その表面はまだ青かった。しかし手で持っているとその重みはずっしりと感じるし、そのままでも、軽くはたいてみても、中身がぎっしり凝縮されているのが音でわかる。完全に丸いとは言わないけれど、デフォルメしたイラストに描き起こせば真ん丸になりそうなシルエット。
私は、天邪鬼は、鬼人正邪は、森の中にひっそりと個を忍ばせる頼りない樹の根元に腰掛けて、しばらくその青い果実とにらめっこをしていた。
手首を使って何度も何度も頭上に放り投げ、なんなくキャッチする。たまに軌道が逸れることもあるが、地面に落とすようなことはしなかった。
涼しく撫でるような風が吹き、私の髪の毛の一房をさらう。それと同時に、樹の一枝がその身を揺らした。葉と葉の隙間から、柔らかいが目にするには眩しい光が漏れる。思わず目を瞑ってしまい、しまったと思ったときにはもう遅く、果実は私の額にぶつかってきた。
「痛っ!」
思わず声をあげてしまう。果実は一回額で跳ねた後、私の下腹部で受け止められた。痛いというよりかは、ビックリした。どこか果実に痛んでいる箇所はないかと観察しても大丈夫だったようで、私は安心して息を漏らした。
私は日光を遮り損ねた樹を恨めしそうに見上げる。この野郎。出る杭は打たれる、無個性、右に倣え、私の嫌いな言葉が似合いそうなこの樹はやっぱり嫌いだ。周りよりも大きくなったりとか、ちょっと奇抜な形になったりとか、隣の木の邪魔をしたりとか、もっと自己中心になればいいのに。
しかし物に対してあたるというのはみっともないというか、知性のあるものが無いものにあたるのは情けないなぁ、と省みて、青い果実、青林檎を荒々しくかじって気をまぎらわせた。
水の弾ける音がする。噛めば噛むほど果肉が水を撒き散らし、舌に甘い蜜が絡まる。小気味のいいシャリッシャリッという音が、口の中を一層爽やかなものにしてくれている。匂いがあまりしないと思ったら、鼻の奥からまるで澄んだ風が通り抜けるような心地もする。飲み込む時も、飲み込んだ後も、その癖の無い甘味は舌に残り、一貫してスッキリとした感想を抱いた。
ある農家から盗んできたものだが、豪華な家が一件建ってしまいそうな広さの土地に、これでもかというほど実っていたのだ。二、三個貰ったって別に構いやしないだろう。私は得をして、農家は損をしない。問題ない。
もう一口かじる。勢いをつけすぎて、頬に果汁が飛び散ってしまった。林檎を持った右手の甲で拭き取って、もう片方の手で擦る。少しがっつきすぎてしまった。はしたない。
まあしかし、こんな森の奥で会うやつなんてほとんどいないだろうし、話しかけてくる奴はそれより稀有なんだ。私は私のやりたいようにやらせてもらおう。
相変わらずこんなに快適な天気だから、寝転がって昼寝をするのも一興だろう、と樹の幹に背中を預け、林檎を咀嚼しながら眠気が来るのを待つ。ぼーっと何も考えていなければ、林檎を食べ終わる頃には瞼も重くなっているはずだ。
……空を眺めていると、意識だけが宙を舞って、そのまま雲の上まで、もしかするとあの深青の空の向こうまで行ってしまうんじゃないかという気持ちになる。レンズのような青、膜のような青、水の底のような青。宇宙なんてほんとはなくて、ずっと進んでいくと青空しかなくて、いつのまにか迷子になってしまう、そんな思い違い。
決してセンチメンタルになっているからじゃない。けれど、一人になっている時間というのは、策略も練らないで頭も使わないでいる時間というのは、自然とこんなことを考えてしまうものだ。
だけど、私はそんな詩人じみたことをしたいわけではない。他人の嫌がる様を見て気分を満たすことこそが、私の至福。他人と同じことなんてしたくない興味ない。さあさあ、果たして今度はどういう手を使ってあの巫女や魔法使い、メイドを懲らしめてやろうか。
「お姉ちゃん、こんなとこで何してるの?」
幼い声が聞こえる。おかしい、私に話しかけてくるなんて、えらく度胸のあるやつだ。ああ、もしかして既に私は眠りについていて、ここは夢の中なのだろうか。だとしても相手をするのがめんどくさいな。
薄目を開けてその姿を確認すると、その影はやはり小さかった。私の顔を覗きこんでいるようで、身を起こそうとすればぶつかってしまいそうなほど近い。顔は暗くてよく見えないが、なぜかワクワクしていそうなことは察せられた。その子から顔を隠すように寝返りをうつ。早く帰ってくれないものか……。
「起きてよ、妖怪のお姉ちゃん」
今度はその子供に肩を揺さぶられた。何かがおかしい。夢の中なのに、こんなにもはっきりと掴まれた感触はあるのだろうか。私はどうやってその子を見たのか。いつ私は無意識に飛び込んだのだろうか。
眠気が頭から飛んでいく。目がこれでもかというほどくっきりと覚めた。体を起こすと、
「お、ようやく起きた」
すぐ隣から嬉しそうな子供の声がする。しばし私は呆然と林檎を眺める。まだ半分ほど残っていた。
「お姉ちゃん、こんなところで寝てたら風邪引くよ?」
そのおかっぱ頭の女の子が私の正面に回り込んできた。決して裕福そうには見えないが、大事に育てられてきたのが見てとれる。清潔感漂う髪の毛に、必要以上の皺の無い着物。外で遊んでいたというわけではなさそうで、ただ散歩をしていただけのようだ。まだ、小さな人間の子供なのに。
「何をしているんだお前は」
私は、眉を寄せて不機嫌そうに問いかけた。妖怪が其処ら中に潜んでいる森の中に入ってくるなんて、目的があるのか、好奇心からなのか、どちらにしろ馬鹿としか思えないが。
「その林檎」
女の子が、私の側に置いてある青林檎を指差した。
「……これがどうかしたのか?」
「一個もらっていい?」
女の子が、両手のひらで皿を作って私に差し出してきた。本気で言っているのだろうか。
「駄目だ」
「えー!」
私がそのお皿を片腕で払うと、女の子はさぞ残念そうに不満を漏らした。
「というか、なんで私を起こしたんだ? 盗んでいけばよかったものを」
「だって盗みは悪いことだもん」
女の子の返しに、私は目を見開いた。自信満々で胸を張り、誉めてくれと言わんばかりのどや顔が眩しい。善悪を妖怪に説くなんて馬の耳に念仏なのに……と思うが、目の前の女の子の純粋な眼差しに見つめられていると、なんだが妙な罪悪感みたいなのが湧いてきた。
「……」
「……」
いつのまにか皿が元に戻っている。試しに脇に置いていた林檎を皿の上まで持ってくると、みるみるうちに女の子の表情が明るくなった。遠ざけると悲しそうに歪む。そのコントラストが面白くて、つい何度もやってしまう。
喜、哀、喜、哀、喜、哀、
「もう、意地悪しないでよ!」
今度は怒になった。私は楽に破顔した。愉快愉快。
別にくれてやっても構わないのだが、人の嫌がることを率先してやりたがる自分の性が疼いている。簡単にあげるつもりはない。
「この鬼!」
女の子が涙目で訴えてくる。
「鬼は鬼でも小鬼だけどねー」
子供らしい表現だ。でも私自身広義の鬼にあたるし、犬に、お前は犬だ、と教え込むようなものだ。さて、今度はどんな雑言を吐いてくるかな? 煽るのは得意だ。かわいいお顔が真っ赤になるまで苛めてやろうか。どこかへ行ってしまうかもしれないが、かまうものか。私の林檎が減らなくなるだけじゃないか。
だが、女の子の小さな口にお似合いの未熟な暴言はいつまで経っても聞こえてこない。代わりに、必死に堪えている女の子の怒りが頬に溜まってビクビクと跳ね始めた。これは爆発するか、そのまま拗ねて帰ってしまうパターンだ。ちょっとつまらない気もするが、ただの子供だからしょうがないとも思う。
私は指を頭の後ろで組み、足を組み、ついでに腰を沈めて、より幹に体重をかける。さあ、目の前の子からあふれでる濁流を飄々と受け流す準備はできた。目を閉じて、澄ました顔も作っておく。いつでもこい、ほら。
「……うぅ……」
喉の奥から出たような、掠れた声が聞こえる。様子がおかしい。でももしかしたら、ウキーッていう猿みたいな奇声を発する前兆かもしれないし、もう少しだけ待ってみることにする。
「うぇぇ……」
今度こそ、私の予想とは外れたという確信が持てた。片目を開けて女の子がどうなっているのかを盗み見ると、やはりそうだ。瞳から大粒の涙が次々に溢れていた。声をあげまいと必死に唇を尖らせ、頬を痙攣させ、眉根も険しい。
そう、ガチ泣きだった。
「ちょ、ちょっ、泣くことはないではないか!」
さすがの私もこれにはたまげた。女の子は堪えているものの、いつ涙腺が決壊するか分からない。私はわたわたと空中で手を踊らせ、励ますとか、非を認めたとかそういうのではなく、反射的に女の子の涙を親指で拭ってあげた。一瞬してなぜそうしたのか自分の中で疑問が浮かび上がったが、女の子が急に泣き止んだので、とりあえずホッとした。
口を半開きにして唖然としている女の子は、しばらくすると何もなかったようにまた皿を作り、今度は私の目と鼻の先に押し付けてきた。
「ねぇねぇ、林檎ちょうだい!」
「うぐっ……」
非常にうざい。さっきよりも声量が大きくなってる気がする。小さい子供というのは、かくも面倒な存在だったのか。
……一瞬、こいつを食ってやろうかという考えがひらめいた。人里にいる連中は食ってはいけないが、こいつは勝手に出てきている、見方を変えれば自殺願望者だ。いなくなれば家族や友人は悲しむだろうが、知ったことか。私の腹が満たされるのだ。それに越したことはない。
「……」
「……」
しかし、しかしだ。この女の子の、私をいい奴だと思い込んでいる視線が妙にイラつく。ただの面倒見のいい妖怪という括りにされているのが何より鼻につく。でも、この笑顔が血に濡れるところを想像すると、何故か、胸が裏側から圧迫されたように軋むのだ。
それに気付いてしまい、もはや食欲は湧いてこなかった。萎えた、という言葉がしっくりくる。
しばらく女の子と見つめ合い、駄目元で女の子を脅かしてみる。これで逃げてくれたら御の字なのだが。
「……これ以上私に構ってると……頭からバリバリ食べてしまうぞ?」
やる気は無論無い。だが、両手を大きく広げ、妖気で髪をわずかに浮かべ、不適な笑みを張り付けて女の子を脅した。一定以上の力を持つ奴等には聞く筈もないが、一部を除く人間には効果は覿面のはずだ。
「キャー、怖いよー! キャハハハ」
……覿面のはずだ。それがなぜ、女の子が黄色い悲鳴をあげて嬉しそうに身悶えているのだろう。全くもって理解不能だ。
「……何を笑っているのだ、早く逃げないと食われてしまうのだぞ?」
再び雰囲気を出してみても、女の子は怯えるどころか、どんどん懐いてきているようにも見える。私の中から、真ん丸の風船に穴を開けた時のように気力が抜けていく。
ふむ、どうしたものか。もはや林檎をあげないという選択肢はないだろう。癪に障るが、素直に渡してとっとと退散した方が身のためか?
ちらりと横目で女の子を見る。女の子の瞳はまるで宝石のように光っていた。ひたすらに純粋で、未来を一点の曇り無く見通せるような、ある意味羨ましい輝き。これはもう白旗を振ってもいいに違いない。
「わかった、やるからさっさと帰れ」
「わーい! ありがとーお姉ちゃん!」
溜め息をつきながら女の子の手のひらに林檎をのせると、女の子は笑みを弾けさせた。立ち上がってその場でピョンピョンと跳びはね、樹と私の回りをくるりと駆け回る。私の前に戻ってくると、今度は照れ臭そうに口の端を緩めた。
私はその様子を、道で小石を蹴っ飛ばしたときの心境で眺めていた。一瞬気になりはするけれど、次の瞬間にはもう忘れてしまう。もはや私とは関係がない。
だからもうこの女の子とは関わらなくていい、そう私は思っていた。
「お姉ちゃん」
場所を変えよう、と思って腰をあげていた私だったが、背後から女の子に声がかけられた。ベタなことを考えるなら、女の子は律儀にまたお礼を言うか、手を振るなり別れの合図をして、帰宅するだろう。ここは森の中で、無事に帰れるかどうかは保証できないところだが。
最後ぐらいは愛想良くしておこうか、と年長の心理のようなものが働き、私も満面の笑みを浮かべながら振り返った。
「一緒に遊ぼ!」
時間が止まったかのように思えた。頬が引き攣って震える。指一本動かせない。あのメイド長もいないというのに、何故だ。だが今はそんなことを考えている暇ではない。女の子は今なんと言ったのだ。イッショニアソボウと口に出したのか。何語だそれは。古代天狗語、大陸語、もしくは造語か。
Let's play.という意味であると理解するのに、いったいどれだけ時間がかかったか知らない。
「ダメ?」
「……本気で言っているのか」
「うん」
「……」
どうやらこいつは真性の阿呆のようだ。でなければ深刻な鳥頭のどちらかだ。私は妖怪だとこいつには言ってある。私にその気がなかったとは云えども、食ってしまうという可能性も示唆してある。なのにこいつは、遊ぼうとほざいている。
私の白い目にもこいつは気づいてないみたいだし、たぶん天然だ。剥製にして『ド阿呆』というプレートと一緒に博物館に展示しても大袈裟でないに違いない。
やれやれ、厄介な相手と出会ってしまった。元々厄介だとは思ってたけど、真剣に向き合わないといけないレベルだとは思ってもみなかった。
さっきの林檎の件を考慮してみると、脅しは効かないだろうし、突き放すと逆効果になる気がする。ぐずる女の子を放って逃げるのもありだが、私の予想をことごとく凌駕してきたこの子のことだ。何をしでかすかも分からない。それに……。
そこで思考が止まる。私は何を考えようとしていた? 私はこの子に対して何を感じている? 途端に寒気がした。
とにかく、ここは相手に合わせよう。こいつを満足させて、早く一人になりたい。
「……少しだけだぞ」
「やった!」
仕方ないなあというオーラを全開にして答えると、女の子はガッツポーズをとった。別に嫌々というところを強調してもよかったが、今の様子を見るに、都合のいいところだけを拾って自分のいいように解釈するだろう。性には合わないが、ここは大人の対応というものをしないといけない。
「何がしたい?」
「おままごと」
「却下」
「えぇー!」
ただし、こいつの好き勝手はさせない。させてたまるか。
「じゃあ、かくれんぼ」
「かくれんぼか……」
私の中にピンと来るものがあった。少し考えるような素振りをしてみせ、吟味するように何度も頷く。かくれんぼ、オーソドックスなチョイスだ。しかし、ベターなチョイスでもある。ルールもシンプルで、勝敗もつけやすくていいじゃないか。それに、探す方にしろ隠れる方にしろ、している最中に何処かへ行ってしまうということができる。隠れる方がちょっとやり易いが、これでこんな面倒な子とおさらばできる。そう思うと、自然と顔つきが悪そうになるのも仕方ない。
だけど、それにしよう、という言葉が喉から出ようとした寸前、気道が詰め物をされたように塞き止められた。この子を残してどこかへ行ったとき、こいつはいったいどうなってしまうのだろうか。今もこの森には、知性の有無関係無しに妖怪が蔓延っている。こいつが襲われずにいるのも、私が側にいるからに他ならない。
「駄目だな、私と離れた瞬間にお前なんか他の妖怪に食べられてしまうわ」
意地の悪い返答をしようとしたときよりも自然に言葉が紡げた。正直、私の心はまだ揺れていたのだが、言ってしまったものはしょうがない。よくわからない感情が込み上げてきて、私は苦虫を噛み潰したような顔を女の子に隠れて表に出した。
なぜか女の子の方も、こいつの口からこんな台詞が出るなんて、みたいな表情をしていたが、急に何かに納得したように満足げに笑うと、
「じゃあお姉ちゃんと林檎食べたい」
「……そんなんでいいのか?」
私が意外そうに聞くと、女の子がはにかんだ。今までの女の子のとは違いながら、もしかしたらこの子の本当の一面なのかもしれないその笑みを見て、私は何も言えなくなってしまった。
人が二人分座れそうな根を探してみると、私が座っていた惨めな樹の反対側に、その見た目からは不釣り合いな太さの根がせり上がっていた。なんだ、やる奴だったのかこいつは。
何も言わずにそこに座っても、その子はぴったりとついてきて、私に倣った。
手に持っている食べかけの青林檎を、早く食べ終えよう、そう思い、やや大きめに口を開けてかぶりつく。一人で食べるより味わうことはできないが、不思議と不味くはなかった。なんとなくだが、この子と私の間に何かができているような、引力があるようなそんな気がする。目に見えないし、触れないし、臭いを嗅ぐこともできないし、食べることも、聞くこともできないのに、そこにあるということを保証できる。
「そういえば、お姉ちゃんの名前は?」
女の子が、可愛らしいお口を開けて歯を立てようとした直前でやめ、体がむずむずして絶えず身じろぎしている私に顔を向けてきた。そういえば、まだ名前を言っていなかった。こんなに関わるとは思ってなくて、どうでもいいとも思ってたのだが、やはり……。
「鬼人正邪」
私は女の子と顔を合わせようとせず、口の中ですりおろされた林檎を飲み込むと、ただまっすぐ何も見ずに答えた。まあ多分これっきりだ。ただの人間に、何も知らない人間に名乗るのは。もうこの子とも会う機会はないだろうし。
「正邪お姉ちゃん!」
そう女の子は言うと、慎ましく林檎をかじった。自分の顔の半分以上ありそうなその実を、両手を花のようにして支えている。さすがに一個は多すぎたか。だが、女の子の幸せそうな表情と、バタバタと足を揺する仕草を見て、そんな考えは遥か彼方に消えてしまった。
「正邪お姉ちゃん、か」
今までに一度も呼ばれたことの無い呼び名を、ついしみじみと呟いてしまう。悪くはない。我々のような弱者は何時だって上から見下されてきた。だが、こうして見上げられる日が来ようとは、ほとんど思ってもみなかった。その点では、この子に感謝をしてあげてもいいかもしれない。さっきまで体を走っていた違和感は影を消していた。驚くほど自分の心は静まっている。
肌に感じなくとも、確かに吹いている風が木々の間を走り抜け、木の葉の、それを応援するようなざわめきが反響している。取るに足らないと思われがちな小鳥たちの、一生懸命なさえずりが鼓膜を刺激してきた。潤いのある空気が土から舞い上がり、見かけだと何処までも続いていそうな森の隙間に、精霊のような儚い者たちが漂っている。それに加えて、まるで光のカーテンが作り出した神秘的な光景を、私は林檎を咀嚼しながら、脳裏に焼き付けておこうと必死だった。
「青林檎ってね」
唐突に女の子が語り出した。私は少しだけ顔を動かし女の子を視界に入れ、耳を傾ける。
「私は食べられないよーってメッセージを体全体で表現してるの。普通木の実って見ただけで美味しそうだってわかるぐらい鮮やかな色してるじゃない? 赤とか、黄色とか、オレンジとか。林檎もそう。自信満々に胸張って、真っ赤に体を染めて、それで私たちに食べてもらうの」
そこまで言って、女の子は手に持っている青林檎を、木漏れ日に翳すように掲げた。笑顔は見えないけど、心から楽しんでいるように私は直感した。
「でもね、この青林檎は違うの。自分はまだ未熟だから食べないで! 食べても美味しくないよ! って色をしてるのに、本当は食べてもらいたくてしょうがなくて、ほら、中身ぎっしりあるし、甘くて食べると幸せになれる。自分に素直になれないけど、本当はものすごく優しい、天邪鬼」
そして女の子は、青林檎を胸に抱え、私に向き直った。嫌な予感がする。心臓を直接触られたような不快感。沼の中に投げ捨てたい衝動。すぐにでも女の子の口を塞ぎたかったが、体が言うことを聞かない。
「まるで正邪お姉ちゃんみたい」
女の子の言葉が耳朶を打ち、体の中身をごっそり抜き取られたような感覚に襲われた。
ふざけるな。私が優しいだと?優しさが聞いて呆れる笑えない冗談だ。私が善だとすれば、閻魔様の裁きも大分マシになるだろう。そこまで私は自惚れていない。私利私欲のために他人を利用し、蹴落とし、見捨ててその様を笑う。何も知らない奴だけを狙う、卑怯極まりない下衆、それが私であり、私が私である所以。それこそが天邪鬼。だからこその私。
「違っ……」
「違わないよ」
私が否定しようとすると、女の子が強い意思を持って遮ってきた。
「だって正邪お姉ちゃん、この青林檎くれたもん。それに今もこうやって一緒に食べてるし」
違う、ほんとに違うんだ。林檎をあげたのだって、早くこいつから解放されたいという利己心からのことであって、こいつのことを一ミリも思ったりなんかしてない。隣に座らせているのだって、騒がれるよりはマシだからで、仕方なく付き合ってるだけなのだ。この子は重大な勘違いをしている。これ以上接していると頭がどうにかなってしまいそうだ。
「じゃあ私がかくれんぼしよって言ったとき、お姉ちゃんなんであんなこと言ったの」
女の子の、問い詰めてくる真剣な眼差しに、私は何も言えなくなってしまって。自己矛盾を自覚してしまって、一旦思考が停止する。言い逃れのできない破綻。脳が新たな酸素を要求し、されど吐き出されない息がじわじわと私の首を絞める。
「ね?」
女の子が勝ち誇ったように微笑んだ。少なくとも、私にはそう見えた。
私は図星をつかれたから言い返せないのだろうか。もっと他の理由があるのだろうか。いや、多分無いのだろう。すべてが逆さまの天邪鬼、嫌われることを恍惚とする私たち天邪鬼の基準は、一体どこにあるのだろうか。私たちがそれを持ち合わせていない限り、逆行することは不可能なのだ。ゼロに幾つをかけてもゼロのように、柱がなければ家が建たないのと同じように。
それがわかった瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。
「お母さんが来た!」
突然女の子が立ち上がり、とある方向、確か、獣道ではあるが、人がよく往来する道のある方角を向いた。耳を済ませてみれば、まだ若目の女の声を、木霊が森に響かせている。頭を抱えるのに夢中で耳に入ってこなかった。
「それじゃあ正邪お姉ちゃん、また!」
女の子は少し走った後、こちらに振り返り、力の限り手を振ってきた。親友に向けるような、朗らかな笑顔を輝かせながら。
私はつい右手をあげて応じてしまい、慌てて下ろすも遅かった。女の子は満足そうに頷いて、走り去っていく。
私はもう怒りの峠を登りきり、そして下っているような、まるで仙人になってしまったのかと錯覚してしまうぐらい平静だった。虚無ではない、しかし確かに空白が胸に住み着いているのを感じている。
「そういえば、あの子の名前、聞いてなかったな」
なんてことをつい呟いてしまう。
「もう二度と会うことはないし、会いたくもないけれど」
だが、心残りにはなりそうだ。
自分の中で完全に整理がついたわけではない。あの子に乱された心は、少し時間が経つとまた、嵐のように荒れ渦を巻き始めた。妖怪は精神的に弱い存在だ。当分辛い思いをするだろう。
ただ、それを乗り越えたとき、天邪鬼として、妖怪として、力無き者として、一皮剥ける気がしてきた。
私は手に持っていた、三分の一しか残っていない青い果実を睨み、荒々しくかじった。
私は、天邪鬼は、鬼人正邪は、森の中にひっそりと個を忍ばせる頼りない樹の根元に腰掛けて、しばらくその青い果実とにらめっこをしていた。
手首を使って何度も何度も頭上に放り投げ、なんなくキャッチする。たまに軌道が逸れることもあるが、地面に落とすようなことはしなかった。
涼しく撫でるような風が吹き、私の髪の毛の一房をさらう。それと同時に、樹の一枝がその身を揺らした。葉と葉の隙間から、柔らかいが目にするには眩しい光が漏れる。思わず目を瞑ってしまい、しまったと思ったときにはもう遅く、果実は私の額にぶつかってきた。
「痛っ!」
思わず声をあげてしまう。果実は一回額で跳ねた後、私の下腹部で受け止められた。痛いというよりかは、ビックリした。どこか果実に痛んでいる箇所はないかと観察しても大丈夫だったようで、私は安心して息を漏らした。
私は日光を遮り損ねた樹を恨めしそうに見上げる。この野郎。出る杭は打たれる、無個性、右に倣え、私の嫌いな言葉が似合いそうなこの樹はやっぱり嫌いだ。周りよりも大きくなったりとか、ちょっと奇抜な形になったりとか、隣の木の邪魔をしたりとか、もっと自己中心になればいいのに。
しかし物に対してあたるというのはみっともないというか、知性のあるものが無いものにあたるのは情けないなぁ、と省みて、青い果実、青林檎を荒々しくかじって気をまぎらわせた。
水の弾ける音がする。噛めば噛むほど果肉が水を撒き散らし、舌に甘い蜜が絡まる。小気味のいいシャリッシャリッという音が、口の中を一層爽やかなものにしてくれている。匂いがあまりしないと思ったら、鼻の奥からまるで澄んだ風が通り抜けるような心地もする。飲み込む時も、飲み込んだ後も、その癖の無い甘味は舌に残り、一貫してスッキリとした感想を抱いた。
ある農家から盗んできたものだが、豪華な家が一件建ってしまいそうな広さの土地に、これでもかというほど実っていたのだ。二、三個貰ったって別に構いやしないだろう。私は得をして、農家は損をしない。問題ない。
もう一口かじる。勢いをつけすぎて、頬に果汁が飛び散ってしまった。林檎を持った右手の甲で拭き取って、もう片方の手で擦る。少しがっつきすぎてしまった。はしたない。
まあしかし、こんな森の奥で会うやつなんてほとんどいないだろうし、話しかけてくる奴はそれより稀有なんだ。私は私のやりたいようにやらせてもらおう。
相変わらずこんなに快適な天気だから、寝転がって昼寝をするのも一興だろう、と樹の幹に背中を預け、林檎を咀嚼しながら眠気が来るのを待つ。ぼーっと何も考えていなければ、林檎を食べ終わる頃には瞼も重くなっているはずだ。
……空を眺めていると、意識だけが宙を舞って、そのまま雲の上まで、もしかするとあの深青の空の向こうまで行ってしまうんじゃないかという気持ちになる。レンズのような青、膜のような青、水の底のような青。宇宙なんてほんとはなくて、ずっと進んでいくと青空しかなくて、いつのまにか迷子になってしまう、そんな思い違い。
決してセンチメンタルになっているからじゃない。けれど、一人になっている時間というのは、策略も練らないで頭も使わないでいる時間というのは、自然とこんなことを考えてしまうものだ。
だけど、私はそんな詩人じみたことをしたいわけではない。他人の嫌がる様を見て気分を満たすことこそが、私の至福。他人と同じことなんてしたくない興味ない。さあさあ、果たして今度はどういう手を使ってあの巫女や魔法使い、メイドを懲らしめてやろうか。
「お姉ちゃん、こんなとこで何してるの?」
幼い声が聞こえる。おかしい、私に話しかけてくるなんて、えらく度胸のあるやつだ。ああ、もしかして既に私は眠りについていて、ここは夢の中なのだろうか。だとしても相手をするのがめんどくさいな。
薄目を開けてその姿を確認すると、その影はやはり小さかった。私の顔を覗きこんでいるようで、身を起こそうとすればぶつかってしまいそうなほど近い。顔は暗くてよく見えないが、なぜかワクワクしていそうなことは察せられた。その子から顔を隠すように寝返りをうつ。早く帰ってくれないものか……。
「起きてよ、妖怪のお姉ちゃん」
今度はその子供に肩を揺さぶられた。何かがおかしい。夢の中なのに、こんなにもはっきりと掴まれた感触はあるのだろうか。私はどうやってその子を見たのか。いつ私は無意識に飛び込んだのだろうか。
眠気が頭から飛んでいく。目がこれでもかというほどくっきりと覚めた。体を起こすと、
「お、ようやく起きた」
すぐ隣から嬉しそうな子供の声がする。しばし私は呆然と林檎を眺める。まだ半分ほど残っていた。
「お姉ちゃん、こんなところで寝てたら風邪引くよ?」
そのおかっぱ頭の女の子が私の正面に回り込んできた。決して裕福そうには見えないが、大事に育てられてきたのが見てとれる。清潔感漂う髪の毛に、必要以上の皺の無い着物。外で遊んでいたというわけではなさそうで、ただ散歩をしていただけのようだ。まだ、小さな人間の子供なのに。
「何をしているんだお前は」
私は、眉を寄せて不機嫌そうに問いかけた。妖怪が其処ら中に潜んでいる森の中に入ってくるなんて、目的があるのか、好奇心からなのか、どちらにしろ馬鹿としか思えないが。
「その林檎」
女の子が、私の側に置いてある青林檎を指差した。
「……これがどうかしたのか?」
「一個もらっていい?」
女の子が、両手のひらで皿を作って私に差し出してきた。本気で言っているのだろうか。
「駄目だ」
「えー!」
私がそのお皿を片腕で払うと、女の子はさぞ残念そうに不満を漏らした。
「というか、なんで私を起こしたんだ? 盗んでいけばよかったものを」
「だって盗みは悪いことだもん」
女の子の返しに、私は目を見開いた。自信満々で胸を張り、誉めてくれと言わんばかりのどや顔が眩しい。善悪を妖怪に説くなんて馬の耳に念仏なのに……と思うが、目の前の女の子の純粋な眼差しに見つめられていると、なんだが妙な罪悪感みたいなのが湧いてきた。
「……」
「……」
いつのまにか皿が元に戻っている。試しに脇に置いていた林檎を皿の上まで持ってくると、みるみるうちに女の子の表情が明るくなった。遠ざけると悲しそうに歪む。そのコントラストが面白くて、つい何度もやってしまう。
喜、哀、喜、哀、喜、哀、
「もう、意地悪しないでよ!」
今度は怒になった。私は楽に破顔した。愉快愉快。
別にくれてやっても構わないのだが、人の嫌がることを率先してやりたがる自分の性が疼いている。簡単にあげるつもりはない。
「この鬼!」
女の子が涙目で訴えてくる。
「鬼は鬼でも小鬼だけどねー」
子供らしい表現だ。でも私自身広義の鬼にあたるし、犬に、お前は犬だ、と教え込むようなものだ。さて、今度はどんな雑言を吐いてくるかな? 煽るのは得意だ。かわいいお顔が真っ赤になるまで苛めてやろうか。どこかへ行ってしまうかもしれないが、かまうものか。私の林檎が減らなくなるだけじゃないか。
だが、女の子の小さな口にお似合いの未熟な暴言はいつまで経っても聞こえてこない。代わりに、必死に堪えている女の子の怒りが頬に溜まってビクビクと跳ね始めた。これは爆発するか、そのまま拗ねて帰ってしまうパターンだ。ちょっとつまらない気もするが、ただの子供だからしょうがないとも思う。
私は指を頭の後ろで組み、足を組み、ついでに腰を沈めて、より幹に体重をかける。さあ、目の前の子からあふれでる濁流を飄々と受け流す準備はできた。目を閉じて、澄ました顔も作っておく。いつでもこい、ほら。
「……うぅ……」
喉の奥から出たような、掠れた声が聞こえる。様子がおかしい。でももしかしたら、ウキーッていう猿みたいな奇声を発する前兆かもしれないし、もう少しだけ待ってみることにする。
「うぇぇ……」
今度こそ、私の予想とは外れたという確信が持てた。片目を開けて女の子がどうなっているのかを盗み見ると、やはりそうだ。瞳から大粒の涙が次々に溢れていた。声をあげまいと必死に唇を尖らせ、頬を痙攣させ、眉根も険しい。
そう、ガチ泣きだった。
「ちょ、ちょっ、泣くことはないではないか!」
さすがの私もこれにはたまげた。女の子は堪えているものの、いつ涙腺が決壊するか分からない。私はわたわたと空中で手を踊らせ、励ますとか、非を認めたとかそういうのではなく、反射的に女の子の涙を親指で拭ってあげた。一瞬してなぜそうしたのか自分の中で疑問が浮かび上がったが、女の子が急に泣き止んだので、とりあえずホッとした。
口を半開きにして唖然としている女の子は、しばらくすると何もなかったようにまた皿を作り、今度は私の目と鼻の先に押し付けてきた。
「ねぇねぇ、林檎ちょうだい!」
「うぐっ……」
非常にうざい。さっきよりも声量が大きくなってる気がする。小さい子供というのは、かくも面倒な存在だったのか。
……一瞬、こいつを食ってやろうかという考えがひらめいた。人里にいる連中は食ってはいけないが、こいつは勝手に出てきている、見方を変えれば自殺願望者だ。いなくなれば家族や友人は悲しむだろうが、知ったことか。私の腹が満たされるのだ。それに越したことはない。
「……」
「……」
しかし、しかしだ。この女の子の、私をいい奴だと思い込んでいる視線が妙にイラつく。ただの面倒見のいい妖怪という括りにされているのが何より鼻につく。でも、この笑顔が血に濡れるところを想像すると、何故か、胸が裏側から圧迫されたように軋むのだ。
それに気付いてしまい、もはや食欲は湧いてこなかった。萎えた、という言葉がしっくりくる。
しばらく女の子と見つめ合い、駄目元で女の子を脅かしてみる。これで逃げてくれたら御の字なのだが。
「……これ以上私に構ってると……頭からバリバリ食べてしまうぞ?」
やる気は無論無い。だが、両手を大きく広げ、妖気で髪をわずかに浮かべ、不適な笑みを張り付けて女の子を脅した。一定以上の力を持つ奴等には聞く筈もないが、一部を除く人間には効果は覿面のはずだ。
「キャー、怖いよー! キャハハハ」
……覿面のはずだ。それがなぜ、女の子が黄色い悲鳴をあげて嬉しそうに身悶えているのだろう。全くもって理解不能だ。
「……何を笑っているのだ、早く逃げないと食われてしまうのだぞ?」
再び雰囲気を出してみても、女の子は怯えるどころか、どんどん懐いてきているようにも見える。私の中から、真ん丸の風船に穴を開けた時のように気力が抜けていく。
ふむ、どうしたものか。もはや林檎をあげないという選択肢はないだろう。癪に障るが、素直に渡してとっとと退散した方が身のためか?
ちらりと横目で女の子を見る。女の子の瞳はまるで宝石のように光っていた。ひたすらに純粋で、未来を一点の曇り無く見通せるような、ある意味羨ましい輝き。これはもう白旗を振ってもいいに違いない。
「わかった、やるからさっさと帰れ」
「わーい! ありがとーお姉ちゃん!」
溜め息をつきながら女の子の手のひらに林檎をのせると、女の子は笑みを弾けさせた。立ち上がってその場でピョンピョンと跳びはね、樹と私の回りをくるりと駆け回る。私の前に戻ってくると、今度は照れ臭そうに口の端を緩めた。
私はその様子を、道で小石を蹴っ飛ばしたときの心境で眺めていた。一瞬気になりはするけれど、次の瞬間にはもう忘れてしまう。もはや私とは関係がない。
だからもうこの女の子とは関わらなくていい、そう私は思っていた。
「お姉ちゃん」
場所を変えよう、と思って腰をあげていた私だったが、背後から女の子に声がかけられた。ベタなことを考えるなら、女の子は律儀にまたお礼を言うか、手を振るなり別れの合図をして、帰宅するだろう。ここは森の中で、無事に帰れるかどうかは保証できないところだが。
最後ぐらいは愛想良くしておこうか、と年長の心理のようなものが働き、私も満面の笑みを浮かべながら振り返った。
「一緒に遊ぼ!」
時間が止まったかのように思えた。頬が引き攣って震える。指一本動かせない。あのメイド長もいないというのに、何故だ。だが今はそんなことを考えている暇ではない。女の子は今なんと言ったのだ。イッショニアソボウと口に出したのか。何語だそれは。古代天狗語、大陸語、もしくは造語か。
Let's play.という意味であると理解するのに、いったいどれだけ時間がかかったか知らない。
「ダメ?」
「……本気で言っているのか」
「うん」
「……」
どうやらこいつは真性の阿呆のようだ。でなければ深刻な鳥頭のどちらかだ。私は妖怪だとこいつには言ってある。私にその気がなかったとは云えども、食ってしまうという可能性も示唆してある。なのにこいつは、遊ぼうとほざいている。
私の白い目にもこいつは気づいてないみたいだし、たぶん天然だ。剥製にして『ド阿呆』というプレートと一緒に博物館に展示しても大袈裟でないに違いない。
やれやれ、厄介な相手と出会ってしまった。元々厄介だとは思ってたけど、真剣に向き合わないといけないレベルだとは思ってもみなかった。
さっきの林檎の件を考慮してみると、脅しは効かないだろうし、突き放すと逆効果になる気がする。ぐずる女の子を放って逃げるのもありだが、私の予想をことごとく凌駕してきたこの子のことだ。何をしでかすかも分からない。それに……。
そこで思考が止まる。私は何を考えようとしていた? 私はこの子に対して何を感じている? 途端に寒気がした。
とにかく、ここは相手に合わせよう。こいつを満足させて、早く一人になりたい。
「……少しだけだぞ」
「やった!」
仕方ないなあというオーラを全開にして答えると、女の子はガッツポーズをとった。別に嫌々というところを強調してもよかったが、今の様子を見るに、都合のいいところだけを拾って自分のいいように解釈するだろう。性には合わないが、ここは大人の対応というものをしないといけない。
「何がしたい?」
「おままごと」
「却下」
「えぇー!」
ただし、こいつの好き勝手はさせない。させてたまるか。
「じゃあ、かくれんぼ」
「かくれんぼか……」
私の中にピンと来るものがあった。少し考えるような素振りをしてみせ、吟味するように何度も頷く。かくれんぼ、オーソドックスなチョイスだ。しかし、ベターなチョイスでもある。ルールもシンプルで、勝敗もつけやすくていいじゃないか。それに、探す方にしろ隠れる方にしろ、している最中に何処かへ行ってしまうということができる。隠れる方がちょっとやり易いが、これでこんな面倒な子とおさらばできる。そう思うと、自然と顔つきが悪そうになるのも仕方ない。
だけど、それにしよう、という言葉が喉から出ようとした寸前、気道が詰め物をされたように塞き止められた。この子を残してどこかへ行ったとき、こいつはいったいどうなってしまうのだろうか。今もこの森には、知性の有無関係無しに妖怪が蔓延っている。こいつが襲われずにいるのも、私が側にいるからに他ならない。
「駄目だな、私と離れた瞬間にお前なんか他の妖怪に食べられてしまうわ」
意地の悪い返答をしようとしたときよりも自然に言葉が紡げた。正直、私の心はまだ揺れていたのだが、言ってしまったものはしょうがない。よくわからない感情が込み上げてきて、私は苦虫を噛み潰したような顔を女の子に隠れて表に出した。
なぜか女の子の方も、こいつの口からこんな台詞が出るなんて、みたいな表情をしていたが、急に何かに納得したように満足げに笑うと、
「じゃあお姉ちゃんと林檎食べたい」
「……そんなんでいいのか?」
私が意外そうに聞くと、女の子がはにかんだ。今までの女の子のとは違いながら、もしかしたらこの子の本当の一面なのかもしれないその笑みを見て、私は何も言えなくなってしまった。
人が二人分座れそうな根を探してみると、私が座っていた惨めな樹の反対側に、その見た目からは不釣り合いな太さの根がせり上がっていた。なんだ、やる奴だったのかこいつは。
何も言わずにそこに座っても、その子はぴったりとついてきて、私に倣った。
手に持っている食べかけの青林檎を、早く食べ終えよう、そう思い、やや大きめに口を開けてかぶりつく。一人で食べるより味わうことはできないが、不思議と不味くはなかった。なんとなくだが、この子と私の間に何かができているような、引力があるようなそんな気がする。目に見えないし、触れないし、臭いを嗅ぐこともできないし、食べることも、聞くこともできないのに、そこにあるということを保証できる。
「そういえば、お姉ちゃんの名前は?」
女の子が、可愛らしいお口を開けて歯を立てようとした直前でやめ、体がむずむずして絶えず身じろぎしている私に顔を向けてきた。そういえば、まだ名前を言っていなかった。こんなに関わるとは思ってなくて、どうでもいいとも思ってたのだが、やはり……。
「鬼人正邪」
私は女の子と顔を合わせようとせず、口の中ですりおろされた林檎を飲み込むと、ただまっすぐ何も見ずに答えた。まあ多分これっきりだ。ただの人間に、何も知らない人間に名乗るのは。もうこの子とも会う機会はないだろうし。
「正邪お姉ちゃん!」
そう女の子は言うと、慎ましく林檎をかじった。自分の顔の半分以上ありそうなその実を、両手を花のようにして支えている。さすがに一個は多すぎたか。だが、女の子の幸せそうな表情と、バタバタと足を揺する仕草を見て、そんな考えは遥か彼方に消えてしまった。
「正邪お姉ちゃん、か」
今までに一度も呼ばれたことの無い呼び名を、ついしみじみと呟いてしまう。悪くはない。我々のような弱者は何時だって上から見下されてきた。だが、こうして見上げられる日が来ようとは、ほとんど思ってもみなかった。その点では、この子に感謝をしてあげてもいいかもしれない。さっきまで体を走っていた違和感は影を消していた。驚くほど自分の心は静まっている。
肌に感じなくとも、確かに吹いている風が木々の間を走り抜け、木の葉の、それを応援するようなざわめきが反響している。取るに足らないと思われがちな小鳥たちの、一生懸命なさえずりが鼓膜を刺激してきた。潤いのある空気が土から舞い上がり、見かけだと何処までも続いていそうな森の隙間に、精霊のような儚い者たちが漂っている。それに加えて、まるで光のカーテンが作り出した神秘的な光景を、私は林檎を咀嚼しながら、脳裏に焼き付けておこうと必死だった。
「青林檎ってね」
唐突に女の子が語り出した。私は少しだけ顔を動かし女の子を視界に入れ、耳を傾ける。
「私は食べられないよーってメッセージを体全体で表現してるの。普通木の実って見ただけで美味しそうだってわかるぐらい鮮やかな色してるじゃない? 赤とか、黄色とか、オレンジとか。林檎もそう。自信満々に胸張って、真っ赤に体を染めて、それで私たちに食べてもらうの」
そこまで言って、女の子は手に持っている青林檎を、木漏れ日に翳すように掲げた。笑顔は見えないけど、心から楽しんでいるように私は直感した。
「でもね、この青林檎は違うの。自分はまだ未熟だから食べないで! 食べても美味しくないよ! って色をしてるのに、本当は食べてもらいたくてしょうがなくて、ほら、中身ぎっしりあるし、甘くて食べると幸せになれる。自分に素直になれないけど、本当はものすごく優しい、天邪鬼」
そして女の子は、青林檎を胸に抱え、私に向き直った。嫌な予感がする。心臓を直接触られたような不快感。沼の中に投げ捨てたい衝動。すぐにでも女の子の口を塞ぎたかったが、体が言うことを聞かない。
「まるで正邪お姉ちゃんみたい」
女の子の言葉が耳朶を打ち、体の中身をごっそり抜き取られたような感覚に襲われた。
ふざけるな。私が優しいだと?優しさが聞いて呆れる笑えない冗談だ。私が善だとすれば、閻魔様の裁きも大分マシになるだろう。そこまで私は自惚れていない。私利私欲のために他人を利用し、蹴落とし、見捨ててその様を笑う。何も知らない奴だけを狙う、卑怯極まりない下衆、それが私であり、私が私である所以。それこそが天邪鬼。だからこその私。
「違っ……」
「違わないよ」
私が否定しようとすると、女の子が強い意思を持って遮ってきた。
「だって正邪お姉ちゃん、この青林檎くれたもん。それに今もこうやって一緒に食べてるし」
違う、ほんとに違うんだ。林檎をあげたのだって、早くこいつから解放されたいという利己心からのことであって、こいつのことを一ミリも思ったりなんかしてない。隣に座らせているのだって、騒がれるよりはマシだからで、仕方なく付き合ってるだけなのだ。この子は重大な勘違いをしている。これ以上接していると頭がどうにかなってしまいそうだ。
「じゃあ私がかくれんぼしよって言ったとき、お姉ちゃんなんであんなこと言ったの」
女の子の、問い詰めてくる真剣な眼差しに、私は何も言えなくなってしまって。自己矛盾を自覚してしまって、一旦思考が停止する。言い逃れのできない破綻。脳が新たな酸素を要求し、されど吐き出されない息がじわじわと私の首を絞める。
「ね?」
女の子が勝ち誇ったように微笑んだ。少なくとも、私にはそう見えた。
私は図星をつかれたから言い返せないのだろうか。もっと他の理由があるのだろうか。いや、多分無いのだろう。すべてが逆さまの天邪鬼、嫌われることを恍惚とする私たち天邪鬼の基準は、一体どこにあるのだろうか。私たちがそれを持ち合わせていない限り、逆行することは不可能なのだ。ゼロに幾つをかけてもゼロのように、柱がなければ家が建たないのと同じように。
それがわかった瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。
「お母さんが来た!」
突然女の子が立ち上がり、とある方向、確か、獣道ではあるが、人がよく往来する道のある方角を向いた。耳を済ませてみれば、まだ若目の女の声を、木霊が森に響かせている。頭を抱えるのに夢中で耳に入ってこなかった。
「それじゃあ正邪お姉ちゃん、また!」
女の子は少し走った後、こちらに振り返り、力の限り手を振ってきた。親友に向けるような、朗らかな笑顔を輝かせながら。
私はつい右手をあげて応じてしまい、慌てて下ろすも遅かった。女の子は満足そうに頷いて、走り去っていく。
私はもう怒りの峠を登りきり、そして下っているような、まるで仙人になってしまったのかと錯覚してしまうぐらい平静だった。虚無ではない、しかし確かに空白が胸に住み着いているのを感じている。
「そういえば、あの子の名前、聞いてなかったな」
なんてことをつい呟いてしまう。
「もう二度と会うことはないし、会いたくもないけれど」
だが、心残りにはなりそうだ。
自分の中で完全に整理がついたわけではない。あの子に乱された心は、少し時間が経つとまた、嵐のように荒れ渦を巻き始めた。妖怪は精神的に弱い存在だ。当分辛い思いをするだろう。
ただ、それを乗り越えたとき、天邪鬼として、妖怪として、力無き者として、一皮剥ける気がしてきた。
私は手に持っていた、三分の一しか残っていない青い果実を睨み、荒々しくかじった。
むしろ、この女の子の背景が気になります。
ちょっと気になったのは、女の子とその母親が本当に人間だったのだろうか?という事です。
自分達の縄張りに入ってきた天邪鬼を、逆に試したのではないかと。
何はともあれご馳走様でした。
正邪は妖怪として、どこか未熟なのかもと思いました。
だから針妙丸にも信頼されたのかもしれないし、魅力があるのかもしれない。
前提としてこういう設定を与えられてるんだからいいキャラだよな
女の子の出自がとても気になりますね…続編期待しています。