――ふりにし世々の つみとがは
深雪のごとく ふかくとも
悔ゆる心の 朝日には
消えて跡なく なりぬべし――
1
……誰かが歌っている。
透き通っていて、儚げな声。
誰も起きやらぬ、真っ暗な朝。
突然に目が覚めたと思ったが、よく耳を澄ますと確かに聴こえる。
どこか遠くから、か細く流れてくる歌声に、目を閉じて、半分寝たまま、聴き入った。
この歌は、なんだったっけか。
朧げに知っている。
はっきりしない意識。
誰だろう。
早い時間だから、白蓮か星か、あとは、一輪?
どうして歌っているんだろう。
私は想像する。
誰もいない、暗い修業堂で、一人で何か口ずさむ襦袢姿の一輪。
正座して、手を合わせて、うっすらきれいに微笑んで、楽しそうに、時々悲しそうに。
歌声は、所々で、変な空白がある。
息継ぎじゃなくて、急に息が詰まったような。
聴いていると、なんだか、悲しい気分になる。
一輪が悲しんでいるなら、すぐに飛んで行きたいけれど、今だけは一人でいたいような、そんな気持ちのようにも聴こえた。
声の主が分からないのに、声の気持ちは、不思議と分かった。
わざわざ一人で、せっかく一人で、歌っている所を邪魔をするのも、良くない気がした。
そんな風に考えていると、やがて私はまたウトウトし始めて、穏やかに、夢の世界へ沈んでいった。
子守唄のように、優しい歌だった。
2
「なあ水蜜。今朝の、聴いたか?」
斎座、つまり昼食を終え、作務の時間。庭を掃きながらぬえが近づいてきた。箒を止めず、こちらも見ない。修行中はあまりしゃべらないことになっている。彼女の足元で、乾いた黄土色の枯れ葉が箒に掃かれ、カサカサ鳴った。辺りには誰もいない。他は寺の正面や、伽藍の向こう側に居るようだ。
「ぬえも聴いたのか。私じゃないよ」
それきり二人共話さなかった。彼女は枯れ葉の山を手際良く塵取りで拾い、猫車に放り込んだ。
『次あっち』
とでも言うように、彼女は別の枯れ葉の山を指さし、車を押し始める。それから私達は無言で、協力しながら命蓮寺の裏庭をひたすら掃いた。
「結局、暇なんだ。昔は人間が合戦してるのを傍観してるだけでもいい暇つぶしになったけど、幻想郷だとそういうのないからね。そんで、人間を驚かそうとしても里の人間は妖怪に慣れすぎてる。茶を出されたこともある。拝まれたこともあるぜ。私はその人間を怖がらそうとしたっていうのに。一体どうしちゃったんだろうね。そりゃあ血なまぐさいことばっかりってのも疲れるんだろうけど、人間ってのはもっと短気で残酷で、他人を出し抜くことばかり考えているもんだと思ってたから、幻想郷に来てめっきり毒気を抜かれちまった。きっとそういう土地だから白蓮がここに降り立ったんだろうけどさ。金魚のフンみたいにくっついてきた私にしてみれば、張り合いがない。今となっては、怖がられても白蓮の迷惑になっちまうから大人しくしてるけど。そうだ、白蓮は仏教とか言う目に見えない何かで妖怪を救おうをしているようだが、そんなにいいもんなんだろうかねえ。合戦を眺めてる時に思ったが、目に見えない何かで人間ってのは殺しあうからさ。むしろ逆に殺し合わないようにするものも目に見えない何かってことなのかねえ。難しいことはよく分からないけど」
夜。私の部屋で、ちゃぶ台を挟んで赤ら顔のぬえがぼんやり話す。松脂の行灯が、すきま風で揺らめきながら、彼女の顔を煌々と照らしている。一緒に飲んでいた一輪は既に自室へ戻った。
「で?」
意地悪くしてみた。ぬえは口を尖らせた。
「なんだよつれないな。で、そうだ、私って別にお前らと関係無いだろ、元々。聖輦船の騒ぎでなんか面白そうだからちょっかいかけただけで、白蓮が好きだから付いてきただけで、やること無いからお前らに付き合ってるだけで、これだって暇つぶしなだけで」
彼女は空の升を私に突きつけた。一升瓶で焼酎を注ぐと、「どうも」と言った。
「『これ』ってのは修行の真似事の事を言ってるのか?」
また意地悪くしたくなった。
「真似事って言うな。お前だって似たようなもんだろ。で、『これ』ってのはそれだけじゃなくて、いや、言いたくないや、やっぱり。分かってるんだよ、ああ分かってる。だから言わなくていいってことにしてくれよ。しおらしいぬえ様なんて、格好がつかないだろ」
「で?」
「お前、絶対おちょくってるだろ。で…… で、そうだな、ぬえ様ってのは歴史のある妖怪なんだぞ。誰だったか、お前、知ってるか、源頼政とかいう武将に射られたことになっているんだよ、ぬえっていう妖怪はさ。でも私は本当は射られてなどはいないのよ。もしそうだったらぬえという妖怪が正体不明なままなわけがないだろ。そのお話の中では頼政の部下は私の姿を確認しているはずなんだよ。おかしいじゃあないか」
「で?」
「ちょっとはお前から話してくれよ。で、で…… もうねえよ。今何時だ? 寝るわ。随分くっちゃべっちゃったな。あれ、さっきまで一輪そこに居なかったっけ?」
「部屋まで送ってやるよ、ほら」
立ち上がって、手を差し伸べた。
「お前ってこんなに優しかったっけ? それとも私が酔いすぎてるのかな? あれれ、よく分からないぞ」
部屋までぬえに肩を貸した後、私は布団を敷いてやった。
3
もうコオロギの声もしない。障子の隙間から入り込む風も冷たくなった。
「私じゃないわよ」
と白い顔の一輪。クイッと焼酎の升を傾けた。
「いっちゃんじゃないとなると、白蓮か星かなあ」
私は一輪に合わせて一口飲んだ。今夜は響子が居て、ぬえは居ない。
「昨日の朝方なら私も聴きましたよ。御詠歌ですよね」
と、目の座った響子。
「『ごえいか』って?」
「仏教の教えを和歌にして歌を付けたものよ。経典を読むのは在家の人には手間だから、仏教の教えを分かりやすい歌にしたのよ」
「白蓮さんがご飯の支度をしながら歌っているのを聴いたことがあります」
「てことはあの歌、御詠歌とやらはやはり白蓮説が濃厚か」
「気になるなら直接聞けばいいんじゃないの? 姐さんきっとまだ起きてるわよ」
「そうなんだけど、あの歌声って、なんて言うのかなあ、不躾にしちゃだめなやつなんだよ。侵されざる聖域っていうかなあ。わかるかなあ、わかんないだろうなあ……」
「なによそれ、誰かの真似?」
「あれは確か御詠歌の中でも、修証義御和讃(しゅしょうぎごわさん)だったかな。きれいな声でしたね」
一輪は正座から足を横にした。響子もアヒル座りになった。私は最初から胡座だった。
「きれいな声だった。私に母親がいたら、ああいう風に子守唄を聴かされたのかなあって」
我ながら言い得て妙な説明と思ったら、二人共、妙に黙った。外の風で、障子がひとつガタと鳴った。
「あんた、母親が欲しいの?」
一輪が升を畳に置く。
「そういうわけじゃないよ。いや、なんでこんな喩えをしたんだろうな。本当に他意は無いんだよ」
話を終わらせたくて、それは誤解だと訴えるつもりで、ヒラヒラ手を振った。
「言われてみれば、あんたって親が存在しないのね。今まで考えたこと無かったわ」
「誰も何も言ってないって、一輪よ。なあ」
「私もそうですよ。妖怪ってそういうの多いですから」
響子が一輪にニコリとする。
「あんた達にとっては大したことじゃないのね」
一輪は上体をのけぞらせて足を組み直し、胡座になった。
「むしろ、いっちゃんは人間の親がいたけど、人間から妖怪になったんだよな。それって結構いみじきことじゃないのか?」
彼女は返事せず、升に口付けた。それから目を細めて私の顔をじっと見つめてきた。だんだん居心地が悪くなった。
「もしかして、聞かない方がいい事?」
「別に、聞きたきゃ答えるわよ。いい機会かも知れないし」
平気そうに言う。
「じゃあせっかくだから聞くけど、尼になったのはどうして?」
「覚えてないわ。気がついたらああいう格好をしてた気がする」
「寺で生まれたのか? あと、親ってのはどんなものなんだ?」
「生まれは覚えてないし、親の記憶も無いわ。私は姐さんを親みたいに思ってるから、血縁上の親の記憶は必要なくなったのかもね」
水色をした癖っ毛の横髪を指先でクルクル弄んだ。
「なんだ、覚えてないなら、なんでさっき勿体ぶったんだよ」
「思い出そうとしてたのよ。でも結局もういいやって思って」
「妙に投げやりだな」
「昔のことって私自身、時々気になるのよ。でも、詰まるところ大事なのは今だ、っていっつも考え直すの。響子はそういうのない?」
「私は昔も今も変わらないから、昔を思い出す意味がないです」
「響子は分かりやすくて羨ましいなあ、と口に出すのは、彼女に失礼なので憚られた」
「憚られてないですよ水蜜さん」
響子に上目遣いでチロリと睨まれた。
「ハハハ、悪い悪い」
4
翌日、の夜。静かな夜だった。風の音もしない。襖の向こうから響子の可愛らしい寝息がすやすやと聞こえた。
「やっぱり、姐さんじゃないと思うわ」
低くてしっとりした一輪の声。外は眩しいくらいの満月で、寝室は障子が青白く光って明るい。今夜は松明を点けていない。二人だけの時は節約のため、あえて暗がりにしていた。互いの顔は、ぼんやりとして定かでない。
「なんで?」
「何かする際には誰かに伝えるって、この間取り決めをしたから、姐さんはきっと几帳面に守るわ」
「そんなこともあったな。となると星かな」
「違うと思う。星が起きだしたら私が気付くもの」
「そういやいっちゃん、星の隣だったか」
「あと、ナズはその日は寺に居なかったわね」
「私でも響子でもない。残るは一人」
「あの子、いつも姐さんの側に居るから勝手に覚えたのね」
「門前の小僧習わぬ御詠歌を歌う、ってことかねえ。でもなんであいつ……」
飲む時は三人だと会話が多くなって賑やかになる。二人だとあまり語らない。一輪とそうして夜を過ごすのが一番楽しい。楽しい時間だが、今夜に限ってはぬえのことを考え、私はどこか、そわそわした。
5
「今さら気づきやがって。お前って鋭いようでそうでもないよな」
外の枯れ葉が風で逆巻く音が聴こえる。今夜はぬえだけだった。既に響子の寝息が隣から聞こえる。
「意外すぎてさ。お前にあんな趣味があるなんてな」
「白蓮がいっつも歌ってるからなんとなく真似してみたくなったんだよ。でも誰かに聴かれるのも恥ずかしいから、お前らが寝てる時間にだな」
ぬえは胡座。私も同じ。
「最初に私に聞いてきたのは、誰にも気づかれていないかを確認したのか?」
「それもあるけど、ちょっと説明しにくい。すまねえ、うまく言えない」
彼女はうつむくように升に目を落とした。
「もう酔った?」
「いや、そうじゃない。お前ってさあ、わざとやってるんじゃないのか? ちくしょう」
「何のことだか。お前ってもっと素直になったらきっと楽になるぜ。怒らないから話してみろよ」
彼女の升に焼酎を注いだ。
「はあ、分かった白状するよ。あの時、お前に聞いたのは、私なりに覚悟を決めていたんだよ。それなのにお前は見事にはぐらかしやがった。それで、もういいやって思ったんだよ。思わないけど。そうだよ、思わねえよ、ずっとモヤモヤしてたんだよ」
「話が見えないが、私に教えたかったのか。あの歌がぬえだったってことを」
「そうだよ。変だろ?」
「変とは思わないけど、不思議ではある」
「お前、この前家出しただろ。求聞史紀口授でお前の記述が命蓮寺にとって不名誉だからとか言って」
ずっと曖昧な色をしていた彼女は、ようやく前を向いてスッキリした顔になっていた。
「で、一輪ほどじゃないけど、私だってちょっと心配したんだぜ。私なんかはそもそもがずっと一匹狼だったからどうとでもなるけど、お前って隠岐の島を出てからは一輪や白蓮と一緒だったんだろ? 外でうまいこと暮らすアテもないだろうし、どうするんだろうなあ、どうしようもないだろうなあ、ってな」
彼女は白蓮が説教をするように人差し指を立てていた。
「結局戻ってきたけど、それでもなんやら思い詰めてるようだったから、白蓮がずっとお前のために気を揉んでてさ。で、白蓮がお前のことばっかり気にするもんだから私としては面白くないんだよ。だから私がお前を元気づけようと思ってだな。あの歌、御詠歌っていうんだっけか、意味は分からなくても聴いてるだけでなんか救われるような気がするからさ。それに経文とかその手のモノって誰が読んでもご利益があるって白蓮に聞いたから、わざわざお前に聞こえるように…… もういいだろ。そういうことだよ。うるさかったのであれば勘弁してくれ」
彼女は隣に来て、私の升に焼酎を注いだ。
「ぬえ、キスしよっか」
注がれながら私は言った。
「遠慮する。それが尽きるまで付き合ってやるから、とっとと飲んでしまえ」
私が唇を突き出すのを無視して、彼女はちゃぶ台の沢庵をポリポリ齧った。
6
「私はぬえに母親を見出していたんだ。なんだか不思議だよ」
また一輪と二人きり。真っ暗な寝室で、隣から響子の寝息が聴こえる。
「ぬえが姐さんに母親を見出していて、それを真似したのなら、水蜜がそう感じてもおかしくないんじゃないかしら」
一輪の声がすぐ隣からする。唇が動く空気の揺れをも感じられるくらい近くから。真っ暗すぎるので互いにくっついて場所を確かめあっていた。
「いっちゃんならもっとはっきり分かるのかな。母親の感じ」
「きっと水蜜達と同じよ。記憶なんてもう風化してしまったから」
「それって、寂しくないのか? 人間ってそういうのを寂しがるような気がする」
「人間としては寂しいことかもしれないけど、忘れたものはしょうがないわよ。思い出せないなら、きっと思い出さなくていいことなのよ。それに、今の私は妖怪だし、姐さんや水蜜もいる。響子じゃないけど、過去を考えても詮無いことよ」
一輪はあっさりと言った。
7
ぬえは食事の用意をしている時や、庭で掃いている時によく歌うようになった。
白蓮に合わせて仲良く声を揃えている光景も時々見られるようになった。
「いっちゃん、うらやましいんじゃないか?」
ある夜、一輪に聞くと彼女は「別に」、と言い、升を一気飲みした。
深雪のごとく ふかくとも
悔ゆる心の 朝日には
消えて跡なく なりぬべし――
1
……誰かが歌っている。
透き通っていて、儚げな声。
誰も起きやらぬ、真っ暗な朝。
突然に目が覚めたと思ったが、よく耳を澄ますと確かに聴こえる。
どこか遠くから、か細く流れてくる歌声に、目を閉じて、半分寝たまま、聴き入った。
この歌は、なんだったっけか。
朧げに知っている。
はっきりしない意識。
誰だろう。
早い時間だから、白蓮か星か、あとは、一輪?
どうして歌っているんだろう。
私は想像する。
誰もいない、暗い修業堂で、一人で何か口ずさむ襦袢姿の一輪。
正座して、手を合わせて、うっすらきれいに微笑んで、楽しそうに、時々悲しそうに。
歌声は、所々で、変な空白がある。
息継ぎじゃなくて、急に息が詰まったような。
聴いていると、なんだか、悲しい気分になる。
一輪が悲しんでいるなら、すぐに飛んで行きたいけれど、今だけは一人でいたいような、そんな気持ちのようにも聴こえた。
声の主が分からないのに、声の気持ちは、不思議と分かった。
わざわざ一人で、せっかく一人で、歌っている所を邪魔をするのも、良くない気がした。
そんな風に考えていると、やがて私はまたウトウトし始めて、穏やかに、夢の世界へ沈んでいった。
子守唄のように、優しい歌だった。
2
「なあ水蜜。今朝の、聴いたか?」
斎座、つまり昼食を終え、作務の時間。庭を掃きながらぬえが近づいてきた。箒を止めず、こちらも見ない。修行中はあまりしゃべらないことになっている。彼女の足元で、乾いた黄土色の枯れ葉が箒に掃かれ、カサカサ鳴った。辺りには誰もいない。他は寺の正面や、伽藍の向こう側に居るようだ。
「ぬえも聴いたのか。私じゃないよ」
それきり二人共話さなかった。彼女は枯れ葉の山を手際良く塵取りで拾い、猫車に放り込んだ。
『次あっち』
とでも言うように、彼女は別の枯れ葉の山を指さし、車を押し始める。それから私達は無言で、協力しながら命蓮寺の裏庭をひたすら掃いた。
「結局、暇なんだ。昔は人間が合戦してるのを傍観してるだけでもいい暇つぶしになったけど、幻想郷だとそういうのないからね。そんで、人間を驚かそうとしても里の人間は妖怪に慣れすぎてる。茶を出されたこともある。拝まれたこともあるぜ。私はその人間を怖がらそうとしたっていうのに。一体どうしちゃったんだろうね。そりゃあ血なまぐさいことばっかりってのも疲れるんだろうけど、人間ってのはもっと短気で残酷で、他人を出し抜くことばかり考えているもんだと思ってたから、幻想郷に来てめっきり毒気を抜かれちまった。きっとそういう土地だから白蓮がここに降り立ったんだろうけどさ。金魚のフンみたいにくっついてきた私にしてみれば、張り合いがない。今となっては、怖がられても白蓮の迷惑になっちまうから大人しくしてるけど。そうだ、白蓮は仏教とか言う目に見えない何かで妖怪を救おうをしているようだが、そんなにいいもんなんだろうかねえ。合戦を眺めてる時に思ったが、目に見えない何かで人間ってのは殺しあうからさ。むしろ逆に殺し合わないようにするものも目に見えない何かってことなのかねえ。難しいことはよく分からないけど」
夜。私の部屋で、ちゃぶ台を挟んで赤ら顔のぬえがぼんやり話す。松脂の行灯が、すきま風で揺らめきながら、彼女の顔を煌々と照らしている。一緒に飲んでいた一輪は既に自室へ戻った。
「で?」
意地悪くしてみた。ぬえは口を尖らせた。
「なんだよつれないな。で、そうだ、私って別にお前らと関係無いだろ、元々。聖輦船の騒ぎでなんか面白そうだからちょっかいかけただけで、白蓮が好きだから付いてきただけで、やること無いからお前らに付き合ってるだけで、これだって暇つぶしなだけで」
彼女は空の升を私に突きつけた。一升瓶で焼酎を注ぐと、「どうも」と言った。
「『これ』ってのは修行の真似事の事を言ってるのか?」
また意地悪くしたくなった。
「真似事って言うな。お前だって似たようなもんだろ。で、『これ』ってのはそれだけじゃなくて、いや、言いたくないや、やっぱり。分かってるんだよ、ああ分かってる。だから言わなくていいってことにしてくれよ。しおらしいぬえ様なんて、格好がつかないだろ」
「で?」
「お前、絶対おちょくってるだろ。で…… で、そうだな、ぬえ様ってのは歴史のある妖怪なんだぞ。誰だったか、お前、知ってるか、源頼政とかいう武将に射られたことになっているんだよ、ぬえっていう妖怪はさ。でも私は本当は射られてなどはいないのよ。もしそうだったらぬえという妖怪が正体不明なままなわけがないだろ。そのお話の中では頼政の部下は私の姿を確認しているはずなんだよ。おかしいじゃあないか」
「で?」
「ちょっとはお前から話してくれよ。で、で…… もうねえよ。今何時だ? 寝るわ。随分くっちゃべっちゃったな。あれ、さっきまで一輪そこに居なかったっけ?」
「部屋まで送ってやるよ、ほら」
立ち上がって、手を差し伸べた。
「お前ってこんなに優しかったっけ? それとも私が酔いすぎてるのかな? あれれ、よく分からないぞ」
部屋までぬえに肩を貸した後、私は布団を敷いてやった。
3
もうコオロギの声もしない。障子の隙間から入り込む風も冷たくなった。
「私じゃないわよ」
と白い顔の一輪。クイッと焼酎の升を傾けた。
「いっちゃんじゃないとなると、白蓮か星かなあ」
私は一輪に合わせて一口飲んだ。今夜は響子が居て、ぬえは居ない。
「昨日の朝方なら私も聴きましたよ。御詠歌ですよね」
と、目の座った響子。
「『ごえいか』って?」
「仏教の教えを和歌にして歌を付けたものよ。経典を読むのは在家の人には手間だから、仏教の教えを分かりやすい歌にしたのよ」
「白蓮さんがご飯の支度をしながら歌っているのを聴いたことがあります」
「てことはあの歌、御詠歌とやらはやはり白蓮説が濃厚か」
「気になるなら直接聞けばいいんじゃないの? 姐さんきっとまだ起きてるわよ」
「そうなんだけど、あの歌声って、なんて言うのかなあ、不躾にしちゃだめなやつなんだよ。侵されざる聖域っていうかなあ。わかるかなあ、わかんないだろうなあ……」
「なによそれ、誰かの真似?」
「あれは確か御詠歌の中でも、修証義御和讃(しゅしょうぎごわさん)だったかな。きれいな声でしたね」
一輪は正座から足を横にした。響子もアヒル座りになった。私は最初から胡座だった。
「きれいな声だった。私に母親がいたら、ああいう風に子守唄を聴かされたのかなあって」
我ながら言い得て妙な説明と思ったら、二人共、妙に黙った。外の風で、障子がひとつガタと鳴った。
「あんた、母親が欲しいの?」
一輪が升を畳に置く。
「そういうわけじゃないよ。いや、なんでこんな喩えをしたんだろうな。本当に他意は無いんだよ」
話を終わらせたくて、それは誤解だと訴えるつもりで、ヒラヒラ手を振った。
「言われてみれば、あんたって親が存在しないのね。今まで考えたこと無かったわ」
「誰も何も言ってないって、一輪よ。なあ」
「私もそうですよ。妖怪ってそういうの多いですから」
響子が一輪にニコリとする。
「あんた達にとっては大したことじゃないのね」
一輪は上体をのけぞらせて足を組み直し、胡座になった。
「むしろ、いっちゃんは人間の親がいたけど、人間から妖怪になったんだよな。それって結構いみじきことじゃないのか?」
彼女は返事せず、升に口付けた。それから目を細めて私の顔をじっと見つめてきた。だんだん居心地が悪くなった。
「もしかして、聞かない方がいい事?」
「別に、聞きたきゃ答えるわよ。いい機会かも知れないし」
平気そうに言う。
「じゃあせっかくだから聞くけど、尼になったのはどうして?」
「覚えてないわ。気がついたらああいう格好をしてた気がする」
「寺で生まれたのか? あと、親ってのはどんなものなんだ?」
「生まれは覚えてないし、親の記憶も無いわ。私は姐さんを親みたいに思ってるから、血縁上の親の記憶は必要なくなったのかもね」
水色をした癖っ毛の横髪を指先でクルクル弄んだ。
「なんだ、覚えてないなら、なんでさっき勿体ぶったんだよ」
「思い出そうとしてたのよ。でも結局もういいやって思って」
「妙に投げやりだな」
「昔のことって私自身、時々気になるのよ。でも、詰まるところ大事なのは今だ、っていっつも考え直すの。響子はそういうのない?」
「私は昔も今も変わらないから、昔を思い出す意味がないです」
「響子は分かりやすくて羨ましいなあ、と口に出すのは、彼女に失礼なので憚られた」
「憚られてないですよ水蜜さん」
響子に上目遣いでチロリと睨まれた。
「ハハハ、悪い悪い」
4
翌日、の夜。静かな夜だった。風の音もしない。襖の向こうから響子の可愛らしい寝息がすやすやと聞こえた。
「やっぱり、姐さんじゃないと思うわ」
低くてしっとりした一輪の声。外は眩しいくらいの満月で、寝室は障子が青白く光って明るい。今夜は松明を点けていない。二人だけの時は節約のため、あえて暗がりにしていた。互いの顔は、ぼんやりとして定かでない。
「なんで?」
「何かする際には誰かに伝えるって、この間取り決めをしたから、姐さんはきっと几帳面に守るわ」
「そんなこともあったな。となると星かな」
「違うと思う。星が起きだしたら私が気付くもの」
「そういやいっちゃん、星の隣だったか」
「あと、ナズはその日は寺に居なかったわね」
「私でも響子でもない。残るは一人」
「あの子、いつも姐さんの側に居るから勝手に覚えたのね」
「門前の小僧習わぬ御詠歌を歌う、ってことかねえ。でもなんであいつ……」
飲む時は三人だと会話が多くなって賑やかになる。二人だとあまり語らない。一輪とそうして夜を過ごすのが一番楽しい。楽しい時間だが、今夜に限ってはぬえのことを考え、私はどこか、そわそわした。
5
「今さら気づきやがって。お前って鋭いようでそうでもないよな」
外の枯れ葉が風で逆巻く音が聴こえる。今夜はぬえだけだった。既に響子の寝息が隣から聞こえる。
「意外すぎてさ。お前にあんな趣味があるなんてな」
「白蓮がいっつも歌ってるからなんとなく真似してみたくなったんだよ。でも誰かに聴かれるのも恥ずかしいから、お前らが寝てる時間にだな」
ぬえは胡座。私も同じ。
「最初に私に聞いてきたのは、誰にも気づかれていないかを確認したのか?」
「それもあるけど、ちょっと説明しにくい。すまねえ、うまく言えない」
彼女はうつむくように升に目を落とした。
「もう酔った?」
「いや、そうじゃない。お前ってさあ、わざとやってるんじゃないのか? ちくしょう」
「何のことだか。お前ってもっと素直になったらきっと楽になるぜ。怒らないから話してみろよ」
彼女の升に焼酎を注いだ。
「はあ、分かった白状するよ。あの時、お前に聞いたのは、私なりに覚悟を決めていたんだよ。それなのにお前は見事にはぐらかしやがった。それで、もういいやって思ったんだよ。思わないけど。そうだよ、思わねえよ、ずっとモヤモヤしてたんだよ」
「話が見えないが、私に教えたかったのか。あの歌がぬえだったってことを」
「そうだよ。変だろ?」
「変とは思わないけど、不思議ではある」
「お前、この前家出しただろ。求聞史紀口授でお前の記述が命蓮寺にとって不名誉だからとか言って」
ずっと曖昧な色をしていた彼女は、ようやく前を向いてスッキリした顔になっていた。
「で、一輪ほどじゃないけど、私だってちょっと心配したんだぜ。私なんかはそもそもがずっと一匹狼だったからどうとでもなるけど、お前って隠岐の島を出てからは一輪や白蓮と一緒だったんだろ? 外でうまいこと暮らすアテもないだろうし、どうするんだろうなあ、どうしようもないだろうなあ、ってな」
彼女は白蓮が説教をするように人差し指を立てていた。
「結局戻ってきたけど、それでもなんやら思い詰めてるようだったから、白蓮がずっとお前のために気を揉んでてさ。で、白蓮がお前のことばっかり気にするもんだから私としては面白くないんだよ。だから私がお前を元気づけようと思ってだな。あの歌、御詠歌っていうんだっけか、意味は分からなくても聴いてるだけでなんか救われるような気がするからさ。それに経文とかその手のモノって誰が読んでもご利益があるって白蓮に聞いたから、わざわざお前に聞こえるように…… もういいだろ。そういうことだよ。うるさかったのであれば勘弁してくれ」
彼女は隣に来て、私の升に焼酎を注いだ。
「ぬえ、キスしよっか」
注がれながら私は言った。
「遠慮する。それが尽きるまで付き合ってやるから、とっとと飲んでしまえ」
私が唇を突き出すのを無視して、彼女はちゃぶ台の沢庵をポリポリ齧った。
6
「私はぬえに母親を見出していたんだ。なんだか不思議だよ」
また一輪と二人きり。真っ暗な寝室で、隣から響子の寝息が聴こえる。
「ぬえが姐さんに母親を見出していて、それを真似したのなら、水蜜がそう感じてもおかしくないんじゃないかしら」
一輪の声がすぐ隣からする。唇が動く空気の揺れをも感じられるくらい近くから。真っ暗すぎるので互いにくっついて場所を確かめあっていた。
「いっちゃんならもっとはっきり分かるのかな。母親の感じ」
「きっと水蜜達と同じよ。記憶なんてもう風化してしまったから」
「それって、寂しくないのか? 人間ってそういうのを寂しがるような気がする」
「人間としては寂しいことかもしれないけど、忘れたものはしょうがないわよ。思い出せないなら、きっと思い出さなくていいことなのよ。それに、今の私は妖怪だし、姐さんや水蜜もいる。響子じゃないけど、過去を考えても詮無いことよ」
一輪はあっさりと言った。
7
ぬえは食事の用意をしている時や、庭で掃いている時によく歌うようになった。
白蓮に合わせて仲良く声を揃えている光景も時々見られるようになった。
「いっちゃん、うらやましいんじゃないか?」
ある夜、一輪に聞くと彼女は「別に」、と言い、升を一気飲みした。
しっとりとした雰囲気が良かったです。
どうしてレート低いのかな? 仲仲こころ暖まるおとぎ噺ですよー
(「おとぎ」を漢字にしたら禁止ワードになったよ!)