生傷の絶えない秋が終わって、五体満足のままで冬を迎えたので私はひどく驚いた。
その季節の到来を教えてくれたのは、立ち呑み屋の招き猫の上で店内の脂ぎった空気に煽られながら黙って引っかかっている日めくりだった。
私はそれを見て思わず唸り、生き延びた祝杯を上げようとしたが、注文の口を開くか開かないかのうちに被っていたフードを剥がれて店から蹴り出された。
盛大に尻餅をついて、打ったその尻をさすりながら、私は冬服をどこでかっぱらおうかと考えていた。
§
その秋が終わる頃までには地底のすべての店が私を出入り禁止にしていたし、私を殴ったことのない鬼は一人たりとも存在しなかった。
「正邪」と聞くだけで誰もが顔をしかめた。
その風変わりなコレクションを完成させるために、私は地底に潜ってからの短い時間で彼女らを苛立たせるような言葉、仕草、表情、その他一切を身につけた。
しかし、実際のところ、多量のアルコールで脳味噌を昆虫並にまで溶かした動物を怒らせるのは、その気になりさえすれば訳もないことなのだ。
そうして、鬼たちの心のひだを突っつき回して首尾良く怒らせると、彼女らは最初のうちは義憤に駆られて暴力に訴える振りをする。
自分でそれが振りだと気づいてさえいないので、彼女たちにとってそれは嘘ではない。
だが、暴力が進行するに従って、彼女たちは自分の心と、目の前で血塗れになって喘いでいる私との間に生じている乖離に気付いて大いに戸惑うことになる。
手段であったはずの暴力が、それ自身を目的として回り続ける行き場のない機関へと転じる瞬間だ。
それから先はもうどちらがどちらを痛めつけているのか分からない。
覆い被さるようにして組み伏せた無抵抗の私に一撃一撃を加えるごとに、鬼の目には手負いの野犬のような怯えた光が増していく。
泣き出す奴もいる。
煮立った鍋から泡が吹きこぼれるようにして、鬼たちの口から言い訳が溢れ出す。
そこには、普段は決して表に出そうとしない蔑みと驕りの言葉が目一杯含まれている。
それが私にも、周りで見ている妖怪たちにも、そしてもちろんその鬼自身にも聞こえる。
そこにいる誰もが、その鬼の本質を、自分でも無意識のうちに他人の目に触れないように隠していた汚い本性を、目の当たりにすることになる。
それは言いようもない情景だ。
痛みと傷を質草にして私はそういった物を手に入れた。
鬼の心意気とやらで分かたれた、真実と嘘という二つの区分から漏れた中に、どれだけの醜いものが詰まっているのかを、私は殴られることによって公衆の面前に晒け出してみせた。
鬼たちは肩で風を切って通りを歩くのをやめ、武勇伝を肴にして大きな声で笑いながら酒を呑むのをやめた。
辛気くさい顔をしている知らない妖怪の肩を馴れ馴れしく叩き、無理に笑わせようとするのをやめた。
紐で繋いだ瓢箪を肩越しに後ろに提げ、それを時折ふくらはぎで蹴りながら口笛を吹くのをやめた。
私の姿を見かけると卑屈さと憎しみが入り交じった目を向けて足早に去った。
私は傷だらけの身体を抱えて、痛みに呻きながら、彼女たちをその十倍の卑屈さと憎しみとを込めた目で睨みつけるのだった。
鬼たちは誇りを失った。
私が何を失ったのかは私には分からない。
最初に何を持っていたのかさえも思い出せないのだから、当然かもしれない。
§
寒い季節に帰るべき家を持たないなら、あなたは地底に来ればいい。
別に安全でも快適でもないけれど、少なくともどこで眠っても凍死はしない。
地上の世界に居場所がなくて、はるばる流れ着いてきたご同輩たちもいる。
体力も社会性も持ち合わせた優秀な連中は鬼の手下として土木作業で日銭を稼ぎ、屋根の下の暖かい布団で眠っている。
ご苦労なことだ。
しかし、私たちはそもそも巨大な屋根の下にいるのであって、凌がなければならない雨風などない。
体裁に構わなければどこで寝ようが何の問題もないのだ。
同じ考えを持つ怠け者たちによって漠然と構成された路上睡眠共同体の中に、傷だらけの私に度々声をかける変な河童がいた。
少なくとも自分では河童だと名乗っていた。
彼女はいつも自分で作った奇妙なガラクタ(彼女による呼称を尊重するならば「発明品」)を幾つか身につけていた。
初めて彼女に会ったとき、彼女は医者があの妙な円盤を縛り付けるようにして、紙コップを額に付けていた。
私はこの風変わりな御仁と関わり合いになって良いものなのかどうかたっぷり三十秒悩んだその後で、結局は好奇心に負けて、彼女に「それは何?」と訊いた。
彼女は我が意を得たりとばかりに口の端をつり上げて、首に下げたペンダントのような物に右手を伸ばした。
次の瞬間、紙コップから歪んだ高音域がやたらと強調された大きな音で耳障りな音楽が流れ出した。
私は両耳を手で塞いで、分かったから静かにしてくれ、と叫んだ。
もう一度彼女がペンダントに手をやると音が鳴り止んだ。
「鳥獣伎楽だ。知ってる?」と彼女は言った。
「知りたくもないね」と私は言った。
それから彼女は電気回路やスイッチの機構、最も鳴りの良い紙コップを探し求めた遍歴などについてそれは嬉しそうに滔々と語った。
しゃべる度にくすんだ色の髪が揺れ、同時に紙コップもふらふらと前後するので笑えた。
どこから来たのかと訊くと、彼女は機嫌良く「山だよ」と答えた。
「侵入者を自動で撃退する防犯システムを作って上に企画書を出したんだけどね、哨戒天狗たちは気に入らなかったんだな。自分たちの仕事がなくなって失業するから。で、私が寝静まった隙を狙って工房を襲撃しようとしたんだ。馬鹿なんだね、あいつら」
彼女はおかしそうに笑った。
「だって、そんなのさ、作った当人の私が自分の家に仕掛けてないわけがないじゃん。朝起きたら家の前でばたばた天狗が気絶してんの。で、山に居づらくなって逃げてきた」
私も笑った。
そのようにして私は彼女と出会った。
§
偉大な発明家さんはいつもの場所に座って、どこから手に入れてきたのか知らないが、瓶に入った液体の飴を舐めていた。
私がやってきたのに気づくと左手を上げてひらひらと振った。
「美味いか?」と私は言った。
「別に」と彼女は言った。
彼女は右手に持っていた、飴を舐めるための棒をきらきらと光る瓶の中に戻し、それらをまとめて脇に退けた。
それから身体の後ろに隠していた黒くて丸い小さなものを取り出して前に置いた。
私はそれを挟んで彼女の正面に座った。
身体を屈めるときに背中の傷が疼いた。
「これが?」と私は訊いた。
「そう」と彼女は頷いて、「五分だ」と付け加えた。
私は頭に刻み込むようにして二回頷いた。
「物は確かなんだな?」と私は真剣な顔で言った。
「すごいな。そんな台詞、口に出して言う奴は初めてだ」と言って彼女は笑った。
「一度言ってみたかったんだって」と言って私は顔をしかめた。
私は念のため機構をレクチャーしてもらってから、それを鞄に仕舞った。
その代わりに瓢箪と杯を取り出した。
「へえ」と彼女は感嘆の声をあげた。
「悪いな、金がない。こんなものでしか礼ができない」と私は言った。
「いや、いや……こんなに間近で見るのは初めてだよ」
彼女は杯に酒を吐き出している瓢箪をしばらく見て、それから目を細めて私の傷だらけの顔をじっと眺めた。
「じゃあ、ただ殴られてばかりいたんじゃないってわけだ」
「ううん」と私はどっちつかずの声を出した。「そんなことはどうでもいいだろ。はい、とにかく乾杯」
それから私たちは無尽蔵の瓢箪を互いの肝臓が悲鳴を上げるまで酌み交わし、これ以上飲んだらもう意識が保てない、というところで私は彼女の手に瓢箪を押しつけ、他人に気取られないように普段は隠しておくこと、酔っぱらったままで鬼の居るような場所にのこのこ出ていかないことの二つをよく守るよう忠告した。
無駄だとは思ったけれど。
彼女は私の声を聞いて、酔いを振り払うようにして何度か頷いた。
少し黙ったままで目を瞑り、それから口を開いた。
「あんたの顔を見るのもこれが最後のような気がするな」
私は彼女を睨んだ。
「いや、いや、そういう意味じゃない。でも、つまりそうなるかもしれないってこと。一般論だよ」と彼女は弁解するようにそう言った。
「まあ、それでも上手くいくと良いな。そう思ってるよ」
溜め息をついて、赤く腫れ上がったぼんやりとした眼差しでつくづくと私の顔を眺め、彼女はもう一度頷いた。
頭と一緒にあの馬鹿げた紙コップが上下した。
それが何故だかやけに私の頭に残った。
§
灼熱地獄の方にはほとんどの妖怪は近づこうとしない。
けれど、時折赤く燃え上がるその地獄の火を背にして、地底で一番大きな建物がそびえ立っていることは誰もが知っている。
屋敷のように見えるが、誰が住んでいるのか、何のためにあるのか、誰もが曖昧に言葉を濁して語ろうとしない。
私が信用されていないだけかもしれないが。
私は地底で暮らすうちに、その建物の存在が自分の中で日に日に大きくなって次第に私自身を圧迫していくのを感じていた。
それを見るといつでも息が詰まり、考えがまとまらなくなり、言葉が宙に舞った。
そうなると、呆けた様にして黙り込んでしまうか、怒り出す以外に仕様がなかった。
日ごとにそこで住む者への抽象的な敵意が育っていった。
どう考えても、最初にあったのはほんの些細な違和にすぎなかったはずだ。
けれども、ごく小さい火の粉が、枯れ草に乗り移り、地を舐め、やがては森のすべてを焼き尽くすようにしてそれは膨れ上がった。
身を蝕む違和から逃れるために、私は鬼に自分を殴らせて、自分を殴った鬼の心を踏みつけにして、鼻つまみ者になって、鬼から酒を盗んで……。
自分の行いを正当化する、意味の通らない屁理屈が幾らでも思い浮かぶ。
屁理屈だと分かっていながらそれを弄ぶのを楽しんでいる。
他人にも自分にも嘘をついているのが分かっている自分を肯定している。
顔を見られるとまずいので、フードを目深に被った。
私は肩から鞄を提げ、鼻歌を歌って地霊の屋敷に向かって通りを歩いている。
自分が生きていることにさえ、もはやうんざりしているような妖怪たちが徘徊している。
彼らは屋敷が憎くないのだろうか。
自分のふがいのなさを笑うだけで発散できるのだろうか。
酒を飲めば忘れられるのだろうか。
だとしたら羨ましい。
私にはそれができない。
眼前の屋敷が大きくなるに従って、人がまばらになってきた。
気温が少し上がっている。
首から下にびっしょりと汗をかいているが、でもそれは暑さのせいだけじゃない。
通りを構成する最後の建物が終わって、あとはただ広い空間が口を開けている。
ますます大きくなる屋敷だけが私を待っている。
こんなに近くで見たのは初めてだ。
窓の飾りが見える。
大きなドアが見える。
屋根に彫られた異国の魔物の意匠が見える。
吹き上げる噴水が見える。
庭に出された白く簡素な椅子と机が見える。
私はただ汗を流し続けている。
ごてごてした造型の大きな門。
手を添えて押すと音もなく開いた。
門番も、庭師も、何もいない。
期待していた権力の臭いも、望まなかった生活の臭いも、まるで見あたらなかった。
私は途方に暮れた。
頭は真っ白で、それでもまだ鼻歌を歌っていた。
そう、どこに仕掛けるか考えなければならない。
だって、ここまで来たのだ。
何もかもが潮時だった。
深呼吸をした。
汗はもう止まっていた。
玄関はどうだろう。
大きな音に集まった旧都の妖怪たちは、玄関が木っ端微塵になっているのを見つけたら金品を目当てに中になだれ込むだろうか?
まあ、それは分からない。
ここの主の人望次第だ。
でも、玄関のドアはいかにも頑丈そうな金属で作られていて、簡単に吹き飛ばせるとは思えなかった。
……大きな穴が開けばそれはどこでも良いのだ。
入り口も出口も、とにかく通れさえすれば用をなすのであって、それがどこにあるかなどということは大した問題じゃない。
私は窓の一つを選んで、そこに向かって静かに歩いていった。
§
誰かに見つかるのを恐れて、耳がやたらと鋭敏になっている。
遠くで地鳴りのように地獄が蠢いているのが聞こえる。
河童は五分と言った。
まだ私は歌っている。
止めたら吐いてしまいそうだった。
やがて自分が歌っているのが、あの耳障りな鳥獣伎楽であることに気付いて驚く。
もしかすると、私が友達から盗品で買い取るべきだったのは爆弾なんかじゃなくてあの紙コップだったのかもしれない。
そう、きっとそうだったのだ。
今になって私はようやくそこに思い至った。
だけど私は震える指を伸ばす。
窓の縁に置いた時限爆弾のスイッチに向かって。
「そんなもの仕掛けたら危ないと思わない?」と誰かが耳元で言った。
息が止まり、胃の底が凍るような思いがした。
私が振り向くより前に、側頭部に大きな衝撃。
白い足が一瞬だけ見えて私は横様に吹っ飛ばされる。
背中から擦るように地面に打ち付けられ、何とか受身を取る。
急いで立ち上がろうとしたが、その前に胸と鳩尾のあいだを踏みつけられて、口から甲高い笛のような音と掠れた息が漏れた。
「痛い?」と声が上から降ってきた。
悪態の一つもついてやりたかったが、足で肺が圧迫されてまともに声が出せなかった。
手で相手の足を掴んで何とか引き剥がそうとする。
力を入れて押し上げ、足から両手を離さずに素早く起き上がると、上手く意表をつけたのか、相手はバランスを失って傾いた。
そのまま押し倒して上にまたがり、頭を殴りつけた。
転んだ拍子にそいつの頭から黒い帽子が地面に転がった。
そこで初めて私は相手をまともに見た。
緑とも灰ともつかないくすんだ色の髪。
服の中からコードのようなものが延びていて、胸の前の辺りに奇妙な青くて丸い……何だろう。
ボールのような、何だかよく分からないものが浮かんでいる。
彼女は私が殴っても、感情のこもっていない静かな目で黙って私を見返すばかりで、二回、三回と繰り返しても声一つ上げなかった。
頬を抉る右手の感触にも、どうにも現実味がなかった。
私がもう一度殴ろうと右手を上げると、次の瞬間、信じられないことに彼女が私の上にまたがっていた。
私は思わず息を呑んだ。
彼女は黙って右腕を振り上げ、私の顔を迷いなく殴った。
間を置かずにもう一回。
口の中の肉が歯に当たって切れた。
血の味が広がる。
彼女は私の胸ぐらを両腕で掴んで上半身を引き上げた。
彼女の顔がほとんど触れるような距離まで近づいた。
私は咳込んで、それが彼女の顔にまともにかかったが、彼女は瞬き一つしなかった。
「あなた、何かうちの誰かに恨みがある人?」と彼女は訊いた。
私は何も言わなかった。
両手を上げて彼女の手を掴み、私の喉から引き剥がそうともがいたが、びくともしなかった。
「答えられないの?」と彼女は訊いた。
私がなおもだんまりを決め込んでいるのを見て取ると、彼女は掴んでいた両腕に力を込めて私を地面に叩きつけた。
頭を打って、視界がぐらぐらと揺れた。
血の味が口の中で攪拌される。
上から声が降ってくる。
「ねえ、あなたが誰だか知らないけど、思ってることは言葉にしないと伝わらないんだよ。うちを爆破してどうするつもりだったの? 訊いてるんだから、ちゃんと答えてくれないかな」
彼女は腫れ上がった私の頬に手を添えて、ゆっくりと撫でながらそう言った。
私はその手に噛み付こうとしたが、すんでのところで避けられてしまった。
空振った歯が虚しく音を立てて、彼女は冷たい目でじっと私を見下ろした。
「ふうん……そう。私はそれなりに穏便に済ませようと思っていたんだけど。もう少し痛めつけられないと分からないのかな」と彼女は淡々と言った。
彼女は右手で私を殴った。
鼻血が出て、喉の上辺りにつんと鉄の味が広がった。
もう一発。
赤い飛沫が見えた。
私はとことんまで行くつもりでいた。
腕を上げて自分を守ろうとさえしなかった。
そうしてこの掴み所のないふわふわとした妖怪の性根を暴いてやろうと思っていた。
鬼達にそうしたように。
「ねえ、何か言って?」
でも、そう言って、もう一度彼女が私の顔を覗き込んだとき、私は全身に寒気が走るのを感じた。
これだけの暴力を振るっていながら、彼女の表情の中には、感情と呼べるものが一切浮かんでいなかったのだ。
彼女が拳に込めているのは正義でも快楽でもなく、怒りでさえもなかった。
ただただ、成り行きのままに私を殴っていた。
突然恐怖が込み上げてきた。
鬼達のような感情のひだが存在しなければ、付け入る隙がないのであれば、この一連の動作にはまったく終焉というものがない。
初めて明確に自らの死を意識した。
気がつけば喉から情けない悲鳴が漏れていて、両手を上げて顔をかばった。
彼女の拳はそれでも降ってきた。
私はどうにかこの不気味な敵から逃れようとして、ほとんど無意識のうちに相手に自分の能力を使った。
それがどういう効果をもたらすのかさえ考えなかった。
閃光が炸裂した。
もう拳は降ってこなかった。
私が身動きをとれないように、胸の辺りにかけられていた体重も消えていた。
私はかざした手の指の隙間から、こわごわ彼女を盗み見た。
彼女は仰け反って、ひきつけを起こしたように、目と口を見開いて、震えていた。
驚きの表情で、それが私が初めて見た彼女の感情の発露らしき何かだった。
「……え? あ……」と彼女が呟いた。
私は自分がどんなことを引き起こしたのか、皆目分からなかった。
とにかく、組み伏せられていた拘束が緩んだので、私はなけなしの力を振り絞り、彼女の両肩を掴んで彼女を後ろに突き倒した。
抵抗はなかった。
彼女は尻餅をついた。
ただただ驚いた顔をしていた。
そのまま立ち上がって走って逃げるべきだったのかもしれない。
しかし私は見てしまった。
彼女の胸の辺りに浮いている青いボールの中央に、さっきは存在しなかった、目玉のようなものが浮かんでいるのを。
それがぎょろりとこちらを向いた。
私はもうそれで凍りついて、立てなくなってしまった。
「ああ……あー……うん」と彼女が呻いた。
私は彼女の顔を見た。
その短い時間に、そこには様々な表情が立ち現れては消えた。
それから彼女は、優しい、疲れたような目でゆっくりと私を見た。
ほとんど別人のようだった。
「懐かしいな。こんな風だったんだ」と彼女は言った。
私はこけしのように黙りこくっていた。
「うん、そんなこと言われても分からないよね」
私はそれこそ何が何だか分からないまま、曖昧に頷いた。
彼女はそれを見て口元を綻ばせた。
「とにかく……良いよ。もう良い。分かったから」と彼女は言った。
「……何がだよ」と私は言った。
「初めて喋ったね。もちろん全部だよ、鬼人正邪」と彼女は言った。
私はびっくりして目を見開いた。
彼女は少し顔をしかめて、でもくすくすと笑った。
「そう、これなんだよね……その表情を見るのが楽しめるかどうか。私にはそれが少し辛かったんだ」と彼女は言った。
次の瞬間、彼女の白い十本の指が私の喉に絡みついた。
突然のことで、避けようとすることさえできなかった。
彼女の手首を掴んで力を込めたが何の意味もなかった。
両肩に土の感触。
私はもうほとんど諦めていた。
この数分のうちに彼女の身に何が起こったのか分からないが、とにかく、今の彼女ならば、私を殺しまではしないだろうという妙な安心感があった。
血が回らなくなって、少しずつ薄れていく意識の中で、私は彼女の顔を見た。
彼女は微笑んでさえいた。
「そうだよ。殺しまではしないよ。……ああ、でも、懐かしいな、本当に。こんな気持ちになるだなんてね」と彼女は言った。
喉を絞める手に一層力が加わった。
「だから、これで許してあげる。一番嫌な記憶は思い出さなくて良いよ」と彼女は言った。
私の意識はそこで途切れた。
§
ひどい喉の渇きに目が覚めた。
起き上がろうとしたが、身体の節々が痛くて上手く力が入らなかった。
どうしようか迷った挙句、右肘を支点にして、転がるように身体を起こした。
地底湖が目に飛び込んできた。
それは今の私には文字通り宝石のように輝いて見えた。
全部飲み干してやりたいぐらい愛しく思えた。
私は這うようにしてそちらに近づいていった。
両手ですくって、水を一口。
……ああ、甘い。
なんだか、泣いてしまいそうだ。
次の瞬間、口の中の傷に水が沁みて、痛くて本当に泣きそうになった。
少し考える余裕が出来た。
地底湖は橋守のいる橋の下を流れる川が注いでいるところで、あの屋敷からはずいぶん離れているはずだ。
気を失っている私をわざわざここまで運んできたということか。
意図がよく分からないが、まったくもってご苦労なことだ。
それにしても、ひどい目に遭わされた。
身体中がずきずきと痛んでいる。
湖面にうつる顔も赤く青く腫れ上がっていてなかなか凄まじい。
私はしばらくそうして敗北の感傷に浸っていた。
やがて、私は痛みに呻きながら立ち上がった。
とにかく動き続けていなければならない。
動いている間は自分にうんざりしなくて済む。
自分で自分にうんざりしていたらそれは自分じゃない。
帰るべき場所を持たないことよりも、誰にも相手にされないことよりも、愛されないことよりも、私にはそれが一番辛い。
立ち上がるとき、私は服の懐のところに異物を感じた。
スイッチを押された爆弾だったらまずいな、と一瞬思ったけれど、起きてからとっくに五分は経っているのでそれはないはずだとも思った。
私は懐に手を突っ込んだ。
そこに入っていたのは白くて平たい小石だった。
黒い下手くそな字で、「おとといおいで」と書かれていた。
鼻を鳴らして手の中で転がすと、裏側にも字が書かれているのを見つけた。
「またおいで」
辺りに誰もいないのを確認してから、私はそれをしげしげと見た。
時々裏返して、二つの言葉を頭の中で転がして味わった。
不思議な気持ちだった。
ややあって、私は右手で小石を握りなおした。
左足を上げて、腰を捻って、溜めを作る。
全身が軋み、傷が悲鳴をあげた。
左足を踏み出し、スナップを利かせて腰の辺りの高さで横向きに右腕を振り、それを投げた。
三回湖面で跳ねて、小石は湖の中に沈んでいった。
石が触れたところから水の波紋が伝って、足元近くまでやってくるのを私は見ていた。
それから不意に笑いがこみ上げてきた。
可笑しくてたまらなくて、げらげらと腹を押さえて笑った。
そんなに笑ったのは久しぶりだった。
笑うのに疲れると、一つ舌打ちをして踵を返し、鳥獣伎楽を歌いながら湖の縁を歩き出した。
湖に注ぐ川の流れをゆっくりとさかのぼって、私は橋を目指した。
その季節の到来を教えてくれたのは、立ち呑み屋の招き猫の上で店内の脂ぎった空気に煽られながら黙って引っかかっている日めくりだった。
私はそれを見て思わず唸り、生き延びた祝杯を上げようとしたが、注文の口を開くか開かないかのうちに被っていたフードを剥がれて店から蹴り出された。
盛大に尻餅をついて、打ったその尻をさすりながら、私は冬服をどこでかっぱらおうかと考えていた。
§
その秋が終わる頃までには地底のすべての店が私を出入り禁止にしていたし、私を殴ったことのない鬼は一人たりとも存在しなかった。
「正邪」と聞くだけで誰もが顔をしかめた。
その風変わりなコレクションを完成させるために、私は地底に潜ってからの短い時間で彼女らを苛立たせるような言葉、仕草、表情、その他一切を身につけた。
しかし、実際のところ、多量のアルコールで脳味噌を昆虫並にまで溶かした動物を怒らせるのは、その気になりさえすれば訳もないことなのだ。
そうして、鬼たちの心のひだを突っつき回して首尾良く怒らせると、彼女らは最初のうちは義憤に駆られて暴力に訴える振りをする。
自分でそれが振りだと気づいてさえいないので、彼女たちにとってそれは嘘ではない。
だが、暴力が進行するに従って、彼女たちは自分の心と、目の前で血塗れになって喘いでいる私との間に生じている乖離に気付いて大いに戸惑うことになる。
手段であったはずの暴力が、それ自身を目的として回り続ける行き場のない機関へと転じる瞬間だ。
それから先はもうどちらがどちらを痛めつけているのか分からない。
覆い被さるようにして組み伏せた無抵抗の私に一撃一撃を加えるごとに、鬼の目には手負いの野犬のような怯えた光が増していく。
泣き出す奴もいる。
煮立った鍋から泡が吹きこぼれるようにして、鬼たちの口から言い訳が溢れ出す。
そこには、普段は決して表に出そうとしない蔑みと驕りの言葉が目一杯含まれている。
それが私にも、周りで見ている妖怪たちにも、そしてもちろんその鬼自身にも聞こえる。
そこにいる誰もが、その鬼の本質を、自分でも無意識のうちに他人の目に触れないように隠していた汚い本性を、目の当たりにすることになる。
それは言いようもない情景だ。
痛みと傷を質草にして私はそういった物を手に入れた。
鬼の心意気とやらで分かたれた、真実と嘘という二つの区分から漏れた中に、どれだけの醜いものが詰まっているのかを、私は殴られることによって公衆の面前に晒け出してみせた。
鬼たちは肩で風を切って通りを歩くのをやめ、武勇伝を肴にして大きな声で笑いながら酒を呑むのをやめた。
辛気くさい顔をしている知らない妖怪の肩を馴れ馴れしく叩き、無理に笑わせようとするのをやめた。
紐で繋いだ瓢箪を肩越しに後ろに提げ、それを時折ふくらはぎで蹴りながら口笛を吹くのをやめた。
私の姿を見かけると卑屈さと憎しみが入り交じった目を向けて足早に去った。
私は傷だらけの身体を抱えて、痛みに呻きながら、彼女たちをその十倍の卑屈さと憎しみとを込めた目で睨みつけるのだった。
鬼たちは誇りを失った。
私が何を失ったのかは私には分からない。
最初に何を持っていたのかさえも思い出せないのだから、当然かもしれない。
§
寒い季節に帰るべき家を持たないなら、あなたは地底に来ればいい。
別に安全でも快適でもないけれど、少なくともどこで眠っても凍死はしない。
地上の世界に居場所がなくて、はるばる流れ着いてきたご同輩たちもいる。
体力も社会性も持ち合わせた優秀な連中は鬼の手下として土木作業で日銭を稼ぎ、屋根の下の暖かい布団で眠っている。
ご苦労なことだ。
しかし、私たちはそもそも巨大な屋根の下にいるのであって、凌がなければならない雨風などない。
体裁に構わなければどこで寝ようが何の問題もないのだ。
同じ考えを持つ怠け者たちによって漠然と構成された路上睡眠共同体の中に、傷だらけの私に度々声をかける変な河童がいた。
少なくとも自分では河童だと名乗っていた。
彼女はいつも自分で作った奇妙なガラクタ(彼女による呼称を尊重するならば「発明品」)を幾つか身につけていた。
初めて彼女に会ったとき、彼女は医者があの妙な円盤を縛り付けるようにして、紙コップを額に付けていた。
私はこの風変わりな御仁と関わり合いになって良いものなのかどうかたっぷり三十秒悩んだその後で、結局は好奇心に負けて、彼女に「それは何?」と訊いた。
彼女は我が意を得たりとばかりに口の端をつり上げて、首に下げたペンダントのような物に右手を伸ばした。
次の瞬間、紙コップから歪んだ高音域がやたらと強調された大きな音で耳障りな音楽が流れ出した。
私は両耳を手で塞いで、分かったから静かにしてくれ、と叫んだ。
もう一度彼女がペンダントに手をやると音が鳴り止んだ。
「鳥獣伎楽だ。知ってる?」と彼女は言った。
「知りたくもないね」と私は言った。
それから彼女は電気回路やスイッチの機構、最も鳴りの良い紙コップを探し求めた遍歴などについてそれは嬉しそうに滔々と語った。
しゃべる度にくすんだ色の髪が揺れ、同時に紙コップもふらふらと前後するので笑えた。
どこから来たのかと訊くと、彼女は機嫌良く「山だよ」と答えた。
「侵入者を自動で撃退する防犯システムを作って上に企画書を出したんだけどね、哨戒天狗たちは気に入らなかったんだな。自分たちの仕事がなくなって失業するから。で、私が寝静まった隙を狙って工房を襲撃しようとしたんだ。馬鹿なんだね、あいつら」
彼女はおかしそうに笑った。
「だって、そんなのさ、作った当人の私が自分の家に仕掛けてないわけがないじゃん。朝起きたら家の前でばたばた天狗が気絶してんの。で、山に居づらくなって逃げてきた」
私も笑った。
そのようにして私は彼女と出会った。
§
偉大な発明家さんはいつもの場所に座って、どこから手に入れてきたのか知らないが、瓶に入った液体の飴を舐めていた。
私がやってきたのに気づくと左手を上げてひらひらと振った。
「美味いか?」と私は言った。
「別に」と彼女は言った。
彼女は右手に持っていた、飴を舐めるための棒をきらきらと光る瓶の中に戻し、それらをまとめて脇に退けた。
それから身体の後ろに隠していた黒くて丸い小さなものを取り出して前に置いた。
私はそれを挟んで彼女の正面に座った。
身体を屈めるときに背中の傷が疼いた。
「これが?」と私は訊いた。
「そう」と彼女は頷いて、「五分だ」と付け加えた。
私は頭に刻み込むようにして二回頷いた。
「物は確かなんだな?」と私は真剣な顔で言った。
「すごいな。そんな台詞、口に出して言う奴は初めてだ」と言って彼女は笑った。
「一度言ってみたかったんだって」と言って私は顔をしかめた。
私は念のため機構をレクチャーしてもらってから、それを鞄に仕舞った。
その代わりに瓢箪と杯を取り出した。
「へえ」と彼女は感嘆の声をあげた。
「悪いな、金がない。こんなものでしか礼ができない」と私は言った。
「いや、いや……こんなに間近で見るのは初めてだよ」
彼女は杯に酒を吐き出している瓢箪をしばらく見て、それから目を細めて私の傷だらけの顔をじっと眺めた。
「じゃあ、ただ殴られてばかりいたんじゃないってわけだ」
「ううん」と私はどっちつかずの声を出した。「そんなことはどうでもいいだろ。はい、とにかく乾杯」
それから私たちは無尽蔵の瓢箪を互いの肝臓が悲鳴を上げるまで酌み交わし、これ以上飲んだらもう意識が保てない、というところで私は彼女の手に瓢箪を押しつけ、他人に気取られないように普段は隠しておくこと、酔っぱらったままで鬼の居るような場所にのこのこ出ていかないことの二つをよく守るよう忠告した。
無駄だとは思ったけれど。
彼女は私の声を聞いて、酔いを振り払うようにして何度か頷いた。
少し黙ったままで目を瞑り、それから口を開いた。
「あんたの顔を見るのもこれが最後のような気がするな」
私は彼女を睨んだ。
「いや、いや、そういう意味じゃない。でも、つまりそうなるかもしれないってこと。一般論だよ」と彼女は弁解するようにそう言った。
「まあ、それでも上手くいくと良いな。そう思ってるよ」
溜め息をついて、赤く腫れ上がったぼんやりとした眼差しでつくづくと私の顔を眺め、彼女はもう一度頷いた。
頭と一緒にあの馬鹿げた紙コップが上下した。
それが何故だかやけに私の頭に残った。
§
灼熱地獄の方にはほとんどの妖怪は近づこうとしない。
けれど、時折赤く燃え上がるその地獄の火を背にして、地底で一番大きな建物がそびえ立っていることは誰もが知っている。
屋敷のように見えるが、誰が住んでいるのか、何のためにあるのか、誰もが曖昧に言葉を濁して語ろうとしない。
私が信用されていないだけかもしれないが。
私は地底で暮らすうちに、その建物の存在が自分の中で日に日に大きくなって次第に私自身を圧迫していくのを感じていた。
それを見るといつでも息が詰まり、考えがまとまらなくなり、言葉が宙に舞った。
そうなると、呆けた様にして黙り込んでしまうか、怒り出す以外に仕様がなかった。
日ごとにそこで住む者への抽象的な敵意が育っていった。
どう考えても、最初にあったのはほんの些細な違和にすぎなかったはずだ。
けれども、ごく小さい火の粉が、枯れ草に乗り移り、地を舐め、やがては森のすべてを焼き尽くすようにしてそれは膨れ上がった。
身を蝕む違和から逃れるために、私は鬼に自分を殴らせて、自分を殴った鬼の心を踏みつけにして、鼻つまみ者になって、鬼から酒を盗んで……。
自分の行いを正当化する、意味の通らない屁理屈が幾らでも思い浮かぶ。
屁理屈だと分かっていながらそれを弄ぶのを楽しんでいる。
他人にも自分にも嘘をついているのが分かっている自分を肯定している。
顔を見られるとまずいので、フードを目深に被った。
私は肩から鞄を提げ、鼻歌を歌って地霊の屋敷に向かって通りを歩いている。
自分が生きていることにさえ、もはやうんざりしているような妖怪たちが徘徊している。
彼らは屋敷が憎くないのだろうか。
自分のふがいのなさを笑うだけで発散できるのだろうか。
酒を飲めば忘れられるのだろうか。
だとしたら羨ましい。
私にはそれができない。
眼前の屋敷が大きくなるに従って、人がまばらになってきた。
気温が少し上がっている。
首から下にびっしょりと汗をかいているが、でもそれは暑さのせいだけじゃない。
通りを構成する最後の建物が終わって、あとはただ広い空間が口を開けている。
ますます大きくなる屋敷だけが私を待っている。
こんなに近くで見たのは初めてだ。
窓の飾りが見える。
大きなドアが見える。
屋根に彫られた異国の魔物の意匠が見える。
吹き上げる噴水が見える。
庭に出された白く簡素な椅子と机が見える。
私はただ汗を流し続けている。
ごてごてした造型の大きな門。
手を添えて押すと音もなく開いた。
門番も、庭師も、何もいない。
期待していた権力の臭いも、望まなかった生活の臭いも、まるで見あたらなかった。
私は途方に暮れた。
頭は真っ白で、それでもまだ鼻歌を歌っていた。
そう、どこに仕掛けるか考えなければならない。
だって、ここまで来たのだ。
何もかもが潮時だった。
深呼吸をした。
汗はもう止まっていた。
玄関はどうだろう。
大きな音に集まった旧都の妖怪たちは、玄関が木っ端微塵になっているのを見つけたら金品を目当てに中になだれ込むだろうか?
まあ、それは分からない。
ここの主の人望次第だ。
でも、玄関のドアはいかにも頑丈そうな金属で作られていて、簡単に吹き飛ばせるとは思えなかった。
……大きな穴が開けばそれはどこでも良いのだ。
入り口も出口も、とにかく通れさえすれば用をなすのであって、それがどこにあるかなどということは大した問題じゃない。
私は窓の一つを選んで、そこに向かって静かに歩いていった。
§
誰かに見つかるのを恐れて、耳がやたらと鋭敏になっている。
遠くで地鳴りのように地獄が蠢いているのが聞こえる。
河童は五分と言った。
まだ私は歌っている。
止めたら吐いてしまいそうだった。
やがて自分が歌っているのが、あの耳障りな鳥獣伎楽であることに気付いて驚く。
もしかすると、私が友達から盗品で買い取るべきだったのは爆弾なんかじゃなくてあの紙コップだったのかもしれない。
そう、きっとそうだったのだ。
今になって私はようやくそこに思い至った。
だけど私は震える指を伸ばす。
窓の縁に置いた時限爆弾のスイッチに向かって。
「そんなもの仕掛けたら危ないと思わない?」と誰かが耳元で言った。
息が止まり、胃の底が凍るような思いがした。
私が振り向くより前に、側頭部に大きな衝撃。
白い足が一瞬だけ見えて私は横様に吹っ飛ばされる。
背中から擦るように地面に打ち付けられ、何とか受身を取る。
急いで立ち上がろうとしたが、その前に胸と鳩尾のあいだを踏みつけられて、口から甲高い笛のような音と掠れた息が漏れた。
「痛い?」と声が上から降ってきた。
悪態の一つもついてやりたかったが、足で肺が圧迫されてまともに声が出せなかった。
手で相手の足を掴んで何とか引き剥がそうとする。
力を入れて押し上げ、足から両手を離さずに素早く起き上がると、上手く意表をつけたのか、相手はバランスを失って傾いた。
そのまま押し倒して上にまたがり、頭を殴りつけた。
転んだ拍子にそいつの頭から黒い帽子が地面に転がった。
そこで初めて私は相手をまともに見た。
緑とも灰ともつかないくすんだ色の髪。
服の中からコードのようなものが延びていて、胸の前の辺りに奇妙な青くて丸い……何だろう。
ボールのような、何だかよく分からないものが浮かんでいる。
彼女は私が殴っても、感情のこもっていない静かな目で黙って私を見返すばかりで、二回、三回と繰り返しても声一つ上げなかった。
頬を抉る右手の感触にも、どうにも現実味がなかった。
私がもう一度殴ろうと右手を上げると、次の瞬間、信じられないことに彼女が私の上にまたがっていた。
私は思わず息を呑んだ。
彼女は黙って右腕を振り上げ、私の顔を迷いなく殴った。
間を置かずにもう一回。
口の中の肉が歯に当たって切れた。
血の味が広がる。
彼女は私の胸ぐらを両腕で掴んで上半身を引き上げた。
彼女の顔がほとんど触れるような距離まで近づいた。
私は咳込んで、それが彼女の顔にまともにかかったが、彼女は瞬き一つしなかった。
「あなた、何かうちの誰かに恨みがある人?」と彼女は訊いた。
私は何も言わなかった。
両手を上げて彼女の手を掴み、私の喉から引き剥がそうともがいたが、びくともしなかった。
「答えられないの?」と彼女は訊いた。
私がなおもだんまりを決め込んでいるのを見て取ると、彼女は掴んでいた両腕に力を込めて私を地面に叩きつけた。
頭を打って、視界がぐらぐらと揺れた。
血の味が口の中で攪拌される。
上から声が降ってくる。
「ねえ、あなたが誰だか知らないけど、思ってることは言葉にしないと伝わらないんだよ。うちを爆破してどうするつもりだったの? 訊いてるんだから、ちゃんと答えてくれないかな」
彼女は腫れ上がった私の頬に手を添えて、ゆっくりと撫でながらそう言った。
私はその手に噛み付こうとしたが、すんでのところで避けられてしまった。
空振った歯が虚しく音を立てて、彼女は冷たい目でじっと私を見下ろした。
「ふうん……そう。私はそれなりに穏便に済ませようと思っていたんだけど。もう少し痛めつけられないと分からないのかな」と彼女は淡々と言った。
彼女は右手で私を殴った。
鼻血が出て、喉の上辺りにつんと鉄の味が広がった。
もう一発。
赤い飛沫が見えた。
私はとことんまで行くつもりでいた。
腕を上げて自分を守ろうとさえしなかった。
そうしてこの掴み所のないふわふわとした妖怪の性根を暴いてやろうと思っていた。
鬼達にそうしたように。
「ねえ、何か言って?」
でも、そう言って、もう一度彼女が私の顔を覗き込んだとき、私は全身に寒気が走るのを感じた。
これだけの暴力を振るっていながら、彼女の表情の中には、感情と呼べるものが一切浮かんでいなかったのだ。
彼女が拳に込めているのは正義でも快楽でもなく、怒りでさえもなかった。
ただただ、成り行きのままに私を殴っていた。
突然恐怖が込み上げてきた。
鬼達のような感情のひだが存在しなければ、付け入る隙がないのであれば、この一連の動作にはまったく終焉というものがない。
初めて明確に自らの死を意識した。
気がつけば喉から情けない悲鳴が漏れていて、両手を上げて顔をかばった。
彼女の拳はそれでも降ってきた。
私はどうにかこの不気味な敵から逃れようとして、ほとんど無意識のうちに相手に自分の能力を使った。
それがどういう効果をもたらすのかさえ考えなかった。
閃光が炸裂した。
もう拳は降ってこなかった。
私が身動きをとれないように、胸の辺りにかけられていた体重も消えていた。
私はかざした手の指の隙間から、こわごわ彼女を盗み見た。
彼女は仰け反って、ひきつけを起こしたように、目と口を見開いて、震えていた。
驚きの表情で、それが私が初めて見た彼女の感情の発露らしき何かだった。
「……え? あ……」と彼女が呟いた。
私は自分がどんなことを引き起こしたのか、皆目分からなかった。
とにかく、組み伏せられていた拘束が緩んだので、私はなけなしの力を振り絞り、彼女の両肩を掴んで彼女を後ろに突き倒した。
抵抗はなかった。
彼女は尻餅をついた。
ただただ驚いた顔をしていた。
そのまま立ち上がって走って逃げるべきだったのかもしれない。
しかし私は見てしまった。
彼女の胸の辺りに浮いている青いボールの中央に、さっきは存在しなかった、目玉のようなものが浮かんでいるのを。
それがぎょろりとこちらを向いた。
私はもうそれで凍りついて、立てなくなってしまった。
「ああ……あー……うん」と彼女が呻いた。
私は彼女の顔を見た。
その短い時間に、そこには様々な表情が立ち現れては消えた。
それから彼女は、優しい、疲れたような目でゆっくりと私を見た。
ほとんど別人のようだった。
「懐かしいな。こんな風だったんだ」と彼女は言った。
私はこけしのように黙りこくっていた。
「うん、そんなこと言われても分からないよね」
私はそれこそ何が何だか分からないまま、曖昧に頷いた。
彼女はそれを見て口元を綻ばせた。
「とにかく……良いよ。もう良い。分かったから」と彼女は言った。
「……何がだよ」と私は言った。
「初めて喋ったね。もちろん全部だよ、鬼人正邪」と彼女は言った。
私はびっくりして目を見開いた。
彼女は少し顔をしかめて、でもくすくすと笑った。
「そう、これなんだよね……その表情を見るのが楽しめるかどうか。私にはそれが少し辛かったんだ」と彼女は言った。
次の瞬間、彼女の白い十本の指が私の喉に絡みついた。
突然のことで、避けようとすることさえできなかった。
彼女の手首を掴んで力を込めたが何の意味もなかった。
両肩に土の感触。
私はもうほとんど諦めていた。
この数分のうちに彼女の身に何が起こったのか分からないが、とにかく、今の彼女ならば、私を殺しまではしないだろうという妙な安心感があった。
血が回らなくなって、少しずつ薄れていく意識の中で、私は彼女の顔を見た。
彼女は微笑んでさえいた。
「そうだよ。殺しまではしないよ。……ああ、でも、懐かしいな、本当に。こんな気持ちになるだなんてね」と彼女は言った。
喉を絞める手に一層力が加わった。
「だから、これで許してあげる。一番嫌な記憶は思い出さなくて良いよ」と彼女は言った。
私の意識はそこで途切れた。
§
ひどい喉の渇きに目が覚めた。
起き上がろうとしたが、身体の節々が痛くて上手く力が入らなかった。
どうしようか迷った挙句、右肘を支点にして、転がるように身体を起こした。
地底湖が目に飛び込んできた。
それは今の私には文字通り宝石のように輝いて見えた。
全部飲み干してやりたいぐらい愛しく思えた。
私は這うようにしてそちらに近づいていった。
両手ですくって、水を一口。
……ああ、甘い。
なんだか、泣いてしまいそうだ。
次の瞬間、口の中の傷に水が沁みて、痛くて本当に泣きそうになった。
少し考える余裕が出来た。
地底湖は橋守のいる橋の下を流れる川が注いでいるところで、あの屋敷からはずいぶん離れているはずだ。
気を失っている私をわざわざここまで運んできたということか。
意図がよく分からないが、まったくもってご苦労なことだ。
それにしても、ひどい目に遭わされた。
身体中がずきずきと痛んでいる。
湖面にうつる顔も赤く青く腫れ上がっていてなかなか凄まじい。
私はしばらくそうして敗北の感傷に浸っていた。
やがて、私は痛みに呻きながら立ち上がった。
とにかく動き続けていなければならない。
動いている間は自分にうんざりしなくて済む。
自分で自分にうんざりしていたらそれは自分じゃない。
帰るべき場所を持たないことよりも、誰にも相手にされないことよりも、愛されないことよりも、私にはそれが一番辛い。
立ち上がるとき、私は服の懐のところに異物を感じた。
スイッチを押された爆弾だったらまずいな、と一瞬思ったけれど、起きてからとっくに五分は経っているのでそれはないはずだとも思った。
私は懐に手を突っ込んだ。
そこに入っていたのは白くて平たい小石だった。
黒い下手くそな字で、「おとといおいで」と書かれていた。
鼻を鳴らして手の中で転がすと、裏側にも字が書かれているのを見つけた。
「またおいで」
辺りに誰もいないのを確認してから、私はそれをしげしげと見た。
時々裏返して、二つの言葉を頭の中で転がして味わった。
不思議な気持ちだった。
ややあって、私は右手で小石を握りなおした。
左足を上げて、腰を捻って、溜めを作る。
全身が軋み、傷が悲鳴をあげた。
左足を踏み出し、スナップを利かせて腰の辺りの高さで横向きに右腕を振り、それを投げた。
三回湖面で跳ねて、小石は湖の中に沈んでいった。
石が触れたところから水の波紋が伝って、足元近くまでやってくるのを私は見ていた。
それから不意に笑いがこみ上げてきた。
可笑しくてたまらなくて、げらげらと腹を押さえて笑った。
そんなに笑ったのは久しぶりだった。
笑うのに疲れると、一つ舌打ちをして踵を返し、鳥獣伎楽を歌いながら湖の縁を歩き出した。
湖に注ぐ川の流れをゆっくりとさかのぼって、私は橋を目指した。
今度のもとても素敵でした。
面白かったです。
どうしたってこの動かすのがむつかしいこの二人をこうも馴染ませるのは素晴らしいと思った
とても面白かった!
面白かったです。
東方キャラの可愛さは「嘘」のない生き方を貫く純粋さと力強さだと思っている。
だからみな可愛い。
敗北すると言うことに慣れきっている精神性が痛々しくも、またそれに惹かれて止まない自分がいる。
鬱屈した文学的な、ひねくれ曲がった魅力を感じる。