『
序章 演じる事が偽りだというのならこの幻想郷は嘘吐きの生んだ箱庭
「愛すべき隣人の顔すら誰も知らない」
ポール・ディラック賞を受賞した壇上で比較物理学の権威、岡崎夢美は聴衆を睨みながらそう言った。それから半年の間に、この言葉を証明する事件、発見が多数現れた。月面での四次元ポジトロン爆弾の起動や幻想郷の正式な発見等、今まで人類が抱いていた世界の深淵を嘗め尽くしたという安穏が次次に破壊された。
二一〇一年九月十一日、ニューヨークで開かれた国際平和フォーラムで著名な政治家と科学者達が次の様に宣言した。
「神は居る。全知となった我我である」
この宣言から四半世紀も経たない内に、我我は神の座から引きずり降ろされたのである。
世界は嘘で塗り固められている。一つの秘密を暴いたとしても万の秘密が背後に控えている。そんな当たり前の事を二十二世紀初頭のニューヨークピエロ達は忘れていたのだろう。その嘘は個人のレベルでも何ら変わりない。我我はお互いに嘘を吐きながら生きている。そうしてその嘘の全てを見抜く事は出来無い。我我は(百年前の人人がそうであった様に)真っ暗な舞台の上で、書割に何が描かれているかも分からないまま、台本も何も持たずに演技を続けなければならない。足元に張りぼてが落ちているかもしれない。既に建屋が老朽化していてすぐにでも崩れてしまうかもしれない。小道具のナイフが本物の刃物と入れ替わっているかもしれない。実はみんな老人で、程無くして舞台からみんなが消え去るかもしれない。我我はそれ等全てに気付く事が出来無い。人類の滅亡を招く様な危険に、我我は気が付く事すら出来ないのである。
』
その時、私は夢を見ていた。
蓮子は夢じゃないというけれど、私はそれが夢だとしか思えなかった。
夢の中で私は森の入口に立っていた。目の前には紫色の服を着て綺麗な金色の髪をした女性が赤ん坊を抱いて立っていた。私が見つめていると、女性は微笑んで、何か私に頼み事をした、
その夢に音は無くて、その頼み事が何なのか聞き取れなかった。
第一章 夢見る理由を探すなら
二一二〇年七月七日、京都大学吉田キャンパスのそこかしこに願い事をぶら下げた笹の枝が飾られていた。マエリベリー・ハーンはその願いの一つ一つを覗き見ては、ウェーブ掛かった長い金髪を揺らしながら、一一感慨深げに頷いていた。
笹には他愛の無い願い事ばかりが飾られている。世界平和を望む様な中身の無い願いから、幸せになれます様にという漠然とした願い、身近な恋愛を望むこぢんまりとした願いまで。中でも最も数が多く切迫しているのは単位が欲しいという願い事で、キャンパス内の数千から数万の願いの内の、実に四分の一程がそれであるのは、もう期末試験まで一月を切ったからだろう。
マエリベリー・ハーンは幸いにして単位の取りづらいカリキュラムは組んでいないし、友人達の助力によって過去問は全て手に入れてあるので、単位に対する不安は無い。ただ皆が皆そうではなく、中には真剣に単位の取得を神頼んでいる者も居るのだろう。他から見れば下らなかろうと、本人にとってはそれこそ命を懸けてでもと願っている者達が。
「メリー、他人の願いを覗くなんて趣味が悪いよ」
突然腕を引かれてマエリベリー・ハーンは現実に立ち返った。振り返ると友人の宇佐見蓮子が呆れた様な顔をしていた。もう一度手を引かれたので、メリーは願い事観察を止めて、当初の目的通り蓮子の後をついていく。
「蓮子の必修は難しいって聞くけど、蓮子も織姫と彦星に単位のお願いはしたの?」
「まさか。本気でそんな願いをするなら、教授に土下座するわよ。月の兎にようやく手が触れそうなんていう人類が、アルタイルとベガに陳情なんて出来るわけ無いじゃない」
宇佐見蓮子はそう言って、ポケットから端末を取り出し、メリーの目の前に突きつけた。画面には軌道エレベータの建設がいよいよ本格化し始めたと報じられている。月へ降り立つ為の前哨基地となる宇宙ステーションと地球を一本の柱で繋ぐ大事業。映像には太平洋に浮かぶ要塞の様な船の上を数多の作業車が行き交っている。完成予定は二年後の二一二二年。
人類は月へ行く事を望んでいる。
幾ら理論上、科学が極致に達したとはいえ、あくまで机上の話。現実の世界は多くの者達にとって未知に溢れており、月もまたその一つ。常に自分達の頭上にありながら、未だに有人飛行は百年以上前に行ったきりで、それから不自然な程、誰も辿り着けていないのだから。
現代の人人にとって頭上の黄色い真円は永遠の謎なのだ。
「ああ、それ、楽しみよね。結局私達、月面ツアーに参加できなかったし。お金足りなくて」
「足りなくて良かったよ。危なく死ぬところだったんだから」
人類は月へ行く事を望んでいる。
つい二年前、百年ぶりの月面有人着陸が計画された。しかもそれは民間人の参加出来る月面ツアー。人人は色めき立ち、皆がこぞってツアーに応募した。蓮子とメリーもその内の二人だ。高額なツアー参加費を稼ぐ為に二人してバイトをした。けれどそれから二年経った今も誰一人として月面に辿り着けていない。それどころかツアー自体が企画倒れした。
ロケットが原因不明の事故で大破した為だ。
ロケットの発射が開始されてから四日間の間に三十基のロケットが発射され、その全てが月面に辿り着く前に謎の爆発を起こして大破した。当然乗組員は全員死亡。人人の歓喜の声はたったの四日で悲痛な嘆きに変わった。そして以後のツアーは全て中止となった。未だにロケットが爆発した原因は分かっていない。
「軌道エレベータが完成したら今度こそ二人で月に行きましょう」
「それは良いけどさ。大丈夫かな? また何か事故でも起こるんじゃ」
「蓮子は心配性ね。大丈夫よ、絶対」
「何を根拠に」
「だって人の技術は日進月歩だもの。あれから二年経ったんだから刮目して見なくっちゃ。それにもうそろそろ木星探査機がエウロパに着陸する頃よ」
「何の根拠も無いって訳ね」
「前向きに考えていた方が良い事あるわよ」
蓮子は溜息を吐いてから目当ての場所に辿り着いて立ち止まった。
ここは研究棟。その中の一室が目の前にある。ネームプレートには岡崎夢美の文字。日本人でありながらイギリスの理論物理学者に送られるポール・ディラック賞を受賞し、一躍時の人となった大有名人である。丁度昨日イギリスで開かれた授賞式で問題発言を行いまた有名になった。今もまだイギリスに居る筈だ。本当であれば。
蓮子は一つ息を吐くと扉をノックした。
中からは何の反応も返って来ない。
もう一度ノックをする。
けれど幾ら待っても反応が無い。
「やっぱりイギリスに居るんじゃないの?」
「いやここに居る。昨日の夜中コンビニでアンパン買ってた」
蓮子はじっと扉の前で立ち尽くし、中から反応があるのを待ったが、やはり扉が開く気配は無い。
「出てきてくれないか。なら」
蓮子が決意した様子でポケットを漁りだした。
「どうするの?」
「開ける」
「どうやって?」
「触れただけで扉が開く道具があるから」
「え?」
蓮子が小さな銀色の板を取り出してそのまま扉に押し当てた。
かちゃりと鍵の開く音が聞こえ、扉が開く。
その様子を、メリーは口を半開きにして眺めていた。
「何それ、怖い」
「世の中どんどん便利になっていくわね」
「それピッキングっていうんじゃないの?」
「技術の進歩と言ってちょうだい」
扉が開いて、二人は中に踏み込む。
するとそこにイギリスに居る筈の岡崎夢美が立っていた。
裸で。
濡れた髪の毛を拭いていた。
岡崎は髪の毛を拭く手を止めて、放心した様子で闖入者の二人を見つめていたが、やがて大きく口を開けて悲鳴を上げた。
「う、うおわあああ! 何、あんた等!」
慄いている岡崎の前に、蓮子は一歩踏み出す。
「教授の講義に参加している宇佐見蓮子と言います」
「いやいやいや! 何でそんな冷静なのあんた! こっちは風呂あがり! 裸なの!」
「お取り込み中のところ申し訳ありません。ただどうしてもお聞きしたい事があって」
更に蓮子が一歩近寄った瞬間、岡崎の闘争本能に火が付いた。
「だから裸だって言ってんだろ!」
タオルを投げ捨て全裸になった岡崎は隠す事も止めて、蓮子とメリーへ駆け寄るとそのまま二人の首根っこを掴んで、廊下へ放り投げた。二人が壁に激突した時には、凄まじく乱暴に扉が閉められた。
二人が痛みに顔をしかめながら立ち上がる。
「痛た。タイミングが悪かったわね。蓮子、出直しましょう」
メリーが喉を抑えながらそう言った時には、既に蓮子は扉の前でもう一度ピッキングを開始していた。
「メリー、帰って良いよ」
「え?」
「良く考えたら、メリーは居ない方が良い」
「どういう事?」
「良いから、帰って」
呆然としているメリーの前で扉が開き、そのまま蓮子が中に入っていく。メリーには見えない位置から岡崎の叫びが聞こえてきた。
「うげえ! また来やがった! ちょっと待って! 今着替えてるから!」
「教授、お取り込み中のところ申し訳ありません。私、宇佐見蓮子と言います。今日はどうしても教授にお聞きしたい事が」
何だか蓮子の様子が必死なので、メリーは不思議に思う。まさか単位が取れなくて、教授に土下座を? それが恥ずかしいから帰ってって言ったの? でも蓮子がそこまで勉強の事で必死になるなんて。そもそも蓮子は頭が良い。単位を取れないとは思えない。では一体何を聞こうとしているのだろう。何をそんなに必死に。どうして私がいちゃいけないの?
「ちょっと! だから着替えるから! それまでは待ってて! 着替え終わったら聞くから!」
「お願いです、教授! どうしても教えて欲しいんです!」
「だから止め、おい、服を引っ張るな!」
「教授、メリーの、メリーの病気を治してください!」
私の、為?
思わぬ言葉にメリーは唾を飲んだ。
「だから服引っ張んなって言ってんだろうが!」
その瞬間、何だか凄い音が聞こえて、蓮子が吹っ飛んできた。メリーはそれを受け止めようとしてぶつかり、そのまま廊下の壁と蓮子に挟まれて崩れ落ちる。
廊下に倒れたメリーは立ち上がろうとする蓮子に手を伸ばした。
「蓮子」
「メリー! 帰ったんじゃなかったの?」
その時、扉の向こうから岡崎の足音が聞こえた。二人が岡崎を見ると、扉を小さく開けて手招いていた。
「入りなさい」
蓮子とメリーは二人して顔を見合わせ、慌てて立ち上がると岡崎の研究室へ招かれた。
研究室の中は二人が想像しているよりもずっと整頓されていて、何より物が少なかった。大型の研究装置どころか、何の装置も無い。壁を隠す様に本棚が並び蔵書が敷き詰められ、そうして真ん中にテーブルが一つ、部屋の隅にニュースを移すスクリーンが一枚、それと隣の部屋に繋がる扉が一つだけ。後は何も無い。あるいは隣の部屋はもっと研究室らしいのかもしれない。
二人はテーブルへと招かれて、粗末なパイプ椅子に座らされた。テーブルの上の電子ペーパーに文字が書かれていて、気になって読んでみると、夕飯の献立が書かれている。向かいには、教授の岡崎夢美。それからコーヒーを入れ終えた助手のちゆりが四人分のコーヒーをテーブルに置き、そのまま岡崎の隣に座った。
岡崎は幾分苛立った様子でコーヒーに口を付けてから蓮子を睨む。
「そもそも私はイギリスに居る筈だけど、どうしてここに居るって分かったの」
「昨日コンビニでアンパン買ってのを見て」
「コンビニ? 私は昨日外に出て無い筈だけど」
岡崎が訝しげに言ったので、蓮子も同じ様な表情になった。ならば昨日蓮子が見た人物は誰だろう。
するとちゆりが手を挙げた。
「あ、それ、私だぜ。買い出しを頼まれたから」
「私達がここに居る事がばれない様に、変装して外に行けって言わなかった?」
「だから教授の変装をして外に行きました!」
「アホか!」
岡崎が手を振り上げた瞬間、ちゆりが椅子を蹴って飛び退いた。手をすかされた岡崎は溜息を吐いてから、二人に向く。
「で、なんだっけ、病気を治して欲しい?」
「そうです。メリーの病気を治して欲しくて」
蓮子がメリーの背に手を添える。岡崎は頷いて言った。
「それは病院に行ってください」
「駄目なんです」
「そうは言ってもね。私は医者じゃないから」
蓮子はその言葉に頭を振り、しばらく俯いていたが、やがて泣きそうな声を出した。
「駄目なんです。みんな、今の科学で説明出来ないと分かると、夢か幻覚か、精神異常にさせたがる。誰も、誰一人信じてくれないんです!」
「ならどうして私の所に?」
「それは、岡崎教授が非統一魔法世界論を発表したから」
「つまり、魔法が関わっているって事?」
「恐らく」
「良いわ。話してみなさい。その子に起こっている事を」
私は不思議な目を持っていた。人に言えばそんな事かと馬鹿にされるけど、私にとっては大事で不思議な目。どんな場所であろうと月と星を見れば場所と時間を知る事が出来た。自分の立ち位置を知る事が出来た。そんな私が、不思議な目を持つメリーと出会ったのは、何だろう、恥ずかしい言い方をすれば運命だったと思う。
メリーは境界が見えた。物事の境目が見えて、その向こう側の世界を見る事が出来た。メリーは今までその目を信じてもらえなかったみたいだけど、私はそれを信じる事が出来た。私にも不思議な目があったから。大学で出会った私達はすぐに意気投合して、不思議な目を持つ者同士友達になった。
私とメリーの出会いが運命だったと言うのには、もっとはっきりとした根拠があって。私がメリーの目に手を翳すと、私もまた境界の向こう側にある世界を見る事が出来た。他の人がメリーの目に手を翳しても、境界の向こう側を見る事は出来ない。私だけがメリーと一緒に向こう側を見る事が出来た。それがどうしてかはわからない。メリーの目は結局皆から信じてもらえず、私達は嘘吐き呼ばわりされたけど、私は何とも思っていない。私だけが特別になれたんだから。
私はメリーを誘って秘封倶楽部というサークルを立ち上げた。活動内容は境界を探してその向こう側を覗きこむ事。私はメリーを色色な場所に連れ回して、向こう側を幻視した。日常の裏の奇妙な空間を。月の光と共に現れる不思議な世界を。けれどすぐにそれだけでは留まらなくなった。
ある日触れる事の出来なかった境界に触れられる様になった。こじ開けて入り込んでみると、私達は向こう側の世界へと抜けた。誰もいない廃屋、影達の住む古びたビル、化け物達の跋扈する森。そんな現実世界とはずれたおどろおどろしい世界。本当なら恐れるべきなんだろうけど、元元オカルトに憧れていた私とメリーは狂喜した。まだ見ぬ世界、未知の世界を求めて、私達二人のサークルは境界を見つけてはその向こうに飛び込み続けた。
そこまではまだ良かった。その時まではまだメリーの目は制御されていた。けれど使い続ける内に段段とその目の制御が利かなくなっていった。
メリーから異世界の夢を見る様になったと相談された。
夢の中で異世界を歩き回りそして化け物に襲われる。
初めの内はただの夢だろうと気にしていなかった。メリーは夢と現の区別なんてないと言っていたけれどあくまで精神の中での話。現実で見れば、夢は夢だ。ただその夢があまりにも繰り返されるから、何か精神に齟齬でもあるのかとカウンセリングを行う事にした。メリーの夢の話を聞いて、悩みだとか、不安だとか、そういうのを取り除いてあげようと思って。あくまで夢だと疑わずに。
それがただの夢なら良かったのに。
メリーが夢だと思っていたものは夢じゃなかった。
遂には夢の中の物を現実に持ってき始めた。石ころや木切れ、果ては地球上にありえない未知の病原体。
メリーが夢だと思っていたのは夢じゃない。実際は、境界を見る能力を使って、気が付かぬ内に向こうの世界に行ってしまっていたのよ。
メリーは向こう側へ行くだけじゃなく、向こう側の影響まで受けだした。
遂にはどちらの世界が夢で現実なのか分からないとまで言い始めた。
このままこちらの世界を夢だと思い、向こうの世界を現実だと信じ込めば、向こうの世界から戻ってこれなくなる。
それで私はどうしようかと方策を練った。方法は二つ。一つは嘘を吐く事。あくまで向こうの世界を夢だと信じこませ、こちら側の世界の主導権を失わせない事。そうすれば少なくとも向こう側の世界から帰ってこれなくなるという最悪は避けられる。もう一つは真実を伝える事。メリーが夢だと思っているのは現実であり、気が付かぬ内に向こう側の世界に言っていると認識させて、向こう側の世界でも自我を保たせる事。そうすれば夢の中だからと無茶はしないだろうし、自分の目を使ってすぐに戻ってこれる。
そう考えて、私は結局後者を取った。
それが間違いだった。
夢が向こう側の世界だと知ったメリーは、自分の目と向こう側の世界を更に強く意識しだして、その比重がこちら側の世界と釣り合いだした。まるで夢と現に差なんて無いと言った様に、こちらの世界と向こうの世界に差なんて無いと言わんばかりに。
そうしてメリーの目が暴走し始めた。
段段とこちらの世界と向こうの世界の境界が曖昧になっている。ふとメリーの姿が消える事がある。いつの間にか消えていて、しばらくすると戻ってきて、どうしていたのか尋ねると向こうの世界に行ってたなんて。
その時間も頻度もどんどん増えている。
この前なんて、一週間もこの世界から居なくなって。
本当に、このままじゃ危ない。
このままじゃメリーがこの世界から消えてしまう。
でもそれを止める手立てがなくて。
病院に行っても、それは錯覚、幻、夢だと言う。脳の見せる嘘だと言う。
そんな訳が無い!
実際に一週間も居なくなって、友達もみんな心配して。それなのに医者はそれが嘘だったなんて言う。そして医者がそう言った途端、友達もみんな納得して、勘違いだったんだと笑い合う。
現代の科学で説明できないから。
たったそれだけの言葉であいつ等は説明した気になっている。
たったそれだけの理由で誰も信じてくれない。
もう駄目なの。
この世界の常識じゃメリーを救えない。
「だから超統一理論を超越した私に頼みに来たと?」
「そうです」
蓮子が頷くと、岡崎は額に指を当てて考える様に目を瞑り黙り込んだ。蓮子は真剣な表情で、それを見つめている。メリーはちゆりから勧められた知恵の輪に夢中で、ちゆりはそれを優しげな眼差しで見つめている。
しばらく黙した時間が続いた。
ニュースの音だけが響いてくる。軌道エレベータに関する各国の反応の後に、建設の様子のライブ映像が流れ始める。
やがて岡崎が顔をあげる。
「構わないわよ」
「本当ですか!」
蓮子が嬉しそうに立ち上がった。
それを睨めつけてから、岡崎がメリーを見る。
「ただし治せる保証は無い。私は法則を解き明かすのが仕事で人を治すのは専門外。それに、そもそも本人はどう思っているの?」
途端に蓮子がはっとしてメリーに目を向ける。
三人の視線に晒されている事に気がついたメリーは知恵の輪から目を離すと、三人の顔を交互に見つめた。
そのあどけない様子を見て、メリーは悲痛な気持ちになった。
「メリー、ごめん」
突然蓮子が謝ったので、メリーが不思議そうに首をかしげる。
「え? ごめんなさい。あんまり話し聞いてなかったんだけど、何が?」
「だって、メリーが大変な事になっているのは、境界の向こうへ行く為に色んな所へ連れ回した私の所為かもしれなくて。それを勝手に悪化させて勝手に医者へ連れ回して、それで治せなくて。今回だって治せる保証は無いのに、何だか期待させる様な」
蓮子の言葉に、メリーは顎に指を添えてしばらく考える様にしていたが、やがて表情を明るくした。
「ああ、だからさっき私に帰れって言ったのね。期待させない様に。まずは治せる確証を得てから、私に言おうと」
「……うん」
それを見ていた岡崎とちゆりが顔を見合わせ「いやぁ、初々しいねぇ」と言いながら肩を竦めてにやりと笑った。岡崎が笑ったままメリーに再度尋ねる。
「それで、結局本人はどうなんだい? 治したい? 治したくない?」
それを聞いたメリーは即答せずに目を瞑る。
その様子を見た蓮子の背に冷たい汗が流れた。
メリーは不思議が好きだ。
二人して境界の向こう側へ渡り歩くサークルを作った位なんだから。メリーも蓮子も境界の向こう側の世界に行く事は本当に楽しい。だからもしかしたら、メリーは境界の向こう側に居続ける事を望むかもしれない。そんな恐れが蓮子を襲った。
もしも自分だったらそれを望まない。境界の向こう側には行きたいけれど、向こう側に行って帰ってこられなくなればメリーと会えなくなってしまうから。
ではメリーはどうだろう。そう考えて蓮子は寒気がする。この世界に対する執着を持っていないのであれば、きっとメリーは向こうの世界に行ってしまう。蓮子が持つ、メリーと会えなくなるという理由を、メリー自身は当然持っていない。それ以外の理由を考えても、蓮子の目から見てメリーがこの世界に対して執着を持っている様には見えなかった。
それに気がついたからこそ、さっきメリーに帰れと言ったのだ。メリーの知らないところで話をつけて無理矢理にでも治してしまおうと。けれどそれは叶わなくて。今選択権はメリーにある。
蓮子が恐ろしい思いでメリーを見つめ続けているとやがてメリーが顔を上げ、蓮子に向かって笑って言った。
「勿論治したいわ」
予想外の言葉が蓮子には信じられなかった。
「え?」
「もしかして治したくないって言うと思った?」
図星なので何も言えずに黙っていると、メリーが笑い声を上げた。
「勿論治したいわよ。だってこのままじゃ、蓮子と会えなくなるかもしれないじゃない」
その言葉を聞いた蓮子は、胸に暖かな感情が湧き上がるのを感じた。
メリーも同じ事を思っていてくれた。
それが嬉しかった。
岡崎が口笛を吹き、ちゆりと顔を合わせて「青春だねぇ」と言いながら肩をすくめて、ニヤリと笑う。それからテーブルを拳で叩いて言った。
「分かった。出来うる限りの調査を約束する。症状は私の理論とそう離れていなさそうだし。私の理論の補強になるかもしれない」
「本当ですか!」
蓮子が嬉しそうに笑って身を乗り出すと、岡崎がその鼻先を指で押して座らせ、代わりに自分が立ち上がった。
「さて、じゃあ、まずは原因について考えようか」
「それはメリーの目が」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。仮設を立てながら試行錯誤をしていこう。蓮子君、君の意見はメリー君が能力を何度も行使した事で能力が強化された、また同時にメリー君が自身の能力に対する自覚した、更に向こう側の世界に対して抱く現実感がこちら側の世界に対するそれに迫ってきた、という事だろう」
「ええ、大体その様な」
そこでメリーが手を挙げた。
「私の現実認識が関係しているというのはどういう事ですか?」
「つまり君の認識が向こう側におもねり始めた為に、向こう側の世界の存在が真となり始めているという事だよ」
「それは……人間原理、とは違いますよね?」
「別物だ。メリー君はまだ私の非統一魔法世界論は読んでいないのかね?」
「はい。専門外なので」
「専攻は?」
「相対性精神学です」
「ならしばらくすれば、必修になる筈だ。読んでおきなさい。今度五千円位で出版されるから」
「地味に高い」
岡崎は笑いながら、スクリーンの傍に寄った。スクリーンではコメンテーター達の話が終わり、再び建設現場のライブ中継が流れていた。
一瞬、メリーがそれを興味深そうな顔で見つめたのを見逃さずに、岡崎が尋ねる。
「君は軌道エレベータに興味があるのかな?」
「というより、月に。以前、蓮子と二人で月面旅行に行こうと思ったんですけど、お金が無くて行けなくて。結果的には行かなくて良かったんですけど」
「ああ、あの痛ましい事故の」
「そうです」
「月。月か。そうだ、非統一魔法世界論は例えば人類が月へ行く事とも関わっているよ」
「どういう事ですか?」
「順番に説明しよう。まあ、分かりやすい言葉で言えば、ミクロ世界の観測者の事だね。また別の言葉で言えば確率だ。簡単に説明すると世界の第五の力は方向性だ。例えばサイコロを転がそう。全面に物理的な偏りが無く、周囲の環境がサイコロに一切の影響を与えず、転がす者がランダムに振れば、六つの面は同じ確率で現れる。当たり前の事だね?」
蓮子とメリーが頷いた。
「では例えばどれかの面が出やすい様に重石を埋め込んだとしよう。そうしたらサイコロのそれぞれの面が現れる確率は、重石によって変化する。当たり前の事だね?」
蓮子とメリーがまた頷く。
「この当たり前の事を証明したのが、今回の私の発見であり、俗に非統一魔法世界論と呼ばれる理論だ」
「でも、それは……」
メリーが言葉を濁すと、岡崎が笑みを消す。
「当たり前の事過ぎる? だが誰一人として、この方向性という概念をエネルギーとして捉え、五つ目の力として定式化する事が出来なかった。量子場の観測者や存在確率が方向性の一側面に過ぎない事を発見出来なかった。方向性が人間の思いや願いと同義であり、魔法とはその方向性を変化させて世界に影響を与える技術だと誰も信じていなかった! いや今ですら、私の理論は認めても魔法自体を認めない能無し共が多い! 見ろ! このスクリーンに映る月面へ向かう階段を! 君達は科学技術の凄まじい進歩に何の思いも湧かないのか? それとも人間は凄いと馬鹿みたいに口を開けて思っているだけなのか? 違うだろう! そうじゃない。世界から次第に謎が取り払われ、謎が次第に狭く先鋭化し、人人の思いが特定の謎に集中した為に方向性が収束したのだ! その結果、方向性のエネルギー密度が増大し、科学技術の目覚ましい進歩が起こった。それすらも数式化出来る! やがて世界の方向性は更に定まり、方向性のエネルギー量が地球表面を満たし、異常な密度になるだろう! その時、人人の現実は人人の思い、つまりこうであって欲しいという願いと同義となる。そしてその異常な密度となった方向性のエネルギーは干渉する事を容易にし、いずれは我我人類の誰もが手頃に魔法を使える様になる。そうすればあの馬鹿共でもはっきりと認識出来るだろう! 魔法が現実に存在するのだと!」
怒りを露わにしながら熱弁を振るった岡崎はそこでふと気がついた様に、口を閉ざすと、また笑顔を浮かべて二人に顔を向けた。
「失礼。少少忸怩たる思いがあってね。とにかく魔法というのは存在する筈だ。ただそれが地球ではまだ明確に証明されていないんだ」
「地球では?」
「そう。例えば私はこの理論の証明を確かなものとする為に、可能性空間移動船に乗って魔法のある世界に行った」
「可能性空間移動船?」
「そう。自分の望む平行世界に行ける船だよ。私が開発した。とにかくそれで魔法のある世界に行ったんだ。そこでは皆が当たり前に魔法を使っていた。それだけじゃない。月もそうだ」
「月でも魔法が使えるんですか?」
「そう。人々は皆、月を目指している。その思いが月に集まっている筈なんだ」
「じゃあ、月に行けば魔法が使える」
「かもしれない。どうも月に集まっている方向性のエネルギーが、予想される値に比べて少ないのが疑問だけど。それでも地球の十倍はあるし」
メリーは「そうなんですか」と分かった風に頷いたが、地球の十倍だとどれ位のエネルギー量になるのか、正直なところ分からなかった。
「とにかく魔法はある。なのに、学会の馬鹿共は全く分かっていない! あの馬鹿共め! まあ、昨日の会見で私の人形に世界中を馬鹿にさせたから少しは胸がすいたが」
そこで蓮子が手を挙げた。
「そういえば、あの会見はつまりどういう事なんですか?」
「ん? あれはまあ、色色な意味がある。ただ何せよ、あの言葉の通りだ。知った風で居る奴等が実は何も知らないという事だよ。例えばそうだな」
そこで岡崎がいたずらっぽく笑った。それからちゆりと蓮子とメリーを順繰りに見る。
「例えば、そうだな、私が実は悪い魔法使いかもしれない」
唐突な言葉に三人が目を丸くする。
「信じられないかい? けれど否定する事は出来ないだろう?」
「いや、でも」
「例えば私がこう手を握りしめたら、何処かで悪い事が」
そう言って、手を掲げて握りしめた。
その瞬間、スクリーンの中の軌道エレベータが爆発した。
突如として猛烈な火炎が上がり、連鎖的な爆発が起こって、洋上の船にも伝播していく。爆発音が研究室の中で何度も何度も響く。
「え?」
岡崎が呆けた様に呟いてスクリーンを見つめた。船から火焔が立ち上り、また何度も小規模な爆発が起こっている。甲板の上には黒い粒が右往左往していて、どうやらそれは逃げ遅れた人間の様だった。人間が焼かれながら甲板の上を逃げ惑っていた。
その凄まじい惨劇に研究室の中が森閑と静まり返り、一拍遅れてちゆりが大声を上げた。
「う、うわあああ! 教授が軌道エレベータを爆破したぁ!」
岡崎が慌てて、ちゆりを振り返る。
「え? いや、ちょっ」
「不満がたまっているとは思ってましたけど、まさかこんな事までするとは」
「違う違う違う!」
蓮子がメリーを抱きしめて立ち上がらせる。
「メリー、逃げましょう!」
岡崎が慌てて言った。
「いや、違う! 今の私じゃ」
メリーが端末で何処かへ電話をかけている。
「あ、もしもし」
「おい、待てぇ! お前、何処に電話してる!」
「警察ですけど?」
「だから違うって言ってんだろ!」
岡崎が電話を取り上げようとすると、蓮子がメリーの前に立ちはだかった。
その時、ちゆりがぽつりと呟いた。
「教授、私分かってるぜ」
岡崎が振り返るとちゆりが優しげな表情で笑っていた。
「教授は今少しおかしくなってるだけで、きっと戻ってきた時には元の優しい教授に……だから、私教授が出所するまでずっと待ってるぜ!」
「だからちがーう!」
しばらく警察に連絡するしないで大揉めに揉めた後、ようやっと岡崎が誤解を解くと、疲れきった様子で息を吐いた。
「全く」
スクリーンの中では人人が突発的なテロにてんやわんやしている。もう燃え盛る船は映っていない。沢山の人間を乗せた船は太平洋上に沈んだ。今画面に映っているのはその藻屑だけだ。逃げる余裕が無かったのか、あるいは爆発で全て焼けてしまったのか、画面には救命ボート一つ浮いていない。ニュースキャスタはまだ事件が起こった直後だというのに乗員の生存が絶望的であると報じている。繰り返し流れる爆発の瞬間とその後の炎の中で焼けながら逃げる人々。その痛ましい事件を一瞥した岡崎はスクリーンから視線を外すと言った。
「まあ、良い。それよりメリー君の病気の話だ」
するとちゆりが抗議の声を上げる。
「いや、待ってくださいよ! こんな大事件があったんだぜ? それなのに」
「それなのに? 本来的にあの事件は私達に関係ないだろう? 犠牲者を思うなら後後寄付でもすれば良い。今騒ぐ事に自己満足以外の意味は無い」
「いや、でも、あんな大事件なんだから何かしら私達にも関係が」
「ちゆりまで即時性のマジックに騙されているのか」
「え?」
岡崎は溜息を吐くと咎める様な目でちゆりを睨む。
「良いかい? 私達自身があの軌道エレベータのプロジェクトに参加していただとか、私達の知り合いにあの作業に従事していた者が居ただとかでも無い限り、今現在あの事件に対する大きな影響は私達に無い。それをまるで私達とあの事件が今関係している様に錯覚しているのは、即時性と直接性を錯覚しているからだ。時間と空間は別の物だ。だというのに、リアルタイムで起こっているという時間の認識が、目の前で起こっているという空間の錯覚とすり替わっている」
「いやでも、いずれあの軌道エレベータを利用したかもしれないぜ」
「それは今関係無い。未来での話だ。それに君は、軌道エレベータに乗れないという機会損失等全く気にしていなかっただろう」
「まあ、そうっすね」
「だが丁度良い」
そこで岡崎がメリーを見る。
「今回メリー君に起こっている事も同じ事では無いかと推測している」
「私に?」
「そう、即時性と直接性の錯覚が君に影響を与えた可能性がある」
「良く分からないんですけど」
そこで岡崎がスクリーンの傍を離れて、隣の部屋に繋がる扉へと歩みだした。
「理屈は今分からなくても良い。そもそも推測で正しい保証もない」
そのまま隣の部屋に行った岡崎は、ヘッドマウントディスプレイを二つ持って帰ってきた。それを蓮子とメリーに渡す。
「これは即時性と直接性をすり替えをはっきりと認識出来る装置だ。装着すれば離れた場所で起こる出来事の五感感覚を脳に入力出来る」
渡された装置を眺めていた蓮子は不思議そうに岡崎を見た。
「これを着ければメリーは治るんですか?」
「いいや、それだけじゃ治らないだろう。だが取っ掛かりにはなるかもしれない」
「そう、ですか」
「メリー君に起こっている事を擬似的に表現出来るかもしれない。それが即解決に繋がる訳じゃ無いが、まあ思いついた事を繰り返していくのが実験だ」
メリーをまるで実験動物だとでも言わんばかりの物言いに、蓮子は不快な思いを感じる。だが当初から岡崎は当初から自分の理論の為だと言っていた。それを指摘して怒るのも今更で、また怒ったところで不利益にしかならない。だから蓮子は口を閉ざしてメリーを見た。メリーは興味深そうに装置を手の中で回転させながら観察している。
「君達は何かオカルトサークルをやっているんだろう? ならオカルトらしい場所だとかを知らないか? あるいは、その境界が特に多い場所だとか」
蓮子は少し考えてから、メリーと視線を合わせて頷きあった。丁度、今度の活動で行こうとしていた場所があった。それはこの大学から四駅先の町にある深い森の中、そこにお化け屋敷があるという。古めかしい和風の御殿には、幽霊が現れるだとか、裏の取引が行われているだとか、近くの大学に在籍するマッドサイエンティストがICBMを秘密裏に建造しているだとか、かぐや姫の隠れ家なんだとか、とにかく眉唾な噂が渦巻いている。
それを聞いた岡崎は、私が建造しているのは基本的に大学の地下だがなぁと物凄く不穏当な事を言ってから、良いんじゃないかと頷いた。
「ではその座標をセットしよう。少少待ち給え」
岡崎はそう言ってテーブルに近寄り、電子ペーパーを操作して、京都の地図を出し、目的の場所を映し出した。途端に蓮子とメリーの持つ装置のディスプレイの部分に光が灯った。
「よし、良いぞ。かぶってくれ」
二人が装置をかぶる。すると目の前に今にも崩れそうな程ぼろぼろな和風の御殿が現れた。ディスプレイに映っているのとは違う。まるで直接その場に居るかの様な光景だ。当たりを見回すと、それに合わせて視界も動く。
「滞留する粒子を同期させる」
その瞬間、蓮子は酷い耳鳴りに襲われた。歯を食い縛ってその感覚に耐えていると次第に耳鳴りは収まり、気が付くと当たりから古びた森の香りが漂ってくる事に気がついた。全身を柔らかな風が撫ぜてくる。森の木木のざわめきが聞こえてくる。五感がまるでその場に居るかの様に伝わってくる。
隣を見るとメリーが立っていて、驚いた様子で自分の体を見回していた。蓮子も自分の体を見下ろすと確かにそこに体があった。触れると感触もある。
「どうだい?」
頭の中に声が響いてくる。
「初めての感覚だろう?」
確かにその通りだった。
「とはいえ、最初の驚きさえ通り抜ければ、結局普段の感覚と変わらない。それが目的だからね。さあ、目の前の御殿に入ると良い」
蓮子とメリーはその言葉に促される様にして歩みだした。野原を踏みしむ感触も現実と同じだ。半開きになった門に体を滑り込ませて中に入る。
入った瞬間、滅茶苦茶に生い茂ってまるで手入れがされていない雑草達が出迎えてくれた。ぼうぼうに茂る雑草が一筋だけ押し退けられて獣道の様になっているのは、他にも探検に来た連中が何組も居たからだろう。そうしてその先には、御殿と呼ぶにはおこがましい位に、今にも崩れそうな程にぼろぼろな寝殿造りの建屋があった。藁葺の屋根は荒れ放題で、獣道を進んだ先の階や簀子は腐っていて進む事すら危なっかしい。おっかなびっくり簀子を進んで、途中の部屋に入ると虫に食われてぼろぼろの御簾や屏風、床の一部は雨漏りの所為か腐っている。それでも壁やぼろぼろの屏風で区切られて、何とか部屋としての体裁を保っている。
蓮子はメリーに問いかける。
「どう? 境界は見える?」
「ううん、全く」
「え?」
その時、また頭の中に声が響いてきた。
「特殊な目までは同期出来なかったみたいだね。改良の余地ありだ」
という事はここに来ても何の意味も無いんじゃなかろうか。メリーの目が無いんじゃ向こう側の世界にはいけない訳だし。
呆れる思いで、メリーを見ると、何故か顔を輝かせて当たりを見回していた。
「どうしたの?」
「え? 何だか古くて面白いなって。京都でこんなに古い建物、ここしか無いんじゃない?」
そこまではいかなくとも、確かにかなり古そうだ。この建屋は打ち捨てられてから数百年程度の時間が経っていると見える。それが遺産として保護もされていない状態で残っているのは、確かに京都ではここだけの可能性がある。
メリーが楽しそうな微笑みを浮かべた。
「ね? こんなところ探検するなんて、それだけでわくわくするじゃない」
蓮子は何だかその笑みにあてられて頭を掻いた。
「まあね」
そうしてメリーの手を引いた。
「じゃあ、探検しますか」
「うん!」
蓮子がぼろぼろの障子を開けて、次の部屋に進む。進んだ先も変わらない。やっぱり荒れ果てたぼろぼろの部屋。この建屋は死んでいた。遥か昔主人に捨てられて、既に役目を終えていた。自分達は今死体の中を歩んでいる。
そう考えると、蓮子は何だか恐ろしい様な気がして、思わずメリーの手を握りしめる。するとメリーも手を握り返してきて、振り返るとメリーの晴れやかな笑顔に励まされた。
向こうの世界には行けないけれど、これは楽しいサークル活動。メリーと一緒なら何も恐れる事は無いんだ。
そうしてまた次の部屋に進む為に、障子に手を掛け開く。
障子を開くと巨大な顔が現れた。
毛を全部剃った無表情な男の顔が目と鼻の先でこちらを見つめている。丁度蓮子の目の高さにある鼻が普通の人の顔位大きい。首は無く、代わりに巨大な百足の体が伸びていて、部屋の中をのたくっている。
しばらく巨大な顔と見つめ合っていた蓮子はやがて呆けた様子で呟いた。
「え?」
それを合図とした様に、男の顔がゆっくり口を開ける。
あ、食べられる。
ぼんやりとそう思っていると、口は益益開けられて、ねばねばとした粘質の口内がはっきり見えた。歯に血のついた人の服の切れ端がこびりついていた。
それを見た瞬間、全身が総毛立った。同時に体が動き出し、メリーの手を引いて、後ろに逃げる。腐った床に足を取られて転びそうになりながら、来た道を戻り、障子を開けて前の部屋へ。
「何あれ! 何あれ! 何なのあれ!」
もつれそうながらも外へ向かって駆ける。
「もしかして」
メリーがはっと気づいた様子で声を上げたので、蓮子が問い返した。
「何? 分かるの?」
「挨拶もしないで上がり込んだから怒ってるのかも。謝りましょう」
「んな、訳あるかぁ!」
そうして部屋を通り過ぎ、縁側の簀子まで辿り着いた蓮子が振り返ると、無表情の顔が、百足の体を使って凄まじい勢いでこちらに向かって来ていた。慌てて前を向き、庭へ降りるべきか、簀子を走るべきか考え、簀子の上を駆け出した。
「絶対に捕まったやばいから!」
「誠意を持って謝ればきっと」
「分かってくれる様な顔してないだろ!」
その時、蓮子は自分の足元が抜ける感覚がした。
「あ」
呟いた時にはそのまま腐った床の下に落ち、上半身が嵌った状態で固定される。
「嘘!」
慌てて抜けようとするが、体が抜けない。腐った木が体に食い込んで痛みが走った。後ろを振り向くと、無表情の顔が迫ってくる。
「くそ! 抜けろ!」
だが抜けない。
どうやっても抜く事が出来ない。
「蓮子」
メリーが蓮子を助けようと駆け寄ってきた。だが助けてもらえる時間は無い。背後から感じる生暖かい息が何よりの証拠だ。むしろこのままではメリーまで巻き込まれてしまう。
「蓮子、今助けるから」
メリーが蓮子の手を掴もうとする。その手を払って、蓮子は力一杯メリーの体を突き飛ばした。突き飛ばされたメリーは小さく悲鳴を上げて尻もちをつき、そして絶望的な表情をして蓮子と目を合わせた。
蓮子は叫ぶ。
「お願いだから早く逃げて! 私の事は良いから!」
メリーが涙を浮かべながら、口を開いた。
その声を聞く前に、蓮子の視界は真っ黒になった。
次の瞬間、上半身を噛みちぎられた。
そして感覚が暗転した。
続き
第二章 夢の帰り道を示すなら
序章 演じる事が偽りだというのならこの幻想郷は嘘吐きの生んだ箱庭
「愛すべき隣人の顔すら誰も知らない」
ポール・ディラック賞を受賞した壇上で比較物理学の権威、岡崎夢美は聴衆を睨みながらそう言った。それから半年の間に、この言葉を証明する事件、発見が多数現れた。月面での四次元ポジトロン爆弾の起動や幻想郷の正式な発見等、今まで人類が抱いていた世界の深淵を嘗め尽くしたという安穏が次次に破壊された。
二一〇一年九月十一日、ニューヨークで開かれた国際平和フォーラムで著名な政治家と科学者達が次の様に宣言した。
「神は居る。全知となった我我である」
この宣言から四半世紀も経たない内に、我我は神の座から引きずり降ろされたのである。
世界は嘘で塗り固められている。一つの秘密を暴いたとしても万の秘密が背後に控えている。そんな当たり前の事を二十二世紀初頭のニューヨークピエロ達は忘れていたのだろう。その嘘は個人のレベルでも何ら変わりない。我我はお互いに嘘を吐きながら生きている。そうしてその嘘の全てを見抜く事は出来無い。我我は(百年前の人人がそうであった様に)真っ暗な舞台の上で、書割に何が描かれているかも分からないまま、台本も何も持たずに演技を続けなければならない。足元に張りぼてが落ちているかもしれない。既に建屋が老朽化していてすぐにでも崩れてしまうかもしれない。小道具のナイフが本物の刃物と入れ替わっているかもしれない。実はみんな老人で、程無くして舞台からみんなが消え去るかもしれない。我我はそれ等全てに気付く事が出来無い。人類の滅亡を招く様な危険に、我我は気が付く事すら出来ないのである。
』
その時、私は夢を見ていた。
蓮子は夢じゃないというけれど、私はそれが夢だとしか思えなかった。
夢の中で私は森の入口に立っていた。目の前には紫色の服を着て綺麗な金色の髪をした女性が赤ん坊を抱いて立っていた。私が見つめていると、女性は微笑んで、何か私に頼み事をした、
その夢に音は無くて、その頼み事が何なのか聞き取れなかった。
第一章 夢見る理由を探すなら
二一二〇年七月七日、京都大学吉田キャンパスのそこかしこに願い事をぶら下げた笹の枝が飾られていた。マエリベリー・ハーンはその願いの一つ一つを覗き見ては、ウェーブ掛かった長い金髪を揺らしながら、一一感慨深げに頷いていた。
笹には他愛の無い願い事ばかりが飾られている。世界平和を望む様な中身の無い願いから、幸せになれます様にという漠然とした願い、身近な恋愛を望むこぢんまりとした願いまで。中でも最も数が多く切迫しているのは単位が欲しいという願い事で、キャンパス内の数千から数万の願いの内の、実に四分の一程がそれであるのは、もう期末試験まで一月を切ったからだろう。
マエリベリー・ハーンは幸いにして単位の取りづらいカリキュラムは組んでいないし、友人達の助力によって過去問は全て手に入れてあるので、単位に対する不安は無い。ただ皆が皆そうではなく、中には真剣に単位の取得を神頼んでいる者も居るのだろう。他から見れば下らなかろうと、本人にとってはそれこそ命を懸けてでもと願っている者達が。
「メリー、他人の願いを覗くなんて趣味が悪いよ」
突然腕を引かれてマエリベリー・ハーンは現実に立ち返った。振り返ると友人の宇佐見蓮子が呆れた様な顔をしていた。もう一度手を引かれたので、メリーは願い事観察を止めて、当初の目的通り蓮子の後をついていく。
「蓮子の必修は難しいって聞くけど、蓮子も織姫と彦星に単位のお願いはしたの?」
「まさか。本気でそんな願いをするなら、教授に土下座するわよ。月の兎にようやく手が触れそうなんていう人類が、アルタイルとベガに陳情なんて出来るわけ無いじゃない」
宇佐見蓮子はそう言って、ポケットから端末を取り出し、メリーの目の前に突きつけた。画面には軌道エレベータの建設がいよいよ本格化し始めたと報じられている。月へ降り立つ為の前哨基地となる宇宙ステーションと地球を一本の柱で繋ぐ大事業。映像には太平洋に浮かぶ要塞の様な船の上を数多の作業車が行き交っている。完成予定は二年後の二一二二年。
人類は月へ行く事を望んでいる。
幾ら理論上、科学が極致に達したとはいえ、あくまで机上の話。現実の世界は多くの者達にとって未知に溢れており、月もまたその一つ。常に自分達の頭上にありながら、未だに有人飛行は百年以上前に行ったきりで、それから不自然な程、誰も辿り着けていないのだから。
現代の人人にとって頭上の黄色い真円は永遠の謎なのだ。
「ああ、それ、楽しみよね。結局私達、月面ツアーに参加できなかったし。お金足りなくて」
「足りなくて良かったよ。危なく死ぬところだったんだから」
人類は月へ行く事を望んでいる。
つい二年前、百年ぶりの月面有人着陸が計画された。しかもそれは民間人の参加出来る月面ツアー。人人は色めき立ち、皆がこぞってツアーに応募した。蓮子とメリーもその内の二人だ。高額なツアー参加費を稼ぐ為に二人してバイトをした。けれどそれから二年経った今も誰一人として月面に辿り着けていない。それどころかツアー自体が企画倒れした。
ロケットが原因不明の事故で大破した為だ。
ロケットの発射が開始されてから四日間の間に三十基のロケットが発射され、その全てが月面に辿り着く前に謎の爆発を起こして大破した。当然乗組員は全員死亡。人人の歓喜の声はたったの四日で悲痛な嘆きに変わった。そして以後のツアーは全て中止となった。未だにロケットが爆発した原因は分かっていない。
「軌道エレベータが完成したら今度こそ二人で月に行きましょう」
「それは良いけどさ。大丈夫かな? また何か事故でも起こるんじゃ」
「蓮子は心配性ね。大丈夫よ、絶対」
「何を根拠に」
「だって人の技術は日進月歩だもの。あれから二年経ったんだから刮目して見なくっちゃ。それにもうそろそろ木星探査機がエウロパに着陸する頃よ」
「何の根拠も無いって訳ね」
「前向きに考えていた方が良い事あるわよ」
蓮子は溜息を吐いてから目当ての場所に辿り着いて立ち止まった。
ここは研究棟。その中の一室が目の前にある。ネームプレートには岡崎夢美の文字。日本人でありながらイギリスの理論物理学者に送られるポール・ディラック賞を受賞し、一躍時の人となった大有名人である。丁度昨日イギリスで開かれた授賞式で問題発言を行いまた有名になった。今もまだイギリスに居る筈だ。本当であれば。
蓮子は一つ息を吐くと扉をノックした。
中からは何の反応も返って来ない。
もう一度ノックをする。
けれど幾ら待っても反応が無い。
「やっぱりイギリスに居るんじゃないの?」
「いやここに居る。昨日の夜中コンビニでアンパン買ってた」
蓮子はじっと扉の前で立ち尽くし、中から反応があるのを待ったが、やはり扉が開く気配は無い。
「出てきてくれないか。なら」
蓮子が決意した様子でポケットを漁りだした。
「どうするの?」
「開ける」
「どうやって?」
「触れただけで扉が開く道具があるから」
「え?」
蓮子が小さな銀色の板を取り出してそのまま扉に押し当てた。
かちゃりと鍵の開く音が聞こえ、扉が開く。
その様子を、メリーは口を半開きにして眺めていた。
「何それ、怖い」
「世の中どんどん便利になっていくわね」
「それピッキングっていうんじゃないの?」
「技術の進歩と言ってちょうだい」
扉が開いて、二人は中に踏み込む。
するとそこにイギリスに居る筈の岡崎夢美が立っていた。
裸で。
濡れた髪の毛を拭いていた。
岡崎は髪の毛を拭く手を止めて、放心した様子で闖入者の二人を見つめていたが、やがて大きく口を開けて悲鳴を上げた。
「う、うおわあああ! 何、あんた等!」
慄いている岡崎の前に、蓮子は一歩踏み出す。
「教授の講義に参加している宇佐見蓮子と言います」
「いやいやいや! 何でそんな冷静なのあんた! こっちは風呂あがり! 裸なの!」
「お取り込み中のところ申し訳ありません。ただどうしてもお聞きしたい事があって」
更に蓮子が一歩近寄った瞬間、岡崎の闘争本能に火が付いた。
「だから裸だって言ってんだろ!」
タオルを投げ捨て全裸になった岡崎は隠す事も止めて、蓮子とメリーへ駆け寄るとそのまま二人の首根っこを掴んで、廊下へ放り投げた。二人が壁に激突した時には、凄まじく乱暴に扉が閉められた。
二人が痛みに顔をしかめながら立ち上がる。
「痛た。タイミングが悪かったわね。蓮子、出直しましょう」
メリーが喉を抑えながらそう言った時には、既に蓮子は扉の前でもう一度ピッキングを開始していた。
「メリー、帰って良いよ」
「え?」
「良く考えたら、メリーは居ない方が良い」
「どういう事?」
「良いから、帰って」
呆然としているメリーの前で扉が開き、そのまま蓮子が中に入っていく。メリーには見えない位置から岡崎の叫びが聞こえてきた。
「うげえ! また来やがった! ちょっと待って! 今着替えてるから!」
「教授、お取り込み中のところ申し訳ありません。私、宇佐見蓮子と言います。今日はどうしても教授にお聞きしたい事が」
何だか蓮子の様子が必死なので、メリーは不思議に思う。まさか単位が取れなくて、教授に土下座を? それが恥ずかしいから帰ってって言ったの? でも蓮子がそこまで勉強の事で必死になるなんて。そもそも蓮子は頭が良い。単位を取れないとは思えない。では一体何を聞こうとしているのだろう。何をそんなに必死に。どうして私がいちゃいけないの?
「ちょっと! だから着替えるから! それまでは待ってて! 着替え終わったら聞くから!」
「お願いです、教授! どうしても教えて欲しいんです!」
「だから止め、おい、服を引っ張るな!」
「教授、メリーの、メリーの病気を治してください!」
私の、為?
思わぬ言葉にメリーは唾を飲んだ。
「だから服引っ張んなって言ってんだろうが!」
その瞬間、何だか凄い音が聞こえて、蓮子が吹っ飛んできた。メリーはそれを受け止めようとしてぶつかり、そのまま廊下の壁と蓮子に挟まれて崩れ落ちる。
廊下に倒れたメリーは立ち上がろうとする蓮子に手を伸ばした。
「蓮子」
「メリー! 帰ったんじゃなかったの?」
その時、扉の向こうから岡崎の足音が聞こえた。二人が岡崎を見ると、扉を小さく開けて手招いていた。
「入りなさい」
蓮子とメリーは二人して顔を見合わせ、慌てて立ち上がると岡崎の研究室へ招かれた。
研究室の中は二人が想像しているよりもずっと整頓されていて、何より物が少なかった。大型の研究装置どころか、何の装置も無い。壁を隠す様に本棚が並び蔵書が敷き詰められ、そうして真ん中にテーブルが一つ、部屋の隅にニュースを移すスクリーンが一枚、それと隣の部屋に繋がる扉が一つだけ。後は何も無い。あるいは隣の部屋はもっと研究室らしいのかもしれない。
二人はテーブルへと招かれて、粗末なパイプ椅子に座らされた。テーブルの上の電子ペーパーに文字が書かれていて、気になって読んでみると、夕飯の献立が書かれている。向かいには、教授の岡崎夢美。それからコーヒーを入れ終えた助手のちゆりが四人分のコーヒーをテーブルに置き、そのまま岡崎の隣に座った。
岡崎は幾分苛立った様子でコーヒーに口を付けてから蓮子を睨む。
「そもそも私はイギリスに居る筈だけど、どうしてここに居るって分かったの」
「昨日コンビニでアンパン買ってのを見て」
「コンビニ? 私は昨日外に出て無い筈だけど」
岡崎が訝しげに言ったので、蓮子も同じ様な表情になった。ならば昨日蓮子が見た人物は誰だろう。
するとちゆりが手を挙げた。
「あ、それ、私だぜ。買い出しを頼まれたから」
「私達がここに居る事がばれない様に、変装して外に行けって言わなかった?」
「だから教授の変装をして外に行きました!」
「アホか!」
岡崎が手を振り上げた瞬間、ちゆりが椅子を蹴って飛び退いた。手をすかされた岡崎は溜息を吐いてから、二人に向く。
「で、なんだっけ、病気を治して欲しい?」
「そうです。メリーの病気を治して欲しくて」
蓮子がメリーの背に手を添える。岡崎は頷いて言った。
「それは病院に行ってください」
「駄目なんです」
「そうは言ってもね。私は医者じゃないから」
蓮子はその言葉に頭を振り、しばらく俯いていたが、やがて泣きそうな声を出した。
「駄目なんです。みんな、今の科学で説明出来ないと分かると、夢か幻覚か、精神異常にさせたがる。誰も、誰一人信じてくれないんです!」
「ならどうして私の所に?」
「それは、岡崎教授が非統一魔法世界論を発表したから」
「つまり、魔法が関わっているって事?」
「恐らく」
「良いわ。話してみなさい。その子に起こっている事を」
私は不思議な目を持っていた。人に言えばそんな事かと馬鹿にされるけど、私にとっては大事で不思議な目。どんな場所であろうと月と星を見れば場所と時間を知る事が出来た。自分の立ち位置を知る事が出来た。そんな私が、不思議な目を持つメリーと出会ったのは、何だろう、恥ずかしい言い方をすれば運命だったと思う。
メリーは境界が見えた。物事の境目が見えて、その向こう側の世界を見る事が出来た。メリーは今までその目を信じてもらえなかったみたいだけど、私はそれを信じる事が出来た。私にも不思議な目があったから。大学で出会った私達はすぐに意気投合して、不思議な目を持つ者同士友達になった。
私とメリーの出会いが運命だったと言うのには、もっとはっきりとした根拠があって。私がメリーの目に手を翳すと、私もまた境界の向こう側にある世界を見る事が出来た。他の人がメリーの目に手を翳しても、境界の向こう側を見る事は出来ない。私だけがメリーと一緒に向こう側を見る事が出来た。それがどうしてかはわからない。メリーの目は結局皆から信じてもらえず、私達は嘘吐き呼ばわりされたけど、私は何とも思っていない。私だけが特別になれたんだから。
私はメリーを誘って秘封倶楽部というサークルを立ち上げた。活動内容は境界を探してその向こう側を覗きこむ事。私はメリーを色色な場所に連れ回して、向こう側を幻視した。日常の裏の奇妙な空間を。月の光と共に現れる不思議な世界を。けれどすぐにそれだけでは留まらなくなった。
ある日触れる事の出来なかった境界に触れられる様になった。こじ開けて入り込んでみると、私達は向こう側の世界へと抜けた。誰もいない廃屋、影達の住む古びたビル、化け物達の跋扈する森。そんな現実世界とはずれたおどろおどろしい世界。本当なら恐れるべきなんだろうけど、元元オカルトに憧れていた私とメリーは狂喜した。まだ見ぬ世界、未知の世界を求めて、私達二人のサークルは境界を見つけてはその向こうに飛び込み続けた。
そこまではまだ良かった。その時まではまだメリーの目は制御されていた。けれど使い続ける内に段段とその目の制御が利かなくなっていった。
メリーから異世界の夢を見る様になったと相談された。
夢の中で異世界を歩き回りそして化け物に襲われる。
初めの内はただの夢だろうと気にしていなかった。メリーは夢と現の区別なんてないと言っていたけれどあくまで精神の中での話。現実で見れば、夢は夢だ。ただその夢があまりにも繰り返されるから、何か精神に齟齬でもあるのかとカウンセリングを行う事にした。メリーの夢の話を聞いて、悩みだとか、不安だとか、そういうのを取り除いてあげようと思って。あくまで夢だと疑わずに。
それがただの夢なら良かったのに。
メリーが夢だと思っていたものは夢じゃなかった。
遂には夢の中の物を現実に持ってき始めた。石ころや木切れ、果ては地球上にありえない未知の病原体。
メリーが夢だと思っていたのは夢じゃない。実際は、境界を見る能力を使って、気が付かぬ内に向こうの世界に行ってしまっていたのよ。
メリーは向こう側へ行くだけじゃなく、向こう側の影響まで受けだした。
遂にはどちらの世界が夢で現実なのか分からないとまで言い始めた。
このままこちらの世界を夢だと思い、向こうの世界を現実だと信じ込めば、向こうの世界から戻ってこれなくなる。
それで私はどうしようかと方策を練った。方法は二つ。一つは嘘を吐く事。あくまで向こうの世界を夢だと信じこませ、こちら側の世界の主導権を失わせない事。そうすれば少なくとも向こう側の世界から帰ってこれなくなるという最悪は避けられる。もう一つは真実を伝える事。メリーが夢だと思っているのは現実であり、気が付かぬ内に向こう側の世界に言っていると認識させて、向こう側の世界でも自我を保たせる事。そうすれば夢の中だからと無茶はしないだろうし、自分の目を使ってすぐに戻ってこれる。
そう考えて、私は結局後者を取った。
それが間違いだった。
夢が向こう側の世界だと知ったメリーは、自分の目と向こう側の世界を更に強く意識しだして、その比重がこちら側の世界と釣り合いだした。まるで夢と現に差なんて無いと言った様に、こちらの世界と向こうの世界に差なんて無いと言わんばかりに。
そうしてメリーの目が暴走し始めた。
段段とこちらの世界と向こうの世界の境界が曖昧になっている。ふとメリーの姿が消える事がある。いつの間にか消えていて、しばらくすると戻ってきて、どうしていたのか尋ねると向こうの世界に行ってたなんて。
その時間も頻度もどんどん増えている。
この前なんて、一週間もこの世界から居なくなって。
本当に、このままじゃ危ない。
このままじゃメリーがこの世界から消えてしまう。
でもそれを止める手立てがなくて。
病院に行っても、それは錯覚、幻、夢だと言う。脳の見せる嘘だと言う。
そんな訳が無い!
実際に一週間も居なくなって、友達もみんな心配して。それなのに医者はそれが嘘だったなんて言う。そして医者がそう言った途端、友達もみんな納得して、勘違いだったんだと笑い合う。
現代の科学で説明できないから。
たったそれだけの言葉であいつ等は説明した気になっている。
たったそれだけの理由で誰も信じてくれない。
もう駄目なの。
この世界の常識じゃメリーを救えない。
「だから超統一理論を超越した私に頼みに来たと?」
「そうです」
蓮子が頷くと、岡崎は額に指を当てて考える様に目を瞑り黙り込んだ。蓮子は真剣な表情で、それを見つめている。メリーはちゆりから勧められた知恵の輪に夢中で、ちゆりはそれを優しげな眼差しで見つめている。
しばらく黙した時間が続いた。
ニュースの音だけが響いてくる。軌道エレベータに関する各国の反応の後に、建設の様子のライブ映像が流れ始める。
やがて岡崎が顔をあげる。
「構わないわよ」
「本当ですか!」
蓮子が嬉しそうに立ち上がった。
それを睨めつけてから、岡崎がメリーを見る。
「ただし治せる保証は無い。私は法則を解き明かすのが仕事で人を治すのは専門外。それに、そもそも本人はどう思っているの?」
途端に蓮子がはっとしてメリーに目を向ける。
三人の視線に晒されている事に気がついたメリーは知恵の輪から目を離すと、三人の顔を交互に見つめた。
そのあどけない様子を見て、メリーは悲痛な気持ちになった。
「メリー、ごめん」
突然蓮子が謝ったので、メリーが不思議そうに首をかしげる。
「え? ごめんなさい。あんまり話し聞いてなかったんだけど、何が?」
「だって、メリーが大変な事になっているのは、境界の向こうへ行く為に色んな所へ連れ回した私の所為かもしれなくて。それを勝手に悪化させて勝手に医者へ連れ回して、それで治せなくて。今回だって治せる保証は無いのに、何だか期待させる様な」
蓮子の言葉に、メリーは顎に指を添えてしばらく考える様にしていたが、やがて表情を明るくした。
「ああ、だからさっき私に帰れって言ったのね。期待させない様に。まずは治せる確証を得てから、私に言おうと」
「……うん」
それを見ていた岡崎とちゆりが顔を見合わせ「いやぁ、初々しいねぇ」と言いながら肩を竦めてにやりと笑った。岡崎が笑ったままメリーに再度尋ねる。
「それで、結局本人はどうなんだい? 治したい? 治したくない?」
それを聞いたメリーは即答せずに目を瞑る。
その様子を見た蓮子の背に冷たい汗が流れた。
メリーは不思議が好きだ。
二人して境界の向こう側へ渡り歩くサークルを作った位なんだから。メリーも蓮子も境界の向こう側の世界に行く事は本当に楽しい。だからもしかしたら、メリーは境界の向こう側に居続ける事を望むかもしれない。そんな恐れが蓮子を襲った。
もしも自分だったらそれを望まない。境界の向こう側には行きたいけれど、向こう側に行って帰ってこられなくなればメリーと会えなくなってしまうから。
ではメリーはどうだろう。そう考えて蓮子は寒気がする。この世界に対する執着を持っていないのであれば、きっとメリーは向こうの世界に行ってしまう。蓮子が持つ、メリーと会えなくなるという理由を、メリー自身は当然持っていない。それ以外の理由を考えても、蓮子の目から見てメリーがこの世界に対して執着を持っている様には見えなかった。
それに気がついたからこそ、さっきメリーに帰れと言ったのだ。メリーの知らないところで話をつけて無理矢理にでも治してしまおうと。けれどそれは叶わなくて。今選択権はメリーにある。
蓮子が恐ろしい思いでメリーを見つめ続けているとやがてメリーが顔を上げ、蓮子に向かって笑って言った。
「勿論治したいわ」
予想外の言葉が蓮子には信じられなかった。
「え?」
「もしかして治したくないって言うと思った?」
図星なので何も言えずに黙っていると、メリーが笑い声を上げた。
「勿論治したいわよ。だってこのままじゃ、蓮子と会えなくなるかもしれないじゃない」
その言葉を聞いた蓮子は、胸に暖かな感情が湧き上がるのを感じた。
メリーも同じ事を思っていてくれた。
それが嬉しかった。
岡崎が口笛を吹き、ちゆりと顔を合わせて「青春だねぇ」と言いながら肩をすくめて、ニヤリと笑う。それからテーブルを拳で叩いて言った。
「分かった。出来うる限りの調査を約束する。症状は私の理論とそう離れていなさそうだし。私の理論の補強になるかもしれない」
「本当ですか!」
蓮子が嬉しそうに笑って身を乗り出すと、岡崎がその鼻先を指で押して座らせ、代わりに自分が立ち上がった。
「さて、じゃあ、まずは原因について考えようか」
「それはメリーの目が」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。仮設を立てながら試行錯誤をしていこう。蓮子君、君の意見はメリー君が能力を何度も行使した事で能力が強化された、また同時にメリー君が自身の能力に対する自覚した、更に向こう側の世界に対して抱く現実感がこちら側の世界に対するそれに迫ってきた、という事だろう」
「ええ、大体その様な」
そこでメリーが手を挙げた。
「私の現実認識が関係しているというのはどういう事ですか?」
「つまり君の認識が向こう側におもねり始めた為に、向こう側の世界の存在が真となり始めているという事だよ」
「それは……人間原理、とは違いますよね?」
「別物だ。メリー君はまだ私の非統一魔法世界論は読んでいないのかね?」
「はい。専門外なので」
「専攻は?」
「相対性精神学です」
「ならしばらくすれば、必修になる筈だ。読んでおきなさい。今度五千円位で出版されるから」
「地味に高い」
岡崎は笑いながら、スクリーンの傍に寄った。スクリーンではコメンテーター達の話が終わり、再び建設現場のライブ中継が流れていた。
一瞬、メリーがそれを興味深そうな顔で見つめたのを見逃さずに、岡崎が尋ねる。
「君は軌道エレベータに興味があるのかな?」
「というより、月に。以前、蓮子と二人で月面旅行に行こうと思ったんですけど、お金が無くて行けなくて。結果的には行かなくて良かったんですけど」
「ああ、あの痛ましい事故の」
「そうです」
「月。月か。そうだ、非統一魔法世界論は例えば人類が月へ行く事とも関わっているよ」
「どういう事ですか?」
「順番に説明しよう。まあ、分かりやすい言葉で言えば、ミクロ世界の観測者の事だね。また別の言葉で言えば確率だ。簡単に説明すると世界の第五の力は方向性だ。例えばサイコロを転がそう。全面に物理的な偏りが無く、周囲の環境がサイコロに一切の影響を与えず、転がす者がランダムに振れば、六つの面は同じ確率で現れる。当たり前の事だね?」
蓮子とメリーが頷いた。
「では例えばどれかの面が出やすい様に重石を埋め込んだとしよう。そうしたらサイコロのそれぞれの面が現れる確率は、重石によって変化する。当たり前の事だね?」
蓮子とメリーがまた頷く。
「この当たり前の事を証明したのが、今回の私の発見であり、俗に非統一魔法世界論と呼ばれる理論だ」
「でも、それは……」
メリーが言葉を濁すと、岡崎が笑みを消す。
「当たり前の事過ぎる? だが誰一人として、この方向性という概念をエネルギーとして捉え、五つ目の力として定式化する事が出来なかった。量子場の観測者や存在確率が方向性の一側面に過ぎない事を発見出来なかった。方向性が人間の思いや願いと同義であり、魔法とはその方向性を変化させて世界に影響を与える技術だと誰も信じていなかった! いや今ですら、私の理論は認めても魔法自体を認めない能無し共が多い! 見ろ! このスクリーンに映る月面へ向かう階段を! 君達は科学技術の凄まじい進歩に何の思いも湧かないのか? それとも人間は凄いと馬鹿みたいに口を開けて思っているだけなのか? 違うだろう! そうじゃない。世界から次第に謎が取り払われ、謎が次第に狭く先鋭化し、人人の思いが特定の謎に集中した為に方向性が収束したのだ! その結果、方向性のエネルギー密度が増大し、科学技術の目覚ましい進歩が起こった。それすらも数式化出来る! やがて世界の方向性は更に定まり、方向性のエネルギー量が地球表面を満たし、異常な密度になるだろう! その時、人人の現実は人人の思い、つまりこうであって欲しいという願いと同義となる。そしてその異常な密度となった方向性のエネルギーは干渉する事を容易にし、いずれは我我人類の誰もが手頃に魔法を使える様になる。そうすればあの馬鹿共でもはっきりと認識出来るだろう! 魔法が現実に存在するのだと!」
怒りを露わにしながら熱弁を振るった岡崎はそこでふと気がついた様に、口を閉ざすと、また笑顔を浮かべて二人に顔を向けた。
「失礼。少少忸怩たる思いがあってね。とにかく魔法というのは存在する筈だ。ただそれが地球ではまだ明確に証明されていないんだ」
「地球では?」
「そう。例えば私はこの理論の証明を確かなものとする為に、可能性空間移動船に乗って魔法のある世界に行った」
「可能性空間移動船?」
「そう。自分の望む平行世界に行ける船だよ。私が開発した。とにかくそれで魔法のある世界に行ったんだ。そこでは皆が当たり前に魔法を使っていた。それだけじゃない。月もそうだ」
「月でも魔法が使えるんですか?」
「そう。人々は皆、月を目指している。その思いが月に集まっている筈なんだ」
「じゃあ、月に行けば魔法が使える」
「かもしれない。どうも月に集まっている方向性のエネルギーが、予想される値に比べて少ないのが疑問だけど。それでも地球の十倍はあるし」
メリーは「そうなんですか」と分かった風に頷いたが、地球の十倍だとどれ位のエネルギー量になるのか、正直なところ分からなかった。
「とにかく魔法はある。なのに、学会の馬鹿共は全く分かっていない! あの馬鹿共め! まあ、昨日の会見で私の人形に世界中を馬鹿にさせたから少しは胸がすいたが」
そこで蓮子が手を挙げた。
「そういえば、あの会見はつまりどういう事なんですか?」
「ん? あれはまあ、色色な意味がある。ただ何せよ、あの言葉の通りだ。知った風で居る奴等が実は何も知らないという事だよ。例えばそうだな」
そこで岡崎がいたずらっぽく笑った。それからちゆりと蓮子とメリーを順繰りに見る。
「例えば、そうだな、私が実は悪い魔法使いかもしれない」
唐突な言葉に三人が目を丸くする。
「信じられないかい? けれど否定する事は出来ないだろう?」
「いや、でも」
「例えば私がこう手を握りしめたら、何処かで悪い事が」
そう言って、手を掲げて握りしめた。
その瞬間、スクリーンの中の軌道エレベータが爆発した。
突如として猛烈な火炎が上がり、連鎖的な爆発が起こって、洋上の船にも伝播していく。爆発音が研究室の中で何度も何度も響く。
「え?」
岡崎が呆けた様に呟いてスクリーンを見つめた。船から火焔が立ち上り、また何度も小規模な爆発が起こっている。甲板の上には黒い粒が右往左往していて、どうやらそれは逃げ遅れた人間の様だった。人間が焼かれながら甲板の上を逃げ惑っていた。
その凄まじい惨劇に研究室の中が森閑と静まり返り、一拍遅れてちゆりが大声を上げた。
「う、うわあああ! 教授が軌道エレベータを爆破したぁ!」
岡崎が慌てて、ちゆりを振り返る。
「え? いや、ちょっ」
「不満がたまっているとは思ってましたけど、まさかこんな事までするとは」
「違う違う違う!」
蓮子がメリーを抱きしめて立ち上がらせる。
「メリー、逃げましょう!」
岡崎が慌てて言った。
「いや、違う! 今の私じゃ」
メリーが端末で何処かへ電話をかけている。
「あ、もしもし」
「おい、待てぇ! お前、何処に電話してる!」
「警察ですけど?」
「だから違うって言ってんだろ!」
岡崎が電話を取り上げようとすると、蓮子がメリーの前に立ちはだかった。
その時、ちゆりがぽつりと呟いた。
「教授、私分かってるぜ」
岡崎が振り返るとちゆりが優しげな表情で笑っていた。
「教授は今少しおかしくなってるだけで、きっと戻ってきた時には元の優しい教授に……だから、私教授が出所するまでずっと待ってるぜ!」
「だからちがーう!」
しばらく警察に連絡するしないで大揉めに揉めた後、ようやっと岡崎が誤解を解くと、疲れきった様子で息を吐いた。
「全く」
スクリーンの中では人人が突発的なテロにてんやわんやしている。もう燃え盛る船は映っていない。沢山の人間を乗せた船は太平洋上に沈んだ。今画面に映っているのはその藻屑だけだ。逃げる余裕が無かったのか、あるいは爆発で全て焼けてしまったのか、画面には救命ボート一つ浮いていない。ニュースキャスタはまだ事件が起こった直後だというのに乗員の生存が絶望的であると報じている。繰り返し流れる爆発の瞬間とその後の炎の中で焼けながら逃げる人々。その痛ましい事件を一瞥した岡崎はスクリーンから視線を外すと言った。
「まあ、良い。それよりメリー君の病気の話だ」
するとちゆりが抗議の声を上げる。
「いや、待ってくださいよ! こんな大事件があったんだぜ? それなのに」
「それなのに? 本来的にあの事件は私達に関係ないだろう? 犠牲者を思うなら後後寄付でもすれば良い。今騒ぐ事に自己満足以外の意味は無い」
「いや、でも、あんな大事件なんだから何かしら私達にも関係が」
「ちゆりまで即時性のマジックに騙されているのか」
「え?」
岡崎は溜息を吐くと咎める様な目でちゆりを睨む。
「良いかい? 私達自身があの軌道エレベータのプロジェクトに参加していただとか、私達の知り合いにあの作業に従事していた者が居ただとかでも無い限り、今現在あの事件に対する大きな影響は私達に無い。それをまるで私達とあの事件が今関係している様に錯覚しているのは、即時性と直接性を錯覚しているからだ。時間と空間は別の物だ。だというのに、リアルタイムで起こっているという時間の認識が、目の前で起こっているという空間の錯覚とすり替わっている」
「いやでも、いずれあの軌道エレベータを利用したかもしれないぜ」
「それは今関係無い。未来での話だ。それに君は、軌道エレベータに乗れないという機会損失等全く気にしていなかっただろう」
「まあ、そうっすね」
「だが丁度良い」
そこで岡崎がメリーを見る。
「今回メリー君に起こっている事も同じ事では無いかと推測している」
「私に?」
「そう、即時性と直接性の錯覚が君に影響を与えた可能性がある」
「良く分からないんですけど」
そこで岡崎がスクリーンの傍を離れて、隣の部屋に繋がる扉へと歩みだした。
「理屈は今分からなくても良い。そもそも推測で正しい保証もない」
そのまま隣の部屋に行った岡崎は、ヘッドマウントディスプレイを二つ持って帰ってきた。それを蓮子とメリーに渡す。
「これは即時性と直接性をすり替えをはっきりと認識出来る装置だ。装着すれば離れた場所で起こる出来事の五感感覚を脳に入力出来る」
渡された装置を眺めていた蓮子は不思議そうに岡崎を見た。
「これを着ければメリーは治るんですか?」
「いいや、それだけじゃ治らないだろう。だが取っ掛かりにはなるかもしれない」
「そう、ですか」
「メリー君に起こっている事を擬似的に表現出来るかもしれない。それが即解決に繋がる訳じゃ無いが、まあ思いついた事を繰り返していくのが実験だ」
メリーをまるで実験動物だとでも言わんばかりの物言いに、蓮子は不快な思いを感じる。だが当初から岡崎は当初から自分の理論の為だと言っていた。それを指摘して怒るのも今更で、また怒ったところで不利益にしかならない。だから蓮子は口を閉ざしてメリーを見た。メリーは興味深そうに装置を手の中で回転させながら観察している。
「君達は何かオカルトサークルをやっているんだろう? ならオカルトらしい場所だとかを知らないか? あるいは、その境界が特に多い場所だとか」
蓮子は少し考えてから、メリーと視線を合わせて頷きあった。丁度、今度の活動で行こうとしていた場所があった。それはこの大学から四駅先の町にある深い森の中、そこにお化け屋敷があるという。古めかしい和風の御殿には、幽霊が現れるだとか、裏の取引が行われているだとか、近くの大学に在籍するマッドサイエンティストがICBMを秘密裏に建造しているだとか、かぐや姫の隠れ家なんだとか、とにかく眉唾な噂が渦巻いている。
それを聞いた岡崎は、私が建造しているのは基本的に大学の地下だがなぁと物凄く不穏当な事を言ってから、良いんじゃないかと頷いた。
「ではその座標をセットしよう。少少待ち給え」
岡崎はそう言ってテーブルに近寄り、電子ペーパーを操作して、京都の地図を出し、目的の場所を映し出した。途端に蓮子とメリーの持つ装置のディスプレイの部分に光が灯った。
「よし、良いぞ。かぶってくれ」
二人が装置をかぶる。すると目の前に今にも崩れそうな程ぼろぼろな和風の御殿が現れた。ディスプレイに映っているのとは違う。まるで直接その場に居るかの様な光景だ。当たりを見回すと、それに合わせて視界も動く。
「滞留する粒子を同期させる」
その瞬間、蓮子は酷い耳鳴りに襲われた。歯を食い縛ってその感覚に耐えていると次第に耳鳴りは収まり、気が付くと当たりから古びた森の香りが漂ってくる事に気がついた。全身を柔らかな風が撫ぜてくる。森の木木のざわめきが聞こえてくる。五感がまるでその場に居るかの様に伝わってくる。
隣を見るとメリーが立っていて、驚いた様子で自分の体を見回していた。蓮子も自分の体を見下ろすと確かにそこに体があった。触れると感触もある。
「どうだい?」
頭の中に声が響いてくる。
「初めての感覚だろう?」
確かにその通りだった。
「とはいえ、最初の驚きさえ通り抜ければ、結局普段の感覚と変わらない。それが目的だからね。さあ、目の前の御殿に入ると良い」
蓮子とメリーはその言葉に促される様にして歩みだした。野原を踏みしむ感触も現実と同じだ。半開きになった門に体を滑り込ませて中に入る。
入った瞬間、滅茶苦茶に生い茂ってまるで手入れがされていない雑草達が出迎えてくれた。ぼうぼうに茂る雑草が一筋だけ押し退けられて獣道の様になっているのは、他にも探検に来た連中が何組も居たからだろう。そうしてその先には、御殿と呼ぶにはおこがましい位に、今にも崩れそうな程にぼろぼろな寝殿造りの建屋があった。藁葺の屋根は荒れ放題で、獣道を進んだ先の階や簀子は腐っていて進む事すら危なっかしい。おっかなびっくり簀子を進んで、途中の部屋に入ると虫に食われてぼろぼろの御簾や屏風、床の一部は雨漏りの所為か腐っている。それでも壁やぼろぼろの屏風で区切られて、何とか部屋としての体裁を保っている。
蓮子はメリーに問いかける。
「どう? 境界は見える?」
「ううん、全く」
「え?」
その時、また頭の中に声が響いてきた。
「特殊な目までは同期出来なかったみたいだね。改良の余地ありだ」
という事はここに来ても何の意味も無いんじゃなかろうか。メリーの目が無いんじゃ向こう側の世界にはいけない訳だし。
呆れる思いで、メリーを見ると、何故か顔を輝かせて当たりを見回していた。
「どうしたの?」
「え? 何だか古くて面白いなって。京都でこんなに古い建物、ここしか無いんじゃない?」
そこまではいかなくとも、確かにかなり古そうだ。この建屋は打ち捨てられてから数百年程度の時間が経っていると見える。それが遺産として保護もされていない状態で残っているのは、確かに京都ではここだけの可能性がある。
メリーが楽しそうな微笑みを浮かべた。
「ね? こんなところ探検するなんて、それだけでわくわくするじゃない」
蓮子は何だかその笑みにあてられて頭を掻いた。
「まあね」
そうしてメリーの手を引いた。
「じゃあ、探検しますか」
「うん!」
蓮子がぼろぼろの障子を開けて、次の部屋に進む。進んだ先も変わらない。やっぱり荒れ果てたぼろぼろの部屋。この建屋は死んでいた。遥か昔主人に捨てられて、既に役目を終えていた。自分達は今死体の中を歩んでいる。
そう考えると、蓮子は何だか恐ろしい様な気がして、思わずメリーの手を握りしめる。するとメリーも手を握り返してきて、振り返るとメリーの晴れやかな笑顔に励まされた。
向こうの世界には行けないけれど、これは楽しいサークル活動。メリーと一緒なら何も恐れる事は無いんだ。
そうしてまた次の部屋に進む為に、障子に手を掛け開く。
障子を開くと巨大な顔が現れた。
毛を全部剃った無表情な男の顔が目と鼻の先でこちらを見つめている。丁度蓮子の目の高さにある鼻が普通の人の顔位大きい。首は無く、代わりに巨大な百足の体が伸びていて、部屋の中をのたくっている。
しばらく巨大な顔と見つめ合っていた蓮子はやがて呆けた様子で呟いた。
「え?」
それを合図とした様に、男の顔がゆっくり口を開ける。
あ、食べられる。
ぼんやりとそう思っていると、口は益益開けられて、ねばねばとした粘質の口内がはっきり見えた。歯に血のついた人の服の切れ端がこびりついていた。
それを見た瞬間、全身が総毛立った。同時に体が動き出し、メリーの手を引いて、後ろに逃げる。腐った床に足を取られて転びそうになりながら、来た道を戻り、障子を開けて前の部屋へ。
「何あれ! 何あれ! 何なのあれ!」
もつれそうながらも外へ向かって駆ける。
「もしかして」
メリーがはっと気づいた様子で声を上げたので、蓮子が問い返した。
「何? 分かるの?」
「挨拶もしないで上がり込んだから怒ってるのかも。謝りましょう」
「んな、訳あるかぁ!」
そうして部屋を通り過ぎ、縁側の簀子まで辿り着いた蓮子が振り返ると、無表情の顔が、百足の体を使って凄まじい勢いでこちらに向かって来ていた。慌てて前を向き、庭へ降りるべきか、簀子を走るべきか考え、簀子の上を駆け出した。
「絶対に捕まったやばいから!」
「誠意を持って謝ればきっと」
「分かってくれる様な顔してないだろ!」
その時、蓮子は自分の足元が抜ける感覚がした。
「あ」
呟いた時にはそのまま腐った床の下に落ち、上半身が嵌った状態で固定される。
「嘘!」
慌てて抜けようとするが、体が抜けない。腐った木が体に食い込んで痛みが走った。後ろを振り向くと、無表情の顔が迫ってくる。
「くそ! 抜けろ!」
だが抜けない。
どうやっても抜く事が出来ない。
「蓮子」
メリーが蓮子を助けようと駆け寄ってきた。だが助けてもらえる時間は無い。背後から感じる生暖かい息が何よりの証拠だ。むしろこのままではメリーまで巻き込まれてしまう。
「蓮子、今助けるから」
メリーが蓮子の手を掴もうとする。その手を払って、蓮子は力一杯メリーの体を突き飛ばした。突き飛ばされたメリーは小さく悲鳴を上げて尻もちをつき、そして絶望的な表情をして蓮子と目を合わせた。
蓮子は叫ぶ。
「お願いだから早く逃げて! 私の事は良いから!」
メリーが涙を浮かべながら、口を開いた。
その声を聞く前に、蓮子の視界は真っ黒になった。
次の瞬間、上半身を噛みちぎられた。
そして感覚が暗転した。
続き
第二章 夢の帰り道を示すなら
認識が世界を作るというのは、どれほど恐ろしく嫌らしいことでしょう。依って立つ地面が無いのですから!
確かに秘封に繋いだ方がいい雰囲気ですね。
教授の理論ややこしいけど!
空間を同期した先にどうしてあんなものがいるのか。
蓮子はなぜ同期を切ってもらうことに思い至らなかったか、あるいは教授が何かしたか、逆になにもしなかったのか。
本気で現実と同期したのはどっちだったか。
ふむふむ、謎が一杯ですな。
別れを連想させる危うい関係とSF成分、やはり秘封は良いですね!!
夢見の理論とか、ヘッドマウントディスプレイだけで五感を再現、とかワクワクします。
さてさて、続きを読んできます。