日常はいつまでも日常のまま彼女を蝕む続ける。
「そいつ死んでるぜ」
霧雨 魔理沙は特別目敏いわけではない。人並み程度の事柄はやはり人並み程度に見逃すし、例え目に止まるような事柄があったとしても、それはすでに人垣の中という場合が大抵である。ともなれば、彼女のこの一言は意外とも言えようか。いや、言えまいか。少なくとも上白沢 慧音にとっては意外な一言であった。
「知ってるよ」
よく気付いたもんだと感心しながらも、慧音は何でもないといった感じで返した。妹紅が死んで幾数日。慧音以外にやっと妹紅の死が知られたのである。
死んだように眠る妹紅は、その実、眠るように死んでいた。その事実に気付いた時、慧音は不測の事態に焦慮するとともに、その心の奥底にある種の馬鹿馬鹿しさを感じていた。よくもまあここまで気付かなかったものだと、妹紅の身を憂うより先に自らの楽観を憂いていた。ただ、憂うだけであって改めはしなかった。彼女の楽観は変わっていない。現に彼女は待っているのである。黄泉の客となった少女の目が覚めるのを。
蓬莱人は死ぬ。それは確かである。餓死、水死、病死、轢死、過労死、およそ考えられる限りの死に方は、そのまま彼らが帰結するであろう可能性となり得るのである。飢えれば死ぬ、溺れれば死ぬ、患えば死ぬ。死は平等にそして確実に彼らの中に内包されている。しかしながら、それは終わりではない。何故なら彼らは一つの死と同時に一つの生も約束されているからである。一つの命が終わると一つの命が始まり、それが終わるとまた次の命が始まる。死んでは生き返り、死んでは生き返り、恰もそれは一つの輪のようにぐるぐると回り続けながら、永遠とも言える回帰を続けていく。故に蓬莱人にとっての死とは終わりでなく、単に一つの区切りにしかすぎないのである。
当然、慧音はそれを知っている。知っているからこその楽観なのであろう。
「あー?知ってるのか?」
「そうだよ。何か問題でもあるか?」
「んにゃ。当たり前のように布団に寝かせられてるからな。お前が勘違いしてるんじゃないかって邪推しちまった」
「勘違いか」
慧音はばつが悪そうにして微笑んだ。
「私も最初は気が付かなかった」
「何だそりゃ?死んでるのを寝ていると思ってたのか?」
「そうなるな」
「目出度いやつだな」
呆れたといった口振りだった。重々承知していながらも他人に言われるとその気恥ずかしさも一入である。じとりとした魔理沙の視線から逃れるようにして、慧音は妹紅の枕元にそそくさと足を運んだ。
「まあ、確かに悪いのは私なんだがな。でも勘違いしないで欲しい。別に無関心だったわけじゃなく……」
「わかってるよ。ただ単に起こしたくなかっただけなんだろう?」
「うむ、まあ、そういうことだ」
うやむやに言葉を飲み込む。全てお見通しというのも決まりが悪い。しかしながら、言い返そうにもにも適当な言葉が思いつかず、慧音は噤んだ口を開けずにいた。
「今日のお前は面白いな」
見上げると魔理沙はそれこそ少年のように笑っていた。今日ばかりは敵いそうもない。慧音は観念するしかなかった。
「……んっ、そういや気になることがあるんだが」
ペタペタと妹紅の頬を触っていた魔理沙が突拍子もなく切り出してきた。
「何だ?」
「ちょいと生々しい話になるかもしれんが」
「猥談か?」
「馬鹿、違うよ。こいつの扱いについてだよ」
そう言いながら魔理沙はチョンチョンと妹紅を指差した。
「指をさすな、指を」
まるで物ではないか、と慧音は思った。
「へいへい。んじゃ、聞くけどさ、こいつこのままにしてていいのか?」
「このまま?どういうことだ?」
「いつ起きるかわかんないんだろう?そしたら、それまでは死んでるってことだから……ほら、夏場とかは特に」
ああ、と慧音は得心した。
「問題無い。防腐処理だけはしている」
「防腐って……まるで標本だな」
「標本は動かん。妹紅は動く。目指す場所が違うのだよ」
「そういうもんか?」
「そういうもんさ」
そう言って慧音は手櫛で妹紅の髪を梳いた。流れるようなその動作は自然そのもので、一つの画になりそうな光景であった。その様子を微笑ましげに眺めながら魔理沙は静かにその場から離れた。
「帰るのか?」
「ああ、後は何でも好きな言葉を掛けてやってくれ」
「死人に口無しだよ」
「でも、耳はあるぜ」
「……口の減らない人間だな」
「お生憎様だぜ」
そう言って魔理沙は庵を後にした。
「ふう……」
庵に静寂が戻り再び二人だけとなった。正確には一人と一体かもしれないが、少なくとも慧音はそう思っていなかった。
「疲れたな……妹紅?」
返事は返ってこない。慧音は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「早く起きろよ」
布団を掛け直しながら何気なく呟いた。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
「そいつ死んでるぜ」
「ああ、知っているよ」
表情を少しも変えずに慧音はそう返した。
「でも、死んでいるぜ」
「知っているよ」
同じように聞かれ同じように返す。慣れたものであった。
そいつ死んでいるぜ。
霧雨 魔理沙は庵を訪れるたびにそう言う。日も時間も気にせず、前触れもなく突然庵を訪れてはそう言うのである。どういう肝かは知らないが、慧音も最初のうちは別段気にしていなかった。ただ、それが一年以上続くとなると、さすがにどうしたものかと思い始めてきた。
「死んでるん……だぜ?」
「だからなあ……」
その態度に明らかな変化が出てきたのはごく最近のことであった。初めの頃は1、2回の問答で済んでいたのに、近頃はやけにしつこく食いついてくるのである。今までは適当にあしらうような感じ返していたのだが、最近はそれでは埒があかないと思い始めたので、面倒ながらも蓬莱人についての知識を逐一説明してやることにしていた。蓬莱人の起源から始め、その神秘性、不死性、勿論最後には妹紅と結びつけることも忘れてはいなかった。
「……というわけだ」
「ああ、知ってる、知ってるさ。でも……」
「妹紅は死んでる……だろ?ああ、分かってる、分かってるさ。確かに死んでる。息もしてないし、心臓も動いていない。符で抑えてはいるものの最近は身体も痛み始めている」
「だったら……」
「でも……妹紅なんだぞ?」
魔理沙の身体がピタリと止まる。乗り出した身体が不自然なまま固まっていた。何をそんなに熱くなるのか。慧音は甚だ疑問であった。
「ほらほら、妹紅の心配はいいから。それより、夕食を食べていくんだろう?」
「……ああ」
慧音は予め用意してあった椀に汁物をつぐと、すっと魔理沙に差し出した。
「妹紅がいると思うとどうしても多く作りすぎてしまうんだ。正直、お前が来てくれて助かるよ」
「……」
「んっ……あぁ、そういえばお前」
「何だ?」
「少し背が高くなったな。目線が私に近づいている」
「そりゃそうさ。この歳で伸びない方がおかしい」
「いいことだ。私を越す日も近いかもな」
そう言いながら、慧音はあの夫婦を思い出した。あれから3年、目に見える形で二人は変わってきた。男は父親らしく、女は母親らしく、と言ってしまえば月並みであるが、他に形容の言葉が無いから仕方も無い。月日が人を変えたのか、それとも出来事が人を変えたのか、判断のし辛い年月ではあった。
「そういえば、他の奴らは元気か?」
「他の奴らって?」
「博麗 霊夢とか、八雲 紫とか、十六夜 咲夜とか……まあ、いつもの騒がしいメンツだ」
「変わりないよ。世は事も無しだ」
「そうか、安心したよ」
「どうした急に?」
「気になっただけさ。最近、あまり会う機会も無いから余計にな」
「呼べば来るぜ」
「来て欲しくないから呼ばないんだよ」
「成る程ね」
そう言って慧音は空になった魔理沙の椀に手を伸ばしたが、魔理沙はそれを辞した。
「どうした、もっと食べていってもいいんだぞ」
「いや、今日はこの辺りにしておくよ。あんまり長居するつもりもないしな」
御馳走様といって立ち上がると、魔理沙は床に伏せる妹紅に目をやった。その視線に気付き慧音も同じように妹紅を見た。
「起きないな、こいつ」
「まだ、ということだ。何、気長に待てばいいさ」
「……そうだな。でも……」
魔理沙は帽子を深く被り顔を伏せた。
「そいつ死んでるぜ」
「知ってるさ」
何度目になるかわからないやり取りを交わすと、魔理沙は顔を伏せたまま庵を後にした。その表情を窺い知ることはできなかったが、頓着することでもないと慧音は思った。
「ふう……」
溜息をつきながら、もう一度妹紅に目を遣る。この暮らしにも慣れてきたのか、妹紅のことを特別意識する回数も少なくなってきた。ふと隣を見れば妹紅がいる。それが日常に変わりつつあった。
「……早く起きろよ」
椀を片付けながら、何気なく呟いた。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
「そいつ死んでるぜ」
「……知っているよ」
慧音はうんざりして返した。そいつ死んでいるぜ。この言葉を聞いた回数は既に数えるのが馬鹿らしいほどになっている。昨日聞いたかと思えば今日も聞き、明日も聞くかと思うと気が沈むどころの話でない。慣れるとか慣れないとかの次元はすでに越えていた。
「死んでいるんだぜ?」
「ああ……知っている、知っているさ」
「違う。お前は知らない。見てみろ」
そう言って魔理沙は妹紅がいる布団を指差した。
「だから、指をさすなと……」
無駄だと思いつつも諭す。物のように扱われるのは我慢がならなかった。
「頼む、見てやってくれ。こいつは……」
「見てるさ、毎日な。そして知っている。妹紅は死んでいる。死んではいる。でも……妹紅は蓬莱人だ。蓬莱人は死なない。だから、妹紅も死なない。こんな簡単な話がわからぬお前ではないだろう?」
「違う、違うんだ……」
「何が違うというのだ?」
「私は……」
「結局のところ水かけ論なんだよ。お前が理解を示すまで事は進まない」
「……」
「なあ、そろそろ実の無い話は止めないか?それよりお前達のことを話してくれ。他の奴らはどうしてる?皆、元気か?」
「……っ!ああ……皆、元気だよ。世はやっぱり”事も無し”だ。くそったれ」
魔理沙は荒だしく立ち上がると、敵意を込めた視線を慧音に向けた。
「明日も来るぜ」
それだけ吐き捨てると、わざとらしいぐらい大きな足音を立てながら庵を後にしたのだった。
「はあ……」
緊張の糸が切れ慧音は思わず息をついた。最近はいつもあんな感じで喧嘩別れになる。慧音には魔理沙の意図が全くわからなかった。
「まったく、疲れる奴だな……なあ、妹紅?」
返事は返ってくるはずもなく、力の無い溜息だけが静寂の中に響いた。
「早く起きろよ、妹紅」
願いを込めてそう呟いた。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
「そいつ死んでるぜ」
「……」
同じ言葉、同じ返事、同じ内容。それを慧音は何回言っただろうか。そしてそれを何回聞かせただろうか。霧雨 魔理沙は一向に慧音の意を理解しようとはしなかった。その様子は見ようによると意固地のようにも見え、いよいよ慧音を疲弊させた。もう相手をしまい。慧音は自然と口数も減っていった。
「おい、返事もできないのかよ」
「悪いな」
「そう思うなら口ぐらい開けよ」
「……悪いな」
「ああ、そうかよ」
ふいに魔理沙の手が伸びてきて、慧音はその肩をぐいと掴まれた。そのまま押し付けるようにして、魔理沙は顔を近づけてきた。
「なあ、いい加減にしてくれよ。お前はこんな奴じゃなかったはずだろう?」
「……何のことだ?」
「お前、最近は村にも下りて無いんだろう?皆、心配してたぞ」
「妹紅の世話が忙しいんだ。村長にだって説明している」
「でも……」
「お前は知ってるか、結婚の話を」
「結婚?何のことだ?」
「覚えて無いか、お前が仲を取り持ってやった夫婦を」
「……ああ」
夫婦、結婚、子供。断片に過ぎない言葉が次々と組み合わさり型をなしていく。
「覚えてるさ」
切り取ったように一つの光景が慧音の胸に浮かび上がった。優しく、暖かく、そして懐かしい光景だった。
「覚えてる……さ」
「……その夫婦に娘が一人いたよな。そいつが今度結婚するんだとさ」
「それは……」
「それで、だ。お前にもぜひ来て欲しいそうだ」
「私が?」
「ああ。縁があるんだろう。言ってたぞ、お前に合いたいってな」
「……」
「お前に来て欲しいと言っているんだ」
「だから……私は行けない。ここを離れられない」
「……お前」
魔理沙は黙って慧音を睨むと、突き放すようにしてその肩を離した。そうしてうやむやな言葉で一つ呟くと、足早にその場を後にしたのだった。
「……」
慧音はただその背中をぼんやりと見ているしかなかった。『畜生』。虚ろな思考の裏では魔理沙が去り際に口にした言葉が何度も響いていた。
慧音は庵に戻ると妹紅の世話を再開した。布切れを濡らすとそれで妹紅の顔を拭いてやる。額、頬、口、眼窩、鼻腔……ただ淡々と機械的に手を進めていく。
「早く起きろよ……妹紅」
そうしていつもの言葉をまじないのように唱えた。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
「そいつ死んでいるぜ」
ある時慧音は怒った。もう我慢の限界だった。
目の前の老婆の襟を掴むと、そのまま力任せに庵の床にたたきつけた。
「何だ。お前は何なんだ。何年も何年も同じことばかり。私が何回説明したと思っている?いいかげんにしてくれ。私はもう限界なんだ。お前の相手をしている暇は無い」
堰を切ったようにして長年溜めに溜めてきた感情が溢れ出して来る。それはもはや慧音の意思では押し留めようがなかった。
「去れ。二度とここに来るな。もし顔を見せたりしたら私も容赦はせん」
老婆は呆然と慧音を見上げているしかなかった。
慧音は再び老婆の襟を掴むとそのままずるずると引っ張り、その身体を庵の外に放り投げた。
「去れ」
睨み最後になろうであろう警告をする。
「……」
老婆は黙って立ち上がると服についた土を叩き落とし、息巻いた表情で慧音を睨みつけた。そうだ、それでいい。慧音は内心ホッとした。が、それもつかの間だった。老婆の顔はすぐに元のもの悲しい表情に戻り、喉を振り絞りながら擦れた声で慧音に語りかけてきた。
「そいつ……死んでいるぜ」
慧音は背を向けると庵に戻った。もう老婆の声は聞こえなかった。
それから二度と老婆が庵を訪れることはなかった。しかし、それも最早慧音の知るところではなかった。
彼女は一日の全てを妹紅のために、眠れる姫のために費す。
「早く起きろよ」
妹紅と居る事。それは幸せだった。
「早く起きろよ」
妹紅と語る事。それは幸せだった。
「早く起きろよ」
妹紅を待つ事。それは幸せだった。
「早く起きろよ……妹紅」
彼女は…・・・幸せだった。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
ついに眠り姫が目を覚ますことは無かった。
それでも彼女は幸せだった。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
「んっ……ううん」
差し込む光から逃れるようにして、妹紅は一つ身を捩った。麗らかな陽気は庵の中にまで確かに染み渡っており、それはまた彼女を必要以上に意固地にさせた。まだ寝ていたい。そう思わせるほどの心地よさであったのだ。
そうしてまた一つ身を捩った時、彼女は何かが手に触れるのを感じた。柔らかく暖かく、無機とは無縁のような感触であった。寝ぼけ眼をこすりながらその方向に目を遣ると、いつの間にいたのだろうか、上白沢 慧音が静かな寝息を立てながら天を仰いでいた。
慧音は寝ている。
当たり前のことを当たり前と思うより早く、その言葉が妹紅の頭に浮かんだ。ああ、そうだ慧音は寝ている。
ゆったりとした様子で身体を横たえ、一つ二つと規則正しく寝息を立てるその姿は、眺めるものすら穏やかにするようであった。
妹紅はしばらく目を白黒としながらその様を見ていたが、やがて思い出したようにして顔を赤面させた。気心の知れた仲とはいえ、やはり対になって眠るとなると気恥ずかしさだけでは処理しきれないものがある。結局、妹紅はチラチラと慧音の顔を覗き見る度、頬を染めては顔をそらしていた。
そんな折、慧音の表情に確かな変化を感じた。
「あっ……」
笑ったのである。遠目にはわからないほど小さな笑みであったが、すぐ側にまで顔を近づけていた妹紅にはよくわかった。どんな夢を見ているのだろうか。思わず妹紅の顔も綻んだ。
庵の外に出ると妹紅は身体を伸ばし、大きく息を吸った。新鮮な空気が身体を満たし、そこに確かな生を実感する。仰ぎ見た空はどこまでも青く、果てなど無いかのようであった。変わらぬ風景は変わらぬ安堵を彼女に与えた。
ややあって妹紅が庵に帰ろうとしたとき、キンと言う音があたりに響いた。目を凝らしながらその音の出所を捜していると、東の空からこちらに向かって真っ直ぐに飛んでくる影を見つけた。はじめは点だったようなその影もしだいに大きくなり、像がはっきりするころにはもう妹紅の目前まで迫っていた。妹紅は面倒くさそうに身を捻った。刹那、激しい振動とともに大量の砂埃が舞い上がった。
「……何で突っ込んでくるかなあ」
「いやあ、悪い悪い。つい癖でな」
誰何の声を挙げるまでもなく、妹紅にはそれが誰であるかわかっていた。猪突猛進、間違いなくその言葉がピタリと当てはまる。霧雨 魔理沙である。彼女は自分で巻き上げた埃で咳き込みながら、妹紅と目が合うとニヤリと笑った。
「ご無沙汰」
「ご無沙汰のほうがよかったよ。で、今日は何の用事?」
まあまあと妹紅を手で制しながら、魔理沙はスカートの裾を何度か払った。
「ワーハクタクはいるか?」
「慧音?慧音はいるよ。中で寝ている」
「起こしちゃ……」
「駄目」
「ちぇっ、お前は母親かよ」
「言伝だけなら伝えとくよ。話の内容にもよるけど」
「米をもらいにきたんだよ。勿論、タダってわけじゃない、きちんと対価も持ってきた」
ほら、といって魔理沙は小汚い袋を掲げた。
「丹だ。文字通り念入りの素敵な一品だ」
「丹……」
違和。妹紅は何か収まりの悪いものを感じた。聞き覚えの無いはずのその単語、そしてその言葉が何故か新鮮には聞こえない。
「丹は……渡したんじゃないの?」
一言一句漏らすことなく、感じたままの違和を口にする。それを聞くと魔理沙は大袈裟に首を捻ってみせた。
「そんなわけないだろう。私は今から話を持ちかけようとしてたんだから」
「ああ、そりゃそうか」
「変なやつだな。夢でも見てたんじゃないか?」
夢。その単語は妹紅に新たな違和を喚起させると同時に、彼女をある種の理解へと導いた。しかし、それも霞を霞で覆い隠したようなものである。気持ちの良いものではない。
「夢か……うん、そうか夢かもね」
「何だそりゃ。変なやつだな」
魔理沙は訝しげな顔を浮かべていたが、妹紅のたどたどしさが可笑しかったのかすぐに相好を崩した。合わせるようにして妹紅も微笑んだ。空笑いであった。
庵に帰ると妹紅は息を整えた。違和を感じてからというもの気が気ではなかったのだ。動悸を打ち続ける心臓を落ち着けながら、ゆっくりと慧音に近づいていく。慧音は寝ている。その認識に間違いは無い。無いはずである。
得てして嫌な予感というものは最悪の結末に繋がりやすい。予感が予感のままで終わればそれは”話”ではないからだ。今回の件で言うのならば、眠っていると思っていた慧音は実のところ……妹紅は首を振った。冗談じゃない。そう、冗談じゃないのだ。事実は小説より奇なりとは雖も、やはり事実は事実であり小説は小説であるのだ。そうであるはずなのだ。
静かに伸ばした手が慧音の首筋に触れる。妹紅は一瞬何も考えられなくなった。
果たして眠らずの姫がいようか。
緊張の糸が切れ、妹紅はプッと吹き出した。自分が可笑しかった。何を真剣になっていたのだろうか。思い出せばその馬鹿らしさと突拍子の無さに身を捩りたい気分になった。ばつの悪さを噛み締めながら妹紅は慧音の頬に手を添える。そこには暖かさ、命の営みが確かにあった。
気が抜けると腹が減る。妹紅は一通り庵を見回したが、手ごろなものが見つからない。彼女は元々不精なほうであって、自分で調理をするといったことは滅多に無い。腹が膨れるのであれば生であろうと毒であろうと口にし、後は腹が減るまで待つだけである。長い人生、調理に興を見出すような機会も確かにあったのだが、彼女はことごとくその機会を蹴ってきた。長い人生、機会はいつでもあるさ、と思って。
無いなら無いで食べなければいいだけの話であるが、今日に限っては何故かそんな風に割り切れなかった。戯れに似た気持ちだったのかもしれない。米でも炊いてみようかな、と妹紅は重い腰を上げた。
世はなべて事も無し。生きていれば腹は減るし眠くもなるだろう。事実はありのままの事実であって、色もなければ飾りも無い。面白みは無い。そんなものは最初から無いのである。
でも、
「早く起きてね、慧音」
でも、だからこその日常なのだと思いつつ、妹紅はそんな言葉をかけた。日常はいつまでも日常のままで、優しく世界を包んでいる。結局のところそれを噛み締めることが出来れば幸せなのであろう。妹紅は眠り姫を一瞥し小さく微笑むと、静かに戸を閉じた。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
ついに眠り姫が目を覚ますことは無く、日常はいつまでも日常のまま彼女を蝕み続けた。
それでも、
それでも彼女は幸せだった。
幸せだったのだ。
end
妹紅なら無限のリフレイン、慧音なら泡沫の夢
お馬鹿な私にゃどちらか解りませんでした。
ただどちらだとしてもこれが私にとっての名作には変わりなく。
本当に読ませて頂きありがとうございました。
ラストの彼女はどっちなんでしょ。
前編から引き継いでいるから妹紅だとは思うんですが確信至らず。がっくし。
いや、むしろどっちではなくどちらでもいいのか?
…まあどちらにせよ彼女らに救いは訪れることはなさそうです。
魔理沙の存在が余計にやるせなさ(?)のようなものを感じさせます。
個人的願望ですみませんが次回は明るいお話を!
とか、思ってみたりする今日この頃です。
良い「話」をありがとうございました。
現実の自覚に挫折した者は「夢」の呪縛から逃れられない・・・
夢ってのは呪いと同じなんだよ
呪いを解くには夢をかなえなけりゃならない
・・・でも途中で挫折した人間はずっと呪われたままなんだよ
「夢」違いですが、こんな言葉を思い出しました