「…パチェー!…パチェー!」
またか、と紅魔館に無数にある蔵書の持ち主にして意見役。"魔女"パチュリー・ノーレッジは本のページを捲りながら思った。
おそらく…だなんて言葉を用いる必要もなく、この声はレミィ…吸血鬼レミリア・スカーレットの物だと断定出来るのは、なんだかんだ付き合いが長いお陰だ。
その長年の付き合いによる経験から、やがて来るだろう喧騒に備えて読みかけの本をそっと閉じる。
「パチェーッ!…ああやっぱりここに居たのね!」
想定通りやかましい物音を立てながら図書館の大扉を乱雑に押し開いて、やかましいのがやかましく侵入してきた。
普段から高貴なレディを自称しているとは思えない入り方だったけど、その事を本人はすでに忘れているのだろうか。
…まぁ不変の大図書館に、少し風が吹き込んだ物と思って大目に見る事にしよう。
「…コホッ…何か用…レミィ?」
バタバタと図書館内だと言うのに、大足で近寄ってくる親友のお陰で少し咳が出た。
せっかく今日はいつもよりも、持病の喘息が大人しくしてくれていたと言うのに、だ。
ホコリをたてないように過ごしてくれ、なんて話はもちろん何度もしてきたが…おそらくレミィの頭の中でその話はもう、この図書館のようにホコリを被ってしまっているのだろう。
「パチェ!コレを見なさい!」
私に一瞥すらせずレミィはそう言うと、いつもは読む本の為にスペースを割いている小ぶりのテーブルの上に、良くわからない帽子のような形のガラクタを乱雑に載せてしまった。
お陰様でガラクタに付いたホコリが宙に浮き、図書館内の環境が更に悪化したようだ。
兎にも角にも厄介事を起こされてしまう前に、すかさず文句の一つでも言おうと口を開く。
「…ちょっと変な物をここに持ってこな―」
「ふふん!どう?面白そうな帽子でしょう!あの黒白の魔理沙が持っていたのだけれど…」
「…いや別に興味なん―」
「この私のセンスにビビッと来たのよ!このフォルムがまさにカリスマ的クールさを演出してると思わない?!」
「…いやだから話を―」
「パチェならきっと気にいると思ってね!一番に見せてやろうと急いで持ってきて上げたのよ!」
「………分かったわ。レミィ…それでこれは何?」
ため息混じりに、無駄な抵抗だと認める。
―そう腐れ縁ながらも長年の付き合いなのだ。このパターンのレミィに出会ってしまったが最後…。残念ながら、とりあえず話を聞く以外に選択肢はない事を私は知っている。
…それにもしかしたら、万が一、極稀に、奇跡的に、本当に面白い物を持ってきてくれた可能性すらある。
まぁレミィの自信たっぷりな表情を見ていると、不安しかしないのだけれど。
「これはね!パチェ…かぶるだけで、全自動で本をめくってくれる装置なのよ…!これで本を読む時にページをめくる手間が―」
「いらない」
前言撤回。やっぱりレミィが持ってきたのはガラクタと喧騒だけだった。
「咲夜ー!さーくーやー!」
あらまたですわ、と紅魔館に無数に居る妖精メイドのまとめ役、"メイド長"十六夜咲夜は手を動かしながら思った。
その声がこの館の主、レミリア・スカーレットだということに瞬時に瀟洒に気がつけたのは、これまで築いてきた深い主従関係のお陰だ。
そのドラマティックとも言える主従関係の経験から、もう待ちきれずに焦れてしまうだろう短気なレミリアお嬢様の為に、やりかけの掃除を一旦中断して向かう事にした。
「お呼びでございますか、レミリアお嬢様」
館内のどこで何をしていようと、お呼びとあれば瞬時に馳せ参じる。
比喩でなく、それを可能と出来るこの時間操作の能力にはとても感謝をしている。
もしこの能力が無かったら、などと考えた事もあったが…まぁそれでも結局仕事の量がそう変わらない事に自嘲気味に笑った事もあった。
ともかく、今この瞬間もその能力のお陰で、お嬢様を不機嫌にしてしまわないで済んだ事に再び感謝した。
「よく来たわ、咲夜…」
レミリアお嬢様の私室にある、一際大きな座椅子…通称カリスマスカーレットデビルズチェアー(命名お嬢様)に、溢れんばかりのオーラを纏って座してらっしゃるのが、我が主。永遠に赤い幼き月ことレミリアお嬢様。
先ほどのまるで幼女丸出しの呼びかけのされ方もまた可愛らしく…失礼、違った意味でのカリスマがあった物だけど、やはりこういった悪魔的畏怖を発揮して(精一杯ふんぞり返られて)らっしゃるレミリアお嬢様を前にすると、人間と吸血鬼との種族の差のような物を感じさせられてしまうものだ。
その度にやはりお嬢様は、人間や一般妖怪とは一線を超えた上位の存在なのだと理解した。
「頭を上げなさい…今日は貴方に褒美を与えようと思ってね…」
その言葉に思わず私は頭を上げかけたまま固まってしまった。
褒美…つまりご褒美。
時たまレミリアお嬢様はそういった上位貴族らしい行為を嗜む事がある。
そのイベントは、まるで朝の珈琲に今日はミルクを大目に入れてみよう、だなんて思いつきに近い確率と気軽さで起きるのだ。
だが思いつきとは計画性の無さを併せ持つ。良くも悪くも微妙な物を適当に突然前触れ無く褒美として頂ける事がほとんど…。
しかし私はこの紅魔館のメイド長。主人から頂いた物に文句の一つもあってはならない。
「…さぁ咲夜。受け取りなさい」
―来た。如何なる物を手渡されようと、高貴なる悪魔のメイドらしく…瀟洒らしい毅然とした反応を―
「貴方がより紅魔の従者らしくなるように…と思ってね。忌々しい太陽の訪れを告げる者(鶏)の死の顕現(骨)を組み合わせて作ったネックレスよ。ありがたく受け取るが良い―」
「良い…出汁が採れそうですわ…」
咄嗟に出てしまった感想だったが、それよりも笑顔が引きつらせないでおけたかが心配になってしまった。
「…ちゅう…めいりーん!」
ああまたですか、と紅魔館に無数に迫る不届き者の撃退役、"門番"紅美鈴は眠りから素早く目を覚ましながら思った。
大妖怪の気と共に近づいてくるその声が、館の主…吸血鬼レミリア・スカーレットの物である事が確信を持って分かるのは、やはりその気の質が他の存在とは全く異なっているからだった。
その強大で異様とも言える気の持ち主とのやりとりの経験から、やがて居らっしゃられるだろう背後の正面玄関へと視線を向ける事にした。
「ちゅうご…美鈴。門番ご苦労。問題は無い?」
「は、本日も異常ございません。」
目の前に歩いて来る、自分よりも遥かに低身長の主に失礼にならないように、片膝をつけて対応する。
一見するとただの子供に見えるだろう外見の幼さ…、だがその実態は凄まじい魔力と身体能力を秘めた大悪魔。吸血鬼にして夜の王、レミリア・スカーレット様なのだ。
この場で不意打ち気味に全力で攻撃したとしても、平然と次に来る反撃で私を仕留めてしまうだろう。
…もっとも家族同然に思っている今、勝てる見込みがあってもそんな気なんてさらさらないが。
「そ、良くやっているようね…それにしても今日は"良い天気"ね。」
レミリアお嬢様の種族は吸血鬼。本来の意味での良い天気…つまり快晴の場合、それは硫酸の雨に打たれるが如き拷問。
流水を渡れないという弱点もお持ちなので、雨すらも力を奪い去る要因だ。
そんなお嬢様が称する"良い天気"とは必然的に、今日のような曇り空を指す事になる。
「ところでちゅうごく…めいり」
「…あ、あの…そろそろそれ止めませんか?」
…ああ思わず我慢出来なくなってつい突っ込んでしまった!
だが、言われた本人はさも何のことだか分からないと言った様子をしれっと示してくる。分かってて言ってる癖に。
もう一度言うが、目の前のお方は吸血鬼。一般妖怪の私なぞ、ほんの気まぐれで肉焼きごっこの焼かれる肉役にされかねない。
失礼にならないように精一杯言葉の選択肢を選ぶ事にしよう。
「ええと…ですね。その…ちゅうごくって一瞬呼びかけるのはそろそろお止めになって頂ければうれしいなぁ…と」
ああやはり私は口下手なようだ。まったくド直球のままじゃないか。
…啖呵や前口上ならいくらでも上手く言えるのに。
「えー…楽しい暇つぶしなのにー…」
目の前の吸血鬼様は傍らの門に座り直しながら、不満そうに足をプラプラさせている。
それにしてもまったくどこのどいつなんだ。すぐに影響を受けてしまわれるこの方に妙な私の呼び方を教えたのは。
…見つけ次第、一つきちんとお礼せねばなるまい。後悔するまで。
「ちなみに咲夜がアンタの愚痴をこぼしている時に聞いた呼び方よ。きちんと仕事に集中してないって」
…見かけ次第、一つきちんと謝罪せねばなるまい。後悔する前に。
のどかな陽気に負けてしまっていた事に今更ながら反省する私を他所に、お嬢様は何かを思い出した様子で懐から何かの包み紙を取り出した。
水玉模様の包装がされているそれは、見たところ人差し指の先くらいだろうか。
「うう…?…なんです?…飴玉?」
「そ。まぁいつもご苦労様って事でね。たまにはこういう差し入れしてやろうかと」
なんということでしょう。冷たく鋭く厳しい咲夜さんと違って、お嬢様はこんなにも優しい血の通ったお方だったとは…!…吸血鬼だけど。
たとえ飴玉一個とは言え、この有り難み!一生忘れません…!
丁寧に慎重に…まるで宝石でも受け取るかのような心持ちで、お嬢様から飴玉を受け取ると…そっとその包み紙を開いてみる。
中にちょこんと小さく丸まっている飴玉様は、虹色の珠が透明な膜で覆われていて、まるで日光の様に美しかった。…吸血鬼が渡してきた物だけど。
「うわぁ…!綺麗ですねぇ!」
私自らの手作りよ、とお嬢様は目の前で笑みを浮かべているが…とてもあの不器用なお嬢様が作ったとは思えない出来である。
あまりの輝きに一瞬食べてしまうのを戸惑ってしまったが、短気で有名なお嬢様が飽きずに頑張って作って下さったのだ。それも一門番である(たぶん)私だけの為に。
ここは感謝をして、ありがたく頂く事にしよう。…では早速!
「この前…美鈴に勧めてもらった料理本あったじゃない?読み物としても面白くて読み進めたらつい作ってみたくなってねぇ。」
…ああなるほど…って、ん?…この前の料理本?あれは確か激辛中華の特集本だったような―
途端に広がる甘さの裏に隠れきれていない複雑な味。というか隠れようとすらしない複雑な辛さ。
「でも、普通にレシピ通りに作るだけ…だなんて私のセンスが発揮出来ないでしょう?だから飴玉にしてみたんだよ。」
生半可ではない舌への刺激。それを支えている謎の生臭さ。唾液で溶けることで更に舌に絡みついてくる謎の粘着物。
「…で?どう?この私が作ったハイセンスな飴玉の味は?まだまだあるからどんどん食べて良いよ」
「ありばとうございば…ずぅ…ど、とってもおいぢいでず…」
最も恐ろしいのは身内からの毒殺である。生きて全て平らげられたら、その教えを全ての門番に伝えたいと思った。
「…フラン…フラーン!」
また何か用があるのかな、と紅魔館に無数にある傷と修復跡の犯人役、"悪魔の妹"フランドール・スカーレットは思った。
迷惑さとうっとおしさと威厳(笑)を振りまくその声が、この館で一番偉いらしいお姉さま…レミリア・スカーレットの物だと判断出来るのは、こんな何でもない時間に騒がしくこの地下室へやってくるのがお姉さまぐらいだと知っているからだった。
その積み重ねた経験から、やがて来てしまうだろうお姉さまへの対策、もとい奇襲としてスペルカードを準備しておくことにした。
「フラン!ちょっと貴方にー」
『禁弾「カタディオプトリック」』
この地下室唯一の扉が開かれた瞬間、一応礼儀として宣言しながら、右手へ集中させた魔力による大玉弾を躊躇なく放つ。
来訪者であるお姉さまは、突然の事に対応できず慌てた声を上げているようだ。
情けない顔を想像しただけで、思わず頬が緩む。
「っつあ!ギリギリセーフ…!」
ちっ。上手く避けちゃった。
身を下げる事で大玉弾を回避したお姉さまは、そのままゆっくりと体勢を立て直している。
まるで"貴方の奇襲なんてこれっぽっちも通用しないわ"と言わんばかりに、後から取り繕ったようなカリスマ(笑)フェイスを受かべながら。
「あーお姉さまぁ。後ろ後ろー」
そんな油断し切っている我が唯一のお姉さまの為に、一応背後への注意を喚起してあげておく。
一瞬遅れて振り返るレミリアお姉さま。
迫り来る反射して帰ってきた禁弾「カタディオプトリック」。
とてもとても焦っている様子がダダ漏れな我がレミリアお姉さま。
綺麗に着弾した瞬間、思いっきりガッツポーズをする私。
…目の前で華麗に決まってくれたこの流れの記憶だけで暫くは退屈しなさそうだ。
―さて、良い思い出を下さった親愛なる我が姉に、とりあえずは要件だけでも聞いて差し上げよう。
そのままお姉さまの居た辺りへと、もう腕が届く距離まで歩み寄ったその瞬間だった。
「フッ…中々やるようになったじゃない…フランドール?」
背後に突然現れる気配と蝙蝠の羽音。
そして首筋に突きつけられている神槍「スピア・ザ・グングニル」の魔力。
…着弾する瞬間に蝙蝠達へ分散して回避…か。あーあ、今回は私が負けちゃったみたいだ。
「仕方無いね…。はーい私はこの通り降参でーす。」
「素直なのは良い事よ。フラン。…もう少し吸血鬼としての格を上げれば私に敵うようになるかもしれないわね」
はいはいそうですかーっと。
ま、そう偉そうにおっしゃられてるお姉さまの羽根とか髪とかあちこちが焦げてるのは黙っておいてあげよう。
それよりもさっさと要件を言って欲しい所だ。
お姉さまの魔力槍が解除されたのを感じ取ると、さくっと服のホコリを落としてから自分のベットへと腰かける。
殺風景なこの地下部屋は、元は監禁部屋だということもあって、大して家具なんて置いてない。
それは監禁を解かれた後の今でも変わらず、誰も招けない部屋のままだということを示している。
「あーあ…つまんなーい。魔理沙の一人か二人くらい遊びに来ないかなぁ」
「アイツは完全な魔女じゃないから、まだ分裂出来ないわ。パチェなら出来そうだから今度見せてもらいなさい。」
「やーだー!まーりーさーがーいーいー!」
「まったく我儘ねぇ…お淑やかにするのが淑女って物よ?」
なにさ、いつもパチュリーに怒られている癖に。
不満そうに足をバタバタさせる私を見て、お姉様は短くため息を一つつくと、扉の外から何やらカバンを持ってきてくれた。
途端に、私の興味はそれにそそられる。
「なにそれなにそれ!魔理沙入りバッグ?!」
「貴方の中の霧雨魔理沙ってどんな生き物よ。…ま、半分当たってるわ」
そうして私の期待の眼差しの前へと取り出された物は…なんだか黒と黄色と白のボロ布のような見た目をしていた。
「…雑巾?」
「失礼ね。…魔理沙人形よ。咲夜にちょっと教わって縫ってみたんだけど…」
そのままだらだらと如何に自分が苦労して作ったかを言葉にして垂れ流す姉には、ふーん、と適当な生返事をしておいて、とりあえずそれを色々と眺めてみる事にした。
だいたい見た感じだと歪な生地を雑にツギハギにしてあるようで、見れば見るほど出来の悪さが目に止まった。
…なにこれ。やっぱり雑巾じゃない。魔理沙雑巾人形。
あっという間に興味を無くし、それを放り投げようとした瞬間だった。
ふと、視界に布じゃない何かが見えたような気がした。
見間違いかと思い、改めて人形を眺め直す。
…ちょうど白いエプロンのようになってるツギハギの裏辺り。そこに小さなカードがくっついているのを発見した。
"我儘で愛しい大事な我が妹へ"
短く簡潔に、それだけしか書いて無かったけれども…目にした瞬間になんだか心に疼く物を感じた。
そのカードは隠れるようにあった割に、文字の綴りは偉そうで…でもなんだか優しくて…放り投げようとしていた気持ちはいつのまにかどっかに行ってしまっていた。
―お姉さまの方こそ素直じゃないじゃない―
「…ありがと、お姉さま」
聞こえるかどうかというくらいの声でぼそっと、目の前でまだ演説中のお姉さまにお礼を言っておく。
ちょっと恥ずかしくて、聞こえなくても良いやと思っていたけれど、どうやらきっちり聞こえてしまったみたいだ。
だってお姉さま、とても嬉しそうな笑顔になったんですもの。
―今ならお姉さまと…もしかしたら仲良く出来るかもしれな―
「…それでねフラン!もう一つあるのよ……ハイ!お姉さま特製カリスマアップマスク!!これを付けて舞踏会に出れば―」
「さっさと部屋から出て行け。このバカ姉」
紅魔館全体のセンスを疑われる前にこのお姉様を幽閉した方が良いんじゃないか、なんてちょっと思い始めた。
人間の時間を象徴していた忌々しい太陽は沈み、大空を暗く紅く染めるは紅い月。
強大な妖怪の住処では空さえその色を人間の常識から外してしまう。
―そんな紅く染まる光景にその身を浸しながら、血よりも紅い紅茶を飲むのが何よりの楽しみだった。
時刻はとうに妖怪の時間。強者が目覚め、多くの生物はその身を隠すように眠りに着く時間。
普段は側に置く咲夜も、今は下がらせている為…辺りにあるのは自分がたてるカップの音だけだ。
そう、まるで全てが夜の王たる吸血鬼…このレミリア・スカーレットに静かに頭を垂れているかのように。
「…今夜も優雅な夜になりそうね」
誰に言うわけでもなくそうつぶやくと、紅茶に映った紅い月を飲み込むように熱い口付けをする。
そのまましばし鼻孔を抜けていく気品に満ちた香りと、焼かれるように暖かな喉越しを楽しむ。
コクン、コクンと飲みこむ度に、なんとも言えない充実感が静かに湧いてくるのを味わった。
ふと、その情熱的な口付けをゆっくりと離すと…まだカップに残った紅茶を、思い立ったまま白いテーブルクロスの上へと放る。
本来ならそのまま無造作にテーブルクロスを紅く染める筈だった紅茶は、一滴も染みていく事なく空中で魔力の影響を受けて霧となっていった。
静かな暖かい風しか吹かない今宵は、その霧もすぐさま散る事なく静かに漂っている。
「…思い出すわね…あの素敵な夜を」
それは少し前の幻想郷の夏。
それは紅霧異変と呼ばれた幻想郷の異変。
118の時が流れた幻想郷の新たな物語の始まり。
―私があの巫女と魔法使いに出会うキッカケとなった紅き異変。
永く、美しく、優雅なあの時を思い出すように、指先で周囲に留まったままの紅い霧を操る。
魔力が込められた紅い霧は、まるであの戦いの再現をするようにゆらゆらと形を変えたかと思うと、静かに元の霧へと散っていった。
"運命を操る程度の能力"
それが私の能力だった。
言葉だけを見れば、あの天上でふんぞり返る神すらも落とせるような力を想像するだろう。
全能にして支配的。
だが実際はそう万能じゃ無いのだ。
魔法使いが様々な努力と準備を重ねねば、カボチャの馬車すら出せないように…
私の"運命を操る程度の能力"も、それなりの手順を踏まねば、ただの妄言でしか無い。
言うなれば…先の事を予め知り、どう行動すれば求める未来へと続く可能性が生まれるのか…それを視るだけの能力とも言える。
幸いなことに、偉大な吸血鬼の私には可能性を呼び込めるだけの実力があった。
だからこそ…紅霧異変を起こした。…いや起こさねばならなかったのだ。
この紅魔館を私だけがいくら維持しようとしても、ただただ紅く染め上げていくだけ。
紅に紅を塗り重ねて行けば…いずれはくすんだ黒へとたどり着く。そうなれば、もう取り返しはつかない。
…視えた最悪の結末の運命を避ける為に、外部から他の色を呼び込まねばならなかったのだ。
目の前でたゆたっていた紅が、軽やかに吹いた風で透明へと散っていく。
…そう、こうして外部から舞い込んできた色は目論見通り…我が紅魔館を吹き抜けていった。結果、紅魔館はより鮮やかな紅になった。
紅を理解する事の出来る深紫の魔女。
紅く鋭い眼光を秘めた青銀の従者。
紅き誓いを守る赤緑の門番。
そして紅い紅い気高い血を受け継いできた私達スカーレット姉妹。
―私はこの愛しい家族達に何をしてやれただろう。そしてこれから何をしてやれるのだろう―
私の能力ですら…その答えを視せてはくれなかった。
「ここに居たのね…レミィ」
「お嬢様、ディナーの方滞りなく澄みました」
「こちらの庭の準備も大丈夫ですよー!」
「ねーお姉様ぁー早く早くー!!」
紅い月光に背を向けるようにして聞こえてきた声へと振り返る。と、そこに揃っていたのは、笑顔で私を呼ぶ家族達の姿だった。
…その曇りの無い笑顔達は…、まだ私には懐古と思考に浸っているような暇は無いのだと、なんだかそう教えてくれている気がした。
ならば当主として、その呼びかけに応じるのもまた責務だろう。
それに―
「…さぁ家族サービスもこれからがフィナーレよ!私が居なくちゃ始まらないものね…!」
各自が私の言葉にそれぞれの反応を返してくれながら、私を迎え入れてくれる。
―そう、主催者が締めるまで催し物は完遂しないものだ。
「行くわよアンタ達!この私がミッドナイトディナーのなんたるかを魅せてやるわ―!」
「わー、お姉様意味がわからなーい」
「お嬢様…流石にそれは語呂が悪いのでは…?」
「美鈴。お嬢様の言うことにケチを付ける気?素晴らしい名称じゃない」
「…ウチの悪魔の犬は忠犬ね」
その日突然行われた夜の王の気紛れの締めは…紅き当主の目論通り、幻想郷で最も暖かで賑やかなディナーとなる事だろう。
…同時刻、図書館内に残された使い魔を除いて。
「あ、あれ?パチュリー様?咲夜さん…?お嬢様方まで!…なんで館内に誰も居ないんですかぁ…!?」