Coolier - 新生・東方創想話

東方実験室2 担当者 紅美鈴(前編)

2005/09/05 09:36:08
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*このお話には個人的な解釈やオリキャラみたいなのが出てきます。ねじ抜けてます。予めご了承ください。
*よいこの皆さんは真似しないでください。





 紅魔館の主の一日が終わる頃、従業者達は起きだす。
 制服に着替え、食事を取り、本館へと移動し各々の仕事を始める。モップがけをする者、洗濯をする者、炊事を手がける者、様々な事務をこなす者。すなわち、メイドとしての仕事を始める。
 しかし、紅魔館に身を置く者がメイドや吸血姫だけとは限らない。例えば、魔女。例えば小悪魔。
 紅魔館の門番を務める紅美鈴もその一人だ。
 彼女の仕事はその名のとおり、門の警備をすること。紅魔館にはやたら強い者が多々いるものの、幻想郷にはそれらを上回る力を持つ者がゴロゴロいる。故に、その点はおざなりにできないので、館の主はきちんと門番を雇っている。
 だがしかし、今、美鈴は他のことに気をとられていて自分の仕事をまっとう出来ずにいる。門の前の芝生に腰を下し、中空をぼんやりと眺め、時折、うーんと唸っては、また元の木阿弥になる。
 彼女がこんな具合になったのは彼女の許に届いた、一通の封筒に起因していた。

『紅 美鈴様。
 この度、貴方は実験担当者に選ばれました。
 喜んでください。これは大変名誉あることなのです。
 実験内容につきましては二枚目をご覧ください。
 レポートは三枚目にお願いします。
 成功の暁には、貴方のお名前を多くの者に認識させてあげます。
 グッバイ中国、ということです。では、がんばって実験を成功させてください』

 そして、二枚目に書かれた内容こそが彼女を思い悩ませる原因だった。
『実験 十六夜咲夜を犬にするには』




 東方実験室2 担当者 紅美鈴(前編)




 美鈴は手紙を受け取ってまもなく、実験内容の理解に散々苦しんだ。一応の上司である咲夜をどうして犬にしなくてはならないのか。そもそも、犬にするとはどういうことなのか。
 咲夜の恐ろしさ、強さは十分に知っていた。故に、美鈴にとって最大の悩みである『名前』の問題を解決してくれるという甘言と、角を生やした咲夜の想像図に板挟みにされ、仕事もおろそかになっているのであった。
 そして、そんな事を考えているうちに、いつの間にか湖面の向こうに日が沈んでいた。紅魔館において、夜の警備というものはほとんど意味を成さないので、美鈴の仕事は日中だけに止まり、彼女は自分の部屋へと戻る。
 紅魔館の従業者にはそれぞれ個室が用意されており、大体、三、四人で一部屋が割り当てられる。そして、各部屋にはシャワーが取り付けられていて、忙しい仕事を受け持つ者は大抵それで汗を流す。
 仕事を終えた彼女がまず一番にすること、それは入浴だ。美鈴の部屋は門番ということで一応、特別視され、一人で使用することが許可されている。当然、シャワーも取り付けられているのだが、美鈴はそれをあまり好んでおらず、いつも共同浴場を使用している。共同浴場は名の通り、多人数で使用することを目的とされた、いわば大きな風呂だ。


 美鈴はいつものように着慣れた服を脱ぎ、長い髪を軽くタオルで纏めてから、浴室への扉を開けた。中には、既に何人かのメイドたちの姿が見受けられた。
 浴室の中央に位置する大型の浴槽の中に、美鈴は見知った顔を見つけた。
「あっ、Aさん」
「……ん? あ、美鈴じゃない。奇遇ね」
 美鈴の呼びかけに振り向いた女性は、美鈴の親しい友人であり、紅魔館の同僚であるメイドAだった。
 メイドA。
 主に紅魔館の掃除に携わる人間で、女性で構成された紅魔館において少数派の『その気が無い』グループに属している。そんな彼女が美鈴の名をきちんと認識し、なおかつ親しい間柄にある理由は『名前』だった。名前があるにもかかわらず、中国などという杜撰な呼び名を付けられた美鈴を、名前すらないAは心の底から同情したのだ。その同情も、いまでは立派な友情に変わっている。
「どうしたの? いつにも増して、浮かない顔してるわね」
「そう見えますか……?」
「ええ、見えるわ。何か悩みでもあるの? 私でよかったら相談にのるわよ」
「はい……実は……」
 Aの隣に腰を下ろし、美鈴はポツリポツリと手紙の詳細と現状について話し始めた。


「咲夜さんを犬にねえ……。その手紙を送ってきた奴、一体どんな怖いもの知らずなのかしらね」
「本当ですよ。そもそも、どうして咲夜さんから犬に繋がるのか、訳が分かりません」
「そうねえ……私もよく分からないわ。こういう時は、多くの人の意見を参考にした方がいいわ。ちょっと聞いてくるわね」
 Aは湯船から身を起こすと、他のくつろいでいる同僚達に話を聞きに回った。
 美鈴は、そんなAの姿を見て、本当にいいトモダチを持ったものだとしみじみと実感し感動に打ちひしがれていた。

(わたしの名前がもっと広く認知されれば、こんないい人がもっと増えるのかな……)

 美鈴は一枚目の手紙の末文を思い出した。本名をたくさんの者に知らしめてくれるという甘い言葉。果たして、それが本当ならどれほど喜ばしいことだろうか。
『美鈴、おはよう』
『美鈴、お仕事がんばってね』
『美鈴、そろそろお昼だから一緒に食べない?』
『うふふ……震えてるのね、美鈴』
 湯船で身体が熱くなったせいなのか、妄想の最後に妙なものがまじってしまったが、美鈴は自分が思い描く光景が現実になることを切に願った。


「おまたせ。わかったわよ、咲夜さん=犬という方程式の謂れが」
「……えっ? ほ、本当ですか!?」
 妄想に耽っていたせいで、反応まで若干のタイムラグを生じたものの、美鈴はAの言葉に大きな期待を寄せた。
「前に、中々冬が開けない時があって、その原因を探るために咲夜さんが出かけたことがあったでしょ?」
「えっと……あっ、確かにそんなことがありましたね。たしか、咲夜さんファンの方々が暴徒と化したあの地獄の期間ですね」
「ええ、そうよ。でね、その時のことに詳しい娘から聞いた話なんだけど……なんでも、その調査の時に咲夜さん、誰かから『悪魔の犬』って言われたそうよ」
「悪魔の犬……?」
 悪魔と聞いて、まず最初に美鈴が思い描いた人物は、紅魔館の主であるレミリア・スカーレットだった。
「わかるでしょ。お嬢様に傅く身だから、悪魔の犬」
 漸く、美鈴の中の疑問が一つ消えた。悪魔に仕えるから犬。安直で、極めて失礼な言い草だが、的を射ているには違いなかった。
 しかし、なぜ咲夜から犬というイメージにつながるのかを理解したところで、実験の意図は全く見えなかった。それどころか、ますます分からなくなってしまった。犬というのは、誰かに仕えるということを蔑んだ言い方であり、本当に犬に変身するわけではない。ということは、手紙に書かれた『犬にする』ということは、一体何を指しているのであろうか。
「全く解せない、といった顔ね。でも、心配することはないわ」
「どういうことですか?」
「だって、その手紙には『犬にするには』って書いてあったんでしょ? 咲夜さんはもう既に『悪魔の犬』なんだから、その手紙に書いてある『犬』が指すことは一つしかないじゃない」
 Aが言ったことのぼせた頭で整理する美鈴。
 咲夜が既にレミリアに仕えてる以上、他の誰かの『犬』になるということはまずあり得ない。ということは、手紙を書いた人物が言う『犬』というのは、本物の『犬』を指しているということになる。

(でも、咲夜さんは人間だし……ますます分からなくなっちゃった……)

「この実験の意図は多分、愉快犯的な意味合いが強いんだと思うわ」
 Aが言った言葉に、美鈴は更に疑問符を浮かべた。
「だって、人間を本物の犬にするなんて、魔法でも使わない限り無理でしょ。人間を犬に変える魔法とはどんなものか、っていうのが知りたいんだったら、わざわざ『犬にするには』なんて書かないでしょ?」
「あっ……確かにそうですね。それに、魔法について調べたいなら、わたしよりももっと魔法に詳しい人に依頼するはずですよね」
「その通り。つまり、その手紙の『犬』っていうのは、本物の『犬』でもなければ、お嬢様にお仕えすることを指したものでもない。言わば、咲夜さんのイメージをぶち壊すことを指すのよ」
「イメージをぶち壊す……それって、つまり咲夜さんを貶めるってことですか?」
「うーん、ちょっと違うわね。何て言うかなぁ……犬らしいこと、かな」」
 美鈴はまたもや理解に苦しむ発言に頭を抱えた。
「そうねぇ……人間を犬に変える魔法と、犬のように振舞う咲夜さん。美鈴はどっちに興味がわく?」
「え、えっと……犬のように振舞う咲夜さん、です」
 酷く突拍子の無い質問だったが、それ程悩む内容でもなかった。
「でしょ? 咲夜さんを知ってる奴なら、絶対に後者を選ぶと思うわ。だって……ねぇ?」
 それはいわずもがなだった。
 十六夜咲夜を知る者なら、こんな馬鹿げた実験は誰も考えない。それは咲夜に対する畏怖、恐れからだ。だが、逆に考えれば、それが現実になれば誰もが興味を抱くことでもある。クールで瀟洒で完全な、鬼のようなメイド長がワンワンなんて言った日には、紅魔館のあちこちで渦巻く劣情を差し引いても、人々の不謹慎な関心は爆発的に増長する。

(咲夜さんファンの人が見たら、失意のどん底に叩き落されるのかな。それとも……やっぱり、鼻血で空に舞い上がるのかな)

 美鈴は己の想像した奇妙な図を必死に打ち消した。
「だからこそ、美鈴に白羽の矢が立ったんでしょうね。美鈴なら、同じメイドに属していないから事がスムーズに運ぶし、例え実験が一筋縄でいかなくても、とりあえず頑丈な身体をもってるから大丈夫だろうし。あと、途中で変な気を起こす心配も無さそうだしね」
 友が言った言葉にいくつか看過出来なさそうなものがあったが、とりあえず今は気にしないことにした。
「でも、変ね……もし私の言ってることが正しいのであれば、その手紙を送ってきた奴は、紅魔館内部のことに詳しい者以外ありえないわ……もしかしたら、内部の人間が送ってきたのかもしれないわね」
 誰がそんなことを、と言いかけた美鈴だったが、結構思い当たる人物が頭を掠めたので口を噤んだ。それよりも今は、やっと見えてきた幸せの図を完成させることを考えることが先決だった。
 誰が送ってきたにせよ、実験の成功の暁には美鈴が思い描く幸せが待っているのだ。美鈴はそう信じていた。
「Aさん。誰が送ってきたかなんてこの際、どうでもいいと思います。それよりも、今は実験を成功させる方法を一緒に考えていただけませんか?」
 急にまじめな顔をした美鈴の言葉に、Aは上気した頬を緩めた。
「ええ、もちろんよ」


 美鈴とAは場所を美鈴の部屋に移し、早速、実験の成功法についての話し合いを始めた。
 美鈴は髪を下ろし、薄緑色のシルクの寝間着に身を包み、小さな円卓の前で正座をしている。向かい合うは、白の寝間着に身を包んだA。自室に戻る時のために、制服を隣に置いている。
「まず、咲夜さんの行動パターンね。多分、信者の連中が事細かに知っているはずだから、それは私が当たっておくわ」
「ありがとうございます」
 生乾きの朱色の長髪をを円卓に散らばせながら、美鈴は深々と礼をした。
「問題はやっぱり、如何にして犬にするか、という点ね。ワンワンって言ってもらうのが一番手っ取り早いんだけど、まず不可能ね。そんなこと頼んだところで、軽くあしらわれるのがオチよ。あるいは本気で怒って消されるわね」
 Aの言葉に、全身にナイフが刺さった己の姿が美鈴の頭をよぎった。
「し、死ぬのは絶対に嫌です……」
 いくら妖怪で頑丈といえど、本気になった咲夜を相手にしたら文字通り一秒も持たない。咲夜の所有する力を以ってすれば、美鈴を殺すことなど造作も無いことで、美鈴自身そのことをよく理解しており、それも咲夜を鬼たらしめる諸因の一つだった。
「そんな不安そうな顔しなくても大丈夫よ。いくら咲夜さんでも、命を奪ったりはしない……と思うわ」
「な、なんですか、今の間は!?」
「冗談よ。とにかく、まっこう勝負は勝ち目が無いってこと」
「じ、じゃあどうすれば……?」
 不安でしどろもどろになりながら、美鈴は縋りつくような目でAを見つめた。
「そうね……交渉、なんてどうかしら」


 交渉というのは、つまりギブアンドテイクということだ。こっちが咲夜に犬のような言動を要求する代わりに、こちらも何か、咲夜の要求に応えなくてはならない。
「何を材料に交渉するんですか?」
 美鈴が質問すると、Aはしばし思案に耽った。顎に手を当てて、思い当たる節を必死に探す。
「何かしらの弱みか、あるいは咲夜さんが望んで止まないブツね。でも、そんなものあるのかしら……」
 完全で瀟洒な従者。完全と呼ばれるからには、弱点などあるはずがない。では、咲夜の欲しがる物はあるだろうか。見た目からして、咲夜には支配欲や名誉欲はあまり無さそうだ。
「咲夜さんだって人の子。きっと、一つくらいはあるはずよ」
「そ、そうでしょうか……」
「そうでしょうか、って、貴女がそんな弱気でどうするのよ。『無いのなら、わたしが作ってやるーっ!!』くらいのやる気を見せなさい!」
 Aが美鈴の額を、こつん、と軽く小突く。

(そうだ……Aさんの言うとおりだ。幸せは歩いてこないんだから、わたしから捕まえる努力をしなくちゃ)

 Aの言葉にあっという間に感化された美鈴の中で、先のことに対する不安や邪推が消え、代わりに、実験に対する意欲と、成功させるぞという気迫が湧いてきた。そして、美鈴は握った両の拳を力強く円卓に叩きつけた。
「わたし、絶対にこの実験を成功させます!! そして、皆さんにきちんと名前を覚えてもらいます!!」
「そう、その意気よ。交渉材料については、とりあえず明日、信者の中の詳しい奴に色々と聞いてみるわ」
「はいっ、ありがとうございます!!」
 それから、美鈴とAは力強い握手を交わした。力強すぎて、Aが顔をしかめたが、やる気に満ちた美鈴はそんなことを全く気にせず、引き続き感謝の言葉を述べた。




 翌日。
 すっかり気力を取り戻した美鈴は、一段と力をいれて門番の仕事をしていた。尤も、そうそう何回も侵入があるわけではないので、ほとんど門の前にいることだけで一日が終わってしまうのだが、給金をもらっていない以上、何もクレームは来ない。
 やがて、何事も起きないまま昼になり、美鈴が芝生に腰を下ろして自前のおにぎりを食べていると、背後に人の気配を感じた。
「随分と暇そうね。貴女みたいなのを給料泥棒とでも言うのかしら」
「失礼ですね、これでもきちんと仕事はしていますし、第一、お給料なんてもらっていな……」
 後ろからかかった声に振り返ると、そこには実験の対象がいた。あまりの衝撃に、食べかけのおにぎりを地面に落としてしまう美鈴。
「さ、さ、咲夜さんっ!? ど、ど、どうしてここに……」
「ちょっと、ご飯粒飛ばさないでよ」
 美鈴の口から飛んできたご飯粒を手で払うと、咲夜は腰に手を当てて美鈴を一瞥した。
 その視線があまりにも怖く、震えが止まらなくなった美鈴の口からはご飯粒が止め処なく零れ落ちていく。
「今の発言は多めに見てあげるわ。その代わり、ちょっと付き合ってくれないかしら?」
 地獄に、というワードが続きそうな気がして美鈴は気が気でなかった。
「つ、付き合うって、一体どこに……」
 泣きそうになる気持ちを必死に堪えながら、美鈴は言葉を紡ぐ。その光景は、傍から見たらただのいじめだった。
「買出しよ、買出し。結構切れている食材が多いみたいだから、これから買出しに行くんだけど、私一人じゃ持ちきれそうにもないから手伝って欲しいのよ。どうせ、貴女暇でしょ?」
「……か、買出し……?
 咲夜の言った言葉を何回か反芻したところで、漸く美鈴の震えが治まった。そして、数分遅れで理解した美鈴の心に残ったのは安堵と取り乱した自分に対する羞恥だけだった。
 慌てて、目に溜まった涙を手で拭う。
「わ、わたしでよろしければ、ぜひお手伝いさせていただきますけど……」
「そう、ありがとう。貴女、力持ちそうだから助かるわ」
 そうして、二つの人影が門から飛び立った。

 
 飛行中、美鈴は何度も咲夜の横顔を盗み見した。
 きりっとした顔立ちに、すらっとした眉。向かい風に靡く短い銀色の髪。全てを見透かすような、凛とした蒼い瞳。
 例え、どんな物を交渉の道具として使っても、絶対に譲らなそうなプライド。そんな物が、美鈴の目に映った。
「さっきからチラチラと……私の顔に何か付いてるの?」
「あ、いえ……さ、さっき飛ばしたご飯粒が」
 美鈴の言葉を聞くや否や、咲夜が盛大な急ブレーキをかけた。
「ち、ちょっと、だったらもっと早く言いなさいよ!!」
 急に咲夜の雰囲気がガラリと変わったことに美鈴は驚きを隠せなかった。勿論、本当にご飯粒が付いているわけでもなかったが、今更、冗談です、などとは決して言えない。
「あっ、すいません。そこまで気が回らなくて……」
「謝らなくていいから、ちょっと取ってくれない?」
 美鈴は心臓を掴まれた気分だった。予想だにしなかった展開に、頭の中はパニック寸前だ。先程まで抱いていた畏怖がただの恐怖へと変わり、身体が震えているのが分かった。
「で、では……せ、僭越ながら……」
「そんな畏まらなくていいから、早くして」
 咲夜の顔を見つめる。どこにもご飯粒など付いていない。
「あ、あの……目、閉じててもらえますか? 目に入ると危険ですので……」
「一体どこに付いているのよ……」
 美鈴のあからさまに不審な言葉に眉をひそめつつも、咲夜は言うとおりに目を閉じた。
 咲夜の瞳に見据えられていると、気分的に身体が硬直してしまうし、取ったという嘘もばれてしまう危険性がある。故に、美鈴はとっさに目を閉じるよう指示したのだった。
「そ、それでは取ります……はい、取れました」
 美鈴の言葉を聞き、咲夜が瞼を上げる。
「……本当にご飯粒付いていたの?」
 懐疑的な鋭い眼差しを美鈴に向ける咲夜。蛇に睨まれた蛙とは、まさに今の美鈴の状態を指す。
 嘘がばれたら思い描いた悪夢が現実になるのだ、と信じて止まない美鈴は震える唇を必死に動かした。
「ほ、本当ですよ……」
「じゃあ、そのご飯粒を見せて」
「えっ!? そ、それは……」
 嫌な汗が美鈴の頬を伝う。絶体絶命になってしまった。次の一言の選択を間違えればどうなるかわかったものではない。ごまかすか、正直に打ち明けるか。
 意を決し、美鈴は更に言葉を続けた。
「……た、食べちゃいました」
 恐怖のあまり目をぎゅっと閉じて、美鈴は消え入りそうな声で言った。咲夜が今、どんな表情を浮かべているか確認したいのだが、あまりにも恐ろしくて目を開けることが出来ない。
 そして、まもなく、空恐ろしい沈黙が流れた。依然として美鈴は瞳を閉じたまま、次に咲夜の口から紡がれる言葉を待っている。だが、いくら待っても耳に入ってくるのは空を翔る風の音のみ。

(怖くて気絶しちゃいそう……咲夜さん、何でもいいから早く何か言ってください……)

 例えば、暗い夜道で目を閉じると怖い想像が次々に湧いてくるように、美鈴の頭の中にも言い知れぬ恐怖が渦巻いていた。鬼の形相でナイフを構える咲夜。鬼の形相で銀色の塊を舐める咲夜。鬼の形相で美鈴の身体をバラす咲夜。
 その恐怖が意識を侵食し始め、とうとう耐え切れなくなった美鈴は目を恐る恐る目を開けた


「……えっ?」
 美鈴の口からは何とも拍子の抜けた声が零れた。それは、自分が想像していた状況と全く違ったギャップのせいでもあり、恐怖が抜けていく安堵から来るものでもあった。
 目を開けた美鈴の瞳に飛び込んできたのは、体を硬直させた咲夜だった。唇をわなわなと震わせ、耳まで真っ赤に染まった顔をこちらに向けて固まっていた。
 美鈴にはそれが、怒りのあまり紅潮してしまった顔には到底見えなかった。それは、どちらかというと羞恥に顔を染めた、といった感じだった。
「ど、どうしたんですか……?」
 美鈴が声を掛けてみるも、全く反応しない咲夜。
 今度は肩を揺すってみた。すると、ハッと我に返ったのかのように咲夜は口を開いた。
「ご飯粒食べたって……本当なの?」
 これまた予想だにしなかった言葉。いくつもの疑問符が頭に浮かんでいく。
「確かに食べましたよ……そ、それがどうかしましたか?」
 嘘を固めるために必要だった言葉。それがどうして、咲夜の口から再び出てくるのか。
「……私の顔に付いたご飯粒を……食べた……」
 咲夜が突然、頭を垂れた。俯いた咲夜の口からは憮然とした言葉が紡がれる。
 そのただならぬ様子に美鈴は少しだけ後退りをした。一応の臨戦態勢だ。

(勝てる気が全くしないけど……)

 と、次の瞬間、咲夜の姿が眼前から消えていた。本当に一瞬。いや、一瞬も無いという錯覚を覚えるほど、あっという間の出来事。
 驚いて辺りを見回すと、はるか前方に人影のようなものが微かに見受けられる。
「咲夜さん……?」
 ひらひらと靡く独特のスカートは遠目でも確認できた。

(時を止めた……のかな。でも、何でそんなことを……?)

 幾つかの疑問が浮かんだが、今は咲夜を追うことが先決だと判断した美鈴は、風が吹く青空に身を躍らせた。
 咲夜の姿が段々と大きくなっていく途中、美鈴は自分の右頬が妙に湿っぽいということに気が付いた。手で擦ってみると、僅かに甘いにおいが鼻をくすぐった。

 
 買出しは、いたってスムーズに進んだ。美鈴が咲夜に追いついたのは、人里に着いた後だった。八百屋で、できるだけいい物を選ぼうとしている咲夜の姿は、いつものそれと変わらず、美鈴は狐に化かされた錯覚を覚えた。
 空での異様な様子を尋ねてみるも、全くと言っていいほど平然とした様子であしらわれた。まるで、夢でも見ていたかのようだった。
 そうこうしているうちに、いつの間にか二人は打つ解けた。美鈴は、あれほど畏怖し、その偉容に屈服していたにもかかわらず、世間話を始めたらすぐに頬を緩めた。咲夜もまんざらでもないといった風情で、美鈴の話に相槌を打つなり、自分の見解を述べたりと、いたって普通の態度を見せた。
「あとは肉だけね。中国、まだ持てる?」
「ええ、楽勝ですよ。でも、中国はやめてくだ――」
 質疑の応答だけ確認すると、美鈴の抗議をさらりと流し、次の店に向かう咲夜。打ち解けたからといって、わざわざ他人にペースを合わせる咲夜ではない。それも、メイド長たらしめる要素でもあるのだが、美鈴はあからさまに不満を顔に出していた。
 相変わらず切り替えの早い頭で、咲夜の人柄に対する認識を改めたからと言っても、美鈴の名前に対するこだわりは消えない。それどころか、親しくなればなるほど、ますます本当の名前で呼んで欲しいと望むようになっていった。
「牛肉……高いわね。こっちの鶏肉でも事足りるわ」
 次第に、美鈴の中に葛藤が生まれた。
 咲夜は美しい人間だ。そんな彼女にこれから、ある意味卑屈とも思える交渉を持ちかけるのだと思うと、美鈴はごまかしの効かない罪悪感を抱いた。また、咲夜のプライドを傷つけることに対しては、保身の危惧よりも、彼女の心に対して懸念を抱くようになっていた。
 妖怪というのは、こんなにも単純だったのだろうか。そんな疑問が美鈴の頭に浮かぶ。

(って、それじゃ他の妖怪に失礼かな……単に、わたしが単純なだけなんだ)

「中国は鶏肉と牛肉と豚肉、どれがいいと思う?」
「えっ、わたしですか? わたしは……鶏肉が好きです」
「すいません、この牛肉ください」

 
 すっかり遅くなってしまった帰り道。視界を横切っていく木々に夕陽が反射してキラキラと輝いている。
 向かい風がパタパタと美鈴の髪を揺らし、その紅い髪が夕陽に照らされて更に紅く染まる。
「思ったとおりの力持ちね。館の柱が壊れたときには大いに役に立ちそうね」
「いくら何でもそれは無理です……」
 夕陽に照らされた咲夜のはにかんだ顔に、思わずドキリとする美鈴。そんな表情は、今まで一度も現実でも脳内でも見たことがなかった。鬼、という形容など考え及びもしない程きれいで、素直に可愛いと思える笑顔。
 昼から始まった、咲夜に対する見解の変化は、まるで咲夜が力を行使して時間を早めているのではないかと思えるほど早く、目まぐるしかった。そして、それは同時に美鈴の心にも大きく影響し始めていた。

(実験……どうしようかな……)

 名前を覚えてもらいたいのは事実。しかし、少なくとも今の咲夜を貶めるような真似は絶対にしたくなかった。美鈴の妖怪としての本性がもっと強ければ、そんなことで悩まなくても済むのだが、それはそれ。そんなことをいくら考えたところで現状は何一つ変わらない。
「咲夜さん……もしも、自分が信用している人に裏切られたら、咲夜さんならどうしますか……?」
「……えっ、何か言った? ごめんなさい、聞いてなかったわ」
 咲夜はどう思っているのであろうか。所詮は、美鈴を一介の部下としてしか見ていないのだろうか。
 美鈴の疑問と悩みは尽きない。単純故の性。それらは決して安堵を与えず、葛藤を引き起こし、美鈴を苦しめる。
「夕陽がきれいね……お嬢様にも見せてあげたいわ」
「そんなことしたら、夕陽じゃなくて、きれいなお花畑を見せるはめになりますよ」
「そうね……んっ? 今、私のこと馬鹿にしなかった?」
 静かに首を振る。相変わらず鋭い視線だったが、今の美鈴はそれをまったく違った形に受け止めていた。恐怖は無い。むしろ、ツッコミに反応してくれたことが嬉しいくらいだった。
 美鈴の危惧は膨らむ。仮初かもしれないが、今のこの関係を維持したいと切に願う。

(Aさんは何て言うだろう……)



「咲夜さんにそんな一面があったとは……やったじゃない、美鈴」
 本日の出来事を打ち明けて、Aから返ってきた反応は美鈴を驚かせるものだった。美鈴はてっきり、そんな情に流されるな、と注意を受けるのでは思っていた。
「でも、わたしがこんなあやふやじゃ、せっかく協力してもらっているAさんに迷惑が……」
「迷惑? まさか。最も有力な交渉戦術が見つかってよかったと思ってるわ」
 ふと、Aが漏らした言葉に美鈴は首を傾げた。
「最も有力な交渉戦術……?」
「ええ。実はね、今日、信者の奴らに色々と当たってみたんだけど、どれもこれも交渉材料としてはいまいちなのよね」
「どんなのがあったんですか?」
「ホント、あまり頼りにならないものばかりよ。胸が小さいのを気にしているだとか、お嬢様を敬意とは別の目で見ているらしいとか、時を止めて時々休憩を内緒でとってるとか、まあ大したこと無いものばかりね」
 結構、本人とっては重大なことなのではないかと思う美鈴だが、Aが口にした『最も有力な交渉戦術』の方が気になっているのは事実だったので、早速その質疑を始めることにした。
「じゃあ、それらよりももっと有効な交渉戦術って一体何なんですか?」
「そうね……簡単に言えば、色仕掛けと言ったところかしら」
「……い、色仕掛け!?」
 突拍子無いことこの上ない発言。目を丸くして驚いている美鈴をよそに、Aは言葉を続ける。
「つまり、咲夜さんを落とすってこと。骨抜きにして言いなりにさせるのよ」

(な、何言ってるの、この人!?)

 Aの発言は美鈴の眼球を飛び出させんばかりの衝撃を誇っていた。咲夜を、人間の琴線を弄って屈服させようなどと、一体誰が思いつくであろうか。かの知恵者、パチュリー・ノーレッジですら想像に及ばないだろう。尤も、パチュリーの場合、もっと奇抜で危ない発想をしそうだが、この際それは置いておくことにする。
 今、一番抗議すべきはAの作戦についてだ。
「何言ってるんですか、Aさん!! そんなの無理に決まってるじゃないですか!!」
「いえ、そうとも限らないわ。今日得た情報によると、咲夜さんは少しこっちの気があるみたいなのよ」
 そう言って、Aが小指を立てる。
「た、例えそれが本当だとしても、噂では、既にお慕いしている方がいるみたいじゃないですか!!」
 美鈴はAに人差し指を突きつけて喝破する。
 しかし、Aは嘆息にも似た息を吐いて言葉を続けた。
「そうね、確かに咲夜さんはお嬢様にイケナイ想いを抱いているみたいね。でもね、相手にその気が無いなら、その想いのベクトルを変える事だってできるのよ」
「ど、どういうことですか……?」
「貴女、お嬢様が毎晩毎晩どこに行ってるか知ってる?」
「それは……当然、夜の見回りです」
 美鈴の応答に、Aは一瞬きょとんとし、次の瞬間、まったくの遠慮を取り除いた大笑いを始めた。腹を押さえながら、美鈴の部屋の床を転げ回る。
「な、何がおかしいんですか!?」
「だ、だって……くくっ……そ、そんな答え、い、一体どこから……で、出てくるのよ……」
 Aの笑いの原因が解せない美鈴は少しだけ腹を立てた。
「だって、皆さん言ってますよ。お嬢様は治安を守るため、幻想郷を飛び回ってるって」
「あ、あははははっ!! あ、あのお嬢様が……ち、ち治安を守る……? あ、貴女、私を笑い殺す気……?」
「な、何が言いたいんですか!! わたし、何か間違ったこと言ってますか?」


 それから暫く、Aの笑いは続いた。何を聞いてもとても答えられそうな状態ではなかったので、不本意ながら、美鈴は笑いが治まるのを待った。
 そして、漸くAの笑いが治まったころを見計らい、美鈴は疑問をぶつけた。
「いやぁ、ごめんごめん……貴女があまりにも面白いこと言うもんだから。こんなに笑ったの久々よ」
「うぅ……そ、それより早く答えてください。わたしの言ったことの何がおかしかったんですか?」
「結論から言うわ。お嬢様は夜の見回りなんてしていないし、治安を守るために夜空を翔けたりなんかしないわ。つまり、貴女、からかわれたのね」
 思案に耽ること一分。漸く、自分が偽りの情報を吹き込まれていたことに気付く美鈴。
「お嬢様はね……想い人の所に行ってるのよ。毎晩毎晩、通い妻みたいに博麗神社に飛んでいくのよ」
「博麗神社……? それってもしかして、あの紅白がいる所ですか? えっ、じゃあ……お嬢様の好きな人って、あの巫女だったんですか!?」
 目を丸くして驚愕を露わにする美鈴を見て、Aは嘆息をつく。
「貴女、本当に疎いわね……私だってそのことは大分前から知ってたわよ」
 仕方ないことだった。門番はメイド達みたいにたくさんいるわけではないので、情報の入手源は当然限られてくる。ましてや、館の主の秘密など、それこそあまり表には出ない内容だ。
「当然、このことを咲夜さんは知っているわ。知っているどころか、付き添いに行く時もあるみたいよ。尤も、お嬢様はそれを嫌がるみたいだけど、咲夜さんがどうしてもって聞かないらしいわ」
「そ、それって……」
 考えただけでも、悲しく、辛かった。想いを寄せる者が、その相手の恋路に付き合わなくてはならないなんて、一体どんな気持ちなのだろう。想い人が意気揚々と別の人の許に行く。もしも、自分がそんな状況だったら……。
「貴女の話を聞くまでは、そんなこと瑣末ごとに思えたわ。だって、私も咲夜さんを鬼みたいな人だって思っていたから。でも、貴女の話を聞く限りでは、どうやらそうでもないみたいね」
「鬼だなんて……確かに咲夜さんはクールでしたけど、ちゃんと温かい血が通ってましたよ」
「そうね……だから、私はこの作戦が有効だと思ったのよ」
 美鈴はハッとした。Aの意図が読めてしまったのだ。
 咲夜の想いは成就しないということは、紅魔館の事情を知るものにとっては明瞭だ。そして、その叶わない想いは消えることも無ければ、しかし膿になるわけでもない。それは咲夜の強さに起因していることだが、その強さも絶対というわけではない。買出しの帰り道に見せた笑顔をがそれを物語っていた。
 笑顔の裏には弱さが介在している。簡単なデマに騙されてしまう美鈴だが、そのことを見抜くことくらいはできた。あの笑顔は偽りなどではない、と。では、あの笑顔の裏側には一体どんな気持ちが潜んでいるのだというのだろう。
「これは飽くまで想像だけど……もしかしたら、日々の忙しい時間に追われることで、咲夜さんは自分の気持ちをごまかしているんじゃないかしら……」
「Aさんは……その咲夜さんの気持ちを捻じ曲げろと言うんですね?」
「いえ、違うわ。お嬢様の夜の通いに付き合っていることからもわかるように、咲夜さんは相当強い心の持ち主よ。そんな咲夜さんの気持ちを捻じ曲げることなんて、多分、お嬢様でも無理だわ」
「じゃあ、一体……」
「こう考えてみて……強い相手を倒すには、それ相応の強い奴を用意すればいい。要するに、貴女に対する好意が咲夜さんの中で少しでも芽生えれば、あとはそれを育てていくだけでいいのよ。その好意がお嬢様に対する想いよりも強くなるまでね」
「……し、自然淘汰ってことですか?」
「あら、難しい言葉知ってるわね。つまりそういうことよ。確かに、外側の力から想いを断つのは難しいわ。でも、本人の気持ちを以ってすれば、どうとでもなるのよ」
 再び、美鈴の頭を咲夜の笑顔がよぎる。Aの言っていることは、確実に的を射ている。何より、それを自分が証明してしまっているのだから、疑いようも無い。



「咲夜さんを……振り向かせる……」
 口にした言葉が一体どれほどの難易度を誇るのか、知る由も無い美鈴。だが、何の影響からか、なんとなく美鈴はできそうな自信を感じていた。
「どう? この作戦で攻めてみる?」
「……はい。無駄かも知れませんけど、わたし、やってみようと思います」
 もしかしたら驕りかもしれない。もしかしたらただの勘違いかもしれない。もしかしたら……。
 いくつものifが頭をよぎる。本日、何度も頭の中をいろんな物がよぎった。その度に、美鈴の物事に対する考えた方や方向性が変わっていった。
 悩みに意気消沈することに始まり、実験についての思案、成功の暁に対する憧憬、鬼メイド長に対する恐怖、良き上司という認識の改め、そしてかなり大それた作戦。
 しかし、今これからやろうとしている事は、そんな単純で流されやすい意識の許では絶対に成功しない。ましてや、ちょっとくらい脈ありと思ったくらいでは、それは即座に単なる思い上がりなってしまう。 何しろ相手は、あの十六夜咲夜なのだから。
 そうならない為にも、美鈴は自分の脳内に釘を打つことにした。もちろん、本当に打つわけではなく、飽くまで決意という意味合いで。

(がんばらなくちゃ……がんばって、咲夜さんを……そして、名前を……)

 密かに自分に喝を入れ、拳を握り締める美鈴。
「そうと決まれば、早速、方向性の模索ね。きっと、洒落にならないくらい努力が必要になってくるわよ。大丈夫?」
「はい……がんばりますっ!!」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
二度目の挑戦となります甘人と申します。
今回は三人称を使ってみました。何だか、えらく説明臭くなってしまいました……。
当初は前回同様に一本で纏めるつもりでしたが、書いてるうちに方向性が変わってしまい、前編後編にわけることにしました。
後編は、なんだか百合のにおいが強くなってしまいそうです……。
甘人
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