物部布都は、急いでいた。
何に追われ、何から逃げているのか分からないけれど、本人は必至に隠れている。尊大な態度をとりながらいつも何かに怯えていた。
神子と共にやっと復活を遂げたあの時、嬉しくてたまらなかった。けれどそれは否応にも今までの自分がしてきたこと、これからの自分の立ち位置を考えさせられる。それを無視することも、立ち向かうこともできない少女はただ、居心地が悪かった。
道場はいつも通りに静かだった。入門した者達は今日も神子に適当にこき使われながら修行に励んでいる。布都は特にすることも無いので里へ出かけようと思っていると、ばったり屠自古と顔を合わせてしまった。
「おう」
そんな挨拶しかできないのは屠自古に対しての負い目であったが、当の本人はあまり気にしていなかった。
「おう、どこか行くのか?」
「いや、別に。おぬしこそ何をしておる」
「別に、なにも」
確かにいつも通り浮かんでいるだけだった。浮かぶしか無いということでもある、足が無いからだ。
「そうか、それはなにより」
そう言って立ち去ろうとする布都をみて屠自古は言った。
「何をそんなにこそこそしてるんだ? 何か企んでるんじゃないだろね」
布都はただただ気まずかった。相手が気にしていないだけに余計に辛かった。
「何かってなにを?」
屠自古は一本の足をくねらせながらしかめっ面をしている。
「だからそれを聞いてるんだよ」
布都はそれに答えること無く手を振って、強引に会話を終わらせた。
いつもの様に、いつもの様に空気に不純なものが混じっている。例えそれが必要なものであったとしても自分には要らない、布都はそう思う。純粋でありたい、罪から逃げることなく償いたい、それが彼女の願いだった。
けれどその機会は永遠に失われたことの様に思える。策謀の末に、ようやく実ったはずの今が少女を苦しめている。思い描いた未来と現実は、長い眠りの間に形容しがたい食い違いが起きていた。
彼女が屠自古の足を奪った。罪も背負った。では次は? 布都はその先に続く道を探すにはあまりに幼かった。子供のままに利用し、利用された。後に残された染みのような後悔を上手くいなすことも出来ずに、屠自古が恨み言を吐いてくれるのを待つことしかできないでいる。
外の空気は暖かく、不快なものだった。屠自古から逃げるようにして庭先に出ると、霍青娥がいた。
水浴びのように桶から血を被っている姿は美しかった。胸は殆ど隠れておらず、下半身も布きれのような衣で言い訳程度に覆っているだけだ。
美しかった。けれど、布都の求めるそれとは大きくかけ離れている。相手も自分に気づいているのが気配でわかる。声をかけるべきか迷っていると、声のような音が聞こえた。
それはかすかに人の言葉の原型を留めてはいるものの、隙間風のようにも聞こえる。青娥の僕が胴と頭を分離させて器用にその音を発しているのだ。
その首は台に丁寧に固定されていて、よく見ると雑な切り口だった。青娥の足元に様々な道具が散らばっている、そのどれもが見たこともない、けれど一目で残酷なものであることを血の色が知らせている。
首の真下は穴が開いていて、地面に置かれたタライには茶色いような黒いような、どろどろしたものが溜まっている。
「あら、布都さん。どうしたの?」
いかにもどうでもよさそうに口を開くと、妖艶な吐息が辺りに蔓延した。布都は吐き気がした、そして何よりも怒りを感じた。
「青娥殿、それはいったい何を?」
「これ? さあ、私には分からないんです」
彼女にはこの邪仙が何を言っているのか分からなかった。宮古芳香の首はじっと空を見つめたまま、何かを呟いている。
「あなたに分からないはずが無いでしょう、こんな残酷なことをして」
「ああ、今分かりました。私は今残酷な事をしています」
「ふざけているのですか?」
青娥は体に満遍なく血を垂らしながら、布都の方を見向きもしない。
「だってあなたがこれをどう感じるのか分からなかったから。あなた、残酷だと思うのでしょう? じゃあ、私残酷なことをしています」
彼女はどうしたらいいのか分からないままに、しばらくその行為を見守っていた。芳香の胴体から取ったのだろうものを、その白い体に染み込ませるように、青娥はゆっくりと体を撫でている。打ち捨てられた胴体がどこへも行けない鳥のように、時々震えているのが恐ろしかった。
「この頭の血が一番良いのよ、あなたも少し要ります?」
「いいえ、それよりその子はどうなるのです?」
「ん? また繋げますわ。良いでしょう? この子」
そう言って芳香の頭を撫でる様は、それでも素直に母性を感じさせた。布都はその感情をどうすれば良いのか迷ったあげく、逃げることにした。
「要らないの?」
「ええ、要りません。その血も、あなたも」
彼女は何故、こんな恐ろしい者が太子の傍にいるのかわからなかった。
「残念、じゃあ太子におすそ分けしようかしら」
彼女は振り向いて睨みつけたかったが、出来なかった。自分の背中に向けて、にんまりと口を開けている邪仙を思い描いてしまったから。
「逃げるのねえ」
その言葉に布都は立ち止まってしまった。
「いつまで?」
青娥の言葉が終わらない内に少女は走り出した。後ろから芳香の声が聞こえる。それはとても明るいもので、母と一生懸命に会話をしようとする赤子のように思えた。
走って、走って。そこに着くまでの風景も不安も、全てが頭から離れることは無かった。あの光景、青娥が自分たちに一応は属しているという事実、そしてはち切れそうな怒りを決して形にしようと思わなかった自らへの落胆は、ある種の高揚へと変わっていた。
目の前には立場上敵対している命蓮寺があった。彼女はどうしてここに来たのか分からなかったけれど、無意識に一番良い選択をしたのだと思った。自分も所詮はあの邪仙と同じ部類であり、それは変えようのないことだ。それらしい行動をとってやろうと考えたのだ。
それが正しいことで無いことも、まして心臓を締め付けるような虚しさから逃れられるわけでは無いことも知っている。ただ少女らしい一途な破滅への憧れが湧いて来たのだった。
(屠自古も、あの邪仙も、私を変えることはできない。私が変えることもできない)
だから他の何かを変えれば良いと決めた彼女は久しぶりに晴れやかな気持ちになった。
この寺のやつらを皆殺しにしてやろう、弾幕ごっこなどでは無く。そう決めた彼女はゆっくりと歩き出す。門前の茂みに隠れて様子を窺っていると、妖怪の出入りが多いことに気づく。
「布都、なにをこそこそしてるの?」
彼女は硬直してしまった。それは聞き間違えようの無い、神子の声だった。
「太子こそ、何故こんなところに」
「あなたと違って私は政治的に動く必要があるんですよ」
「寺の連中と組む、ということですか?」
「それもあり。まあとりあえず偵察くらいはね」
そう言って神子は彼女をじろりと睨んだ。
「で、あなたは?」
布都は、青空に祈った。嫌われたくなかったのだ。
「ここの、妖怪どもを退治しようかと」
嘘をつくことは出来なかった、神子相手では通用しないし、そうしたくなかった。
「なぜ?」
「私たちの敵だからです」
「敵であり味方にもなります。それが政でしょう」
「でも、やつらにとっては敵です。少なくとも私や、青娥殿は」
神子は困ったように耳当てを外した。それが何を意味するのか布都は知らない。
「でもあなた、今弾幕ごっこって感じじゃ無かったよね?」
布都はもう涙を堪えることが出来なかった。
「ならばどうしろと言うのですか? あのような邪仙を師と仰いでいては私は、たまりません」
「彼女と何かあったの?」
「何もありません。何もないのにたまらなく不快なのです」
彼女はもう自分でも何を言っているのか分からなかったが、ただ叫び続けるのが気持ち良かった。
「それに屠自古も屠自古です、言いたいことがあるのなら言えばいいのに!」
神子は困惑した。布都が屠自古に対して負い目を感じているのは知っているけれど、今は関係ないことである。青娥のことにしても、心からの師としているわけでも無かった。どうしても彼女が我儘を言っているようにしか聞こえなかった。
「落ち着きなさい、人はそれぞれ違うんですよ」
神子は強かった。その違いを受け入れることができない布都のことが頭では分かっていても、いまいち理解できない。
その晩、神子に連れられて帰った布都は泣き疲れて眠っていた。その様子を障子ごしに眺めていた屠自古は彼女を憐れに思った。確かに彼女に騙されたことは確かだったけれど、屠自古にとってはそんなことは関係ない。
長い孤独の日々の中にとっくに置いてきたのである。今は神子と彼女が復活してくれたことがただ嬉しい、そう思っている。ましてここは幻想郷なのだ、そんな過去に縛られていてもどうしようもなかった。
「どう?」
神子が心配顔で尋ねる。
「ぐっすり寝ています。こいつ本当にどうしちゃったんでしょう」
「あなたのこと以外にも青娥がどうとか言っていたけど」
神子はそう言って庭の方に振り向いた。
満月に照らされて、青娥は微笑んでいる。透き通るように白い肌は光を浴びて、艶めかしく煌めいている。
「心外です、私は太子様にもおすそ分けしなきゃ、そう言っただけですよ」
そう言って手招きをする、芳香がぎこちない動きでやってくる。縫い目の新しい首元には一本の管が刺さっていて、もう片方の先端は青娥の手のひらにあった。
青娥は庭に降りてきた二人にそれを勧める。その動きで垂れ出したどす黒いものが白魚の様な指を撫でていく。
「ああ、なんだそれですか」
神子は管の先端を受け取り、こぼれないようにその小さな口の中へと導いてゆく。
屠自古は、乳を吸う赤子のような神子を眺めている。何かを思うことも無かった。長い年月が人を仙人に変え、自分も何か別のものに変わった。ただそれだけだった。
布都が目を覚ましたのは丑三つ時を少し過ぎた頃だった。静かな夜が満ちている。そっと障子を開けて、庭に出た。満月が穢れなき少女を照らす、彼女はもう一人その月を見ていることに気がついた。
芳香はじっと空を見上げたまま動かない。
「のう、お主はなぜそんな目にあっておるのだ?」
返事は無かった。少女はそっと、そっと近寄っていく。
「のう、お主も罪を背負っておるのか? 苦しいのか?」
ぼろぼろな継ぎ目と小さな穴が開いた首を、そっと撫でた。
「なぜ黙っている? どうしたらいいのか分からないのか? 私もなんだ」
芳香は返事の代わりに歌を詠み始めた、それは布都も知っている、美しい歌だった。
正直今回はぼろくそに言われるかもなと思ってたので嬉しいです。(タイトル含め)
これからもぜひ悪い点とかあったら教えてもらえれば嬉しいです。
罪は見えない枷、それを解く術を彼女は見出だせないでいる。
何だか悲しいです。