それは、ひとのすがたをした、死であるので、けっして近づいてならないと、よくよく、伝えられていたはずだった。
むろん、彼らに“ことば”はない。“ことば”はないから、ただ、なんとない『感じ』、そう、身のうちから起こってくる『感じ』が、それがすがたを見せたときの、不吉さというものを、どうにかして、言いあらわすことができる手なのだ。それを見ると、みなは膚(はだ)を覆う灰いろの毛並みが、ぜんぶにぜんぶ、おそろしさに波打ちはじめてしまう。男も女も、金いろのその眼をどうかしてすぼめて、それが通りすぎるのを、つとめて待とうとねがうのだ。
それが、すがたを見せるのは、決まって、秋の深まりはじめるころだった。
そのころには、もう、みなが知っている山じゅうという山じゅうが、顔を変えようとこころみている。これを越せばもう冬も近いのだ。見上ぐれば、丸々と木の実が肥え太り、見下ろせば、ほかのけものたちのにおいのない日は、もう、ないといえる。どちらに鼻先を向けても、うまそうなにおいだけが、そこには、ある。
だけれども、いまは、そういうにおいのすべてが、彼をくるしめるだけのものに、成り下がってしまった。ふもとを走るむかしのなかまたちを、彼は、ほう、と、浅い息をついて、見た。彼の妻とか、子とか、群れの長だとか、獲物の数を競ったことのある友だとか、そういう者らが、みな、列をつくったり、あるいは思い思いに、黄金いろになりかけた大地を、絶え間なく駆け抜けているように、そう、感じた。だれもみな、なつかしい顔つきばかりだ。それでその一方、山からずううっと見つめている彼には、とうとう気づきもしないのである。夏のおわり、ひどい嵐がやってきて、彼よりほかの者たちの、いのちは、そのいっさいが、にごった川に喰われて、なくなってしまったのだ。彼は、そのときから、ひとりになった。ひとりだけ、生きてしまったのだ。
狼は、群れるいきものだ。
群れを、なくした狼は、狼ではない、きっと、別の、獣だったのかもしれない。
彼は、戦い、ということをこそ、しなかった。
そのかわりとして、どこか、ずるいところがないではなかった。熊の食べ残しを、あさりにいったこともあるのだし、山じゅうをのし歩く、あの狗のような人のような者たちよりはやく、迷い入ったふもとの人間を、喰いに行ったこともあった。猪の“ぬた場”で、泥を浴び、身をひそめて、敵をやり過ごしたこともあった。そういうことを、しばらく続けたところで、彼のからだは、病みついた。毛が、盛んに抜け落ちて、膚は、かゆみにゆがんでいた。あるとき、水面(みなも)にうつった自分の顔を見て、彼は、ひどく、おどろいた。もう、これが、狼であるというのを、誰も、気づいてくれはしないだろう。だから、いま、ふもとに群れ、つどっているように見える、彼のほかの狼たちも、彼を見たところで、きっと、仲間だったあの狼だとは、きっと、思ってくれないだろう。
その晩、彼は、二度か、三度か、高く、高く、吼えて見せた。
誰ひとりも、応えてくれることはない。かれた喉を、虚しくするばかりなので、そのうち、彼は、吼えることさえ、止めてしまった。かなしい、というのでは、なかった。狼が、涙を流せない、ということが、こんなにも、悪しき病みたいな影をもつ、という思いは、きっと、われわれの思い過ごしだろう。彼は、ただ恋しいのだ。たくさんの狼が、群れ、つどって生きていたころばかりが、恋しいのだ。そのうち、彼は、何もかも、諦めた。そうして、そのままねむりはじめた。
つぎの朝になって。
彼は、からだをうごかすことが、まったく、できなかった。
うう、といううめきばかりは、そのかれた喉から、どうにか、しぼり出すことはできるのだが、もはや四つの足も、金いろの眼も、するどい牙をそなえたあごも、なにひとつ、思いどおりになるものがなかった。灰いろの毛並みを、すっかり、なくしていた膚には、どうにか、ひどいかゆみを感じるばかりのものが、残っていたはずだけれど、今は、それさえ、もう、ないのだ。
うう、ん、と、彼は、また少し、うめいた。
自分の声を、耳に入れることは、まだできる。ただ、眼の方は、すっかりつぶれてしまっているようだ。それなのにぼんやりともせず、むしろ、いつも以上に、冴えた頭をもっているのが、ひどく、ひどく、彼のくるしみに違いなかった。むかし、おなじようなことになって、死んでいった年寄りがいたのを、彼は、思い出した。ひどく病みついて、からだが動かなくなると、山じゅうの葉が赤く染まるより早く、冷たくなってしまうのだと。
だらだらと、彼は、よだればかり垂らした。
渇いた“べろ”を突き出していた。
おれも、死んだら、ふもとに行けるだろうかと考えた。
あそこには、群れのみなが、どうやら大勢、いるようなのだ。
ならば、おれも行かねばならない。
だけれども、このからだでは行かれない。
だれかが、連れて行っては、くれないか。
彼の頭のなかに、ひとつ、思いあたるものがあった。
群れの“おきて”で、よく、よく、言いふくめられていた、あの“死”ばかりが、人のすがたをした“死”ばかりが、おれをふもとに、連れて行ってはくれないか。まだ、鼻が利くうちに、彼は“死”を、探した。懸命に、探した。それは、山じゅうの木々という木々の葉が、赤や黄色に染まったときのにおいだ。それは、せっかちな、冬の香りなのだ。いのちを腐らすことのできる、かんばしい、うつくしさであったのだ。
感ずることができなくなったはずの、彼の膚に、ツと、ふれるものがあった。
それは、あたかも、いずれの獣にも喰われることなく忘れさられた、腐りかけた兎の肉のように、あたたかかった。やさしい感じがした。母狼の胎から産まれでたばかりの、子狼の小さなからだを包む、和毛(にこげ)のように、心地よかった。彼は、それが何であるかに、気がついた。ずううっと、ずっと、待っていたものだ。人のすがたをした“死”が、彼をむかえに、やって来たのだった。
そのとき、彼のくるしみは、そのすべてが、急にうすらいで、何もかも、いちどに、なくなってしまった。彼じしんもまた、何もかもなくなった。その膚も、かろうじてのこっていたわずかな毛も、肉も、骨も、牙も、何もかもが腐り果て、なくなってしまった。とうとう、かれのいのちは、尽きたのだ。
ただひとり、そこに残った“死”は、暁にうかぶ、やわらかな光のようにほほ笑むと、彼に――狼にふれていたのと同じ手で、まわりの、木という木に、次から次へとふれていった。まだ染むことをせずに残っていた木々たちの葉が、あっという間に、赤々としたものに、かわっていく。それは、あたかも、ほんとうの狼が、山を駆けまわるのと、同じくらいの早さだった。“死”は、そうしてすべてを、迎え入れ、ゆっくりと、終えたらしかった。満ちたりたようすで、その足どりは、ふもとに向いた。
“死”は、けっして、人びとのまえにすがたをあらわすということを、しなかった。
それは、“彼女”の役目ではない。どんな者も、自分をほろぼすことなく次の者を産みだすことは、できないのだ。“彼女”は、そのような真(まこと)を、絶えることなく行っているというだけだ。“彼女”が、その眼で、さっき自分が、葉を赤く染めた木々を、見上げると、青く痩せたままだった果実でさえ、ゆたかに、肥りはじめるきざしを見せていた。あれらの、果実もまた、いつか“彼女”の手で、腐り落ちて、次の木々を、獣を、そだてる糧に、なるだろう。そんなゆたかさが、ほどなく、ふもとにまでも行き着いて、またつぎの秋が、やって来るにすぎない。
ふもとに波打つ、黄金いろの、稲の海原には、“死”の半身である、“穣り”が、狼たちを、引きつれて、飽きることなく楽しげに、駆け続けているのだった。それは、だれにも見えはしないし、けっして、気づかれることもない。誰も知らぬほどの、大むかしから、おわりなく、つづいているという、ただ、それだけのことである。
むろん、彼らに“ことば”はない。“ことば”はないから、ただ、なんとない『感じ』、そう、身のうちから起こってくる『感じ』が、それがすがたを見せたときの、不吉さというものを、どうにかして、言いあらわすことができる手なのだ。それを見ると、みなは膚(はだ)を覆う灰いろの毛並みが、ぜんぶにぜんぶ、おそろしさに波打ちはじめてしまう。男も女も、金いろのその眼をどうかしてすぼめて、それが通りすぎるのを、つとめて待とうとねがうのだ。
それが、すがたを見せるのは、決まって、秋の深まりはじめるころだった。
そのころには、もう、みなが知っている山じゅうという山じゅうが、顔を変えようとこころみている。これを越せばもう冬も近いのだ。見上ぐれば、丸々と木の実が肥え太り、見下ろせば、ほかのけものたちのにおいのない日は、もう、ないといえる。どちらに鼻先を向けても、うまそうなにおいだけが、そこには、ある。
だけれども、いまは、そういうにおいのすべてが、彼をくるしめるだけのものに、成り下がってしまった。ふもとを走るむかしのなかまたちを、彼は、ほう、と、浅い息をついて、見た。彼の妻とか、子とか、群れの長だとか、獲物の数を競ったことのある友だとか、そういう者らが、みな、列をつくったり、あるいは思い思いに、黄金いろになりかけた大地を、絶え間なく駆け抜けているように、そう、感じた。だれもみな、なつかしい顔つきばかりだ。それでその一方、山からずううっと見つめている彼には、とうとう気づきもしないのである。夏のおわり、ひどい嵐がやってきて、彼よりほかの者たちの、いのちは、そのいっさいが、にごった川に喰われて、なくなってしまったのだ。彼は、そのときから、ひとりになった。ひとりだけ、生きてしまったのだ。
狼は、群れるいきものだ。
群れを、なくした狼は、狼ではない、きっと、別の、獣だったのかもしれない。
彼は、戦い、ということをこそ、しなかった。
そのかわりとして、どこか、ずるいところがないではなかった。熊の食べ残しを、あさりにいったこともあるのだし、山じゅうをのし歩く、あの狗のような人のような者たちよりはやく、迷い入ったふもとの人間を、喰いに行ったこともあった。猪の“ぬた場”で、泥を浴び、身をひそめて、敵をやり過ごしたこともあった。そういうことを、しばらく続けたところで、彼のからだは、病みついた。毛が、盛んに抜け落ちて、膚は、かゆみにゆがんでいた。あるとき、水面(みなも)にうつった自分の顔を見て、彼は、ひどく、おどろいた。もう、これが、狼であるというのを、誰も、気づいてくれはしないだろう。だから、いま、ふもとに群れ、つどっているように見える、彼のほかの狼たちも、彼を見たところで、きっと、仲間だったあの狼だとは、きっと、思ってくれないだろう。
その晩、彼は、二度か、三度か、高く、高く、吼えて見せた。
誰ひとりも、応えてくれることはない。かれた喉を、虚しくするばかりなので、そのうち、彼は、吼えることさえ、止めてしまった。かなしい、というのでは、なかった。狼が、涙を流せない、ということが、こんなにも、悪しき病みたいな影をもつ、という思いは、きっと、われわれの思い過ごしだろう。彼は、ただ恋しいのだ。たくさんの狼が、群れ、つどって生きていたころばかりが、恋しいのだ。そのうち、彼は、何もかも、諦めた。そうして、そのままねむりはじめた。
つぎの朝になって。
彼は、からだをうごかすことが、まったく、できなかった。
うう、といううめきばかりは、そのかれた喉から、どうにか、しぼり出すことはできるのだが、もはや四つの足も、金いろの眼も、するどい牙をそなえたあごも、なにひとつ、思いどおりになるものがなかった。灰いろの毛並みを、すっかり、なくしていた膚には、どうにか、ひどいかゆみを感じるばかりのものが、残っていたはずだけれど、今は、それさえ、もう、ないのだ。
うう、ん、と、彼は、また少し、うめいた。
自分の声を、耳に入れることは、まだできる。ただ、眼の方は、すっかりつぶれてしまっているようだ。それなのにぼんやりともせず、むしろ、いつも以上に、冴えた頭をもっているのが、ひどく、ひどく、彼のくるしみに違いなかった。むかし、おなじようなことになって、死んでいった年寄りがいたのを、彼は、思い出した。ひどく病みついて、からだが動かなくなると、山じゅうの葉が赤く染まるより早く、冷たくなってしまうのだと。
だらだらと、彼は、よだればかり垂らした。
渇いた“べろ”を突き出していた。
おれも、死んだら、ふもとに行けるだろうかと考えた。
あそこには、群れのみなが、どうやら大勢、いるようなのだ。
ならば、おれも行かねばならない。
だけれども、このからだでは行かれない。
だれかが、連れて行っては、くれないか。
彼の頭のなかに、ひとつ、思いあたるものがあった。
群れの“おきて”で、よく、よく、言いふくめられていた、あの“死”ばかりが、人のすがたをした“死”ばかりが、おれをふもとに、連れて行ってはくれないか。まだ、鼻が利くうちに、彼は“死”を、探した。懸命に、探した。それは、山じゅうの木々という木々の葉が、赤や黄色に染まったときのにおいだ。それは、せっかちな、冬の香りなのだ。いのちを腐らすことのできる、かんばしい、うつくしさであったのだ。
感ずることができなくなったはずの、彼の膚に、ツと、ふれるものがあった。
それは、あたかも、いずれの獣にも喰われることなく忘れさられた、腐りかけた兎の肉のように、あたたかかった。やさしい感じがした。母狼の胎から産まれでたばかりの、子狼の小さなからだを包む、和毛(にこげ)のように、心地よかった。彼は、それが何であるかに、気がついた。ずううっと、ずっと、待っていたものだ。人のすがたをした“死”が、彼をむかえに、やって来たのだった。
そのとき、彼のくるしみは、そのすべてが、急にうすらいで、何もかも、いちどに、なくなってしまった。彼じしんもまた、何もかもなくなった。その膚も、かろうじてのこっていたわずかな毛も、肉も、骨も、牙も、何もかもが腐り果て、なくなってしまった。とうとう、かれのいのちは、尽きたのだ。
ただひとり、そこに残った“死”は、暁にうかぶ、やわらかな光のようにほほ笑むと、彼に――狼にふれていたのと同じ手で、まわりの、木という木に、次から次へとふれていった。まだ染むことをせずに残っていた木々たちの葉が、あっという間に、赤々としたものに、かわっていく。それは、あたかも、ほんとうの狼が、山を駆けまわるのと、同じくらいの早さだった。“死”は、そうしてすべてを、迎え入れ、ゆっくりと、終えたらしかった。満ちたりたようすで、その足どりは、ふもとに向いた。
“死”は、けっして、人びとのまえにすがたをあらわすということを、しなかった。
それは、“彼女”の役目ではない。どんな者も、自分をほろぼすことなく次の者を産みだすことは、できないのだ。“彼女”は、そのような真(まこと)を、絶えることなく行っているというだけだ。“彼女”が、その眼で、さっき自分が、葉を赤く染めた木々を、見上げると、青く痩せたままだった果実でさえ、ゆたかに、肥りはじめるきざしを見せていた。あれらの、果実もまた、いつか“彼女”の手で、腐り落ちて、次の木々を、獣を、そだてる糧に、なるだろう。そんなゆたかさが、ほどなく、ふもとにまでも行き着いて、またつぎの秋が、やって来るにすぎない。
ふもとに波打つ、黄金いろの、稲の海原には、“死”の半身である、“穣り”が、狼たちを、引きつれて、飽きることなく楽しげに、駆け続けているのだった。それは、だれにも見えはしないし、けっして、気づかれることもない。誰も知らぬほどの、大むかしから、おわりなく、つづいているという、ただ、それだけのことである。
どことなく宮沢賢治を思い出しました。
また、二週目を読んではじめて物語の全貌が見えてきた気がします。深い文章とはこの事ですね。
原作では散々な扱いの秋姉妹ですが、大自然の歯車として重要な役割を果たしていたんだな、と気づかせてくれました。
文章に関してです。
とにかく読点が多いのが目につきました。
ちょっと多目にすることは文章を強調させる効果がありますが、これは多すぎるな、と。
全体的に減らして、本当に大事な部分で読者の注意を引くような配置にしてはどうでしょう。
また、ひらがな表記が目立ったのは意図しての事なのでしょうか?
漢字変換は気を配らないと、稚拙に見えたり、無理に背伸びをしているようにも見えてしまいます。注意してみてください。
とはいえ、ストーリーは非常に楽しめました。次回作も期待しています。
死と実りは裏表の関係にあるのです、・・・幻想郷では。
読点や意図的な平仮名表現、雰囲気が出てて良かったのですが、ほんのちょっと、読みづらくも感じました。
秋姉妹の新しい可能性を見た気分です。
文章の書き方も作品の世界観を盛り上げていて、本当に上手いと思いました。ただ、少しだけ読点が多く、一部読みづらかったです。
「刻む」ものとしての読点だったのかしら。
でも、よ、み、に、く、い、よ。テンポが犠牲にされているのは否めないかと。
それより、ナンデコンナニレート高イノ? ステマだ!!!(もちろん冗談ですよ?)
終わり方がまたいいと思います。
新しい発想を与えられる作品でした。
紅葉は美しいだけではなくてそこに死を孕んでいると、なるほど言われてみればそうだなぁ、素敵なイメージだなぁと思いました。
こうずさんの文章の、きれいな言葉でひたひたと静かにお話が進行していく感じ、好きです。
百点は大袈裟かな、九〇にしといた方が誠意的かな、何て思いもしたが、やはり潔く満点を差し上げたい。
童話芽いて、教科書に記載されそうな堅苦しさと、これ以上ないくらいの気安さが見てとれた。読点の多用も、訥々として素朴な空気をよく表すのに一役買っていた。
元来、幻想郷などなくとも自然は美しく残酷に巡っている。その一端に死と穣りがあり、あまねく生命は彼の姉妹神の根元的な子らである。
上手くて旨い。ご馳走様です。
自分にはこのような作品から色々な事を感じる何かを持ち合わせては無いみたい
何となくこんな感じというのがあっても、具体的には分からない
自分がこう感じたというものを表現できなければ、作品に対して失礼だと思う
なので、申し訳ないが評価はできない
こういう作品から色々感じる事ができる人が羨ましい