フランドール・スカーレットと遭遇したのは、夏も終盤の、反吐が出る華やかな夜のことであった。
この日、紅魔館では理由不在のパーティーが催されていた。
普段は見るものを威圧する紅い悪魔の館も、パーティーとなればその色彩を鮮やかにするものらしい。
庭園は瀟洒に飾り付けられ、原理不明な光源が館を柔らかに照らし出し、場の雰囲気を幻想的に演出していた。
どこからともなく流れる落ち着いた楽器の音。どこか、来る者を歓迎するような音の響き。
人妖問わず多くの者が、優雅でそれでいて敷居の高さを感じさせない雰囲気に吸い寄せられ、足を運ぶ。
参加した者は皆グラスを傾け、絶品の料理を優美な手つきで口へ運び、その普段味わえない愉悦に酔う。
館の主も、場にふさわしい振る舞いで参加者に歓待の言葉を告げて回る。それにグラスを上げる参加者たち。
人々は、この夜を大いに楽しんでいた。
――――――気持ち悪い。
そんな様子を、私は冷ややかな目で窓越しに見下していた。
館の二階で、不法侵入だった。
無理矢理に手を引かれ、強制的にパーティーに参加させられた私は、立ち入りが禁止されている館の中へ身を投じた。
まるで逃げるように――――――歓喜に満ちた空間から身を遠ざけるようにして。
私を連れてきた友人は、パーティーの会場を来訪したつもりなのだろうが、私にとっては単にその場所へ到着したにすぎない。
そんな違いは、当人である私にしかわからないだろうけれど。
窓から見える友人は、すっかり雰囲気に浸っているようで、次々に差し出される料理と歓待に蕩けきった顔をしている。
きっと、このパーティーが終わるまであの状態が続くに違いない。一瞬、友人を捨て置き家路に着く事を考えたが、あれでも唯一傍に残ってくれた友人だ。
住処に帰宅するのは、どうやら幕が引かれる朝方となりそうである。
外で催されている柔らかな光に彩られた華やかなパーティー。
数年前までは純粋に楽しめていたであろうそれが、今の私の目にはとても遠い国の出来事のように映り――――――その国が冷たい炎に巻かれる姿を妄視した。
「………………?」
さて、これからどう時間を潰すかと頭を回して考えを巡らせた矢先、目端に一瞬奇妙な物が入り込んだ。
今、私が立っている場所とは反対の階段口を挟んだ向こう側。
そこのある一室に、なにか虹色に光る宝石のようなものが入っていくのが見えた。
館の二階は、一階とは違い薄い闇が降りており、光源となるものは外から入り込んでくる原理不明の柔らかな光だけ。それだけに、その虹色は奇妙だった。
君子危うきに近寄らず。しかし、退屈は人を殺す。
私は、自分の好奇心を殺し切ることが出来ず、明かりに集る蛾となった。
どうやら、その部屋はキッチンらしい。館の大きさにしてはやけにこじんまりとしているので、恐らく簡易的なものなのだろう。
大体今もひっきりなしに料理が会場に運ばれている最中だろうに、調理する場所が静寂に包まれているはずがない。
ひっそりとその気配を落ち着かせているキッチン。
扉はなく、何の気負いもなく足を踏み入れる事が出来る。
外から入り込む柔らかな光が暗く沈んだ部屋をうっすらと照らし出していた。
壁に沿うようにして並ぶ流し台に調理器具。部屋の中央には、四人がけのテーブルと椅子が置いてある。
如何にも使用人が使うといったそのテーブルの上には、いくつかのカップ。中央には実に洋館らしいハイティースタンドが置かれている。
つい先ほどまで、何者かがそこにいたような形跡。しかし、深く沈んだ気配はそこに何者も、生きた者がいないということを示している。
「………………」
変わらず、静寂があたりを包む。
普段の私なら、その薄気味の悪さに二の足を踏んでいたかもしれない。
しかし、外で執り行われている華やかなパーティーが、私の神経を冷ややかなものにし、第六感を鈍感なものにしていた。
恐れず足を踏み入れる。
部屋の中央まで、迷うことなく足を進め、クルリと部屋を見回す。
「……………」
何もなし。
薄暗いため、部屋の隅まで把握することは出来ないが、あの目立つであろう虹色がいないということは確認できた。
拍子抜けという言葉が口に溜まる。そのままそれを息に包んで吐く。
瞬間。閃光の後、目の前が急に開けた。
ジジジと頭上の電灯が微かな唸り声を上げる。
それまで辺りを支配していた闇は、強襲とも言える光の容赦ない攻撃に一斉に消え失せ、光はその存在を誇示する。
――――――断腸の思いだと理解して欲しい。
まるで、もうお前は要らぬと、絶縁状を叩き付けるかのように。
逆らえぬ者に、逆らえぬ立場から、逆らえぬ言葉を。
――――――もういい。君は、表に出るな。
輝きが、暗部を要らぬと駆逐していった。
「………………………」
目がくらむ。手先爪先が冷えていく。背を冷や汗が伝っていく。
意識すら暗転するやもしれぬ、圧力。その刹那。
「ばあ」と、幼い少女のとても可愛らしく、最高にふざけた声が背後から耳に届き――――――私を襲っていた重苦しい光が破壊されたような気がした。
形あるものはいつか壊れる。
それはいつの間にか知っている言葉で、いつの間にか当たり前だと思うようになる類の事だ。
私は、ありとあらゆるものを破壊する程度の能力だなんて物騒なものを持ち合わせてはいないが、そんなものがなくとも物は壊れるということを実感することは、実に容易い。
いい言葉だと思う。大事な事だとも思う。
ただ、惜しむらくは。
その言葉のいつかが、一体いつの事なのか、その事が丸っきり示されていなかった。
もし、その重大な事が示唆されていたのなら、私ももう少しマシな立ち振舞いというやつが出来ていたのかもしれない。
「ねえねえ、だから貴女は誰なの?」
「…………………………」
「その格好からすると、良いとこのお嬢様ってとこだと思うけど、特別なゲストってわけじゃ無いわよねえ。アイツが巫女や魔法使い以外で特別扱いはないだろうし」
「…………………………」
「まあ、そうだとしても私には関係ないけど。ん~、見たとこ普通の人間だけど、パーティーの参加者っていうのは間違いない? あの咲夜が餌を出歩かせるなんてマネ、許さないし」
「…………………………」
「もう~、さっきから失礼しちゃうわね。私、今の館の主が壊れたら、すぐにでも主の座につけちゃえるのよ? 未来の館の主なのよ?」
「…………………………」
「ぬう、強情~」
テーブルにうつぶせになりながら、虹色に光る羽をパタパタとはためかせ、童女のごとく振舞う少女――――いや、吸血鬼。
自らを吸血鬼だと名乗った虹色の羽を持つ少女は、不法侵入者である私を、しかし客人同然の扱いで持て成した。
たとえ、場所は変わらずのこじんまりとしたキッチンであったとしても、出された紅茶が見るからに冷え切っていたとしても。
椅子を引いて着席を促し、その体躯からは想像出来ないほど鮮やかに紅茶を注いだ手並みは、なるほどゲストを持て成す淑女のそれであった。
まあ、その淑女っぷりは今の有り様で見事に崩壊したのだが。
カチャリ、と出された紅茶に手を付ける。
「あ、その紅茶凄くいいものなのよ――――貴女のために注いだ特別製なの」
チラリと、目の前に鎮座する虹色は老婆のような意地の悪い顔を覗かせたが、気に留めること無くカップを口に向けて傾ける。
案の定、紅茶は冷えきっていた。なにこれ不味い。反吐が出そう。
「……フフフ、今、不快そうに眉を上げたでしょ。それに、鼻にシワが出来て上唇が上がった。最低な紅茶出されて反吐が出そうって顔」
「…………」
「目が見開いて、口が開いた。そんなに驚くことじゃあないわ。それにしても貴女、全然喋らないけど感情は豊かみたいね」
いくらなんでも表情が露骨過ぎる、と虹色は宣った。
そうなのだろうか。今の自分がどんな表情をしているかなど、碌に意識したこともなかったが――――いや、寧ろ何を考えているかわからない、鉄面皮などと他人からは言われていた筈だ。
そう。気味が悪いと。だから、君が悪いのだと。
「……クスクス、久しぶりに動いているニンゲンを間近で見かけたから少し戯れてみようと思ったけど、貴女、思った以上に面白そう」
顔の前で手を組み、今度は艶女のように妖しく微笑む虹色。
先ほどから、コロコロと覗かせる顔がよく変わる吸血鬼だ。
まさか、吸血鬼が見た目通りの年齢なわけもなし。人間が歳を経るごとに様々な顔を持つように、吸血鬼も年齢とともに様々な顔をするようになるのだろう。
そういう意味では実に悠久の時を生きる超越者らしいと言える。
超越者。
そう、目の前にいる虹色は血を吸う鬼なのだ。人間以上の存在なのだ。
今、この部屋にいるのは私とこの吸血鬼だけ。まともな神経をしていれば、怯えて立ち竦むくらいはしているはずだ。
いや、そもそもこうして甘んじて歓待を受けていることそのものがまずオカシイのだ。
流されるままに、流されてしまっている。
何の警戒もなしに出された紅茶に手を付けるとは何事か。
差し出されるものが必ずしも善意に満ちているわけではないのだと、私は学んだのではなかったか。
あまりの恐怖に感覚が麻痺しているのか。
器官だけでなく、感覚も使い物にならなくなるとはいよいよもって私も限界なのかもしれない。
たかが二十数年の人生で限界を感じ始めるとは、何とも哀れだと他人は嗤うだろうか。
目の前の超越者も、嗤うだろうか。
ふと、視線を上げると、鼻の先と鼻の先がくっついた。
「ね、こんな話を知ってる?」
虹色は、玩具箱を開ける前の子供のような目で私に問いかけた。
いくら様々な顔を持つといっても、こうも目まぐるしく顔が変わると、まるで情緒不安定な子供のように思える。
超越者が、まさかそんなはずもないけれど。
そして、虹色は、どこか楽しそうに物語を語りだした。
――――無意識の恐怖。
虹色の口から語られた話にタイトルを付けるとすると、それが相応しそうだった。
ある少女が、手にしたコップを割ってしまった。
手は血に塗れ、数瞬後にやってきた激しい痛みに少女は泣き叫ぶ。
悲しいかな、ちょうど近くには少女以外の者がおらず、しばらくの間、少女の手は赤く染まったまま。
それがいけなかった。
一通り泣き叫んだ少女は、傷の痛みを少しでも癒すため、傷口を舐めたのだ。貪り食うように。
ペロ。ペロ。ペロ。ズズ。ズズ。ペロ。ペロ。ズズ。ズズ。ズズ。
幸い、広範囲に渡っての裂傷だったものの傷口はそれほど深くはなく、放っておいても治る程度のものだった。
それゆえに現場を発見した少女の母親は娘の不運を嘆き、傷の手当てを施して安堵し、その件は少しの猶予期間を経て過去の物として簡単に忘却された。
自らの血を一心不乱に吸い続けていた娘の姿を、その記憶に留める事なく。そうして母親は、娘の治療の機会を永遠に失った。
結論を言えば、少女は自分の血を吸い尽くして死んだ。
自傷行為を続け、歳を経るごとにその激しさは増し、末期には血液をストックする事を覚え、自らの血を抜き過ぎて死んだ。
遺体の側には、血を抜き取るのに使ったであろう注射器と少女自身の血液が並々と入ったガラス容器が置かれていた。
少女は、自傷行為に無自覚であったらしい。末期にこそ、血液を保管するという自覚的意識に目覚めたが、それも死ぬ数日前の話だ。
気が付いたら、傷が出来ていて血が流れている。そしていつの間にかその血を舐めていて、自分が酷く喉が渇いていたと思い出す。
そう担当の医師に語る少女は、語りながら整えられた爪で無意識に手首を傷つけていたらしい。
「無意識って怖いわ。無意識に身を委ねてたら、自壊しちゃう。でも、無意識を操れちゃったら無問題よねー」
何が可笑しいのか、虹色はクスクスと身をよじる。
「………………」
沈黙でもって、私はそれに答える。虹色が何を言いたいのか、私は量りかねていた。
「あら、量りかねるって顔。つまりね、無意識は願望ってお話。こわいこわい無意識のお話」
儚げに笑う虹色。
「本人の意識しない行動や仕草には、願望が隠れてる。今回の話で言えば、飲血がそう。気が付いたら、もう行為は終了してる。フフフ、私も気を付けなきゃ」
軽い口調で、虹色は言う。
しかし、そう言った虹色は、親に見捨てられた事を自覚した子供のようだった。
「ねえ! 貴女も抱えているでしょう? 無意識の願望を!」
一転して、破顔する。私も段々と、虹色特有の変調に慣れ始めていた。
「――――ねえ、さっきわざわざ二階から外を眺めていたのはどうして?」
虹色の紡いだ突然のその言葉に、私は頭が割れるような衝撃に見舞われた。
「ガラス越しに、決して外からは見えないような位置で見詰めていたのは、なぜ?」
劈くような槍が、私の胸を突き刺す。
「いいのいいの。だって、それは無意識だもの。仕方のないことなんだもの。どれだけ認めたくなかろうと、どれだけ恥ずかしかろうと、それが貴女の願望だもの」
それは、まさに風雲急を告げるといった様相であった。
前言撤回とはこの事か。慣れたなどとんでもない。
「外を見下ろす貴女の目、とっても無様だったわ。だって、見るからに未練タラタラだもの。嫉みマシマシだもの。わざと嫌悪感を前面に押し立てて、さも違う世界の話ですって、自分を安全な距離に置いてたもの」
それまで先端すら見えていなかった矛先が、私に向けられている。明らかに、こちらの心の内側を踏みつけるような物言い。
遊ばれている。弄ばれている。
「外から見えないようにわざと窓から距離を取ってる姿なんて、滑稽だったわ。余程、自分が見ている事を知られたくなかったのね。あの華やかな場にいないっていう、プライドが許せなかったのかしら?」
この虹色は、どこまで人を見透かすつもりなのか。
そう、見透かされている。虹色の言う事は正しいと、私は認めてしまっている。
「クスクス。ねえ、名無しの権兵衛さん。貴女は――――」
――――何を壊すのが望みなの、と虹色は何を破壊すべきか暗に示しながら告げた。
壊してしまえと。自分の居ない楽しい場所など、壊してしまえと。
そう。
確かに私は、あの華やかな場が冷たい炎で巻かれる事を、幻視していた。
「………………………………………………」
再び、私は沈黙する。
しかしこの沈黙は、先程とは違い、思考を走らせるための沈黙だ。
先程の、少女の話。
果たして、その少女の願望は本当に『自分の血を飲む』ことだったのだろうか?
なぜ少女の願望が『自分の血を飲む』事だという結論に至ったのか。それは、彼女の最後が、それを示唆していたからだ。
血を抜くのに使った注射器。血液の大量ストック。
この二つの現場証拠と、それまでの少女の言動から「ああ、彼女は血が飲みたかったんだな」と推察した。
だが、少女の最後の姿には足りないものがある。いや、それまでの少女の行動からして、なければならないものがない。
少女の奇行は、傷を負いそれを舐めたところがそもそもの起点となっている。
そして一心不乱に傷を舐め続け、傷口から垂れる血を吸い始め、少女の人生は自壊した。
そう、傷だ。自傷行為が、少女の最後からすっぽり抜け落ちてしまっている。
そして、少女は死んだ。傷を負わなくなった瞬間、突然に死んだ。死ぬ数日前までは、上手く死なずに済んでいたのに。
思うに、少女の無意識の自傷行為は『自分の血を飲む』ためではなく『自分の傷口を舐める』ためではなかったのだろうか。
『自分の血を飲む』と『自分の傷口を舐める』では、願望の叶え方に齟齬がある。血液と傷口は互いに深い関係にあるが、それらは別のものだ。
少女は、それを誤認した。己の願望を、量り違えて意識してしまった。血液のストックなどという無駄な行為が、願望とはズレた行為が少女自身を殺したのだ。
無意識を無意識のままで願望を叶えていたならば、血の抜きすぎで死ぬといったことはなかった筈なのだ。
故に。
ここで最も恐れるべきは、己の抱える願望を間違った形で認識してしまう事ではないか。
パーティー会場が冷たい炎で巻かれるのを幻視した理由が、それを破壊したかったわけではなく。
かつて自分が楽しんでいたそれに対する単なる八つ当たりだったように。
服に備えつけてあるポーチから、紙とペンを取り出す。
今しがたの思考実験の結果を記し、虹色へ向けて飛ばす。
「?」
虹色は疑問符を浮かべながらも紙切れを受け取り、意識をそれに向けた。
数瞬。
突然、パリン、とテーブルの上のカップが独りでに割れた。
「~~~~~~~~強情ッ!」
いつの間にか拳を握っていた虹色が、顔を真っ赤にして紙切れをテーブルに叩きつける。
「もうっ! メンタル弱そうだったから、ちょっと突っつけばすぐ壊れると思ったのに! ついでにアイツのパーティーも滅茶苦茶にしちゃおうとおもってたのにぃ!」
まるで、りんごのように頬を膨らませる虹色。
遊戯が上手くいかない事に癇癪を起こしている子供のようで、少し微笑ましかった。
「あーーーーーー! なんかムカツク顔してる! ええ、いいわ。そっちがその気なら、もっとエグイ事言ってやるんだから!」
虹色は背を向け、何やらゴニョゴニョと独り言を呟き始めた。
作戦会議だろうか。口に出す事で考えをまとめるとかそういう。
奇行の多い吸血鬼である。
とはいえ。
先程の虹色の指摘には堪えた。
何やら私が思ったとおりの行動を取らなかった事で癇癪を起こしているようだが、実際に私が精神に受けたダメージは計り知れない。
表情を読む事でこちらの心中を的確に当ててみせ、辛辣な言葉で揺さぶりを掛けて混乱しているところを誘導する。
なるほど、相手を煽る常套手段である。今回は、誘導する段階まではいかなかったが。
確かに、メンタルの弱い相手か対人関係に経験が乏しい相手なら、それだけでも一時的に前後不覚に陥れる事は出来るだろう。
特に、心の内を見透かすというのは、相手に対してとても有効だ。煽りに対して激昂していたのなら、さらに効果は大きい。
だが、不十分だ。
煽るだけでは、相手に回復可能なダメージを与えるだけだ。
もっと相手が立ち上がる事が出来なくなるくらい心を折ろうというのであれば。
こちらの姿を見ただけで金切り声を上げさせようとするなら――――――――いや、やめよう。
そんな事を考えたところで、もう言葉を操れない私には詮無いことだ。
「うん、これならいけるかも――――――――ね、お姉さん」
思案は終わったらしい。再び、意地の悪い顔で虹色がこちらに言葉を投げかける。
「こんな話、知ってる?」
どうやら先程と同じように、例え話から入ってこちらの心を折る算段らしい。
表のパーティーが終わるまでの単なる時間潰しのつもりが、いつの間にか随分とスリリングなモノに変わってしまった。
だが、悪くない。案外私は、暗がりの館の中でこういうものを探していたのかもしれなかった。
姿勢を正し、虹色の話に耳を傾ける。聞き逃しはすまい。
…………少し、気になる事があるとすれば。
虹色の目が、獲物を狩る狩猟者のそれでは無く。対面に座る対戦者に向けるそれのように映った。
超越者ともあろう者が、まさかそんな事はないだろうけど。
その話は、要するに認識論についての話だった。
森の中で朽ち果てた木が、誰も居ないときに倒れたとき、音を立てるか否か。
虹色が語った物語は、この一行に集約される。
「ねえ、貴女はさっきからずっと黙ってばかりだけど、貴女はここにいるの?」
なんとも核心を突く話である。
「ひょっとしたら、私は一人でしゃべってるのかもしれないわ。だって、声が聞こえないもの。会話になっていないもの。それって、私一人しかここにいないって証明じゃない?」
倒れる音を立てない木は、果たしてそこに実存していると言えるのかどうか。
「ああ、私の気が触れているからかしら。声が聞こえないと、私、どこに誰がいるかわからないわ」
煽る煽る煽ってくる。
――――ねえ、聞いた? 若奥様の話。
――――聞いた聞いた。声が出なくなったんですって?
――――失声症とか言うらしいわよ。治るか治らないか、よくわからない病気なんですって。
――――お気の毒さま。でも、あれよね。自業自得というか天罰というか。
――――まあ、あんな鉄面皮なのに舌はよく回ったからねえ。怖いの何の。
――――同じ女でもよくわからないんだから、男連中なんてもっと恐ろしかったでしょうよ。
――――結構それであくどい事とかもやってたみたいだしねえ。
――――まあ、そのお金で食べさせてもらってる私達が言うものなんだけどね。
――――いやあ、それとこれとは関係ないでしょうよ。ま、なんにせよ――――
いやはや、なんとも情けない話だ。
――――君の弁舌には私も随分と助けられた。
そう、私は貴方の目となり口となり助けになりました。
――――だが、今の君にかつての舌捌きは期待できない。
それは……確かですが……。
――――舌の回るものは得てして敵も作りやすい。君も例外ではなかった。
けれど、弁舌以外でも貴方の助けになります! なってみせます!
――――口さがない者も声は君の耳にも届いているだろう。
なぜ、そのような事を仰るのですか!? そのような言葉に惑わされる私ではありません!
――――これは、君のためを思って言うんだ。断腸の思いだと、理解して欲しい。
貴方の考えを理解できない事がありましたか!? 私はいつだって貴方の願いを叶えるために……っ!
――――もういい。君は、表に出るな。
なんとも身に摘まされる話で。
――――あれではただの置物よね。
なんともハラワタの煮えくり返る話だ。
「フフフ、いつになったら私は誰かさんと会話できるのか――――――え?」
「……………………ッ…………ヵ」
ああ、本当に口惜しい。心の底から、ここにいると叫びたいのに。
「…………ァ…………ヵ…………………ッ」
こんな掠れ声しか、出すことが出来ない。
出すことが出来るのは、反吐くらいなものだ。
たまらず、ティーカップを叩き割る。
冷えた紅茶は放射状に広がり、しかしテーブルから落ちることなくその動きを止めた。
「……………………………………」
無様だ。まんまと虹色の掌で踊ってしまった。
先程の意趣返しとしては、最上だったと言える。
冷えていた熱が沸々と音を立てて再熱する。
考えないよう、特定の誰かを強く恨まぬようにずっと閉じていた扉の鎖がドロリと熔ける。
留め金が壊れるのを感じる。ああ、そんな心の扉など、ぶっ壊れてしまえばいい。
無意識の願望などと生ぬるい。明確な願望が私にはあったではないか。
いや、何にしても。
他人様の物にあたるとはなんとも情けない限りだ。後日、この分の弁償はきっちり支払わなければ――――
瞬間。テーブルが目の前から消え、
「ばーん」
そのまま逆さに落ちてきた。
「…………ッ!?」
チリやホコリが視界を遮る。
うっすらと見えるテーブルは完全に真っ二つに割れている。
テーブルの上に乗っていた物もすべてが残骸と成り果てていた。
「ダメダメ。壊すなら、最低でもこれくらいしないと」
慎ましいキッチンが、あっという間に惨状となった。
「私、フランドール・スカーレット。物を壊すのが得意なの」
塵と埃の向こう側。宝石のように光る虹色――――フランドールが、にこやかに告げる。
「貴女、何かを壊したいなら、ひとついいことを教えてあげるわ」
後日談。
そんなわけで、私は館の外に強力な同志を得ることに成功したのでした。イエイ☆
あの後、声が出せないお姉さんは朝方まで私と遊び、パーティーが終了する頃を見計らって朝霧の中を去っていった。
それから数ヶ月して、カップの弁償金を持ってきた。どこで値段を調べたのやら、キッチリ端数までそろっていたらしい。
そして、そのついでにとばかりに、私に数十枚に渡るメモを残していった。
それには、物語が書かれていた。
館の全面改装をとり行うため、館の主や住人・奉公人が森の中にある別荘に一時的に移り住むことになった。
そこで起こる凄惨なグランギニョル。
嵐や野犬の襲来により外界から孤立した住人たち。不安に包まれた晩餐のさなか、正体不明の人物から各人の罪が宣告される。
その直後、口さがない女中が金切り声を上げて…………。人数分用意された日本人形が、一つまた一つと消えていく。
そして、誰もいなくなった。
館の関係者が軒並み死んでしまったため、病気療養中で難を逃れた若奥が家の全権を相続することとなった。めでたしめでたし。
いい話だと思う。
特に、誰もいなくなったというところがいい。やっぱり、何かを壊す時はその手に限るわ。
メモの最後に、また気まぐれなパーティーがあった時に適当に忍び込むとあった。また、今度はこちらも容赦しないとも。
いつの間にか紅魔館内の力関係も把握したらしい。油断も隙もない。実に頼もしい。
再戦、すごく楽しみ。
破壊の愉悦を知った者同士の壊し合いは、本当に心踊るから。
ん~、この調子で、どんどん人里の人間を啓蒙していこうかしら? なんか思ったより鬱屈してるみたいだし。ちょっと突けば案外簡単に壊れるかも。こいしやぬえにも相談しようかな?
フフフ、それでいつかお姉さまみたいに異変を起こせたら――――それは凄く凄く、素敵な時間ね。
この日、紅魔館では理由不在のパーティーが催されていた。
普段は見るものを威圧する紅い悪魔の館も、パーティーとなればその色彩を鮮やかにするものらしい。
庭園は瀟洒に飾り付けられ、原理不明な光源が館を柔らかに照らし出し、場の雰囲気を幻想的に演出していた。
どこからともなく流れる落ち着いた楽器の音。どこか、来る者を歓迎するような音の響き。
人妖問わず多くの者が、優雅でそれでいて敷居の高さを感じさせない雰囲気に吸い寄せられ、足を運ぶ。
参加した者は皆グラスを傾け、絶品の料理を優美な手つきで口へ運び、その普段味わえない愉悦に酔う。
館の主も、場にふさわしい振る舞いで参加者に歓待の言葉を告げて回る。それにグラスを上げる参加者たち。
人々は、この夜を大いに楽しんでいた。
――――――気持ち悪い。
そんな様子を、私は冷ややかな目で窓越しに見下していた。
館の二階で、不法侵入だった。
無理矢理に手を引かれ、強制的にパーティーに参加させられた私は、立ち入りが禁止されている館の中へ身を投じた。
まるで逃げるように――――――歓喜に満ちた空間から身を遠ざけるようにして。
私を連れてきた友人は、パーティーの会場を来訪したつもりなのだろうが、私にとっては単にその場所へ到着したにすぎない。
そんな違いは、当人である私にしかわからないだろうけれど。
窓から見える友人は、すっかり雰囲気に浸っているようで、次々に差し出される料理と歓待に蕩けきった顔をしている。
きっと、このパーティーが終わるまであの状態が続くに違いない。一瞬、友人を捨て置き家路に着く事を考えたが、あれでも唯一傍に残ってくれた友人だ。
住処に帰宅するのは、どうやら幕が引かれる朝方となりそうである。
外で催されている柔らかな光に彩られた華やかなパーティー。
数年前までは純粋に楽しめていたであろうそれが、今の私の目にはとても遠い国の出来事のように映り――――――その国が冷たい炎に巻かれる姿を妄視した。
「………………?」
さて、これからどう時間を潰すかと頭を回して考えを巡らせた矢先、目端に一瞬奇妙な物が入り込んだ。
今、私が立っている場所とは反対の階段口を挟んだ向こう側。
そこのある一室に、なにか虹色に光る宝石のようなものが入っていくのが見えた。
館の二階は、一階とは違い薄い闇が降りており、光源となるものは外から入り込んでくる原理不明の柔らかな光だけ。それだけに、その虹色は奇妙だった。
君子危うきに近寄らず。しかし、退屈は人を殺す。
私は、自分の好奇心を殺し切ることが出来ず、明かりに集る蛾となった。
どうやら、その部屋はキッチンらしい。館の大きさにしてはやけにこじんまりとしているので、恐らく簡易的なものなのだろう。
大体今もひっきりなしに料理が会場に運ばれている最中だろうに、調理する場所が静寂に包まれているはずがない。
ひっそりとその気配を落ち着かせているキッチン。
扉はなく、何の気負いもなく足を踏み入れる事が出来る。
外から入り込む柔らかな光が暗く沈んだ部屋をうっすらと照らし出していた。
壁に沿うようにして並ぶ流し台に調理器具。部屋の中央には、四人がけのテーブルと椅子が置いてある。
如何にも使用人が使うといったそのテーブルの上には、いくつかのカップ。中央には実に洋館らしいハイティースタンドが置かれている。
つい先ほどまで、何者かがそこにいたような形跡。しかし、深く沈んだ気配はそこに何者も、生きた者がいないということを示している。
「………………」
変わらず、静寂があたりを包む。
普段の私なら、その薄気味の悪さに二の足を踏んでいたかもしれない。
しかし、外で執り行われている華やかなパーティーが、私の神経を冷ややかなものにし、第六感を鈍感なものにしていた。
恐れず足を踏み入れる。
部屋の中央まで、迷うことなく足を進め、クルリと部屋を見回す。
「……………」
何もなし。
薄暗いため、部屋の隅まで把握することは出来ないが、あの目立つであろう虹色がいないということは確認できた。
拍子抜けという言葉が口に溜まる。そのままそれを息に包んで吐く。
瞬間。閃光の後、目の前が急に開けた。
ジジジと頭上の電灯が微かな唸り声を上げる。
それまで辺りを支配していた闇は、強襲とも言える光の容赦ない攻撃に一斉に消え失せ、光はその存在を誇示する。
――――――断腸の思いだと理解して欲しい。
まるで、もうお前は要らぬと、絶縁状を叩き付けるかのように。
逆らえぬ者に、逆らえぬ立場から、逆らえぬ言葉を。
――――――もういい。君は、表に出るな。
輝きが、暗部を要らぬと駆逐していった。
「………………………」
目がくらむ。手先爪先が冷えていく。背を冷や汗が伝っていく。
意識すら暗転するやもしれぬ、圧力。その刹那。
「ばあ」と、幼い少女のとても可愛らしく、最高にふざけた声が背後から耳に届き――――――私を襲っていた重苦しい光が破壊されたような気がした。
形あるものはいつか壊れる。
それはいつの間にか知っている言葉で、いつの間にか当たり前だと思うようになる類の事だ。
私は、ありとあらゆるものを破壊する程度の能力だなんて物騒なものを持ち合わせてはいないが、そんなものがなくとも物は壊れるということを実感することは、実に容易い。
いい言葉だと思う。大事な事だとも思う。
ただ、惜しむらくは。
その言葉のいつかが、一体いつの事なのか、その事が丸っきり示されていなかった。
もし、その重大な事が示唆されていたのなら、私ももう少しマシな立ち振舞いというやつが出来ていたのかもしれない。
「ねえねえ、だから貴女は誰なの?」
「…………………………」
「その格好からすると、良いとこのお嬢様ってとこだと思うけど、特別なゲストってわけじゃ無いわよねえ。アイツが巫女や魔法使い以外で特別扱いはないだろうし」
「…………………………」
「まあ、そうだとしても私には関係ないけど。ん~、見たとこ普通の人間だけど、パーティーの参加者っていうのは間違いない? あの咲夜が餌を出歩かせるなんてマネ、許さないし」
「…………………………」
「もう~、さっきから失礼しちゃうわね。私、今の館の主が壊れたら、すぐにでも主の座につけちゃえるのよ? 未来の館の主なのよ?」
「…………………………」
「ぬう、強情~」
テーブルにうつぶせになりながら、虹色に光る羽をパタパタとはためかせ、童女のごとく振舞う少女――――いや、吸血鬼。
自らを吸血鬼だと名乗った虹色の羽を持つ少女は、不法侵入者である私を、しかし客人同然の扱いで持て成した。
たとえ、場所は変わらずのこじんまりとしたキッチンであったとしても、出された紅茶が見るからに冷え切っていたとしても。
椅子を引いて着席を促し、その体躯からは想像出来ないほど鮮やかに紅茶を注いだ手並みは、なるほどゲストを持て成す淑女のそれであった。
まあ、その淑女っぷりは今の有り様で見事に崩壊したのだが。
カチャリ、と出された紅茶に手を付ける。
「あ、その紅茶凄くいいものなのよ――――貴女のために注いだ特別製なの」
チラリと、目の前に鎮座する虹色は老婆のような意地の悪い顔を覗かせたが、気に留めること無くカップを口に向けて傾ける。
案の定、紅茶は冷えきっていた。なにこれ不味い。反吐が出そう。
「……フフフ、今、不快そうに眉を上げたでしょ。それに、鼻にシワが出来て上唇が上がった。最低な紅茶出されて反吐が出そうって顔」
「…………」
「目が見開いて、口が開いた。そんなに驚くことじゃあないわ。それにしても貴女、全然喋らないけど感情は豊かみたいね」
いくらなんでも表情が露骨過ぎる、と虹色は宣った。
そうなのだろうか。今の自分がどんな表情をしているかなど、碌に意識したこともなかったが――――いや、寧ろ何を考えているかわからない、鉄面皮などと他人からは言われていた筈だ。
そう。気味が悪いと。だから、君が悪いのだと。
「……クスクス、久しぶりに動いているニンゲンを間近で見かけたから少し戯れてみようと思ったけど、貴女、思った以上に面白そう」
顔の前で手を組み、今度は艶女のように妖しく微笑む虹色。
先ほどから、コロコロと覗かせる顔がよく変わる吸血鬼だ。
まさか、吸血鬼が見た目通りの年齢なわけもなし。人間が歳を経るごとに様々な顔を持つように、吸血鬼も年齢とともに様々な顔をするようになるのだろう。
そういう意味では実に悠久の時を生きる超越者らしいと言える。
超越者。
そう、目の前にいる虹色は血を吸う鬼なのだ。人間以上の存在なのだ。
今、この部屋にいるのは私とこの吸血鬼だけ。まともな神経をしていれば、怯えて立ち竦むくらいはしているはずだ。
いや、そもそもこうして甘んじて歓待を受けていることそのものがまずオカシイのだ。
流されるままに、流されてしまっている。
何の警戒もなしに出された紅茶に手を付けるとは何事か。
差し出されるものが必ずしも善意に満ちているわけではないのだと、私は学んだのではなかったか。
あまりの恐怖に感覚が麻痺しているのか。
器官だけでなく、感覚も使い物にならなくなるとはいよいよもって私も限界なのかもしれない。
たかが二十数年の人生で限界を感じ始めるとは、何とも哀れだと他人は嗤うだろうか。
目の前の超越者も、嗤うだろうか。
ふと、視線を上げると、鼻の先と鼻の先がくっついた。
「ね、こんな話を知ってる?」
虹色は、玩具箱を開ける前の子供のような目で私に問いかけた。
いくら様々な顔を持つといっても、こうも目まぐるしく顔が変わると、まるで情緒不安定な子供のように思える。
超越者が、まさかそんなはずもないけれど。
そして、虹色は、どこか楽しそうに物語を語りだした。
――――無意識の恐怖。
虹色の口から語られた話にタイトルを付けるとすると、それが相応しそうだった。
ある少女が、手にしたコップを割ってしまった。
手は血に塗れ、数瞬後にやってきた激しい痛みに少女は泣き叫ぶ。
悲しいかな、ちょうど近くには少女以外の者がおらず、しばらくの間、少女の手は赤く染まったまま。
それがいけなかった。
一通り泣き叫んだ少女は、傷の痛みを少しでも癒すため、傷口を舐めたのだ。貪り食うように。
ペロ。ペロ。ペロ。ズズ。ズズ。ペロ。ペロ。ズズ。ズズ。ズズ。
幸い、広範囲に渡っての裂傷だったものの傷口はそれほど深くはなく、放っておいても治る程度のものだった。
それゆえに現場を発見した少女の母親は娘の不運を嘆き、傷の手当てを施して安堵し、その件は少しの猶予期間を経て過去の物として簡単に忘却された。
自らの血を一心不乱に吸い続けていた娘の姿を、その記憶に留める事なく。そうして母親は、娘の治療の機会を永遠に失った。
結論を言えば、少女は自分の血を吸い尽くして死んだ。
自傷行為を続け、歳を経るごとにその激しさは増し、末期には血液をストックする事を覚え、自らの血を抜き過ぎて死んだ。
遺体の側には、血を抜き取るのに使ったであろう注射器と少女自身の血液が並々と入ったガラス容器が置かれていた。
少女は、自傷行為に無自覚であったらしい。末期にこそ、血液を保管するという自覚的意識に目覚めたが、それも死ぬ数日前の話だ。
気が付いたら、傷が出来ていて血が流れている。そしていつの間にかその血を舐めていて、自分が酷く喉が渇いていたと思い出す。
そう担当の医師に語る少女は、語りながら整えられた爪で無意識に手首を傷つけていたらしい。
「無意識って怖いわ。無意識に身を委ねてたら、自壊しちゃう。でも、無意識を操れちゃったら無問題よねー」
何が可笑しいのか、虹色はクスクスと身をよじる。
「………………」
沈黙でもって、私はそれに答える。虹色が何を言いたいのか、私は量りかねていた。
「あら、量りかねるって顔。つまりね、無意識は願望ってお話。こわいこわい無意識のお話」
儚げに笑う虹色。
「本人の意識しない行動や仕草には、願望が隠れてる。今回の話で言えば、飲血がそう。気が付いたら、もう行為は終了してる。フフフ、私も気を付けなきゃ」
軽い口調で、虹色は言う。
しかし、そう言った虹色は、親に見捨てられた事を自覚した子供のようだった。
「ねえ! 貴女も抱えているでしょう? 無意識の願望を!」
一転して、破顔する。私も段々と、虹色特有の変調に慣れ始めていた。
「――――ねえ、さっきわざわざ二階から外を眺めていたのはどうして?」
虹色の紡いだ突然のその言葉に、私は頭が割れるような衝撃に見舞われた。
「ガラス越しに、決して外からは見えないような位置で見詰めていたのは、なぜ?」
劈くような槍が、私の胸を突き刺す。
「いいのいいの。だって、それは無意識だもの。仕方のないことなんだもの。どれだけ認めたくなかろうと、どれだけ恥ずかしかろうと、それが貴女の願望だもの」
それは、まさに風雲急を告げるといった様相であった。
前言撤回とはこの事か。慣れたなどとんでもない。
「外を見下ろす貴女の目、とっても無様だったわ。だって、見るからに未練タラタラだもの。嫉みマシマシだもの。わざと嫌悪感を前面に押し立てて、さも違う世界の話ですって、自分を安全な距離に置いてたもの」
それまで先端すら見えていなかった矛先が、私に向けられている。明らかに、こちらの心の内側を踏みつけるような物言い。
遊ばれている。弄ばれている。
「外から見えないようにわざと窓から距離を取ってる姿なんて、滑稽だったわ。余程、自分が見ている事を知られたくなかったのね。あの華やかな場にいないっていう、プライドが許せなかったのかしら?」
この虹色は、どこまで人を見透かすつもりなのか。
そう、見透かされている。虹色の言う事は正しいと、私は認めてしまっている。
「クスクス。ねえ、名無しの権兵衛さん。貴女は――――」
――――何を壊すのが望みなの、と虹色は何を破壊すべきか暗に示しながら告げた。
壊してしまえと。自分の居ない楽しい場所など、壊してしまえと。
そう。
確かに私は、あの華やかな場が冷たい炎で巻かれる事を、幻視していた。
「………………………………………………」
再び、私は沈黙する。
しかしこの沈黙は、先程とは違い、思考を走らせるための沈黙だ。
先程の、少女の話。
果たして、その少女の願望は本当に『自分の血を飲む』ことだったのだろうか?
なぜ少女の願望が『自分の血を飲む』事だという結論に至ったのか。それは、彼女の最後が、それを示唆していたからだ。
血を抜くのに使った注射器。血液の大量ストック。
この二つの現場証拠と、それまでの少女の言動から「ああ、彼女は血が飲みたかったんだな」と推察した。
だが、少女の最後の姿には足りないものがある。いや、それまでの少女の行動からして、なければならないものがない。
少女の奇行は、傷を負いそれを舐めたところがそもそもの起点となっている。
そして一心不乱に傷を舐め続け、傷口から垂れる血を吸い始め、少女の人生は自壊した。
そう、傷だ。自傷行為が、少女の最後からすっぽり抜け落ちてしまっている。
そして、少女は死んだ。傷を負わなくなった瞬間、突然に死んだ。死ぬ数日前までは、上手く死なずに済んでいたのに。
思うに、少女の無意識の自傷行為は『自分の血を飲む』ためではなく『自分の傷口を舐める』ためではなかったのだろうか。
『自分の血を飲む』と『自分の傷口を舐める』では、願望の叶え方に齟齬がある。血液と傷口は互いに深い関係にあるが、それらは別のものだ。
少女は、それを誤認した。己の願望を、量り違えて意識してしまった。血液のストックなどという無駄な行為が、願望とはズレた行為が少女自身を殺したのだ。
無意識を無意識のままで願望を叶えていたならば、血の抜きすぎで死ぬといったことはなかった筈なのだ。
故に。
ここで最も恐れるべきは、己の抱える願望を間違った形で認識してしまう事ではないか。
パーティー会場が冷たい炎で巻かれるのを幻視した理由が、それを破壊したかったわけではなく。
かつて自分が楽しんでいたそれに対する単なる八つ当たりだったように。
服に備えつけてあるポーチから、紙とペンを取り出す。
今しがたの思考実験の結果を記し、虹色へ向けて飛ばす。
「?」
虹色は疑問符を浮かべながらも紙切れを受け取り、意識をそれに向けた。
数瞬。
突然、パリン、とテーブルの上のカップが独りでに割れた。
「~~~~~~~~強情ッ!」
いつの間にか拳を握っていた虹色が、顔を真っ赤にして紙切れをテーブルに叩きつける。
「もうっ! メンタル弱そうだったから、ちょっと突っつけばすぐ壊れると思ったのに! ついでにアイツのパーティーも滅茶苦茶にしちゃおうとおもってたのにぃ!」
まるで、りんごのように頬を膨らませる虹色。
遊戯が上手くいかない事に癇癪を起こしている子供のようで、少し微笑ましかった。
「あーーーーーー! なんかムカツク顔してる! ええ、いいわ。そっちがその気なら、もっとエグイ事言ってやるんだから!」
虹色は背を向け、何やらゴニョゴニョと独り言を呟き始めた。
作戦会議だろうか。口に出す事で考えをまとめるとかそういう。
奇行の多い吸血鬼である。
とはいえ。
先程の虹色の指摘には堪えた。
何やら私が思ったとおりの行動を取らなかった事で癇癪を起こしているようだが、実際に私が精神に受けたダメージは計り知れない。
表情を読む事でこちらの心中を的確に当ててみせ、辛辣な言葉で揺さぶりを掛けて混乱しているところを誘導する。
なるほど、相手を煽る常套手段である。今回は、誘導する段階まではいかなかったが。
確かに、メンタルの弱い相手か対人関係に経験が乏しい相手なら、それだけでも一時的に前後不覚に陥れる事は出来るだろう。
特に、心の内を見透かすというのは、相手に対してとても有効だ。煽りに対して激昂していたのなら、さらに効果は大きい。
だが、不十分だ。
煽るだけでは、相手に回復可能なダメージを与えるだけだ。
もっと相手が立ち上がる事が出来なくなるくらい心を折ろうというのであれば。
こちらの姿を見ただけで金切り声を上げさせようとするなら――――――――いや、やめよう。
そんな事を考えたところで、もう言葉を操れない私には詮無いことだ。
「うん、これならいけるかも――――――――ね、お姉さん」
思案は終わったらしい。再び、意地の悪い顔で虹色がこちらに言葉を投げかける。
「こんな話、知ってる?」
どうやら先程と同じように、例え話から入ってこちらの心を折る算段らしい。
表のパーティーが終わるまでの単なる時間潰しのつもりが、いつの間にか随分とスリリングなモノに変わってしまった。
だが、悪くない。案外私は、暗がりの館の中でこういうものを探していたのかもしれなかった。
姿勢を正し、虹色の話に耳を傾ける。聞き逃しはすまい。
…………少し、気になる事があるとすれば。
虹色の目が、獲物を狩る狩猟者のそれでは無く。対面に座る対戦者に向けるそれのように映った。
超越者ともあろう者が、まさかそんな事はないだろうけど。
その話は、要するに認識論についての話だった。
森の中で朽ち果てた木が、誰も居ないときに倒れたとき、音を立てるか否か。
虹色が語った物語は、この一行に集約される。
「ねえ、貴女はさっきからずっと黙ってばかりだけど、貴女はここにいるの?」
なんとも核心を突く話である。
「ひょっとしたら、私は一人でしゃべってるのかもしれないわ。だって、声が聞こえないもの。会話になっていないもの。それって、私一人しかここにいないって証明じゃない?」
倒れる音を立てない木は、果たしてそこに実存していると言えるのかどうか。
「ああ、私の気が触れているからかしら。声が聞こえないと、私、どこに誰がいるかわからないわ」
煽る煽る煽ってくる。
――――ねえ、聞いた? 若奥様の話。
――――聞いた聞いた。声が出なくなったんですって?
――――失声症とか言うらしいわよ。治るか治らないか、よくわからない病気なんですって。
――――お気の毒さま。でも、あれよね。自業自得というか天罰というか。
――――まあ、あんな鉄面皮なのに舌はよく回ったからねえ。怖いの何の。
――――同じ女でもよくわからないんだから、男連中なんてもっと恐ろしかったでしょうよ。
――――結構それであくどい事とかもやってたみたいだしねえ。
――――まあ、そのお金で食べさせてもらってる私達が言うものなんだけどね。
――――いやあ、それとこれとは関係ないでしょうよ。ま、なんにせよ――――
いやはや、なんとも情けない話だ。
――――君の弁舌には私も随分と助けられた。
そう、私は貴方の目となり口となり助けになりました。
――――だが、今の君にかつての舌捌きは期待できない。
それは……確かですが……。
――――舌の回るものは得てして敵も作りやすい。君も例外ではなかった。
けれど、弁舌以外でも貴方の助けになります! なってみせます!
――――口さがない者も声は君の耳にも届いているだろう。
なぜ、そのような事を仰るのですか!? そのような言葉に惑わされる私ではありません!
――――これは、君のためを思って言うんだ。断腸の思いだと、理解して欲しい。
貴方の考えを理解できない事がありましたか!? 私はいつだって貴方の願いを叶えるために……っ!
――――もういい。君は、表に出るな。
なんとも身に摘まされる話で。
――――あれではただの置物よね。
なんともハラワタの煮えくり返る話だ。
「フフフ、いつになったら私は誰かさんと会話できるのか――――――え?」
「……………………ッ…………ヵ」
ああ、本当に口惜しい。心の底から、ここにいると叫びたいのに。
「…………ァ…………ヵ…………………ッ」
こんな掠れ声しか、出すことが出来ない。
出すことが出来るのは、反吐くらいなものだ。
たまらず、ティーカップを叩き割る。
冷えた紅茶は放射状に広がり、しかしテーブルから落ちることなくその動きを止めた。
「……………………………………」
無様だ。まんまと虹色の掌で踊ってしまった。
先程の意趣返しとしては、最上だったと言える。
冷えていた熱が沸々と音を立てて再熱する。
考えないよう、特定の誰かを強く恨まぬようにずっと閉じていた扉の鎖がドロリと熔ける。
留め金が壊れるのを感じる。ああ、そんな心の扉など、ぶっ壊れてしまえばいい。
無意識の願望などと生ぬるい。明確な願望が私にはあったではないか。
いや、何にしても。
他人様の物にあたるとはなんとも情けない限りだ。後日、この分の弁償はきっちり支払わなければ――――
瞬間。テーブルが目の前から消え、
「ばーん」
そのまま逆さに落ちてきた。
「…………ッ!?」
チリやホコリが視界を遮る。
うっすらと見えるテーブルは完全に真っ二つに割れている。
テーブルの上に乗っていた物もすべてが残骸と成り果てていた。
「ダメダメ。壊すなら、最低でもこれくらいしないと」
慎ましいキッチンが、あっという間に惨状となった。
「私、フランドール・スカーレット。物を壊すのが得意なの」
塵と埃の向こう側。宝石のように光る虹色――――フランドールが、にこやかに告げる。
「貴女、何かを壊したいなら、ひとついいことを教えてあげるわ」
後日談。
そんなわけで、私は館の外に強力な同志を得ることに成功したのでした。イエイ☆
あの後、声が出せないお姉さんは朝方まで私と遊び、パーティーが終了する頃を見計らって朝霧の中を去っていった。
それから数ヶ月して、カップの弁償金を持ってきた。どこで値段を調べたのやら、キッチリ端数までそろっていたらしい。
そして、そのついでにとばかりに、私に数十枚に渡るメモを残していった。
それには、物語が書かれていた。
館の全面改装をとり行うため、館の主や住人・奉公人が森の中にある別荘に一時的に移り住むことになった。
そこで起こる凄惨なグランギニョル。
嵐や野犬の襲来により外界から孤立した住人たち。不安に包まれた晩餐のさなか、正体不明の人物から各人の罪が宣告される。
その直後、口さがない女中が金切り声を上げて…………。人数分用意された日本人形が、一つまた一つと消えていく。
そして、誰もいなくなった。
館の関係者が軒並み死んでしまったため、病気療養中で難を逃れた若奥が家の全権を相続することとなった。めでたしめでたし。
いい話だと思う。
特に、誰もいなくなったというところがいい。やっぱり、何かを壊す時はその手に限るわ。
メモの最後に、また気まぐれなパーティーがあった時に適当に忍び込むとあった。また、今度はこちらも容赦しないとも。
いつの間にか紅魔館内の力関係も把握したらしい。油断も隙もない。実に頼もしい。
再戦、すごく楽しみ。
破壊の愉悦を知った者同士の壊し合いは、本当に心踊るから。
ん~、この調子で、どんどん人里の人間を啓蒙していこうかしら? なんか思ったより鬱屈してるみたいだし。ちょっと突けば案外簡単に壊れるかも。こいしやぬえにも相談しようかな?
フフフ、それでいつかお姉さまみたいに異変を起こせたら――――それは凄く凄く、素敵な時間ね。
壊すものと壊されるもの、罪と支払われるべき対価……。釣り合いがとれていないようで、それが作品のテイストになっている、気がします。
あと味苦くてサッパリとしてる感じ
またフランで書いて欲しいです
何にせよ、面白いことは確か。