月曜日ってどうしてこんなに身体がだるいのだろう。そんな誰でも持つような疑問を抱きながら、あたいは更衣室を後にした。死神のトレードマークである大きな鎌を担ぎながら廊下を歩いていると、ふいに欠伸が出てしまった。
「ふあぁ。ちょっと早く来すぎたかな」
現在の時刻は午前八時。ちなみに、あたいの仕事は午前九時から午後七時まで。裁判所の仕事は午後八時までだ。
それに加えて、閻魔様は裁判終了後に雑務があるらしく、午後九時で仕事が終わり、別の閻魔様と交代するそうだ。
あたいは月曜日にもかかわらず朝早くに目覚めてしまい、特に時間を潰すことなく仕事に向かったのだった。寄り道をして遅刻すれば、四季様に何時間お説教されるのか分かったもんじゃない。
もっとも、あたいは仕事をさぼれども、仕事に遅刻したことはないのが誇りだ。寝起きはかなりいい方で、二度寝なんてめったにしない。
「おはようこまっちゃん。今日は早いね」
ちょうど裁判長室の前で知り合いの死神が声をかけてきた。この子は確か裁判の書記をしていた子だ。
「おはよう。あんたも早いじゃない」
「書記の死神は皆早めに来るのよ。あ、でも今日はまだ裁判長がいらしてないようね」
「四季様も普段からこんなに早く来るのかい?」
「うん。いつも定時の一時間以上前にいらしているわよ」
「へえ。まあ四季様は遅刻なんてしないでしょ」
「だよねー。あの人の性格で遅刻はないよねー」
それからしばらく廊下で近況を話し合った。
最近は自殺者が減少傾向にあるとか、四季様の話が以前に比べて短くなったような気がするとか、そんな他愛もない話だった。
「あら。もうこんな時間ね」
書記の子が取り出した懐中時計は八時四五分を指していた。
「五分前には裁判所に行かないといけないの」
「あたいの能力で連れて行ってあげようか?」
「え、こまっちゃんそんな便利な能力を持ってるの?」
「まあね、ここから裁判所まで十歩以内で到着するようにはできるよ」
「すごいね。ちょっとやってみてよ」
あたいは頷いてその子の手を握り、能力を使って歩き出そうとした。しかしその計画は、後ろからの聞きなれた声によって中止させられた。
「待ちなさい小町」
やば、と思ったがもう遅い。振り返るとそこには腰に手を当てて怒りを表す四季様がいた。珍しいことだが、出勤してきたばかりなのか、四季様は白のシャツに黒のタイトスカートという私服(というか通勤用の服?)だった。あの荘厳な装飾が施された制服を着ていない分、いつもよりやや貫禄がないように見える。
「あなたはまたそうやって必要もないのに能力を使って楽をしようとしているのですか」
「し、四季様、これはですね……」
「言い訳は無用。そこに正座しなさい。それからあなたはもう行きなさい」
書記の死神はよっぽどお説教が嫌だったのだろうか、四季様の言葉を聞くと逃げるように立ち去って行った。あの子も共犯なのに。しかも廊下に正座って足が痛くて仕方ない。
「いいですか小町。あなたの能力は遅刻しそうなときに使う便利なアイテムではないのです。三途の川で死者の魂を運ぶために使うものです。しかも自分だけならまだしも、他の者を巻き込んで共犯にしようとするのは感心しませんね。そもそも遅刻しそうな時間に来ること自体がいけないのです。時間に余裕を持って行動しなさいといつも」
「あのう四季様」
四季様のありがたくないお説教よりもとても気になることがあたいの中にあった。それをどうしても四季様に伝えなければならないように思えたのだ。
「何ですか。お説教中に口ごたえとはいい度胸ですね」
上から見下ろすようにこちらを睨み付ける四季様にはとても言いにくいことだった。が、言わなければ重大なことになるように思えたあたいは、意を決して四季様にその旨を伝えた。
「四季様、九時から裁判が始まると思うんですが、お時間大丈夫ですか? まだ着替えてもないようですけど」
あたいの言葉に四季様はきょとんとした表情を見せる。そしてスカートのポケットから時計を取り出して時刻を確認すると、口を開けたまま固まってしまった。
今更気が付いたけど、ここは裁判長室前だ。そしてあたいは一時間ほど前からずっとここにいて、四季様はついさっきやってきた。これはつまり……。
「ど、どうしてそれを先に言わないのですか!」
「なっ、あたいのせいじゃないですよ。四季様が遅刻したんじゃないですかあ」
四季様は顔を赤く染め、手をぶんぶん振り回してあたいに怒鳴った。閻魔様とは思えない責任転嫁だった。
「私には小町をお説教する義務があるのです! どうしてよりにもよってこんな日に! ああ! 裁判開始まであと十分しかない!」
四季様は裁判長室の鍵を素早く開けて中に入った。荷物を投げ捨てるやいなや、すぐにロッカーを開けていつもの制服に着替え始める。
あたいは四季様が慌てふためく姿が面白くて、自分の仕事の時間を忘れてその様子を眺めることにした。
「あと九分四十秒……。持ち物は書類と鏡と……もう! 何故この制服はこんなに着にくい構造をしているのですか! これは後で上の方に報告確定ですね!」
ここから裁判所までは急いでも五分以上かかる。裁判所自体が少々特殊な場所に設置してあって、外部の者が場所を特定しにくくなっている。
仮に六分で到着するとして、あと三分弱――。四季様はやっと制服の上着を着たところだった。
「小町。あなたはもう行きなさい。ちゃんと自分の足で能力を使わないで行きなさいよ」
「大丈夫です四季様。三途の川に置いてある船まではここから徒歩二分足らずですから」
「近くて羨ましいですね!」
あたいは応接用と思われるソファにゆったりと腰かけ、壁にかかっている時計を見た。
「あと七分三十秒……。これなら間に合う」
「寝坊でもしたんですか四季様」
あたいは想像以上に柔らかいソファでつろぎながら四季様に問いかける。四季様は怒っているような口調で答えた。
「自宅からここまで来る間に不届きものがいまして、五人ほど説教していたのです」
「やりすぎですよ」
「見逃すわけにはいきません」
「自分が遅刻したら元も子もないじゃないですか」
「誰が遅刻なんてするもんですか。あと七分。裁判所までは五分あれば到着します」
「知り合いの子は五分じゃ無理って言ってましたよ」
「私は裁判長ですから、書記の子とは別のルートを持っているんですよ」
「何かずるいですね」
四季様の準備は意外と時間がかかった。デスクの引き出しから何やら書類のようなものを取り出していた。
あたいは普段着で仕事をしているから着替えなんてしないし、更衣室でやることと言えば、死者から徴収するお金を入れておくための袋を持って行くくらいだ。
四季様が荷物を持って立ち上がったのは九時の六分前だった。
「何とか間に合いそうですね。ほら小町、もう出ますから仕事に行きなさい。鍵を閉めますよ」
あたいはソファの柔らかい感触を惜しみながら立ち上がった。四季様がデスクから出入り口に向かう。その姿を目で追うと、とても奇妙な光景が目についた。
「四季様、そのスカートは私服では……」
「あっ……」
四季様は上だけ着替えて下はタイトスカートのままだった。厳かな上半身には不釣り合いな下半身。上だけ仮装しているようにも見えた。
「あああああああああああああああああああああっ!」
廊下にまで響いていると確信できるほどの大音量だった。とっさに耳を塞いだ。普段冷静な四季様がまさか叫ぶとは思わなかった。
「小町のばかっ!」
「な、やつあたりですか!?」
四季様はかばんをあたいに投げつけ、スカートを履き替えるために再びロッカーに向かった。普段は見られない四季様の慌てっぷりが、あたいにとってはだんだん面白くなってきた。
再びソファに優雅に座りながら四季様の着替えをにやにやと見ていた。時計の針は九時五分前を指している。もっとも、裁判長室の時計が正確かどうか、あたいには知るすべがなかった。もしかしたらあの時計は五分遅れていて、今ごろ裁判所では裁判長不在で開廷待ちとなっているかもしれなかった。
「四季様。あの時計って合ってます?」
「五分早かったらどんなによかったでしょうね!」と四季様は乱暴に言った。
「合ってるんですね」とあたいはにやけながら言った。
四季様がやっと制服のスカートを履き終えたのは九時四分前だった。
「小町。あなた今、私の慌てる様子を面白がっていましたね。仕事が終わったらお説教です。さあ、今度こそ行くわよ」
あたいからかばんをひったくると、四季様はあたいの腕を引っ張って外に追い出した。鍵を素早くかけると裁判所の方へ向かう廊下を走り出す。
風を切るように廊下を走り抜ける四季様の緑髪がひらりと揺れた。よく見ると寝癖が完璧に直っていない。頭頂付近にぴょこぴょことはねるアホ毛が……。
あ、四季様、帽子忘れてるんじゃ……。
あたいは四季様が帽子を取りに戻るのに要する時間を瞬時に思考した。約二十秒――。
恐らく今の四季様には致命的な時間だろう。
しかし帽子をかぶらずに四季様が裁判所に行ったらどうなるだろう。そもそも帽子をかぶっていないことは問題にならないかもしれない。あるいは、いつもと違う裁判長の姿を見た書記の子達の間に気まずい空気が流れるだけかもしれない。
いや、それ以前に。帽子をかぶっていないことに気づいたとき、四季様はどう思うだろうか。自分のミスを恥じるだろうか。それとも何も言わなかったあたいにやつあたりするだろうか。
今日の四季様の態度を見る限り、何だか後者になりそうな気がしてきた。
「四季様!」
「もう何ですか!」
四季様は曲がり角を曲がるぎりぎりのところで立ち止まった。あたいは廊下中に響き渡るような大声を出して言った。
「四季様の髪の毛はいつ見ても素敵ですね!」
「な、な、そんな、そんなことを言うためにわざわざ――」
四季様はそこで口を止めた。そして何かを悟ったように目を見開くと、ゆっくりと自分の頭に手を置いた。
わしゃわしゃわしゃと三回、自分の髪の毛を撫でた後、四季様は絶望したように廊下に膝をついて倒れこんでしまった。
あたいは四季様に駆け寄った。
「四季様! 大丈夫ですか!」
「終わった。何もかも終わったのよ」
四季様は不敗神話を守ってきたボクサーが負けたときみたいなセリフをぶつぶつと呟いていた。目は虚ろで何も見えていないようだった。
「そんな、遅刻くらいでおおげさですよ。四季様が遅刻しても誰も咎めるようなことはしませんよ」
「いけません。私自身が許さないのです。遅刻なんてものは最も恥ずべき行為です」
四季様は廊下に座り込んでふさぎ込んでしまう。いつもの威厳はどこへやら、あたいには遅刻して落ち込んでいる少女にしか見えない。
そんな四季様は見ていられなかったあたいは、一つの案を思いついた。これならいける、と確信した。
「まあ、まだ一つだけ手があるんですけどね」
「何があると言うの。どうしたって今から九時までに裁判所に行くのは物理的に不可能よ。光の速さで動けるのならまだしも」
四季様はがっくりと項垂れていた。完全に諦めているようで、投げやりな態度を取っている。あたいはそんな四季様の肩に手を置き、にっこりと笑顔を作った。
「あたいの能力をお忘れですか? 四季様」
「小町の……はっ――」
四季様は数秒で気づいたらしく目を見開いた。
そうですよ四季様。あたいの能力は『距離を操る程度の能力』。元はといえば死神の仕事を始めた時にもらった能力だけど、実は三途の川以外でも普通に使うことができるのだ。
この能力を使えば、この場所から裁判所までの距離を操り、十秒以内で到着することが可能である。物理法則なんて概念を超越した能力なのだ。
「さすが小町ね! やはり私が見込んだ部下だわ!」
さっきの落ち込んだ顔はどこに行ったのか。四季様は目をキラキラと輝かせながら立ち上がった。そして嬉しそうに私の肩をポンポンと何度も叩いた。こんなに嬉々とした表情を見せる四季様は珍しかった。
月曜に早く来るのも悪くないなとあたいはひっそりと心の中で呟いた。
「四季様、今何時ですか?」
「八時五十七分です。あなたの能力を使うとどれくらいで着くのですか?」
「十秒以内です」とあたいは親指を立てながら言った。
四季様は神様にお祈りを捧げるときのようなポーズであたいを見つめた。閻魔に崇められるとはなかなか貴重な体験だ。
「それでは早速ですが、小町、私を裁判所まで連れて行ってくれますか?」
「勿論です四季様。四季様の名誉のために能力が使えるなんて光栄ですよ」
あたいは四季様の手を握った。四季様は驚いたようにこちらを見る。同時にアホ毛がぴょこんと跳ねた。
「ちょ、小町ったら、いきなりそんな……」
「何照れてるんですか」
「だって小町が」
「あたいに触れてないと一緒に裁判所まで行けないですよ」
「な、なら仕方ありませんね……」
あたいは四季様の手を離さないように強く握った。すると四季様は何を思ったのかぎゅっと握り返してきた。いや、そういうのは別にいらないんですけど。
物理的概念を超えるまさに超能力を使おうとしたその時、あたいはこの光景に既視感を覚えた。
あれ、これは確か……。
「どうしたのですか小町」と四季様は不思議そうにこちらを見つめる。「すぐに着くとはいえ、早く行けるに越したことはないのですから」
「いや、あの、四季様……。一つとても気になることがあるんですよ」
「何かしら?」
四季様はそう言って首を捻った。なんと四季様は覚えていないらしい。つい十分ほど前の出来事なのだけれど。
あれは十分ほど前、あたいが知り合いの書記の死神の子と会話を終えた時のことだ。
あたいはもう一度だけ四季様を見つめる。四季様は不思議そうにこちらを見つめ返すだけだった。
黙っておいたほうがいいのだろうか。それとも言わなかったら後で文句を言われるのだろうか。
いやいや、さすがにそれは難癖だろう。あたいが能力を使わなければ、四季様は遅刻確定なんだから。
「言いたいことがあるなら曖昧にせずにはっきりと言いなさい小町」
「なら言いますけど……。四季様はさっき、あたいの能力は遅刻しそうなときに使う便利なアイテムではないとか言ってませんでしたっけ」
口をぽかんと開けたまま四季様の表情が固まった。そしてあれこれ策を思考しているときのように目をキョロキョロと動かした。
これはもしかして困ってるのだろうか。そう思ったあたいは面白そうな予感を覚え、追撃することに決めた。
「あの時はだめって言ったのに自分のときだけはいいんですか?」
「…………」
「四季様の発言はそんなに軽いものだったんですか?」
「…………」
四季様は何も言い返してこなかった。万事休すかもしれない。必死に何かを考えている様子だけど。
そもそも数分くらい遅刻していけばいいのにとあたいは思うけれど、そこは四季様の性格が許さないのだろう。では、いけないと言ったあたいの能力を使って遅刻を回避することと、そのまま行って遅刻することとを天秤にかければ、どちらに傾くのだろうか。
四季様は恐らくこの二択で悩んでいる。あるいは第三の選択肢が四季様の中にあるのかもしれないけれど、あたいには思いつきそうにない。
「四季様……?」
「小町。再度確認ですが、裁判所までは十秒で着くのですね?」
「そうですけど、あたいの能力は遅刻しそうなときに使うものでは」
「いいですか小町。あなたはよく仕事をさぼっていますね」
四季様は腰に手を当てていつもの説教ポーズを取りながら言った。
「え、は、はい……」
「仕事をさぼることは悪行です。このままその勤務態度を続ければ、死んだときに必ず地獄行きになるでしょう」
「いや、あたい死神だから死なないですよ」
あたいの言葉で四季様のお説教モードの表情が少し崩れる。というか四季様、意地でもあたいに能力を使わせて遅刻を回避する気ですよね。やはり遅刻は重罪ですか。
「あなたが死んだときは私が必ず地獄行きの判決を下します」
「いやだからあたい死なないんですけど」
「小町!」
「はっ、はい……」
「死んだあとにどうなるかではないのです。そもそも仕事をさぼること自体がいけないのです。死者が運ばれてこないと裁判ができない。私や裁判の書記にまで迷惑をかけることになるのです。そう。あなたは少し迷惑をかけすぎる。いつもいつも上司に迷惑をかけている。あなたには上司が困っている時に助ける義務がある。分かりますね?」
「理論が破たんしていて四季様らしくないです」
あたいは長々としたお説教を一言で一蹴した。すると四季様は「小町……あなた……」と呟きこちらを見つめてきた。その目には微かに涙が浮いているようにも見える。
やばい。四季様が泣きそうになってる。かわいい。
でもこれ以上はさすがに四季様がかわいそうだ。それにやりすぎると今度文句を言われるかもしれない。もとは四季様に意地悪をしたいわけではないのだ。
あたいは四季様の涙目を見られただけで満足し、能力を使うことにした。
「分かりましたよ。四季様風に言えば、これがあたいが今積める善行ってことですよね。さあ、行きましょう」
あたいは四季様の手をもう一度強く握る。四季様は救われたような表情であたいの手を受け入れた。もう片方の手で必死に涙を拭き取ろうとしているのをあたいは見逃さなかったけど。
四季様の時計を見るともうすぐ八時五十九分になるところだった。あのまま口論を続けていたら結局間に合わなかったなんてオチになるところだった。危ない危ない。
「行きますよ。ほいっと」
言語では説明できない超能力を使い、あたいと四季様は裁判所までの空間を移動した。十歩ほど歩いたころには目の前に裁判所があった。
「はい、着きましたよ四季様」
「感謝します。小町。これは私とあなた、二人だけの秘密です。一切他言無用ですから、分かってますね?」
「分かってますよ。四季様があたいに説教しておきながら自分が遅刻しそうになったときに能力を使わせたなんて誰にも言いません」
敢えて嫌味っぽく言うと四季様はじっとりとした目で睨んできた。何か言いたげに唇の端を動かしている。
「また二人だけの秘密ができましたね」
「誤解が生まれそうな言い方は止めなさい」
「あたいにお説教している時間はあるんですか?」
四季様は腕時計を確認すると、またこちらを睨んできた。あたいは皮肉を込めて微笑みを返す。四季様を相手に優位に立てるというのはなかなかいい気分だった。
四季様はあたいに背中を向けて歩き出した。そして裁判所の入り口で足を止めると、こちらを振り返らずに言った。
「今夜の予定は空いてますか?」
「ええ、空いてますが」
「私は午後九時まで仕事なので少し遅くなりますが、仕事を終わらせたら一緒に飲みませんか」
「おごりですか?」
「今回のことに対するお礼です」
「それなら、ぜひご一緒させてください」
四季様の頭が少しだけ動いたような気がした。フッと笑ったようにも見えたけど、向こうを向いていて表情は分からなかった。
「ありがとう小町。あなたも早く仕事場に行きなさい」
四季様は最後まで振り返らずに裁判所の扉を開いて中に入っていった。その背中にはさきほど慌てていた様子は微塵も感じられない。いつもの尊厳ある背中だった。
あたいは四季様の言う善行を積んだような清々しい気分で四季様を見送った。
「あっ……」
重厚な扉が閉まる直前、あたいはとんでもないことに気づいてしまったが、あたいが手を伸ばす頃にはその扉は重々しい音を立てて閉じられた。
「四季様、結局帽子かぶってないじゃん」
四季様のあのアホ毛が裁判の度にぴこぴこと跳ねる様子を想像し、あたいはにやにやしながら仕事へ向かったのだった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
仕事終了後、あたいはやっぱり四季様にお説教された。四季様は涙目で顔を真っ赤にしながら怒涛の勢いであたいに向かって叫んでいた。
でもアホ毛がまだ直っていなかったので、あたいはお説教中ずっとそのアホ毛の挙動を眺めていた。笑いをこらえるために顔の筋肉がつりそうだった。
四季様の動きに合わせてぴょこぴょこ跳ねるアホ毛のせいで、四季様にはカリスマの欠片もない。
あたいは四季様の尊厳をいつも保ってくれている、あのごてごてした荘厳な帽子に対し尊敬の念を抱くばかりだった。
「ふあぁ。ちょっと早く来すぎたかな」
現在の時刻は午前八時。ちなみに、あたいの仕事は午前九時から午後七時まで。裁判所の仕事は午後八時までだ。
それに加えて、閻魔様は裁判終了後に雑務があるらしく、午後九時で仕事が終わり、別の閻魔様と交代するそうだ。
あたいは月曜日にもかかわらず朝早くに目覚めてしまい、特に時間を潰すことなく仕事に向かったのだった。寄り道をして遅刻すれば、四季様に何時間お説教されるのか分かったもんじゃない。
もっとも、あたいは仕事をさぼれども、仕事に遅刻したことはないのが誇りだ。寝起きはかなりいい方で、二度寝なんてめったにしない。
「おはようこまっちゃん。今日は早いね」
ちょうど裁判長室の前で知り合いの死神が声をかけてきた。この子は確か裁判の書記をしていた子だ。
「おはよう。あんたも早いじゃない」
「書記の死神は皆早めに来るのよ。あ、でも今日はまだ裁判長がいらしてないようね」
「四季様も普段からこんなに早く来るのかい?」
「うん。いつも定時の一時間以上前にいらしているわよ」
「へえ。まあ四季様は遅刻なんてしないでしょ」
「だよねー。あの人の性格で遅刻はないよねー」
それからしばらく廊下で近況を話し合った。
最近は自殺者が減少傾向にあるとか、四季様の話が以前に比べて短くなったような気がするとか、そんな他愛もない話だった。
「あら。もうこんな時間ね」
書記の子が取り出した懐中時計は八時四五分を指していた。
「五分前には裁判所に行かないといけないの」
「あたいの能力で連れて行ってあげようか?」
「え、こまっちゃんそんな便利な能力を持ってるの?」
「まあね、ここから裁判所まで十歩以内で到着するようにはできるよ」
「すごいね。ちょっとやってみてよ」
あたいは頷いてその子の手を握り、能力を使って歩き出そうとした。しかしその計画は、後ろからの聞きなれた声によって中止させられた。
「待ちなさい小町」
やば、と思ったがもう遅い。振り返るとそこには腰に手を当てて怒りを表す四季様がいた。珍しいことだが、出勤してきたばかりなのか、四季様は白のシャツに黒のタイトスカートという私服(というか通勤用の服?)だった。あの荘厳な装飾が施された制服を着ていない分、いつもよりやや貫禄がないように見える。
「あなたはまたそうやって必要もないのに能力を使って楽をしようとしているのですか」
「し、四季様、これはですね……」
「言い訳は無用。そこに正座しなさい。それからあなたはもう行きなさい」
書記の死神はよっぽどお説教が嫌だったのだろうか、四季様の言葉を聞くと逃げるように立ち去って行った。あの子も共犯なのに。しかも廊下に正座って足が痛くて仕方ない。
「いいですか小町。あなたの能力は遅刻しそうなときに使う便利なアイテムではないのです。三途の川で死者の魂を運ぶために使うものです。しかも自分だけならまだしも、他の者を巻き込んで共犯にしようとするのは感心しませんね。そもそも遅刻しそうな時間に来ること自体がいけないのです。時間に余裕を持って行動しなさいといつも」
「あのう四季様」
四季様のありがたくないお説教よりもとても気になることがあたいの中にあった。それをどうしても四季様に伝えなければならないように思えたのだ。
「何ですか。お説教中に口ごたえとはいい度胸ですね」
上から見下ろすようにこちらを睨み付ける四季様にはとても言いにくいことだった。が、言わなければ重大なことになるように思えたあたいは、意を決して四季様にその旨を伝えた。
「四季様、九時から裁判が始まると思うんですが、お時間大丈夫ですか? まだ着替えてもないようですけど」
あたいの言葉に四季様はきょとんとした表情を見せる。そしてスカートのポケットから時計を取り出して時刻を確認すると、口を開けたまま固まってしまった。
今更気が付いたけど、ここは裁判長室前だ。そしてあたいは一時間ほど前からずっとここにいて、四季様はついさっきやってきた。これはつまり……。
「ど、どうしてそれを先に言わないのですか!」
「なっ、あたいのせいじゃないですよ。四季様が遅刻したんじゃないですかあ」
四季様は顔を赤く染め、手をぶんぶん振り回してあたいに怒鳴った。閻魔様とは思えない責任転嫁だった。
「私には小町をお説教する義務があるのです! どうしてよりにもよってこんな日に! ああ! 裁判開始まであと十分しかない!」
四季様は裁判長室の鍵を素早く開けて中に入った。荷物を投げ捨てるやいなや、すぐにロッカーを開けていつもの制服に着替え始める。
あたいは四季様が慌てふためく姿が面白くて、自分の仕事の時間を忘れてその様子を眺めることにした。
「あと九分四十秒……。持ち物は書類と鏡と……もう! 何故この制服はこんなに着にくい構造をしているのですか! これは後で上の方に報告確定ですね!」
ここから裁判所までは急いでも五分以上かかる。裁判所自体が少々特殊な場所に設置してあって、外部の者が場所を特定しにくくなっている。
仮に六分で到着するとして、あと三分弱――。四季様はやっと制服の上着を着たところだった。
「小町。あなたはもう行きなさい。ちゃんと自分の足で能力を使わないで行きなさいよ」
「大丈夫です四季様。三途の川に置いてある船まではここから徒歩二分足らずですから」
「近くて羨ましいですね!」
あたいは応接用と思われるソファにゆったりと腰かけ、壁にかかっている時計を見た。
「あと七分三十秒……。これなら間に合う」
「寝坊でもしたんですか四季様」
あたいは想像以上に柔らかいソファでつろぎながら四季様に問いかける。四季様は怒っているような口調で答えた。
「自宅からここまで来る間に不届きものがいまして、五人ほど説教していたのです」
「やりすぎですよ」
「見逃すわけにはいきません」
「自分が遅刻したら元も子もないじゃないですか」
「誰が遅刻なんてするもんですか。あと七分。裁判所までは五分あれば到着します」
「知り合いの子は五分じゃ無理って言ってましたよ」
「私は裁判長ですから、書記の子とは別のルートを持っているんですよ」
「何かずるいですね」
四季様の準備は意外と時間がかかった。デスクの引き出しから何やら書類のようなものを取り出していた。
あたいは普段着で仕事をしているから着替えなんてしないし、更衣室でやることと言えば、死者から徴収するお金を入れておくための袋を持って行くくらいだ。
四季様が荷物を持って立ち上がったのは九時の六分前だった。
「何とか間に合いそうですね。ほら小町、もう出ますから仕事に行きなさい。鍵を閉めますよ」
あたいはソファの柔らかい感触を惜しみながら立ち上がった。四季様がデスクから出入り口に向かう。その姿を目で追うと、とても奇妙な光景が目についた。
「四季様、そのスカートは私服では……」
「あっ……」
四季様は上だけ着替えて下はタイトスカートのままだった。厳かな上半身には不釣り合いな下半身。上だけ仮装しているようにも見えた。
「あああああああああああああああああああああっ!」
廊下にまで響いていると確信できるほどの大音量だった。とっさに耳を塞いだ。普段冷静な四季様がまさか叫ぶとは思わなかった。
「小町のばかっ!」
「な、やつあたりですか!?」
四季様はかばんをあたいに投げつけ、スカートを履き替えるために再びロッカーに向かった。普段は見られない四季様の慌てっぷりが、あたいにとってはだんだん面白くなってきた。
再びソファに優雅に座りながら四季様の着替えをにやにやと見ていた。時計の針は九時五分前を指している。もっとも、裁判長室の時計が正確かどうか、あたいには知るすべがなかった。もしかしたらあの時計は五分遅れていて、今ごろ裁判所では裁判長不在で開廷待ちとなっているかもしれなかった。
「四季様。あの時計って合ってます?」
「五分早かったらどんなによかったでしょうね!」と四季様は乱暴に言った。
「合ってるんですね」とあたいはにやけながら言った。
四季様がやっと制服のスカートを履き終えたのは九時四分前だった。
「小町。あなた今、私の慌てる様子を面白がっていましたね。仕事が終わったらお説教です。さあ、今度こそ行くわよ」
あたいからかばんをひったくると、四季様はあたいの腕を引っ張って外に追い出した。鍵を素早くかけると裁判所の方へ向かう廊下を走り出す。
風を切るように廊下を走り抜ける四季様の緑髪がひらりと揺れた。よく見ると寝癖が完璧に直っていない。頭頂付近にぴょこぴょことはねるアホ毛が……。
あ、四季様、帽子忘れてるんじゃ……。
あたいは四季様が帽子を取りに戻るのに要する時間を瞬時に思考した。約二十秒――。
恐らく今の四季様には致命的な時間だろう。
しかし帽子をかぶらずに四季様が裁判所に行ったらどうなるだろう。そもそも帽子をかぶっていないことは問題にならないかもしれない。あるいは、いつもと違う裁判長の姿を見た書記の子達の間に気まずい空気が流れるだけかもしれない。
いや、それ以前に。帽子をかぶっていないことに気づいたとき、四季様はどう思うだろうか。自分のミスを恥じるだろうか。それとも何も言わなかったあたいにやつあたりするだろうか。
今日の四季様の態度を見る限り、何だか後者になりそうな気がしてきた。
「四季様!」
「もう何ですか!」
四季様は曲がり角を曲がるぎりぎりのところで立ち止まった。あたいは廊下中に響き渡るような大声を出して言った。
「四季様の髪の毛はいつ見ても素敵ですね!」
「な、な、そんな、そんなことを言うためにわざわざ――」
四季様はそこで口を止めた。そして何かを悟ったように目を見開くと、ゆっくりと自分の頭に手を置いた。
わしゃわしゃわしゃと三回、自分の髪の毛を撫でた後、四季様は絶望したように廊下に膝をついて倒れこんでしまった。
あたいは四季様に駆け寄った。
「四季様! 大丈夫ですか!」
「終わった。何もかも終わったのよ」
四季様は不敗神話を守ってきたボクサーが負けたときみたいなセリフをぶつぶつと呟いていた。目は虚ろで何も見えていないようだった。
「そんな、遅刻くらいでおおげさですよ。四季様が遅刻しても誰も咎めるようなことはしませんよ」
「いけません。私自身が許さないのです。遅刻なんてものは最も恥ずべき行為です」
四季様は廊下に座り込んでふさぎ込んでしまう。いつもの威厳はどこへやら、あたいには遅刻して落ち込んでいる少女にしか見えない。
そんな四季様は見ていられなかったあたいは、一つの案を思いついた。これならいける、と確信した。
「まあ、まだ一つだけ手があるんですけどね」
「何があると言うの。どうしたって今から九時までに裁判所に行くのは物理的に不可能よ。光の速さで動けるのならまだしも」
四季様はがっくりと項垂れていた。完全に諦めているようで、投げやりな態度を取っている。あたいはそんな四季様の肩に手を置き、にっこりと笑顔を作った。
「あたいの能力をお忘れですか? 四季様」
「小町の……はっ――」
四季様は数秒で気づいたらしく目を見開いた。
そうですよ四季様。あたいの能力は『距離を操る程度の能力』。元はといえば死神の仕事を始めた時にもらった能力だけど、実は三途の川以外でも普通に使うことができるのだ。
この能力を使えば、この場所から裁判所までの距離を操り、十秒以内で到着することが可能である。物理法則なんて概念を超越した能力なのだ。
「さすが小町ね! やはり私が見込んだ部下だわ!」
さっきの落ち込んだ顔はどこに行ったのか。四季様は目をキラキラと輝かせながら立ち上がった。そして嬉しそうに私の肩をポンポンと何度も叩いた。こんなに嬉々とした表情を見せる四季様は珍しかった。
月曜に早く来るのも悪くないなとあたいはひっそりと心の中で呟いた。
「四季様、今何時ですか?」
「八時五十七分です。あなたの能力を使うとどれくらいで着くのですか?」
「十秒以内です」とあたいは親指を立てながら言った。
四季様は神様にお祈りを捧げるときのようなポーズであたいを見つめた。閻魔に崇められるとはなかなか貴重な体験だ。
「それでは早速ですが、小町、私を裁判所まで連れて行ってくれますか?」
「勿論です四季様。四季様の名誉のために能力が使えるなんて光栄ですよ」
あたいは四季様の手を握った。四季様は驚いたようにこちらを見る。同時にアホ毛がぴょこんと跳ねた。
「ちょ、小町ったら、いきなりそんな……」
「何照れてるんですか」
「だって小町が」
「あたいに触れてないと一緒に裁判所まで行けないですよ」
「な、なら仕方ありませんね……」
あたいは四季様の手を離さないように強く握った。すると四季様は何を思ったのかぎゅっと握り返してきた。いや、そういうのは別にいらないんですけど。
物理的概念を超えるまさに超能力を使おうとしたその時、あたいはこの光景に既視感を覚えた。
あれ、これは確か……。
「どうしたのですか小町」と四季様は不思議そうにこちらを見つめる。「すぐに着くとはいえ、早く行けるに越したことはないのですから」
「いや、あの、四季様……。一つとても気になることがあるんですよ」
「何かしら?」
四季様はそう言って首を捻った。なんと四季様は覚えていないらしい。つい十分ほど前の出来事なのだけれど。
あれは十分ほど前、あたいが知り合いの書記の死神の子と会話を終えた時のことだ。
あたいはもう一度だけ四季様を見つめる。四季様は不思議そうにこちらを見つめ返すだけだった。
黙っておいたほうがいいのだろうか。それとも言わなかったら後で文句を言われるのだろうか。
いやいや、さすがにそれは難癖だろう。あたいが能力を使わなければ、四季様は遅刻確定なんだから。
「言いたいことがあるなら曖昧にせずにはっきりと言いなさい小町」
「なら言いますけど……。四季様はさっき、あたいの能力は遅刻しそうなときに使う便利なアイテムではないとか言ってませんでしたっけ」
口をぽかんと開けたまま四季様の表情が固まった。そしてあれこれ策を思考しているときのように目をキョロキョロと動かした。
これはもしかして困ってるのだろうか。そう思ったあたいは面白そうな予感を覚え、追撃することに決めた。
「あの時はだめって言ったのに自分のときだけはいいんですか?」
「…………」
「四季様の発言はそんなに軽いものだったんですか?」
「…………」
四季様は何も言い返してこなかった。万事休すかもしれない。必死に何かを考えている様子だけど。
そもそも数分くらい遅刻していけばいいのにとあたいは思うけれど、そこは四季様の性格が許さないのだろう。では、いけないと言ったあたいの能力を使って遅刻を回避することと、そのまま行って遅刻することとを天秤にかければ、どちらに傾くのだろうか。
四季様は恐らくこの二択で悩んでいる。あるいは第三の選択肢が四季様の中にあるのかもしれないけれど、あたいには思いつきそうにない。
「四季様……?」
「小町。再度確認ですが、裁判所までは十秒で着くのですね?」
「そうですけど、あたいの能力は遅刻しそうなときに使うものでは」
「いいですか小町。あなたはよく仕事をさぼっていますね」
四季様は腰に手を当てていつもの説教ポーズを取りながら言った。
「え、は、はい……」
「仕事をさぼることは悪行です。このままその勤務態度を続ければ、死んだときに必ず地獄行きになるでしょう」
「いや、あたい死神だから死なないですよ」
あたいの言葉で四季様のお説教モードの表情が少し崩れる。というか四季様、意地でもあたいに能力を使わせて遅刻を回避する気ですよね。やはり遅刻は重罪ですか。
「あなたが死んだときは私が必ず地獄行きの判決を下します」
「いやだからあたい死なないんですけど」
「小町!」
「はっ、はい……」
「死んだあとにどうなるかではないのです。そもそも仕事をさぼること自体がいけないのです。死者が運ばれてこないと裁判ができない。私や裁判の書記にまで迷惑をかけることになるのです。そう。あなたは少し迷惑をかけすぎる。いつもいつも上司に迷惑をかけている。あなたには上司が困っている時に助ける義務がある。分かりますね?」
「理論が破たんしていて四季様らしくないです」
あたいは長々としたお説教を一言で一蹴した。すると四季様は「小町……あなた……」と呟きこちらを見つめてきた。その目には微かに涙が浮いているようにも見える。
やばい。四季様が泣きそうになってる。かわいい。
でもこれ以上はさすがに四季様がかわいそうだ。それにやりすぎると今度文句を言われるかもしれない。もとは四季様に意地悪をしたいわけではないのだ。
あたいは四季様の涙目を見られただけで満足し、能力を使うことにした。
「分かりましたよ。四季様風に言えば、これがあたいが今積める善行ってことですよね。さあ、行きましょう」
あたいは四季様の手をもう一度強く握る。四季様は救われたような表情であたいの手を受け入れた。もう片方の手で必死に涙を拭き取ろうとしているのをあたいは見逃さなかったけど。
四季様の時計を見るともうすぐ八時五十九分になるところだった。あのまま口論を続けていたら結局間に合わなかったなんてオチになるところだった。危ない危ない。
「行きますよ。ほいっと」
言語では説明できない超能力を使い、あたいと四季様は裁判所までの空間を移動した。十歩ほど歩いたころには目の前に裁判所があった。
「はい、着きましたよ四季様」
「感謝します。小町。これは私とあなた、二人だけの秘密です。一切他言無用ですから、分かってますね?」
「分かってますよ。四季様があたいに説教しておきながら自分が遅刻しそうになったときに能力を使わせたなんて誰にも言いません」
敢えて嫌味っぽく言うと四季様はじっとりとした目で睨んできた。何か言いたげに唇の端を動かしている。
「また二人だけの秘密ができましたね」
「誤解が生まれそうな言い方は止めなさい」
「あたいにお説教している時間はあるんですか?」
四季様は腕時計を確認すると、またこちらを睨んできた。あたいは皮肉を込めて微笑みを返す。四季様を相手に優位に立てるというのはなかなかいい気分だった。
四季様はあたいに背中を向けて歩き出した。そして裁判所の入り口で足を止めると、こちらを振り返らずに言った。
「今夜の予定は空いてますか?」
「ええ、空いてますが」
「私は午後九時まで仕事なので少し遅くなりますが、仕事を終わらせたら一緒に飲みませんか」
「おごりですか?」
「今回のことに対するお礼です」
「それなら、ぜひご一緒させてください」
四季様の頭が少しだけ動いたような気がした。フッと笑ったようにも見えたけど、向こうを向いていて表情は分からなかった。
「ありがとう小町。あなたも早く仕事場に行きなさい」
四季様は最後まで振り返らずに裁判所の扉を開いて中に入っていった。その背中にはさきほど慌てていた様子は微塵も感じられない。いつもの尊厳ある背中だった。
あたいは四季様の言う善行を積んだような清々しい気分で四季様を見送った。
「あっ……」
重厚な扉が閉まる直前、あたいはとんでもないことに気づいてしまったが、あたいが手を伸ばす頃にはその扉は重々しい音を立てて閉じられた。
「四季様、結局帽子かぶってないじゃん」
四季様のあのアホ毛が裁判の度にぴこぴこと跳ねる様子を想像し、あたいはにやにやしながら仕事へ向かったのだった。
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仕事終了後、あたいはやっぱり四季様にお説教された。四季様は涙目で顔を真っ赤にしながら怒涛の勢いであたいに向かって叫んでいた。
でもアホ毛がまだ直っていなかったので、あたいはお説教中ずっとそのアホ毛の挙動を眺めていた。笑いをこらえるために顔の筋肉がつりそうだった。
四季様の動きに合わせてぴょこぴょこ跳ねるアホ毛のせいで、四季様にはカリスマの欠片もない。
あたいは四季様の尊厳をいつも保ってくれている、あのごてごてした荘厳な帽子に対し尊敬の念を抱くばかりだった。
でもイレギュラーに弱そうな印象はある。
実際問題、二交代制なのだから(この話では、四季様9:00〜18:00、相方18:00〜9:00)多少遅れたって構わないとは思いますがね。
小町はニヤニヤを引き起こすスペシャリストですね。(ニヤッ
アホ毛かわいいよアホ毛
小町のからかい癖が本当におかしく描かれていて。素敵。
それと後書きに心底同意します。自戒として覚えておきたい。
えーき様矛盾してますネタはいいですね。読んでいるとニヤニヤが止まらないです。