地底には巨大な地底湖があって、その元を辿れば地上の山にたまった水が地下へと流れ込んだものである。洞穴に落ちた水は巨大な流れになって、地底湖へと繋がってゆく。
地底に落ち込む水には、様々なものが含まれる。多くの養分を含んだ水そのものであったり、流れで生まれた生物であったり、時には山や人里で捨てられたゴミであったりする。時には落ちてきたものが、地底の生活を大きく変えたりする。奇妙な植物が多生して別の植物を駆逐したり、流れ落ちた地上の農具が地底で流行ったり、神様が降りてきて地獄烏に太陽神の力を与えたりなどである。
その日水の流れに従って落ちてきたのは、変わった妖怪だった。
それを最初に見つけたのは霊烏路空だった。地下水の流れに乗って、地上のものが時々落ちてくることを空は知っていて、それで退屈になると、時々橋のところまで探しにくる。捨てられて地底に来るものは、大抵意味のない、必要のないものばかりだったけれど、空は丸みを帯びたガラスなんかを拾うと喜んで、時々お燐やさとりにプレゼントしたりして、それを喜んでいる。お燐のために死体なんかを持って帰ることもあるけど、土左衛門は燃えが良くないのでお燐はあんまり喜ばない。
空が橋のたもとをうろついていると、水橋パルスィが橋の下に下りてくる。パルスィは一人で暮らす変わった妖怪だが、他人が嫌いというわけではなくて、たまに他人と接する機会があると暇潰しに現れる。いつも退屈しているから、何かしら新しいことがあるのは大歓迎だ。それで、空とゴミ探しを一緒にしたり、地獄ざりがにを釣ったり、たまにはお茶をいれてあげたりする。
空は川縁に降りてすぐ、大きなものが打ち上げられているのに気付いた。ねえこれ、と傍らにいたパルスィに声をかけた時、空はそれを死体だと思った。でも四肢はきちんと形を保っていて、冷えてはいたけれど腐ってもいなかった。それに、角があるし、もしかしたら溺れた鬼なのかも、と考えた。
「溺れてる」
「ああ本当」
くぁ、とパルスィがあくびしながら、足でごろりと、横たわる鬼らしきものの身体を転がした。気を失っているそれが仰向きになって、閉じた目を、半開きの唇を二人に見せた。白い服、小さな角、白と黒の混じる髪の中に、一筋だけ赤い髪がある。身体は小さく、空の主人の古明地さとりも相当小柄だがそれよりも小さい。
「見たことない顔ね。地上の鬼かしら」
「助けてあげようよ」
空はそう言い、身体を河原に引き上げた。それがううんと呻いたので、空はその頬をべしべしと叩いた。力加減が分かっていないから、まるで起こすというよりは叩き殺そうとしてるみたいだった。『殺す気か』と意識があれば言いたいところだっただろうけど、その鬼らしきものは意識を取り戻さなかった。
「ね、助けてあげようよ。暖めないと」
「仕方ないわね」
パルスィは面倒事が嫌いだったけど、空が言うので仕方なく用意をした。家に戻り、たらいを家の前に持ち出して、その中に水を張った。空が担いできた鬼を水に入れて、水の中に制御棒を突っ込んだ。一瞬で煮えた。
「熱ッ! あっつ! 熱い!」
鬼らしきものは一瞬で飛び起きて、お湯の中から飛び出て地面をどったんばったん転がり回って擦りつけた。あまりの熱さの為である。ばたばた暴れながら服を脱いだ。肌に貼り付いて熱いからである。「殺す気か!」そしてついに叫んだのである。空は大丈夫大丈夫と心配してわたわた鬼らしきものの回りを走り回って、パルスィは二人を見てけたけた笑っていた。
「私は救世主として地上に降臨して……」
「ところが地上の奴らと来たら、救世主たる私を信じずに迫害する始末……」
「私は追っ手を得意のガン=カタでバッタバッタと薙ぎ倒し……」
「途中で出会ったみなしごの女の子とのラブロマンス……」
「地上を支配しようとする秘密組織の暗躍……」
「飛来した隕石から生まれた宇宙生物が……」
「プレデターVS私……」
「エイリアンが……」
「十三日の金曜日に……」
「コマンドー、繰り返します、コマンドー……」
きちんと心地よい温度の風呂に入り、パルスィから借りた服に着替えて人心地ついた鬼らしきものは、パルスィから暖かいスープを貰い、ふぅふぅ冷ましながら飲み、飲み終わると、これまでの経緯について語りはじめた。パルスィは途中から飽きてくぁぁと欠伸をし、空は目を輝かせて鬼らしきものの話を聞いていた。いい加減聞いていられなくなった頃、パルスィが話を遮った。
「分かった、分かった。あんたが何者なのかは分かったから、それで、いったい何をしに地底に来たの?」
「何をしに来たのか、だって? はん! そんなこと、あんたらに言う必要はないね」
鬼らしきもの、便宜的に彼女と呼ばせてもらうが、彼女は天邪鬼らしく、パルスィの言葉に逆らった。パルスィは助けてやったのに何よその態度はと溜息をついた。空が身体を乗り出し、もっと話してと言った。
「はん? もっと話せだあ? 嫌だね、どうして私のことを話さなくちゃならない」
「そんなこと言わないで! あなたの話、凄く面白いわ。私、もっと聞きたい!」
「嫌だね。お前に話したって何の得もない」
話して話して、嫌だ嫌だ、テーブルの上を言葉が飛び交い、もうやってられないと言わんばかりにパルスィは二人を襟首掴んで放り出して、二人でやんなさいと扉をバタンと閉めた。
「あいたたた。何だあいつ、乱暴な奴だな」
「そんなことないよ。パルスィはいい人だよ。時々藁人形に釘を刺したりしているけど」
「怖っ。何だそれ。全然いい奴じゃないぞ」
おっとこうしちゃいられない、と彼女は立ち上がった。
「お前なんかと付き合ってる暇はないんだ。じゃあね」
彼女は立ち去ろうとしたが、空は待って待ってと追い縋った。彼女は嫌だね嫌だねと繰り返していたが、空はどこまでもついてきて、これはさっきの展開と同じだ、このままでは埒が明かないと、彼女は唐突に空を指差し、
「あっ空飛ぶ猫の焼死体」
「えっどこどこ」
そうやって空をごまかして、ひょいっと岩の裏に姿を隠した。どうやら彼女はそういう嘘をつくのが大得意のようである。彼女はうまくいったうひひ、やっぱり嘘を言って騙してやるのは気持ちが良すぎて、思わず顔も笑っちまうぜとほくそ笑んだ。前を見ずに笑いながら歩いていたので、何かにぶつかって転んでしまった。
「うわっ」
「痛えなぁ何するんだこの野郎!」
それはしゃがみ込んでいた人だった。彼女は人だと思ったが、次の瞬間に頭からにょっきり突き出ている角を見て驚いた。
「鬼……?」
「てめぇ何するンだこの野郎!」
鬼は一人ではなくて、そこには四、五人の鬼がいて、めいめい麻の袋を覗き込んで何かをしていた。あまりに怪しいし、人気のないところでしているものだから、彼女は怯えて声を上げた。
「あんたらこそ何をしてるのよ」
「俺達かぁ? 俺達は……ゴミの分別をしてるんだよ!」
「ご、ゴミの分別ぅ?」
「ああそうだよ! それがどうしたってんだこの野郎!」
鬼の棲む地底では、ゴミの分別という文化が地上から入ってきていた。だが、地上ではダイオキシンの発生を抑えるためだったり、処理場の問題だったりするそれを理解できず、ただの文化として入ってきていたのである。だが、鬼達の中で、一部の環境論者が環境汚染を減らすためと論じたため、ゴミの分別は一定の効果があると認められていた。だが、鬼がちまちま分別をするのは鬼らしくなく小物の行為だとされ、環境論を信じる者達も、山の中で人目を避けてこっそりとするしかなかったのである。
「鬼の間ではな!良いことをする奴が悪い奴だとされるんだこの野郎!それでお前は何者なんだこの野郎!俺達に文句でもあるってのか!ああん!?」
「な、なんだよ!文句だなんて……」
「ああん!?」
鬼に凄まれて彼女は涙目になった。どうやら彼女は鬼が苦手のようだ。泣くのは嫌だ、泣くのなんて、と彼女は思った。背後から突然轟音が響いて、高熱と圧力が彼女の背後を吹き抜けた。
「うわぁぁ! て、てめぇは地霊殿の地獄烏!」
「いじめ、かっこ悪い!」
「お、俺達何も悪いことしてないのにィーッ」
空が彼女の後ろから現れて、制御棒からギガフレアを威嚇でぶっぱなしたのだった。その威力は岩山を一つぶっ壊してしまった。鬼達が逃げてどこかへ行ってしまうと、彼女はへたり込んでしまった。お空は彼女に、大丈夫、と聞いた。
「れ、礼は言わないぞ」
「うん、そんなのいいよ。大丈夫だった?」
「絶対言わないぞ」
うん、と空は言って、どうやら大丈夫そうだ、と微笑んだ。彼女の方では、こいつは何をしに来たんだ鬱陶しい奴だと思った。さっさとどっかに行かないかな。
彼女はどうやら長いこと、他人から裏切られて暮らしてきたようで、具体的なものは計り知れないが、他人を信じることができない。嘘をつき騙すというのは、騙される側からすればとんでもないことであるが、彼女は騙して喜ぶことを、当然だと思ってしまっているのである。
だから、空に助けられても、それで空を良い奴だと思いなんてしなかった。思えないし、もっと深くで言うと、思いたくはないのである。これまで、騙されて暮らしてきたのだから、他人を信じられてしまうと、自分がこれまで何をしてきたか分からなくなるのである。
「お前、いつまで見てるんだ。あっちに行けよ」
「ううん、そういうわけに行かないよ。お願いがあるの」
空はそう言うと、不思議に思った彼女の目を見返して、ずずいと彼女に迫った。
「ね、あなた救世主なんでしょう」
何をばかな。彼女は呆れた。だけど、空のほうでは、真剣に信じているみたいだった。
「お前、さっきの信じてるのか」
「うん! それでね、私、お願いがあるの」
そう言って、空は彼女の前で語り出した。お空自身のことだった。
「私ね、さとりさまに飼われているんだけど、さとりさまはすごく絶望していて、何に絶望しているのか分からないけど、たぶん、何に絶望してるのかさえ分からなくって、何も分からないんだと思う。こいしさまだっていつもどこか外を歩き回ってて、帰ってこないし、こいし様が帰ってきたってさとりさまが幸せになるかどうか分からない」
私じゃ、と空は言った。
「私がどう頑張ってもね、さとりさまを幸せにしてあげることはできないんだ、って思うと、悲しくなる。こいしさまを連れてくることもできないし、核融合の力があったって、さとりさまを幸せにできる訳じゃない。だからね。あなたに、さとりさまを救って欲しい」
「救う、って」
「救世主なんでしょう。救世主って、皆を助けるんでしょ。だからね、さとりさまを助けてほしいの」
私は、と彼女は呟いた。呟き、空に隠れて、一つ笑みを作った。そうして、また口から出任せを並べ立てはじめた。
「ああ、私は救世主だ。私は凄いんだ。強いものには阿らない。弱きものを助け、強気を挫くスーパーヒーローさ」
「やっぱり!」
「私のことは鬼人せい……いや、聖者と呼べ」
「せいじゃ? それがあなたの名前?」
「ああ、そうだ」
「なんて書くの?」
「聖なる者だ」
「聖なる……者?」
「そうだ。ホーリーマンだ」
「ほーりーまん!」
彼女は聖者と名乗った。一体何者なのか? 賢明なる読者の皆様はもうご存じのことと思うが、その正体は鬼人正邪である。少名針妙丸をそそのかし、輝針城を呼び出して幻想郷に反旗を翻したものの、巫女に阻止されて隠れ潜むうち、うっかり川に落ちて流されてしまったのである。
正邪は今、空を見て、悪巧みを働かせはじめた。以前は針妙丸を利用した。針妙丸の力が、至強を倒す至弱の力として、適していたからだ。いま、正邪は、この目の前の妖怪烏に、似たものを感じていた。強い力を感じるのに、それに裏打ちされた精神的な強さがない。あの針妙丸と同じ感じだ。
この者を利用してやろう。鬼の棲まうところということだけが不安要素だが、地底という場所はむしろ、抗うのに良い場所だ。虐げられた者達が力を蓄え、噴き上がるのに良い場所だ。
こいつの力を利用してやる。
「それで、お前の名前は?」
「わたし? お空。違った。霊烏路空。空と書いてうつほって読むんだよ。でも、皆はお空って呼ぶよ」
「そうか、じゃ、お空。お前のさとり様を助けてやる。だがな、それには時間がかかる。それに、さとり様一人を幸せにしたところでだめだ」
「どうして?」
「この地底は、空気が澱んでいる。皆が悪い空気を作っているんだ。その空気を変えなきゃならない。皆を幸せにしないといけない」
「そうなんだ……」
「だけどな、私は実は、それをするためにここに来たんだ。皆に救いをもたらすために」
「そうなんだ! じゃあ、さとりさまのことも、助けてくれるのね」
「ああ、もちろんさ……だけどね、地上で色々あったせいで、私の力は弱ってしまっている。力が少し足りないんだ。私一人じゃどうしようもない。それでね、お空。私を助けてくれないかな。私が皆を助けてあげるのを、手伝ってほしいんだ」
「うん! いいよ!」
空はあっさりと答えた。正邪はあんまり素直だから、逆に拍子抜けした。
まあ、これで、新しい叛逆への第一歩を踏み出したわけだ。正邪はこっそりと、心の内だけでほくそ笑んだ。
空と正邪が最初にやったことは、住処を手に入れることだった。空に案内させ、鬼達の住まいの中でも最下層、出来るだけ人目につかない、貧民窟の片隅のぼろ屋にこっそりと潜り込んだ。正邪はぼろを纏い、目立たないようにそこに忍び込んだ。表向きは、空の友達を、理由があって棲まわせておくという名目である。住処を確保すると、正邪は空に食料を運ばせた。正邪は放浪生活を経験していたから、悪食で、地獄ざりがにでも地獄魚でも地獄サラダでも地獄伊勢えびでも地獄牛たんでも何でも食べた。正邪は住処にこもりながら、これまた空に木材を用意させ、木槌とのこぎり、物差しをふるって、何かを作り始めた。
「聖者、今日のご飯だよ」
「ああ、悪いな」
「ね、こないだから、何を作っているの?」
「ああ、これな……それより先に、頼んでたものは用意してくれたか?」
「うん。地上の何たらって言う職人さん……聖者の渡してくれた手紙を見たら、すぐに用意してくれたけど。これも、何なの?」
何たらという? 正邪は不安を感じたが、空が持ってきた包みを見て、まあ何とかうまく行ったようだと思った。この獣、案外使える。正邪は空の前で、その包みを解いた。木箱に収まったものを外に出した。それは、正邪よりさらに一回りほど小さい、日本人形だった。
「わ。かわいい……」
「あの職人は、腕があるのに認められなかった職人の幽霊でな。昔のコネがあるから、作ってもらったんだ」
日本人形は着物を着ていて、瞳を閉じていて、正座をして、手を膝の上に行儀良く揃えて乗せていた。
「欲しいな。ね、正邪、それさとりさまにあげたら喜ぶよ」
「だめだ。何のために用意したんだよ」
これをこうやってな、と、正邪がしばらくこもりっきりで作っていた台座の上に置いた。台座は横幅と奥行きが1メートル半ほど、高さが80センチほどある。台座の上には座布団が置かれていて、そこに日本人形が座る形になる。それでな、と台座をスライドさせると、箱細工のように、台座が開いた。そこに正邪は足を入れ、横になった。
「これで私が入る。それで、喋ってるように見せかけるんだ」
「どうして? 聖者が自分で話せばいいじゃない」
「お空、ここにいるのは鬼達だ。わたしみたいなちっぽけなやつが救ってやろうだなんて言ったところで、嘘っぽくて誰も信じてくれない」
「そんなことないよ」
「お前は鳥頭……いい奴だからな。だけど、そうじゃないやつもいる。分かるだろう? 魔理沙とか霊夢とか」
「うん。あいつらはさとりさまを苛めた悪いやつだ。あ、でも、お煎餅とかお茶とかくれるし……」
「ええい、ややこしい話をするんじゃない。とにかく、私はいつだって人助けをできる訳じゃない。鬼や人と同じ、飯を食えば眠るし、同じ生活をするんだ。同じやつらなんだ。同じやつに、皆が救えると思うか?お前ならどうだ、お空、お前がもう一人いたとして、さとり様を幸せにできるか?」
「ううん、できないと思う」
「だろう? こいつは皆とは違う、自分達とは違う何かができる、って思わせないといけないんだ。だけど、姿を現さないわけにもいかない。それで、これさ」
「でも、人形は喋らないよ」
「今これを作ってる」
そう言って正邪は障子紙を貼った木枠を取り出した。それを人形の前にあてがい、後ろから蝋燭の火をかざした。障子紙に、座った人形の影が、ぼんやりと浮かび上がった。
「どうだ、これなら座っているように見えるだろう。それに、何か不思議な雰囲気だろう? こういうのと、皆を救う言葉で、皆は救われるんだ」
「うん! それ、聖者が作ったの?」
「ああ、今作ってる。四方に作らないといけないからな、もう三枚は作らないと。障子紙、足りなくなったら、また仕入れてきてくれるかい」
「うん! もちろんだよ!」
かなり怪しい正邪の説明だったが、空は疑いもしなかった。生来がそういう性質であるし、正邪はこの数日というもの、頑張って台座や枠作りに精を出しているものだから、空も疑いを持たなかったのである。
「それでな、お空。もう一つ頼みがある」
「うん、いいよ。なあに?」
そう言って、正邪はにやりと笑った。
「そろそろ表舞台に出る時だ。だけどな、いきなり皆に言ったっていけない。噂を流すんだ。いいか、お空。鬼にじゃないぞ。お前の友達の、獣の妖怪に、人を救ってくれる人がいる、と言うんだ。その人は困っている人を助けてくれる、怪我を治してくれる、何でも悩み事を聞いてくれる、とな。これは大事なところだぞ。いいか」
「うん、うん」
「皆に言うんじゃない。半信半疑に、そういうのがいるらしいけれど、本当かな、みたいな感じに言うんだ」
「半信半疑に、そういうのがいるらしいけど、本当かな、みたいな感じだね」
「そのまま言うんじゃないぞ。……ああ、それと、お前のさとりさまは、しっかりと確実に救ってやる。だから、まださとりさまに言うんじゃない、もし鬼達を救ってやれなかったら、お前のさとりさまどころじゃないからな」
「うん! 分かったよ!」
「よし。行け。明日の飯も頼むぞ」
空が窓から飛び去ってから、大丈夫かな、不安だな、と思いながら、正邪はまたのこぎりを手に取った。
鬼を利用する。というのは、正邪にとっては、賢い方法ではない。正邪自身、鬼が苦手なのもあったが、鬼は人より力が強い。つまり、それだけ優れている存在だ。優れている存在はむしろ、弱者を虐める存在だから、正邪にとっては倒すべきものになる。
しかし、それも昔のことだ。今や鬼は地底に追いやられ、外の世界に跋扈している人の数に比べれば、鬼の数は少ない。
幻想郷において、数に勝るわけでもなく、力も弱い人間が、どうして幻想郷の表舞台でのさばっているのか。今、地底で安寧に、自由気ままに暮らすことに馴染む鬼が多数とは言え、そこに不満を持つ鬼は絶対にいるはずだ。正邪はそれを利用することにした。
それに……鬼を利用して、鬼の指導者となり、指先でこき使い、へいこらさせてやるのも気持ちよいではないか。正邪はその時のことを思うと、笑みで顔が歪む。笑いが抑えられなくなりそうになる。
空が流した噂が、少しずつ広まり、人を呼び、一人ずつ、一人ずつ、正邪の住まいを、貧民窟の鬼達が訪れるようになった。正邪得意の話術で、騙し、もっともらしく諭し、誑かし、最後には満足させてやる。物は最初はやらなかった。小金でも、ほんの少しの食べ物でも、くれてやれば、それ目当ての者しか来なくなるからだ。正邪は聖者として振る舞った。病や怪我をした人間、思い悩み心を病んだ人間を、救うという名目で。地底に救いをもたらす、救世主として。噂は空の広めるものに留まらず、鬼達の口を介するようになった。
信仰心の薄い鬼達に信仰を教えてやると、理由もなく聖者を崇めるようになっていった。何をするでもなく、聖者は少しずつ鬼達の間で知られはじめた。
日に来る信者が二人三人ではすまず、一度に複数の人間を入れる場所が必要になり、地底に落ちてきた、古い山寺の本堂に信者を入れるようになった。その段階になると、いんちきな薬を売った。妖怪は精神的な生き物だから、ただの水を薬だと思えば、理由もなく快復する。そうやって名声を得るとともに、金を集め、集まった金で食料を買い込んだ。そしてその食料を、飢えた鬼に与え、また名声を増やしていった。商売をはじめたいと言えば金を貸してやり、働く場所がないと言えば正邪のところで働かせてやった。鬼達は正邪を崇めるようになり、その名声が高まり、いくつもの蝋燭に照らされ、闇と光が混じる影として人々の前に姿を現すだけで、人々は幸せになるようになった。
くっくっく、くか、くは、うは、ふ、はははは!
正邪は笑いが止まらない。以前はあんなに恐れていた鬼が、今や正邪の目の前で頭を垂れ、救いを求めてくる。正邪にとってこの世の春そのものだった。
「笑いが止まらんねぇ。うまく行きすぎて怖いくらいだ」
正邪は奥座に座って、一段下にお空を座らせるようになっていた。盃を差し出すと、そこにお空が酒を入れる。そういう作法にも慣れていた。
「聖者はすごいね、もう皆聖者の噂で持ちきりだよ」
「くふふ、そうか。お空、お前の方はどうだ?」
「うん、友達の妖怪達も皆聖者のことを信じてる。ここだけじゃなくて、地獄の旧都にも広まると思う」
「うん、良し。ならもうしばらく、人々に救いを与えよう」
くかかか! 正邪はもう一つ笑いを上げた。
「聖者、今日はさとりさまのカーヴから、お酒を貰ってきたんだよ」
「おう! ワインかい。それはいいや、飲もう飲もう。おい、お空、お前も飲みなよ」
うんうん、と空は頷き、ワインの瓶の頭を手刀で断ち切ると、用意したグラスを正邪に渡し、注いだ。お空のグラスには正邪が注いだ。
「ふん。酒がうまい。こんなうまい酒を飲んだのはいつぶりかね」
「うん! さとりさまはいいワインを沢山持ってるからね」
そういうことじゃないんだけどね、と正邪は思う。このお空というのは純真だ。純真に過ぎて、誰もが信用する。最高の嘘吐きとは最高の正直者というやつだ。多少危なっかしいところはあるが、正邪にとっては最も使い手の良い道具だ。
「それにしても、聖者は凄いねえ。言葉をかけてあげるだけで、皆が救われるし、聖者の薬は良く効くって、皆が言ってるよ」
「ふん。簡単なことさ……」
そう言って、正邪はグラスを傾け、口の中にワインを入れた。香りが口の中に広がった。
「私は嫌というほど見てきたからね。世の中がどういう嘘で回ってて、どうすれば世の中がうまく回るのかをね……」
具体的には、ごく少数の中で尊敬と権威を得、その下の者にははっきりとした姿を見せない。そして、その少数の中での権威を確固たるものにし、下の者には生かさず殺さずの得と損を与える……圧倒的に奪い、そして少しの施しを与える……そうすれば、大半の者は付き従う。概ね、そういった処世術だった。正邪はその権威を失い、頂点から奥底へと落ちる者を何度も見た。そして、最下層の者が天へとのし上がるのを……何度も見てきた。
そう。何度も見てきたんだ。
今度は私が上へと行く番だ。のし上がってやる。
「?」
正邪が不思議そうな顔をしたので、おっと、と正邪は口をつぐんだ。幸いにも空は特に疑問を持ったわけでもなさそうだった。
「……まあ、私ほどになれば、指先でちょいと秘孔を押すだけでどんな怪我や病気も治すことができる」
「ほんとに! すごい!」
「それに、どんな拳法も誰より早く習得することができる」
「すごいすごい!」
「秘孔・殺活孔!」
「うわー! 何だか分からないけどすごい!」
正邪が指先であたたたたとふざけた声を上げると、うーわーと空が転げ回ってきゃわきゃわとはしゃぎ声を上げた。正邪はふははははと笑い声をあげた。グラスを再び持ち上げて、口元に運んだ。
「だけどね、これからさ。本当に面倒なのはね……」
「そうなの?」
「ああ。だが、まあいいさ。今は忘れておくといい。じゃあ、そうだな、今度は私が戦闘機械を操る傭兵だった頃の話をしてやろう」
「わ! 本当!? 聖者は本当、色んなことをしてきてるんだねえ」
その日は朝まで、正邪は空にホラ話を話して聞かせ、空の方では正邪が身振りと手振りで盛り上げるたびに、真剣に聞き入ったり、転げ回って喜んだり、いいぞやれと腕を振ったりした。しまいには酒も浴びるほど飲んで、二人ともひっくり返って眠ってしまった。
正邪と空は順調に活動を続けていた。だけど、ついに面倒が起こった。聖者に対する悪い噂が生まれたのである。『何者なんだ?』『一体、何が目的なんだ?』という論調。それは貧民窟では生まれ得ないものだった。旧都に入り込んで、その論調が生まれはじめたのである。貧しく、不満足な者達は救いに飢えているから、その心の中に聖者はあっさりと入り込むことができる。だけど、旧都の者は、商売をしたり、金を持っていたりするから、元々生活の基盤がある程度ある者ばかりである。それを、ひょっとしたら、新しく現れた聖者という存在は、安定した生活を、脅かすのではないか、という不安である。それらが現れ始めたのだった。
正邪はその手の噂を集め、敏感に感じ取り、新しい手を打った。一つは噂であり、一つは筆であり、一つは金だった。正邪は旧都の外れに新しい拠点を構えると、生活基盤のある信者に、口コミで噂を広めさせ、また、旧都でも比較的貧しい者を狙って聖者の噂を語った。失業者、娼婦、独り身の男女など。旧都でも、救いを求めている者はいる。そして、同時に正邪はガリ版刷りのビラをつくり、少しずつ配った。ビラもまた、集客効果も高めたが、反対に聖者の存在をいたずらに広めてしまう一面もあった。そして、最後に金をばらまいた。正邪の元には、ある程度の金が転がり込んでいた。活動をすればそれも満足なものではないが、切り詰めてうまく使った。正邪はここに至っても、食事は空の差し入れる地獄マツタケなどでまかなっていたのである。節約というよりは、目的のためだった。正邪は自分が楽しむことで、自分が萎えてしまうことを何よりも戒めた。ともあれ、金を使い、聖者に対して半信半疑な者に、聖者を信じるように、少なくとも反対活動をしないように、勧めた。特に町単位での実力者を中心にして配った。反対する者がいても、年長者や実力者が聖者を認めていれば、表だって動けないものである。時には、聖者に対して疑い、反対活動をする個人にもあてがった。
だが、それでも、聖者を疑い、絶対に抗おうとする者への対応も、正邪は考えなくてはならなかった。
「お空! それを着な」
正邪は、今日も正邪のところに着たお空に、布のかたまりを投げつけた。
「な、何、いきなり、何をするの」
お空が見ると、正邪は奇妙な格好をしていた。いつものスカートではなくて、パンツスタイルで、上下真っ黒な、洋装をしていた。真っ黒なスーツに身を包んでいて、首元にはネクタイも巻かれていた。今空に投げたのも、同じ服のようだった。
「いいから、着るんだよ。今からお出かけだよ」
「ええ? 何するのぉ」
そうは言いながら空は服を慌てて脱ぎ、スーツに着替えた。胸が小さくて入らなかったり、お尻が入らなかったりしたけれど、頑張って押し込んでなんとか着た。ぴしっとしたスーツ姿になると、空は窮屈だと思った。スーツで二人並び、畳に革靴で立つと、奇妙な二人組だった。
「聖者、変な格好」
「お前もだよ。これもつけるんだ」
そう言って正邪はサングラスをお空に投げた。聖者がそれをかけると、目元が隠れて、ますます怪しい二人組になった。
「せ、正邪、見えないよお」
「鳥目か。ふん、まあいい、じゃあ私がつけろと言ったらつけろ」
うん、と頷き、空はサングラスを胸元にしまった。豊満な胸はスーツでも隠しきれずにたっぷりと主張していた。
窓からこっそりと飛び立った正邪は、屋根を踏んで飛び抜け、旧都へと向かった。正邪のアジトは相も変わらず貧民窟の片隅である。旧都に向かいながら、空は正邪に声をかけた。
「ねぇ、どこに行くの」
「旧都の支部だ。私の正体を疑い、私を殺そうとするものがいる」
「えぇ!」
半分は嘘である。殺す、だなんて、鬼でも、そこまでの明確な意志はない。ただ、聖者の存在を疑う者であるのは間違いない。それらの活動も押さえていた正邪は、支部に押し入る襲撃計画の情報も、事前に信者から聞きつけ、対策をしていたのである。
「私が説得する。けれどね、お空。それも聞き分けずに、襲いかかってくるかもしれない。そうしたらお前の出番だ。ぶっ飛ばしてやれ」
「うん!」
支部の屋根まで来た。狭い路地に、三、四人の鬼が、一纏まりになって、支部の裏口をごそごそと探っている。下を探り、サングラスをかけろと空に指示をした。二人して、鬼達の前に飛び降りる。
「お前ら!」
驚いている鬼達に、正邪は堂々と大喝した。びびるな、堂々としろ、と正邪は自分に言い聞かせている。私に力はない。だけど、今の私には空がついているんだぞ。いざとなれば空が助けてくれる。
もし、という怯えはいつでもあった。空の気が変わって、私に襲いかかったらどうする?いや、信じるんだ、私が何のために、空につまらないホラ話をして、普段から仲良くしていたと思っているんだ。それに、空は聖者を信じ切っている。怯えはいつでもある。どうして空を信じているんだ? だけど、それは今更のことで、手を打ち続ける他に方法はない。それに、何より、今は怯えている時じゃない。目の前に私を憎む鬼がいるぞ。鬼がいる。悪意の塊だ。
そう思ってしまうと、正邪はぜんぜん、駄目なのであった。鬼達でも、聖者を慕い、自分を崇める者ならいい。だけど、正邪を憎む鬼となると、以前の怯えが戻ってきて、正邪を支配してしまうのだ。用意していた次の言葉も出ず、身体は震え、冷や汗が身体を濡らした。
何だ、と思っていた鬼達が、にやにやと笑い始めた。正邪はそれを、見てもいない。正邪を庇うようにして、空が歩み出た。
「聖者を、信じろ!」
拳。それだけだった。聖者を信じろ、だなんて、乱暴な言葉と、拳、それだけだった。
「聖者を、信じろ!」
「な、なんだこいつ!」
「聖者を信じろォーッ」
説得力も何もない。だけど、がむしゃらに、空は声をあげ、そして殴った。正邪は、それが自分の名前を呼ばれているようで、嬉しかったのだ。嬉しい? 何を馬鹿な、と正邪は自分を叱った。あいつは、私のついた嘘を、嘘の聖者を信じているだけなんだぞ。しかし、空の思う聖者は、正邪の思う聖者とは違った。皆が崇める聖者を、空は実感としては分かっておらず、空が信じている聖者は、いつでも空の目の前にいる聖者だった。正邪そのものを、名前として、聖者だと思っているのだ。
「聖者を信じろ! 分かったか!」
「わ、分かった! 分かったから!止めろォーッ」
空は鬼達をボッコボコにして、鬼達が逃げていくのを見送った。腰に手を当てて、ふん、と鼻を鳴らした。それから振り返って、正邪を見た。
「大丈夫、聖者?」
「……ああ。良くやったよ、お空」
それから、手が震えているのを自覚して、努めて震えを消し、空の方をぽん、と叩いた。
「これからも頼むよ。私に反対する奴がいたら、その調子で殴りつけてやってくれ」
「うん! 任せておいてよ!」
正邪は、ここは自分でないといけない、と思っていたのだ。反対する者を叩き伏せるのは難しい。言葉でもダメなら、ある程度殴りつけてやる必要がある。だけど、誤って殺してしまえば、悪い噂が立つのは免れない。反対勢力にますます意志を与えてしまう。だからといって、そいつらをつけあがらせれば、そいつらに丸め込まれた奴が、反対勢力に加わるかもしれない。口が立って、力をうまく使える奴。正邪にはそういう手駒はいなかった。だから、自分で行くしかないと思った。
だけど、空の声を聞いて、自分の中で何かが吹っ切れた。空は本当に聖者を信じている。それに、空は鬼を殺したりなんてしないだろう。反対勢力に聞く耳を持たず、殺しもしない、空は適任だった。
「お前に任せるよ。お前に向いてるみたいだ。力仕事はな……」
正邪はだけど、同時に寂しさを感じていた。お空がどんなに聖者を信じたって、それは正邪ではないのだ。正邪のついた嘘なのだ。寂しい、だって?馬鹿なことを。正邪は自分の心を疑った。寂しい、と思っても、自分の感情さえ、正邪は素直に信じることができない。嘘つきめ。嘘つきめ。
だが、ひとまずは良い。空がここまで本気で聖者を信じていると分かったなら、それは良いことだ。次の段階へと進めよう。心持ち落ち込んでいた正邪の心も、考え、歩みを進めるたび、次へと進む活力が満ちていった。
表だった反対がなくなった。聖者の活動が始まって時間も経つと、旧都でも何となく、聖者の存在が馴染みはじめた。なんとなく、よく分からないけど、聖者ってのがいる。特に興味のない人間からすれば、拒否感でもない距離感。旧都の雰囲気がそんな風になったのを待って、正邪は次の段階を始めた。
革命の匂いである。地底には支配者がいない。向けるべきフラストレーションの先がない。正邪はそれを、地上へと向けた。元より、そのために、鬼の力を使うつもりだったのだ。
いわく、鬼が病に苦しむのは何のためか。飢えるのは何のためか、見下されるのは何のためか。
それは、地上にいる人間のためだ、と聖者は言った。元より人肉を喰らっていた鬼が、獣の肉だけでは栄養が足りない、渇望する、と。光がない地下では、活力がなくなる、と。寒さに震え、植物は育たず、味のないものばかり喰らわねばならない、と。そして狭い地下で暮らしているから、家は狭く、遊ぶ場所もなく、何もない、と。
地上を目指せ、と聖者は言った。鬼達よ、地上を目指せ。地上に出て、人々を喰らい、地上を鬼の天下にするのだ、と。
革命だ。
革命だ、革命だ。その響きは、地を鳴らして、地底に広まった。革命だ、革命だ、と叫ぶ声が道々に聞こえ、歩き回って聖者の言葉を、信者達が叫んだ。
革命だ。支配者面している人間を追い落として、私よりも下の立場にさせてやる。馬鹿にして、蔑んできた私を見上げて這いつくばらせてやる。
正邪の野望は一定の熱量を超え始めた。正邪は手綱を引き、信者の活動をうまく抑えた。地上では人間が多数いる。今の勢力では力が足りない。人を支配するには、地底の鬼が一丸にならなくてはならない。争いはせず、皆聖者を信じるようにするのだ。正邪の熱は、今や、地底に広まり、地上へと吹き出す時を待っているのみとなった。
「聖者ですって?」
一方、ここは地霊殿。引き籠もり生活をしていたさとりにも、ようやく聖者の噂が届いた。ことに、この数ヶ月はアイデアが固まったとかで、煙草と酒漬けの執筆生活を送っていたので、より聖者の噂が届くのが遅れたのである。ちなみに、その原稿は『ラノベみたい。どっかで見たことある設定ばっかり。セリフが長い。ページの下半分がメモ帳みたい』とお燐に酷評をくらい(本人はもっと優しく言うつもりだったが、心の声がだだ漏れてしまった)、ボツになって封印された。さとりがお燐からその話を聞いた時、さとりは珍しく訪れたパルスィとお茶会をしていた。
「実はそうなんです。最近、旧都では聖者と名乗る者が現れて、その信者は革命だ革命だ、地上だ地上だとさざめいていて」
「ふうん……」
テーブルに座って語りながら、さとりはお燐の話を聞きながらお茶を傾けた。その主人の顔を見ながら、お空がその片棒を担いでいるなんてとても言えませんニャーという顔をしていた。
「何? お空が……」
「あっ! 隠すつもりはございませんでしたのニャ! バレたらお空が処分されるとかそんなことは全然考えてませんでしたのニャー!」
何をやってるのよあの子は、とさとりは頭を抱えた。
「聖者ねえ。そう言えば数ヶ月前に、お空と一緒に、川から落ちてきた奴を拾ったわね。そのとき救世主がどうとか、言ってた気がするけど……」
聞き流してたから知らないけど、とパルスィがお茶を飲みながら言い、お燐が、お空がこそこそ外出するようになったのもその頃からニャ、と言った。
「パルスィ、あなた、知ってて黙ってたの」
「まさか。旧都にもあんまり行かないし、聖者にも興味なかったから知らなかったのよ。私、一人だし。それに、川から落ちてきた奴と繋がるなんて思いもしなかったし。……さとりったら、全然来てくれないし。もっと私のところに来て話してくれたらその話だって伝わったかもしれないのに……ぶつぶつ……」
さとりはパルスィの心を読んでもてあそびながら、それはともかくとして、と考えた。少し考えて、即座に判断をすると、お燐に言った。
「お燐、その聖者とかいう奴のところに案内しなさい。そいつの魂胆を探るわ」
さとりが聖者のところを訪れた時、信者達はさとり妖怪だ、と騒ぎもしなかった。さとりはさとりで、一目置かれているから、皆が遠巻きにする。お陰で、さとりが来ることが、聖者に悟られずに済んだ。
聖者とその信者のいる一室は、二十畳もある広い一室で、聖者が前に座り、聖者の後ろに蝋燭が立ち並び、その前に信者がいた。信者達は前の者は座り、後ろの者は立って、聖者の話を聞いていた。蝋燭の揺らめきに合わせて影が揺らめき、その後ろからくぐもった、何とも言えない声が信者のところに届くのである。皆が静かに聞き入りながら、しかし静かな熱意に燃えているのは、奇妙な光景だった。
「……どういうつもり……」
さとりは、後ろの方に立っていた。ここからでは雑音がうるさくて、聖者の声が聞こえない。革命だ、革命だ、聖者様、聖者様、ありがたや。ああ、うるさい。
聖者の話が一段落し、希望する者が、聖者に話す流れになった。いつものことで、信者は何があった、これが原因で困っている、という話をする。正邪はその悩みごとを聞いては、動かせる者に指示をし、ひっそりと解決できるものは、叶えてやるのである。皆、話をしたがるので、時間が区切られていて、一定の時間になると終了になる。その日も一人一人前に出て、話を始めた。さとりはその話を聞きながら、前へとゆっくりと歩み出て行った。人を掻き分け、よけなさい、通しなさい、と囁きながら、小さな身体を、前に送った。やがて、気がつくと、皆の前にさとりは立っていた。僅かなささやきが広がった。鬱陶しい空気だ、とさとりは思った。ある程度、慣れている。
「聖者様。お話がございます。……正邪、様」「うむ。聞いてしんぜよう」
「正邪様は、一体何の目的でこんなことをなされているのですか」「決まっておる。皆を救うためだ。皆を幸せにするためだ」
「正邪様は、一体誰の頼みで、こんなことをなされているのですか」「頼み……とな。ふむ、それは神……であり、そして、我を求める鬼達の頼みじゃ。彼らが我を求めたのじゃ」
「正邪様をお慕い、手伝っているのは一体何者ですか」「我を慕う者? ……ふむ。妙なことばかりを聞く者じゃ。それは言わずとも、ここにおる皆であり、我を信じるもの全てじゃ」
「最後の質問でございます。正邪様は、いったいどうして、鬼をお嫌い、お恨みになるのでございます」
さとりは台座の向こうで、正邪が息を飲むのを感じ取った。
「聖者様は……正邪様は、一体何故に、鬼を騙し、鬼を我が為に利用されますか。正邪様のお心を答えられよ」
正邪は息を飲んだ。汗が止まらない。こいつ、何者だ。さとりさま。さとり、という名。しかし、聖者が嘘の名であるように。さとりが真実その通りの名であることなど、正邪は考えもしなかった。覚り妖怪。
「私はこれで失礼いたします」
さとりが去り、信者と聖者が残されると、誰も何も言わなかった。
表向き、何も起こらなかった。あの時集まっていたのは信者の一部で、その一部もなかったように振る舞った。皆さとりを怖がっていたし、さとりを嫌っていた。それに何より、聖者よりも、聖者の言葉に動かされた、自分の心を疑うのを恐れたのである。さとりの言葉が真実であるなら、聖者を信じた自分達の心も嘘なのである。聖者も、聖者を信じる者の心皆が嘘であるなら……何を信じれば良いのだ。表向き、皆は聖者を信じた。何事もなかったように。だけど、さとりの言葉は噂になって広がり、鬼達は皆、信じないようにしながら、しかし、疑問を抱えていた。聖者様の言うことに間違いはない……だが、いや……まさか……だれも口にはしないまま、その疑惑は確かに広がった。
それは正邪も同じだった。あの時の声は、確かに正邪の心を読んでいた。だが、動きはなく、信者達の心にも大きな動揺はない。さとりが正邪の本心を知ったとしても、今更どうこうできるものか。正邪は決起を早めた。さとりが何かを企んでいるなら、それより先に動かしてやる。
「正邪、どうしたの」
「……お空、何でもないよ」
そう嘘をつく時、正邪は誰よりも優しい顔ができるのだった。正邪と空は二人だった。正邪と空はいつも二人で、狭い部屋で、酒を酌み交わしていた。だから、空は正邪のその笑顔を嘘だと思った。
「正邪。嘘はやめて。全然大丈夫じゃないんでしょ」
「いいや。大丈夫さ、これからが本番なんだ。地上に出て、鬼達を解放するんだ。皆、幸せになるよ」
「正邪……」
空は何も言わなかった。空が沈痛な表情になったのを見て、正邪は何かを話そうとした。空を喜ばせるにはそれが一番いいと知っていたのだ。だけど、沈んでいる空に、これ以上嘘をつきたくない気持ちになった。それで、正邪は昔語りを始めた。話しているうちに、口が回って、色んな嘘がつける。いつもそうだった。
「お空。いつもは、私の話をしてきたが、今日は物語の話をしてやろう。嘘の話。フィクションの話だ。もしも、そんな奴がいたら、の話さ」
「うん……」
「そいつは鬼と人間の、中間のような存在だった。鬼みたいな見た目なのに、力が弱い。人間と同じで力がないのに、角がある。そんな奴だから、鬼からは弱虫といじめられ、人からはお前は違うと仲間に入れてもらえなかった」
「うん」
「だからな、そいつは可哀想な奴なんだ。私がもしそんな奴だったら、生きてるのも嫌になるよ。死んだ方がマシだよな。だけどな、そいつは死ぬ度胸も無かったんだよ」
「うん……」
「そいつは人からは仲間にしてもらえないから、鬼のところに暮らしていた。だけど、毎日苛められるのは変わらないんだ。脅され、殴られ、身ぐるみをはがされ……嫌になってどこかに行ったって、どこでも同じだ。人には混じれないから、そこらの鬼に混じる。そうしなきゃ、生きていけなかったんだ」
正邪は語りながら、どこでなんちゃって、と言おうかと思った。だけど、止まらなかった。これは実は私の話なんだ、私はそんな生い立ちだけど、革命に成功して、救世主になって世紀末救世主でモヒカンがヒャッハーなんだ。そう言おうと思った。だけど、両方嘘で本当だった。本当の生い立ちを言うのが嫌なら、革命が成功したと嘘を言うのも嫌だった。だけど、革命が成功すれば、それは本当のことになる。生い立ちは不幸だけど、そいつは幸せな奴なんだと語れなくなる。どうすればいいのか分からないまま、正邪は語り続けた。
「どこでだって一緒なんだよ。だからな、そいつは決めた。自分を苛めたやつらを見返してやるって。だけど、強い鬼を倒すことはできないんだ。絶対にできない。だから、人間を恨むようになった。人間は大して何もしちゃいないのにな。だけど、人間のほうが倒しやすそうだから、人間を恨んだんだ。鬼だって恨んじゃいるが、表向きじゃ恨んでない風な顔をした。勝てっこないもんな」
「正邪……」
「そいつは弱い奴とつるむようになった。弱いやつ。道具だったり、弱い妖怪だったり、力のない幽霊だったりだ。そういう奴らとつるむのは気持ちよかったよ。私を見下したりしないし、何より弱いもんな。私が見下していたって、逆らったりしないし、もし逆らってもひねり潰してやれるもんな!そいつらと付き合うのは楽しかったよ。仲間がいなくたって仲間のふりしてたら良かった。そいつらったら最高だ、こっちは見下して仲間だなんて思っちゃいないのに仲間のふりしてへらへら笑って――」
「正邪!」
空が叫び、正邪は空を見た。へらへら笑いを浮かべて空を見た。
「何、怒鳴ってんだよ。これは嘘の話だぜ。本当の話じゃない」
「……正邪……」
「お前を楽しませようと思ってやってんだろう!」
「全然、楽しくないよ……そんな話、面白くない。嘘だよ……」
「嘘だって!私が嘘だっていうのか! お前も私を見下してるんだろう! 少し力があるからって……!」
「正邪!せいじゃ…!」
空は正邪の肩を掴んだ。凄い力だった。放せ! と喚くと、その声に怯えて、空は正邪を放した。正邪は空を睨んだ。
「お前、どうせ、私のことなんて信じちゃいないんだろう……いいさ、私だってお前のことなんて信じちゃいない。お前が信じてるのは、私のことじゃなくて、聖者のことだもんな。分かってるよ。お前はお綺麗な聖者が好きなんだ。いいさ。お前なんてもう必要ない。もう、革命はできるんだ。そうだ、革命は成功するんだよ。お前なんてもういらない。は、いらないさ、お前なんて。私は一人で充分さ。どっかに行け。行っちまえよ」
「どうして……」
「どうして、だって」
正邪は唇を歪めて、ひゃひゃひゃと笑った。楽しそうに笑った。
「私は正邪のこと、そんな風に思ってないのに」
「嘘だね。お前は私のことなんて何も知らない。私の言うことをほいほい信じてさ。馬鹿みたいだよ。それで、嘘の話をしてお前が喜ぶの見て、馬鹿にしてたんだ。お前、ずっと馬鹿にされてたんだよ。ばっかみてえ。ふは、あはは! ははは、は!」
「知ってるよ……」
「何だって?」
「知ってる、全部、知ってるよ。さとりさまに聞いたから……」
正邪が何だと、と叫ぼうとした時、正邪に連絡が入った。旧都で妙な動きがある、と。
旧都では乱闘が起こっていた。革命、ではない。乱闘である。名前通りの乱痴気騒ぎだ。酒を飲む者もいれば、それを見て喚き、賭をする者もいた。正邪は市街に入ると、どこでもかしこでも乱闘が起こっているのを見た。その暴力の匂いに怯え、正邪は胃の中の物を吐いた。自分の出したものの上にうずくまりながら、路地を歩いてきた鬼が、大喝するのを聞いた。
「ガス抜きだ! おら、お前ら、せいぜい暴れろい! 殺しだけはするんじゃねぇぞ、勇儀のお達しだあ!」
正邪は一点を睨みながら、憎しみと共に呟いた。「ガス抜きだと……」正邪に追いついた空が、正邪の肩を掴んだ。
「正邪、もうやめよう! もう、おしまいだよ。全部、おしまいだよ……」
「これでいいのかい、さとりさんよ」
「ええ。充分よ」
地霊殿で、星熊勇儀、古明地さとり、それから何故か水橋パルスィも集まっていた。
「聖者の話は知ってたが、人に迷惑をかける訳じゃなければ放っとこうと思ってた。だが、あれよあれよと言う間に広まって、地上に出るだあ革命だあ言うじゃないの。片棒をおたくのペットが担いでると来てる。監督不行届ってやつじゃあないの」
「それについては反論の言葉もなし。解決に尽力したでしょう」
正邪の声を聞き、全てを把握したさとりは、全てを解決するために動いたのである。まず、空の使った動物の噂のラインを、お燐を使って掌握し、逆方向に利用……聖者は嘘だ、嘘を言っていると流した。同時に、勇儀には有力な鬼達のツテを使って聖者の嘘を広め、そして、不満のある鬼の、溜まったフラストレーション、その毒抜きを、仕上げとして依頼したのだった。
さとりの言葉、聖者は鬼を憎む者だ、利用している……という噂が広まっていた効用もあった。乱闘は夜には収まり、そして聖者の信者はまた暴れるかもしれないが、聖者を信じない者達によって、抑えられるだろう。これから何度かの乱闘はイベントになり、そしてやがては収まるだろう……。
「それで、首謀者は誰だァ? お前さん、知ってるんだろう」
勇儀がずい、と身を乗り出し、さとりを見た。
「首謀者の名前を教えてもらわないと。色々と商売の邪魔にもなったし、お礼もしないといけない」
「その必要はないわ」
「あんだと?」
「その必要はない。私の責任において対処します」
「それじゃ収まらない。この件で損をした奴もいるし、何より騙されてたって怒り狂ってる。どうしろって言うんだ?」
「そこらは腕の見せ所、よ。これまで聖者の扱ってた商売の店屋や拠点、全部あなたに引き渡すわ」
「私に渡されたって困るよ」
「そっちはあなたの責任で分配してって言ってるの。金にでも換えて、配ったらいいでしょう。金で何でも収まるでしょ」
「資本主義者みたいなこと言うない」
「今時共産主義でもないでしょ。ゲバラももう流行らないわよ」
ゲバラももう流行らない、か。あの地底ゲバラは、旧都をサンタ・クララにはし損ねた訳だ。さとりはベランダから、遠くに見える旧都を見た。カップを傾けながら。
「それでも、問題はあるぜ。首謀者がまだその気なら、また同じことが起こらんでもないだろ」
「そっちの方は……お空に任せたわ」
「お空があ?」
正邪の方も手は打ってあった。さとりは、空に全てを伝えたのである。正邪の目的、空を利用していたこと、鬼を恨んでいること……そして、正邪の心の声から知り得ただけの、正邪のこれまでについて。
「ええ。元はと言えばあの子の責任だもの。あの子がきちんと出来なければ、私がします。飼い主の責任だものね」
ふん、と勇儀は鼻息をついた。元はと言えば、旧都で抑えられなかった勇儀自身の責任でもある。ここは、さとりの言い分を聞くことにした。
「しかしなあ。こんなに鬼が他人の言葉に流されるなんてな。平和ボケした生活送ってるから、思考が人間じみてきたのかねえ」
自嘲じみた言葉に、ふ、とさとりは軽く笑った。それから、たぶん正邪と一緒にいるであろう空のことを思った。
「あとはお空次第。うまくやりなさいよ」
乱闘は次第に収まっていった。乱闘が収まると、酒の乱痴気騒ぎが始まった。酒乱の連中の乱闘が始まり、辺りはやれやれとはやし立てる声でいっぱいになった。
「正邪……」
「いいや。まだ、まだやれる」
正邪はうずくまったまま、声を絞り出した。
「まだやれる。聖者を信じている奴を連れて地上に上がってやる。地上で一旗あげてやるんだ。地底でやれたんだ。同じ方法で、地上でもやってやる。私は革命を起こすんだ」
「正邪……」
「お前はついてくるんじゃない。私は一人でやれる。お前なんてもう信じちゃいないんだ。お前は私を馬鹿にしていたんだ。お前は、私のことを知っていて、馬鹿にして、あの話を聞いていたんだ。馬鹿にしやがって」
「そんなことない! 馬鹿になんて……」
そう言って、空は正邪の腕を掴んだ。強い手で掴んだ。正邪が力を込めて引いても、びくともしなかった。
「お前と私は何でもないだろ。その手を放せよ」
「何でもないことないよ。私は正邪と友達だもん」
「はぁ? 誰と誰が友達だって? 馬鹿こくなよ。お前、まだ私を馬鹿にしてるのか? いいから放せよ」
「放さない!」
「放せよ」
「放さない!」
「放せって言ってんだろ……!」
ほろ、と涙がこぼれて、二人の手の上に落ちた。
「誰が友達だよ。馬鹿にするんじゃあないぞ。お前が私と友達だって。馬鹿にするんじゃない……」
「正邪……」
空は正邪の手を放した。正邪から力が抜けて、膝が吐瀉物の上に落ちた。手も、膝も、吐瀉物で汚れた。
「私はお前を利用したんだぞ……お前が怒っていないはずない。怒ってる。絶対怒っている。口先では何とでも言える。そうやって、私に復讐しようとしてるんだ。そうやって、笑っているんだ……」
「正邪……!」
空は正邪の手を取った。吐瀉物で汚れるのもお構いなかった。
「そんなことない! 私、正邪の友達だよ!」
「いいや。騙そうとしてる」
「そんなことないってば」
空は人並み外れて素直だったから、違うものは違うと言い続けた。やがて鬼達が酒を飲むのにも疲れて、三々五々散っていって、二人だけになっても、二人は言い合いを続けた。100回も200回も続けた。正邪の方から、『もういいよ』と友達であることを認めて、どこかに行くこともできなかった。
「正邪は友達だもん。悪いとか全然思わないよ」
正邪は友達だよ。
お前は友達なんかじゃない。
正邪は友達だってば。
お前なんて友達じゃないっ!
………………………
それからどうなったかというと。
空は結局、ご飯の時間だから帰るね、と帰ってしまいました。それで、正邪はもう二度と会うもんか、空が喜ぶなら余計に会うもんか、と思いましたが、地上や地底などで、空は正邪に会う度に正邪正邪と懐いて、正邪の方ではお前なんて友達じゃないと喚く日々が続きましたが、正邪がそう言うのに空の方では慣れっこになってしまって、それでも構わないのでした。
正邪の方では、また革命を企てているみたいです。それが正邪の生き甲斐で、今更どうしようもないからみたいです。それで、空の方では、正邪がまた何か企むなら、正邪の手伝いをするみたいで、だけど、正邪が何かを企むたび、嘘はよくないよ、とたしなめるので、全然革命の方はうまくいかないみたいでした。
それに、もし革命が起こっても、革命は霊夢や魔理沙が何とかしてくれるでしょう。彼女達は、そんなこと、慣れっこなのですから。
地底に落ち込む水には、様々なものが含まれる。多くの養分を含んだ水そのものであったり、流れで生まれた生物であったり、時には山や人里で捨てられたゴミであったりする。時には落ちてきたものが、地底の生活を大きく変えたりする。奇妙な植物が多生して別の植物を駆逐したり、流れ落ちた地上の農具が地底で流行ったり、神様が降りてきて地獄烏に太陽神の力を与えたりなどである。
その日水の流れに従って落ちてきたのは、変わった妖怪だった。
それを最初に見つけたのは霊烏路空だった。地下水の流れに乗って、地上のものが時々落ちてくることを空は知っていて、それで退屈になると、時々橋のところまで探しにくる。捨てられて地底に来るものは、大抵意味のない、必要のないものばかりだったけれど、空は丸みを帯びたガラスなんかを拾うと喜んで、時々お燐やさとりにプレゼントしたりして、それを喜んでいる。お燐のために死体なんかを持って帰ることもあるけど、土左衛門は燃えが良くないのでお燐はあんまり喜ばない。
空が橋のたもとをうろついていると、水橋パルスィが橋の下に下りてくる。パルスィは一人で暮らす変わった妖怪だが、他人が嫌いというわけではなくて、たまに他人と接する機会があると暇潰しに現れる。いつも退屈しているから、何かしら新しいことがあるのは大歓迎だ。それで、空とゴミ探しを一緒にしたり、地獄ざりがにを釣ったり、たまにはお茶をいれてあげたりする。
空は川縁に降りてすぐ、大きなものが打ち上げられているのに気付いた。ねえこれ、と傍らにいたパルスィに声をかけた時、空はそれを死体だと思った。でも四肢はきちんと形を保っていて、冷えてはいたけれど腐ってもいなかった。それに、角があるし、もしかしたら溺れた鬼なのかも、と考えた。
「溺れてる」
「ああ本当」
くぁ、とパルスィがあくびしながら、足でごろりと、横たわる鬼らしきものの身体を転がした。気を失っているそれが仰向きになって、閉じた目を、半開きの唇を二人に見せた。白い服、小さな角、白と黒の混じる髪の中に、一筋だけ赤い髪がある。身体は小さく、空の主人の古明地さとりも相当小柄だがそれよりも小さい。
「見たことない顔ね。地上の鬼かしら」
「助けてあげようよ」
空はそう言い、身体を河原に引き上げた。それがううんと呻いたので、空はその頬をべしべしと叩いた。力加減が分かっていないから、まるで起こすというよりは叩き殺そうとしてるみたいだった。『殺す気か』と意識があれば言いたいところだっただろうけど、その鬼らしきものは意識を取り戻さなかった。
「ね、助けてあげようよ。暖めないと」
「仕方ないわね」
パルスィは面倒事が嫌いだったけど、空が言うので仕方なく用意をした。家に戻り、たらいを家の前に持ち出して、その中に水を張った。空が担いできた鬼を水に入れて、水の中に制御棒を突っ込んだ。一瞬で煮えた。
「熱ッ! あっつ! 熱い!」
鬼らしきものは一瞬で飛び起きて、お湯の中から飛び出て地面をどったんばったん転がり回って擦りつけた。あまりの熱さの為である。ばたばた暴れながら服を脱いだ。肌に貼り付いて熱いからである。「殺す気か!」そしてついに叫んだのである。空は大丈夫大丈夫と心配してわたわた鬼らしきものの回りを走り回って、パルスィは二人を見てけたけた笑っていた。
「私は救世主として地上に降臨して……」
「ところが地上の奴らと来たら、救世主たる私を信じずに迫害する始末……」
「私は追っ手を得意のガン=カタでバッタバッタと薙ぎ倒し……」
「途中で出会ったみなしごの女の子とのラブロマンス……」
「地上を支配しようとする秘密組織の暗躍……」
「飛来した隕石から生まれた宇宙生物が……」
「プレデターVS私……」
「エイリアンが……」
「十三日の金曜日に……」
「コマンドー、繰り返します、コマンドー……」
きちんと心地よい温度の風呂に入り、パルスィから借りた服に着替えて人心地ついた鬼らしきものは、パルスィから暖かいスープを貰い、ふぅふぅ冷ましながら飲み、飲み終わると、これまでの経緯について語りはじめた。パルスィは途中から飽きてくぁぁと欠伸をし、空は目を輝かせて鬼らしきものの話を聞いていた。いい加減聞いていられなくなった頃、パルスィが話を遮った。
「分かった、分かった。あんたが何者なのかは分かったから、それで、いったい何をしに地底に来たの?」
「何をしに来たのか、だって? はん! そんなこと、あんたらに言う必要はないね」
鬼らしきもの、便宜的に彼女と呼ばせてもらうが、彼女は天邪鬼らしく、パルスィの言葉に逆らった。パルスィは助けてやったのに何よその態度はと溜息をついた。空が身体を乗り出し、もっと話してと言った。
「はん? もっと話せだあ? 嫌だね、どうして私のことを話さなくちゃならない」
「そんなこと言わないで! あなたの話、凄く面白いわ。私、もっと聞きたい!」
「嫌だね。お前に話したって何の得もない」
話して話して、嫌だ嫌だ、テーブルの上を言葉が飛び交い、もうやってられないと言わんばかりにパルスィは二人を襟首掴んで放り出して、二人でやんなさいと扉をバタンと閉めた。
「あいたたた。何だあいつ、乱暴な奴だな」
「そんなことないよ。パルスィはいい人だよ。時々藁人形に釘を刺したりしているけど」
「怖っ。何だそれ。全然いい奴じゃないぞ」
おっとこうしちゃいられない、と彼女は立ち上がった。
「お前なんかと付き合ってる暇はないんだ。じゃあね」
彼女は立ち去ろうとしたが、空は待って待ってと追い縋った。彼女は嫌だね嫌だねと繰り返していたが、空はどこまでもついてきて、これはさっきの展開と同じだ、このままでは埒が明かないと、彼女は唐突に空を指差し、
「あっ空飛ぶ猫の焼死体」
「えっどこどこ」
そうやって空をごまかして、ひょいっと岩の裏に姿を隠した。どうやら彼女はそういう嘘をつくのが大得意のようである。彼女はうまくいったうひひ、やっぱり嘘を言って騙してやるのは気持ちが良すぎて、思わず顔も笑っちまうぜとほくそ笑んだ。前を見ずに笑いながら歩いていたので、何かにぶつかって転んでしまった。
「うわっ」
「痛えなぁ何するんだこの野郎!」
それはしゃがみ込んでいた人だった。彼女は人だと思ったが、次の瞬間に頭からにょっきり突き出ている角を見て驚いた。
「鬼……?」
「てめぇ何するンだこの野郎!」
鬼は一人ではなくて、そこには四、五人の鬼がいて、めいめい麻の袋を覗き込んで何かをしていた。あまりに怪しいし、人気のないところでしているものだから、彼女は怯えて声を上げた。
「あんたらこそ何をしてるのよ」
「俺達かぁ? 俺達は……ゴミの分別をしてるんだよ!」
「ご、ゴミの分別ぅ?」
「ああそうだよ! それがどうしたってんだこの野郎!」
鬼の棲む地底では、ゴミの分別という文化が地上から入ってきていた。だが、地上ではダイオキシンの発生を抑えるためだったり、処理場の問題だったりするそれを理解できず、ただの文化として入ってきていたのである。だが、鬼達の中で、一部の環境論者が環境汚染を減らすためと論じたため、ゴミの分別は一定の効果があると認められていた。だが、鬼がちまちま分別をするのは鬼らしくなく小物の行為だとされ、環境論を信じる者達も、山の中で人目を避けてこっそりとするしかなかったのである。
「鬼の間ではな!良いことをする奴が悪い奴だとされるんだこの野郎!それでお前は何者なんだこの野郎!俺達に文句でもあるってのか!ああん!?」
「な、なんだよ!文句だなんて……」
「ああん!?」
鬼に凄まれて彼女は涙目になった。どうやら彼女は鬼が苦手のようだ。泣くのは嫌だ、泣くのなんて、と彼女は思った。背後から突然轟音が響いて、高熱と圧力が彼女の背後を吹き抜けた。
「うわぁぁ! て、てめぇは地霊殿の地獄烏!」
「いじめ、かっこ悪い!」
「お、俺達何も悪いことしてないのにィーッ」
空が彼女の後ろから現れて、制御棒からギガフレアを威嚇でぶっぱなしたのだった。その威力は岩山を一つぶっ壊してしまった。鬼達が逃げてどこかへ行ってしまうと、彼女はへたり込んでしまった。お空は彼女に、大丈夫、と聞いた。
「れ、礼は言わないぞ」
「うん、そんなのいいよ。大丈夫だった?」
「絶対言わないぞ」
うん、と空は言って、どうやら大丈夫そうだ、と微笑んだ。彼女の方では、こいつは何をしに来たんだ鬱陶しい奴だと思った。さっさとどっかに行かないかな。
彼女はどうやら長いこと、他人から裏切られて暮らしてきたようで、具体的なものは計り知れないが、他人を信じることができない。嘘をつき騙すというのは、騙される側からすればとんでもないことであるが、彼女は騙して喜ぶことを、当然だと思ってしまっているのである。
だから、空に助けられても、それで空を良い奴だと思いなんてしなかった。思えないし、もっと深くで言うと、思いたくはないのである。これまで、騙されて暮らしてきたのだから、他人を信じられてしまうと、自分がこれまで何をしてきたか分からなくなるのである。
「お前、いつまで見てるんだ。あっちに行けよ」
「ううん、そういうわけに行かないよ。お願いがあるの」
空はそう言うと、不思議に思った彼女の目を見返して、ずずいと彼女に迫った。
「ね、あなた救世主なんでしょう」
何をばかな。彼女は呆れた。だけど、空のほうでは、真剣に信じているみたいだった。
「お前、さっきの信じてるのか」
「うん! それでね、私、お願いがあるの」
そう言って、空は彼女の前で語り出した。お空自身のことだった。
「私ね、さとりさまに飼われているんだけど、さとりさまはすごく絶望していて、何に絶望しているのか分からないけど、たぶん、何に絶望してるのかさえ分からなくって、何も分からないんだと思う。こいしさまだっていつもどこか外を歩き回ってて、帰ってこないし、こいし様が帰ってきたってさとりさまが幸せになるかどうか分からない」
私じゃ、と空は言った。
「私がどう頑張ってもね、さとりさまを幸せにしてあげることはできないんだ、って思うと、悲しくなる。こいしさまを連れてくることもできないし、核融合の力があったって、さとりさまを幸せにできる訳じゃない。だからね。あなたに、さとりさまを救って欲しい」
「救う、って」
「救世主なんでしょう。救世主って、皆を助けるんでしょ。だからね、さとりさまを助けてほしいの」
私は、と彼女は呟いた。呟き、空に隠れて、一つ笑みを作った。そうして、また口から出任せを並べ立てはじめた。
「ああ、私は救世主だ。私は凄いんだ。強いものには阿らない。弱きものを助け、強気を挫くスーパーヒーローさ」
「やっぱり!」
「私のことは鬼人せい……いや、聖者と呼べ」
「せいじゃ? それがあなたの名前?」
「ああ、そうだ」
「なんて書くの?」
「聖なる者だ」
「聖なる……者?」
「そうだ。ホーリーマンだ」
「ほーりーまん!」
彼女は聖者と名乗った。一体何者なのか? 賢明なる読者の皆様はもうご存じのことと思うが、その正体は鬼人正邪である。少名針妙丸をそそのかし、輝針城を呼び出して幻想郷に反旗を翻したものの、巫女に阻止されて隠れ潜むうち、うっかり川に落ちて流されてしまったのである。
正邪は今、空を見て、悪巧みを働かせはじめた。以前は針妙丸を利用した。針妙丸の力が、至強を倒す至弱の力として、適していたからだ。いま、正邪は、この目の前の妖怪烏に、似たものを感じていた。強い力を感じるのに、それに裏打ちされた精神的な強さがない。あの針妙丸と同じ感じだ。
この者を利用してやろう。鬼の棲まうところということだけが不安要素だが、地底という場所はむしろ、抗うのに良い場所だ。虐げられた者達が力を蓄え、噴き上がるのに良い場所だ。
こいつの力を利用してやる。
「それで、お前の名前は?」
「わたし? お空。違った。霊烏路空。空と書いてうつほって読むんだよ。でも、皆はお空って呼ぶよ」
「そうか、じゃ、お空。お前のさとり様を助けてやる。だがな、それには時間がかかる。それに、さとり様一人を幸せにしたところでだめだ」
「どうして?」
「この地底は、空気が澱んでいる。皆が悪い空気を作っているんだ。その空気を変えなきゃならない。皆を幸せにしないといけない」
「そうなんだ……」
「だけどな、私は実は、それをするためにここに来たんだ。皆に救いをもたらすために」
「そうなんだ! じゃあ、さとりさまのことも、助けてくれるのね」
「ああ、もちろんさ……だけどね、地上で色々あったせいで、私の力は弱ってしまっている。力が少し足りないんだ。私一人じゃどうしようもない。それでね、お空。私を助けてくれないかな。私が皆を助けてあげるのを、手伝ってほしいんだ」
「うん! いいよ!」
空はあっさりと答えた。正邪はあんまり素直だから、逆に拍子抜けした。
まあ、これで、新しい叛逆への第一歩を踏み出したわけだ。正邪はこっそりと、心の内だけでほくそ笑んだ。
空と正邪が最初にやったことは、住処を手に入れることだった。空に案内させ、鬼達の住まいの中でも最下層、出来るだけ人目につかない、貧民窟の片隅のぼろ屋にこっそりと潜り込んだ。正邪はぼろを纏い、目立たないようにそこに忍び込んだ。表向きは、空の友達を、理由があって棲まわせておくという名目である。住処を確保すると、正邪は空に食料を運ばせた。正邪は放浪生活を経験していたから、悪食で、地獄ざりがにでも地獄魚でも地獄サラダでも地獄伊勢えびでも地獄牛たんでも何でも食べた。正邪は住処にこもりながら、これまた空に木材を用意させ、木槌とのこぎり、物差しをふるって、何かを作り始めた。
「聖者、今日のご飯だよ」
「ああ、悪いな」
「ね、こないだから、何を作っているの?」
「ああ、これな……それより先に、頼んでたものは用意してくれたか?」
「うん。地上の何たらって言う職人さん……聖者の渡してくれた手紙を見たら、すぐに用意してくれたけど。これも、何なの?」
何たらという? 正邪は不安を感じたが、空が持ってきた包みを見て、まあ何とかうまく行ったようだと思った。この獣、案外使える。正邪は空の前で、その包みを解いた。木箱に収まったものを外に出した。それは、正邪よりさらに一回りほど小さい、日本人形だった。
「わ。かわいい……」
「あの職人は、腕があるのに認められなかった職人の幽霊でな。昔のコネがあるから、作ってもらったんだ」
日本人形は着物を着ていて、瞳を閉じていて、正座をして、手を膝の上に行儀良く揃えて乗せていた。
「欲しいな。ね、正邪、それさとりさまにあげたら喜ぶよ」
「だめだ。何のために用意したんだよ」
これをこうやってな、と、正邪がしばらくこもりっきりで作っていた台座の上に置いた。台座は横幅と奥行きが1メートル半ほど、高さが80センチほどある。台座の上には座布団が置かれていて、そこに日本人形が座る形になる。それでな、と台座をスライドさせると、箱細工のように、台座が開いた。そこに正邪は足を入れ、横になった。
「これで私が入る。それで、喋ってるように見せかけるんだ」
「どうして? 聖者が自分で話せばいいじゃない」
「お空、ここにいるのは鬼達だ。わたしみたいなちっぽけなやつが救ってやろうだなんて言ったところで、嘘っぽくて誰も信じてくれない」
「そんなことないよ」
「お前は鳥頭……いい奴だからな。だけど、そうじゃないやつもいる。分かるだろう? 魔理沙とか霊夢とか」
「うん。あいつらはさとりさまを苛めた悪いやつだ。あ、でも、お煎餅とかお茶とかくれるし……」
「ええい、ややこしい話をするんじゃない。とにかく、私はいつだって人助けをできる訳じゃない。鬼や人と同じ、飯を食えば眠るし、同じ生活をするんだ。同じやつらなんだ。同じやつに、皆が救えると思うか?お前ならどうだ、お空、お前がもう一人いたとして、さとり様を幸せにできるか?」
「ううん、できないと思う」
「だろう? こいつは皆とは違う、自分達とは違う何かができる、って思わせないといけないんだ。だけど、姿を現さないわけにもいかない。それで、これさ」
「でも、人形は喋らないよ」
「今これを作ってる」
そう言って正邪は障子紙を貼った木枠を取り出した。それを人形の前にあてがい、後ろから蝋燭の火をかざした。障子紙に、座った人形の影が、ぼんやりと浮かび上がった。
「どうだ、これなら座っているように見えるだろう。それに、何か不思議な雰囲気だろう? こういうのと、皆を救う言葉で、皆は救われるんだ」
「うん! それ、聖者が作ったの?」
「ああ、今作ってる。四方に作らないといけないからな、もう三枚は作らないと。障子紙、足りなくなったら、また仕入れてきてくれるかい」
「うん! もちろんだよ!」
かなり怪しい正邪の説明だったが、空は疑いもしなかった。生来がそういう性質であるし、正邪はこの数日というもの、頑張って台座や枠作りに精を出しているものだから、空も疑いを持たなかったのである。
「それでな、お空。もう一つ頼みがある」
「うん、いいよ。なあに?」
そう言って、正邪はにやりと笑った。
「そろそろ表舞台に出る時だ。だけどな、いきなり皆に言ったっていけない。噂を流すんだ。いいか、お空。鬼にじゃないぞ。お前の友達の、獣の妖怪に、人を救ってくれる人がいる、と言うんだ。その人は困っている人を助けてくれる、怪我を治してくれる、何でも悩み事を聞いてくれる、とな。これは大事なところだぞ。いいか」
「うん、うん」
「皆に言うんじゃない。半信半疑に、そういうのがいるらしいけれど、本当かな、みたいな感じに言うんだ」
「半信半疑に、そういうのがいるらしいけど、本当かな、みたいな感じだね」
「そのまま言うんじゃないぞ。……ああ、それと、お前のさとりさまは、しっかりと確実に救ってやる。だから、まださとりさまに言うんじゃない、もし鬼達を救ってやれなかったら、お前のさとりさまどころじゃないからな」
「うん! 分かったよ!」
「よし。行け。明日の飯も頼むぞ」
空が窓から飛び去ってから、大丈夫かな、不安だな、と思いながら、正邪はまたのこぎりを手に取った。
鬼を利用する。というのは、正邪にとっては、賢い方法ではない。正邪自身、鬼が苦手なのもあったが、鬼は人より力が強い。つまり、それだけ優れている存在だ。優れている存在はむしろ、弱者を虐める存在だから、正邪にとっては倒すべきものになる。
しかし、それも昔のことだ。今や鬼は地底に追いやられ、外の世界に跋扈している人の数に比べれば、鬼の数は少ない。
幻想郷において、数に勝るわけでもなく、力も弱い人間が、どうして幻想郷の表舞台でのさばっているのか。今、地底で安寧に、自由気ままに暮らすことに馴染む鬼が多数とは言え、そこに不満を持つ鬼は絶対にいるはずだ。正邪はそれを利用することにした。
それに……鬼を利用して、鬼の指導者となり、指先でこき使い、へいこらさせてやるのも気持ちよいではないか。正邪はその時のことを思うと、笑みで顔が歪む。笑いが抑えられなくなりそうになる。
空が流した噂が、少しずつ広まり、人を呼び、一人ずつ、一人ずつ、正邪の住まいを、貧民窟の鬼達が訪れるようになった。正邪得意の話術で、騙し、もっともらしく諭し、誑かし、最後には満足させてやる。物は最初はやらなかった。小金でも、ほんの少しの食べ物でも、くれてやれば、それ目当ての者しか来なくなるからだ。正邪は聖者として振る舞った。病や怪我をした人間、思い悩み心を病んだ人間を、救うという名目で。地底に救いをもたらす、救世主として。噂は空の広めるものに留まらず、鬼達の口を介するようになった。
信仰心の薄い鬼達に信仰を教えてやると、理由もなく聖者を崇めるようになっていった。何をするでもなく、聖者は少しずつ鬼達の間で知られはじめた。
日に来る信者が二人三人ではすまず、一度に複数の人間を入れる場所が必要になり、地底に落ちてきた、古い山寺の本堂に信者を入れるようになった。その段階になると、いんちきな薬を売った。妖怪は精神的な生き物だから、ただの水を薬だと思えば、理由もなく快復する。そうやって名声を得るとともに、金を集め、集まった金で食料を買い込んだ。そしてその食料を、飢えた鬼に与え、また名声を増やしていった。商売をはじめたいと言えば金を貸してやり、働く場所がないと言えば正邪のところで働かせてやった。鬼達は正邪を崇めるようになり、その名声が高まり、いくつもの蝋燭に照らされ、闇と光が混じる影として人々の前に姿を現すだけで、人々は幸せになるようになった。
くっくっく、くか、くは、うは、ふ、はははは!
正邪は笑いが止まらない。以前はあんなに恐れていた鬼が、今や正邪の目の前で頭を垂れ、救いを求めてくる。正邪にとってこの世の春そのものだった。
「笑いが止まらんねぇ。うまく行きすぎて怖いくらいだ」
正邪は奥座に座って、一段下にお空を座らせるようになっていた。盃を差し出すと、そこにお空が酒を入れる。そういう作法にも慣れていた。
「聖者はすごいね、もう皆聖者の噂で持ちきりだよ」
「くふふ、そうか。お空、お前の方はどうだ?」
「うん、友達の妖怪達も皆聖者のことを信じてる。ここだけじゃなくて、地獄の旧都にも広まると思う」
「うん、良し。ならもうしばらく、人々に救いを与えよう」
くかかか! 正邪はもう一つ笑いを上げた。
「聖者、今日はさとりさまのカーヴから、お酒を貰ってきたんだよ」
「おう! ワインかい。それはいいや、飲もう飲もう。おい、お空、お前も飲みなよ」
うんうん、と空は頷き、ワインの瓶の頭を手刀で断ち切ると、用意したグラスを正邪に渡し、注いだ。お空のグラスには正邪が注いだ。
「ふん。酒がうまい。こんなうまい酒を飲んだのはいつぶりかね」
「うん! さとりさまはいいワインを沢山持ってるからね」
そういうことじゃないんだけどね、と正邪は思う。このお空というのは純真だ。純真に過ぎて、誰もが信用する。最高の嘘吐きとは最高の正直者というやつだ。多少危なっかしいところはあるが、正邪にとっては最も使い手の良い道具だ。
「それにしても、聖者は凄いねえ。言葉をかけてあげるだけで、皆が救われるし、聖者の薬は良く効くって、皆が言ってるよ」
「ふん。簡単なことさ……」
そう言って、正邪はグラスを傾け、口の中にワインを入れた。香りが口の中に広がった。
「私は嫌というほど見てきたからね。世の中がどういう嘘で回ってて、どうすれば世の中がうまく回るのかをね……」
具体的には、ごく少数の中で尊敬と権威を得、その下の者にははっきりとした姿を見せない。そして、その少数の中での権威を確固たるものにし、下の者には生かさず殺さずの得と損を与える……圧倒的に奪い、そして少しの施しを与える……そうすれば、大半の者は付き従う。概ね、そういった処世術だった。正邪はその権威を失い、頂点から奥底へと落ちる者を何度も見た。そして、最下層の者が天へとのし上がるのを……何度も見てきた。
そう。何度も見てきたんだ。
今度は私が上へと行く番だ。のし上がってやる。
「?」
正邪が不思議そうな顔をしたので、おっと、と正邪は口をつぐんだ。幸いにも空は特に疑問を持ったわけでもなさそうだった。
「……まあ、私ほどになれば、指先でちょいと秘孔を押すだけでどんな怪我や病気も治すことができる」
「ほんとに! すごい!」
「それに、どんな拳法も誰より早く習得することができる」
「すごいすごい!」
「秘孔・殺活孔!」
「うわー! 何だか分からないけどすごい!」
正邪が指先であたたたたとふざけた声を上げると、うーわーと空が転げ回ってきゃわきゃわとはしゃぎ声を上げた。正邪はふははははと笑い声をあげた。グラスを再び持ち上げて、口元に運んだ。
「だけどね、これからさ。本当に面倒なのはね……」
「そうなの?」
「ああ。だが、まあいいさ。今は忘れておくといい。じゃあ、そうだな、今度は私が戦闘機械を操る傭兵だった頃の話をしてやろう」
「わ! 本当!? 聖者は本当、色んなことをしてきてるんだねえ」
その日は朝まで、正邪は空にホラ話を話して聞かせ、空の方では正邪が身振りと手振りで盛り上げるたびに、真剣に聞き入ったり、転げ回って喜んだり、いいぞやれと腕を振ったりした。しまいには酒も浴びるほど飲んで、二人ともひっくり返って眠ってしまった。
正邪と空は順調に活動を続けていた。だけど、ついに面倒が起こった。聖者に対する悪い噂が生まれたのである。『何者なんだ?』『一体、何が目的なんだ?』という論調。それは貧民窟では生まれ得ないものだった。旧都に入り込んで、その論調が生まれはじめたのである。貧しく、不満足な者達は救いに飢えているから、その心の中に聖者はあっさりと入り込むことができる。だけど、旧都の者は、商売をしたり、金を持っていたりするから、元々生活の基盤がある程度ある者ばかりである。それを、ひょっとしたら、新しく現れた聖者という存在は、安定した生活を、脅かすのではないか、という不安である。それらが現れ始めたのだった。
正邪はその手の噂を集め、敏感に感じ取り、新しい手を打った。一つは噂であり、一つは筆であり、一つは金だった。正邪は旧都の外れに新しい拠点を構えると、生活基盤のある信者に、口コミで噂を広めさせ、また、旧都でも比較的貧しい者を狙って聖者の噂を語った。失業者、娼婦、独り身の男女など。旧都でも、救いを求めている者はいる。そして、同時に正邪はガリ版刷りのビラをつくり、少しずつ配った。ビラもまた、集客効果も高めたが、反対に聖者の存在をいたずらに広めてしまう一面もあった。そして、最後に金をばらまいた。正邪の元には、ある程度の金が転がり込んでいた。活動をすればそれも満足なものではないが、切り詰めてうまく使った。正邪はここに至っても、食事は空の差し入れる地獄マツタケなどでまかなっていたのである。節約というよりは、目的のためだった。正邪は自分が楽しむことで、自分が萎えてしまうことを何よりも戒めた。ともあれ、金を使い、聖者に対して半信半疑な者に、聖者を信じるように、少なくとも反対活動をしないように、勧めた。特に町単位での実力者を中心にして配った。反対する者がいても、年長者や実力者が聖者を認めていれば、表だって動けないものである。時には、聖者に対して疑い、反対活動をする個人にもあてがった。
だが、それでも、聖者を疑い、絶対に抗おうとする者への対応も、正邪は考えなくてはならなかった。
「お空! それを着な」
正邪は、今日も正邪のところに着たお空に、布のかたまりを投げつけた。
「な、何、いきなり、何をするの」
お空が見ると、正邪は奇妙な格好をしていた。いつものスカートではなくて、パンツスタイルで、上下真っ黒な、洋装をしていた。真っ黒なスーツに身を包んでいて、首元にはネクタイも巻かれていた。今空に投げたのも、同じ服のようだった。
「いいから、着るんだよ。今からお出かけだよ」
「ええ? 何するのぉ」
そうは言いながら空は服を慌てて脱ぎ、スーツに着替えた。胸が小さくて入らなかったり、お尻が入らなかったりしたけれど、頑張って押し込んでなんとか着た。ぴしっとしたスーツ姿になると、空は窮屈だと思った。スーツで二人並び、畳に革靴で立つと、奇妙な二人組だった。
「聖者、変な格好」
「お前もだよ。これもつけるんだ」
そう言って正邪はサングラスをお空に投げた。聖者がそれをかけると、目元が隠れて、ますます怪しい二人組になった。
「せ、正邪、見えないよお」
「鳥目か。ふん、まあいい、じゃあ私がつけろと言ったらつけろ」
うん、と頷き、空はサングラスを胸元にしまった。豊満な胸はスーツでも隠しきれずにたっぷりと主張していた。
窓からこっそりと飛び立った正邪は、屋根を踏んで飛び抜け、旧都へと向かった。正邪のアジトは相も変わらず貧民窟の片隅である。旧都に向かいながら、空は正邪に声をかけた。
「ねぇ、どこに行くの」
「旧都の支部だ。私の正体を疑い、私を殺そうとするものがいる」
「えぇ!」
半分は嘘である。殺す、だなんて、鬼でも、そこまでの明確な意志はない。ただ、聖者の存在を疑う者であるのは間違いない。それらの活動も押さえていた正邪は、支部に押し入る襲撃計画の情報も、事前に信者から聞きつけ、対策をしていたのである。
「私が説得する。けれどね、お空。それも聞き分けずに、襲いかかってくるかもしれない。そうしたらお前の出番だ。ぶっ飛ばしてやれ」
「うん!」
支部の屋根まで来た。狭い路地に、三、四人の鬼が、一纏まりになって、支部の裏口をごそごそと探っている。下を探り、サングラスをかけろと空に指示をした。二人して、鬼達の前に飛び降りる。
「お前ら!」
驚いている鬼達に、正邪は堂々と大喝した。びびるな、堂々としろ、と正邪は自分に言い聞かせている。私に力はない。だけど、今の私には空がついているんだぞ。いざとなれば空が助けてくれる。
もし、という怯えはいつでもあった。空の気が変わって、私に襲いかかったらどうする?いや、信じるんだ、私が何のために、空につまらないホラ話をして、普段から仲良くしていたと思っているんだ。それに、空は聖者を信じ切っている。怯えはいつでもある。どうして空を信じているんだ? だけど、それは今更のことで、手を打ち続ける他に方法はない。それに、何より、今は怯えている時じゃない。目の前に私を憎む鬼がいるぞ。鬼がいる。悪意の塊だ。
そう思ってしまうと、正邪はぜんぜん、駄目なのであった。鬼達でも、聖者を慕い、自分を崇める者ならいい。だけど、正邪を憎む鬼となると、以前の怯えが戻ってきて、正邪を支配してしまうのだ。用意していた次の言葉も出ず、身体は震え、冷や汗が身体を濡らした。
何だ、と思っていた鬼達が、にやにやと笑い始めた。正邪はそれを、見てもいない。正邪を庇うようにして、空が歩み出た。
「聖者を、信じろ!」
拳。それだけだった。聖者を信じろ、だなんて、乱暴な言葉と、拳、それだけだった。
「聖者を、信じろ!」
「な、なんだこいつ!」
「聖者を信じろォーッ」
説得力も何もない。だけど、がむしゃらに、空は声をあげ、そして殴った。正邪は、それが自分の名前を呼ばれているようで、嬉しかったのだ。嬉しい? 何を馬鹿な、と正邪は自分を叱った。あいつは、私のついた嘘を、嘘の聖者を信じているだけなんだぞ。しかし、空の思う聖者は、正邪の思う聖者とは違った。皆が崇める聖者を、空は実感としては分かっておらず、空が信じている聖者は、いつでも空の目の前にいる聖者だった。正邪そのものを、名前として、聖者だと思っているのだ。
「聖者を信じろ! 分かったか!」
「わ、分かった! 分かったから!止めろォーッ」
空は鬼達をボッコボコにして、鬼達が逃げていくのを見送った。腰に手を当てて、ふん、と鼻を鳴らした。それから振り返って、正邪を見た。
「大丈夫、聖者?」
「……ああ。良くやったよ、お空」
それから、手が震えているのを自覚して、努めて震えを消し、空の方をぽん、と叩いた。
「これからも頼むよ。私に反対する奴がいたら、その調子で殴りつけてやってくれ」
「うん! 任せておいてよ!」
正邪は、ここは自分でないといけない、と思っていたのだ。反対する者を叩き伏せるのは難しい。言葉でもダメなら、ある程度殴りつけてやる必要がある。だけど、誤って殺してしまえば、悪い噂が立つのは免れない。反対勢力にますます意志を与えてしまう。だからといって、そいつらをつけあがらせれば、そいつらに丸め込まれた奴が、反対勢力に加わるかもしれない。口が立って、力をうまく使える奴。正邪にはそういう手駒はいなかった。だから、自分で行くしかないと思った。
だけど、空の声を聞いて、自分の中で何かが吹っ切れた。空は本当に聖者を信じている。それに、空は鬼を殺したりなんてしないだろう。反対勢力に聞く耳を持たず、殺しもしない、空は適任だった。
「お前に任せるよ。お前に向いてるみたいだ。力仕事はな……」
正邪はだけど、同時に寂しさを感じていた。お空がどんなに聖者を信じたって、それは正邪ではないのだ。正邪のついた嘘なのだ。寂しい、だって?馬鹿なことを。正邪は自分の心を疑った。寂しい、と思っても、自分の感情さえ、正邪は素直に信じることができない。嘘つきめ。嘘つきめ。
だが、ひとまずは良い。空がここまで本気で聖者を信じていると分かったなら、それは良いことだ。次の段階へと進めよう。心持ち落ち込んでいた正邪の心も、考え、歩みを進めるたび、次へと進む活力が満ちていった。
表だった反対がなくなった。聖者の活動が始まって時間も経つと、旧都でも何となく、聖者の存在が馴染みはじめた。なんとなく、よく分からないけど、聖者ってのがいる。特に興味のない人間からすれば、拒否感でもない距離感。旧都の雰囲気がそんな風になったのを待って、正邪は次の段階を始めた。
革命の匂いである。地底には支配者がいない。向けるべきフラストレーションの先がない。正邪はそれを、地上へと向けた。元より、そのために、鬼の力を使うつもりだったのだ。
いわく、鬼が病に苦しむのは何のためか。飢えるのは何のためか、見下されるのは何のためか。
それは、地上にいる人間のためだ、と聖者は言った。元より人肉を喰らっていた鬼が、獣の肉だけでは栄養が足りない、渇望する、と。光がない地下では、活力がなくなる、と。寒さに震え、植物は育たず、味のないものばかり喰らわねばならない、と。そして狭い地下で暮らしているから、家は狭く、遊ぶ場所もなく、何もない、と。
地上を目指せ、と聖者は言った。鬼達よ、地上を目指せ。地上に出て、人々を喰らい、地上を鬼の天下にするのだ、と。
革命だ。
革命だ、革命だ。その響きは、地を鳴らして、地底に広まった。革命だ、革命だ、と叫ぶ声が道々に聞こえ、歩き回って聖者の言葉を、信者達が叫んだ。
革命だ。支配者面している人間を追い落として、私よりも下の立場にさせてやる。馬鹿にして、蔑んできた私を見上げて這いつくばらせてやる。
正邪の野望は一定の熱量を超え始めた。正邪は手綱を引き、信者の活動をうまく抑えた。地上では人間が多数いる。今の勢力では力が足りない。人を支配するには、地底の鬼が一丸にならなくてはならない。争いはせず、皆聖者を信じるようにするのだ。正邪の熱は、今や、地底に広まり、地上へと吹き出す時を待っているのみとなった。
「聖者ですって?」
一方、ここは地霊殿。引き籠もり生活をしていたさとりにも、ようやく聖者の噂が届いた。ことに、この数ヶ月はアイデアが固まったとかで、煙草と酒漬けの執筆生活を送っていたので、より聖者の噂が届くのが遅れたのである。ちなみに、その原稿は『ラノベみたい。どっかで見たことある設定ばっかり。セリフが長い。ページの下半分がメモ帳みたい』とお燐に酷評をくらい(本人はもっと優しく言うつもりだったが、心の声がだだ漏れてしまった)、ボツになって封印された。さとりがお燐からその話を聞いた時、さとりは珍しく訪れたパルスィとお茶会をしていた。
「実はそうなんです。最近、旧都では聖者と名乗る者が現れて、その信者は革命だ革命だ、地上だ地上だとさざめいていて」
「ふうん……」
テーブルに座って語りながら、さとりはお燐の話を聞きながらお茶を傾けた。その主人の顔を見ながら、お空がその片棒を担いでいるなんてとても言えませんニャーという顔をしていた。
「何? お空が……」
「あっ! 隠すつもりはございませんでしたのニャ! バレたらお空が処分されるとかそんなことは全然考えてませんでしたのニャー!」
何をやってるのよあの子は、とさとりは頭を抱えた。
「聖者ねえ。そう言えば数ヶ月前に、お空と一緒に、川から落ちてきた奴を拾ったわね。そのとき救世主がどうとか、言ってた気がするけど……」
聞き流してたから知らないけど、とパルスィがお茶を飲みながら言い、お燐が、お空がこそこそ外出するようになったのもその頃からニャ、と言った。
「パルスィ、あなた、知ってて黙ってたの」
「まさか。旧都にもあんまり行かないし、聖者にも興味なかったから知らなかったのよ。私、一人だし。それに、川から落ちてきた奴と繋がるなんて思いもしなかったし。……さとりったら、全然来てくれないし。もっと私のところに来て話してくれたらその話だって伝わったかもしれないのに……ぶつぶつ……」
さとりはパルスィの心を読んでもてあそびながら、それはともかくとして、と考えた。少し考えて、即座に判断をすると、お燐に言った。
「お燐、その聖者とかいう奴のところに案内しなさい。そいつの魂胆を探るわ」
さとりが聖者のところを訪れた時、信者達はさとり妖怪だ、と騒ぎもしなかった。さとりはさとりで、一目置かれているから、皆が遠巻きにする。お陰で、さとりが来ることが、聖者に悟られずに済んだ。
聖者とその信者のいる一室は、二十畳もある広い一室で、聖者が前に座り、聖者の後ろに蝋燭が立ち並び、その前に信者がいた。信者達は前の者は座り、後ろの者は立って、聖者の話を聞いていた。蝋燭の揺らめきに合わせて影が揺らめき、その後ろからくぐもった、何とも言えない声が信者のところに届くのである。皆が静かに聞き入りながら、しかし静かな熱意に燃えているのは、奇妙な光景だった。
「……どういうつもり……」
さとりは、後ろの方に立っていた。ここからでは雑音がうるさくて、聖者の声が聞こえない。革命だ、革命だ、聖者様、聖者様、ありがたや。ああ、うるさい。
聖者の話が一段落し、希望する者が、聖者に話す流れになった。いつものことで、信者は何があった、これが原因で困っている、という話をする。正邪はその悩みごとを聞いては、動かせる者に指示をし、ひっそりと解決できるものは、叶えてやるのである。皆、話をしたがるので、時間が区切られていて、一定の時間になると終了になる。その日も一人一人前に出て、話を始めた。さとりはその話を聞きながら、前へとゆっくりと歩み出て行った。人を掻き分け、よけなさい、通しなさい、と囁きながら、小さな身体を、前に送った。やがて、気がつくと、皆の前にさとりは立っていた。僅かなささやきが広がった。鬱陶しい空気だ、とさとりは思った。ある程度、慣れている。
「聖者様。お話がございます。……正邪、様」「うむ。聞いてしんぜよう」
「正邪様は、一体何の目的でこんなことをなされているのですか」「決まっておる。皆を救うためだ。皆を幸せにするためだ」
「正邪様は、一体誰の頼みで、こんなことをなされているのですか」「頼み……とな。ふむ、それは神……であり、そして、我を求める鬼達の頼みじゃ。彼らが我を求めたのじゃ」
「正邪様をお慕い、手伝っているのは一体何者ですか」「我を慕う者? ……ふむ。妙なことばかりを聞く者じゃ。それは言わずとも、ここにおる皆であり、我を信じるもの全てじゃ」
「最後の質問でございます。正邪様は、いったいどうして、鬼をお嫌い、お恨みになるのでございます」
さとりは台座の向こうで、正邪が息を飲むのを感じ取った。
「聖者様は……正邪様は、一体何故に、鬼を騙し、鬼を我が為に利用されますか。正邪様のお心を答えられよ」
正邪は息を飲んだ。汗が止まらない。こいつ、何者だ。さとりさま。さとり、という名。しかし、聖者が嘘の名であるように。さとりが真実その通りの名であることなど、正邪は考えもしなかった。覚り妖怪。
「私はこれで失礼いたします」
さとりが去り、信者と聖者が残されると、誰も何も言わなかった。
表向き、何も起こらなかった。あの時集まっていたのは信者の一部で、その一部もなかったように振る舞った。皆さとりを怖がっていたし、さとりを嫌っていた。それに何より、聖者よりも、聖者の言葉に動かされた、自分の心を疑うのを恐れたのである。さとりの言葉が真実であるなら、聖者を信じた自分達の心も嘘なのである。聖者も、聖者を信じる者の心皆が嘘であるなら……何を信じれば良いのだ。表向き、皆は聖者を信じた。何事もなかったように。だけど、さとりの言葉は噂になって広がり、鬼達は皆、信じないようにしながら、しかし、疑問を抱えていた。聖者様の言うことに間違いはない……だが、いや……まさか……だれも口にはしないまま、その疑惑は確かに広がった。
それは正邪も同じだった。あの時の声は、確かに正邪の心を読んでいた。だが、動きはなく、信者達の心にも大きな動揺はない。さとりが正邪の本心を知ったとしても、今更どうこうできるものか。正邪は決起を早めた。さとりが何かを企んでいるなら、それより先に動かしてやる。
「正邪、どうしたの」
「……お空、何でもないよ」
そう嘘をつく時、正邪は誰よりも優しい顔ができるのだった。正邪と空は二人だった。正邪と空はいつも二人で、狭い部屋で、酒を酌み交わしていた。だから、空は正邪のその笑顔を嘘だと思った。
「正邪。嘘はやめて。全然大丈夫じゃないんでしょ」
「いいや。大丈夫さ、これからが本番なんだ。地上に出て、鬼達を解放するんだ。皆、幸せになるよ」
「正邪……」
空は何も言わなかった。空が沈痛な表情になったのを見て、正邪は何かを話そうとした。空を喜ばせるにはそれが一番いいと知っていたのだ。だけど、沈んでいる空に、これ以上嘘をつきたくない気持ちになった。それで、正邪は昔語りを始めた。話しているうちに、口が回って、色んな嘘がつける。いつもそうだった。
「お空。いつもは、私の話をしてきたが、今日は物語の話をしてやろう。嘘の話。フィクションの話だ。もしも、そんな奴がいたら、の話さ」
「うん……」
「そいつは鬼と人間の、中間のような存在だった。鬼みたいな見た目なのに、力が弱い。人間と同じで力がないのに、角がある。そんな奴だから、鬼からは弱虫といじめられ、人からはお前は違うと仲間に入れてもらえなかった」
「うん」
「だからな、そいつは可哀想な奴なんだ。私がもしそんな奴だったら、生きてるのも嫌になるよ。死んだ方がマシだよな。だけどな、そいつは死ぬ度胸も無かったんだよ」
「うん……」
「そいつは人からは仲間にしてもらえないから、鬼のところに暮らしていた。だけど、毎日苛められるのは変わらないんだ。脅され、殴られ、身ぐるみをはがされ……嫌になってどこかに行ったって、どこでも同じだ。人には混じれないから、そこらの鬼に混じる。そうしなきゃ、生きていけなかったんだ」
正邪は語りながら、どこでなんちゃって、と言おうかと思った。だけど、止まらなかった。これは実は私の話なんだ、私はそんな生い立ちだけど、革命に成功して、救世主になって世紀末救世主でモヒカンがヒャッハーなんだ。そう言おうと思った。だけど、両方嘘で本当だった。本当の生い立ちを言うのが嫌なら、革命が成功したと嘘を言うのも嫌だった。だけど、革命が成功すれば、それは本当のことになる。生い立ちは不幸だけど、そいつは幸せな奴なんだと語れなくなる。どうすればいいのか分からないまま、正邪は語り続けた。
「どこでだって一緒なんだよ。だからな、そいつは決めた。自分を苛めたやつらを見返してやるって。だけど、強い鬼を倒すことはできないんだ。絶対にできない。だから、人間を恨むようになった。人間は大して何もしちゃいないのにな。だけど、人間のほうが倒しやすそうだから、人間を恨んだんだ。鬼だって恨んじゃいるが、表向きじゃ恨んでない風な顔をした。勝てっこないもんな」
「正邪……」
「そいつは弱い奴とつるむようになった。弱いやつ。道具だったり、弱い妖怪だったり、力のない幽霊だったりだ。そういう奴らとつるむのは気持ちよかったよ。私を見下したりしないし、何より弱いもんな。私が見下していたって、逆らったりしないし、もし逆らってもひねり潰してやれるもんな!そいつらと付き合うのは楽しかったよ。仲間がいなくたって仲間のふりしてたら良かった。そいつらったら最高だ、こっちは見下して仲間だなんて思っちゃいないのに仲間のふりしてへらへら笑って――」
「正邪!」
空が叫び、正邪は空を見た。へらへら笑いを浮かべて空を見た。
「何、怒鳴ってんだよ。これは嘘の話だぜ。本当の話じゃない」
「……正邪……」
「お前を楽しませようと思ってやってんだろう!」
「全然、楽しくないよ……そんな話、面白くない。嘘だよ……」
「嘘だって!私が嘘だっていうのか! お前も私を見下してるんだろう! 少し力があるからって……!」
「正邪!せいじゃ…!」
空は正邪の肩を掴んだ。凄い力だった。放せ! と喚くと、その声に怯えて、空は正邪を放した。正邪は空を睨んだ。
「お前、どうせ、私のことなんて信じちゃいないんだろう……いいさ、私だってお前のことなんて信じちゃいない。お前が信じてるのは、私のことじゃなくて、聖者のことだもんな。分かってるよ。お前はお綺麗な聖者が好きなんだ。いいさ。お前なんてもう必要ない。もう、革命はできるんだ。そうだ、革命は成功するんだよ。お前なんてもういらない。は、いらないさ、お前なんて。私は一人で充分さ。どっかに行け。行っちまえよ」
「どうして……」
「どうして、だって」
正邪は唇を歪めて、ひゃひゃひゃと笑った。楽しそうに笑った。
「私は正邪のこと、そんな風に思ってないのに」
「嘘だね。お前は私のことなんて何も知らない。私の言うことをほいほい信じてさ。馬鹿みたいだよ。それで、嘘の話をしてお前が喜ぶの見て、馬鹿にしてたんだ。お前、ずっと馬鹿にされてたんだよ。ばっかみてえ。ふは、あはは! ははは、は!」
「知ってるよ……」
「何だって?」
「知ってる、全部、知ってるよ。さとりさまに聞いたから……」
正邪が何だと、と叫ぼうとした時、正邪に連絡が入った。旧都で妙な動きがある、と。
旧都では乱闘が起こっていた。革命、ではない。乱闘である。名前通りの乱痴気騒ぎだ。酒を飲む者もいれば、それを見て喚き、賭をする者もいた。正邪は市街に入ると、どこでもかしこでも乱闘が起こっているのを見た。その暴力の匂いに怯え、正邪は胃の中の物を吐いた。自分の出したものの上にうずくまりながら、路地を歩いてきた鬼が、大喝するのを聞いた。
「ガス抜きだ! おら、お前ら、せいぜい暴れろい! 殺しだけはするんじゃねぇぞ、勇儀のお達しだあ!」
正邪は一点を睨みながら、憎しみと共に呟いた。「ガス抜きだと……」正邪に追いついた空が、正邪の肩を掴んだ。
「正邪、もうやめよう! もう、おしまいだよ。全部、おしまいだよ……」
「これでいいのかい、さとりさんよ」
「ええ。充分よ」
地霊殿で、星熊勇儀、古明地さとり、それから何故か水橋パルスィも集まっていた。
「聖者の話は知ってたが、人に迷惑をかける訳じゃなければ放っとこうと思ってた。だが、あれよあれよと言う間に広まって、地上に出るだあ革命だあ言うじゃないの。片棒をおたくのペットが担いでると来てる。監督不行届ってやつじゃあないの」
「それについては反論の言葉もなし。解決に尽力したでしょう」
正邪の声を聞き、全てを把握したさとりは、全てを解決するために動いたのである。まず、空の使った動物の噂のラインを、お燐を使って掌握し、逆方向に利用……聖者は嘘だ、嘘を言っていると流した。同時に、勇儀には有力な鬼達のツテを使って聖者の嘘を広め、そして、不満のある鬼の、溜まったフラストレーション、その毒抜きを、仕上げとして依頼したのだった。
さとりの言葉、聖者は鬼を憎む者だ、利用している……という噂が広まっていた効用もあった。乱闘は夜には収まり、そして聖者の信者はまた暴れるかもしれないが、聖者を信じない者達によって、抑えられるだろう。これから何度かの乱闘はイベントになり、そしてやがては収まるだろう……。
「それで、首謀者は誰だァ? お前さん、知ってるんだろう」
勇儀がずい、と身を乗り出し、さとりを見た。
「首謀者の名前を教えてもらわないと。色々と商売の邪魔にもなったし、お礼もしないといけない」
「その必要はないわ」
「あんだと?」
「その必要はない。私の責任において対処します」
「それじゃ収まらない。この件で損をした奴もいるし、何より騙されてたって怒り狂ってる。どうしろって言うんだ?」
「そこらは腕の見せ所、よ。これまで聖者の扱ってた商売の店屋や拠点、全部あなたに引き渡すわ」
「私に渡されたって困るよ」
「そっちはあなたの責任で分配してって言ってるの。金にでも換えて、配ったらいいでしょう。金で何でも収まるでしょ」
「資本主義者みたいなこと言うない」
「今時共産主義でもないでしょ。ゲバラももう流行らないわよ」
ゲバラももう流行らない、か。あの地底ゲバラは、旧都をサンタ・クララにはし損ねた訳だ。さとりはベランダから、遠くに見える旧都を見た。カップを傾けながら。
「それでも、問題はあるぜ。首謀者がまだその気なら、また同じことが起こらんでもないだろ」
「そっちの方は……お空に任せたわ」
「お空があ?」
正邪の方も手は打ってあった。さとりは、空に全てを伝えたのである。正邪の目的、空を利用していたこと、鬼を恨んでいること……そして、正邪の心の声から知り得ただけの、正邪のこれまでについて。
「ええ。元はと言えばあの子の責任だもの。あの子がきちんと出来なければ、私がします。飼い主の責任だものね」
ふん、と勇儀は鼻息をついた。元はと言えば、旧都で抑えられなかった勇儀自身の責任でもある。ここは、さとりの言い分を聞くことにした。
「しかしなあ。こんなに鬼が他人の言葉に流されるなんてな。平和ボケした生活送ってるから、思考が人間じみてきたのかねえ」
自嘲じみた言葉に、ふ、とさとりは軽く笑った。それから、たぶん正邪と一緒にいるであろう空のことを思った。
「あとはお空次第。うまくやりなさいよ」
乱闘は次第に収まっていった。乱闘が収まると、酒の乱痴気騒ぎが始まった。酒乱の連中の乱闘が始まり、辺りはやれやれとはやし立てる声でいっぱいになった。
「正邪……」
「いいや。まだ、まだやれる」
正邪はうずくまったまま、声を絞り出した。
「まだやれる。聖者を信じている奴を連れて地上に上がってやる。地上で一旗あげてやるんだ。地底でやれたんだ。同じ方法で、地上でもやってやる。私は革命を起こすんだ」
「正邪……」
「お前はついてくるんじゃない。私は一人でやれる。お前なんてもう信じちゃいないんだ。お前は私を馬鹿にしていたんだ。お前は、私のことを知っていて、馬鹿にして、あの話を聞いていたんだ。馬鹿にしやがって」
「そんなことない! 馬鹿になんて……」
そう言って、空は正邪の腕を掴んだ。強い手で掴んだ。正邪が力を込めて引いても、びくともしなかった。
「お前と私は何でもないだろ。その手を放せよ」
「何でもないことないよ。私は正邪と友達だもん」
「はぁ? 誰と誰が友達だって? 馬鹿こくなよ。お前、まだ私を馬鹿にしてるのか? いいから放せよ」
「放さない!」
「放せよ」
「放さない!」
「放せって言ってんだろ……!」
ほろ、と涙がこぼれて、二人の手の上に落ちた。
「誰が友達だよ。馬鹿にするんじゃあないぞ。お前が私と友達だって。馬鹿にするんじゃない……」
「正邪……」
空は正邪の手を放した。正邪から力が抜けて、膝が吐瀉物の上に落ちた。手も、膝も、吐瀉物で汚れた。
「私はお前を利用したんだぞ……お前が怒っていないはずない。怒ってる。絶対怒っている。口先では何とでも言える。そうやって、私に復讐しようとしてるんだ。そうやって、笑っているんだ……」
「正邪……!」
空は正邪の手を取った。吐瀉物で汚れるのもお構いなかった。
「そんなことない! 私、正邪の友達だよ!」
「いいや。騙そうとしてる」
「そんなことないってば」
空は人並み外れて素直だったから、違うものは違うと言い続けた。やがて鬼達が酒を飲むのにも疲れて、三々五々散っていって、二人だけになっても、二人は言い合いを続けた。100回も200回も続けた。正邪の方から、『もういいよ』と友達であることを認めて、どこかに行くこともできなかった。
「正邪は友達だもん。悪いとか全然思わないよ」
正邪は友達だよ。
お前は友達なんかじゃない。
正邪は友達だってば。
お前なんて友達じゃないっ!
………………………
それからどうなったかというと。
空は結局、ご飯の時間だから帰るね、と帰ってしまいました。それで、正邪はもう二度と会うもんか、空が喜ぶなら余計に会うもんか、と思いましたが、地上や地底などで、空は正邪に会う度に正邪正邪と懐いて、正邪の方ではお前なんて友達じゃないと喚く日々が続きましたが、正邪がそう言うのに空の方では慣れっこになってしまって、それでも構わないのでした。
正邪の方では、また革命を企てているみたいです。それが正邪の生き甲斐で、今更どうしようもないからみたいです。それで、空の方では、正邪がまた何か企むなら、正邪の手伝いをするみたいで、だけど、正邪が何かを企むたび、嘘はよくないよ、とたしなめるので、全然革命の方はうまくいかないみたいでした。
それに、もし革命が起こっても、革命は霊夢や魔理沙が何とかしてくれるでしょう。彼女達は、そんなこと、慣れっこなのですから。
あと所々に差し込まれるネタが個人的に好き。大笑いするもんでもなく狙いすぎて寒いわけでもなく。
良いSSを読むとキャラに感情移入して好きになります
中盤からぐいぐいと………ぐいぐいと引き寄せられて、泣いちゃってもう………
ごちそうさまでした。
旧都の人々をそう表記した部分が(三ヶ所ぐらい?)ありましたでしょ。
>「欲しいな。ね、正邪、それさとりさまにあげたら喜ぶよ」
お空はまだ”正邪”だとは知りませんよね?
よくもまあこんなにミジメでいじましく可愛いらしい正邪が書けるものです。こんちくしょう!
割と真面目な正邪の手管にちょっと感心した。
その割に最後のたたみ方が性急過ぎた感じはするけども。
ともあれ、面白かったです。
印象変えるにしても半端だし。
ですます調の部分だけは話し手(例えばけーね先生の授業など)がいるようにしたらまだ理解できるが…
それ以外は面白かった。
正邪はサグメのオカルトボールによる遷都計画を予知していた…?