ぱちゃり、と血だまりで音がした。私が左足で一歩だけ小さく踏み出したからだ。立ち尽くす輝夜へ向けて。
彼女は怯えていた。
自分の両手を見ると、月に照らされて真っ赤に光っていた。素手だったのだから当然だが。それとも無表情が過ぎて冷酷に見えたのだろうか――嗚呼。
同士を皆殺しにした私が化け物か何かのように見えているからに決まっているじゃないか。
目を伏せて苦笑すると、輝夜も少しだけ緩んだようだった。つられたのだろう。幼い子供がそうするように。
――僅かに数年。
永遠の都に生きる月の民にとってはそれこそ須臾に等しい時間だったはず。確かに輝夜は天真爛漫な子だったが、しかしこうまで変わるものなのか。
「姫様」
輝夜は体をびくりとすくませただけで、返事さえしなかった。月の民の優美さえも忘れてしまったかのように。
輝夜は俯いてこそいなかったが目を合わせてはくれなかった。血が恐ろしいのだろうか。上から眺めるのと間近で見るのとでは、文字通り天と地ほどの差があるという訳か……中々に笑えない皮肉だ。自分で思いついておいて腹が立つほどに。
天上の姫君は地上に幻想を抱き、いつしか月に帰ることさえ拒むほど穢れてしまった。言ってみればこれはただそれだけの凡庸な悲劇だ。
しかし例えば。
そう、単なる例え話としての『水面の向こう側』。
そこに無垢で無知な、そして優しい少女がいたとして。
水面に映りこむ景色や自分の姿。そこへ、当然のようにもうひとつの世界を信じてしまった少女が水面へ手を伸ばしたとしたら。
それは周りから見れば愛らしいばかりのありふれた笑い話なのかもしれないが、少女にとっては違う。
その夢想が純粋であればあるほど、その信仰で心を満たした数だけ、それは救いがたい絶望をもたらすだろう。
都合の良い『ここではないどこか』へ手を伸ばすという夢想は、与えられた世界に対する否定であり、たとえほんの一瞬のことだったとしても大罪なのだ。
そして罰とは、いつか必ずその夢想が永遠に砕かれるということに他ならない。
しかしこれがもし、彼女が水面の向こう側――何かの間違いでその禁じられた世界にたどり着いてしまった時、それは本当に幸える物語と言えるのだろうか?
ましてや。
そんな幼い空想が描いた、退屈でないだけの世界の住人に成り果ててしまったのなら。
その夢想は叶ったとしても罰なのか?
幾億の闘争が混沌と渦巻く穢れた地上。好奇心旺盛な貴女が見蕩れてしまうのも分からなくはない。
血と火は美しい赤だ。
確かにこの戦火の色は地上に満ち溢れている。満ち満ちて、溢れかえっている。貴女はそれに魅入られた。取り憑かれたとさえ言っていい。
そしてついに触れてしまった。
「火傷を……治さなくてはなりませんね」
「……?」
意味を測りかねたらしい。それはそうだ。
私は懐から蓬莱の薬の瓶を取り出し、一息に飲み干した。効果が表れ始める頃、空になった瓶をしまい、私は月の光に腕を晒した。爪でツウと赤い線を引くと、やはり痛みはあったが、そのまま拭い返すと何も残らなかった。
これで私も蓬莱人です。そう微笑むと、ようやく輝夜も安堵した様子を見せた。
「姫様、ひとつだけお尋ねします。姫様は月に帰りたくない、と仰いましたね」
口元を引き締め、輝夜はこくりと頷いた。
地上への憧憬。それは本当に儚い、まばたきと共によぎったような、彼女自身も知らない恋慕だったのだろう。
ただの好奇心と偽り隠した彼方への切望。
しかしそれは一度焼かれてしまえば忘れることの叶わない媚毒の熱。それでも貴女は蓬莱人になってさえその思慕を秘めたままだった。
だから貴女がようやくその本懐を口にできたというのなら、それは私が貴女にかしずく最後の理由になる。
「姫様。私は姫様を蓬莱人にしてしまったことを、今でも悔いています。ですからどうか私を、貴女の望みを叶えるだけの一介の従者として、貴女のお側に置いて下さい」
貴女の罪は小さな小さな夢想であり、私の罪はそれを叶えてしまったこと。ならば私は貴女と共に贖おう。
この穢れた世界の永遠にも等しい時間の檻で。
彼女は怯えていた。
自分の両手を見ると、月に照らされて真っ赤に光っていた。素手だったのだから当然だが。それとも無表情が過ぎて冷酷に見えたのだろうか――嗚呼。
同士を皆殺しにした私が化け物か何かのように見えているからに決まっているじゃないか。
目を伏せて苦笑すると、輝夜も少しだけ緩んだようだった。つられたのだろう。幼い子供がそうするように。
――僅かに数年。
永遠の都に生きる月の民にとってはそれこそ須臾に等しい時間だったはず。確かに輝夜は天真爛漫な子だったが、しかしこうまで変わるものなのか。
「姫様」
輝夜は体をびくりとすくませただけで、返事さえしなかった。月の民の優美さえも忘れてしまったかのように。
輝夜は俯いてこそいなかったが目を合わせてはくれなかった。血が恐ろしいのだろうか。上から眺めるのと間近で見るのとでは、文字通り天と地ほどの差があるという訳か……中々に笑えない皮肉だ。自分で思いついておいて腹が立つほどに。
天上の姫君は地上に幻想を抱き、いつしか月に帰ることさえ拒むほど穢れてしまった。言ってみればこれはただそれだけの凡庸な悲劇だ。
しかし例えば。
そう、単なる例え話としての『水面の向こう側』。
そこに無垢で無知な、そして優しい少女がいたとして。
水面に映りこむ景色や自分の姿。そこへ、当然のようにもうひとつの世界を信じてしまった少女が水面へ手を伸ばしたとしたら。
それは周りから見れば愛らしいばかりのありふれた笑い話なのかもしれないが、少女にとっては違う。
その夢想が純粋であればあるほど、その信仰で心を満たした数だけ、それは救いがたい絶望をもたらすだろう。
都合の良い『ここではないどこか』へ手を伸ばすという夢想は、与えられた世界に対する否定であり、たとえほんの一瞬のことだったとしても大罪なのだ。
そして罰とは、いつか必ずその夢想が永遠に砕かれるということに他ならない。
しかしこれがもし、彼女が水面の向こう側――何かの間違いでその禁じられた世界にたどり着いてしまった時、それは本当に幸える物語と言えるのだろうか?
ましてや。
そんな幼い空想が描いた、退屈でないだけの世界の住人に成り果ててしまったのなら。
その夢想は叶ったとしても罰なのか?
幾億の闘争が混沌と渦巻く穢れた地上。好奇心旺盛な貴女が見蕩れてしまうのも分からなくはない。
血と火は美しい赤だ。
確かにこの戦火の色は地上に満ち溢れている。満ち満ちて、溢れかえっている。貴女はそれに魅入られた。取り憑かれたとさえ言っていい。
そしてついに触れてしまった。
「火傷を……治さなくてはなりませんね」
「……?」
意味を測りかねたらしい。それはそうだ。
私は懐から蓬莱の薬の瓶を取り出し、一息に飲み干した。効果が表れ始める頃、空になった瓶をしまい、私は月の光に腕を晒した。爪でツウと赤い線を引くと、やはり痛みはあったが、そのまま拭い返すと何も残らなかった。
これで私も蓬莱人です。そう微笑むと、ようやく輝夜も安堵した様子を見せた。
「姫様、ひとつだけお尋ねします。姫様は月に帰りたくない、と仰いましたね」
口元を引き締め、輝夜はこくりと頷いた。
地上への憧憬。それは本当に儚い、まばたきと共によぎったような、彼女自身も知らない恋慕だったのだろう。
ただの好奇心と偽り隠した彼方への切望。
しかしそれは一度焼かれてしまえば忘れることの叶わない媚毒の熱。それでも貴女は蓬莱人になってさえその思慕を秘めたままだった。
だから貴女がようやくその本懐を口にできたというのなら、それは私が貴女にかしずく最後の理由になる。
「姫様。私は姫様を蓬莱人にしてしまったことを、今でも悔いています。ですからどうか私を、貴女の望みを叶えるだけの一介の従者として、貴女のお側に置いて下さい」
貴女の罪は小さな小さな夢想であり、私の罪はそれを叶えてしまったこと。ならば私は貴女と共に贖おう。
この穢れた世界の永遠にも等しい時間の檻で。
好き嫌いが別れるかもしれませんが、私は好きですよ。
感想兼意見です。
永琳の一人称だと、永琳側の感情がよく伝わる代わりに、輝夜の方がボヤけがちになってしまいます。
今回は永琳メインということでこれもまたよしですが、いっそ三人称にすればより両者の感情の対比が伝わってくると思います。
また、この話は原作設定をそこそこ把握していないと理解しづらいかもしれません。
流石に人物の性格や容姿まで触れなくても、何故血だまりの中二人が対面しているのかぐらいの説明はあってもよかったと思いますよ。
(短いだけで無条件に批判する人もいますし…字数稼ぎとも言い換えられます)
あと、終わらせ方をどうするかは作者さんの好みですが、最後で物陰に隠れている人物(妹紅)が…なんてのも面白いですよ。
※あくまで続編でなく、不安要素を残して終わるのがミソです
嫌いじゃないです。