京都で先月から開催されている展覧会も中日を迎え、初めの頃ほどの賑わいはもう見られなかった。この展覧会では月に関する物品の数々を実際に見ることができるのだが、その中でも「アポロ宇宙船」は人々の関心の的となっていた。
アポロ宇宙船――それは人類を月へと運んだ科学技術の結晶だが、その合理性に反して、「金ぴかの蜘蛛のロボット」と「金属製のビン」が合体したような風変わりな外見は、見る者に不思議と親しみを感じさせた。それは科学と空想の距離の近さに他ならない。過去の魔法とは現代の科学であり、現代の魔法とは未来の科学なのだ。
『――ヒューストン。こちら“イーグル”。応答してください』
インカムのスイッチを入れ、マエリベリー・ハーンが呼びかけると、数拍置いて宇佐見蓮子の声が聞こえた。
『“イーグル”。こちらヒューストン。感度は良好です。そちらからは地球がどんな風に見えていますか?』
前方に設けられた小さな三角形の窓を覗くと、吸い込まれそうな闇の中にぽつんと一つだけ浮かぶ水の惑星が見えた。「ザ・ブルー・マーブル」と名付けられた写真を投影したものだ。瑠璃色ともいうべき深い青色がとても美しかったが、綺麗すぎてメリーには少し不自然にすら感じられた。
『自分がそこ住んでいることが非現実的に思える、そんな美しさね。あれが映像じゃなくて、本物だったらよかったんだけどなぁ』
『あはは。それは地上ではどうしようもないね。ところでメリー飛行士、初めて乗った月着陸船のご感想は?』
『うーん、思っていたよりもかなり狭いわ。座席もないし。こんな狭い空間に二人も人間が押し込められて月まで行ったなんて信じられない。私なら30分で降参よ』
『まぁ旅客用じゃないからね。ツアー用の月面往還船はもっと快適だと思うよ?』
かつて三人の優秀な人間を乗せて、彼の船は月へと向かった。空想の世界でしか行くことができなかった月世界に向かって、ロケットは真っ直ぐに飛んでいったのだ。
世界が東西に二分されていた時代の話である。当時、二つの国が人類初の月面着陸を争っていた。膨大な資金と人材が投入され、時に犠牲を払いながら無数の困難を乗り越えた末に、1969年7月20日、アポロ11号によってそれは達成されることとなった。
月面を兎のように跳ね回る飛行士の姿を画面越しに眺めながら、誰もが新たな時代の幕開けを感じていた。SFが現実となり、人類が宇宙へ進出する未来がやって来るのだと。
しかし幾度かの調査の後、人類は興味をなくしたかのようにぱったりと月へ行かなくなってしまった。そのため一部では月面着陸は捏造だったのではないかと囁かれる始末である。
「そういえば少し前に、アポロは実際に月面着陸していたってことが証明されたのよね?」
「確か月面ツアー解禁前の調査で旗が確認されたんだっけ? なぜか一本だけ足りなかったらしいけど」
「風にでも飛ばされたのかしら。もしかして兎が持って行ったとか?」
「風はともかく、兎に関してはメリーが言うと冗談に聞こえないね」
二人はアポロの展示ルームを出る。月への門戸が一般人にも開かれたのはまだ記憶に新しい。日本の旅行会社にも予約が殺到しているとのことだったが、生憎、一介の学生にすぎない蓮子とメリーには月は高嶺の花ならぬ、「高値の花」だった。
しかし、そこで諦める二人ではない。科学が駄目なら、非科学を模索すればよいのである。展覧会に足を運んだのは、月に関する情報を集めるためでもあった。
「でも驚いたわ。まさか日本でアポロが見られるなんて」
「月面ツアーの宣伝も兼ねて一時的に借りているらしいけど、最近では宇宙開発に率先して取り組んでいるのはこの国くらいだから、そのうち全部移譲されるかもしれないよ?」
「それはそれで寂しい話ねぇ。結局、人類の地球外進出なんて幻想だったのかしら」
「残念ながらね。メリーみたいに向こう側の世界が見えていれば、少しは状況が変わっていたのかもしれないけど。『かくして人類はゆりかごに留まり続ける』、か」
「ツィオルコフスキーが知ったら、きっと嘆き悲しむでしょうね」
月面ツアーの盛況ぶりとは裏腹に、宇宙開発は下火になりつつある。アポロが月へ向かって飛んでいた頃から時は流れ、それに比例して科学技術も進歩してきた。当時は最先端技術を結集しなければたどり着けなかった月も、今や単なる旅行先の一つとなった。
しかし、それだけである。そこから先へ人類が進むことはなかった。いつの頃からか、人々の関心は外ではなく内に向き始めたのだ。物質的な豊かさがある程度満たされた為か、最近では精神的な豊かさを求めることが重要視されるようになっている。
人はいつ終わるとも知れない宇宙の可能性を探ることよりも、自分達の世界を完成させることを選んだのだ。
「ねぇメリー、月の都ってどんな所?」
「突然なぁに? 行ったことがないんだからそんなこと分からないわよ」
「この前、結界の向こう側の月が見えるって言ってなかったっけ?」
「見えると言っても、夢か現か分からないような曖昧なヴィジョンだし・・・・・・。でもそうねぇ、表現するなら『楽園』かなぁ。日がな一日のんびり昼寝でもして、病気も苦労もなくて」
「まるで天道の世界ね。でもそれって退屈じゃない? 何もかもが満ち足りた世界なんて」
「行動派の蓮子にはそうかもね。今でさえ虚無感を感じているくらいだし」
「だから私は虚無とか絶望とは無縁だってば。メリーはそっちの方が好みなの?」
「さぁどうかしら? 分からないものがあるからこそ面白いとは思っているけどね。この世に幻想が無いなんて空しすぎるわ」
「でしょう? 私達みたいな地上の生き物は、本質的に新しい世界に挑戦し続けないと駄目なのよ。そうでないと、待っているのは緩やかな破滅だわ」
「相変わらず蓮子は極端ねぇ。じゃあ、私達も今まさに滅んでいる最中ってことになるのかしら?」
世界的に人口は減少傾向にあり、人口爆発による危機の数々は既に過去のものとして認識されていた。そのうちどこかのSFよろしく、各夫婦に子供が一人しか生まれなくなる時代が来て、世界中の富が余るようになるかもしれないなどと言う者もいるが、そうなれば全人類が貴族になる時代が訪れるのだろうか。
……もっとも、その頃には地位や財産などほとんど意味を成さなくなっているに違いないが。
「あっ、見て蓮子。あそこで変な映像が流れてる」
「パンフレットによると、1902年に制作された世界初のSF映画なんだって。題名はなんと『月世界旅行』! そんな大昔から月へ行こうと考えていたなんて、ヒトの好奇心は偉大ねぇ」
「月だけじゃないわ。空想の世界なら人間はどんな所でも行けるのよ。好奇心に境界(ボーダー)なんて無いんだから」
スクリーンには人の顔をした月に砲弾が刺さっているシーンが映し出されている。この映画の完成から一世紀も経たないうちに人類は月面に立つことになった。月へ行くという夢を誰かが抱けば、それは周囲に伝わり、意志となる。意志は行動となり、やがて幻想は現実となる。夢と現は二つで一つなのだ。
「確かにフィクションの世界では宇宙はとても近いわね。かぐや姫も月から来ていたわけだし」
「あと浦島太郎も宇宙へ行っているみたいよ?」
「浦島って、亀に乗って竜宮城に行った人? あれって海の底でしょ?」
「一般的にはそう言われているけどね。物語の元になった記録では少し違うのよ」
有名なお伽話の一つとして知られる浦島太郎だが、この話には複数の出典がある。その中でも最古の物にあたる「丹後国風土記」には、浦島太郎こと水江浦嶼子が五色の亀から変化した女性とともに「天上仙家」なる場所に行き、「昴星(ぼうせい)」、「畢星(ひつせい)」を名乗る子供達と会ったという記述があったと伝えられている。「昴星(ぼうせい)」とはプレアデス星団、「畢星(ひつせい)」はヒアデス星団のことを指している。
また、光速に近い速度で移動する物体と静止している物体との間には時間差が生じることが相対性理論よって予言されているが、日本ではこの現象のことを「ウラシマ効果」と言う。天上仙家で三年過ごして帰ってみれば、地上では三百年が経過していたという浦嶼子の体験と瓜二つだったからである。
「ええと・・・・・・つまり浦島太郎は乙姫に宇宙船に乗せられて、別の惑星で宇宙人に会ってきたってこと?」
「その可能性はあるわ。あと浦島太郎は地上と天上仙家との往復の時、眠らされているんだけど、これって所謂“人工冬眠(コールドスリープ)”に似ているんじゃないかって話もあったわ」
「それはさすがに飛躍しすぎじゃない? 面白いとは思うけど」
「うーん、やっぱり二次情報だけだとこの辺りが限界かしら。そろそろ実際に見に行かないとダメね」
「見るって、何を?」
「浦島太郎の舞台となった場所よ。ついでに浦島太郎が祀られている神社に寄って行くのもいいわね。何かヒントが掴めるかもしれないし――」
「え、ちょっと待ってよメリー。月に行く方法を探すっていう私達の当初の目的はどうするのよ? 竜宮城だと行き先が違うんだけど?」
「それなら心配ないわ。実は浦島太郎のモデルって複数いるんだけど、そのうちの一人、火遠理命(ほおりのみこと)は月夜見尊の子孫らしいの。浦島神社にも月夜見尊が祀られているって話だし、月と浦島太郎は何か関係があるのは確かよ。案外、竜宮城って月にあるのかも」
「浦島太郎が月に行っていた場合、私達がその道程を辿ることができれば、月の都への扉が開かれる可能性がある、と? それにしても、メリーがこんなに積極的になるなんて珍しいね」
「何だかんだで月は魅力的な場所だもの。それにもし“浦島ルート”が再現出来たら、世紀の大発見よ。アポロを超える画期的な星間移動手段、地球外生命の発見……etc.」
「ふふっ、なるほどね。それは試してみる価値がありそうだわ……オーケー、行ってみましょうか。突拍子もない話だけど、私達『秘封倶楽部』が不思議を否定したらおしまいだからね」
「それでこそ蓮子よ。行きましょう、月旅行へ!」
どんなに浦島太郎のことを調べたところで、現実の月に行くことはできないだろう。そんなことは二人にも分かっている。しかしそれが“夢の中”でならどうだろうか。
夢から現実が生まれるように、現実から夢が生まれることもある。お伽話や神話といった幻想の裏側には、時として“幻想よりも幻想的な現実”が存在しているのだ。そしてそうした幻想と現実の狭間に、異世界への入口たる「結界の境目」はある。
メリーには不思議と自信があった。彼女にとって夢と現実は同じ物である。現実で行けるのが“こちら側の月”で、夢で行けるのが“向こう側の月”というだけのことなのだ。
「それにしても、お伽話の手を借りて宇宙旅行をするなんてことを考えるのは、現代では私達くらいよね。言うなれば『星の海に未知を拓く先駆者(パイオニア)』ってところかしら」
意気揚々と歩きだした蓮子は、そう言って天を指さす。メリーは人工冬眠用の容器に横たわり宇宙を旅する自分の姿を想像して、「どちらかというと、棺に入った吸血鬼(ヴァンパイア)みたいだ」と思った。きっと二人の宇宙旅行には、そちらの方が似合っていることだろう。
アポロ宇宙船――それは人類を月へと運んだ科学技術の結晶だが、その合理性に反して、「金ぴかの蜘蛛のロボット」と「金属製のビン」が合体したような風変わりな外見は、見る者に不思議と親しみを感じさせた。それは科学と空想の距離の近さに他ならない。過去の魔法とは現代の科学であり、現代の魔法とは未来の科学なのだ。
『――ヒューストン。こちら“イーグル”。応答してください』
インカムのスイッチを入れ、マエリベリー・ハーンが呼びかけると、数拍置いて宇佐見蓮子の声が聞こえた。
『“イーグル”。こちらヒューストン。感度は良好です。そちらからは地球がどんな風に見えていますか?』
前方に設けられた小さな三角形の窓を覗くと、吸い込まれそうな闇の中にぽつんと一つだけ浮かぶ水の惑星が見えた。「ザ・ブルー・マーブル」と名付けられた写真を投影したものだ。瑠璃色ともいうべき深い青色がとても美しかったが、綺麗すぎてメリーには少し不自然にすら感じられた。
『自分がそこ住んでいることが非現実的に思える、そんな美しさね。あれが映像じゃなくて、本物だったらよかったんだけどなぁ』
『あはは。それは地上ではどうしようもないね。ところでメリー飛行士、初めて乗った月着陸船のご感想は?』
『うーん、思っていたよりもかなり狭いわ。座席もないし。こんな狭い空間に二人も人間が押し込められて月まで行ったなんて信じられない。私なら30分で降参よ』
『まぁ旅客用じゃないからね。ツアー用の月面往還船はもっと快適だと思うよ?』
かつて三人の優秀な人間を乗せて、彼の船は月へと向かった。空想の世界でしか行くことができなかった月世界に向かって、ロケットは真っ直ぐに飛んでいったのだ。
世界が東西に二分されていた時代の話である。当時、二つの国が人類初の月面着陸を争っていた。膨大な資金と人材が投入され、時に犠牲を払いながら無数の困難を乗り越えた末に、1969年7月20日、アポロ11号によってそれは達成されることとなった。
月面を兎のように跳ね回る飛行士の姿を画面越しに眺めながら、誰もが新たな時代の幕開けを感じていた。SFが現実となり、人類が宇宙へ進出する未来がやって来るのだと。
しかし幾度かの調査の後、人類は興味をなくしたかのようにぱったりと月へ行かなくなってしまった。そのため一部では月面着陸は捏造だったのではないかと囁かれる始末である。
「そういえば少し前に、アポロは実際に月面着陸していたってことが証明されたのよね?」
「確か月面ツアー解禁前の調査で旗が確認されたんだっけ? なぜか一本だけ足りなかったらしいけど」
「風にでも飛ばされたのかしら。もしかして兎が持って行ったとか?」
「風はともかく、兎に関してはメリーが言うと冗談に聞こえないね」
二人はアポロの展示ルームを出る。月への門戸が一般人にも開かれたのはまだ記憶に新しい。日本の旅行会社にも予約が殺到しているとのことだったが、生憎、一介の学生にすぎない蓮子とメリーには月は高嶺の花ならぬ、「高値の花」だった。
しかし、そこで諦める二人ではない。科学が駄目なら、非科学を模索すればよいのである。展覧会に足を運んだのは、月に関する情報を集めるためでもあった。
「でも驚いたわ。まさか日本でアポロが見られるなんて」
「月面ツアーの宣伝も兼ねて一時的に借りているらしいけど、最近では宇宙開発に率先して取り組んでいるのはこの国くらいだから、そのうち全部移譲されるかもしれないよ?」
「それはそれで寂しい話ねぇ。結局、人類の地球外進出なんて幻想だったのかしら」
「残念ながらね。メリーみたいに向こう側の世界が見えていれば、少しは状況が変わっていたのかもしれないけど。『かくして人類はゆりかごに留まり続ける』、か」
「ツィオルコフスキーが知ったら、きっと嘆き悲しむでしょうね」
月面ツアーの盛況ぶりとは裏腹に、宇宙開発は下火になりつつある。アポロが月へ向かって飛んでいた頃から時は流れ、それに比例して科学技術も進歩してきた。当時は最先端技術を結集しなければたどり着けなかった月も、今や単なる旅行先の一つとなった。
しかし、それだけである。そこから先へ人類が進むことはなかった。いつの頃からか、人々の関心は外ではなく内に向き始めたのだ。物質的な豊かさがある程度満たされた為か、最近では精神的な豊かさを求めることが重要視されるようになっている。
人はいつ終わるとも知れない宇宙の可能性を探ることよりも、自分達の世界を完成させることを選んだのだ。
「ねぇメリー、月の都ってどんな所?」
「突然なぁに? 行ったことがないんだからそんなこと分からないわよ」
「この前、結界の向こう側の月が見えるって言ってなかったっけ?」
「見えると言っても、夢か現か分からないような曖昧なヴィジョンだし・・・・・・。でもそうねぇ、表現するなら『楽園』かなぁ。日がな一日のんびり昼寝でもして、病気も苦労もなくて」
「まるで天道の世界ね。でもそれって退屈じゃない? 何もかもが満ち足りた世界なんて」
「行動派の蓮子にはそうかもね。今でさえ虚無感を感じているくらいだし」
「だから私は虚無とか絶望とは無縁だってば。メリーはそっちの方が好みなの?」
「さぁどうかしら? 分からないものがあるからこそ面白いとは思っているけどね。この世に幻想が無いなんて空しすぎるわ」
「でしょう? 私達みたいな地上の生き物は、本質的に新しい世界に挑戦し続けないと駄目なのよ。そうでないと、待っているのは緩やかな破滅だわ」
「相変わらず蓮子は極端ねぇ。じゃあ、私達も今まさに滅んでいる最中ってことになるのかしら?」
世界的に人口は減少傾向にあり、人口爆発による危機の数々は既に過去のものとして認識されていた。そのうちどこかのSFよろしく、各夫婦に子供が一人しか生まれなくなる時代が来て、世界中の富が余るようになるかもしれないなどと言う者もいるが、そうなれば全人類が貴族になる時代が訪れるのだろうか。
……もっとも、その頃には地位や財産などほとんど意味を成さなくなっているに違いないが。
「あっ、見て蓮子。あそこで変な映像が流れてる」
「パンフレットによると、1902年に制作された世界初のSF映画なんだって。題名はなんと『月世界旅行』! そんな大昔から月へ行こうと考えていたなんて、ヒトの好奇心は偉大ねぇ」
「月だけじゃないわ。空想の世界なら人間はどんな所でも行けるのよ。好奇心に境界(ボーダー)なんて無いんだから」
スクリーンには人の顔をした月に砲弾が刺さっているシーンが映し出されている。この映画の完成から一世紀も経たないうちに人類は月面に立つことになった。月へ行くという夢を誰かが抱けば、それは周囲に伝わり、意志となる。意志は行動となり、やがて幻想は現実となる。夢と現は二つで一つなのだ。
「確かにフィクションの世界では宇宙はとても近いわね。かぐや姫も月から来ていたわけだし」
「あと浦島太郎も宇宙へ行っているみたいよ?」
「浦島って、亀に乗って竜宮城に行った人? あれって海の底でしょ?」
「一般的にはそう言われているけどね。物語の元になった記録では少し違うのよ」
有名なお伽話の一つとして知られる浦島太郎だが、この話には複数の出典がある。その中でも最古の物にあたる「丹後国風土記」には、浦島太郎こと水江浦嶼子が五色の亀から変化した女性とともに「天上仙家」なる場所に行き、「昴星(ぼうせい)」、「畢星(ひつせい)」を名乗る子供達と会ったという記述があったと伝えられている。「昴星(ぼうせい)」とはプレアデス星団、「畢星(ひつせい)」はヒアデス星団のことを指している。
また、光速に近い速度で移動する物体と静止している物体との間には時間差が生じることが相対性理論よって予言されているが、日本ではこの現象のことを「ウラシマ効果」と言う。天上仙家で三年過ごして帰ってみれば、地上では三百年が経過していたという浦嶼子の体験と瓜二つだったからである。
「ええと・・・・・・つまり浦島太郎は乙姫に宇宙船に乗せられて、別の惑星で宇宙人に会ってきたってこと?」
「その可能性はあるわ。あと浦島太郎は地上と天上仙家との往復の時、眠らされているんだけど、これって所謂“人工冬眠(コールドスリープ)”に似ているんじゃないかって話もあったわ」
「それはさすがに飛躍しすぎじゃない? 面白いとは思うけど」
「うーん、やっぱり二次情報だけだとこの辺りが限界かしら。そろそろ実際に見に行かないとダメね」
「見るって、何を?」
「浦島太郎の舞台となった場所よ。ついでに浦島太郎が祀られている神社に寄って行くのもいいわね。何かヒントが掴めるかもしれないし――」
「え、ちょっと待ってよメリー。月に行く方法を探すっていう私達の当初の目的はどうするのよ? 竜宮城だと行き先が違うんだけど?」
「それなら心配ないわ。実は浦島太郎のモデルって複数いるんだけど、そのうちの一人、火遠理命(ほおりのみこと)は月夜見尊の子孫らしいの。浦島神社にも月夜見尊が祀られているって話だし、月と浦島太郎は何か関係があるのは確かよ。案外、竜宮城って月にあるのかも」
「浦島太郎が月に行っていた場合、私達がその道程を辿ることができれば、月の都への扉が開かれる可能性がある、と? それにしても、メリーがこんなに積極的になるなんて珍しいね」
「何だかんだで月は魅力的な場所だもの。それにもし“浦島ルート”が再現出来たら、世紀の大発見よ。アポロを超える画期的な星間移動手段、地球外生命の発見……etc.」
「ふふっ、なるほどね。それは試してみる価値がありそうだわ……オーケー、行ってみましょうか。突拍子もない話だけど、私達『秘封倶楽部』が不思議を否定したらおしまいだからね」
「それでこそ蓮子よ。行きましょう、月旅行へ!」
どんなに浦島太郎のことを調べたところで、現実の月に行くことはできないだろう。そんなことは二人にも分かっている。しかしそれが“夢の中”でならどうだろうか。
夢から現実が生まれるように、現実から夢が生まれることもある。お伽話や神話といった幻想の裏側には、時として“幻想よりも幻想的な現実”が存在しているのだ。そしてそうした幻想と現実の狭間に、異世界への入口たる「結界の境目」はある。
メリーには不思議と自信があった。彼女にとって夢と現実は同じ物である。現実で行けるのが“こちら側の月”で、夢で行けるのが“向こう側の月”というだけのことなのだ。
「それにしても、お伽話の手を借りて宇宙旅行をするなんてことを考えるのは、現代では私達くらいよね。言うなれば『星の海に未知を拓く先駆者(パイオニア)』ってところかしら」
意気揚々と歩きだした蓮子は、そう言って天を指さす。メリーは人工冬眠用の容器に横たわり宇宙を旅する自分の姿を想像して、「どちらかというと、棺に入った吸血鬼(ヴァンパイア)みたいだ」と思った。きっと二人の宇宙旅行には、そちらの方が似合っていることだろう。
けど文章しかないそそわでは、会話主体だとちょっと広がりに欠ける気がした。まぁ本編の方がこういう構成だからそうなるのだけれども。