「チルノちゃん! お願い返事をして!」
血煙の様に紅い夕陽の差す、霧の湖。
大の字になって倒れるチルノに対し、大妖精が縋る様に、叫ぶ様に、何度もその名を呼んでいる。
普段であれば明るい妖精の笑い声が響く湖畔は、まるで生物など存在しないかの様に、冷たい静寂に包まれていた。
昨日までスケートで遊べた湖面の氷は、細かく砕かれ、流氷の様に悲しげに漂っている。
辺りの様子を見るに、つい先程ここで弾幕ごっこの勝負があった様だ。
「……聴こえてるよ大ちゃん。へへっ、あたいとした事が、とんだヘマしちまったみたいね」
「っ! よかった……」
大妖精が涙に濡れた顔を拭おうともせずに、チルノを強く、強く、抱き絞める。
チルノは突然の抱擁に驚きつつも、それに応える様に、力一杯大妖精の肩を押す。口をパクパクと動かし、耳を紅く染め、顔を赤から黒へと変色させていく。
傷付いたチルノを発見した大妖精の狼狽え様は、目も当てられない程に酷かった。
一回休みの概念も忘れ、急いでチルノに駆け寄ると、うつ伏せに倒れたチルノの身体を、見栄えが悪いと大の字に直した。
「……大ちゃんの字……ぷっ」
次に、泥で汚れた顔が気になった。ハンカチで拭こうと思ったが、持っていなかったので家まで取りに帰った。
あまりのショックでテレポートが出来る事を忘れていたので、全力で走った。それはあまりに速く、彼の大妖怪、風見幽香に勝るとも劣らないスピードだった。
ハンカチを片手に、再び大妖精は走った。ハンカチを濡らす為に、霧の湖へと走った。
だが、湖面は見事に凍りついていた。そんな不測の事態にも、大妖精は挫けない。素早く、氷の点穴目掛けてクナイを放つと、湖面の氷は見事に爆散した。
濡れたハンカチを片手に、チルノの元へ戻った。
「チルノちゃん。ちゃんと綺麗にしないと、あっちに逝った時に映姫様に笑われちゃうよ」
どこまでも優しく、そっと囁き掛け、チルノの顔を拭く。
「んっ……」とチルノが小さな呻き声を漏らすと、驚きのあまり鳩尾目掛けて正拳突きを打ち込んだ。
衝撃の後、パン、と乾いた音が響く。チルノの吐いた血反吐が、夕陽を一段と深い紅に染めた。
「……はっ、私は一体何をして……チルノちゃん! どうしてこんな怪我を!」
とにかく、大妖精は大いに狼狽えていた。
「だ……ちゃ、ぎぶ」
「ダメ、ギブアップなんてないの」
「も……ム……」
チルノの両腕から力が抜け、だらりと全体重を大妖精へ預ける。
ずしりとした重みを感じ、大妖精が腕の力を緩める。
「あれ? ふふっ、チルノちゃんったら安心して寝ちゃったのかな?」
チルノの肺が生を謳歌する様に、弱弱しく、だが、確実に酸素を取り込んでいく。心臓の鼓動が全身に酸素を運んでいく。
安らかな寝顔に、漸く自然な紅さが戻ってきた。
「もう、子供なんだから……お外で寝てたら風邪引いちゃうし、家に帰ろっか」
大妖精はおもむろにチルノの脇と膝に手を差し入れると、よいしょっ、と可愛らしい声を出して抱き上げる。所謂お姫様抱っこの形だ。
「なんだかお姫様と王子様みたいだね」
大妖精は一人、照れた様に笑う。
早くベッドで寝かせてあげようと、優しい大妖精は家路を急いだ。
◆
「ばいばい小町……あれ、ここは?」
「おはよう、チルノちゃん。よく眠れた?」
「うん、なんか沢山寝れた気がする!」
チルノは大妖精のベッドから起き上がると、眠い目を擦りながら大妖精に応える。
ベッドはふかふか、部屋は暖かく、チルノの身体が冷えない様にと、暖炉には大量の薪がくべられている。
所々に大妖精の気遣いが感じられ、チルノは少し照れ臭そうに、玉の様に流れる汗を拭う。
「……大ちゃん。ちょっと暑い、と言うか熱いんだけど。窓開けていい?」
「いいよ、今開けるね」
開かれた窓から心地良い冷気が流れ込んでくる。
チルノは這う様に窓際に近付くと、全身でその恩恵を感じる。数分ほど深呼吸を繰り返し、漸く汗が止まった。
「あぁ、あたい、生きてる!」
「チルノちゃんったら大げさなんだから」
愛らしい微笑みを崩さぬまま、大妖精はチルノの柔らかな頬に向けて、音もなく指突を放つ。しかし、紙一重で避けられ、伸ばした人差し指が無様にチルノの眼前へと晒された。
交わされる視線。一瞬の空白の後、チルノが口を開く。
「大ちゃん目が諏訪ってるよ? 祟り神にでもなるの?」
「もー酷いよチルノちゃん。ちょっと寝不足なだけ!」
「なんだそっかぁ。徹夜で何かしてたの?」
「うん、室温を上げる為に薪をくべたり、薪を割ったりしてたんだよ」
こうやって、と大妖精が指で薪を一突きすると、綺麗に真っ二つに割れた。
思わず歓声を上げそうなったチルノを手で制すと、割れた薪を元の様に合わせ、チルノに手渡す。
「え、これ本当にさっき割ったやつ? 全然離れないし」
「戻し割っていうの。無縁塚で拾った本に書いてあってね、がんばって練習したの!」
「すげぇ……」
チルノは大妖精の真似をしてみるが、突き指をしただけで薪には傷一つ付かない。
チルノは涙目になって指をしゃぶる。氷精の口は冷たい、突き指は冷やすのが一番だ。
大妖精は「是である」といった風に、深く頷いて見せる。
「そういえば、なんであんな所で倒れてたの?」
「……そうだ、あたいは弾幕ごっこに負けて」
「ねぇ、チルノちゃん。相手は誰?」
「ま……ぁ」
「ねぇ、誰?」
「……あたい行かなきゃ!」
「待って、チルノちゃん!」
窓から飛び出そうとするチルノの小指を、大妖精がそっと握り込む。骨が軋み、小指はピクリとも動かない。大妖精の大胆な行動に、チルノも思わず動きを止める。
チルノは自身の鼓動の高まりを感じた。呼吸は浅く、手にはうっすらと汗が滲み始める。
「『ま』の付く人ね。分かったよ、チルノちゃん」
「大ちゃんストップ! 魔理沙だよ、魔理沙!」
「わかった。魔理沙さんね」
「あ……あたいがリベンジするんだから、大ちゃんは手を出さないで!」
「そう言って、また傷付いて……わたし、もう嫌なの!」
「大丈夫! きっと次は勝てる!」
「……どうやって?」
どうやって? そんな事考えてなかった。
大妖精の問いに、チルノの水色の脳細胞が動き出す。
中途半端な答えはダメだ、どうすれば勝てるか。
魔理沙は弾幕はパワーだって言ってた。でもあたいは違うと思う。えーっと重力は……あれ、何だっけ?
(チルノちゃん、それって柔よく剛を制すの事?)
そう。たぶん柔らかい方が強いって事。つまり豆腐が最強って事ね!
(つまり弾幕はブレインって事ね)
そう。あとは紫みたいに難しい言葉を使えばいいのよ! 例えば……
「……まずは、こうやって両手を真横に広げます」
「うん、それで?」
「聖者は十字架に磔られました!」
「……」
「聖者は十字架に磔られました!」
「……はっ! 流石チルノちゃん、それならきっと魔理沙さんも倒せるね!」
天の声に助けられながら、チルノはついに答えを導き出した。大妖精が万歳をして、チルノの完璧な答えを称賛する。
天才チルノと可愛い大妖精、二人掛かりでも意味の分からない『聖者は十字架に磔られました』なら、普通の魔法使いなんて楽にやっつけられるだろう。
いや、もしかしたら『せ』で勝負は着いてしまうかもしれないね、と二人は手を取り笑い合う。
「これで完璧ね! それじゃ、あたい行ってくるから!」
「ダメ、ちゃんと練習してから行かないと」
「……誰と?」
「わたしと」
大妖精が言葉を言い終わらない内に、チルノは全速力で窓から飛び出す。まぁそんなに速くはない。精々某鴉天狗に並ぶくらいか。
高く飛んではいけない。鬱蒼と生い茂る木々を避けながら、チルノは森を駆け抜ける。
周囲に大妖精の気配はない。が、チルノは安心はできない。せめて、冷気に満たされた霧の湖まで辿り着ければ、もしもの時の対策が取れるかもしれない。
夢中で駆けていたチルノの視界が、不意に開かれる。いつの間にか霧の湖に到着していたようだ。
満月に照らされた湖。流氷に光が乱反射し、怪しく輝いている。
「着いた……あたい、やったよ!」
「ふふっ、やる気いっぱいだね。チルノちゃん」
「大……ちゃん?」
チルノの背後から、静かに大妖精の声が響く。片手を口に添え、くすくすと笑っていた。
肩で息をするチルノとは対照的に、大妖精には一切の疲れが見えない。
「テレポート……」
「チルノちゃん。始めよっか」
「くそっ、来い! 大ちゃん」
「じゃあ、ルナティックからね。行くよー!」
「へ?」
大妖精の声に応える様に、周囲に半透明のカードが出現する。踊る様に大妖精の周囲を旋回し、キラキラと月光を受けて輝いている。
呆気にとられるチルノをよそに、大妖精が全方位に向け、放射状に緑色のクナイを投影した。
チルノは慌てて横に飛び、クナイを避けるが、依然として大妖精の猛攻は止まらない。死角から死角へと移動し、死を呼ぶ緑の切っ先をチルノに向ける。
「凄いね、チルノちゃん。でも、次はどうかなっ」
「氷弾!?」
振り向いたチルノは、自分の目を疑った。大妖精が冷気を操り、大量の氷を生み出していたのだ。
動きに精彩を欠いたチルノに、圧倒的な物量の弾幕が迫る。チルノは左腕を犠牲に、何とか致命傷だけは避ける事が出来たが、既に満身創痍だ。
「っ……なんで大ちゃんが氷弾を……」
「へぇ、そんな事考える余裕があるんだ。ほら、もう一回いくよ。よく見て、大きく動くとまた当たっちゃうよ」
愉悦に顔を歪ませ、幼子を諭す様に大妖精が言葉を紡ぐ。
再び眼前に迫る冷気の塊を、チルノは睨む様に見つめる。今度は冷静に、限られた隙間を縫う様に、最小限の動きで避けていく。
カリカリカリカリ……
弾幕の擦れる音か、心で鳴る警笛か、嫌な音が耳に響く。しかし、避け切る事が出来た。
周囲が冷気に満たされ、徐々にチルノの体力が回復していく。
「そう、それでいいんだよ。でもチルノちゃんも撃ち返さないと」
「もうお遊びはおわり! あたいの本気を見せてやるわ!」
「それじゃ、わたしも本気出さなきゃね」
すっかり傷の癒えたチルノを警戒する様子もなく、透明のカードを手に大妖精は言い放つ。
一枚、二枚とカードが砕け、神秘的な光が大妖精の身体を包み込む。呆然とその光景に目を奪われていたチルノに、不意に暴力的な熱風が襲いかかる。
チルノは冷気をバリアの様にしてその身を守る。ほんの数秒程度の出来事が、永遠にも感じられた。
唐突に熱風が止むと、今度は強烈な冷気に晒される。チルノは天の助けとばかりに、バリアで消費した冷気を取り込む。
「くそっ、一体何がどうなって……」
――狂おしい――
「えっ?」
「お待たせチルノちゃん。今度は避けてるだけじゃダメ。ちゃんと考えて動かないと、どうなるか分からないよ」
急激な温度差によって生じた霧の中から、一回り成長した大妖精が現れる。透明な羽は翼と呼べる程に大きく、その瞳は漆黒に染まっている。身体的特徴も然る事ながら、チルノは彼女の纏うオーラに気圧されていた。
力の顕現であるかの様に濃密で、不思議な暖かさを感じる、白金に輝く光。
長い時間を一緒に過ごして来たのに、こんな大妖精を、チルノは知らなかった。初めてみる見る大妖精の姿に思考が追い付かず、その場から動けなくなる。
「……気を付けてね」
大妖精が掌を天に向けると、再び強烈な熱気がチルノを襲う。反射的に冷気のバリアを張り、目を瞑って耐える。しかし、すぐに違和感を覚えた、
キリリリリ……
何かが凍る音がする。それに、不思議と熱さを感じない。チルノが恐る恐る目を開くと、大量の弾幕が目の前で凍りついていた。
パキリと砕けた氷塊の先で、大妖精が優しく微笑んでいる。
「すごい! 流石チルノちゃんだね!」
「あ、当たり前じゃない! あたいはさいきょーなんだから!」
「じゃ、もう一回。ちゃんと凍らせてね」
チルノの良く知る、どこか幼さの残る大妖精の笑顔だった。少し照れた様に、小首を傾げて、はにかむ様に笑う。思考の外でチルノは理解し、納得した。
――あぁ、大ちゃんだ
不思議と力が沸いてくるのを、チルノは感じていた。少し見た目は違うけど、いつも通りの大妖精との弾幕ごっこ。もう、チルノに戸惑いはない。
「何回だって凍らせてやるわ!」
「なら、遠慮なくっ!」
大妖精が半透明の翼を大きく羽ばたかせ、氷弾を展開する。銀色に輝く弾幕の翼が、優しく包み込む様にチルノを死へと誘う。
それを時に凍らせ、避け、撃ち返す。拮抗しているかに見えた形勢は、確実にチルノへと傾き始めていた。
激しい弾幕の応酬の末、湖上は二人の放つ冷気に包まれる。わかさぎ姫も「私の出番これだけ?」と苦悶の表情を浮かべ凍りついていた。
「っしゃあ! 調子が出て来たわ!」
「これが最後の弾幕だよ! 炎弾は凍らない、気を付けて!」
「ふんっ、あたいは仲人泣かせのチルノ! どんな縁談だって凍りつかせてやるわ!」
自信満々に身構えるチルノを嘲笑うかの様に、凄まじい熱量をもつ火球が放たれる。多量の氷弾に混じり、しかし互いに干渉する事無く、決して凍る事のない炎弾がチルノを襲う。
硬直したチルノのすぐ脇を、意志を持っているかの様に炎弾がすり抜けていく。チリチリと衣服を焦がし、チルノのやる気を削る。
「だから気を付けてって言ったのに……」
「くっ、お見合いと思わせて炎弾を撃つなんて……流石は大ちゃん、策士ね!」
「……そうだね、騙す様な事言ってごめんね」
「大丈夫! あたいは気にしないから!」
「チルノちゃんは優しいね……よし、これがホントの最後の一波だよ!」
大妖精の翼から放たれる、氷と炎の弾幕。包み込む様に銀の翼が輝き、一瞬遅れて炎の幕が降ろされる。少しでも判断を誤れば、その瞬間、弾幕の波に飲み込まれる事になるだろう。
弾幕の動きを予想し、チルノは両手に冷気を込める。氷弾の隙間を抜け、一瞬で大妖精との距離を詰める。チルノを中心に弾幕が凍りつき、標的を見失った炎弾が湖面へと吸い込まれていく。
チルノは頭の中で、ゆっくりと、五を数える。
……いち……にい……あたい……よん……ご!
氷塊が砕け散り、無防備な大妖精が目の前に現れた。両手を広げ、弾幕を抜け切ったチルノを称える様に、優しい笑顔を見せる。
チルノもそれに応える様に両手を広げ、大妖精に向かって一歩進み出る。
「おめでとう! チルノちゃ……」
「聖者は十字架に磔られました!」
「……」
「聖者は十字架に磔られました!」
「……はっ! 流石チルノちゃん、もう私の完敗だよ!」
「えへへ、そうでしょー!」
「ふふふっ、チルノちゃんったら」
死線を越え、ついにチルノはやり遂げたのだ。大妖精のスパルタ弾幕特訓を!
大量の弾幕を凍らせ、氷塊を生み出し、チルノは確実に強くなっていた。それに加えて、狂気の必殺技まで会得できたのだ。
もはや幻想郷に敵なしと、チルノと大妖精はワルツを踊って喜びを表現する。
「チルノちゃん、これならきっと勝てるよ!」
「うん! あたい、行ってくるね!」
「待って!」
飛び出そうとするチルノをそっと抱き寄せ、大妖精は緑色のカードを差し出す。
「大ちゃん、これは?」
「『B』だよ。きっと役に立つはずだから」
「大ちゃん……ありがとう!」
チルノは涙した。大妖精の優しさに。その涙を大妖精が濡れたハンカチで拭う。
チルノは『B』をポケットに押し込み、リベンジに向け魔理沙の元へと駆け出した。
◆
魔法の森の上空。チルノと魔理沙が睨み合い、今にも弾幕ごっこが始まろうとしている。
大妖精も木の上で不安げに、しかし勝利を確信した目でチルノを見つめている。
「魔理沙! 行くわよ!」
「おう、どっからでも掛かって来い!」
チルノはニヤリと不敵に笑うと、両手を真横に伸ばす。大きく息を吸い込み、魔法の言葉が紡がれる。
「聖者は十字架に磔られました!」
「人類は十進法を採用しました、って見えるな」
「なん……だと?」
魔理沙のマスタースパークを正面から受け、チルノは魔法の森へ墜落した。
何故負けたのか。傷付いたチルノも、呆然とする大妖精にも分からない。
最強である筈の『聖者は十字架に磔られました』を破った『人類は十進法を採用しました』とは何なのか。
謎が謎を呼ぶ。チルノも大妖精も、驚き戸惑っている。
血煙の様に紅い夕陽の差す、霧の湖。
大の字になって倒れるチルノに対し、大妖精が縋る様に、叫ぶ様に、何度もその名を呼んでいる。
普段であれば明るい妖精の笑い声が響く湖畔は、まるで生物など存在しないかの様に、冷たい静寂に包まれていた。
昨日までスケートで遊べた湖面の氷は、細かく砕かれ、流氷の様に悲しげに漂っている。
辺りの様子を見るに、つい先程ここで弾幕ごっこの勝負があった様だ。
「……聴こえてるよ大ちゃん。へへっ、あたいとした事が、とんだヘマしちまったみたいね」
「っ! よかった……」
大妖精が涙に濡れた顔を拭おうともせずに、チルノを強く、強く、抱き絞める。
チルノは突然の抱擁に驚きつつも、それに応える様に、力一杯大妖精の肩を押す。口をパクパクと動かし、耳を紅く染め、顔を赤から黒へと変色させていく。
傷付いたチルノを発見した大妖精の狼狽え様は、目も当てられない程に酷かった。
一回休みの概念も忘れ、急いでチルノに駆け寄ると、うつ伏せに倒れたチルノの身体を、見栄えが悪いと大の字に直した。
「……大ちゃんの字……ぷっ」
次に、泥で汚れた顔が気になった。ハンカチで拭こうと思ったが、持っていなかったので家まで取りに帰った。
あまりのショックでテレポートが出来る事を忘れていたので、全力で走った。それはあまりに速く、彼の大妖怪、風見幽香に勝るとも劣らないスピードだった。
ハンカチを片手に、再び大妖精は走った。ハンカチを濡らす為に、霧の湖へと走った。
だが、湖面は見事に凍りついていた。そんな不測の事態にも、大妖精は挫けない。素早く、氷の点穴目掛けてクナイを放つと、湖面の氷は見事に爆散した。
濡れたハンカチを片手に、チルノの元へ戻った。
「チルノちゃん。ちゃんと綺麗にしないと、あっちに逝った時に映姫様に笑われちゃうよ」
どこまでも優しく、そっと囁き掛け、チルノの顔を拭く。
「んっ……」とチルノが小さな呻き声を漏らすと、驚きのあまり鳩尾目掛けて正拳突きを打ち込んだ。
衝撃の後、パン、と乾いた音が響く。チルノの吐いた血反吐が、夕陽を一段と深い紅に染めた。
「……はっ、私は一体何をして……チルノちゃん! どうしてこんな怪我を!」
とにかく、大妖精は大いに狼狽えていた。
「だ……ちゃ、ぎぶ」
「ダメ、ギブアップなんてないの」
「も……ム……」
チルノの両腕から力が抜け、だらりと全体重を大妖精へ預ける。
ずしりとした重みを感じ、大妖精が腕の力を緩める。
「あれ? ふふっ、チルノちゃんったら安心して寝ちゃったのかな?」
チルノの肺が生を謳歌する様に、弱弱しく、だが、確実に酸素を取り込んでいく。心臓の鼓動が全身に酸素を運んでいく。
安らかな寝顔に、漸く自然な紅さが戻ってきた。
「もう、子供なんだから……お外で寝てたら風邪引いちゃうし、家に帰ろっか」
大妖精はおもむろにチルノの脇と膝に手を差し入れると、よいしょっ、と可愛らしい声を出して抱き上げる。所謂お姫様抱っこの形だ。
「なんだかお姫様と王子様みたいだね」
大妖精は一人、照れた様に笑う。
早くベッドで寝かせてあげようと、優しい大妖精は家路を急いだ。
◆
「ばいばい小町……あれ、ここは?」
「おはよう、チルノちゃん。よく眠れた?」
「うん、なんか沢山寝れた気がする!」
チルノは大妖精のベッドから起き上がると、眠い目を擦りながら大妖精に応える。
ベッドはふかふか、部屋は暖かく、チルノの身体が冷えない様にと、暖炉には大量の薪がくべられている。
所々に大妖精の気遣いが感じられ、チルノは少し照れ臭そうに、玉の様に流れる汗を拭う。
「……大ちゃん。ちょっと暑い、と言うか熱いんだけど。窓開けていい?」
「いいよ、今開けるね」
開かれた窓から心地良い冷気が流れ込んでくる。
チルノは這う様に窓際に近付くと、全身でその恩恵を感じる。数分ほど深呼吸を繰り返し、漸く汗が止まった。
「あぁ、あたい、生きてる!」
「チルノちゃんったら大げさなんだから」
愛らしい微笑みを崩さぬまま、大妖精はチルノの柔らかな頬に向けて、音もなく指突を放つ。しかし、紙一重で避けられ、伸ばした人差し指が無様にチルノの眼前へと晒された。
交わされる視線。一瞬の空白の後、チルノが口を開く。
「大ちゃん目が諏訪ってるよ? 祟り神にでもなるの?」
「もー酷いよチルノちゃん。ちょっと寝不足なだけ!」
「なんだそっかぁ。徹夜で何かしてたの?」
「うん、室温を上げる為に薪をくべたり、薪を割ったりしてたんだよ」
こうやって、と大妖精が指で薪を一突きすると、綺麗に真っ二つに割れた。
思わず歓声を上げそうなったチルノを手で制すと、割れた薪を元の様に合わせ、チルノに手渡す。
「え、これ本当にさっき割ったやつ? 全然離れないし」
「戻し割っていうの。無縁塚で拾った本に書いてあってね、がんばって練習したの!」
「すげぇ……」
チルノは大妖精の真似をしてみるが、突き指をしただけで薪には傷一つ付かない。
チルノは涙目になって指をしゃぶる。氷精の口は冷たい、突き指は冷やすのが一番だ。
大妖精は「是である」といった風に、深く頷いて見せる。
「そういえば、なんであんな所で倒れてたの?」
「……そうだ、あたいは弾幕ごっこに負けて」
「ねぇ、チルノちゃん。相手は誰?」
「ま……ぁ」
「ねぇ、誰?」
「……あたい行かなきゃ!」
「待って、チルノちゃん!」
窓から飛び出そうとするチルノの小指を、大妖精がそっと握り込む。骨が軋み、小指はピクリとも動かない。大妖精の大胆な行動に、チルノも思わず動きを止める。
チルノは自身の鼓動の高まりを感じた。呼吸は浅く、手にはうっすらと汗が滲み始める。
「『ま』の付く人ね。分かったよ、チルノちゃん」
「大ちゃんストップ! 魔理沙だよ、魔理沙!」
「わかった。魔理沙さんね」
「あ……あたいがリベンジするんだから、大ちゃんは手を出さないで!」
「そう言って、また傷付いて……わたし、もう嫌なの!」
「大丈夫! きっと次は勝てる!」
「……どうやって?」
どうやって? そんな事考えてなかった。
大妖精の問いに、チルノの水色の脳細胞が動き出す。
中途半端な答えはダメだ、どうすれば勝てるか。
魔理沙は弾幕はパワーだって言ってた。でもあたいは違うと思う。えーっと重力は……あれ、何だっけ?
(チルノちゃん、それって柔よく剛を制すの事?)
そう。たぶん柔らかい方が強いって事。つまり豆腐が最強って事ね!
(つまり弾幕はブレインって事ね)
そう。あとは紫みたいに難しい言葉を使えばいいのよ! 例えば……
「……まずは、こうやって両手を真横に広げます」
「うん、それで?」
「聖者は十字架に磔られました!」
「……」
「聖者は十字架に磔られました!」
「……はっ! 流石チルノちゃん、それならきっと魔理沙さんも倒せるね!」
天の声に助けられながら、チルノはついに答えを導き出した。大妖精が万歳をして、チルノの完璧な答えを称賛する。
天才チルノと可愛い大妖精、二人掛かりでも意味の分からない『聖者は十字架に磔られました』なら、普通の魔法使いなんて楽にやっつけられるだろう。
いや、もしかしたら『せ』で勝負は着いてしまうかもしれないね、と二人は手を取り笑い合う。
「これで完璧ね! それじゃ、あたい行ってくるから!」
「ダメ、ちゃんと練習してから行かないと」
「……誰と?」
「わたしと」
大妖精が言葉を言い終わらない内に、チルノは全速力で窓から飛び出す。まぁそんなに速くはない。精々某鴉天狗に並ぶくらいか。
高く飛んではいけない。鬱蒼と生い茂る木々を避けながら、チルノは森を駆け抜ける。
周囲に大妖精の気配はない。が、チルノは安心はできない。せめて、冷気に満たされた霧の湖まで辿り着ければ、もしもの時の対策が取れるかもしれない。
夢中で駆けていたチルノの視界が、不意に開かれる。いつの間にか霧の湖に到着していたようだ。
満月に照らされた湖。流氷に光が乱反射し、怪しく輝いている。
「着いた……あたい、やったよ!」
「ふふっ、やる気いっぱいだね。チルノちゃん」
「大……ちゃん?」
チルノの背後から、静かに大妖精の声が響く。片手を口に添え、くすくすと笑っていた。
肩で息をするチルノとは対照的に、大妖精には一切の疲れが見えない。
「テレポート……」
「チルノちゃん。始めよっか」
「くそっ、来い! 大ちゃん」
「じゃあ、ルナティックからね。行くよー!」
「へ?」
大妖精の声に応える様に、周囲に半透明のカードが出現する。踊る様に大妖精の周囲を旋回し、キラキラと月光を受けて輝いている。
呆気にとられるチルノをよそに、大妖精が全方位に向け、放射状に緑色のクナイを投影した。
チルノは慌てて横に飛び、クナイを避けるが、依然として大妖精の猛攻は止まらない。死角から死角へと移動し、死を呼ぶ緑の切っ先をチルノに向ける。
「凄いね、チルノちゃん。でも、次はどうかなっ」
「氷弾!?」
振り向いたチルノは、自分の目を疑った。大妖精が冷気を操り、大量の氷を生み出していたのだ。
動きに精彩を欠いたチルノに、圧倒的な物量の弾幕が迫る。チルノは左腕を犠牲に、何とか致命傷だけは避ける事が出来たが、既に満身創痍だ。
「っ……なんで大ちゃんが氷弾を……」
「へぇ、そんな事考える余裕があるんだ。ほら、もう一回いくよ。よく見て、大きく動くとまた当たっちゃうよ」
愉悦に顔を歪ませ、幼子を諭す様に大妖精が言葉を紡ぐ。
再び眼前に迫る冷気の塊を、チルノは睨む様に見つめる。今度は冷静に、限られた隙間を縫う様に、最小限の動きで避けていく。
カリカリカリカリ……
弾幕の擦れる音か、心で鳴る警笛か、嫌な音が耳に響く。しかし、避け切る事が出来た。
周囲が冷気に満たされ、徐々にチルノの体力が回復していく。
「そう、それでいいんだよ。でもチルノちゃんも撃ち返さないと」
「もうお遊びはおわり! あたいの本気を見せてやるわ!」
「それじゃ、わたしも本気出さなきゃね」
すっかり傷の癒えたチルノを警戒する様子もなく、透明のカードを手に大妖精は言い放つ。
一枚、二枚とカードが砕け、神秘的な光が大妖精の身体を包み込む。呆然とその光景に目を奪われていたチルノに、不意に暴力的な熱風が襲いかかる。
チルノは冷気をバリアの様にしてその身を守る。ほんの数秒程度の出来事が、永遠にも感じられた。
唐突に熱風が止むと、今度は強烈な冷気に晒される。チルノは天の助けとばかりに、バリアで消費した冷気を取り込む。
「くそっ、一体何がどうなって……」
――狂おしい――
「えっ?」
「お待たせチルノちゃん。今度は避けてるだけじゃダメ。ちゃんと考えて動かないと、どうなるか分からないよ」
急激な温度差によって生じた霧の中から、一回り成長した大妖精が現れる。透明な羽は翼と呼べる程に大きく、その瞳は漆黒に染まっている。身体的特徴も然る事ながら、チルノは彼女の纏うオーラに気圧されていた。
力の顕現であるかの様に濃密で、不思議な暖かさを感じる、白金に輝く光。
長い時間を一緒に過ごして来たのに、こんな大妖精を、チルノは知らなかった。初めてみる見る大妖精の姿に思考が追い付かず、その場から動けなくなる。
「……気を付けてね」
大妖精が掌を天に向けると、再び強烈な熱気がチルノを襲う。反射的に冷気のバリアを張り、目を瞑って耐える。しかし、すぐに違和感を覚えた、
キリリリリ……
何かが凍る音がする。それに、不思議と熱さを感じない。チルノが恐る恐る目を開くと、大量の弾幕が目の前で凍りついていた。
パキリと砕けた氷塊の先で、大妖精が優しく微笑んでいる。
「すごい! 流石チルノちゃんだね!」
「あ、当たり前じゃない! あたいはさいきょーなんだから!」
「じゃ、もう一回。ちゃんと凍らせてね」
チルノの良く知る、どこか幼さの残る大妖精の笑顔だった。少し照れた様に、小首を傾げて、はにかむ様に笑う。思考の外でチルノは理解し、納得した。
――あぁ、大ちゃんだ
不思議と力が沸いてくるのを、チルノは感じていた。少し見た目は違うけど、いつも通りの大妖精との弾幕ごっこ。もう、チルノに戸惑いはない。
「何回だって凍らせてやるわ!」
「なら、遠慮なくっ!」
大妖精が半透明の翼を大きく羽ばたかせ、氷弾を展開する。銀色に輝く弾幕の翼が、優しく包み込む様にチルノを死へと誘う。
それを時に凍らせ、避け、撃ち返す。拮抗しているかに見えた形勢は、確実にチルノへと傾き始めていた。
激しい弾幕の応酬の末、湖上は二人の放つ冷気に包まれる。わかさぎ姫も「私の出番これだけ?」と苦悶の表情を浮かべ凍りついていた。
「っしゃあ! 調子が出て来たわ!」
「これが最後の弾幕だよ! 炎弾は凍らない、気を付けて!」
「ふんっ、あたいは仲人泣かせのチルノ! どんな縁談だって凍りつかせてやるわ!」
自信満々に身構えるチルノを嘲笑うかの様に、凄まじい熱量をもつ火球が放たれる。多量の氷弾に混じり、しかし互いに干渉する事無く、決して凍る事のない炎弾がチルノを襲う。
硬直したチルノのすぐ脇を、意志を持っているかの様に炎弾がすり抜けていく。チリチリと衣服を焦がし、チルノのやる気を削る。
「だから気を付けてって言ったのに……」
「くっ、お見合いと思わせて炎弾を撃つなんて……流石は大ちゃん、策士ね!」
「……そうだね、騙す様な事言ってごめんね」
「大丈夫! あたいは気にしないから!」
「チルノちゃんは優しいね……よし、これがホントの最後の一波だよ!」
大妖精の翼から放たれる、氷と炎の弾幕。包み込む様に銀の翼が輝き、一瞬遅れて炎の幕が降ろされる。少しでも判断を誤れば、その瞬間、弾幕の波に飲み込まれる事になるだろう。
弾幕の動きを予想し、チルノは両手に冷気を込める。氷弾の隙間を抜け、一瞬で大妖精との距離を詰める。チルノを中心に弾幕が凍りつき、標的を見失った炎弾が湖面へと吸い込まれていく。
チルノは頭の中で、ゆっくりと、五を数える。
……いち……にい……あたい……よん……ご!
氷塊が砕け散り、無防備な大妖精が目の前に現れた。両手を広げ、弾幕を抜け切ったチルノを称える様に、優しい笑顔を見せる。
チルノもそれに応える様に両手を広げ、大妖精に向かって一歩進み出る。
「おめでとう! チルノちゃ……」
「聖者は十字架に磔られました!」
「……」
「聖者は十字架に磔られました!」
「……はっ! 流石チルノちゃん、もう私の完敗だよ!」
「えへへ、そうでしょー!」
「ふふふっ、チルノちゃんったら」
死線を越え、ついにチルノはやり遂げたのだ。大妖精のスパルタ弾幕特訓を!
大量の弾幕を凍らせ、氷塊を生み出し、チルノは確実に強くなっていた。それに加えて、狂気の必殺技まで会得できたのだ。
もはや幻想郷に敵なしと、チルノと大妖精はワルツを踊って喜びを表現する。
「チルノちゃん、これならきっと勝てるよ!」
「うん! あたい、行ってくるね!」
「待って!」
飛び出そうとするチルノをそっと抱き寄せ、大妖精は緑色のカードを差し出す。
「大ちゃん、これは?」
「『B』だよ。きっと役に立つはずだから」
「大ちゃん……ありがとう!」
チルノは涙した。大妖精の優しさに。その涙を大妖精が濡れたハンカチで拭う。
チルノは『B』をポケットに押し込み、リベンジに向け魔理沙の元へと駆け出した。
◆
魔法の森の上空。チルノと魔理沙が睨み合い、今にも弾幕ごっこが始まろうとしている。
大妖精も木の上で不安げに、しかし勝利を確信した目でチルノを見つめている。
「魔理沙! 行くわよ!」
「おう、どっからでも掛かって来い!」
チルノはニヤリと不敵に笑うと、両手を真横に伸ばす。大きく息を吸い込み、魔法の言葉が紡がれる。
「聖者は十字架に磔られました!」
「人類は十進法を採用しました、って見えるな」
「なん……だと?」
魔理沙のマスタースパークを正面から受け、チルノは魔法の森へ墜落した。
何故負けたのか。傷付いたチルノも、呆然とする大妖精にも分からない。
最強である筈の『聖者は十字架に磔られました』を破った『人類は十進法を採用しました』とは何なのか。
謎が謎を呼ぶ。チルノも大妖精も、驚き戸惑っている。
最後の落ちも。
チルノめ、映姫の説教を忘れているな…?
あとわかさぎ姫が驚き戸惑いです。