濃い茜色を纏ったうろこ雲が、緩やかな秋風に吹かれなびいていく。
ここらに軒を連ねる仕舞い屋も、運河の傍らに佇む柳の並木も、日没を間近に慌ただしそうな道行く人々の姿も、みな等しく沈みかけた夕陽の色をしていた。
羽織った外套の隙間から、心地の良い風を受けながら、私は運河へ降りる石段に腰掛けていた。
顔の傍を秋茜が掠め飛び、羽音までも感じられそうだった。
腰掛けている傍らには、すぐそこの菓子屋の紙包みと、小ぶりなステンレスの水筒がこぢんまりと鎮座している。
菓子屋の紙包みを膝の上で開くと、更に鑞引きされた紙が顔を覗かせ、またそれを開けば黒糖の饅頭が三つ入っていた。
ステンレスの水筒からほうじ茶を汲み、とうに冷えかけたのを一口含んだ。
饅頭を小さく割って咀嚼すれば、黒糖の甘さが頭に響き、それを茶で漱ぐのが美味いのだと私は常々思っている。
秋は四季の中で最も好ましい。
冬の陰鬱な曇り空と、石畳の色合いもまた好きではあるが、秋はこうして周りの景色を楽しみながら、そして仕事あがりに菓子など摘みながら茶を啜るのが楽しみであった。
蕩々と左から右へ流れ行く運河のせせらぎもまた、なかなか気に入っていた。
人々の話し声も幾分か水音に掻き消されるし、時折さえずる水鳥の声もまた好ましく思える。
ふと、聞き慣れない歌のようなものを微かに聞いた。
「おや」
水筒のコップを傾ける手を止めて、私はあたりをぐるりと見回す。
歌のようなものが聞こえてきたような気がしたが、それは気のせいだったのかもしれない。
すぐに目の前の運河の流れと鳥の声しか聞こえなくなって、やはり鳥の声だったかと思うことにした。
『ことさらあきの月のかげは』
「ふぅん、湖のほうかしら」
遠目に見える湖へ目を向ければ、その湖が真っ赤に染まった瞬間に、私は人魚のすがたを見た。
不思議と胸が高揚したのを感じたけれど、私はそれを抑え込んで、愁いを含む人魚の歌に耳を澄ませた。
私はこれから昇る月を想うことを選んだ。
そして飛び立っては、静かに夜の翳りを含み始めた湖の縁へ降り立った。
『――こゑのかなしき』
じっと私は白い肌の、美しい人魚を見つめていた。
秋風も湖の湿った空気を宿し、私は少しだけ肌寒く感じた。
既に山の合間へ陽は逃げ込んで、夜の帳が空を覆い、更に星がちりばめられていく。
人魚は歌い終えてこちらに気付き、驚いた顔でこちらを見る。
私は大して気にする素振りも見せぬよう、何食わぬ顔で声をかけた。
「月か。渋いね」
更に話し掛けられるとも思っていなかったのか、一層驚いた顔をしたものの、人魚もまた取り繕ったようにこう返した。
「十三夜も近いものだから」
「悪くない。素敵だった」
「ありがとう。あなたは……里の人間かしら」
人魚はどことなく怯えた色の目で私を眺め、私の挙動を観察しているようだった。
私は辺りに人が居ないのをいいことに、宥めるために頭と躯を切り離して見せた。
「いや、人じゃないわ。ほら」
頬にあたる湖上の夜の秋風はなかなかに冷たく、すぐに戻して頭を外套に埋めた。
なかなかにお気に召したらしく、人魚は意外にも目を輝かせて白い歯を覗かせた。
「まあ、面白い。すてきだわ」
「なかなかに便利さ。人目は気にするがね」
私はただ短く一言、
「失礼」
そう断りを入れて、私は縁にあるすぐそばの岩に腰掛けた。
すると人魚も湖の縁まで近づいて来ては、水に浸かっている岩肌に座ったようだった。
「ねえ、あなたは里に住んでいるの?」
「そうだよ。溶け込むことを選んだの。首が外れるぐらいじゃあ、妖怪としては可愛いほうでしょう?」
私は視線を向こうの湖岸に佇む紅い洋館に移したが、あそこの吸血鬼に比べたら、飛頭蛮なんざまだまだ可愛いものだろう。
くすっと人魚は口元を微笑ませ、寄り添うように私を見上げた。
「そうね、可愛らしいわ」
一度言葉を区切るように視線を水面へ移したが、すぐに再び人魚は元に戻す。
「私はわかさぎ姫と呼ばれているわ。ねえ、あなたはなんとおっしゃるの?」
昇った月灯りに照らされて、わかさぎ姫の髪にから滴る雫はきらきらと光って波間に零れていった。
肌の白さも辺りの薄暗さと対比されて浮き上がり、私は覚られぬよう唾を飲み込んだ。
「私は赤蛮奇。いつもは里の運河をぶらぶらしているんだけれどね、きみの歌が聞こえたものだから」
わかさぎ姫はにこやかに微笑んで、そっと私の手の上に自分の掌を重ね合わせる。
瞳が月灯りを反射して、彼女の目は艶やかな輝きを宿していた。
「そう。素敵なお名前ね。ねえ、もしよろしかったら、また歌を聞きに来て下さらない?」
私は矢張り、どきりとした。
しかし頑として、揺らぎに似た淡い心情を露呈させたくはなくて、私はさも穏やかに笑いかける程度に留めた。
「ああ、構わない」
「ふふっ、ありがとう。楽しみが増えたわ。それじゃあ、風邪を引かないようにね」
「きみもね。それじゃあ」
私が軽く手を振ると、彼女も手を振り返しては湖面へ身体を浸水させていった。
深く潜って彼女の姿が見えなくなって、私はやっと里のほうへと踵を返すことにした。
帰り道は秋の虫が煩いぐらいに、あちらこちらの草むらで鳴いていたのだった。
蝙蝠が薄暗い夕闇の中を漂うように群れ飛んでいく。
私は、湖の縁にたつ館に向かうのであろう蝙蝠たちを追い抜いて、今日も湖岸に降り立った。
彼女は探すまでもなく、静かに昨日と同じ姿で岩に腰を下ろしていた。
「こんばんは」
そう言って、控えめな笑みをこちらに向けてくれた。
そして私も自然と笑みが零れるのを感じた。
「こんばんは。また来てしまったよ」
「どうぞいらして下さいな。ああ、今日はなにを歌おうかしら」
「それなら、また秋らしいものをお願いしようかしら」
「……ふふっ。わかったわ」
優しく微笑んで、彼女は息を深く吸い込んだ。
『――しずかな しずかな里の秋』
ひどく澄んだソプラノの歌声が、遠い山際へ溶けて流れて行った夕日まで届くかのようだった。
私は鳥肌が一瞬にして沸き立つのを感じ、自らの腕を抱いた。
そして僅かに空の隅に残る茜雲をそっと見送ることにした。
『お背戸に木の実の落ちる夜は』
下に垂らした両足を、私は彼女の歌声に合わせてはぶらぶらと揺らす。
空を見上げて鼻から息を吸い込むと、つんと冷えた夜気を感じ、小さなくしゃみを漏らした。
慌てて彼女の歌声が止んでしまわないかと心配して目を向けると、彼女は微笑んだまま軽い目配せをして歌い続ける。
『あぁ母さんとただ二人……』
それから私は外套に深くくるまって、歌い続けるわかさぎ姫の横顔を見つめていた。
見とれていた、と言っても過言ではないと思う。
兎に角、宵闇の中で歌う彼女のすがたに、私は心酔していたのだった。
「綺麗だった」
「ありがとう。寒くはなかった?」
「なに、平気さ。冷たい空気を一気に吸いすぎたんだ」
やせ我慢と見え透いていたかもしれないが、私はそれでも見栄を張った。
彼女は詮索することもなく、ただ穏やかに笑った。
「そう、ならいいのだけれど」
じっとに見つめられて、私は気恥ずかしくなる。
つい横に顔を背けていたら、彼女は私の手を取った。
「……ねえ、こちらを向いていては下さらない?」
「うん?」
胸が高鳴るのを誤魔化しながら、私は平然を装おうとした。
辺りの暗がりよりも艶のある深みがかった墨のような黒い瞳が、まっすぐに私の目を見つめていた。
重ねられていた手が私の頬に這わせられ、彼女の吐息がかかるほどの距離となった。
「わかさぎ、姫?」
動揺しきった私は、堪えきれずに眼前の彼女の名を呼んだ。
まばたきすらせずに私を見つめていたが、やがて愉悦の表情を浮かべさせた。
「綺麗」
吐き出された吐息が耳元にくすぐったくて、つい顔をしかめさせた。
「なにを」
なにを言っているの。
言葉が続かずにそこで途切れて消えた。
わかさぎ姫はそれすらも益々お気に召したらしく――、奥で赤い舌を蠢かせたのが垣間見えた。
「わたし、実はあなたのことがとても気に入りましたの。……あなたの首を、ぎやまんの金魚鉢に入れて飾りたいぐらいに」
「……冗談でしょう?」
私の声は心なしか掠れていたかもしれない。
僅かでも踏み外したら壊れてしまう場所に立たされている気がして、私はわかさぎ姫の顔を食い入るように凝視していた。
彼女は黒い眼でまじまじと私を見返して、なにか見透かしたとでも言わんばかりの笑みを浮かべてみせた。
「ふふっ。ええ、冗談よ」
背筋に冷たい汗が這う感覚を得て、私はまたもや顔を背けさせる。
呆れた素振りでも見せようと、深いため息など漏らしてやった。
「あら、嫌いになってしまったの?」
「違うよ。そうじゃない」
無理に外套を引っ張り上げて、私は一層顔を埋めさせた。
逃げている気がして、あまり彼女に自分の表情を見せたくなかった。
「また来るよ」
敢えてそう言ったのは、彼女に惹かれていた私なりの強がりだったのかもしれない。
そのまま立ち上がって背を向けて、私は飛び立とうとした。
「またいらして下さいね。また」
後ろからどことなく妖艶な、妖しさが籠もった声音で念を押された。
嫌な予感がしたけれど、ちらりと私は後ろを振り向いた。
満面の笑みを浮かべたわかさぎ姫が、手を振ってこちらを見送ってくれていた。
意図せず勝手に深い溜め息が漏れ出ては、外套の中に湿った空気が蔓延った。
私はあの日の晩以来、湖を訪れるどころか運河の辺りをうろつくのを止めた。
十三夜も一人窓辺で月を仰いで月見の団子を頬張り、大人しく茶を啜って過ごした。
今まで過ごしてきた日常と、なんら変わりがなかった。
ただ、運河の辺りをうろつくのを止めた代わりに、貸本屋で借りた本を読むのが楽しみになっていた。
ほんのそれぐらいである。
季節は紅葉の枝先が徐々に赤く色付いて、朝晩はめっきり冷えるようになった。
立ち飲み屋の店先で、男たちのこんな会話を小耳に挟んだ。
「――近頃、運河の方でよく歌が聞こえるらしい」
「船乗りの鼻歌だろう?」
「いやあ、どうにも人魚の歌だとか」
所謂ゴシップとでも言うような、冗談めいた口調で男たちは話をしていたけれど、一方で私は、やはり彼女が運河にまで姿を現したのかと思って嘆息したのだった。
私は彼女が嫌いになったわけではない。
だが、あのとき私の頬に触れ、潤んだ黒い瞳を向けてきた彼女は、もしかしたら本当に私の首をぎやまんの金魚鉢にぶち込んで湖底の彼女の住処に飾ったのかもしれない。
臆測に過ぎないけれど、あのときの彼女は本当にそれをしでかしそうな顔をしていたのだ。
その日も私は、職場から貸本屋に向かう最中だった。
今年はいつもより風がよく吹く秋だと思いながら、私は外套越しに口元を押さえて大通りに沿って歩いていた。
夕方近くになって遊び終えた子供たちが、どこかから引っこ抜いた薄の穂を片手に大通りの往来の中を、忙しなく駆け抜けていく。
そのうち私のすぐ脇で、白い帽子を被った女の子が蹴躓いて転ぶのが見えた。
帽子は転んだ拍子に脱げて、風に乗って高く巻き上げられていった。
私は夕日に染まった帽子を取ろうと飛び上がったが、更に強い横風が吹き付けられた。
私は夢中で帽子を追いかけたが、帽子は柳並木の運河に音を立てて落下した。
帽子はそれから音を立てるまでもなく、静かに運河の中に沈んでいった。
遠目にそれを見ていた女の子は、崩れ落ちるようにめそめそと声をあげて泣き始めた。
私は意を決して外套を脱ぎ捨てて、帽子が落ちていったあたりを目掛けて運河へ飛び込んだ。
思っていたより流れは速く、身体は流れに逆らえずに徐々に押されて行き、河底の石に引っかかった帽子にすんでのところで手が届かずにいた。
ああ、いけない。息を吸わなくては――。
しかし強い流れで私の身体は思うように水面へ上がれなくなっていた。
運河の水は次第に膚を突き刺す冷たさとなって私の体温と動きを奪った。
遠退きかけていく意識の中で、私の視界の隅を大きな魚が悠々と身体を流れに逆らっていくのが見えた気がした。
「っ、ぷはぁ」
誰かに水面まで顔を引き上げられて、がむしゃらに息を吸おうと私は喘ぐ。
「はぁっ、はっ、はぁっ――……」
ひとしきり狂ったように息を吸い、漸く私は誰かに身体を抱えられていることに気付く。
「わかさぎ、姫」
紛うことなく、私が避けようとしていた彼女であった。
彼女は口元に僅かな微笑みを残し、後は涼しい顔をして、私を河岸へそっと座らせた。
呆然とこちらを眺めていた女の子へ黙って手招きをし、懐から河底に引っかかっていたはずの帽子を差し出した。
「濡れてしまったけれど、乾かせば大丈夫よ」
女の子ははっとして、途端に満面の笑みを浮かべては帽子を握り締めた。
ありがとう、と目一杯叫んでは、まだ雫の滴る帽子を胸に抱えて夕日を背に駆け出して行った。
それを見送って、わかさぎ姫は深い溜め息を漏らしてはこちらを睨み付ける。
「なぜ、あんな真似をしたのですか」
「……ごめん」
私は巧い言い訳も理由も出せないまま、みっともなく頭を垂らした。
再び重苦しい吐息が聞こえて、私は耳が痛くなる思いがした。
ちゃぷん、とこちらに背を向けて、水面に身体を潜り直そうとする音がして、私は手を伸ばして叫んだ。
「待って!」
彼女は顔を顰めたまま、そっと振り向いた。
呼び止めたけれど言葉が見つけられないまま、私は彼女を見つめることしか出来なかった。
それはもう呆れがちに、彼女は言った。
「……泣きたいのは、私の方でしょう?」
私は彼女の言葉で、やっと自分の頬が涙に塗れていることを知った。
「ごめ、ん」
ひどい泣きっ面のまま、謝ることしか私には出来なかった。
わかさぎ姫は冷めた顔つきをして、私の顔を覗き込んでは吐き捨てた。
「臆病者」
しゃくりあげて喉からこみ上げる苦みを無理やり飲み込んで、私は涙を一文字にシャツの裾で拭った。
きっと彼女を睨んで、私は狂ったように吠え立てる。
「……ああ、そうさ。臆病さ!私はきみが怖くなったんだ!だってきみは、きみは、きみは――」
「すっかり、私は嫌われてしまったのですね」
寂しげにわかさぎ姫は呟いて、またこちらへ背を向けようとした。
肩を掴んで引き止めて、私はがむしゃらに言葉を投げかける。
「ちがう。そうじゃない!」
「嫌いなのでしょう?私が」
「ちがう!私は……っ」
視界を波の雫が邪魔をして、よく見えなくて苛立ちを感じる。
ちがう、ちがう、と私は何度も言葉を繰り返そうとした。
彼女は身を翻して私の頬を掴み、噛み付くような口付けをした。
すぐに唇を離して、彼女は怨めしげな声音を漏らした。
「どうして。どうしてあなたはこうも狡いのですか。やはりあの日、私はあなたの首を奪い取るべきでした」
「わかさぎ姫――」
「微笑むあなたの顔も、涙を流すあなたの顔も、いまの私には愛おしいのです。ぎやまんの金魚鉢に入れておくのが、勿体無くなったのです」
白い頬の上を、きらきらと幾つもの雫が零れ落ちていった。
人魚の雫は珠となって、沈みゆく夕日を映しながら、茜色を纏った水面へ還っていく。
私はあまりの美しさに息を呑んで、未だに涙を滴らせる彼女の唇にそっと口付けを仕返した。
「ちゃんと、今度は会いに行くから」
手をしっかりと握って、私は黒い墨のような瞳を見つめた。
彼女は私から決して目を逸らさずに、返事代わりに頷いた。そして、
「私は、いつでもあなたの首を狙っていますから」
「首を獲られないように、足繁く通わなきゃいけないわね」
私は河原に脱ぎ捨てていた外套を羽織直し、河岸にいるわかさぎ姫をそっと抱き締めた。
すっかり暗くなった秋の空を、鵯が甲高く声を張り上げて飛んで行った。
その夜の闇に紛れて、私たちは静かに口付けをした。
ここらに軒を連ねる仕舞い屋も、運河の傍らに佇む柳の並木も、日没を間近に慌ただしそうな道行く人々の姿も、みな等しく沈みかけた夕陽の色をしていた。
羽織った外套の隙間から、心地の良い風を受けながら、私は運河へ降りる石段に腰掛けていた。
顔の傍を秋茜が掠め飛び、羽音までも感じられそうだった。
腰掛けている傍らには、すぐそこの菓子屋の紙包みと、小ぶりなステンレスの水筒がこぢんまりと鎮座している。
菓子屋の紙包みを膝の上で開くと、更に鑞引きされた紙が顔を覗かせ、またそれを開けば黒糖の饅頭が三つ入っていた。
ステンレスの水筒からほうじ茶を汲み、とうに冷えかけたのを一口含んだ。
饅頭を小さく割って咀嚼すれば、黒糖の甘さが頭に響き、それを茶で漱ぐのが美味いのだと私は常々思っている。
秋は四季の中で最も好ましい。
冬の陰鬱な曇り空と、石畳の色合いもまた好きではあるが、秋はこうして周りの景色を楽しみながら、そして仕事あがりに菓子など摘みながら茶を啜るのが楽しみであった。
蕩々と左から右へ流れ行く運河のせせらぎもまた、なかなか気に入っていた。
人々の話し声も幾分か水音に掻き消されるし、時折さえずる水鳥の声もまた好ましく思える。
ふと、聞き慣れない歌のようなものを微かに聞いた。
「おや」
水筒のコップを傾ける手を止めて、私はあたりをぐるりと見回す。
歌のようなものが聞こえてきたような気がしたが、それは気のせいだったのかもしれない。
すぐに目の前の運河の流れと鳥の声しか聞こえなくなって、やはり鳥の声だったかと思うことにした。
『ことさらあきの月のかげは』
「ふぅん、湖のほうかしら」
遠目に見える湖へ目を向ければ、その湖が真っ赤に染まった瞬間に、私は人魚のすがたを見た。
不思議と胸が高揚したのを感じたけれど、私はそれを抑え込んで、愁いを含む人魚の歌に耳を澄ませた。
私はこれから昇る月を想うことを選んだ。
そして飛び立っては、静かに夜の翳りを含み始めた湖の縁へ降り立った。
『――こゑのかなしき』
じっと私は白い肌の、美しい人魚を見つめていた。
秋風も湖の湿った空気を宿し、私は少しだけ肌寒く感じた。
既に山の合間へ陽は逃げ込んで、夜の帳が空を覆い、更に星がちりばめられていく。
人魚は歌い終えてこちらに気付き、驚いた顔でこちらを見る。
私は大して気にする素振りも見せぬよう、何食わぬ顔で声をかけた。
「月か。渋いね」
更に話し掛けられるとも思っていなかったのか、一層驚いた顔をしたものの、人魚もまた取り繕ったようにこう返した。
「十三夜も近いものだから」
「悪くない。素敵だった」
「ありがとう。あなたは……里の人間かしら」
人魚はどことなく怯えた色の目で私を眺め、私の挙動を観察しているようだった。
私は辺りに人が居ないのをいいことに、宥めるために頭と躯を切り離して見せた。
「いや、人じゃないわ。ほら」
頬にあたる湖上の夜の秋風はなかなかに冷たく、すぐに戻して頭を外套に埋めた。
なかなかにお気に召したらしく、人魚は意外にも目を輝かせて白い歯を覗かせた。
「まあ、面白い。すてきだわ」
「なかなかに便利さ。人目は気にするがね」
私はただ短く一言、
「失礼」
そう断りを入れて、私は縁にあるすぐそばの岩に腰掛けた。
すると人魚も湖の縁まで近づいて来ては、水に浸かっている岩肌に座ったようだった。
「ねえ、あなたは里に住んでいるの?」
「そうだよ。溶け込むことを選んだの。首が外れるぐらいじゃあ、妖怪としては可愛いほうでしょう?」
私は視線を向こうの湖岸に佇む紅い洋館に移したが、あそこの吸血鬼に比べたら、飛頭蛮なんざまだまだ可愛いものだろう。
くすっと人魚は口元を微笑ませ、寄り添うように私を見上げた。
「そうね、可愛らしいわ」
一度言葉を区切るように視線を水面へ移したが、すぐに再び人魚は元に戻す。
「私はわかさぎ姫と呼ばれているわ。ねえ、あなたはなんとおっしゃるの?」
昇った月灯りに照らされて、わかさぎ姫の髪にから滴る雫はきらきらと光って波間に零れていった。
肌の白さも辺りの薄暗さと対比されて浮き上がり、私は覚られぬよう唾を飲み込んだ。
「私は赤蛮奇。いつもは里の運河をぶらぶらしているんだけれどね、きみの歌が聞こえたものだから」
わかさぎ姫はにこやかに微笑んで、そっと私の手の上に自分の掌を重ね合わせる。
瞳が月灯りを反射して、彼女の目は艶やかな輝きを宿していた。
「そう。素敵なお名前ね。ねえ、もしよろしかったら、また歌を聞きに来て下さらない?」
私は矢張り、どきりとした。
しかし頑として、揺らぎに似た淡い心情を露呈させたくはなくて、私はさも穏やかに笑いかける程度に留めた。
「ああ、構わない」
「ふふっ、ありがとう。楽しみが増えたわ。それじゃあ、風邪を引かないようにね」
「きみもね。それじゃあ」
私が軽く手を振ると、彼女も手を振り返しては湖面へ身体を浸水させていった。
深く潜って彼女の姿が見えなくなって、私はやっと里のほうへと踵を返すことにした。
帰り道は秋の虫が煩いぐらいに、あちらこちらの草むらで鳴いていたのだった。
蝙蝠が薄暗い夕闇の中を漂うように群れ飛んでいく。
私は、湖の縁にたつ館に向かうのであろう蝙蝠たちを追い抜いて、今日も湖岸に降り立った。
彼女は探すまでもなく、静かに昨日と同じ姿で岩に腰を下ろしていた。
「こんばんは」
そう言って、控えめな笑みをこちらに向けてくれた。
そして私も自然と笑みが零れるのを感じた。
「こんばんは。また来てしまったよ」
「どうぞいらして下さいな。ああ、今日はなにを歌おうかしら」
「それなら、また秋らしいものをお願いしようかしら」
「……ふふっ。わかったわ」
優しく微笑んで、彼女は息を深く吸い込んだ。
『――しずかな しずかな里の秋』
ひどく澄んだソプラノの歌声が、遠い山際へ溶けて流れて行った夕日まで届くかのようだった。
私は鳥肌が一瞬にして沸き立つのを感じ、自らの腕を抱いた。
そして僅かに空の隅に残る茜雲をそっと見送ることにした。
『お背戸に木の実の落ちる夜は』
下に垂らした両足を、私は彼女の歌声に合わせてはぶらぶらと揺らす。
空を見上げて鼻から息を吸い込むと、つんと冷えた夜気を感じ、小さなくしゃみを漏らした。
慌てて彼女の歌声が止んでしまわないかと心配して目を向けると、彼女は微笑んだまま軽い目配せをして歌い続ける。
『あぁ母さんとただ二人……』
それから私は外套に深くくるまって、歌い続けるわかさぎ姫の横顔を見つめていた。
見とれていた、と言っても過言ではないと思う。
兎に角、宵闇の中で歌う彼女のすがたに、私は心酔していたのだった。
「綺麗だった」
「ありがとう。寒くはなかった?」
「なに、平気さ。冷たい空気を一気に吸いすぎたんだ」
やせ我慢と見え透いていたかもしれないが、私はそれでも見栄を張った。
彼女は詮索することもなく、ただ穏やかに笑った。
「そう、ならいいのだけれど」
じっとに見つめられて、私は気恥ずかしくなる。
つい横に顔を背けていたら、彼女は私の手を取った。
「……ねえ、こちらを向いていては下さらない?」
「うん?」
胸が高鳴るのを誤魔化しながら、私は平然を装おうとした。
辺りの暗がりよりも艶のある深みがかった墨のような黒い瞳が、まっすぐに私の目を見つめていた。
重ねられていた手が私の頬に這わせられ、彼女の吐息がかかるほどの距離となった。
「わかさぎ、姫?」
動揺しきった私は、堪えきれずに眼前の彼女の名を呼んだ。
まばたきすらせずに私を見つめていたが、やがて愉悦の表情を浮かべさせた。
「綺麗」
吐き出された吐息が耳元にくすぐったくて、つい顔をしかめさせた。
「なにを」
なにを言っているの。
言葉が続かずにそこで途切れて消えた。
わかさぎ姫はそれすらも益々お気に召したらしく――、奥で赤い舌を蠢かせたのが垣間見えた。
「わたし、実はあなたのことがとても気に入りましたの。……あなたの首を、ぎやまんの金魚鉢に入れて飾りたいぐらいに」
「……冗談でしょう?」
私の声は心なしか掠れていたかもしれない。
僅かでも踏み外したら壊れてしまう場所に立たされている気がして、私はわかさぎ姫の顔を食い入るように凝視していた。
彼女は黒い眼でまじまじと私を見返して、なにか見透かしたとでも言わんばかりの笑みを浮かべてみせた。
「ふふっ。ええ、冗談よ」
背筋に冷たい汗が這う感覚を得て、私はまたもや顔を背けさせる。
呆れた素振りでも見せようと、深いため息など漏らしてやった。
「あら、嫌いになってしまったの?」
「違うよ。そうじゃない」
無理に外套を引っ張り上げて、私は一層顔を埋めさせた。
逃げている気がして、あまり彼女に自分の表情を見せたくなかった。
「また来るよ」
敢えてそう言ったのは、彼女に惹かれていた私なりの強がりだったのかもしれない。
そのまま立ち上がって背を向けて、私は飛び立とうとした。
「またいらして下さいね。また」
後ろからどことなく妖艶な、妖しさが籠もった声音で念を押された。
嫌な予感がしたけれど、ちらりと私は後ろを振り向いた。
満面の笑みを浮かべたわかさぎ姫が、手を振ってこちらを見送ってくれていた。
意図せず勝手に深い溜め息が漏れ出ては、外套の中に湿った空気が蔓延った。
私はあの日の晩以来、湖を訪れるどころか運河の辺りをうろつくのを止めた。
十三夜も一人窓辺で月を仰いで月見の団子を頬張り、大人しく茶を啜って過ごした。
今まで過ごしてきた日常と、なんら変わりがなかった。
ただ、運河の辺りをうろつくのを止めた代わりに、貸本屋で借りた本を読むのが楽しみになっていた。
ほんのそれぐらいである。
季節は紅葉の枝先が徐々に赤く色付いて、朝晩はめっきり冷えるようになった。
立ち飲み屋の店先で、男たちのこんな会話を小耳に挟んだ。
「――近頃、運河の方でよく歌が聞こえるらしい」
「船乗りの鼻歌だろう?」
「いやあ、どうにも人魚の歌だとか」
所謂ゴシップとでも言うような、冗談めいた口調で男たちは話をしていたけれど、一方で私は、やはり彼女が運河にまで姿を現したのかと思って嘆息したのだった。
私は彼女が嫌いになったわけではない。
だが、あのとき私の頬に触れ、潤んだ黒い瞳を向けてきた彼女は、もしかしたら本当に私の首をぎやまんの金魚鉢にぶち込んで湖底の彼女の住処に飾ったのかもしれない。
臆測に過ぎないけれど、あのときの彼女は本当にそれをしでかしそうな顔をしていたのだ。
その日も私は、職場から貸本屋に向かう最中だった。
今年はいつもより風がよく吹く秋だと思いながら、私は外套越しに口元を押さえて大通りに沿って歩いていた。
夕方近くになって遊び終えた子供たちが、どこかから引っこ抜いた薄の穂を片手に大通りの往来の中を、忙しなく駆け抜けていく。
そのうち私のすぐ脇で、白い帽子を被った女の子が蹴躓いて転ぶのが見えた。
帽子は転んだ拍子に脱げて、風に乗って高く巻き上げられていった。
私は夕日に染まった帽子を取ろうと飛び上がったが、更に強い横風が吹き付けられた。
私は夢中で帽子を追いかけたが、帽子は柳並木の運河に音を立てて落下した。
帽子はそれから音を立てるまでもなく、静かに運河の中に沈んでいった。
遠目にそれを見ていた女の子は、崩れ落ちるようにめそめそと声をあげて泣き始めた。
私は意を決して外套を脱ぎ捨てて、帽子が落ちていったあたりを目掛けて運河へ飛び込んだ。
思っていたより流れは速く、身体は流れに逆らえずに徐々に押されて行き、河底の石に引っかかった帽子にすんでのところで手が届かずにいた。
ああ、いけない。息を吸わなくては――。
しかし強い流れで私の身体は思うように水面へ上がれなくなっていた。
運河の水は次第に膚を突き刺す冷たさとなって私の体温と動きを奪った。
遠退きかけていく意識の中で、私の視界の隅を大きな魚が悠々と身体を流れに逆らっていくのが見えた気がした。
「っ、ぷはぁ」
誰かに水面まで顔を引き上げられて、がむしゃらに息を吸おうと私は喘ぐ。
「はぁっ、はっ、はぁっ――……」
ひとしきり狂ったように息を吸い、漸く私は誰かに身体を抱えられていることに気付く。
「わかさぎ、姫」
紛うことなく、私が避けようとしていた彼女であった。
彼女は口元に僅かな微笑みを残し、後は涼しい顔をして、私を河岸へそっと座らせた。
呆然とこちらを眺めていた女の子へ黙って手招きをし、懐から河底に引っかかっていたはずの帽子を差し出した。
「濡れてしまったけれど、乾かせば大丈夫よ」
女の子ははっとして、途端に満面の笑みを浮かべては帽子を握り締めた。
ありがとう、と目一杯叫んでは、まだ雫の滴る帽子を胸に抱えて夕日を背に駆け出して行った。
それを見送って、わかさぎ姫は深い溜め息を漏らしてはこちらを睨み付ける。
「なぜ、あんな真似をしたのですか」
「……ごめん」
私は巧い言い訳も理由も出せないまま、みっともなく頭を垂らした。
再び重苦しい吐息が聞こえて、私は耳が痛くなる思いがした。
ちゃぷん、とこちらに背を向けて、水面に身体を潜り直そうとする音がして、私は手を伸ばして叫んだ。
「待って!」
彼女は顔を顰めたまま、そっと振り向いた。
呼び止めたけれど言葉が見つけられないまま、私は彼女を見つめることしか出来なかった。
それはもう呆れがちに、彼女は言った。
「……泣きたいのは、私の方でしょう?」
私は彼女の言葉で、やっと自分の頬が涙に塗れていることを知った。
「ごめ、ん」
ひどい泣きっ面のまま、謝ることしか私には出来なかった。
わかさぎ姫は冷めた顔つきをして、私の顔を覗き込んでは吐き捨てた。
「臆病者」
しゃくりあげて喉からこみ上げる苦みを無理やり飲み込んで、私は涙を一文字にシャツの裾で拭った。
きっと彼女を睨んで、私は狂ったように吠え立てる。
「……ああ、そうさ。臆病さ!私はきみが怖くなったんだ!だってきみは、きみは、きみは――」
「すっかり、私は嫌われてしまったのですね」
寂しげにわかさぎ姫は呟いて、またこちらへ背を向けようとした。
肩を掴んで引き止めて、私はがむしゃらに言葉を投げかける。
「ちがう。そうじゃない!」
「嫌いなのでしょう?私が」
「ちがう!私は……っ」
視界を波の雫が邪魔をして、よく見えなくて苛立ちを感じる。
ちがう、ちがう、と私は何度も言葉を繰り返そうとした。
彼女は身を翻して私の頬を掴み、噛み付くような口付けをした。
すぐに唇を離して、彼女は怨めしげな声音を漏らした。
「どうして。どうしてあなたはこうも狡いのですか。やはりあの日、私はあなたの首を奪い取るべきでした」
「わかさぎ姫――」
「微笑むあなたの顔も、涙を流すあなたの顔も、いまの私には愛おしいのです。ぎやまんの金魚鉢に入れておくのが、勿体無くなったのです」
白い頬の上を、きらきらと幾つもの雫が零れ落ちていった。
人魚の雫は珠となって、沈みゆく夕日を映しながら、茜色を纏った水面へ還っていく。
私はあまりの美しさに息を呑んで、未だに涙を滴らせる彼女の唇にそっと口付けを仕返した。
「ちゃんと、今度は会いに行くから」
手をしっかりと握って、私は黒い墨のような瞳を見つめた。
彼女は私から決して目を逸らさずに、返事代わりに頷いた。そして、
「私は、いつでもあなたの首を狙っていますから」
「首を獲られないように、足繁く通わなきゃいけないわね」
私は河原に脱ぎ捨てていた外套を羽織直し、河岸にいるわかさぎ姫をそっと抱き締めた。
すっかり暗くなった秋の空を、鵯が甲高く声を張り上げて飛んで行った。
その夜の闇に紛れて、私たちは静かに口付けをした。
は良いな
数が少ないんで尚更
そう思う
9つまで首増やせるんだからひとつぐらいならくれてやっても…とかいうのは無粋かな
後SS読んだ後に赤蛮奇がわかさぎ姫に首ったけとか
考えついちゃった
俺はもう駄目かもわからんね
わかさぎ姫が80年代の少女漫画に出て来そうな怖い女の子で良かったです。
これぞ百合の醍醐味よぉ!
しかもそれが水場で語り合う二人の姿にとても似つかわしく思いました。
百合すばらしい。