※この作品は◇によって人物の視点が切り替わります。
ご注意を。
魔法の森にひっそりと建つ道具屋『香霖堂』。
幻想郷の外側から流れ着く品を取り扱うこの店には、人も妖怪もやって来る。
僕は森近 霖之助。
ここ香霖堂の主だ。
主といっても、商売より読書に費やす時間の方が圧倒的に多いけれど。
さて、今日も本を読みながら……ん? 誰かが来たようだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「やあ、いらっしゃい」
『香霖堂』という古ぼけた道具屋。
カウンターの奥に座る男は読んでいた本から目を上げてそう言った。
でも目を上げたのはほんの少しの間だけ。
私の顔をちらりと見ただけですぐ本に目を落としている。
「こんにちは。何か新しいものはないかしら?」
彼の反応はいつものことなので私もあまり気にしない。
しなくなった、と言うほうが正しいけれど。
「新しくて珍しいものならその辺にある箱の中に入っているよ。あまりお勧めはしないけどね」
本から目を離さないまま、指さしながら彼は言う。
これが霊夢や魔理沙なら違う反応をするのだろうが、私は彼女らと違って勝手に品物を漁ったり持って帰ったりはしない。
それだけ信用されているのだ。
……それが『普通の対応』ともいう気がした。
「そう? じゃあ勝手に探すわね」
「ご自由に」
彼が指差した場所、品物が乱雑に積まれた一画に立つ。
探し物をしながら考え事をする。
さっき『勝手に品物を漁ったり持って帰ったりはしない』といったけれど、本当は違う。
『しない』のではなく『できない』のだ。
それが私。
他者と関わりを持たないわけではないが、深い関わりを持つわけではない。
他者に強い興味を抱かないわけではないが、強い興味を抱かれたいとは思わない。
裏を返せば、強い期待を持ってそれを裏切られるのが怖い臆病者。
それが私。
いつだったか、紅魔館の魔女にもそう言われた。
……今はちょっとした心境の変化が起こりつつあるけど。
だからだろうか。
最近、家の中が妙に広く感じられる時がある。
一人でいることが寂しく感じられることがある。
そして、そんなときは胸の奥がちりちりと痛む。
この感情はなんだろう? もしかして私は孤独というものを苦痛に感じているのだろうか?
そんなはずはない。
私はいつも一人だった。
生まれたときから一人。
誰も必要としない代わり、誰にも必要とされない。
それが当たり前。
……でも、その当たり前が当たり前じゃなくなったのはいつからだろう?
人間も妖怪も、昔では考えられないほどたくさんのものが私の周りにある。
失いたくはない……のだと思う。
だとすれば、私は、そうだ、孤独というものを恐れている。
それが当然だと思っていた昔の自分を。
そして、同じように恐れている。
私が失いたくないと思っているものたちにそう思われていないことを。
――例えば霊夢。
――例えば魔理沙。
彼女らは私のことをどう思っているのだろう?
私と同じように私のことを思ってくれているのだろうか?
もし、そうでなければ……私は……。
――カツン。
ふらふらと飛んでいた思考が暗闇に落ちそうになったそのとき、指先が固いものに当たった。
箱。
それはちょうど手のひらに乗るほどの、金属製の小さな箱だった。
きっとこれに違いない。
考え事をしていたのに体はきちんと当初の目的どおりに動いていたようだ。
その小さな箱を手に取る。
――箱からは、頭の芯まで痺れるような香水の甘い香りがした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ねえ、これで合ってるかしら?」
アリスがカウンターへ持って来た物を見て、危うく本を取り落とすところだった
置かれた箱を手に取り、見間違いではないかとあちこちから観察してみるが、それは紛れもなく本物だった。
「これ……本当に見つけたのかい?」
箱から目を離して訊いてみる。
自分でその辺にあると言っておきながらおかしなことを、と思ったが仕方あるまい。
それほどに動揺していたのだ、僕は。
見つけられると困るものか?
そう訊かれれば、そうだ、とは言わないが、彼女にこれを見つけられるとは思わなかったのだ。
「ええ、そうよ」
それが何か?
と疑問符の浮かんだ顔で言われる。
困ったことに、これは本当に彼女が見つけたらしい。
おかしいな。
これは先日、あの魔理沙が見つけることの出来なかった物なのに。
「それで、これはいったい何?」
と、お決まりの質問。
それで動揺している自分を元に戻すことが出来た。
大体の客は見たことのないものに対してこういった質問をするので、これはもう条件反射のようなものだ。
「例によって使い方はわからないけど、これは人の願いを叶える物だよ。でも――名前はわからない」
「……わからない?」
そんなはずはない、といった顔をされた。
まあ確かに気持ちはわからなくもない。
僕には『未知の道具の用途と名称を知る能力』がある。
その僕に名前がわからないなんて、と言いたいのだろう。
「あ、いや待ってくれ。名前がわからない、というより、おそらくこれは名前を付けられないまま捨てられるかした物だと思うんだ。いくら僕でもないものはないとしか言い様がないからね」
とまあ、事実ではあるが言い訳めいたことを口にしながら箱の蓋を開けてみせる。
中に入っているのは紫色をした直径五、六センチほどの水晶玉。
もちろん普通の、ではない。
表面は綺麗に磨かれているが、内側に黒い靄のようなものが溜り、形を変えながら輝いている。
……いや、形を変えながら、というより一定のリズムで鼓動する心臓のようにも見えなくはない。
明らかに人の手が入った物、マジックアイテムの類だ。
――だけど名前を付けられないまま捨てられるとは、いったいどんな経緯のあったものなのだろう?
ああいや、そんなことよりも今は滅多にない商売の途中だった。
好奇心に傾きかけた気分を慌てて切り替える。
「……それで、どうするんだい?」
「――え?」
吸い寄せられるように水晶玉を見つめていたアリスは、僕の問いに驚いたような顔をした。
考え事をしていたせいか、僕が何を言っているのかわからなかったのだろう。
次第に頭が回り始めるにつれて、表情が少女のそれから変わっていく。
慎重に品定めをする蒐集家の顔に。
「……え~と」
アリスは迷っているようだった。
何せ人の願いをかなえる水晶玉だ。正直に言えば欲しいが、それを否定する考えも強いのだろう。
『お勧めはしない』と言ったとおり、この水晶からは僕でさえ良くないものを感じる。
それが否定の材料になっていることはまず間違いない。
……中には呪いが掛かっていても気にしない、なんて豪気なことを言うのもいるけど。
「う~ん……」
さっきからアリスの表情がころころ変わっている。
二つの意見が正面からぶつかり合って拮抗するとき、余程表情を隠すことが上手くなければ大概表に出てしまうものだ。
その中でも彼女は出やすい部類に入るのだろう、そう思った。
アリスが水晶玉と睨めっこをしている隙に、僕は調理場へと引っ込んだ。
確かこの辺に、この前霊夢が代金のかわりに置いていったお茶があったはず……。
「どうぞ」
未だ睨めっこを続けるアリスの前に、お茶の入った湯飲みを置く。
「どうして私に?」と目で問いかける彼女に、
「君は数少ない『まともな』お客さんだからね。これくらいはサービスするさ」
と、言っておいた。
『まともな』というところにアクセントを置いていたのは、思わず出てしまった本音というやつだ。
決して他意があったわけじゃない。
相手が相手だ。商売をしようとすれば、僕じゃなくてもそうなるはずだ。
アクセントの意味に気づいたのか、アリスは苦笑しながら「ありがとう」と言って湯飲みを手に取った。
「じゃあ、いただきます……」
適当なところに腰をかけて湯飲みに口を付けようとしたその時、
部屋の中に、微かな香水の甘い香りが漂い、
「「あっ――!」」
アリスの手から湯飲みが滑り落ちた――
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「――よっと」
落ちていくティーカップを横合いから伸びた手が受け止める。
中に入っていた紅茶がその手を濡らした。
……ティーカップ? 紅茶?
さっきまで私は香霖堂にいたはず……
「あーこれじゃ染みになるな。おいアリス、何か拭くものをくれないか? ……おーいアリス?」
ここは私の家?
私はどうしてここにいるの?
さっきまでのあれは、もしかして夢?
それにさっきからアリスアリスって……
――パカン!
「痛っ!」
くらくらする。
何かで思いっきり頭を叩かれたみたい。
「目は覚めたか? まったく、昼間から寝ぼけるとはいい度胸だぜ」
顔を上げると箒片手に呆れている魔理沙がいた。
瞬間、思考がフリーズした。
ぎぎぎと錆付いたように硬い首を動かしてあたりを見る。
テーブルにはソーサーが二つ。
私の向かいに置かれた一つにはティーカップが乗っていた。
順当に考えるならこれは魔理沙のだ。
「え? え? どうして魔理沙が家にいるの? なんで一緒に紅茶なんか飲んでるのよ?」
私の頭は物事をまだきちんと理解できていなかったらしい。
考えていたことが端から口に出た。
魔理沙はそんな私を見て、
「やっぱり寝ぼけてるみたいだな」
何故か箒を振り上げて、
「ここは一つ、ショック療法といくか」
――ガツン!
うう、痛いよう。
……………………
「あー? さっきまで香霖堂にいた?」
カーペットにこぼした紅茶の後始末を終えた後、まだ痛む頭をさすりながら事の次第を魔理沙に説明すると、彼女は想像通りの顔をした。
まあ、つまり言葉で表すと、
「お前、何言ってるんだ?」
とこんな感じ。
魔理沙が言うには、私が香霖堂に行ったのは昨日のことらしい。
そこで何か珍しいアイテムを手に入れたからお披露目をすると、こういう話だ。
だが、私はいつになってもそれを見せようとしない。実は家に呼ぶための口実だったんじゃないか?と疑っていたら、突然魂が抜け落ちたようにぼーっとしてカップを落とした、ということらしい。
正直言ってまったく記憶にない。
逆に魔理沙が、もしくは彼女を含めて何人かが、何らかの方法で私をからかっているんじゃないか?
そう思えるほどだ。
でも、そんなことをして誰に何の得があるわけでもない……ということもないかもしれない。
目の前の黒白なら面白半分でやりそうだから。その周辺の妖怪なら便乗しかねないから。
とはいっても本気で呆れている魔理沙がいる以上、この仮説は何の意味も成さないのだけれど。
「そんなことより、早くその珍しいアイテムって奴を見せてくれ」
珍しいアイテム……あの紫色の水晶玉のことだろうか?
持って帰った記憶、というより香霖堂から帰った記憶がないのだ。
持っていたかどうか、また持って帰ったならどこに置いたかなんてわかるはずも……
――あれ?
ポケットに何か硬い箱のようなものが入っている。
恐る恐る取り出してみるとそれは香霖堂で見つけたあの箱だった。
蓋を開けてみると、中にはやはり水晶玉が入っていた。
「お? それか?」
魔理沙はその箱を目ざとく見つけると、ぼーっとしている私の手からひょいと取ってテーブルに置いた。
そのまま慣れた手つきで箱を開けて、中の水晶玉を取り出す。
それを見て、私は驚いた。
――ない。あの水晶玉の中にあった、黒い靄のようなものが。
「なんだこれ? ただの水晶じゃないか」
こんなものを見せに呼んだのか?
そう言いたげな魔理沙に弁解の一つもしようとしたその時、
「違うわよ」
私の口からそんな言葉が飛び出した。
――あれ? いま喋ったの、誰?
考えているうちにも体は私の意志を無視して動き、魔理沙に近づいていく。
魔理沙は私の顔を見て驚いたようだ。
いつもとは違う、真剣な表情で私と距離を置くと、懐からミニ八卦炉を取り出して構えた。
それで大方の察しはついた。
「……お前、アリスじゃないな?」
その一言が駄目押し。
やっぱり私はアレに体を乗っ取られている。
見えるし聞こえるし感じるけれど、手も足も何一つ自分では動かせない。
出来ることといえば考えることくらい。
まるで、他人の体の中に意識だけが入れられているよう。
「ありす? ……ああ、アリスね」
思い返すように私の名を口にしたワタシは、にたりと、薄気味の悪い笑顔を浮かべた。
魔理沙の顔に緊張が走る。
「ワタシは彼女に呼ばれたの」
「……アリスに?」
「そうよ。彼女ねえ……貴方が欲しいみたい」
ドクン、と胸が鳴った。
な、何を言い出すのこいつは!?
「だから、ねえ? 貴方、彼女のものにならない?」
言った。
言ってしまった。
ずっと心の中にしまっていた、絶対に知られまいと思っていた願い。
でも、と。
一縷の願いを込めて魔理沙を見た。
もしかしたら、魔理沙も……。
「嫌だぜ」
――え?
「私は誰のものにもならない。私は私だからな」
――拒絶された?
――魔理沙に?
殴られたような衝撃に、目の前が真っ暗になった。
信じていたのに。
貴方は私を拒絶しないと信じていたのに。
じくじくと、私の中に黒いものが染み出してくる。
このどす黒いものは……絶望……そう、絶望という感情だ。
「だから、早く……」
「――あはははははははははは!!」
耳障りな笑い声が魔理沙の声を掻き消した。
違う。
耳障りなのは魔理沙の声だ。
ワタシはその耳障りな声を私に聞こえないようにしてくれたのだ。
なんて優しいヒト。
まるで白と黒が入れ替わったような爽快感。
ワタシの声は心地いい鈴の音。
魔理沙の声は耳障りなノイズ。
だからいらない。こんな魔理沙はいらない。
「人形たち――!」
ワタシの号令で、窓を割ってドアを破って、百を超える人形たちが魔理沙に襲い掛かる。
スペルを唱える間もなく、魔理沙は人形たちに組み伏せられていた。
「さ、アリス。貴方にプレゼントを用意してあげるから、少しの間だけ眠っていてちょうだい」
――ええ、わかったわ。
……………………
――プレゼントが出来たわ。起きなさい、アリス……。
「う……ん?」
ワタシの声が聞こえた。
プレゼントが出来た、と言っていた。
どんなプレゼントだろう?
膨らむ期待に急かされながら目を開くと、テーブルの上に置いてある、小さな椅子に座った人形が目に入った。
「わぁ……!」
私は思わず歓声を上げていた。
魔理沙だ!
魔理沙の人形だ!
とてもよく出来ている。
衣装は細かいところまで作りこまれているし、髪の毛はウェーブの掛かった金髪だし、くりっとした大きな目はガラス玉の代用品じゃないし、顔や手や足の皮膚は人形とは思えないほど温かい。
そして、このサイズの人形にしては、、、、、、ずいぶん重たい。
これってまさか……
冷水を浴びせられたような感覚。
上気していた心が一瞬で凍りつき、私の中で黒と白が入れ替わる。
それはつまり正気に戻るということ。
それを見越したように、
――プレゼントはどうだったかしら?
耳障りな声が聞こえてきた。
そして、ワタシが見聞きしたものが私の中に入ってくる。
組み伏せられている魔理沙がいた。
山のような人形たちに手足を押さえられ、身動きすらままならない姿でワタシを睨みつけている。
その唇がずっと言っていた。
「アリスを、私の……友だちを、返せ……よ」
肉を削がれ、骨を断たれ、命が尽きる瞬間まで、ずっと。
『強い期待を持ってそれを裏切られるのが怖い臆病者』。
紅魔館の魔女は私をそう評した。
その通りだ。
私は本当に臆病者だった。
だからあの時、私は簡単に絶望した。
信じることを諦めた。
いや、信じてさえいなかった。
その結果が……これだ。
「うぅ……魔理沙……魔理沙ぁ……」
涙が人形を濡らす。
でも、人形は何も言ってはくれない。
魔理沙の肉を捏ねて、魔理沙の皮を貼り付けて服を着せただけの人形。
どうしてこんなことになったんだろう。
私はこんなものが欲しかったわけじゃない。
私は、私はただ……
「みんなと一緒に少しでも長くいたかっただけなのに……」
人形を抱きしめたまま、私は泣き続けた。
気づかなかった、気づくことの出来なかった絆を知って。
「『私は彼女が欲しい。もしそれが叶わないなら、どんな形でもいい。彼女を私のものにしたい』――貴方の言葉どおり、彼女は貴方のもの。契約は無事に果たされたわ。だから、今度はその対価を頂戴。貴方の魂をね」
ワタシの声。
それは私の内側から聞こえてきた。
直後、体の中に冷たいものが入り込んでくる。
皮膚を突きぬけ、肉をくぐり、私の――アリスという存在の最も深いところに向かって突き進んでいく。
――ああ、そうか。私はワタシに魂を取られるんだっけ。……もういいや。私なんかどうなったって……。
ぼんやりとそんなことを考えたその時、ぐいと、後ろに引っ張られた。
体は依然としてそこにある。
それでも私はぐんぐん遠ざかっていく。
まるで魂だけが引っ張られていくよう。
――次は間違えないようになさい。
意識を失う寸前にそんな声が聞こえた。
笑ってしまう。
私に次なんてあるはずないのに……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「「あっ――!」」
重力に引かれて湯飲みが床に落ちる。
とっさに反応するも、僕の手は寸前でそれを掴みそこね、結果として中身と割れた湯飲みの欠片を床にぶちまけることになった。
水出しのお茶だったから火傷はしなかったが、床に散らばった欠片をまず何とかしなければ。
誰かが踏んで怪我でもしたら一大事だ。
と、その前に。
「大丈夫かい?」
「…………」
魂が抜けたよう、と表現するのがぴったりな顔をして呆けているアリスに訊いてみる。
しかし反応は無い。
青い顔をして、湯飲みを落としたあたりを焦点の合わない目で見ているだけだ。
「……これは少しショックを与えたほうがいいのかな?」
あまり良くない状態だ。迷っている暇は無いだろう。
ごめん、と一言謝ってから僕は右手を上げて、
――パンッ!
軽く、アリスの頬を叩いた。
効果はあったようで、合っていなかった焦点が次第に戻り始める。
「あ……ここは」
赤くなった頬に手を当てて、僕の姿を認めたアリスは、何を言うよりも先に、安心したように胸をなでおろしていた。
その後で、自分が湯飲みを落として割ってしまったことに気づいたようだ。
「ご、ごめんなさい……すぐに片付けるわ」
そう言って床に落ちた欠片を、注意も払わずに無造作に拾い上げようとする。
気が動転しているのだろう。
人形遣いにとって指は何よりも大切なものなのに、そのことに気づかないなんて。
「ああ、いいよ。僕がやっておくから」
少し強く彼女を押し留めて欠片を拾い始める。
僕が怒っていると思ったのか、初めアリスは俯いていたが、やがて僕が何を言いたかったか理解してくれたらしい。
「ありがとう」と、小さな声で言った。
ほどなくして。
割れた湯飲みは本当に細かな欠片を残して片付けることが出来た。
アリスはというと、壁に寄りかかったまま床を見つめている。
顔色はさっきよりはましだが、決していいとは言えない。
――あのわずかな間に、いったい彼女に何があったのだろう?
「あの……」
声をかけられて現実に引き戻される。
また考え事に没頭していたようだ。
「ああ、すまない。少し、考え事をしていた」
「……その、水晶のことだけど。……やっぱり、買うの、やめるわ」
「そうか」
躊躇いがちに切り出す様子を見て、次に何を言うか察しはついていた。
彼女の具合の悪さは、あの水晶に原因があると見ていいだろう。
ついさっきとは違い、アリスの水晶を見る目には、どことなく『恐れ』のようなものを感じるからだ。
「悪い夢を見ていたような気もするし……今日はこれで失礼するわね」
アリスが出て行くと、店の中は急に静かになった。
そして広く感じられた。
一人と二人。
たったそれだけの差がどれほど大きいか。
きっと彼女も、今の僕と同じ気持ちになることもあるのだろう。
「それにしても、悪い夢、か」
ちらりと天井を見やる。
そこには天井板があるだけ。
誰の姿も見えない。
だが、僕にはそこにいるという確信があった。
「いるんだろう? 出てきたらどうだい?」
返事はない。
何だかだんだん腹が立ってきた。
このままじゃ、僕は天井に向かって話しかけるただの変人じゃないか。
「あら? それはあながち間違いじゃないかもしれないわね」
もう一度呼ぼうとして口を開いたそのとき、そんな声とともに空間に一本の切れ目が入った。
その切れ目――スキマから顔を出したのは八雲紫。
口を開けたはいいが何を言おうとしていたのか。
彼女の不意打ちのおかげですっかり忘れてしまった。
「……アリスに何をしたんだい? どうせ君の仕業だろう?」
「ふうん、『アリス』ねえ。魔理沙が聞いたらどんな反応するのかしらね……まぁいいわ、そんなことは」
黙っているのも癪に障るので、疑問をそのまま口にしたら手痛いしっぺ返しをくらった。
それも含めて、彼女にとっては『そんなこと』程度の価値しかなかったらしいが。
僕の横にゆったりと降り立つと、箱の中の水晶玉を取り出して、明かりに透かして見ている。
「それは売り物なんだ。返してくれないか?」
「これを買い取ろうっていう客に、そんな態度でいいのかしら?」
「……『買い取る』だって? そんなつもりはないくせに」
言ってから後悔したがもう遅い。
紫はにっこり笑って、
「わかってるじゃない」
開いたスキマの中に水晶玉を放り込んだ。
もうこれで二度とあれを見ることはないだろう。
「代金は後で受け取って頂戴。お金で買えない貴重なものよ」
どういうことだろう?
首をかしげる僕を尻目に、
「……眠いからもう帰るわ」
と欠伸混じりに言ってスキマの中へと帰ってしまった……。
……………………
あれからもう一ヶ月になる。
今ではあの時の、紫の言葉の意味がわかるような気がする。
時計を見ると……もうそろそろかな。
「おーい香霖。遊びに来てやったぜ。今日はアリスも一緒だ」
「一緒って何よ。偶然そこで会っただけでしょ?」
予想は見事当たった。
魔理沙とアリスは今日も仲良く喧嘩をしながら店に入ってくる。
昨日は両方ともまったく逆のことを言っていたような気もするが。
――まあ、つまりはそういうことだろう?
何故なら、悪魔は、人を騙さないから。
ただ被害者の無知や慢心を利用するだけ。
無知であるが故に、人は狂気-例えば独占欲-に囚われ
未来を懸念することなく悪魔と契約を果たし、後悔する。
・・・確かにオーソドックスな悪魔ですね
甘い香りは、やはり罠のイメージがあるんじゃないかと
ウツボカヅラとかは、甘い匂いで虫達を誘き寄せるそうですし
ラストがハッピーな終わりで何よりです