秋穣子は空を見上げていた。
空には既に暗雲が立ち込め、先ほどは大きな雷鳴が轟いた。あと数分もすれば、辺り一帯は大雨に見舞われるであろう。ひんやりとした風が彼女の髪を撫で、近くの植物達を躍らせる。また再び、暗雲の中から閃光が走った。次の瞬間、すぐ傍で雷鳴が轟く。
ああ、黒い雲が近い。家を出る時に傘を持ってくればよかった、と後悔するものの、時既に遅し。そもそも何も考えずに家を飛び出してきたのだから、そんな余裕などあるはずがない。
「あー…」
思わず呆けた声が漏れる。一体、どうしてこうなってしまったのだろう。
きっかけは些細な会話であったに違いない。ついさっきの事ながら、その内容はよく覚えていない程度に、それは他愛の無い会話だったのだ。普段通りの姉との会話。なんてことの無い日常。
確か、姉に対しての小言から始まったのだと思う。
秋も近づき、山の木々も燃えるような赤と稲穂のような黄土色のコントラストが美しい紅葉に染まり始める。里近くの水田では、黄金に輝く稲穂がたわわに実りを付けている。そんな季節は、私たち秋姉妹の独壇場である。
妹の方である私穣子は、豊穣を司る神様。秋と言えば実りの秋。農作に励み、それを生業とする人々(の一部)に崇め奉られ、人里に住まう人間達には大人気の神様である。一方、姉の方の秋静葉は、紅葉を司る神様だ。秋の楽しみの一つを挙げるとすれば、大抵何番目かには紅葉狩りがランクインすることであろう。幻想郷中でこの紅葉を楽しむことができるのは、私の姉のおかげである。彼女が一つ一つ、幻想郷中の葉っぱを丹精込めて塗っているのだ。無論そのおかげで、真っ赤に染まる葉もあれば、若干赤みの混じった黄色の葉があったりと、ムラが広がるのであるが。ただ、それもまた、逆に趣のあるものとして楽しむ人間も多く存在するし、私もその感覚は理解できる。
私としては、こうも美しい紅葉を作り出せる姉を羨ましく思ったりするのだが、彼女はあまり人里の人間達に認知されていないらしい。というよりも、紅葉が彼女の働きによる功績そのものだという事実が認知されてないのである。折角、素晴らしい活動をしているというのに、自らはそれを広めようとしないのだ。
もう少し努力すべきだと私は思う。
…という事を、かなりかいつまんで姉に伝えた結果が、今の状況。
即ち、姉と大喧嘩をした。後、私は家を飛び出してきた。なんとも単純明快な因果だろうか。
ずがしゃーん、とさらに大きな雷鳴が轟き、ついには大粒の雨が降り始めた。
急いで近くの大木の下に潜りこむが、どちらかと言えば間に合わなかった。急に勢いを増した雨粒は、私のお気に入りの帽子に容赦なく降り注ぐ。大木の下に到着した時には、既に帽子はびしょびしょに濡れていて、仕方なく帽子を外して待機。
いくら大木の下といえども、これだけの大雨だ。我先に我先にと太陽の光を得るべく、上へ横へと伸びる枝たちと、それに付いて回る青々とした葉のおかげで、少しは雨を防げるかと思ったが、さすがにこの雨粒の勢いを受け切れるほど丈夫ではなかったようだ。無念。
いくらかの雨粒の落下を直に受けながら、さきほどの姉との口喧嘩を思い出そうとするが、その度にどしゃんがしゃんと雷鳴が轟き、それどころではない。髪も雨に濡れて痛みそうだし、お気に入りの洋服も色が数段濃くなってしまった。
早い所雨宿りできる場所を探そう…と思い立って、帰路に向かって足を一歩踏み出し。
そこで、姉と喧嘩していることを思い出して、足が止まってしまった。雨宿りできる場所と考えて、無意識の内に最初に思いついたのが我が家というのも、自分の事ながら呆れる。一応補足しておくと、私がインドア派の神様であって、他に屋根のあるような場所を知らないとかそういう理由が故に思いつかなかった訳ではない。私はイメージ通り、超アウトドア派の神様である。よく散歩がてら色んな場所を飛んで回るし。
そもそも幻想郷には、人里以外に屋根のある建物がほとんどない。まして、こんな森の深くにあるわけがない。あるとしても寂れた神社だとか、悪魔の家だとか、ロクでもない場所だらけなのだ。私は悪くない。
と、そんな事を考えている間にも、雨粒の勢いは衰えることを知らず、むしろますます強くなっているようである。本当に早い所、雨宿りできる場所を探さなくては。
そう思い立って周りを見渡すが、もちろん運よく屋根など発見できるはずもなく。
あるのは大木の下にひっそりと立つ看板のみ。
もはや看板は朽ち果てているとも取れるレベルで、板のあちこちがささ剥け、苔やツタの葉に覆われていた。しかしそれでも、なんとか板に彫られた文字は読めるようである。
こんな辺鄙な所にある看板だ、隠れ家的なカフェでもあるのかもしれない。持ち合わせも少しあるし、その時は少し休んでいこう…、と淡い期待を抱きながら、看板に彫られた文字をなんとか解読。
「『この先香霖堂、来る者拒まず』…?」
…なんかの道場かな?
~ 秋雨前線異常なし ~
びちゃり、びちゃりと泥が飛び散る。
未だに鳴りやまぬ雷鳴と、容赦なく降り注ぐ雨粒。それに加えて激しい風にも煽られながら、全速力で駆け抜けた秋穣子が辿りついたその建物。
看板の文面からまるで期待はしていなかったものの、それでも想像していたそれとは大きく異なる姿に、雨風に吹かれながらも穣子は立ち止まる。
「…何これ」
魔法の森の入口に立地している割には立派な佇まい。
確かに「香霖堂」と書かれた掛け看板が扉の上に掛けられているのは目視できる。しかし、そのすぐ横には得体の知れない模様が描かれた旗がバタバタと音を立てて動いているし、その隣には「氷」と大きく描かれた旗も、同じようにはためいている。そのすぐ下に放置してある狸の置物は、長い間雨風に晒され続けているのであろうか、あちこちに泥が付着し、色が剥げている部分もいくつか見受けられる。カフェの外装としては奇抜すぎるし、色彩もバラバラ。これでは混沌、言うならばただの倉庫、もっと言えばゴミ置き場だ。立地も悪いし、やはりここはカフェなんかじゃない。間違いない。
何よりも問題なのは、そのガラクタが散乱しているおかげで、軒下が軒並み埋まってしまっている所だ。これでは雨宿りが出来ないではないか。ともなると、やはりこの扉を開けて、この建物の中で雨宿りをする他無いのであろうか。悩ましい。
突然、ビュウと強い風が吹いた。穣子は慌てて帽子を両手で掴むが、あまりの強さによろめく。香霖堂とおぼしき建物の窓も、がたがたと揺れて、今にも飛んで行ってしまいそうだ。窓の周りにはツタが伸び、人の手が入っているとは到底考えられない。
しかし、このままずっと外にいればいつ何が飛んできてもおかしく無い。それに加えてこの雨だ。秋も深まり、急に冷え込むこの季節。家を飛び出した時は十分に晴れわたる秋空が広がっていて、薄着でも十分な気温であったのだが、やはり雨が降ると一気に気温が下がる。いくら秋の神様と言え、深まる秋の寒さに強い訳ではない。あれはもはや冬の領分である。
つまりこの雨の中、外に立たされていたら、風邪を引く。神様だって風邪は引く。
いつもなら風邪を引いても姉が看病をしてくれるのだが、今回は…そういう訳にもいかない。非常に気が進まない選択肢ではあるが、今回ばかりはこの建物の門を叩いてみる他無さそうだ。
「た、たのもう!少しだけ雨宿りをさせてください!」
どんどんどん、と木製の扉を叩く。叩く度に、扉上部に取り付けられた鈴が可愛らしい音を立てていた。
冷静に考えて、これは客が入ってきた事を知らせるチャイムであり、この建物に入る際に『たのもう』などとのたまう必要が無い事は明らかなのであるが、今の穣子にはそんな事を考える余裕はない。雨に濡れてお気に入りの服も帽子もビショビショ、溜まりに溜まったイライラと、この謎の建物への挑戦における昂揚感と緊張感でいっぱいいっぱいになっていたからだ。
扉を叩いてから数秒ほど間が空いて、中から人の話す声が聞こえてきた。何を話しているのかは全く聞き取れないが、少なくとも一つは男性の声である。扉越しに耳を傾け、内容を聞き取ろうと考えるが、その直後に中から扉が開かれて、見事に穣子の側頭部へクリーンヒット。
「痛っ!」
「この雨の中お客さんだなんて珍しいね。何がお探し物でも?」
扉からの平手打ちをモロに受け、少し後ろによろめく穣子。顔を上げて見てみれば、中から出てきたのは銀髪に大陸風の服装が目立つ、長身の男性。眼鏡の奥に覗く瞳はどこまでも気だるそうで、なんとも表情を読み取りにくい。一見で与える印象はと言えば、当然あまり良いものではない。
じんじんと痛む側頭部を抑えながら、穣子はその男を睨み付ける。
男はあからさまに視線を逸らした。
「あぁ、すまなかった。そんな所に人が立っているとは思わなかったからね」
銀髪を掻きながら、目線を合わせずにそう呟く男。謝るならもう少しマトモに謝れないものか、と穣子は憤慨しそうになるが、なんともこの男を見ていると、怒りをぶつける気力も奪われる。
まさに無気力の塊…穣子の彼に対する第一印象は、そんな感じであった。頭をぽりぽりと掻きながら、男はドアから手を離し、振り返って建物の奥に戻っていく。穣子は慌てて半開きのドアに手をかけ、寸での所で止めたが、男は建物の中へどんどん進んでいく。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
重たいドアを抑えながら穣子は叫ぶが、男は止まらない。建物の中をのぞき込むと、これまたケイオスが広がる空間である。古臭い大甕、用途の分からない白いハコ、…とにかく、得体の知らないものが所狭しと置かれている中を、男は軽い足取りで進んでいく。
穣子も慌てて中に入り、追いつこうとするものの、とにかく物が多くてそうもいかない。床にもあちこちに本が積まれていて、少しでも触ったら崩れてしまいそうなタワーがいくつも乱立している中でも、男は気にする様子も無く進んでいく。穣子がなかなか前に進めず苦心している途中、奥にある揺り椅子に腰を掛けた所で男が一言。
「ああ、そこ。その冷蔵庫は貴重な物だから、濡れた手で触らないでくれよ」
「れ、れい…? いや、そんなことはどうでもいいわ」
さすがにイラッと来た。
「あの、雨宿りをさせて頂いてる身分としては、あまり強くは言いたくないけど。貴方よく、デリカシーが無いって言われない?」
「うん?」
男は既に、椅子にしっかりと腰を据え、いつの間にか読書を始めていた。
今の返事も、もはや生返事だ。こちらの方へ見向きもしていない。
「…一応確認させてもらいたいのだけど」
穣子は前に進むのを諦め、丁度近くに置いてある埃の被ったソファーに腰を掛ける。
濡れようが知ったものか。こっちは既にびしょ濡れだよこの野郎。
「何だい?」
相変わらずこちらに目を向けずに、その男は返事をした。やたら頁を捲るスピードが速い。既に読書に集中しているのだろうか。その割に返事の速度もやたら早かったが。
「ここはもしかして、何かのお店かしら」
「え? 知らないで入ってきたのかい?」
「森に妙な看板があったのよ」
「はて、何の事だろう」
一応、意思疎通は出来るようで安心した。男は本を片手に、時々頁を捲りながら顎に手を当てているが、視線は間違いなく手元の本へ向かっている。沈黙が続いた。
穣子は男を睨み付けるが、無論、視線に気づいていない男は動じることもなく読書に集中している。彼女の質問への返答を探しているようには到底思えなかった。
その後も、男は何も語らない。対する穣子も、問い詰める気力すら失った。穣子は男を睨み付けるのを諦め、頬杖を突きながら大きなため息を漏らした。
帽子を頭から外し、膝の上に載せる。既に雨水を吸いに吸い尽くしたその帽子は、しっかりと黒く変色している。手で触ってみると、水が滲み出る程度にはびしょ濡れである。ここでタオルのように絞ってやろうかとも考えたが、彼女に残った最後の良心がそれを止めた。
なんとも厄介な所にお世話になっちゃったなぁ。穣子は再び大きなため息を漏らした。
突然、ガタリと大きな音が部屋のどこかから響いた。既に建物内は沈黙と、等間隔に鳴り響く頁を捲る音だけに支配されていただけに、穣子は少しだけ驚いた。しかし、このケイオスな空間のことだ。どこで何が倒れようと不思議ではない。
なんとなく、天井を見つめる。
天井からは、いくつもの謎の球体がぶら下っている。中心にあるのは、真っ赤な球体。同心円状には茶色い球体がいくつか。その途中に、透明の美しい球体が一つ。中に入っている液体が、ころりころりと揺れて、ランプの灯りを反射している姿が非常に美しい。よく眺めてみると、意外にも小奇麗なものも揃っているではないか。窓の傍に置かれた異国の建築物と思われる模型に、店の端に設置してあるアンティークな雰囲気を醸し出す木製の大箱。中にディスクのようなものが設置してあることから、大型のオルゴールと予測できる。
男のすぐ傍に聳える大きな本棚には、意外にも装飾の美しい本が揃っている。並べてある順番のおかげとも取れるが、これを一つのインテリアとして設置してあると考えれば彼の感性も捨てたものではない。
「そう、さっきの話の続きだが」
突然、本をぴしゃりと閉じる音が、再び沈黙の広がるこの建物内に響き渡った。せっかくセンチメンタルな気分になっていたというのに、何とも間の悪い男だ。
穣子が顔を向けると、男は既に椅子から立ち上がっており、穣子の方に視線を向けていた。近くに置いてある、真白い布を穣子に向かって投げつけながら、これまた唐突に語りだす。不意を突かれた穣子は、驚きながらもなんとか布を受け取る。
「えっ、まだ続いてたの!?」
「当たり前だよ。僕はまだ何も答えていない」
男は、少しずれていた眼鏡の縁を手で押さえ、再び言葉を紡いだ。
「ちょっと引っかかることがあって、少し考え事をしていたんだ。ああ、そういえば君は、この店を道場か何かかと勘違いしているようだが、そんな事はない。ここは香霖堂。僕は店主の森近霖之助。僕の持つ道具の名前と用途が判る程度の能力を最大限生かすべく、外の世界から流れ着くアイテムを蒐集し、外の世界の知恵と技術を提供するのがこの店の主な目的だ。外の世界から流れ着くものは、非常に有用なものが多いけど、如何せん用途が分からないものが多いからね。お客さんに対価を支払って貰い、僕が間に入って、外の技術を有効活用してもらおうって心積もりな訳だ。まあ、分かってもそれを動かすエネルギーが足りないものも多いけどね。ともかく、そんなものをここで販売している訳だ。まぁ、平たく言えば道具屋だね。それと、森にあった看板についてだけど、あれは多分、うちのお得意様…というより招かれざる客、といった方が正しいか。そんな厄介な子がよくこの店に来るんだが、たぶんその看板は彼女の仕業だね。僕を困らせるのが大好きなようだし」
「はあ」
突然、やたらと饒舌になった。語り口自体はあまり急かしいものではないが、ここまで口を挟む隙は全く無し。つまり、今の話を要約すると(無駄な情報が多かった、という点では取捨選択とも言えるか)この男が霖之助という名前であるという事だ。
後はほとんど聞き流した。
当の霖之助は、穣子の相槌を挟むと、また口を開いた。
「おかげで、こうして一人のお客さんを呼びこんだ訳だし、彼女の作戦は失敗に終わったとも言えるね」
「はあ」
心底どうでもいい。
穣子はさきほど受け取った白い布で濡れた髪を拭きながら、適当に相槌を打つ。確かに自分の質問とその疑問に対しては、霖之助は完璧な回答を返したと言えよう。この店の事もよく分かったし、ついでにあの看板に関してもそれとなく理解できた。しかし、何とも会話のやりにくい相手である。普通、話を振られたらその瞬間に何かしらレスポンスを返すべきだと思うのだが。
霖之助は話すだけ話すと、また揺り椅子に腰を掛け、さきほど読んでいた本とは別の本を手に取り、再び読み始めてしまった。再び店内に沈黙が訪れる。
「そのタオルだが」
振り向きもしないで話し出すの本当に止めてほしい。
「雨の中大変だっただろう。それで体を拭くといい。冷えるのであれば、ストーブを付けてもいいよ」
「すとーぶ?」
聞いたことのない単語に首を傾げながら、穣子は呟く。実際、雨に濡れていたのは確かであるし、これを差し出して(というよりは投げて寄越したのだが)くれたのは非常にありがたかった、のだが。
「…できれば、もう少し早いタイミングで頂きたかったわね」
「ん、何か言ったかい?」
「いえ何も」
「あぁ、ストーブについてかい? ストーブというのは、外の世界で非常にポピュラーな暖房器具でね。とある燃料…まぁ、よく燃える油のようなものだと考えてくれて構わないが、それを中で燃やすと、非常に効率よく暖を取れるという実に優れた道具なんだ。1分もすれば部屋中が暖まるんだから、実に優秀だよ。直接火を燃やすわけではないから、火災の危険性も少ないし、良い事尽くめだね。外の人間は頭が良い、こんな素晴らしい道具を作り出せるなんて」
「はあ」
そこは聞いていない。
興味の無い話を聞かされる身としては、何度も彼の説明を遮りたくなる衝動に駆られるものの、意外にも饒舌な彼の語り口には口を挟む余裕が無いのが悔しい。タオルで洋服を拭きながら、穣子は再び大きなため息をついた。
一方の霖之助は、本に栞を挟むと、急に立ち上がって暖簾の奥に消えてしまう。向こうが彼の居住スペースなのだと予測できるが、それでも客を残して勝手に行ってしまうのは如何なものか。
手持無沙汰になった穣子は、姉の静葉に思いを馳せる。
イマイチ、何が原因に喧嘩になったのかが思い出せない。ここ最近、雨続きで互いに機嫌が悪かったのは間違いないが、果たしてここまでの喧嘩になろうとは、姉も予想をしていなかっただろう。
確かに、私は姉のやり方に疑問を感じて、それを批判したのは覚えている。しかし、それくらいの小言ならいつもの事ではないか。その結果、ちょっとした喧嘩になることなんて日常茶飯事。口喧嘩は姉妹の証じゃないか。
私の言動のどこが彼女の繊細な部分に触れてしまったのか、正直よく分かっていない。だが、普段穏やかな彼女が、声を荒らげて、『こんな妹なんて、いらなかった!』と最後、そう言い放ったのである。ただそれだけは、彼女の声のトーンそのままで、さきほどから何度も何度も、頭の中で再生されていた。正直、辛い。
ただ、自分が家から飛び出したくなるような衝動に駆られる事になるとは、正直自分でも驚いている。彼女の言葉が本気であったとは考えにくい。少し、頭に血が上って、思わず口にしてしまったのであろう。
…そう、信じたい。
ただ、あの時の私は、あの言葉を本気で信じていたような気もする。冷静になって考えれば、そんなことは無いはずなのに。でも、そう。思わず口にしてしまうということは、心のどこかで少なからずそう思っていた可能性だってある。姉を信用しきれていない自分に嫌気が差しつつも、そんな、嫌な考えは止まらなかった。
「はい」
「うおえええっ!?」
と、物思いに耽っていた所に、急に横から差し出されたカップが視界に入るやいなや、もはやワザととしか思えない勢いで、穣子は悲鳴を上げて驚いた。穣子が振り向いてみると、そこには手にティーカップを持った霖之助の姿。長身である彼の姿は、座りながら近くで眺めるとなかなか迫力があるが、やはりその気だるそうな瞳と目が合えば、そんな迫力も萎んで見える。
霖之助は表情一つ変えず、口を開いた。
「紅茶だ。普段からお世話になっているお客さんから頂いたんだけど、かなり上等な物らしい。僕は紅茶には疎いが、確かに香りは素晴らしいよ、この紅茶」
「え、これを私に?」
「体も冷えているだろうからね。これを飲んで温まるといい」
「…ありがとうございます」
穣子はソーサーと共にカップを受け取る。受け取った瞬間、その上品な香りが鼻を通り抜ける。酸味があり、みずみずしい果実に近い香りだ。しかし、そう感じた瞬間次に通過するのは、少々渋みのある味覚。雨上がりの森林の中で深呼吸をする時に感じる、あの湿った木々の臭いによく似ている。不思議な感覚である。
ソーサー自体の装飾は、外は金色で縁取られ、内側は紅色の線で幾何学的な模様が描かれている。形状もごく普通で、下弦が緩やかなカーブで纏められていた。対するカップは、深い緑色の波線がぐるぐると一周。そこから等間隔に散りばめられた真紅の花弁は、薔薇の花をイメージしたものと考えられる。なかなかお洒落な一品だ。
何だ、想像していた以上に良い人じゃない。
穣子は紅茶を口に含みながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。一方の霖之助はというと、部屋の奥に戻ったと思えば、似たようなティーカップを持って再び現れる。さきほどよりも穣子に近い椅子に座り(この店、あちらこちらに椅子が設置してある。目的は不明)、腰を据えて紅茶を啜り始めた。今度は向かい合う形となった。
また、二人の間に沈黙が訪れる。
穣子がふと外を眺めると、外で滝の様に降り注いでいた雨は、少しはその勢いを弱めつつも未だ降り注いでいる。さきほどまでの強い風も少しは収まったようだが、時折店内にも雨風の音が響く。しかし、傘さえあれば、十分帰れる程度には弱まったと言えるだろう。
「それで、何か欲しいものは見つかったかい?」
窓を見ている穣子に、またも唐突に語り掛ける霖之助。どうもこの人は、人が他の所に意識を向けている時に話を進めるのが好きらしい。何の利点も無いぞ。
「この店の取り柄と言えば、品揃えぐらいなものだからね。外の世界のテクノロジーとマジックアイテムに関しての取り扱いなら、幻想郷の中で香霖堂に勝る店は無いと自負しているよ」
「幻想郷、狭いですしね。競合する店もあまりなさそう」
「…それもそうか。とにかく、何か欲しいものは無いかい? せっかく来たんだから、初回サービスで少し値引きしておこう」
あっこの人、完全に商売人の顔になってる。
実際、この店に寄ったのは雨宿りをする為だし、買い物に来た訳ではないのだが。なにより、こんな状況になったからには、彼を誤魔化す方がよっぽど面倒であるということは、この十数分間彼の傍にいてはっきり理解した。ここは彼に話を合わせるべきだろう。
「そういえば、どこにも値札がついていないけれど」
「ああ、これね。この店の品物は、お金には代え難い価値のあるものばかりだ。その都度その都度、僕の判断で値段を付けているよ」
「それじゃ、値引きされてなくても分からないですね」
「…それもそうか」
霖之助は露骨に残念そうな表情を浮かべ、また紅茶を啜った。あまり感情を表に出さない不愛想な人かと思いきや、意外にそうでもないらしい。こうも一見堅物にも思える男が、はっきりと感情を表に出す姿を見ると、自然に笑みがこぼれる。
「何を笑っているんだい」
「いえ、何でも」
そう言いながらも、穣子は含んだ笑みを絶やさない。霖之助はその姿を見て、怪訝そうな表情を浮かべるが、特に追求はしなかった。穣子が再び口を開く。
「それより、欲しい物だったっけ。今は…そう、そうね。傘が欲しいわ」
「傘か。確かに、この雨の中、傘無しで家に帰るのは少し辛い」
霖之助は何度も頷きながら語る。
「しかし、この店に傘は置いていない」
「え?」
穣子の向かい側、古臭い木製の椅子に座っていた霖之助は急に立ち上がり、自慢げに語りだした。両手を腰に当て、仁王立ちまでしている。
「うちの傘は特注品なんだ。1週間も時間を頂ければ、雨風は勿論、紫外線から弾幕までしかと防げる香霖堂特製の傘をお作りしよう」
と語りながら、したり顔で穣子の方に顔を向けた。が、当の穣子は何とも冷めた表情で、ぼそりと呟く。
「…いやあの、弾幕とかは良いから、雨を防げる傘が今すぐ欲しいのですが」
「うーん、それは困ったね。ここには僕の傘しか…いや、あれもこの間壊れちゃったんだっけ。直そうと思っていたら忘れていたらしい。すまん」
さすがに彼の私物を買おうとは毛頭思わないし、その状態なんて全く興味が無い。穣子は呆れながらも会話を続けた。
「唯一の取り柄が品揃えじゃなかったの?」
「傘は外の世界のテクノロジーでもなければマジックアイテムでも無いからね」
「曲がりなりにも道具屋でしょう。傘の一本や二本、用意しておくべきだと思うわ」
「普通の道具が欲しいなら、人里の大道具屋で十分事足りる。その代わり、ここでは人里でなかなか手に入らない、外の世界のテクノロジーを売っているんだ。見事な差別化だとは思わないかい?」
「うっわ開き直りやがったこの人」
穣子の呟きが聞こえているのか聞こえていないのか、時々紅茶を啜りながら、未だに得意顔を崩すことなく語っている霖之助。未だ雨は止まず、ガラス張りの窓は定期的に音を立て続けている。外から見ると蔦だらけであまり良い印象では無かったものの、内側だけは手入れがなっているようだ。
「ともかく。申し訳ないが、今この店に傘は無い。他に欲しい物はあるかい?」
「そうは言われても…」
穣子は周りを見回すものの、ぶっちゃけ殆どの道具の用途が分からない。表紙を見ても、興味の無いタイトルの本ばかりであるし、外の世界のテクノロジーと思われる、奇妙な凹凸の付いた白い大箱達も、外の世界に疎い彼女からすればただの粗大ごみである。多少気になる物と言えば、天井から吊り下げられている球体や、外の世界の建物を模していると思われる模型くらいなものだ。たぶんあれは売り物じゃない。
「正直な話、道具の用途が分からなくて全然買いたい物が見つからないわ」
「ああ、分からない道具があったら僕に聞いてくれ。いくらでも答えるよ」
「こんなに沢山、それこそゴミ…いえ、倉庫みたいに物が置いてある中で、いちいちこれは何これは何って聞いてたら、日が暮れちゃうでしょうに」
「参考にしておこう」
「それに、どれが売り物でどれが売り物じゃないかもよく分からないし」
「確かにそれは言えるね。例えばこのストーブなんかは、元々売り物だったんだけど。使い方が分かってからは僕の所有物として、有効に活用させて貰ってるよ」
「…あなた、本当に商売する気あるの?」
冷たい表情で霖之助を見つめる穣子。しかし当の彼はそれこそ気にしている様子は無く、未だに得意顔を崩さない。不敵な笑みを浮かべながら、彼は口を開く。
「失敬な。商売する気があるかと言われれば、それは勿論ある。確かに客の入りは悪いし、売上も決して良いとは言えないが。それでも僕なりに努力をしているつもりだよ」
「まず私思うのだけど。こんな辺鄙な所に店を置いた所で、誰も寄り付かないんじゃないかしら」
「この店の根幹を覆すような指摘だね」
「…何か理由があるのかしら」
露骨に怪訝そうな表情の穣子。
「勿論。この店は人間と妖怪の両方を相手にしているからね。人里に店を構えれば妖怪は入りにくくなるし、山奥に構えればそれこそ人間は寄り付かなくなる。ベストな場所に店を構えたつもりなのだが」
「ここ、魔法の森の目の前じゃない。一般妖怪ですら滅多に寄り付かない場所なのに、人間が寄り付くと本気で思ってるのかしら。人里からも距離はあるし…」
「まぁ、それ以外にも、外の世界のテクノロジーが手に入りやすい場所に近いとか、そういった理由もあるんだけどね。かなり個人的な話だけど」
どう考えてもそれが主だろ。穣子は心の中でツッコミを入れる。
そのタイミングで、今度は霖之助が椅子から立ち上がり、ティーカップ片手に再び店の奥に消えていく。奥で何やらからからと音がしたと思うと、今度は小皿に分けられたクッキーを持った霖之助が現れる。また先ほどまで座っていた椅子の近くに転がっていた(本当に横になっていたので、この表現は正しいと思う)小型のテーブルを片手で立てると、その小皿を机の上に置いた。
彼は振り向きざまに、穣子と目を合わせる。
「実際、君のような人が辿りついている訳だからね。この店にも魅力があるわけだ、立地に負けない程度に」
そう言いながら、再び椅子に腰をかける霖之助。
「私は妖怪でも人間でもないですから。かなり例外のうちに入るとは思います」
「うん? ただの人間では無いと思っていたけど、もしかして君はこっち側の人間かい?」
「こっち側の人間っていう表現の意味が全くわからないけれど。こう見えても私、神様ですから」
「…ああ、なるほど」
霖之助は小皿に置かれたクッキーを頬張りながら、一人で何度も頷いている。何か勝手に早合点されているのでは無いかと、穣子が不安に思っていると、クッキーを飲み込んだ霖之助が一言。
「君が静葉さんの妹さんか。確かに、よく似ている」
静葉。
その名前が彼の口から飛び出した瞬間。
穣子は金槌か何か、とにかく質量のある何かで、頭を思いっきり殴られたかの如き感覚に陥った。視界が揺れる。頭がくらくらする。無音の世界。
霖之助の、静葉という言葉だけが、耳に焼き付いて離れない。何度も頭の中で繰り返される。静葉、静葉、静葉姉。
少しよろめいて、何とかソファーの縁を掴んだ。腕に力が入る。ソファーに座っていなかったならば、間違いなく倒れていたと思う。額に玉のような汗が滲んでいるのを確かに感じる。
「ど、どうして」
思わず声が震える。彼に向けようとしたのでは無い。それこそ無意識に、自然に口から発せられていた。
「どうして、姉の名前を…?」
穣子はふらふらする体を立て直し、ソファーに深く座りなおす。深呼吸して、目を開ける。正面にいるはずの彼に。彼の輪郭が浮かび上がる。霖之助に焦点を合わせようとするが、視界が揺れてなかなか上手くいかない。揺れる視界の中、彼の顔がうっすらと見える。その表情は読めない。ただひたすらに、無気力を感じさせた眼鏡の奥の瞳からも、今や読み取れるものはない。視界の揺れが収まるにつれて、今度は急に白い靄のかかったかのように、視界がぼやける。急に、彼が別の位相の存在のように感じられる。いや、別位相? 違う。
今まで赤の他人だと確信を持っていた相手が、突如自分の領域を侵してきたのだ。むしろ、彼の方が位相を合わせてきたといった方が正しい。互いに、何も知らないはずだったのだ。私は彼を知らない。しかし、彼は…私の、姉を知っている。また再び、頭がぐわんぐわんと揺れ、倒れそうになる。目を瞑って、何とか堪える。
「…大丈夫かい?」
突然、彼の声が頭の中に響いた。とてもクリアーな声だ。これが、現実の声だと理解するのに少しの時間を要したが、理解してからは早い。少しずつ靄が晴れてくる。視界が少しずつ戻る。
今度は、彼の顔がはっきりと見えた。穣子を覗く彼の表情からは、少しばかり彼女を心配しているような心持が見える様な気がする。
とはいえ、クッキーを頬張りながらのぞき込んでくるその姿は、どうにもシュールで。
「何を笑っているんだい…。全く、急にふらついたと思ったら、今度は笑い出して。意味がわからない」
そこまで言われて、初めて気づいた。自分が、笑えるほどの余裕を持っている事に。そして、実際に笑みをこぼしていた事に。ついに、完全に視界が元に戻った。彼の顔がはっきり見える。随分久しぶりに見たような彼の顔は、最初に見たそれと何も変わっていない。どこまでも気だるそうな瞳と、掴み所のない表情。
同時に、彼はまた新しくクッキーを手に取り、先ほどまで口に含んでいたクッキーを一気に紅茶で飲み込もうとしていた。
「さっきの話の続きだが」
霖之助が語りだす。小皿に載せられているクッキーの量は既に半分を切っていて、さきほど霖之助が手を伸ばそうとして、穣子を一瞥した後に手を引っ込めたのを、確かに彼女は見ていた。意外にも食い意地が張っているな、この人。
「穣子、君の質問に答えよう」
急に名前を呼ばれて驚く。だが、姉の事を知っているのであれば、私の名前を知っていても何もおかしくはない。
ここでの質問、というのは、先ほど無意識に呟いてしまった内容についてであろう。これから語られるのは、私の姉についての事だろう。彼との関係も語られるに違いない。しかし、先に紡がれる言葉を想像して、身構えるなんて事もない。
「先に言っておくが、変な誤解はしないでくれよ」
穣子の心中を組んでの事か、気を遣おうとしている努力は認める。が、そんなことはどうでもいいし、特に誤解はしていない。実際、何の心配もしていない。
彼に限ってそんなことは無いだろう。穣子は楽観的であった。しかし、そこには確信という名の裏付けがあるのだ。彼と言葉を交わしていたのは、たかが数十分間。だが、彼は自分を隠そうとしない。常に自然体で、自分の思うままに行動していて、申し訳程度に他人を気遣う様な人間だ。商売人には全く向いていないだろうが、それでも穣子にはよく分かっていた。彼は決して嘘をつかない、信用に値する人物だ、という事に。疑う相手ではない。
霖之助は、一拍開けてから、口を開いた。
「彼女はうちの常連さんなんだ。よく道具を買いに来てくれるよ。最近は…そうだね、香霖堂特製のハケを買ってくれたっけ」
やはりそうだ。予想通り。穣子の口から思わず笑みがこぼれる。不安があったわけでは無いが、それでも安心した。やはり彼は彼で、姉は姉だ。彼女の認識は何も間違っていない。
「何に使うかは結局教えてくれなかったんだけどね。やたら嬉しそうにしていたから、少し問い詰めてみたんだけど」
「ああ、あの人は紅葉を司る神様ですから。葉を一枚一枚紅葉させるのに必要なの」
「えっ! 紅葉は彼女が“させて”いたのかい!」
「…やっぱり認知度低いのねー」
露骨に驚いている霖之助を横目に、穣子は内心呆れ返っている。もともと姉は、あまり人と接する機会が少ないようで、知り合いもそんなに多くは無い。そんな中の、数少ない知り合いですら、彼女の功績を知る者は少ないという事か。そりゃ誰も知らない訳だ。
「霖之助さん、あなたはあの人が…静葉が、神様なのは知ってるわよね?」
「勿論だ。紅葉を司る神様だろう。それでも、静葉さんがそこまでの事をしているとは驚きだ」
「紅葉を司るんだから、それくらい予想できてもいいと思うのだけど」
「そうかい? 僕は何というか…紅葉の象徴だとか、その程度の認識でしか無かったのだけど」
「そんな雑多な神様なんて、すぐに消えちゃうわよ。神様舐めんな」
急に口が悪くなる穣子に対して、少し困惑した様子で何かしらぼそりと呟く霖之助だが、彼女は全く意に介さず続ける。
「貴方たち、仲がいいんじゃなかったの?」
穣子は小皿のクッキー数枚に手を伸ばし、一気に口に含んだ後、紅茶で喉に流し込む。霖之助はそれを見て、何か言いたげな顔をしているものの、何も語らない。さきほどまでは打って変わって、完全に穣子が主導権を握っていた。
「ただの大事なお客様だ。それ以上でもそれ以下でもない」
霖之助は無表情で答え、小皿に手を伸ばす。再び数枚のクッキーを取ろうとした穣子の手とぶつかるが、今度は霖之助も全く気にする様子もなくクッキーを手に取り、頬張った。
「お得意様ではあるから、よく話はしているけどね。彼女はあんまり自分のことを語らないんだ」
「…そう、そうね。それはよくわかるわ」
大きく頷く穣子。確かに、そこに関しては共感できる。姉は、自分のことをほとんど語らない。口を開けば、『大抵秋はまだかー』、だの『畑のサツマイモは育っているかー』、だの『人里の茶屋のみたらし団子が美味しいわー』、だのそんな他愛のない会話ばかりをしている印象が強い。別に普段の会話だし、内容を求めている訳ではないのだが。それでも、彼女は、自分に興味がなさすぎる。穣子はぼそりと呟く。
「あの人は、自分に興味が無いのかしらね。折角あんなに素晴らしい役割を担っているのに、誰にも言わないんだもの」
「さあ、どうだか。それは君が一番分かっている事なんじゃないかな」
「そう…そうなのかしら。私にもよく分からない」
さっきまでは心の中で、確かに確信を持った。持っていた。しかし、改めて彼に問われた時、どうにもはっきりと答えることはできなかった。なぜだろう。穣子の表情が少しだけ硬くなり、口を閉じてしまう。それを見かねてか、霖之助はクッキーを数枚手に取りながら、彼女に問うた。視線を合わそうとはしていない。
「随分と歯切れが悪いね。何かあったのかい?」
「…いえ、別に何も」
「そうかい。なら良いんだけど」
霖之助はクッキーを口に頬張ると、手をひらひらさせながらそう言う。彼としても、穣子の様子から何かを察したのだとは思うが、深く詮索しないという事だろうか。その気遣いは実際ありがたい。
確かにこの男、意外に侮れない男だということはここ数十分の会話でよく理解した。なんとなく、彼に話を聞いてもらえば悩みが解決する予感もする。だが、それでは駄目だ。これは私と姉の問題であり、彼は関係ないのだ。彼を巻き込むべきではない。
「そういえば、静葉さんはいつも、君のことを話しているね」
しばらく沈黙が続いた後、突如霖之助が語りだした。まだ雨の続く、窓の方を眺めている。こちらに決して顔を向けることは無い。その横顔から、相変わらずなんとも察し難い表情をしている。
姉が私の話をしている?
思いもしなかった発言に、穣子は思わずぽかんと口を開いてしまった。一方の霖之助は、穣子の方に顔を向けながらも、視線はちらちらと泳いでいるようにも見える。片手でクッキーを取りながら。
「姉が、私のことを?」
たぶん、相当に疑いを向けているかのような目で見つめてしまったのだろう。こちらを向いていたはず霖之助は、また露骨に穣子から目を逸らし、窓に顔を向けていた。
「そんなに不思議なことかい? まぁ、君が何を思っているかは分からないが。こちらとしては、正直ウンザリするほど君の話を聞かされている」
「それを私の前で言うか」
「この際だから、君の方から姉さんに進言して貰いたいと思ってね」
「ああ、はい。そういう事ね…」
しかし、驚いたものだ。姉が私の話をするなど。普段はもちろん同居しているから、姉と言葉を交わす機会は多いし、他の誰よりも関わっている時間が長いのは間違いない。ただ、日常の会話…つまり生産性も無い、他愛のない会話をそれとなく思い出してみても、私の話なんてほとんど聞いたことがない。霖之助の言葉から察するに、かなりの頻度で私の話が姉の口から飛び出しているようであるが。
「本当によく聞かされているよ。『私、とっても可愛い妹がいるのよ』から始まって、『あの子、私と違って人間達にとても人気があるのよー』だとか、『あの子の作る作物は本当においしいわよー』だの、終いには『貴方も一目惚れしちゃうかも』と来たもんだ。見たことも話したことも無い人物について、そこまで語られてもなぁと思いながら適当に聞き流しているんだが」
「…へえ」
素っ気ない返事を返したつもりではあったが、霖之助は穣子の顔をしかと見つめている。
姉が自分のことをそこまで褒めるなんて。少しだけ嬉しい。思わず顔が綻びるのを、自分でも感じていた。
そういえば、彼女に褒められたことなんて、数えるほどしか無い気がする。そうは思っても、口に出すのは実際気恥ずかしいものであって。姉妹とはそういう関係なのだ。仲の良し悪しは関係なくて、お互いの認識は既に完成されているものなのだ。姉はこういう人だ、という認識。誰よりも長く一緒にいるからこそ、裏付けができるもの。
それを今更、面と面を向かわせて、どんな顔をして伝えればいいものか。伝えられやしない。
霖之助は穣子の顔をじっと見つめた後、大きくため息をついて口を開く。
「まぁ、実際この目で見てみて一目惚れはしなかったが。彼女の見立ては外れたね」
「貴方、本人の前でよく言えるわね…」
何の躊躇いも無く、恐ろしく失礼な言葉を並べる霖之助に呆れながらも、思わず笑みがこぼれる。というよりは、もはや抑え切れていない。姉が、静葉姉がそこまで私を褒めていて、しかも、それを人に自慢していたなんて。
相手がこの男であるとはいえ、単純に嬉しいじゃない。
「しっかし、あの静葉姉がねえ…うんうん、ちょっと頭の整理がついてきたかも」
穣子はぼそりと呟いた。霖之助は確かに彼女の呟きを聞き取れる距離にいたものの、反応は無い。残り数枚になったクッキーを見、一瞬の逡巡の後、結局手を伸ばして口に頬張る。残るクッキーはあと一枚だ。
穣子は、最後のクッキーに手を伸ばし、しかと掴みとる。上に放り投げ、空中で一度止まったように見えたクッキーは、そのまま自由落下。顔を真上に向けていた穣子の口に、ちょうど収まった。彼女はそれを軽く噛み潰すと、手に持っていたカップを口に当て、紅茶を一気に飲み干した。
「…ありがとうございました!」
がたり、という音を立てて、穣子は突然立ち上がった。そう言い放ちながら、目の前で目を丸くしている霖之助に向かって、軽く会釈。カップを目の前の机に置くと、椅子の背もたれ部分に掛けておいた、未だ湿っている帽子を手に取り、しっかりと頭に被る。
霖之助が彼女に声をかけようとしたのは間違い無いし、実際何か聞こえたような気がする。しかし、穣子にはその声は届いていないし、実際その足は止まらない。さきほどまでは物が多くて、前に進むことすら簡単なことではなかったのに。
穣子は扉に向かって、ついに走り出していた。彼女の足が、近くの本の塔にぶつかると、案の定、本の塔はばたばたと音を立てて崩壊した。それをも気に掛けることなく、穣子は走る。腕が冷蔵庫にぶつかり、鈍い音を立てる。それでも、彼女は走り続ける。
扉に辿りつくと、彼女は乱暴に扉を押し開ける。転がるように外に出ていくと、彼女はそのまま走り去ってしまった。
霖之助は、その様子を扉の傍からぼうっと眺めていた。穣子は一度だけこちらを振り向いた様にも見えたが、そのあとはどこかへ向かって、ひたすらに走り続けている。未だにぬかるむその泥道に、時折足を取られながらも。
いつの間にか、雨は止んでいた。快晴とまではいかないものの、切れ切れになった灰色の雲の隙間からは、眩しい陽光が差し込む。肌寒い気温であることに変わりないが、じきに暖かくなるだろう。
穣子の姿は、既に点に見えるほど、小さくなってしまった。途中から空を駆けはじめた彼女は、燃えるように赤く染まった山に向かっているように見える。冷たくも、やわらかい風が香霖堂の前を通り抜けた。どこから運ばれてきたのか、紅と黄色のグラデーションの美しい、モミジの葉を一枚乗せて。
無論、彼女のその行先は、彼にもよく分かっているつもりではあった。
だが。
例のモミジの葉は、ひらひらと風に乗って、開け放たれていた香霖堂の扉を通り抜け、室内に運ばれてくる。
霖之助の横を通り、床に落ちる…その寸前に、どこからか女性の手が伸びて、その美しい葉っぱを掴んだ。
「お疲れ様でした」
突如、後ろから声が響いた。しかし、霖之助は驚いた様子を全く見せない。振り向きもせずに、口を開く。
「…出てくるのが遅い。彼女、行っちゃったじゃないか」
「ごめんなさい。私もちょっと、考える所がありまして…」
「それにしても、君も滅茶苦茶な事を言うね。妹が来たから匿えだなんて。ここはただの道具屋だというのに」
「分かってくださいよー。喧嘩してるって言ったじゃない」
「そこまでする義理は、僕にない」
「とか言っちゃってー。しっかり、あの子を諭してくれちゃったじゃないですかー」
「成行きだ。人に頼っていないで、君も少しは反省しなさい」
「…そうね、そう。私も謝らないといけないわね。あの子には、酷いことを言っちゃったし」
「ふぅん。ま、僕には関係のない話だね」
「彼女こそ、自分に自信を持つべきなのよ。私なんかを気に掛ける必要なんてないのに」
霖之助は黙ったまま、赤く染まった山々を見つめている。
「…私も少しはしゃんとしないとね。あの子の思う、自慢できる姉にならないと」
「…あとは君の問題だ。早い所、彼女を追いかけた方が良いんじゃないかな?」
「そう…ね。そうさせてもらうわ」
彼女は、手に持ったモミジを放り投げると、霖之助が押さえている扉に向かう。霖之助の横に並ぶと同時に、投げ上げたモミジが、霖之助の髪の上にちょうど乗っかった。
「…ありがとうございました。感謝してます。私も、妹のことも」
「これもビジネスの内だからね。次に来るときは、大口の注文を期待している」
「ブレないわねえ貴方も」
彼女は霖之助に向かって軽く笑うと、香霖堂を後にした。
穣子ほど急いではいないものの、その足取りは確かだ。力強く大地を蹴り、空を駆けた。
目指すは、妹のもとへ。出来れば彼女より先に家に着きたいものだが、それは厳しいだろう。そもそも彼女の方が足が速いし、何より、私よりも急いでいた。
こういう時も、あの子に勝てないんだよなあ。
静葉は、空を駆けながら、にこりと微笑み。妹に負けじと、そのスピードを上げた。
その後、一人残された霖之助は、既に店の奥の揺り椅子に戻っていた。近くに積み上げられた本を一冊手に取り、無心で読み続ける。
「結局、彼女らは…何で喧嘩してたんだ?」
『宇宙からの帰還』を手に取りながら、『sputnik』『ハレー彗星の科学』に囲まれる。ふと、無意識の内に出た彼の呟きに答える人間は、今はもういない。
そして、彼もまた、深く考えようとはしない。彼は髪に引っかかっていたモミジの葉を手に取り、それを本に挟むと、厨房に消えていった。
日の落ちかけた、真っ赤に染まる秋空を眺めながら、香りの良い紅茶を淹れる。
秋の夜長。本を読む時間は、まだまだ沢山、有り余っている。
「秋の空と乙女の心…か。ヒトサマの心は、よくわからんなあ」
空には既に暗雲が立ち込め、先ほどは大きな雷鳴が轟いた。あと数分もすれば、辺り一帯は大雨に見舞われるであろう。ひんやりとした風が彼女の髪を撫で、近くの植物達を躍らせる。また再び、暗雲の中から閃光が走った。次の瞬間、すぐ傍で雷鳴が轟く。
ああ、黒い雲が近い。家を出る時に傘を持ってくればよかった、と後悔するものの、時既に遅し。そもそも何も考えずに家を飛び出してきたのだから、そんな余裕などあるはずがない。
「あー…」
思わず呆けた声が漏れる。一体、どうしてこうなってしまったのだろう。
きっかけは些細な会話であったに違いない。ついさっきの事ながら、その内容はよく覚えていない程度に、それは他愛の無い会話だったのだ。普段通りの姉との会話。なんてことの無い日常。
確か、姉に対しての小言から始まったのだと思う。
秋も近づき、山の木々も燃えるような赤と稲穂のような黄土色のコントラストが美しい紅葉に染まり始める。里近くの水田では、黄金に輝く稲穂がたわわに実りを付けている。そんな季節は、私たち秋姉妹の独壇場である。
妹の方である私穣子は、豊穣を司る神様。秋と言えば実りの秋。農作に励み、それを生業とする人々(の一部)に崇め奉られ、人里に住まう人間達には大人気の神様である。一方、姉の方の秋静葉は、紅葉を司る神様だ。秋の楽しみの一つを挙げるとすれば、大抵何番目かには紅葉狩りがランクインすることであろう。幻想郷中でこの紅葉を楽しむことができるのは、私の姉のおかげである。彼女が一つ一つ、幻想郷中の葉っぱを丹精込めて塗っているのだ。無論そのおかげで、真っ赤に染まる葉もあれば、若干赤みの混じった黄色の葉があったりと、ムラが広がるのであるが。ただ、それもまた、逆に趣のあるものとして楽しむ人間も多く存在するし、私もその感覚は理解できる。
私としては、こうも美しい紅葉を作り出せる姉を羨ましく思ったりするのだが、彼女はあまり人里の人間達に認知されていないらしい。というよりも、紅葉が彼女の働きによる功績そのものだという事実が認知されてないのである。折角、素晴らしい活動をしているというのに、自らはそれを広めようとしないのだ。
もう少し努力すべきだと私は思う。
…という事を、かなりかいつまんで姉に伝えた結果が、今の状況。
即ち、姉と大喧嘩をした。後、私は家を飛び出してきた。なんとも単純明快な因果だろうか。
ずがしゃーん、とさらに大きな雷鳴が轟き、ついには大粒の雨が降り始めた。
急いで近くの大木の下に潜りこむが、どちらかと言えば間に合わなかった。急に勢いを増した雨粒は、私のお気に入りの帽子に容赦なく降り注ぐ。大木の下に到着した時には、既に帽子はびしょびしょに濡れていて、仕方なく帽子を外して待機。
いくら大木の下といえども、これだけの大雨だ。我先に我先にと太陽の光を得るべく、上へ横へと伸びる枝たちと、それに付いて回る青々とした葉のおかげで、少しは雨を防げるかと思ったが、さすがにこの雨粒の勢いを受け切れるほど丈夫ではなかったようだ。無念。
いくらかの雨粒の落下を直に受けながら、さきほどの姉との口喧嘩を思い出そうとするが、その度にどしゃんがしゃんと雷鳴が轟き、それどころではない。髪も雨に濡れて痛みそうだし、お気に入りの洋服も色が数段濃くなってしまった。
早い所雨宿りできる場所を探そう…と思い立って、帰路に向かって足を一歩踏み出し。
そこで、姉と喧嘩していることを思い出して、足が止まってしまった。雨宿りできる場所と考えて、無意識の内に最初に思いついたのが我が家というのも、自分の事ながら呆れる。一応補足しておくと、私がインドア派の神様であって、他に屋根のあるような場所を知らないとかそういう理由が故に思いつかなかった訳ではない。私はイメージ通り、超アウトドア派の神様である。よく散歩がてら色んな場所を飛んで回るし。
そもそも幻想郷には、人里以外に屋根のある建物がほとんどない。まして、こんな森の深くにあるわけがない。あるとしても寂れた神社だとか、悪魔の家だとか、ロクでもない場所だらけなのだ。私は悪くない。
と、そんな事を考えている間にも、雨粒の勢いは衰えることを知らず、むしろますます強くなっているようである。本当に早い所、雨宿りできる場所を探さなくては。
そう思い立って周りを見渡すが、もちろん運よく屋根など発見できるはずもなく。
あるのは大木の下にひっそりと立つ看板のみ。
もはや看板は朽ち果てているとも取れるレベルで、板のあちこちがささ剥け、苔やツタの葉に覆われていた。しかしそれでも、なんとか板に彫られた文字は読めるようである。
こんな辺鄙な所にある看板だ、隠れ家的なカフェでもあるのかもしれない。持ち合わせも少しあるし、その時は少し休んでいこう…、と淡い期待を抱きながら、看板に彫られた文字をなんとか解読。
「『この先香霖堂、来る者拒まず』…?」
…なんかの道場かな?
~ 秋雨前線異常なし ~
びちゃり、びちゃりと泥が飛び散る。
未だに鳴りやまぬ雷鳴と、容赦なく降り注ぐ雨粒。それに加えて激しい風にも煽られながら、全速力で駆け抜けた秋穣子が辿りついたその建物。
看板の文面からまるで期待はしていなかったものの、それでも想像していたそれとは大きく異なる姿に、雨風に吹かれながらも穣子は立ち止まる。
「…何これ」
魔法の森の入口に立地している割には立派な佇まい。
確かに「香霖堂」と書かれた掛け看板が扉の上に掛けられているのは目視できる。しかし、そのすぐ横には得体の知れない模様が描かれた旗がバタバタと音を立てて動いているし、その隣には「氷」と大きく描かれた旗も、同じようにはためいている。そのすぐ下に放置してある狸の置物は、長い間雨風に晒され続けているのであろうか、あちこちに泥が付着し、色が剥げている部分もいくつか見受けられる。カフェの外装としては奇抜すぎるし、色彩もバラバラ。これでは混沌、言うならばただの倉庫、もっと言えばゴミ置き場だ。立地も悪いし、やはりここはカフェなんかじゃない。間違いない。
何よりも問題なのは、そのガラクタが散乱しているおかげで、軒下が軒並み埋まってしまっている所だ。これでは雨宿りが出来ないではないか。ともなると、やはりこの扉を開けて、この建物の中で雨宿りをする他無いのであろうか。悩ましい。
突然、ビュウと強い風が吹いた。穣子は慌てて帽子を両手で掴むが、あまりの強さによろめく。香霖堂とおぼしき建物の窓も、がたがたと揺れて、今にも飛んで行ってしまいそうだ。窓の周りにはツタが伸び、人の手が入っているとは到底考えられない。
しかし、このままずっと外にいればいつ何が飛んできてもおかしく無い。それに加えてこの雨だ。秋も深まり、急に冷え込むこの季節。家を飛び出した時は十分に晴れわたる秋空が広がっていて、薄着でも十分な気温であったのだが、やはり雨が降ると一気に気温が下がる。いくら秋の神様と言え、深まる秋の寒さに強い訳ではない。あれはもはや冬の領分である。
つまりこの雨の中、外に立たされていたら、風邪を引く。神様だって風邪は引く。
いつもなら風邪を引いても姉が看病をしてくれるのだが、今回は…そういう訳にもいかない。非常に気が進まない選択肢ではあるが、今回ばかりはこの建物の門を叩いてみる他無さそうだ。
「た、たのもう!少しだけ雨宿りをさせてください!」
どんどんどん、と木製の扉を叩く。叩く度に、扉上部に取り付けられた鈴が可愛らしい音を立てていた。
冷静に考えて、これは客が入ってきた事を知らせるチャイムであり、この建物に入る際に『たのもう』などとのたまう必要が無い事は明らかなのであるが、今の穣子にはそんな事を考える余裕はない。雨に濡れてお気に入りの服も帽子もビショビショ、溜まりに溜まったイライラと、この謎の建物への挑戦における昂揚感と緊張感でいっぱいいっぱいになっていたからだ。
扉を叩いてから数秒ほど間が空いて、中から人の話す声が聞こえてきた。何を話しているのかは全く聞き取れないが、少なくとも一つは男性の声である。扉越しに耳を傾け、内容を聞き取ろうと考えるが、その直後に中から扉が開かれて、見事に穣子の側頭部へクリーンヒット。
「痛っ!」
「この雨の中お客さんだなんて珍しいね。何がお探し物でも?」
扉からの平手打ちをモロに受け、少し後ろによろめく穣子。顔を上げて見てみれば、中から出てきたのは銀髪に大陸風の服装が目立つ、長身の男性。眼鏡の奥に覗く瞳はどこまでも気だるそうで、なんとも表情を読み取りにくい。一見で与える印象はと言えば、当然あまり良いものではない。
じんじんと痛む側頭部を抑えながら、穣子はその男を睨み付ける。
男はあからさまに視線を逸らした。
「あぁ、すまなかった。そんな所に人が立っているとは思わなかったからね」
銀髪を掻きながら、目線を合わせずにそう呟く男。謝るならもう少しマトモに謝れないものか、と穣子は憤慨しそうになるが、なんともこの男を見ていると、怒りをぶつける気力も奪われる。
まさに無気力の塊…穣子の彼に対する第一印象は、そんな感じであった。頭をぽりぽりと掻きながら、男はドアから手を離し、振り返って建物の奥に戻っていく。穣子は慌てて半開きのドアに手をかけ、寸での所で止めたが、男は建物の中へどんどん進んでいく。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
重たいドアを抑えながら穣子は叫ぶが、男は止まらない。建物の中をのぞき込むと、これまたケイオスが広がる空間である。古臭い大甕、用途の分からない白いハコ、…とにかく、得体の知らないものが所狭しと置かれている中を、男は軽い足取りで進んでいく。
穣子も慌てて中に入り、追いつこうとするものの、とにかく物が多くてそうもいかない。床にもあちこちに本が積まれていて、少しでも触ったら崩れてしまいそうなタワーがいくつも乱立している中でも、男は気にする様子も無く進んでいく。穣子がなかなか前に進めず苦心している途中、奥にある揺り椅子に腰を掛けた所で男が一言。
「ああ、そこ。その冷蔵庫は貴重な物だから、濡れた手で触らないでくれよ」
「れ、れい…? いや、そんなことはどうでもいいわ」
さすがにイラッと来た。
「あの、雨宿りをさせて頂いてる身分としては、あまり強くは言いたくないけど。貴方よく、デリカシーが無いって言われない?」
「うん?」
男は既に、椅子にしっかりと腰を据え、いつの間にか読書を始めていた。
今の返事も、もはや生返事だ。こちらの方へ見向きもしていない。
「…一応確認させてもらいたいのだけど」
穣子は前に進むのを諦め、丁度近くに置いてある埃の被ったソファーに腰を掛ける。
濡れようが知ったものか。こっちは既にびしょ濡れだよこの野郎。
「何だい?」
相変わらずこちらに目を向けずに、その男は返事をした。やたら頁を捲るスピードが速い。既に読書に集中しているのだろうか。その割に返事の速度もやたら早かったが。
「ここはもしかして、何かのお店かしら」
「え? 知らないで入ってきたのかい?」
「森に妙な看板があったのよ」
「はて、何の事だろう」
一応、意思疎通は出来るようで安心した。男は本を片手に、時々頁を捲りながら顎に手を当てているが、視線は間違いなく手元の本へ向かっている。沈黙が続いた。
穣子は男を睨み付けるが、無論、視線に気づいていない男は動じることもなく読書に集中している。彼女の質問への返答を探しているようには到底思えなかった。
その後も、男は何も語らない。対する穣子も、問い詰める気力すら失った。穣子は男を睨み付けるのを諦め、頬杖を突きながら大きなため息を漏らした。
帽子を頭から外し、膝の上に載せる。既に雨水を吸いに吸い尽くしたその帽子は、しっかりと黒く変色している。手で触ってみると、水が滲み出る程度にはびしょ濡れである。ここでタオルのように絞ってやろうかとも考えたが、彼女に残った最後の良心がそれを止めた。
なんとも厄介な所にお世話になっちゃったなぁ。穣子は再び大きなため息を漏らした。
突然、ガタリと大きな音が部屋のどこかから響いた。既に建物内は沈黙と、等間隔に鳴り響く頁を捲る音だけに支配されていただけに、穣子は少しだけ驚いた。しかし、このケイオスな空間のことだ。どこで何が倒れようと不思議ではない。
なんとなく、天井を見つめる。
天井からは、いくつもの謎の球体がぶら下っている。中心にあるのは、真っ赤な球体。同心円状には茶色い球体がいくつか。その途中に、透明の美しい球体が一つ。中に入っている液体が、ころりころりと揺れて、ランプの灯りを反射している姿が非常に美しい。よく眺めてみると、意外にも小奇麗なものも揃っているではないか。窓の傍に置かれた異国の建築物と思われる模型に、店の端に設置してあるアンティークな雰囲気を醸し出す木製の大箱。中にディスクのようなものが設置してあることから、大型のオルゴールと予測できる。
男のすぐ傍に聳える大きな本棚には、意外にも装飾の美しい本が揃っている。並べてある順番のおかげとも取れるが、これを一つのインテリアとして設置してあると考えれば彼の感性も捨てたものではない。
「そう、さっきの話の続きだが」
突然、本をぴしゃりと閉じる音が、再び沈黙の広がるこの建物内に響き渡った。せっかくセンチメンタルな気分になっていたというのに、何とも間の悪い男だ。
穣子が顔を向けると、男は既に椅子から立ち上がっており、穣子の方に視線を向けていた。近くに置いてある、真白い布を穣子に向かって投げつけながら、これまた唐突に語りだす。不意を突かれた穣子は、驚きながらもなんとか布を受け取る。
「えっ、まだ続いてたの!?」
「当たり前だよ。僕はまだ何も答えていない」
男は、少しずれていた眼鏡の縁を手で押さえ、再び言葉を紡いだ。
「ちょっと引っかかることがあって、少し考え事をしていたんだ。ああ、そういえば君は、この店を道場か何かかと勘違いしているようだが、そんな事はない。ここは香霖堂。僕は店主の森近霖之助。僕の持つ道具の名前と用途が判る程度の能力を最大限生かすべく、外の世界から流れ着くアイテムを蒐集し、外の世界の知恵と技術を提供するのがこの店の主な目的だ。外の世界から流れ着くものは、非常に有用なものが多いけど、如何せん用途が分からないものが多いからね。お客さんに対価を支払って貰い、僕が間に入って、外の技術を有効活用してもらおうって心積もりな訳だ。まあ、分かってもそれを動かすエネルギーが足りないものも多いけどね。ともかく、そんなものをここで販売している訳だ。まぁ、平たく言えば道具屋だね。それと、森にあった看板についてだけど、あれは多分、うちのお得意様…というより招かれざる客、といった方が正しいか。そんな厄介な子がよくこの店に来るんだが、たぶんその看板は彼女の仕業だね。僕を困らせるのが大好きなようだし」
「はあ」
突然、やたらと饒舌になった。語り口自体はあまり急かしいものではないが、ここまで口を挟む隙は全く無し。つまり、今の話を要約すると(無駄な情報が多かった、という点では取捨選択とも言えるか)この男が霖之助という名前であるという事だ。
後はほとんど聞き流した。
当の霖之助は、穣子の相槌を挟むと、また口を開いた。
「おかげで、こうして一人のお客さんを呼びこんだ訳だし、彼女の作戦は失敗に終わったとも言えるね」
「はあ」
心底どうでもいい。
穣子はさきほど受け取った白い布で濡れた髪を拭きながら、適当に相槌を打つ。確かに自分の質問とその疑問に対しては、霖之助は完璧な回答を返したと言えよう。この店の事もよく分かったし、ついでにあの看板に関してもそれとなく理解できた。しかし、何とも会話のやりにくい相手である。普通、話を振られたらその瞬間に何かしらレスポンスを返すべきだと思うのだが。
霖之助は話すだけ話すと、また揺り椅子に腰を掛け、さきほど読んでいた本とは別の本を手に取り、再び読み始めてしまった。再び店内に沈黙が訪れる。
「そのタオルだが」
振り向きもしないで話し出すの本当に止めてほしい。
「雨の中大変だっただろう。それで体を拭くといい。冷えるのであれば、ストーブを付けてもいいよ」
「すとーぶ?」
聞いたことのない単語に首を傾げながら、穣子は呟く。実際、雨に濡れていたのは確かであるし、これを差し出して(というよりは投げて寄越したのだが)くれたのは非常にありがたかった、のだが。
「…できれば、もう少し早いタイミングで頂きたかったわね」
「ん、何か言ったかい?」
「いえ何も」
「あぁ、ストーブについてかい? ストーブというのは、外の世界で非常にポピュラーな暖房器具でね。とある燃料…まぁ、よく燃える油のようなものだと考えてくれて構わないが、それを中で燃やすと、非常に効率よく暖を取れるという実に優れた道具なんだ。1分もすれば部屋中が暖まるんだから、実に優秀だよ。直接火を燃やすわけではないから、火災の危険性も少ないし、良い事尽くめだね。外の人間は頭が良い、こんな素晴らしい道具を作り出せるなんて」
「はあ」
そこは聞いていない。
興味の無い話を聞かされる身としては、何度も彼の説明を遮りたくなる衝動に駆られるものの、意外にも饒舌な彼の語り口には口を挟む余裕が無いのが悔しい。タオルで洋服を拭きながら、穣子は再び大きなため息をついた。
一方の霖之助は、本に栞を挟むと、急に立ち上がって暖簾の奥に消えてしまう。向こうが彼の居住スペースなのだと予測できるが、それでも客を残して勝手に行ってしまうのは如何なものか。
手持無沙汰になった穣子は、姉の静葉に思いを馳せる。
イマイチ、何が原因に喧嘩になったのかが思い出せない。ここ最近、雨続きで互いに機嫌が悪かったのは間違いないが、果たしてここまでの喧嘩になろうとは、姉も予想をしていなかっただろう。
確かに、私は姉のやり方に疑問を感じて、それを批判したのは覚えている。しかし、それくらいの小言ならいつもの事ではないか。その結果、ちょっとした喧嘩になることなんて日常茶飯事。口喧嘩は姉妹の証じゃないか。
私の言動のどこが彼女の繊細な部分に触れてしまったのか、正直よく分かっていない。だが、普段穏やかな彼女が、声を荒らげて、『こんな妹なんて、いらなかった!』と最後、そう言い放ったのである。ただそれだけは、彼女の声のトーンそのままで、さきほどから何度も何度も、頭の中で再生されていた。正直、辛い。
ただ、自分が家から飛び出したくなるような衝動に駆られる事になるとは、正直自分でも驚いている。彼女の言葉が本気であったとは考えにくい。少し、頭に血が上って、思わず口にしてしまったのであろう。
…そう、信じたい。
ただ、あの時の私は、あの言葉を本気で信じていたような気もする。冷静になって考えれば、そんなことは無いはずなのに。でも、そう。思わず口にしてしまうということは、心のどこかで少なからずそう思っていた可能性だってある。姉を信用しきれていない自分に嫌気が差しつつも、そんな、嫌な考えは止まらなかった。
「はい」
「うおえええっ!?」
と、物思いに耽っていた所に、急に横から差し出されたカップが視界に入るやいなや、もはやワザととしか思えない勢いで、穣子は悲鳴を上げて驚いた。穣子が振り向いてみると、そこには手にティーカップを持った霖之助の姿。長身である彼の姿は、座りながら近くで眺めるとなかなか迫力があるが、やはりその気だるそうな瞳と目が合えば、そんな迫力も萎んで見える。
霖之助は表情一つ変えず、口を開いた。
「紅茶だ。普段からお世話になっているお客さんから頂いたんだけど、かなり上等な物らしい。僕は紅茶には疎いが、確かに香りは素晴らしいよ、この紅茶」
「え、これを私に?」
「体も冷えているだろうからね。これを飲んで温まるといい」
「…ありがとうございます」
穣子はソーサーと共にカップを受け取る。受け取った瞬間、その上品な香りが鼻を通り抜ける。酸味があり、みずみずしい果実に近い香りだ。しかし、そう感じた瞬間次に通過するのは、少々渋みのある味覚。雨上がりの森林の中で深呼吸をする時に感じる、あの湿った木々の臭いによく似ている。不思議な感覚である。
ソーサー自体の装飾は、外は金色で縁取られ、内側は紅色の線で幾何学的な模様が描かれている。形状もごく普通で、下弦が緩やかなカーブで纏められていた。対するカップは、深い緑色の波線がぐるぐると一周。そこから等間隔に散りばめられた真紅の花弁は、薔薇の花をイメージしたものと考えられる。なかなかお洒落な一品だ。
何だ、想像していた以上に良い人じゃない。
穣子は紅茶を口に含みながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。一方の霖之助はというと、部屋の奥に戻ったと思えば、似たようなティーカップを持って再び現れる。さきほどよりも穣子に近い椅子に座り(この店、あちらこちらに椅子が設置してある。目的は不明)、腰を据えて紅茶を啜り始めた。今度は向かい合う形となった。
また、二人の間に沈黙が訪れる。
穣子がふと外を眺めると、外で滝の様に降り注いでいた雨は、少しはその勢いを弱めつつも未だ降り注いでいる。さきほどまでの強い風も少しは収まったようだが、時折店内にも雨風の音が響く。しかし、傘さえあれば、十分帰れる程度には弱まったと言えるだろう。
「それで、何か欲しいものは見つかったかい?」
窓を見ている穣子に、またも唐突に語り掛ける霖之助。どうもこの人は、人が他の所に意識を向けている時に話を進めるのが好きらしい。何の利点も無いぞ。
「この店の取り柄と言えば、品揃えぐらいなものだからね。外の世界のテクノロジーとマジックアイテムに関しての取り扱いなら、幻想郷の中で香霖堂に勝る店は無いと自負しているよ」
「幻想郷、狭いですしね。競合する店もあまりなさそう」
「…それもそうか。とにかく、何か欲しいものは無いかい? せっかく来たんだから、初回サービスで少し値引きしておこう」
あっこの人、完全に商売人の顔になってる。
実際、この店に寄ったのは雨宿りをする為だし、買い物に来た訳ではないのだが。なにより、こんな状況になったからには、彼を誤魔化す方がよっぽど面倒であるということは、この十数分間彼の傍にいてはっきり理解した。ここは彼に話を合わせるべきだろう。
「そういえば、どこにも値札がついていないけれど」
「ああ、これね。この店の品物は、お金には代え難い価値のあるものばかりだ。その都度その都度、僕の判断で値段を付けているよ」
「それじゃ、値引きされてなくても分からないですね」
「…それもそうか」
霖之助は露骨に残念そうな表情を浮かべ、また紅茶を啜った。あまり感情を表に出さない不愛想な人かと思いきや、意外にそうでもないらしい。こうも一見堅物にも思える男が、はっきりと感情を表に出す姿を見ると、自然に笑みがこぼれる。
「何を笑っているんだい」
「いえ、何でも」
そう言いながらも、穣子は含んだ笑みを絶やさない。霖之助はその姿を見て、怪訝そうな表情を浮かべるが、特に追求はしなかった。穣子が再び口を開く。
「それより、欲しい物だったっけ。今は…そう、そうね。傘が欲しいわ」
「傘か。確かに、この雨の中、傘無しで家に帰るのは少し辛い」
霖之助は何度も頷きながら語る。
「しかし、この店に傘は置いていない」
「え?」
穣子の向かい側、古臭い木製の椅子に座っていた霖之助は急に立ち上がり、自慢げに語りだした。両手を腰に当て、仁王立ちまでしている。
「うちの傘は特注品なんだ。1週間も時間を頂ければ、雨風は勿論、紫外線から弾幕までしかと防げる香霖堂特製の傘をお作りしよう」
と語りながら、したり顔で穣子の方に顔を向けた。が、当の穣子は何とも冷めた表情で、ぼそりと呟く。
「…いやあの、弾幕とかは良いから、雨を防げる傘が今すぐ欲しいのですが」
「うーん、それは困ったね。ここには僕の傘しか…いや、あれもこの間壊れちゃったんだっけ。直そうと思っていたら忘れていたらしい。すまん」
さすがに彼の私物を買おうとは毛頭思わないし、その状態なんて全く興味が無い。穣子は呆れながらも会話を続けた。
「唯一の取り柄が品揃えじゃなかったの?」
「傘は外の世界のテクノロジーでもなければマジックアイテムでも無いからね」
「曲がりなりにも道具屋でしょう。傘の一本や二本、用意しておくべきだと思うわ」
「普通の道具が欲しいなら、人里の大道具屋で十分事足りる。その代わり、ここでは人里でなかなか手に入らない、外の世界のテクノロジーを売っているんだ。見事な差別化だとは思わないかい?」
「うっわ開き直りやがったこの人」
穣子の呟きが聞こえているのか聞こえていないのか、時々紅茶を啜りながら、未だに得意顔を崩すことなく語っている霖之助。未だ雨は止まず、ガラス張りの窓は定期的に音を立て続けている。外から見ると蔦だらけであまり良い印象では無かったものの、内側だけは手入れがなっているようだ。
「ともかく。申し訳ないが、今この店に傘は無い。他に欲しい物はあるかい?」
「そうは言われても…」
穣子は周りを見回すものの、ぶっちゃけ殆どの道具の用途が分からない。表紙を見ても、興味の無いタイトルの本ばかりであるし、外の世界のテクノロジーと思われる、奇妙な凹凸の付いた白い大箱達も、外の世界に疎い彼女からすればただの粗大ごみである。多少気になる物と言えば、天井から吊り下げられている球体や、外の世界の建物を模していると思われる模型くらいなものだ。たぶんあれは売り物じゃない。
「正直な話、道具の用途が分からなくて全然買いたい物が見つからないわ」
「ああ、分からない道具があったら僕に聞いてくれ。いくらでも答えるよ」
「こんなに沢山、それこそゴミ…いえ、倉庫みたいに物が置いてある中で、いちいちこれは何これは何って聞いてたら、日が暮れちゃうでしょうに」
「参考にしておこう」
「それに、どれが売り物でどれが売り物じゃないかもよく分からないし」
「確かにそれは言えるね。例えばこのストーブなんかは、元々売り物だったんだけど。使い方が分かってからは僕の所有物として、有効に活用させて貰ってるよ」
「…あなた、本当に商売する気あるの?」
冷たい表情で霖之助を見つめる穣子。しかし当の彼はそれこそ気にしている様子は無く、未だに得意顔を崩さない。不敵な笑みを浮かべながら、彼は口を開く。
「失敬な。商売する気があるかと言われれば、それは勿論ある。確かに客の入りは悪いし、売上も決して良いとは言えないが。それでも僕なりに努力をしているつもりだよ」
「まず私思うのだけど。こんな辺鄙な所に店を置いた所で、誰も寄り付かないんじゃないかしら」
「この店の根幹を覆すような指摘だね」
「…何か理由があるのかしら」
露骨に怪訝そうな表情の穣子。
「勿論。この店は人間と妖怪の両方を相手にしているからね。人里に店を構えれば妖怪は入りにくくなるし、山奥に構えればそれこそ人間は寄り付かなくなる。ベストな場所に店を構えたつもりなのだが」
「ここ、魔法の森の目の前じゃない。一般妖怪ですら滅多に寄り付かない場所なのに、人間が寄り付くと本気で思ってるのかしら。人里からも距離はあるし…」
「まぁ、それ以外にも、外の世界のテクノロジーが手に入りやすい場所に近いとか、そういった理由もあるんだけどね。かなり個人的な話だけど」
どう考えてもそれが主だろ。穣子は心の中でツッコミを入れる。
そのタイミングで、今度は霖之助が椅子から立ち上がり、ティーカップ片手に再び店の奥に消えていく。奥で何やらからからと音がしたと思うと、今度は小皿に分けられたクッキーを持った霖之助が現れる。また先ほどまで座っていた椅子の近くに転がっていた(本当に横になっていたので、この表現は正しいと思う)小型のテーブルを片手で立てると、その小皿を机の上に置いた。
彼は振り向きざまに、穣子と目を合わせる。
「実際、君のような人が辿りついている訳だからね。この店にも魅力があるわけだ、立地に負けない程度に」
そう言いながら、再び椅子に腰をかける霖之助。
「私は妖怪でも人間でもないですから。かなり例外のうちに入るとは思います」
「うん? ただの人間では無いと思っていたけど、もしかして君はこっち側の人間かい?」
「こっち側の人間っていう表現の意味が全くわからないけれど。こう見えても私、神様ですから」
「…ああ、なるほど」
霖之助は小皿に置かれたクッキーを頬張りながら、一人で何度も頷いている。何か勝手に早合点されているのでは無いかと、穣子が不安に思っていると、クッキーを飲み込んだ霖之助が一言。
「君が静葉さんの妹さんか。確かに、よく似ている」
静葉。
その名前が彼の口から飛び出した瞬間。
穣子は金槌か何か、とにかく質量のある何かで、頭を思いっきり殴られたかの如き感覚に陥った。視界が揺れる。頭がくらくらする。無音の世界。
霖之助の、静葉という言葉だけが、耳に焼き付いて離れない。何度も頭の中で繰り返される。静葉、静葉、静葉姉。
少しよろめいて、何とかソファーの縁を掴んだ。腕に力が入る。ソファーに座っていなかったならば、間違いなく倒れていたと思う。額に玉のような汗が滲んでいるのを確かに感じる。
「ど、どうして」
思わず声が震える。彼に向けようとしたのでは無い。それこそ無意識に、自然に口から発せられていた。
「どうして、姉の名前を…?」
穣子はふらふらする体を立て直し、ソファーに深く座りなおす。深呼吸して、目を開ける。正面にいるはずの彼に。彼の輪郭が浮かび上がる。霖之助に焦点を合わせようとするが、視界が揺れてなかなか上手くいかない。揺れる視界の中、彼の顔がうっすらと見える。その表情は読めない。ただひたすらに、無気力を感じさせた眼鏡の奥の瞳からも、今や読み取れるものはない。視界の揺れが収まるにつれて、今度は急に白い靄のかかったかのように、視界がぼやける。急に、彼が別の位相の存在のように感じられる。いや、別位相? 違う。
今まで赤の他人だと確信を持っていた相手が、突如自分の領域を侵してきたのだ。むしろ、彼の方が位相を合わせてきたといった方が正しい。互いに、何も知らないはずだったのだ。私は彼を知らない。しかし、彼は…私の、姉を知っている。また再び、頭がぐわんぐわんと揺れ、倒れそうになる。目を瞑って、何とか堪える。
「…大丈夫かい?」
突然、彼の声が頭の中に響いた。とてもクリアーな声だ。これが、現実の声だと理解するのに少しの時間を要したが、理解してからは早い。少しずつ靄が晴れてくる。視界が少しずつ戻る。
今度は、彼の顔がはっきりと見えた。穣子を覗く彼の表情からは、少しばかり彼女を心配しているような心持が見える様な気がする。
とはいえ、クッキーを頬張りながらのぞき込んでくるその姿は、どうにもシュールで。
「何を笑っているんだい…。全く、急にふらついたと思ったら、今度は笑い出して。意味がわからない」
そこまで言われて、初めて気づいた。自分が、笑えるほどの余裕を持っている事に。そして、実際に笑みをこぼしていた事に。ついに、完全に視界が元に戻った。彼の顔がはっきり見える。随分久しぶりに見たような彼の顔は、最初に見たそれと何も変わっていない。どこまでも気だるそうな瞳と、掴み所のない表情。
同時に、彼はまた新しくクッキーを手に取り、先ほどまで口に含んでいたクッキーを一気に紅茶で飲み込もうとしていた。
「さっきの話の続きだが」
霖之助が語りだす。小皿に載せられているクッキーの量は既に半分を切っていて、さきほど霖之助が手を伸ばそうとして、穣子を一瞥した後に手を引っ込めたのを、確かに彼女は見ていた。意外にも食い意地が張っているな、この人。
「穣子、君の質問に答えよう」
急に名前を呼ばれて驚く。だが、姉の事を知っているのであれば、私の名前を知っていても何もおかしくはない。
ここでの質問、というのは、先ほど無意識に呟いてしまった内容についてであろう。これから語られるのは、私の姉についての事だろう。彼との関係も語られるに違いない。しかし、先に紡がれる言葉を想像して、身構えるなんて事もない。
「先に言っておくが、変な誤解はしないでくれよ」
穣子の心中を組んでの事か、気を遣おうとしている努力は認める。が、そんなことはどうでもいいし、特に誤解はしていない。実際、何の心配もしていない。
彼に限ってそんなことは無いだろう。穣子は楽観的であった。しかし、そこには確信という名の裏付けがあるのだ。彼と言葉を交わしていたのは、たかが数十分間。だが、彼は自分を隠そうとしない。常に自然体で、自分の思うままに行動していて、申し訳程度に他人を気遣う様な人間だ。商売人には全く向いていないだろうが、それでも穣子にはよく分かっていた。彼は決して嘘をつかない、信用に値する人物だ、という事に。疑う相手ではない。
霖之助は、一拍開けてから、口を開いた。
「彼女はうちの常連さんなんだ。よく道具を買いに来てくれるよ。最近は…そうだね、香霖堂特製のハケを買ってくれたっけ」
やはりそうだ。予想通り。穣子の口から思わず笑みがこぼれる。不安があったわけでは無いが、それでも安心した。やはり彼は彼で、姉は姉だ。彼女の認識は何も間違っていない。
「何に使うかは結局教えてくれなかったんだけどね。やたら嬉しそうにしていたから、少し問い詰めてみたんだけど」
「ああ、あの人は紅葉を司る神様ですから。葉を一枚一枚紅葉させるのに必要なの」
「えっ! 紅葉は彼女が“させて”いたのかい!」
「…やっぱり認知度低いのねー」
露骨に驚いている霖之助を横目に、穣子は内心呆れ返っている。もともと姉は、あまり人と接する機会が少ないようで、知り合いもそんなに多くは無い。そんな中の、数少ない知り合いですら、彼女の功績を知る者は少ないという事か。そりゃ誰も知らない訳だ。
「霖之助さん、あなたはあの人が…静葉が、神様なのは知ってるわよね?」
「勿論だ。紅葉を司る神様だろう。それでも、静葉さんがそこまでの事をしているとは驚きだ」
「紅葉を司るんだから、それくらい予想できてもいいと思うのだけど」
「そうかい? 僕は何というか…紅葉の象徴だとか、その程度の認識でしか無かったのだけど」
「そんな雑多な神様なんて、すぐに消えちゃうわよ。神様舐めんな」
急に口が悪くなる穣子に対して、少し困惑した様子で何かしらぼそりと呟く霖之助だが、彼女は全く意に介さず続ける。
「貴方たち、仲がいいんじゃなかったの?」
穣子は小皿のクッキー数枚に手を伸ばし、一気に口に含んだ後、紅茶で喉に流し込む。霖之助はそれを見て、何か言いたげな顔をしているものの、何も語らない。さきほどまでは打って変わって、完全に穣子が主導権を握っていた。
「ただの大事なお客様だ。それ以上でもそれ以下でもない」
霖之助は無表情で答え、小皿に手を伸ばす。再び数枚のクッキーを取ろうとした穣子の手とぶつかるが、今度は霖之助も全く気にする様子もなくクッキーを手に取り、頬張った。
「お得意様ではあるから、よく話はしているけどね。彼女はあんまり自分のことを語らないんだ」
「…そう、そうね。それはよくわかるわ」
大きく頷く穣子。確かに、そこに関しては共感できる。姉は、自分のことをほとんど語らない。口を開けば、『大抵秋はまだかー』、だの『畑のサツマイモは育っているかー』、だの『人里の茶屋のみたらし団子が美味しいわー』、だのそんな他愛のない会話ばかりをしている印象が強い。別に普段の会話だし、内容を求めている訳ではないのだが。それでも、彼女は、自分に興味がなさすぎる。穣子はぼそりと呟く。
「あの人は、自分に興味が無いのかしらね。折角あんなに素晴らしい役割を担っているのに、誰にも言わないんだもの」
「さあ、どうだか。それは君が一番分かっている事なんじゃないかな」
「そう…そうなのかしら。私にもよく分からない」
さっきまでは心の中で、確かに確信を持った。持っていた。しかし、改めて彼に問われた時、どうにもはっきりと答えることはできなかった。なぜだろう。穣子の表情が少しだけ硬くなり、口を閉じてしまう。それを見かねてか、霖之助はクッキーを数枚手に取りながら、彼女に問うた。視線を合わそうとはしていない。
「随分と歯切れが悪いね。何かあったのかい?」
「…いえ、別に何も」
「そうかい。なら良いんだけど」
霖之助はクッキーを口に頬張ると、手をひらひらさせながらそう言う。彼としても、穣子の様子から何かを察したのだとは思うが、深く詮索しないという事だろうか。その気遣いは実際ありがたい。
確かにこの男、意外に侮れない男だということはここ数十分の会話でよく理解した。なんとなく、彼に話を聞いてもらえば悩みが解決する予感もする。だが、それでは駄目だ。これは私と姉の問題であり、彼は関係ないのだ。彼を巻き込むべきではない。
「そういえば、静葉さんはいつも、君のことを話しているね」
しばらく沈黙が続いた後、突如霖之助が語りだした。まだ雨の続く、窓の方を眺めている。こちらに決して顔を向けることは無い。その横顔から、相変わらずなんとも察し難い表情をしている。
姉が私の話をしている?
思いもしなかった発言に、穣子は思わずぽかんと口を開いてしまった。一方の霖之助は、穣子の方に顔を向けながらも、視線はちらちらと泳いでいるようにも見える。片手でクッキーを取りながら。
「姉が、私のことを?」
たぶん、相当に疑いを向けているかのような目で見つめてしまったのだろう。こちらを向いていたはず霖之助は、また露骨に穣子から目を逸らし、窓に顔を向けていた。
「そんなに不思議なことかい? まぁ、君が何を思っているかは分からないが。こちらとしては、正直ウンザリするほど君の話を聞かされている」
「それを私の前で言うか」
「この際だから、君の方から姉さんに進言して貰いたいと思ってね」
「ああ、はい。そういう事ね…」
しかし、驚いたものだ。姉が私の話をするなど。普段はもちろん同居しているから、姉と言葉を交わす機会は多いし、他の誰よりも関わっている時間が長いのは間違いない。ただ、日常の会話…つまり生産性も無い、他愛のない会話をそれとなく思い出してみても、私の話なんてほとんど聞いたことがない。霖之助の言葉から察するに、かなりの頻度で私の話が姉の口から飛び出しているようであるが。
「本当によく聞かされているよ。『私、とっても可愛い妹がいるのよ』から始まって、『あの子、私と違って人間達にとても人気があるのよー』だとか、『あの子の作る作物は本当においしいわよー』だの、終いには『貴方も一目惚れしちゃうかも』と来たもんだ。見たことも話したことも無い人物について、そこまで語られてもなぁと思いながら適当に聞き流しているんだが」
「…へえ」
素っ気ない返事を返したつもりではあったが、霖之助は穣子の顔をしかと見つめている。
姉が自分のことをそこまで褒めるなんて。少しだけ嬉しい。思わず顔が綻びるのを、自分でも感じていた。
そういえば、彼女に褒められたことなんて、数えるほどしか無い気がする。そうは思っても、口に出すのは実際気恥ずかしいものであって。姉妹とはそういう関係なのだ。仲の良し悪しは関係なくて、お互いの認識は既に完成されているものなのだ。姉はこういう人だ、という認識。誰よりも長く一緒にいるからこそ、裏付けができるもの。
それを今更、面と面を向かわせて、どんな顔をして伝えればいいものか。伝えられやしない。
霖之助は穣子の顔をじっと見つめた後、大きくため息をついて口を開く。
「まぁ、実際この目で見てみて一目惚れはしなかったが。彼女の見立ては外れたね」
「貴方、本人の前でよく言えるわね…」
何の躊躇いも無く、恐ろしく失礼な言葉を並べる霖之助に呆れながらも、思わず笑みがこぼれる。というよりは、もはや抑え切れていない。姉が、静葉姉がそこまで私を褒めていて、しかも、それを人に自慢していたなんて。
相手がこの男であるとはいえ、単純に嬉しいじゃない。
「しっかし、あの静葉姉がねえ…うんうん、ちょっと頭の整理がついてきたかも」
穣子はぼそりと呟いた。霖之助は確かに彼女の呟きを聞き取れる距離にいたものの、反応は無い。残り数枚になったクッキーを見、一瞬の逡巡の後、結局手を伸ばして口に頬張る。残るクッキーはあと一枚だ。
穣子は、最後のクッキーに手を伸ばし、しかと掴みとる。上に放り投げ、空中で一度止まったように見えたクッキーは、そのまま自由落下。顔を真上に向けていた穣子の口に、ちょうど収まった。彼女はそれを軽く噛み潰すと、手に持っていたカップを口に当て、紅茶を一気に飲み干した。
「…ありがとうございました!」
がたり、という音を立てて、穣子は突然立ち上がった。そう言い放ちながら、目の前で目を丸くしている霖之助に向かって、軽く会釈。カップを目の前の机に置くと、椅子の背もたれ部分に掛けておいた、未だ湿っている帽子を手に取り、しっかりと頭に被る。
霖之助が彼女に声をかけようとしたのは間違い無いし、実際何か聞こえたような気がする。しかし、穣子にはその声は届いていないし、実際その足は止まらない。さきほどまでは物が多くて、前に進むことすら簡単なことではなかったのに。
穣子は扉に向かって、ついに走り出していた。彼女の足が、近くの本の塔にぶつかると、案の定、本の塔はばたばたと音を立てて崩壊した。それをも気に掛けることなく、穣子は走る。腕が冷蔵庫にぶつかり、鈍い音を立てる。それでも、彼女は走り続ける。
扉に辿りつくと、彼女は乱暴に扉を押し開ける。転がるように外に出ていくと、彼女はそのまま走り去ってしまった。
霖之助は、その様子を扉の傍からぼうっと眺めていた。穣子は一度だけこちらを振り向いた様にも見えたが、そのあとはどこかへ向かって、ひたすらに走り続けている。未だにぬかるむその泥道に、時折足を取られながらも。
いつの間にか、雨は止んでいた。快晴とまではいかないものの、切れ切れになった灰色の雲の隙間からは、眩しい陽光が差し込む。肌寒い気温であることに変わりないが、じきに暖かくなるだろう。
穣子の姿は、既に点に見えるほど、小さくなってしまった。途中から空を駆けはじめた彼女は、燃えるように赤く染まった山に向かっているように見える。冷たくも、やわらかい風が香霖堂の前を通り抜けた。どこから運ばれてきたのか、紅と黄色のグラデーションの美しい、モミジの葉を一枚乗せて。
無論、彼女のその行先は、彼にもよく分かっているつもりではあった。
だが。
例のモミジの葉は、ひらひらと風に乗って、開け放たれていた香霖堂の扉を通り抜け、室内に運ばれてくる。
霖之助の横を通り、床に落ちる…その寸前に、どこからか女性の手が伸びて、その美しい葉っぱを掴んだ。
「お疲れ様でした」
突如、後ろから声が響いた。しかし、霖之助は驚いた様子を全く見せない。振り向きもせずに、口を開く。
「…出てくるのが遅い。彼女、行っちゃったじゃないか」
「ごめんなさい。私もちょっと、考える所がありまして…」
「それにしても、君も滅茶苦茶な事を言うね。妹が来たから匿えだなんて。ここはただの道具屋だというのに」
「分かってくださいよー。喧嘩してるって言ったじゃない」
「そこまでする義理は、僕にない」
「とか言っちゃってー。しっかり、あの子を諭してくれちゃったじゃないですかー」
「成行きだ。人に頼っていないで、君も少しは反省しなさい」
「…そうね、そう。私も謝らないといけないわね。あの子には、酷いことを言っちゃったし」
「ふぅん。ま、僕には関係のない話だね」
「彼女こそ、自分に自信を持つべきなのよ。私なんかを気に掛ける必要なんてないのに」
霖之助は黙ったまま、赤く染まった山々を見つめている。
「…私も少しはしゃんとしないとね。あの子の思う、自慢できる姉にならないと」
「…あとは君の問題だ。早い所、彼女を追いかけた方が良いんじゃないかな?」
「そう…ね。そうさせてもらうわ」
彼女は、手に持ったモミジを放り投げると、霖之助が押さえている扉に向かう。霖之助の横に並ぶと同時に、投げ上げたモミジが、霖之助の髪の上にちょうど乗っかった。
「…ありがとうございました。感謝してます。私も、妹のことも」
「これもビジネスの内だからね。次に来るときは、大口の注文を期待している」
「ブレないわねえ貴方も」
彼女は霖之助に向かって軽く笑うと、香霖堂を後にした。
穣子ほど急いではいないものの、その足取りは確かだ。力強く大地を蹴り、空を駆けた。
目指すは、妹のもとへ。出来れば彼女より先に家に着きたいものだが、それは厳しいだろう。そもそも彼女の方が足が速いし、何より、私よりも急いでいた。
こういう時も、あの子に勝てないんだよなあ。
静葉は、空を駆けながら、にこりと微笑み。妹に負けじと、そのスピードを上げた。
その後、一人残された霖之助は、既に店の奥の揺り椅子に戻っていた。近くに積み上げられた本を一冊手に取り、無心で読み続ける。
「結局、彼女らは…何で喧嘩してたんだ?」
『宇宙からの帰還』を手に取りながら、『sputnik』『ハレー彗星の科学』に囲まれる。ふと、無意識の内に出た彼の呟きに答える人間は、今はもういない。
そして、彼もまた、深く考えようとはしない。彼は髪に引っかかっていたモミジの葉を手に取り、それを本に挟むと、厨房に消えていった。
日の落ちかけた、真っ赤に染まる秋空を眺めながら、香りの良い紅茶を淹れる。
秋の夜長。本を読む時間は、まだまだ沢山、有り余っている。
「秋の空と乙女の心…か。ヒトサマの心は、よくわからんなあ」
序盤は良かったと思うのですが、中盤が冗長で終盤は都合が良い気がするのです。
何かもう一つ、満足できませんでした。