん、まあいつもの蓮子に戻って何よりだ。
最後は漫才を見ている感じですね(笑)。
思惑交差の果てはいかに。
6.80ナルスフ削除
お姉ちゃんはカリスマ溢れてるのに依姫さんがもう完全にギャグキャラwww
8.100名前が無い程度の能力削除
ああ、嫌な予感しかしない。理念と規範は大切なのです。
10.90名前が無い程度の能力削除
こんな豊姫みたいなやついるよなあ…
しかし嫌なやつほど大物なのか
正直こんないやらしいやつより子供ながら頑張っている蓮子のほうが何倍も何百倍も凄いと思う