001
地べたに座り、大事なものを胸に抱えていた。
髪の色は同じような赤色になるらしい。けれど、母親を引き継いだのはそれと、後は性別くらい。
顔立ちはきっと父親に似る。生まれてそれほども経っていない、けれど確かにその風貌は、その子の父親に似ている。
そう、彼女は言った。
だからこの子のことも、心から愛することが出来るだろう。
そうと、彼女は言った。
母親であれば――心が既に、しっかりと母親になってさえいれば――新たな生命の誕生を喜ばないものは居ない。彼女は自分の胸の中で眠っている、大切な命を撫でた。
そんな彼女を、風が撫でた。
其処は小高い丘の上。無縁塚と呼ばれる人切りの場所。
「こんなところに居ましたか。とても、赤子を連れてやってくるところではないのに」
私は、彼女の後ろから声を掛けた。
私よりも、彼女のほうがずっと年上に見える。事実、私はまだ彼女より若い。
「この場所がいいんだ。この子がよく眠る。日頃からよく眠る子だけど――もっと深く。まるで命を捨てているかのように」
彼女の笑顔は少し疲れていたように見えるが、それも仕方があるまい。
「不謹慎ですよ。ですが、言いたいこともわかりますね。確かに、気持ちよさそうに眠っている。ここの空気がそんなに好きならば、この子もきっと腕のいい死神になるでしょう。あなたと同じように」
彼女――“母親”は、首を振る。
「私なんかよりも、ずっと。この子のことはよろしく頼みます。映姫」
そして、その余りに責任を捨てた言葉に私はつい、苦笑いを浮かべた。あるいは、失笑というやつだ。
「人として育てるのは、まず貴女ですよ。無論、死神となれば厳しく平等に指導しますが、まずはそれ以前の問題です。貴女は、死神である前に母親となりました」
一際、強い風が吹いたならば、しばらく凪いだ。小鳥の鳴く声もなければ、うさぎの駆ける音もない。虫の羽音も、落葉の静かな音も。
無縁塚の桜には今、葉花の一つもない。
ある年の冬だった。
「風邪を引いてしまいそうですね。行きますよ、小町」
私が誘うと、赤子を抱いた母は。――赤子を抱いた小町は、おもむろに立ち上がる。大切なものを零さないようにする動きで。
「……どうしましたか?」
「いやぁ。考えごとがちょっと」
「考えごと。あなたが?」
決して嘲笑を挟んだわけではない。続く言葉が失礼だろうとは分かっていたが。
「思い出したように珍しいことをしているからですよ。日頃からもう少し、頭を使うようにしなさい。母親になったのですから、覚えることは幾つもありますよ。幾つ、では足りないほどに」
癖で、厳しい口調となってしまっただろうか。
小町はバツが悪そうに笑っている。うっかり私も表情を緩めてしまったが、いいや、違う。ここでの私には威厳が必要だ。
小町は今、私の大切な――それも唯一の部下なのだ。
「言い過ぎましたかね。悩みがあるのに」
「悩みってほど大層なものじゃないんだ。それに、今は私がこうだからさ。いつも通りの映姫が居てくれるのは嬉しい」
小町の言葉は、僅かに浮足立つ私の心に優しい。
環境の変化は――私もまた、然りなのだから。
「思えば早かったですね。子どもが生まれたのは昨日のことだったように思えます」
「確かに、この半年は大変だったなあ……映姫には感謝してもしきれない」
「そんな大仰なことはしていませんよ」
謙遜ではなくて事実だ。小町は出産を控えているのだから、仕事らしい仕事は出来ない。その埋め合わせをするのは上司として当然のこと。もし仮に偶然奇跡が起こって、私も子を授かるようなことがあれば、小町にそうしてもらうつもりだ。
……無理か。後は何かしたと言ったら――
「一緒に喜んでくれたから。――誰の子かも分からない、私の子を」
そうだった。キッと私の表情が険しくなるのが、自分でも分かった。
「風俗の乱れは、決して良いことではありません」
それでも、間もなくその表情は解ける。
「が、そこはもう叱ったでしょう。新しい命が産まれることは、いつだって祝さなければなりません。それは死を裁く者が経験出来る、唯一にして最大の幸福だと考えるからです。だから小町。いいえ、それに小町がその当事者なのですから、私が喜ばないわけは……ありませんよ」
言い終えると、いつの間にか私は少し涙ぐんでいたらしい。それは小町も同じだった。先ほど言った通り、赤ん坊が生まれた瞬間は、今でも鮮明に思い出せる。だから実際に今、思い出しているのだ。私も、小町も。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。私は仕事ばかりですからね。身内とも言える親しい人も貴女しか居ない。本当に嬉しいですよ」
自虐が始まってしまいそうだ。ここらで切り上げておこう。
「さ、仕事に戻りますよ」
「はい」
「仕事と言えばそう、私からもいい知らせがあるんですよ」
「おっと、もしや寿なにがし?」
「……小町、立場を使って茶化すのは嫌いですよ。そうですね――来月。いいえ、もう少し先でしょうか。再来月には、お話出来ると思います」
談笑に興じる。
私は、私自身の変化に戸惑っていた。心もそうだし、環境もそうだ。仕事にしても、私事にしても。実際に、運命を変える一大事だったのだから、私は私のことで精一杯だったのだ。
それが、理由になるとは思っていない。
それは、言い訳でしかないと知っている。
私が本当に『出来た存在』だったのだとしたら。
この環境の変化に相応しい、立派な存在なのだとしたら。
私は他の変化にも気づいていたのだろう。変わっていたのは私だけではない。季節も変わっていく。景色も変わっていく。私と同じように、むしろそれよりも遥かに強烈に。
そんな簡単なことに気づけなかったのだから、この時点で私はただの出来損ないだった。
魂を裁く権利などない。
ただただそれが。
そればかりが、私の義務だった。
002
春の訪れに立ち向かい、冬の寒さにもようやく陰りが見えた頃だった。
「昇進! そりゃめでたい!」
私のことを、小町は自分のことのように喜んでくれた。
「最近は業務成績も、我ながら悪くなかったですからね――といっても、単純に仕事量が多くなっただけ、ですけれど。口が悪いですよ。ここは職場です」
「おっと失礼。でも、多くなった仕事を捌けているのは、やはり映姫……様の力量だと私は思いますよ」
ここは執務室。地獄の裁判所に仕える者が、罪人に関する事柄の取りまとめ作業に従事する部屋だ。これまでに裁いた魂、そしてこれから裁くであろう魂の情報のほぼ全てがここに書類で収められている。よって部屋は間取りの広さの割に、人が居座るスペースは狭い。本棚が立ち並んでいる上に、窓さえもない。圧迫感が酷い。いつまでも居ると息苦しくなるのは、事実換気が難しい部屋だからである。そんな場所で、現在はその資料の整理にあたっていた。作業効率が上がるわけは当然ないが、この部屋が、『今の』私に与えられている部屋だ。間もなく改善されると信じたい。
それにここのところ、昇進の件とは関係なしに――いや、間接的にはあるにしても――私の仕事量は格段に増えている。尤も生来の仕事好きが高じて、むしろ今までを退屈だと思っていたのだから、増えたら増えたで丁度いい。何ならまだ仕事が増えても平気なくらいはある。
あるのだが――。
「しかしね、小町。私の仕事が増えるということはつまり、単純に、最近死人が増えているということですよ」
そういう話だ。別に私は平和と生命を愛しているというわけではないし、人の生き死にそこまでの興味はないのだけれど、倫理的にはあまり、手放しでは喜べない現象である。
人間は増えすぎている。だから少しくらい目減りしても、害はないのだろう。それはあくまでも私の妖怪的立場から、地球規模で考えた時の話。今は共存の時代だ。人間ばかりがこうも死んでいるのでは、妖怪による虐殺とまで言われてもおかしくない。
外界の話なんて関わるべきことではないけれど。人間出身の裁判官や、従者も居るのでそうもおおっぴらには言っていられない。
尤も、『死人』というだけで、それが絶対に人間であるとは限らないのだが。これも単純な話、生命の割合に人間が多いので、死人の種族も人間である確率が高くなるというだけの話である。
それから、知性があってなおかつ、人間より死にやすい種族というのもちょっと少ない。
「あんまり浮いた話じゃないってことかぁ。でも私だって少しげんなりですね」
「何か?」
「映姫様の仕事が増えるってことは、実際私の仕事が増えるってことじゃないですか」
「はい、小町。ここからここまで、生前の功罪を全て洗い出して」
「ひぃ……」
小町は私の秘書をしている。とはいえ小町がスケジュール管理や数字の処理に向いていない性格であるため、その辺りの処理は私がしてしまっているし、対外的に見ると小町は私の手足というより、口である。専属の部下ないし、助手と言い換えてしまってもいい。
認めたくはないが、私は人当たりが悪いのだ。対して小町は大変、対人処理能力に長けている。適材適所といえば聞こえもいいが、これは私が今の地位へ就いた際に申請した、一つの我侭だった。
執行業務時を除き、全ての応対は小町を通じてくれ、と。
私の業務として小町の業務も増えてしまうのはそのためだ。しかし私の地位に応じて小町の地位も上がるわけだから、ギブ・アンド・テイクというものらしい。
「あれ?」
いや、私の人当たりが悪いというより、小町が社交的すぎるのだ――そう、自身の評価を言い換えようかとしていたら、小町が間の抜けた声を出した。
「どうしたのですか」
「ああ。つまらないことで、それに気のせいみたいなんですけどね」
一度それで言葉を区切るも、私が気にしているのを察して、もう一言を続けた。
「いえ、他人の空似なんですが、この人間にちょっと見覚えがあったってだけですよ」
小町が見せてきた書類上の人物は、私の記憶には存在しない者だった。
友好関係が広すぎる小町に、似たような顔の知り合いはいくつも居るだろう。それに人の顔はよく覚える人情家である。そんな小町が記憶を曖昧にしているのだから、確かにそれは見知らぬ誰かとの取り違えだろうか。
「無理に思い出そうとして、仕事に差支えがないように」
「うっ、いやぁ」
こういう時、まるでその人物が何らかの事件の重要参考人であるかのように振る舞って、どうにか正体を思い出そうと――ウンウンと数分も粘って仕事をサボるのが小町である。一つ釘を刺せば、大人しく別の書類に目を通し始めた。
「……そういえば」
また口を開き始めたので、もう一つ喝を落とそうとしたが、手は動いているので不問として、相手をしてやろう。
「昇進って、どうなるんですか?」
「どう、とは」
「立場というかー、役職というか。具体的に何をするか、というか」
「ふむ。まあ貴女にも関わりのあることですからね。守秘すべき事項は幾らかありますが……これまでと違って、より大きな区画を任されることになるようです。今までが一つの村だとしたら、今度は一つの国、と言えるでしょうか」
大きく出過ぎだろうか。いやでも話を聞いた限りでは、それくらいの差があって確かだった。
ほほう、と小町は頷く。
「一足飛ばしの昇進なのでは?」
「……まあ、いやらしいですが、そういうことになりますね」
「閻魔王までひとっ飛び?」
「馬鹿を言いなさい。流石にそう、甘くないですよ」
「いやぁ、それにしても閻魔王の秘書官か……流石にちょっと憧れるなぁ」
「気が早いし口が軽い。それに憧れるばかりではありませんよ」
「とは?」
「ひとまず、これからは目を通すべき資料の数が、ここの五倍程度にはなります」
「……」
ヨイショを受けて悪い気はしない。いやいや、そんなに浮かれていてはいけないのだが。
そもそも、今回の昇進はあくまでも僥倖なのだ。仕事が増えるということは、死人が増えているということであり、更に昇進が起こるということは、私が地獄にとって有益な判決を下している、ということだ。昇進なんて点数次第である。その、点数を稼げる有益な判決というのは――即ち、有罪。死人の地獄行きである。
よって昇進をしたいがために、多少の罪があれば容赦なく地獄行きを宣言する者も居る。やりすぎてしまえば勿論、裁判の正当性を鑑みる調査が入りもする。より地位が高くなれば、本当に自身の一存で白黒を決めてしまえるのだが、私や私と同じ者の地位ではそれが出来ない。
それに、そのような不当な裁判は、私の信念に反するところである。私はあくまでも平等に、私自身の私情は全て排除して裁判に望んでいる。そんな私が『地獄行き』を多く出すということはつまり、死人の正体が――生前の評判を悪くする者ばかりである、ということなのだ。
有り体に言えば、悪人ばかりが死んでいる。
当然、蛇の道は蛇という。悪の道は危険な道である。例えば人を殺すとき、それは逆に相手から殺されてもおかしくはない運命上に居るということである。
そうでなくても悪事を働けば、人の恨みを買うことになる。すると積もり積もった悪事が露見したときに、被害者は平気で加害者を殺す。それは、決して罪に問われない。
ともかく、悪人というのは総じて、死にやすいものである。だから増えている死人に悪人ばかりが居るという傾向が出ても、不思議な話ではない。むしろ真っ当な話だ。
問題は、そんな真っ当な話のはずなのに――それを『不思議』と思ってしまうほど、あまりにも死人が、『悪人』に偏りすぎているのである。
殊更、重要なのは、その悪人の大量死が、『私の管轄する区域で』起こっているという事実である。
と。
「あ」
小町の声と同時に、扉の向こうから荘厳な鐘の音が聞こえてくる。相変わらず資料よりも時計に目をやっている時間のほうが長いのではないだろうか? それはそれで時間は中々進まないと、いつも言っているのに。
とにかく、鐘は正午の合図。
思考はそこまでだ。小町が休みになりたそうな目でこちらを見ている。
「……はいはい。分かっていますよ。別に、急ぎの仕事ではありません」
引き継ぎが主だから。
私に許可を得て、小町が席を立つ。私はどうしようか。休憩の間、誰かに呼ばれているという用事もないし――
「映姫様」
また、小町の声がする。少し離れた場所だった。
「どうしましたか。休憩に行っても問題はない、と」
さっき言ったはずです。
そう続けるはずだった言葉は、小町を見て打ち切る。正しくは小町を見てというか、小町が居る方向を見て、だ。
「お客様です。映姫様に」
小町の側に、少女が居た。
割と小町が長身なせいもあるが、とても小さく見える少女だった。病弱そうな雰囲気で、十代半ばにもならないのではないか、というくらいの。それどころか二桁に達しているかも怪しい。
人間として見るならば。
「……どうぞ、お入り下さい。小町、貴女は行っていいですよ」
と、少女を迎え入れる。入れ替わりで小町が退室した。少女の小さな体躯をつぶさに観察したが、だからといって、誰? というわけでもない。むしろ旧知の間柄――でもないか。知り合いには違いないけれど。
それにしても、この地獄で会うことは稀にあれど、私の職場まで足を運んでくることはない人物だった。実際、最後に会った場所を、私は覚えていない。覚えていないということは、先ほどぶりですね、という挨拶では変ということになる。
「お久しぶりですね、稗田の方」
そう言って、私は腰を上げ、改めて少女を迎え入れた。
003
カシャリ。と、耳慣れない音がした。
病弱そうで小柄な少女、稗田が手にしている機械のようなものからだった。
「お久しぶりです、閻魔様」
「閻魔様は止めて下さい。耳が早い。ところで、それは?」
耳がこそばゆい。稗田の方――それもこの地獄に身を置くとなれば、それは御阿礼の子である。次世代への転生のため、我ら地獄の判事に尽くす。何かと苦労が耐えなさそうな一族の者である。
また転生の時点で記憶は大部分が欠落するが、今は転生の前の姿。なので『色々と』見識の広い彼女のことは、正直に言うとあまり得意ではない。私の昇進に関わる話さえ、もう耳にしていそうだ。事実しているから、今のような人称で私を呼ぶのだ。手早く話を変えようとする。何より興味があった。稗田が手にしている見慣れない機械を指して、私は首を傾げた。
「これはカメラというものです。景色を切り取り、自動で紙に写生してくれる機械です。私への供物ということで、仲の良かった子が授けてくれたのです。生前から興味を持っていたのですが、中々手にする機会がなかったので。しかし便利なものですねえ、これは。次代の『幻想郷縁起』には、それはもう沢山の写真が使われることでしょう。文章一つで全てを表現するために、我ら御阿礼の子が頭を悩ませることはなくなりそうです。パシャっと撮って、ぺたっと貼ればいいのですからね。まあそれはそれで御阿礼の子の実力低下に繋がりそうなのですが、おっと、幻想郷といえば、今の映姫様にはどうでもいいことでしたか?」
生前、彼女と出会った時には、もう少し物静かな子だったと記憶しているのだけれども。それも病弱な肉体に起因していたのだろうか。病から解き放たれた精神では、これほど快活な子だったのか。
口も廻る。元々利発なのは確かなので、なるほど、やはり私の率直な思いは、遠からずというところだった。私も賢しいほうだとは自覚しているが、彼女の喋りというのはどうにも、聡明な割に感情的であり、理に準ずるという風ではないのだ。
善悪に基づいて喋る私も、あまり理性的とは言えないかもしれないが。
「……まあ、幻想郷のことはおいておきまして。ご用件はなんでしたか?」
「それが、幻想郷のことはおいておけないのですよ。もしかしたら映姫様もお気づきになられているかもしれない、そう思って足を運ぶのを躊躇っていましたが、杞憂だったようですね。無事にお話を運んできた甲斐がありました。自分の足で話を運ぶというのは中々、面白いですね。生前は達成できなかったことなのでとても楽しいですよ。おっとっと、話が逸れてしまいました……もちろんカメラを持ってきたのも、自慢するためだけではありません。先日気になることがありまして、閻魔王からお許しをいただいて下界へと出向いたのです。おっとっとっと、下界と言ってしまったら私が天界の住人かと思われてしまいますね。ええ、此岸へと渡ったのです。生前の故郷、幻想郷へと」
私の説教も長いと好評だが、このように話が長くなる人も珍しい。聞く側は非常に疲れそうなものだ。事実私が疲れ始めているのを察して欲しい。まさか私の説教を聞いている人もこのような気分なのだろうか……いいや、でも私の話には、実があるから平気なはずだろう。
机の前まで近づいてきた稗田は、これを見て下さいと言って、一枚の写真を提示してきた。
それは、見たままを言えば、殺人現場写真だった。
「人が殺された後です」
「……そうですね」
「見覚えが、ありませんか?」
意味深長にそう言った。私の察しが悪いとでも言われているようだ。
稗田は既に答えを持っているのだろう。それを提示される前に、こちらから何かを察してやりたいものだが。
妙な対抗心もあってか、写真と数秒見つめ合い、すぐに答えは出た。
「この人は、先日裁きましたね」
何のことはない。私が裁判をした魂の、生前の姿である。
人を外見で判断するという理屈で、たとえ魂が何色で、どんな形をしていても、裁判の折りにはまるっきり、生前よくあった元の姿に戻るのだ。だから見たことがあった。
「その通りです。流石ですね。そして判決は――ああ、問題があるなら言わなくてもいいのですが。判決は、地獄行きでしたね?」
稗田があまりにも不愉快なしたり顔だったので、うっかり否定しそうになった。
「……地獄の内務に関わる貴女なので。それに現世へ転生する頃には記憶もないでしょうから言いますが。確かに、地獄行きでした。立派な罪人でしたよ。幾度となく窃盗に暴行、更には二度も殺人を犯した凶悪な人物でした。すっかり死を知って洗われていましたけれどね」
それでも、折り紙つきとも言えるくらいに悪人顔だったものだ。
「はい。彼は知る人ぞ知る、幻想郷でも一番と言えるくらいに荒れていた人間でした。彼を嫌う者も多く、彼が亡くなった時には祝杯を上げる被害者も居たほどです。皮肉ですね。死んでしまえば扱いは全て一つの同じ、死体という名の『物』だと言うのに。あらいけませんねえ、私情を挟んでしまいました。まあこれだけではないのです。他にも幾つか、殺人現場の写真を持ってきたのですが……全てを見なくても、それだけで映姫様ならば察してくれると私は思っています。私がここに、この写真を持ってきた意味を。それに私が幻想郷へと足を運んだ意味を。もしかしてなのですが、やはり薄々、気づかれていたのではありませんか?」
そう、言葉を止めた稗田の後を継いで。
「悪人――それも『幻想郷』の悪人ばかりが死んでいるということに、ですか?」
私が言うと、稗田は深く頷いた。
「更に言えば、殺されているのです。幻想郷の悪人ばかりが。不思議に思いませんか。こうも人数が多かったら、痴情のもつれとは流石に言えないでしょうねぇ」
「他殺が死因に多いというのは、悪しき人であった死者の生前を考えれば自然とも思いますが。私が言ってしまうとやや問題があるかもしれませんが、確かに居るでしょう。殺されても仕方がない者、とやらも」
確かに、不自然だと感じるほどに多くの悪人が『殺されている』のも事実である。資料ではどれも、事故ではなかった。
無論、それだけで早合点を起こして、幻想郷で何かが起こっていると断言してしまうのもいけない。
立場も立場なので気軽には動けず、また、そもそも私が動くような話ではない、というのが何よりも先行している。冷たい話だが、そういうことだ。
「なるほど。地獄でも随一の才女である、映姫様の見解はそうである、と。それでは其処に、私が見てきた情報を一つ加えてみましょう」
稗田が、写真を私の机に広げて置いた。恐らく自らが持ち込んだ全ての写真だろう。
「死に様、殺され方が皆、一様に――まるで同一人物が殺したかのように同じである場合。映姫様は、これをどう考えられますか?」
004
まとめると。そして簡潔に言えば。
幻想郷で今、『悪人だけを殺す殺人鬼』が出没している。
私が現在管轄しており、また先の出世によって、直接的な管轄から外れるその幻想郷で。
言うべきことは言ったと判断したのだろうか、最後に「別に私は、貴女を疑っているというわけでは、ありませんよ?」と言い残して、稗田は去って行った。その発言の根拠は、その悪人たちの死に様にある。
「……大きな鎌で、不意の一撃ですか」
思わず、溜息も出る。
まるで、死神の仕業だった。
それも警戒心の強いであろう『悪人』相手から、自身へ対する認識を確実にずらせるような能力を持った者、である。そして邪推をするならば……。
私は脳の中身を知らず、口に出していた。
「幻想郷の悪人を殺すことで、確実とは言えないまでも、何か利益を得ることが出来る者」
つまり、もっと、更に――
「鋭角に結果を見たならば……その死人が死後の裁判で『地獄行き』を命じられた場合に、直接的ないし間接的に利益を得ることが出来る者、か」
稗田の去り際の言葉も当然だった。
地獄の連中は良くも悪くも自分本位である。それは地獄に置ける人物の評価が、不利益が出るのではないかと思えるまでに絶対評価制だからである。誰かの足を引っ張ったところで、その下に居る者が上に行けるわけではない。人の足を引っ張っている暇があるのならば、自分磨きをするほうがよほどいい。そういう世界なので、自分以外の者が今、どのような成績であって、どのような地位に居て、どのような功績を積み上げているか、などは比較的どうでもいいのだ。
よって、この件に関して、私が自身の成績を上げるために、私が管轄している幻想郷の悪人たちが急逝するように何か自作自演しているのではないか――と、誰かが因縁をつけてくるようなことは、きっとない。あるとしたら地獄での出世など興味がなく、その上誰かの動向に口を挟むのが趣味といった、稗田のような者くらいだ。誠に無礼で、失礼千万である。……あのガキめ!
と、既に見えない後ろ姿へ不満を漏らしても仕方がない。さっきから棚に上げてしまっているが、重要な事実ともう一度向き合わなければならない。思わず溜息が出てしまうような事実と。
同時に、信じてあげなければならない。
たとえ、日頃から巨大な鎌の携帯を許され、自身と相手との間合いを誤認させるような力を持った者が、私の知り合いに居たとしても。
燦然と、輝いていたとしても。
005
カフェオレを口にした私は、酷く苦い顔をした。舌の感想がそのまま顔に出たものだと思って欲しい。
「小町。これ、貴女のですよ」
速やかに、そのカフェオレを作った本人へと不満を述べる。すると小町は、「本当ですか?」と言いながらも、自分が今手にしているマグカップ内のカフェオレを一口飲んだ後で、
「……気のせいじゃないですか?」
などとのたまった。こいつ、もしや礼儀を知らないのではなかろうか。それとも単に、カフェオレのミルクとコーヒーの微妙な対比を分かるほど、味覚が鋭敏ではないのだろうか。
普段、私のカフェオレはミルクとコーヒーが五対五で。小町のカフェオレは三対七で作られている。片方二割、応じて四割も違う割合なのに、一口飲んで気づかないのであれば、わざわざ三対七で作る意味はないのではないかと思う。大人しく両方共、五対五で作ればいいものを。
罪を認めない姿勢なので、私はマグカップを手に小町の目の前に向かう。そして、突き出す。
首を傾げて私のマグカップを覗いた小町は、すぐに表情を苦くした。頭の感想が顔に出ていた。
「見ての通りです」
「映姫……こんなことも出来るのか」
「口に気をつけなさい。職場です」
私のマグカップに注がれていたカフェオレは、今やカフェオレの体を成していなかった。一度混ざったはずの液体が、白と黒とに、くっきりきっぱりと分離していた。
互いの領地は、それが何対何だと断ずることは出来なくても、とりあえずコーヒー側の勢力が強いというのははっきりと分かった。
私が『白黒はっきり付けた』カフェオレは、私の能力が解かれると、すぐに流動して、茶色に濁る。
微笑んで、このおおよそ三対七のカフェオレを小町のデスクに置いて、小町の手から恐らく五対五であろうカフェオレを奪い取り、私は自分のデスクに戻った。
口にしたカフェオレは、確かにマイルドな味わいの、いつものカフェオレだった。
今日も業務は執務室で行っている。昇進と異動による部屋の引っ越しは、もう数日後に迫っていた。そろそろ、資料的な引き継ぎは終わらせて、部屋の掃除を行ったほうがいいのかもしれない。
稗田の話によれば、最近、幻想郷における『悪人の不審死』は、起こっていないらしい。正確に日を追えば、私の昇進が決まるほんの少し前から、だ。
やはり是非曲直庁のお偉い様方は、幻想郷で起こっている不審死について、何も不審には思っていないようだった。ここのところ、仕事に関する面談や会議を、そのお偉い様と行うことも少なくはない。警戒しながらも時に大胆に、そして巧妙に会話をリードしてみたりとしても、何ら私に対する疑いの声は聞こえてこなかった。
「君、もしかして何かしてない?」と、無遠慮に聞かれる覚悟もして、それに応じる答えも考えていたりしたのに。案の定杞憂だった。稗田も、別に私へ悪意を持って動いているわけではないらしい。
正直――私は、何なら新たに殺人が起こってくれ、とまで思っていた。稗田からの警告に似たそれを聞いてから、私は普段以上に、小町の行動を注視していた。脳を休めるための睡眠も取らず、ほぼ二十四時間態勢で小町を監視していた。お陰で最近は仕事のノリが悪い。
小町は、全くと言っていいほど、怪しい動きを見せなかった。
それはそれで、何か訴えられた時に、小町の誠実なる日常をアピールするネタにはなるのだが。
でも、このタイミングでまた大鎌による悪人の殺害が行われれば、より明確に、私は小町の潔白を証明することが出来るのに。
そう考えている今の私は……あまりにも、裁判官として相応しくない。
だとしても、小町は無実でなければならないのだ。
頭痛がしてくる。最近の妖怪生理学によると、ストレスと頭皮脱毛に直接的な関わりはないとされているのだが、どうも頭をかく回数は増えているようなので、あまり頭皮に優しいわけではなさそうだ。
小町は気楽なもので――カフェオレのマグカップを間違えるくらいには、脳天気である。母親となった小町は、生後しばらくこそ不安がっていたようだが、ここのところは普段通り。むしろいつもよりも暢気にしているような風でもあった。
「そういえば小町」
「どうしました?」
小町が殺人鬼なのか、どうなのか。
私が小町に尋問をかけて、白黒はっきり付ければ、それが最も簡単で、迅速な解決となるだろう。
それをしないのは、心の何処か――それも大きな部分で。
小町が『そうなのだ』ということを、理解しているからかもしれない。
だからこそ、近頃こんな探偵じみた考えごとをしているわけだ。
『犯罪者という警戒心の強い相手から、確実に不意を取れるほどの力を持っていて、巨大な鎌を携帯している、その犯罪者を殺す動機に利益にとはっきりしている者』。
これが、私の部下――唯一の部下、小町以外に該当するものが、居ないのか。
居ないのだ。
動機の部分を外してしまえば、愉快犯だとか、サイコパスだとか、考えられる犯人像は増えてくる。
それでも中々、居ない。
大鎌を携帯していて、人から確実に不意を奪えるような存在が。
距離を惑わす能力を持った――小町という名の死神を除いて。
「冬の中頃、無縁塚で考えごとをしていたようですが……アレはどうしましたか?」
その問いかけに、小町は酷く狼狽をみせた。尋問をかけて、わざわざ真偽の灰色を、はっきり白黒区別する必要がないくらい。
同時に、とても悲しい顔をしていた。
「あまり、気にしないことにしました」
かえしの付いた長い針が、深く心臓に突き刺さっているような、傷ついた声に聞こえた。こんなにも嘘が下手だっただろうかと思いもしたが、日頃の裏表ない性格を評価して、確かに嘘は苦手そうだと悟った。
「そうですか。そのほうが正しいかもしれませんね。考えても考えても、解決しないならば、それは決して、『良いこと』ではないのでしょう――ところで、話は変わりますが」
あの、無縁塚での雑談で――あの時に気づいていれば、稗田が気づかなかったのかもしれない。私以外が気づかなければ大丈夫、というわけではないけれど。確かにあの会話の後も、私は幻想郷の悪人に対して有罪を出し続けた。奇妙なまでに、悪人がよく死んでいた。あの寒い冬の日から、先日の稗田が示した最後の被害者に気づいた日まで。断続的に、絶え間なく。
そして私は無事に昇進が決まった。このペースで行けば、と小町に示唆してから、順調に。
白黒はっきり付けよう。
「同じく資料を読んでいる貴女も、きっと気づいているのでしょう。近頃――幻想郷で、悪人ばかりが、不幸な死を遂げているようなのです」
「……」
「小町、貴女はこれについて何か知っていることがあったり、思うところがあったりしませんか? 何でもいいです。小さなことでも、大きなことでも。良いことでも――悪いことでも」
声も震えず、一度も噛まず。日頃の仕事の賜物だった。
小町は少し俯くと、何かを咀嚼した。言葉だったのだろう。無意味に空気を噛んだ後、私のほうを振り向いて、言った。
「私は“何も知りません”よ、映姫様」
思わず、目を見開いた。
「こま、ち――貴女は」
006
その日の業務が終わり執務室の外に出ると、其処には稗田が居た。
彼女の口から伝えられたのは――つい先ほど、幻想郷で新たに『悪人』が殺されたということだった。
私は不謹慎な笑みを浮かべていたが、そうせざるを得なかった。
「私の能力が、情によって陰ったのかとも思いましたが――そうですか。そんなことがありましたか」
説得力の欠片もないが、すぐに表情を硬くする。
「痛ましいことです」
「嬉しそうですね。小町さんではありませんでしたか――まあ、そうではないかと思っていましたよ。ところで映姫様。実は先ほど伝えた一報は、恐らく私が第一発見者で、現場はまだ丸のまま残っていると思うのですが、見に行くおつもりなどはございませんか?」
「私は、警察や探偵ではありませんので。あまり下界には干渉しないようにしています。凶悪犯の存在は恐ろしいことでしょう。稗田の方、貴女も幻想郷出身ですから、地元がそうなっていれば心も痛むでしょう。しかし私は肩入れするわけにはいきません。身内の粗相であれば、ともかく」
冷たい台詞で、人情の欠片もないとは思うが、事実は事実である。私は中立でなければならない。……未だに説得力が戻ってこないけれど。
「……おや、お洋服にシミがついていますね」
不意に稗田がそんなことを言った。見れば、袖の辺りに確かな黒いシミがある。きっとカフェオレのものだ。
「コーヒーをお飲みに?」
「いえ、カフェオレです」
「その割にはシミの色が黒かったので。最初はお昼ご飯にお刺身でも食べたのかと思いましたが、そういえば職務中に殺生と関わることはしないのでしたね」
「ええ、まあ」
いつ、私がそんな制約を課していると知ったのだろう。彼女の耳は何処についているのか分からない。
「小町が、カフェオレの割合をちょっと間違えていましたので、少し脅しを掛けたというか……」
「ははぁ。さしずめ、一口飲んでそのカフェオレが映姫様の好きな割合ではないと分かったのに、小町さんがそれを否定したので、映姫様の能力でコーヒーとミルクを分離させて、割合が違うことをまざまざと見せつけた時にうっかり付いてしまったシミ――といったところでしょうか?」
恐ろしく正確な推測だった。私は思わず黙り込む。改めて自らの行いを口に出されると、大人気なく恥ずかしいことをしたものだと思う。
稗田は笑っていた。嘲笑というほどの笑い方ではなかったが、いまいち感情の読み取れない笑顔でもあった。私はついつい不機嫌になりかけたが、別に、無礼を働いたのは稗田のほうであるというわけでもなかったので、溜飲を下げた。
「それは三時間ほど前の出来事でしょうか?」
続けて稗田が言ったのは、これも問いかけというよりは、推理の確認といった風だった。およそ三時間前。午後三時頃。おやつの時間、ティータイムだ。確かに私がカフェオレを飲んだ時間である。
「ええ、そうです。よく分かりましたね」
しかし容易とは行かないが、少し考えたら分かることなのかもしれない。それでも稗田の洞察力――いや、目敏さには、脱帽する限りである。
別に褒めたつもりではなかったが、稗田は嬉しそうに笑っていた。そしてその表情のまま、私に告げた。
「先ほど――幻想郷で悪人が殺されたのが、そのくらいの時間でしたので」
突然の情報だった。そんなこと、別に聞いていない。稗田の真意を測りかねて、私は首を傾げた。それに気づいたのか、稗田は私が何を言うでもなく、言葉を続けた。
「面白い偶然ですよね。私もそう感じます。午後三時、ティータイム。おやつの時間というのは、どんな悪人であっても、うっかり気を抜いてしまうものなのでしょうかね。宮本武蔵も、実は佐々木小次郎の苛立ちを狙ってだけではなく、午後三時を狙って巌流島に現れたのかもしれません。それにしても無手勝流とは言いますが、そんな相手に卑怯な戦法を取られているとはいえ、普通に決闘を受け入れられている佐々木小次郎は、逃げるまでもない雑魚剣士だったのかもしれませんねぇ。もう少し強くて聡明な方だと思っていたのですが――」
そして最後に、私の目を見て。
「残念です」
とだけ、言った。
「何が言いたいのでしょうか」
「いえ。しかし心はあまりにも弱く、その上、思いがけないものなのです。夢の内容は、目が覚めてしまうと大部分を忘れてしまう。しかし夢の中に居る自分は、確かに一人の自分なのです。内と外、っていうのはですね。繋がっていて一人なのです。夢は、いつか覚めます。消えてなくなってしまいます。たとえ夢が現実に現れたとしても……いつかは覚めなければ、いけないのです。悲しいですね。本人も分かっていることでしょう。――登場人物はあまりにも少ない。だからそろそろ、終わらせなければなりません。きっと気づいていないのは貴女だけですよ。尤も、それは能力がないのではなくて、私たちはカンニングをしてしまっているから、なのですが」
どうにもはぐらかされているようで、しかし、真に迫っている。気味が悪い会話だった。いや、気分が悪い。不愉快だった。あるいは、ただ単に――嫌だ。
「それでは、これで」
最後に、としてもう一度だけ笑むと、稗田は私に背を向けた。
が、すぐにくるりと振り返る。一回転した。
「おっとっとっとっと。伝え損なっていました」
私に近づきながら、一枚の紙を差し出してきた。四つ折りにされていて、中身は見えない。
「多分、次に殺されることになる、幻想郷の『悪人』です。紙の中には地図があります。その人の家です。割と活動的ですが、特に仕事はしていないので、すぐに会えると思いますよ。それでは、今度こそこれで」
今度こそ、稗田は伝えることを伝えて、去っていった。
私は貰った紙を開いて、描いてある地図を少し眺めてから、目を閉じた。
考える頭に、ふとした言葉が浮かんで、消えた。
『別に私は、貴女を疑っているというわけでは、ありませんよ?』
007
幻想郷は、生憎の雨だった。尤も雨の日を狙ってきたので、当然といえば当然だ。
雨が夜更け過ぎに雪へと変わるような気温ではなかったが、それでも充分に寒い。私はかなり厚めの防寒をして立っていた。
マグカップに注いだカフェオレを片手に。既にそれはかなり冷えてしまっていたけれど、暖を取るのが目的というわけではないので、問題なかった。
辺りには数軒の家が立ち並んでいる。とはいえ人が住んでいる気配のする家はあまりなく、半分以上が廃屋だった。治安はあまり良くないのだろう。血のシミが黒ずんだような痕が残る壁も見あたる。
小野塚という地名だった。
稗田の地図に記されていた場所でもある。
流石にもう春も間近とはいえ、寒いものは寒い。その上、雨だ。辺りには人っ子一人居なかった。皆、家に閉じこもっているのだろう。空き家とそうでない家の区別が簡単に付くよう、空き家は扉が取り外してある。この雨の中、常識的に扉をきっちり閉めてある家が、人の住んでいる家ということになる。
私は傘の下で、とある一軒を、少し離れたところから見ていた。
扉がきっちり閉まっていて、家の中に誰かが居るということを表している。家の前には誰も居ない。辺りの家に比べれば、多少は外観が綺麗に見えた。神経質な人が住んでいるのだろう。
長居をするのもつまらないので、速やかに用件を終わらせることにした。
マグカップに目を落とす。別に必要はなかったのだが、私の力がしっかりと働いていることを確認するためのアイテムだった。じっと見る。白黒を、はっきり付ける。
マグカップの中で、コーヒーとミルクがくっきり分離した。丁度半分半分。私が好きな、五対五の割合で作られたカフェオレだ。
しっかり、私の力は発動している。
そして、顔を上げた。
「――止まりなさい」
先ほどまで誰も居なかった家の前に、人が居た。
赤い髪で、大きな鎌を背負った女性が、立っていた。扉を開こうと、手を伸ばしていた。
私の言葉に反応してか、その動きを止めると、こちらを振り向いた。
見覚えのある顔だった。
「罪を裁くことが出来るのは、神です。貴女は確かに同じ名前を冠していますが、死神がすべきは断罪ではなく、あくまでも死すべき魂を運ぶことだけ――その悪人が死すべき運命なのかを決めるのは、貴女ではありません」
相手は、全く動かずに、虚ろな目で私を見ていた。私は歩み、彼女へ近づく。
「それに、貴女は少々自分勝手過ぎます。他人にも、それに自分自身にも。それは貴女が本当に望んだことなのでしょうか。あるいは貴女は、それが悪人ならば本当に、必ず、その罪を裁くことが出来るのでしょうか。そうでなければ貴女は執行人になるべきではない。自らの意志や思いでその鎌を振るうのであれば、貴女は失格だ」
近づいても、彼女の顔が変わるということはない。
全く見知った、一人の女性だった。
その女性を、私は見上げる。雨が傘を叩く音より、小さな声にならないように、努めて言った。
「罪を裁くことが、貴女の務めだというのであれば。ここでこの魂を裁くことが出来るでしょうか? ――ここにある魂は、死すべき必要がない人を、何人も殺してしまいました。其処にエゴがなかったなんて、言えません。自らの能力の管理の不行届きなのですから。それもこともあろうに、自らの罪で、他人を疑って! 信ずるべき他人を疑っていまいた。また別の他人にそれを指摘されて、ようやくそのことに気づく始末で……本当に、どうしようもありません。罪深き魂であり、死するべき運命なのは当然です。だから貴女は、その鎌を、その魂に向かって振り下ろすことが出来ますか。全く無情にして。殺すことが出来ますか。罪深き者を殺すため、そのためだけに産まれた貴女よ。どう考えますか。教えてください。貴女は――」
不本意にも、其処で息が詰まる。弁士としてもまだ甘いのだと教えられた。深呼吸を一度挟んで、言い直す。
残す、たった一言、短い言葉を。
「私を殺せますか」
雨は強さを変えずに、傘を叩き続ける。
目の前の女性は、少しも濡れていなかった。
私と彼女はしばらく目を合わせていたが、それほど時間も経たない内に、彼女は消えた。
光に照らされた影のように、薄く、溶けて消えた。
「……ありがとう」
私は俯いて、搾り出すように言った。
雨の代わりに、涙が私の顔を濡らした。
「そして、ごめんなさい」
最初から最後まで、雨は強かった。
お陰で、扉を挟んですぐ其処に居るであろうこの家の持ち主は、軒先で行われていた会話に、一切気づくことはなかったようだった。
008
離魂病。
それは、小町が患っていた病気の名前だった。その名の通り、魂が身体を離れてしまう病である。表から見える現象としてはほとんど同じだが、幽体離脱と違って、その魂は他人からもはっきり見える。妖怪のドッペルゲンガーと違って、それはあくまでも病気である。
一度、本体から切り離された魂は、同じ引き金によって何度も身体から離れるようになり、一度でも離れてしまったら、二度と『離れなくなる』ということはない。
肉体との接続が切れた魂は、次第に衰弱していく。そして最後には消えて――同時に肉体も、息を引き取ることになる。
私があの日、小野塚のとある家の前で見たのは、小町の魂だった。
小町はそれから半年後、静かに息を引き取った。
発症の原因は幾通りか存在するが、その中でも最もポピュラーなのは、人格の乖離である。主に後ろ暗い理由であることが多い。例えば人を殺してしまったとして、その罪に向き合わず。自分は絶対に人を殺していない。何かの間違いである。こんな自分が居るはずない。自分はこんなにも美しいのだ。だからそんなの、何かの嘘だ――と、人を殺してしまった自分を絶対に認めず、押し潰す。
そうした時に、離魂病は引き起こる。
切り離された魂というのは、独自の思考を持って自由に動く。今の話だと、切り離された魂は人殺しの人格だから、本能のままに人を殺して回るだろう。
そう。まるで、小町のように。
小町が苦悩していたのは、今までの自分。そして、母親としての自分――その境目。その人格の乖離だったのだ。
それでも最初は、多分、離魂病なんて関係がなかったのだと思う。
我が子を思うがあまりの、心の弱さ。離魂病として出現した『影』が取っていた行動は、離魂病を発症した時に、本人が取ってしまった行動と、変わりがないのだ。
母親・小町は、人を殺した。
幻想郷で悪人を殺し、私に有罪判決を多数出させて、私が昇進して、自分自身も昇進するために――人を殺したのだ。
いつが最初だったのかは分からない。でもあの日、無縁塚で小町と会話をしたあの日には、もう事が済んでいたのかもしれない。
そして。
離魂病が発病してもおかしくない動機を作ってしまったのは、小町自身である。
では、何処で離魂病が発病したのだろうか?
それは、もしかすると。いや、多分、恐らく、きっと。
あの無縁塚の日だったのかもしれない。
私は、母親としての立場を明確にしろと、小町に説いた。母親なのだから、母親らしくあれと。子どもを思い、自らを殺し、動くべきなのだと。
それまでの小町と、母親・小町を。――白黒、はっきり付けてしまった。
あの子が変わったのではなく、私が変えてしまったのだ。
「昇進おめでとうございます。いやいや一悶着あったとはいえ、最終的に昇進してしまうのはやはり映姫様の実力あってのことですねぇ。これからも一層邁進なさるのでしょう。私も媚びを売ってきた甲斐があるというものです。転生先でもよろしくお願いします」
そういえば。地獄は相対評価ではなく絶対評価であり、他人がどうしたからといって自分に何かが振りかかるわけではない。というのは変わらない事実なのだが、かといって責任の所在が当事者本人にしか行かないというわけでは、ない。
部下の失態は上司の責任でもある。つまり私は今回の件で、昇進の話が半分ほど、なしになってしまった。
直属の部下が――その魂とはいえ――殺人鬼だったのだ。上司であり、その殺人鬼となる一因を担った私が現状維持どころか、結局少しは昇進してしまうのだから、上層部の頭の螺子はよほど緩いのだろうか。それとも地獄に、よほど人手が足りないのか。
私へ下された判決はこうだった。
【四季映姫 貴殿は新たに『ヤマザナドゥ』を冠せよ】
私は裁判長となった。担当する地区は変わらないまま、権限だけを与えられたのだ。つまり、私の一存で、死人の有罪無罪を断ずることが出来るようになった。
私の能力自体は認めているが、余り表沙汰に、大きく取り上げることはしたくない、ということだろうか。
「……売ってたのは媚びではなくて喧嘩だったように記憶していますが?」
「いえいえそんなまさか!」
思えば稗田は、小町が離魂病であることを看破していたのだろう。というか恐らく、見たのだ。小町の魂が、悪人を手に掛ける一部始終を。カンニングがどうとか、言っていた。
離れた魂は、会話が出来ない。本能が導く目的を果たす以外は、話しかけても目は虚ろで、返事もしない。稗田は、つい先程、悪人を殺したであろう殺人鬼に、きっと今と変わらない口調で、ころころと喋りかけたのだ。既に死んでいるとはいえ、不用心すぎる。
『悪人が死んだ』というだけで、痴話喧嘩がどうこう言っていたのも、殺人鬼が女であると知っていたからか。
其処で、その小町と生きている小町が『別の存在』であると認識して――言ったのか。
私を疑っているわけではないが、と。
確信していたのだ。小町の離魂病は、私の能力の暴発によって発現したものであるのだと。
私で遊んでいたのだ。御阿礼の子とは、空恐ろしい。
「あ、ところで映姫様」
「……何ですか」
「赤ん坊、泣いていましたよ」
「先に言ってください!」
トイレ前の廊下で立ち話をしている場合ではない。というか、トイレから部屋に戻ろうとして、途中で稗田が声をかけてきたのだった。嫌がらせだろうか。
さっき寝かしつけたばかりだったが。わざわざ稗田が起こしたんじゃないかと邪推してしまう。流石に疑いすぎだが。
急いで部屋に戻ると、確かに赤ん坊は泣いていた。
ずっしりと体重を増した赤ん坊を抱えて、私は必死にあやす。遅れて、稗田が部屋にやってきた。
「もう何ヶ月ですか?」
「そろそろ一歳になる、というところですかね。やはり実母ではないからか、一度泣き出してしまうと中々泣き止みません。母乳も出ないので、申し訳ないばかりです」
「そうですかね? 義理の母とは思えないほどに、中々お揃いですよ、お二人。まあ、地獄一の名コンビと言われた映姫様と、小町さん。その子は小町さんの子どもですから、当然でしょうか?」
「言われた覚えはありませんが……」
しばらくあやしていると、ようやくまた寝付いてくれた。泣き疲れたのかしっかりあやすことが出来たのか、その真偽は定かではない。
私は、小町の子どもを育てることにした。
孤児として扱うことも出来た。贖罪――というわけではないのだが。それでも、この子は私が育てるべきだと。
遺言で、小町がそう言ったのだから。
「子どもの名前は、何でしたっけ?」
「小町にしました」
即答したところ、稗田は少し表情を固めて、数秒の無言の後に、「は?」とだけ言った。それで媚びを売っているつもりか。
「小野塚小町です」
「本気ですか……?」
「ええ」
それだけで私の決意は読み取ったらしく、稗田からそれ以上の言及はなかった。
小野塚。私が小町を終わらせた場所。あの日、私が小町の影と対峙して以降、幻想郷の悪人だけが執拗に殺されるということはなくなった。
活力を失った影は、急速に力を失うだけ、だ。
離魂した人格が追い求めるのは、自らの行為の根底にある「正しさ」だけ。
その正しさを、私は黒いものとして断じた。小町の影は、それで存在する意味を失ったのだ。
だから私は、その場所から新しく始めることにした。
小町という死神の、魂を。
「そうだ、折角なので記念写真なんてどうでしょうか」
難しい顔をしていた稗田だったが、首にかけていたカメラを構えて、そう提案してきた。
「そうですね。折角なので、お願いします」
私は稗田のほうを向き直り、胸に抱く小町の顔も、カメラに写るように抱え直す。
数ヶ月前はそうも思わなかったが――こうして寝顔を見ていると、母親に似ているような気もした。
「では、撮りますよー……はい、ポーズ!」
カシャリ。と、シャッターが降ろされて。
「ああっ!」
「……やってしまいましたかね?」
同時に焚かれたフラッシュが少し眩しすぎたのか。
部屋はもう一度、小町の泣き声でいっぱいになった。
「謎の開示」と「事の決着」は切り離すべきだったと思います
→いました
ある程度先読みできてしまいましたが、楽しめました。