雨は嫌いだ。いよいよ本降りになりつつある冷たい雨の中を走りながら、口の中でそう呟いた。声に出さなかったのは、隣を走るメリーが一言も話していなかったからだ。メリーが文句を言わないなら、私は何も言うべきではない。特に今日のような日は。
今日は朝から、何一つ上手くいかない。携帯は設定した時刻にうんともすんとも言わず、飛び乗った電車が途中で人身事故を起こして止まった。メリーに連絡を取ろうとして携帯を開くと、バッテリーの残量がなくなっていた。結局待ち合わせ場所には2時間遅れて行った。メリーは黙って待っていてくれた。平謝りして、私たちはやっと駅を出た。
「今から行っても、バスの時間が合わないかも」僻地に向かうバスは、遠くに行けばいくほど密度が低くなる。特に帰路は、下調べ通りにいかないと難しい。私が言うと、
「歩けばいいじゃない」と、ゆるいウェーブのかかった金髪をさらりと払って、優しく笑ってくれた。肩にかかるくらいの長さの髪が淡いベージュのコートの上で踊っていた。
雨が降り始めたのはバスで4つ目のバス停で降りてすぐだった。私たちは目を見合わせた。鞄を漁った。普段は私だけが、折り畳み傘を持ち歩いている。堪えきれずに俯いた。メリーの視線から逃げるように。道から屋根のある建物が消えてしばらくたつ。
「さっき、コンビニを見たわ」
メリーが言って来た道を振り返った。「二駅くらいすぐよ」
私は頷くことしかできなかった。
「はっ、はあっ、はあっ、…」
それから十五分くらいだろうか。私たちは延々走り続けていた。冷たい気体を何度も出し入れしたせいで肺や気道がキリキリ悲鳴を上げている。普段はしない長距離走に心臓が激しく鼓動している。目に雨が入って、前が良く見えない。メリーもきっと同じだ。ちらりと隣を窺うと、メリーの髪が濡れて額に張り付いているのが見えた。冷たい雨が下着まで染み込む頃になってようやく、目の前にぼんやりとした光が見えた。コンビニエンスストアだった。入口の自動ドアが開くのも惜しく駆け込んだ。その場で思わずへたり込んだ。
「大丈夫……あ」
メリーに声を掛けようとして顔を上げた。メリーは立ち止まることなく店内に行ってしまって私の言葉はしりすぼみになってしまった。表情が見えないのが怖かった。
とりあえずタオルと下着を二組持ってカウンターに戻った。メリーは傘を、二つ持っていた。雨は、店を出るときには本降りになっていた。「二本買って正解ね」と軽口をたたく勇気がなかった。
傘というのは、一つの結界だと思う。隣をゆれる紺色のチェックの傘を見ながらそんなことを思う。自分を中心とする半径56cmを世界から切り取る、合成繊維で編まれた排他的な境界。石油由来の合成繊維で編まれて紺色の合成染料で染められた布に隠されて、メリーの表情はうかがえない。私にはその境界を踏み越える手立てがない。その境界の裂け目も、あるいはメリーになら、見えるのかもしれないけれど。メリーの白い手が傘を持つ方の手に鞄を持ちかえて、その中を探った。携帯電話を取り出して何やら弄っている。
「あぁ、最悪」
境界の裂け目から、睨まれたような錯覚がした。震えたのはきっと、雨で濡れただけではなかった。私の返事を待たずに、さらに言葉を継いだ。「ケータイ、壊れちゃった」
傘を傾けてこっちを見るメリーは、微笑んでいた。一応。本心は分からない。
「……ごめん」
「ううん、いいのよ。傘を忘れちゃったのは私も一緒だし」
「……うん」
二人で入れば良い、二人で二本持っては仕事量の無駄だ、と言って、メリーには持ち歩かせないようにしたのは私だ。
「これからどうしましょうか。とりあえずもうすぐ駅だから、今日はお開きでもいいわよね」
それしかない。そんなことは私も分かる。でも、
「嫌」思わず、言っていた。「嫌よ、そんなの」
メリーの訝しむような目はこう言っていた。「そんなこと言っても仕方ないでしょう。帰りましょうよ、疲れちゃったし」
喉がカラカラになる。「だって、私たちこのまま帰ったら、無駄足よ。まだ何も見つけてないのよ。このままじゃ帰れないわ。……それに」
「それに?」
「それに、びしょびしょよ、私たち。こんなのでずっと過ごしていたら風邪を引いちゃうわ」
ふむ、とメリーは、白い指を顎に当てた。「それもそうね。身体は乾かしたいわね」
「でしょう。電車はないわ、今ばかりは」
「なら、どうしようかしら。電車には乗れない、バスはない、となると……」
「……と、泊まる、とか」
声は上擦らなかっただろうか。早口にならなかっただろうか。メリーが足を止めた。
「ふむ。それもいいかもしれないわね」
メリーが見上げる視線の先には、きつい色の建物が、鮮やかな色に輝くネオン灯を掲げていた。
ホテルの老いた主人は、女二人での来客に特別な反応を見せなかった。建物と同じくらい胡散臭げな眼を私たちに向けて、ぼそぼそとここに名前を書いてください、といった。現金の残りは二人分を合わせてもダブルベッドの部屋が一つ取れるくらいだった。
部屋の中は意外と清潔感があった。部屋の真ん中には大きな、二人分の幅のベッドがある。私が先に浴室を使った。洗濯機があって、そこにびしょ濡れの服と下着を放り込んだ。べちゃ、と重たい音がした。乾燥機がついているから、明日までには乾く。メリーが衣類を入れてから回せばいい。身体を流してすぐに上がった。メリーが待っている。脱衣場に戻ってから、二枚のバスローブを見比べた。男性用と女性用。男性用を選んだ。すぐに布団に入るのだし、替えの下着を着けてバスローブを羽織った。
「ただいま」
「おかえりなさい。次は私が使うわね」
替えの下着を渡した。メリーはそれを受け取って脱衣場へ入っていった。浴室からの水音が聞こえる気がして、でも、雨音にかき消されてよくわからない。やつれきった自分自身が、窓から情けない私をじっと睨みつけていた。
メリーが上がってくるまでにはさほど時間はかからなかった。随分血色がよくなっていて、ほっとした。
狭いベッドに二人で並んで寝転がった。天井には品のないシャンデリアがさがっていて、ぼうっと橙色の光を湛えている。メリーはすぐ隣にいるのに、二人の間には見えない境界がある。私からは触れられない。シャンデリアの光が滲んだ。
「ねえ、メリー」
「なあに?」
「……今日は、ごめんなさい」
「……」
返事が、なかった。心臓が悲鳴を上げた。メリーが沈黙を破るまでの数秒が永遠に感じられた。
「ねえ、蓮子」
「う、うん」
「こっちを見て?」
「……」
身体ごと向き直ってメリーを見つめた。メリーはいつもと変わらない表情で微笑んでいた。
「蓮子、私ね」
「……」
「今日、とっても楽しかったのよ」
「……そうかしら」
「貴女は、日常とはずれたことは何も見つからなかったって言ったけど」
「だって」
手を急に握られて心臓が跳ねた。境界が破られた。メリーの手によって。
「私はそうは思わないわ。雨の中走ることも、二人でラブホテルに泊まるのも。私は全部、新鮮で楽しかったの」
「……うん」
「だからほら、泣かないで」
「泣いて、なんか」
引き寄せられた。メリーの整った顔が目と鼻の先にある。顔を上げられない。
「泣きたい気持ちは分かるわ。今日は、とてもかわいい服装だったものね。選んでて眠れなかったのかしら、もしかして。バッグもいつもと違ったわよね。とても素敵だったのよ。傘は入れ替え忘れただけでしょう? こんな日に降られて、ちょっと運が悪かったのよね」
「……うん……うん」
気付かれていたことが恥ずかしくて、それ以上に嬉しかった。
「ああほら、泣かないの。ね?」
抱きしめられて、撫でられた。
「……うん」
「次は、晴れてる日に行きましょうね」
「……うん」
雨音はまだ強い。でも、さっきより、それが気にならなかった。メリーに抱かれて、私は眠ることにした。雨音の中、私たちを中心とする、半径56cmの結界の中で。
今日は朝から、何一つ上手くいかない。携帯は設定した時刻にうんともすんとも言わず、飛び乗った電車が途中で人身事故を起こして止まった。メリーに連絡を取ろうとして携帯を開くと、バッテリーの残量がなくなっていた。結局待ち合わせ場所には2時間遅れて行った。メリーは黙って待っていてくれた。平謝りして、私たちはやっと駅を出た。
「今から行っても、バスの時間が合わないかも」僻地に向かうバスは、遠くに行けばいくほど密度が低くなる。特に帰路は、下調べ通りにいかないと難しい。私が言うと、
「歩けばいいじゃない」と、ゆるいウェーブのかかった金髪をさらりと払って、優しく笑ってくれた。肩にかかるくらいの長さの髪が淡いベージュのコートの上で踊っていた。
雨が降り始めたのはバスで4つ目のバス停で降りてすぐだった。私たちは目を見合わせた。鞄を漁った。普段は私だけが、折り畳み傘を持ち歩いている。堪えきれずに俯いた。メリーの視線から逃げるように。道から屋根のある建物が消えてしばらくたつ。
「さっき、コンビニを見たわ」
メリーが言って来た道を振り返った。「二駅くらいすぐよ」
私は頷くことしかできなかった。
「はっ、はあっ、はあっ、…」
それから十五分くらいだろうか。私たちは延々走り続けていた。冷たい気体を何度も出し入れしたせいで肺や気道がキリキリ悲鳴を上げている。普段はしない長距離走に心臓が激しく鼓動している。目に雨が入って、前が良く見えない。メリーもきっと同じだ。ちらりと隣を窺うと、メリーの髪が濡れて額に張り付いているのが見えた。冷たい雨が下着まで染み込む頃になってようやく、目の前にぼんやりとした光が見えた。コンビニエンスストアだった。入口の自動ドアが開くのも惜しく駆け込んだ。その場で思わずへたり込んだ。
「大丈夫……あ」
メリーに声を掛けようとして顔を上げた。メリーは立ち止まることなく店内に行ってしまって私の言葉はしりすぼみになってしまった。表情が見えないのが怖かった。
とりあえずタオルと下着を二組持ってカウンターに戻った。メリーは傘を、二つ持っていた。雨は、店を出るときには本降りになっていた。「二本買って正解ね」と軽口をたたく勇気がなかった。
傘というのは、一つの結界だと思う。隣をゆれる紺色のチェックの傘を見ながらそんなことを思う。自分を中心とする半径56cmを世界から切り取る、合成繊維で編まれた排他的な境界。石油由来の合成繊維で編まれて紺色の合成染料で染められた布に隠されて、メリーの表情はうかがえない。私にはその境界を踏み越える手立てがない。その境界の裂け目も、あるいはメリーになら、見えるのかもしれないけれど。メリーの白い手が傘を持つ方の手に鞄を持ちかえて、その中を探った。携帯電話を取り出して何やら弄っている。
「あぁ、最悪」
境界の裂け目から、睨まれたような錯覚がした。震えたのはきっと、雨で濡れただけではなかった。私の返事を待たずに、さらに言葉を継いだ。「ケータイ、壊れちゃった」
傘を傾けてこっちを見るメリーは、微笑んでいた。一応。本心は分からない。
「……ごめん」
「ううん、いいのよ。傘を忘れちゃったのは私も一緒だし」
「……うん」
二人で入れば良い、二人で二本持っては仕事量の無駄だ、と言って、メリーには持ち歩かせないようにしたのは私だ。
「これからどうしましょうか。とりあえずもうすぐ駅だから、今日はお開きでもいいわよね」
それしかない。そんなことは私も分かる。でも、
「嫌」思わず、言っていた。「嫌よ、そんなの」
メリーの訝しむような目はこう言っていた。「そんなこと言っても仕方ないでしょう。帰りましょうよ、疲れちゃったし」
喉がカラカラになる。「だって、私たちこのまま帰ったら、無駄足よ。まだ何も見つけてないのよ。このままじゃ帰れないわ。……それに」
「それに?」
「それに、びしょびしょよ、私たち。こんなのでずっと過ごしていたら風邪を引いちゃうわ」
ふむ、とメリーは、白い指を顎に当てた。「それもそうね。身体は乾かしたいわね」
「でしょう。電車はないわ、今ばかりは」
「なら、どうしようかしら。電車には乗れない、バスはない、となると……」
「……と、泊まる、とか」
声は上擦らなかっただろうか。早口にならなかっただろうか。メリーが足を止めた。
「ふむ。それもいいかもしれないわね」
メリーが見上げる視線の先には、きつい色の建物が、鮮やかな色に輝くネオン灯を掲げていた。
ホテルの老いた主人は、女二人での来客に特別な反応を見せなかった。建物と同じくらい胡散臭げな眼を私たちに向けて、ぼそぼそとここに名前を書いてください、といった。現金の残りは二人分を合わせてもダブルベッドの部屋が一つ取れるくらいだった。
部屋の中は意外と清潔感があった。部屋の真ん中には大きな、二人分の幅のベッドがある。私が先に浴室を使った。洗濯機があって、そこにびしょ濡れの服と下着を放り込んだ。べちゃ、と重たい音がした。乾燥機がついているから、明日までには乾く。メリーが衣類を入れてから回せばいい。身体を流してすぐに上がった。メリーが待っている。脱衣場に戻ってから、二枚のバスローブを見比べた。男性用と女性用。男性用を選んだ。すぐに布団に入るのだし、替えの下着を着けてバスローブを羽織った。
「ただいま」
「おかえりなさい。次は私が使うわね」
替えの下着を渡した。メリーはそれを受け取って脱衣場へ入っていった。浴室からの水音が聞こえる気がして、でも、雨音にかき消されてよくわからない。やつれきった自分自身が、窓から情けない私をじっと睨みつけていた。
メリーが上がってくるまでにはさほど時間はかからなかった。随分血色がよくなっていて、ほっとした。
狭いベッドに二人で並んで寝転がった。天井には品のないシャンデリアがさがっていて、ぼうっと橙色の光を湛えている。メリーはすぐ隣にいるのに、二人の間には見えない境界がある。私からは触れられない。シャンデリアの光が滲んだ。
「ねえ、メリー」
「なあに?」
「……今日は、ごめんなさい」
「……」
返事が、なかった。心臓が悲鳴を上げた。メリーが沈黙を破るまでの数秒が永遠に感じられた。
「ねえ、蓮子」
「う、うん」
「こっちを見て?」
「……」
身体ごと向き直ってメリーを見つめた。メリーはいつもと変わらない表情で微笑んでいた。
「蓮子、私ね」
「……」
「今日、とっても楽しかったのよ」
「……そうかしら」
「貴女は、日常とはずれたことは何も見つからなかったって言ったけど」
「だって」
手を急に握られて心臓が跳ねた。境界が破られた。メリーの手によって。
「私はそうは思わないわ。雨の中走ることも、二人でラブホテルに泊まるのも。私は全部、新鮮で楽しかったの」
「……うん」
「だからほら、泣かないで」
「泣いて、なんか」
引き寄せられた。メリーの整った顔が目と鼻の先にある。顔を上げられない。
「泣きたい気持ちは分かるわ。今日は、とてもかわいい服装だったものね。選んでて眠れなかったのかしら、もしかして。バッグもいつもと違ったわよね。とても素敵だったのよ。傘は入れ替え忘れただけでしょう? こんな日に降られて、ちょっと運が悪かったのよね」
「……うん……うん」
気付かれていたことが恥ずかしくて、それ以上に嬉しかった。
「ああほら、泣かないの。ね?」
抱きしめられて、撫でられた。
「……うん」
「次は、晴れてる日に行きましょうね」
「……うん」
雨音はまだ強い。でも、さっきより、それが気にならなかった。メリーに抱かれて、私は眠ることにした。雨音の中、私たちを中心とする、半径56cmの結界の中で。
メリーさんはやさしいなぁ、これは惚れても許されるレベル
素敵だわぁ…
自分一人ならいいんだけど、誰か一緒だともう・・
でもそういうときって、同行者は結構落ち着いているのです
こんなお姉さんになりたい
蓮子の一動作が、その背景が、想像できました。素敵です。
素晴らしい作品を読んだ感想はシンプルになってしまいますね。やられた!
表題の半径56cmの〜を始めとした、所々に挿入された比喩も洒脱でいい感じです。