彼女は低高度を高速で飛んでいた。
箒からは魔力の放つ青白い光が、頂点の引き伸ばされた半球状の炎となって輝いている。
湖を越えて少しすると、遠くに見えるのは森に囲まれた紅い館。
その館には、茜色に染まりつつある世界の中でも決して色あせる事の無い存在感があった。
淡い霧の中沈む太陽よりもさらに紅いその館。
東の空に残る紫と蒼からなる薄い水の帯の元では、なお、大きく見えた。
森の木に影響を受けないように、箒の先を少し引き上げて高度を修正する。
「確かこれを『ピッチを上げる』って言うんだっけな」
いつものように香霖堂から持ってきた、空の飛び方を記した本によるとそういうことらしい。
高さを取ると共に、箒への魔力供給をやや抑える。
それに伴って視点の正面から現れては歪み、後方へ流されていた景色はその輪郭を取り戻す。
今まで『速度』の形で彼女の持っていた運動エネルギーは、『高度』という位置エネルギーに変換されてゆく。
足元に広がる森の、木の一本一本が何とか識別できるかできないかくらいの高度で飛んでいたら、正面の紅い館の方から来た様子の妖精たちの群れが視界に入る。
隊列を組んで私の方に来ている所からすると、どうも私を邀撃しに来ているようだ。
降りかかる火の粉は払う。
まだ距離があるので、狙い易い正面に移動する為に箒の出力の方向を調整して、高さを全く変えずに弧を描く機動で位置を微調整。
同時に魔力を練って、小威力の魔法弾を放つ準備も整えておく。
残った魔力の残量から考えるとスペルカードは一回、マジックミサイルは五発が限界だろう。
あまり無駄遣いは出来ないから、出来るだけ消費量の少ない魔法弾を使わないといけないなんて計算する。
後は相対速度と弾道特性から来る射程距離を見誤らないようにして撃つだけだけど、それはいつもの事だから何の問題もない。
箒の先端を照準器の代わりにして、狙いを定める。
まだだ……あとちょっと……今だ!
ほんの僅かな時間だけ放った弾は、隊列の先頭に居る妖精に吸い込まれるようにして命中する。
被弾した妖精は意識を失い、隊列の前半分を巻き込んで落ちてゆく。
残りの半数は激突を免れるために隊列を崩して散ってゆく。
こうなったらもう攻撃どころではない。
それを見届けて、私はそのまま速度を上げて突っ込んで行く。
私の周囲をまわりこんだ風は、気圧を下げて薄い水蒸気の雲を作る。
私の軌跡に沿って浮かぶその雲は、箒の魔力の光を浴びて星の欠片となり、うっすらと道を創る。
今度は少し先の森の切れ目から、毛玉の単縦陣の隊列がいくつも現れてきている。
その数、八。
先を見るとまだまだ増えつつある。
「なら、原因を叩くまでだぜ。けどその前に、こいつ等をなんとかしなくちゃな」
八方から取り囲むように展開しようとする毛玉の群れ。
その行動が終わる前に、集団の中心に弾を撃ち込む。
三割ほどの毛玉が散ってゆく。
そのまま直進すると追突は必死。
ピッチを下げて高さを速度に変換。
有象無象を頭上に越えて視界の外に追いやった直後に垂直に急上昇。
速度に任せながら、そのままピッチを上げつづける。
天球の内部を沿うように飛び、宙を返すループ。
こちらを追いかけて上昇してきた毛玉と、距離こそあれ正面に対峙して睨みあう。
重力に曳かれ増速する少女と、のろのろと高度を稼ぐ白い連なり。
すれ違う瞬間に、双方が全力を叩き込み合う。
刹那に撃ち込めるだけ撃ち込んだ魔力弾は、残る敵のおよそ半数を塵に帰す。
こちらは至近弾が数発、どれも致命的なものではない事を確認。
同時に姿勢制御、さらに周囲の状況もチェック。
(毛玉は私よりも高空に居るから、位置エネルギー的に私が不利。
けれども相手の戦力の五割以上は潰している訳だから、心理的にはこっちの方が有利だな)
ならば、と思考を巡らせる。
箒への出力を一気に増大させ、魔法炎を噴かす。
目指す方向は森の切れ目。
今戦っていた毛玉の一団が現れた辺り、左手前方。
箒の柄を中心軸に、90度体を左に傾ける。
地表を左手に、空を右手に、そして地平線は縦に映る世界へ。
ロールしたそのままの姿勢で、彼女の主観で見てピッチを僅かに上げる。
軌道を左に傾けた後、今度は右にロールして姿勢を正す。
更に、ピッチを下げる事で重力下速度も上乗せさせる。
呼吸も出来なくらいの空気の壁を突き破りながら、箒にしがみつくようにして空気抵抗を減らし、速度を上げる。
士気の下がった毛玉達ならば、速度で距離を取れば追いかけて来ないだろうとの判断。
(即断即決が身上だぜ)
一人心の中で呟きながら、空を裂く。
置いてけぼりを食らった形の毛玉は、そのまま何処かへ行ってしまったようだ。
作戦成功、状況継続。
十数秒も飛んだところで森の切れ目が見えてくる。
そのわずかな空間に見える異質なもの…… 岩の燈篭のような洞。
中には今にも飛び出そうとしている毛玉達。
「これ以上、ザコに付き合ってる暇は無いぜ」
標的のほぼ真上近くでハーフロールする。
地平の天地が入れ替わったのに合わせて箒を降下軌道に入れる。
そのまま急角度で落下するように降下しながら“分けて用意してある”魔力を練りはじめマジックミサイルを成型、照準を合わせて速射。
小さな風切音を残して目標に吸い込まれた一発のミサイルは、爆風と岩と毛玉を構成していた何かを一つにしてゆく。
後に残る岩の塊からは何の動きも感じられないが、上空を数回小さく旋回して完全に沈黙した事を確認する。
目下の障害を殲滅。
目的地たる悪魔の館へ、その箒の進む方向を定める少女。
茜の空はますますその色を深め、紅に染まっていた。
そこに建つ館の通り名に負けぬ程に。
とても広く、とても高く、とても大きく、そして紅い館。
唯一の入り口である門は固く閉じられている。
開ける事を禁じられた扉と、鮮やかに映える緑の“錠”が少女の前に立ち塞がっていた。
傾いた陽は西の空を朱く焼き上げる。
赫き始めた月の昇る東の空は、夜陰の沁み返る深い蒼に塗り潰されつつある。
そして中天は透きとおるむらさきに飲み込まれてゆく。
誰そ彼に出会った少女二人はほんの僅かな言葉のみを互いの耳朶に残して、互いの航路を交え始めた。
先制したのは門番の少女だった。
小さく鋭い破裂音は、地に立つ少女が空へ向かうための踏み切りの衝撃。
目を見張る初速と、その状態から撃ち出される数発の気弾。
すれ違いの相対速度は、瞬くほどの間の応酬。
白黒の少女の反応は遅れなかった。
彼女の右側を緑の疾風が突き抜ける瞬間には既に行動に移る。
箒の出力は低めにし、少しだけ右ロールしつつもピッチを急速に上げることで、速度を一気に落とす。
空気と重力に導かれ、瞬間的に右旋回の姿勢を取らされる。
そこで全力で魔法炎に魔力を流し込み、全速で噴射。
それまでの機動とは桁違いの速度で方向転換を終え、そのまま先行する門番を追う。
驚いたのは紅魔の館の緑の錠、門番・紅美鈴。
まさか襲撃者が素早く、そして鋭いターンをするとは予想もしていなかった為に背後の隙が大きすぎた。
余りの切り返しに、構築していたパターンは意味を為さなくなってしまっている。
即刻戦術を練り直す。
まずは敵戦力の見直し。
判断力は最上級、機動性も良好、速力も高い。
大幅な上方修正を加えた後に自分の所持する火力を考慮。
この場での方針を瞬時に立案、検討、修正、比較、破棄或いは決定のシークエンスを数秒もかけずに終わらせる。
今取れる手段はそう多くないが、手が全くない訳でもない。
問題ない、排除できる。
まずはその為の布石を。
小さくターンをした魔理沙は一気に出力を上げて、前方に居る美鈴を追いかける。
最大戦速で追い続けじわじわと距離を詰める。
しかし敵も然る者、必中射程にギリギリの距離でターンする。
二人の描く二本の正弦波は、紅と蒼の交わる空に紡がれた光の糸となって描かれる。
幾重にも続く円舞はつかず離れずの微妙な距離を保ちながら、ただひたすらに高く。
旋回の都度視野から逃れる美鈴を攻めあぐねる魔理沙。
埒があかない。
何か手は。
思考が活動を始めた刹那。
視界から外れた美鈴の姿を完全に見失った。
ターンした先に存在しない彼女の影。
美鈴の姿を見つけた時、魔理沙はすぐ、その位置関係の危険性に気がついた。
彼女の動きを追跡できなかったほんの一秒程度の時間に、追われていた少女は、運動エネルギーを高さに変換していたのだ。
急速に速度を失った(代償に高さという位置エネルギーを得た)美鈴と、速度を維持“し続けてしまった”魔理沙の明暗は、ここで分かれる。
「しまった! 追い抜いちまったか」
互いの機動性が高い空中戦の場合、最も重要なのは相手との位置関係。
長距離からの攻撃は当てにならない以上、接近して格闘戦に持ち込むしかない。
その際、相手の背後につくことは自分の射界を確保すると同時に安全も手に入る。
逆に後ろを取られた場合、自分は攻撃も出来ず、視野の外から狙われるだけの立場。
美鈴は、逃げる者のみが持つ軌道の自由度という、ごく僅かな利点を最大限利用して、魔理沙の不意を衝く事に成功していた。
とは言え魔理沙も、これまでのうのうと空を飛んでいた訳ではなかった。
自分の速度、美鈴の高さ、そして両者の位置。
認識するが早く、少しだけ箒の先を上へ向けながら美鈴を追いかけるようにロールを入れる。
樽の内側を転がる様に浮き上がる螺旋の航跡。
それに伴い消化されてゆく速度。
この判断が、紙一重で危険を回避した。
魔理沙がバレルロールをはじめた時、遥か高空では美鈴がスペルカードを発動させていた。
彩光乱舞。
連なる水滴と細雨の様な弾雨。
降り注ぐそれは目前をかすめる。
七色の雨が途切れた短い隙を見て、ロールをくり返しつつ弾を避ける魔理沙と、ここぞとばかりに攻めに転ずる美鈴。
降りしきる弾に速度をあわせて降下してくる。
魔理沙は回避の為に背面飛行に移りハーフループ、つまり縦に180度旋回する。
落下速度を生かしながら降下、地面スレスレで姿勢を戻した後、更に加速。
美鈴の足元(と言うにはやや高度差があるが)をくぐり抜けて背後に回ろうとするが、それを見た美鈴は更に速度を上げて落下するように降りてゆく。
この速過ぎるスピードでは、地面に追突するかと思われた。
が、接地の直前に気を込めた拳打を一撃地面に打ち込み、全てのエネルギーを相殺させる。
さらにその有り余る衝撃は一度零まで戻った美鈴の運動エネルギーとして再利用させる。
今度こそ、魔理沙は背中を取られた。
地面に触れそうなほどの超低空で這うように飛行する魔理沙。
小さな起伏すら危険な高度だが、だからこそ美鈴は手を出しにくい。
高く飛ぶ為には(一時的にとは言え)速度を失う必要があり、それでは魔理沙との距離が開く。
故に彼女も現在の高度を維持したまま追いつづけるしかない。
魔理沙が低空を維持しつづける理由はそれだけでは無い。
今も虎視眈々と戦況をひっくり返しうる手段を探しつづけている。
キーとなりうる地形は、きっとある。
それを信じて。
信じる者は救われる。
それが叶った時、人は普段信じても居ない神に感謝したりもする。
魔理沙も今ばかりは何処の誰ともつかない神に感謝していた。
けれど、やっと見つけた其処へすぐに飛んでいくほど彼女も愚かでは無い。
自分の意図、意思を隠して極力自然にその地へ向かう。
現在の魔力量を確認して、残り飛行可能時間もチェック。
残弾はミサイルが四発、スペルが一回分。
あの門を破るのにスペルは必要そうだから、これを使うのは論外。
ミサイルを数発分棄てて、その分の魔力を飛行に回すことも可能だが、恐らくそこまでしないでも何とかなる。
思考をまとめながら密かにミサイルを成型する。
美鈴に見えないように造られたミサイルを、揺れ流れる視界の中で狙いすまし、撃つ。
標的は…… 目の前の砂地。
命中したミサイルは破裂し、勢い良く砂を巻き上げる。
局所的な濃霧は視界を覆うスクリーン。
二人は砂塵、いや戦塵に優しく包み込まれた。
魔理沙の望む通りに。
突如として湧き上がる土色の噴煙と、中に吸い込まれる侵入者を見て、思わず小さく舌を打つ。
これでは完全に見失ってしまうのはおろか、下手をすれば後ろを取られかねない。
ならば…… 彼女の思考を先読みして、先手を打つ。
直進する事は、まず無い。
ほとんど意味が無いからだ。
直進し続けた所で彼女が位置的に優位に立てようも、無い。
同様に左右への旋回も可能性は低い。
高度が変わらない旋回は一見効果があるように見えるが、エネルギーを失うだけ。
わざわざ目を塞いでまでやる意味がそれほどある訳では無い。
ならば、あり得る可能性は二つ。
ごく小さい半径の旋回、或いはループを行う事。
即座に私の背後に回る事が出来る上に、距離も離れずに居られるだろう。
もう一つは、急速に高度を取る事でオーバーシュートを狙う、つまり私に追い抜かせる事。
これならば位置的にも高度的にも優位になる。
もし私が彼女ならば、一気に高度を稼ぎ、高空で小さくループするだろう。
ループしている最中に、目標の姿を探せば良い。
視界を遮ったのはこの機動を隠す為、そんなところか。
解が導き出されるまでにかかった時間は数秒足らず。
直後、行動に移る。
勿論ルートは彼女の予想した通りの、上昇した後のループ。
砂の粒子の軌跡を残して一気に上昇し、ループした頂点で。
想定が大きく間違っていたことに気がついた。
自ら作り出した煙幕に突入し、自分の姿が完全に隠れた直後ピッチを上げる魔理沙。
姿勢が垂直になった時点で右に90度ロール、更にピッチを上げつづける。
そのまま天地がひっくり返るまでカーヴを描きつつ上昇し、その頂点で更に右に90度ロール、旋回飛行に入る。
最初の進路から見てちょうど180度逆向きに飛行するコースに入ったときに眼前に見えたもの。
それは、がら空きの背中を見せている紅魔館の門番だった。
完全に不意打ちとなった美鈴は、魔理沙の放った魔力弾を回避し切れなかった。
数発は直撃、至近弾もあわせれば優に十発以上被弾した所為で、飛ぶ事にも若干の影響が出る。
魔力的な衝撃を受けた為に体内の気の流れが荒れている。
けれどこの程度ならまだ戦える。
気を張る美鈴の戦意は、次の瞬間には意味を為していなかった。
背後から迫る緑色の錐に、魔理沙の放った二発のミサイルの熱と衝撃に、彼女の意識は全て刈り取られた。
最後に残っていた感覚で捉えられたものは、急速に近づく地面と、黒い人形の影だった。
荷物を降ろした後、門のほぼ正面に向かい、スペルカードを構える。
少しでも威力を増す為に、正確に位置・速度・タイミングを計る。
標的に対して垂直にぶつける事が、もっともエネルギーの損失が少ない。
また、高速である方が運動エネルギーを与えられる。
そして、ギリギリまで引きつけておいた方が命中率は高い。
(これらも全て、香霖堂からの本による知識だ)
故に、スペルカードを構えてから箒で吶喊する。
門に向かって高速で飛ぶこと自体に躊躇いは、ない。
この箒と、自分の持っている力を信じているから。
だから全力で飛び込んでいった。
発動させたスペル、スターダストレヴァリエは寸分違わず狙った位置に着弾、発動し、その威力を存分に伝播させる。
その衝撃は門の表面を剥ぎ取り、吹き飛ばし、削り取る。
観音開きのそれは、全ての衝撃を吸収できずに身を砕くのみ。
全ての、光り輝く星の欠片が散った後もそびえ立つ紅い門は限界を迎えていたが、魔理沙はそれを知らない。
もっとも、『諦める』という言葉が辞書に無い魔理沙には、あまり関係の無い事ではあったが。
ミサイルの残弾は一。
それはあくまでも最初に分割している魔力量。
その一撃に、賭けて。
再び距離を取り、魔力出力全開全速、姿勢は抵抗を受けないように箒にしがみつく。
風は追い風、向きも良好。
最初に方向さえ選定すれば、ただ飛ばすだけで目標に、正確にたどり着ける。
最後の一発に、己の全魔力を注ぎ込み、自分ごと門に飛び込む。
許容量を超えた魔力を搭載したミサイルは、その爆風で全てを吹き飛ばす。
魔理沙も、門も。
ボロボロになりながらも、相棒たる箒だけはしっかりと握り締めたまま、自由落下軌道に入る魔理沙。
自分の成した成果、門に貫かれた破孔を見て、満足そうにニヤリと笑う。
余裕を持てたのはそこまでで、今は魔力を使いきった後に襲ってくる倦怠感に包まれている。
大地が迫ってきているが、飛ぶことはもとより、宙に浮くことも減速する事も最早出来ない。
「しまったぜ…… ちょっと張り切りすぎたか」
このまま落ちれば痛そうだ。
ちょっと怪我もするかもしれない。
けれども、後悔はない。
本気を出し切った末の結果だから、これもまた仕様のない事だ。
背中に受けた感触は馴染み深い柔らかさ。
耳朶を打つ響きは日常の音色。
「ちょっと魔理沙、受身くらい取りなさいよ」
「あー、すまんな霊夢。で、後はまかせた」
暖かい腕の中で感じたものは安堵。
「この霧について? 元々そのつもりだったけど」
「ああ。 門は開けておいたからな。残りは…… お前の仕事、だ……」
体の奥底、芯まで溜まった疲労が溢れ出させる睡魔が彼女を包む。
「え、ちょっと魔理沙! って、寝ちゃったわね…… まぁこの辺なら寝かせておいても大丈夫…… かな」
優しい夜の帳が降りる中、紅い月の待つ館へ足を踏み入れる巫女。
負けず嫌いの友人の思いをその背に受けて、感謝と敬愛を胸に抱いて。
紅い月と霧の明ける夜は、今宵――
箒からは魔力の放つ青白い光が、頂点の引き伸ばされた半球状の炎となって輝いている。
湖を越えて少しすると、遠くに見えるのは森に囲まれた紅い館。
その館には、茜色に染まりつつある世界の中でも決して色あせる事の無い存在感があった。
淡い霧の中沈む太陽よりもさらに紅いその館。
東の空に残る紫と蒼からなる薄い水の帯の元では、なお、大きく見えた。
森の木に影響を受けないように、箒の先を少し引き上げて高度を修正する。
「確かこれを『ピッチを上げる』って言うんだっけな」
いつものように香霖堂から持ってきた、空の飛び方を記した本によるとそういうことらしい。
高さを取ると共に、箒への魔力供給をやや抑える。
それに伴って視点の正面から現れては歪み、後方へ流されていた景色はその輪郭を取り戻す。
今まで『速度』の形で彼女の持っていた運動エネルギーは、『高度』という位置エネルギーに変換されてゆく。
足元に広がる森の、木の一本一本が何とか識別できるかできないかくらいの高度で飛んでいたら、正面の紅い館の方から来た様子の妖精たちの群れが視界に入る。
隊列を組んで私の方に来ている所からすると、どうも私を邀撃しに来ているようだ。
降りかかる火の粉は払う。
まだ距離があるので、狙い易い正面に移動する為に箒の出力の方向を調整して、高さを全く変えずに弧を描く機動で位置を微調整。
同時に魔力を練って、小威力の魔法弾を放つ準備も整えておく。
残った魔力の残量から考えるとスペルカードは一回、マジックミサイルは五発が限界だろう。
あまり無駄遣いは出来ないから、出来るだけ消費量の少ない魔法弾を使わないといけないなんて計算する。
後は相対速度と弾道特性から来る射程距離を見誤らないようにして撃つだけだけど、それはいつもの事だから何の問題もない。
箒の先端を照準器の代わりにして、狙いを定める。
まだだ……あとちょっと……今だ!
ほんの僅かな時間だけ放った弾は、隊列の先頭に居る妖精に吸い込まれるようにして命中する。
被弾した妖精は意識を失い、隊列の前半分を巻き込んで落ちてゆく。
残りの半数は激突を免れるために隊列を崩して散ってゆく。
こうなったらもう攻撃どころではない。
それを見届けて、私はそのまま速度を上げて突っ込んで行く。
私の周囲をまわりこんだ風は、気圧を下げて薄い水蒸気の雲を作る。
私の軌跡に沿って浮かぶその雲は、箒の魔力の光を浴びて星の欠片となり、うっすらと道を創る。
今度は少し先の森の切れ目から、毛玉の単縦陣の隊列がいくつも現れてきている。
その数、八。
先を見るとまだまだ増えつつある。
「なら、原因を叩くまでだぜ。けどその前に、こいつ等をなんとかしなくちゃな」
八方から取り囲むように展開しようとする毛玉の群れ。
その行動が終わる前に、集団の中心に弾を撃ち込む。
三割ほどの毛玉が散ってゆく。
そのまま直進すると追突は必死。
ピッチを下げて高さを速度に変換。
有象無象を頭上に越えて視界の外に追いやった直後に垂直に急上昇。
速度に任せながら、そのままピッチを上げつづける。
天球の内部を沿うように飛び、宙を返すループ。
こちらを追いかけて上昇してきた毛玉と、距離こそあれ正面に対峙して睨みあう。
重力に曳かれ増速する少女と、のろのろと高度を稼ぐ白い連なり。
すれ違う瞬間に、双方が全力を叩き込み合う。
刹那に撃ち込めるだけ撃ち込んだ魔力弾は、残る敵のおよそ半数を塵に帰す。
こちらは至近弾が数発、どれも致命的なものではない事を確認。
同時に姿勢制御、さらに周囲の状況もチェック。
(毛玉は私よりも高空に居るから、位置エネルギー的に私が不利。
けれども相手の戦力の五割以上は潰している訳だから、心理的にはこっちの方が有利だな)
ならば、と思考を巡らせる。
箒への出力を一気に増大させ、魔法炎を噴かす。
目指す方向は森の切れ目。
今戦っていた毛玉の一団が現れた辺り、左手前方。
箒の柄を中心軸に、90度体を左に傾ける。
地表を左手に、空を右手に、そして地平線は縦に映る世界へ。
ロールしたそのままの姿勢で、彼女の主観で見てピッチを僅かに上げる。
軌道を左に傾けた後、今度は右にロールして姿勢を正す。
更に、ピッチを下げる事で重力下速度も上乗せさせる。
呼吸も出来なくらいの空気の壁を突き破りながら、箒にしがみつくようにして空気抵抗を減らし、速度を上げる。
士気の下がった毛玉達ならば、速度で距離を取れば追いかけて来ないだろうとの判断。
(即断即決が身上だぜ)
一人心の中で呟きながら、空を裂く。
置いてけぼりを食らった形の毛玉は、そのまま何処かへ行ってしまったようだ。
作戦成功、状況継続。
十数秒も飛んだところで森の切れ目が見えてくる。
そのわずかな空間に見える異質なもの…… 岩の燈篭のような洞。
中には今にも飛び出そうとしている毛玉達。
「これ以上、ザコに付き合ってる暇は無いぜ」
標的のほぼ真上近くでハーフロールする。
地平の天地が入れ替わったのに合わせて箒を降下軌道に入れる。
そのまま急角度で落下するように降下しながら“分けて用意してある”魔力を練りはじめマジックミサイルを成型、照準を合わせて速射。
小さな風切音を残して目標に吸い込まれた一発のミサイルは、爆風と岩と毛玉を構成していた何かを一つにしてゆく。
後に残る岩の塊からは何の動きも感じられないが、上空を数回小さく旋回して完全に沈黙した事を確認する。
目下の障害を殲滅。
目的地たる悪魔の館へ、その箒の進む方向を定める少女。
茜の空はますますその色を深め、紅に染まっていた。
そこに建つ館の通り名に負けぬ程に。
とても広く、とても高く、とても大きく、そして紅い館。
唯一の入り口である門は固く閉じられている。
開ける事を禁じられた扉と、鮮やかに映える緑の“錠”が少女の前に立ち塞がっていた。
傾いた陽は西の空を朱く焼き上げる。
赫き始めた月の昇る東の空は、夜陰の沁み返る深い蒼に塗り潰されつつある。
そして中天は透きとおるむらさきに飲み込まれてゆく。
誰そ彼に出会った少女二人はほんの僅かな言葉のみを互いの耳朶に残して、互いの航路を交え始めた。
先制したのは門番の少女だった。
小さく鋭い破裂音は、地に立つ少女が空へ向かうための踏み切りの衝撃。
目を見張る初速と、その状態から撃ち出される数発の気弾。
すれ違いの相対速度は、瞬くほどの間の応酬。
白黒の少女の反応は遅れなかった。
彼女の右側を緑の疾風が突き抜ける瞬間には既に行動に移る。
箒の出力は低めにし、少しだけ右ロールしつつもピッチを急速に上げることで、速度を一気に落とす。
空気と重力に導かれ、瞬間的に右旋回の姿勢を取らされる。
そこで全力で魔法炎に魔力を流し込み、全速で噴射。
それまでの機動とは桁違いの速度で方向転換を終え、そのまま先行する門番を追う。
驚いたのは紅魔の館の緑の錠、門番・紅美鈴。
まさか襲撃者が素早く、そして鋭いターンをするとは予想もしていなかった為に背後の隙が大きすぎた。
余りの切り返しに、構築していたパターンは意味を為さなくなってしまっている。
即刻戦術を練り直す。
まずは敵戦力の見直し。
判断力は最上級、機動性も良好、速力も高い。
大幅な上方修正を加えた後に自分の所持する火力を考慮。
この場での方針を瞬時に立案、検討、修正、比較、破棄或いは決定のシークエンスを数秒もかけずに終わらせる。
今取れる手段はそう多くないが、手が全くない訳でもない。
問題ない、排除できる。
まずはその為の布石を。
小さくターンをした魔理沙は一気に出力を上げて、前方に居る美鈴を追いかける。
最大戦速で追い続けじわじわと距離を詰める。
しかし敵も然る者、必中射程にギリギリの距離でターンする。
二人の描く二本の正弦波は、紅と蒼の交わる空に紡がれた光の糸となって描かれる。
幾重にも続く円舞はつかず離れずの微妙な距離を保ちながら、ただひたすらに高く。
旋回の都度視野から逃れる美鈴を攻めあぐねる魔理沙。
埒があかない。
何か手は。
思考が活動を始めた刹那。
視界から外れた美鈴の姿を完全に見失った。
ターンした先に存在しない彼女の影。
美鈴の姿を見つけた時、魔理沙はすぐ、その位置関係の危険性に気がついた。
彼女の動きを追跡できなかったほんの一秒程度の時間に、追われていた少女は、運動エネルギーを高さに変換していたのだ。
急速に速度を失った(代償に高さという位置エネルギーを得た)美鈴と、速度を維持“し続けてしまった”魔理沙の明暗は、ここで分かれる。
「しまった! 追い抜いちまったか」
互いの機動性が高い空中戦の場合、最も重要なのは相手との位置関係。
長距離からの攻撃は当てにならない以上、接近して格闘戦に持ち込むしかない。
その際、相手の背後につくことは自分の射界を確保すると同時に安全も手に入る。
逆に後ろを取られた場合、自分は攻撃も出来ず、視野の外から狙われるだけの立場。
美鈴は、逃げる者のみが持つ軌道の自由度という、ごく僅かな利点を最大限利用して、魔理沙の不意を衝く事に成功していた。
とは言え魔理沙も、これまでのうのうと空を飛んでいた訳ではなかった。
自分の速度、美鈴の高さ、そして両者の位置。
認識するが早く、少しだけ箒の先を上へ向けながら美鈴を追いかけるようにロールを入れる。
樽の内側を転がる様に浮き上がる螺旋の航跡。
それに伴い消化されてゆく速度。
この判断が、紙一重で危険を回避した。
魔理沙がバレルロールをはじめた時、遥か高空では美鈴がスペルカードを発動させていた。
彩光乱舞。
連なる水滴と細雨の様な弾雨。
降り注ぐそれは目前をかすめる。
七色の雨が途切れた短い隙を見て、ロールをくり返しつつ弾を避ける魔理沙と、ここぞとばかりに攻めに転ずる美鈴。
降りしきる弾に速度をあわせて降下してくる。
魔理沙は回避の為に背面飛行に移りハーフループ、つまり縦に180度旋回する。
落下速度を生かしながら降下、地面スレスレで姿勢を戻した後、更に加速。
美鈴の足元(と言うにはやや高度差があるが)をくぐり抜けて背後に回ろうとするが、それを見た美鈴は更に速度を上げて落下するように降りてゆく。
この速過ぎるスピードでは、地面に追突するかと思われた。
が、接地の直前に気を込めた拳打を一撃地面に打ち込み、全てのエネルギーを相殺させる。
さらにその有り余る衝撃は一度零まで戻った美鈴の運動エネルギーとして再利用させる。
今度こそ、魔理沙は背中を取られた。
地面に触れそうなほどの超低空で這うように飛行する魔理沙。
小さな起伏すら危険な高度だが、だからこそ美鈴は手を出しにくい。
高く飛ぶ為には(一時的にとは言え)速度を失う必要があり、それでは魔理沙との距離が開く。
故に彼女も現在の高度を維持したまま追いつづけるしかない。
魔理沙が低空を維持しつづける理由はそれだけでは無い。
今も虎視眈々と戦況をひっくり返しうる手段を探しつづけている。
キーとなりうる地形は、きっとある。
それを信じて。
信じる者は救われる。
それが叶った時、人は普段信じても居ない神に感謝したりもする。
魔理沙も今ばかりは何処の誰ともつかない神に感謝していた。
けれど、やっと見つけた其処へすぐに飛んでいくほど彼女も愚かでは無い。
自分の意図、意思を隠して極力自然にその地へ向かう。
現在の魔力量を確認して、残り飛行可能時間もチェック。
残弾はミサイルが四発、スペルが一回分。
あの門を破るのにスペルは必要そうだから、これを使うのは論外。
ミサイルを数発分棄てて、その分の魔力を飛行に回すことも可能だが、恐らくそこまでしないでも何とかなる。
思考をまとめながら密かにミサイルを成型する。
美鈴に見えないように造られたミサイルを、揺れ流れる視界の中で狙いすまし、撃つ。
標的は…… 目の前の砂地。
命中したミサイルは破裂し、勢い良く砂を巻き上げる。
局所的な濃霧は視界を覆うスクリーン。
二人は砂塵、いや戦塵に優しく包み込まれた。
魔理沙の望む通りに。
突如として湧き上がる土色の噴煙と、中に吸い込まれる侵入者を見て、思わず小さく舌を打つ。
これでは完全に見失ってしまうのはおろか、下手をすれば後ろを取られかねない。
ならば…… 彼女の思考を先読みして、先手を打つ。
直進する事は、まず無い。
ほとんど意味が無いからだ。
直進し続けた所で彼女が位置的に優位に立てようも、無い。
同様に左右への旋回も可能性は低い。
高度が変わらない旋回は一見効果があるように見えるが、エネルギーを失うだけ。
わざわざ目を塞いでまでやる意味がそれほどある訳では無い。
ならば、あり得る可能性は二つ。
ごく小さい半径の旋回、或いはループを行う事。
即座に私の背後に回る事が出来る上に、距離も離れずに居られるだろう。
もう一つは、急速に高度を取る事でオーバーシュートを狙う、つまり私に追い抜かせる事。
これならば位置的にも高度的にも優位になる。
もし私が彼女ならば、一気に高度を稼ぎ、高空で小さくループするだろう。
ループしている最中に、目標の姿を探せば良い。
視界を遮ったのはこの機動を隠す為、そんなところか。
解が導き出されるまでにかかった時間は数秒足らず。
直後、行動に移る。
勿論ルートは彼女の予想した通りの、上昇した後のループ。
砂の粒子の軌跡を残して一気に上昇し、ループした頂点で。
想定が大きく間違っていたことに気がついた。
自ら作り出した煙幕に突入し、自分の姿が完全に隠れた直後ピッチを上げる魔理沙。
姿勢が垂直になった時点で右に90度ロール、更にピッチを上げつづける。
そのまま天地がひっくり返るまでカーヴを描きつつ上昇し、その頂点で更に右に90度ロール、旋回飛行に入る。
最初の進路から見てちょうど180度逆向きに飛行するコースに入ったときに眼前に見えたもの。
それは、がら空きの背中を見せている紅魔館の門番だった。
完全に不意打ちとなった美鈴は、魔理沙の放った魔力弾を回避し切れなかった。
数発は直撃、至近弾もあわせれば優に十発以上被弾した所為で、飛ぶ事にも若干の影響が出る。
魔力的な衝撃を受けた為に体内の気の流れが荒れている。
けれどこの程度ならまだ戦える。
気を張る美鈴の戦意は、次の瞬間には意味を為していなかった。
背後から迫る緑色の錐に、魔理沙の放った二発のミサイルの熱と衝撃に、彼女の意識は全て刈り取られた。
最後に残っていた感覚で捉えられたものは、急速に近づく地面と、黒い人形の影だった。
荷物を降ろした後、門のほぼ正面に向かい、スペルカードを構える。
少しでも威力を増す為に、正確に位置・速度・タイミングを計る。
標的に対して垂直にぶつける事が、もっともエネルギーの損失が少ない。
また、高速である方が運動エネルギーを与えられる。
そして、ギリギリまで引きつけておいた方が命中率は高い。
(これらも全て、香霖堂からの本による知識だ)
故に、スペルカードを構えてから箒で吶喊する。
門に向かって高速で飛ぶこと自体に躊躇いは、ない。
この箒と、自分の持っている力を信じているから。
だから全力で飛び込んでいった。
発動させたスペル、スターダストレヴァリエは寸分違わず狙った位置に着弾、発動し、その威力を存分に伝播させる。
その衝撃は門の表面を剥ぎ取り、吹き飛ばし、削り取る。
観音開きのそれは、全ての衝撃を吸収できずに身を砕くのみ。
全ての、光り輝く星の欠片が散った後もそびえ立つ紅い門は限界を迎えていたが、魔理沙はそれを知らない。
もっとも、『諦める』という言葉が辞書に無い魔理沙には、あまり関係の無い事ではあったが。
ミサイルの残弾は一。
それはあくまでも最初に分割している魔力量。
その一撃に、賭けて。
再び距離を取り、魔力出力全開全速、姿勢は抵抗を受けないように箒にしがみつく。
風は追い風、向きも良好。
最初に方向さえ選定すれば、ただ飛ばすだけで目標に、正確にたどり着ける。
最後の一発に、己の全魔力を注ぎ込み、自分ごと門に飛び込む。
許容量を超えた魔力を搭載したミサイルは、その爆風で全てを吹き飛ばす。
魔理沙も、門も。
ボロボロになりながらも、相棒たる箒だけはしっかりと握り締めたまま、自由落下軌道に入る魔理沙。
自分の成した成果、門に貫かれた破孔を見て、満足そうにニヤリと笑う。
余裕を持てたのはそこまでで、今は魔力を使いきった後に襲ってくる倦怠感に包まれている。
大地が迫ってきているが、飛ぶことはもとより、宙に浮くことも減速する事も最早出来ない。
「しまったぜ…… ちょっと張り切りすぎたか」
このまま落ちれば痛そうだ。
ちょっと怪我もするかもしれない。
けれども、後悔はない。
本気を出し切った末の結果だから、これもまた仕様のない事だ。
背中に受けた感触は馴染み深い柔らかさ。
耳朶を打つ響きは日常の音色。
「ちょっと魔理沙、受身くらい取りなさいよ」
「あー、すまんな霊夢。で、後はまかせた」
暖かい腕の中で感じたものは安堵。
「この霧について? 元々そのつもりだったけど」
「ああ。 門は開けておいたからな。残りは…… お前の仕事、だ……」
体の奥底、芯まで溜まった疲労が溢れ出させる睡魔が彼女を包む。
「え、ちょっと魔理沙! って、寝ちゃったわね…… まぁこの辺なら寝かせておいても大丈夫…… かな」
優しい夜の帳が降りる中、紅い月の待つ館へ足を踏み入れる巫女。
負けず嫌いの友人の思いをその背に受けて、感謝と敬愛を胸に抱いて。
紅い月と霧の明ける夜は、今宵――
とりあえず、エースコンバットシリーズ思い出した