Coolier - 新生・東方創想話

願わくは

2005/09/11 21:41:49
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さく、さく、と霜柱を踏むのが好きで、
月が元気な内から庭に出ていた。
かじかんだ指で口を覆って、のどの奥から息を吐く。
隙間を抜けた白い靄は、空気に溶けて透明になった。

この、地面から視線を上げたのがまずかった。
影送りの要領で、虚空に姿が浮かびあがる。
祖母の顔が出てきそうに思えて、強く目を閉じた。
吐息が消えていくように、まぶたの裏の名残も霧散していく。

ほ、と安堵がこぼれた。
年長者の多分に洩れず、祖母は一家でも早起きだったから、
こういう朝はよく一緒に歩いたものだ。
それは、祖母が死んでからも。

昔は。
居なくなったはずのおばあちゃんに会える。
そんな、素敵な力だった。





――願わくは――





会いたいと思えば出てきてくれる。
当たり前のことだと思っていて、友達に笑われたことがあった。
両親はひどくびっくりして、いけないことだと教わった。

「おばあちゃんは死んだの。だから、呼んではいけないよ」

どうしてそれが「だから」で繋がるのか分からなくて、
でも怒られるのも嫌だったから、誰も見ていないときだけにした。
その頃から、よく一人で居るようになった。
お父さんもお母さんも、おばあちゃんが嫌いなのかな、なんて思っていた。

そっと「おばあちゃん」を呼んで、花が開くのをじっと見たり。
露の光る草の上に寝転がって、東の空が白んでいくのを眺めたり。
なにも悪いことなんてしてなかった。



舞の稽古がお休みになった日だった。
一緒に習っていた友達のお父さんが亡くなったらしかった。
当時の私は「亡くなった」という意味を知らなかったから、
黒い服を着てお葬式に行って、覚えたのだった。

なんだ、死んだっていうことね。

なんでみんなして泣いているんだろうと思っていた。
友達のお母さんは、顔をくしゃくしゃにして、
何度も何度もその人の名前を呼んでいた。

どうして私がそうしたのか、それだけが思い出せない。
ただ隣にいって、一緒に名前を呼んであげた。

今でも、そこから後は鮮明に覚えている。

その場のすべての視線が、私と傍らの存在に集まった。
誰も動かなかった。

友達のお母さんは目を見開き、手を伸ばした。
手は宙を掴んで、ゆっくりと下がり、途中からぱたりと落ちた。
口は何か言いかけて、でも言葉が見つからないのか、止まっていた。
そのまま両手で顔を覆うと、崩れ落ちてしまった。

友達のお父さんは、消えた。

みんな、鬼が後ろを向いたみたいに一斉に動き出した。

だるまさんが転んだ?
うん、もう見てない。どこかへ行っちゃった。



それから、舞の稽古はなくなった。

友達が遊びに来ることもなくなって、私は暇になった。
退屈が私の右足を掴むとき、私はおばあちゃんを呼んだ。
そんな毎日が続いて、ある日唐突に気づいた。

おばあちゃんは何も喋らない。

そうだったんだ。
なにかが急に冷めていった。
それに気づいてから、おばあちゃんを呼ぶことに飽きた。
つまらなかった。
つまらないつまらないつまらない。

そうして日が沈んで月が沈んでまた日が沈むのを眺めている時間が
覚えきれないほどたくさん過ぎて。
どこからか、半分人間で半分幽霊っていう人が来た。
どこからかとは言っても、お父さんが呼んできたらしかった。

「魂魄妖忌と申します。宜しくお願いいたします、お嬢様」
「よ、よろしく」

近寄りがたい雰囲気だけれど、気さくに手を差し出してきた。
おずおずと握手をしてみると、ごつごつとした手だった。
私の手はほとんど握りこまれてしまうくらい大きくて、暖かい手。
そして、その肩からひょっこり頭?を出している残り半分に目が行った。

「こちらは触ってはなりません。とても冷たくて怪我をします」

伸ばしかけた腕をあわてて引っ込めた。
ばつが悪くなって、ごまかそうとして口をついた言葉は、

「貴方は何をしにきたの?」

ちょっと変な質問だったろうか、と言ってから気づいた。
それでも妖忌は目元の笑みを絶やすことなく答えた。

「庭師、庭の植物たちの世話をする者です」
「ふぅん」

世話といっても、うちの庭は桜ばかりだ。
手入れなんていらないんじゃないかとは思ったけれど、
さすがに本人の前で言うのも気が引けて、曖昧に頷いた。

実際、あまり忙しそうなことはなく、よく遊んでくれた。


それが災いした。


ある日。
私は部屋の中で何をするでもなく転がっていたときだ。
少し離れたところから声が聞こえてきた。

「ちょっとそこを退いていただけませんか?」
「すまぬ、だがここから動く訳にはいかん」

お手伝いさんと妖忌が言い合っているみたいだった。

「そもそも貴方は仕事をしてらっしゃるのですか?」
「今もこうして」

庭の手入れは夜明け前に済ませて、日中は私の遊び相手だったから。
つい構ってくれるのに甘えていたけれど、
知らない人にはいつも遊んでいるだけに見えたろう。
それをよく思わない人も、きっと。

「ふざけないでください!」

それでも、怒鳴り声を耳にして私は我慢できず飛び出した。

「妖忌を悪く言わないで!」

睨み付けた。
お手伝いさんは呆気にとられ、そして顔を青くした。

「え、あ、あの、すみませんお嬢様」

おろおろと謝る彼女を一瞥すると、
固まってしまっている妖忌の手を引き、足早に立ち去った。


数日後。
その女中さんは近くの川で見つかった。

妖忌が何かしたのでは、という噂が流れた。
半分幽霊などという得体の知れない者だ、
妖しい術を使えてもおかしくない、などと。

私はまた怒って。

噂をしていた人たちは、死んだ。
目の前で、ぱたりと。
理由なんて知らない。
ちょっとびっくりしたけど、天罰だ、いい気味だ、と思った。

けれど、私にあまり出歩くなと。妖忌は悲しそうに言った。
なぜか妖忌まで私とどこか距離を取るようになった。

何がなんだかわからなかった。
ぜんぜん納得できなくて、がむしゃらに行動した。
妖忌についてまわったり。
物陰から息を潜めて覗いてみたり。
妖忌の御飯を全部食べてみたり。
けれど妖忌はいつも困ったように笑うだけで、構ってはくれなかった。
私もだんだんと、どうでもよくなっていった。
なにもかもが。




///

渡り鳥たちが、夏を迎えたことを知らせる。
遠く風鈴の音が響いてくる。
蝉の鳴く声も。

鈴虫の鳴く声が聞こえると、秋になったことを知る。
風は冷たくなって、葉が落ちていく。
空は澄んでいて、月がよく見える。

気配が埋もれて、冬を知らせてくれるものはない。
空高くから降ってくる花びらは、わたしのものより白く。
とても冷たい。




///

祖母の顔から思い出した日々も踏みしめていると、
自殺の名所と言われる庭の最奥まで来ていた。
春になると人払いがなされて近づくこともできないけれど、
冬でも物好きな人以外はめったにいない。

でも今日に限って、大木の根元に仰向けで倒れている誰かがいた。

そうして、私と物好きな人外たる彼女は出会った。




///

私は口を開けて空を見上げていた。

「貴方……死んでないの?」
「まだ生きているわ」

死体にでも見えたのだろうか。

「じゃぁ何しているの?」
「雪を食べていたの」
「どうして?」
「雪なんて久しぶりだから」

例年ならまだ冬眠している時期だ。

「変な人」
「ちなみに人じゃなくて妖怪よ」

雪より貴方の方がおいしそうね、と笑みを浮かべ言ってみたが、

「ようかい……?」

半眼でこちらを観察している。

「ふぅん。私、妖怪って初めて見たわ」

信用してなさそうだ。否、意に介していない、というべきか。

「貴方も変な人間ね」
「どうして?」
「自覚がないところとかね」

少し考え込んだ後、そうかもね、と彼女は頷いた。
そして急に興味がでてきたのか、早口に訊いてきた。

「名前はあるの? 妖怪なのはわかったけど、何をする妖怪なの?」
「・・・・・・八雲紫、何をするってこともないわ」

夜道で歌ったり、闇を呼んだりはしない。
そういう意味では、何もしない妖怪だ。

「私みたいな妖怪は何もしなくていいのよ」
「別にいいんじゃない。貴方は貴方よ」

なぜか励まされた。言い訳みたいに聞こえたのだろうか。
私は怠惰を恥だと思ったことはないけれど。
それを言うと流石に言い訳みたいに聞こえそうだ。

穏やかに空を飾る粉雪に合わせて、私たちは黙った。
何をするでもない妖怪らしく、ただ空を見上げる。



「気楽そうよね。私も妖怪に生まれたかったなぁ」

彼女がぽつりと洩らしたその言葉だけは。
次の年の春まで溶けることはなかった。





「藍、明日は早くに起こしてくれる?」
「は、今なんと?」
「明日は朝日が昇る前に起こして頂戴」

無言で私の額に手を当てる藍。

「熱はありませんし、お酒の匂いもしませんね……」
「失礼ね」

むむ、と唸っている。

「お願いね」

返事を待たずに寝ることにした。
早寝早起き。健康的だ。

久しぶりの雪は、積もりそうだった。



朝を向かえ、昨日の庭に向かう。
待っていたのは、誰かを期待していたわけではないけれど、
予想していた相手ではなかった。

刀と霊を携えた人間だった。
のんびりと、この妙な庭にふさわしいなと思った。

「お嬢様に留まらず、西行妖にまで近づき何を企んでいる」
「さぁね?」

西行妖。そう、そうだった。
昨日の件で危うく忘れていた。
忘れっぽいのは私のかわいいところ。

「答えられないのは隠しているとみなすが」
「それで、どうするの? まさかその刀で私を斬れるとでも?」

風も止まる静寂に、耳鳴りがする。

「やめて」

横合いからの声に私は大きく息を吐くと、傘を握る力を抜いた。

「お嬢様」
「妖忌。速くお茶を。お客さんを待たせないで」

妖忌と呼ばれた男は私と彼女を交互に見て、頭を下げた。

「承知しました」



聞けば、なんでも西行寺の一人娘で、幽々子というらしい。
家の者が失礼しましたと謝る彼女は、確かにお嬢様然としていた。
私はなるほど、だから貴方も何もしていないのねとからかい、
頬を膨らませるのを見て笑った。



春はまだ来ない。
それでも、ゆるゆると時は過ぎていった。



///

もうすぐ春。
冬芽が開きかけ、彼方に臨む山も白い部分が減っている。

今日もお嬢様と紫殿は庭に出て茶を飲んでいた。

二人は、大きく声をあげて笑いあったりはしていない。
扇で風を送りはしても、舞ったりはしない。
かたや黙々と団子を口に運び、かたやスヤスヤと寝ているだけ。
けれど、そこに流れる時間はとても穏やかで、
お嬢様が年相応の少女に見えるのだった。

自分には成し得なかったことだ。
自分にできたのは、人をお嬢様に近づけないようにすることだけ。
それでは何も解決しないとわかっていたのに。

妖怪とは、不思議なものだ。



///

人間の血の味が、春が来たことを知らせる。

去年いた人の姿はない。
さびしい。

帰らないでほしい。
もっと見てほしい。
わたしの枝の下でお酒を交わし、
わたしの花と共に踊ってほしい。

なのに、どうしてみんな動かなくなってしまうのだろう。

「貴方の力のせいよ」

え?
声?

「貴方はもうただの桜じゃない。無意識に妖怪として人を襲う」

嘘。

「嘘じゃないわ。血の色の花が、その証」

なんだ。
馬鹿みたい。

妖精なんかじゃなかった。
わたしは妖怪だったんだ。

わたしが、わたしを見に来た人を殺してたんだ。

「妖怪なんだから、人を喰らうことは何もおかしくないわ」

でも。わたしは食べたいなんて思ったことはなかった。

ただ――




///

じき、開花する。
自覚を与えても制御はできないようだった。

夜雀に協力させる、というより働かせることにした。
歌えればどこでもいいようで、桜の庭ならまず文句もないようだった。
ただ西行妖には近づかないように、そう言ってある。

死が桜の美しさに因るなら、見なければ大丈夫。
それが私の出した結論だ。

人払いの結界は、規模が大きくなるために目立ってしまう。
咲いている間ずっとともなれば面倒でもある。
そう、正直にいえば面倒。
建前をいえば、退屈を持て余している妙な者たちを呼びかねない。
普段なら、そんなことは気に留めないのだが。

ここで過ごす心地よい時間を邪魔されたくない。
人間は遠ざけ、私は問題なく花見ができる。

なぜか忘れ物をしているような気分で花を見ていた。
そういえば、ここのところ一人でいる時間が少なかったから。



しかし、不意に死の匂いが広がった。




///

歌声が、聞こえる。
春に浮かれているのか、煩いという印象が強い。

そして外に出てみれば。
目は開いていて、月の灯りもあるはずなのに
周りが見えない。
それでもふらふらと足は動く。



木々の香りを乗せ、風が通り抜けていく音。
視界は悪いが、この空気だけでも格別だった。
夜の花見もいいかもしれない。
今度は紫と来よう。
妖忌に言ってお団子もたくさん用意してもらわないと。
うん、たまには妖忌も一緒に連れてきたらいい。

と、足が止まった。

懐かしい匂いがした。
目の前に大樹がある。自殺の名所たる所以の桜だ。
咲いている。印象がまったく違う。
そして何十何百という桜の中で、この一本だけが、違う。

独りぼっちだ。

「死に誘う、桜」

それは望んだことじゃないんだろう。
底冷えするように足元から流れてくる、寂しさ。

ただ――傍にいてほしいだけなのに、って。

私みたい。
違う。
みたいではなく、同じ。

私と、同じ。
私はきっとこの桜から生まれたんだ。

不意に、どこかでひっかかっていたものが取れた。

私は、この桜のように誰かを死なせてきたんだ。


と、黒に塗りつぶされない存在感が近づいてくる。
幽かな驚きを込めた声。

「貴方だったの」

自分でも不思議なことに、ひどく落ち着いていた。

「そうみたいね」

激しさを増す歌声だけが響き、他の言葉はない。
暗闇の中、相手がどんな顔をしているのかは、わからなかった。




///

庭に出ないまま、四日が過ぎた。

「妖忌。白楼剣を貸して頂戴」
「は、しかし……」

お嬢様は後ろ髪に手をやり、

「髪を短くしてみようかな、って。変だと思う?」

久しぶりに見たその清々しい笑顔に気が緩んだのか、
その、澄んだ瞳に吸い込まれそうで、目を逸らした。

「いえ。承知仕りました。きっと似合いましょう」

腰から外し、両手で差し出す。

「駄目なら代わりを探すつもりだったから、妖忌が気に負うことはないからね」

その言葉に違和感を覚えたけれど、何か口にする前に続きが来た。

「留守の間、お願いします」

不自然なほどに穏やかな口調。それらに気づいていながら、
首を傾けただけに留めたのが間違いだったのだ。

気に負うことはない。
それでは、まるで自分が後悔するようではないか。
思い至ったのは、お嬢様が視界から消えた後だった。




///

物音がして、紫様が起きてきたことに気づいた。

「紫様、夕食はできておりますが」
「今日はいいわ」
「またどこかへお出かけですか?」
「えぇ」

紫様の正面に立ち、湯で温めた手ぬぐいを乗せ、寝癖を直して差し上げる。
そして、私がただの道具ではない式としてできることを。

「もう、いいのに」
「そうはいきません」

主が動くのは、何かよっぽどの必要に迫られたときか、
面白いものを見つけたときに限られる。
そして今、差し迫った大異変はない。
ならば後者の筈だが、その割にはお顔が冴えない。

「紫様は何か迷っておられるのですか?」

紫様は目を閉じたまま私の問いには答えず、別の問いで返してきた。

「藍、貴方は私の式になったことを後悔している?」

少し驚いた振りをして、思考をまとめる。
これでどういった類の煩悶を抱えておられるのかは把握できた。
それでも、新しい式がほしいのですかなどとは言えない。
まして私に至らないところがありましたか、なんて、とても。
主のためを想うなら、どう答えるべきか。

「……式でなかったら、と思うことはあります」
「そう」
「式と主という関係でなかったら、もっと違う関係になれたろうか、と」
「……藍」

素早く息をついで、何か言われる前に続ける。

「でも後悔はしていませんよ。今私は十分幸せです」

僅かな間、そして苦笑が返ってくる。

「恥ずかしいわね」
「私だって恥ずかしいですよ!」
「はっきり言うわね」
「はっきり言うことではっきりします。自分にとっても」

頬が熱い。ふん、と鼻を鳴らす紫様。

「だから紫様も紫様の思うようになさってください」
「……勿論よ」

私は頷く。

「はい、これで大丈夫です。いってらっしゃい、紫様」
「ん、いってくるわ」

主が横目で不敵に笑いながら隙間に消えるのを見送り、踵を返す。

これでいい。これでよかったはずだ。
主のためを想うのであれば、独占したいなどと考えてはいけない。
かぶりを振り、そう呟いてみても。
残された二人分の夕食を前に、ため息がこぼれるのは抑えられなかった。




///

屋敷の方を覗いてみると、庭師が瞑想していた。

「あら、一本ないわね」
「お嬢様が髪を切りたいと仰ったのでお貸ししました」
「髪ねぇ」

明後日のほうに目をやりながら続けた。

「短い方、って迷いを断つんだっけ?」
「その通りです。強引に決断をさせるもの、とも言えますな」

顔を妖忌の方に戻し、問う。

「それ、具体的にはどうなるの?」
「どうなる、とは?」
「何かを行うかどうか迷っていたとするわね、その迷いがなくなったら?」
「その何かを、行うのではないでしょうか」

では、迷いを断つ、とは必ずしも良い結果を生むのだろうか。

もはや怪訝そうにしている妖忌を無視して思考が巡る。

良い悪いなど、個々によって変わるものでしかない。
それは境界の位置、程度ではなく、両極が逆なことすらある。
当人にとって良いことが、他人にとって悪いことなんてざらだ。

だからこそ、迷い、悩み考えることは必要であるのに。

もし、幽々子が生きることを迷っていたなら、
迷いは晴れ、生きようと思えるのかもしれない。



けれど、もうひとつの、もし、が残る。
もし、仮に、例えばの話。

幽々子が、死のうかと迷っていたなら、どうなる――?



「紫殿。私めは留守を預かるよう言われました。
 ゆえにお嬢様を信じここで待つことしかできません。
 しかし、何かあれば、身勝手は承知、どうかお嬢様を――」

黙って頷くと、隙間を開いた。

主に従うことが彼の決意であり、彼からの応えなのだろう。

隙間が閉じる前に見えた彼の拳は、半霊よりも白かった。





日が落ちる。


開き疲れた花びらが、枝を離して風に乗る。
ふらり、ふらり。揺られ、ゆっくりと沈む泡のように。
融けない雪は、淡く、優しく、地面を埋める。
幾つも、幾つものひとひらが折り重なる。

草も、岩も、虫も、人も。踊るさざなみに身を任せる。
そしていつしか土になり、空を思い出しまた芽吹く。

妖精が自然の一部なら、私も妖精かしらと思う。
紅すら薄れる桜の世界。桜の他には何もない。
私の境界も霞んでゆく。

ほら、生と死がこんなに近く。


はっと我に返る。

もはや死の渦にあって死そのものとなった西行妖が舞っている。
私と同じ妖怪のくせに、桜が咲いたみたいに綺麗だった。

そして、今にも消え入りそうな白。
まだ生きている死。
探していた人。
弱い人間。

「こんにちは」

幽々子は西行妖のすぐ下、髪に肩に花びらを纏い、ただそこに在った。
こちらを見ないまま、落ちてくる花びらを手に乗せ、こう呟いた。

「綺麗でしょう」
「えぇ」

迷いを断つのではという心配は、杞憂だったことを知った。
とっくに迷いなどなかったのだ。
白楼剣を借りた時点で。

「私、死ぬのが怖いと思ったことはないのよ」
「……」

やっとこっちを向いたと思ったら、これだ。

「この樹はね、きっと寂しいの。でも、だから、どんどん深みにはまる」

樹の幹に手を添え、言う。

「傍らにずっと居ること。それだけが、私にできることだから」

私は何もできない。
それでも。

「早計よ」
「貴方はずっと生きてるのよね? これからも」
「何を言って」
「ここでお別れね」

首を振り、

「私は」

息を吸い、溜めて、告げる。



「他の人間がどれだけ死のうが貴方に生きてほしい」



幽々子はきょとんと目を丸くして、吹き出した。

「ふ、ふふっ。ほんと、貴方らしいわね」

そして目を細めて続けた。

「貴方みたいな人がいないなら、良かったんだけれど」
「私は人じゃなくて妖怪よ」

意味を測りかねる私に、彼女は頷いてみせる。

「そう、そうね。でも関係ない、貴方が何であれ、死なせたくないから」

息が詰まった。
この大妖怪に向かって、それを関係ないと切って捨てて
あまつさえ死なせたくないときた。
私はおかしくておかしくて、まばたきも忘れた。
そのせいで目が熱くなって、

その一瞬だった。





「覚えていてね、ゆかり」





ゆっくり、滑らかに白楼剣が翻り、柔らかい肉を裂く音がした。


血は噴き出さず、しかし背まで貫いた刀をつぅと伝う。
ぽたり、ぽたり。零れ落ちていく。

目が合った。

「…………ゆゆこ……」



弱気に眉を下げ、けれど満足を湛えた瞳だった。



唇を噛んだ。

どうして言えようか。
たとえ死んでも、その力、きっと呪いのように付いて廻るなどと。
貴方は死んでも救われないなどと。

幽々子は静かに目を閉じ、後ろへ倒れた。
軽い音がした。
刀が杭のようにその体を地に縫いとめ、紅が広がった。

幽々子が死ぬという事実に、実感がわかない。
ただじわりじわりと染み込んでいく血を眺め、体が震えた。
鼓動が加速していく。
少しずつ膨らむ焦りが肺を押さえ、体が重くなってくる。


決めないと。



死の魅力に囚われた、あまりにも孤独な二つの魂。
とても似ているそれらの、くだらない境界をなくす。

まずは人間と妖怪の境界。

視界が曇ってきた。役に立たない日傘を投げ捨てる。

「共にあれ、人も妖も」

妖に近づき過ぎた人間と、人に焦がれる妖怪の。

さらに、それを利用して生と死の境界を崩す。
幽々子の死を西行妖に、西行妖の生を幽々子に。

「死に分かたれることもなく」

反動。付近一帯に死者の気配が沸いた。構わない。

目元を乱暴に拭う。

最後に彼女らを結界で囲む。
人に戻ることのない亡霊と、咲くことのない樹が、輪廻に捕まらないように。
そして広域にもう一つ張って二重結界となす。
死者が拒まれず居られる庭を創るために。

彼女らは苦しみ続けてきたのだから。

「安らかな夢に、その業を忘れなさい」

せめて、それくらいは許せ夜摩天。

とうとう嗚咽が漏れた。


花びらが、枝のものも宙のものも、一斉に舞い落ちた。
視界が白で埋め尽くされ、次いで闇が広がってゆく。

ゆっくりと春が沈んで夜が降りてきたみたいだった。


花の海に彼女が隠れる。
私は意識が薄れていくのを感じた。
少し、疲れた。




足音が二つ。
誰かが彼女の名を、そして別の声が私の名を呼んでいる。


今度はちゃんと春まで寝ていよう。
早起きして得られるのは三文芝居がいいところだった。

人間と妖怪の悲劇なんて、もういい。


家族に抱かれる暖かさの中、私は自分が恵まれていることを思い知った。














しんしんと積もる日々も、その一方で下から零れ落ちていく。
溜まりすぎて溢れることは無く、次の年には同じことを繰り返している。

限られた時間、限られた自由で空を見上げる人間とは違うのだ。


目が覚めた。
つまり、今まで見ていたものは夢だ。
どこから夢だったのか、確認するために外へ出る。

すでに太陽は山の峰に隠れようとしている。



無意識のうちに辿り着いたのは、風にそよいでいる庭だった。
庭師がいる。
そして。
満開の桜並木の中、ぽつりと浮いた樹と亡霊。

「綺麗でしょう」
「えぇ」

どこまで覚えているのか、敢えて尋ねはしなかった。
覚えていて、と。
かつての彼女は言ったから。
今の彼女が何であれ、私にとっては変わりない存在だ。

「お団子はどうかしら?」
「いただくわ」

相変わらずだし。



大きな違いといえば。
自らの力に、抵抗がなくなったようだった。
日を追って、白玉楼の住人が増えていくのは気になったが、
よくよく見れば、みな楽しそうにしている。

これで良かったのだろうか。
そう悩むことは止めにした。

その淡い色の髪。
亡霊のくせに、桜が咲いたみたいに綺麗だったから。



雪は、いつか溶けるもの。






///


















そして長い長い冬が明ける。



妖の夢という名を持つ庭師は、刀を納めた。

「まったく。咲かないくせに、葉はつけるんだから」

愚痴を言いながらも、世話をしているのはなぜか。

「よーむー。ごーはーんー」

それはきっと、彼女を待っていた誰かがいて。

「はいはい、只今」

彼女を待っている誰かがいるから。

賑やかになった庭を、庭師は駆け抜けていった。









遠く、澄んだ声が春を告げる。



西行妖は、静かにそれを聞いていた。






――願わくは土の下まで春届け あやかしたちの人と舞うころ――

そして全てのあやかしに春が訪れますよう。
春雨
[email protected]
http://ameblo.jp/erl/
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コメント



0.5430簡易評価
2.80朱流削除
花より団子?
いえいえ、それだけでは勿体無い。
花も団子も。見目麗しく美味しゅうございました。
3.90てーる削除
幽々子と紫の兼ね合いが素敵・・
そして交わる同じ魂の形をしたモノ達に、どうか最後には幸せな記憶を・・

・・・墨染めに 妖と共に 見る夢は 幽冥別つ 定めと知れば・・・
4.80名前が無い程度の能力削除
紫、幽々子、そして西行妖。幻想的な文体、描写。
切なく、儚く、けれど読後にほのかに温かさが残るこのお話が好きです。
大変、楽しめました。
6.80床間たろひ削除
そうか……何故かイメージ的に西行妖は死へ誘うだけの意思のない怪物という
認識だったんだけど……そうか、人を欲してるだけだったのか……
もちろん正解などない話ですが、すとんと腑に落ちました。
紫と幽々子はもちろん、紫と藍、幽々子と妖忌の関係も良かったです。
哀しくも暖かいお話です。ありがとうございました。
15.90懐兎きっさ削除
雪解けに凍てつく彼岸流されて 待つは長しと桜ふるらむ
…友情は不滅なのですね。水が出ました。
29.90おやつ削除
物悲しさの中に暖かさのある良いお話でした。
49.80七死削除
散る華は 地にまみれてや 消えやらむ されど・・・ 
春には戻せ 樹下の君達

時に、禁を犯しても伝えたい想いがあります。
良いものがたりを、有難うございました。
50.90ABYSS削除
人の価値観はそれぞれで、優先順位もそれぞれで。
在ったことと在ってしまったことは確かに違って。
それでも、それを受け止めてなにかを為せるなら。
このかなしいさくらとひとりのおんなのこのはなしが、綺麗に輝けるのは、そんなことで成り立っているのだと幻視しました。
寂しくて穏やかで、悲しくも温かいはなしを、ありがとうございます。
63.80藤村流削除
 誰かが居なくなるのは寂しいものです。
 それは、その誰かが戻って来てくれようとも、再び薄まるものではありません。
 紫は、再会に何を思ったのでしょう。
 長きを生きる妖怪でない私には、考えるより他ありません、
 もし願うことが許されるなら、そこに幾許かの幸せがあればいいと思うのです。
70.90no削除
紫様の慟哭で泣きました。
藍さまとの会話が良いアクセントです。
71.90名前が無い程度の能力削除
幽々子と紫、そして彼女らを想う半人半霊と式・・・実に魅力的です

願はくは 生死と共に ありし身に 人妖狭間の 永き春日を
84.100名前なんて無い削除
GJ! これは良い紫様でした。胡散臭い胡散臭い言われてますが、やさしい方なのですよ。本当は。それがマイ・ジャスティス。
87.無評価とま削除
綺麗な文章で魅せられました。覚えていてね、
って切ないすぎる・・
88.90とま削除
あ、すいません点数わすれました。
91.90削除
過程に傷ついても、ちょっと形が変わっても、二人には幸せになってほしいと思うんです。
まだ少し「青い」紫さまに惚れます。
98.90名前が無い程度の能力削除
哀しくも綺麗な良いお話だと思います。
99.100名前が無い程度の能力削除
哀しくも素敵な話でした
100.100名前が無い程度の能力削除
哀しくも素敵で美しいお話
120.90名前が無い程度の能力削除
あやかしのゆめ…書かれるまで考えたことありませんでした。
幽々子様と紫の話は、やはり重いですね。素晴らしかったです。