くぅ、とお腹が鳴った。静かな境内に響いてしまったように思えて恥ずかしい。
そんなお腹を押さえながら、私は食堂に入った。
もう皆は集まっている。当然だ、もう朝餉の時間を十分以上も過ぎているのだから。
「おはよう、ござい、ます」
声が掠れた。喉を抜ける空気が木枯らしのような音を立てる。
視線が私に集まった。糾弾の意志が篭っていないことなどわかっている。
けれど、それが突き刺さるように感じられて、私は顔を伏せて自分の席に着く。
膳には粥と、吸い物と、漬物といったささやかな食事が載っていた。
聖の声で皆が食べ始める。
聖は感謝するように。
村紗は物足りなさそうに。
一輪は小さく頷きながら。
響子は元気に笑いながら。
マミゾウはゆらゆら身体を揺すりながら。
ぬえは今日いないようだった。昼や夜はともかく、質素な朝の食事にぬえが顔を出すことは少ない。今日もそうなのだろう。
食事が進む。皆の膳から食べ物が消えていく。
……私の膳からは、何一つとして減っていない。
箸が、全く進まなかった。くぅ、と小さくお腹が鳴る。
それなのに、食欲が湧かない。
「……寅丸?」
不意に声を掛けられて、びくっと身体を震わせて顔を上げる。
心配そうな顔をした一輪が、私を見ていた。
「大丈夫? 食べないの?」
命蓮寺の典座は一輪だ。自分の手掛けた料理に手が付けられていないのが不安なのかもしれない。
大丈夫ですよ、と笑いかけてやる。
……少し、引き攣ってしまったような気がするけど。
匙で粥を掬ってみせると、一輪は視線を自分の膳に戻した。
掬い取った粥を戻すのも気が引ける。ひどく重たい腕を持ち上げて匙を口へ運んだ。
噛まずに、すり潰すようにして飲み下し、吸い物の椀に手を伸ばす。
相変わらず食欲はないけど、皆を心配させるのは本意じゃない。
黒塗りの椀越しに感じられる熱は弱い。それを口元に運んで――
――肚の、底に、落ちる。
「っ……! ぅ、ぐ……」
手から椀が落ちて、中の吸い物がこぼれた。
膝にも汁がかかったけど、それをどうすることもできずに、震える右手で口を押さえる。
「ぅ、ぉぇ……」
止めろ、嘔吐くな、吐いちゃいけない、こんな所で、吐いちゃ……。
「ちょっと星、大丈夫?」
視界の端で、村紗が身を乗り出しているのが見えた。ああ、いけない、また心配させちゃってるな……。
「大丈夫、です」
ダメだ、相変わらず声が掠れている。これじゃあ余計に心配されてしまう。
「すみま、せん、少し気分が、悪い、ので……」
肚の底からせり上がろうとするモノを飲み込むだけで精一杯だった。
ふらつく足で厠へ向かう。付き添うという聖や村紗の気遣いを断り、食堂を出た。
じぃ、と、視線を、感じた。
襖や柱に手をついて、厠へ向かう途中の角を曲がった時、堪え切れなくて少し吐いた。
続けて溢れ出ようとする肚の中身を飲み下し、ようやく厠へ着く。
転びながら便器を覗き込んで、そこで限界が来た。
「ごっ、ぉぼっ! げっ、ぐぅ、ぇ……っ!」
胃の中身をぶちまける。粥の米粒が少しだけ出てきて、そのあとは胃液さえも僅かだった。
「おぇっ! げぼっ、えほっ! ぅ、おっ!」
内臓の蠕動が治まらない。なのに何も出てこない。当然だ。私は何日も、水さえ口にしていない。
ガリガリと喉が削られ痛む。その感覚が苦しくて、ただただ涙が溢れてきて――
――肚のソコが、蠢いて。
「うっ!? ぐ、ぅっ!」
コレは。
コレだけは、出してはいけない。
ソレを出さないよう口を塞ぐ。喉の動きを捩じ伏せる苦しみに一層涙が溢れて、鼻からも胃液が漏れ出た。
苦しい、けどダメだ。
それでも、コレだけは……!
「ぉふっ……ぐ、ううぅぅぅ……」
…………
………
……そうして、ようやく治まった。
「……っは! けほっ、げほっ、ごほっ!」
床に手をついて息を貪る。鼻は刺すように痛み、喉は呼吸のたびに裏返りそうになる。
そんな身体で、私はしばらく荒い呼吸を続けた。
「はぁー……はぁ……はぁ……」
たら、と鼻から雫が垂れた。涙で視界も霞んでいる。
ああ、私は今きっと、ひどい顔をしているんだろう。
鏡を見る必要もない、涙と鼻水と吐瀉物の飛沫でぐしゃぐしゃになっているのがわかる。
ちり紙で鼻をかみ、鼻水が落ち着いてから目元と口元を拭った。袖にも膝にも飛沫が飛んでいる。
これが寝巻でよかった、洗うにも大して苦労がない。
「かぁっ、ぺっ」
すっぱい味の唾を吐く。口を漱ごう、そう思って厠を出る。
「っ!」
肚の底が蠢いた感触。
それに堪えながら、口を漱いで顔を洗って、寝巻の汚れてないところで拭く。
息が苦しい、動悸が異様に早まっている。視界がチカチカと明滅していて、千鳥足のようにしか歩けない。
部屋へ戻ろう、今から食堂に行っても朝餉は終わっているだろうし、何よりできることもない。
どうせ、食べることも。
石のように鈍重な歩みで、自分の部屋に戻った。敷き放しの布団に膝をつく。
「ぁ……きがえ、ないと」
ずると足を引きずって、箪笥から替えの寝巻を出す。
思った以上に汗をかいていたようで、着ていた服を脱ぐと、ひやりとして心地よかった。
万全の時の何倍もの時間をかけて着替えて、そこで力尽きる。
「う、あ」
布団に倒れ込む。何もないのに、首を絞められているように苦しくて、服の胸元を掴みながら必死に息をする。
肚の底が気持ち悪い。蟲が蠢いているような感触。腹肉を掻き破いて、感触の元を抉りたくなる衝動を懸命に抑えた。
嘔吐感、でも何も入ってない。さっきだって何も出てこなかったのに、何かが入ってるわけがない。
出してはいけない、アレ以外は。
「や……め、て」
ガリと頭を掻き、丸くなる。身体の震えが止まらない。
そのままブツンと、意識が途切れた。
★ ★ ★
薄暗い場所にいた。
一瞬盲いたかとも思ったけど、少しずつ目が利いてきて、それが勘違いだと知った。
狭い部屋だ。いや、内装はこの一部屋で完結しているし、小屋なのかもしれない。
そこまで考えて、気付く。
この内装を、私は知っている。
この小屋は。
この小さな家は。
「ナ、ズー……」
無縁塚にある、ナズーリンの小屋、だ。
ぐち……ぐち……
「あ、っ……」
異音。
どこから? 耳をすます。どこから?
ぐち……ぐち……
「ぅ、あ」
異音。肚の底が、蠢く感触。
この音も、そこ、から……?
ぐち……ぐち……
「や、だ……ぁ」
耳を塞ぐ。ダメだ、これは聞いちゃいけない音だ。
ダメだ、この音は、いやだ……!
ぐち……ぐち……
「あ……あ……」
それでも、音は。
肚の底から響く音は、続いて――。
――視線。背後からの。
「っ!?」
跳ねるように振り返る。後ろの壁には戸も、窓さえもない。
それでも確かに、今も背後から、視線を感じる。
獲物を見定めるような、赤い、視線。
ぐち……ぐち……
異様な音と感触は続く。
「う、うううぅぅ」
耳を塞いだまま壁際に身を寄せた。これなら、後ろからの視線を意識しないでいられると思って。
けど、ダメだった。
首筋に、ぬるり、と、視線
「っ!」
飛び退けば、その足元から。
「ゃっ!」
それから逃れても、右から、左から。
「いゃ、ぁっ……!」
前からも、後ろからも。
赤い視線が、私を逃がさない……!
「あ、ああ、あ」
ぐち……ぐち……
胃を掻き回す音と、感覚も、消えない。むしろ、
ぐち、ぐち、ぐち
むしろ、音の感覚が狭まってくる。
ぐち、ぐち、ぐち、ぐち
「う、あ、あ、あ」
これは、なんだ。
「あ、ひ、ぃ」
視線
これは、夢?
ぐち、ぐち、ぐち、ぐち、ぐち
これは、罰?
視線
ぐちぐちぐちぐちぐち
「あ、ああ、あ、あ、あ」
やだ、やだ、いやだ。
こんな、こんな、の。
「ごめん、な、さい」
視線
ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち
「ごめん、なさい」
視線
ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
視線
ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
視線
ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち
「許して…………!」
視線
ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち――――――――――――――
――――――いいや、ゆるさないよ
★ ★ ★
「あああああああああああああああああああっ!!」
意識が急浮上する。
意図しないままに発せられた叫びに喉が軋んで、眠りに消えていた吐き気が顔を覗かせた。
「えあっ、げほっ! うぇっ! はっ、はあっ、はっ」
呼吸を貪る。喉が裏返るような嫌な咳が出た。大粒の涙が勝手に溢れて、怖気とともに汗が噴き出す。
「あっ、はっ、はあっ、けほっ、えほっ」
気管に唾が入って咳が止まらない。げほと咳をするたびに、ひくと喉が痙攣した。
それを何度も繰り返し、ようやく少し落ち着き始める。
「星、大丈夫ですか?」
障子戸の外から、聖の声が聞こえた。心配の色の濃い声音だった。
「大丈夫、です」
声が掠れた、まだうまく出ない。
また、もっと、心配させてしまう……。
「少し、入っても構いませんか?」
「……はい」
そっと障子戸が開く。障子越しだった陽射しが直接射し込んで、眩しい。
もう真昼のようだった。それなりに長く眠っていたのかもしれない。
聖は水差しと碗と手拭いを載せた盆を持って部屋に入ってきた。
彼女の顔は少し、強張っている。表立った心配を見せないようにしているんだろう。
胸が、痛い。
「っ! けほっ、げほっ!」
油断して、また咳き込んだ。盆を置いた聖が背中を摩ってくれる。その優しさに心が痛い。
甘えそうになる私が、一番醜い。
咳が落ち着いて、聖が水を注いだ碗を差し出してきた。
「ありがとうございます」
陶器越しの冷たさが心地いい。熱を持った身体が少し落ち着いた。
「……星、せめて、水くらいは」
けど、自分の手の中で揺れる液体を、どうしても飲む気にならなかった。
わかってる、そうしたほうがいいのは、私が一番。
ぐち……ぐち……
けど、
「……すみません」
歪な音と感触のせいで、どうしても、飲めない。
聖の顔を見ることができなかった。彼女はきっと、苦しげな顔をしている。
その心配を拭えないのが口惜しかった。
きし、きし、と、縁側の床板が軋む音。
「調子、どう?」
開いたままの障子戸から、村紗がひょこと顔を覗かせた。ほんのり漂う匂いはカレーか、昼餉は彼女の担当らしい。
やんわりと微笑みを向ける。村紗の顔も和らがない。
……ああ、私は余程、ひどい顔をしているらしい。
「お昼用意できたけど、どうする?」
村紗の作るカレーはおいしい。私も好物で、腹の虫がくぅ、と鳴った。
ぐち……ぐち……
でも、
「……ごめんなさい。食欲が、なくて」
「じゃあお粥とか、重湯とかは?」
「……すみません」
聖と村紗が顔を見合わせる。けど、無理強いはしないでくれた。
「……お水は置いていきますから、楽になったら、それだけでも飲んでくださいね」
「はい、ありがとうございます」
「何かあったら呼んでね」
「はい」
障子戸が閉められる。持ったままだった碗を盆に戻して、ぼんやりと、障子を透かす陽を見ていた。
誰もいなくなって音の消えた部屋の中で、異音だけが耳障りだ。
きし、きし、と、縁側の床板が軋む音。二つが重なる。
話し声は、ぬえとマミゾウのもののようだ。
「そういやさ、最近ナズーリン見ないよね」
「そうじゃのう」
ビキリ、と、頭が痛んだ。
「そりゃここって堅苦しいけどさ、あっちの小屋ってそんなに居心地いいのかな?」
「さあ、儂にはわからなんだ」
ぐち、ぐち、ぐち、ぐち、ぐち
「……ぅ」
気持ち悪くて、口元を押さえた。臓物が痙攣して、ビチと胃液だけを少し吐く。
じぃ、と、視線を、感じた。
★ ★ ★
広い空に、満月が煌々と浮かんでいる。
その月明かりに照らされた無縁塚を、私はとぼとぼと歩いていた。
また、宝塔を無くしてしまった。
部屋や出掛けた先なんかを探したけど、見つからなかった。
おかしな所に紛れ込んでしまったのかもしれないし、いつかのように好事家が持ち帰ってしまったのかもしれない。
いずれにせよ、私には見つけられなかった。一日中探しても、見つけられなかった。
何度も申し訳ないと思いながらも、またナズーリンに頼るしかなかった。
少しの間、命蓮寺で暮らしていたナズーリンは今、無縁塚に小屋を構えて住んでいる。
元々から仏教徒とは言い難かったナズーリンは、小屋に住むようになってから滅多に寺に顔を出さなくなった。
彼女は自分だけで好きにできる環境のほうが好ましいんだろう。
そこに厄介事を持ち込む私はきっと、彼女にとっては疫病神だ。
当然だけど、周囲にナズーリンの小屋以外の建物はない。
月光に照らされた無縁塚に、それだけが孤独だ。
小さな蔀戸からはぼやっとした灯りが漏れている。
人間の生活に合わせている寺の皆と違って、ナズーリンは妖怪らしい活動時間に立ち戻っていた。
戸を叩く。中で動く気配があった。
出てくるまでの間にふと、空を見上げた。雲一つない澄んだ夜空に、いくつもの星が瞬いている。
――そして、満月。
「ぅあ……」
ドク、と鼓動が強まった。ドクン、ドクンと、血が流れて顔に熱が上る。
そうだ、気を付けないといけないんだった。
満月は、狂気を孕んでいるから。
少し息苦しくなったとき、戸が開いた。
「……なんだ、ご主人か」
ナズーリンは面倒くさそうな目で私を見た。赤い瞳がてる、と光っている。
呆然としていた意識が戻った。
「あ……ナズーリン」
「こんな夜更けに何の用だい?」
「実は、また宝塔が……」
用事を告げると、ナズーリンは不愉快そうに顔を歪めた。
「はぁ、またかい? いったいどれだけ学習しないんだ、ご主人?」
お願いするたび言われるお小言だ。いつものように、困った顔で謝りながら、お願いしますと言えばいい。
けど、今日はなぜか、彼女の言葉に腹が立った。
黙っていると、ナズーリンはまだ文句を続ける。
「回数を数えることすらやめたけどね、ご主人は一体何回、同じことを繰り返して私に面倒をかけるつもりなんだい? ご主人のおつむは私の言葉をいちいち忘れなければならないくらい弱いのかい?」
唇を噛み締める。
堪えろ、宝塔がないと困るのは私だ。
「愚図な主人を持った私は不幸だね。何のために私がここに住んでると思ってるんだ、バカなご主人の面倒を見るのがイヤだったからだよ?」
歯が軋む。堪えろ。
「それなのにいつもいつも迷惑を持ち込んで、聖の庇護でぬくぬくしてるだけの奴はこれだから――」
ああ――
「あああああっ!!」
気付けば叫んでいて、気付けば殴っていた。
「がっ!?」
ナズーリンが小屋の中に吹っ飛ぶ。倒れ込んだ身体に飛びかかる。
「な、なにするんだご主じ――」
彼女が何かを言おうとする前に喉笛に喰らい付いて、
「が……っ!」
そのまま、噛み砕いた。
ばぎり、と湿った音が響く。痙攣するナズーリンの身体、その腹に牙を立て食い破る。
視界が赤く染まり、満月の光が意識の溶けそうな光景を照らし出した。
理性が酩酊し、融解している。
妖獣としての本能ゆえか、逆徒を食い殺す動きを止められない。
臓物を引きずり出し咀嚼しているうちに、鼠は痙攣さえしなくなったが、私はしばらくそれにさえ気付かなかった。
心の臓に穴を空けると、だくと温い血が溢れ出した。
粘つくそれを啜り、肉を食らい、飲み込もうとしたモノが引っかかって、噎せた。
「ゲホッ! ゲホッ、ゴホッ! ェオッ!」
床に手をついて咳き込んだ。
口の中にあった肉片を吐き出し、血臭まみれの空気を深く吸い込み、吐き出す。
「……ァ」
そこで、正気に戻った。
戻って、しまった。
「……ぁ」
赤い。
あかい。
すべて、アカイ。
「う……げ、ぇ」
肚の中身がせり上がる。
堪える余裕さえなく、溢れ出た。
「ぇえっ、う、ぼっ! おぼっ! おっ!」
喉を灼かれながら、白濁した胃液を吐く。肚には相当の血肉が詰まっているはずなのに、それらが出てくる様子はなかった。
肚の底に沈殿し、固着しているかのように。
それでも、嘔吐は止まらない。
胃液も出なくなって、ガリガリと粘膜に爪を立てながら、痙攣で肚の底の空気が捻り出される。
「えぉっ、ぉぉ、ぉっ、ぉ……」
視界が歪む。頬に流れた雫がむず痒い。
服の袖で顔を拭うと、べとりとした何かが塗り付けられる感覚があった。
小屋の隅に置かれていた水桶に寄って口を漱ぐ。目元を洗う。鼻を洗い、手を洗った。
夜目が利いてきた。本来は白いはずの袖が暗い色に染まっている。水で濯いでも落ちそうにはなかった。
少しさっぱりとした鼻に腥い血臭が流れ込んできて、一度は落ち着いた吐き気が再発しそうになる。
ふらつく足で小屋を出た。べちゃべちゃと鳴る履物を中に捨てて、引きずりそうな服の裾を捲り上げる。
生温い風が、剥き出しになった踝を撫でた。
そのまま、歩く。
足は自然と、川へ向かっていた。
月光に照らされて惨状がわかる。私の服はもう、元の色を失するほど、どす黒い紅に塗り潰されていた。
鏡がないからわからないが、さっき洗った顔もまだ汚れているだろうし、髪などそのまま血染めだろう。
洗わないと。血を落とさないと。
このままじゃ、帰れない。
ふらと歩く。川は山のほうだ。意図をせずとも足は動く。
夜でも清澄な川に着いた。流れは穏やかでないようなのに、音があまり聞こえない。私の耳は狂ったのだろうか。
服も脱がずに身を沈める。身体に篭った熱を押し流す冷たさが心地よかった。
こびりついた血糊はなかなか落ちない。ザブリと頭まで水に浸かって、パリパリと固まった髪や顔を洗う。
一度で落ちたとは思えない。何度も、何度も繰り返す。
月は眩しいほどに明るくて、川の流れにも、怖ろしく澄んだ水鏡ができていた。
数え切れないほど垢離を繰り返したおかげか、顔や髪にこびりついた血は粗方落ちている。
けれど、服に染み込んだそれはどうしようもなさそうだった。
そして、清澄な水鏡が移す私の姿は、身の毛がよだつほど、穢らしく見えた。
「……ああ、厄い、厄いわ」
不意に、声が聞こえた。
振り向くと、緑色の髪をした、暗い洋装の少女がいた。
長い髪とリボンを揺らしながら、少女が私に近付いてくる。
「厄いわね。獣の臭い、喰われた獣の腥い厄ね」
彼女が厄神なのだと、唐突に理解した。
ふわふわと空に浮かびながら、彼女は私に手を伸ばしてくる。
少しすると、圧し掛かっていた重さが失われたような気がした。
身体が軽くなり、何気なく水面に目を遣ると、先までの穢濁が消えていた。
厄神は何かを弄ぶように指を空で遊ばせる。
「嗚呼、これは酷い。当分はおなか一杯になっちゃいそうね。肚の底のは取れなかったけど、これだけ取れれば十分よね?」
意思疎通しようとする様子も見受けられず、彼女は自分の言葉に納得したように頷いた。
指の動きをそのままに、くるりと身を翻して去っていく。
川から上がる。水を吸い切った服は重く、流れに浸し続けていた身体はすっかり冷え切っていた。
服を脱いで水を絞る。身体も拭きたかったが、そんな乾いた布はない。
急ごう、寺の日課が始まる前には帰らないといけない。
身体に張り付く服を着直して、裸足のまま寺へ帰る。
どこかで服も処分したい、できるような場所はあっただろうか。
……たぶん、ない。裏口から入って、見つからないうちに何とかするしかなさそうだ。
月明かりが翳ってきて、視界の闇が深まった。
けど、私も元は夜に生きた獣だ、夜目は利く。厄神に会ってから、身体は平常の調子を取り戻していた。
程なく、寺に着く。
裏口の戸を、音を立てないよう気を付けながら開けて、自分の部屋へ向かう。
息が詰まりそうな緊張に苛まれながらも、誰にも見つからずに部屋に着いた。
畳を濡らしてはいけない、縁側で服を脱いでから入る。箪笥から出した手拭いで身体を拭いて、乾いた寝巻を着込んだ。
脱ぎ捨てた服はどうする、寺の外に捨てに行くには時間がない。
境内で人の出入りの少ない場所……蔵か。
あまり使わなくなったものを保管する物置のような蔵が隅にある。短い時間ならそこでも大丈夫だろう。
草履をつっかけて蔵に向かう。
閂が掛けられただけの鉄扉は、長らく開かれていないように見えた。
音を立てないのは難しい。軋む音を立てながら扉を開けて、暗い蔵の奥まったところに、見つからないよう衣服を隠す。
扉を閉めて、肺腑の底に沈んでいた空気を吐き出した。
これで、ひとまずは平気だろう。
これで、いつもの日常に戻れる――。
「……おや」
不意に、くらりと漂う煙の臭い。
正面からの声に顔を上げる。
大きな尻尾を揺すりながら、片手に煙管を携えたマミゾウがいた。
「マミ、ゾウ」
「こんな時間に珍しいのう、いつもは寝ている頃合いかと思っとったんじゃが」
ゆるりとした仕草で、彼女は煙管を咥える。
火皿から立ち上る紫煙には、葉の焼ける煙臭さと、少しの甘さが混じっていた。
私が何をしていたかに気付いている様子はない。少し引き攣りそうになりながら笑って、口を開く。
「なんだか、眠れなかったので。少し、風に当たろうかと」
「にしてはまた珍しい所におるもんだ、蔵に用でもあったのかね?」
気付いてる? いや、そんなことはないはずだ。
浮かべていた微笑を消して、眉を下ろす。
「……実は、また宝塔を」
「呵々、またかね」
小さく声を上げてマミゾウは笑った。
「成る程読めたぞ。また宝塔を無くしてしまったが、いつもいつもナズーリンに頼むのは気が引ける。じゃから皆の寝静まった夜にこっそり探し回っとったんじゃな?」
「このことは、内緒に……」
「無論、言いふらしたりはせんわい」
嫌みなくマミゾウは笑う。
よかった、嘘とは思われていないようだった。
「ところで、マミゾウはどうして、こんな夜更けに?」
再び追及されたりしないよう話題を逸らす。
私にかからないよう煙を吐いてから彼女は答えた。
「なに、儂はまだこの寺の習慣に慣れとらんようでのう。加えてこの冴えた満月、血もいきり立って寝られなんだ。なれば折角じゃ、月を肴に一献と思ってな」
見れば、マミゾウの腰には酒が入っているのだろう瓢箪が括りつけられていた。
「お酒、ですか」
「おっと口が滑った。このことは一つ、内密で頼むぞ?」
ニッ、と唇を歪める彼女に頷く。
「さて、儂は今言った通りにするが、お前さんはどうするね?」
「いろいろ探してもなかったので、外を探そうかとも思っているのですが……」
「まあ、この夜はもうやめるべきじゃな。陽が昇るまでに見つかる保証もなし、日課に間に合わなければ露見する。それでは元の木阿弥じゃろう?」
「そう、ですね」
「明日も見つからんなら手を貸してやるわい。人手がおれば、探し物も幾らかは楽になるじゃろ」
「ありがとう、ございます」
ホッとした。気が緩んだからか、妙に眠くなってしまっていたのだ。
不自然に思われないように外に出なければと考えていたが、その必要がなくなって安心する。
「では、マミゾウも程々に」
「うむ。そちらものびりと眠ることじゃな」
眼鏡越しの赤い瞳が細まり、そうしてマミゾウは蔵の屋根に跳び上がった。蔵のそばには空を遮るようなものはない。
月を見るなら確かに特等席だ、そう思いながら部屋へ戻る。
布団を敷いて障子戸を閉める。先に出した手拭いで、嫌な汗が浮かんだ額を拭いた。
くらとする。意識が酩酊しているような感覚。
眠ろう。眠ろう。
そうすればきっと、悪い夢からも、醒める。
手拭いを放り出して、倒れ込むように横たわる。
頭まで布団を被って、身体を丸めながら目を閉じた。
肚が重い。奇妙な重しを詰め込まれたような感覚。
喉が爛れたような気持ち悪さと、蠢いているように落ち着かない肚の内。
それを無視して、意識を落とそうと試みる。
眠ろう、早く。
悪い夢から、醒めないと。
……障子越し。あるいはそれより遥かの場所から。
じぃ、と、視線を、感じた。
――チチ、と小鳥の囀りが聞こえた。
目がぼんやりと重い。睡眠か気絶か、どちらかは判然としないけど、あまり休めなかったようだ。
障子を透かす朝陽が刺さり、仕方なく身体を起こす。疲労も、肚の重さも変わらない。
悪い夢は、醒めていないのかもしれない。
箪笥から服を出す。蔵に隠した服も、捨てないと。
そう思いながら、鈍重な動きで着替えを済ます。
きし、と縁側の床板が鳴った。
「星、起きてる?」
村紗の声が聞こえた。
「はい、起きてますよ」
障子戸を開けると、いつもの水兵服を着た村紗が立っていた。
朝餉の前に部屋に来るなんて、珍しい。
「なにかありましたか? こんな早くに珍しい」
「いや、実はさっき井戸に水汲みに行ったらさ」
彼女が右手を差し出してくる。
「釣瓶の桶の中に落ちてたんだけど、落とした?」
手には、濡れた身を陽で輝かす宝塔があった。
「あ、宝塔……」
井戸の側、何かした? 記憶を掘り返す、何かあったか?」
「……あ」
そうだ。昨日、井戸で顔を洗って、その時にも宝塔は持ち歩いていた。
その時に、落とした?
「いや、まあなんでもいいんだけどさ」
村紗が私に宝塔を押し付けてくる。
「とりあえず、今度は無くさないようにね。またナズーリンに怒られるよ?」
村紗がニコと笑う。
「……はい。そう、ですね」
受け取りながら、私は、引き攣った微笑を浮かべることしかできなかった。
「それじゃ、朝ごはん行こっか」
「……はい」
宝塔を、砕かんばかりに強く握り締めながら、起き抜けよりも重くなった足を引きずって、私は彼女のあとを追う。
食堂に着いたのは、村紗と私が最後だった。
マミゾウが眠そうな赤い瞳を私に、正確には宝塔に向けて、ニッと笑う。そうして視線を自分の膳に戻した。
自分の席に着く。膳には粥と、吸い物と、漬物といったささやかな食事が載っていた。
聖の声で皆が食事を始める。
くぅ、とお腹が鳴る。
それなのに、食欲が湧かなかった。沈着した肚の底の異物感。
そんなものはないのだと自分をごまかして粥を啜った。米の甘み、仄かに混じった塩味が優しい。漬物を齧り、吸い物を飲む。
大した量があるわけじゃない。食欲がなくても、詰め込むくらいならできる。
食事を続けていると、少し気分も落ち着いてきた。そのことに安堵しながらもう一匙、粥を口に含んで、
――肚の、底に、落ちた。
「げほっ!?」
咳き込み、口の中の米粒を吐き出した。匙を落とし、私は右手で口元を押さえる。
肚の底が蠢いていた。ぐちり、ぐちりと音を立ててよじ登ってくる、猛烈な吐き気。
「う、ううう……」
ここはダメだ、ここで吐くな。
ふらつきながら立ち上がる。厠、厠へ。
「ちょっと、星!?」
誰かの声、答えることもできずに食堂を出る。
じぃ、と、視線を、感じた。
肚の中身が、今にも喉を越えようとしている。まだダメだ、まだ堪えろ。
厠に着いた。戸を開け、転ぶようにして便器を覗き込む。
そこで、限界が来た。
「おげぇっ! えっ、えぉっ!」
嘔吐。
胃液に混じって、先に詰め込んだ米粒や漬物がぶちまけられる。
大した量もないそれが尽きて、そのあとは胃液ばかりの吐瀉が続く。
「げっ、えっ、えあっ、あっ、あっ」
喉がガリガリと削られる。蠕動の感覚に涙がこぼれる。
もう出るものはない。ない。ない、から、もう、早く――
――ゆるさないよ
「っ!?」
コエが、聴こえた。
にじり、にじりと、ソレが這い上がってくる。
圧倒的な異物感が内側から身体を圧迫する。
コレは。
コレだけは、出してはいけない。
両手で口を塞ぐ。痙攣する喉を押さえ付けて、外へ出ようとするソレを押し戻す。
涙が一層溢れる。鼻からも胃液が溢れ出る。
くるしい、つらい、いやだ、たすけて。
ぐち……ぐち……
異音が聞こえた。
ゆるして、たすけて、ごめんなさい、ごめんなさい。
ぐち……ぐち……
これは、夢?
ぐち……ぐち……
これは、罰?
ぐち……ぐち……
ごめんなさい、ごめんなさい。
あやまりますから、あやまりますから。
ぐち……ぐち……
ゆるして……!
ぐち
――いいや、ゆるさないよ
★ ★ ★
これは罰なんだ。
何度目かもわからないほど、自分にそう言い聞かせた。
布団に横たわる私の身体。もう、満足に腕を持ち上げることさえできない。
もう永くないと分かっている。看病してくれた聖たちに退がってもらって、私は一人だ。
いつかのような満月の光が、障子を透かして射し込んでくる。意識は茫洋としていて、視界も霞んだ。
ふと、光に影が混じった。まるで、誰かがそこにいるように。
「邪魔するぞい」
そして、声とともに戸が開く。
「難儀そうじゃの、何よりじゃ」
マミゾウが、立っていた。
「……ぁ」
声を出そうとして、けれどそれは、息でしかなかった。
「ああ、お前さんは黙っとれ。声出す元気もなかろうし、お前さんの言葉を聞く気もない」
刺すほどに冷えた声音で、彼女はいつも通りの仕草で煙管を吹かす。
「ムラサや一輪、響子はともかく、ぬえまで気付かんとは思わなんだ。寺暮らしで牙が抜けたかね、あれも」
呆れや空しさを漂わせたような溜め息。
長く吐き出された煙が私の顔にまで届き、それに咳き込むと、折れかけた木のように身体が軋んだ。
逆光となる月明かりの中、マミゾウの表情の仔細が陰に隠れる。
その中で赤い瞳だけが、爛とした色で私を見ていた。
その、赤い瞳は、まるで、ナズーリンのものの、ようで。
「ぁ……」
「閻魔でもなし、罪を並べ立てて詰るつもりもないがのう」
その眼はやめて。
彼女のような、その眼で視ないで。
声にならない訴えは、マミゾウには届かない。
いや、届いているのかもしれない。
ただ、その眼を以て、私を責めているだけで。
「お前さんの罪過は、己が悪業を隠そうとしたことじゃ。天知る地知る我知る子知る、逃れ得ぬものと知っていたろうに」
そうだ。私は、隠した。隠そうとしたんだ。
明らかにすれば、私はここにいられなくなったから。
隠していれば、いつもの日々に戻れると思ったから。
それが許され難い咎だとわかっていたのに。
それがナズーリンに対して、そして何より、寺の皆に対しての侮辱になると、わかっていたのに……。
「ぁ、ぁぁ……」
声が出ない。涙だけが出る。
ぼやけた視界の赤い瞳は、どこまでも冷ややかに私を見下していた。
「救いはないよ、救う気もなし。輪廻できるかも知りはせんが、三途で己の業に向き合っておれ」
音もなく、障子戸が閉まる。
部屋が静謐に食われる。
瞳の形をした赤色だけが、残っていた。
「あ、ぁぁ……」
ぐち……ぐち……
異音を異音と認識しなくなったのはいつからだろう。
常に響くその音は、もう異と冠するものではなくなっていた。
ぐち、ぐち、ぐち
腕を持ち上げる。自分の身体を見なくなって久しい。
私の腕は、骨と皮しか残っていなかった。
ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち
「ぁぁ、ぁ……」
赤色に、手を伸ばす。
ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち
涙が、止まらない。
ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち
「ご、めん、な、さ、い」
木枯らしのようで、声にすらならず。
ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち
「――――――――――――」
そうして、腕が落ちて。
ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち
赤色さえも、消えた。
ぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐちぐち――――――――――――――
――――――いいや、ゆるさないよ
怖い怖い
とても面白かったです。ありがとうございました。
寅丸は腹の内にナニを飼っていたのか……。
ぐちぐちぐちぐち…