ラクトガール
今日も何も変わらない
いつもと変わらない、静かな日々
外の光がほとんど届かず、朝か夜かも分からない、薄暗い空間
そこで、わたしは、積み重ねられた本に埋もれ、読書に勤しんでいる
ここは、人間界と冥界の境に存在する、幻想郷と呼ばれる世界
その世界の端に存在する『紅魔館』という建造物の中の一角、『ヴワル図書館』
ここ、『紅魔館』の主、『運命を操る事の出来る紅き月』と異名をとる『レミリア=スカーレット』はわたしの数少ない友人でもある
人間から言わせれば、彼女は500年以上生きている(その割には私よりも幼く見えるが…)、吸血鬼という存在なのだそうだ。そしてわたしもやはり、人間ではない。わたしは、『魔女』と呼ばれ、人間とは異なる存在
闇を映すような紫色の長い髪に、同色の瞳。90年近く生きている割には幼い風貌。それだけでも、私が人間とは違う存在だと証明できる
このヴワル図書館は、レミィ(わたしはレミリアの事をそう呼ぶ)が、わたしの為に幻想郷のあらゆる所から集めてきた本を保管して置く場所。わたしは一日の大半をこの図書館で本を読んで過ごす。と、言うより、わたしは、この図書館に住んでいるような状況だった
だからでは無いが、知識に関しては、誰にも負けない自信があり、魔力もそこそこ強く、様々な魔法を使うことは出来る。しかし、少し前から喘息を患っており、長い詠唱を必要とする魔法は唱えられないでいる
…とにかく、わたしは長い間この図書館に一人で住んでおり、今では埃にまみれてしまった、数多くの本と寝食を共にしていた
時折レミィが遊びに来てくれたりもするので、別段寂しいとも思わなかった
………わたしの名前は、パチュリー=ノーレッジと言う
この紅魔館には、レミィとわたしの他には、門番が一人と警備係が一人、お手伝いのメイドが数人居る程度である。レミィの妹も居るようだが、わたしは一度しか見たことが無い
メイド長の咲夜はこの館で唯一の人間で現在十代後半。赤子の頃、人間界に遊びに行ったレミィに拾われ、育てられた過去を持つ。十六夜咲夜(いざよい さくや)と言う名前もレミィが付けた名前だった。時を止めることが出来る能力を持ち、その能力故に、捨てられたのだろうとわたしは考えている。咲夜は、時折、紅魔館の離れにあるこの図書館まで、わたしにお茶を淹れに来る。何事に対しても卆が無く、完璧な従者だと思う
だが、わたしは元々、他人に対して興味が持てない性格で、レミィとの友人関係も我ながらよく続いているものだと、つくづく思う
わたしは、ここ何年もこの図書館から外へは出ていない
本を読み、知識を深めることが全てだった
「………何?」
いつもの様に図書館で本を読み耽っていると、不意に背後から物音がした
咲夜がお茶を持ってきたのであれば、一言あるはず……
「…誰かいるの……?」
少しだけ首を背後にまわし、辺りを観察する。自分のすぐ後ろに積み重ねていた本が微かに揺れている。
「……鼠…かしら………?」
この場合の鼠とは、当然、動物の事ではない。ここには珍しい本も数多くあり、それを狙って侵入者が来る場合もある。だが、大抵は門番に見つかり追い返されるか、レミィに見つかって血を抜かれて干からびるかなのだが、稀に、運良くどちらとも出会わずにここに来る場合もある。そんな時は、大概、私が魔法で片を付けるのだ。…ここの本棚には特殊な魔法コーティングが施してあるため、ちょっとやそっとの衝撃ではびくともしないので、わたしは研究した魔法の成果を侵入者で試してみたりする……が、面倒臭い事には変わりが無い…
「…やれやれ……」
わたしは軽くため息を吐くと、魔法の詠唱に入るため目を閉じて意識を集中させた。が、
…ズ、ズズ…
何かが、滑っているような音に気付き、目を開いて音がした方を向いてみる
(……本雪崩……?)
そう思うや否や、目の前に積まれていた本が一気にわたしの上に降りかかってきた
「きゃあぁぁぁぁーー」
わたしは、為す術もなくその流れに飲み込まれていった。
本越しに、ドーンという、盛大に本の塔が崩れていく音が聞こえてきて、その後静かになった。が、続いて図書館の扉を開く『バンッ!』という音が広大な空間に響く
「ここにいるの!」
聞き慣れている声が耳に届く。
この広大な空間に凛として響く声
メイド長の咲夜だった
「全く!勝手に出歩いては駄目だと何度も言っているでしょう!」
(誰かと、会話している…?)
誰と……?
……少し疑問に思ったが、疑念はそこでとぎれた……
苦しい………本が崩れて埃が舞ったせいで喘息が出てきたらしい……おまけに体の上に乗った本の量が量だ。胸が圧迫されて息が出来ない……
「咲夜……咲夜!………」
最後の力で声を振り絞った
「?……パチュリー様……何処ですか?」
わたしは、本の間からかろうじて出ていた右手をひらひらさせて、助けを求めた
「あらあら……大丈夫ですか?」
咲夜がそれを見つけ、わたしの上から本をどかして引っ張り出してくれた。胸にあった圧迫感から解放され、大きく息を吸い込んだが、喘息の発作も起きていたため、途中で大きく噎ぶ羽目になってしまった。咲夜が背中を押さえて呼吸を手伝ってくれたので、大事には至らずに済んだ
「…こほっ、……酷い目にあったわ……」
ようやく落ち着きを取り戻し、咲夜が淹れた紅茶でのどを潤す。まだ少し喉の様子がおかしい。
咲夜もわたしの目の前の椅子に座り、自分で淹れた紅茶を飲んでいる
しかし、目の前に居るのは咲夜一人ではない
「…それで………これは、何…?」
わたしは咲夜の足にまとわりついている物体を指差した。
「もう……パチュリー様………これ、は無いんじゃないですか?……
この子は人間ですよ」
咲夜が唇からカップを離し、困惑気味に笑いながら、そう答える。
「人間なのは見れば分かるわ……わたしが聞いてるのは、なんで人間がここにいるのかって事よ…」
咲夜は、ふぅっ、と小さくため息を吐いた
「………2日前、お嬢様が、また人間界に遊びに行ったんです。そこで……この子を拾ってきてしまったんです……どうやら、捨てられていたらしくて………なんだか昔の私を見ているようで放って置けなかったらしいです。で、同じ人間だから、私にこの子の世話をしろって、預けられたんですよ。でも、この子、ちょっと変わった力がある上に、いたずらが大好きで目を離すとすぐどこかに行っちゃうんです……で、今回はたまたま、足の向いた先がこのヴワル図書館だったという訳です。あ、ちなみに名前は十夜って言います。この名前もお嬢様が名付けました。歳は12歳だと自分で話してくれました。少し、記憶があやふやらしくて、両親の事は全く覚えてないそうですが……」
咲夜はそこまで言うと足元に居る男の子の少し茶色がかった頭を軽く撫でている。
……どうでもいい事だ……レミィが何処に行って、そこで何を拾ってこようと、わたしに得になるわけでも損害を被るわけでもない……
……いや、ついさっき本の下敷きになったのはこの子供のせいでは無いのか?
………そう思うと、なんだか腹が立ってきた
「……咲夜、この子はしゃべれないの?さっきから口を開こうとしないんだけれど…」
しゃべれるのならとにかく謝って欲しいとわたしは思った。不可抗力と言えどもわたしは現実に大変な目にあったのだ。まぁ、避けられなかったわたしもどうかとは思うが……
「いいえ、しゃべれますよ。私と居るときは口止まず話していますから……ただ、ここで私とお嬢様以外の人に会ったのは初めてですから、きっと緊張しているんでしょう……仕方ないわね…ほら、十夜、ご挨拶は?」
そう言って、咲夜は十夜を自分の前に押し出した。
「……………」
少年は、なかなか口を開こうとしない
「……………えっと、……初めまして、パチュリー様………で、いいんですよね?」
しばらく間をおいてからようやく声を出した。外見通り、少し高めの声だった
「……えぇ、そうよ。……ところで、十夜……?わたしは先刻、あなたのせいで大変な目にあったのだけれど………何か、言うことは無い?」
わたしは、十夜の問いに答えながらも、不機嫌そうに声を返していた
そんなわたしの態度に、十夜も気付いたらしく少し焦りながら謝ってきた
「ごっ、ごめんなさい!…僕、こんなにたくさんの本を見たことが無くて……ここに入って来てから周りの本を見上げてたから、前にあった本の山に気付かなかったんです………本当にごめんなさい!」
十夜はそう謝罪しながら、勢いよく頭を下げた
「………まぁ、謝ってくれるならそれでいいわ……」
素直に謝れば、それでいい。咲夜が育てるのであれば、人格的には問題なく育つだろう………そう思って許すことにした
「……それでは、パチュリー様、私はこれで。館の掃除もまだ残ってますので……後でお茶を届けに参りますわね」
そう言って、咲夜は十夜を連れて図書館を出ていこうとした。わたしも、それきり興味を無くし、読書に戻ろうと本に視線を戻し、椅子に座った
「……………?」
咲夜と一緒に出ていった筈の十夜の気配を背後に感じる。振り返ってみると、やはり十夜がそこに立っていた
「……どうしたの?……咲夜が待ってるわよ……早く行きなさいな……」
「………えっと、………あの、パチュリー様。……僕、時々ここに来てもいいですか?……ここにある本を、僕も見てみたいです」
少し控えめに尋ねてくる
「………………………………………いいけど、わたしの邪魔はしないこと……」
長考の末、わたしは了承していた。
「あ、ありがとうございます、パチュリー様!」
十夜は顔を輝かせてから、少し頭を下げて礼を言うと、今度こそ咲夜の後を追って図書館から出ていき、辺りに静寂が戻った
「……騒がしいこと………」
口ではそう言っていたが、わたしは不思議と嫌な感じはしなかった
何故だろう?……今までわたしは、自分以外がこの図書館に居ること自体が非道く不機嫌に思えていたのに……何故、この少年の願いを受け入れてしまったのだろう?
良く……分からなかった
先日の言葉通り、十夜はよくこの図書館に遊びに来るようになった。しかし……
この図書館は、レミィがわたしの為に作ってくれた場所、ここにある本は彼女がわたしの為に集めてくれた本なのだ。だから、十夜がここにある本を読みたいと言っても、人間に魔術書の類の本を読めるはずも無く、十夜は挿し絵の入った簡単な本をパラパラと見ているか、もしくは、わたしの読書姿を、わたしの横で眺めている程度しか出来なかった。
「………ねぇ…十夜……………」
わたしは、十夜が運んできてくれたお茶を一口飲みながら、隣に話しかけた
隣では、椅子に座った十夜が、時々手にした本をパラパラめくりながら、わたしを見ていた
「はい?」
「……あなた……楽しい………?」
「…何がですか、パチュリー様?」
質問の意味をいまいち理解していないらしい………
「…………だから、わたしが本を読んでいる所をじーっと眺めてて楽しいのかって訊いてるのよ?」
自分の質問に対して、的を得た解が帰ってこない事に少々苛立ちながらも、噛み砕いて同じ質問をしてみた
「楽しいですよ」
間髪入れずに答えが返ってきた………しかも簡略に……
「わたしみたいな魔女の横顔を見て、楽しいの?」
少し呆れながら、皮肉混じりに訊いてみた
「えっ、パチュリー様って魔女だったんですか?」
………わたしを人間だとでも思っていたのか……
「……でも、僕はパチュリー様の表情とか見てるのは好きですよ。難しそうに考え込んだり、本を読んでるときに時々口元が優しく笑ったり。真剣に本を見ている目も、綺麗な紫色の髪も。魔女かどうかなんて関係ないです……それに、僕がここにいても追い出さないじゃないですか。そんな優しい所も好きです」
「…………そう……」
わたしが優しい?……とんだ勘違いだ。わたしは、ただ興味が無いから彼を放っておいただけなのに……
「好きにしなさい……」
わたしは、今度こそ放っておく事にした。彼もこんな日々にはすぐに飽きるだろう、そう思っての事だった
「はい!」
十夜は、元気良く返事を返すと自分の持っていた本に視線を落とした
(全く………奇特な子供ね……)
「じゃぁ、パチュリー様!また明日来ます!」
自分の本を読み終えた十夜がわたしに挨拶をして図書館を出ていく
(明日………また、明日も来る気かしら?)
そう、思ったとき扉の外に消えていった十夜がひょこっと顔を出した
「パチュリー様!忘れました!」
(はっ?……何を忘れたっていうの?)
辺りをきょろきょろと見回すが………得に何も見当たらない……
「違いますよー。忘れ物をしたんじゃなくて、渡し忘れたんです」
パタパタ、と十夜がわたしの前まで駆けてきた
「パチュリー様、手を出してください」
「何………?」
言われるままに、わたしは両手をくっつけて十夜の前に出した
十夜が自分のズボンのポケットをゴソゴソと捜す
「……あっ、あったあった。はい、パチュリー様。」
「これ……何………?」
わたしは自分の両手に置かれた物体に目を向けた。色とりどりの小さな布。それぞれが中央で結ばれているように細くなっている
結構な量だ
「何って、…リボンですよ。知らないんですか?」
「知ってるけど………」
(これをどうしろというのだろう?わたしが身に付けるの……?)
「パチュリー様、いつも同じような格好しかしてないから……その時の気分で好きな色のリボンを付ければいいかなって。例えば、『ちょっと落ち込んでるな』って言うときは青色を付けて、『ちょっと怒ってるかな』っていうときは赤色を付けるとか……色んな色がありますから」
「……………ありがとう……」
(……本当は、あまりいらないけど……ここで返して泣かれても、困るしね………まぁ、折角だから貰っておきましょ。貰い物をして悪い気はしないし……)
そう考えて十夜に礼を言った
「やだなぁ、別に泣きませんよ、ただ、返されても僕が付けるわけに
はいきませんから、困ると言えば困りますけどね…」
「……そう……」
……えっ?
「……ちょっと、十夜!今、わたし声に出してたの……?」
「いいえ、パチュリー様は心でそう思っただけですよ?」
「じゃあ、……なんでわたしの考えた事をあなたが知ってるの!?」
「……聞こえましたから」
意味が分からない………わたしは声に出してはいない……しかし十夜には聞こえている……でも、わたしは声に出してない……でも、十夜は聞こえたと……………訳が分からない!
『この子ちょっと変わった力があるんですよ』
不意に、初めて十夜と会った時の咲夜の声が思い出される……
……だとしたら、考えられることは、ただ一つ………
「……十夜、あなた、ひょっとして…………心が……読めるの?」
「………………………」
十夜は答えない
「…そうなのね………?」
「……………はい」
先程までとはうって変わって、十夜は下に顔を俯き、表情は暗く沈んでいた。声のトーンも普段より少し低い。……わたしの目にはまるで、今にも泣き出しそうなのを必死に堪えてるように見えた
「………僕……小さい頃から、人の心が読めるんです………でも、相手の目を見ないと分からないんですけどね……………お父さんやお母さんの事は、ほとんど覚えてないけど……多分…それで気味が悪くて、僕を捨てたんでしょう、ね……想像、ですけど……」
十夜は、そこまで言うと静かに泣き出してしまった………
「……レミィや咲夜は、このことを知ってるの?」
十夜は首を縦に振る
「……はい………ここに来たときに話してます……で、むやみに心を読まないって事で、ここに住むことになったんです……とは言っても自分の気持ちとは関係なく相手の心が聞こえてきちゃうんですけどね」
わたしは、そんな十夜を黙って見ていることしか出来なかった……
わたしには、親の記憶など無い……もしかしたら、わたしのような存在には、親など存在しないのかも知れないけど……だから、十夜の気持ちは分からなかった……
恐らく、十夜が両親の事を覚えていないのは本当の事だろう。確かに、普通の人間がそんな力を持っていれば気味悪がられ、疎まれるのは明白である。恐らく、両親に捨てられた精神的なショックで両親の記憶が抜け落ちてしまったのだろう。
しばらく、時間が経ち、十夜も少しずつ落ち着きを取り戻した頃
わたしは、口を開いた
「ねぇ、十夜?……さっきわたしが思った、『いらないんだけど』っていうのは、別に迷惑だからそう言ったんじゃないの………ただ、わたしは、この通り、別に服装に興味が無いだけなのよ………四六時中この図書館にいるしね……それに、知識として知ってるだけだけど、リボンって確か、人間の女性が自分を着飾るために使う物でしょう……?魔女であるわたしには、縁がない物だと思っただけ………大丈夫…十夜の気持ちはすごく嬉しいから………」
十夜は、その言葉を聞いて、少しだけ顔を上げた。目が赤い。当たり前だ、泣いていたのだから
「じゃあ……そのリボン、受け取ってもらえますか…パチュリー様?」
わたしは、首を縦に振った………
おかしな話ね………わたしが人間の子供を慰めるなんて………
「……ついでだから今、付けて貰おうかしらね……わたしはリボンの付け方なんか知らないし………」
「本当ですか…?」
「……嘘かどうかは、あなたが分かってるはずでしょ?…」
「………はい」
十夜は、目尻に少しだけ残っていた涙を拭い去ると、わたしの手の上にあるリボンを受け取ると、わたしの目を見つめてきた
「…………どうしたの?」
「……あの、全部、付けてみてもいいですか……?」
「……任せるわ」
十夜は嬉しそうにわたしの服や、腰までもある長い髪、上着の首元や裾まで、様々な色のリボンを付けてくれた……なんだか、人間の少女が遊ぶという、『着せ替え人形』になった気分だった。でも……悪い気分では無かった……
十数分後………わたしは見事にリボンだらけになっていた……
「さすがに……ちょっと付けすぎましたね……少し取りますか、パチュリー様?」
「………いいえ、このままでいいわ。……折角、十夜がわたしにくれた物だし……」
わたしはそう言って椅子から立ち上がり、今では埃にまみれてしまっている鏡の前に立ってみた
「………………………………」
なんとも、形容しがたい光景だった
体中にリボンがくっついている。
赤・青・黄・紫・白・緑・ピンク・・・etc
(………こんなに付いてたのか………)
「……あの~、パチュリー様?……やっぱり、少し外しますか?」
「………いいえ、いいわ、このままで。ありがたくもらっておくわよ………ありがとう、十夜……」
自分の姿に少し驚いたが、やはり嫌な感じではなかった
それから、十夜は、すでに冷めてしまっていた自分のお茶をこくんっ、と飲んで『遅くなると咲夜が怒り出すから帰ります』と言って図書館を出ていった。……もちろん、明日も来ると言い残して……
「パチェ~、久しぶり~」
十夜の事があった翌日の夜、ものすごく久しぶりにレミィが図書館にやってきた。………本当に久しぶりだ……もっとも、わたしのいる位置からは、その小柄な体は一切見えなかった。本の山に邪魔されて……
「……久しぶり、レミィ。元気だった?」
わたしは椅子から立ち上がり、彼女の姿を捜す……数メートル先の本の間から彼女が身に付けている薄布製の帽子と、背中から生えている黒い蝙蝠のような羽の一部が見え隠れしている
(……やっぱり、レミィは小さいわね)
なんで、わたしより5倍以上生きてるのに、わたしよりも幼く見えるのかしら?
まぁ、魔族の類は自分の魔力の大きさで成長の度合いが変わってくるって言うし…
わたしよりも遙かに魔力が強いのよね、レミィは……
「あっ、やっと、見つけたわパチェ……って、どうしたの、その格好……?」
レミィがわたしの姿を指差して少し驚く………
「………変かしら……?」
「変!」
そりゃまぁ驚くだろう、久しぶりに会った自分の友人が体中にリボンを纏っていれば………
…わたしは、少し気に入ってきてたんだけど
「……別に、変でも構わないけど……それで、今日はどうしたの…?」
そうだった、と思い出したように(実際に忘れていたのだろうが)懐から一冊の本を取りだした
「これを、届けに来たのよ」
わたしは、その本を受け取り表紙に書かれている魔文字を目で追った
ーグリモワールー
高度な魔術書だった。それこそ、世界に数冊しかないと言われている希少価値の高い本
もちろん、わたしも喉から手が出るほど欲しがっていたものだ
「これっ、一体何処で……?」
「もちろん、あなたの為に幻想郷中を駆けめぐったのよ、感謝しなさい?」
レミィが赤い舌をぺろりと出して小悪魔っぽく微笑んだ。いや、本当に魔族なのだが……
「……なんてね………」
ふっ、と彼女の微笑みから悪戯っぽさが消え、彼女にしては珍しく、少しだけ複雑な表情になる
「……これ、この間拾ってきた人間の子供が捜して来ちゃったのよ。実は、最初から紅魔館にあったものなんだけど、パチェと会う前に無くなっちゃってね。ほら、私は本に興味なんか無かったから……適当に扱ってたし。……って、ちょっと、パチェ!そんな怖い顔で睨まないでよ」
わたしは気付かない内にレミィを睨んでいたようだ。と言うかそれは当然だろう。わたしのように本をこよなく愛する者にとって、本を無下に扱われることは侮辱以外の何者でもない。だから、例え友人とはいえ、レミィのとった行動は許される筈がない
「だから、悪かったってば、私がこうして頭を下げるなんて滅多に無いわよ。だから、ね、結局見つかって、こうしてパチェの手元に来たんだし……それで良しとしましょうよ」
確かに、彼女がこうして素直に謝罪する事はほとんど無い。それだけ、自分の非を認めている
ということなのだろう……仕方ない
「……分かったわよ……。こうしてわたしの手元にグリモワールが握られる日が来るなんて………いつかは来ると思ってたけど、まさか今日、叶うなんてね」
わたしはそう言って手の中に納められている分厚い本に頬を擦り寄せた。少しざらついた感触と、皮独特のヒヤリとした感覚が頬に伝わる。
本ばかり見ているわたしは、腕力が無く、少しばかり重かったが、それよりも喜びが大きかった
「…………………幸せそうね……パチェ……」
その言葉にわたしは、ハッと気付いて顔をレミィに向けた。彼女は少し困ったように眉を寄せながら、苦笑いを浮かべていた……
「…………っ、こほん。それで、この本は、十夜が捜してきてくれたのね?」
自分でも分かりやすすぎる位強引に話題を変えていた……少々、自己嫌悪に陥る
レミィも、くすくすと笑っていた。……恥ずかしい………
「………もう、笑い過ぎよ、レミィ!それで……」
レミィは、まだ少し可笑しそうに笑っていたが、話題転換に乗ってきてくれた
「えぇ、そうよ。あの子が今日の昼間、倉庫の中を探検してて偶然見つけたそうなの。それで、『この本、パチュリー様にあげてもいいですか?』って私の所に走り込んできたのよ。わたしはその時、体が小さかったからあの子も驚いていたようだけど………『レミリア様ですか?』なんて訊かれたわ。まぁ、別に良いけど……」
そう、彼女は吸血鬼。一般的な吸血鬼よりも能力が高いために日中でも力が下がることは無いが、その代わりに姿が………今、目の前にいる姿よりも更に幼くなってしまうのだ。十夜はそんなレミィの姿を見たのだろう、驚くのも無理は無い……
「それにしても、レミィ、あなた。よく、十夜の血を吸わないわね……あなた確か、人間は全て食料として見てるんじゃなかったの?まぁ、例外は咲夜の時もだけれど……それに、小さい時の姿は咲夜にも見せないのに、十夜に見せて良かったの?」
「私が血を吸うのは、私を畏れる者の血だけ。前に言わなかったかしら?……あの子には、私を畏れる気持ちが微塵も無いの。それに、小さいときの姿を見られて平気だった訳じゃないわ。やっぱり、腹は立った。でもね、……あの子、その本を私の前に差し出して、パチェにあげてもいいか、なんて笑顔で訊いてくるものだから、そんな気にもならなかっただけ。………あなた、かなり気に入られたみたいね。……それに、あなたも随分あの子の事気に入ってるんじゃない?毎日のようにあの子が遊びに来ても嫌がる素振りが無いじゃない?」
気に入っている……?わたしが?十夜を?
「確かに、一緒にいて悪い気はしないわね。不思議だけど……」
「それが気に入ってるって言うのよ。あなた、今まで自分以外があの図書館に入るのをすごく嫌がってたじゃない?なのに、あの子だけはすんなり受け入れられた……それが証拠でしょ」
そう言って、レミィは、図書館に入ってきたときに見せた複雑な表情をまた見せた
そうなのかしら?わたしは、あの子の事を気に入ってるの?
…………………良く、分からない………
「まっ、あの子にあったらお礼でも言っておきなさいな。明日にはまたここに来るでしょうから」
そういえば……今日は十夜の姿を見ていない。昨日別れ際に『明日も来ます』と言っていたのに………
「あの子が今日ここに来なかったのは、単に騒ぎ疲れて寝てるだけよ。本当は自分で渡したかったんでしょうけどね。面倒だけど、私が持ってきたのよ」
わたしの心を読んだようにレミィが答える
「顔に書いてあるわ」
そう付け加える
「じゃあ、用事はそれだけだから、私はそろそろ館に戻るわ。あんまり遅くなると咲夜に怒鳴られるし………」
それだけ言うと、レミィは出口へと向かって歩き始めた。わたしは、人間の従者に怒られる魔族の主の図式を頭の中で想像してしまい少しだけ笑って、彼女の後ろ姿を見送った
「ありがとう…十夜」
いつものように隣で本を見ている十夜に向かってわたしはそう告げていた
翌朝、十夜は朝一番で図書館に来て昨日は来ることが出来ずにすみませんでした、と頭を下げてきた……
以前のわたしなら、『別に……』なんて突き放すように言っていた筈なのに……そうは、答えなかった……
十夜がわたしの側に居ることが、嫌では…ない。そう、思えるようになってきていた
だから、普段の、いや、今までのわたしであれば決して言わなかった言葉がついぽろりと口から滑り落ちる……
「いきなりどうしたんですか、パチュリー様」
十夜はきょとんとした顔でわたしの顔を見上げる
気付かないのだろうか……?今、わたしが手に持ち、読んでいる本は『グリモワール』……昨日あなたが見つけてくれた物なのに………
「……………?、あっ、その本!」
ようやく気が付いたようだ……
「なんだー、パチュリー様、その本持ってたんですかー?」
はっ?持ってた?
「実は、昨日お屋敷の探検してたらそれと同じ本を見つけたんですよ。それで、パチュリー様にあげようと思って、レミリア様にあげてもいいかって訊きに行ったんです。でも、その後、すごく眠くなって、部屋で寝て起きたら、その本無くなっちゃってたんですよ。でも、パチュリー様が持ってたのなら、必要なかったですねー。ちょっと残念だな……せっかく、パチュリー様が喜んでくれると思ってたのに……」
この子……本当に気付いていないの…?
「………あのね、十夜………これ、あなたが捜してきてくれた物よ?」
その言葉に、十夜が「ふぇ」っと間抜けな声を出してわたしの顔を見た
「えっ、で、でも僕、昨日パチュリー様に会いに来てませんよね?なのに、なんでパチュリー様が僕の探してきた本を持って……えぇっ、なんで?」
どうやら、レミィは十夜が寝ている時にこっそり持ってきたんだろう………
「昨日の夜中に、レミィがわたしの所に持ってきてくれたのよ。きっと、寝ているあなたに気を使ってくれたんでしょうけど………」
「なんだ、そうだったんですか?じゃあ、それは僕の探してきた本なんですね?……良かった。……でも、折角だから僕が渡したかったのになー」
「大丈夫よ、その気持ちだけでもすごく嬉しかった。だから、ありがとうって言ったの。この本は、すごく貴重な本なの。わたしもずっと欲しかった本なのだから、ね」
そう言うと、十夜は嬉しそうに顔を綻ばせて、少し照れくさそうに顔を俯けた
十夜のそんな顔を見ているわたしも嬉しくなって、少しだけ口元を緩めた………
「パチュリー様、どうぞ。冷めないうちに飲んでくださいね」
咲夜がわたしの前にあるテーブルに暖かな紅茶を置く。わたしは、本を片手にカップに手を伸ばし、口に運ぶ。鼻孔をくすぐる香りが心地良い。咲夜が淹れてくれるお茶はいつも美味しい……言葉にはしないけれども……文句の付けようもない
「あの、恐れ入りますが、パチュリー様。今日、十夜はまだ、ここに来ていませんか?」
咲夜が尋ねてくる……
「いいえ、今日はまだ来てないわよ」
十夜がいつもここに来る時間は過ぎているが、少しくらい遅れる事は時々ある。元々約束して来ている訳ではないのだから……
「そうですか…では、おかわりは止めておいた方が良いですね……そう。じゃあ、これから来るのね。あの子…」
最後の言葉は、ほとんど聞こえない程の小声になっていた。
咲夜は、少し悪戯っぽく微笑んでいる…
「…ちょっと、どういうことなの、咲夜」
わたしのその言葉に、咲夜は自分の薄い唇に指を当て、『内緒です』、と答えると、そそくさと図書館を出ていってしまった…
「なんなの、一体…?」
いつもと違うメイドの態度に、少しばかり戸惑った……
それから、数十分後……
それまでと変わらずに本を読んでいたわたしは、何かの臭いに気が付いた…
何だろう、この臭いは……?独特な、豆を煎ったような鼻腔をくすぐる香ばしい香り…
臭いが流れてくる方向に顔を向けると、そこには十夜が立っていた。その手には銀色のトレイを持って………トレイの上にはコップが二つ。いつも、咲夜が淹れてくれる紅茶を入れるようなカップではなく、円柱に取っ手のついたコップだった。十夜は、それの中身をこぼさないように慎重にわたしのいる場所まで持ってきて、一つをわたしの前に、一つを自分の前に置いた…
「…今日は、少し遅くなっちゃいましたね。すみません」
わたしは、十夜の声に返事を返さなかった。無視したわけではない、目の前に置かれた飲み物に集中していただけ…
「………十夜、これは…何?」
目の前に置かれた真っ黒な液体、そこから立ち上る香しい香り。見た事もない物体だった
「あっ、やっぱり知りませんでしたか。……これは『コーヒー』っていう飲み物です。レミリア様に連れてこられるまで、あっちの世界では僕が好きな物でした。もっとも、これを飲むと夜にあまり眠れなくなるので控えてましたけど……どうしても、飲みたくなって咲夜にお願いしたんですよ。そしたら、わざわざ人間界まで調達に行ってくれたらしくて。で、昨日レミリア様にも飲んでもらったんですが、『苦っ』って言って嫌がられてしまったんですよ……それで、今日はパチュリー様にも飲んでもらおうと思って持ってきたんです。咲夜が、『パチュリー様は紅茶しか飲まれないから、きっとコーヒーなんて見たことも無いでしょう』って言ってたから」
確かに以前、人間が読む本で見たことがある。コーヒー豆というのを煎って砕き、それを熱湯
で濾して飲む物だと書いてあった。が、実際に見るのは初めてだった
「で、わたしはこれを飲めばいいのね?」
十夜は、ニコニコしながら元気に『ハイっ』と頷いて見せた
正直、少し抵抗がある。確かに、この香りは良いが、問題はこの色だ。コップを手に取り、中を覗いてみた。………底が見えない……コップの中には漆黒が広がっている
横目で十夜の様子を見てみる。わたしの顔をじっと見つめている…飲むしかないようだ……
……全く………純粋なのも、罪よね……
「……分かったわ」
わたしは意を決してコップを口元に運ぶ。噎せ返るような香りの洪水が鼻腔に流れ込んで来る。液体を口の中に流し込み、黒い液体を味わう
「……ぐっ、けほっ、けほっ……何これ!すごく苦い!」
一口飲んだ瞬間、わたしは噎せてしまった。普段飲んでいる紅茶とは味が違いすぎる。舌を刺すような強烈な苦み………レミィの反応が身に染みて良く分かったわ……
「えー、やっぱりパチュリー様も駄目ですかー?」
そう言って十夜は、自分のコップの中身をコクコクと飲んでいる。
「あなた……苦くないの?」
「はい、僕は砂糖を結構入れてますので」
「…………少し、あなたの方を飲ませてくれる?」
十夜は、はい、と自分のコップをわたしに渡してくれる
『コクッ』
一口飲んでみる
口に含んだ瞬間に広がる心地良い香り、適度な苦み、そしてその苦さを洗い流すような適度な甘味……
「…………美味しい……」
口から素直な感想が出た。
「でしょう?コーヒーは美味しいんです。なのに、レミリア様ったら、『私の口には合わないわ』って言ったんですよ?」
十夜は、不満をこぼしながらも、わたしが美味しいと言ったことに対して嬉しそうだった
「…でも、十夜、なんでさっきわたしに渡した方には砂糖を入れてくれなかったの?苦いのは分かってたんだから……」
「えっ、だって、咲夜が、『大人はコーヒーには砂糖は入れないでそのまま飲むものなのよ』って言ってたから……パチュリー様は僕より大人だから、それでいいのかなって思って…」
成程………咲夜の一言でわたしはこんな苦い物を飲む羽目になったのね……後で覚えておきなさいよ……術の一つでも喰らわせてあげるわ…
そんな暗い考えが頭をよぎる……わたしの顔を見ていた十夜が少し怯えた顔になったのが横目で見えた
「あのー、パチュリー様…………?」
その言葉で、わたしは我に返った。
「あの、笑った顔がなんというか、いつもと違って…怖いんですけど」
「……ああ、ごめん。ちょっとね、考え事をしていただけだから、気にしないで」
どうやら、咲夜の事を考えてる内に微笑していたらしい……
それで、十夜を怖がらせてしまったことは、反省するとしよう……
それにしても、この、コーヒーというのはなかなか美味しいものだ(もっとも、砂糖が入っていればだが)
「……ねぇ、十夜。今度から、あなたがこのコーヒーを飲む時は、わたしにも淹れてきてくれるかしら?毎日紅茶でも悪くないけど、コーヒーもたまには飲んでみたいわ。あっ、もちろん砂糖入りでね」
少し怯えた表情のままだった十夜の顔がその言葉で輝いた
「本当ですか、パチュリー様?」
わたしは、首を縦に振った
「えぇ、お願いするわね、十夜。…あ、先にも言ったけど、必ず砂糖は入れてね。あんな苦い物は二度とごめんだから」
わたしは心の中で『わかってるでしょ?』と付け加える
十夜はわたしの目を見つめた後、『分かりました』と、笑顔で返事を返すと、いつものようにわたしの隣で魔術書を読み出した
わたしと十夜の間に穏やかな空気が流れる……
十夜と出会って一ヶ月しか経っていないのに、ずっと側に居てくれたような感じがする……
彼が側にいてくれれば、何となく暖かな気持ちになる
長い間生きているが、こんな気持ちは……初めてだった
レミィと一緒に居るときの感じとは違う
彼女と一緒に居る時と、どこが違うのかを訊かれても答えることは出来ないが、確実に何かが違う
……自分の気持ちが分からない事が、こんなにもどかしいと思ったことは無かった……
『知識の魔女』と呼ばれるわたしにも、分からないことがあるのだと教えられた……
……目の前の幼い、人間の少年に……
-少し……悔しかった-
あれから、5年の月日が流れた……十夜は相変わらずこの図書館に通っている。出会ったばかりのあの頃、わたしより低かった身長は、今ではわたしを遙かに越し、わたしが見上げなければならなくなった。顔も、少年のあどけなさは抜け、一人の青年に成長していた
やはり、人間の成長は早い……わたしなんか、たった5年じゃ、外見の変化が表れようも無いのに……
外見ばかりでは無く、精神面でも成長し、十夜は、長い間わたしと一緒に本を読んでいたせいか、魔術書に書かれている文字も読めるようになっていた。
「はい、パチュリー様。冷めないうちに飲んでください」
そう言って、十夜がわたしの分のコーヒーを目の前のテーブルに置いてくれる。漆黒の液に満たされたコップからは、ほこほこと湯気が立っている
「ありがとう、十夜」
コップを鼻に近づける。独特の香ばしい香りがする。普段飲んでいる紅茶とは趣が違うが、コーヒーの香りも、鼻腔をくすぐる、なんとも言えない、良い香りだ
こくりと喉を鳴らして、漆黒の液体を飲み込む…
「……ん、相変わらず美味しいわね、あなたの淹れるコーヒーは」
確かに、十夜の淹れてくれるコーヒーは美味しい。最初の頃は甘すぎたり、苦かったり味に統一性が無かったのだが、回数を重ねる度に上手くなっていき、今ではわたし好みの味をいつでも作り出せるようになった
「へへっ、もちろん。パチュリー様のために淹れたコーヒーですから。まぁ、もっともこの紅魔館でコーヒーを飲むのは俺とパチュリー様だけですからね………味のバリエーションも限られますし…」
十夜は少し寂しそうに鼻の頭を人指し指で掻いた後、自分の分のコーヒーに口を付けた
この5年の間に、十夜は『僕』という一人称から『俺』と言うように変わっていた。成長した姿には釣り合った一人称だが、わたし個人としては、『僕』であった方が、なんとなく気に入っていたのだが………
「……パチュリー様。今日はこれから暇ですか?」
コップに口を付けていたわたしに、十夜がおもむろに問いかけてきた
「……暇と言えば暇だし、暇じゃないと言えば暇じゃないわね…ここで本を読んでるだけだし………大体、あなたもずっとここに通ってるんだから、わたしの行動は分かってきてる筈じゃないの?」
「まぁ、そうなんですけどね……じゃあ、今日はこの後、読書は少しだけやめて暇にしませんか?」
珍しいと思った。今まで、十夜はこの図書館に遊びに来て本を読んで、わたしと話をして……帰るだけだった。なのに……その十夜の方から読書拒否ともとれる言葉が出るとは………
「………いいけど、どうするの?……なにかしたい事でもあるのかしら?」
「はい。パチュリー様と一緒に外に出てみようかなって思って。まぁ、早い話が散歩ですね。ほら、パチュリー様ってほとんどこの図書館から出ないじゃないですか。だから、今でも体力が無くて喘息の持病が治らないでしょう?」
「うっ……」
図星だった……わたしは、長い間この図書館から外に出てはいない……極稀に、所用をたすために館の外に出ることはあったがそれは短時間のことであって、運動とは呼べない程度の動きだった。十夜と出会った頃に患っていた喘息も未だに治ってはいない
「だから、これから少しずつでも運動しましょうよ、ね?俺も付き合いますから……運動して体力をつければ喘息なんてすぐに治っちゃいますって!………それに、…少し、話したい事もありますから……」
最後に十夜は甘えたような表情で『駄目ですか?』と付け加える………この辺りの表情は昔と何も変わっていない………ちょっと、ずるいような気がする
体格的にはわたしよりも遙かに屈強になっているのに、こういう時だけは可愛いなどと思ってしまう
「………仕方ないわね……その代わり本当に少しだけだからね……」
駄目……この笑顔には勝てない
「やった!だからパチュリー様は好きなんです!じゃあ、これから出ましょう。早くしないと夜の妖怪が活動する時間になっちゃいますから」
「はいはい……」
そう言って、十夜はわたしの手を握って、早く行きましょう、とわたしを引っ張った。握られた手の平から十夜の暖かさが伝わってくる………思わず鼓動が早まったが、十夜は気付かなかったようだ……
こほっ……
前を行く十夜が軽く咳をした…
「…風邪でもひいたの?」
少し気になり、尋ねるが十夜からは、『何でもないです』という答えが返ってきただけだった…
「うわぁ……見てくださいよパチュリー様。夕日が湖面に光ってすごく綺麗ですよ!」
十夜がわたしの方を振り返り、声を掛ける。
わたし達の紅魔館の敷地を離れ、館の近くにある湖に来ていた
「……えぇ……そうね……」
言葉をそこまで話すと、わたしは大きく一つ深呼吸をした……こんな短い距離で疲れるなんて……本格的に運動しようかしら……
「駄目ですよ、パチュリー様。いきなり運動したって体に悪いだけですから。少しずつ始めていきましょう。ね?」
「ええ、わかってるわ…………あ、十夜……あなた、またわたしの心を読んだわね……勝手に読心するのはやめてって言ったでしょ?」
言葉の中身とは反対に声の調子は少し笑っていたように思う
「そうでした、すみません」
笑顔で謝ってくる十夜……悪びれた様子は無いが、わたしも本気で怒ったわけじゃないので別段気にも止めない
「とりあえず、一休みしませんか、パチュリー様?疲れたでしょう?」
そう言って、湖面の岸に腰を下ろす十夜。わたしも彼の隣に腰を下ろす……少し冷たい土の感触が、わたしの着ている着衣越しに伝わってくる……
「パチュリー様……今日出てきて良かったでしょう?こんなに綺麗な夕日が見れて…」
わたしの方を向きながら十夜が話しかけてくる
「……そうね、たまには……こんなのもいいかもね」
「そうですよ。こうして、散歩して綺麗な空気を吸っていれば、パチュリー様の喘息だってすぐに治ってしまいますよ」
「………だといいんだけれど」
そう言って、わたしは懐に持ってきていた本を取り出し、パラパラと捲り始めた
「あっ、パチュリー様ってば、本を持ってきてたんですか?今日は読書は休憩だって言ったじゃないですか」
そうだった…………いつもの癖で読み始めてしまった……
「まぁ、いいや………それで、パチュリー様…実は今日誘ったのは、話したい事があったからなんです。あっ、パチュリー様の健康の為にって事も本当ですよ!…………えっと、読みながらでいいから、ちょっと聞いててもらえますか?」
聞いてもらいたいこと……?本を読みながらで構わないから、と言われたので、わたしは視線を本に落とし、読み始めた
「俺、小さかった頃から言ってますけど………パチュリー様の事が好きです。冷たそうな態度なのにどこかで暖かい言葉を掛けてくれたり………無愛想に見える表情なのに、俺に笑いかけてくれるほんの少しの笑顔だったり………子供心に、家族みたいな感じだなって思って……そんな感じで好きだったと思うんです」
わたしは、本を読みながらで良いと言われたが、いつの間にか本から目を離し、十夜の顔を見て、話を聞いていた………
「……けど、ちょっと前から……以前とは違う感情が自分の中にある事に気付いたんです……パチュリー様の側に居ると、嬉しいけど、苦しい……話をしていると、楽しいけど辛い……俺は、パチュリー様の事は大好きだけど、パチュリー様はどうなんだろう……?……そんな事を考えると、段々と不安になってきたんです………パチュリー様の事を考えると、夜もあんまり眠れなくて………」
わたしは、十夜の話をそこまで聞いて、昔読んだ本の一節を思い出した………確か、あれは人間界の書物だったと思う……確かタイトルは『人間の感情』とかいう本、だったと思う……
そこには、恋や愛などといった人間の感情の事が記されていた………魔族であるわたしには、関係の無い話だと思い、それきり興味が無くなっていたのだが………十夜の言葉で思い出した……あの本に書いてあることが間違いでなければ……十夜の今の気持ちは……間違いなく、わたしに対する『恋心』……
わたしは、『恋』という言葉の意味を思い出してみた……
確か、『異性を愛し、慕うこと』……
そして、『愛』とは、『男女が想い合うこと』……
つまり、十夜はわたしを異性として…女性として好きだということになる…………
「……十夜……その事自体は大した問題じゃないわ……健康面で身体に問題があるわけでもないし………あなたは、わたしの事が『好き』、けれども、小さかった頃の『好き』とは違うから、戸惑っているだけ………今のあなたの気持ちは、わたしの事を女性として『好き』って言う事なのよ…」
わたしも、十夜の事は嫌いではない……彼が幼い頃から、側に居たのだから彼の色々な面を知っている……それらを全て知った上で今まで一緒に居たのだから…………
けれども、わたしの気持ちがその言葉に合っているのか?と考えると………よく、分からない……
……そもそも……
「……でもね、十夜………気持ちは嬉しいけど……あなた、忘れてない?……あなたは人間で、わたしは魔族……種族が違うの…………例え、気持ちが通じ合っても、近い将来どうする事も出来ない別れが来る……寿命が違いすぎるの……あなたは、人間の女性と結ばれた方が幸せだと思うのだけれど…」
そこまで、話して…わたしの胸がちくりと痛んだ……………何故…?
ちらっと十夜の方を見ると、彼は少し思い悩んだ表情で俯いていたが、突然わたしの目を見て………そして、ゆっくりと溜息を吐いた……恐らく、わたしの心を読もうとしたのだろうが…そんな事をしても無駄だったのだろう……自分の気持ちが、わたし自身にもよく分からないのだから…………
「……分かりました………ごめんなさい、なんだか変な話をしてしまって…………そろそろ、戻りましょうか?……もうこんなに暗くなっちゃいましたし……」
十夜の言葉に周りを見渡すと、先程まで茜が支配していた景色は既に無く、代わりに深い紺が支配する夜がもうすぐそこまで迫っていた……
十夜は、地面から腰を離すと、動こうとしないわたしの方に手を伸ばして引っ張り起こしてくれた……そして、わたしと十夜は、少し離れて歩きながら紅魔館への道を引き返していった……
わたしは彼の少し後ろを歩きながら、彼の背中を見ていた。………わたしよりも、遙かに大きい筈の背中は、いつもより………小さく見えた………
こほっ
帰り際、もう一度、十夜が乾いた咳をした……
あれから、数日……十夜は図書館に顔を出してはいない……
以前なら毎日のように、ここに来ていたのに…………
「……最近、あの子と…なにかあったのですか?」
わたしのすぐ横に来ていた咲夜が、紅茶の入ったカップをテーブルに置きながら尋ねてくる
「………特に何も無かったと思うけど……」
何も、無かった訳じゃない……けれど、わたしはそう答えるしかなかった……
「最近あの子、部屋から出てこないんです……食事にもほとんど手を付けてない様子でしたし…………それで、プライバシーを侵すことを承知のうえで、時間を止めて様子を見に行ってみたんです……………あの子、机の上に突っ伏して………手紙を書いてたみたいでした。その手紙の隅に小さく『パチュリー様へ』って書いてあったので、何かご存知では無いかと思ったんですが……」
手紙………わたしに何かを伝えようとしているのだろうか……
「……分かったわ…………何があったのかは知らないけど……ここに来たら訊いてみる」
『お願いします』と一礼をして咲夜は図書館を出ていった。ちゃんと育ての親の自覚はあるようだ………幼かった頃の十夜のやんちゃ振りに手を焼く咲夜………少し想像してみて可笑しくなり、微かに口角を上げて微笑むわたしが居た……
同時に、十夜の現在の状況を考えると、少なからず胸にチクリとくる物がわたしの中にあった
それからわたしは、昔と変わらない生活に戻った……
咲夜が図書館に来てから、この図書館には誰も近寄る事は無かった……
5年前と……十夜がこの館に来る前と何も変わる事の無い生活……
あの頃までは当たり前だった、一人だけの生活……本と寝食を共にする生活………
そう…当たり前だった………
………はず、なのに……
一人きりの図書館が、何故か非道く広く見える……
「‥………………………………」
読んでいる本に、ぽつりと水滴が落ちる……水滴が落ちた部分の紙が、水分を吸収し色が変化していく……
………それは、自分の双眸から流れている涙だと気付いた……
「……何で………」
図書館の広大な空間にわたしの小さな声が響く
「…………なんで……こんなに、寂しくなるのよ…………なんで、こんなに悲しくなるのよ!……今までと同じ、一人に………戻っただけ、なのに…」
わたしは、涙を止めようとしたが……次々と溢れ出る雫は、堰をきったように止められなかった……
「………今までは一人で平気だったのに…………ほんの少しの間、十夜がここに来てないだけなのに……」
いつからか……わたしも、十夜の事を特別だと考え始めていたのだろうか……?
わたしも……十夜と同じ気持ちを抱えていたのだろうか……?
そう考え始めた時だった……
「………パチュリー様……」
不意に、閉められた図書館の扉の向こうから声が聞こえた
しばらく振りに聞く十夜の声だった……
「……少し…話したい事が、あるんですが………今、いいですか?」
「……別に閉めてる訳じゃないから、入ってくればいいわ……」
この間までとは全く違う、他人行儀な十夜の態度に、少し怪訝に思いながら、わたしは入館を促した。……そう言った後に、さっきまで泣いていた涙の跡を袖で拭い取った
「……失礼します……」
そう言って入ってきた十夜の手にはコップの乗ったお盆があった……恐らくコーヒーを持ってきたのだろう……
………彼の淹れてくれたコーヒーを飲むのは久しぶりだ…
「…どうぞ……」
十夜のその言葉に、わたしは無言でコップに口を付ける……
以前と変わらない味が、口の中に広がる……
…コーヒーを飲みながら十夜の方を見ると、彼は自分のコップには口を付けず、黙って下を向いて俯いていた…
「……それで、話って…何?」
わたしは、口からコップを離し、用件を話すように促す……
「……………」
十夜は答えない…
「…十夜……」
「………………」
彼の名前を呼んでも返事は無く、気まずい空気が2人の間に流れる…
「………………」
「………………」
「………………」
「……話したいことがあってここに来たんでしょう…?」
沈黙に耐えきれなくなったわたしが再び口を開く
十夜は、何も言わずに自分のポケットの中から一枚の便箋を取り出してわたしの前に置いた
表面には丁寧な文字で『パチュリー様へ』と書かれている
この間、咲夜が話していたのはこの事だろう
わたしは、その便箋を受け取り、再び本に視線を落とす……
「……‥‥後で読ませて貰うわ………用件はそれだけ?……なら、早く出ていってくれないかしら……読書の途中だから……」
自分の心とは正反対の言葉が口から紡がれ出る。
……なぜ?……今すぐにでも自分の心の内を十夜に……伝えたいたいのに……
なんで、この口は思ってもいない事を話してしまうの……!!
「……分かりました………失礼します……」
十夜はそう言って、わたしの飲み終わったコップと、自分の口を付けていないコップをお盆に乗せ、軽く会釈をして図書館から出ていこうとした
わたしは、『そんな事を言いたかったんじゃない』と言いたくて、彼の姿を目で追っていた……
そして、視界の隅に彼の姿を捉えたとき、違和感に気付いた…
彼の立っていた場所の横にある本棚の陰から、何か得体の知れない気配を感じたのだ
その気配は人の型を模して具現し、わたしと十夜の間に降り立った
存在の意識はわたしには向けられていない……………十夜!
「十夜!!」
わたしの声に気付き、振り向いた十夜の手首をその存在が掴んだ
その反動で、十夜が持っていたお盆とコップは支えを失い床に落ち、乾いた音が響く…
「!」
驚いた表情で固まっていた十夜の身体が、次の瞬間には影のような存在によって宙を舞い、わたしの足元まで飛ばされ、転がった……
「くっくっく、こんな場所で人間に会えるなんてねー……ここにあると言う貴重な書物でも戴いてやろうかと思って来てみたけど……思わぬ収穫だわ。今日の夕餉にでもしようかしら…?」
影のように見えた存在が一歩ずつ図書館内に入ってきて、内部の明かりに照らされ、その姿をわたし達の前に晒した
黒い髪、黒い服、赤黒い肌、闇がそのまま形を成したような存在……表情は長い前髪のせいで読めなかったが、口元は口角を上げており、傍目にもはっきりと笑っていることが分かった……
「……あなた……誰…?………ここに、何しに来たの……?」
十夜を抱き起こしながら、視線は鋭く、黒い存在に向けたまま尋ねる。
十夜はわたしの腕の中で頭を振りながら起きあがった。少し肩を打ったらしく、右の肩を押さえている
「おっと、これは失礼……私の名前は『闇鬼(あんき)』……闇に住まう妖怪よ………以前から、ここの書物の話は聞いていてね。蒐集家としては放っておけなくて、こうしてお邪魔したってわけ……」
闇鬼と名乗った妖怪は、くすくすと笑いながら答える……その態度がわたしの神経を非常に逆撫でする……
……わたしは、怒っていた。それこそ、今までこれ程の怒りを自分で感じたことが無いほどに……
わたしの大事な本達を奪いに来たことに関してもだが………それよりも…
「……あなた……さっき、十夜を見て夕餉と言ったわね……それに、十夜に対するこの仕打ち………決して許せる事では無いわ!!」
自分でも信じられないほどの大声を出していた
確かに、わたしとて魔族の端くれ、人間を快くは思ってはいない……人間を襲う妖怪の仲間なのかも知れない………いや、実際人間を襲う存在が身近にいる……レミリアだ。………彼女は吸血鬼、生きるために人間を襲う場面も実際に何度か見たことはある……しかし………
………十夜だけは別だ!……目の前で、自分にとって特別な存在を食材として扱われることに対してだけはどうしても許せなかった…………そう、わたしにとって、十夜はいつの間にか特別な存在になっていた事を、こんな場面に遭遇して、ようやく認識出来た……
「……十夜?……あぁ、そこの人間の事ね。…あなた……そんな人間と仲良くやってるのかしら?……仮にも魔族が人間に惹かれるなんて、恥ずかしくないのぉ?」
「あなたには、関係の無いことだわ……さぁ、早いところ帰りなさいな……これ以上、十夜を侮辱すると……どうなっても知らないわよ………?」
お互いに向き合う形になり、睨み合う……
脅しではない……わたしは手の中で、魔法の軌跡をなぞり、いつでも魔法を発動できる状態になっていた。……赤い光の奔流が渦を巻いて発動の時を待っている
わたしの意識は、完全に目の前の闇鬼に注がれていた……だから、背後から忍び寄ってくる気配に気が付かなかった……
「パチュリー様、危ない!」
わたしは、わたしが抱えていたはずの十夜に突き飛ばされる形で闇鬼から遠ざけられた……
わたしの手の中にあった光の渦は、わたしの制御を離れ、空中に霧散して掻き消えた……
そして、わたしが一瞬前まで居たはずの空間にいた十夜の右足に、大きな裂傷が出来ていた……
「くぅっ……」
「十夜…!」
足を押さえ、うずくまる十夜に駆け寄り治癒の魔法をかける。わたしの専門は精霊魔法の類なので効き目は薄いだろうが、幾分か楽にはなるだろう……ふと、十夜の足元に目をやると、黒い影が蠢きながら揺れている……その影の先を辿ると……闇鬼の足元に繋がっていた…
「ちぇー、外しちゃった……せっかく上手くいくと思ったのになー」
そう話す闇鬼の足元から長く伸びた影が、彼女の方に戻っていく…
「まぁ、もうばれちゃったと思うから言っちゃうけど、私は影を操ることが出来るの。他にも能力はあるけど、今はこれ以上言わなーい」
闇鬼は笑顔を絶やさないまま説明する…
恐らく、十夜はわたしと闇鬼の睨み合いの最中に、彼女の心を読んでいたのだろう……
そのせいで、わたしを庇ってこんな目に……
「ごめんなさい、十夜……わたしがあいつの動きに気付いていれば、あなたがこんな目に遭う必要は…………」
十夜の足の傷は、出血は止まってきたが、痛々しい傷跡がまだぱっくりと口を広げていた……
「いえ、気にしないでください、パチュリー様……大した傷じゃないですから……」
わたしが心配しないようにだろう…十夜は青ざめた顔で、笑顔を作って答えた
とても大丈夫そうには見えなかったが、とりあえず出血は止まっていた事と、十夜が『大丈夫』と言ってくれたので、意識を闇鬼の方へと向け直す。戦いはまだ終わったわけでは無いのだから
「あなた…よくも、十夜を!………絶対に許さないんだから!!」
「あら、わたしはあなたを狙ったつもりだけど?」
「うるさい!」
わたしは、闇鬼の飄々とした態度に苛つきながらも、術の詠唱に入る
わたしが呪文を唱え、スペルを中空に描くと図書館内の温度が明らかに上昇し、空間が揺らぎはじめる……
「…燃え尽きなさい……『火符 アグニシャイン』!!」
術の名を叫んだ瞬間、人間の頭部程もある火球が無数に浮かび、次の瞬間、ゴゥッと音を立て全ての火球が闇鬼の方向へ向かって飛翔する
そして、アグニシャインの火球が闇鬼に辿り着くと巨大な炎の固まりとなり、大爆発を引き起こす
「ふん……偉そうにしてたくせに、他愛ないわね……」
闇鬼が爆発を避ける姿は見えなかった……あの爆発力なら、並の妖怪は耐える術を持たない筈……わたしはこれで終わったと思った……
「さあ、十夜。…あなたの傷の手当てをしましょうか……」
そう言って十夜の方を向いた時、背後に気配を感じた
再び闇鬼のいた方向を振り返ると、目の前に、闇鬼が先程と変わらない様子で立っていた
(そんな……一体どうやって……!?)
彼女の口元がニヤリと歪んだ、次の瞬間、彼女の手の中に黒い光の固まりが生み出される
「!」
「パチュリー様!!」
魔法を防ぐ障壁を張るには、とてもではないが時が間に合いそうもなかった…
わたしは、相手の術を素手で受け止める覚悟を決めて、両手を身体の前で交差させる体勢になり、目を閉じる……ただでは済みそうに無かったが……
しかし、いつまで経っても攻撃がわたしに届く気配はない……
不思議に思い、目を開けてみると………目の前に十夜が立っていた…
十夜の周りに、赤い光の障壁が展開されており、闇鬼の術はその障壁によって霧散していた
「……へぇ、あんた、人間のくせに障壁を張れるんだ……」
闇鬼は驚いていた…先程までの笑顔が消え、少し意外そうな表情になっている
わたしも、正直驚いている……何故、人間の十夜に障壁を張る能力があるのだろうか…?
「ふん、見くびって貰っちゃ困る……伊達に、魔法図書館に入り浸ってないさ…こほっ……」
(残念ながら、攻撃するような術は使えなかったけどね)と、十夜は付け加える
成程……確かに、十夜は長い年月を掛けて魔術書の文字を読めるようになっていた……
更に、わたしと一緒に図書館で過ごす内に、この図書館自体の魔力が少しずつ彼に浸透していって、魔術が使えるようになっていても不思議ではない…
「さぁ、パチュリー様!あいつの攻撃は俺に任せて、パチュリー様は術の詠唱に入ってください!」
そう言うと、十夜は両手を前に突き出し、再び障壁を先程よりも広く、厚く展開する
言葉では強気を保っているが、その表情は赤みを失い、息も荒くなってきている…
「ふふっ、…ただの人間にしては頑張れるみたいだけど……た・だ・の・人間が、魔法なんか使ったらどうなるか分かってるのかしら?」
闇鬼の言うとおり、普通の人間が魔法を使おうとすれば、体にかかる負担は計り知れない… ましてや、今の十夜は、先の闇鬼の攻撃で傷を負っている……無事でいられるわけがない……
「…………大丈夫ですよパチュリー様…自分の限界は自分がよく分かります。あいつの攻撃程度なら、この障壁で防げるはずですから……それに、パチュリー様を守る為なら、俺は命を懸けてでも………」
どうやら、十夜はまたわたしの心を読んだようだ……わたしは、あなたに守ってもらえるような存在なのかしら……あなたに自分の気持ちも伝えられない様なわたしが……
「………分かったわ…お願いね………」
だが、十夜がそこまで決心しているなら、わたしが何を言っても無駄だろう……ならば、彼の負担を減らせるように、少しでも早く、あいつを倒してしまえば良いだけのこと……わたしはそう考えて、彼の進言を呑んだ……
わたしは、術の詠唱を始めるため、目の前で印を組んだ
それと同時に、闇鬼も攻撃を開始する
闇を切り取ったような黒球が一つ・二つ・三つ……無数に思えるほどの弾幕が闇鬼の周りに形成される……
次の瞬間、凄まじい速度で弾幕がわたし達を押しつぶそうと襲いかかってくる……
ドンッ!!
初弾が十夜の障壁に当たり、霧散する
……そこから後は、弾が障壁に当たって砕ける音が響くだけだった……障壁は、無数の弾の衝撃によって少しずつ押されてきている…辺りは霧散した弾の塵で灰色に曇っていた
弾幕の勢いが治まってきた頃、わたしの術が完成した
「……今度はこっちの番よ!行きなさい、『風&水符 ウォーターエルフ』!!」
わたしは術を完成させ、発動させる
一陣の風が地を這いながら疾走し、周りに漂っている灰色の煙を払って闇鬼へと向かう。
風は大気中の水分を巻き込みながら直進し、そのまま標的に激突する。瞬間、巨大な竜巻へとその姿を変え、闇鬼の姿を飲み込んだ……
「……火が駄目なら水よ………これで、どう!?」
灰色の煙が晴れ、闇鬼の居た場所には、何者も存在していなかった…
「…………ふう、今度こそ倒せたようね……」
わたしは、安堵の溜息を一つ吐くが、十夜は未だに障壁を解こうとはせずに、闇鬼の居た場所を睨み続けている
「どうしたの、十……」
「…んふふふ、やっぱりあなたには分かっちゃうみたいねー。ざーんねん…」
何も無い、とわたしが思い込んでいた空間から声が響いた……いや、何も無いわけでは無かった……地面に影が一つ、くっきりと存在していた………
その影から、すぅっと闇鬼の頭が出てくる……いや、頭だけじゃない、首・肩・胸・腰・足と続けざまに闇鬼の体が影から生まれるように出てくる……
「見ての通り。わたしは影の中に身を潜める事が出来るの。あなたの最初の術も、影の中から見させて貰ったわー。あなたの術、凄まじい威力だけど、当たらなければどうと言うことは無いわね、ふふっ……………けど……」
話している途中で、闇鬼の視線が厳しく十夜を射抜く…
「……そっちの人間がよく分からないのよ……あなた、なんで私の事が分かるの?……私の能力を知ってる奴なんかほとんど居ないはずなのに…あなたは私が影に隠れている事を、最初から分かっていたかのように、障壁を張り続けた……どういうこと……?」
十夜は、『答える必要は無いね』と、答えただけだったが、そこで、闇鬼の顔に少しだけ笑みが浮かんだ…
突然、闇鬼が腕組みをし、黙ったまま十夜を見つめる
「…なんだと!貴様、パチュリー様を侮辱するつもりか!?………っ!」
数秒間、2人が見つめ合った後、突然十夜が叫んだ……次の瞬間、しまった、という表情になる
「くっ、あははははっ、やっぱりね。…思った通りだったわ」
十夜の叫びを聞いた闇鬼が笑い始める
「あなた………人の心が読める『異端者』ね?……なるほどー、だから私の動きも読めたって言う訳ね………」
そうか…恐らく闇鬼は、心の中でわたしの悪態でも吐いたのだろう……そして、それを読みとった十夜は思わず叫んでしまった、…………聞こえる筈の無い『心の声』に反応して……
「そういう事なら………力でねじ伏せようと思ってたけど、私もこういう戦い方に変えさせて貰うわ!」
闇鬼が再び攻撃の態勢をとる。両腕を左右に広げ、広げた手の先に先程とは比べ物にならないほどの巨大な黒球を形成する黒球の中では、闇の刃が無数に駆け回っているのが分かった
……わたしも、術を組もうと詠唱を始める……十夜も、先程より更に高濃度の障壁を張っていた。……その表情は血の気を失い、冷や汗が吹き出していた。息使いも荒々しい………次で決めなければ、十夜の体は恐らく限界を迎えるだろう
「…さあ、喰らいなさい!私の奥義を!『陰府 インセクト サイズ』!!」
巨大な黒球がわたし達に向かってくる……十夜はそれを防ぐように障壁を前方に展開する……その様子を見て、闇鬼がニヤリと微笑んでいた……
その瞬間、十夜が目を見開き、障壁の全てをわたしの方へ飛ばして周りに展開する
「パチュリー様!!!」
「なっ!」
『何を!?』と言いかけたわたしを衝撃が襲う……わたしの背後に闇鬼の伸ばした影が迫っていた…一度だけでは無く二度、三度と障壁に攻撃を加える。だが、十夜の張った障壁は頑強で一切傷が付くことはなかった……だが、
「そう、この瞬間を待っていたのよ!」
今が好機とばかりに、闇鬼の放った黒球が十夜に迫り、そして………
「うああああああああああぁぁぁっっっ!!!」
「とおやーーーーーーーーーーーーーっっっ!!!!」
十夜の体が黒球に飲み込まれ、内部で駆け回っている闇の刃によってズタズタに引き裂かれる。皮膚が裂け、血を吹き出しながら絶叫する十夜……その体は力を失って前のめりに崩れ落ちていく………
障壁を全てわたしの防御にまわしたせいで、十夜は、生身の状態で闇鬼の術を喰らうことになってしまった。
徐々に黒球の色が薄れ、床に倒れ伏す十夜の姿が明らかになってくる……
体中が切り刻まれ、おびただしい数の裂傷が体を包む……自らの体液で出来た血溜まりに十夜の体は沈んでいた……
「あっははははは、やっぱりこうなったわね!本当に人間なんて情に脆いんだから。他人の、しかも魔族の女の為に命を懸けてどうなるって言うのよ!………まぁ、最後の断末魔は聞いてて気持ちよかったわよ。あはははっ」
さも満足そうに笑い声を上げる闇鬼を尻目に、わたしはふらふらと倒れ伏す十夜の元に歩み寄った
「…………十夜…?ねぇ、目を開けてよ………お願いだから……死なないでよ……」
わたしの双眸から涙が零れる……その涙を拭こうともせずに十夜の手を取り、体を揺らし続ける……と、十夜の手に僅かに力が戻り、十夜が薄く目を開いてくれた……
「…………パチュリーさま………けがは、ないです…か……?」
わたしは、涙で噎いで、声を出せないままコクコクと何度も頷いた…
「…………そう…ですか……よかっ…た………」
弱々しく口元を引き上げ、無理矢理笑顔を作ってみせる十夜…
「泣か、ないで……ください………おれは……パチュリーさま…を守れただけで……満、足なんです…か…ら……」
十夜は、倒れた状態のまま、わたしの目尻からこぼれ落ちている涙を指で拭ってくれた…ほとんど力が入らない筈なのに…
「あっ……少し、血が…付いちゃいまし……た…………………………………すみませんが、……少し、つかれたので休み………ます…………」
そう言うと、十夜は再び目を閉じ、二度と目を開けることは無かった。
体から完全に力が抜け、だらりとした感覚だけがわたしの腕の中に残される……
「い、いやあああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!」
十夜が死んだ……
十夜がしんだ……
とおやがしんだ……
とおやがシンダ……
とおやが………
とおやが………………………………………………!
その事実だけが、わたしの頭を駆け巡る……目の前の景色が色彩を失い、白黒の世界に見える。目の前で起きた現実が、遠い世界の出来事の様に感じる……
けれども………これは現実。目覚めることの無い悪夢……
「くすくす……あなたの叫び声も良いわねぇ……たかが、人間が一人死んだだけでしょう?どうしてそこまで悲しむのよ…?あなた、本当に魔族なのぅ?」
闇鬼がわたしの事を嘲笑しているが、そんなことはもう、どうでもいい……
もう全てがどうなってもいい……十夜が死んでしまったのなら、この世界自体がどうなったって構わない……!
「許さない………」
自分自身でも抑えられない負の感情が溢れだしてくる…………止められない……!
「……あなただけは……許さないんだからーーーーーーー!!!!!!!」
瞬間、全ての負の感情が暴走したのが分かった……怒り・悲しみ・憎しみ……そういったモノが私の中を駆け巡り……紫色の魔力がわたしの体から零れ出る
「『天高く燃ゆる紅蓮の炎、我にその力の一端を貸し与えよ。セントエルモの名において我の前に立ち塞がりし愚なる輩に噴騰の儀を与えん。その者、自らの業を背負い、永遠なる焔に灼かれ続けるであろう』!!」
普段であれば、喘息が邪魔をして唱えることが出来なかった術も一息の内に詠唱を終えてしまう……この術を使えば、この図書館もただでは済まないだろう…けれども、もう……止められない……
「天の劫火に灼かれるといいわ!!『日符 ロイヤルフレア』!!」
詠唱を終えたロイヤルフレアの火球は始めは火の玉程度に小さく、そして徐々に大きくなる……
「ふん、そんな程度の焔、私が畏れると思って?……掻き消してあげる!闇符………!…えっ!」
闇鬼がそこまで告げたとき、火球は爆発的に膨れあがり空間自体を眩い光の渦で包み込む
本棚を薙ぎ倒し、魔法図書館全体が凄まじい衝撃で振動する……
光は図書館の四方八方に広がり、闇鬼が操る影を全て消し去る……彼女が隠れ蓑に使っていた影さえも…
「くっ、こんな!?……あなた!この図書館ごと灰燼に帰すつもり!?……こんな大容量のエネルギーの術を使ったら、あなたの大事な本達も全部燃えちゃうのよ!?」
「うるさい、うるさい、うるさいっ!!!十夜の居ない世界なんて、全部消えちゃえばいいのよ!」
逃げ場を失った闇鬼は、狼狽えながら話すが、わたしは聞く耳を持たなかった……
「……っ!!!!!!!!」
闇鬼の体が光に飲み込まれ、悲鳴を上げる間もなく消滅していく……
徐々に光が弱まり、空間が色を取り戻していく……闇鬼の姿はもう、何処にも無かった……
残されたのは………
………爆発の勢いで薙ぎ倒された本棚……魔法でコーティングしてあるとはいえ、耐久以上の衝撃が加われば、やはり燃えてしまうようだ…図書館全体の三分の一程度の本が跡形もなく吹き飛び、消滅していた……
そして、足元の血の海に沈む十夜の姿………
わたしは、その場にしゃがみ込み、動かなくなった十夜の背中を、壊れた人形のように繰り返し撫でる……
「パチェ!何があったの!?大丈夫!?」
「パチュリー様!」
開け放っていた扉から、騒ぎを聞きつけたレミィと咲夜が飛び込んでくる……
図書館の惨状と、その中央で血溜まりの十夜を撫で続けるわたしの姿を見て、2人は驚愕していたが、すぐに駆け寄ってきて十夜を抱き起こす…
「パチュリー様!一体何があったのですか?」
十夜をその胸に抱え上げながら咲夜が尋ねる……けれども、わたしは答えない
「ごめんなさい……ごめんなさい、十夜…………わたしのせいで…あなたは……」
そう話しながら、静かに涙を流し続けていただけだった……
「パチェ……」
レミィがわたしの横に立つ
ぱんっ!
レミィの平手がわたしの頬を打った……そう、理解するのに一瞬の時間が掛かった……
「しっかりしなさい、パチェ!あなたが現実から目を背けても、何も解決しないのよ!何があったかは後から聞く……けど、今のあなたの言葉を聞く限り、十夜があなたを庇ってこうなったって事だけは分かった……そんなにあの子に想われてたあなたが、そんなことでどうするのよ!?」
わたしは、打たれて少し熱を帯びた頬を押さえながら、レミィの叱咤を聞いていた……けれど
「………だったら、どうすればいいのよ……?……十夜は、わたしを庇って死んでしまった!……わたしには、人間を生き返らせることなんか出来ない!………あの子に謝ることしか出来ないのよ!!」
そこまで話すと、わたしはレミィに掴みかり……そのまま、わたしは泣き崩れてしまった
「もし……もしも、あなたが…十夜を生き返らせる事が出来るなら、やって見せてよ………………」
わたしのその言葉を聞いたレミィは、すっ、とわたしの体を自分の体から離し、咲夜に抱かれたままの十夜に向かって歩き始める……その途中、私に背中を見せたままレミィが話し始める……
「…………一つだけ、聞いておきたいことがあるわ……………あなた、あの子の事が好き……?
自分が壊れてしまう程に、あなたが執着したことなんか無かったのに…………それ程までにあの子のことが好きになってしまったの…?」
レミィの言葉は、わたしに何かを決断させようとしている意思が籠もっていたように感じた…
『好き』……?
…わたしは改めて考える………十夜はわたしの事が好きだと言ってくれた……それに対して、わたしはなんと答えた?………
『あなたは人間で…わたしは魔族……種族が違う…』
…その言葉で壁を作り、拒絶したのでは無かったか…………
……違う…わたしは、認めたくなかっただけ……その言葉を隠れ蓑にして、自分の気持ちを押し隠していただけ……魔族の自分が人間なんかに心惹かれているのを認めたくなかっただけ………
けれども、……わたしは、気付いてしまった……
……今のわたしには十夜が必要だと…………
「……わたしは………わたしは、十夜の事が好き……いつでも、わたしの側に居て欲しい…………そう、思ってる……今まで生きたきたけど、こんな気持ちになったのは初めてよ………だから…だからこそ、今日……十夜がここに来てくれたとき、あの時話したことを謝ろうと思ったのに……なのに……わたしの口から出る言葉は……彼を、傷付ける事ばかり………」
そして、突然…闇鬼が現れて、十夜は……わたしを庇って、こんな目に……
そこまで話すと再び、目尻に涙が浮かんだ……
レミィは、先程と変わらぬ体勢で、こちらを振り向かないまま聞いていてくれた……
「……あなたの気持ちは、分かったわ………今回の事は、イレギュラーな運命って事で、私がなんんとかしてあげる………」
そう言って、咲夜に、十夜を床に寝せるように指示すると、彼の胸の上に自分の右手を翳す…
ぽうっと、レミィの手の平から紅い光が漏れ始める…赤とは違う、少し淀んだような紅い光……
徐々にその光が強くなる……その内に、十夜の胸の上に翳していたはずのレミィの右手は、紅い光の粒子へと変化し、少しずつ十夜の内に浸透していく………
わたしには、その様子を見ていることしか出来なかった……
「この子は、ここで死ぬ運命じゃなかった……だから、もう一度……もう一度だけ本当の運命に戻してあげるわ……私の力で……!」
そう話した瞬間、ぼんやりと光っていた筈の紅い光が、弾けるように空間に広がる。
わたしも見たことが無い、レミィの、運命を操る能力の具現だった……
あまりの光の強さにわたしは目を閉じそうになったが、目を閉じる瞬間、確かに見た……
十夜の上からもう一人の十夜が降りてくるのを……そして、2人の十夜が一つに重なる瞬間を……
「……ふうっ、終わったわよパチェ………いつまで目を閉じてるつもり…?」
レミィの言葉で、ようやく自分が目を閉じていたことに気付き、はっきりと目を開けて、そして、視線はすぐに十夜の方へと向けられる……そこには、先程と変わらずに横たわる十夜がいるだけ………
いや、明らかに違う……!
血の気を失っていた皮膚は、張りと艶を取り戻し、動くことの無かった胸は、呼吸をするために浅く上下に動いている………
何よりも、あれほど痛々しく体中を埋め尽くしていた傷跡が、綺麗に消えていた……
「十夜!!!」
わたしは、未だ目を覚まさない十夜に駆け寄り、その体に抱きついていた…
暖かい……
…確かに今、十夜はここに生きているのだと実感できる…
「……う……ん………?」
わたしの腕の中で身じろぎしながら十夜がゆっくりと目を開ける……
「……あれ…俺、死んだ筈じゃ………?パチュリー様…?」
十夜は、状況を把握できていないらしく、周りをきょろきょろと見渡している…それから、自分の胸に抱きついているわたしを見て、そっと背中を両手で包んでくれた……
「現実よ……十夜………あなたは、一度死んだけれど、レミィの能力で生き返ることが出来たのよ……」
わたしは、まだ涙の残る瞳で十夜の瞳を見つめる……
「………そうだったんですか………レミリア様、ありがとうございました…俺を生き返らせてくれて…………もう一度…………パチュリー様に……会わせてくれて………」
十夜は、わたしの目を見た瞬間にわたしの気持ちの全てを理解したようだ……
もう、この気持ちを隠す必要は無い……
わたしはこんなにも、十夜、貴方のことが好き……それは、ごまかしようの無い真実だから……
だが、十夜に礼を言われたレミィの方を横目で見ると、彼女は………にこりともせずに、十夜の顔を見つめていた……
「………礼を言われることはしていないわ……わたしは、貴方の為にやったわけではない……パチェの悲しむ顔を見たくなかっただけ。それに、わたしはイレギュラーな運命を元に戻しただけ………正規の運命は変えようが無いわ……」
レミィは、そう話すと踵を返して図書館を出ていった。
言葉に含みがあったように感じたが、いまは只、十夜が生きていた喜びを素直に感じていたかった……
「…………パチュリー様……?」
わたしは、首を横に振る…
「……『パチェ』って、呼んで……十夜…」
呼称を変えること、それは、貴方が特別な存在だと告げることと同等だった。が、
「……いいえ、パチュリー様は、パチュリー様です……こっちの方が慣れてますから…」
十夜は、わたしを『パチェ』と呼ぶ事は無かった…
「………どう、言う事……?」
日が暮れて既にかなりの時が経ち、深夜と呼ばれる時間帯に、わたしはレミィの部屋で彼女と向かい合わせに座っていた。彼女の隣には咲夜の姿もある……紅茶の入ったカップを手にしたまま、わたしは今レミィから聞いた言葉を頭の中でくり返していた……
『あの子……もう長く生きられないわよ……』
レミィの口から出たのは、残酷な一言だった……
「どうして…!あの時、ちゃんと運命は変えてくれた筈でしょう!?………死ね筈の無い運命に!」
がちゃん、と目の前のテーブルに持っていたカップを置き、レミィを問い詰める…
「あの時言ったでしょ……私が変えたのは、あくまでもイレギュラーな運命……起こりうる筈の無かった運命だけ………あ正規の運命を変えることは出来ないって………あの時…十夜の運命を変えたときに分かったの……あの子はもうすぐこの世からいなくなる運命だって…………あの子は、人間が持つべきじゃ無い力を持ってる。その事が肉体的・精神的に負担を掛けてるの……これが、意味する所は……分かるでしょう…?………十夜自身も、今日会いに行った私達の心を読んで、その事は知っている…」
レミィは淡々と話す…
特殊な能力を持つことは、肉体・精神共に負担が掛かる…それに耐えられなくなったとき、待っているのは、妖怪であれば消滅………………人間であれば………確実な……死…
でも、
「でも、能力を持っている点なら、咲夜も同じ筈でしょう!?咲夜だって時を操る能力を持ってるのに今まで無事だったじゃない……なら、十夜だって……」
十夜だって無事でいられるはず………そう思ったが、わたしの頭は、一つの答えを導き出した………けれども、それを言葉にしてしまえば、十夜の、生の先に待ち構える死を認めてしまうことになる……だから、言えなかった……
「パチュリー様…私は、自分の能力を自分で制御することが出来ます……ですから、必要な時にだけ発動させる事が出来ます………ですが、十夜は自分自身の能力を制御できていますか…?」
わたしが言い淀んでいると、レミィの横に立っていた咲夜が尋ねてくる……
十夜の能力は……自分の意志とは無関係に、相手の心が自分の中に流れ込んでくる能力……そんな力を制御できる訳が無い……制御できない力は、絶えず漏れだしているエネルギーのようなものだ……もし、それが、十夜自身が生きるための生命エネルギーであるならば………結果は自ずと導き出される……
「…………………」
「…………理解は出来たみたいね……あなたの気持ちはともかくとして……」
レミィは、自分の前に置かれた、もう湯気の出ていないカップに口を付ける。その指が少し震えているのが分かる…自分でもどうしようもないことが悔しいのだろう…
「…………いの…?」
「………何…?」
わたしの言葉は、はっきりと言葉にならない程に掠れていた…
「…なにか、助かる方法は無いの…?」
絞り出すような声で、一縷の望みを掛けてわたしは尋ねる。が、想いは残酷な形で裏切られる事になる…
「………少なくとも私は分からないわ…今まで、人間には無関心だったし……大体、人間の知り合いなんて、咲夜しか知らないし……」
「…そう……………」
わたしは、音もなく椅子から立ち上がると扉のある方向へふらふらと向かって歩き始める…
「…パチェ、どうするつもり……?」
扉から出ていこうとするわたしの背中にレミィが声を掛ける。
……どうする?
……分からない……
わたしは無言のままレミィの部屋を後にした………
図書館に戻る途中、わたしは、咲夜の部屋の隣にある、十夜の部屋に寄ってみた
十夜は既に自分のベッドで寝息を立てている……時折、苦しそうに咳込む事があった…以前に何回か聞いた事のある乾いた咳……あの咳が、恐らく体調が変化してきている予兆だったのだろう……
「……せっかく……想いが通じたのに、ね…………十夜…」
寝ている十夜を起こさないように優しく頭を撫で、静かに扉を閉めて部屋を後にした
それから、わたしは以前のように図書館に籠もる日々に戻った……
違うのは、自分の知識を深めるために読書をするのではなく、十夜を救うための方法を探すために読書しているという事……
半数近くの本が、以前の闇鬼の襲撃の際の一見で燃え尽きてしまっていたが、それでも本当に必要な本には障壁を張っていたため、読む分には困らなかった…
十夜が図書館を尋ねることも無くなっていた……
時折、お茶を持って来る咲夜から十夜の様子を聞くと、少しずつ、動くのも辛くなってきているようで、ベッドの上で退屈そうにしていると言うことだった……更に、レミィからの言伝では、十夜の生命エネルギーが少しずつ、でも、確実に失われている、と言う事だった………それでも、わたしは会いたい気持ちを抑え、彼の元に赴くことは無かった……想いが薄れたわけではない…想いが強いからこそ、会う時間も惜しんで助ける方法を探したのだ……
だが、本当はもう、分かっていたのかも知れない………これが、十夜の本当の運命なら、逆らえないのではないか…?こんな事をしていても方法が見つからないのなら、最後の時まで、十夜と一緒にいた方が良いのではないか?
そう思った瞬間、それまで抑え込んでいた気持ちが爆発する…会いたい!一時も離れたくはない!絶対に助からないのなら、せめて……せめて、最後の瞬間までは、一緒にいたい!
それからは、考える必要は無かった…わたしは、自分の感情が向くままに行動した。……もう、以前のように、自分の気持ちを隠したまま、悲しい思いはしたくなかった…
近くにあった本を両手に抱え、図書館を飛び出して十夜の部屋に向かう…
「十夜!」
バタンと勢いよく開けられた扉の音に、部屋の主は驚いていた…
「パ、パチュリー様!?どうしたんですか、そんなに慌てて?」
十夜は、汗で濡れた下着(上だけだが)をベッドの上で着替えていた最中だった……
「……ごっ、ごめん!…」
初めて異性の裸を見てしまった……わたしは顔が火照るのを感じて、入ってきた時と同じ勢いで廊下に飛び出し、扉を閉めた…
しばらくして、扉の向こうから入室しても良いとの声が聞こえて、今度は静かに扉を開けて部屋に入る
「どうぞ、パチュリー様、座ってください…」
十夜は、自分の近くに置かれている椅子を指差し、わたしに座る様に促した
わたしは、促されるままに椅子に座ると、両手に持っていた本を十夜のベッドの枕元に置いた 正直、わたしの腕力でこれだけの本を持って歩くのは辛かった…
「……ほら、寝てばかりで暇でしょうから、適当に本を持ってきてあげたわ…感謝しなさい……」
「わあ、ありがとうございます!パチュリー様!」
そう言うと、十夜は輝くような笑顔をわたしに返してから、積まれた内の一冊を手にとって読み始める
わたしは思う…
その、笑顔を見れただけで、ここに来て本当に良かったと……
この笑顔を、近い将来、永遠に見ることが出来なくなるという現実の意味を……
そして、改めて…最後の瞬間まで、彼の側に居たいと
過ぎていく時間……部屋に聞こえるのは、本のページをめくる、ぺらり、ぺらりという音だけ……わたしは、そんな彼の様子を静かに眺めていた…
そうして、どれぐらいの時間が過ぎただろうか……十夜の部屋に日光がほとんど射さなくなった頃、持っていた本を自分の足の上に置き、十夜が話し始めた……
「……パチュリー様……俺の体のこと、レミリア様から聞きましたか…?」
「………………えぇ……聞いたわ…」
「そうですか……」
「………………」
「………………」
2人ともそれ以上の言葉を続けられなかった
そのまま、また少しの時間が流れる
沈黙を破ったのは、わたしの方だった
「……十夜、あなた、悲しくは無いの…?近い将来、自分が死ぬと分かっているのに……」
「………悲しいですよ……でも、自分が死ぬことが悲しい訳じゃありません…………貴女と……パチュリー様と別れることになるのが悲しいんです……せっかく、2人の気持ちが重なったのに…こんな事になるなんて……」
十夜は苦笑いのような表情を浮かべ、ポソリと呟いた
「……そうね…………ねぇ、十夜……そんな能力が無ければと思ったことはない?…その能力を持っていたばかりに、親に捨てられ、人に疎まれ、挙げ句の果てに自分の命さえ失うことになった…この能力が無ければ、と思ったことは無い?」
それは、以前からわたしが聞いてみたい事だった…だが、十夜の事を思うと訊くのが躊躇われていた…けど、今はどんなに些細な事でも、十夜の事を知りたかった
「……そう…ですね………やっぱり、両親に捨てられた後は、なんでこんな能力を持ってるんだろうって思いました……………でも、今はこの力に感謝しています……確かに、この力が無ければ平穏な日常が手に入ったかも知れません……でも、この力が無ければ、俺はパチュリー様に会えなかったでしょう……自分の命と引き替えに、自分の命よりも大事にしたい人を手にする事が出来た……そう考えれば、恨むことは出来ませんから……」
そう言ってベッドの上で微笑む十夜をきゅっ、と抱きしめていた
わたしは、こんなにも愛されている…
そんな十夜を、わたしも愛している…
「パッ、パチュリー様……恥ずかしいですよ……」
「…大丈夫よ…誰も見てないから……」
しばらく、そうした後、わたしは十夜から離れ、『また後でね』と話して、部屋を後にした…
図書館へ戻る帰り道、先程の十夜の笑顔を思い出し、わたしの瞳から涙が零れた……
それから、わたしは毎日の様に十夜の部屋に通うようになった…
十夜の症状は、少しずつだが、確実に悪化していく…
時折、気分転換になれば良いと思い、人間界から咲夜に持ってきてもらった車椅子なる物に十夜を乗せ、館の外に散歩に出ることもあった……
一月程経った頃には、十夜はほとんど歩けなくなっていた……
「……十夜、入るわよ…?」
片手に数冊の本を持ったまま、いつもの様に、軽くノックをして部屋に入る
十夜は布団で寝息を立てていた…
「……せっかく見たがっていた本を持ってきてあげたのに…………最近、眠ることが多くなったわね、十夜…」
わたしは、ベッドの横に置いてある椅子に腰掛け、手に持っていた本を揃えた足の上に置く…
十夜は近頃睡眠時間を多く摂るようになっていた。一度眠るとなかなか起きなくなり、日を増す毎に、その時間は延びていっていた…
「……これも、あなたの命が消える前兆なのかしらね………」
言葉にすると、その瞬間が来ることが現実味を帯びる……
結局、図書館中の本を読み漁ったが十夜を救うような術は、どの本にも書かれていなかった…
「……きっと………もう、ほとんど時間は残されていないんでしょうね…………」
わたしは、十夜の運命を素直に受け止められるようになっていた……
いや……受け止められるように努力していた、と言うのが正しい気がする…
一番辛いのは、きっと十夜なのだ……だったら、わたしが落ち込んでいても仕方がない…その時が来るまで、わたしが十夜を支えていくのだと…決心していた…
「……ん、………」
身じろぎしながら十夜が目を覚ます……
「……おはよう、十夜……今日も随分眠っていたわね…」
微笑みながら寝起きの十夜に話しかける
まだ意識がはっきりしないせいか、反応が鈍い
「………あ、…パチュリー様………おはようございます…」
ようやく、意識がはっきりしたようで返事を返してくる……
「えぇ………でも…おはようとは言ったけど、もう夕方よ…?少しばかり、寝坊じゃないかしら?」
「そうですね……また、寝過ぎちゃったみたいです……」
いつもより、声のトーンを上げて話すわたしと対照的に、十夜の声に張りは無い……
ここ最近は、ずっとこんな調子だ…
「ほら、あなたが前に読みたがってた本を持ってきてあげたわ……」
そう言って、足の上に置いていた本を枕元に置いてやる
……昨日までの十夜なら、喜々として受け取ったであろうが…今日の十夜は本を取ろうとしなかった…
「どうしたの、十夜…?いらないの?」
「……………」
「…十夜?」
「…………腕が………動かないんです……」
「えっ…!」
わたしは、慌てて十夜の布団をめくり上げる…
そこには、力無く伸びている腕があった……
「……嘘でしょう!………十夜!」
十夜の腕を握りしめる形で持ち上げる
…重い……完全に弛緩しきった感覚………
握りしめた十夜の掌が、わたしの手握り返してくれることは無かった…
ついに、その時が来てしまった……
覚悟はしていたことだが、実際に目の当たりにするとなかなか受け入れることは出来なかった……
わたしは、その場に泣き崩れてしまった……………
その日を境に十夜の症状は加速度的に悪化していった…
ベッドから起きあがる事も出来なくなり、どんどんやつれていく……
わたしは、そんな十夜の側に常に付き、看病役を買って出た……
血色の良かった顔色は土気色をした病人のそれになり、
柔らかくて、明るく茶色がかった髪はその艶を失っていった…
「……パチュリー様……」
額の濡れタオルを交換している時に、ちょうど十夜が目を覚まし、わたしの名前を呼ぶ…
「…どうしたの、十夜?」
絞り直した濡れタオルを額に置きながら、優しく答える……
「……何処ですか……パチュリー様…?」
目は開いているが、視線はわたしを見つけることは無く、空を彷徨っている……そう…今度は視覚を失ってしまったのね…
わたしは、特に驚く様子も見せずに、彼の顔を両手で優しく包みながら
「大丈夫………わたしはここにいるわよ、十夜……何処にも行かない……あなたの側にいるわ…」
その声で、十夜は、ほっ、と安堵したような表情になり、再び眠りに落ちていった…
本当にもう……数日も保たないかもしれない……
その日、朝から十夜の部屋にレミィ・咲夜・わたしが揃っていた
先日、レミィが十夜の様子を見に来た際に、十夜の生命エネルギーが今日中にも尽きるかも知れないという事だった……
とうとう、この日が来てしまった……
出来れば迎えたくはなかった日……
想いを分かち合った人が死んでしまう日など、迎えたくは無かった…
「……十夜……」
今、目の前には咲夜に着替えをしてもらっている十夜が居る……
眠りから目覚めた十夜は、わたし達3人が揃っているのを感覚で感じたのだろう……
3人が揃っている意味も含めて全ての意味を感じ取ったようだ…
「………そろそろ……お迎えが来るんですね………」
十夜がベッドに横になった状態のまま、掠れる声で呟く
わたし達は答えることが出来なかった
誰一人として、十夜に死んで欲しくなどないのだから………
「…いいんですよ……俺は、十分に生きました………本来なら、人間界で捨てられ、そのまま死ぬはずだったんです……でも、レミリア様は……人間の世界で路頭に迷っていた俺を、拾ってここに住まわせてくれました……………咲夜は、小さかった俺を優しく、厳しく育ててくれました…………そして…」
十夜は一言一言を噛みしめるように話し始めた……言葉の途中から、十夜は涙を流し始めていた…
「………そして…パチュリー様は…………俺にとって、特別な存在でした……いつの間にか、命を懸けてでも守りたい存在になっていました………俺は……俺は、本当にパチュリー様の事が好きでした………せっかく、お互いの気持ちが通じたのに……」
その言葉を聞いて、わたしも彼の体に抱きついて泣いていた
「わたしだって…わたしだって、あなたの事が好きよ十夜!……死んで欲しくなんか無い……!でも、わたしじゃ、あなたを助けられない!………このまま、あなたと別れたら、わたしはまた、あなたと出会う前の一人だった頃に戻ってしまう……!せっかく、一人じゃなくなったのに………」
もう一人には戻りたくない!
「お願い……十夜………死なないで…!あなたがいなくなったら、わた、しは……わたしは…!」
もう、恥も外聞も関係ない…!わたしは自分の感情に素直に泣き続けるだけだった…
「……大丈夫ですよ………………パチュリー様は……もう、一人じゃない………レミリア様も咲夜もいます……そして、俺も…………………………………………………パチュリー様………俺は、例え、死んでも………例え……この体が消えても魂だけは……この、想いだけは……パチュリー様の側にいますから………………ぼくは……パチェの、そばに……いる………か…ら………であえて……よかっ…た……」
十夜は、最後の最後で……わたしの事をパチェ、と呼んでくれた……『様』付けではない、特別な呼び方で……
言葉の最後に……ほとんど聞き取れないほどの声で、『ありがとう』と呟き…体の力を抜く……十夜は、その言葉を最後に…目を閉じて……動かなくなった……
「十夜………?……十夜!?……とおや!……いや、……いやぁーーー!!!」
目を閉じて動かなくなった十夜に抱きついて、泣いた…
泣いて、泣いて、涙が涸れて無くなるかと思うほど泣いても、涙が尽きることは無かった……
わたしが泣いている間、咲夜は一緒に泣きながら、わたしの背中をさすってくれていた…
レミィも声を出しては泣かなかったが…わたし達に背中を向けて震えていた……
「……準備は良いわよ、パチェ…」
そう話すレミィの方を振り向く……そこには、紅魔館の中庭に描かれた魔法陣の中央に横たわる十夜の亡骸……
そして、その両脇に佇むレミィと咲夜……
「……分かったわ……」
そう言って、本を片手に魔法陣に歩み寄るわたしの目は、未だ充血していた……
十夜が死んでしまったあの日から、わたしは図書館で、三日三晩泣きはらし、ようやく今朝になって、2人の前に出てこられた……そして、十夜の弔いをしようという話になった…
この幻想郷では、人間よりも魔族、妖怪の類の方が多い……その為、人間が死ぬと、特別な供養というものは無く、そのまま打ち捨てられる事が多い……けれども、わたしは……十夜をそんな風には絶対にしたくなかった……
「…じゃあ、始めるわ……」
わたしは、両手を広げ、術の詠唱に入る………一つ、呼吸を吐き出し、言霊を紡ぎ上げる…
『漆黒の闇に浮かぶ白銀の月、願わくば、輝きの欠片を我が前に示し、その身を一欠けの結晶と化して、浄化させよ』
ーサイレントセレナー
符の詠唱を終えると、紅魔館上空の雲が晴れ、満月が顔を覗く……その、月から差し込む光が徐々に強さを増し、青白い光の帯となって魔法陣の上に降り注ぐ…その光の中、十夜の体も淡く発光し、十夜の体も、ゆっくりと輪郭が失われていく……
やがて、月からの光は、目も開けていられない程の輝きとなる…
『……ありがとう……十夜……わたしも………あなたと出会えて…良かった…』
誰に聞かせるでも無く、わたしは、心でそう、呟く……そして、わたしの瞳から零れた一滴の涙が光り、そして…わたしの視界もまた、光で埋め尽くされていく…
視界が戻ったとき、魔法陣の中に十夜の姿は無かった……代わりにそこにあったものは、青白い輝きを放つ、一欠片の輝石だった……
これで良い……十夜の魂は、月の光で浄化され、またいつか、輪廻を繰り返し、人間に転生するだろう………わたしは、その力の副産物で出来たこの石を、彼の形見にして持っていよう……
彼が存在していたという証拠として……
そしていつか………彼が転生した時に、再び出会うための道標として……
「パチュリー様、お茶をお持ちしました」
本を新しく集め直し、外観・内壁共に新しくなった図書館の入り口で、咲夜が一礼をして飲み物の入ったカップを持ってくる……わたしの横に立って、テーブルに置いてくれる……わたしは、本を読みながらそれを口に含む……
「……少し………ぬるいわ……」
珍しく、彼女の淹れたお茶に不満を漏らす……
「あら、すみません、私とした事が……すぐに淹れなおしてきますわ」
そう言って、お茶を淹れ直そうとした咲夜に声を掛ける……
咲夜は、一瞬驚いたような表情になるが、すぐに笑顔になりかしこまりました、と頭を下げて図書館を出ていった……
しばらくして戻ってきた咲夜が持っていた物は、先程までのようなカップではなく、円筒形をしたコップで、中身は紅茶よりも遙かに濃い色をしたコーヒーだった…
「はい…お待たせしました、パチュリー様」
置かれたコーヒーに口を付ける………
けほっ…けほっ…
……噎せてしまった
「本当に良かったんですか、砂糖とか入れなくても……」
咲夜の問いに、わたしは首を縦に振る…
「……今度、会ったときには……わたしが、コーヒーの良さを…あの子に教えてあげるのよ…」
そう、それは…いつか必ず再会出来るという望みの表れ……
「そうですか……では、その苦いコーヒーにも早く馴染んでもらいませんとね」
咲夜はクスクス笑いながら図書館を後にする……
やっぱり、いきなり砂糖無しはきつかったかしら……
そんな事を思いながら、苦いコーヒーを少しずつ飲んでいたときだった……
ドンッ
大きな音と共に、突然、図書館自体が激しく揺らいだ…
「なっ、なに!?」
この広大な図書館に何があったのかを確かめるべく、わたしは椅子から降り、音のした方へと向かった……
「わぁー、本が一杯だー!」
向かう先の一角で声がした……どうやら、声からして女性のようだ……巨大な本棚を曲がると、そこには白黒の衣装に身を包んで、箒にまたがって飛行する少女がいた…どうやら、人間のようだ…
「後でさっくり、もらっていこ」
!
聞き捨てならない。苦労してここまで集め直した本を持っていかれてたまるか…!
「持ってかないでー!」
わたしはその少女の元へと浮かび上がり、警告した…
「持ってくぜ」
聞く耳持たずだった……
わたしは手にした本を開きながら呟く…
「えーっと…目の前の黒いのを消極的に倒すには……」
「黒いのって……ゴキじゃないぜ、私は…」
そこまで会話をして、ふと気付く…
なんだろう、この感じは…?
目の前の黒いのは、確かにここを襲撃しに来た(物色しに来た?)者らしいが……
なんだか気になる……
「どうした?…私の顔に何か付いてるか?」
よく分からない………
でも、十夜…………あなたにまた会う日まで、確かにわたしは一人じゃ無くなるかも知れない………
暇だけは……しそうに無いわね……
お互いに構え、同時に、それぞれの魔法の詠唱に入る……
(あなたは………わたしを、孤独から解放してくれる人かしらね…………)
わたしは……お互いの魔法がぶつかり合う中、そんな事を思っていた
to be next 紅魔郷?
今日も何も変わらない
いつもと変わらない、静かな日々
外の光がほとんど届かず、朝か夜かも分からない、薄暗い空間
そこで、わたしは、積み重ねられた本に埋もれ、読書に勤しんでいる
ここは、人間界と冥界の境に存在する、幻想郷と呼ばれる世界
その世界の端に存在する『紅魔館』という建造物の中の一角、『ヴワル図書館』
ここ、『紅魔館』の主、『運命を操る事の出来る紅き月』と異名をとる『レミリア=スカーレット』はわたしの数少ない友人でもある
人間から言わせれば、彼女は500年以上生きている(その割には私よりも幼く見えるが…)、吸血鬼という存在なのだそうだ。そしてわたしもやはり、人間ではない。わたしは、『魔女』と呼ばれ、人間とは異なる存在
闇を映すような紫色の長い髪に、同色の瞳。90年近く生きている割には幼い風貌。それだけでも、私が人間とは違う存在だと証明できる
このヴワル図書館は、レミィ(わたしはレミリアの事をそう呼ぶ)が、わたしの為に幻想郷のあらゆる所から集めてきた本を保管して置く場所。わたしは一日の大半をこの図書館で本を読んで過ごす。と、言うより、わたしは、この図書館に住んでいるような状況だった
だからでは無いが、知識に関しては、誰にも負けない自信があり、魔力もそこそこ強く、様々な魔法を使うことは出来る。しかし、少し前から喘息を患っており、長い詠唱を必要とする魔法は唱えられないでいる
…とにかく、わたしは長い間この図書館に一人で住んでおり、今では埃にまみれてしまった、数多くの本と寝食を共にしていた
時折レミィが遊びに来てくれたりもするので、別段寂しいとも思わなかった
………わたしの名前は、パチュリー=ノーレッジと言う
この紅魔館には、レミィとわたしの他には、門番が一人と警備係が一人、お手伝いのメイドが数人居る程度である。レミィの妹も居るようだが、わたしは一度しか見たことが無い
メイド長の咲夜はこの館で唯一の人間で現在十代後半。赤子の頃、人間界に遊びに行ったレミィに拾われ、育てられた過去を持つ。十六夜咲夜(いざよい さくや)と言う名前もレミィが付けた名前だった。時を止めることが出来る能力を持ち、その能力故に、捨てられたのだろうとわたしは考えている。咲夜は、時折、紅魔館の離れにあるこの図書館まで、わたしにお茶を淹れに来る。何事に対しても卆が無く、完璧な従者だと思う
だが、わたしは元々、他人に対して興味が持てない性格で、レミィとの友人関係も我ながらよく続いているものだと、つくづく思う
わたしは、ここ何年もこの図書館から外へは出ていない
本を読み、知識を深めることが全てだった
「………何?」
いつもの様に図書館で本を読み耽っていると、不意に背後から物音がした
咲夜がお茶を持ってきたのであれば、一言あるはず……
「…誰かいるの……?」
少しだけ首を背後にまわし、辺りを観察する。自分のすぐ後ろに積み重ねていた本が微かに揺れている。
「……鼠…かしら………?」
この場合の鼠とは、当然、動物の事ではない。ここには珍しい本も数多くあり、それを狙って侵入者が来る場合もある。だが、大抵は門番に見つかり追い返されるか、レミィに見つかって血を抜かれて干からびるかなのだが、稀に、運良くどちらとも出会わずにここに来る場合もある。そんな時は、大概、私が魔法で片を付けるのだ。…ここの本棚には特殊な魔法コーティングが施してあるため、ちょっとやそっとの衝撃ではびくともしないので、わたしは研究した魔法の成果を侵入者で試してみたりする……が、面倒臭い事には変わりが無い…
「…やれやれ……」
わたしは軽くため息を吐くと、魔法の詠唱に入るため目を閉じて意識を集中させた。が、
…ズ、ズズ…
何かが、滑っているような音に気付き、目を開いて音がした方を向いてみる
(……本雪崩……?)
そう思うや否や、目の前に積まれていた本が一気にわたしの上に降りかかってきた
「きゃあぁぁぁぁーー」
わたしは、為す術もなくその流れに飲み込まれていった。
本越しに、ドーンという、盛大に本の塔が崩れていく音が聞こえてきて、その後静かになった。が、続いて図書館の扉を開く『バンッ!』という音が広大な空間に響く
「ここにいるの!」
聞き慣れている声が耳に届く。
この広大な空間に凛として響く声
メイド長の咲夜だった
「全く!勝手に出歩いては駄目だと何度も言っているでしょう!」
(誰かと、会話している…?)
誰と……?
……少し疑問に思ったが、疑念はそこでとぎれた……
苦しい………本が崩れて埃が舞ったせいで喘息が出てきたらしい……おまけに体の上に乗った本の量が量だ。胸が圧迫されて息が出来ない……
「咲夜……咲夜!………」
最後の力で声を振り絞った
「?……パチュリー様……何処ですか?」
わたしは、本の間からかろうじて出ていた右手をひらひらさせて、助けを求めた
「あらあら……大丈夫ですか?」
咲夜がそれを見つけ、わたしの上から本をどかして引っ張り出してくれた。胸にあった圧迫感から解放され、大きく息を吸い込んだが、喘息の発作も起きていたため、途中で大きく噎ぶ羽目になってしまった。咲夜が背中を押さえて呼吸を手伝ってくれたので、大事には至らずに済んだ
「…こほっ、……酷い目にあったわ……」
ようやく落ち着きを取り戻し、咲夜が淹れた紅茶でのどを潤す。まだ少し喉の様子がおかしい。
咲夜もわたしの目の前の椅子に座り、自分で淹れた紅茶を飲んでいる
しかし、目の前に居るのは咲夜一人ではない
「…それで………これは、何…?」
わたしは咲夜の足にまとわりついている物体を指差した。
「もう……パチュリー様………これ、は無いんじゃないですか?……
この子は人間ですよ」
咲夜が唇からカップを離し、困惑気味に笑いながら、そう答える。
「人間なのは見れば分かるわ……わたしが聞いてるのは、なんで人間がここにいるのかって事よ…」
咲夜は、ふぅっ、と小さくため息を吐いた
「………2日前、お嬢様が、また人間界に遊びに行ったんです。そこで……この子を拾ってきてしまったんです……どうやら、捨てられていたらしくて………なんだか昔の私を見ているようで放って置けなかったらしいです。で、同じ人間だから、私にこの子の世話をしろって、預けられたんですよ。でも、この子、ちょっと変わった力がある上に、いたずらが大好きで目を離すとすぐどこかに行っちゃうんです……で、今回はたまたま、足の向いた先がこのヴワル図書館だったという訳です。あ、ちなみに名前は十夜って言います。この名前もお嬢様が名付けました。歳は12歳だと自分で話してくれました。少し、記憶があやふやらしくて、両親の事は全く覚えてないそうですが……」
咲夜はそこまで言うと足元に居る男の子の少し茶色がかった頭を軽く撫でている。
……どうでもいい事だ……レミィが何処に行って、そこで何を拾ってこようと、わたしに得になるわけでも損害を被るわけでもない……
……いや、ついさっき本の下敷きになったのはこの子供のせいでは無いのか?
………そう思うと、なんだか腹が立ってきた
「……咲夜、この子はしゃべれないの?さっきから口を開こうとしないんだけれど…」
しゃべれるのならとにかく謝って欲しいとわたしは思った。不可抗力と言えどもわたしは現実に大変な目にあったのだ。まぁ、避けられなかったわたしもどうかとは思うが……
「いいえ、しゃべれますよ。私と居るときは口止まず話していますから……ただ、ここで私とお嬢様以外の人に会ったのは初めてですから、きっと緊張しているんでしょう……仕方ないわね…ほら、十夜、ご挨拶は?」
そう言って、咲夜は十夜を自分の前に押し出した。
「……………」
少年は、なかなか口を開こうとしない
「……………えっと、……初めまして、パチュリー様………で、いいんですよね?」
しばらく間をおいてからようやく声を出した。外見通り、少し高めの声だった
「……えぇ、そうよ。……ところで、十夜……?わたしは先刻、あなたのせいで大変な目にあったのだけれど………何か、言うことは無い?」
わたしは、十夜の問いに答えながらも、不機嫌そうに声を返していた
そんなわたしの態度に、十夜も気付いたらしく少し焦りながら謝ってきた
「ごっ、ごめんなさい!…僕、こんなにたくさんの本を見たことが無くて……ここに入って来てから周りの本を見上げてたから、前にあった本の山に気付かなかったんです………本当にごめんなさい!」
十夜はそう謝罪しながら、勢いよく頭を下げた
「………まぁ、謝ってくれるならそれでいいわ……」
素直に謝れば、それでいい。咲夜が育てるのであれば、人格的には問題なく育つだろう………そう思って許すことにした
「……それでは、パチュリー様、私はこれで。館の掃除もまだ残ってますので……後でお茶を届けに参りますわね」
そう言って、咲夜は十夜を連れて図書館を出ていこうとした。わたしも、それきり興味を無くし、読書に戻ろうと本に視線を戻し、椅子に座った
「……………?」
咲夜と一緒に出ていった筈の十夜の気配を背後に感じる。振り返ってみると、やはり十夜がそこに立っていた
「……どうしたの?……咲夜が待ってるわよ……早く行きなさいな……」
「………えっと、………あの、パチュリー様。……僕、時々ここに来てもいいですか?……ここにある本を、僕も見てみたいです」
少し控えめに尋ねてくる
「………………………………………いいけど、わたしの邪魔はしないこと……」
長考の末、わたしは了承していた。
「あ、ありがとうございます、パチュリー様!」
十夜は顔を輝かせてから、少し頭を下げて礼を言うと、今度こそ咲夜の後を追って図書館から出ていき、辺りに静寂が戻った
「……騒がしいこと………」
口ではそう言っていたが、わたしは不思議と嫌な感じはしなかった
何故だろう?……今までわたしは、自分以外がこの図書館に居ること自体が非道く不機嫌に思えていたのに……何故、この少年の願いを受け入れてしまったのだろう?
良く……分からなかった
先日の言葉通り、十夜はよくこの図書館に遊びに来るようになった。しかし……
この図書館は、レミィがわたしの為に作ってくれた場所、ここにある本は彼女がわたしの為に集めてくれた本なのだ。だから、十夜がここにある本を読みたいと言っても、人間に魔術書の類の本を読めるはずも無く、十夜は挿し絵の入った簡単な本をパラパラと見ているか、もしくは、わたしの読書姿を、わたしの横で眺めている程度しか出来なかった。
「………ねぇ…十夜……………」
わたしは、十夜が運んできてくれたお茶を一口飲みながら、隣に話しかけた
隣では、椅子に座った十夜が、時々手にした本をパラパラめくりながら、わたしを見ていた
「はい?」
「……あなた……楽しい………?」
「…何がですか、パチュリー様?」
質問の意味をいまいち理解していないらしい………
「…………だから、わたしが本を読んでいる所をじーっと眺めてて楽しいのかって訊いてるのよ?」
自分の質問に対して、的を得た解が帰ってこない事に少々苛立ちながらも、噛み砕いて同じ質問をしてみた
「楽しいですよ」
間髪入れずに答えが返ってきた………しかも簡略に……
「わたしみたいな魔女の横顔を見て、楽しいの?」
少し呆れながら、皮肉混じりに訊いてみた
「えっ、パチュリー様って魔女だったんですか?」
………わたしを人間だとでも思っていたのか……
「……でも、僕はパチュリー様の表情とか見てるのは好きですよ。難しそうに考え込んだり、本を読んでるときに時々口元が優しく笑ったり。真剣に本を見ている目も、綺麗な紫色の髪も。魔女かどうかなんて関係ないです……それに、僕がここにいても追い出さないじゃないですか。そんな優しい所も好きです」
「…………そう……」
わたしが優しい?……とんだ勘違いだ。わたしは、ただ興味が無いから彼を放っておいただけなのに……
「好きにしなさい……」
わたしは、今度こそ放っておく事にした。彼もこんな日々にはすぐに飽きるだろう、そう思っての事だった
「はい!」
十夜は、元気良く返事を返すと自分の持っていた本に視線を落とした
(全く………奇特な子供ね……)
「じゃぁ、パチュリー様!また明日来ます!」
自分の本を読み終えた十夜がわたしに挨拶をして図書館を出ていく
(明日………また、明日も来る気かしら?)
そう、思ったとき扉の外に消えていった十夜がひょこっと顔を出した
「パチュリー様!忘れました!」
(はっ?……何を忘れたっていうの?)
辺りをきょろきょろと見回すが………得に何も見当たらない……
「違いますよー。忘れ物をしたんじゃなくて、渡し忘れたんです」
パタパタ、と十夜がわたしの前まで駆けてきた
「パチュリー様、手を出してください」
「何………?」
言われるままに、わたしは両手をくっつけて十夜の前に出した
十夜が自分のズボンのポケットをゴソゴソと捜す
「……あっ、あったあった。はい、パチュリー様。」
「これ……何………?」
わたしは自分の両手に置かれた物体に目を向けた。色とりどりの小さな布。それぞれが中央で結ばれているように細くなっている
結構な量だ
「何って、…リボンですよ。知らないんですか?」
「知ってるけど………」
(これをどうしろというのだろう?わたしが身に付けるの……?)
「パチュリー様、いつも同じような格好しかしてないから……その時の気分で好きな色のリボンを付ければいいかなって。例えば、『ちょっと落ち込んでるな』って言うときは青色を付けて、『ちょっと怒ってるかな』っていうときは赤色を付けるとか……色んな色がありますから」
「……………ありがとう……」
(……本当は、あまりいらないけど……ここで返して泣かれても、困るしね………まぁ、折角だから貰っておきましょ。貰い物をして悪い気はしないし……)
そう考えて十夜に礼を言った
「やだなぁ、別に泣きませんよ、ただ、返されても僕が付けるわけに
はいきませんから、困ると言えば困りますけどね…」
「……そう……」
……えっ?
「……ちょっと、十夜!今、わたし声に出してたの……?」
「いいえ、パチュリー様は心でそう思っただけですよ?」
「じゃあ、……なんでわたしの考えた事をあなたが知ってるの!?」
「……聞こえましたから」
意味が分からない………わたしは声に出してはいない……しかし十夜には聞こえている……でも、わたしは声に出してない……でも、十夜は聞こえたと……………訳が分からない!
『この子ちょっと変わった力があるんですよ』
不意に、初めて十夜と会った時の咲夜の声が思い出される……
……だとしたら、考えられることは、ただ一つ………
「……十夜、あなた、ひょっとして…………心が……読めるの?」
「………………………」
十夜は答えない
「…そうなのね………?」
「……………はい」
先程までとはうって変わって、十夜は下に顔を俯き、表情は暗く沈んでいた。声のトーンも普段より少し低い。……わたしの目にはまるで、今にも泣き出しそうなのを必死に堪えてるように見えた
「………僕……小さい頃から、人の心が読めるんです………でも、相手の目を見ないと分からないんですけどね……………お父さんやお母さんの事は、ほとんど覚えてないけど……多分…それで気味が悪くて、僕を捨てたんでしょう、ね……想像、ですけど……」
十夜は、そこまで言うと静かに泣き出してしまった………
「……レミィや咲夜は、このことを知ってるの?」
十夜は首を縦に振る
「……はい………ここに来たときに話してます……で、むやみに心を読まないって事で、ここに住むことになったんです……とは言っても自分の気持ちとは関係なく相手の心が聞こえてきちゃうんですけどね」
わたしは、そんな十夜を黙って見ていることしか出来なかった……
わたしには、親の記憶など無い……もしかしたら、わたしのような存在には、親など存在しないのかも知れないけど……だから、十夜の気持ちは分からなかった……
恐らく、十夜が両親の事を覚えていないのは本当の事だろう。確かに、普通の人間がそんな力を持っていれば気味悪がられ、疎まれるのは明白である。恐らく、両親に捨てられた精神的なショックで両親の記憶が抜け落ちてしまったのだろう。
しばらく、時間が経ち、十夜も少しずつ落ち着きを取り戻した頃
わたしは、口を開いた
「ねぇ、十夜?……さっきわたしが思った、『いらないんだけど』っていうのは、別に迷惑だからそう言ったんじゃないの………ただ、わたしは、この通り、別に服装に興味が無いだけなのよ………四六時中この図書館にいるしね……それに、知識として知ってるだけだけど、リボンって確か、人間の女性が自分を着飾るために使う物でしょう……?魔女であるわたしには、縁がない物だと思っただけ………大丈夫…十夜の気持ちはすごく嬉しいから………」
十夜は、その言葉を聞いて、少しだけ顔を上げた。目が赤い。当たり前だ、泣いていたのだから
「じゃあ……そのリボン、受け取ってもらえますか…パチュリー様?」
わたしは、首を縦に振った………
おかしな話ね………わたしが人間の子供を慰めるなんて………
「……ついでだから今、付けて貰おうかしらね……わたしはリボンの付け方なんか知らないし………」
「本当ですか…?」
「……嘘かどうかは、あなたが分かってるはずでしょ?…」
「………はい」
十夜は、目尻に少しだけ残っていた涙を拭い去ると、わたしの手の上にあるリボンを受け取ると、わたしの目を見つめてきた
「…………どうしたの?」
「……あの、全部、付けてみてもいいですか……?」
「……任せるわ」
十夜は嬉しそうにわたしの服や、腰までもある長い髪、上着の首元や裾まで、様々な色のリボンを付けてくれた……なんだか、人間の少女が遊ぶという、『着せ替え人形』になった気分だった。でも……悪い気分では無かった……
十数分後………わたしは見事にリボンだらけになっていた……
「さすがに……ちょっと付けすぎましたね……少し取りますか、パチュリー様?」
「………いいえ、このままでいいわ。……折角、十夜がわたしにくれた物だし……」
わたしはそう言って椅子から立ち上がり、今では埃にまみれてしまっている鏡の前に立ってみた
「………………………………」
なんとも、形容しがたい光景だった
体中にリボンがくっついている。
赤・青・黄・紫・白・緑・ピンク・・・etc
(………こんなに付いてたのか………)
「……あの~、パチュリー様?……やっぱり、少し外しますか?」
「………いいえ、いいわ、このままで。ありがたくもらっておくわよ………ありがとう、十夜……」
自分の姿に少し驚いたが、やはり嫌な感じではなかった
それから、十夜は、すでに冷めてしまっていた自分のお茶をこくんっ、と飲んで『遅くなると咲夜が怒り出すから帰ります』と言って図書館を出ていった。……もちろん、明日も来ると言い残して……
「パチェ~、久しぶり~」
十夜の事があった翌日の夜、ものすごく久しぶりにレミィが図書館にやってきた。………本当に久しぶりだ……もっとも、わたしのいる位置からは、その小柄な体は一切見えなかった。本の山に邪魔されて……
「……久しぶり、レミィ。元気だった?」
わたしは椅子から立ち上がり、彼女の姿を捜す……数メートル先の本の間から彼女が身に付けている薄布製の帽子と、背中から生えている黒い蝙蝠のような羽の一部が見え隠れしている
(……やっぱり、レミィは小さいわね)
なんで、わたしより5倍以上生きてるのに、わたしよりも幼く見えるのかしら?
まぁ、魔族の類は自分の魔力の大きさで成長の度合いが変わってくるって言うし…
わたしよりも遙かに魔力が強いのよね、レミィは……
「あっ、やっと、見つけたわパチェ……って、どうしたの、その格好……?」
レミィがわたしの姿を指差して少し驚く………
「………変かしら……?」
「変!」
そりゃまぁ驚くだろう、久しぶりに会った自分の友人が体中にリボンを纏っていれば………
…わたしは、少し気に入ってきてたんだけど
「……別に、変でも構わないけど……それで、今日はどうしたの…?」
そうだった、と思い出したように(実際に忘れていたのだろうが)懐から一冊の本を取りだした
「これを、届けに来たのよ」
わたしは、その本を受け取り表紙に書かれている魔文字を目で追った
ーグリモワールー
高度な魔術書だった。それこそ、世界に数冊しかないと言われている希少価値の高い本
もちろん、わたしも喉から手が出るほど欲しがっていたものだ
「これっ、一体何処で……?」
「もちろん、あなたの為に幻想郷中を駆けめぐったのよ、感謝しなさい?」
レミィが赤い舌をぺろりと出して小悪魔っぽく微笑んだ。いや、本当に魔族なのだが……
「……なんてね………」
ふっ、と彼女の微笑みから悪戯っぽさが消え、彼女にしては珍しく、少しだけ複雑な表情になる
「……これ、この間拾ってきた人間の子供が捜して来ちゃったのよ。実は、最初から紅魔館にあったものなんだけど、パチェと会う前に無くなっちゃってね。ほら、私は本に興味なんか無かったから……適当に扱ってたし。……って、ちょっと、パチェ!そんな怖い顔で睨まないでよ」
わたしは気付かない内にレミィを睨んでいたようだ。と言うかそれは当然だろう。わたしのように本をこよなく愛する者にとって、本を無下に扱われることは侮辱以外の何者でもない。だから、例え友人とはいえ、レミィのとった行動は許される筈がない
「だから、悪かったってば、私がこうして頭を下げるなんて滅多に無いわよ。だから、ね、結局見つかって、こうしてパチェの手元に来たんだし……それで良しとしましょうよ」
確かに、彼女がこうして素直に謝罪する事はほとんど無い。それだけ、自分の非を認めている
ということなのだろう……仕方ない
「……分かったわよ……。こうしてわたしの手元にグリモワールが握られる日が来るなんて………いつかは来ると思ってたけど、まさか今日、叶うなんてね」
わたしはそう言って手の中に納められている分厚い本に頬を擦り寄せた。少しざらついた感触と、皮独特のヒヤリとした感覚が頬に伝わる。
本ばかり見ているわたしは、腕力が無く、少しばかり重かったが、それよりも喜びが大きかった
「…………………幸せそうね……パチェ……」
その言葉にわたしは、ハッと気付いて顔をレミィに向けた。彼女は少し困ったように眉を寄せながら、苦笑いを浮かべていた……
「…………っ、こほん。それで、この本は、十夜が捜してきてくれたのね?」
自分でも分かりやすすぎる位強引に話題を変えていた……少々、自己嫌悪に陥る
レミィも、くすくすと笑っていた。……恥ずかしい………
「………もう、笑い過ぎよ、レミィ!それで……」
レミィは、まだ少し可笑しそうに笑っていたが、話題転換に乗ってきてくれた
「えぇ、そうよ。あの子が今日の昼間、倉庫の中を探検してて偶然見つけたそうなの。それで、『この本、パチュリー様にあげてもいいですか?』って私の所に走り込んできたのよ。わたしはその時、体が小さかったからあの子も驚いていたようだけど………『レミリア様ですか?』なんて訊かれたわ。まぁ、別に良いけど……」
そう、彼女は吸血鬼。一般的な吸血鬼よりも能力が高いために日中でも力が下がることは無いが、その代わりに姿が………今、目の前にいる姿よりも更に幼くなってしまうのだ。十夜はそんなレミィの姿を見たのだろう、驚くのも無理は無い……
「それにしても、レミィ、あなた。よく、十夜の血を吸わないわね……あなた確か、人間は全て食料として見てるんじゃなかったの?まぁ、例外は咲夜の時もだけれど……それに、小さい時の姿は咲夜にも見せないのに、十夜に見せて良かったの?」
「私が血を吸うのは、私を畏れる者の血だけ。前に言わなかったかしら?……あの子には、私を畏れる気持ちが微塵も無いの。それに、小さいときの姿を見られて平気だった訳じゃないわ。やっぱり、腹は立った。でもね、……あの子、その本を私の前に差し出して、パチェにあげてもいいか、なんて笑顔で訊いてくるものだから、そんな気にもならなかっただけ。………あなた、かなり気に入られたみたいね。……それに、あなたも随分あの子の事気に入ってるんじゃない?毎日のようにあの子が遊びに来ても嫌がる素振りが無いじゃない?」
気に入っている……?わたしが?十夜を?
「確かに、一緒にいて悪い気はしないわね。不思議だけど……」
「それが気に入ってるって言うのよ。あなた、今まで自分以外があの図書館に入るのをすごく嫌がってたじゃない?なのに、あの子だけはすんなり受け入れられた……それが証拠でしょ」
そう言って、レミィは、図書館に入ってきたときに見せた複雑な表情をまた見せた
そうなのかしら?わたしは、あの子の事を気に入ってるの?
…………………良く、分からない………
「まっ、あの子にあったらお礼でも言っておきなさいな。明日にはまたここに来るでしょうから」
そういえば……今日は十夜の姿を見ていない。昨日別れ際に『明日も来ます』と言っていたのに………
「あの子が今日ここに来なかったのは、単に騒ぎ疲れて寝てるだけよ。本当は自分で渡したかったんでしょうけどね。面倒だけど、私が持ってきたのよ」
わたしの心を読んだようにレミィが答える
「顔に書いてあるわ」
そう付け加える
「じゃあ、用事はそれだけだから、私はそろそろ館に戻るわ。あんまり遅くなると咲夜に怒鳴られるし………」
それだけ言うと、レミィは出口へと向かって歩き始めた。わたしは、人間の従者に怒られる魔族の主の図式を頭の中で想像してしまい少しだけ笑って、彼女の後ろ姿を見送った
「ありがとう…十夜」
いつものように隣で本を見ている十夜に向かってわたしはそう告げていた
翌朝、十夜は朝一番で図書館に来て昨日は来ることが出来ずにすみませんでした、と頭を下げてきた……
以前のわたしなら、『別に……』なんて突き放すように言っていた筈なのに……そうは、答えなかった……
十夜がわたしの側に居ることが、嫌では…ない。そう、思えるようになってきていた
だから、普段の、いや、今までのわたしであれば決して言わなかった言葉がついぽろりと口から滑り落ちる……
「いきなりどうしたんですか、パチュリー様」
十夜はきょとんとした顔でわたしの顔を見上げる
気付かないのだろうか……?今、わたしが手に持ち、読んでいる本は『グリモワール』……昨日あなたが見つけてくれた物なのに………
「……………?、あっ、その本!」
ようやく気が付いたようだ……
「なんだー、パチュリー様、その本持ってたんですかー?」
はっ?持ってた?
「実は、昨日お屋敷の探検してたらそれと同じ本を見つけたんですよ。それで、パチュリー様にあげようと思って、レミリア様にあげてもいいかって訊きに行ったんです。でも、その後、すごく眠くなって、部屋で寝て起きたら、その本無くなっちゃってたんですよ。でも、パチュリー様が持ってたのなら、必要なかったですねー。ちょっと残念だな……せっかく、パチュリー様が喜んでくれると思ってたのに……」
この子……本当に気付いていないの…?
「………あのね、十夜………これ、あなたが捜してきてくれた物よ?」
その言葉に、十夜が「ふぇ」っと間抜けな声を出してわたしの顔を見た
「えっ、で、でも僕、昨日パチュリー様に会いに来てませんよね?なのに、なんでパチュリー様が僕の探してきた本を持って……えぇっ、なんで?」
どうやら、レミィは十夜が寝ている時にこっそり持ってきたんだろう………
「昨日の夜中に、レミィがわたしの所に持ってきてくれたのよ。きっと、寝ているあなたに気を使ってくれたんでしょうけど………」
「なんだ、そうだったんですか?じゃあ、それは僕の探してきた本なんですね?……良かった。……でも、折角だから僕が渡したかったのになー」
「大丈夫よ、その気持ちだけでもすごく嬉しかった。だから、ありがとうって言ったの。この本は、すごく貴重な本なの。わたしもずっと欲しかった本なのだから、ね」
そう言うと、十夜は嬉しそうに顔を綻ばせて、少し照れくさそうに顔を俯けた
十夜のそんな顔を見ているわたしも嬉しくなって、少しだけ口元を緩めた………
「パチュリー様、どうぞ。冷めないうちに飲んでくださいね」
咲夜がわたしの前にあるテーブルに暖かな紅茶を置く。わたしは、本を片手にカップに手を伸ばし、口に運ぶ。鼻孔をくすぐる香りが心地良い。咲夜が淹れてくれるお茶はいつも美味しい……言葉にはしないけれども……文句の付けようもない
「あの、恐れ入りますが、パチュリー様。今日、十夜はまだ、ここに来ていませんか?」
咲夜が尋ねてくる……
「いいえ、今日はまだ来てないわよ」
十夜がいつもここに来る時間は過ぎているが、少しくらい遅れる事は時々ある。元々約束して来ている訳ではないのだから……
「そうですか…では、おかわりは止めておいた方が良いですね……そう。じゃあ、これから来るのね。あの子…」
最後の言葉は、ほとんど聞こえない程の小声になっていた。
咲夜は、少し悪戯っぽく微笑んでいる…
「…ちょっと、どういうことなの、咲夜」
わたしのその言葉に、咲夜は自分の薄い唇に指を当て、『内緒です』、と答えると、そそくさと図書館を出ていってしまった…
「なんなの、一体…?」
いつもと違うメイドの態度に、少しばかり戸惑った……
それから、数十分後……
それまでと変わらずに本を読んでいたわたしは、何かの臭いに気が付いた…
何だろう、この臭いは……?独特な、豆を煎ったような鼻腔をくすぐる香ばしい香り…
臭いが流れてくる方向に顔を向けると、そこには十夜が立っていた。その手には銀色のトレイを持って………トレイの上にはコップが二つ。いつも、咲夜が淹れてくれる紅茶を入れるようなカップではなく、円柱に取っ手のついたコップだった。十夜は、それの中身をこぼさないように慎重にわたしのいる場所まで持ってきて、一つをわたしの前に、一つを自分の前に置いた…
「…今日は、少し遅くなっちゃいましたね。すみません」
わたしは、十夜の声に返事を返さなかった。無視したわけではない、目の前に置かれた飲み物に集中していただけ…
「………十夜、これは…何?」
目の前に置かれた真っ黒な液体、そこから立ち上る香しい香り。見た事もない物体だった
「あっ、やっぱり知りませんでしたか。……これは『コーヒー』っていう飲み物です。レミリア様に連れてこられるまで、あっちの世界では僕が好きな物でした。もっとも、これを飲むと夜にあまり眠れなくなるので控えてましたけど……どうしても、飲みたくなって咲夜にお願いしたんですよ。そしたら、わざわざ人間界まで調達に行ってくれたらしくて。で、昨日レミリア様にも飲んでもらったんですが、『苦っ』って言って嫌がられてしまったんですよ……それで、今日はパチュリー様にも飲んでもらおうと思って持ってきたんです。咲夜が、『パチュリー様は紅茶しか飲まれないから、きっとコーヒーなんて見たことも無いでしょう』って言ってたから」
確かに以前、人間が読む本で見たことがある。コーヒー豆というのを煎って砕き、それを熱湯
で濾して飲む物だと書いてあった。が、実際に見るのは初めてだった
「で、わたしはこれを飲めばいいのね?」
十夜は、ニコニコしながら元気に『ハイっ』と頷いて見せた
正直、少し抵抗がある。確かに、この香りは良いが、問題はこの色だ。コップを手に取り、中を覗いてみた。………底が見えない……コップの中には漆黒が広がっている
横目で十夜の様子を見てみる。わたしの顔をじっと見つめている…飲むしかないようだ……
……全く………純粋なのも、罪よね……
「……分かったわ」
わたしは意を決してコップを口元に運ぶ。噎せ返るような香りの洪水が鼻腔に流れ込んで来る。液体を口の中に流し込み、黒い液体を味わう
「……ぐっ、けほっ、けほっ……何これ!すごく苦い!」
一口飲んだ瞬間、わたしは噎せてしまった。普段飲んでいる紅茶とは味が違いすぎる。舌を刺すような強烈な苦み………レミィの反応が身に染みて良く分かったわ……
「えー、やっぱりパチュリー様も駄目ですかー?」
そう言って十夜は、自分のコップの中身をコクコクと飲んでいる。
「あなた……苦くないの?」
「はい、僕は砂糖を結構入れてますので」
「…………少し、あなたの方を飲ませてくれる?」
十夜は、はい、と自分のコップをわたしに渡してくれる
『コクッ』
一口飲んでみる
口に含んだ瞬間に広がる心地良い香り、適度な苦み、そしてその苦さを洗い流すような適度な甘味……
「…………美味しい……」
口から素直な感想が出た。
「でしょう?コーヒーは美味しいんです。なのに、レミリア様ったら、『私の口には合わないわ』って言ったんですよ?」
十夜は、不満をこぼしながらも、わたしが美味しいと言ったことに対して嬉しそうだった
「…でも、十夜、なんでさっきわたしに渡した方には砂糖を入れてくれなかったの?苦いのは分かってたんだから……」
「えっ、だって、咲夜が、『大人はコーヒーには砂糖は入れないでそのまま飲むものなのよ』って言ってたから……パチュリー様は僕より大人だから、それでいいのかなって思って…」
成程………咲夜の一言でわたしはこんな苦い物を飲む羽目になったのね……後で覚えておきなさいよ……術の一つでも喰らわせてあげるわ…
そんな暗い考えが頭をよぎる……わたしの顔を見ていた十夜が少し怯えた顔になったのが横目で見えた
「あのー、パチュリー様…………?」
その言葉で、わたしは我に返った。
「あの、笑った顔がなんというか、いつもと違って…怖いんですけど」
「……ああ、ごめん。ちょっとね、考え事をしていただけだから、気にしないで」
どうやら、咲夜の事を考えてる内に微笑していたらしい……
それで、十夜を怖がらせてしまったことは、反省するとしよう……
それにしても、この、コーヒーというのはなかなか美味しいものだ(もっとも、砂糖が入っていればだが)
「……ねぇ、十夜。今度から、あなたがこのコーヒーを飲む時は、わたしにも淹れてきてくれるかしら?毎日紅茶でも悪くないけど、コーヒーもたまには飲んでみたいわ。あっ、もちろん砂糖入りでね」
少し怯えた表情のままだった十夜の顔がその言葉で輝いた
「本当ですか、パチュリー様?」
わたしは、首を縦に振った
「えぇ、お願いするわね、十夜。…あ、先にも言ったけど、必ず砂糖は入れてね。あんな苦い物は二度とごめんだから」
わたしは心の中で『わかってるでしょ?』と付け加える
十夜はわたしの目を見つめた後、『分かりました』と、笑顔で返事を返すと、いつものようにわたしの隣で魔術書を読み出した
わたしと十夜の間に穏やかな空気が流れる……
十夜と出会って一ヶ月しか経っていないのに、ずっと側に居てくれたような感じがする……
彼が側にいてくれれば、何となく暖かな気持ちになる
長い間生きているが、こんな気持ちは……初めてだった
レミィと一緒に居るときの感じとは違う
彼女と一緒に居る時と、どこが違うのかを訊かれても答えることは出来ないが、確実に何かが違う
……自分の気持ちが分からない事が、こんなにもどかしいと思ったことは無かった……
『知識の魔女』と呼ばれるわたしにも、分からないことがあるのだと教えられた……
……目の前の幼い、人間の少年に……
-少し……悔しかった-
あれから、5年の月日が流れた……十夜は相変わらずこの図書館に通っている。出会ったばかりのあの頃、わたしより低かった身長は、今ではわたしを遙かに越し、わたしが見上げなければならなくなった。顔も、少年のあどけなさは抜け、一人の青年に成長していた
やはり、人間の成長は早い……わたしなんか、たった5年じゃ、外見の変化が表れようも無いのに……
外見ばかりでは無く、精神面でも成長し、十夜は、長い間わたしと一緒に本を読んでいたせいか、魔術書に書かれている文字も読めるようになっていた。
「はい、パチュリー様。冷めないうちに飲んでください」
そう言って、十夜がわたしの分のコーヒーを目の前のテーブルに置いてくれる。漆黒の液に満たされたコップからは、ほこほこと湯気が立っている
「ありがとう、十夜」
コップを鼻に近づける。独特の香ばしい香りがする。普段飲んでいる紅茶とは趣が違うが、コーヒーの香りも、鼻腔をくすぐる、なんとも言えない、良い香りだ
こくりと喉を鳴らして、漆黒の液体を飲み込む…
「……ん、相変わらず美味しいわね、あなたの淹れるコーヒーは」
確かに、十夜の淹れてくれるコーヒーは美味しい。最初の頃は甘すぎたり、苦かったり味に統一性が無かったのだが、回数を重ねる度に上手くなっていき、今ではわたし好みの味をいつでも作り出せるようになった
「へへっ、もちろん。パチュリー様のために淹れたコーヒーですから。まぁ、もっともこの紅魔館でコーヒーを飲むのは俺とパチュリー様だけですからね………味のバリエーションも限られますし…」
十夜は少し寂しそうに鼻の頭を人指し指で掻いた後、自分の分のコーヒーに口を付けた
この5年の間に、十夜は『僕』という一人称から『俺』と言うように変わっていた。成長した姿には釣り合った一人称だが、わたし個人としては、『僕』であった方が、なんとなく気に入っていたのだが………
「……パチュリー様。今日はこれから暇ですか?」
コップに口を付けていたわたしに、十夜がおもむろに問いかけてきた
「……暇と言えば暇だし、暇じゃないと言えば暇じゃないわね…ここで本を読んでるだけだし………大体、あなたもずっとここに通ってるんだから、わたしの行動は分かってきてる筈じゃないの?」
「まぁ、そうなんですけどね……じゃあ、今日はこの後、読書は少しだけやめて暇にしませんか?」
珍しいと思った。今まで、十夜はこの図書館に遊びに来て本を読んで、わたしと話をして……帰るだけだった。なのに……その十夜の方から読書拒否ともとれる言葉が出るとは………
「………いいけど、どうするの?……なにかしたい事でもあるのかしら?」
「はい。パチュリー様と一緒に外に出てみようかなって思って。まぁ、早い話が散歩ですね。ほら、パチュリー様ってほとんどこの図書館から出ないじゃないですか。だから、今でも体力が無くて喘息の持病が治らないでしょう?」
「うっ……」
図星だった……わたしは、長い間この図書館から外に出てはいない……極稀に、所用をたすために館の外に出ることはあったがそれは短時間のことであって、運動とは呼べない程度の動きだった。十夜と出会った頃に患っていた喘息も未だに治ってはいない
「だから、これから少しずつでも運動しましょうよ、ね?俺も付き合いますから……運動して体力をつければ喘息なんてすぐに治っちゃいますって!………それに、…少し、話したい事もありますから……」
最後に十夜は甘えたような表情で『駄目ですか?』と付け加える………この辺りの表情は昔と何も変わっていない………ちょっと、ずるいような気がする
体格的にはわたしよりも遙かに屈強になっているのに、こういう時だけは可愛いなどと思ってしまう
「………仕方ないわね……その代わり本当に少しだけだからね……」
駄目……この笑顔には勝てない
「やった!だからパチュリー様は好きなんです!じゃあ、これから出ましょう。早くしないと夜の妖怪が活動する時間になっちゃいますから」
「はいはい……」
そう言って、十夜はわたしの手を握って、早く行きましょう、とわたしを引っ張った。握られた手の平から十夜の暖かさが伝わってくる………思わず鼓動が早まったが、十夜は気付かなかったようだ……
こほっ……
前を行く十夜が軽く咳をした…
「…風邪でもひいたの?」
少し気になり、尋ねるが十夜からは、『何でもないです』という答えが返ってきただけだった…
「うわぁ……見てくださいよパチュリー様。夕日が湖面に光ってすごく綺麗ですよ!」
十夜がわたしの方を振り返り、声を掛ける。
わたし達の紅魔館の敷地を離れ、館の近くにある湖に来ていた
「……えぇ……そうね……」
言葉をそこまで話すと、わたしは大きく一つ深呼吸をした……こんな短い距離で疲れるなんて……本格的に運動しようかしら……
「駄目ですよ、パチュリー様。いきなり運動したって体に悪いだけですから。少しずつ始めていきましょう。ね?」
「ええ、わかってるわ…………あ、十夜……あなた、またわたしの心を読んだわね……勝手に読心するのはやめてって言ったでしょ?」
言葉の中身とは反対に声の調子は少し笑っていたように思う
「そうでした、すみません」
笑顔で謝ってくる十夜……悪びれた様子は無いが、わたしも本気で怒ったわけじゃないので別段気にも止めない
「とりあえず、一休みしませんか、パチュリー様?疲れたでしょう?」
そう言って、湖面の岸に腰を下ろす十夜。わたしも彼の隣に腰を下ろす……少し冷たい土の感触が、わたしの着ている着衣越しに伝わってくる……
「パチュリー様……今日出てきて良かったでしょう?こんなに綺麗な夕日が見れて…」
わたしの方を向きながら十夜が話しかけてくる
「……そうね、たまには……こんなのもいいかもね」
「そうですよ。こうして、散歩して綺麗な空気を吸っていれば、パチュリー様の喘息だってすぐに治ってしまいますよ」
「………だといいんだけれど」
そう言って、わたしは懐に持ってきていた本を取り出し、パラパラと捲り始めた
「あっ、パチュリー様ってば、本を持ってきてたんですか?今日は読書は休憩だって言ったじゃないですか」
そうだった…………いつもの癖で読み始めてしまった……
「まぁ、いいや………それで、パチュリー様…実は今日誘ったのは、話したい事があったからなんです。あっ、パチュリー様の健康の為にって事も本当ですよ!…………えっと、読みながらでいいから、ちょっと聞いててもらえますか?」
聞いてもらいたいこと……?本を読みながらで構わないから、と言われたので、わたしは視線を本に落とし、読み始めた
「俺、小さかった頃から言ってますけど………パチュリー様の事が好きです。冷たそうな態度なのにどこかで暖かい言葉を掛けてくれたり………無愛想に見える表情なのに、俺に笑いかけてくれるほんの少しの笑顔だったり………子供心に、家族みたいな感じだなって思って……そんな感じで好きだったと思うんです」
わたしは、本を読みながらで良いと言われたが、いつの間にか本から目を離し、十夜の顔を見て、話を聞いていた………
「……けど、ちょっと前から……以前とは違う感情が自分の中にある事に気付いたんです……パチュリー様の側に居ると、嬉しいけど、苦しい……話をしていると、楽しいけど辛い……俺は、パチュリー様の事は大好きだけど、パチュリー様はどうなんだろう……?……そんな事を考えると、段々と不安になってきたんです………パチュリー様の事を考えると、夜もあんまり眠れなくて………」
わたしは、十夜の話をそこまで聞いて、昔読んだ本の一節を思い出した………確か、あれは人間界の書物だったと思う……確かタイトルは『人間の感情』とかいう本、だったと思う……
そこには、恋や愛などといった人間の感情の事が記されていた………魔族であるわたしには、関係の無い話だと思い、それきり興味が無くなっていたのだが………十夜の言葉で思い出した……あの本に書いてあることが間違いでなければ……十夜の今の気持ちは……間違いなく、わたしに対する『恋心』……
わたしは、『恋』という言葉の意味を思い出してみた……
確か、『異性を愛し、慕うこと』……
そして、『愛』とは、『男女が想い合うこと』……
つまり、十夜はわたしを異性として…女性として好きだということになる…………
「……十夜……その事自体は大した問題じゃないわ……健康面で身体に問題があるわけでもないし………あなたは、わたしの事が『好き』、けれども、小さかった頃の『好き』とは違うから、戸惑っているだけ………今のあなたの気持ちは、わたしの事を女性として『好き』って言う事なのよ…」
わたしも、十夜の事は嫌いではない……彼が幼い頃から、側に居たのだから彼の色々な面を知っている……それらを全て知った上で今まで一緒に居たのだから…………
けれども、わたしの気持ちがその言葉に合っているのか?と考えると………よく、分からない……
……そもそも……
「……でもね、十夜………気持ちは嬉しいけど……あなた、忘れてない?……あなたは人間で、わたしは魔族……種族が違うの…………例え、気持ちが通じ合っても、近い将来どうする事も出来ない別れが来る……寿命が違いすぎるの……あなたは、人間の女性と結ばれた方が幸せだと思うのだけれど…」
そこまで、話して…わたしの胸がちくりと痛んだ……………何故…?
ちらっと十夜の方を見ると、彼は少し思い悩んだ表情で俯いていたが、突然わたしの目を見て………そして、ゆっくりと溜息を吐いた……恐らく、わたしの心を読もうとしたのだろうが…そんな事をしても無駄だったのだろう……自分の気持ちが、わたし自身にもよく分からないのだから…………
「……分かりました………ごめんなさい、なんだか変な話をしてしまって…………そろそろ、戻りましょうか?……もうこんなに暗くなっちゃいましたし……」
十夜の言葉に周りを見渡すと、先程まで茜が支配していた景色は既に無く、代わりに深い紺が支配する夜がもうすぐそこまで迫っていた……
十夜は、地面から腰を離すと、動こうとしないわたしの方に手を伸ばして引っ張り起こしてくれた……そして、わたしと十夜は、少し離れて歩きながら紅魔館への道を引き返していった……
わたしは彼の少し後ろを歩きながら、彼の背中を見ていた。………わたしよりも、遙かに大きい筈の背中は、いつもより………小さく見えた………
こほっ
帰り際、もう一度、十夜が乾いた咳をした……
あれから、数日……十夜は図書館に顔を出してはいない……
以前なら毎日のように、ここに来ていたのに…………
「……最近、あの子と…なにかあったのですか?」
わたしのすぐ横に来ていた咲夜が、紅茶の入ったカップをテーブルに置きながら尋ねてくる
「………特に何も無かったと思うけど……」
何も、無かった訳じゃない……けれど、わたしはそう答えるしかなかった……
「最近あの子、部屋から出てこないんです……食事にもほとんど手を付けてない様子でしたし…………それで、プライバシーを侵すことを承知のうえで、時間を止めて様子を見に行ってみたんです……………あの子、机の上に突っ伏して………手紙を書いてたみたいでした。その手紙の隅に小さく『パチュリー様へ』って書いてあったので、何かご存知では無いかと思ったんですが……」
手紙………わたしに何かを伝えようとしているのだろうか……
「……分かったわ…………何があったのかは知らないけど……ここに来たら訊いてみる」
『お願いします』と一礼をして咲夜は図書館を出ていった。ちゃんと育ての親の自覚はあるようだ………幼かった頃の十夜のやんちゃ振りに手を焼く咲夜………少し想像してみて可笑しくなり、微かに口角を上げて微笑むわたしが居た……
同時に、十夜の現在の状況を考えると、少なからず胸にチクリとくる物がわたしの中にあった
それからわたしは、昔と変わらない生活に戻った……
咲夜が図書館に来てから、この図書館には誰も近寄る事は無かった……
5年前と……十夜がこの館に来る前と何も変わる事の無い生活……
あの頃までは当たり前だった、一人だけの生活……本と寝食を共にする生活………
そう…当たり前だった………
………はず、なのに……
一人きりの図書館が、何故か非道く広く見える……
「‥………………………………」
読んでいる本に、ぽつりと水滴が落ちる……水滴が落ちた部分の紙が、水分を吸収し色が変化していく……
………それは、自分の双眸から流れている涙だと気付いた……
「……何で………」
図書館の広大な空間にわたしの小さな声が響く
「…………なんで……こんなに、寂しくなるのよ…………なんで、こんなに悲しくなるのよ!……今までと同じ、一人に………戻っただけ、なのに…」
わたしは、涙を止めようとしたが……次々と溢れ出る雫は、堰をきったように止められなかった……
「………今までは一人で平気だったのに…………ほんの少しの間、十夜がここに来てないだけなのに……」
いつからか……わたしも、十夜の事を特別だと考え始めていたのだろうか……?
わたしも……十夜と同じ気持ちを抱えていたのだろうか……?
そう考え始めた時だった……
「………パチュリー様……」
不意に、閉められた図書館の扉の向こうから声が聞こえた
しばらく振りに聞く十夜の声だった……
「……少し…話したい事が、あるんですが………今、いいですか?」
「……別に閉めてる訳じゃないから、入ってくればいいわ……」
この間までとは全く違う、他人行儀な十夜の態度に、少し怪訝に思いながら、わたしは入館を促した。……そう言った後に、さっきまで泣いていた涙の跡を袖で拭い取った
「……失礼します……」
そう言って入ってきた十夜の手にはコップの乗ったお盆があった……恐らくコーヒーを持ってきたのだろう……
………彼の淹れてくれたコーヒーを飲むのは久しぶりだ…
「…どうぞ……」
十夜のその言葉に、わたしは無言でコップに口を付ける……
以前と変わらない味が、口の中に広がる……
…コーヒーを飲みながら十夜の方を見ると、彼は自分のコップには口を付けず、黙って下を向いて俯いていた…
「……それで、話って…何?」
わたしは、口からコップを離し、用件を話すように促す……
「……………」
十夜は答えない…
「…十夜……」
「………………」
彼の名前を呼んでも返事は無く、気まずい空気が2人の間に流れる…
「………………」
「………………」
「………………」
「……話したいことがあってここに来たんでしょう…?」
沈黙に耐えきれなくなったわたしが再び口を開く
十夜は、何も言わずに自分のポケットの中から一枚の便箋を取り出してわたしの前に置いた
表面には丁寧な文字で『パチュリー様へ』と書かれている
この間、咲夜が話していたのはこの事だろう
わたしは、その便箋を受け取り、再び本に視線を落とす……
「……‥‥後で読ませて貰うわ………用件はそれだけ?……なら、早く出ていってくれないかしら……読書の途中だから……」
自分の心とは正反対の言葉が口から紡がれ出る。
……なぜ?……今すぐにでも自分の心の内を十夜に……伝えたいたいのに……
なんで、この口は思ってもいない事を話してしまうの……!!
「……分かりました………失礼します……」
十夜はそう言って、わたしの飲み終わったコップと、自分の口を付けていないコップをお盆に乗せ、軽く会釈をして図書館から出ていこうとした
わたしは、『そんな事を言いたかったんじゃない』と言いたくて、彼の姿を目で追っていた……
そして、視界の隅に彼の姿を捉えたとき、違和感に気付いた…
彼の立っていた場所の横にある本棚の陰から、何か得体の知れない気配を感じたのだ
その気配は人の型を模して具現し、わたしと十夜の間に降り立った
存在の意識はわたしには向けられていない……………十夜!
「十夜!!」
わたしの声に気付き、振り向いた十夜の手首をその存在が掴んだ
その反動で、十夜が持っていたお盆とコップは支えを失い床に落ち、乾いた音が響く…
「!」
驚いた表情で固まっていた十夜の身体が、次の瞬間には影のような存在によって宙を舞い、わたしの足元まで飛ばされ、転がった……
「くっくっく、こんな場所で人間に会えるなんてねー……ここにあると言う貴重な書物でも戴いてやろうかと思って来てみたけど……思わぬ収穫だわ。今日の夕餉にでもしようかしら…?」
影のように見えた存在が一歩ずつ図書館内に入ってきて、内部の明かりに照らされ、その姿をわたし達の前に晒した
黒い髪、黒い服、赤黒い肌、闇がそのまま形を成したような存在……表情は長い前髪のせいで読めなかったが、口元は口角を上げており、傍目にもはっきりと笑っていることが分かった……
「……あなた……誰…?………ここに、何しに来たの……?」
十夜を抱き起こしながら、視線は鋭く、黒い存在に向けたまま尋ねる。
十夜はわたしの腕の中で頭を振りながら起きあがった。少し肩を打ったらしく、右の肩を押さえている
「おっと、これは失礼……私の名前は『闇鬼(あんき)』……闇に住まう妖怪よ………以前から、ここの書物の話は聞いていてね。蒐集家としては放っておけなくて、こうしてお邪魔したってわけ……」
闇鬼と名乗った妖怪は、くすくすと笑いながら答える……その態度がわたしの神経を非常に逆撫でする……
……わたしは、怒っていた。それこそ、今までこれ程の怒りを自分で感じたことが無いほどに……
わたしの大事な本達を奪いに来たことに関してもだが………それよりも…
「……あなた……さっき、十夜を見て夕餉と言ったわね……それに、十夜に対するこの仕打ち………決して許せる事では無いわ!!」
自分でも信じられないほどの大声を出していた
確かに、わたしとて魔族の端くれ、人間を快くは思ってはいない……人間を襲う妖怪の仲間なのかも知れない………いや、実際人間を襲う存在が身近にいる……レミリアだ。………彼女は吸血鬼、生きるために人間を襲う場面も実際に何度か見たことはある……しかし………
………十夜だけは別だ!……目の前で、自分にとって特別な存在を食材として扱われることに対してだけはどうしても許せなかった…………そう、わたしにとって、十夜はいつの間にか特別な存在になっていた事を、こんな場面に遭遇して、ようやく認識出来た……
「……十夜?……あぁ、そこの人間の事ね。…あなた……そんな人間と仲良くやってるのかしら?……仮にも魔族が人間に惹かれるなんて、恥ずかしくないのぉ?」
「あなたには、関係の無いことだわ……さぁ、早いところ帰りなさいな……これ以上、十夜を侮辱すると……どうなっても知らないわよ………?」
お互いに向き合う形になり、睨み合う……
脅しではない……わたしは手の中で、魔法の軌跡をなぞり、いつでも魔法を発動できる状態になっていた。……赤い光の奔流が渦を巻いて発動の時を待っている
わたしの意識は、完全に目の前の闇鬼に注がれていた……だから、背後から忍び寄ってくる気配に気が付かなかった……
「パチュリー様、危ない!」
わたしは、わたしが抱えていたはずの十夜に突き飛ばされる形で闇鬼から遠ざけられた……
わたしの手の中にあった光の渦は、わたしの制御を離れ、空中に霧散して掻き消えた……
そして、わたしが一瞬前まで居たはずの空間にいた十夜の右足に、大きな裂傷が出来ていた……
「くぅっ……」
「十夜…!」
足を押さえ、うずくまる十夜に駆け寄り治癒の魔法をかける。わたしの専門は精霊魔法の類なので効き目は薄いだろうが、幾分か楽にはなるだろう……ふと、十夜の足元に目をやると、黒い影が蠢きながら揺れている……その影の先を辿ると……闇鬼の足元に繋がっていた…
「ちぇー、外しちゃった……せっかく上手くいくと思ったのになー」
そう話す闇鬼の足元から長く伸びた影が、彼女の方に戻っていく…
「まぁ、もうばれちゃったと思うから言っちゃうけど、私は影を操ることが出来るの。他にも能力はあるけど、今はこれ以上言わなーい」
闇鬼は笑顔を絶やさないまま説明する…
恐らく、十夜はわたしと闇鬼の睨み合いの最中に、彼女の心を読んでいたのだろう……
そのせいで、わたしを庇ってこんな目に……
「ごめんなさい、十夜……わたしがあいつの動きに気付いていれば、あなたがこんな目に遭う必要は…………」
十夜の足の傷は、出血は止まってきたが、痛々しい傷跡がまだぱっくりと口を広げていた……
「いえ、気にしないでください、パチュリー様……大した傷じゃないですから……」
わたしが心配しないようにだろう…十夜は青ざめた顔で、笑顔を作って答えた
とても大丈夫そうには見えなかったが、とりあえず出血は止まっていた事と、十夜が『大丈夫』と言ってくれたので、意識を闇鬼の方へと向け直す。戦いはまだ終わったわけでは無いのだから
「あなた…よくも、十夜を!………絶対に許さないんだから!!」
「あら、わたしはあなたを狙ったつもりだけど?」
「うるさい!」
わたしは、闇鬼の飄々とした態度に苛つきながらも、術の詠唱に入る
わたしが呪文を唱え、スペルを中空に描くと図書館内の温度が明らかに上昇し、空間が揺らぎはじめる……
「…燃え尽きなさい……『火符 アグニシャイン』!!」
術の名を叫んだ瞬間、人間の頭部程もある火球が無数に浮かび、次の瞬間、ゴゥッと音を立て全ての火球が闇鬼の方向へ向かって飛翔する
そして、アグニシャインの火球が闇鬼に辿り着くと巨大な炎の固まりとなり、大爆発を引き起こす
「ふん……偉そうにしてたくせに、他愛ないわね……」
闇鬼が爆発を避ける姿は見えなかった……あの爆発力なら、並の妖怪は耐える術を持たない筈……わたしはこれで終わったと思った……
「さあ、十夜。…あなたの傷の手当てをしましょうか……」
そう言って十夜の方を向いた時、背後に気配を感じた
再び闇鬼のいた方向を振り返ると、目の前に、闇鬼が先程と変わらない様子で立っていた
(そんな……一体どうやって……!?)
彼女の口元がニヤリと歪んだ、次の瞬間、彼女の手の中に黒い光の固まりが生み出される
「!」
「パチュリー様!!」
魔法を防ぐ障壁を張るには、とてもではないが時が間に合いそうもなかった…
わたしは、相手の術を素手で受け止める覚悟を決めて、両手を身体の前で交差させる体勢になり、目を閉じる……ただでは済みそうに無かったが……
しかし、いつまで経っても攻撃がわたしに届く気配はない……
不思議に思い、目を開けてみると………目の前に十夜が立っていた…
十夜の周りに、赤い光の障壁が展開されており、闇鬼の術はその障壁によって霧散していた
「……へぇ、あんた、人間のくせに障壁を張れるんだ……」
闇鬼は驚いていた…先程までの笑顔が消え、少し意外そうな表情になっている
わたしも、正直驚いている……何故、人間の十夜に障壁を張る能力があるのだろうか…?
「ふん、見くびって貰っちゃ困る……伊達に、魔法図書館に入り浸ってないさ…こほっ……」
(残念ながら、攻撃するような術は使えなかったけどね)と、十夜は付け加える
成程……確かに、十夜は長い年月を掛けて魔術書の文字を読めるようになっていた……
更に、わたしと一緒に図書館で過ごす内に、この図書館自体の魔力が少しずつ彼に浸透していって、魔術が使えるようになっていても不思議ではない…
「さぁ、パチュリー様!あいつの攻撃は俺に任せて、パチュリー様は術の詠唱に入ってください!」
そう言うと、十夜は両手を前に突き出し、再び障壁を先程よりも広く、厚く展開する
言葉では強気を保っているが、その表情は赤みを失い、息も荒くなってきている…
「ふふっ、…ただの人間にしては頑張れるみたいだけど……た・だ・の・人間が、魔法なんか使ったらどうなるか分かってるのかしら?」
闇鬼の言うとおり、普通の人間が魔法を使おうとすれば、体にかかる負担は計り知れない… ましてや、今の十夜は、先の闇鬼の攻撃で傷を負っている……無事でいられるわけがない……
「…………大丈夫ですよパチュリー様…自分の限界は自分がよく分かります。あいつの攻撃程度なら、この障壁で防げるはずですから……それに、パチュリー様を守る為なら、俺は命を懸けてでも………」
どうやら、十夜はまたわたしの心を読んだようだ……わたしは、あなたに守ってもらえるような存在なのかしら……あなたに自分の気持ちも伝えられない様なわたしが……
「………分かったわ…お願いね………」
だが、十夜がそこまで決心しているなら、わたしが何を言っても無駄だろう……ならば、彼の負担を減らせるように、少しでも早く、あいつを倒してしまえば良いだけのこと……わたしはそう考えて、彼の進言を呑んだ……
わたしは、術の詠唱を始めるため、目の前で印を組んだ
それと同時に、闇鬼も攻撃を開始する
闇を切り取ったような黒球が一つ・二つ・三つ……無数に思えるほどの弾幕が闇鬼の周りに形成される……
次の瞬間、凄まじい速度で弾幕がわたし達を押しつぶそうと襲いかかってくる……
ドンッ!!
初弾が十夜の障壁に当たり、霧散する
……そこから後は、弾が障壁に当たって砕ける音が響くだけだった……障壁は、無数の弾の衝撃によって少しずつ押されてきている…辺りは霧散した弾の塵で灰色に曇っていた
弾幕の勢いが治まってきた頃、わたしの術が完成した
「……今度はこっちの番よ!行きなさい、『風&水符 ウォーターエルフ』!!」
わたしは術を完成させ、発動させる
一陣の風が地を這いながら疾走し、周りに漂っている灰色の煙を払って闇鬼へと向かう。
風は大気中の水分を巻き込みながら直進し、そのまま標的に激突する。瞬間、巨大な竜巻へとその姿を変え、闇鬼の姿を飲み込んだ……
「……火が駄目なら水よ………これで、どう!?」
灰色の煙が晴れ、闇鬼の居た場所には、何者も存在していなかった…
「…………ふう、今度こそ倒せたようね……」
わたしは、安堵の溜息を一つ吐くが、十夜は未だに障壁を解こうとはせずに、闇鬼の居た場所を睨み続けている
「どうしたの、十……」
「…んふふふ、やっぱりあなたには分かっちゃうみたいねー。ざーんねん…」
何も無い、とわたしが思い込んでいた空間から声が響いた……いや、何も無いわけでは無かった……地面に影が一つ、くっきりと存在していた………
その影から、すぅっと闇鬼の頭が出てくる……いや、頭だけじゃない、首・肩・胸・腰・足と続けざまに闇鬼の体が影から生まれるように出てくる……
「見ての通り。わたしは影の中に身を潜める事が出来るの。あなたの最初の術も、影の中から見させて貰ったわー。あなたの術、凄まじい威力だけど、当たらなければどうと言うことは無いわね、ふふっ……………けど……」
話している途中で、闇鬼の視線が厳しく十夜を射抜く…
「……そっちの人間がよく分からないのよ……あなた、なんで私の事が分かるの?……私の能力を知ってる奴なんかほとんど居ないはずなのに…あなたは私が影に隠れている事を、最初から分かっていたかのように、障壁を張り続けた……どういうこと……?」
十夜は、『答える必要は無いね』と、答えただけだったが、そこで、闇鬼の顔に少しだけ笑みが浮かんだ…
突然、闇鬼が腕組みをし、黙ったまま十夜を見つめる
「…なんだと!貴様、パチュリー様を侮辱するつもりか!?………っ!」
数秒間、2人が見つめ合った後、突然十夜が叫んだ……次の瞬間、しまった、という表情になる
「くっ、あははははっ、やっぱりね。…思った通りだったわ」
十夜の叫びを聞いた闇鬼が笑い始める
「あなた………人の心が読める『異端者』ね?……なるほどー、だから私の動きも読めたって言う訳ね………」
そうか…恐らく闇鬼は、心の中でわたしの悪態でも吐いたのだろう……そして、それを読みとった十夜は思わず叫んでしまった、…………聞こえる筈の無い『心の声』に反応して……
「そういう事なら………力でねじ伏せようと思ってたけど、私もこういう戦い方に変えさせて貰うわ!」
闇鬼が再び攻撃の態勢をとる。両腕を左右に広げ、広げた手の先に先程とは比べ物にならないほどの巨大な黒球を形成する黒球の中では、闇の刃が無数に駆け回っているのが分かった
……わたしも、術を組もうと詠唱を始める……十夜も、先程より更に高濃度の障壁を張っていた。……その表情は血の気を失い、冷や汗が吹き出していた。息使いも荒々しい………次で決めなければ、十夜の体は恐らく限界を迎えるだろう
「…さあ、喰らいなさい!私の奥義を!『陰府 インセクト サイズ』!!」
巨大な黒球がわたし達に向かってくる……十夜はそれを防ぐように障壁を前方に展開する……その様子を見て、闇鬼がニヤリと微笑んでいた……
その瞬間、十夜が目を見開き、障壁の全てをわたしの方へ飛ばして周りに展開する
「パチュリー様!!!」
「なっ!」
『何を!?』と言いかけたわたしを衝撃が襲う……わたしの背後に闇鬼の伸ばした影が迫っていた…一度だけでは無く二度、三度と障壁に攻撃を加える。だが、十夜の張った障壁は頑強で一切傷が付くことはなかった……だが、
「そう、この瞬間を待っていたのよ!」
今が好機とばかりに、闇鬼の放った黒球が十夜に迫り、そして………
「うああああああああああぁぁぁっっっ!!!」
「とおやーーーーーーーーーーーーーっっっ!!!!」
十夜の体が黒球に飲み込まれ、内部で駆け回っている闇の刃によってズタズタに引き裂かれる。皮膚が裂け、血を吹き出しながら絶叫する十夜……その体は力を失って前のめりに崩れ落ちていく………
障壁を全てわたしの防御にまわしたせいで、十夜は、生身の状態で闇鬼の術を喰らうことになってしまった。
徐々に黒球の色が薄れ、床に倒れ伏す十夜の姿が明らかになってくる……
体中が切り刻まれ、おびただしい数の裂傷が体を包む……自らの体液で出来た血溜まりに十夜の体は沈んでいた……
「あっははははは、やっぱりこうなったわね!本当に人間なんて情に脆いんだから。他人の、しかも魔族の女の為に命を懸けてどうなるって言うのよ!………まぁ、最後の断末魔は聞いてて気持ちよかったわよ。あはははっ」
さも満足そうに笑い声を上げる闇鬼を尻目に、わたしはふらふらと倒れ伏す十夜の元に歩み寄った
「…………十夜…?ねぇ、目を開けてよ………お願いだから……死なないでよ……」
わたしの双眸から涙が零れる……その涙を拭こうともせずに十夜の手を取り、体を揺らし続ける……と、十夜の手に僅かに力が戻り、十夜が薄く目を開いてくれた……
「…………パチュリーさま………けがは、ないです…か……?」
わたしは、涙で噎いで、声を出せないままコクコクと何度も頷いた…
「…………そう…ですか……よかっ…た………」
弱々しく口元を引き上げ、無理矢理笑顔を作ってみせる十夜…
「泣か、ないで……ください………おれは……パチュリーさま…を守れただけで……満、足なんです…か…ら……」
十夜は、倒れた状態のまま、わたしの目尻からこぼれ落ちている涙を指で拭ってくれた…ほとんど力が入らない筈なのに…
「あっ……少し、血が…付いちゃいまし……た…………………………………すみませんが、……少し、つかれたので休み………ます…………」
そう言うと、十夜は再び目を閉じ、二度と目を開けることは無かった。
体から完全に力が抜け、だらりとした感覚だけがわたしの腕の中に残される……
「い、いやあああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!」
十夜が死んだ……
十夜がしんだ……
とおやがしんだ……
とおやがシンダ……
とおやが………
とおやが………………………………………………!
その事実だけが、わたしの頭を駆け巡る……目の前の景色が色彩を失い、白黒の世界に見える。目の前で起きた現実が、遠い世界の出来事の様に感じる……
けれども………これは現実。目覚めることの無い悪夢……
「くすくす……あなたの叫び声も良いわねぇ……たかが、人間が一人死んだだけでしょう?どうしてそこまで悲しむのよ…?あなた、本当に魔族なのぅ?」
闇鬼がわたしの事を嘲笑しているが、そんなことはもう、どうでもいい……
もう全てがどうなってもいい……十夜が死んでしまったのなら、この世界自体がどうなったって構わない……!
「許さない………」
自分自身でも抑えられない負の感情が溢れだしてくる…………止められない……!
「……あなただけは……許さないんだからーーーーーーー!!!!!!!」
瞬間、全ての負の感情が暴走したのが分かった……怒り・悲しみ・憎しみ……そういったモノが私の中を駆け巡り……紫色の魔力がわたしの体から零れ出る
「『天高く燃ゆる紅蓮の炎、我にその力の一端を貸し与えよ。セントエルモの名において我の前に立ち塞がりし愚なる輩に噴騰の儀を与えん。その者、自らの業を背負い、永遠なる焔に灼かれ続けるであろう』!!」
普段であれば、喘息が邪魔をして唱えることが出来なかった術も一息の内に詠唱を終えてしまう……この術を使えば、この図書館もただでは済まないだろう…けれども、もう……止められない……
「天の劫火に灼かれるといいわ!!『日符 ロイヤルフレア』!!」
詠唱を終えたロイヤルフレアの火球は始めは火の玉程度に小さく、そして徐々に大きくなる……
「ふん、そんな程度の焔、私が畏れると思って?……掻き消してあげる!闇符………!…えっ!」
闇鬼がそこまで告げたとき、火球は爆発的に膨れあがり空間自体を眩い光の渦で包み込む
本棚を薙ぎ倒し、魔法図書館全体が凄まじい衝撃で振動する……
光は図書館の四方八方に広がり、闇鬼が操る影を全て消し去る……彼女が隠れ蓑に使っていた影さえも…
「くっ、こんな!?……あなた!この図書館ごと灰燼に帰すつもり!?……こんな大容量のエネルギーの術を使ったら、あなたの大事な本達も全部燃えちゃうのよ!?」
「うるさい、うるさい、うるさいっ!!!十夜の居ない世界なんて、全部消えちゃえばいいのよ!」
逃げ場を失った闇鬼は、狼狽えながら話すが、わたしは聞く耳を持たなかった……
「……っ!!!!!!!!」
闇鬼の体が光に飲み込まれ、悲鳴を上げる間もなく消滅していく……
徐々に光が弱まり、空間が色を取り戻していく……闇鬼の姿はもう、何処にも無かった……
残されたのは………
………爆発の勢いで薙ぎ倒された本棚……魔法でコーティングしてあるとはいえ、耐久以上の衝撃が加われば、やはり燃えてしまうようだ…図書館全体の三分の一程度の本が跡形もなく吹き飛び、消滅していた……
そして、足元の血の海に沈む十夜の姿………
わたしは、その場にしゃがみ込み、動かなくなった十夜の背中を、壊れた人形のように繰り返し撫でる……
「パチェ!何があったの!?大丈夫!?」
「パチュリー様!」
開け放っていた扉から、騒ぎを聞きつけたレミィと咲夜が飛び込んでくる……
図書館の惨状と、その中央で血溜まりの十夜を撫で続けるわたしの姿を見て、2人は驚愕していたが、すぐに駆け寄ってきて十夜を抱き起こす…
「パチュリー様!一体何があったのですか?」
十夜をその胸に抱え上げながら咲夜が尋ねる……けれども、わたしは答えない
「ごめんなさい……ごめんなさい、十夜…………わたしのせいで…あなたは……」
そう話しながら、静かに涙を流し続けていただけだった……
「パチェ……」
レミィがわたしの横に立つ
ぱんっ!
レミィの平手がわたしの頬を打った……そう、理解するのに一瞬の時間が掛かった……
「しっかりしなさい、パチェ!あなたが現実から目を背けても、何も解決しないのよ!何があったかは後から聞く……けど、今のあなたの言葉を聞く限り、十夜があなたを庇ってこうなったって事だけは分かった……そんなにあの子に想われてたあなたが、そんなことでどうするのよ!?」
わたしは、打たれて少し熱を帯びた頬を押さえながら、レミィの叱咤を聞いていた……けれど
「………だったら、どうすればいいのよ……?……十夜は、わたしを庇って死んでしまった!……わたしには、人間を生き返らせることなんか出来ない!………あの子に謝ることしか出来ないのよ!!」
そこまで話すと、わたしはレミィに掴みかり……そのまま、わたしは泣き崩れてしまった
「もし……もしも、あなたが…十夜を生き返らせる事が出来るなら、やって見せてよ………………」
わたしのその言葉を聞いたレミィは、すっ、とわたしの体を自分の体から離し、咲夜に抱かれたままの十夜に向かって歩き始める……その途中、私に背中を見せたままレミィが話し始める……
「…………一つだけ、聞いておきたいことがあるわ……………あなた、あの子の事が好き……?
自分が壊れてしまう程に、あなたが執着したことなんか無かったのに…………それ程までにあの子のことが好きになってしまったの…?」
レミィの言葉は、わたしに何かを決断させようとしている意思が籠もっていたように感じた…
『好き』……?
…わたしは改めて考える………十夜はわたしの事が好きだと言ってくれた……それに対して、わたしはなんと答えた?………
『あなたは人間で…わたしは魔族……種族が違う…』
…その言葉で壁を作り、拒絶したのでは無かったか…………
……違う…わたしは、認めたくなかっただけ……その言葉を隠れ蓑にして、自分の気持ちを押し隠していただけ……魔族の自分が人間なんかに心惹かれているのを認めたくなかっただけ………
けれども、……わたしは、気付いてしまった……
……今のわたしには十夜が必要だと…………
「……わたしは………わたしは、十夜の事が好き……いつでも、わたしの側に居て欲しい…………そう、思ってる……今まで生きたきたけど、こんな気持ちになったのは初めてよ………だから…だからこそ、今日……十夜がここに来てくれたとき、あの時話したことを謝ろうと思ったのに……なのに……わたしの口から出る言葉は……彼を、傷付ける事ばかり………」
そして、突然…闇鬼が現れて、十夜は……わたしを庇って、こんな目に……
そこまで話すと再び、目尻に涙が浮かんだ……
レミィは、先程と変わらぬ体勢で、こちらを振り向かないまま聞いていてくれた……
「……あなたの気持ちは、分かったわ………今回の事は、イレギュラーな運命って事で、私がなんんとかしてあげる………」
そう言って、咲夜に、十夜を床に寝せるように指示すると、彼の胸の上に自分の右手を翳す…
ぽうっと、レミィの手の平から紅い光が漏れ始める…赤とは違う、少し淀んだような紅い光……
徐々にその光が強くなる……その内に、十夜の胸の上に翳していたはずのレミィの右手は、紅い光の粒子へと変化し、少しずつ十夜の内に浸透していく………
わたしには、その様子を見ていることしか出来なかった……
「この子は、ここで死ぬ運命じゃなかった……だから、もう一度……もう一度だけ本当の運命に戻してあげるわ……私の力で……!」
そう話した瞬間、ぼんやりと光っていた筈の紅い光が、弾けるように空間に広がる。
わたしも見たことが無い、レミィの、運命を操る能力の具現だった……
あまりの光の強さにわたしは目を閉じそうになったが、目を閉じる瞬間、確かに見た……
十夜の上からもう一人の十夜が降りてくるのを……そして、2人の十夜が一つに重なる瞬間を……
「……ふうっ、終わったわよパチェ………いつまで目を閉じてるつもり…?」
レミィの言葉で、ようやく自分が目を閉じていたことに気付き、はっきりと目を開けて、そして、視線はすぐに十夜の方へと向けられる……そこには、先程と変わらずに横たわる十夜がいるだけ………
いや、明らかに違う……!
血の気を失っていた皮膚は、張りと艶を取り戻し、動くことの無かった胸は、呼吸をするために浅く上下に動いている………
何よりも、あれほど痛々しく体中を埋め尽くしていた傷跡が、綺麗に消えていた……
「十夜!!!」
わたしは、未だ目を覚まさない十夜に駆け寄り、その体に抱きついていた…
暖かい……
…確かに今、十夜はここに生きているのだと実感できる…
「……う……ん………?」
わたしの腕の中で身じろぎしながら十夜がゆっくりと目を開ける……
「……あれ…俺、死んだ筈じゃ………?パチュリー様…?」
十夜は、状況を把握できていないらしく、周りをきょろきょろと見渡している…それから、自分の胸に抱きついているわたしを見て、そっと背中を両手で包んでくれた……
「現実よ……十夜………あなたは、一度死んだけれど、レミィの能力で生き返ることが出来たのよ……」
わたしは、まだ涙の残る瞳で十夜の瞳を見つめる……
「………そうだったんですか………レミリア様、ありがとうございました…俺を生き返らせてくれて…………もう一度…………パチュリー様に……会わせてくれて………」
十夜は、わたしの目を見た瞬間にわたしの気持ちの全てを理解したようだ……
もう、この気持ちを隠す必要は無い……
わたしはこんなにも、十夜、貴方のことが好き……それは、ごまかしようの無い真実だから……
だが、十夜に礼を言われたレミィの方を横目で見ると、彼女は………にこりともせずに、十夜の顔を見つめていた……
「………礼を言われることはしていないわ……わたしは、貴方の為にやったわけではない……パチェの悲しむ顔を見たくなかっただけ。それに、わたしはイレギュラーな運命を元に戻しただけ………正規の運命は変えようが無いわ……」
レミィは、そう話すと踵を返して図書館を出ていった。
言葉に含みがあったように感じたが、いまは只、十夜が生きていた喜びを素直に感じていたかった……
「…………パチュリー様……?」
わたしは、首を横に振る…
「……『パチェ』って、呼んで……十夜…」
呼称を変えること、それは、貴方が特別な存在だと告げることと同等だった。が、
「……いいえ、パチュリー様は、パチュリー様です……こっちの方が慣れてますから…」
十夜は、わたしを『パチェ』と呼ぶ事は無かった…
「………どう、言う事……?」
日が暮れて既にかなりの時が経ち、深夜と呼ばれる時間帯に、わたしはレミィの部屋で彼女と向かい合わせに座っていた。彼女の隣には咲夜の姿もある……紅茶の入ったカップを手にしたまま、わたしは今レミィから聞いた言葉を頭の中でくり返していた……
『あの子……もう長く生きられないわよ……』
レミィの口から出たのは、残酷な一言だった……
「どうして…!あの時、ちゃんと運命は変えてくれた筈でしょう!?………死ね筈の無い運命に!」
がちゃん、と目の前のテーブルに持っていたカップを置き、レミィを問い詰める…
「あの時言ったでしょ……私が変えたのは、あくまでもイレギュラーな運命……起こりうる筈の無かった運命だけ………あ正規の運命を変えることは出来ないって………あの時…十夜の運命を変えたときに分かったの……あの子はもうすぐこの世からいなくなる運命だって…………あの子は、人間が持つべきじゃ無い力を持ってる。その事が肉体的・精神的に負担を掛けてるの……これが、意味する所は……分かるでしょう…?………十夜自身も、今日会いに行った私達の心を読んで、その事は知っている…」
レミィは淡々と話す…
特殊な能力を持つことは、肉体・精神共に負担が掛かる…それに耐えられなくなったとき、待っているのは、妖怪であれば消滅………………人間であれば………確実な……死…
でも、
「でも、能力を持っている点なら、咲夜も同じ筈でしょう!?咲夜だって時を操る能力を持ってるのに今まで無事だったじゃない……なら、十夜だって……」
十夜だって無事でいられるはず………そう思ったが、わたしの頭は、一つの答えを導き出した………けれども、それを言葉にしてしまえば、十夜の、生の先に待ち構える死を認めてしまうことになる……だから、言えなかった……
「パチュリー様…私は、自分の能力を自分で制御することが出来ます……ですから、必要な時にだけ発動させる事が出来ます………ですが、十夜は自分自身の能力を制御できていますか…?」
わたしが言い淀んでいると、レミィの横に立っていた咲夜が尋ねてくる……
十夜の能力は……自分の意志とは無関係に、相手の心が自分の中に流れ込んでくる能力……そんな力を制御できる訳が無い……制御できない力は、絶えず漏れだしているエネルギーのようなものだ……もし、それが、十夜自身が生きるための生命エネルギーであるならば………結果は自ずと導き出される……
「…………………」
「…………理解は出来たみたいね……あなたの気持ちはともかくとして……」
レミィは、自分の前に置かれた、もう湯気の出ていないカップに口を付ける。その指が少し震えているのが分かる…自分でもどうしようもないことが悔しいのだろう…
「…………いの…?」
「………何…?」
わたしの言葉は、はっきりと言葉にならない程に掠れていた…
「…なにか、助かる方法は無いの…?」
絞り出すような声で、一縷の望みを掛けてわたしは尋ねる。が、想いは残酷な形で裏切られる事になる…
「………少なくとも私は分からないわ…今まで、人間には無関心だったし……大体、人間の知り合いなんて、咲夜しか知らないし……」
「…そう……………」
わたしは、音もなく椅子から立ち上がると扉のある方向へふらふらと向かって歩き始める…
「…パチェ、どうするつもり……?」
扉から出ていこうとするわたしの背中にレミィが声を掛ける。
……どうする?
……分からない……
わたしは無言のままレミィの部屋を後にした………
図書館に戻る途中、わたしは、咲夜の部屋の隣にある、十夜の部屋に寄ってみた
十夜は既に自分のベッドで寝息を立てている……時折、苦しそうに咳込む事があった…以前に何回か聞いた事のある乾いた咳……あの咳が、恐らく体調が変化してきている予兆だったのだろう……
「……せっかく……想いが通じたのに、ね…………十夜…」
寝ている十夜を起こさないように優しく頭を撫で、静かに扉を閉めて部屋を後にした
それから、わたしは以前のように図書館に籠もる日々に戻った……
違うのは、自分の知識を深めるために読書をするのではなく、十夜を救うための方法を探すために読書しているという事……
半数近くの本が、以前の闇鬼の襲撃の際の一見で燃え尽きてしまっていたが、それでも本当に必要な本には障壁を張っていたため、読む分には困らなかった…
十夜が図書館を尋ねることも無くなっていた……
時折、お茶を持って来る咲夜から十夜の様子を聞くと、少しずつ、動くのも辛くなってきているようで、ベッドの上で退屈そうにしていると言うことだった……更に、レミィからの言伝では、十夜の生命エネルギーが少しずつ、でも、確実に失われている、と言う事だった………それでも、わたしは会いたい気持ちを抑え、彼の元に赴くことは無かった……想いが薄れたわけではない…想いが強いからこそ、会う時間も惜しんで助ける方法を探したのだ……
だが、本当はもう、分かっていたのかも知れない………これが、十夜の本当の運命なら、逆らえないのではないか…?こんな事をしていても方法が見つからないのなら、最後の時まで、十夜と一緒にいた方が良いのではないか?
そう思った瞬間、それまで抑え込んでいた気持ちが爆発する…会いたい!一時も離れたくはない!絶対に助からないのなら、せめて……せめて、最後の瞬間までは、一緒にいたい!
それからは、考える必要は無かった…わたしは、自分の感情が向くままに行動した。……もう、以前のように、自分の気持ちを隠したまま、悲しい思いはしたくなかった…
近くにあった本を両手に抱え、図書館を飛び出して十夜の部屋に向かう…
「十夜!」
バタンと勢いよく開けられた扉の音に、部屋の主は驚いていた…
「パ、パチュリー様!?どうしたんですか、そんなに慌てて?」
十夜は、汗で濡れた下着(上だけだが)をベッドの上で着替えていた最中だった……
「……ごっ、ごめん!…」
初めて異性の裸を見てしまった……わたしは顔が火照るのを感じて、入ってきた時と同じ勢いで廊下に飛び出し、扉を閉めた…
しばらくして、扉の向こうから入室しても良いとの声が聞こえて、今度は静かに扉を開けて部屋に入る
「どうぞ、パチュリー様、座ってください…」
十夜は、自分の近くに置かれている椅子を指差し、わたしに座る様に促した
わたしは、促されるままに椅子に座ると、両手に持っていた本を十夜のベッドの枕元に置いた 正直、わたしの腕力でこれだけの本を持って歩くのは辛かった…
「……ほら、寝てばかりで暇でしょうから、適当に本を持ってきてあげたわ…感謝しなさい……」
「わあ、ありがとうございます!パチュリー様!」
そう言うと、十夜は輝くような笑顔をわたしに返してから、積まれた内の一冊を手にとって読み始める
わたしは思う…
その、笑顔を見れただけで、ここに来て本当に良かったと……
この笑顔を、近い将来、永遠に見ることが出来なくなるという現実の意味を……
そして、改めて…最後の瞬間まで、彼の側に居たいと
過ぎていく時間……部屋に聞こえるのは、本のページをめくる、ぺらり、ぺらりという音だけ……わたしは、そんな彼の様子を静かに眺めていた…
そうして、どれぐらいの時間が過ぎただろうか……十夜の部屋に日光がほとんど射さなくなった頃、持っていた本を自分の足の上に置き、十夜が話し始めた……
「……パチュリー様……俺の体のこと、レミリア様から聞きましたか…?」
「………………えぇ……聞いたわ…」
「そうですか……」
「………………」
「………………」
2人ともそれ以上の言葉を続けられなかった
そのまま、また少しの時間が流れる
沈黙を破ったのは、わたしの方だった
「……十夜、あなた、悲しくは無いの…?近い将来、自分が死ぬと分かっているのに……」
「………悲しいですよ……でも、自分が死ぬことが悲しい訳じゃありません…………貴女と……パチュリー様と別れることになるのが悲しいんです……せっかく、2人の気持ちが重なったのに…こんな事になるなんて……」
十夜は苦笑いのような表情を浮かべ、ポソリと呟いた
「……そうね…………ねぇ、十夜……そんな能力が無ければと思ったことはない?…その能力を持っていたばかりに、親に捨てられ、人に疎まれ、挙げ句の果てに自分の命さえ失うことになった…この能力が無ければ、と思ったことは無い?」
それは、以前からわたしが聞いてみたい事だった…だが、十夜の事を思うと訊くのが躊躇われていた…けど、今はどんなに些細な事でも、十夜の事を知りたかった
「……そう…ですね………やっぱり、両親に捨てられた後は、なんでこんな能力を持ってるんだろうって思いました……………でも、今はこの力に感謝しています……確かに、この力が無ければ平穏な日常が手に入ったかも知れません……でも、この力が無ければ、俺はパチュリー様に会えなかったでしょう……自分の命と引き替えに、自分の命よりも大事にしたい人を手にする事が出来た……そう考えれば、恨むことは出来ませんから……」
そう言ってベッドの上で微笑む十夜をきゅっ、と抱きしめていた
わたしは、こんなにも愛されている…
そんな十夜を、わたしも愛している…
「パッ、パチュリー様……恥ずかしいですよ……」
「…大丈夫よ…誰も見てないから……」
しばらく、そうした後、わたしは十夜から離れ、『また後でね』と話して、部屋を後にした…
図書館へ戻る帰り道、先程の十夜の笑顔を思い出し、わたしの瞳から涙が零れた……
それから、わたしは毎日の様に十夜の部屋に通うようになった…
十夜の症状は、少しずつだが、確実に悪化していく…
時折、気分転換になれば良いと思い、人間界から咲夜に持ってきてもらった車椅子なる物に十夜を乗せ、館の外に散歩に出ることもあった……
一月程経った頃には、十夜はほとんど歩けなくなっていた……
「……十夜、入るわよ…?」
片手に数冊の本を持ったまま、いつもの様に、軽くノックをして部屋に入る
十夜は布団で寝息を立てていた…
「……せっかく見たがっていた本を持ってきてあげたのに…………最近、眠ることが多くなったわね、十夜…」
わたしは、ベッドの横に置いてある椅子に腰掛け、手に持っていた本を揃えた足の上に置く…
十夜は近頃睡眠時間を多く摂るようになっていた。一度眠るとなかなか起きなくなり、日を増す毎に、その時間は延びていっていた…
「……これも、あなたの命が消える前兆なのかしらね………」
言葉にすると、その瞬間が来ることが現実味を帯びる……
結局、図書館中の本を読み漁ったが十夜を救うような術は、どの本にも書かれていなかった…
「……きっと………もう、ほとんど時間は残されていないんでしょうね…………」
わたしは、十夜の運命を素直に受け止められるようになっていた……
いや……受け止められるように努力していた、と言うのが正しい気がする…
一番辛いのは、きっと十夜なのだ……だったら、わたしが落ち込んでいても仕方がない…その時が来るまで、わたしが十夜を支えていくのだと…決心していた…
「……ん、………」
身じろぎしながら十夜が目を覚ます……
「……おはよう、十夜……今日も随分眠っていたわね…」
微笑みながら寝起きの十夜に話しかける
まだ意識がはっきりしないせいか、反応が鈍い
「………あ、…パチュリー様………おはようございます…」
ようやく、意識がはっきりしたようで返事を返してくる……
「えぇ………でも…おはようとは言ったけど、もう夕方よ…?少しばかり、寝坊じゃないかしら?」
「そうですね……また、寝過ぎちゃったみたいです……」
いつもより、声のトーンを上げて話すわたしと対照的に、十夜の声に張りは無い……
ここ最近は、ずっとこんな調子だ…
「ほら、あなたが前に読みたがってた本を持ってきてあげたわ……」
そう言って、足の上に置いていた本を枕元に置いてやる
……昨日までの十夜なら、喜々として受け取ったであろうが…今日の十夜は本を取ろうとしなかった…
「どうしたの、十夜…?いらないの?」
「……………」
「…十夜?」
「…………腕が………動かないんです……」
「えっ…!」
わたしは、慌てて十夜の布団をめくり上げる…
そこには、力無く伸びている腕があった……
「……嘘でしょう!………十夜!」
十夜の腕を握りしめる形で持ち上げる
…重い……完全に弛緩しきった感覚………
握りしめた十夜の掌が、わたしの手握り返してくれることは無かった…
ついに、その時が来てしまった……
覚悟はしていたことだが、実際に目の当たりにするとなかなか受け入れることは出来なかった……
わたしは、その場に泣き崩れてしまった……………
その日を境に十夜の症状は加速度的に悪化していった…
ベッドから起きあがる事も出来なくなり、どんどんやつれていく……
わたしは、そんな十夜の側に常に付き、看病役を買って出た……
血色の良かった顔色は土気色をした病人のそれになり、
柔らかくて、明るく茶色がかった髪はその艶を失っていった…
「……パチュリー様……」
額の濡れタオルを交換している時に、ちょうど十夜が目を覚まし、わたしの名前を呼ぶ…
「…どうしたの、十夜?」
絞り直した濡れタオルを額に置きながら、優しく答える……
「……何処ですか……パチュリー様…?」
目は開いているが、視線はわたしを見つけることは無く、空を彷徨っている……そう…今度は視覚を失ってしまったのね…
わたしは、特に驚く様子も見せずに、彼の顔を両手で優しく包みながら
「大丈夫………わたしはここにいるわよ、十夜……何処にも行かない……あなたの側にいるわ…」
その声で、十夜は、ほっ、と安堵したような表情になり、再び眠りに落ちていった…
本当にもう……数日も保たないかもしれない……
その日、朝から十夜の部屋にレミィ・咲夜・わたしが揃っていた
先日、レミィが十夜の様子を見に来た際に、十夜の生命エネルギーが今日中にも尽きるかも知れないという事だった……
とうとう、この日が来てしまった……
出来れば迎えたくはなかった日……
想いを分かち合った人が死んでしまう日など、迎えたくは無かった…
「……十夜……」
今、目の前には咲夜に着替えをしてもらっている十夜が居る……
眠りから目覚めた十夜は、わたし達3人が揃っているのを感覚で感じたのだろう……
3人が揃っている意味も含めて全ての意味を感じ取ったようだ…
「………そろそろ……お迎えが来るんですね………」
十夜がベッドに横になった状態のまま、掠れる声で呟く
わたし達は答えることが出来なかった
誰一人として、十夜に死んで欲しくなどないのだから………
「…いいんですよ……俺は、十分に生きました………本来なら、人間界で捨てられ、そのまま死ぬはずだったんです……でも、レミリア様は……人間の世界で路頭に迷っていた俺を、拾ってここに住まわせてくれました……………咲夜は、小さかった俺を優しく、厳しく育ててくれました…………そして…」
十夜は一言一言を噛みしめるように話し始めた……言葉の途中から、十夜は涙を流し始めていた…
「………そして…パチュリー様は…………俺にとって、特別な存在でした……いつの間にか、命を懸けてでも守りたい存在になっていました………俺は……俺は、本当にパチュリー様の事が好きでした………せっかく、お互いの気持ちが通じたのに……」
その言葉を聞いて、わたしも彼の体に抱きついて泣いていた
「わたしだって…わたしだって、あなたの事が好きよ十夜!……死んで欲しくなんか無い……!でも、わたしじゃ、あなたを助けられない!………このまま、あなたと別れたら、わたしはまた、あなたと出会う前の一人だった頃に戻ってしまう……!せっかく、一人じゃなくなったのに………」
もう一人には戻りたくない!
「お願い……十夜………死なないで…!あなたがいなくなったら、わた、しは……わたしは…!」
もう、恥も外聞も関係ない…!わたしは自分の感情に素直に泣き続けるだけだった…
「……大丈夫ですよ………………パチュリー様は……もう、一人じゃない………レミリア様も咲夜もいます……そして、俺も…………………………………………………パチュリー様………俺は、例え、死んでも………例え……この体が消えても魂だけは……この、想いだけは……パチュリー様の側にいますから………………ぼくは……パチェの、そばに……いる………か…ら………であえて……よかっ…た……」
十夜は、最後の最後で……わたしの事をパチェ、と呼んでくれた……『様』付けではない、特別な呼び方で……
言葉の最後に……ほとんど聞き取れないほどの声で、『ありがとう』と呟き…体の力を抜く……十夜は、その言葉を最後に…目を閉じて……動かなくなった……
「十夜………?……十夜!?……とおや!……いや、……いやぁーーー!!!」
目を閉じて動かなくなった十夜に抱きついて、泣いた…
泣いて、泣いて、涙が涸れて無くなるかと思うほど泣いても、涙が尽きることは無かった……
わたしが泣いている間、咲夜は一緒に泣きながら、わたしの背中をさすってくれていた…
レミィも声を出しては泣かなかったが…わたし達に背中を向けて震えていた……
「……準備は良いわよ、パチェ…」
そう話すレミィの方を振り向く……そこには、紅魔館の中庭に描かれた魔法陣の中央に横たわる十夜の亡骸……
そして、その両脇に佇むレミィと咲夜……
「……分かったわ……」
そう言って、本を片手に魔法陣に歩み寄るわたしの目は、未だ充血していた……
十夜が死んでしまったあの日から、わたしは図書館で、三日三晩泣きはらし、ようやく今朝になって、2人の前に出てこられた……そして、十夜の弔いをしようという話になった…
この幻想郷では、人間よりも魔族、妖怪の類の方が多い……その為、人間が死ぬと、特別な供養というものは無く、そのまま打ち捨てられる事が多い……けれども、わたしは……十夜をそんな風には絶対にしたくなかった……
「…じゃあ、始めるわ……」
わたしは、両手を広げ、術の詠唱に入る………一つ、呼吸を吐き出し、言霊を紡ぎ上げる…
『漆黒の闇に浮かぶ白銀の月、願わくば、輝きの欠片を我が前に示し、その身を一欠けの結晶と化して、浄化させよ』
ーサイレントセレナー
符の詠唱を終えると、紅魔館上空の雲が晴れ、満月が顔を覗く……その、月から差し込む光が徐々に強さを増し、青白い光の帯となって魔法陣の上に降り注ぐ…その光の中、十夜の体も淡く発光し、十夜の体も、ゆっくりと輪郭が失われていく……
やがて、月からの光は、目も開けていられない程の輝きとなる…
『……ありがとう……十夜……わたしも………あなたと出会えて…良かった…』
誰に聞かせるでも無く、わたしは、心でそう、呟く……そして、わたしの瞳から零れた一滴の涙が光り、そして…わたしの視界もまた、光で埋め尽くされていく…
視界が戻ったとき、魔法陣の中に十夜の姿は無かった……代わりにそこにあったものは、青白い輝きを放つ、一欠片の輝石だった……
これで良い……十夜の魂は、月の光で浄化され、またいつか、輪廻を繰り返し、人間に転生するだろう………わたしは、その力の副産物で出来たこの石を、彼の形見にして持っていよう……
彼が存在していたという証拠として……
そしていつか………彼が転生した時に、再び出会うための道標として……
「パチュリー様、お茶をお持ちしました」
本を新しく集め直し、外観・内壁共に新しくなった図書館の入り口で、咲夜が一礼をして飲み物の入ったカップを持ってくる……わたしの横に立って、テーブルに置いてくれる……わたしは、本を読みながらそれを口に含む……
「……少し………ぬるいわ……」
珍しく、彼女の淹れたお茶に不満を漏らす……
「あら、すみません、私とした事が……すぐに淹れなおしてきますわ」
そう言って、お茶を淹れ直そうとした咲夜に声を掛ける……
咲夜は、一瞬驚いたような表情になるが、すぐに笑顔になりかしこまりました、と頭を下げて図書館を出ていった……
しばらくして戻ってきた咲夜が持っていた物は、先程までのようなカップではなく、円筒形をしたコップで、中身は紅茶よりも遙かに濃い色をしたコーヒーだった…
「はい…お待たせしました、パチュリー様」
置かれたコーヒーに口を付ける………
けほっ…けほっ…
……噎せてしまった
「本当に良かったんですか、砂糖とか入れなくても……」
咲夜の問いに、わたしは首を縦に振る…
「……今度、会ったときには……わたしが、コーヒーの良さを…あの子に教えてあげるのよ…」
そう、それは…いつか必ず再会出来るという望みの表れ……
「そうですか……では、その苦いコーヒーにも早く馴染んでもらいませんとね」
咲夜はクスクス笑いながら図書館を後にする……
やっぱり、いきなり砂糖無しはきつかったかしら……
そんな事を思いながら、苦いコーヒーを少しずつ飲んでいたときだった……
ドンッ
大きな音と共に、突然、図書館自体が激しく揺らいだ…
「なっ、なに!?」
この広大な図書館に何があったのかを確かめるべく、わたしは椅子から降り、音のした方へと向かった……
「わぁー、本が一杯だー!」
向かう先の一角で声がした……どうやら、声からして女性のようだ……巨大な本棚を曲がると、そこには白黒の衣装に身を包んで、箒にまたがって飛行する少女がいた…どうやら、人間のようだ…
「後でさっくり、もらっていこ」
!
聞き捨てならない。苦労してここまで集め直した本を持っていかれてたまるか…!
「持ってかないでー!」
わたしはその少女の元へと浮かび上がり、警告した…
「持ってくぜ」
聞く耳持たずだった……
わたしは手にした本を開きながら呟く…
「えーっと…目の前の黒いのを消極的に倒すには……」
「黒いのって……ゴキじゃないぜ、私は…」
そこまで会話をして、ふと気付く…
なんだろう、この感じは…?
目の前の黒いのは、確かにここを襲撃しに来た(物色しに来た?)者らしいが……
なんだか気になる……
「どうした?…私の顔に何か付いてるか?」
よく分からない………
でも、十夜…………あなたにまた会う日まで、確かにわたしは一人じゃ無くなるかも知れない………
暇だけは……しそうに無いわね……
お互いに構え、同時に、それぞれの魔法の詠唱に入る……
(あなたは………わたしを、孤独から解放してくれる人かしらね…………)
わたしは……お互いの魔法がぶつかり合う中、そんな事を思っていた
to be next 紅魔郷?
換言すれば、幸せを知らないものは不幸にならない
しかし、不幸に会わなければ幸せを知ることが出来ないのもまた事実
出会い、孤独を知り、離別を経て別の出会いに遭遇したパチュリーの今後に幸あれ
パチュリーテラモエス。
そうなるのか~~。
いや、良い話でした。
いやはや素晴らしかったです