新聞がないと実に軽い。そりゃそうだ。よく考えてみれば紙の束なのだからそんなものを抱えて空を飛び回るということはそれなりの筋力がないと無理なわけなのであって。
朝の配達を終えた射命丸文は軽やかに空を飛びながらこれからの自由時間に何をしようかと考えていたところである。
今日は天気もそこそこいいし、何をするにも最高の気分を味わえることは間違いないのだが折角の春という季節を満喫するために、やはりここは麓の巫女のところへ遊びに行くという選択肢以外考えられない。
春という季節の性質上、大体の人らには隙が生じやすい。それは霊夢だって例外ではない。きっと面白い写真が取れるし、その写真を引き伸ばして事務所の壁にはっつけてもおけばいいお守りになる。何のお守りになるかは知らないが。
なんてことを考えてた矢先。突如覚えのある気配を感じ取った文はその気配の方へと方向転換する。その先にいたのは犬走椛で、彼女は足に怪我を負っていたのである。
文の気配に気づいた彼女は、何故か気まずそうな表情で目をそらす。気になる文は彼女を突っついた。
「ちょっと、何目を逸らしてるのよ。なにかやましいことでもしていたの? こんな田んぼのど真ん中で」
その通り。椛がいたところは田んぼのど真ん中で遮るものは何もなく春の陽気に誘われて外へとやってきた村人たちの姿もちらほら見える。
「文さんには関係ありませんよ。ちょっと転んだだけです!」
と、明らかに転んだ傷でもないのにそう言いはる椛は実に強情である。さっくりとふとももが裂け傷口からは出血も見える。これは刃物による傷であり、流石にもう少し素直になれと思わざるをえない。
「まったくなにをやってるの。転んで刃にでも刺さったの? それともかまいたちにでも襲われた? 転んでこんな傷がつくわけ無いでしょ。さ、おっしゃいなさい さもないと、あなたの秘密の写真を新聞に載せちゃうわよ?」
たちまち椛の顔色が変わる。どちらかというと青ざめているようだ。それを見た文は笑いを堪えるのに必至で思わず口元に天狗のうちわを当てて隠す。
実際、文は椛のそんな写真を持ってはいない。だがどうもこれを言うと椛は文に従う所を見るに実際何かを隠しているようであるが、そんなことは文にはどうでもいいのだ。なんであれあくまでも椛をからかう材料の一つにすぎない。彼女は強情だが単純なのでこういう心理的なからかいには滅法弱いらしい。
「本当、いつか地獄堕ちますよ? あなた……」
悔しそうに呻く椛、その表情は屈辱に歪ませていると言うより、少し苦しそうなようである。足の怪我は思ったより重傷なようだ。遊びはここまでにしておこうか。と文は彼女の近くにある金具を拾い上げる。それは思ったよりも重く、重厚な作りをしているトラバサミだった。椛はこれにひっかかったのだ。
暖かくなるこの時期は山からイノシシや熊が餌を求めてやってくるのだ。自然と罠も多く仕掛けられるようになる。よりによって天狗がかかってしまうとは思いも寄らなかっただろうが。
「情けないわね。天狗とあろうものがなんでこんなものに引っかかるのよ。だいたいなんでこんなところにあなたがいるの?」
「……これですよ」
と、指をさす椛。その先にあったのは小川である。その小川の辺に緑の絨毯が広がる。なるほど、香草のようだった。種類的にはオランダガラシ。おひたしにするとピリッとしてて美味しく、文もどちらかと言うと好きな部類に入る香草であった。
「香草摘みに夢中になって罠に引っかかってしまったということね……仕方ないわねぇ」
呆れたようにわざとらしいため息ひとつ。反論できない椛は顔を真赤にしてうつむいてしまうのであった。
さて、このまま放っておいてもいいが、種族が違うとはいえ天狗が笑いものになるのは困るし、椛自身も歩くことは難しそうな様子。恐らく痛みが収まるまで空も飛べないのだろう。
空を飛べない天狗なんてただの天狗である。
「ほら、私に捕まりなさい」
文は彼女に背中を貸そうとする。案の定椛は拒否する。
「歩けないんでしょ? 痛いんでしょ? 恥ずかしいんでしょ? 無理するくらいなら私のたまの好意くらい受け入れたらどうなの」
それでも首を振って拒否する椛。本当強情である。その頑なさを別なところに生かしてほしいところだが、生かせないのも彼女の魅力というのかなんなのか。何かと不器用なものなのである。
「じゃあ、ずっとそこにいなさい。歩けない。情けない。しょうもないそんな自尊心にとらわれて笑いものになるがいいわ。でもあなたのその強情さであなただけでなく天狗全体が笑いものにされてしまう。私はそれを防ごうとしているのよ。少しは私の気持ちもくみ取ってほしいわね」
椛は天狗という種族に誇りを持っている。自分の行動で天狗の名に泥を塗るようなことなんてもってのほかであり、それこそ切腹ものである。文はそこをざっくりと突き上げた。
「うぐぐ……」
効果はてきめんだった。渋々彼女に体を預ける椛。
「さ、しっかり掴まって」
文が彼女を背負い飛び立とうとしたそのとき妙な重量感がそれを阻む。何事かと文が見渡すと、椛はこれでもかというくらい香草をぎっしりと詰め込んだかごを背負っている。かごの中身もさることながら、そのかご自体も普通なら竹で作られているものだが、太い縄と木の板を器用にしならせた椛お手製のかごである。こいつがやたら重いのだ。
「椛、それを捨てなさい」
「嫌です」
「それ重いのよ」
「大切な今日の晩ご飯です」
怪我をしてしまった以上そうは言ってられないものだろうが、なるほどまぁ彼女の気持ちも分からなくもない。せっかく見つけた獲物をみすみす見逃すというのは、普段記者をしている文からしても口惜しいものであるからだ。
「ここに置いといてまたあとで取りにくればいいじゃない」
「誰かに盗られたらどうするんですか」
「じゃあ今日のところはあきらめて、また明日にでも摘みに来ればいいわよ」
「貴重な今日の晩ご飯なんですよ。それにこの怪我じゃほかのご飯探すのも一苦労ですし……」
椛はどうしてもこれだけは譲れない様子。ああだこうだと言ってるうちに日はだんだんてっぺんに登りつつあり、らちがあかないと感じた文は本当に置いていこうかと思ったが、今までの時間が全くの無駄になってしまうのは癪に障るので、無理矢理彼女を背負って歩き始める。
「……もう、こうするしかないでしょ。本当に本当、世話の焼ける子だわっ」
椛はこっぱずかしそうに顔を赤らめて文にしがみついているが、恥ずかしいのは文も一緒で、何故天狗を、しかも香草の詰まったかごを背負った者を背負って往来を歩くという一種の羞恥プレイじみた行為をしなければならないのかと半分、腹を立てながら道を無言で進む。
陽気は至ってさわやかであり、遠くが少し霞んで見える。すれ違う人々は天狗が天狗を背負って道を歩くという不可解な光景をちらちらと見ては目をそらす。
「まったく、せっかくのいい天気だというのにあなたのせいで台無しよ」
「……ごめんなさい」
「あとで何かお返しをしてもらいたいところね」
「……ごめんなさい」
「何で天狗の私が歩かなくちゃならないのよ」
「……ごめんなさい」
何を言ってもごめんなさいとしか言わない。すっかり意気消沈してしまった椛。さすがに色々やりすぎたかなと文は思い
「……でもなんというか、たまには歩くのもそんなに悪くはないわね」
と、ぼそっとつぶやく。それが真意なのか皮肉なのか椛には区別が付かず押し黙ってしまう。
山へと続く田んぼ道を天狗二人はのろのろと進む。
文は歩くという行為はほとんどしない生活を送っている。それは別に彼女が横着というわけではなく天狗という種族の特徴のようなものだ。カラスがあまり上手く歩けないのと同じようなもので、たいてい飛べばいいのであり、歩くときはせいぜい家の中くらいなのだ。
普段使わない部分が退化してしまうのは妖怪も一緒であり、ましてや重りを背負って歩くなど言ってしまえば拷問なのである。自然と息も上がってしまう。
椛をおろし、その場に座り込む。
「一休みよ……」
息が上がった様子の文の顔を椛はのぞき込む。
「……大丈夫ですか?」
「あなたに心配される必要はないわ。自分の足の怪我を心配しなさいよ」
言われるままに椛は自分の足を気にし始める。本当単純な奴ねと文はくすりと笑い、ふと上を見上げる。
空が高いのと感じるのはいつぶりなのか。
さて、休んでばかりもいられない、文は再び歩き出す。
少し足下がふらついているが歩けないほどじゃないので彼女は気にせず前に進んだ。椛はそんな文の様子を少し不安に思っていたが、してもらってる以上口に出せずにいた。
不意に何かを踏んだような感覚がしたと思った次の瞬間である。
跳ねるような金属音が響いたかと思うと文は表情をゆがめ椛もろとも倒れ込んでしまう。足下に違和感を感じた文はすぐさま手を伸ばすと、生ぬるい金属が手に触れた。手のひらを見ると血も付いている。
「ちょっと!大丈夫ですか?」
椛が血相を変えて文の足に噛みついたトラバサミをとろうとする。それほど深く刃は入っていないようであり、すぐ除去することができた。不幸中の幸いと言うべきなのだが、全体的に見ると不幸のウェイトが占めている状況である。
「ったく……今日はなんなのよ」
うめく文。
「ごめんなさい……」
椛は謝りながら服の裾を破って止血を施そうとする。文がそれを制止する。
「大丈夫よ。あなたこそ止血したらどうなの」
「もう血は止まりました。体は頑丈なんです」
と、椛。確かに言われたとおり傷跡は血がかさぶたとなっている。
「私のせいでこんな目に遭わせてしまって……私がこれに拘ってしまったばっかりに」
と言いながら椛は背負籠を放り投げようとしたので文はそれも制止する。
「せっかくの獲物を捨てるなんてもったいないでしょ。どうせならこのまま持ち帰って食べましょ」
文は足を抑えながら立ち上がる。心もとない足元ではあるが、一応立ち上がることは出来ている。椛が彼女の肩を抱えると、文も椛の肩を抱え込んだ。
「情けないわね。天狗ともあろう者がこんな罠に引っかかるなんて」
結局二人は歩いてそのまま帰路へついた。
数日後
「早くしてください。置いてっちゃいますよ?」
「椛、私は一応けが人なのよ? もう少し手厚く扱って欲しいんだけど」
「それを言うなら私もけが人です。しかも私のほうが重傷です」
「あんたと私じゃ体の丈夫さが違うのよ」
「あ、それって敗北宣言ですか?」
「くだらないこと言ってないでさっさと獲物を探しなさい」
などと言い合いながら楽しげに再び田んぼ道を歩く二人の姿が見かけられた。二人共まだ怪我は治りきっていないが歩けるくらいには回復している。
先日の一件で運動不足を痛感した文は体を動かすために少し歩くことにしたのだ。
一方の椛の方は文に付き合うついでに例の香草を調達しに来た。
村人の視線は相変わらずだが、そんなものは二人にとってはどうでもよかった。むしろ文にとってはこれすら新聞のネタにしようと考えてるくらいだ。転んでもただじゃ起きないのが彼女である。
春の日差しが今日も舞い降りる田んぼの畦道、日暮れまで香草を摘む二人の天狗の姿があった。
次の日、二人がまた同じ場所に現れると、ある立て札が立っているいることに気づき、近づいて見てみるとこう書かれていた。
これより天狗の畦道
どうやら何度も何度も村人に目撃されたおかげでこの場所は天狗が出没するところと認識されてしまったようで、これには思わず二人は顔を見合わせて赤面してしまうのであった。
朝の配達を終えた射命丸文は軽やかに空を飛びながらこれからの自由時間に何をしようかと考えていたところである。
今日は天気もそこそこいいし、何をするにも最高の気分を味わえることは間違いないのだが折角の春という季節を満喫するために、やはりここは麓の巫女のところへ遊びに行くという選択肢以外考えられない。
春という季節の性質上、大体の人らには隙が生じやすい。それは霊夢だって例外ではない。きっと面白い写真が取れるし、その写真を引き伸ばして事務所の壁にはっつけてもおけばいいお守りになる。何のお守りになるかは知らないが。
なんてことを考えてた矢先。突如覚えのある気配を感じ取った文はその気配の方へと方向転換する。その先にいたのは犬走椛で、彼女は足に怪我を負っていたのである。
文の気配に気づいた彼女は、何故か気まずそうな表情で目をそらす。気になる文は彼女を突っついた。
「ちょっと、何目を逸らしてるのよ。なにかやましいことでもしていたの? こんな田んぼのど真ん中で」
その通り。椛がいたところは田んぼのど真ん中で遮るものは何もなく春の陽気に誘われて外へとやってきた村人たちの姿もちらほら見える。
「文さんには関係ありませんよ。ちょっと転んだだけです!」
と、明らかに転んだ傷でもないのにそう言いはる椛は実に強情である。さっくりとふとももが裂け傷口からは出血も見える。これは刃物による傷であり、流石にもう少し素直になれと思わざるをえない。
「まったくなにをやってるの。転んで刃にでも刺さったの? それともかまいたちにでも襲われた? 転んでこんな傷がつくわけ無いでしょ。さ、おっしゃいなさい さもないと、あなたの秘密の写真を新聞に載せちゃうわよ?」
たちまち椛の顔色が変わる。どちらかというと青ざめているようだ。それを見た文は笑いを堪えるのに必至で思わず口元に天狗のうちわを当てて隠す。
実際、文は椛のそんな写真を持ってはいない。だがどうもこれを言うと椛は文に従う所を見るに実際何かを隠しているようであるが、そんなことは文にはどうでもいいのだ。なんであれあくまでも椛をからかう材料の一つにすぎない。彼女は強情だが単純なのでこういう心理的なからかいには滅法弱いらしい。
「本当、いつか地獄堕ちますよ? あなた……」
悔しそうに呻く椛、その表情は屈辱に歪ませていると言うより、少し苦しそうなようである。足の怪我は思ったより重傷なようだ。遊びはここまでにしておこうか。と文は彼女の近くにある金具を拾い上げる。それは思ったよりも重く、重厚な作りをしているトラバサミだった。椛はこれにひっかかったのだ。
暖かくなるこの時期は山からイノシシや熊が餌を求めてやってくるのだ。自然と罠も多く仕掛けられるようになる。よりによって天狗がかかってしまうとは思いも寄らなかっただろうが。
「情けないわね。天狗とあろうものがなんでこんなものに引っかかるのよ。だいたいなんでこんなところにあなたがいるの?」
「……これですよ」
と、指をさす椛。その先にあったのは小川である。その小川の辺に緑の絨毯が広がる。なるほど、香草のようだった。種類的にはオランダガラシ。おひたしにするとピリッとしてて美味しく、文もどちらかと言うと好きな部類に入る香草であった。
「香草摘みに夢中になって罠に引っかかってしまったということね……仕方ないわねぇ」
呆れたようにわざとらしいため息ひとつ。反論できない椛は顔を真赤にしてうつむいてしまうのであった。
さて、このまま放っておいてもいいが、種族が違うとはいえ天狗が笑いものになるのは困るし、椛自身も歩くことは難しそうな様子。恐らく痛みが収まるまで空も飛べないのだろう。
空を飛べない天狗なんてただの天狗である。
「ほら、私に捕まりなさい」
文は彼女に背中を貸そうとする。案の定椛は拒否する。
「歩けないんでしょ? 痛いんでしょ? 恥ずかしいんでしょ? 無理するくらいなら私のたまの好意くらい受け入れたらどうなの」
それでも首を振って拒否する椛。本当強情である。その頑なさを別なところに生かしてほしいところだが、生かせないのも彼女の魅力というのかなんなのか。何かと不器用なものなのである。
「じゃあ、ずっとそこにいなさい。歩けない。情けない。しょうもないそんな自尊心にとらわれて笑いものになるがいいわ。でもあなたのその強情さであなただけでなく天狗全体が笑いものにされてしまう。私はそれを防ごうとしているのよ。少しは私の気持ちもくみ取ってほしいわね」
椛は天狗という種族に誇りを持っている。自分の行動で天狗の名に泥を塗るようなことなんてもってのほかであり、それこそ切腹ものである。文はそこをざっくりと突き上げた。
「うぐぐ……」
効果はてきめんだった。渋々彼女に体を預ける椛。
「さ、しっかり掴まって」
文が彼女を背負い飛び立とうとしたそのとき妙な重量感がそれを阻む。何事かと文が見渡すと、椛はこれでもかというくらい香草をぎっしりと詰め込んだかごを背負っている。かごの中身もさることながら、そのかご自体も普通なら竹で作られているものだが、太い縄と木の板を器用にしならせた椛お手製のかごである。こいつがやたら重いのだ。
「椛、それを捨てなさい」
「嫌です」
「それ重いのよ」
「大切な今日の晩ご飯です」
怪我をしてしまった以上そうは言ってられないものだろうが、なるほどまぁ彼女の気持ちも分からなくもない。せっかく見つけた獲物をみすみす見逃すというのは、普段記者をしている文からしても口惜しいものであるからだ。
「ここに置いといてまたあとで取りにくればいいじゃない」
「誰かに盗られたらどうするんですか」
「じゃあ今日のところはあきらめて、また明日にでも摘みに来ればいいわよ」
「貴重な今日の晩ご飯なんですよ。それにこの怪我じゃほかのご飯探すのも一苦労ですし……」
椛はどうしてもこれだけは譲れない様子。ああだこうだと言ってるうちに日はだんだんてっぺんに登りつつあり、らちがあかないと感じた文は本当に置いていこうかと思ったが、今までの時間が全くの無駄になってしまうのは癪に障るので、無理矢理彼女を背負って歩き始める。
「……もう、こうするしかないでしょ。本当に本当、世話の焼ける子だわっ」
椛はこっぱずかしそうに顔を赤らめて文にしがみついているが、恥ずかしいのは文も一緒で、何故天狗を、しかも香草の詰まったかごを背負った者を背負って往来を歩くという一種の羞恥プレイじみた行為をしなければならないのかと半分、腹を立てながら道を無言で進む。
陽気は至ってさわやかであり、遠くが少し霞んで見える。すれ違う人々は天狗が天狗を背負って道を歩くという不可解な光景をちらちらと見ては目をそらす。
「まったく、せっかくのいい天気だというのにあなたのせいで台無しよ」
「……ごめんなさい」
「あとで何かお返しをしてもらいたいところね」
「……ごめんなさい」
「何で天狗の私が歩かなくちゃならないのよ」
「……ごめんなさい」
何を言ってもごめんなさいとしか言わない。すっかり意気消沈してしまった椛。さすがに色々やりすぎたかなと文は思い
「……でもなんというか、たまには歩くのもそんなに悪くはないわね」
と、ぼそっとつぶやく。それが真意なのか皮肉なのか椛には区別が付かず押し黙ってしまう。
山へと続く田んぼ道を天狗二人はのろのろと進む。
文は歩くという行為はほとんどしない生活を送っている。それは別に彼女が横着というわけではなく天狗という種族の特徴のようなものだ。カラスがあまり上手く歩けないのと同じようなもので、たいてい飛べばいいのであり、歩くときはせいぜい家の中くらいなのだ。
普段使わない部分が退化してしまうのは妖怪も一緒であり、ましてや重りを背負って歩くなど言ってしまえば拷問なのである。自然と息も上がってしまう。
椛をおろし、その場に座り込む。
「一休みよ……」
息が上がった様子の文の顔を椛はのぞき込む。
「……大丈夫ですか?」
「あなたに心配される必要はないわ。自分の足の怪我を心配しなさいよ」
言われるままに椛は自分の足を気にし始める。本当単純な奴ねと文はくすりと笑い、ふと上を見上げる。
空が高いのと感じるのはいつぶりなのか。
さて、休んでばかりもいられない、文は再び歩き出す。
少し足下がふらついているが歩けないほどじゃないので彼女は気にせず前に進んだ。椛はそんな文の様子を少し不安に思っていたが、してもらってる以上口に出せずにいた。
不意に何かを踏んだような感覚がしたと思った次の瞬間である。
跳ねるような金属音が響いたかと思うと文は表情をゆがめ椛もろとも倒れ込んでしまう。足下に違和感を感じた文はすぐさま手を伸ばすと、生ぬるい金属が手に触れた。手のひらを見ると血も付いている。
「ちょっと!大丈夫ですか?」
椛が血相を変えて文の足に噛みついたトラバサミをとろうとする。それほど深く刃は入っていないようであり、すぐ除去することができた。不幸中の幸いと言うべきなのだが、全体的に見ると不幸のウェイトが占めている状況である。
「ったく……今日はなんなのよ」
うめく文。
「ごめんなさい……」
椛は謝りながら服の裾を破って止血を施そうとする。文がそれを制止する。
「大丈夫よ。あなたこそ止血したらどうなの」
「もう血は止まりました。体は頑丈なんです」
と、椛。確かに言われたとおり傷跡は血がかさぶたとなっている。
「私のせいでこんな目に遭わせてしまって……私がこれに拘ってしまったばっかりに」
と言いながら椛は背負籠を放り投げようとしたので文はそれも制止する。
「せっかくの獲物を捨てるなんてもったいないでしょ。どうせならこのまま持ち帰って食べましょ」
文は足を抑えながら立ち上がる。心もとない足元ではあるが、一応立ち上がることは出来ている。椛が彼女の肩を抱えると、文も椛の肩を抱え込んだ。
「情けないわね。天狗ともあろう者がこんな罠に引っかかるなんて」
結局二人は歩いてそのまま帰路へついた。
数日後
「早くしてください。置いてっちゃいますよ?」
「椛、私は一応けが人なのよ? もう少し手厚く扱って欲しいんだけど」
「それを言うなら私もけが人です。しかも私のほうが重傷です」
「あんたと私じゃ体の丈夫さが違うのよ」
「あ、それって敗北宣言ですか?」
「くだらないこと言ってないでさっさと獲物を探しなさい」
などと言い合いながら楽しげに再び田んぼ道を歩く二人の姿が見かけられた。二人共まだ怪我は治りきっていないが歩けるくらいには回復している。
先日の一件で運動不足を痛感した文は体を動かすために少し歩くことにしたのだ。
一方の椛の方は文に付き合うついでに例の香草を調達しに来た。
村人の視線は相変わらずだが、そんなものは二人にとってはどうでもよかった。むしろ文にとってはこれすら新聞のネタにしようと考えてるくらいだ。転んでもただじゃ起きないのが彼女である。
春の日差しが今日も舞い降りる田んぼの畦道、日暮れまで香草を摘む二人の天狗の姿があった。
次の日、二人がまた同じ場所に現れると、ある立て札が立っているいることに気づき、近づいて見てみるとこう書かれていた。
これより天狗の畦道
どうやら何度も何度も村人に目撃されたおかげでこの場所は天狗が出没するところと認識されてしまったようで、これには思わず二人は顔を見合わせて赤面してしまうのであった。