(ああ、もっともっと、たくさん、八橋の唇を、思う存分、ついばんでしまいたい)
弁々の衝動は日に日に高まっていった。
そんな姉の葛藤をつゆ知らず、妹はベッドでごろりと横になって、本を読んでいる。寝る前に本を読むのが、妹の習慣だ。
里山の奥にこさえた、さして広くもない二人の小屋。寝室と居間は同じ部屋である。弁々はベッドのそばの座椅子に腰かけ、妹はピンクのパジャマに着替えてベッドでごろね。その妹の横顔を、弁々はしつこいほどじっと見つめた。
己のそれは、劣情とも言える下卑た感情である。
だが弁々にはその劣情が愛しかった。
感情表現の豊かな妹とは違い、弁々はむしろ奥手。妹のように、奇妙な奇声をあげてはしゃぐこともなければ、明けっぴろげに大笑いをすることもない。一人でいるときは静かに琵琶を奏でてすごすし、積極的に誰かと関わろうともしない。弁々の心のみなもは、波紋のない水鏡。けれど、妹が隣にいてくれると、世界がとたん、賑やかになる。淋しいほど静かだった心の内が、感情で満ち溢れだす。心の振幅は幸せの大きさ。感情の揺れ動く波形は音楽の波形のごとく、感情の波形がぐわんぐわんと波打つほど、奏でる琵琶の音色も豊かに色づく。
そんなふうに弁々の心に巨石を投げ入れてくれるのが、目の前にいる可愛い妹。心の波形を妹によって乱されるたび、弁々の心はびんびんと幸せを感じるのであった。
そんな妹の、特別な唇を奪ってしまえたなら。
(だめだめ!)
奥歯をぐっとかみ締めて、抱えた琵琶を抱きしめて、弁々は堪える。
数か月前に姉妹になっていらい、少しずつ、少しずつ、二人は絆を紡ぎあってきた。今のところ、自分は良い姉だと思う。けれどこの感情は、妹の大切なモノを奪ってしまいたいというこの激しい独占欲は、姉として許される感情なのだろうか。
弁々には、まだそれが分からない。妹の唇を奪い、姉としてその責任を取る決心がつかない。
弁々は沸騰する気持ちを歌に浴びせかけて、掻き毟るように琵琶を奏でた。
――妹のぉ~ 甘きホッペにブチかますぅ~ お休みのキスはぁ 八つ橋のあじぃ~ (べんべんっ)
弦の音がぎざぎざしている。乱暴な音が耳をつんざく。
ベッドに寝転がっていた妹が、迷惑そうな顔を姉に向けた。
「ねぇ、ちょっと、姉さんってば、いつまで琵琶を弾いてるの? 私、もうそろそろ、寝るからね」
「あ、待って待ってー、私も寝る」
弁々は急いでパジャマに着替えると、妹の待つベッドにもぐりこんだ。
姉妹になりたての頃は、一緒のベッドに眠るのはひどく恥ずかしく感じられたものだ。けれど今はもう違う。お互い、姉として妹として、随分となじんだように思う。
弁々は髪を整え終えると、ベッドに肘をついて、フゥ、と枕もとのロウソクの火を消す。灯りは消え去って、部屋が真っ暗になる。間近に横たわっている妹の顔さえ、十分には見通せない。妹がもそもそと動くと、衣ずれの音だけは、むしろはっきりと聞こえた。
さして広くもないベッドに、それほど大きくないかけ毛布。二人で暮らす小じんまりとした住処。そこに見合った、小さめのベッド。弁々がちょっと身じろぎをするたびに、肩やら肘やら肢やらが、妹の体にスリスリとこすれてしまう。
――先週のことだが、それならいっそのこと最初から抱き合って眠りましょうか、という提案を、弁々は妹にした。すると妹は、意外なほどあっさりと了承してくれた。姉妹になってすぐの頃は、肩が触れ合うのさえ恥ずかしがっていたのに。なんだか、あっさりしすぎていて、ちょっぴり物足りない。
弁々はもっとこってりした反応がほしいのである。なので、どうしてそんな簡単にOKしたのか、と、ちょいと突っ込んで聞いてみた。姉と抱き合って眠ることに、抵抗はないのか、と。したらば妹は、ちょっぴり口ごもってから、「いや、まぁ、掛け布団が薄くて、寒かったし」とかなんとか、ぶっきらぼうに、いかにも照れてますよという口調で答えたのだった。妹の目がフラフラとおよいでいたのを、姉は見逃さなかった。弁々は、満足であった。二人はだんだん、姉妹として精錬されつつある。抱き合ってねむることも、以前ほどは恥ずかしくない。けれども、姉妹になったころの初々しい気持ちは、いつまでも忘れてほしくなかった。
「じゃ、おやすみ」
弁々が妹に言うと、
「んー」
妹は片手間な返事をしつつも、もぞもぞと体を横向けて、スルスルと四肢を姉に絡ませてきた。
この妹は、「私もう寝るからね」と言い捨てておきながら、その実、姉が隣にくるまで、しっかりベッドの中で起きて待っている。弁々にとって、そんないじらしい妹の体はすこぶる抱き心地が良かった。妹の体は、姉のそれよりかは、いささか肉付きの少ないものだが、その肌はとてもやわらかい。寝巻きの上からでも、肌が接触しこすれあうたび、心地よい肉の圧迫が感じられた。
暗い部屋、姉妹の体と、寝巻きと、布団とが、シュルシュルと擦れあう。
弁々は、妹の腰の下に腕を通し、横向き合った互いの体を、しっかりと固定した。もう片方の腕は、手を繋いだり、腋を抱いたり、頬を撫でたり。
妹は、弁々よりも少しだけ背が小さかった。だから足の先をそろえて抱き合うと、弁々の鎖骨のあたりに、妹の唇があたる。
それでは不便だった。お休みのキスがしずらいのだ。できないことはないが、弁々の首が痛くなる。頬の感触に集中できなくなってしまう。だから、毎晩、暗黙の了解で、初めのうち二人は、頭の高さをそろえて眠るのであった。そも、一つの長枕を二人で使っているから、普通に横たわれば自然と顔の高さはそろうのだが。それでも、朝になるころには、姉のほうが頭が高かったり、妹のほうが頭が高かったり、日々まちまちに変わる。
「この辺かなー」
弁々は、鼻の先を突き出して、妹の顔面を探った。ほどなくして、鼻頭が、妹の鼻頭にコツンとぶつかる。妹がちょうど鼻からフゥと息を漏らしたから、妹の体内の臭いが、微風にのって弁々の上唇をサワワとこそばした。両手を使ってキュッと妹の体を抱く。胸と太もも、下腹部がとくに強く触れ合った。体温が伝わってきた。
もはや目をつぶっても、妹の頬や唇がどの位置にあるのか、わずかな誤差さえ無く感じとれる。
このところ夜毎に繰り返してきたお休みのキッスだ。弁々にとって欠かすことのできない習慣。妹へ、貴方をどれだけ好いているかを、かかさず伝えるための習慣。どんな暗闇の中であろうと、妹のほっぺたにピンポイントでキスできる自信がある。
しかし――近頃、普通のキスでは我慢できなくなってしまった。
だから弁々は今晩も、ちょっとだけ意地悪なキスをする。
チュッ……!
危ういキス。
ただのホッペのキスではない。二人の口の端と端とが触れる、「ホッペにキス」で許される、ぎりぎりのキッス。
「……っ」
妹は、ピクリと小さく身じろぎをし、少しだけ肩をすぼめる。抱き合った体を通して、妹の動揺がありありと伝わってくる。けれどそれ以上の反応はなく、姉の意地悪に抗議もせず、姉の行為を問いしもせず。妹はただ、黙して、肩を震わせて、耐えるだけだった。普段の妹からは考えられない程、控えめで大人しい反応。
いつもの妹ならば、例えば、嫌悪感丸出しで唇を拭いながら『何するのよ姉さん、気持ち悪い!』とブータレたり、はたまた、頬をうぶい色にほてらせながら『姉さん、あのね、唇、あたってるんだけど』とかと恥ずかしがったり、とっても分かりやすいのに。
こんな反応は、普通じゃない。
普段感情表現の豊かな妹が、今は、まるでウブで内気な乙女になってしまった。
しかしそんな妹が可愛くてたまらなくて、弁々は妹を抱く腕にさらに力を籠める。頬ずりをする。
妹の唇は、とっても綺麗なピンク色。赤子の肌のようにふにゃふにゃで、そのくせ多分、彼女のつつましい胸の先端ほども敏感なのだろう。
乙女の柔肌はとってもデリケートだというけれど、この薄紅色の果肉はデリケートだなんてものじゃない。唇とは、内臓だ。本来外にでてはいけない部位、秘所なのだ。肉体の奥に潜められているべき生肉が、神の気まぐれによって体外に露出する。乙女の肉体には、何箇所かそういう部位があるけれど、唇は紛れもなくそのうちの一つ。そうでなければ、こうも心惹かれるはずが無い。特別な相手しか触れることの出来ない、特別な部位。
私に、それを奪う資格があるのだろうか。姉は今宵もまた、それを計りかねていた。
……ちゅっ
すりすり
ホッペのキスとうそぶいて、妹の唇の端へ、己の唇の端をあてがう。極上の柔らかさが、皮膚を通して伝わってくる。
……ぴくんっ。
また、妹の肩が震えた。
今度もやはり、それきり、妹は黙ったままだった。
何か言ってくれたらいいのに。
弁々は、ちょっぴり、妹が恨めしかった。
弁々は突然不安になった。
妹は、自分よりもはるかに社交的。いつか、妹べったりなこの姉を、鬱陶しく思うひがくるのだろうか。
そう思うと弁々は、胸が張り裂けそうになった。
「あのさぁ」
しばらくして、ふいに、妹は口を開いた。
妹は弁々の胸の谷間に顔を埋めていた。妹はよく、そうやって眠るのだ。
弁々はいくらかウトウトし始めていた。目をあけるのが億劫だったので、まぶたは閉じたまま、言葉を交わした。
「なに?」
「あのね」
「うん」
「変な姉妹なのかな、私達って」
妹にしてはめずらしい問いかけだと思った。姉妹になってこのかた、妹はそういうことを気にした風な様子はなかった。姉妹がどうあるべきだとか、そういうことは、妹にとっては大きな問題ではないように思われた。また、そういう疑問は抱いてほしくないとも思う。弁々は、今の二人のあり方が、好きなのだ。もし妹がこれを嫌だというのなら、弁々にとって、それはとても、辛いことだ。
「なんかね、普通の姉妹は、あんまりこーいうことしないんだってさ。お休みのキスとか、抱き合って寝たりとか、一緒にお風呂はいったりとか」
弁々はひやりとする。
「そう? 誰かが、そう言ってた?」
「リリカに、メルランに」
「ふうん」
九十九姉妹とプリズムリバーの姉妹とは、たびたび一緒に楽器を演奏することがあった。妹は下の二人姉妹と気が合うようだが、弁々にとっては、性格の比較的静かな長女とが一番気が合うのだった。
「すっごい笑われたんだからっ。『あんた意外と甘えん坊なんだねー』って」
胸の谷間に妹の粗い鼻息が渦巻く。
「めちゃくちゃ恥ずかしかったんだからねっ。私は、姉さんが当たり前みたいにそうするから、姉妹ってそういうものだと思ってたのに」
気がつけば妹はぷりぷりと頬を膨らませていて、いつのまにか怒りの矛先が自分に向けられている。妹のせわしない気性がおかしくて、クスクスと笑いそうになった。けれど、笑ってしまうと妹がへそを曲げるので、弁々は腹に力を籠めて笑みを押し殺した。
「私は、別に恥ずかしいと思わないけど」
「ねぇさんが良くても、私は恥ずかしいのっ」
ぼふぼふと手足をばたつかせる妹。妹の性格からすれば、誰かに笑われるのはさぞ屈辱だろう。
けれど弁々は、今の姉妹関係が好きだった。
弁々は妹の体をぎゅっと抱き寄せた。
「八橋は、こーやって一緒に眠るのは、嫌?」
「……嫌じゃ、ないけど」
しばらくは姉の腕の中でもぞついていた妹がだ、少しするとゼンマイが切れたように、今度は、突然大人しくなる。相変わらずせわしのない。
なるほど、と弁々は苦笑した。妹は強がりで意地っ張りなところがある。誰かに馬鹿にされたのが、嫌なのだ。こっそり安心する。抱き合うのが嫌だとか、そういうことではないらしい。
弁々は妹の額に頬ずりをする。
この妹は分かっていないかもしれないけれど、弁々は姉妹ができて本当に嬉しい。誰よりも大切に感じ、誰よりも大切にされたいと強く思うえる。自分に、そんな相手が、できたことが嬉しい。
妹を強く抱く。
すると妹は、母親にだかれて安心した幼子のように、ぽそぽそと、とっておきの秘密を打ち明けるように、言った。
「私さ、姉妹がどーいうものなのか、まだ良く分からないよ。でもね、それでも私、姉さんのことは、全部信じてるんだからね。だから、間違ったこと、私に教えないでよね」
弁々の胸のおくで、唐突に、きゅううんと、何かが、高鳴った。
弁々もう、目を閉じていられなくなった。
胸の奥で何かが縮んで、膨らんで、また縮んで、また膨らんで……収縮を繰り返すたび、体の中に圧力をともなった熱い波動が広がる。心の水面にたった波が、体の中で実体化したように思えた。
この妹は、姉が思ったよりもずっと、姉妹関係を大切にしてくれている。そして、きっと、心底から姉を頼りにしてくれているのだ。
「もちろん、そんなことしない」
弁々の胸には、尽きることの無い強い思いがある。
妹が好き、妹を守りたい、妹に幸せでいてほしい、なにより妹とずっと一緒にいたい……姉妹という関係には、他人には分からない特別な力がある。今、妹の口から具体的な言葉を得て、それらの思いが突然物理的な力を備えて、弁々の体を押し包んでいた。
思いきり妹を抱き寄せて、胸の中でもみくちゃにする。そうしてギュッと力を籠めていないと、体のうちから湧き出る多幸感によって、体がはじけてしまいそうだった。
妹が、苦しそうにあえぐ。
「あのさぁっ、こうやってべたべたするのも、本当は変なんじゃないの?」
「八橋は勘違いをしてる。姉妹はこう在るべき、みたいな正解なんて、ありはしないのよ」
「それは、そうかもしれないけど、でも、誰かに笑われるのは、私、嫌よ」
「もちろん、笑われるのってすごく恥ずかしい、だけど」
弁々は、妹に飛び切りの笑顔を向けて、言った。
「私は誰かに笑われたっていいから、八橋とこうしていたい」
随分恥ずかしいことを言うものだと、自分でも思う。妹の顔と同じくらい、自分の顔も赤面していたかもしれない。人に聞かれたら笑われるだろう。けれども、これは紛れも無い本心。そんな本心を、何の臆面もなく、自分が口にできるなんて、自分でも、信じられない。
だが、そういう本音を、素直に打ち明けさせてくれる相手こそが、
「貴方は、世界でたった一人の、私の妹なんだもの!」
思わず声がはずんだ。
「ぐ、む」
妹は照れているのか、うつむいて、何事か言葉をぼそぼそと噛んでいる。その後頭部を、弁々はくりくりと指でなぞった。柔らかい髪の毛が、指の間を流れていく。
妹の恥じる気持ちはよく分かる。よく分かるけれど、弁々にとっては、そんなことはどうでも良かった。自分勝手で良くない姉だと思う。けれど、妹に伝えられずにはいられなかった。
「だからね、八橋も、したい事を、しましょ。それがきっと私達姉妹の正しい姿なんだわ」
「……姉さんはいいよね、そーやって、自分に真っ直ぐでいられてさ」
弁々は晴れやかな気持ちで心のうちを吐露することができた。
だが、妹の声は、ずいぶんと暗かった。
「私は姉さんと違って、中々そこまで自分に自信もてないよ。どうしても周りが気になっちゃう。自分は変じゃないか、おかしくないかって、いつも気にしてるもの」
姉はしばらくの間、驚いて口を聞けなかった。まさか、という思いがあった。つくづく、妹と一緒にいると暇をしないと、弁々は、舌をまく。この妹は、いつも姉を仰天させてくれる。姉がようやく心の中に強い明かりを照らせたと思ったら、突然妹は、心の中の暗闇を持ち出してくる。
「そうなの? 八橋は、そんな風に感じてたの?」
「そーよ。知らなかった?」
妹は、姉にしがみついたまま、睨むような目つきをした。そうやって、本音を明かす勇気を絞っているのだろう。妹の瞳が、暗闇の中で光っている、ような気がする。弁々は、妹の大きな瞳の中に、己の姿を見た気がした。
「貴方は、いつも元気一杯で自信満々で、迷うことなんかないって、私はそう思ってた」
「ふんっ」
と、鼻を鳴らすと、妹は180度寝返りをうって、弁々に背中を向けてしまった。
力の無い背中で、いじけた声をはく。
「姉さんったら、姉さんのくせに、私のこと全然わかってないじゃん」
弁々は、妹の罵りを素直に認めた。
「ごめんなさい、そうみたい」
けれども申し訳ないという気持ちは、ほとんど無かった。妹もまた同じ間違いを犯している。
「でも、八橋だって、私のことを全然わかってないのよ。私、ずっと羨ましかったんだから。貴方みたいになりたいって、いつも思ってたし、今も思ってる」
妹にとって、姉のその発言は意外だったのだろうか。そっぽを向いた後ろ頭が、戸惑うように、身じろいだ。妹にとって、姉はとても自信に満ち溢れている存在に見えたのだろうか。だとしたら、それは大きな勘違いだ。
「私達、まだまだお互いのことを、ちゃんと知らなきゃいけないね」
妹の背中に、寄り添う。
背中から手を回すと、姉の体は妹の背中をすっぽりと覆うことができた。卵を抱きかかえる親鳥のように、弁々は妹を全身を使って妹を包んだ。妹の暖かい体温が、腕に、胸に、おなかに、足に、伝わってくる。
この小さな体の中には、姉が思っていた以上に、素敵なものが詰まっている。姉には乏しい、快活で元気一杯な心。そして姉とほとんど同じ、悩みや心配ごと。
すうと息を吸うと、暖かくて懐かしい匂いに包まれた。姉のよく知る、妹の体臭。妹の体からしみでる匂い。感じなれた呼吸のリズム。胸や肉の柔らかい感食。妹の息遣い。
姉妹の絆は花々やこまやかな愛情でできているわけじゃない。妹の体からしみでる、甘い香。共通の匂いや思い出、そう言ったもので二人はつながれ、つながっていく。
「八橋」
妹のうなじの香を吸い込みながら、姉は語りかける。
「八橋はとっても素敵な妹よ。私はずっと、貴方の姉でいたい。八橋の弱いところも、強いところも、全部知りたい」
すりすりと、妹のブラウンの髪の毛に、弁々は頬ずりをした。
「私は八橋がいないと、何もできないのよ。私の元気は、全部、八橋のおかげ。……貴方にとっても私がそうであったなら、嬉しい。そうあれるよう、私、頑張る。頑張って、いつも素直でいる」
弁々は、心の中で決めていた。
明日は、お休みのキスをしてみよう。ホッペではなく、唇に。
私達は姉妹だ。
私は妹にとって世界でたった一人の姉。そして八橋は、世界でたった一人の、私の妹。
私には資格がある。妹の唇を奪う、覚悟がある!
「……恥ずかしいこと言わないでよね。姉さんの、馬鹿。そーいうところがさ……羨ましいって言ってるの……」
妹の声はまだいじけている。けれど、ちゃんとその声は笑っていた。姉の気持ちにこたえてくれていた。
妹は、明日になれば元気なってくれるに違いない。妹は、思ったよりも傷つきやすい女の子だったのかもしれない。けれどきっと立ち直りは早い。弁々の知る妹は、そういう生命力のある少女であるし、それが全く間違っているとは、思わないい。
朝がくれば、また楽しい日々がきっと始まる。妹と、姉の二人の。
さぁ、もう、眠る時間だろう。
眠って心を休ませるとき。次に目覚めたとき、妹の心は少し強くなっているだろう。そうに違いない。
目を瞑る、とたん、眼球を眠気が覆いつくす。瞼の裏が熱い。二度と目を開けたくない。全身の力をぬいて、妹のほんわかした体に身を預ける。抗いようの無い心地よさが、触れ合った箇所を起点にして全身へと広がっていく。そんなに長話をしていたつもりではないけれど、随分疲れていた。驚きの連続だったのだ。知らない妹を知れたし、自分の本心をも知ることができた。新鮮で、豊かな経験だった。その代わりに、心は、へとへと。
「お休み八橋、また明日」
妹の体臭に包まれながら、弁々は急速に、心地よい眠りへと落ちていった。
弁々は夢を見ていた。
夢と現の間、起きているのか、寝ているのか。今がいつなのか、どこなのか。自分は、どこにいるのか。目は開いているのか、閉じているのか。
ぼやけた意識の中、弁々は、かすかに妹の声を聞いたような気がした。
――素直に、したいことをしろって、そう言ったのは姉さんなんだからね
唇に、柔らかいものが当たった。ような気がした。
形のない、けれどとても暖かい、何か。
なんだか、求めてやまなかったものが、ようやく手にはいったような。
――どうしよう、本当に、しちゃった、私ったら。
……ずっと、してほしかったんだからね。姉さんの意地悪。なんでしてくれないの?
だけど、恥ずかしくてそんなこと言えなかった。
姉妹でキスだなんて、多分、変だもん……きっと、みんなにまた笑われる……けど、でも私は、やっぱり姉さんとキスしたい。
だって私、姉さんのこと、とっても好きなんだもん。
だから、いいんだよね……?
素直になって、いいんだよね……?
今宵、弁々は良い夢を見た。
姉妹でいつまでもいつまでも、一緒に笑っている。
緑のまばゆい草原で、キラキラと水面の輝く川辺で、何もかもが紅い夕焼けの大空で。
そんな二人を、弁々は遥かな高みから、幸せな気持ちで、見下ろしている。
よい夢だ。本当に。
べんべん、べんべん
弁々は喜び、有か無いかの意識の中で、子守歌をうたうように、口ずさんでいた。
弁々の衝動は日に日に高まっていった。
そんな姉の葛藤をつゆ知らず、妹はベッドでごろりと横になって、本を読んでいる。寝る前に本を読むのが、妹の習慣だ。
里山の奥にこさえた、さして広くもない二人の小屋。寝室と居間は同じ部屋である。弁々はベッドのそばの座椅子に腰かけ、妹はピンクのパジャマに着替えてベッドでごろね。その妹の横顔を、弁々はしつこいほどじっと見つめた。
己のそれは、劣情とも言える下卑た感情である。
だが弁々にはその劣情が愛しかった。
感情表現の豊かな妹とは違い、弁々はむしろ奥手。妹のように、奇妙な奇声をあげてはしゃぐこともなければ、明けっぴろげに大笑いをすることもない。一人でいるときは静かに琵琶を奏でてすごすし、積極的に誰かと関わろうともしない。弁々の心のみなもは、波紋のない水鏡。けれど、妹が隣にいてくれると、世界がとたん、賑やかになる。淋しいほど静かだった心の内が、感情で満ち溢れだす。心の振幅は幸せの大きさ。感情の揺れ動く波形は音楽の波形のごとく、感情の波形がぐわんぐわんと波打つほど、奏でる琵琶の音色も豊かに色づく。
そんなふうに弁々の心に巨石を投げ入れてくれるのが、目の前にいる可愛い妹。心の波形を妹によって乱されるたび、弁々の心はびんびんと幸せを感じるのであった。
そんな妹の、特別な唇を奪ってしまえたなら。
(だめだめ!)
奥歯をぐっとかみ締めて、抱えた琵琶を抱きしめて、弁々は堪える。
数か月前に姉妹になっていらい、少しずつ、少しずつ、二人は絆を紡ぎあってきた。今のところ、自分は良い姉だと思う。けれどこの感情は、妹の大切なモノを奪ってしまいたいというこの激しい独占欲は、姉として許される感情なのだろうか。
弁々には、まだそれが分からない。妹の唇を奪い、姉としてその責任を取る決心がつかない。
弁々は沸騰する気持ちを歌に浴びせかけて、掻き毟るように琵琶を奏でた。
――妹のぉ~ 甘きホッペにブチかますぅ~ お休みのキスはぁ 八つ橋のあじぃ~ (べんべんっ)
弦の音がぎざぎざしている。乱暴な音が耳をつんざく。
ベッドに寝転がっていた妹が、迷惑そうな顔を姉に向けた。
「ねぇ、ちょっと、姉さんってば、いつまで琵琶を弾いてるの? 私、もうそろそろ、寝るからね」
「あ、待って待ってー、私も寝る」
弁々は急いでパジャマに着替えると、妹の待つベッドにもぐりこんだ。
姉妹になりたての頃は、一緒のベッドに眠るのはひどく恥ずかしく感じられたものだ。けれど今はもう違う。お互い、姉として妹として、随分となじんだように思う。
弁々は髪を整え終えると、ベッドに肘をついて、フゥ、と枕もとのロウソクの火を消す。灯りは消え去って、部屋が真っ暗になる。間近に横たわっている妹の顔さえ、十分には見通せない。妹がもそもそと動くと、衣ずれの音だけは、むしろはっきりと聞こえた。
さして広くもないベッドに、それほど大きくないかけ毛布。二人で暮らす小じんまりとした住処。そこに見合った、小さめのベッド。弁々がちょっと身じろぎをするたびに、肩やら肘やら肢やらが、妹の体にスリスリとこすれてしまう。
――先週のことだが、それならいっそのこと最初から抱き合って眠りましょうか、という提案を、弁々は妹にした。すると妹は、意外なほどあっさりと了承してくれた。姉妹になってすぐの頃は、肩が触れ合うのさえ恥ずかしがっていたのに。なんだか、あっさりしすぎていて、ちょっぴり物足りない。
弁々はもっとこってりした反応がほしいのである。なので、どうしてそんな簡単にOKしたのか、と、ちょいと突っ込んで聞いてみた。姉と抱き合って眠ることに、抵抗はないのか、と。したらば妹は、ちょっぴり口ごもってから、「いや、まぁ、掛け布団が薄くて、寒かったし」とかなんとか、ぶっきらぼうに、いかにも照れてますよという口調で答えたのだった。妹の目がフラフラとおよいでいたのを、姉は見逃さなかった。弁々は、満足であった。二人はだんだん、姉妹として精錬されつつある。抱き合ってねむることも、以前ほどは恥ずかしくない。けれども、姉妹になったころの初々しい気持ちは、いつまでも忘れてほしくなかった。
「じゃ、おやすみ」
弁々が妹に言うと、
「んー」
妹は片手間な返事をしつつも、もぞもぞと体を横向けて、スルスルと四肢を姉に絡ませてきた。
この妹は、「私もう寝るからね」と言い捨てておきながら、その実、姉が隣にくるまで、しっかりベッドの中で起きて待っている。弁々にとって、そんないじらしい妹の体はすこぶる抱き心地が良かった。妹の体は、姉のそれよりかは、いささか肉付きの少ないものだが、その肌はとてもやわらかい。寝巻きの上からでも、肌が接触しこすれあうたび、心地よい肉の圧迫が感じられた。
暗い部屋、姉妹の体と、寝巻きと、布団とが、シュルシュルと擦れあう。
弁々は、妹の腰の下に腕を通し、横向き合った互いの体を、しっかりと固定した。もう片方の腕は、手を繋いだり、腋を抱いたり、頬を撫でたり。
妹は、弁々よりも少しだけ背が小さかった。だから足の先をそろえて抱き合うと、弁々の鎖骨のあたりに、妹の唇があたる。
それでは不便だった。お休みのキスがしずらいのだ。できないことはないが、弁々の首が痛くなる。頬の感触に集中できなくなってしまう。だから、毎晩、暗黙の了解で、初めのうち二人は、頭の高さをそろえて眠るのであった。そも、一つの長枕を二人で使っているから、普通に横たわれば自然と顔の高さはそろうのだが。それでも、朝になるころには、姉のほうが頭が高かったり、妹のほうが頭が高かったり、日々まちまちに変わる。
「この辺かなー」
弁々は、鼻の先を突き出して、妹の顔面を探った。ほどなくして、鼻頭が、妹の鼻頭にコツンとぶつかる。妹がちょうど鼻からフゥと息を漏らしたから、妹の体内の臭いが、微風にのって弁々の上唇をサワワとこそばした。両手を使ってキュッと妹の体を抱く。胸と太もも、下腹部がとくに強く触れ合った。体温が伝わってきた。
もはや目をつぶっても、妹の頬や唇がどの位置にあるのか、わずかな誤差さえ無く感じとれる。
このところ夜毎に繰り返してきたお休みのキッスだ。弁々にとって欠かすことのできない習慣。妹へ、貴方をどれだけ好いているかを、かかさず伝えるための習慣。どんな暗闇の中であろうと、妹のほっぺたにピンポイントでキスできる自信がある。
しかし――近頃、普通のキスでは我慢できなくなってしまった。
だから弁々は今晩も、ちょっとだけ意地悪なキスをする。
チュッ……!
危ういキス。
ただのホッペのキスではない。二人の口の端と端とが触れる、「ホッペにキス」で許される、ぎりぎりのキッス。
「……っ」
妹は、ピクリと小さく身じろぎをし、少しだけ肩をすぼめる。抱き合った体を通して、妹の動揺がありありと伝わってくる。けれどそれ以上の反応はなく、姉の意地悪に抗議もせず、姉の行為を問いしもせず。妹はただ、黙して、肩を震わせて、耐えるだけだった。普段の妹からは考えられない程、控えめで大人しい反応。
いつもの妹ならば、例えば、嫌悪感丸出しで唇を拭いながら『何するのよ姉さん、気持ち悪い!』とブータレたり、はたまた、頬をうぶい色にほてらせながら『姉さん、あのね、唇、あたってるんだけど』とかと恥ずかしがったり、とっても分かりやすいのに。
こんな反応は、普通じゃない。
普段感情表現の豊かな妹が、今は、まるでウブで内気な乙女になってしまった。
しかしそんな妹が可愛くてたまらなくて、弁々は妹を抱く腕にさらに力を籠める。頬ずりをする。
妹の唇は、とっても綺麗なピンク色。赤子の肌のようにふにゃふにゃで、そのくせ多分、彼女のつつましい胸の先端ほども敏感なのだろう。
乙女の柔肌はとってもデリケートだというけれど、この薄紅色の果肉はデリケートだなんてものじゃない。唇とは、内臓だ。本来外にでてはいけない部位、秘所なのだ。肉体の奥に潜められているべき生肉が、神の気まぐれによって体外に露出する。乙女の肉体には、何箇所かそういう部位があるけれど、唇は紛れもなくそのうちの一つ。そうでなければ、こうも心惹かれるはずが無い。特別な相手しか触れることの出来ない、特別な部位。
私に、それを奪う資格があるのだろうか。姉は今宵もまた、それを計りかねていた。
……ちゅっ
すりすり
ホッペのキスとうそぶいて、妹の唇の端へ、己の唇の端をあてがう。極上の柔らかさが、皮膚を通して伝わってくる。
……ぴくんっ。
また、妹の肩が震えた。
今度もやはり、それきり、妹は黙ったままだった。
何か言ってくれたらいいのに。
弁々は、ちょっぴり、妹が恨めしかった。
弁々は突然不安になった。
妹は、自分よりもはるかに社交的。いつか、妹べったりなこの姉を、鬱陶しく思うひがくるのだろうか。
そう思うと弁々は、胸が張り裂けそうになった。
「あのさぁ」
しばらくして、ふいに、妹は口を開いた。
妹は弁々の胸の谷間に顔を埋めていた。妹はよく、そうやって眠るのだ。
弁々はいくらかウトウトし始めていた。目をあけるのが億劫だったので、まぶたは閉じたまま、言葉を交わした。
「なに?」
「あのね」
「うん」
「変な姉妹なのかな、私達って」
妹にしてはめずらしい問いかけだと思った。姉妹になってこのかた、妹はそういうことを気にした風な様子はなかった。姉妹がどうあるべきだとか、そういうことは、妹にとっては大きな問題ではないように思われた。また、そういう疑問は抱いてほしくないとも思う。弁々は、今の二人のあり方が、好きなのだ。もし妹がこれを嫌だというのなら、弁々にとって、それはとても、辛いことだ。
「なんかね、普通の姉妹は、あんまりこーいうことしないんだってさ。お休みのキスとか、抱き合って寝たりとか、一緒にお風呂はいったりとか」
弁々はひやりとする。
「そう? 誰かが、そう言ってた?」
「リリカに、メルランに」
「ふうん」
九十九姉妹とプリズムリバーの姉妹とは、たびたび一緒に楽器を演奏することがあった。妹は下の二人姉妹と気が合うようだが、弁々にとっては、性格の比較的静かな長女とが一番気が合うのだった。
「すっごい笑われたんだからっ。『あんた意外と甘えん坊なんだねー』って」
胸の谷間に妹の粗い鼻息が渦巻く。
「めちゃくちゃ恥ずかしかったんだからねっ。私は、姉さんが当たり前みたいにそうするから、姉妹ってそういうものだと思ってたのに」
気がつけば妹はぷりぷりと頬を膨らませていて、いつのまにか怒りの矛先が自分に向けられている。妹のせわしない気性がおかしくて、クスクスと笑いそうになった。けれど、笑ってしまうと妹がへそを曲げるので、弁々は腹に力を籠めて笑みを押し殺した。
「私は、別に恥ずかしいと思わないけど」
「ねぇさんが良くても、私は恥ずかしいのっ」
ぼふぼふと手足をばたつかせる妹。妹の性格からすれば、誰かに笑われるのはさぞ屈辱だろう。
けれど弁々は、今の姉妹関係が好きだった。
弁々は妹の体をぎゅっと抱き寄せた。
「八橋は、こーやって一緒に眠るのは、嫌?」
「……嫌じゃ、ないけど」
しばらくは姉の腕の中でもぞついていた妹がだ、少しするとゼンマイが切れたように、今度は、突然大人しくなる。相変わらずせわしのない。
なるほど、と弁々は苦笑した。妹は強がりで意地っ張りなところがある。誰かに馬鹿にされたのが、嫌なのだ。こっそり安心する。抱き合うのが嫌だとか、そういうことではないらしい。
弁々は妹の額に頬ずりをする。
この妹は分かっていないかもしれないけれど、弁々は姉妹ができて本当に嬉しい。誰よりも大切に感じ、誰よりも大切にされたいと強く思うえる。自分に、そんな相手が、できたことが嬉しい。
妹を強く抱く。
すると妹は、母親にだかれて安心した幼子のように、ぽそぽそと、とっておきの秘密を打ち明けるように、言った。
「私さ、姉妹がどーいうものなのか、まだ良く分からないよ。でもね、それでも私、姉さんのことは、全部信じてるんだからね。だから、間違ったこと、私に教えないでよね」
弁々の胸のおくで、唐突に、きゅううんと、何かが、高鳴った。
弁々もう、目を閉じていられなくなった。
胸の奥で何かが縮んで、膨らんで、また縮んで、また膨らんで……収縮を繰り返すたび、体の中に圧力をともなった熱い波動が広がる。心の水面にたった波が、体の中で実体化したように思えた。
この妹は、姉が思ったよりもずっと、姉妹関係を大切にしてくれている。そして、きっと、心底から姉を頼りにしてくれているのだ。
「もちろん、そんなことしない」
弁々の胸には、尽きることの無い強い思いがある。
妹が好き、妹を守りたい、妹に幸せでいてほしい、なにより妹とずっと一緒にいたい……姉妹という関係には、他人には分からない特別な力がある。今、妹の口から具体的な言葉を得て、それらの思いが突然物理的な力を備えて、弁々の体を押し包んでいた。
思いきり妹を抱き寄せて、胸の中でもみくちゃにする。そうしてギュッと力を籠めていないと、体のうちから湧き出る多幸感によって、体がはじけてしまいそうだった。
妹が、苦しそうにあえぐ。
「あのさぁっ、こうやってべたべたするのも、本当は変なんじゃないの?」
「八橋は勘違いをしてる。姉妹はこう在るべき、みたいな正解なんて、ありはしないのよ」
「それは、そうかもしれないけど、でも、誰かに笑われるのは、私、嫌よ」
「もちろん、笑われるのってすごく恥ずかしい、だけど」
弁々は、妹に飛び切りの笑顔を向けて、言った。
「私は誰かに笑われたっていいから、八橋とこうしていたい」
随分恥ずかしいことを言うものだと、自分でも思う。妹の顔と同じくらい、自分の顔も赤面していたかもしれない。人に聞かれたら笑われるだろう。けれども、これは紛れも無い本心。そんな本心を、何の臆面もなく、自分が口にできるなんて、自分でも、信じられない。
だが、そういう本音を、素直に打ち明けさせてくれる相手こそが、
「貴方は、世界でたった一人の、私の妹なんだもの!」
思わず声がはずんだ。
「ぐ、む」
妹は照れているのか、うつむいて、何事か言葉をぼそぼそと噛んでいる。その後頭部を、弁々はくりくりと指でなぞった。柔らかい髪の毛が、指の間を流れていく。
妹の恥じる気持ちはよく分かる。よく分かるけれど、弁々にとっては、そんなことはどうでも良かった。自分勝手で良くない姉だと思う。けれど、妹に伝えられずにはいられなかった。
「だからね、八橋も、したい事を、しましょ。それがきっと私達姉妹の正しい姿なんだわ」
「……姉さんはいいよね、そーやって、自分に真っ直ぐでいられてさ」
弁々は晴れやかな気持ちで心のうちを吐露することができた。
だが、妹の声は、ずいぶんと暗かった。
「私は姉さんと違って、中々そこまで自分に自信もてないよ。どうしても周りが気になっちゃう。自分は変じゃないか、おかしくないかって、いつも気にしてるもの」
姉はしばらくの間、驚いて口を聞けなかった。まさか、という思いがあった。つくづく、妹と一緒にいると暇をしないと、弁々は、舌をまく。この妹は、いつも姉を仰天させてくれる。姉がようやく心の中に強い明かりを照らせたと思ったら、突然妹は、心の中の暗闇を持ち出してくる。
「そうなの? 八橋は、そんな風に感じてたの?」
「そーよ。知らなかった?」
妹は、姉にしがみついたまま、睨むような目つきをした。そうやって、本音を明かす勇気を絞っているのだろう。妹の瞳が、暗闇の中で光っている、ような気がする。弁々は、妹の大きな瞳の中に、己の姿を見た気がした。
「貴方は、いつも元気一杯で自信満々で、迷うことなんかないって、私はそう思ってた」
「ふんっ」
と、鼻を鳴らすと、妹は180度寝返りをうって、弁々に背中を向けてしまった。
力の無い背中で、いじけた声をはく。
「姉さんったら、姉さんのくせに、私のこと全然わかってないじゃん」
弁々は、妹の罵りを素直に認めた。
「ごめんなさい、そうみたい」
けれども申し訳ないという気持ちは、ほとんど無かった。妹もまた同じ間違いを犯している。
「でも、八橋だって、私のことを全然わかってないのよ。私、ずっと羨ましかったんだから。貴方みたいになりたいって、いつも思ってたし、今も思ってる」
妹にとって、姉のその発言は意外だったのだろうか。そっぽを向いた後ろ頭が、戸惑うように、身じろいだ。妹にとって、姉はとても自信に満ち溢れている存在に見えたのだろうか。だとしたら、それは大きな勘違いだ。
「私達、まだまだお互いのことを、ちゃんと知らなきゃいけないね」
妹の背中に、寄り添う。
背中から手を回すと、姉の体は妹の背中をすっぽりと覆うことができた。卵を抱きかかえる親鳥のように、弁々は妹を全身を使って妹を包んだ。妹の暖かい体温が、腕に、胸に、おなかに、足に、伝わってくる。
この小さな体の中には、姉が思っていた以上に、素敵なものが詰まっている。姉には乏しい、快活で元気一杯な心。そして姉とほとんど同じ、悩みや心配ごと。
すうと息を吸うと、暖かくて懐かしい匂いに包まれた。姉のよく知る、妹の体臭。妹の体からしみでる匂い。感じなれた呼吸のリズム。胸や肉の柔らかい感食。妹の息遣い。
姉妹の絆は花々やこまやかな愛情でできているわけじゃない。妹の体からしみでる、甘い香。共通の匂いや思い出、そう言ったもので二人はつながれ、つながっていく。
「八橋」
妹のうなじの香を吸い込みながら、姉は語りかける。
「八橋はとっても素敵な妹よ。私はずっと、貴方の姉でいたい。八橋の弱いところも、強いところも、全部知りたい」
すりすりと、妹のブラウンの髪の毛に、弁々は頬ずりをした。
「私は八橋がいないと、何もできないのよ。私の元気は、全部、八橋のおかげ。……貴方にとっても私がそうであったなら、嬉しい。そうあれるよう、私、頑張る。頑張って、いつも素直でいる」
弁々は、心の中で決めていた。
明日は、お休みのキスをしてみよう。ホッペではなく、唇に。
私達は姉妹だ。
私は妹にとって世界でたった一人の姉。そして八橋は、世界でたった一人の、私の妹。
私には資格がある。妹の唇を奪う、覚悟がある!
「……恥ずかしいこと言わないでよね。姉さんの、馬鹿。そーいうところがさ……羨ましいって言ってるの……」
妹の声はまだいじけている。けれど、ちゃんとその声は笑っていた。姉の気持ちにこたえてくれていた。
妹は、明日になれば元気なってくれるに違いない。妹は、思ったよりも傷つきやすい女の子だったのかもしれない。けれどきっと立ち直りは早い。弁々の知る妹は、そういう生命力のある少女であるし、それが全く間違っているとは、思わないい。
朝がくれば、また楽しい日々がきっと始まる。妹と、姉の二人の。
さぁ、もう、眠る時間だろう。
眠って心を休ませるとき。次に目覚めたとき、妹の心は少し強くなっているだろう。そうに違いない。
目を瞑る、とたん、眼球を眠気が覆いつくす。瞼の裏が熱い。二度と目を開けたくない。全身の力をぬいて、妹のほんわかした体に身を預ける。抗いようの無い心地よさが、触れ合った箇所を起点にして全身へと広がっていく。そんなに長話をしていたつもりではないけれど、随分疲れていた。驚きの連続だったのだ。知らない妹を知れたし、自分の本心をも知ることができた。新鮮で、豊かな経験だった。その代わりに、心は、へとへと。
「お休み八橋、また明日」
妹の体臭に包まれながら、弁々は急速に、心地よい眠りへと落ちていった。
弁々は夢を見ていた。
夢と現の間、起きているのか、寝ているのか。今がいつなのか、どこなのか。自分は、どこにいるのか。目は開いているのか、閉じているのか。
ぼやけた意識の中、弁々は、かすかに妹の声を聞いたような気がした。
――素直に、したいことをしろって、そう言ったのは姉さんなんだからね
唇に、柔らかいものが当たった。ような気がした。
形のない、けれどとても暖かい、何か。
なんだか、求めてやまなかったものが、ようやく手にはいったような。
――どうしよう、本当に、しちゃった、私ったら。
……ずっと、してほしかったんだからね。姉さんの意地悪。なんでしてくれないの?
だけど、恥ずかしくてそんなこと言えなかった。
姉妹でキスだなんて、多分、変だもん……きっと、みんなにまた笑われる……けど、でも私は、やっぱり姉さんとキスしたい。
だって私、姉さんのこと、とっても好きなんだもん。
だから、いいんだよね……?
素直になって、いいんだよね……?
今宵、弁々は良い夢を見た。
姉妹でいつまでもいつまでも、一緒に笑っている。
緑のまばゆい草原で、キラキラと水面の輝く川辺で、何もかもが紅い夕焼けの大空で。
そんな二人を、弁々は遥かな高みから、幸せな気持ちで、見下ろしている。
よい夢だ。本当に。
べんべん、べんべん
弁々は喜び、有か無いかの意識の中で、子守歌をうたうように、口ずさんでいた。
仲が良き姉妹で有らんことを。
禁断の姉妹愛ですね、アツアツです。
誤字指摘。
おやみのキス→おやすみのキス
自身→自信(何ヶ所か)
何の臆面んもなく→何の臆面もなく
最高でしたあ………!!ごちそうさまですッ!!
もっと輝針城ネタが増えますもうに。
冬コミ過ぎたら、少しはふえるのかなぁ?
あれ? あれぇ? 乙女ってキスしたら妊娠するんじゃなかったっけ?
何これかわいい…
弁々の髪型が大好きです
即物的なつながりを求めることで、愛の価値は損なわれたりしない
ベンベンベベンッ♪