季節は冬になり、日も沈んで真っ暗になろうかという頃合いの話である。
宵闇の妖怪はふらふらと浮かんでいた。空にはいつも通りの星空が広がり、森は黒々としてまったく静かである。
遠くに人影が見えた。
おや、こんな時間に誰?人間ではない、こんな時間に出歩いていたら食べられてしまうもの。でもおかしい、歩いてくる影は老人のように見える。
事実、その人影は背中を丸めてゆっくりと近づいてくるのであった。
人影はルーミアの前にやってくると言った。
「貴女はルーミアね。久しぶり」
そういって咳を一つした。
誰かしら、前にあったことがあったっけ?こんな細いおばあさん、見た事はないわ。でも声だけは聞いた事があるような。
そうだ、思い出した。
「もしかして、小夜?」
「そうよ。あれから四十年近くも経っているのに、よくわかったわね」
そう言っておばあさんは、にこりと笑った。 そうか、小夜さんか。なんだか少し痛いような懐かしさを覚えた。
「こんな時間に出歩いちゃ行けないよ」
「優しいのね」
「違うわ、私だって歩いてるのが貴女じゃなければ食べてるわよ」
「そうね、その通り」
そう言って彼女はまた咳をする。なにやら致命的な音のする、苦しげな咳だった。
そうか、寿命が近いのか。妖怪だからか、死の近い人間はなんとなくわかる。
「こんなところで立ち話ってのも何だから、眺めのいい場所に案内するよ」
そう言ってルーミアはお婆さんを連れて夜空へ飛び上がった。
目指すのは一際高く突き出た木の上、その上には彼女の作ったちょっとした展望台がある。
二人はそこに腰掛けた。
ルーミアとお婆さんは思い出話を始めた。
――――――――――
夏の夜のことである、その梅雨に二十三になった小夜は、村はずれの道端で倒れている女の子を発見した。
年の頃は六位だろうか。服はぼろぼろに破けていて、全身傷だらけである。肩の辺りからは大きな切り傷が口を開けていた。出血も激しい。
小夜は彼女に駆け寄って抱き起こした。
「一体何があったの?」
抱き起こされた少女は消え入りそうに囁いた。
「うん、ちょっと他の妖怪に不意打ちをもらっちゃってね。あの子は友達だと思ってたんだけどな……。お姉さんは早く帰った方がいいよ、襲ってきたのはなんとか倒したけど、妖怪同士のいざこざに巻き込まれたなんてのは詰まらない」
「あなた、妖怪なの?」
「そうだよ。それも人食い妖怪」
「人食い?」
少し驚いた。けれど喋るのもやっとと言った少女からは何の脅威も感じられなかった。
「そう、人食い。だから私のことは放っておいて」
「そういう訳にもいかないでしょう」
妖怪とは聞いても、息も絶え絶えな少女である。それを放って帰ることなどできなかった。
小夜は少女の怪我をしていない方の肩を支えて立ち上がった。
そうして家の方へと向かった。幸い、彼女の家は村はずれである。この時間であれば人の目はおそらく無いだろう。距離もそんなに離れていない。
少女の方はと言うと、声を出す気力も残ってなさそうだった。
小夜はそのまま家に少女を担ぎ込み、寝かせると手当をした。
手当と言っても止血と消毒程度のことしかできなかったが。医の心得がある者を呼ぼうともしたのだが、少女に止められた。
彼女は、眠りこける少女の脇で、壁にもたれかかり、いつの間にか眠ってしまった。
夜明けの頃だった、なにやら苦しそうな声に意識を揺り戻されてみると、少女がうなされているのである。熱を出していた。
濡れ布巾を小さなおでこに乗せたが、まだうなされている。手を握ってあげたら、ようやく少し落ち着いた。
結局、手を離すのも可哀想だったので日の昇るまでそのままうつらうつらとしていた。 日も随分と昇り、家の中が薄明るくなる頃には、少女もおとなしく寝息を立て始めた。
小夜は念のために書き置きをして、畑仕事に出た。その日は寝不足がたたって、始終薄もやのかかったような気分であった。
一日の仕事を終えて戻ってみると、少女の熱はいまだ引いておらず、書き置きが読まれた形跡もなかった。
包帯と額の濡れ布巾を取り替えて、水を飲ませると、少女は微かに「ありがとう」と言った。
少女はその夜もまたうなされていたので、小夜はまた彼女の手を握ったまま眠りについた。
少女の熱が引いたのは三日後である。
それを確かめると、なんだか肩の力が抜けて、疲労がどっと押し寄せてきた。
それと同時に、ああ、あの傷で特別な処置をせずに生きているのだから妖怪というのは本当なんだなと思った。
その日の夕方に畑仕事から帰ってみると少女は目を覚ましていた。
そうは言っても、まだ起き上がることはかなわぬようで、仰向けのまま礼を言うのであった。
小夜は少女の側に座ると言った。
「何か食べる?」
「ううん、でも水がほしい」
水を汲んできて少女に渡すと、少女はゆっくり飲み干した。
その少女に小夜はこう訊いた。
「貴女はどうして襲われたの?」
「わからない。あの子とは仲が良かったんだ。本当にどうしてだろう?」
少女は悲しそうな表情をした。そうしてどこか虚ろな表情のまま言った。
「そんなことより、私は人食いよ。怖くないの?」
「今の貴女に私は襲えないでしょう」
「元気になったら襲うかもよ」
「その時はその時よ」
確かに襲われるかも知れないなとは何回か考えたが、かといってそんなに恐怖でもない。
小夜は結婚して二年もしないうちに夫を亡くしていた。半年ほど前のことである。子供もいなかった。
一人で畑仕事をして、同じように過ぎ去る日々。悲しみは無かったが彩りもまた無くなって久しかった。だから、仮に妖怪に殺されたとしても構わない。彼女はそう説明した。
でも実際の所は、彼女の手を頼りに眠る小さな少女の姿に、なにかどうしようもなく切実なものを覚えたからでもある。
彼女の夫が突然死んでしまっってから、ひどく寂しい日々だった。せめて子供がいてくれればと思ったこともある。
回想から戻ってみると、少女はまた寝息を立てていた。
次の日は雨音で目を覚ました。
ふと右手に暖かみを感じて目をやってみると、その手の上に隣で寝ている少女の手が乗せられているのだった。小さな手であった。彼女は何とも言えぬような温かい気分になって、朝餉の支度は放っておいて暫くそのままでいた。
しばらく後、小夜が起き出して食事の支度をしていると少女も目を覚ました。
「おはよう、気分はどう?」
「うん、大分良くなった」
「お粥なら食べられるかしら?」
「うん」
「よかった」
二人分のお粥をつくって、片方を少女に渡した。
「そういえば、名前を聞いてなかったわね。私は小夜。貴女は?」
「ルーミア」
少女はそう答えると、お粥を冷ましながらゆっくりと食べ始めた。
しばらくしてお粥を食べ終わると、茶碗を側に置き、ごちそうさまと両手を合わせた。
そうして、急にかしこまって、お礼を言い出すのだった。
「本当に、色々とありがとう。……その、手を握ってくれてたのとか、すごい助かった。あのおかげで、安心していられた」
すこし俯いてはにかみがちに彼女はそう言った。
「いいのよ、私だって一人でいるよりは、誰かがいた方が楽しいもの」
その後少女は立ち上がったが、すぐに座り込んでしまった。
「どうしたの?」
「そろそろ、お暇しないとって思ったんだけど」
「無理はしちゃ駄目。別にいつまでいてくれたって私は構わないから」
「ごめんなさい」
「もう、謝らなくていいのに」
少女の言葉を聞いて、小夜はなんだか寂しいような気分になった。ああ、そうか、この子がいなくなるとまた独りぼっちになってしまう。
そう思ったとき、ほとんど無意識に言葉が口をついて出た。
「けがが治っても、しばらくここで暮らしていかない?」
それを聞いたルーミアは、はたと迷った。
本来なら相手はいつも食べている人間である。しかし、今度ばかりはそうもいかない。
妖怪とは人間のイメージから生まれる物である。そしてルーミアは年端もいかない子供の形をとっている。そうであるからには、やはり普通の子供としてイメージされる甘えんぼの性質もまた持っているのである。
して、ルーミアの手には大けがと高熱にうなされるさなかで、ずっと寄り添っていてくれた手の感触が残っていた。それも友人に襲われた、やるせなさの中で。要するに、彼女もまた小夜に懐いてしまっていたのだ。
結局、口をついたのは否定でも肯定でもなかった。
「どうして私を引き留めるの?」
「なんかね、貴女がいなくなると寂しいなと思って。迷惑だったら、断ってくれても構わない」
「うん、嬉しい話だけど、少し考えるよ」
その会話の後は、まだどこかぼんやりと寝ている少女の横で、繕い物などしつつ一日を終えた。
――――――――――
暗い夜空の下で、お婆さんはルーミアに言った。
「あの時は申し訳ないことをしたね」
「ううん、私はあれで良かったよ。小夜さんは間違ったことはしてない」
「でも正しくは無かったでしょう?」
はて、正しいとはなんだろうとルーミアは思ったが、一拍おいてこう言った。
「私は、貴女と暮らして楽しかったよ」
そうして、話は昔のことへと戻っていく。
――――――――――
小夜の誘いについて、少女の出した答えはイエスだった。別にそんなにしょっちゅう人間を食べなくてはいけない訳では無い。
もっと言ってしまうと、特別に弱っている時を除いて睡眠をとる必要も無いのだが、小夜に合わせて夜中は眠ることにした。
「まだ完全には回復してないし、しばらくお世話になってもいい?」
その言葉を聞いた小夜は、安心したような明るい気分になった。
「いつまででも構わないわよ」
彼女はそう言って畑仕事に出て行った。
外は晴れ渡り、そこら中で雨の名残がきらきらと輝いていた。そしてまた夏の日の、あのむっとするような暑さの予感がすでに空気中に満ちていた。
一方の少女は未だ体力が回復しきらないのでおとなしく寝ていた。
快復したら、何かお手伝いをしなきゃな、と考えた。
それから、一週間も経つ頃には少女はすっかり快復し、怪我の跡も目立たなくなっていた。
「あの怪我が、もう治ったのね」
それを見た小夜はそう言った。
「妖怪の体は人より丈夫だからね」
「あの怪我、人間だったら死んでたわよ」
「うん、いくら私が妖怪と言っても小夜さんがいなかったら危なかった」
「もう、『小夜さん』じゃなくって『小夜』でいいわよ。もっと楽にして」
「うん」
そうして二人の共同生活は始まった。
――――――――――
あの時の私は、とお婆さんは言った。
「あの時の私は、人食い妖怪がなにかってことは知らなかった」
ルーミアも頷いて言う。
「私も、人間が何かは分からない。おかしな話だけど、私は自分が食べているものの正体が未だわからない」
梟が一声、ホウと鳴いた。
――――――――――
晴れた日は、小夜は畑仕事に行き、少女は家の中の仕事を片付けるというのが習慣になっていた。
少女は、家事については何も知らなかったようだったが、教えると少しずつ飲み込んでいく。決して飲み込みが早いとは言えなかったが、少女は一つ一つの仕事に丁寧に取り組んだ。
ある日、小夜が畑から戻ってくると、少女が「ただいま」と洗濯用の桶を持って土間の方からやってきて、そのまま転んでしまった。辺りには井戸水の雨が降り注いだ。
「ごめんなさい」
少女は目に見えてしょんぼりとした。
「大丈夫? 怪我は無い?」
小夜はそう言った。
「うん」
「大丈夫よ、水なんて放っておいてもその内に乾くんだから」
小夜はそう言って、少女と一緒に辺りを拭き、一緒に洗濯をした。
こんな風に、少女がドジを踏むことはままあったが、そんなところがまた小夜にとっては可愛いのであった。
そうして、二人が仕事を終えた後はとりとめの無い会話をして過ごした。
少女にはときたま怪我をしたときのことが思い出されて心細くなることがあったが、そんな日には小夜にそっとくっついて眠った。
そのまま日々は過ぎて、ある秋の日には少女が栗を拾ってきたこともある。
ある朝小夜が目覚めると、土間の方にひとかたまりの栗が置いてある。
「これはどうしたの?」
「夜中のうちに拾ってきた」
「こんなに沢山?」
栗は籠一杯分ほども置いてあった。
「うん、持ちきれないから何回か往復したよ」
「籠を使えば良かったのに」
「あ」
少女は呆気にとられた顔をした。そうして土間の隅に置いてある籠をしげしげと眺め、「なるほど」と言った。
「でも、ありがとうね。そうだ、今日は雨だから籠でも一緒に作る?」
「面白そう」
そうして二人は籠を編んだ。
その夜は栗ご飯を食べた。
小夜は、少女が妖怪だということなどほとんど忘れていた。
そうしてまた冬のある日、家へ帰ってみると、少女がなにやら木を彫っていた。
「なにをしているの?」
「将棋の駒を作ってるの」
「将棋?」
聞いた事の無い言葉だった。
「昔、河童に教えてもらってね。冬は外でやることもあんまり無いだろうから、二人でできる遊びは丁度いいかなと思って」
少女によると、将棋というのは升目のある盤の上で駒をかわりばんこに動かして遊ぶ物らしい。でも少女が教えて貰えたのは、河童達がやっているのよりも駒のずっと少ないルールの物だったとか。
小夜も少女にやり方を教えてもらって駒を彫ってみた。
そうしていつしか不格好な将棋の駒が一揃いできた。盤は木の板に墨で線を引いた物、駒はそれっぽい形をした木に文字が彫られているだけの物だった。
それからというもの、小夜の家には時折ペチペチという木の音がするようになった。
その屋根には雪が静かに積もっていく。
喧嘩をしたこともまたあった。たいしたことの無いことから言い合いが始まり、エスカレートしてしまった。
しかし、翌日には仲直りをしているのである。
春には、流し雛を流しに行った。
少女は日中は出歩けないので、夜中にこっそりと近くの川まで行った。
「私は妖怪なんだから流し雛なんて別にいいのよ」
「だーめ、貴女も女の子なんだから。こういうのはちゃんとやらないと」
「流し雛は女の子じゃなくてもやるでしょ。そういえば、流し雛の神にあったことがあるよ」
「そうなの?」
「うん、なんかくるくる回ってた」
「変わってるわね」
「うん、でも良い子よ」
昏い水の中を、薄ぼんやりと白い人形がくるくると流れていった。
少女は、「人形もくるくる回ってたね」といってコロコロと笑った。
――――――――――
思い出話が一段落するとルーミアは言った。
「ほら、いろいろと楽しかったでしょ」
「そうね、楽しかった」
「ほら、だから小夜は間違ってなかった」
でもね、とルーミアは言葉を続けた。
「でも、人間と人食い妖怪が一緒に暮らすのはやっぱり無理があったんだよね」
――――――――――
二人が出会った次の年には、二人はまるで母子の様に仲良くなっていた。お互いに、相手のことを自分の居場所と思えるようになっていた。
妖怪と人間とは言え、事実、少女と女性であるのだから、母子のようになれてもおかしくはない。
でもその一方で、やはり妖怪と人間でもあったのだ。
事の起こったのは、小夜と少女が出会った二年後、秋の出来事である。
秋の夕方は寒い。昼間のほんのりとした陽光が陰ってからは、冬将軍の忍び寄る時間だ。
そんな空っ風の吹く夕方に、寺子屋の先生が蒼い顔をして尋ねてきた。
なんでも寺子屋で大先生と慕われている老人が山に行ったきり帰ってこないらしい。
村人達はもう日が暮れているにも関わらず捜索隊を作った。
小夜もその中に参加した。小夜もまた大先生の教え子だったのだ。
先生は、小夜が寺子屋に通っていた頃にはもう髪に白い物が混じり、ごま塩の中に優しい笑顔を浮かべている人だった。
村人達は四、五人で一組になり暗い山の中へと散らばっていった。
森の中はとても暗く、小夜達は提灯を頼りに歩みを進めていった。
小夜にはなんだか、先生が、とらえどころのない暗闇に呑まれてしまったのではないかと思われた。
あながちそれは間違いではない。だからこそルーミアのような妖怪がいるのだから。
しかし、小夜の考えはそこまで至らなかった。小夜はルーミアのことを本当に少女としてしか見ていなかった。なにせ、今まで少女の妖怪らしいところと言えば日光を嫌がるのと怪我からの回復振りだけなのだから。
だからこそ、小夜は先生の遺体を発見したときには、足下に真っ暗な穴がぽっかりと口を空けているような心地がして動けなくなってしまった。
石のごろごろ転がった川岸には、血ぬれの先生の遺体と、少女がいた。
先生は後頭部から血を流していて、右脚がなかった。
その隣で座っている少女は口の周りをぬらりと濡らし、手には足首から先以外は骨となった脚が、提灯の明かりを受けてぬらぬらと光っていた。
小夜と一緒にいた村人達は悲鳴を上げて、あっという間に逃げていった。小夜だけが呆気にとられて、取り残された。
小夜と目が合った少女の顔には焦りが浮かんだ。
しまった、と少女は思った。
しまった、見つかってしまった。
彼女の食べている人間は、彼女が殺したのではなかった。おそらく、転んで後頭部を岩に打ち付けたのだろう。彼女が見つけたときにはもう死んでいた。
それならば、と思ったのだ。死体は燃やされる物と決まっているのだから食べてしまおうと。
小夜と暮らすようになって、彼女は人を食べることに疑問を感じていた。
しかし、彼女は人食いだから人を食べなければ消えてしまう。それは彼女の存在意義の問題であった。
したがって彼女は、既に死んでいる人間を食べるという折衷案をとることにした。
それでも後ろめたさを感じることはあった。
若い女性の死体を見つけたときなどは、その死体の手にどうしても小夜の手のイメージが被さってしまい、口にできなかった。
彼女は時々夜中に抜け出して山に行ったが、そうそう都合良く死体が見つかるわけではない。だから機会を無駄にするわけにはいかなかった。
確かに、少女は小夜から見れば酷く残酷なことをしている。でも、説明すればきっと受け入れてくれる。心のどこかでそう思っていた。
「この人は、私が見つけたときには死んでたんだ。それに私は人を食べなくちゃ生きていけないの。だから――」
「だからって……」
小夜が声を絞り出した。
小夜はこの時初めて、人が食べられている光景を目の当たりにした。それもかつての恩師の無惨な死体を、それを食らっている少女を。
小夜は言った。
「だからって、そんな、ひどい……」
小夜の少女を見る目は、妖怪を見る目であった。
少女はその目に胸をえぐられるような心地がした。
「お願い、そんな目で見ないで」
小夜は黙って動けないでいる。
「私だって、食べないで済むのなら、そうしたかった」
少女は小夜の方に一歩踏み出した。ただ、自分を受け入れてほしかった。居場所をなくしたくなかった。
少女の言いたいことは、理性の浅いところでのみ、小夜には理解できた。でも心が追いつかない。
少女が一歩近づいてきたとき、小夜は思わず一歩下がってしまった。腕で身を庇うようにして。
そうして、すぐに後悔した。
少女にとって、その一歩の後ずさりは明確な拒否だった。体を庇うように組まれた腕は恐怖を表していた。もうすでに小夜の目は、かつての少女を見つめる目ではなかった。
ああ、そうか。もう無理なんだな、と悟った。
少女は、酷く傷ついた表情を浮かべると、振り向いて走り出した。
確かに私は人間を食べるけど、そんな風に私を作り出したのはやっぱり人間じゃない。私だって、私だって。
後ろから呼び止める声が聞こえたが、振り向かなかった。それほどに、あの目は、あの後ずさりはショックだった。
小夜だけが、河原に取り残された。
彼女は少女を受け止めてやれなかったことを悔やんだが、どこか「これで良かったのだ」という気もした。
しばらくして、河原に座り込んでいる彼女の元に、先ほど逃げ出した村人達が戻ってきた。
「おーい、小夜さんがいたぞ」
「良かった。無事だったか」
「すまねえな、すっかり逃げるのに夢中で、小夜さんがいないのに気付いたときはもう随分と走っちゃってた」
「それにしても、あれは人食いだろう。良く無事だったな」
小夜は答えた。
「あの妖怪は、生きてる人間は襲わないって言ってた」
そう言っておけば、少女を捕まえるのに村人が躍起になることもなかろう、と思った。
家に帰ると、家の中はすっかり空っぽで、ひどく虚しい心地がした。少女がまた何ともなかったかのように帰ってくるのではないかと思いもしたが、結局少女は戻ってこなかった。
しばらくすると寺子屋の仕事を依頼された。大先生がいなくなったことで人手が足りなく、村の中でも頭の良い小夜にその仕事を任せたいとの事だった。
彼女は引き受けた。そうして、ふさぎ込んでいた彼女も、しばらく経つうちには明るさを取り戻した。かつてのような孤独感は振り払えた。
ただ時折、あの少女はどうしているだろうと考えた。
少女の方もしばらくはふさぎ込んでいた。生きている人間を襲うこともしばらくできなかった。
小夜の所へ戻ろうかと思いもしたが、そうしたところで、私は人食い妖怪でいられるだろうかと考えた。もし私は大丈夫だったとして、小夜は人間のままでいられるだろうかと。人食いを受け入れられないのは、きっと人間だからに違いないから。
そんなあるとき、山の中で山賊が里の人間を殺しているところに遭遇した。
人もまた人を喰うんだな、となにかが吹っ切れた。それからは必要なときは生きている人間も襲えるようになった。
そのうちに、虫や夜雀などの妖怪友達もできた。
ルーミアもまた、元の生活に戻ったのである。ただ、時々小夜はどうしているだろうかと考えた。
――――――――――
二人とも、お互いがしっかり立ち直っていたことを知って、朗らかな表情をしていた。
「そこでね、最後に一つだけ頼みたいことがあるんだ」と小夜は言った。
「頼みたいこと?」
勝手なことを言って申し訳ないんだけど、と断ってから小夜は続けた。
「私を食べてほしい」
それは無理だなとルーミアは思った。
「どうして?」
「私はきっともうすぐ死ぬ。そうでしょう?」
「……」
ルーミアは黙った。でも小夜の時折する咳からは死の匂いがするのも確かであった。
「気を遣わないで。それぐらいは私にも分かる」
「そうだね」
「そこでね、私は思ったのよ。人以外の生き物は死んだとき、他の生き物の食料になったり、土に帰って植物を育てる。でも人間は燃やされて煙と灰になってしまう。それって寂しいと思わない?」
「そうなのかなあ」
「それに、私一人が食べられれば他の食べられる人を一人減らせる」
「それは、そうだけど」
そう言って、ルーミアは非難の目を小夜に向ける。
小夜は言った。
「私は、あなたに酷いことをお願いしている」
「その通りよ」とルーミアは答える。
ややあって、小夜は言った。
「ごめんなさい。それじゃあ私は、もう行くわ」
そう言って小夜は立ち上がった。
「駄目よ。行かせない」
「何故かしら?」
「だって小夜、貴女は他の妖怪に食べられに行くつもりでしょう」
「そうね、もう遺書は書いてきてあるし」
「他の妖怪に渡すくらいなら、私が食べる」
「……ありがとう」
小夜は微笑んで、またルーミアの横に座った。
最期の数日を、小夜は乾いたほら穴の中でルーミアと過ごした。
冬の空気は冷たく、小夜の咳は日に日に苦しげになっていった。
寝ている小夜の横で、ルーミアは小夜の手を握ったまま、日がな一日過ごした。
「いつぞやとは逆になったね」とルーミアが言うと、「いいえ、私にとっては同じよ」と小夜が返した。
数日後の晴れた夜、小夜は息を引き取った。
頭上には満天の星空が広がり、その下には黒々とした森がどこまでも広がって、冷たい空気だけがただピタリと澄んでいた。
ルーミアは、遺体を栗の木の下に埋めた。
食べるという約束は、守らなかった。
「私だって」
彼女は一人、呟いた。
宵闇の妖怪はふらふらと浮かんでいた。空にはいつも通りの星空が広がり、森は黒々としてまったく静かである。
遠くに人影が見えた。
おや、こんな時間に誰?人間ではない、こんな時間に出歩いていたら食べられてしまうもの。でもおかしい、歩いてくる影は老人のように見える。
事実、その人影は背中を丸めてゆっくりと近づいてくるのであった。
人影はルーミアの前にやってくると言った。
「貴女はルーミアね。久しぶり」
そういって咳を一つした。
誰かしら、前にあったことがあったっけ?こんな細いおばあさん、見た事はないわ。でも声だけは聞いた事があるような。
そうだ、思い出した。
「もしかして、小夜?」
「そうよ。あれから四十年近くも経っているのに、よくわかったわね」
そう言っておばあさんは、にこりと笑った。 そうか、小夜さんか。なんだか少し痛いような懐かしさを覚えた。
「こんな時間に出歩いちゃ行けないよ」
「優しいのね」
「違うわ、私だって歩いてるのが貴女じゃなければ食べてるわよ」
「そうね、その通り」
そう言って彼女はまた咳をする。なにやら致命的な音のする、苦しげな咳だった。
そうか、寿命が近いのか。妖怪だからか、死の近い人間はなんとなくわかる。
「こんなところで立ち話ってのも何だから、眺めのいい場所に案内するよ」
そう言ってルーミアはお婆さんを連れて夜空へ飛び上がった。
目指すのは一際高く突き出た木の上、その上には彼女の作ったちょっとした展望台がある。
二人はそこに腰掛けた。
ルーミアとお婆さんは思い出話を始めた。
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夏の夜のことである、その梅雨に二十三になった小夜は、村はずれの道端で倒れている女の子を発見した。
年の頃は六位だろうか。服はぼろぼろに破けていて、全身傷だらけである。肩の辺りからは大きな切り傷が口を開けていた。出血も激しい。
小夜は彼女に駆け寄って抱き起こした。
「一体何があったの?」
抱き起こされた少女は消え入りそうに囁いた。
「うん、ちょっと他の妖怪に不意打ちをもらっちゃってね。あの子は友達だと思ってたんだけどな……。お姉さんは早く帰った方がいいよ、襲ってきたのはなんとか倒したけど、妖怪同士のいざこざに巻き込まれたなんてのは詰まらない」
「あなた、妖怪なの?」
「そうだよ。それも人食い妖怪」
「人食い?」
少し驚いた。けれど喋るのもやっとと言った少女からは何の脅威も感じられなかった。
「そう、人食い。だから私のことは放っておいて」
「そういう訳にもいかないでしょう」
妖怪とは聞いても、息も絶え絶えな少女である。それを放って帰ることなどできなかった。
小夜は少女の怪我をしていない方の肩を支えて立ち上がった。
そうして家の方へと向かった。幸い、彼女の家は村はずれである。この時間であれば人の目はおそらく無いだろう。距離もそんなに離れていない。
少女の方はと言うと、声を出す気力も残ってなさそうだった。
小夜はそのまま家に少女を担ぎ込み、寝かせると手当をした。
手当と言っても止血と消毒程度のことしかできなかったが。医の心得がある者を呼ぼうともしたのだが、少女に止められた。
彼女は、眠りこける少女の脇で、壁にもたれかかり、いつの間にか眠ってしまった。
夜明けの頃だった、なにやら苦しそうな声に意識を揺り戻されてみると、少女がうなされているのである。熱を出していた。
濡れ布巾を小さなおでこに乗せたが、まだうなされている。手を握ってあげたら、ようやく少し落ち着いた。
結局、手を離すのも可哀想だったので日の昇るまでそのままうつらうつらとしていた。 日も随分と昇り、家の中が薄明るくなる頃には、少女もおとなしく寝息を立て始めた。
小夜は念のために書き置きをして、畑仕事に出た。その日は寝不足がたたって、始終薄もやのかかったような気分であった。
一日の仕事を終えて戻ってみると、少女の熱はいまだ引いておらず、書き置きが読まれた形跡もなかった。
包帯と額の濡れ布巾を取り替えて、水を飲ませると、少女は微かに「ありがとう」と言った。
少女はその夜もまたうなされていたので、小夜はまた彼女の手を握ったまま眠りについた。
少女の熱が引いたのは三日後である。
それを確かめると、なんだか肩の力が抜けて、疲労がどっと押し寄せてきた。
それと同時に、ああ、あの傷で特別な処置をせずに生きているのだから妖怪というのは本当なんだなと思った。
その日の夕方に畑仕事から帰ってみると少女は目を覚ましていた。
そうは言っても、まだ起き上がることはかなわぬようで、仰向けのまま礼を言うのであった。
小夜は少女の側に座ると言った。
「何か食べる?」
「ううん、でも水がほしい」
水を汲んできて少女に渡すと、少女はゆっくり飲み干した。
その少女に小夜はこう訊いた。
「貴女はどうして襲われたの?」
「わからない。あの子とは仲が良かったんだ。本当にどうしてだろう?」
少女は悲しそうな表情をした。そうしてどこか虚ろな表情のまま言った。
「そんなことより、私は人食いよ。怖くないの?」
「今の貴女に私は襲えないでしょう」
「元気になったら襲うかもよ」
「その時はその時よ」
確かに襲われるかも知れないなとは何回か考えたが、かといってそんなに恐怖でもない。
小夜は結婚して二年もしないうちに夫を亡くしていた。半年ほど前のことである。子供もいなかった。
一人で畑仕事をして、同じように過ぎ去る日々。悲しみは無かったが彩りもまた無くなって久しかった。だから、仮に妖怪に殺されたとしても構わない。彼女はそう説明した。
でも実際の所は、彼女の手を頼りに眠る小さな少女の姿に、なにかどうしようもなく切実なものを覚えたからでもある。
彼女の夫が突然死んでしまっってから、ひどく寂しい日々だった。せめて子供がいてくれればと思ったこともある。
回想から戻ってみると、少女はまた寝息を立てていた。
次の日は雨音で目を覚ました。
ふと右手に暖かみを感じて目をやってみると、その手の上に隣で寝ている少女の手が乗せられているのだった。小さな手であった。彼女は何とも言えぬような温かい気分になって、朝餉の支度は放っておいて暫くそのままでいた。
しばらく後、小夜が起き出して食事の支度をしていると少女も目を覚ました。
「おはよう、気分はどう?」
「うん、大分良くなった」
「お粥なら食べられるかしら?」
「うん」
「よかった」
二人分のお粥をつくって、片方を少女に渡した。
「そういえば、名前を聞いてなかったわね。私は小夜。貴女は?」
「ルーミア」
少女はそう答えると、お粥を冷ましながらゆっくりと食べ始めた。
しばらくしてお粥を食べ終わると、茶碗を側に置き、ごちそうさまと両手を合わせた。
そうして、急にかしこまって、お礼を言い出すのだった。
「本当に、色々とありがとう。……その、手を握ってくれてたのとか、すごい助かった。あのおかげで、安心していられた」
すこし俯いてはにかみがちに彼女はそう言った。
「いいのよ、私だって一人でいるよりは、誰かがいた方が楽しいもの」
その後少女は立ち上がったが、すぐに座り込んでしまった。
「どうしたの?」
「そろそろ、お暇しないとって思ったんだけど」
「無理はしちゃ駄目。別にいつまでいてくれたって私は構わないから」
「ごめんなさい」
「もう、謝らなくていいのに」
少女の言葉を聞いて、小夜はなんだか寂しいような気分になった。ああ、そうか、この子がいなくなるとまた独りぼっちになってしまう。
そう思ったとき、ほとんど無意識に言葉が口をついて出た。
「けがが治っても、しばらくここで暮らしていかない?」
それを聞いたルーミアは、はたと迷った。
本来なら相手はいつも食べている人間である。しかし、今度ばかりはそうもいかない。
妖怪とは人間のイメージから生まれる物である。そしてルーミアは年端もいかない子供の形をとっている。そうであるからには、やはり普通の子供としてイメージされる甘えんぼの性質もまた持っているのである。
して、ルーミアの手には大けがと高熱にうなされるさなかで、ずっと寄り添っていてくれた手の感触が残っていた。それも友人に襲われた、やるせなさの中で。要するに、彼女もまた小夜に懐いてしまっていたのだ。
結局、口をついたのは否定でも肯定でもなかった。
「どうして私を引き留めるの?」
「なんかね、貴女がいなくなると寂しいなと思って。迷惑だったら、断ってくれても構わない」
「うん、嬉しい話だけど、少し考えるよ」
その会話の後は、まだどこかぼんやりと寝ている少女の横で、繕い物などしつつ一日を終えた。
――――――――――
暗い夜空の下で、お婆さんはルーミアに言った。
「あの時は申し訳ないことをしたね」
「ううん、私はあれで良かったよ。小夜さんは間違ったことはしてない」
「でも正しくは無かったでしょう?」
はて、正しいとはなんだろうとルーミアは思ったが、一拍おいてこう言った。
「私は、貴女と暮らして楽しかったよ」
そうして、話は昔のことへと戻っていく。
――――――――――
小夜の誘いについて、少女の出した答えはイエスだった。別にそんなにしょっちゅう人間を食べなくてはいけない訳では無い。
もっと言ってしまうと、特別に弱っている時を除いて睡眠をとる必要も無いのだが、小夜に合わせて夜中は眠ることにした。
「まだ完全には回復してないし、しばらくお世話になってもいい?」
その言葉を聞いた小夜は、安心したような明るい気分になった。
「いつまででも構わないわよ」
彼女はそう言って畑仕事に出て行った。
外は晴れ渡り、そこら中で雨の名残がきらきらと輝いていた。そしてまた夏の日の、あのむっとするような暑さの予感がすでに空気中に満ちていた。
一方の少女は未だ体力が回復しきらないのでおとなしく寝ていた。
快復したら、何かお手伝いをしなきゃな、と考えた。
それから、一週間も経つ頃には少女はすっかり快復し、怪我の跡も目立たなくなっていた。
「あの怪我が、もう治ったのね」
それを見た小夜はそう言った。
「妖怪の体は人より丈夫だからね」
「あの怪我、人間だったら死んでたわよ」
「うん、いくら私が妖怪と言っても小夜さんがいなかったら危なかった」
「もう、『小夜さん』じゃなくって『小夜』でいいわよ。もっと楽にして」
「うん」
そうして二人の共同生活は始まった。
――――――――――
あの時の私は、とお婆さんは言った。
「あの時の私は、人食い妖怪がなにかってことは知らなかった」
ルーミアも頷いて言う。
「私も、人間が何かは分からない。おかしな話だけど、私は自分が食べているものの正体が未だわからない」
梟が一声、ホウと鳴いた。
――――――――――
晴れた日は、小夜は畑仕事に行き、少女は家の中の仕事を片付けるというのが習慣になっていた。
少女は、家事については何も知らなかったようだったが、教えると少しずつ飲み込んでいく。決して飲み込みが早いとは言えなかったが、少女は一つ一つの仕事に丁寧に取り組んだ。
ある日、小夜が畑から戻ってくると、少女が「ただいま」と洗濯用の桶を持って土間の方からやってきて、そのまま転んでしまった。辺りには井戸水の雨が降り注いだ。
「ごめんなさい」
少女は目に見えてしょんぼりとした。
「大丈夫? 怪我は無い?」
小夜はそう言った。
「うん」
「大丈夫よ、水なんて放っておいてもその内に乾くんだから」
小夜はそう言って、少女と一緒に辺りを拭き、一緒に洗濯をした。
こんな風に、少女がドジを踏むことはままあったが、そんなところがまた小夜にとっては可愛いのであった。
そうして、二人が仕事を終えた後はとりとめの無い会話をして過ごした。
少女にはときたま怪我をしたときのことが思い出されて心細くなることがあったが、そんな日には小夜にそっとくっついて眠った。
そのまま日々は過ぎて、ある秋の日には少女が栗を拾ってきたこともある。
ある朝小夜が目覚めると、土間の方にひとかたまりの栗が置いてある。
「これはどうしたの?」
「夜中のうちに拾ってきた」
「こんなに沢山?」
栗は籠一杯分ほども置いてあった。
「うん、持ちきれないから何回か往復したよ」
「籠を使えば良かったのに」
「あ」
少女は呆気にとられた顔をした。そうして土間の隅に置いてある籠をしげしげと眺め、「なるほど」と言った。
「でも、ありがとうね。そうだ、今日は雨だから籠でも一緒に作る?」
「面白そう」
そうして二人は籠を編んだ。
その夜は栗ご飯を食べた。
小夜は、少女が妖怪だということなどほとんど忘れていた。
そうしてまた冬のある日、家へ帰ってみると、少女がなにやら木を彫っていた。
「なにをしているの?」
「将棋の駒を作ってるの」
「将棋?」
聞いた事の無い言葉だった。
「昔、河童に教えてもらってね。冬は外でやることもあんまり無いだろうから、二人でできる遊びは丁度いいかなと思って」
少女によると、将棋というのは升目のある盤の上で駒をかわりばんこに動かして遊ぶ物らしい。でも少女が教えて貰えたのは、河童達がやっているのよりも駒のずっと少ないルールの物だったとか。
小夜も少女にやり方を教えてもらって駒を彫ってみた。
そうしていつしか不格好な将棋の駒が一揃いできた。盤は木の板に墨で線を引いた物、駒はそれっぽい形をした木に文字が彫られているだけの物だった。
それからというもの、小夜の家には時折ペチペチという木の音がするようになった。
その屋根には雪が静かに積もっていく。
喧嘩をしたこともまたあった。たいしたことの無いことから言い合いが始まり、エスカレートしてしまった。
しかし、翌日には仲直りをしているのである。
春には、流し雛を流しに行った。
少女は日中は出歩けないので、夜中にこっそりと近くの川まで行った。
「私は妖怪なんだから流し雛なんて別にいいのよ」
「だーめ、貴女も女の子なんだから。こういうのはちゃんとやらないと」
「流し雛は女の子じゃなくてもやるでしょ。そういえば、流し雛の神にあったことがあるよ」
「そうなの?」
「うん、なんかくるくる回ってた」
「変わってるわね」
「うん、でも良い子よ」
昏い水の中を、薄ぼんやりと白い人形がくるくると流れていった。
少女は、「人形もくるくる回ってたね」といってコロコロと笑った。
――――――――――
思い出話が一段落するとルーミアは言った。
「ほら、いろいろと楽しかったでしょ」
「そうね、楽しかった」
「ほら、だから小夜は間違ってなかった」
でもね、とルーミアは言葉を続けた。
「でも、人間と人食い妖怪が一緒に暮らすのはやっぱり無理があったんだよね」
――――――――――
二人が出会った次の年には、二人はまるで母子の様に仲良くなっていた。お互いに、相手のことを自分の居場所と思えるようになっていた。
妖怪と人間とは言え、事実、少女と女性であるのだから、母子のようになれてもおかしくはない。
でもその一方で、やはり妖怪と人間でもあったのだ。
事の起こったのは、小夜と少女が出会った二年後、秋の出来事である。
秋の夕方は寒い。昼間のほんのりとした陽光が陰ってからは、冬将軍の忍び寄る時間だ。
そんな空っ風の吹く夕方に、寺子屋の先生が蒼い顔をして尋ねてきた。
なんでも寺子屋で大先生と慕われている老人が山に行ったきり帰ってこないらしい。
村人達はもう日が暮れているにも関わらず捜索隊を作った。
小夜もその中に参加した。小夜もまた大先生の教え子だったのだ。
先生は、小夜が寺子屋に通っていた頃にはもう髪に白い物が混じり、ごま塩の中に優しい笑顔を浮かべている人だった。
村人達は四、五人で一組になり暗い山の中へと散らばっていった。
森の中はとても暗く、小夜達は提灯を頼りに歩みを進めていった。
小夜にはなんだか、先生が、とらえどころのない暗闇に呑まれてしまったのではないかと思われた。
あながちそれは間違いではない。だからこそルーミアのような妖怪がいるのだから。
しかし、小夜の考えはそこまで至らなかった。小夜はルーミアのことを本当に少女としてしか見ていなかった。なにせ、今まで少女の妖怪らしいところと言えば日光を嫌がるのと怪我からの回復振りだけなのだから。
だからこそ、小夜は先生の遺体を発見したときには、足下に真っ暗な穴がぽっかりと口を空けているような心地がして動けなくなってしまった。
石のごろごろ転がった川岸には、血ぬれの先生の遺体と、少女がいた。
先生は後頭部から血を流していて、右脚がなかった。
その隣で座っている少女は口の周りをぬらりと濡らし、手には足首から先以外は骨となった脚が、提灯の明かりを受けてぬらぬらと光っていた。
小夜と一緒にいた村人達は悲鳴を上げて、あっという間に逃げていった。小夜だけが呆気にとられて、取り残された。
小夜と目が合った少女の顔には焦りが浮かんだ。
しまった、と少女は思った。
しまった、見つかってしまった。
彼女の食べている人間は、彼女が殺したのではなかった。おそらく、転んで後頭部を岩に打ち付けたのだろう。彼女が見つけたときにはもう死んでいた。
それならば、と思ったのだ。死体は燃やされる物と決まっているのだから食べてしまおうと。
小夜と暮らすようになって、彼女は人を食べることに疑問を感じていた。
しかし、彼女は人食いだから人を食べなければ消えてしまう。それは彼女の存在意義の問題であった。
したがって彼女は、既に死んでいる人間を食べるという折衷案をとることにした。
それでも後ろめたさを感じることはあった。
若い女性の死体を見つけたときなどは、その死体の手にどうしても小夜の手のイメージが被さってしまい、口にできなかった。
彼女は時々夜中に抜け出して山に行ったが、そうそう都合良く死体が見つかるわけではない。だから機会を無駄にするわけにはいかなかった。
確かに、少女は小夜から見れば酷く残酷なことをしている。でも、説明すればきっと受け入れてくれる。心のどこかでそう思っていた。
「この人は、私が見つけたときには死んでたんだ。それに私は人を食べなくちゃ生きていけないの。だから――」
「だからって……」
小夜が声を絞り出した。
小夜はこの時初めて、人が食べられている光景を目の当たりにした。それもかつての恩師の無惨な死体を、それを食らっている少女を。
小夜は言った。
「だからって、そんな、ひどい……」
小夜の少女を見る目は、妖怪を見る目であった。
少女はその目に胸をえぐられるような心地がした。
「お願い、そんな目で見ないで」
小夜は黙って動けないでいる。
「私だって、食べないで済むのなら、そうしたかった」
少女は小夜の方に一歩踏み出した。ただ、自分を受け入れてほしかった。居場所をなくしたくなかった。
少女の言いたいことは、理性の浅いところでのみ、小夜には理解できた。でも心が追いつかない。
少女が一歩近づいてきたとき、小夜は思わず一歩下がってしまった。腕で身を庇うようにして。
そうして、すぐに後悔した。
少女にとって、その一歩の後ずさりは明確な拒否だった。体を庇うように組まれた腕は恐怖を表していた。もうすでに小夜の目は、かつての少女を見つめる目ではなかった。
ああ、そうか。もう無理なんだな、と悟った。
少女は、酷く傷ついた表情を浮かべると、振り向いて走り出した。
確かに私は人間を食べるけど、そんな風に私を作り出したのはやっぱり人間じゃない。私だって、私だって。
後ろから呼び止める声が聞こえたが、振り向かなかった。それほどに、あの目は、あの後ずさりはショックだった。
小夜だけが、河原に取り残された。
彼女は少女を受け止めてやれなかったことを悔やんだが、どこか「これで良かったのだ」という気もした。
しばらくして、河原に座り込んでいる彼女の元に、先ほど逃げ出した村人達が戻ってきた。
「おーい、小夜さんがいたぞ」
「良かった。無事だったか」
「すまねえな、すっかり逃げるのに夢中で、小夜さんがいないのに気付いたときはもう随分と走っちゃってた」
「それにしても、あれは人食いだろう。良く無事だったな」
小夜は答えた。
「あの妖怪は、生きてる人間は襲わないって言ってた」
そう言っておけば、少女を捕まえるのに村人が躍起になることもなかろう、と思った。
家に帰ると、家の中はすっかり空っぽで、ひどく虚しい心地がした。少女がまた何ともなかったかのように帰ってくるのではないかと思いもしたが、結局少女は戻ってこなかった。
しばらくすると寺子屋の仕事を依頼された。大先生がいなくなったことで人手が足りなく、村の中でも頭の良い小夜にその仕事を任せたいとの事だった。
彼女は引き受けた。そうして、ふさぎ込んでいた彼女も、しばらく経つうちには明るさを取り戻した。かつてのような孤独感は振り払えた。
ただ時折、あの少女はどうしているだろうと考えた。
少女の方もしばらくはふさぎ込んでいた。生きている人間を襲うこともしばらくできなかった。
小夜の所へ戻ろうかと思いもしたが、そうしたところで、私は人食い妖怪でいられるだろうかと考えた。もし私は大丈夫だったとして、小夜は人間のままでいられるだろうかと。人食いを受け入れられないのは、きっと人間だからに違いないから。
そんなあるとき、山の中で山賊が里の人間を殺しているところに遭遇した。
人もまた人を喰うんだな、となにかが吹っ切れた。それからは必要なときは生きている人間も襲えるようになった。
そのうちに、虫や夜雀などの妖怪友達もできた。
ルーミアもまた、元の生活に戻ったのである。ただ、時々小夜はどうしているだろうかと考えた。
――――――――――
二人とも、お互いがしっかり立ち直っていたことを知って、朗らかな表情をしていた。
「そこでね、最後に一つだけ頼みたいことがあるんだ」と小夜は言った。
「頼みたいこと?」
勝手なことを言って申し訳ないんだけど、と断ってから小夜は続けた。
「私を食べてほしい」
それは無理だなとルーミアは思った。
「どうして?」
「私はきっともうすぐ死ぬ。そうでしょう?」
「……」
ルーミアは黙った。でも小夜の時折する咳からは死の匂いがするのも確かであった。
「気を遣わないで。それぐらいは私にも分かる」
「そうだね」
「そこでね、私は思ったのよ。人以外の生き物は死んだとき、他の生き物の食料になったり、土に帰って植物を育てる。でも人間は燃やされて煙と灰になってしまう。それって寂しいと思わない?」
「そうなのかなあ」
「それに、私一人が食べられれば他の食べられる人を一人減らせる」
「それは、そうだけど」
そう言って、ルーミアは非難の目を小夜に向ける。
小夜は言った。
「私は、あなたに酷いことをお願いしている」
「その通りよ」とルーミアは答える。
ややあって、小夜は言った。
「ごめんなさい。それじゃあ私は、もう行くわ」
そう言って小夜は立ち上がった。
「駄目よ。行かせない」
「何故かしら?」
「だって小夜、貴女は他の妖怪に食べられに行くつもりでしょう」
「そうね、もう遺書は書いてきてあるし」
「他の妖怪に渡すくらいなら、私が食べる」
「……ありがとう」
小夜は微笑んで、またルーミアの横に座った。
最期の数日を、小夜は乾いたほら穴の中でルーミアと過ごした。
冬の空気は冷たく、小夜の咳は日に日に苦しげになっていった。
寝ている小夜の横で、ルーミアは小夜の手を握ったまま、日がな一日過ごした。
「いつぞやとは逆になったね」とルーミアが言うと、「いいえ、私にとっては同じよ」と小夜が返した。
数日後の晴れた夜、小夜は息を引き取った。
頭上には満天の星空が広がり、その下には黒々とした森がどこまでも広がって、冷たい空気だけがただピタリと澄んでいた。
ルーミアは、遺体を栗の木の下に埋めた。
食べるという約束は、守らなかった。
「私だって」
彼女は一人、呟いた。