Coolier - 新生・東方創想話

家の中の他人

2013/11/27 20:11:09
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 深く沈んだ夜の闇が、うっすらと白ずみ始めた頃。空気を震わせて玄関の引き戸が叩かれる。
 規則正しく動いていた心臓の鼓動が変速し、上白沢慧音は布団から飛び起きた。
 開けきらない目で辺りを見回す。寝室に入り込む光の具合から、普段起きる時間よりも大分早い時間だと察する。
 寝坊したわけではないと悟り安堵する。しかし今度は玄関から響く音に嫌な予感を覚えた。
 
 ――――こんな時間にいったい誰が……?

 妖怪でも暴れたのか。それともまたもや竹林が焼けたのか。なんにせよ、目出度い事ではあるまい。
 慧音は寝巻きの裾を直し、頭を切り替える。
 
 響く音をよく聞くと、随分控えめに戸を叩いているとわかる。少なくとも、無遠慮な大人の叩き方ではない。小刻みに空気を震わせているそれは、もしかすると子供のものかもしれなかった。
 
 少し穏やかに対応してみるかと、慧音は夜の明け切れぬ朝を迎え入れた。

「どなたかな?」
 
 戸を開けると、清々しい香りが入り込んだ。そこには一人の少女が立っていた。

「……………先生」

 慧音が寺子屋で教えている生徒だった。
 随分と沈んだ声である。日頃も元気一杯とは言いがたい生徒だが、ここまで沈んだ姿を見たのは初めての事だった。

「どうした?」

 こんな朝早くから、という言葉は飲み込む。慧音の嫌な予感は、半ば確信となっていた。

 数瞬の沈黙。やがて、「弟が…………」と絞るような口調で話し出した。

「弟が?」

「……死にました」

「…………」

 今度は慧音が沈黙を必要とした。

「殺されたんです」

 重ねられたその言葉に、慧音は自分の手の平がじっとりと汗ばむのを感じた。


 
 寺子屋の玄関前と人里の連絡板に臨時休校の旨を書いた紙を貼り付け、慧音は少女の家に向かった。
 道中、黙って足を進める少女の手を握りながら、慧音は静けさに沈む道を征く。弟を亡くしたばかりの少女にとって、その道行は一体何を意味するのか。
 
 玄関口での会話以降、少女はまともに言葉を発さなくなった。慧音からしてみると、もっと詳細な情報が欲しいところだったがこれは仕方ない。事実確認のため、直接出向く事にした。
 そのために寺子屋を休校にした事を、やり過ぎだとは思わなかった。少女が今頼っているのは、他の誰でもなく慧音だ。慧音はそれに出来る限り応えるつもりだった。
 今、自分に出来る事はこれぐらいだと、慧音は少女の手をしかと握りしめ寄り添い歩く。
 
 
 典型的な日本家屋が集まる中、一段高いところにそびえる洋風に飾られた少女の家は異彩を放っていた。
 豪華に意匠が施された門の前に、若い男が数名たむろしている。訝しみながら慧音と少女が近づくと、内の一人が声を上げた。

「慧音先生!」

「……ああ、誰かと思えばお前か」

 声を上げた男は、数年前に慧音の寺子屋を卒業した元教え子であった。
 見れば、その他の男達も慧音が教壇から見ていた顔ばかりだ。

「なんだ、お前たち一体ここで何をしている?」

「なんだも何も、俺たちもよくわかんないんスよ。誰かが死んだーって話で。自警団の訓練終わって爆睡してたところを、おやっさんにいきなり叩き起こされて。この家に不審者が来ないか見張ってろって言われて。あ、もちろん慧音先生は不審者なんかじゃないッスよ。てか、何でこんな時間にこんな場所に?」

 傍らにいる少女が、ぎゅっと慧音の服の裾を掴む。確かに、こんなところで無駄話をしている場合ではない。

「いや、知らないならいい。おやっさんというと自警団の団長殿だな。彼は今どこに?」

「おやっさんなら、この家の人と一緒にどっか行っちゃいましたよ。あ、そういや娘さんがどっか行ったってんで、おやっさんがこっちに戻ってき次第探しに行くことになってるッス…………あれ? その嬢ちゃんひょっとして」

「ああ、その娘さんだ」

 そう言うと、慧音と少女は門を開け、家の中へ入っていく。

「あ、先生ちょっと」

「みんな、しっかりと務めを果たしてくれよ? 私も不審者は怖いからな」

 一応止めようとする青年たちに対し、慧音は去り際にウインクをして見せた。
 
 慧音が家の中に去った後、残された青年たちの目は何者をも見逃さんとする鷹の目だったと後にいう。



 少女の部屋は、二階の八畳程度の洋間であった。
 洋物のベッドに机。本棚にタンス。全て整えられており、床には埃らしい埃は落ちていないように見えた。

「綺麗にしてあるんだな」

 慧音が言うが、少女はそれには何も答えなかった。

 
 朝の光が段々とその大きさを増す。
 状況は慧音が思っていたよりも進行していた。少女の発言の事実確認は取れたも同然。自警団も動き始めているとなると、慧音が求められる役割など限られている。
 人里の守護者と持ち上げられているものの、所詮は一介の教師だ。今は、傷ついた生徒の傍にいる事こそが、やはり最良であろう。
 
 少女から言葉が零れるまで、慧音はじっと待った。

「…………弟は、三ヶ月でした。赤ちゃんだったんです、まだ」

 やがて、力無く少女が呟いた。その顔は、余命幾ばくも無い枯れ木の様だった。

「お月様がまだ南の空にあるぐらいの時間だったはずです。私は、この部屋で眠っていたんですが、突然悲鳴が聞こえたんです」

 ポツリポツリと語る少女。慧音は無言で先を促す。

「訳も分からず飛び起きて、下の部屋に行ったら、あの人が弟を抱いて狂ったように泣いてました」

「あの人?」

 慧音が聞くと、少女は振り絞るように拳を作って、

「母の新しい男です」

 と吐き捨てた。

「ああ……」

 慧音は、少女の実父が数年前に他界し、一年ほど前に再婚していた事を思い出した。

「――――首を」

「え?」

 か細く震える声を聞き取ることが出来ず、つい慧音は聞き返した。

「絞められていたんです、首を」

「首……を?」

 そして、少女は首を絞める手つきをした。

「こう、息が出来ないようにギュッと、そんな後が残ってて。ええ、きっと呻き声も上げられなかったんじゃないかな。聞こえていたら、誰かが止めに入ったでしょうから」

 赤子の首を締める。少女の手つきから、その首の細さを想像してしまい、慧音はえも知れぬ恐怖を感じた。
 優しい手に抱かれているべき赤子を、握りつぶす行為。その手は一体何の手なのか。

「いつもは閉めている裏の勝手口が開いてて、多分犯人はそこから入ってきたんだと思います。何をしに盗み込んだのか。なくなったのは、結局弟の命だけです」

 少女の目が赤く充血している事に、慧音は当初から気付いていた。恐らく、弟の死に際して泣きはらした痕なのだろうと察しがつく。
 慧音は少女を抱きしめる。涙を枯らした少女は、枯らしているが故に涙を流す事なく、慧音の背を力一杯掴んだ。
 密着した少女の身体から、清々しい香りがした。


 そのうちに、少女の両親が自警団の団長を連れ添って戻ってきた。他にも、何人か里の相談役が見える。自分の役目は一旦の終わりを見たことを慧音は察した。
 慧音は少女の胸の内を代弁した。少女の衝動的な行動が大人達に一定の理解を得たと見ると、別れの言葉の代わりに少女の手を両手で優しく包み込んだ。私は味方だと、そう想いを込めて。
 少女が、その手を確かな力で握り返す。そして、少女の呟く大丈夫ですという言葉を背に、慧音は歩き出した。
 
 ――――こんなことは許される事ではない。
 
 心を硬くしながら、慧音は坂道を下った。
 
 

 同日の昼。慧音が自宅で寺子屋の直近の授業要綱を組んでいると、射命丸文が訪ねて来た。

「いや~、今日は何かあったんですか? なんだか一部ピリピリしてますよねえ、空気が」

 面白そうなものでも見付けたかのような声で、文が言う。

「……さてな」

 慧音はそっけなく返した。

「あやや、私は貴女に言われて来たんですがねえ。なんでもいいネタ話があるとかで。ああ、ひょっとして今の状況に関係あります?」

 文がおどけながら言う。

 それには答えず、慧音は姿勢を正し、語り部として文に向き直る。
 その様子に話が早いと、文も手帳とペンを構えた。
 
 そして慧音は早朝からの赤子殺害事件に関して、文の様子を注意深く観察しながら、自分が知り得る事をすべて話した。

「ふむ、里の中――それも家に居ながらにして赤子が縊り殺されるですか。確かに惨い事件ではありますねえ」

「そうだ。とても痛ましく、残された家族の心中は察するに余りある」

 自分事のように慧音は語る。その傷心の生徒を一心に想う慧音に、文はわずかに警戒心を見せた。

「……どうやら、純粋なネタの提供というわけではなさそうですね。なんだか嫌なものを感じますよ」

 その指摘に、慧音は臆せず答える。

「そうだ。真っ向から言えば、私は妖怪を疑っている。天狗攫いといったか。子供を攫うというのは、お前たち天狗のお家芸だろう?」

 文は、表情を変えない。

「彼女は、私の教え子だ。できる限り、私は彼女の力になる」

 慧音は、いつの間にか握っていた拳にさらに力を込める。

「だが、傍で励ますにしても犯人が判明しなければ安息は訪れない。ひょっとしたら、次があるかもしれないのだ。しばらくは自警団が警戒態勢につくだろうが、相手がもし妖怪ならばまさかの自体も有り得る。妖怪が人間を襲うのは摂理だとしても、指を咥えてそれを見ているわけにもいかない」

 そして標的になっているかもしれない少女。その心中は如何ほどなのか。
 
「…………なるほど」
 
 慧音の布告に、しかし文は無感動だった。

 しばしの沈黙。そして、文は一度目を閉じ諦めるようにして息を吐いた。
 
 これは特別サービスですと、文は続ける。

「一つ、お教えしましょう。基本的に、天狗攫いというのは箔付けなんですよ。子を攫い、教育・世話をする事に意味がある。人間も、子を為し家庭を築いて一人前という考え方があるでしょう? それと同じなんです。だから――――」

 攫うのを失敗し、あまつさえ死なせておいて放置するなど憤死ものだ、とその天狗は言った。

「死なせた場合、手段や場所はともかくとして、手厚く葬るのが決まりです。そして天狗にとって規則がどういうものかは、解っておいででしょう?」

 故にありえないと。文は言外にそう断言した。

 その意図を理解する。

 されどポツリと慧音の口から零れ落ちた。

「お前も、その箔を付けたことがあるのか……?」

「――――――さて、それに答える義理はありませんね」

 それまで変わらなかった文の表情が豹変した。
 
 確かに――――それは、今は何の関係もない話だった。

「貴重なお話ありがとうございました。この話題は、あまりいい記事を書けそうにありませんね。新聞のネタは他を当たる事にします」

 気を取り直したように、文が言った。見れば手帳もペンもいつの間にか文の手から消えていた。

「……そうか。いや、試すような事をして悪かった」

「いえいえ。妖怪で、天狗なのですから疑われて当然です。次は、本当にいいネタをお願いしますよ」

 と、文は立ち上がり空を向く。が、去り際にもう一度振り返り、言葉を残した。

「その事件、もう少し深い所まで探ってみた方がいいかもしれません。ひょっとしたら問題は根深いかもしれませんよ」

「何……?」

「家族間の関係とかね。後は、赤子の殺害前後に裏口の鍵が本当に開いていたかどうか、とか。ま、鍵の方は大して意味をなさないかもしれませんが」

 一瞬、文の顔が歪んだと、慧音は感じた。

「早い解決を期待しています。シアワセな結末もね。それでは」

 言うが早いか文は飛び立ち、つむじ風だけが残った。

「どういう事だ……?」

 慧音の乾いた呟きに答える者は、誰もいなかった。



 
 文の訪問から数時間後。黄昏を過ぎ、星がまばらに現れ始めた頃。往来で、慧音は自分を呼び止める声に振り向いた。
 聞き覚えのある声だ。というよりも今朝聞いたばかりの、ほんの少しだけ懐かしい声だった。

「先生先生! 良かったッス、寺子屋に居ないから探しちゃったッスよ」

「……お前な、朝も思ったがそのしゃべり方は変わらないのか」

 へへと、鼻を擦る元教え子の青年に、慧音は昔と変わらぬ溜息を付いた。

 
 青年の誘いで茶屋に入る。いまいち流行っていないのか、客席の数に対して客が疎らだった。
 青年の行きつけの店なのか、店員と親しげに二、三言交わし、奥まった場所に通された。
 そして注文を終えると、青年は前置きもなしに語りだした。

「先生、まずこの事件に妖怪は関わってはないッス。昼過ぎ辺りで、博麗の巫女さんに妖怪の気配を検分してもらったんで確実ッスね」

「待て待て。お前は捜査する側の人間だろう? 部外者にそんな事を話していいのか? 妖怪の仕業ではないというのであればなおさら」
 
 青年は顔をしかめて言う。

「そりゃまあ、そうッスけど。でも先生、情報ないと結構突っ走っちゃう所あるじゃないッスか。割と後先考えないっていうか」

 図星を突かれ、言葉に詰まる慧音。さすがに元教え子であった。

「目が泳いでるんスけど…………そりゃジッとはしてないだろうなあとは思ってたッスけど、ひょっとして突っ走ってました?」

 さすがに天狗に喧嘩を売ったとは言えない。

「心配するな。捜査の邪魔はしてないし、もう話はついている」

 すまし顔で言う慧音に、青年は苦笑を漏らした。

「まあ、大事になってないようで良かったッス。で、話続けると、妖怪の仕業じゃないってんなら人間の仕業だろうと。さすがに事故ってのは考えられない。赤ん坊は首を絞められてるわけッスからね。で、次は物盗りの線を考えた。だけど家族の話じゃ、盗られた物は何もない」

 そこで青年は一息つく。

「赤ん坊の遺体を発見したのは奥さん。同じ時間にする夜泣きを赤ん坊がしないからって様子を見に行ったら、その時にはもう息をしてなかったそうッス。旦那さんも熟睡してたらしくて、外から誰かが出入りする気配も音も感じなかったそうで。これはお嬢ちゃんも同様。犯人の物と思しき物品もなし」

 つまり手掛かりになりそうなものは、何もないということだ。犯人は、誰にも気づかれず、赤ん坊の命だけを奪って消えた。

「自警団じゃ、犯人は盗みを働く為に裏口から進入。目当てのものを物色中に赤ん坊に泣かれそうになったから殺して、それで慌てて逃げたって事で捜査を進めてるッス」
 
 図ったようなタイミングで注文した品が来た。少し高級な茶と付属の和菓子だ。
 慧音は、香りの良い茶を口に含み、情報を整理した。

「それは都合が良すぎないか? 裏口は、いつもは鍵が掛かっていたと聞いたぞ。偶々鍵を掛け忘れたところに、偶々盗人が這入った。出来過ぎだろう」

 青年は無表情で答えた。

「その通りッス。だからそれはあくまで表向きの話。被害者の方のために誂えたストーリーで、実際は違う線で動いてるッス」

 鍵。

 ふいに昼間、射命丸文が言ったことを慧音は思い出した。

「……つまり、家族が事件に関与していると?」

「そうッス。先生が言った通り、偶々が重なり過ぎなんスよ」

 若干声を落とし、青年は続けた。

「一部じゃ有名な話なんスけど、実は、あの家の夫婦再婚したはいいものの、関係が歪なんスよ。奥さんが旦那に……隷属?してるっていうんスかね。旦那のやる事為す事ノーガード。黙って耐え忍ぶって生活をしてるみたいで。それをいい事に、奥さんが家にいるにも関わらず、旦那は愛人連れ込んでよろしくやってるって話もあるッス」

 初耳であった。なんとも生々しい話である。慧音は少しめまいを覚えた。

「自警団の本命は、その愛人ッス。ただ、いるって事は確かなんスけど、どこの誰かまではわからない。」

 青年は、用意していたセリフを読み上げるように続けた。

「周辺に聞き込みをして事件当時の目撃証言を集めてるんスけど、まあ集まらない。深夜なんで当たり前なんスけどね。夜行性の妖怪も出歩くような場所じゃないからそっちからも見込めない。旦那さんに問い詰めてものらりくらりと躱される。奥さんも同様」

 そこで一度息をつき、青年は湯のみを口にする。

「そこで先生にお願いがあるんス。朝、先生と一緒に居た、あのお嬢ちゃん。あの子からその愛人についてさり気なく聞いてもらえませんか?」

 どうやら、これが本題のようだった。

「それは自警団側からの正式な依頼か? 私に、傷心の教え子に土足で踏み入れと」

 青年は大げさに手を振る。

「こりゃ、元教え子からの切実なお願いッスすよ、先生。それに、踏み入れるんじゃなくて、話を聞いてあげる、ッス。きっと先生と話すことをあの子も望んでる」

「…………前言撤回だ。お前は、しゃべり方は変わらないが、口は上手くなったな」

 少し寂しそうに言う慧音。その声色に、青年は逸らすように目を閉じた。


 
 結局、慧音は元教え子のお願いを聞くことにした。事件の一刻も早い解決こそが、少女を日常へ戻す最適な手段であると思ったからだ。

 帰り道を送るという青年の言葉は固辞し、一人慧音は家路へ付く。いつもは喧しいと感じる鈴虫の音が、どこか遠くに聞こえた。





 翌日。寺子屋の講義を危険人物出没という名目で午前中までとし、慧音は急ぎ少女の家へ足を向けた。
 通夜は明日執り行うらしい。今日が友引なのを嫌ってということだった。
 屋敷の前まで来る。昨日と比べ、随分と寂しげな雰囲気のように慧音は感じた。
 それは、少女から情報を引き出す事に抵抗を覚えていることに無関係とも言えなかった。
 呼び鈴を鳴らす。しばらくして、少女が玄関口に出た。

「先生……どうして」

 不意を突かれたという顔で少女は言う。

「私はお前の先生だぞ? 来ないわけ無いだろう」

 憔悴した様子の少女に、慧音は可能な限り明るい顔で微笑む。

「……ありがとうございます」と、少女が儚げに漏らした一言に、慧音はわずかに胸の痛みを覚える。

 その痛みに、慧音は自分の行為が間違ってはいないが正しくもないということを自覚した。

 
 昨日と同じく少女の私室に案内される。家には他に誰もいないようだった。

「ご両親は?」

「いません」

 何事もないことのように少女は言い切った。

「いないとは……」

「母は、通夜の打ち合わせに…………父、は、わかりません。ひょっとしたら自警団の人と一緒にいるのかも」

 それだけ言うと、少女はベッドの上に腰掛け脱力した。少女の方から清々しい香りが届く。
 あまりに艶めかしく、あまりに色気に富む仕草だった。少女のそれではない、女を感じさせるものだった。

 慧音は口の中で溜息をつく。最近は、少女が女に変貌するのは、こんなにも早いのかと。

「……あまり父上とは上手くいっていないのか?」

 そんな場違いな感慨を振り払うべく本題を切り出した。周りくどい事を、慧音は好まなかった。

「そうですね。父としては、上手くいってないですね」と、少女が口端を釣り上げる。

 無理もないと思う。死んだ少女の実父と少女は仲が良かったと慧音は記憶していた。
 一年が経ったとはいえ、まだ一年なのだ。子供が受け入れ切れる時間ではない。
 天狗の言った言葉が頭をよぎった。

「今日は、その事で話をしに来たんだ」

「…………………………え?」

 少女が、酷く動揺した。元より青白かった少女の顔は白くなり、声も震えている。まるで死を宣告された入院患者のようだった。

「ああ、いや、何も君と父上の事じゃないんだ。父上と親しい人を教えて欲しいと思ってね」

 その言葉にも、少女はどこか警戒した様子だった。
 慧音は、少女の拒絶とも言える態度に、婉曲な言い回しをやめた。

「……実は、君の父上と懇意にしている女性がいるらしいと噂を聞いてね。今回の事件にその人が深く関わっているんじゃないかと。昨日だけでなく、その前から見知らぬ女を家で見かけた事はないか?」

 言外に、訪問には見舞い以上の目的があった事を告げてしまったようなものだ。しかし、少女はその言葉に何故か安心した様子だった。
 
「いいえ、私、そんな人、見た事はありません」

 少女は言った。なぜか、腹の底から伝わるような響きだった。そして、少女はそのままベッドに身体を倒し、しばらく無言で天井を見詰めた。
 やがて、「うん」と小さく呟くと勢い良く身体を起こし、そのまま本棚の中から小さな瓶を取り出した。

「先生、これ差し上げます」

 少女が小瓶を慧音に手渡す。

「これは……香水か?」

 外国の言葉が刻まれている。幻想郷では珍しいタイプのものだった。

「どうしてこんなものを?」

 慧音は怪訝そうに訊いた。

「いいじゃないですか。あ、それ付けてあげますね」

 そう言うと、少女は小瓶から手に数滴垂らし、そのまま正面から慧音を抱きしめた。

「な!?」

 慧音の心臓が跳ね上がる。しかし「動かないでくださいね」と、少女が艶惑な声で慧音の動きを静止した。

 少女の手が、慧音の項に伸びる。少女が艶かしい手つきで香水を慧音の身体に染込ませる。
 獲物を絞める大蛇のような動きで、少女の手先が動く。媚薬のような吐息が頬にに触れる。間近で見る少女の目は不自然に――――あるいは自然に潤んでいた。

「はい、これでオッケーです」

 どれくらいそうしていたのか。少女が慧音から離れる。
 少女から香る清々しさが遠ざかる。しかし、自分の首筋から微かに同じ香りが漂ってきているのがわかった。

 慧音はすっかり混乱していた。


「すみません、これから私ちょっと用事があるんです。なので、また明日、です」

 少女の言葉に頷く事しか出来ず、香水の小瓶をいつの間にか持たされる。

「あ、ああ。そういう事なら今日は退散するとしよう。しかし、あれだな。ああいうことは、良くない。もう少し大人になってから、彼氏にでもしなさい」

 説教臭く語る慧音。その様子に、少女は遠くを見つめるように目を細めた。

「先生、お母さんみたい」

 その言葉は、桜色の花弁が飛沫を散らすかのごとく宙を舞い、やがて一時の幻のように消えた。

「……?」

「もうちょっと色気のあることも言わないと、モテませんよ?」

 からかうように少女が言い、慧音はいよいよ顔を赤くした。

 少女の様子にしばし衆巡したが、あんまりと言えばあんまりな自らの惨状に、一度大きく深呼吸をし、結局慧音は少女の家を後にした。
 



「え、先生なんで香水なんか付けてんスか?」

 心底意外そうな声が慧音の耳に届く。昨日と同じ時間、同じ場所で合流した青年の第一声がそれだった。

「…………うるさい」

「いやいや、意外というかなんというかって、え? ひょっとして俺のために……って痛ってーーーー!」

 戯けた事を言う元教え子に制裁を加え、二人は昨日と同じ店に入った。

「昨日の件だが、彼女は知らないそうだ」

 席についても、香水について何事か言おうとしていた青年の気勢を抑えるようにして、慧音が言った。

「ありがとうございまッス! う~ん、知らないか……どうしたもんかなあ」

 頭を抱え青年が言う。

「愛人がいると言ったが、実際のところその根拠はどこから来ているんだ? 目撃者がいるのか?」

 慧音の言葉に「いや……」と、青年がバツの悪い顔をする。

 青年は続けた。

「実は、目撃者はいないんス。所謂憶測で物を言うってやつで、だから俺らも強く出られないんスけど……でも状況証拠はちゃんとあるんス」

「状況証拠?」

 慧音は怪訝そうな顔で訊いた。

「香水ッス。結婚して半年くらい経った時期から、旦那さんから女物の香水の匂いがするって一部じゃ評判だったんスよ。しかも服からとかじゃなくてちゃんと髪やら項からやらで。当時奥さんはもう妊娠何ヶ月って感じでお腹も膨れてたんで、こりゃ愛人だろうと」

 ふむ、と慧音が相槌を打つ。

「そんで好き物がこう家の外からさり気無く出歯亀して、まあ、情事を見ちまってんです。正確にはそんな風に動く影を、ですがね。常識的に考えて奥さんってことはないでしょうから、まあ愛人家に連れ込んで~ってな話になったわけで」

「なるほどな……」

 確かに、それでは愛人がいる事を否定するのは難しそうだ。

「ま、とりあえず明日の通夜を見張るとするッス。万が一ってこともあるかもしれないッスから」

 言った本人も、有り得るとは思っていない口ぶりだった。

 そこで、店員が品物を持ってきた。

「ま、これは謝礼ってことでお納めください」

 見れば、色の良い桜餅だった。考えてみれば、慧音は注文もせずに席についてしまっていた。

「……すまんな」

 いえいえと自分用に頼んでおいたみたらし団子を頬張る青年。その様子は、青年が少年だった頃のままだった。

「――――そうだな、そういうものだな」

「?」

 変わってしまったようで、しかし変わらない。いや、ひょっとしたら、当時、自分が見えていなかっただけなのかもしれない。
 もう何度も子供達との出会いと別れ事を経験しているのにも関わらず、その度に同じ感慨に耽っている事が、慧音はなんだかとても可笑しかった。

 今宵の鈴虫もいつも通りに喧しく鳴くだろう。その喧しさを今日は殊更身近に感じられるだろうなと、慧音は餅を口元に運んだ。


「ところで香水の香り、ひょっとしてキツイか?」

「ああ、付けてる本人はわかんないかもしれないッスね。結構匂ってるッスよ。いや正直ぷんぷん匂ってるッス。匂い自体はいい匂いだと思うんスけど、まあ過ぎれば毒と言うか。うおっ! 匂う! 香水臭っ! って感じで」

「…………お前にいい事を一つ教えよう。女性の前で匂う匂うと連呼する輩はな、未来永劫、女性から相手にされなくなるそうだぞ」

「え、俺の知ってる話だとすぐ教え子に頭突きを食らわれる女教師は一生男日照りが続くって、痛ったああああああああああ」

 少々喧しすぎだった。




 翌日。通夜が執り行なわれた。波のように人が動く。打っては返し、打っては返し。
 慧音もその人波に紛れる。さり気無く、少女やその家族の様子を盗み見た。
 
 少女は、先日のように憔悴したような素振りを見せる事無く、立派に立ち回って見せている。
 対して母親の方は見るからに意気消沈している。時折掛けられる言葉にも、心ここに在らずといった様子だ。
 無理も無いがあれでは娘の方が苦労するだろう、と慧音は少女の置かれている境遇を改めて想う。やはり一刻も早く事件を解決し、少女の気苦労を少しでも和らげなければならなかった。

 父親はどこかと辺りを見回すと、それらしき人物が外へ出て行くのが見えた。どうやら誰かに呼び出された様子だ。自分の職分を越えている行為かもしれないが、やはり今の少女の健気な姿を見ると放っては置けない。慧音は後を追った。


「――――!」「――――――――!」「――――っ!――――!――――ッッ!」

 家から少し外れた道端で、男たちの声が黄昏を震わせていた。
 声量は抑えているようだが、語尾の強さがその配慮を無意味なものにしていた。

 声の主は三人。若い青年の声と、初老の男の声、そして野太い男の声。
 内、二人は聞き覚えがあった。昨日散々香水を馬鹿にしてくれた元教え子と自警団の団長だ。なれば、残りの野太い声が少女の父親の声なのだろう。
 そういえば、少女の新しい父親と直接会うのは初めてであることを思い出す。どうやら、穏やかな対面とはいかなさそうだ。

「では、まだ通夜の続きがありますので!」

 大きな怒号を立て、少女の父親がこちらへ踵を返した。

 大きな体躯と中途半端に伸びた髪の毛。パッと見た目は清潔そうではあるが、その清潔感は細部までは行き届いていない。
 先入観も多分にあるだろうが、第一印象は決して良い物とは言えなかった。

「おや……貴女は確か……?」

 幾分落ち着いた抑揚だった。

「はい。娘さんを寺子屋で預からせていただいている上白沢慧音という者です」

 慧音は丁寧に頭を下げる。そのまま、お悔やみを口にしようとしたところ、少女の父親が被せる様に言った。

「ああ、すみません、急いでるもので。何かご用事でしたらまた後日と言う事で」

 そう言うと、少女の父親は逃げるようにその場を去ろうとする。そうはさせじと慧音が何事かを口にしかける。
 そして慧音と少女の父親がすれ違い――――慧音は途端に口を閉じた。

「…………………………」

 慧音は信じられないようなものを見たかのように、目の前の虚空を凝視していた。
 身震いするような衝撃が慧音を襲っていた。そしてそれは通り過ぎる事無く、慧音の中で暴れ続ける。天狗の残した言葉が最悪の形で頭を過ぎった。

「先生! 大丈夫ッスか!」

 青年が焦った様子で慧音に駆け寄る。

「先生あん野郎に何を言われたんスか! ふざけた事言ってたら俺がこの手で…………先生?」

 慧音は金縛りにでもあったかのように、その場に立ち尽くしたままだ。流石に不審に思ったのか、自警団の団長も駆け寄ってきた。

「あ~、上白沢先生? 大丈夫ですか?」

 その声に、慧音はこくりと頷くだけだった。

 しばしの沈黙。そして、慧音の只ならぬ様子にこのまま放置するわけにもいかないと、どうするか考えあぐねていた二人に慧音が声を掛けた。

「もう、愛人を探す必要はありません」

 そう言うと、慧音は持っていた巾着袋から小瓶を取り出す。それは、昨日少女から手渡されたものだった。

「この事件、明日の葬儀の後には解決します。それまで何か不穏な動きがないよう、自警団の方で屋敷を見張っていてください。出来れば、あからさまに見張っているとわかるようにして」

 慧音は、ジッと小瓶を見詰めながら言う。慧音の言葉に、自警団の二人は目を見合わせた。




 

 葬儀は恙無く終わった。僧侶の叩く鉦の音が、蒼い空へ高く響く。黄泉への旅路には悪くない空だった。
 
 その空を、涼やかな木の下から、慧音は半ば無理やりに連れ出した少女と共に見上げていた。

「いい天気です。きっとこれなら弟も迷わず逝けますね」

 少女がため息をつくように言った。

「…………ああ、きっとそうに違いない」

 慧音は、その言葉にやっとの思いで答える。

 傍らに立つ少女の様子を覗き見る。さながら色素が抜けたような肌。尖る様な輪郭に細い首筋。喪服に包まれ長い髪をかきあげた仕草は、少女ではなく女として危うい魅力を醸し出していた。

 少女の姿を目に焼付け、慧音は懐に手を入れた。

「これを――――」

 慧音は少女の手をに包み込むようにして小瓶を手渡す。それは、少女から託された証拠品だった。
 少女は最初驚いた顔をしていたが、慧音の曇った瞳を見て、察したように肩を落とし、目を伏せた。
 
 なぜ気がつかなかったのか。答えは、彼女そのものだったのに。

「先生。先生はご存じないでしょうけど、私の弟、本当にあの男そっくりだったんですよ。男の子は母親に似るって言いますけど、全然そんなことなくて。目元とか耳の形とか足の形も、髪の毛の渦の場所も一緒で、笑った顔なんて瓜二つで」

 慧音に向き直り、少女は言った。

「ホントウに殺したくなるくらいそっくりでした」

 冷ややかな響きに梢が揺れ、緑々とした葉が水底に沈むように落ちる。

 少女の独白めいた言葉が慧音の肩に重く圧し掛かる。

「君が、あの男の愛人だったんだな」

「はい」

 よどみなく、少女が答える。

「……っ………………君がっ、赤子殺しの犯人だったんだな」

「はい」

 翳りなく、少女が答える。

 
 慧音が少女の父親とすれ違ったとき、清々しい香りが匂った。男の髪や項から漂っているであろうそれは、紛れもなく少女の纏っていた香りだった。



 そして、少女の独白は続く。



「あの夜は、別に特別な夜じゃありませんでした。いつもの様にあの男の好きな香水をつけて、いつものように知らない振りをする母が居る隣の部屋で抱かれて。ああ、弟は母から産まれた正真正銘母の子ですよ。ええ、避妊に関してはあの男は徹底してましたから。手馴れてたって言ってもいいかかもしれませんね。それで、みんなが寝静まった後、身を清めようとお風呂場に向かおうとして、そこで弟の声が聞こえたんです。珍しかったんですよ、その時間に起きてるのは。ひょっとしたら、いつもより私が大きな声を上げてしまっていたからかもしれません。とにかく宥めようとしてベッドを覗き込んで、そこで弟と目があっちゃったんです。笑ってる弟と。本当に、あの男とそっくりに笑う弟と目があっちゃったんです。その瞬間、もう目の前が真っ白になっちゃって。ひょっとしたら一生あの男の白い血を浴び続けなきゃいけないのかなって。いつか、弟にまで犯される日が来るのかなって……気づいたら、弟の首に手を回してました」

 語る少女の顔に、およそ表情と呼べるものはなかった。
 
「それから、私はそのまま自分の部屋のベッドの上で、父の絶叫を聞くまで目を瞑ってました。それから慧音先生の家へ行って……最初は自首するつもりだったんです。殺したって言うつもりが、いつの間にか先生に助けてもらおうって。先生、私の為に何も聞かずについてきてくれましたよね。ずっと元気付けてくれましたよね。寺子屋を休校にまでして。次の日も、午前中だけで切り上げて私の所に来てくれた。本当にうれしかった。私、ずっと思ってたんです。先生がお母さんなら、どれだけ良かっただろうって。だから――――」

 だから、自分自身を責めるように泣かないでくださいと、少女は慧音の背に手を回した。
 少女の身体からは、清々しい香りはしなかった。抹香に塗れた少女の身体を慧音はしかと抱きしめる。

 少女の独白が終わり、慧音は滂沱と涙を流す。
 
 何も見通せぬ己の眼。節穴から溢れて止まらぬ雫は己が身を焦がす慙愧の味がした。

 
 心地よさそうに埋まる少女の頭を、慧音は母親のように撫でる。それは、自警団の人間が慧音と少女の姿を認めるまで続いた。


 遠く響く鉦の音。魂を高く高く天へ届かせる為に鳴らされるそれが、慧音には悲劇に幕を下ろす号令のように聞こえた。





男と女から同じ香りがすることの意味がわからなかったあの頃。なんで火サスなんて喜んで見てたんだろう。
営内者
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コメント



0.200簡易評価
1.90名前が無い程度の能力削除
後が残ってて
結果だけ見れば(筋書きを聞いただけの文が推理できてしまうほどに)ありふれた三文ソープオペラですが、当の演者たちにとってみれば心が壊れるほどの大事。抑制されているけれど激烈な感情が、伝わってくる作品でした。
2.100名前が無い程度の能力削除
今回は一層重かった
4.100名前が無い程度の能力削除
いつもこう抉り込む様なものを書くよね。

無常。
6.100名前が無い程度の能力削除
今回は理解の及ぶ範囲内で安心しました。
理解の及ばない感性も魅力的なので期待してます。

「先生、お母さんみたい」 て言葉、後からきますね。
7.100名前が無い程度の能力削除
次回作も期待してます
9.100名前が無い程度の能力削除
面白かった
10.90Admiral削除
横溝作品のような底の知れなさとでも言うんでしょうか、震えるものを感じました。
少女…。
12.100絶望を司る程度の能力削除
重い……まるで、底無沼にはまったようだ……。