(注)これは「蒼き風走る」シリーズの(6)以後の藍様のお話です。どうぞご了承ください。
幻想郷の夜に月。
穏やかな春の風。
空に雲は無く、優しき光がマヨヒガにも降り注ぐ。
月明かりの下、その縁側に腰掛ける人影が二つ。
「あの男の見立てはどうでしょうか? 」
隣の人影に話しかけるのは、マヨヒガを冬の間守り続け、外界に出ている自分の式の帰宅を待ち続けていた八雲 藍。
標準装備の割烹着その他を外し、今は藍色を基調にした道師風の普段着で、瑠璃色のぐい飲みを片手に返答を待つ。
酒に酔っているのか、その頬には少し朱が指していた。
「そうね、悪くは無いんじゃないかしら。なかなか良いお酒飲んでるのね、彼は」
豊かな金髪を風になびかせ、藍と似ているが紫色を基調とした服を着たマヨヒガの家主、八雲 紫は空になった自分の翡翠の杯に酒を注ぎ足しながら答える。
二人の間には、『彼』と呼ばれた者の持参品だった焼酎の一升瓶が置かれていた。
藍は心の中でほっと胸を撫で下ろす。
あの男に自分も会わせろと、冬眠から目覚めた紫様が言い出した時はどうなるかと思ったが、先刻の稲荷神社の幻影を通じてのやりとりに藍の危惧した、問答無用で男を隙間に引きずり込む様な事は起きなかった。
ただひとつの気がかりは・・・・・・ 。
「でも彼はね、結論から言うと、危険な存在よ」
「どうしてですか? 」
疑問を口にしようとした正にその時、機先を制された藍は逆に紫にたずねた。
今も外界で人間達から信仰され、存在し続けている古き神達。荒ぶる雷のタケミカヅチ。陽炎の化身、摩利支天の加護を得ているからか。
だがそれは、あの男に対してかけた助言の結果だ。普通の人間が幻想郷に入る為には神の加護でもなければ、生きて出る事は皆無だろう。
ここはそんな場所なのだから。
自分に対して偽名を語った事なぞは些細な事だ。
昔から、人間が妖物に真の名を明かす事など無かったのだから腹も立たない。
驚いたのは、紫様が冬眠中にあの男の身辺調査をしていた事だ。そんな器用な真似が出来るなら普段の生活にも活かして欲しい。
本当に。
藍の心知らず、紫は杯を片手に静かに語り始めた。
「小角 景一。彼が危険な存在と言うのは、あの男が妖怪を見て恐怖を覚えない事。冬眠中に彼の事を夢に『視て』みたの。若い時には自衛隊っていう軍隊みたいな所にいたのね。それから、外界の世界の戦場を、記録に取る為の写真家になった。」
紫の言葉に藍はじっと耳を傾ける。
「その時にね、彼は自分の感情の中から『恐怖』を失った。完全に。その現場も『視た』わ。酷いものね、人間同士が殺し合った後の、屍達が折り重なる中で、彼は立ち尽くし泣いていた。自分の無力さに絶望してね」
そうだったのか。
だから奴は、初めて会った時、私を見ても恐ろしいそぶりも見せなかったのか。
そしてあの言葉。
『俺は、妖怪よりも人間のほうが恐ろしい』という意味も理解できた。
奴は、そこで何を見てしまったのだろうか。
「そこから先は藍、貴方の方が詳しいでしょう。彼は生まれた国に帰って来て、そして幻想郷の存在を知ってしまった。あろう事か、自分から好んでやって来る様にまでなってしまった。あの男は、幻想郷に何か希望を見出したのかもしれないわね」
紫は夜空を見上げる。
そこに浮かぶのは刀の様な鋭い三日月。
「ここからが本題よ。妖怪を恐れない者、幻想を現実と冷静に受け止め受け入れる者。そんな人間が幻想郷に入り浸りする様になったら何が起きるかしら、あくまでもまだ推測だけど」
外界から失われた者達が暮らす幻想の世界。そこには人間は妖怪を恐れ、妖怪は人間を襲うという考えが根底にある。
平行を保つ天秤の様な世界。
その不文律を狂わせる様な者が現れたとしたら。
「幻想は『現実』に染められ、崩壊を迎えるかも知れないわ」
重苦しい空気が流れる。
藍はうなだれ、紫は我関せずとばかりに酒を杯に注いでいた。
しばらくの沈黙の後、苦しそうに口を開いたのは藍だった
「あの男を、殺すのですか? 」
「そうね、まだ決めた訳じゃないけど」
「どういう事ですか? 」
「貴方、ずいぶん彼の事が心配な様ね。橙を送り出した時は、それは凄い形相だったくせに、ふふふ」
紫にたしなめられて藍は赤くなった顔をあさっての方向に向けた。耳まで赤いのは隠せないが。
藍は内心主に対して毒付いた。
ああ、ええ、そうですよ、おっしゃるとおりですよ本当に。
だって、罰と称していきなり橙を外界に放り出すんだもん。
春まで帰って来るなって言うんだもん。
おまけに、あの時はまだよく知らない男の所に居候させるって言うんだもん。
男よ男!!
万が一、万が一不幸な事があったらどうするつもりだったのよ、この万年ぐうたらスキマ妖女!!
危惧した事は起こらなかったし、あの男へのわだかまりも解けたけど、振り回される身にもなってくださいよ。
あ、なんだか胃が痛い。キリキリなってる。うめいてる。
そんな従者の気持ちも知らず、紫は静かに呟いた。
「橙を彼の所に送りつけたのは、最初はほんの悪戯気分のつもりだったわ」
悪戯気分で私の式を外界に放り出さないでください。
「でもあの男の事を知る為でもあったの。さっきの推測だけど、当たっていたなら橙は当の昔に『存在』しないわ。もちろんそうなる前に助けるつもりだったけど。冬眠していてもその位は『視る』事で可能だったし」
藍の耳が三角に尖る。
そんな危ない事させないでください。
ホントに出来たんですか、そんな事。
時々押し入れ覗いてみたら、がーがー、ぐーぐー、むにゃむにゃ、スゴイあり様でしたよ。
みなまで言わないけど。
「でも、橙は元気に外界で暮らしている。彼が幻想を『幻想』として受け止めているからでしょうね」
「そうですか、なら別に問題は・・・・・・ 」
「あるわよ、十分に。あの男は戻ってくるのよ、ここに。幻想郷に。マヨヒガ目指して」
そうだった、忘れる所だった。
あの男は、橙に案内されてやって来るのだ。
マヨヒガへ。
「彼が実際に幻想郷の奥深くまで乗り込んだ時、何が起きるか予測は付かないわ。何も起きないかもしれないし、危惧した事が現実になるかもしれない。だから、ちょっと思いついた事があるの」
紫は男に告げた言葉を一部だけ反芻する。
「『一番のお土産は貴方だから』この言葉の真意に気付く事ができれば、彼も覚悟を決めて来るでしょう。自分に対して試練が与えられると」
それは藍が一番初めに紫に対して発しようとした、質問の答えだった。
「奴に,小角にどの様な試練を与えるのですか? 」
それに対して紫は、どうでもいい様な声で冷たく答える。
「蜘蛛の糸より細い難題、ね。でも零ではないわ」
ゼロではない、だがそれは限りなく奇跡でも起こさなければ越える事は出来ない難題ではないか。
紫様の事を、私の主が幻想郷に対して深い愛情を注いでいる事を失念していた。
主は『敵』に対して容赦など無い。
無情な程に。
幻想郷の人間達とつきあい始めてから変わったかと思っていたが、紫様は変わらない。相変わらず得体が知れない。
あの男にとって救いが有るとすれば、刹那程度の可能性が残されている事か。
許せよ小角。やはり妖怪と、外界の人間は相容れないものなのか。
物思いにふける藍。
だが紫が発した次の言葉は、藍の心を底知れない暗闇の中に突き落とすのに十分すぎた。
「そうね、難題を越えられずにあの男が死んだなら、そうしたら橙に喰らわせましょう。彼の肉を、臓物をね。あの子は確か、まだ人間を『食べた』事が無いはずだったわよね。聞いてる藍? 」
だが藍にその紫の問いかけは、何処か遠くから聞こえる風の様だった。
それだけの衝撃に藍の心は打ちのめされていた。
食わせる?
橙に?
あの男を?
人間を『喰らわせる』?
そんな事は・・・・・・ 。
「聞きなさい、藍。橙の妖力が育たないのは、貴方が人間をあの子に食べさせないからよ。貴方にとって橙は何なの? 。家族ではないの? 。それとも『式』と言う飼い猫のつもり? 」
「違います!! 橙は私の大事な・・・ 」
「大事な、な・あ・に? 」
藍の口から諦めに似た呟きが洩れた。
「家族です」
それっきり、藍は顔をうつむけ伏せる。
「だいたい貴方、橙を甘やかしすぎなのよ。本当ならとっくの昔に『八雲』を名乗ってもおかしくない下地があるのに、貴方の変なこだわりが邪魔をしているのに気付けないの。ねえ聞いてる藍、らんったら。あら、なんだか向こうの方から紅白が血相変えて飛んで来るわ。何かあったのかしらねえ」
その言葉は藍には聞こえていなかった。
彼女の心は葛藤の嵐に巻き込まれていた。
橙。確かに私はお前に人間を食べる事を禁じた。だがそれは、喰らう事でお前が、お前で無くなってしまう様な気がしたからだ。
小角、不幸な旅人よ。お前はどう思う、喜んで食われるか。ならば私は、お前を生涯呪い続けるかもしれない。
わたしは、私はどうしたら良い。どうすればいい。
どうすれば良いのだ。
誰か教えてくれ。
頼む、たのむよ。
夜空の月が雲に隠れる。
それは彼女の心を表すが如く、真の闇を作り出していた。
試練の日は近い。
時は止まる事を知らず、滔々と流れゆくのみ。
(続く)
続きも楽しみにしています
来たよー!
橙に人間食いをさせるか否か……
好みの展開来たよー!
怖いッ! 紫様怖いッ!! もしバッドエンド(この場合は橙が小角を食った場合。誰にとってのバッドかは解りませんが)になったら橙は紫様を恨むでしょうか。それとも妖怪として一皮剥けるのか。そしてその後の橙は藍様の望む橙であり続けられるのか! なんかバッドエンドルートも呼んで見たい気もする・・・。
果たして、細き難題の糸を摑み、はたまたそのの重さに耐え切れず、男は何を辿るのやら、今後が見ものです。
それでこそ幻想の境界!
それでこそ八雲紫です!
しかし、「幻想」が「現実」に侵食されるですか…。
もしかしたら紫は「月」の崩落を間近で視ていたのかもしれませんね。
さて、紫の宣言に苦悩する藍様はどうするのか?
次回が楽しみです(^^
妖怪は人を喰う。それによって人と妖怪のバランスが取られている、と
知っていたはずなのに、橙が人を喰う可能性は欠片も考えた事なかったなぁ
うん、K-999様も言われているように、BADENDルートも見てみたい
かも……いや、やっぱ橙と藍には笑顔でいて欲しいか。
幻想郷の長い夢は終わってしまうのかー?
ああ、元ネタの元ネタを遊びたくなった。
>名前が無い程度の能力様
今まで紫様の出番が少なかったので一つの締めとして頑張ってもらいました。実際は「え~、めんどうだから食べちゃえ~」とか言いそうですが・・・・・・ 。次回も頑張ります。
>おやつ様
ずっと考えていて形に出来なかったネタですが、やっと外に出す事が出来ました。難しい展開になりそうなので、じっくり考えて続きを書こうと思います。
> K-999 様
紫様は怖いですよ?みたいな。今後どうすればいいか、自分にとっても悩みどころです。とりあえず白沢先生に相談しにいきます。
>てーる様
難題を男が越える事があるならば、紫様は確実に彼を「敵」とみなすかもしれません。幻想郷に対する脅威は自分から積極的に排除すると思いますし。今後いっそう努力します。
>紅狂様
夢と現の境界すら操れる紫様は過去にどれだけの「事」を視てきたのか計り知れません。ある一つの「未来」すら視えるかも。対抗するには幽々子様にも出てもらわなければならないかなと、ラプラスの魔を読み直して思ったり。
>床間たろひ様
橙に八雲の苗字が付かないのはなんでだろ?自分としては、まだ人食いをしていないのではと考えました。本編で橙は、一話から出ているもう一人の主人公なので、その成長と葛藤を書いていける様に熟考します。
>○○の中の人様
ゲームの「ラプラスの魔」は遊んだ事はありませんが、小説版は最近読み直してもおもしろかったです。眠るゆかりん、幻想郷にて夢見るままに待ちいたり、みたいな。