博麗霊夢は人里をそれほど頻繁に訪れない。妖怪のような生態をしているが人間には違いないので、食材の買い出しなどのために里に下りてくることもないではない。しかし神社には多くの来客があり、多くの恵みがある。残念ながら参拝客を除く。博麗霊夢は物質的に裕福なので、食うに困ることは少ないのだ。だから里の人間たちは博麗霊夢のことをあまりよく知らないし、頻繁に話題にすることもない。博麗の巫女の名前を聞かれても答えられない人間が少なくない、というのが実情である。新橋の駅前で聞いてみたとして、総理大臣の名前を答えられない人は少ないが、厚生労働大臣をフルネームで答えられない人は割といる。そのぐらいの知名度だと考えて差し支えない。
異変は年に数回、あったりなかったりする。里の人間は異変の黒幕はどんな奴か、何日で解決するかといった話題を肴に暫く飲んで、あとは日常へと戻ってしまう。彼らには彼らの生活があるからであり、四六時中そんなことを考えてはいられないからである。例えばワイハーは、もといハワイは、多くの日本人にとって観光地であるが、ハワイ在住のアメリカ人にとって、そこは地元でしかない。同様に幻想郷は、外にいる人間にとっての幻想の郷であって、そこにすむものにとっては紛れもない現実なのだ。何の話だったか……。そう、博麗霊夢だ。異変を通して幻想郷を見るものにとって、彼女の存在は不可欠であるが、残りの大半を占める日常を生きるものにとって彼女の存在の比重はさほど重くない。空を飛ぶことにあこがれる思春期の娘たちが、ファンクラブのようなものを作っているぐらいで、まあそんなものである。
霧雨魔理沙も人里を頻繁に訪れない。まあ彼女は里の真ん中にある道具屋を勘当された身であり、余り堂々としてはおれないのだろう。むしろその割には里を訪れすぎているのではなかろうか。盗人猛々しすぎる。慣用句的な意味でそう表現しただけであり、霧雨魔理沙が盗人だと言っているわけではない(盗人でないとも言っていない)。
とにかく、博麗霊夢ですら異変の時に少し話題になるぐらいであるのだから、いわんや普通の魔法使いをや。ちなみに普通の魔法使い、というのは自称であり、本当に普通の魔法使いは里でマジックアイテムを売ったり、便利屋めいた仕事をしていたりするので、霧雨魔理沙よりよほど里の人間の生活に密着している。霧雨魔理沙は普通じゃない魔法使いだ。良く考えると魔法使いですらないのでただの変人だ。
では魔法の森ではどうだろう。霧雨魔理沙は森の魔法使いの顔役かもしれない。まあそんなことはないけれど。魔法の森はその名の通り魔法使いの魔力を活性化させる有害な瘴気が立ちこめる森であり、力を高めたい魔法使いの多くがここに住んでいる。そうなると生まれてこのかた十数年で一念発起して魔法使いになった霧雨魔理沙は、魔法の森では新参もいいところである。「魔法の森と言えば……?」と質問されても、ほとんどの人も妖怪も霧雨魔理沙とは答えない。質問者が期待した目つきで「き……?きりさ……?ほら、普通の魔法使いのきりさめ……?」までお膳立てしても、やっぱり答えない。
上白沢慧音は里で寺子屋を開いている。ので、それなりに顔は広いのであろう。では慧音は里の重要人物だろうか。たぶんそうではない。明確に人里の味方である妖獣、という意味で頼られていないとは言えないが、例えば彼女が里を代表して何か言ったり、里で育つ人間たちすべての元担任であったりはしない。そも慧音の寺子屋が開講されたのは117季(2002年)の10月頃である。紅霧異変の一年ほど前だ。今の人里の大人たちが慧音の教えを受けたことなどあろうはずもない。上白沢慧音の寺子屋は私的な歴史塾であり、子どもたちに広く読み書きそろばんを仕込むところではない。彼女の寺子屋以外にも、人里にはいくつもの寺子屋がずっと昔からある。「寺子屋と言えば……?」と聞いて望む答えが欲しければ、質問の頭に最近できた、と付けるといいだろう。あるいは美人教師の、でもよい。むしろそれがよい。
寺子屋と言えばお寺である。お寺と言えば命蓮寺。最近は割とその傾向にある。実に縁起よく、弩派手に登場したこともあり、またそれ以降に縁日など積極的に里と交流し、里で起きた異変にも首を突っ込んだので印象はかなり強いようだ。しかし里の人々は命蓮寺の檀家だろうか、お葬式はどこに頼むだろう。当然幻想郷には昔からいくつかのお寺がある。菩提寺はそうそう変えないので、命蓮寺はトップシェアにはならない。聖白蓮は別に仏教徒を代表する立場にはないのだ。たぶん宗派とかも違うのだろう。あまり詳しくは知らないが。ちなみに聖白蓮は人間と妖怪の平等を訴える博愛主義の権化のように語られることもあるが、本質的には妖怪の味方であり、そのあたり里の人間たちは分かっているのだろうか。
宗教的な話をするならば、秋姉妹のことも忘れるわけにはいくまい。人里には農民が多い。それは当然のことで、幻想郷の基幹産業は農業だからである。それだけに農業に関することは里では常にトレンドであり、豊穣の神の権益は並々ならぬものがある。しかし秋姉妹は農民たちのアイドルであり、常に注目の的かというと、そんなことはなかった。穣子様大勝利だと思った?残念静葉様でしたー。それも違う。
幻想郷におわします神の数は途方もない。八百万とは、要するに数えるのめんどくさい、ということである。そのうえ誰だって人気のある神様になりたいわけで、幻想郷なら農耕にまつわる神様が狙い目なのは一目瞭然。豊穣の神は数が多いので信仰を勝ち取ることが難しく、秋穣子は弱小神様である。ありがたいには違いないが、幻想郷の農民すべてに対して大きな発言力を持ったりはしない。
射命丸文は妖怪の山の古参の天狗である。実力もあって、見目麗しい。すると彼女は妖怪の山を背負って立つ存在かもしれない。これは可能性がありそうだ。しかしよく考えると大抵の事柄に可能性はあるもので、それこそ博麗神社が参拝客であふれかえる可能性だってある。しかしそれはあるだけだ。可能性があるといわれるより、可能性がないといわれるほうがレアである。そして射命丸文はレアではない。何故か。妖怪の山には独自の社会が築かれている。社会というからにはそれなりの規模があるわけで、十や二十ではない。新聞大会が開かれるそうなので、新聞を作っている天狗だけでも相当数いることは間違いないし、天狗だって新聞ばかり作っているわけではないだろう。……たぶん、そうだよね?そうだろう。だから天狗と言ったら取り敢えず天魔だし、烏天狗と言ったら、の場合でもたぶん優勝回数の多い鞍馬会報という新聞の代表者の名前が挙がるはずだ。天狗はたくさんいるので、そういう意味では射命丸文とお近づきになれなくても、きっとチャンスはある。そういうことにしておけば里の男も希望を持てるだろうか。
白狼天狗の場合はもっと顕著である。犬走椛は白狼天狗の代表者ではない。白狼天狗は下っ端の天狗である。かつてほどぞんざいに扱われることは減ったが、おおよそ被支配層であることに変わりはない。突っ込んだ話をするとその下に天狗以外の木端妖怪たちがさらに虐げられていたりするが、今はおいておく。下を見ればきりがないのは人間も妖怪も同じということだろう。あるいは人間がそうだから妖怪もそうなのだろうか。とにかく白狼天狗は低いヒエラルキーに位置し、大抵の集団はヒエラルキーが低いほど構成員の数が増える。食物連鎖と同じだ。要するに白狼天狗は他の天狗に輪をかけて多く、一人あたりの重要性はそれだけ低いものになる。「白狼天狗と言えば?」「下っ端」こんなものである。
守谷神社には里からの参拝客が来ない。来るはずがない。参拝客の来なさにかけては博麗神社がよくやり玉に挙がるので、対比して守谷神社は繁盛していると思われることもあるが、こと人間に限っては博麗神社のほうがはるかに多い。それは当然の話で、なんとなれば妖怪の山は富士山より高いからである。そのうえ妖怪の巣窟である。参拝に行ける要素が見つからない。守谷神社は100%妖怪の信仰で成り立っている神社である。どっちが妖怪神社だ。そんなわけで行ったことがない人が大半だろうが、木立に囲まれた神社を想像しているのならそれは間違いである。あれだけ高い山の山頂に木が生えているはずもなく、殺風景な岩場にそびえたつ神社だと考えてほぼ正解だ。ひょっとすると天狗の身体能力が高いのは高地トレーニングのおかげかもしれないし、そうなると東風谷早苗は恐らくマラソンが早い。たぶん。足が太くなるのが嫌でロープウェーを作りたいのかもしれない。
おおよそこんなところだろうか。
ある特定の文脈の中で物語を語る時、語られない背景を通り過ぎていくものたちは群衆(モブ)と呼ばれる。物語を追ううえで、彼らの存在を意識する必要はなく、意味もない。しかし物語は往々にして語られていない部分のほうが大きいもので、その部分を支えているのが彼らである。幻想郷はよく知られた顔役たちが回している、そう思う人間は決して少なくないだろう。しかし実際にはそうではないことをここに明記しておきたい。本書を読んだ人間が幻想郷を、異変とその解決を巡る大騒動で回っている非日常世界だ、と誤解するのではないかという懸念が私の筆を走らせている。この愛すべき郷は、ここに生きる愛しき群衆にとって、紛れもない現実である。どうかそれを忘れないで。
取り急ぎここまで書いておき、何か思い出したら追記することにする。
阿求へ
赤字の部分は製本時に除いておいて!
幻想郷縁起によせて 八雲紫
異変は年に数回、あったりなかったりする。里の人間は異変の黒幕はどんな奴か、何日で解決するかといった話題を肴に暫く飲んで、あとは日常へと戻ってしまう。彼らには彼らの生活があるからであり、四六時中そんなことを考えてはいられないからである。例えばワイハーは、もといハワイは、多くの日本人にとって観光地であるが、ハワイ在住のアメリカ人にとって、そこは地元でしかない。同様に幻想郷は、外にいる人間にとっての幻想の郷であって、そこにすむものにとっては紛れもない現実なのだ。何の話だったか……。そう、博麗霊夢だ。異変を通して幻想郷を見るものにとって、彼女の存在は不可欠であるが、残りの大半を占める日常を生きるものにとって彼女の存在の比重はさほど重くない。空を飛ぶことにあこがれる思春期の娘たちが、ファンクラブのようなものを作っているぐらいで、まあそんなものである。
霧雨魔理沙も人里を頻繁に訪れない。まあ彼女は里の真ん中にある道具屋を勘当された身であり、余り堂々としてはおれないのだろう。むしろその割には里を訪れすぎているのではなかろうか。盗人猛々しすぎる。慣用句的な意味でそう表現しただけであり、霧雨魔理沙が盗人だと言っているわけではない(盗人でないとも言っていない)。
とにかく、博麗霊夢ですら異変の時に少し話題になるぐらいであるのだから、いわんや普通の魔法使いをや。ちなみに普通の魔法使い、というのは自称であり、本当に普通の魔法使いは里でマジックアイテムを売ったり、便利屋めいた仕事をしていたりするので、霧雨魔理沙よりよほど里の人間の生活に密着している。霧雨魔理沙は普通じゃない魔法使いだ。良く考えると魔法使いですらないのでただの変人だ。
では魔法の森ではどうだろう。霧雨魔理沙は森の魔法使いの顔役かもしれない。まあそんなことはないけれど。魔法の森はその名の通り魔法使いの魔力を活性化させる有害な瘴気が立ちこめる森であり、力を高めたい魔法使いの多くがここに住んでいる。そうなると生まれてこのかた十数年で一念発起して魔法使いになった霧雨魔理沙は、魔法の森では新参もいいところである。「魔法の森と言えば……?」と質問されても、ほとんどの人も妖怪も霧雨魔理沙とは答えない。質問者が期待した目つきで「き……?きりさ……?ほら、普通の魔法使いのきりさめ……?」までお膳立てしても、やっぱり答えない。
上白沢慧音は里で寺子屋を開いている。ので、それなりに顔は広いのであろう。では慧音は里の重要人物だろうか。たぶんそうではない。明確に人里の味方である妖獣、という意味で頼られていないとは言えないが、例えば彼女が里を代表して何か言ったり、里で育つ人間たちすべての元担任であったりはしない。そも慧音の寺子屋が開講されたのは117季(2002年)の10月頃である。紅霧異変の一年ほど前だ。今の人里の大人たちが慧音の教えを受けたことなどあろうはずもない。上白沢慧音の寺子屋は私的な歴史塾であり、子どもたちに広く読み書きそろばんを仕込むところではない。彼女の寺子屋以外にも、人里にはいくつもの寺子屋がずっと昔からある。「寺子屋と言えば……?」と聞いて望む答えが欲しければ、質問の頭に最近できた、と付けるといいだろう。あるいは美人教師の、でもよい。むしろそれがよい。
寺子屋と言えばお寺である。お寺と言えば命蓮寺。最近は割とその傾向にある。実に縁起よく、弩派手に登場したこともあり、またそれ以降に縁日など積極的に里と交流し、里で起きた異変にも首を突っ込んだので印象はかなり強いようだ。しかし里の人々は命蓮寺の檀家だろうか、お葬式はどこに頼むだろう。当然幻想郷には昔からいくつかのお寺がある。菩提寺はそうそう変えないので、命蓮寺はトップシェアにはならない。聖白蓮は別に仏教徒を代表する立場にはないのだ。たぶん宗派とかも違うのだろう。あまり詳しくは知らないが。ちなみに聖白蓮は人間と妖怪の平等を訴える博愛主義の権化のように語られることもあるが、本質的には妖怪の味方であり、そのあたり里の人間たちは分かっているのだろうか。
宗教的な話をするならば、秋姉妹のことも忘れるわけにはいくまい。人里には農民が多い。それは当然のことで、幻想郷の基幹産業は農業だからである。それだけに農業に関することは里では常にトレンドであり、豊穣の神の権益は並々ならぬものがある。しかし秋姉妹は農民たちのアイドルであり、常に注目の的かというと、そんなことはなかった。穣子様大勝利だと思った?残念静葉様でしたー。それも違う。
幻想郷におわします神の数は途方もない。八百万とは、要するに数えるのめんどくさい、ということである。そのうえ誰だって人気のある神様になりたいわけで、幻想郷なら農耕にまつわる神様が狙い目なのは一目瞭然。豊穣の神は数が多いので信仰を勝ち取ることが難しく、秋穣子は弱小神様である。ありがたいには違いないが、幻想郷の農民すべてに対して大きな発言力を持ったりはしない。
射命丸文は妖怪の山の古参の天狗である。実力もあって、見目麗しい。すると彼女は妖怪の山を背負って立つ存在かもしれない。これは可能性がありそうだ。しかしよく考えると大抵の事柄に可能性はあるもので、それこそ博麗神社が参拝客であふれかえる可能性だってある。しかしそれはあるだけだ。可能性があるといわれるより、可能性がないといわれるほうがレアである。そして射命丸文はレアではない。何故か。妖怪の山には独自の社会が築かれている。社会というからにはそれなりの規模があるわけで、十や二十ではない。新聞大会が開かれるそうなので、新聞を作っている天狗だけでも相当数いることは間違いないし、天狗だって新聞ばかり作っているわけではないだろう。……たぶん、そうだよね?そうだろう。だから天狗と言ったら取り敢えず天魔だし、烏天狗と言ったら、の場合でもたぶん優勝回数の多い鞍馬会報という新聞の代表者の名前が挙がるはずだ。天狗はたくさんいるので、そういう意味では射命丸文とお近づきになれなくても、きっとチャンスはある。そういうことにしておけば里の男も希望を持てるだろうか。
白狼天狗の場合はもっと顕著である。犬走椛は白狼天狗の代表者ではない。白狼天狗は下っ端の天狗である。かつてほどぞんざいに扱われることは減ったが、おおよそ被支配層であることに変わりはない。突っ込んだ話をするとその下に天狗以外の木端妖怪たちがさらに虐げられていたりするが、今はおいておく。下を見ればきりがないのは人間も妖怪も同じということだろう。あるいは人間がそうだから妖怪もそうなのだろうか。とにかく白狼天狗は低いヒエラルキーに位置し、大抵の集団はヒエラルキーが低いほど構成員の数が増える。食物連鎖と同じだ。要するに白狼天狗は他の天狗に輪をかけて多く、一人あたりの重要性はそれだけ低いものになる。「白狼天狗と言えば?」「下っ端」こんなものである。
守谷神社には里からの参拝客が来ない。来るはずがない。参拝客の来なさにかけては博麗神社がよくやり玉に挙がるので、対比して守谷神社は繁盛していると思われることもあるが、こと人間に限っては博麗神社のほうがはるかに多い。それは当然の話で、なんとなれば妖怪の山は富士山より高いからである。そのうえ妖怪の巣窟である。参拝に行ける要素が見つからない。守谷神社は100%妖怪の信仰で成り立っている神社である。どっちが妖怪神社だ。そんなわけで行ったことがない人が大半だろうが、木立に囲まれた神社を想像しているのならそれは間違いである。あれだけ高い山の山頂に木が生えているはずもなく、殺風景な岩場にそびえたつ神社だと考えてほぼ正解だ。ひょっとすると天狗の身体能力が高いのは高地トレーニングのおかげかもしれないし、そうなると東風谷早苗は恐らくマラソンが早い。たぶん。足が太くなるのが嫌でロープウェーを作りたいのかもしれない。
おおよそこんなところだろうか。
ある特定の文脈の中で物語を語る時、語られない背景を通り過ぎていくものたちは群衆(モブ)と呼ばれる。物語を追ううえで、彼らの存在を意識する必要はなく、意味もない。しかし物語は往々にして語られていない部分のほうが大きいもので、その部分を支えているのが彼らである。幻想郷はよく知られた顔役たちが回している、そう思う人間は決して少なくないだろう。しかし実際にはそうではないことをここに明記しておきたい。本書を読んだ人間が幻想郷を、異変とその解決を巡る大騒動で回っている非日常世界だ、と誤解するのではないかという懸念が私の筆を走らせている。この愛すべき郷は、ここに生きる愛しき群衆にとって、紛れもない現実である。どうかそれを忘れないで。
取り急ぎここまで書いておき、何か思い出したら追記することにする。
阿求へ
赤字の部分は製本時に除いておいて!
幻想郷縁起によせて 八雲紫
時々素に返るところがかわいい
王国とかあっても実際動かしてるのは下のもんだし
仮に天狗の居住区が中腹にあるとすれば守矢神社も山頂より下にあると考えられないか
それはともかく斬新な発想で面白かったです
こうやって見直してみると二次創作で見逃されやすい設定って多いよね。慧音の寺小屋ができたのが最近とか
トリビア的な面白さがある
と思いました。
残念ながら検閲ネタも延長線上で求めるところには足りなかった、と贅沢な意見も言うだけ言わせていただきます
ただ、この作品の内容は基本は公式設定ですが、そこに想像を付け加えてありますので、公式設定と勘違いされませんようご注意ください。
>>46
私自身が感じていたことをハッキリ言ってくださってありがとうございます。
もともと物語調にするつもりで、設定を書きためていたんですが、最後に思いつきで署名をつけたらもうこのほうがいいんじゃないかってことで完成したのがこれです。
まさしく足りない展開をネタでどうにかしようとしていた結果でして、看破されてお恥ずかしい限りです。
今後も精進したいと思います。
書き方が似てるのか、「いやそうではない」が想起させるのか
そう感じながら最後まで読んで
最終的に書いてるのがゆかりんだったので草不可避である
あんたかよォ!
おもしろいな
なんだこれは
次にも期待
確かに東方は幻想郷の有名人の話ではないのかもしれないなあ。
しかしこの話は公式の設定と違う箇所を見つけると途端に説得力を失って冷めちゃうね。
ところで守谷神社は妖怪の山の7合目にあります。
視点としては非常に面白い。今の総理が誰だってフリーターにゃ関係ないですもんね。
さすが賢者様や
それはともかくこういうところに目を向けたSSは非常に少ないと思うので楽しめました。
多めの空白が地味にいい味だしてた
霊夢は決闘法案を作った人ではあるけど、鈴奈庵の阿求の反応を見る限り妖怪への恐怖や距離感は霊夢以前と大差なさそうだしね。