透明なビーカーの中で、黄色みを帯びた液体が厳かに沸騰している。アリスは緑ラベルの小ビンを脇に寄せ、量り取った粉末を慎重にビーカーの中へ落としこんだ。ガラス棒を使ってかきまわすうち、ピッと小さな音が立つ。ビーカーに入った亀裂を認めるや、アリスはとっさに頭を抱え、机の下に転がりこんだ。すぐ上で、乾いた破裂音が広がった。すこししてから恐る恐るはい出ると、無残にも崩れ落ちたビーカーの破片が机の端につかまっていた。どろりとあふれ落ちた液体が生々しい。
異臭を放つ残骸から顔を背け、アリスは壁伝いに歩いて窓を開けはなつ。冷たい夜風が顔の表面をなでさすった。こぼれる息の先で、風力計が力なくしっぽを回している。
6番目となる犠牲者の破片を横目に捉えつつ、アリスは表情を曇らせた。手近なイスに腰かけて、ぶらぶらと足を揺らす。人形が破片を片づけているのを他人事のように眺めつつ、鼻を鳴らした。
手順書をめくりながら、順番に実験を検証する。何も問題は無いはずだった。手順(1)から(6)までは順調に行った。室内に設置してある計器の具合を確かめて、もう一度つき合わせる。メモの数値を何度見ても、すべて間違いなかった。
失敗した手順(7)を頭の中で思い描く。時間も計った。分量も問題なかった。温度も計算どおりだ。2度計ったのだ。
ガラスの破片が片づいても、焦げ目は残ってしまった。いまいましげに机の表面をたたくが、どうなるものでもない。
アリスは続きを諦めて、明かりを消し、ヘア・バンドも外した。そのままベッドへ潜りこんでしまう。
暗闇に透かして天井をにらみつけていると、焦げ目がぼうっと浮かんでくる。闇から始まるだ円が、徐々に色あせて溶けこみながら、うすら笑う唇のようにゆがんでいた。
すこし休んで、朝日の中へ起きてから、アリスは顔を洗い、服を着替えて外に出た。晩夏がおしせまり、むっとするような空気から、空へと逃れ出る。風は強いが、爽やかとはいえない。あまりにも日差しが強かった。すこし顔をうつむかせながら、青々とそびえ立つ山々を右手に、太陽のある方へ向かって飛ぶ。スカートのはためく音がうるさい。ときどき額に噴き出す汗を拭いながら、風に身を任せていると、立ちこめる濃い霧が地平線の端に顔をのぞかせた。まっすぐ目指して、その中につっこんで行くと、すこし息が苦しい。水蒸気が喉にはりついて、喉がむずがゆくなる。強くせき払いをして、行き足に力を込めた。
そのまま進むと、ぱっと霧が晴れた。荘厳な館が見える。午前の鋭い太陽光の中に、紅の門がそびえ立っている。そのすこし手前に降り立ち、軽く呼吸を整え、スカートを直した。
歩いていくと、入り口の脇に美鈴が立っていた。手を挙げて礼をし、図書館に行きたいと告げると、美鈴は呼び鈴を鳴らした。
咲夜がトンと現れて、アリスの全身をなめるように見回してくる。
「久しぶりじゃない」
「ええ。たまには。ちょっと書簡を探しているの」
「あらそう。どうぞいらっしゃい」
美鈴の穏やかな笑みに手を振りかえし、咲夜の後に従って館へと足を進める。
やたら巨大な扉をくぐって中へ入ると、ろうの燃え落ちる匂いが鼻を打つ。アリスは顔をしかめ、鼻柱を抑えた。
紅魔館の廊下はうす暗い。窓がなく、明かりは揺れるろうそくだけだ。しかも、延々と長く続くせいで、換気の効率も悪い。吹きぬけを通りぬけ、玄関から遠ざかるにつれて、息苦しさが増していった。
地下へ降りる階段に差しかかり、アリスがすこしうつむきかげんに首を傾げて、踏み外さないように慎重に足元に目を凝らしていると、頭の先から咲夜が話しかけてくる。久しぶりの来客だ、退屈だった、そんなことをぼつぼつとしゃべっている。アリスは曖昧に相づちを打った。
階段がちょうど終わったところに、装飾の施された分厚い鉄扉が待ち構えている。咲夜はおしゃべりをやめ、ノブに手をかけて、ゆっくりと押し開けた。
ろうとすすの匂いから解き放たれたのもつかの間で、紙とインクの混じりあう、独特の臭気が鼻を突いた。アリスは鼻の頭に指を置いたまま、つかつかと中へ入っていった。
パチュリーは、まるで写真から飛びだしてきたかのようにそこにいた。巨大な本に隠れて顔が見えない。咲夜が来客を告げ、アリスが挨拶をすると、背表紙はせきを払った。
紅茶と砂糖入れを置いて咲夜が立ち去ると、くゆる湯気と背表紙とアリスが残された。アリスはカップを取りあげて、軽く香りを聞いた。爽やかな浅い葉の声がした。
動かない背表紙を後に、アリスは立ち並ぶ書架の間を縫った。刻んであるアルファベットを追いかけて、Tにたどり着く。通路を折れ、高い天井まですっと詰められた本たちに目を走らせながら、ゆっくりと足を動かす。端まで行ってしまうと、来た道を逆にたどりながら注視しつづけた。
入り口まで戻ってくると、ちょうど司書と鉢合わせになった。アリスは呼び止めて、トリチェッリがいないと文句をつけた。
「どのトリチェッリですか」
「水銀柱を逆さにしたやつ」
「それなら、Eの棚を見てくださいよ」
司書は面倒そうに反対側の暗闇を指す。とまどうアリスに向かい、ややあきれたように言いはなった。
「エヴァンジェリスタでしょう。ファースト・ネームで並べてあるんです」
言葉を失ったアリスを放置して、司書は立ち去り消えた。
気まずさをせき払いでごまかして、アリスはのろのろと長い廊下を歩きはじめる。入り口からTの棚までは、結構な距離があった。Eはかなり手前だ。図書館の廊下は狭くて暗い。先細りのじゅうたんが、すこしかすんで見えた。
どうにか目当ての冊子を探しあて、机のある所に戻って来る頃には、すっかり足が疲れてしまった。勢い良くイスに座ると、腰が痛む。不満げに鼻が鳴った。
冊子を開いて、中身を読む。だが、もとより暗い紅魔館の地下で、窓も無い場所では、続け書きの文字は判読しづらい。明かりを付けるのは、パチュリーが嫌がる。
アリスは呼び鈴を1度押し下げた。目の前のティーカップが消えて、マグカップになった。のぞきこむと、コーヒーだ。
苦笑いをかみ潰して、呼び鈴を強く2度押し下げた。机の向こうで、背表紙がまたせき払いをした。
「コーヒーはお嫌?」
後ろから咲夜の声がする。アリスは振り向いて唇をとがらせた。
「違うの。飲み物じゃないの」
「クッキーにしましょうか?」
「食べ物でもない」
「じゃあ何?」
「部屋を貸してちょうだい。窓がある部屋」
「何に使うの?」
咲夜はすこし困ったように眉をひそめた。
「ここじゃ暗くって。計算もできないんだもの」
アリスの言葉に、咲夜は額に手を当てて目頭のシワを濃くした。
「どこがいいの」
「窓があって、明るい部屋ならどこでも」
咲夜は両の手のひらを見せて、歩きだす。アリスは立ちあがり、その後を追った。
また、長い階段を登り、陰鬱な廊下を通りぬける。通されたのは、3階の東の端にある部屋だった。ベッドがひとつ、机がひとつある。
「飲み物は?」
「コーヒーをちょうだい。ブラックで」
アリスが書簡を片手に机に向かうと、白いマグカップが現れる。酸味を伴いほのかに立ちのぼる香りが心地よい。
咲夜が立ち去ってから、アリスは冊子をめくった。細かな文字を追いかける。頭の中で、数式を分解したり組み立てたり、積み木で遊ぶようなものだ。ただ、この積み木は意外と厄介で、基本的な積み方は決まっている。その通りにやらないと、あっという間に崩壊してしまう。そうなったら、また最初からやり直さなくてはならない。かといって、全く書いてあるとおりに組み立てても、役に立たない。ある程度、自分でピースを整形しながら積まなければならないし、場合によってはゼロから作りださなければならない。遠いところから取ってきたりすることもある。それでも、アリスはこの作業が好きだった。複雑に組みあがった模型を、最後塗装している時などに、いつもこみあげてくる笑いがある。それが好きで好きでたまらない。だから、積み木を手放すなんて考えられなかったし、いつでも新しいピースが欲しかった。
アリスはたまにコーヒーをすすっては、地道な作業に取り組んだ。たまにピースが合わなかったり、どこへ行ったか分からなくなると、ふっと立ちあがって部屋を一周した。そして、また積み木に戻るのだ。1冊めの書簡を読みきると、地下へ行って新しい物を探した。アクィナス、ピーコ、ベルヌーリ、オイラーなどなど、次々と読んではピースをそろえていく。それを順番に組みあわせ、色を塗っていった。色が分からなくなると、コーヒーを飲んだ。コーヒーが無くなると、呼び鈴を鳴らす。新しいコーヒーがやってくる。その繰りかえしだった。
ふたけたのコーヒーが数式に変わり、日が落ちると、アリスは紅魔館を辞した。帰りの空はまだ重苦しい。汗が噴き出た。家に着き、シャワーを浴びて着替え、布団に潜りこむ。天井の焦げ目はいくらか薄く見えた。
こんな生活をしばらく続けていると、そのうちに咲夜は先回りして部屋を開けておいてくれるようになった。図書館の背表紙はあい変わらず、写真か何かのように動かない。ただ、表題の文字の色がたまに変わっていた。
書架のことで迷うことは無くなったが、積み木の方は途中で詰まるようになってきた。やはり、どこかにひずみがあったらしい。アリスはピース集めをいったんやめ、足元から検証をやりなおしはじめた。
積み上げた山を崩さないよう慎重に見てまわり、ピースのかみあわせを確かめる。そして、すこしピースの位置を変えてみたり、形を調節したりする。ピースを変えたら、下から上まで、もう一度通して確認する。それでも、やはりひずみがあった。新しいピースを乗せることのできないまま、いくつかの日が暮れていく。眠りも浅くなった。
そんなある日、いつものように紅魔館へ来て、部屋に通される間に、珍しく咲夜が話しかけてきた。
「どうなの? うまく行ってるの?」
「ええ。まずまずかしら」
「そう。羨ましいわ」
「あなたこそ、どうなの?」
「変わらないのよ。いつもどおり。お掃除をして、お食事を用意して、またお掃除。あの子たちが優秀で助かるわ」
突き当りに固まっている妖精メイドを顎で指しながら、咲夜は鼻を鳴らした。
「良かったじゃない。退屈しなくて」
「そうかもね」
いつもの部屋につく。アリスが机に向かっても、咲夜はドアを閉めなかった。
「すこし、ここにいてもいい?」
ドアノブをいじりながら聞く咲夜を振り見て、アリスは大きく口を開けた。
「お仕事はいいの?」
「いいのよ。後でまとめてやるわ」
咲夜は肩をすくめ、後ろ手にドアを閉めた。窓際まで歩き、鍵を外して開けはなつと、ぬるい風が入りこんでカーテンを揺らした。どこかうっとりと目を細めている。
アリスはしばらく怪しんで伺っていたが、その内に首をひとつひねって書簡に没頭する。そして、また懲りないで積み木と取り組んだ。
部屋は静かなままだった、窓から入りこむ風がカーテンを優しく揺らし、アリスの右手がペンを走らせ、紙がインクを飲みこんでいく。咲夜は窓際でしばらく耳をそばだて、静かにたたずんでいた。青い空が窓をいっぱいに満たしていた。白い雲が手をつないでじっと空の向こう側に位置を占めている。それは風の向きによってなだらかに色を変え、山の上からもっと遠くの方へと流れている。
しばらくして、咲夜は窓から離れた。静かにベッドへ進み、ゆっくりと腰を下ろした。足を組み、手を組んで膝小僧の上に置き、たまに揺れるアリスの背中へ、じっと視線を注いだ。アリスはたまに座りなおしては、冊子のページをめくっていく。ヘア・バンドを包む白いフリルが、ゆっくりと左右に揺れた。
太陽が段々上っていく間中、咲夜は穏やかな視線を注いでいた。すっかり高まった日の明かりが窓の影を垂直にする頃、ふいにアリスが席を立つ。閉じた冊子を片手に振り向いた。目があうと、驚いたように声を高めた。
「まだ、いたの?」
「あら、ジャマだった?」
「いいえ。そんなことないけれど」
「そう。図書館?」
「ええ。ちょっとね」
ふたりは連れだって廊下へ出た。咲夜は先に立って歩きながら、すこし声を弾ませた。
「あなたって、意外とマジメなのね」
「どういうこと?」
アリスの眉が斜めに釣りあがる。
「いいえ。なんだか、すこし気が楽になったわ」
「バカにしてるの?」
「すこし」
咲夜がクスクス笑う。アリスは眉を釣りあげたまま、ぶすっとした。
「悪かったわね」
「いいえ、とんでもない。それがあなたのいいところじゃない」
「まるでいい意味に聞こえない」
「あら、残念」
軽口をたたきあいながら、図書館の入口に着く。咲夜は鉄扉に手をかけながら、すこしうつむいて言った。
「また、たまにおじゃましようかしら」
「なんでまた」
「お嫌?」
アリスは鼻の頭を抑えながら、すこし不機嫌ぎみに答えた。
「別に、構わないけれど、なんでわざわざ?」
「いいえ。思いつきよ。気にしないで」
咲夜はぐっと力を入れて扉を開ける。アリスが中に入るのを、自分は外に立ったまま、手を振り見送った。
Eの書架に、トリチェッリを戻してから、アリスはHを探して歩いた。狭い通路をいっぱいに満たす暗闇の中に、去り際の咲夜の顔が浮かぶ。光の無い紅魔館の地下に、ぼうっと浮かびあがる白い肌と、それを彩るまだらの影の中で、赤い唇が恐ろしい。それがじゃまで、積み木が見えない。
首を振り、トリスメギストスをひっぱりだして、出口に向かう。途中、パチュリーの背中が見える。追い越しざま顔を見た。あい変わらず、小難しげに背を丸め、なめるように本を眺めていた。よくこんな暗いところで読めるものだわ、目が悪くならないのかしら、アリスはその理屈をすこし考えてみた。階段を登りながら、あれこれと首をひねり、出てきた結論は、結局他者のことは理解できっこないというものだ。天文屋のやってることや、物理屋のやってることを知ってもしょうがない。今自分に必要な物に精神を集中させるべきた。そう結論づけて、3階へ行く。途中、妖精メイドを捕まえて、ブラックを要求した。
部屋に戻ると、重ったい空気が顔を打った。カーテンが力なく垂れさがっていた。簡単な魔法で換気をしながら、イスに収まり、冊子を開く。染みこんだインクの跡をたどりながら、マグカップに手を伸ばす。勢いをつけすぎて、空振ってしまった。中身が無い。アリスは乱暴にカップを戻し、呼び鈴を鳴らした。
すぐに、カップは湯気をくゆらせはじめた。そっと取りあげて匂いをかぎ、ひとくち含む。舌の側面がすぼまるような感覚に続いて、じわりと熱が広がっていく。
カップを戻すと、ノックが飛んでくる。アリスはドアを振り返り、声をかけた。さっきの妖精メイドが入ってきて、一回り小さいカップを置き、そそくさと出ていった。
ふたつに増えたカップを前に、アリスはクスクスと笑みをこぼした。できたての小さい方を飲んでみると、香りが濃すぎてむっとするし、苦味も強くて喉に辛い。飲み比べながら、図書館の入口で見た咲夜の顔に思いをはせ、小さく息をついた。
その日は、結局あまり進まなかった。家に帰ってシャワーを浴びている時にも考えてしまう。とりあえず、エルメスの第3法則を使うところまでは組みあがっている。だが、そこから先がなかなかうまく行かない。途中まで良くて、途中からも良い。けれども、すこし身を引いて眺めてみると、全体がちょっとひずんでいる。このままでは、魔法のお城は崩れてしまう。どこかのピースを変えなければいけない。
シャワーの間中あれこれといじくりまわしてみたが、結局結論は出なかった。ベッドに身を投げると、スプリングが音を立てる。ふとんにくるまり、天井を見あげた。咲夜の表情がぼうっとかすんで見えた。
往復はしばらくの間続いた。頻度はそれほど高くなかったが、咲夜が突然やって来て、ベッドに腰掛け、アリスを見つめるようになった。ただやって来て、音もなく入りこみ、じっとたたずんでいるだけだ。出るときも音を立てない。アリスは気づくときもあれば、最後まで気づかない時もあった。
不思議に思いながらも、アリスは積み木の検証を進めた。行き足はのんびりしてはかどらないが、それを苦にするほどでもない。図書館との往復で咲夜と話をしているのも、なかなか楽しかったし、いい気分転換になる。いつの間にか計算用紙は辞書一冊分くらいの厚さになっていた。
ある昼のこと、ようやく新しいピースを乗せることができた日だった。なんとかΔを使って立式にこぎつけた。変形しようとして、手が止まる。
開けはなしてあった窓から、紙のめくれる乾いた音が飛びこんできた。それに、机をたたく軽い音、しばらく間があって、また紙のめくれる乾いた音と続く。しかも、止むことがない。アリスは音の源を追って、窓から首を出した。よく晴れて芝の色も鮮やかな庭で、咲夜が机を出し、なにかやっていた。たたく音は、そこから出ているらしかった。
アリスはじっと見てみた。一抱えほどの小さなテーブルと、上品なイスに座る咲夜の姿が、窓の真下に来ている。
少し身を乗り出す。その間も、紙と机の音は止まない。流れるように紙が紙を弾き、軽快に机が鳴る。また紙が飛び、机がへこむ。咲夜のつむじが見える。昼間の明るい光を反射して、少しまぶしい。
窓枠に半身を預けたまま、銀色の渦巻きが揺れるのを見ていると、吸い込まれそうになる。左巻きのぐるぐるが、くるくると回っている。それが、ときどき前後に動く。リズミカルだが、単調なBGMが、アリスをさらに惑わせる。くらむ目が距離感を失うにつれ、庭全体に咲夜のぐるぐるが広がっていく。雪原の中には、ただ拍を刻む机の音だけが響きわたっていた。
アリスは首を振り、顔を上げた。空がある。青空の中で、ちぎれた雲がゆっくりと見を横たえて、無表情に風を伝えている。深呼吸をした。窓枠を乗り越えて、外へと身をなげうつ。ひと回転して、ゆっくり土を踏む。
机の音が止んだ。振り向くと、咲夜はこちらを見ていた。
「あら、きれい」
乾いた拍手をならしつつ、言う。アリスはひとつ鼻を鳴らした。
机の上にはデックがひとつ、青いチェックの模様に小さい影を作っている。
「さっきから、何をやっているの?」
「手品の練習、かしらね?」
「中でやればいいじゃない。太陽光はインクを変質させるのよ?」
「何をいまさら」
つまらなさそうに言いながら、咲夜は片手を机の上にかざした。カードで扇を作りながら、目を細めている。
アリスは歩み寄り、テーブルの横に立った。ところどころにシミの見えるテーブルに、擦りきれた木目が痛ましい。
しばらくためつすがめつしてから、咲夜は1枚のカードを取りだして、アリスに突きつけた。横向きの女王さまがいる。印刷はまだ色あせず、若々しい。黒い剣のシンボルが、誇らしげに昼を照りかえしていた。
「これが?」
「よく見てちょうだい。キズモノなの」
咲夜はつまらなそうに言う。片手でデックを開いては閉じ、そろえてまた開く。
ため息とひきかえにカードを受け取り、目を凝らす。赤と青と黄が、黒の隙間を埋めている。上向きの女王は、ロッドを顔の真正面に掲げて、思案顔を作っている。ざらつくカードの表面で、ちょうど頬のあたりに影ができていた。完璧な表情だった。
カードを回す。下と上が入れ替わっても、剣先は天を指している。勢い余ってやや斜めになった女王を見る。思案顔は変わらないが、どこか雰囲気が異なる。角度を変えると、影の位置も変わる。頬のすこし下、頬骨の真上に、わずかだが傷があるらしかった。
「まだ見つからないの?」
咲夜があきれたように言う。アリスはつめ先で頬を示しながら、カードを突っ返した。
「これだけ?」
「そうよ」
けろりとした咲夜は、女王を受け取るとデックの一番上に重ね、またシャッフルに戻った。カードの山に飲みこまれて消えていくその後ろ姿に目をやったまま、アリスは深くため息をついた。
「たったそれだけ?」
「そうよ」
「いいじゃない。目立つわけでもないし」
「いいえ、ブラック・レディがキズモノだなんて、バカにしてるわ」
弾かれて乾いた音を立てるカードに目をやったまま、咲夜はぶっきらぼうに答えた。2、3度デックの端で机をたたき、ふたつに分けて持つ。中指で軽くカードを反らせながら、ゆっくりとかみあわせていく。組みあがったカードの束を、左右からぎゅっと押しこんでひとつにまとめ、向きを変えて端をそろえる。
よどみなくこの作業を続けながら、首をすこし傾けてアリスを見た。
「あなたはどうなの。うまく行ってるの?」
じっと咲夜の手元を見つづけながら、アリスはすこし唇をとがらせた。カードの向きがわずかに散った。
「まだまだ先は長そうよ。そのうち夢に出てくるんじゃないかしら」
「いいじゃない。寝ている間まで続きができるなんて」
次の工程が始まった。カードは正確だ。1枚目が机をたたくと、2枚目がその上に乗る。3枚目はさらにその上に、4枚目がまた後を追った。空気を出しきってしまうと、カードは完璧に元に戻った。
「中はいいの?」
「いいのよ。お嬢様はお休みでしょうし、みんな優秀だもの。私の仕事が無いくらい」
「それじゃ、咲夜はお役ごめんなの?」
「そうなったらどうしようかしら?」
カードがまたすこしずれた。咲夜はかみしめるように繰りかえした。
「どうしようかしら?」
カードが1枚、また1枚と重なっていくたびに、空気の層が押し出されていく。カードは音を立てながら順番に倒れていき、最後のカードが伏せたところで音が止む。
「8回」
アリスが短く言うと、咲夜は小さく笑った。デックを整え、右手で持ち上げる。
「覚えてたのね?」
「ええ。職業病かしら」
「マメね」
「そうかもしれないわ」
アリスはため息をついて目をそらした。館をとりまく壁の上に、薄れていく霧がまだひっかかっていた。無表情な雲をおおい隠すことに喜びを感じているのか、それは細やかに輝いている。飽きたように揺れ動いては新しい雲を隠す。前の雲は、ただただ手持ちぶさたに浮かんでいるばかりだった。
その場にしゃがみこむと、霧は見えなくなった。アリスは頬を手で支えながら、ボソリとこぼした。
「疲れたわ」
「私が代ってあげましょうか?」
「あなたじゃダメね。途中で飽きるでしょう?」
「もちろん」
振り向くと、咲夜はまとめたカードを片手でもてあそびながら、目を瞬かせている。
アリスはにらみつけてから、ひとつ鼻を鳴らした。
「喉が渇いたのだけれど」
「どうぞ。あのあたりにブラックベリがあるはずよ」
咲夜が庭の端を指さす。
「嫌いなんだけど」
「そうだったかしら? じゃあ、ラズベリもあるわよ」
「バカにしてるの?」
「そう聞こえる?」
咲夜は顔色ひとつ変えないまま、また目を瞬いた。
目が合うと、アリスは唇を引っこめた。空いた両手を組んだり解いたりしながら、じっと咲夜を見る。
青い瞳を重ねあわせながら、ふたりは黙りこむ。カードがすこしずれた。
片手でトップカードをこすりつけながら、咲夜が口を開く。
「このあいだ、ルシアン・コーヒーを作ってみたのよ」
「どうだったの?」
「すごかったわ。まるでお酒みたいだったもの」
アリスは顔を背けて吹きだした。
「当たり前じゃない」
「でも、リカー・コーヒーなのよ? コーヒーの方が強いと思うじゃない」
「どれくらい混ぜたの?」
「ヴォトカ2オンスにキリマンジャロを2オンス」
「アルコールが多すぎるわよ」
目尻の涙を拭いながら、アリスは揺れる肩をすくめた。
「ヴォトカを半分にしても、倍はコーヒーが欲しいわね」
「次にやるときは気をつけるわ」
咲夜はそう言うと、小さく息をついた。
右手でデックを支えたまま、左手を添える。トップカードをめくり、人差し指と中指で挟む。
ブラック・レディが揺れている。
「今度は何にしようかしら」
「どんなお酒があるの?」
「アブサン以外なら、大抵のものはあるわよ」
「いろいろ混ぜてみたらいいじゃない」
「それも面白そうね」
ふっと口を閉じ、目を細めると、咲夜は左手首をひねった。解き放たれたカードが、くるくると回転し、風を切る。3ヤードほど飛ぶと、風は乱れ、背中を見せた。青い背中が跳ね、右によれながら落ち、草むらにまぎれて消えた。
「もったいない」
「いいのよ」
咲夜は次々とカードを放り投げながら、ぼそりと言った。
「もう充分」
青い花が、次々と散っていく。水平に風を切り、見えない壁に沿って浮き上がる。支えを失い、引きこまれるように見えなくなる。
最後の1枚を投げ終わると、咲夜は空いた両手を顔の前で組み、肘をついた。
「おつかれさま」
アリスの掛けた言葉を捕まえるように、咲夜は目を閉じた。
どこかうっとりと微笑みながら、小さく口を開け、ゆっくりと息を吸う。
「ねえ、アリス。何か飲まない?」
「いいの?」
「いいのよ。トマト・ジュースが余るほどあるの」
「違うわよ」
アリスは立ちあがり、スカートを払った。細かな芝の切れ端が、無造作に散り落ちる。
まだ青々と晴れあがる空を振り仰いでから、咲夜の目を見た。青がまぶしい。
「いいのよ」
咲夜はやおら立ちあがり、すこし体を傾ける。
「こんなに空も青いのだから、まだ昼は終わらないわ」
机の端で、クモが飛び跳ねた。
それから、咲夜は、グラスを2つ、氷にトマト・ジュースとヴォトカを持ってきた。
アリスがたたずみ、ぼうっと見つめる先で、鮮やかな朱色の液体がはい出て、グラスを満たしていく。ヴォトカの足元を浸すにつれ、みずみずしい匂いが立ちのぼる。アリスは思わずつばを飲んだ。ストローをくわえたグラスを取り上げると、氷が揺れ、かげろうが縁を彩った。二人は軽くグラスを重ねて乾杯した。
「染みるわね」
「酸味が足りないわ」
「ちょうどいいと思うけれど」
「いいえ。レモン取ってこないと」
咲夜はグラスを置き、いそいそと館内に戻っていく。その後ろ姿に目をやりながら、アリスはまたグラスを傾けた。しびれるような感覚の合間に、鋭い剣が隠れていた。舌の上で転がすと、突きぬけて角が取れる。喉が鳴った。重みをまとう熱が、胃袋からじわじわと込みあがる。それはひとつのため息になった。
アリスは机に片手をついて体を支えながら、ぼうっと紅の壁を見ていた。朱の跡が残るグラス越しに、くすんだ塗装が映りこむ。
カラコロと氷を鳴らしつつ、咲夜を待っている間に、ふと書きかけの数式を思いだした。振り仰ぐと、開けはなした窓に目が留まる。紅の中で、白いカーテンが輝いていた。あの向こうで、書きかけのΔが答えを待っている。ちびりちびりと酒を進めつつ、戻るかどうか悩む。けれども、Δをやっつけるには、すこし眠すぎる。
咲夜が戻ってくるのが見えた頃には、アリスはすっかり決心していた。
「どうしたの?」
レモンをもてあそびながら、咲夜が尋ねた。氷を一度高く鳴らして、アリスはせきを払った。水面に、自分の顔が映る。湖面のでこぼこに、くまができていた。
「いいえ。何でもない。すこし疲れた」
「トマトが足りないの?」
「なにそれ」
すっとぼけた咲夜の調子に、ほんのり赤くなったアリスの頬が緩む。
「いいえ。レモンは?」
「結構」
「そう。欲しくなったら勝手にやって。置いとくから」
「ありがとう」
「どういたしまして」
咲夜はストローで氷をつつきながら、目を細め、ゆっくりと吸った。唇が赤く染まっていた。喉の陰影が形を変える。ほっとため息が出た。
「よくなったわ。こうでないと」
「飲みやすいお酒は危ないのよ?」
「いいのよ」
アリスのささやかな意地悪に、影のある笑みを返しながら、咲夜の唇は鳴った。
「もし何かあったら、全部アリスのせいにしてあげるから」
アリスがあっけに取られてまばたきを繰りかえすのを見ながら、咲夜は身を折り、声を立てて笑いはじめた。
「傑作ね。写真にとっておきたかったわ」
「悪いジョークはやめてよ」
「ジョークじゃないかもしれないわよ。だって酔ってるんだから」
クツクツとお腹を抱える咲夜から目をそらし、赤くなった頬を隠してしゃがみこむ。アリスは紅魔館の壁に背を預け、ゆっくりとグラスを傾けた。
「疲れた」
「たいへんね。寝てもいいのよ?」
「風邪引きそう」
「それもそうね」
吐きだす息は熱を帯びていた。
ふたりは、たまに軽口を交わしながら、ゆっくりとグラスを干していった。1杯めが空くと、2杯めを作った。それもなくなる頃には、アリスは真っ赤になってしまった。
ふらつく足に活を入れ、部屋に戻る。メモをまとめようとしてイスに座りこむと、どっと眠気が襲ってきた。机にうつぶせて、息を整えると、闇がゆっくりと降りてくる。ぼうっとしたまま、思いだすのは、赤いストローをかけあがって行くトマト・ジュースと、それを吸いこむ咲夜の唇だった。咲夜は目をつむり、音もなくストローをくわえていた。ストローを登るジュースの影がいっぱいに満ちて、喉が鳴った。丸いグラスの壁面に、すり潰されたトマトの破片がはりついている。尾を引くように水面が下がり、徐々に空が広がっていく。すっかりかき消えてしまうと、咲夜はストローから唇を離した。赤い舌が頭をのぞかせ、ちらちらと瞬いた。アリスは言葉をかけようとして口を開いた。けれども、うまく舌が回らない。すり動く舌先が誘うように右へ左へとうごめいた。赤にくすむ唇がゆっくりと開くと、真っ白な歯が一列に輝いていた。それをじっと見つめていると、目がくらんだ。銀よりも白い板に、緑色の膜が広がっていく。世界が揺れて、にじみ、徐々にかすんでいった。アリスは口を開けたまま、ぼんやりとそれを眺めるだけで、声をだすことができなかった。咲夜の顔があったあたりは、もう閉ざされて見えなかった。
名前が呼ばれた。胃袋が下がるような不快感が急に襲ってくる。ふらつく足に力を込め、踏みとどまる。名前はまた呼ばれた。どこから聞こえてくるのか。世界は一面の雪化粧だった。冠雪した野が渦を巻いている。音のない雪崩に、アリスはうめき声を上げ、もがいた。伸ばした手が触れたのは、暖かな咲夜の手だった。
「どうしたの?」
咲夜の顔がある。青い目がくるりと丸く、鼻の上で瞬いた。鼻の穴がふたつ、口がひとつ。整った歯の並びがまぶしい。
「大丈夫?」
体を起こすと、首のあたりがきしんだ。目をこすりながら、アリスは首を回す。軽い音が立てつづけに弾け、すこし軽くなった。
「首が痛い」
「しょうがないでしょう。ベッドに行けばよかったのに」
「よそのベッドは嫌なのよ」
「わがままね」
咲夜は笑いながらアリスの後ろにまわり、軽く拳を握って肩をたたく。アリスは肩を落として目を閉じ、呼吸を整えた。
空はすっかり赤くなり、雲を鮮やかに焦がしている。アリスは流れていく風の音に耳を澄ませながら、イスに身を任せた。
「居眠りなんて久しぶり」
「疲れているのよ。休んだら?」
「いいえ。あなたのせいよ。あんな真昼からなんて」
「あら、でもアリスが来たからじゃない」
「誘うからでしょう」
「意思が弱いわね」
「悩まないことにしてるのよ」
凝りがほぐれる頃には、雲は焦げついてしまった。アリスは小言を垂れながら、廊下を小走りに通りぬけ、空へと身を浮かせた。日はとっぷりと暮れている。山の影が黒々と迫って見えた。ちらりと振りかえり、森に戻る。鋭く鉛直に立ちならぶ木々の間に、星の目が見えていた。家に戻ってシャワーを浴びながら、考えたのはΔのことだった。途中で放りだすことになったのはしゃくだが、気分はスッキリと軽い。タオルで髪を挟みこみ、水分を拭き取り、パジャマに着替えてベッドに潜る。目を閉じて、息を整えると、眠気はすぐにやってきた。
検算まで済んで積み木の全貌が顕になると、快感で背筋が震えた。勢い良く立ちあがると、窓枠に手をついていた咲夜が振り返る。アリスは満面の笑みを投げかけた。
「終わったわ」
「あら、おつかれさま」
「ありがとう。急いで帰らないと」
「そうなの?」
「ええ。実験の続きがあるから」
メモを挟んで閉じ、散らばる筆記用具を片づけつつ、アリスは声を弾ませる。
咲夜はため息をついて窓から離れ、ベッドに腰掛けて足を組んだ。
「また寂しくなるわね」
アリスはカバンを片手に振り向き、口を開けて笑った。
「全部済んだら、また来るわ」
「そうなの?」
「ええ。咲夜にはお世話になったし。何かお礼をするわ」
「いいの?」
「いいのよ」
「それじゃ、楽しみにしておくわ」
咲夜は顔をほころばせ、立ちあがった。ドアを開け、廊下に出ると、こもった空気がうっとうしい。足早に駆けぬけながら、アリスは青い背中に声をかけた。
「何かリクエストがあれば聞くわよ」
「そうね。じゃあ、オレンジ・ジュースに合うお菓子がいいわね」
「オレンジ?」
「ええ」
咲夜が顔を向けた。
「だって、コーヒーはもう飽きたでしょう?」
「そうなの?」
「ええ。きっとそう」
「じゃあ、なにか考えておくわ」
「お願いするわね」
外に出ると、青が一層目に染みた。アリスはふわりと浮きあがり、咲夜に手を振って別れた。
段々と柔らかくなってきた昼の空を急ぎ、家に着くや、さっそく手順書を書きなおす。器具を洗浄し、試薬を丁寧に量りとる。それを決めたとおりに処理していく。
バーナーの上にビーカーを持ってくると、なんともいえない臭気が立ちこめた。手順(7)aは順調に済んだ。アリスは気を落ち着けるように深呼吸をして、ガラス棒を取りあげた。ろ過した液体に、緑ラベルの試薬を溶かし、ガラス棒にはわせる。沸きたつ黄色い薬剤が、徐々に粉末を飲みこんでいった。
ゆっくりと慎重にかき混ぜつづけながら、ふいに酸味がよみがえる。規定のサイクルを終え、しばらく待つ間、アリスは窓際に立って空を見あげていた。木々が肩を寄せあう向こう側の空に、白い雲がゆっくりと流されている。まばゆい初秋の日差しを受けて、白い風速計のスクルーがくるくると回っていた。
異臭を放つ残骸から顔を背け、アリスは壁伝いに歩いて窓を開けはなつ。冷たい夜風が顔の表面をなでさすった。こぼれる息の先で、風力計が力なくしっぽを回している。
6番目となる犠牲者の破片を横目に捉えつつ、アリスは表情を曇らせた。手近なイスに腰かけて、ぶらぶらと足を揺らす。人形が破片を片づけているのを他人事のように眺めつつ、鼻を鳴らした。
手順書をめくりながら、順番に実験を検証する。何も問題は無いはずだった。手順(1)から(6)までは順調に行った。室内に設置してある計器の具合を確かめて、もう一度つき合わせる。メモの数値を何度見ても、すべて間違いなかった。
失敗した手順(7)を頭の中で思い描く。時間も計った。分量も問題なかった。温度も計算どおりだ。2度計ったのだ。
ガラスの破片が片づいても、焦げ目は残ってしまった。いまいましげに机の表面をたたくが、どうなるものでもない。
アリスは続きを諦めて、明かりを消し、ヘア・バンドも外した。そのままベッドへ潜りこんでしまう。
暗闇に透かして天井をにらみつけていると、焦げ目がぼうっと浮かんでくる。闇から始まるだ円が、徐々に色あせて溶けこみながら、うすら笑う唇のようにゆがんでいた。
すこし休んで、朝日の中へ起きてから、アリスは顔を洗い、服を着替えて外に出た。晩夏がおしせまり、むっとするような空気から、空へと逃れ出る。風は強いが、爽やかとはいえない。あまりにも日差しが強かった。すこし顔をうつむかせながら、青々とそびえ立つ山々を右手に、太陽のある方へ向かって飛ぶ。スカートのはためく音がうるさい。ときどき額に噴き出す汗を拭いながら、風に身を任せていると、立ちこめる濃い霧が地平線の端に顔をのぞかせた。まっすぐ目指して、その中につっこんで行くと、すこし息が苦しい。水蒸気が喉にはりついて、喉がむずがゆくなる。強くせき払いをして、行き足に力を込めた。
そのまま進むと、ぱっと霧が晴れた。荘厳な館が見える。午前の鋭い太陽光の中に、紅の門がそびえ立っている。そのすこし手前に降り立ち、軽く呼吸を整え、スカートを直した。
歩いていくと、入り口の脇に美鈴が立っていた。手を挙げて礼をし、図書館に行きたいと告げると、美鈴は呼び鈴を鳴らした。
咲夜がトンと現れて、アリスの全身をなめるように見回してくる。
「久しぶりじゃない」
「ええ。たまには。ちょっと書簡を探しているの」
「あらそう。どうぞいらっしゃい」
美鈴の穏やかな笑みに手を振りかえし、咲夜の後に従って館へと足を進める。
やたら巨大な扉をくぐって中へ入ると、ろうの燃え落ちる匂いが鼻を打つ。アリスは顔をしかめ、鼻柱を抑えた。
紅魔館の廊下はうす暗い。窓がなく、明かりは揺れるろうそくだけだ。しかも、延々と長く続くせいで、換気の効率も悪い。吹きぬけを通りぬけ、玄関から遠ざかるにつれて、息苦しさが増していった。
地下へ降りる階段に差しかかり、アリスがすこしうつむきかげんに首を傾げて、踏み外さないように慎重に足元に目を凝らしていると、頭の先から咲夜が話しかけてくる。久しぶりの来客だ、退屈だった、そんなことをぼつぼつとしゃべっている。アリスは曖昧に相づちを打った。
階段がちょうど終わったところに、装飾の施された分厚い鉄扉が待ち構えている。咲夜はおしゃべりをやめ、ノブに手をかけて、ゆっくりと押し開けた。
ろうとすすの匂いから解き放たれたのもつかの間で、紙とインクの混じりあう、独特の臭気が鼻を突いた。アリスは鼻の頭に指を置いたまま、つかつかと中へ入っていった。
パチュリーは、まるで写真から飛びだしてきたかのようにそこにいた。巨大な本に隠れて顔が見えない。咲夜が来客を告げ、アリスが挨拶をすると、背表紙はせきを払った。
紅茶と砂糖入れを置いて咲夜が立ち去ると、くゆる湯気と背表紙とアリスが残された。アリスはカップを取りあげて、軽く香りを聞いた。爽やかな浅い葉の声がした。
動かない背表紙を後に、アリスは立ち並ぶ書架の間を縫った。刻んであるアルファベットを追いかけて、Tにたどり着く。通路を折れ、高い天井まですっと詰められた本たちに目を走らせながら、ゆっくりと足を動かす。端まで行ってしまうと、来た道を逆にたどりながら注視しつづけた。
入り口まで戻ってくると、ちょうど司書と鉢合わせになった。アリスは呼び止めて、トリチェッリがいないと文句をつけた。
「どのトリチェッリですか」
「水銀柱を逆さにしたやつ」
「それなら、Eの棚を見てくださいよ」
司書は面倒そうに反対側の暗闇を指す。とまどうアリスに向かい、ややあきれたように言いはなった。
「エヴァンジェリスタでしょう。ファースト・ネームで並べてあるんです」
言葉を失ったアリスを放置して、司書は立ち去り消えた。
気まずさをせき払いでごまかして、アリスはのろのろと長い廊下を歩きはじめる。入り口からTの棚までは、結構な距離があった。Eはかなり手前だ。図書館の廊下は狭くて暗い。先細りのじゅうたんが、すこしかすんで見えた。
どうにか目当ての冊子を探しあて、机のある所に戻って来る頃には、すっかり足が疲れてしまった。勢い良くイスに座ると、腰が痛む。不満げに鼻が鳴った。
冊子を開いて、中身を読む。だが、もとより暗い紅魔館の地下で、窓も無い場所では、続け書きの文字は判読しづらい。明かりを付けるのは、パチュリーが嫌がる。
アリスは呼び鈴を1度押し下げた。目の前のティーカップが消えて、マグカップになった。のぞきこむと、コーヒーだ。
苦笑いをかみ潰して、呼び鈴を強く2度押し下げた。机の向こうで、背表紙がまたせき払いをした。
「コーヒーはお嫌?」
後ろから咲夜の声がする。アリスは振り向いて唇をとがらせた。
「違うの。飲み物じゃないの」
「クッキーにしましょうか?」
「食べ物でもない」
「じゃあ何?」
「部屋を貸してちょうだい。窓がある部屋」
「何に使うの?」
咲夜はすこし困ったように眉をひそめた。
「ここじゃ暗くって。計算もできないんだもの」
アリスの言葉に、咲夜は額に手を当てて目頭のシワを濃くした。
「どこがいいの」
「窓があって、明るい部屋ならどこでも」
咲夜は両の手のひらを見せて、歩きだす。アリスは立ちあがり、その後を追った。
また、長い階段を登り、陰鬱な廊下を通りぬける。通されたのは、3階の東の端にある部屋だった。ベッドがひとつ、机がひとつある。
「飲み物は?」
「コーヒーをちょうだい。ブラックで」
アリスが書簡を片手に机に向かうと、白いマグカップが現れる。酸味を伴いほのかに立ちのぼる香りが心地よい。
咲夜が立ち去ってから、アリスは冊子をめくった。細かな文字を追いかける。頭の中で、数式を分解したり組み立てたり、積み木で遊ぶようなものだ。ただ、この積み木は意外と厄介で、基本的な積み方は決まっている。その通りにやらないと、あっという間に崩壊してしまう。そうなったら、また最初からやり直さなくてはならない。かといって、全く書いてあるとおりに組み立てても、役に立たない。ある程度、自分でピースを整形しながら積まなければならないし、場合によってはゼロから作りださなければならない。遠いところから取ってきたりすることもある。それでも、アリスはこの作業が好きだった。複雑に組みあがった模型を、最後塗装している時などに、いつもこみあげてくる笑いがある。それが好きで好きでたまらない。だから、積み木を手放すなんて考えられなかったし、いつでも新しいピースが欲しかった。
アリスはたまにコーヒーをすすっては、地道な作業に取り組んだ。たまにピースが合わなかったり、どこへ行ったか分からなくなると、ふっと立ちあがって部屋を一周した。そして、また積み木に戻るのだ。1冊めの書簡を読みきると、地下へ行って新しい物を探した。アクィナス、ピーコ、ベルヌーリ、オイラーなどなど、次々と読んではピースをそろえていく。それを順番に組みあわせ、色を塗っていった。色が分からなくなると、コーヒーを飲んだ。コーヒーが無くなると、呼び鈴を鳴らす。新しいコーヒーがやってくる。その繰りかえしだった。
ふたけたのコーヒーが数式に変わり、日が落ちると、アリスは紅魔館を辞した。帰りの空はまだ重苦しい。汗が噴き出た。家に着き、シャワーを浴びて着替え、布団に潜りこむ。天井の焦げ目はいくらか薄く見えた。
こんな生活をしばらく続けていると、そのうちに咲夜は先回りして部屋を開けておいてくれるようになった。図書館の背表紙はあい変わらず、写真か何かのように動かない。ただ、表題の文字の色がたまに変わっていた。
書架のことで迷うことは無くなったが、積み木の方は途中で詰まるようになってきた。やはり、どこかにひずみがあったらしい。アリスはピース集めをいったんやめ、足元から検証をやりなおしはじめた。
積み上げた山を崩さないよう慎重に見てまわり、ピースのかみあわせを確かめる。そして、すこしピースの位置を変えてみたり、形を調節したりする。ピースを変えたら、下から上まで、もう一度通して確認する。それでも、やはりひずみがあった。新しいピースを乗せることのできないまま、いくつかの日が暮れていく。眠りも浅くなった。
そんなある日、いつものように紅魔館へ来て、部屋に通される間に、珍しく咲夜が話しかけてきた。
「どうなの? うまく行ってるの?」
「ええ。まずまずかしら」
「そう。羨ましいわ」
「あなたこそ、どうなの?」
「変わらないのよ。いつもどおり。お掃除をして、お食事を用意して、またお掃除。あの子たちが優秀で助かるわ」
突き当りに固まっている妖精メイドを顎で指しながら、咲夜は鼻を鳴らした。
「良かったじゃない。退屈しなくて」
「そうかもね」
いつもの部屋につく。アリスが机に向かっても、咲夜はドアを閉めなかった。
「すこし、ここにいてもいい?」
ドアノブをいじりながら聞く咲夜を振り見て、アリスは大きく口を開けた。
「お仕事はいいの?」
「いいのよ。後でまとめてやるわ」
咲夜は肩をすくめ、後ろ手にドアを閉めた。窓際まで歩き、鍵を外して開けはなつと、ぬるい風が入りこんでカーテンを揺らした。どこかうっとりと目を細めている。
アリスはしばらく怪しんで伺っていたが、その内に首をひとつひねって書簡に没頭する。そして、また懲りないで積み木と取り組んだ。
部屋は静かなままだった、窓から入りこむ風がカーテンを優しく揺らし、アリスの右手がペンを走らせ、紙がインクを飲みこんでいく。咲夜は窓際でしばらく耳をそばだて、静かにたたずんでいた。青い空が窓をいっぱいに満たしていた。白い雲が手をつないでじっと空の向こう側に位置を占めている。それは風の向きによってなだらかに色を変え、山の上からもっと遠くの方へと流れている。
しばらくして、咲夜は窓から離れた。静かにベッドへ進み、ゆっくりと腰を下ろした。足を組み、手を組んで膝小僧の上に置き、たまに揺れるアリスの背中へ、じっと視線を注いだ。アリスはたまに座りなおしては、冊子のページをめくっていく。ヘア・バンドを包む白いフリルが、ゆっくりと左右に揺れた。
太陽が段々上っていく間中、咲夜は穏やかな視線を注いでいた。すっかり高まった日の明かりが窓の影を垂直にする頃、ふいにアリスが席を立つ。閉じた冊子を片手に振り向いた。目があうと、驚いたように声を高めた。
「まだ、いたの?」
「あら、ジャマだった?」
「いいえ。そんなことないけれど」
「そう。図書館?」
「ええ。ちょっとね」
ふたりは連れだって廊下へ出た。咲夜は先に立って歩きながら、すこし声を弾ませた。
「あなたって、意外とマジメなのね」
「どういうこと?」
アリスの眉が斜めに釣りあがる。
「いいえ。なんだか、すこし気が楽になったわ」
「バカにしてるの?」
「すこし」
咲夜がクスクス笑う。アリスは眉を釣りあげたまま、ぶすっとした。
「悪かったわね」
「いいえ、とんでもない。それがあなたのいいところじゃない」
「まるでいい意味に聞こえない」
「あら、残念」
軽口をたたきあいながら、図書館の入口に着く。咲夜は鉄扉に手をかけながら、すこしうつむいて言った。
「また、たまにおじゃましようかしら」
「なんでまた」
「お嫌?」
アリスは鼻の頭を抑えながら、すこし不機嫌ぎみに答えた。
「別に、構わないけれど、なんでわざわざ?」
「いいえ。思いつきよ。気にしないで」
咲夜はぐっと力を入れて扉を開ける。アリスが中に入るのを、自分は外に立ったまま、手を振り見送った。
Eの書架に、トリチェッリを戻してから、アリスはHを探して歩いた。狭い通路をいっぱいに満たす暗闇の中に、去り際の咲夜の顔が浮かぶ。光の無い紅魔館の地下に、ぼうっと浮かびあがる白い肌と、それを彩るまだらの影の中で、赤い唇が恐ろしい。それがじゃまで、積み木が見えない。
首を振り、トリスメギストスをひっぱりだして、出口に向かう。途中、パチュリーの背中が見える。追い越しざま顔を見た。あい変わらず、小難しげに背を丸め、なめるように本を眺めていた。よくこんな暗いところで読めるものだわ、目が悪くならないのかしら、アリスはその理屈をすこし考えてみた。階段を登りながら、あれこれと首をひねり、出てきた結論は、結局他者のことは理解できっこないというものだ。天文屋のやってることや、物理屋のやってることを知ってもしょうがない。今自分に必要な物に精神を集中させるべきた。そう結論づけて、3階へ行く。途中、妖精メイドを捕まえて、ブラックを要求した。
部屋に戻ると、重ったい空気が顔を打った。カーテンが力なく垂れさがっていた。簡単な魔法で換気をしながら、イスに収まり、冊子を開く。染みこんだインクの跡をたどりながら、マグカップに手を伸ばす。勢いをつけすぎて、空振ってしまった。中身が無い。アリスは乱暴にカップを戻し、呼び鈴を鳴らした。
すぐに、カップは湯気をくゆらせはじめた。そっと取りあげて匂いをかぎ、ひとくち含む。舌の側面がすぼまるような感覚に続いて、じわりと熱が広がっていく。
カップを戻すと、ノックが飛んでくる。アリスはドアを振り返り、声をかけた。さっきの妖精メイドが入ってきて、一回り小さいカップを置き、そそくさと出ていった。
ふたつに増えたカップを前に、アリスはクスクスと笑みをこぼした。できたての小さい方を飲んでみると、香りが濃すぎてむっとするし、苦味も強くて喉に辛い。飲み比べながら、図書館の入口で見た咲夜の顔に思いをはせ、小さく息をついた。
その日は、結局あまり進まなかった。家に帰ってシャワーを浴びている時にも考えてしまう。とりあえず、エルメスの第3法則を使うところまでは組みあがっている。だが、そこから先がなかなかうまく行かない。途中まで良くて、途中からも良い。けれども、すこし身を引いて眺めてみると、全体がちょっとひずんでいる。このままでは、魔法のお城は崩れてしまう。どこかのピースを変えなければいけない。
シャワーの間中あれこれといじくりまわしてみたが、結局結論は出なかった。ベッドに身を投げると、スプリングが音を立てる。ふとんにくるまり、天井を見あげた。咲夜の表情がぼうっとかすんで見えた。
往復はしばらくの間続いた。頻度はそれほど高くなかったが、咲夜が突然やって来て、ベッドに腰掛け、アリスを見つめるようになった。ただやって来て、音もなく入りこみ、じっとたたずんでいるだけだ。出るときも音を立てない。アリスは気づくときもあれば、最後まで気づかない時もあった。
不思議に思いながらも、アリスは積み木の検証を進めた。行き足はのんびりしてはかどらないが、それを苦にするほどでもない。図書館との往復で咲夜と話をしているのも、なかなか楽しかったし、いい気分転換になる。いつの間にか計算用紙は辞書一冊分くらいの厚さになっていた。
ある昼のこと、ようやく新しいピースを乗せることができた日だった。なんとかΔを使って立式にこぎつけた。変形しようとして、手が止まる。
開けはなしてあった窓から、紙のめくれる乾いた音が飛びこんできた。それに、机をたたく軽い音、しばらく間があって、また紙のめくれる乾いた音と続く。しかも、止むことがない。アリスは音の源を追って、窓から首を出した。よく晴れて芝の色も鮮やかな庭で、咲夜が机を出し、なにかやっていた。たたく音は、そこから出ているらしかった。
アリスはじっと見てみた。一抱えほどの小さなテーブルと、上品なイスに座る咲夜の姿が、窓の真下に来ている。
少し身を乗り出す。その間も、紙と机の音は止まない。流れるように紙が紙を弾き、軽快に机が鳴る。また紙が飛び、机がへこむ。咲夜のつむじが見える。昼間の明るい光を反射して、少しまぶしい。
窓枠に半身を預けたまま、銀色の渦巻きが揺れるのを見ていると、吸い込まれそうになる。左巻きのぐるぐるが、くるくると回っている。それが、ときどき前後に動く。リズミカルだが、単調なBGMが、アリスをさらに惑わせる。くらむ目が距離感を失うにつれ、庭全体に咲夜のぐるぐるが広がっていく。雪原の中には、ただ拍を刻む机の音だけが響きわたっていた。
アリスは首を振り、顔を上げた。空がある。青空の中で、ちぎれた雲がゆっくりと見を横たえて、無表情に風を伝えている。深呼吸をした。窓枠を乗り越えて、外へと身をなげうつ。ひと回転して、ゆっくり土を踏む。
机の音が止んだ。振り向くと、咲夜はこちらを見ていた。
「あら、きれい」
乾いた拍手をならしつつ、言う。アリスはひとつ鼻を鳴らした。
机の上にはデックがひとつ、青いチェックの模様に小さい影を作っている。
「さっきから、何をやっているの?」
「手品の練習、かしらね?」
「中でやればいいじゃない。太陽光はインクを変質させるのよ?」
「何をいまさら」
つまらなさそうに言いながら、咲夜は片手を机の上にかざした。カードで扇を作りながら、目を細めている。
アリスは歩み寄り、テーブルの横に立った。ところどころにシミの見えるテーブルに、擦りきれた木目が痛ましい。
しばらくためつすがめつしてから、咲夜は1枚のカードを取りだして、アリスに突きつけた。横向きの女王さまがいる。印刷はまだ色あせず、若々しい。黒い剣のシンボルが、誇らしげに昼を照りかえしていた。
「これが?」
「よく見てちょうだい。キズモノなの」
咲夜はつまらなそうに言う。片手でデックを開いては閉じ、そろえてまた開く。
ため息とひきかえにカードを受け取り、目を凝らす。赤と青と黄が、黒の隙間を埋めている。上向きの女王は、ロッドを顔の真正面に掲げて、思案顔を作っている。ざらつくカードの表面で、ちょうど頬のあたりに影ができていた。完璧な表情だった。
カードを回す。下と上が入れ替わっても、剣先は天を指している。勢い余ってやや斜めになった女王を見る。思案顔は変わらないが、どこか雰囲気が異なる。角度を変えると、影の位置も変わる。頬のすこし下、頬骨の真上に、わずかだが傷があるらしかった。
「まだ見つからないの?」
咲夜があきれたように言う。アリスはつめ先で頬を示しながら、カードを突っ返した。
「これだけ?」
「そうよ」
けろりとした咲夜は、女王を受け取るとデックの一番上に重ね、またシャッフルに戻った。カードの山に飲みこまれて消えていくその後ろ姿に目をやったまま、アリスは深くため息をついた。
「たったそれだけ?」
「そうよ」
「いいじゃない。目立つわけでもないし」
「いいえ、ブラック・レディがキズモノだなんて、バカにしてるわ」
弾かれて乾いた音を立てるカードに目をやったまま、咲夜はぶっきらぼうに答えた。2、3度デックの端で机をたたき、ふたつに分けて持つ。中指で軽くカードを反らせながら、ゆっくりとかみあわせていく。組みあがったカードの束を、左右からぎゅっと押しこんでひとつにまとめ、向きを変えて端をそろえる。
よどみなくこの作業を続けながら、首をすこし傾けてアリスを見た。
「あなたはどうなの。うまく行ってるの?」
じっと咲夜の手元を見つづけながら、アリスはすこし唇をとがらせた。カードの向きがわずかに散った。
「まだまだ先は長そうよ。そのうち夢に出てくるんじゃないかしら」
「いいじゃない。寝ている間まで続きができるなんて」
次の工程が始まった。カードは正確だ。1枚目が机をたたくと、2枚目がその上に乗る。3枚目はさらにその上に、4枚目がまた後を追った。空気を出しきってしまうと、カードは完璧に元に戻った。
「中はいいの?」
「いいのよ。お嬢様はお休みでしょうし、みんな優秀だもの。私の仕事が無いくらい」
「それじゃ、咲夜はお役ごめんなの?」
「そうなったらどうしようかしら?」
カードがまたすこしずれた。咲夜はかみしめるように繰りかえした。
「どうしようかしら?」
カードが1枚、また1枚と重なっていくたびに、空気の層が押し出されていく。カードは音を立てながら順番に倒れていき、最後のカードが伏せたところで音が止む。
「8回」
アリスが短く言うと、咲夜は小さく笑った。デックを整え、右手で持ち上げる。
「覚えてたのね?」
「ええ。職業病かしら」
「マメね」
「そうかもしれないわ」
アリスはため息をついて目をそらした。館をとりまく壁の上に、薄れていく霧がまだひっかかっていた。無表情な雲をおおい隠すことに喜びを感じているのか、それは細やかに輝いている。飽きたように揺れ動いては新しい雲を隠す。前の雲は、ただただ手持ちぶさたに浮かんでいるばかりだった。
その場にしゃがみこむと、霧は見えなくなった。アリスは頬を手で支えながら、ボソリとこぼした。
「疲れたわ」
「私が代ってあげましょうか?」
「あなたじゃダメね。途中で飽きるでしょう?」
「もちろん」
振り向くと、咲夜はまとめたカードを片手でもてあそびながら、目を瞬かせている。
アリスはにらみつけてから、ひとつ鼻を鳴らした。
「喉が渇いたのだけれど」
「どうぞ。あのあたりにブラックベリがあるはずよ」
咲夜が庭の端を指さす。
「嫌いなんだけど」
「そうだったかしら? じゃあ、ラズベリもあるわよ」
「バカにしてるの?」
「そう聞こえる?」
咲夜は顔色ひとつ変えないまま、また目を瞬いた。
目が合うと、アリスは唇を引っこめた。空いた両手を組んだり解いたりしながら、じっと咲夜を見る。
青い瞳を重ねあわせながら、ふたりは黙りこむ。カードがすこしずれた。
片手でトップカードをこすりつけながら、咲夜が口を開く。
「このあいだ、ルシアン・コーヒーを作ってみたのよ」
「どうだったの?」
「すごかったわ。まるでお酒みたいだったもの」
アリスは顔を背けて吹きだした。
「当たり前じゃない」
「でも、リカー・コーヒーなのよ? コーヒーの方が強いと思うじゃない」
「どれくらい混ぜたの?」
「ヴォトカ2オンスにキリマンジャロを2オンス」
「アルコールが多すぎるわよ」
目尻の涙を拭いながら、アリスは揺れる肩をすくめた。
「ヴォトカを半分にしても、倍はコーヒーが欲しいわね」
「次にやるときは気をつけるわ」
咲夜はそう言うと、小さく息をついた。
右手でデックを支えたまま、左手を添える。トップカードをめくり、人差し指と中指で挟む。
ブラック・レディが揺れている。
「今度は何にしようかしら」
「どんなお酒があるの?」
「アブサン以外なら、大抵のものはあるわよ」
「いろいろ混ぜてみたらいいじゃない」
「それも面白そうね」
ふっと口を閉じ、目を細めると、咲夜は左手首をひねった。解き放たれたカードが、くるくると回転し、風を切る。3ヤードほど飛ぶと、風は乱れ、背中を見せた。青い背中が跳ね、右によれながら落ち、草むらにまぎれて消えた。
「もったいない」
「いいのよ」
咲夜は次々とカードを放り投げながら、ぼそりと言った。
「もう充分」
青い花が、次々と散っていく。水平に風を切り、見えない壁に沿って浮き上がる。支えを失い、引きこまれるように見えなくなる。
最後の1枚を投げ終わると、咲夜は空いた両手を顔の前で組み、肘をついた。
「おつかれさま」
アリスの掛けた言葉を捕まえるように、咲夜は目を閉じた。
どこかうっとりと微笑みながら、小さく口を開け、ゆっくりと息を吸う。
「ねえ、アリス。何か飲まない?」
「いいの?」
「いいのよ。トマト・ジュースが余るほどあるの」
「違うわよ」
アリスは立ちあがり、スカートを払った。細かな芝の切れ端が、無造作に散り落ちる。
まだ青々と晴れあがる空を振り仰いでから、咲夜の目を見た。青がまぶしい。
「いいのよ」
咲夜はやおら立ちあがり、すこし体を傾ける。
「こんなに空も青いのだから、まだ昼は終わらないわ」
机の端で、クモが飛び跳ねた。
それから、咲夜は、グラスを2つ、氷にトマト・ジュースとヴォトカを持ってきた。
アリスがたたずみ、ぼうっと見つめる先で、鮮やかな朱色の液体がはい出て、グラスを満たしていく。ヴォトカの足元を浸すにつれ、みずみずしい匂いが立ちのぼる。アリスは思わずつばを飲んだ。ストローをくわえたグラスを取り上げると、氷が揺れ、かげろうが縁を彩った。二人は軽くグラスを重ねて乾杯した。
「染みるわね」
「酸味が足りないわ」
「ちょうどいいと思うけれど」
「いいえ。レモン取ってこないと」
咲夜はグラスを置き、いそいそと館内に戻っていく。その後ろ姿に目をやりながら、アリスはまたグラスを傾けた。しびれるような感覚の合間に、鋭い剣が隠れていた。舌の上で転がすと、突きぬけて角が取れる。喉が鳴った。重みをまとう熱が、胃袋からじわじわと込みあがる。それはひとつのため息になった。
アリスは机に片手をついて体を支えながら、ぼうっと紅の壁を見ていた。朱の跡が残るグラス越しに、くすんだ塗装が映りこむ。
カラコロと氷を鳴らしつつ、咲夜を待っている間に、ふと書きかけの数式を思いだした。振り仰ぐと、開けはなした窓に目が留まる。紅の中で、白いカーテンが輝いていた。あの向こうで、書きかけのΔが答えを待っている。ちびりちびりと酒を進めつつ、戻るかどうか悩む。けれども、Δをやっつけるには、すこし眠すぎる。
咲夜が戻ってくるのが見えた頃には、アリスはすっかり決心していた。
「どうしたの?」
レモンをもてあそびながら、咲夜が尋ねた。氷を一度高く鳴らして、アリスはせきを払った。水面に、自分の顔が映る。湖面のでこぼこに、くまができていた。
「いいえ。何でもない。すこし疲れた」
「トマトが足りないの?」
「なにそれ」
すっとぼけた咲夜の調子に、ほんのり赤くなったアリスの頬が緩む。
「いいえ。レモンは?」
「結構」
「そう。欲しくなったら勝手にやって。置いとくから」
「ありがとう」
「どういたしまして」
咲夜はストローで氷をつつきながら、目を細め、ゆっくりと吸った。唇が赤く染まっていた。喉の陰影が形を変える。ほっとため息が出た。
「よくなったわ。こうでないと」
「飲みやすいお酒は危ないのよ?」
「いいのよ」
アリスのささやかな意地悪に、影のある笑みを返しながら、咲夜の唇は鳴った。
「もし何かあったら、全部アリスのせいにしてあげるから」
アリスがあっけに取られてまばたきを繰りかえすのを見ながら、咲夜は身を折り、声を立てて笑いはじめた。
「傑作ね。写真にとっておきたかったわ」
「悪いジョークはやめてよ」
「ジョークじゃないかもしれないわよ。だって酔ってるんだから」
クツクツとお腹を抱える咲夜から目をそらし、赤くなった頬を隠してしゃがみこむ。アリスは紅魔館の壁に背を預け、ゆっくりとグラスを傾けた。
「疲れた」
「たいへんね。寝てもいいのよ?」
「風邪引きそう」
「それもそうね」
吐きだす息は熱を帯びていた。
ふたりは、たまに軽口を交わしながら、ゆっくりとグラスを干していった。1杯めが空くと、2杯めを作った。それもなくなる頃には、アリスは真っ赤になってしまった。
ふらつく足に活を入れ、部屋に戻る。メモをまとめようとしてイスに座りこむと、どっと眠気が襲ってきた。机にうつぶせて、息を整えると、闇がゆっくりと降りてくる。ぼうっとしたまま、思いだすのは、赤いストローをかけあがって行くトマト・ジュースと、それを吸いこむ咲夜の唇だった。咲夜は目をつむり、音もなくストローをくわえていた。ストローを登るジュースの影がいっぱいに満ちて、喉が鳴った。丸いグラスの壁面に、すり潰されたトマトの破片がはりついている。尾を引くように水面が下がり、徐々に空が広がっていく。すっかりかき消えてしまうと、咲夜はストローから唇を離した。赤い舌が頭をのぞかせ、ちらちらと瞬いた。アリスは言葉をかけようとして口を開いた。けれども、うまく舌が回らない。すり動く舌先が誘うように右へ左へとうごめいた。赤にくすむ唇がゆっくりと開くと、真っ白な歯が一列に輝いていた。それをじっと見つめていると、目がくらんだ。銀よりも白い板に、緑色の膜が広がっていく。世界が揺れて、にじみ、徐々にかすんでいった。アリスは口を開けたまま、ぼんやりとそれを眺めるだけで、声をだすことができなかった。咲夜の顔があったあたりは、もう閉ざされて見えなかった。
名前が呼ばれた。胃袋が下がるような不快感が急に襲ってくる。ふらつく足に力を込め、踏みとどまる。名前はまた呼ばれた。どこから聞こえてくるのか。世界は一面の雪化粧だった。冠雪した野が渦を巻いている。音のない雪崩に、アリスはうめき声を上げ、もがいた。伸ばした手が触れたのは、暖かな咲夜の手だった。
「どうしたの?」
咲夜の顔がある。青い目がくるりと丸く、鼻の上で瞬いた。鼻の穴がふたつ、口がひとつ。整った歯の並びがまぶしい。
「大丈夫?」
体を起こすと、首のあたりがきしんだ。目をこすりながら、アリスは首を回す。軽い音が立てつづけに弾け、すこし軽くなった。
「首が痛い」
「しょうがないでしょう。ベッドに行けばよかったのに」
「よそのベッドは嫌なのよ」
「わがままね」
咲夜は笑いながらアリスの後ろにまわり、軽く拳を握って肩をたたく。アリスは肩を落として目を閉じ、呼吸を整えた。
空はすっかり赤くなり、雲を鮮やかに焦がしている。アリスは流れていく風の音に耳を澄ませながら、イスに身を任せた。
「居眠りなんて久しぶり」
「疲れているのよ。休んだら?」
「いいえ。あなたのせいよ。あんな真昼からなんて」
「あら、でもアリスが来たからじゃない」
「誘うからでしょう」
「意思が弱いわね」
「悩まないことにしてるのよ」
凝りがほぐれる頃には、雲は焦げついてしまった。アリスは小言を垂れながら、廊下を小走りに通りぬけ、空へと身を浮かせた。日はとっぷりと暮れている。山の影が黒々と迫って見えた。ちらりと振りかえり、森に戻る。鋭く鉛直に立ちならぶ木々の間に、星の目が見えていた。家に戻ってシャワーを浴びながら、考えたのはΔのことだった。途中で放りだすことになったのはしゃくだが、気分はスッキリと軽い。タオルで髪を挟みこみ、水分を拭き取り、パジャマに着替えてベッドに潜る。目を閉じて、息を整えると、眠気はすぐにやってきた。
検算まで済んで積み木の全貌が顕になると、快感で背筋が震えた。勢い良く立ちあがると、窓枠に手をついていた咲夜が振り返る。アリスは満面の笑みを投げかけた。
「終わったわ」
「あら、おつかれさま」
「ありがとう。急いで帰らないと」
「そうなの?」
「ええ。実験の続きがあるから」
メモを挟んで閉じ、散らばる筆記用具を片づけつつ、アリスは声を弾ませる。
咲夜はため息をついて窓から離れ、ベッドに腰掛けて足を組んだ。
「また寂しくなるわね」
アリスはカバンを片手に振り向き、口を開けて笑った。
「全部済んだら、また来るわ」
「そうなの?」
「ええ。咲夜にはお世話になったし。何かお礼をするわ」
「いいの?」
「いいのよ」
「それじゃ、楽しみにしておくわ」
咲夜は顔をほころばせ、立ちあがった。ドアを開け、廊下に出ると、こもった空気がうっとうしい。足早に駆けぬけながら、アリスは青い背中に声をかけた。
「何かリクエストがあれば聞くわよ」
「そうね。じゃあ、オレンジ・ジュースに合うお菓子がいいわね」
「オレンジ?」
「ええ」
咲夜が顔を向けた。
「だって、コーヒーはもう飽きたでしょう?」
「そうなの?」
「ええ。きっとそう」
「じゃあ、なにか考えておくわ」
「お願いするわね」
外に出ると、青が一層目に染みた。アリスはふわりと浮きあがり、咲夜に手を振って別れた。
段々と柔らかくなってきた昼の空を急ぎ、家に着くや、さっそく手順書を書きなおす。器具を洗浄し、試薬を丁寧に量りとる。それを決めたとおりに処理していく。
バーナーの上にビーカーを持ってくると、なんともいえない臭気が立ちこめた。手順(7)aは順調に済んだ。アリスは気を落ち着けるように深呼吸をして、ガラス棒を取りあげた。ろ過した液体に、緑ラベルの試薬を溶かし、ガラス棒にはわせる。沸きたつ黄色い薬剤が、徐々に粉末を飲みこんでいった。
ゆっくりと慎重にかき混ぜつづけながら、ふいに酸味がよみがえる。規定のサイクルを終え、しばらく待つ間、アリスは窓際に立って空を見あげていた。木々が肩を寄せあう向こう側の空に、白い雲がゆっくりと流されている。まばゆい初秋の日差しを受けて、白い風速計のスクルーがくるくると回っていた。
ブランデーもなかなか減りが早い
でも最終的に大五郎に落ち着く
東方キャラの飲酒は何故か様になる
特にトランプの場面の咲夜さんは瀟洒です
ただ、全体的な傾向として表層的で曖昧な表現が、上品ではありますがややリーダビリティを殺いでいるようにも思えます
その辺りのバランスは著者の裁量と分かっているつもりではありますが、どうぞご参考までに