空に投げたナイフで満月が欠けてしまった――。
だしぬけにその夢は紅茶の湯気のように消え入り、十六夜咲夜の意識はさえた。
荒唐無稽な夢だ、と咲夜は笑う。あまりにも突拍子もなく、人に話したところで苦笑されるたぐいのものだ。
彼女は一人で照れ笑いを浮かべながら、ベッドの白いシーツを眺めた。そのしわは、ショートケーキにできたクリームのムラに似ていた。
時計を見る。夜の十時。今日は珍しくレミリア直々に休暇をもらっており、やることもないから寝ていたのだ。主は夜の散歩へと出かけている。
もう一眠りを考えたが、なんだか目が覚めてしまい、そうそうに諦めた。
ベッドからおりてパジャマを着替える。といっても、私服というものがないため、休暇でも着るものはメイド服なのだが。
普段どおりにメイド服を身にまとい、化粧台の上のナイフに手を伸ばしたとき――
小さな異変に気がついた。
机に乗っているナイフの本数が一本足りないのだ。
はてと咲夜は首をかしげる。あらためて数えてみても、いつもより一本だけ少ない。
確か寝る前には全部あった気がしたのだが――。化粧台の下を探しても見つからなかった。
もしかしたらもっと前に失くしていたのかもしれない。咲夜は自分に噛んで含めるように考え直して、あるだけのナイフを携えた。
――そのとき、一つの馬鹿げた予想が脳内をかすめた。
夢のなかで空に放ったナイフ。それが消えた一本のナイフなのではないだろうか。
思いつくと同時、自嘲じみた笑みを満面にたたえた。なんだか寺子屋に通う頑是ない子供みたいな思考である。
ありえない、ありえない。
咲夜はベッドの乱れを直してから、自室を出、扉を閉めた。自分のなかの幼さも閉じ込めるように。
廊下を歩きながら、どこへ行こうかと考える。目的地はない。意志もない。今の彼女を動かしているのは、頭ではなく、惰性だけであった。
突然、冷え切った絹生地が首に巻きついてきた。驚き入りながら止まると、その絹生地の正体が廊下の窓から入ってきた秋風だと気づいた。
そうか、今日はとても寒いのか――透明な窓ガラスを真っ黒に塗りつぶす夜の闇を見すえる。
ならば、彼女のために温かい紅茶でも淹れてあげるか。この寒さのなかで立ち続ける彼女のために。
目的が決まれば両足は惰性で動くことをやめ、しゃんと端正に動き始めた。
厨房を目ざし、曲がり角を曲がって――
「――うわっ」
幼さの残る少女の声に、咲夜は焦りながら足を止める。おかげですんでのところでぶつからずに済んだ。
そこにいたのは紅魔館の主、の妹――フランドール・スカーレットであった。
「失礼しました、妹様」
「なんだ、咲夜か。こんばんは」
驚いた顔のフランドールが答えた。
「部屋、抜け出してしまったのですね」
「お姉さまが散歩で出かけてるって妖精メイドから聞いたの」
彼女は静かに言った。表情はほんの少しだけゆるんでいた。
咲夜は返事に窮し、考えあぐねた結果、無難な質問をした。
「ところで、どこかへ赴くつもりだったのですか?」
「うーんとね、そういうわけでもなくてさ。ただ――」
そこでフランドールは、焼き立てのパンのように温かく柔らかな笑みをつくった。
「月のかけらを探してたの」
「……かけら、ですか?」
「うん。あと少しで月が満ちるんだけどね」
私がナイフを投げたばかりに――続けようとした言葉はもちろん飲み込んだ。これは、荒唐無稽な夢の話だ。
風が窓から吹き込む。そちらを見やると、窓の向こうからこちらをのぞき込むように浮かぶ月が見えた。
そうか、今日は十六夜か……。
黄色く輝く月は、かぎりなく満月に近いくせに、どこか不十分な印象を与えた。この夜の空を支配するには、一歩足りなく思える。
咲夜は前を向いた。フランドールは先ほどの笑顔を引っ込めていたが、かすかに頬はゆるんだままであった。
「じゃあ、私はかけら探しを続けるよ」
フランドールが咲夜の横を通り、音もなく歩いていった。
彼女の背中が見えなくなるまで眺めてから、鼻から小さく息を吐いた。
しばらくして、咲夜は窓へと近づいた。遮蔽物もなく、ここからは綺麗に月が見えた。
いつの間にか睨むように目を細めて月を見ている自分に気づいた。じっと、呼吸をするのも忘れるくらいに目を向ける。
――あなたは、かけらをどこに落としてきたの?
月から返ってきた答えは、窓から吹き込む冷たい夜風であった。
◆ ◆ ◆
帽子が、なかった。
「どうしたの、帽子?」
「わっ、びっくりした」
門にもたれて上を見ていた美鈴は、突然の咲夜の声に、心底驚き入っていた。
「咲夜さんですか。どうしたんですか?」
「寒い夜風に吹かれる門番のために紅茶を淹れてきたわ」
「紅茶! ぜひぜひ飲みたいです!」
咲夜は誇らしさで満ちた胸を張った。「ふふん、しょうがないわね」
水筒のふたを開けて、なかの紅茶をそこに注いで美鈴に手渡した。温かい湯気が触れそうなほどしっかりと立ちのぼっていた。
一口飲んでから、彼女は「はー」と吐息に幸福感をにじました。ひっそりとした笑みが月光に照らされている。美鈴は何口かに分けてふたに入った紅茶を飲み干した。
「……それで」
美鈴から受け取ったふたに紅茶をふたたび注ぎながら、咲夜は口を開く。「あなた、帽子は?」
彼女は苦い笑みを浮かべながら「それがですね」と口を開いた。
「今日は夜勤が始まるまで紅魔館をぶらぶらと散策していたんですけど、どうやらどこかに置き忘れてしまったようで……」
困っちゃいました――夜風に当てられ赤くなった頬をかく。
美鈴の頭にはいつもの帽子がなかった。長い赤髪は惜しげもなく月光を浴びていて、なんだか綺麗だと咲夜は思った。
でもその気持ちが気取られるのが照れくさくて、咲夜はわざとらしくため息を吐いた。
「ずいぶんとのん気ね」
「ええ、まあ盗られることはないと思うので」
屈託なく答えてなおも笑っていた。もう一度ため息を吐きながら紅茶を手渡した。
咲夜はしばらく彼女の隣で壁にもたれた。二人の後ろには壁があるのに、二人のあいだには壁がない――そう思うと、少しだけ気恥ずかしくなった。
「――お仕事のほうは、いいんですか?」
美鈴が唐突に訊ねる。だが視線はいまだに空の月に向けられたままであった。
「今日はお嬢様が散歩に出かけててね。お休みなの」
「そうだったんですか」
咲夜も月を見る。今日は十六夜、満月には及ばない。
――さっき会った、月のかけらを探す少女を思い出した。
「少し前に、妹様と廊下で会ったわ」
「……抜け出しちゃったんですね」
美鈴の声が少しだけ小さくなった。しんと静まり返った夜によく似合う声量だった。
「どうやってお嬢様がいないことを知ったのでしょう?」
「妖精メイドから聞いたらしいわよ。たぶん部屋にご飯でも持ってきたメイドがぽろりとこぼしちゃったんでしょ」
あとで叱っておくわ――咲夜は立場上そう言ったが、本当は叱る気などさらさらなかった。
返事はない。横目で見ると、美鈴は小さな笑みを浮かべるだけであった。
銀のナイフのように鋭い残酷な沈黙があった。
咲夜は誰かにすがりたくなって、こっそり門番隊長との距離を縮めた。
「……いつになったら妹様は自由に外出できるようになるのかしら」
「それはお嬢様が決めることです」
「紅魔館のなかだけなら出歩いてもいいんじゃないの」
「それは、お嬢様が決めることです」
しばらく二人は押し黙ったが、その沈黙も柔らかな声ですぐに破られた。
「意地悪な返事をしてごめんなさい」
美鈴は月から顔をそらして咲夜の顔を見た。彼女の笑顔の半分は月光に照らされていた。
――やっぱり、綺麗だな。
「妹様が部屋を抜け出す理由を、咲夜さんは知っていますか?」
「外の世界に興味があるからじゃないの?」
「もちろんそれもそうなんですが、一番の理由は紅魔館のみんなに会うためらしいです」
月は照れた顔をおおうように雲に隠れた。
「こんなにも異常な自分を、それでも怖がらないで接してくれるみんなが大好きなんですって」
言葉は消えて、静けさに抱かれる二人。目を丸くする咲夜と笑顔の美鈴は顔を合わせ続けていた。
月が雲から出てくる。
「……ねえ、美鈴」
「なんでしょう」
「あなたが肩車をしてくれたら、あの月に届くかしら」
次に目を丸くしたのは美鈴だった。
それでも咲夜は月を見あげたまま動かなかった。
「もし届いたら、どうするんですか?」
「あの綺麗な月を彼女にプレゼントしたいの。そしたら、部屋にいてもいつでも月が見れる」
咲夜は小さく笑った。「それって、素敵じゃない?」
曖昧な顔つきだった美鈴はだしぬけに吹き出した。
「咲夜さんはときおりとっても子供っぽいですね」
「大人のレディに失敬ね」
「なら私も大人のレディを肩車するのは嫌です」
しばらくくすくすと笑い合う二人。お互い、一粒だけ涙をこぼした。
その瞬間、咲夜は自分たちのあいだには壁がないことをあらためて実感した。
涙を拭いながら美鈴は空をあおぐ。そして、しみじみと、
「綺麗な月ですね」
と呟いた。
「あら、告白してくれるの?」
「違いますよ。ただ、綺麗な十六夜だなあ、って思っただけです」
「ほら、やっぱり告白じゃない」
美鈴が呆れたように笑った。
「ほんと、咲夜さんはときおりとっても子供っぽいですね」
寒い夜が、暖かに更けていった。
◆ ◆ ◆
「――勇者『コア』は、姫を助けるべく冒険するのです!」
静けさを友とするはずの図書館に大きな声が響いた。ちょうど入ってきた咲夜は驚いて一瞬立ちつくしてしまった。
歩いて近づくにつれてパチュリーに叱られる小悪魔がよく見えてくる。やはりさっきの声を出したのは小悪魔だったらしい。
「……あっ、咲夜さん!」
叱られて青菜に塩のようになっていた彼女は、しかし咲夜を認めると顔を輝かせた。
小悪魔という人物は、いかなる状況下でも、身内に出会うと機嫌を直す特技を持っている。
「今日はお休みなんですか?」
「ええ。お嬢様が散歩に出かけているからね」
視線を横に少しさげると、椅子に座りながら机に向かうパチュリーがいた。広辞苑の大きさも厚さも数倍したような本を涼しい顔で読んでいる。
そこで、咲夜は驚いた。なぜなら――
「パチュリー様、帽子はどうしたのですか?」
パチュリーの頭には帽子がなかった。もしかして、美鈴のようにどこかへ置いてきてしまったのだろうか?
「それなら洗濯して干している最中です」
小悪魔がすかさず答える。なんだと咲夜は安心した。
「なんでも美鈴が自分の帽子をどっかにやってしまったらしいから、今紅魔館で流行っているのかと思ったわ」
「美鈴さんですか? あっ、美鈴さんの帽子ならさっき休憩室で見ましたよ!」
なるほど、と得心がいった咲夜に、パチュリーが顔を向ける。いつもの不機嫌そうな顔である。
「どう? 非番は楽しめてる?」
仰々しく肩をすくめた。
「ほどほどですわ」
「時間つぶしに図書館の本はいかがかしら」
「遠慮させていただきます。まだ死にたくはないので」
「あら、危ない本はそれほど多くはないわ。紅魔館にいる妖精メイド全員の十本指で足りてしまうぐらいよ」
パチュリーは一切笑うことなく会話を終えると、ふたたび下を向いた。彼女の笑顔というものを見た記憶がほとんどない。
咲夜は最後にある方向を向いた。パチュリーから椅子一個分離れて座っている彼女のほうを。
「妹様は、なにを読まれているのですか?」
「……昆虫図鑑」
顔をあげることもなくフランドールが答えた。
彼女はまるで図書館の置き物になってしまったかのように動きが少なかった。ときおり本のページをめくることが、ほぼ唯一の動作であった。
かけらは見つかりましたか?――質問が喉に引っかかったまま逡巡したが、結局咲夜は口を開かなかった。
どうして昆虫図鑑を読んでいるか訊ねようとしたとき、
「それでですね、妹様」
という小悪魔の声が重なった。「このコアはたくさんの敵を倒すのですよ」
彼女は二つの人形を持っていた。それぞれ小悪魔とパチュリーに似た貌形をしているが、小悪魔は童話に出てくるような勇者の服装を、パチュリーはお姫様のような服装をしていた。
ああ、なるほど、と咲夜は納得した。
「……それって、アリスからもらったの?」
「そうなんですよ! アリスさんが私たちをモチーフにした人形劇をやってたみたいで、その記念にくれたんです!」
小悪魔がずいと人形を咲夜に近づける。「題名は、『勇者コアとひきこもり姫パチュノ』です!」
フランドールもパチュリーも黙々と読書を続けている。まるでなにも聞こえていないかのようであった。
大きな温度差を感じて、咲夜は苦笑いするしかなかった。
「あなた、相当その人形と演劇が気に入ったのね」
「はい! お嬢様にもぜひとも見せたいのですけどね」
「……レミィは、一体なにをしているのかしら」
突然パチュリーが口を開いた。
咲夜は驚いた。いきなりしゃべったからではない。彼女の声には誰かを叱るときのような強さがにじんでいたからだ。
小悪魔もそれを察したらしく、なだめるように弁解した。
「いやでも、お嬢様だって夜の散歩にしゃれ込みたいときだってあるんじゃないですか。夜の眷属っていわれる吸血鬼なんですから、こんな月夜なときぐらい……。パチュリー様だって、吸血鬼にとって月は大きな存在だって言ってたじゃないですか」
「それでも――」
パチュリーは反駁しかけて、しかし続きの言葉を口のなかで吟味した結果、「……なんでもないわ」と飲み込んでしまった。
彼女がこんなにも感情をあらわにすることが珍しく、場には気まずい空気がただよった。
「……そ、そういえば、まだ咲夜さんに紅茶を出していませんでしたね。ただ今持ってきます」
咲夜が引きとめるすきも与えず小悪魔はそそくさと行ってしまった。彼女の遠ざかる背を少しうらめしげに眺めてから、咲夜は椅子に腰をおろした。
ふとそこで、フランドールが図鑑の上に腕を枕のようにしいて、寝ていることに気づいた。ページがこすれて出たような小さな寝息を立てながら。
次にパチュリーへ顔を向けた。彼女は、フランドールの寝顔を表情の読み取れぬ顔で見つめていた。
咲夜はしばらく惚けていたが、
「ねえ、咲夜」
と、パチュリーがいきなり声を出したのを契機に我に返った。
パチュリーがゆるゆるとこちらに顔を向ける。
「小悪魔、人形をたいそう喜んでいたわね」
「えっ?」
予想外であった。まさかここで小悪魔の話題が出てくるとは思わなかった。
「そ、そうですね」
「あなたは、どうしてだと思う?」
当惑しながらも考えてみて、結局首をかしげた。
「わかりません」
「私はね、あの子がアリスを好いているのが理由だと考えるわ」
パチュリーが自分の本のページを指でなぞった。フランドールの寝息のような音がした。
「アリスはよくこの図書館に来訪するの。そのたびに子供っぽい小悪魔の相手をしてくれてね。まるで妹をあやす姉のようだわ、アリスは。
だから、小悪魔は彼女に身内にいだくような親愛の情を感じているはずよ」
咲夜はいまだにパチュリーの意図がわからなかった。それでも、話は続く。
「そんな人からもらったものだから、とてもうれしいのだと思う。
あの人形のおかげで、好きな人をいつでも身近に感じられる」
――好きな人を感じられるものを持ってるって、幸せなことなんでしょうね。
静かな声で言い切る。パチュリーは正面から咲夜を見すえていた。その表情は、数千ページをさかれて書かれた書物のように、読み解くのがひどく難しいくせに理解されることをことさら望んでいるようであった。
二人は長いあいだ黙って見つめていた。この沈黙さえも、本の行間のようになにか意味があるような気がしていた。
「――咲夜さーん!」
遠くから声をがする。そちらを見ると、小悪魔が自分を呼んでいた。
「……手伝いかしら」
わざとらしく声に出してから席を立つ。パチュリーは本へと顔を向けていた。
さっきまでの沈黙がすでに夢のように思えてきた。
足早に小悪魔のほうに向かう。自分がなんだか逃げているように感じた。
相手のもとにたどり着くと、「こっちこっち」と案内した。しかし、なぜか来たところは本棚の陰であった。
小悪魔はこちらがパチュリーから見えないことを確認すると、小さな声で訊いた。
「パチュリー様、どうでしたか?」
「どうでした、ていうのは?」
「こう、おかしな感じではなかったですか?」
「まあ、普段とは違う気はするわね。あなたが逃げる前からね」
咲夜が皮肉を言うが、小悪魔の渋い顔をするばかりで聞いていないようであった。
なにかを深刻に考えているような表情。さすがに咲夜は訝しく思った。
「どうしたの?」
訊いても、小悪魔はちらりちらりと上目づかいで咲夜を見るばかりで、なかなか答えない。
パチュリーも不思議であったが、こちらも十分に珍しい。呆れたように続けた。
「煮え切らないわね」
「……実は」
小悪魔がおずおずといった様子で口を開いた。
「ちょっとした、心配ごとをですね、パチュリー様に言ったのです――」
◆ ◆ ◆
かつーん、かつーんと咲夜のヒールが石畳を打つ。暗いくらい石階段を壁の蝋燭だけを頼りにくだっていく。
螺旋をえがいていた階段の終わりは意外と早く訪れた。眼前には、陰鬱とした場には似合わない可愛らしいドア。
カギはかかっていない。取っ手をひねり、開けた――。
そして、視界に映る広くもせまくもない部屋。ほどほどに整頓されて、しかし衣服や玩具がちらほらと落ちている部屋。
ここが、フランドールの部屋である。
真ん中にすえてある豪奢なベッドをぼんやりと眺めて考える。
ここに、四百年以上の歴史が詰まっているのか。
なのに、それを感じさせる重さがここにはなにもなかった。すべてが一朝一夕で用意されたかのようなよそよそしさがあった。
――ダメだ、上手く形容できない。
あるもの全部を説明することはできる。そもそも置いてあるものが多くないからだ。
しかしそれらをあげたところで、なぜだかフランドールという吸血鬼を説明できる気がしないのだ。
――遠いな。
咲夜に寂しさが込みあげてきた。
部屋に入る。ほんのり甘い匂いがしたが、香水だろうか?
床に鋭いダーツの針が落ちていた。それを見た瞬間、背中に嫌な汗が流れた。
『厨房に行った帰り、フランドール様を廊下で見たのです」
小悪魔の声がよみがえってくる。ごくりと唾を飲み込んだ。
『そのとき、フランドール様が持っていたんです――』
咲夜は足を止めた。目も、閉じる。
小悪魔の声が、鮮明に聞こえた。
『――咲夜さんの、銀のナイフを』
心配そうな小悪魔の声。当たり前だ。吸血がなぜ自分の弱点である銀のナイフを持っていくのか――。
同族の姉も関係しているのだろうか? それとも、彼女一人で帰結する話なのだろうか?
どちらにせよ、穏やかな話ではないのは明らかである。
目を開け、咲夜はあたりを見回す。どこにあるのだろうか、私の銀のナイフは……。
止めなければいけない――。
咲夜の視線が、ある一点にとまった。
ベッドの上。そこに、大きめの箱があった。まるで童話に出てくるような宝箱。
咲夜が近づく。人様のものを勝手にのぞくのは、さすがに罪悪感がある。しかし、背に腹は代えられない。
ゆっくりと手をかけ、おもむろに開けた――。
咲夜の呼吸が、止まった。
にわかには理解できない光景が、箱のなかには詰まっていた。
しかし、それは最初の数秒の話。次第にすべてがわかってきた。
ナイフを取ったわけ。
月のかけらを探したわけ。
パチュリーが小悪魔について話したわけ。
そういうことだったのか――。
箱のなかには、銀のナイフがあった。だが、それだけではなかった。
美鈴の帽子もあった。
星と月の形のバッチもあった。これは、パチュリーの帽子にくっつけられているものである。そうか、彼女の帽子は干している最中だから、持っていくこともできたのか。
最後は、黒いティーカップ。今ごろ、小悪魔は自分のティーカップがないと慌てているだろう。
すべて丁寧にしまわれている。箱の下には上等な生地のハンカチがしいてある。
ここには、紅魔館の住人たちの私物が入っていた。主、レミリアを除いて。
彼女の部屋には厳重のカギがかけてある。加えて、当の本人は散歩に出かけていて、どうやっても私物が手に入らなかったのだろう。
それでも、フランドールは探していた。
咲夜は夢想してみる。
フランドールがみなの私物をここにしまっていく。彼女は笑っていたかもしれない。なにかが満ちていくうれしさを、感じていたかもしれない。
ぎゅっと咲夜はその宝箱を抱きしめた。部屋に入る前にあった寂しさはとっくに消えて、心にはただただ温かさだけがあった。
――そういうことだったのですね、パチュリー様。
この宝箱のなかには、みなの所有物だけではなく、フランドールの気持ちさえもしっかとしまわれていたのだ。
咲夜は抱きとめる腕にいっそう力を込めた。
涙が一粒、銀のナイフに落ちた。
◆ ◆ ◆
「――おおっと」
幼さのなかにも威厳がにじむ少女の声に、咲夜は焦りながら足を止める。おかげですんでのところでぶつからずに済んだ。
そこにいたのは紅魔館の主、レミリア・スカーレットであった。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「なんだ、咲夜か。ただいま」
レミリアが柔和に笑った。
「自室に帰る途中ですか?」
「いやいや、愚妹の部屋へ向かっている最中よ」
確かにここはフランドールの部屋に続く廊下であった。しかし、なぜ――?
その疑問は、レミリアの背中を見て氷解した。
彼女の背中でフランドールが安らかな寝息を立てていた。もう一回背負い直してから、
「図書館に行ったら、パチェに怒られたわ」
と、苦い笑みを浮かべながらレミリアが言った。「もっと、妹様のことを考えろってさ」
悲しそうな、表情だった。あふれ出る気持ちをこらえているような顔だった。
「……今日は、本当に散歩に出かけただけなんですか?」
「どうして、そんなことを訊くのかしら?」
「なんとなく、です」
「そう……」
レミリアはしばし黙ったが、ふっと小さく笑った。
「昨日、フランが、昆虫図鑑で『ホタル』を見せてきてね。とっても綺麗で、ぜひ本物を見たいって言ったの」
ははっとおどけて続けた。「さすがに、秋のこの時期にはどこにもいなかったけど」
咲夜は、この主に仕えることができでよかった、と心から思えた。
「お嬢様、今日は妹様と寝てあげたらどうですか?」
レミリアが呆気に取られた顔をする。しかし、すぐにもとの笑みへと戻っていった。
「……失礼いたしました。今のは忘れてください」
「もとから、そのつもりよ」
じゃあ、おやすみなさい――レミリアは話を結ぶと、咲夜の横を通りすぎていった。
フランドールの幸せそうな寝顔がしっかと目に入る。
レミリアの背が見えなくなってから、咲夜は歩き出した。窓の外を向くと、相も変わらず十六夜が――。
――かけらは、見つかったかい?
咲夜が月に返した答えは、優しい笑みだけであった。
だしぬけにその夢は紅茶の湯気のように消え入り、十六夜咲夜の意識はさえた。
荒唐無稽な夢だ、と咲夜は笑う。あまりにも突拍子もなく、人に話したところで苦笑されるたぐいのものだ。
彼女は一人で照れ笑いを浮かべながら、ベッドの白いシーツを眺めた。そのしわは、ショートケーキにできたクリームのムラに似ていた。
時計を見る。夜の十時。今日は珍しくレミリア直々に休暇をもらっており、やることもないから寝ていたのだ。主は夜の散歩へと出かけている。
もう一眠りを考えたが、なんだか目が覚めてしまい、そうそうに諦めた。
ベッドからおりてパジャマを着替える。といっても、私服というものがないため、休暇でも着るものはメイド服なのだが。
普段どおりにメイド服を身にまとい、化粧台の上のナイフに手を伸ばしたとき――
小さな異変に気がついた。
机に乗っているナイフの本数が一本足りないのだ。
はてと咲夜は首をかしげる。あらためて数えてみても、いつもより一本だけ少ない。
確か寝る前には全部あった気がしたのだが――。化粧台の下を探しても見つからなかった。
もしかしたらもっと前に失くしていたのかもしれない。咲夜は自分に噛んで含めるように考え直して、あるだけのナイフを携えた。
――そのとき、一つの馬鹿げた予想が脳内をかすめた。
夢のなかで空に放ったナイフ。それが消えた一本のナイフなのではないだろうか。
思いつくと同時、自嘲じみた笑みを満面にたたえた。なんだか寺子屋に通う頑是ない子供みたいな思考である。
ありえない、ありえない。
咲夜はベッドの乱れを直してから、自室を出、扉を閉めた。自分のなかの幼さも閉じ込めるように。
廊下を歩きながら、どこへ行こうかと考える。目的地はない。意志もない。今の彼女を動かしているのは、頭ではなく、惰性だけであった。
突然、冷え切った絹生地が首に巻きついてきた。驚き入りながら止まると、その絹生地の正体が廊下の窓から入ってきた秋風だと気づいた。
そうか、今日はとても寒いのか――透明な窓ガラスを真っ黒に塗りつぶす夜の闇を見すえる。
ならば、彼女のために温かい紅茶でも淹れてあげるか。この寒さのなかで立ち続ける彼女のために。
目的が決まれば両足は惰性で動くことをやめ、しゃんと端正に動き始めた。
厨房を目ざし、曲がり角を曲がって――
「――うわっ」
幼さの残る少女の声に、咲夜は焦りながら足を止める。おかげですんでのところでぶつからずに済んだ。
そこにいたのは紅魔館の主、の妹――フランドール・スカーレットであった。
「失礼しました、妹様」
「なんだ、咲夜か。こんばんは」
驚いた顔のフランドールが答えた。
「部屋、抜け出してしまったのですね」
「お姉さまが散歩で出かけてるって妖精メイドから聞いたの」
彼女は静かに言った。表情はほんの少しだけゆるんでいた。
咲夜は返事に窮し、考えあぐねた結果、無難な質問をした。
「ところで、どこかへ赴くつもりだったのですか?」
「うーんとね、そういうわけでもなくてさ。ただ――」
そこでフランドールは、焼き立てのパンのように温かく柔らかな笑みをつくった。
「月のかけらを探してたの」
「……かけら、ですか?」
「うん。あと少しで月が満ちるんだけどね」
私がナイフを投げたばかりに――続けようとした言葉はもちろん飲み込んだ。これは、荒唐無稽な夢の話だ。
風が窓から吹き込む。そちらを見やると、窓の向こうからこちらをのぞき込むように浮かぶ月が見えた。
そうか、今日は十六夜か……。
黄色く輝く月は、かぎりなく満月に近いくせに、どこか不十分な印象を与えた。この夜の空を支配するには、一歩足りなく思える。
咲夜は前を向いた。フランドールは先ほどの笑顔を引っ込めていたが、かすかに頬はゆるんだままであった。
「じゃあ、私はかけら探しを続けるよ」
フランドールが咲夜の横を通り、音もなく歩いていった。
彼女の背中が見えなくなるまで眺めてから、鼻から小さく息を吐いた。
しばらくして、咲夜は窓へと近づいた。遮蔽物もなく、ここからは綺麗に月が見えた。
いつの間にか睨むように目を細めて月を見ている自分に気づいた。じっと、呼吸をするのも忘れるくらいに目を向ける。
――あなたは、かけらをどこに落としてきたの?
月から返ってきた答えは、窓から吹き込む冷たい夜風であった。
◆ ◆ ◆
帽子が、なかった。
「どうしたの、帽子?」
「わっ、びっくりした」
門にもたれて上を見ていた美鈴は、突然の咲夜の声に、心底驚き入っていた。
「咲夜さんですか。どうしたんですか?」
「寒い夜風に吹かれる門番のために紅茶を淹れてきたわ」
「紅茶! ぜひぜひ飲みたいです!」
咲夜は誇らしさで満ちた胸を張った。「ふふん、しょうがないわね」
水筒のふたを開けて、なかの紅茶をそこに注いで美鈴に手渡した。温かい湯気が触れそうなほどしっかりと立ちのぼっていた。
一口飲んでから、彼女は「はー」と吐息に幸福感をにじました。ひっそりとした笑みが月光に照らされている。美鈴は何口かに分けてふたに入った紅茶を飲み干した。
「……それで」
美鈴から受け取ったふたに紅茶をふたたび注ぎながら、咲夜は口を開く。「あなた、帽子は?」
彼女は苦い笑みを浮かべながら「それがですね」と口を開いた。
「今日は夜勤が始まるまで紅魔館をぶらぶらと散策していたんですけど、どうやらどこかに置き忘れてしまったようで……」
困っちゃいました――夜風に当てられ赤くなった頬をかく。
美鈴の頭にはいつもの帽子がなかった。長い赤髪は惜しげもなく月光を浴びていて、なんだか綺麗だと咲夜は思った。
でもその気持ちが気取られるのが照れくさくて、咲夜はわざとらしくため息を吐いた。
「ずいぶんとのん気ね」
「ええ、まあ盗られることはないと思うので」
屈託なく答えてなおも笑っていた。もう一度ため息を吐きながら紅茶を手渡した。
咲夜はしばらく彼女の隣で壁にもたれた。二人の後ろには壁があるのに、二人のあいだには壁がない――そう思うと、少しだけ気恥ずかしくなった。
「――お仕事のほうは、いいんですか?」
美鈴が唐突に訊ねる。だが視線はいまだに空の月に向けられたままであった。
「今日はお嬢様が散歩に出かけててね。お休みなの」
「そうだったんですか」
咲夜も月を見る。今日は十六夜、満月には及ばない。
――さっき会った、月のかけらを探す少女を思い出した。
「少し前に、妹様と廊下で会ったわ」
「……抜け出しちゃったんですね」
美鈴の声が少しだけ小さくなった。しんと静まり返った夜によく似合う声量だった。
「どうやってお嬢様がいないことを知ったのでしょう?」
「妖精メイドから聞いたらしいわよ。たぶん部屋にご飯でも持ってきたメイドがぽろりとこぼしちゃったんでしょ」
あとで叱っておくわ――咲夜は立場上そう言ったが、本当は叱る気などさらさらなかった。
返事はない。横目で見ると、美鈴は小さな笑みを浮かべるだけであった。
銀のナイフのように鋭い残酷な沈黙があった。
咲夜は誰かにすがりたくなって、こっそり門番隊長との距離を縮めた。
「……いつになったら妹様は自由に外出できるようになるのかしら」
「それはお嬢様が決めることです」
「紅魔館のなかだけなら出歩いてもいいんじゃないの」
「それは、お嬢様が決めることです」
しばらく二人は押し黙ったが、その沈黙も柔らかな声ですぐに破られた。
「意地悪な返事をしてごめんなさい」
美鈴は月から顔をそらして咲夜の顔を見た。彼女の笑顔の半分は月光に照らされていた。
――やっぱり、綺麗だな。
「妹様が部屋を抜け出す理由を、咲夜さんは知っていますか?」
「外の世界に興味があるからじゃないの?」
「もちろんそれもそうなんですが、一番の理由は紅魔館のみんなに会うためらしいです」
月は照れた顔をおおうように雲に隠れた。
「こんなにも異常な自分を、それでも怖がらないで接してくれるみんなが大好きなんですって」
言葉は消えて、静けさに抱かれる二人。目を丸くする咲夜と笑顔の美鈴は顔を合わせ続けていた。
月が雲から出てくる。
「……ねえ、美鈴」
「なんでしょう」
「あなたが肩車をしてくれたら、あの月に届くかしら」
次に目を丸くしたのは美鈴だった。
それでも咲夜は月を見あげたまま動かなかった。
「もし届いたら、どうするんですか?」
「あの綺麗な月を彼女にプレゼントしたいの。そしたら、部屋にいてもいつでも月が見れる」
咲夜は小さく笑った。「それって、素敵じゃない?」
曖昧な顔つきだった美鈴はだしぬけに吹き出した。
「咲夜さんはときおりとっても子供っぽいですね」
「大人のレディに失敬ね」
「なら私も大人のレディを肩車するのは嫌です」
しばらくくすくすと笑い合う二人。お互い、一粒だけ涙をこぼした。
その瞬間、咲夜は自分たちのあいだには壁がないことをあらためて実感した。
涙を拭いながら美鈴は空をあおぐ。そして、しみじみと、
「綺麗な月ですね」
と呟いた。
「あら、告白してくれるの?」
「違いますよ。ただ、綺麗な十六夜だなあ、って思っただけです」
「ほら、やっぱり告白じゃない」
美鈴が呆れたように笑った。
「ほんと、咲夜さんはときおりとっても子供っぽいですね」
寒い夜が、暖かに更けていった。
◆ ◆ ◆
「――勇者『コア』は、姫を助けるべく冒険するのです!」
静けさを友とするはずの図書館に大きな声が響いた。ちょうど入ってきた咲夜は驚いて一瞬立ちつくしてしまった。
歩いて近づくにつれてパチュリーに叱られる小悪魔がよく見えてくる。やはりさっきの声を出したのは小悪魔だったらしい。
「……あっ、咲夜さん!」
叱られて青菜に塩のようになっていた彼女は、しかし咲夜を認めると顔を輝かせた。
小悪魔という人物は、いかなる状況下でも、身内に出会うと機嫌を直す特技を持っている。
「今日はお休みなんですか?」
「ええ。お嬢様が散歩に出かけているからね」
視線を横に少しさげると、椅子に座りながら机に向かうパチュリーがいた。広辞苑の大きさも厚さも数倍したような本を涼しい顔で読んでいる。
そこで、咲夜は驚いた。なぜなら――
「パチュリー様、帽子はどうしたのですか?」
パチュリーの頭には帽子がなかった。もしかして、美鈴のようにどこかへ置いてきてしまったのだろうか?
「それなら洗濯して干している最中です」
小悪魔がすかさず答える。なんだと咲夜は安心した。
「なんでも美鈴が自分の帽子をどっかにやってしまったらしいから、今紅魔館で流行っているのかと思ったわ」
「美鈴さんですか? あっ、美鈴さんの帽子ならさっき休憩室で見ましたよ!」
なるほど、と得心がいった咲夜に、パチュリーが顔を向ける。いつもの不機嫌そうな顔である。
「どう? 非番は楽しめてる?」
仰々しく肩をすくめた。
「ほどほどですわ」
「時間つぶしに図書館の本はいかがかしら」
「遠慮させていただきます。まだ死にたくはないので」
「あら、危ない本はそれほど多くはないわ。紅魔館にいる妖精メイド全員の十本指で足りてしまうぐらいよ」
パチュリーは一切笑うことなく会話を終えると、ふたたび下を向いた。彼女の笑顔というものを見た記憶がほとんどない。
咲夜は最後にある方向を向いた。パチュリーから椅子一個分離れて座っている彼女のほうを。
「妹様は、なにを読まれているのですか?」
「……昆虫図鑑」
顔をあげることもなくフランドールが答えた。
彼女はまるで図書館の置き物になってしまったかのように動きが少なかった。ときおり本のページをめくることが、ほぼ唯一の動作であった。
かけらは見つかりましたか?――質問が喉に引っかかったまま逡巡したが、結局咲夜は口を開かなかった。
どうして昆虫図鑑を読んでいるか訊ねようとしたとき、
「それでですね、妹様」
という小悪魔の声が重なった。「このコアはたくさんの敵を倒すのですよ」
彼女は二つの人形を持っていた。それぞれ小悪魔とパチュリーに似た貌形をしているが、小悪魔は童話に出てくるような勇者の服装を、パチュリーはお姫様のような服装をしていた。
ああ、なるほど、と咲夜は納得した。
「……それって、アリスからもらったの?」
「そうなんですよ! アリスさんが私たちをモチーフにした人形劇をやってたみたいで、その記念にくれたんです!」
小悪魔がずいと人形を咲夜に近づける。「題名は、『勇者コアとひきこもり姫パチュノ』です!」
フランドールもパチュリーも黙々と読書を続けている。まるでなにも聞こえていないかのようであった。
大きな温度差を感じて、咲夜は苦笑いするしかなかった。
「あなた、相当その人形と演劇が気に入ったのね」
「はい! お嬢様にもぜひとも見せたいのですけどね」
「……レミィは、一体なにをしているのかしら」
突然パチュリーが口を開いた。
咲夜は驚いた。いきなりしゃべったからではない。彼女の声には誰かを叱るときのような強さがにじんでいたからだ。
小悪魔もそれを察したらしく、なだめるように弁解した。
「いやでも、お嬢様だって夜の散歩にしゃれ込みたいときだってあるんじゃないですか。夜の眷属っていわれる吸血鬼なんですから、こんな月夜なときぐらい……。パチュリー様だって、吸血鬼にとって月は大きな存在だって言ってたじゃないですか」
「それでも――」
パチュリーは反駁しかけて、しかし続きの言葉を口のなかで吟味した結果、「……なんでもないわ」と飲み込んでしまった。
彼女がこんなにも感情をあらわにすることが珍しく、場には気まずい空気がただよった。
「……そ、そういえば、まだ咲夜さんに紅茶を出していませんでしたね。ただ今持ってきます」
咲夜が引きとめるすきも与えず小悪魔はそそくさと行ってしまった。彼女の遠ざかる背を少しうらめしげに眺めてから、咲夜は椅子に腰をおろした。
ふとそこで、フランドールが図鑑の上に腕を枕のようにしいて、寝ていることに気づいた。ページがこすれて出たような小さな寝息を立てながら。
次にパチュリーへ顔を向けた。彼女は、フランドールの寝顔を表情の読み取れぬ顔で見つめていた。
咲夜はしばらく惚けていたが、
「ねえ、咲夜」
と、パチュリーがいきなり声を出したのを契機に我に返った。
パチュリーがゆるゆるとこちらに顔を向ける。
「小悪魔、人形をたいそう喜んでいたわね」
「えっ?」
予想外であった。まさかここで小悪魔の話題が出てくるとは思わなかった。
「そ、そうですね」
「あなたは、どうしてだと思う?」
当惑しながらも考えてみて、結局首をかしげた。
「わかりません」
「私はね、あの子がアリスを好いているのが理由だと考えるわ」
パチュリーが自分の本のページを指でなぞった。フランドールの寝息のような音がした。
「アリスはよくこの図書館に来訪するの。そのたびに子供っぽい小悪魔の相手をしてくれてね。まるで妹をあやす姉のようだわ、アリスは。
だから、小悪魔は彼女に身内にいだくような親愛の情を感じているはずよ」
咲夜はいまだにパチュリーの意図がわからなかった。それでも、話は続く。
「そんな人からもらったものだから、とてもうれしいのだと思う。
あの人形のおかげで、好きな人をいつでも身近に感じられる」
――好きな人を感じられるものを持ってるって、幸せなことなんでしょうね。
静かな声で言い切る。パチュリーは正面から咲夜を見すえていた。その表情は、数千ページをさかれて書かれた書物のように、読み解くのがひどく難しいくせに理解されることをことさら望んでいるようであった。
二人は長いあいだ黙って見つめていた。この沈黙さえも、本の行間のようになにか意味があるような気がしていた。
「――咲夜さーん!」
遠くから声をがする。そちらを見ると、小悪魔が自分を呼んでいた。
「……手伝いかしら」
わざとらしく声に出してから席を立つ。パチュリーは本へと顔を向けていた。
さっきまでの沈黙がすでに夢のように思えてきた。
足早に小悪魔のほうに向かう。自分がなんだか逃げているように感じた。
相手のもとにたどり着くと、「こっちこっち」と案内した。しかし、なぜか来たところは本棚の陰であった。
小悪魔はこちらがパチュリーから見えないことを確認すると、小さな声で訊いた。
「パチュリー様、どうでしたか?」
「どうでした、ていうのは?」
「こう、おかしな感じではなかったですか?」
「まあ、普段とは違う気はするわね。あなたが逃げる前からね」
咲夜が皮肉を言うが、小悪魔の渋い顔をするばかりで聞いていないようであった。
なにかを深刻に考えているような表情。さすがに咲夜は訝しく思った。
「どうしたの?」
訊いても、小悪魔はちらりちらりと上目づかいで咲夜を見るばかりで、なかなか答えない。
パチュリーも不思議であったが、こちらも十分に珍しい。呆れたように続けた。
「煮え切らないわね」
「……実は」
小悪魔がおずおずといった様子で口を開いた。
「ちょっとした、心配ごとをですね、パチュリー様に言ったのです――」
◆ ◆ ◆
かつーん、かつーんと咲夜のヒールが石畳を打つ。暗いくらい石階段を壁の蝋燭だけを頼りにくだっていく。
螺旋をえがいていた階段の終わりは意外と早く訪れた。眼前には、陰鬱とした場には似合わない可愛らしいドア。
カギはかかっていない。取っ手をひねり、開けた――。
そして、視界に映る広くもせまくもない部屋。ほどほどに整頓されて、しかし衣服や玩具がちらほらと落ちている部屋。
ここが、フランドールの部屋である。
真ん中にすえてある豪奢なベッドをぼんやりと眺めて考える。
ここに、四百年以上の歴史が詰まっているのか。
なのに、それを感じさせる重さがここにはなにもなかった。すべてが一朝一夕で用意されたかのようなよそよそしさがあった。
――ダメだ、上手く形容できない。
あるもの全部を説明することはできる。そもそも置いてあるものが多くないからだ。
しかしそれらをあげたところで、なぜだかフランドールという吸血鬼を説明できる気がしないのだ。
――遠いな。
咲夜に寂しさが込みあげてきた。
部屋に入る。ほんのり甘い匂いがしたが、香水だろうか?
床に鋭いダーツの針が落ちていた。それを見た瞬間、背中に嫌な汗が流れた。
『厨房に行った帰り、フランドール様を廊下で見たのです」
小悪魔の声がよみがえってくる。ごくりと唾を飲み込んだ。
『そのとき、フランドール様が持っていたんです――』
咲夜は足を止めた。目も、閉じる。
小悪魔の声が、鮮明に聞こえた。
『――咲夜さんの、銀のナイフを』
心配そうな小悪魔の声。当たり前だ。吸血がなぜ自分の弱点である銀のナイフを持っていくのか――。
同族の姉も関係しているのだろうか? それとも、彼女一人で帰結する話なのだろうか?
どちらにせよ、穏やかな話ではないのは明らかである。
目を開け、咲夜はあたりを見回す。どこにあるのだろうか、私の銀のナイフは……。
止めなければいけない――。
咲夜の視線が、ある一点にとまった。
ベッドの上。そこに、大きめの箱があった。まるで童話に出てくるような宝箱。
咲夜が近づく。人様のものを勝手にのぞくのは、さすがに罪悪感がある。しかし、背に腹は代えられない。
ゆっくりと手をかけ、おもむろに開けた――。
咲夜の呼吸が、止まった。
にわかには理解できない光景が、箱のなかには詰まっていた。
しかし、それは最初の数秒の話。次第にすべてがわかってきた。
ナイフを取ったわけ。
月のかけらを探したわけ。
パチュリーが小悪魔について話したわけ。
そういうことだったのか――。
箱のなかには、銀のナイフがあった。だが、それだけではなかった。
美鈴の帽子もあった。
星と月の形のバッチもあった。これは、パチュリーの帽子にくっつけられているものである。そうか、彼女の帽子は干している最中だから、持っていくこともできたのか。
最後は、黒いティーカップ。今ごろ、小悪魔は自分のティーカップがないと慌てているだろう。
すべて丁寧にしまわれている。箱の下には上等な生地のハンカチがしいてある。
ここには、紅魔館の住人たちの私物が入っていた。主、レミリアを除いて。
彼女の部屋には厳重のカギがかけてある。加えて、当の本人は散歩に出かけていて、どうやっても私物が手に入らなかったのだろう。
それでも、フランドールは探していた。
咲夜は夢想してみる。
フランドールがみなの私物をここにしまっていく。彼女は笑っていたかもしれない。なにかが満ちていくうれしさを、感じていたかもしれない。
ぎゅっと咲夜はその宝箱を抱きしめた。部屋に入る前にあった寂しさはとっくに消えて、心にはただただ温かさだけがあった。
――そういうことだったのですね、パチュリー様。
この宝箱のなかには、みなの所有物だけではなく、フランドールの気持ちさえもしっかとしまわれていたのだ。
咲夜は抱きとめる腕にいっそう力を込めた。
涙が一粒、銀のナイフに落ちた。
◆ ◆ ◆
「――おおっと」
幼さのなかにも威厳がにじむ少女の声に、咲夜は焦りながら足を止める。おかげですんでのところでぶつからずに済んだ。
そこにいたのは紅魔館の主、レミリア・スカーレットであった。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「なんだ、咲夜か。ただいま」
レミリアが柔和に笑った。
「自室に帰る途中ですか?」
「いやいや、愚妹の部屋へ向かっている最中よ」
確かにここはフランドールの部屋に続く廊下であった。しかし、なぜ――?
その疑問は、レミリアの背中を見て氷解した。
彼女の背中でフランドールが安らかな寝息を立てていた。もう一回背負い直してから、
「図書館に行ったら、パチェに怒られたわ」
と、苦い笑みを浮かべながらレミリアが言った。「もっと、妹様のことを考えろってさ」
悲しそうな、表情だった。あふれ出る気持ちをこらえているような顔だった。
「……今日は、本当に散歩に出かけただけなんですか?」
「どうして、そんなことを訊くのかしら?」
「なんとなく、です」
「そう……」
レミリアはしばし黙ったが、ふっと小さく笑った。
「昨日、フランが、昆虫図鑑で『ホタル』を見せてきてね。とっても綺麗で、ぜひ本物を見たいって言ったの」
ははっとおどけて続けた。「さすがに、秋のこの時期にはどこにもいなかったけど」
咲夜は、この主に仕えることができでよかった、と心から思えた。
「お嬢様、今日は妹様と寝てあげたらどうですか?」
レミリアが呆気に取られた顔をする。しかし、すぐにもとの笑みへと戻っていった。
「……失礼いたしました。今のは忘れてください」
「もとから、そのつもりよ」
じゃあ、おやすみなさい――レミリアは話を結ぶと、咲夜の横を通りすぎていった。
フランドールの幸せそうな寝顔がしっかと目に入る。
レミリアの背が見えなくなってから、咲夜は歩き出した。窓の外を向くと、相も変わらず十六夜が――。
――かけらは、見つかったかい?
咲夜が月に返した答えは、優しい笑みだけであった。
フランは純粋でかわいいな〜
寒い時はこういう話がいいですね。
とっても温かったです。
果たしてあなたのお話で涙を落とさなかったことがあっただろうか?
みんな優しくて、温かい気持ちになれました。
紅魔館には家族という文字がよく似合う
雰囲気から秋のものさびしさと人の温かさがしっかりと伝わってきました