空から少女が落ちてくる。
昼夜問わず妖怪が跋扈し、少女が空を飛びまわるこの幻想郷において。
それは大して珍しい事でもない。
弾幕ごっこに負けて撃墜されたり。未確認飛行物体との接触事故によって落下したり。
理由は色々あったりする。
華麗に減速して着地するものもいれば、そのまま自由落下するものもいる。
それでも、死亡事故に繋がらないのであれば、それは取るに足らない些事である。
井戸端会議でも酒の席でも取り上げられない、取るに足らない出来事である。
しかし。
それが何度も繰り返されるのであれば、それはもう異常事態である。
特に。自分に会うためだけに、遥か雲の上から、何度も、少女が落ちてくるというのは。
それはもう、立派な異変である。
呼ばれたような気がして、遠くの空を見やる。
小さな点が、ぐんぐんと拡大されて人の姿になる。
千里眼を使ったせいだけではない。相手が、凄い速度でこちらに向かってきているのだ。
鳥の翼のように、ばさばさと長いスカートを翻し。
白くて健康的な脚や、かわいい桃色の下着が見えるのもお構いなしで。
隕石のように、彗星のように。
真っ直ぐ、私の目と鼻の先まで落ちて来る。
自由落下から無理な減速をして、地面すれすれの位置でぴたりと止まる。
この光景にも、もう慣れてしまった。
「遊びに来たわ!」
天界の不良天人。比那名居天子。
自慢げな顔で、晴れやかな笑顔で、そう言ってのける。
自分の行為に一切の疑問を抱いていないその純粋さが眩しく映る。
きっかけは何だったろう。
目が合った。
そう言っていた気がする。
目が合った程度で因縁を吹っかけてくるなんて、天狗ヤクザも顔負けである。
そもそも、目が合ったのかどうかも怪しいものである。
哨戒任務の合間に、空を見上げる事は多い。
遠くの地平線を見ようとしても、どこかにある水平線を探そうとしても。
どうしてもそこまで視線は届かない。
幻想郷は結界で区切られている。
狭い幻想郷の中を見るのに飽きて、空の向こうを見たくなる時もある。
自分の目で、月より遠くを見通せるのか試してみたくなる。
それで、空を見上げていたら。
空から少女が落ちて来た。
それが事の顛末である。
たまたま私の見ていた方向に天界があって、たまたま私の視線の方向に比那名居天子が居た。
ただ、それだけの事である。可能性としては無くも無い。
それより気になるのは。
遥か遠くに居る私の視線に、千里眼を使っていた私の視線に、天子がどうして気付けたかということだ。
もしかしたら目が合ったというのは全くの出鱈目で。理由なんて特になくて。
たまたま、私の銀髪が目についたので、遊んでみたくなっただけかもしれない。
そういう迷惑な連中は、この幻想郷には驚くほど多い。
自分の暇潰しのためなら、他人にどんな迷惑をかけてもいいと思っている連中だ。
天子も、恐らくその一派なのだろう。
それから何度もやってきては、私を連れまわしている。
何度かチャンバラごっこもしたけれど。
結局追い返す事も懐柔する事も出来ず、なあなあで今まで付き合いが続いている。
「やっほー!」
『やふー!』
「元気ですかー!」
『元気いっぱいでーっす!』
「有頂天ー!」
『うちょーてーん!』
「非想非非想天ー!」
『ひひひひひー!』
「手抜きするなー!」
『長いからむーりー!』
里の方向にある命蓮寺とかいうお寺に向かって天子が叫んでいる。
山彦遊び。正確には、幽谷響子遊び。
普通は山に向かって叫ぶものだけど。
幻想郷の山彦は寺にいる。そして、たまにパンクもする。そういうものらしい。
天界からだと遠すぎて出来ないらしく、山に降りて来た時にはたまにやっている。
喧しい事この上無い。
「椛はやらなくてもいいの?」
「やりませんよ。子供じゃあるまいし」
「私が子供だって言いたいのかしら」
口を噤む。沈黙は金。そして肯定である。
「まあいいけど」
特に気にした様子もなく、新しい遊びを探している。
ころころと興味が移り変わり、我侭で、他人の評価に興味が無い。
正しく子供である。
「椛」
「はい」
「お手」
「嫌です」
「千里眼で、今日遊びに行く場所を探してよ」
「分かりました」
千里眼モード発動。
どんなに遠くても、見たいところを見る事が出来る。
ただし。物陰とか、河童の迷彩のような目に見えないものは見る事が出来ないので、
随分と穴の多い能力だという自覚がある。
それでも、人目につく場所を探す分には問題は無い。
今日、どこで、何の興行をやっているのかが一目で分かる。
「今日のお奨めはどこー?」
天子が私の頭の上に手を置き、後ろから抱き着いてくる。
後頭部に期待した感触はなく。
胸板の硬い感触だけがある。
スレンダーな天狗でももう少しあるというのに。栄養が足りてないのだろうか。
「アリスさんの人形劇がやっています。里は秋祭りの準備に忙しそうですね。
これから屋台や飾りで賑わうことでしょう。後は、お団子が美味しそうです」
「お団子?」
「はい、みたらし団子。焦げ目のついたお団子に飴色のたれがたっぷりついて。
焼く音とか匂いがこっちまで届いてきそうです」
つい、ひくひくと鼻を動かしてしまう。
ここから里までは遠すぎる。音も匂いも、届くはずも無い。
それでも、すぐ近くにあるように錯覚してしまう。
美味しそうな食べ物を見て、お腹が空いてしまう事も多い。
「ふーん。椛って、肉食じゃなかったの?」
興味の無さそうな声で返される。お団子は好みではなかったのだろうか。
「基本的には雑食です。天狗になってからは、人間染みた食生活ですし。
ただ、狼としての本能なのか。血の滴る生肉とか、一匹丸々食べたりはたまにやりますね。
食感とか腹持ちも良いですし。食べてる、って感じがするんですよね」
天子の体が少しだけ離れる。
「椛の妖怪っぽいとこ、初めて知ったかも」
感心するように耳を撫でてくる。
「私は人肉は食べませんし。妖怪というよりは獣の習性ですね。あと、耳をあんまり触らないで下さい。
こそばいです」
この言葉は逆効果だった。
「わんこ」
「狼です」
「他には無いの?」
「目に付くものは特に無いですね。露天商とか興味は無いでしょうし」
「それじゃあ、その向こうは?」
「止めておいた方が良いと思います」
「口答えしない。ほら、早く」
「いざとなったら天子さんを盾にして逃げますからね」
「いい度胸ね。それで、やっぱり居るの?」
「居ますよ。向日葵もまだ幾らか咲いてるみたいです」
「ふーん」
「あ」
「何よ」
「こっちに気付きました」
「まじで?」
「こっちを見てます。おめめがばっちり合ってます」
「向こうから見えるもんなの?」
「何となく分かるんじゃないでしょうか。天子さんだって似たようなものでしょう?」
「私は気質を見てるのよ。あれは周りの植物と同化してて分かりづらい」
「あ、優雅に手を振ってます。振り返した方がいいのでしょうか」
「振っておけば? 損は無いでしょ。こういうのは自分の気分の問題だし」
「そうでしょうか」
「そういうものよ」
二人で手を振り返す。
なんだこれ。
相手が満足そうに頷く。信じられない話だけど、それなりにこちらの様子が分かっているらしい。
この、私の顔の上に天子の顔がある珍妙な状況も見られているのだろうか。
「ねえ、あれ何してるの」
「何か書いてますね。というか見えるんですか」
「ん、何となく」
『40分後にクッキーが焼けるから来なさい』
「と、ホワイトボードに書かれています。というかあれ何なんですか」
「ホワイトボードって自分で言ったじゃない」
「そういう事じゃなくて」
「千里眼を持ってる椛と会話するために用意したんじゃない?」
「そうなりますよね、やっぱり」
「嫌なの?」
「嫌じゃないんですけど。なんというか」
「相手が悪いわね」
「ですよね」
幽香さんがホワイトボードを片付け、姿が見えなくなる。
私たちが行く事を当然のように期待している。
行かなくても、後で何かあるわけでもないですけど。
盗み見がばれた罪悪感もありますし。
誘われた以上、行くのが礼儀でしょうか。
「それで、どうするの?」
「何がです?」
「行くんでしょ?」
「まあ、そうなりますね」
盾と刀は、別に無くてもいいか。
お茶会に行くだけですし。何かあれば逃げるだけです。
幸いにも頑強な盾もありますし。死ぬ事はないでしょう。
天子に手を取られ、山を降りて、太陽の畑までの道を歩いていく。
歩くのに飽きたら、駆けて、適当に空を飛ぶ。
途中、山の上の方を振り返り、軽く頭を下げる。
天子とのお出掛けは、上司公認である。
何度目かの天子の降臨の後、天子の扱いについて会議が持たれた。
山の総力を挙げて撃退しなければいけない程の、悪意のある相手でも無く。
かといって無視を続けるのも不安な微妙な相手。
そこで下された大岡裁きは、私を人柱にする事であった。
適当に地震娘の相手をして、波風立てず。
あわよくば山から遠いところに連れて行ってお帰り願えという任務である。
役得なのか、不運なのか、判断に困るところですが。
外に遊びに行く理由があるのは、嬉しく思います。
手土産に、里でお団子を買っていきましょうかね。
☆
きっちり40分。かどうかは分からないけど。
丁度良いタイミングで二人がやってきた。
白髪の方が恭しく頭を下げて。
青髪の方は、ふてぶてしく私をじいっと見つめている。
頭を撫でてあげると、白い方はじっと我慢して。
青い方は少しだけ嬉しそうだけど、説明するのも面倒な面倒臭い顔をして大人しく撫でられている。
毛色は違うけど、どちらもかわいい娘に違いない。
椅子に座らせ、淹れたばかりの美味しい紅茶を振舞う。
途中でお団子を買ってきたようなので、それも一緒にお茶請けにする。
柔らかいお団子に、さくさくのクッキー。味も食感も違って面白い。
三人で話す事と言えば。幻想郷という観光地の事だ。
私は自分の足で。
白い方は山から。青い方は空から眺めている。
互いに暇なのか、意外と細かいところまでよく知っている。
二人に、そんなところまで行っているのかと驚かれるけど。
私は花の咲くところならどこにだって行くし。幻想郷にはどこにでも花が咲く。
行った事が無い場所なんてほとんど無い。
私としては、遠くから見るだけで香りも嗅げないのに、よくそんな小さな花に気がつけるわねと驚くのだけど。
遠くから眺めるだけなせいか。その匂いや感触には無知にも程がある。
花の使い方についての知識は、里の子供にも劣る。
遠くから見るだけじゃなく、染料にするとか、食べたり、玩具にしたり。色々と使い道があるのが花なのに。
そういう事を教えてあげると、驚いて、感心して、青い方がそれを確かめようとすぐに飛び出そうとする。
白い方はそれよりは少し落ち着いていて。宥めたり、追いかけて一緒に飛んで行ったりする。
ヤンチャな子供を見ているようで面白い。姉妹なら、どっちが上かしら。
実際に体験して、感じた事を。今度のお茶会で教えてもらいましょう。
そして、また新しい事を教えて、その次のお茶会の楽しみにするのだ。
暫くは、飽きずに済みそうね。
この狭い幻想郷。隅から隅まで味わい尽くすのは、意外と時間がかかるのだから。
☆
堪え性のない同行者のせいで中座する事が多いけど。
幸いにも相手は大して気にしていないようだ。
いつ来ても快く応じてくれるし、いつ出て行っても同じように見送ってくれる。
虫とか鳥とか、あるいは妖精と同じように思われているのかもしれない。
私の目から見れば大きな違いでも。
彼女から見れば、それらは全部同じようなものなのかもしれない。
要するに。礼儀なんて小難しい事は考えず。あるがまま楽しんでいればそれが一番良いと。
「なに難しい顔してるのよ。ハゲるわよ」
悩みの元凶がしゃあしゃあと言ってくる。
「ハゲません」
「動物って、季節の変わり目でわーっと毛が抜けるじゃない」
「あれは毛が生え変わっているだけです。人間で言えば散髪みたいなものですよ」
「ふーん。椛も生え変わるの?」
「天狗には、基本的にはそういうのは無いですね。寒ければ服を着ますし」
「そうなのかー」
適当に喋くりながら、天子が木いちごを食べている。
熟しているのと青いのと。当たり外れがあるのか、時々酸っぱそうな顔をしている。
外れに当たっても吐き出さず、きちんと飲み込んでいる辺りは、育ちがいいのでしょうか。
「椛は美味しそうに食べてるわよね。探すコツでもあるの?」
「果実は色が濃くて張りがある物を選べば間違いないです」
「言われてもわかんないわよ」
厳選する素振りもなく、手近なものをぱくぱくと口に入れていく。
最初から選ぶつもりも無いみたいですね。
適当に食べた後、手頃な石の上に腰掛ける。
「もっと早く教えてくれればいいのに。幽香もケチな事をするわね」
「ようやくそこまで信頼してくれたって思いましょうよ」
「欲に塗れた下界の人間じゃないんだから。身の程は知ってるわよ」
「だといいのですが」
自分で食べる以上には採らない事。人に教えない事。
それが、ここを教えてくれた幽香さんとの約束だ。
「話によると、冬以外は大抵の果物が採れると行っていましたし。時期を変えてまた来てみましょう。
そろそろザクロも生ると思います」
「ザクロねー。ろくな逸話がなかったと思うけど」
「果実に罪はありません。美味しく頂きましょう」
「美味しいなら異論はないんだけど。天人が食べても問題無いものなのかしら」
「今更そこを気にします、不良天人さん?」
「それもそうねー」
気軽に同意しましたけど、本当にそれでいいんでしょうか。
まあ、私は気にしませんけど。
天子が、ぱっくりと割れたアケビをほおばる。
長い間天界で桃しか食べてこなかったせいか、こういう素朴な味覚でも本当に美味しそうに食べている。
その飾らない笑顔が魅力的で。また一緒に出かけてもいいかなと思ってしまう。
「絡み合っている蔓は、下手に切ると危ないですよ」
あけびの蔓をゆさゆさと揺すっている天子に警告する。
刃が通らない体なら大丈夫とも思うけど、目に入ったり万が一という事もある。
それに、痛いのに変わりはないだろうから。
「登って遊べないか試してただけよ」
つーんと横を向く。
「荒らすなと幽香さんに言われたばかりじゃないですか。
切るんだったら、冬がお奨めです。適当な長さに切って持って行けば、里で籠を編んでくれますから」
「籠?」
「ええ、籠です。藤かごとはまた違った味わいで、丈夫で、天子さんには丁度いいと思います」
「何か引っかかる言い方ね」
「里の工芸館に幾つか見本あると思うので、今度案内しますよ」
「楽しみにしとく」
世間知らず。今でもその印象は変わっていない。
先程だって、クッキーが小麦粉から作られている事も知らなかったのだから。
黄金色の麦畑は見ていても、それが食べられるものだとは知らなかったらしい。
向日葵畑と同じように、眺めて楽しむものだと思っていたそうだ。
天人の立場からすればそれも尤もな見解かもしれないけど。
面白い人である。
そんな天人様の社会見学につき合わされている私は、さしずめ保護者だろうか。
私も山を離れる事も少なかったし。
知識としては知っていても、体験した事が無い事柄も数多くある。
外に出掛ける理由を持ってきてくれるのは、少しだけありがたかったりもする。
天子さんは、私を連れまわすのが楽しかったりするのでしょうか。
他に友達が居ないからですかね。
天子がいつか天人に相応しい徳を身に付け、気軽に地上に降りてこなくなったり。
人気者になって私との関わりが薄れてしまったり。
そういった理由で今の関係が無くなってしまうかもしれないと思うと、少しだけ寂しかったりもする。
今のうちしか経験できない事かもしれないから。
もう暫くは、このお転婆の我侭に困らされてみるのも悪くないかもしれないと、そう思ってしまう。
こんな事を思っているから、腐れ縁が増えていくんでしょうね。
清濁併せ呑める立派な大天狗になれるよう、今から精進していきましょうか。
☆
それは恋だった。
いや、恋がどういうものかは分からないけど。
たぶんこういう感情に近いんだと思う。
恋じゃなければあれだ。親近感。仲間を見つけたあれだと思う。
いつも同じところに座って。遠くを見て。思い出したように空を見る。
その姿が、どこか私に似ていて。
気がつけばじっと見つめていた。
彼女の瞳には何が映っているのか。彼女は何に興味を持っているのか。
彼女の視線の先を追うのが楽しみになっていた。
そんな日々がしばらく続いた後。
いつものように白い毛並みを眺めていたら。
突然、私の方を見た。
衝撃だった。
初めて正面から顔を見た気がする。
初恋の一目惚れ。そんな感じだ。
正確には違うけど。たぶんそんな感じ。
それで。つんのめって。思わず天界の端っこから落っこちて。
勢いそのまま、山まで落ちて来た。
「会いに来たわ!」
確か、そんな事を言った気がする。
会いたかった、ともなんか違うような気もするし。
上手く口が回らなかったので、それだけ言えただけでも上出来だろう。
それから。幾度となく椛のところに遊びに行った。
遠くの景色を眺めてるだけなんてつまらない。
手で、耳で、舌で、鼻で。自分の体で感じて。
周りを巻き込んで、幻想郷を楽しまないと勿体無い。
そう思ったから。
私と同じような椛と一緒に、幻想郷を歩きたいと思ったから。
最初の頃は二人とも頭でっかちで。
見た事はあっても自分でやる事は初めてで。
いや、椛はそうでもなかったかも。
山で出来る事は意外と知識も経験も豊富だったけど。
山の外の事は全然だめ。
それでも、私よりは幾らかましだったけど。
それで、色んな人に話を聞きながら。
色々と悪戦苦闘しながら。楽しみながら。
今では交友関係も広くなり。遊び歩くのもお手の物になった。
椛が従順なわんこみたいに私が来るのを心待ちにしているのも。
私が外に連れ出そうとすると、仏頂面の陰で嬉しそうに尻尾を振るのも気付いてる。
もう少し素直になってくれてもいいのにと思うけど。
もう暫くは、このままの関係でも良いと思ってる。
でも、もう少ししたら。
椛の方から、天界まで私を誘いに来て欲しいかな。
迷惑に思ってないんだったら、そのくらいしてくれてもいいわよね。
昼夜問わず妖怪が跋扈し、少女が空を飛びまわるこの幻想郷において。
それは大して珍しい事でもない。
弾幕ごっこに負けて撃墜されたり。未確認飛行物体との接触事故によって落下したり。
理由は色々あったりする。
華麗に減速して着地するものもいれば、そのまま自由落下するものもいる。
それでも、死亡事故に繋がらないのであれば、それは取るに足らない些事である。
井戸端会議でも酒の席でも取り上げられない、取るに足らない出来事である。
しかし。
それが何度も繰り返されるのであれば、それはもう異常事態である。
特に。自分に会うためだけに、遥か雲の上から、何度も、少女が落ちてくるというのは。
それはもう、立派な異変である。
呼ばれたような気がして、遠くの空を見やる。
小さな点が、ぐんぐんと拡大されて人の姿になる。
千里眼を使ったせいだけではない。相手が、凄い速度でこちらに向かってきているのだ。
鳥の翼のように、ばさばさと長いスカートを翻し。
白くて健康的な脚や、かわいい桃色の下着が見えるのもお構いなしで。
隕石のように、彗星のように。
真っ直ぐ、私の目と鼻の先まで落ちて来る。
自由落下から無理な減速をして、地面すれすれの位置でぴたりと止まる。
この光景にも、もう慣れてしまった。
「遊びに来たわ!」
天界の不良天人。比那名居天子。
自慢げな顔で、晴れやかな笑顔で、そう言ってのける。
自分の行為に一切の疑問を抱いていないその純粋さが眩しく映る。
きっかけは何だったろう。
目が合った。
そう言っていた気がする。
目が合った程度で因縁を吹っかけてくるなんて、天狗ヤクザも顔負けである。
そもそも、目が合ったのかどうかも怪しいものである。
哨戒任務の合間に、空を見上げる事は多い。
遠くの地平線を見ようとしても、どこかにある水平線を探そうとしても。
どうしてもそこまで視線は届かない。
幻想郷は結界で区切られている。
狭い幻想郷の中を見るのに飽きて、空の向こうを見たくなる時もある。
自分の目で、月より遠くを見通せるのか試してみたくなる。
それで、空を見上げていたら。
空から少女が落ちて来た。
それが事の顛末である。
たまたま私の見ていた方向に天界があって、たまたま私の視線の方向に比那名居天子が居た。
ただ、それだけの事である。可能性としては無くも無い。
それより気になるのは。
遥か遠くに居る私の視線に、千里眼を使っていた私の視線に、天子がどうして気付けたかということだ。
もしかしたら目が合ったというのは全くの出鱈目で。理由なんて特になくて。
たまたま、私の銀髪が目についたので、遊んでみたくなっただけかもしれない。
そういう迷惑な連中は、この幻想郷には驚くほど多い。
自分の暇潰しのためなら、他人にどんな迷惑をかけてもいいと思っている連中だ。
天子も、恐らくその一派なのだろう。
それから何度もやってきては、私を連れまわしている。
何度かチャンバラごっこもしたけれど。
結局追い返す事も懐柔する事も出来ず、なあなあで今まで付き合いが続いている。
「やっほー!」
『やふー!』
「元気ですかー!」
『元気いっぱいでーっす!』
「有頂天ー!」
『うちょーてーん!』
「非想非非想天ー!」
『ひひひひひー!』
「手抜きするなー!」
『長いからむーりー!』
里の方向にある命蓮寺とかいうお寺に向かって天子が叫んでいる。
山彦遊び。正確には、幽谷響子遊び。
普通は山に向かって叫ぶものだけど。
幻想郷の山彦は寺にいる。そして、たまにパンクもする。そういうものらしい。
天界からだと遠すぎて出来ないらしく、山に降りて来た時にはたまにやっている。
喧しい事この上無い。
「椛はやらなくてもいいの?」
「やりませんよ。子供じゃあるまいし」
「私が子供だって言いたいのかしら」
口を噤む。沈黙は金。そして肯定である。
「まあいいけど」
特に気にした様子もなく、新しい遊びを探している。
ころころと興味が移り変わり、我侭で、他人の評価に興味が無い。
正しく子供である。
「椛」
「はい」
「お手」
「嫌です」
「千里眼で、今日遊びに行く場所を探してよ」
「分かりました」
千里眼モード発動。
どんなに遠くても、見たいところを見る事が出来る。
ただし。物陰とか、河童の迷彩のような目に見えないものは見る事が出来ないので、
随分と穴の多い能力だという自覚がある。
それでも、人目につく場所を探す分には問題は無い。
今日、どこで、何の興行をやっているのかが一目で分かる。
「今日のお奨めはどこー?」
天子が私の頭の上に手を置き、後ろから抱き着いてくる。
後頭部に期待した感触はなく。
胸板の硬い感触だけがある。
スレンダーな天狗でももう少しあるというのに。栄養が足りてないのだろうか。
「アリスさんの人形劇がやっています。里は秋祭りの準備に忙しそうですね。
これから屋台や飾りで賑わうことでしょう。後は、お団子が美味しそうです」
「お団子?」
「はい、みたらし団子。焦げ目のついたお団子に飴色のたれがたっぷりついて。
焼く音とか匂いがこっちまで届いてきそうです」
つい、ひくひくと鼻を動かしてしまう。
ここから里までは遠すぎる。音も匂いも、届くはずも無い。
それでも、すぐ近くにあるように錯覚してしまう。
美味しそうな食べ物を見て、お腹が空いてしまう事も多い。
「ふーん。椛って、肉食じゃなかったの?」
興味の無さそうな声で返される。お団子は好みではなかったのだろうか。
「基本的には雑食です。天狗になってからは、人間染みた食生活ですし。
ただ、狼としての本能なのか。血の滴る生肉とか、一匹丸々食べたりはたまにやりますね。
食感とか腹持ちも良いですし。食べてる、って感じがするんですよね」
天子の体が少しだけ離れる。
「椛の妖怪っぽいとこ、初めて知ったかも」
感心するように耳を撫でてくる。
「私は人肉は食べませんし。妖怪というよりは獣の習性ですね。あと、耳をあんまり触らないで下さい。
こそばいです」
この言葉は逆効果だった。
「わんこ」
「狼です」
「他には無いの?」
「目に付くものは特に無いですね。露天商とか興味は無いでしょうし」
「それじゃあ、その向こうは?」
「止めておいた方が良いと思います」
「口答えしない。ほら、早く」
「いざとなったら天子さんを盾にして逃げますからね」
「いい度胸ね。それで、やっぱり居るの?」
「居ますよ。向日葵もまだ幾らか咲いてるみたいです」
「ふーん」
「あ」
「何よ」
「こっちに気付きました」
「まじで?」
「こっちを見てます。おめめがばっちり合ってます」
「向こうから見えるもんなの?」
「何となく分かるんじゃないでしょうか。天子さんだって似たようなものでしょう?」
「私は気質を見てるのよ。あれは周りの植物と同化してて分かりづらい」
「あ、優雅に手を振ってます。振り返した方がいいのでしょうか」
「振っておけば? 損は無いでしょ。こういうのは自分の気分の問題だし」
「そうでしょうか」
「そういうものよ」
二人で手を振り返す。
なんだこれ。
相手が満足そうに頷く。信じられない話だけど、それなりにこちらの様子が分かっているらしい。
この、私の顔の上に天子の顔がある珍妙な状況も見られているのだろうか。
「ねえ、あれ何してるの」
「何か書いてますね。というか見えるんですか」
「ん、何となく」
『40分後にクッキーが焼けるから来なさい』
「と、ホワイトボードに書かれています。というかあれ何なんですか」
「ホワイトボードって自分で言ったじゃない」
「そういう事じゃなくて」
「千里眼を持ってる椛と会話するために用意したんじゃない?」
「そうなりますよね、やっぱり」
「嫌なの?」
「嫌じゃないんですけど。なんというか」
「相手が悪いわね」
「ですよね」
幽香さんがホワイトボードを片付け、姿が見えなくなる。
私たちが行く事を当然のように期待している。
行かなくても、後で何かあるわけでもないですけど。
盗み見がばれた罪悪感もありますし。
誘われた以上、行くのが礼儀でしょうか。
「それで、どうするの?」
「何がです?」
「行くんでしょ?」
「まあ、そうなりますね」
盾と刀は、別に無くてもいいか。
お茶会に行くだけですし。何かあれば逃げるだけです。
幸いにも頑強な盾もありますし。死ぬ事はないでしょう。
天子に手を取られ、山を降りて、太陽の畑までの道を歩いていく。
歩くのに飽きたら、駆けて、適当に空を飛ぶ。
途中、山の上の方を振り返り、軽く頭を下げる。
天子とのお出掛けは、上司公認である。
何度目かの天子の降臨の後、天子の扱いについて会議が持たれた。
山の総力を挙げて撃退しなければいけない程の、悪意のある相手でも無く。
かといって無視を続けるのも不安な微妙な相手。
そこで下された大岡裁きは、私を人柱にする事であった。
適当に地震娘の相手をして、波風立てず。
あわよくば山から遠いところに連れて行ってお帰り願えという任務である。
役得なのか、不運なのか、判断に困るところですが。
外に遊びに行く理由があるのは、嬉しく思います。
手土産に、里でお団子を買っていきましょうかね。
☆
きっちり40分。かどうかは分からないけど。
丁度良いタイミングで二人がやってきた。
白髪の方が恭しく頭を下げて。
青髪の方は、ふてぶてしく私をじいっと見つめている。
頭を撫でてあげると、白い方はじっと我慢して。
青い方は少しだけ嬉しそうだけど、説明するのも面倒な面倒臭い顔をして大人しく撫でられている。
毛色は違うけど、どちらもかわいい娘に違いない。
椅子に座らせ、淹れたばかりの美味しい紅茶を振舞う。
途中でお団子を買ってきたようなので、それも一緒にお茶請けにする。
柔らかいお団子に、さくさくのクッキー。味も食感も違って面白い。
三人で話す事と言えば。幻想郷という観光地の事だ。
私は自分の足で。
白い方は山から。青い方は空から眺めている。
互いに暇なのか、意外と細かいところまでよく知っている。
二人に、そんなところまで行っているのかと驚かれるけど。
私は花の咲くところならどこにだって行くし。幻想郷にはどこにでも花が咲く。
行った事が無い場所なんてほとんど無い。
私としては、遠くから見るだけで香りも嗅げないのに、よくそんな小さな花に気がつけるわねと驚くのだけど。
遠くから眺めるだけなせいか。その匂いや感触には無知にも程がある。
花の使い方についての知識は、里の子供にも劣る。
遠くから見るだけじゃなく、染料にするとか、食べたり、玩具にしたり。色々と使い道があるのが花なのに。
そういう事を教えてあげると、驚いて、感心して、青い方がそれを確かめようとすぐに飛び出そうとする。
白い方はそれよりは少し落ち着いていて。宥めたり、追いかけて一緒に飛んで行ったりする。
ヤンチャな子供を見ているようで面白い。姉妹なら、どっちが上かしら。
実際に体験して、感じた事を。今度のお茶会で教えてもらいましょう。
そして、また新しい事を教えて、その次のお茶会の楽しみにするのだ。
暫くは、飽きずに済みそうね。
この狭い幻想郷。隅から隅まで味わい尽くすのは、意外と時間がかかるのだから。
☆
堪え性のない同行者のせいで中座する事が多いけど。
幸いにも相手は大して気にしていないようだ。
いつ来ても快く応じてくれるし、いつ出て行っても同じように見送ってくれる。
虫とか鳥とか、あるいは妖精と同じように思われているのかもしれない。
私の目から見れば大きな違いでも。
彼女から見れば、それらは全部同じようなものなのかもしれない。
要するに。礼儀なんて小難しい事は考えず。あるがまま楽しんでいればそれが一番良いと。
「なに難しい顔してるのよ。ハゲるわよ」
悩みの元凶がしゃあしゃあと言ってくる。
「ハゲません」
「動物って、季節の変わり目でわーっと毛が抜けるじゃない」
「あれは毛が生え変わっているだけです。人間で言えば散髪みたいなものですよ」
「ふーん。椛も生え変わるの?」
「天狗には、基本的にはそういうのは無いですね。寒ければ服を着ますし」
「そうなのかー」
適当に喋くりながら、天子が木いちごを食べている。
熟しているのと青いのと。当たり外れがあるのか、時々酸っぱそうな顔をしている。
外れに当たっても吐き出さず、きちんと飲み込んでいる辺りは、育ちがいいのでしょうか。
「椛は美味しそうに食べてるわよね。探すコツでもあるの?」
「果実は色が濃くて張りがある物を選べば間違いないです」
「言われてもわかんないわよ」
厳選する素振りもなく、手近なものをぱくぱくと口に入れていく。
最初から選ぶつもりも無いみたいですね。
適当に食べた後、手頃な石の上に腰掛ける。
「もっと早く教えてくれればいいのに。幽香もケチな事をするわね」
「ようやくそこまで信頼してくれたって思いましょうよ」
「欲に塗れた下界の人間じゃないんだから。身の程は知ってるわよ」
「だといいのですが」
自分で食べる以上には採らない事。人に教えない事。
それが、ここを教えてくれた幽香さんとの約束だ。
「話によると、冬以外は大抵の果物が採れると行っていましたし。時期を変えてまた来てみましょう。
そろそろザクロも生ると思います」
「ザクロねー。ろくな逸話がなかったと思うけど」
「果実に罪はありません。美味しく頂きましょう」
「美味しいなら異論はないんだけど。天人が食べても問題無いものなのかしら」
「今更そこを気にします、不良天人さん?」
「それもそうねー」
気軽に同意しましたけど、本当にそれでいいんでしょうか。
まあ、私は気にしませんけど。
天子が、ぱっくりと割れたアケビをほおばる。
長い間天界で桃しか食べてこなかったせいか、こういう素朴な味覚でも本当に美味しそうに食べている。
その飾らない笑顔が魅力的で。また一緒に出かけてもいいかなと思ってしまう。
「絡み合っている蔓は、下手に切ると危ないですよ」
あけびの蔓をゆさゆさと揺すっている天子に警告する。
刃が通らない体なら大丈夫とも思うけど、目に入ったり万が一という事もある。
それに、痛いのに変わりはないだろうから。
「登って遊べないか試してただけよ」
つーんと横を向く。
「荒らすなと幽香さんに言われたばかりじゃないですか。
切るんだったら、冬がお奨めです。適当な長さに切って持って行けば、里で籠を編んでくれますから」
「籠?」
「ええ、籠です。藤かごとはまた違った味わいで、丈夫で、天子さんには丁度いいと思います」
「何か引っかかる言い方ね」
「里の工芸館に幾つか見本あると思うので、今度案内しますよ」
「楽しみにしとく」
世間知らず。今でもその印象は変わっていない。
先程だって、クッキーが小麦粉から作られている事も知らなかったのだから。
黄金色の麦畑は見ていても、それが食べられるものだとは知らなかったらしい。
向日葵畑と同じように、眺めて楽しむものだと思っていたそうだ。
天人の立場からすればそれも尤もな見解かもしれないけど。
面白い人である。
そんな天人様の社会見学につき合わされている私は、さしずめ保護者だろうか。
私も山を離れる事も少なかったし。
知識としては知っていても、体験した事が無い事柄も数多くある。
外に出掛ける理由を持ってきてくれるのは、少しだけありがたかったりもする。
天子さんは、私を連れまわすのが楽しかったりするのでしょうか。
他に友達が居ないからですかね。
天子がいつか天人に相応しい徳を身に付け、気軽に地上に降りてこなくなったり。
人気者になって私との関わりが薄れてしまったり。
そういった理由で今の関係が無くなってしまうかもしれないと思うと、少しだけ寂しかったりもする。
今のうちしか経験できない事かもしれないから。
もう暫くは、このお転婆の我侭に困らされてみるのも悪くないかもしれないと、そう思ってしまう。
こんな事を思っているから、腐れ縁が増えていくんでしょうね。
清濁併せ呑める立派な大天狗になれるよう、今から精進していきましょうか。
☆
それは恋だった。
いや、恋がどういうものかは分からないけど。
たぶんこういう感情に近いんだと思う。
恋じゃなければあれだ。親近感。仲間を見つけたあれだと思う。
いつも同じところに座って。遠くを見て。思い出したように空を見る。
その姿が、どこか私に似ていて。
気がつけばじっと見つめていた。
彼女の瞳には何が映っているのか。彼女は何に興味を持っているのか。
彼女の視線の先を追うのが楽しみになっていた。
そんな日々がしばらく続いた後。
いつものように白い毛並みを眺めていたら。
突然、私の方を見た。
衝撃だった。
初めて正面から顔を見た気がする。
初恋の一目惚れ。そんな感じだ。
正確には違うけど。たぶんそんな感じ。
それで。つんのめって。思わず天界の端っこから落っこちて。
勢いそのまま、山まで落ちて来た。
「会いに来たわ!」
確か、そんな事を言った気がする。
会いたかった、ともなんか違うような気もするし。
上手く口が回らなかったので、それだけ言えただけでも上出来だろう。
それから。幾度となく椛のところに遊びに行った。
遠くの景色を眺めてるだけなんてつまらない。
手で、耳で、舌で、鼻で。自分の体で感じて。
周りを巻き込んで、幻想郷を楽しまないと勿体無い。
そう思ったから。
私と同じような椛と一緒に、幻想郷を歩きたいと思ったから。
最初の頃は二人とも頭でっかちで。
見た事はあっても自分でやる事は初めてで。
いや、椛はそうでもなかったかも。
山で出来る事は意外と知識も経験も豊富だったけど。
山の外の事は全然だめ。
それでも、私よりは幾らかましだったけど。
それで、色んな人に話を聞きながら。
色々と悪戦苦闘しながら。楽しみながら。
今では交友関係も広くなり。遊び歩くのもお手の物になった。
椛が従順なわんこみたいに私が来るのを心待ちにしているのも。
私が外に連れ出そうとすると、仏頂面の陰で嬉しそうに尻尾を振るのも気付いてる。
もう少し素直になってくれてもいいのにと思うけど。
もう暫くは、このままの関係でも良いと思ってる。
でも、もう少ししたら。
椛の方から、天界まで私を誘いに来て欲しいかな。
迷惑に思ってないんだったら、そのくらいしてくれてもいいわよね。
ガールミーツガールな話でした。
この二人があちこちへ遊びに行く様子をもっと見てみたいものです
天子は誰と絡んでも可愛いよ!