それは幻想郷のある物語。
ある大妖怪の式神たる妖狐と、そのまた式神たる猫又の物語。
━━ある晴れた日に。
それはよく晴れたある日のこと。
降り注ぐ陽射しは突き刺さるほど強くもなく、柔らかで。
暖められた空気は穏やかな風となって流れる、そんなある日のこと。
「橙? 橙、ちょっとこっちへいらっしゃい」
そう言って何かを探しているのは、綺麗な金髪の髪に、割烹着を着た女性。
落ち着いた雰囲気は、美しいというべき彼女をひときわ引き立てている。
「橙~? …おかしいな、どこへいったんだろう」
女性は首をかしげる。彼女から生えている九尾の尻尾がゆらゆらとゆれる。
と、そのふわふわとした狐の耳がぴくん、と動いた。
ふえ~、藍さま~…
「橙?」
藍と呼ばれたその女性は、探しているものが見つかったのか、声のするほうへ
歩み寄っていく。
「・・・・・・」
そして見つけたものに、思わず絶句。
というか、あきれた。
「あのな、橙。少しずつやっていけばいいのだから、横着はしない」
「ふぇ~…」
藍が探していた少女━━橙と呼ばれたその黒い猫の耳をした少女は、
布団の中に埋もれていた。
というか、布団の隙間から尻尾が生えていたというかなんと言うか。
「だって、天気がいいから、一度に干しちゃおうと…」
「いくらお前が式だとはいえ、体とのバランスを考えなさい…」
布団の中から橙を引っ張り出してやりながら、藍は言った。
要するに、押入れの布団をまとめて干そうとして、引っ張り出したら
そのまま埋もれてしまった、というわけだ。
「布団は私が干しておくから、お前にはお使いを頼まれてほしい」
「はい、お使いですか?」
「ああ、そうだ。このかごの中にメモを入れてあるから、その通りにこなしてほしい」
「わかりましたぁ」
言って、藍はかごを手渡した。
さわやかな感じのする編かごだった。いつも、藍が愛用しているもの。
「それじゃあいってきま~す」
「いってらっしゃい、ちゃんと夕方までには戻ってらっしゃいな」
とてとて、とそんな音がしそうな駆け足で、橙は玄関へ向かっていった。
それを見送る藍。そして、すぐに視線を落とす。
そこには━━布団の山が、ひとつ。
「まずはこれを片付けないとな…はぁ」
ため息、ひとつ。可愛い子のしでかすことだけれど、ちょっと一苦労。
「えーっと…ここの辺りのはずなんだけど…」
森を歩く猫が一人。
編みかごひとつ、手に提げて。
「なんだか…微妙に、薄暗いなぁ…」
そう言って、猫の少女━━橙は、辺りを見回した。
薄暗い森。人の寄らぬ場所。
人はここを魔法の森と呼ぶ。魔法使いの住まう場所。
人が寄り付こうとしない、妖かしの森。
「道に迷ってないかなぁ…大丈夫かなぁ…」
橙の言葉は少しずつ力を失っていく。不安が広がっていく。
リングのついたかわいらしいその黒い耳は力なく垂れ下がり、尻尾は震えている。
「あら、こんなところに猫が迷い込むなんて、珍しいわね」
「はにゃ!?」
唐突にそんな声が響いた。
それに驚いて、大げさに飛びのく橙。おおよそ、10メートル程度。
「そんなおびえなくても、とって食べたりはしないわよ」
「うぅ~…」
まだおびえているのか、近くの木の陰からちょこっとだけ顔を出して、
橙は様子を伺っていた。
その視線の先にあるのは、ゆったりした青い服に ケープをつけた少女。
セミロングの金髪に、かわいらしいカチューシャをつけている。
少女はなかなか警戒を解こうとしない橙に軽くため息をつくと、傍らの人形を近くへ寄せた。
「ほーらほら、怖くない」『怖くない、怖くない』
「ぅー…」
なにやらはじめたのは腹話術。けれど、まだ橙はじとーっと見つめている。
しかし少女は表情を変えずに続ける。
『私は猫さんと遊びたいなぁ~?』
人形を通して優しく語り掛ける。
そんな姿を見て、橙はゆっくりと近づいていった。
そして距離が1メートルちょっとまで縮まって。
少女は人形の手を伸ばして橙に触れる。
『ほら、ね?』
微笑みかける少女に、橙の表情も、一気にほころぶ。
「うんっ!」
言葉より、時としてもっと単純な行為のほうが、直接伝わる時もある。
けれど、少女のほうはすぐ笑いの頭に苦味がつく。
「…普段からこれぐらい器用だったらいいんだけどねぇ…」
やや自嘲気味に、ちょっとため息。
「?」
「あー、いや、とっさに思いついてやったもんだから…まあ、ただの独り言よ」
きょとんと見上げる橙に、指で頭をかきながら少女は言った。
「見たところ猫…というか猫の妖怪さんのようだけど、こんなところに何の用?」
「あ、えーっと、この森にいるっていうアリスさんっていう魔法使いさんのところへ
お使いへ行く途中なんです」
問いかけに答える橙に、少女は目を見開いた。
「それ、私のこと」
「え?」
「私がアリス。アリス=マーガトロイドよ」
「はぅっ!?」
驚いて、橙は混乱している。
「え、えーと、魔法使いっていう妖怪さんって…」
「ええそうよ。七色の人形遣い。それが私よ。だいぶイメージと違った?」
「う、うーん…」
首をかしげる橙。絵本なんかだとおばあさんが黒い服を着てるイメージがあるのだけれど、
考えてみたら彼女らは妖怪なわけで…外見だけで判断はできないということ。
思えば橙の主である藍をも使役する紫なんて年齢不詳もいいところなわけで。
ぞくっ。
「!?」
「どしたの?」
「きゅ、急に寒気が…っ!」
辺りを見回しても、そこには何もない。
「子猫さんが何の用事かはわからないけど…家はすぐそこだから。少しのども渇いたでしょう。
お茶ぐらい飲んでいきなさい」
「あ、ありがとうです~」
実は森の雰囲気におびえていたのもあってのどがからからだった橙にとって、
とてもありがたい申し出だった。
・
・
・
「さ、どうぞ。猫さんだけに猫舌かなって思ったから、少し冷ましておいたわよ」
「わ、ありがとうです~」
お礼を言って、橙は差し出されたティーカップを手に取る…のだけれど。
「ぅーん」
「あら、どうしたの?」
「えと、紅茶ってはじめて…」
「あらら。でも、緑茶とあまり変わりはないと思うわ。お砂糖を入れて飲んでごらんなさい」
少しの間初めて目にする紅茶とにらめっこをしていた橙だけれど、芳しい香りに
誘われ、言われるがままに砂糖を入れて飲んでみる。
「…わ、おいしい」
「でしょう? 衣服からして普段は緑茶か烏龍茶かと思うけど、たまにはいいと思うわ」
幸せそうに紅茶を飲んでいる橙に、アリスは少しばかり目を細めて言った。
「それで、猫の妖怪さんが私に何の用事?」
「あ、えーっと…この編みかごにメモが」
本題を切り出した。アリスにとって、別段こんな猫の妖怪、あるいはその周辺と関わった
覚えなどない。だとしたら、魔法に関する用事だろう。
「んと、シナモンとスターアニス、それからカンゾウって何だろうこれ?」
「ハーブの種類ね。ハーブはそれ単体でも、あるいは調合して、いろいろな薬に使えるから…」
「ふむぅ、なるほど~。後は魔法の糸に布をもらってきてほしい、って…」
「魔法の糸や布はともかく…ハーブねぇ」
注文の品々を聞いて、アリスは少し困り顔をした。
「ないんですか?」
「ないわけじゃないんだけど…私は人形使い、って言ったわよね? だから糸や布には
事欠かないけれど、ハーブは…天然のものを少し採取してくる程度だから。そういうものなら、
むしろ魔理沙のほうが…」
「まりさ??」
「ええ、白黒した魔法使い…の、人間よ」
アリスの説明を聞いて、橙の耳がぴんと立つ。
「う~…白黒…さてはあの人間だぁ~」
眉間にしわをよせなて、低くうなる橙。そんな橙の様子を見て、アリスは小さく笑った。
「アレはがさつだから…そうね、こんな猫さんをあの子のところにいかせるのもなんだし、
確か前に採取したものが残ってたと思うから、それを持っていきなさい」
「あ、ありがとうございます~」
お礼を言って、橙はぺこりとお辞儀をした。
「でも、…さすがに代価なし、というわけにはいかないわ」
「あ、えーっと、これを代わりにもっていってくださいって、メモに」
そういいながら橙が取り出したのは、封をされた瓶だった。
「これは…錬丹術で創った薬ね? 随分と珍しいものを…」
「わたしのご主人様が作ったものなの」
「ご主人様?」
鸚鵡返しに聞き返すアリスに、橙は大きくうなずいた。
「うん、藍さまは、本当すごくて、なんでもできるんだよ。結界を直したり、呪符を作ったり
霊薬を作ったり! 立派な尻尾が9本も生えてるから、やっぱりそれだけの力があるんだろうなぁ」
うれしそうに藍のことを語りだす橙。が、アリスはその名前に眉を動かした。
「藍…? 八雲…藍、のことかしら。」
「うん! …って、なんでアリスさんが知ってるの?」
「まあ、ちょっとね」
くすりと意地悪く笑って、アリスは打ち消した。
「藍のこと話していると、随分とうれしそうね?」
「うん、だって、わたしの自慢のご主人様だもの!」
「そう」
元気いっぱいに答える橙に、アリスは優しく目を細めた。
「はい、これ。ハーブはそれぞれ袋わけして個別に名札つけておいたからね。
糸と布も入ってる。ちゃんと確かめてね」
「はい! 丁寧にありがとうです」
ぺこりと大きくお辞儀をして、橙は帰っていった。
それを見送るアリスに灯る、優しい微笑み。
「元気で良い娘ね、八雲の九尾狐さん」
とてとてとて。
よく晴れた幻想郷を歩く、猫が一人。
「ん…んーぅ!」
両腕をうんとお天道様へ向けてあげて背伸び。
全身に陽射しを浴びて、気持ちよさそうにしている。
「森は薄暗かったからなぁ…気持ちいい」
はぁ、と深呼吸。
後ろを振り返れば、そこには魔法の森。
相も変わらず森の木々は陽射しのカーテンとなっている。
その薄暗くて心細いことを思い出してちょっと身震いする。
けれど、そこで出会えたものもあって。
魔法使いの、人形劇に。
「また、来ようかなぁ…」
なんて、思ってみたりみなかったり。
にゃ~…
「う?」
唐突に橙の耳に届く鳴き声。間違っても、彼女自身のそれではない。
いわく、橙の鳴き声は鈴が鳴るように澄みきった鳴き声で聞くものを魅了するだとか
なんだとか。誰の談かはここではさておく。
すりすりすり。
橙の足元に、ほお擦りする猫が1匹。
「ねこだー、ねこーねこー」
しゃがみこんで撫でてやると、猫は気持ちよさそうに鳴いた。
「あは、いい子だね~」
微笑みながら言う橙。
しかし、猫にいい子といわれる猫、というこの光景もよくよく考えれば
どこか滑稽なものである。
そんな光景がしばらく続いたけれど、やがて猫は突然駆け出した。
猫というものは実に気まぐれである。
「あ、どこいくの? まて~まて~」
追いかける橙だけれど、その声はじゃれつくようにのんびりしていて。
距離を開かず詰めず、とてとてたたた、そんな足音をして後ろを走る。
と、猫が立ち止まった。
つられて橙も立ち止まる。
「つっかま~えたっ!」
えいっ、と猫を抱き上げる。猫は抗うこともなく、素直に腕の中に納まる。
橙は軽くほお擦りすると、その視線を目の前にやって━━
「わぁ…」
そこには、綺麗な川が流れていた。
暖かい陽射しを照り返して、流れる宝石のように、きらめいていた。
川原には草がよく生えていて、天然のお布団のようになっていた。寝転ぶと気持ちよさそう。
「えいっ!」
猫を放してから、勢いよく滑り込んでぐるんとでんぐり返し。
そのまま川原に寝そべる。
全身を暖かいお日様になでられながら、胸いっぱいに深呼吸。
大の字に寝転んだ橙のそばに、猫が寄りそう。
「気持ちいいねぇ~…」
傍らの猫に言うように、あるいは独り言のようにこぼれる言葉。
それは、穏やかな青い空に吸い込まれていって。
優しく橙をなでる風。包み込む心地よさが、眠気を誘う。
隣で丸くなっている猫も、ごろごろとのどを鳴らす。
こちらもなんだか眠そう。
「まだお日様も高いし…ちょっとぐらい…大丈夫だよ…ね…」
一人いいわけを言い終えるころには、橙の目は、もう、とろんとしていた。
やがて漏れ出すかわいらしい寝息。それを見守るのは、
暖かいお日様と、優しい風と、綺麗な川の流れだけ。
・
・
・
そのふわふわの黒い耳に届くのはやがて虫の声になり。
穏やかな空気はいつの間にか冷たく感じるようになり、そんな風が橙を掠めていく。
「ん…」
口元から漏れる声。うっすらとその目を開く。
体を起こすと、ぼうっ、っとしたその目をこする。
「あれれ、もう夕方…」
辺りを見回すと、お日様も沈んで、空は茜色に染まっていた。
東の空はもう藍色を帯びてきていた。
空ではカラスが鳴いている。
「♪か~ら~す~、Why do you cry?」
「・・・・・」
違う。何か違うよ。
空で歌っている鴉天狗の文に向かって橙は何か言おうとしたが、それは言葉にならなかった。
「むかしはね、英会話はジオ○だったんだよ」
今はNO○Aだけどな、という言葉を橙はすんでのところで飲み込んだ。
講師は全員宇宙人、最近では月面語まで扱い始めたのだという。
何か、ずれた。
文の姿が見えなくなると、ようやく場が現実へ戻る。
こんなやり取りもあってか、すっかり橙は目が覚めた。
辺りを見回せば、すでに空は星たちが歌い始めていた。
一緒だったはずの猫もいない。
そして傍らには、お使いの編みかご。
━━藍さまから言われたお使いの、編みかご……
さーっと血の気の引いていく感じがした。
「急いで帰らなきゃ!」
かごを手にとって、橙は暗くなった帰り道についた。
すでに空はの色は変わっていた。
彼女を待つ人を示す色に。藍色に。
息を切らして、橙は走る。
早く帰らないと、藍さまにしかられる。
もうすぐ玄関。ほら、やっとついた。
「ただいまっ!」
思い切り玄関を開けて、帰りの挨拶を一番に。
あわてて靴を脱ぎ捨てて。
「おかえり橙。靴をちゃんとそろえてらっしゃい」
「…はーい」
居間のほうから声がして。
響く音から、藍には全てお見通し。
「ごめんなさい、遅くなりました」
居間につくなり、橙はぺこっと頭を下げた。
見えない顔は、お説教をされることにおびえていた。
そんな橙を見ていた藍だったけれど、しばらくしてやれやれという感じで息をついて。
「今日は天気が良かったからね。きっとどこかでお昼寝でもしてたんだろう?」
「……はぃい」
すっかりお見通しだった。もはや橙には言い訳の術もなく。
「顔を上げなさい。怒ってないから」
ゆっくりと顔を上げた橙の目に映ったのは、困った子を見つめる母のような目をした藍の姿。
「かごを置いて、手を洗ってらっしゃい。ご飯にしよう」
「はいっ!」
元気よく返事をして、橙は洗面所へ走っていった。
後に残った藍はため息ひとつ。
「寄り道を計算に入れるのも困ったものなんだけどねぇ」
「それでも可愛い橙のことだから、と。母よねぇ」
「!!!?」
突然響いた声に座ったままずざざと動いた藍。
声の主は、言うまでもなく彼女の主・紫。
「……心臓に悪いから、お願いですから不意討ちせんといてください」
「あら、確信犯に決まってるじゃない?」
にっこり微笑む紫に盛大なため息をつく藍。
それはもう、あきらめにも似ていた。
三人仲良く夕飯の食卓を囲む。
三人三様のいただきますの後、箸の音が居間に響く。
「んぐ、んぐ、おいひー」
「ああこら橙、そんなにあわてて食べると」
勢いよくご飯を詰め込む橙を藍がたしなめる。
「んぐ、んぐ、…んぐっ!?」
「ああもう、言わんこっちゃない。ほら」
と、言ったそばからのどを詰まらせる橙。すぐに藍が水を飲ませてやり、背中をとんとんと
叩いてやる。
「ふぅ~、ふぅ~…ありがとです藍さま」
「お前は少し落ち着きなさい…で、そこ」
橙に言い聞かせてやりながら、藍はもう一方の影を逃していなかった。
カチッ、っと箸のぶつかる音がする。
「何やってるんですか、紫様」
紫が、藍のおかずに手をつけようとしていたのを阻止したのだった。
ちなみに狙いはというと、厚揚げ。
「…藍」
「何ですか」
『あらぁ、藍ってば器用ねぇ』とでも言うかと思っていた藍は、妙に神妙な声で言う紫を
変に思いつつも主人に対して向き直った。
「渡し箸」
「うっ!?」
しまった、とばかりに箸を引っ込める藍。これでは、橙の保護者として示しがつかない。
「ダメねぇそんな無作法をするなんて」
「誰のせいですか、誰の!」
噛み付く藍を、紫はやれやれとばかりに受け流す。
「藍さま~」
「テンk…っと、いかんいかん。で、橙、どうした?」
「おかわり~」
こちらはこちらでいつもどおり、食欲旺盛。
育ち盛りには良いことだ。
「はいはい、すぐ盛ってあげるから、ほら…ん、橙?」
「?」
ご飯を盛って渡してやった藍は、橙の顔を見つめた。
そしてほっぺに指を伸ばすと。
「ほら、米粒がついてたぞ、はしたない」
言って、とってやった米粒を自分の口元へと運ぶ。
すると今度は橙が藍をじっと見つめる。
「どうした?」
「藍さま、今の間接キス…」
「なっ!!!?」
予想もしなかった不意討ちを直で喰らって、藍は顔を真っ赤にしている。
「あははは、藍さま顔まっか~」
「ちょ、おま、橙! どこでそんな言葉覚え…」
「春よねぇ…もう秋だけど」
「紫様は黙っててください!」
今日も迷い家の食卓は賑やかだった。
虫の声も昼間でなく夜に響くようになればもう秋。
冷気を帯びた風が縁側から吹き込んでくる。
そんな心地よい風を浴びながら、藍は針仕事をしていた。
「藍さま~?」
と、後ろから声がする。橙だった。
「どうした橙? もう寝る時間でしょう?」
「んと、今日のお使いでもらってきたもの、何に使うのかなって」
「それを今作ってるんだ」
藍の背中越しに覗き込む橙。
話をしながら手を休めない藍。
それは仲の良い姉妹か、あるいは母娘のようで。
「もらってきたハーブに加えて、うちにもあるハーブをいくつか一緒に混ぜると
虫除けの薬ができるそうだ。それをこの通気性のいい魔法の布で包んで、下げておくんだ。
秋になったと言ってもまだ蟲がわくからな」
「ほぇ~…」
感心したようにじっと見ている橙。
やがて縫い終わると、裁縫道具をしまって藍は立ち上がった。
「できた。これをこうしてぶら下げて…」
言いながら、縁側にぶら下げる藍。どことなく風鈴か照る照る坊主にも似ている。
「これでよし、と。これで蟲に悩まされることなく眠れるといいな」
「うんっ!」
二人がそんな会話をしていると。
ヒュー……ッ……
ボト。
「「あ」」
蟲が落ちてきた。やけにでっかくて人の形を模した、若干季節外れの蟲だったが。
ぴくぴくと体が痙攣していて、今にも危なそうだ。
「ふふ…私の季節は…もう終わったというのか…もはやこれまで…」
そんなことを言っているやたらでかい蛍だが、悲観的な言葉と裏腹にまったくもって
悲壮感自体はない。
そんな滑稽な見て、藍と橙は顔を見合わせて。
「ぷっ」「あははっ!」
同時に、笑った。
「実行犯がおかしそうに笑うなぁっ!」
そんなリグルの怒声が秋の迷い家の夜空に響き渡った。
寝付いた夜。静寂は不規則な音にかき乱される。
しとしと、ざぁっ…
夜の秋雨は急に振り出したかと思うと強くなった。季節の代わり目だけあって、唐突に雨が
訪れ、雨脚は強い。
そんな雨音は、昔の夢へと誘う。
・
・
・
━━それはとても昔のこと。
その日迷い家に雨が降っていた。
風のない、静かな雨だった。
雨の中でも、藍はいつもと変わらず見回りをしている。
晴れの日と違いがあるとすれば。
それは尻尾の重さと、傘があることであろう。
裏の森を歩いていた、そんなときだった。
ぎゅっ━━
唐突に服のすそを引っ張られた。
振り向く。そこにいたのは。
ぬれて、こごえて、おびえて、よごれて、おれてしまいそうな。
そんな、幼い黒猫の猫又の姿。
『ぁ…ぅ』
未だにうまく人の言葉はしゃべれないのか、口元をぱくぱくと動かして、音にしかならない
声をあげていた。
けれど、そんな声だからこそ伝わる。
さびしくて、つめたくて、こわくて、おなかがすいて━━
つぶらなその瞳は、やがて泣き出してしまいそうなぐらい、潤んで、ゆれていた。
しばらくじっとその黒猫を見ていた藍だったけれど。
その口元が緩んだ。
それは、とても優しい、微笑み。
『おいで』
服の汚れも気にせず、藍は黒猫を抱き上げた。
片手で傘を、黒猫がぬれないように傾けてやり、もう片方の手でしっかりと、ひとりぼっちの
黒猫を離さないよう、その胸にしっかりと抱きしめていた。
驚いて目を見開いた黒猫だったけれど、藍の胸から伝わる鼓動と、一緒にしみこんでくる
いっぱいの優しさに安心したのか、やがてその目はとろんとなって、閉じてしまった。
『ふふ…』
それを見て、藍は目を細めて笑った…まるで、母親のように。
・
・
・
そこで目が覚めた。
しばらくは、暗い天井をぼうっと見上げていた。
再び寝付こうとしたけれど、外の雨音がそれを遮る。耳にぱらぱらと雨音が滑り込んでくる。
だけれど、それ以上に、起きていたほうがいい、と直感していた。
「藍さま━━」
と。静かにふすまが開いた。
「橙?」
「はい」
名を呼んでやると、橙は静かに答えた。
「その、一緒に寝ても、いいですか?」
橙の声には、どこか不安げな感がした。
こんな雨の日は、たまに橙がこうして藍の寝所にもぐりこんでくる。
きっと、あの日のことを夢に見て、不安が胸に広がるのだろう。
それを知っていたから、藍は再び眠ることなくずっと起きていた。
「おいで、橙」
掛け布団をあげて招き入れると、橙はその中へもぐりこんだ。
すぐさま藍のそばに顔を出す橙。
藍の顔が、すぐそばにある。
その顔は、あの時と変わることなく、優しく橙を見つめている。
「藍さまのお布団━━」
不意に、橙が口を開いた。
「とっても、あったかいね」
言いながら、橙はぎゅっと藍にしがみついた。
「そうかそうか」
相槌を打ちながら、藍は片手を布団の外に出して、橙の横顔をなでた。
ねんねんねこねこ ねんころり
まんまるお月さん きらきらひかる
あまえんぼさん たんとあまえて
ねんねんねこねこ ねんころり……
なでてやりながら、藍は穏やかに唄いだした。
それは、幼い日の橙を寝かしつけるときに口ずさんでいた、子守唄。
昔、紫様に幼い自分が寝かしつけてもらったときに、唄ってもらった子守唄……
そんなことを思いながら過去から現在へと目を移すと、橙はもう、穏やかな寝息を立てて
眠りに落ちていた。
藍にしっかりと寄り添って、その手はぎゅっと藍をつかんで。
自然、藍から笑みがこぼれる。
なでていたその手で、橙をぎゅっとつかんだ。
この幸せを、穏やかなぬくもりを、決して放すまいと。
夜が明けて、雨も上がり、まぶしい光は窓から差し込み、小鳥が朝の訪れを歌っていた。
うっすらと、その大きな目を開ける橙。ぼうっとしたその瞳に映るのは。
「おはよう、橙」
だいすきな、藍さまの顔。
「ふぁ…おはようございます…」
寝ぼけ調子に挨拶をしつつ、ふと昨晩のことを思い出した。
急に意識がはっきりしてくる。
「もしかして藍さま…寝てない??」
「いや、寝たよ。けど、橙が私のことをつかんでいたからね。起きるに起きれなかっただけ」
「あ━━」
言われて、気付いた。その手は、藍のことをぎゅっとつかんだままだった。
「ごめんなさぃ」
「いいんだよ、橙」
しゅんとして謝る橙に、気にするな、という藍。
(私も、橙のことをつかんでいたからな)
そんな言葉は、出てこなかったけれど。
「さ、顔を洗って身支度してらっしゃい。私は朝餉を作るから」
「はい!」
答えて、橙は暖かな布団から抜け出していった。
それを見送って、藍は目を閉じて、昇る朝日に静かに祈る。
願わくば、この幸せがずっと続きますように、と。
暖かな湯気が居間に立ち込める。
食卓には、式神二人。けれど、食器は三人分。
「それじゃ、いただきます」
「いただきまーす」
手を合わせて、二人は箸を取った。
その背後をすすっと影が進んでいくけれど、幸せそうにご飯を食べる橙は気づかないし、
藍はあえて気付いていないふりをしていた。
「じゃ、おやすみ~」
「おやすみなさいませ」
寝起きの二人にとっては時間違いなことを言うその影に、自然に返す藍。
影の動きが、止まる。
「なによお、『紫様、朝餉は召し上がっていかないのですか?』とか言ってくれないのお?」
「朝帰りに朝餉は不要かと思いまして。それに、寝る前に食べると太るらしいですし」
ふくれっつらの紫に平然と返す藍。
そんな二人に、橙はくすくすと笑っていた。
「紫さま。藍さまは、いっつも紫さまと一緒にご飯を食べたがってるんだよ?」
「なっ、橙!?」
そんな突拍子もないことを言われて、昨晩同様顔を真っ赤にする藍。
橙は相変わらず笑い転げているし、紫はといえば、神妙にうなずいていた。
「藍ってば…さびしかったのね」
「妙に濡れた声で言うなぁっ! 橙も変なことを言わない!」
「え~、でも食器はちゃんと三人分あるし」
「藍も素直じゃないわねえ、誰に似たのかしら」
「あんただあんた!」
今朝も迷い家は賑やかだった。
それは、幸せの証。
願わくば━━平凡な出来事のこの幸せな日々が、ずっと続きますよう━━
おしまい。
リグル南無。
「素裸天狐」ってリンクを見つけ出せたら即座に「YES」を選ぶと吉。
てゆーか橙可愛いよ!!!
というかGood Job
>確信犯
「道徳的に正しいという信念のもとに行われる行為」という意味だったはず
・・・・・・藍さまを驚かす行為を紫様は正しいと思ってやってるわけか・・・南無
>♪か~ら~す~、Why do you cry?
懐かしいネタだなぁ。私は、英会話といえばAE○Nを思い出してしまうのですが
すっごく、優しい、ひだまりのかおり。
まだ幼き妖猫は、それに抱かれ、包まれ、成長していくんでしょうね。
・・ゴチでした。
こういう過去話も良いと思います