チリン……
その足が地面に着くと、可愛らしい音が響いた。
賽銭箱の前に座り込む霊夢の膝に、猫が一匹。フワフワな毛にはオレンジ色の模様が柔らかく浮き出ている。
ミャーオ
鳴き声は低めで、しかし間延びしたような響きは霊夢の膝が相当心地良いのだろうと簡単に想像できた。
そんな猫の頭を、霊夢は微笑みながら背中まで毛繕いするかのようにゆっくりと撫でる。猫が気持ち良さそうに身じろぎをする度に、首輪についている鈴が軽く音を立てる。
このほんわかとした昼下がり、黒髪の巫女が猫と触れ合うという絵になる光景を、つまらなさそうに見つめる二人がいる。
「まったく、霊夢がそいつに夢中なせいでどうにも盛り上がらん」
黒白の衣装にトレードマークのとんがり帽子はあまりにも有名、魔理沙は霊夢の真正面に仁王立ちしていた。多少階段があるせいで霊夢から見下ろされる位置だが、触ろうと思って手を伸ばせば霊夢の頭に当たってしまいそうな程近い。
霊夢は、魔理沙の不機嫌そうな声色を聞いても猫を愛で続ける。魔理沙は、かなり長い付き合いのある友人がパッと出の猫に盗られていたように感じて面白くない。
そしてもう一人。
「魔理沙が来たからにはなにか面倒事が起きるんじゃないかと楽しみにしてたのに……まさかこんな方向で面倒になるなんて」
無表情、仮面を顔の傍や体の周りに浮かべ、腕を組み嘆息するのはこころだ。魔理沙の肩越しに霊夢を見ている。仮面は分かりやすく、口をへの字にしていかに機嫌が悪いか一目瞭然になっている。
「仕方ないじゃないの、可愛いは正義なのよ」
霊夢が顔を上げずに言った。ミャオンと猫が小さく鳴くと、そんなに気持ちいいのかーとにやけていた頬をさらに緩めておどけて見せた。猫の柔らかい肉球が霊夢の頬を撫でるように叩く。それに対して霊夢は一段と笑みを深める。そんな一人と一匹を見て、魔理沙とこころは肩を落とした。
なぜ霊夢がこんなに猫にご執心なのか、そしてこの猫はいったいどこから来て何者なのかを単純に言えば、迷いこんだとしか言いようがない。霊夢が境内を箒で掃除しているところに魔理沙が遊びに来て、最近宴会もなく退屈でそわそわしていたこころが便乗して合流した。
しかしそうそう問題が起きるわけも、魔理沙が面倒事を運んでくるわけもなく、こころは落胆した。霊夢はいつもの事となにも感じず、いつも通りまったりとお茶をいただく時間にしようかと思った矢先に、猫が現れた。
霊夢はその猫を一目見て大層気に入ったらしく、人を見ても逃げようとしないその猫を優しく抱きかかえ、じゃれ合い始めてうちに現在に至る。
魔理沙とこころの二人が霊夢に白い目を向けるが、特段霊夢が悪いわけではない。約束をしていたわけでもないし、緊急の用事があるわけでもないただの暇潰しに二人が来ただけだ。自分勝手ではあるが、強引に霊夢の気を引かせることをしないだけましと言えるだろうか。
「ハァ……それじゃあそろそろ私は出ていくぜ」
「あら、もう帰っちゃうの?」
魔理沙が霊夢に背を向けると、霊夢は意外そうに魔理沙に聞いた。このときは魔理沙の背を見ていた。
「猫と戯れる霊夢を見ても面白くないし、さとりとババ抜きやってる方がましだと思ったからな」
「ふーん、あっそう」
霊夢はそれを聞くと、魔理沙に興味を失ったのかすぐさま猫に視線を戻した。
魔理沙は振り向かないが、霊夢の様子を察したのだろう、肩を落としながら複雑そうに視線を泳がした。
「まあしょうがないよ、また来たら?」
こころが魔理沙を励ますように言う。魔理沙はこころに力無い笑顔と軽薄な敬礼で返し、箒にまたがると、地面を蹴り、大空を飛び回
ることはなく躓いたように前のめりになり、受け身を取ろうとしたときにはもう遅く、地面と熱い口づけをするはめになってしまった。
「わぶっ!」
「大丈夫魔理沙!?」
「ちょ、魔理沙!」
派手に転んだ魔理沙に、さすがの霊夢も猫を膝から下ろしこころと一緒に魔理沙に駆け寄った。
「いてて……別になんともないぜ」
ムクリと魔理沙が起き上がる。唇が切れていたり、おでこが赤かったりするが、それ以外に大した外傷もないようだ。
「ちょっと、どうしたの。見たところ飛行魔法に失敗したようだったけど」
こころが魔理沙の頬についた砂利を払いながら言う。その仮面は獅子口に変わっていて、動揺を示している。
「飛び方でも忘れたのかしら?」
さっきまで心の底から魔理沙を心配しているように必死な表情だったのに、霊夢はいつもの通りだ。魔理沙がこんなことではへこたれないということが分かっているからだ。そんな霊夢だが、魔理沙の唇の傷から滲む血を拭き取ろうとポケットからハンカチを取り出した。
しかしその魔理沙は、尋常じゃない様子で自分の手を見て、そして自分の足元を見る。そして小さく指を振り、指先をじっと見つめる。こころは無表情で、霊夢はそれを怪訝そうに見つめる。
「ま」
『ま?』
「魔法って、どうやって使うんだっけ?」
それは、音も無くやってきた。
「な、何を言っているのかしら魔理沙。冗談ならともかく、あんたほんとに空の飛び方忘れたの?」
「い、いや、空の飛び方だけじゃない。細かい魔法類も全部ダメだ」
魔理沙が声と肩を震わせる。その目は不安と恐怖に見開かれていた。
霊夢の背に嫌な汗が流れる。こういうときに限って、あるものが働き始める。博麗の巫女としての勘。異変を解決するために動き出す、その合図。
魔理沙がポケットから八角形のものを取り出した。いつも魔理沙が肌身離さず持ち歩くそれは、魔理沙の半身と言ってもいいものだ。しかし、
「えーっと、これ、なんだっけ」
「……八卦炉でしょ」
「なんで霊夢が知ってるんだよ」
「なんで魔理沙が知らないのよ、おかしいでしょ。あんたの宝物でしょ?」
「そりゃそうなんだが……これもどうやって使うんだっけ……」
「……」
魔理沙はそのまま八卦炉に夢中になり、霊夢のことを眼中から追い出してしまった。
霊夢の注意を引くためのジョークかもしれないし、一時的に魔理沙の脳が混乱していると捉えることもできる。とはいえ、霊夢もこれが単に魔理沙が頭を強く打っておかしくなったと片付けるつもりはない。巫女としての勘がヤバイと囁いているのを霊夢は聞いたからだ。
もしかしたら魔理沙だけではないのかもしれないから、早めにここを出発しなければならなさそうだ、と霊夢は心に決める。
「ちょっとこころ、魔理沙を頼むわよ」
霊夢がこころに真剣な眼差しを送る。今の魔理沙を放っておくのが霊夢には不安で、こころという心強い護衛をつけておきたかった。
「……」
だが、そのこころも、嫌な雰囲気を纏っていた。勿論霊夢のとって嫌な、という意味である。
「……こころ?」
「むむむ……」
「なに自分のお面を不思議そうに見つめてるのよ。……やめて欲しいんだけど、そういうの」
自分の回りに浮かぶ無数の面の一つを手に取り、面に穴が開くのではないかというほど見つめるこころ。この面、作者の顔に似せて作ってあるらしいが、もう少しマシにならなかったのかと思うほどひどい造詣だ。まあ辛うじて面影は残っているが、誰も聖徳王が作ったものだとは思わないだろう。
こころはそれを近づけたり遠ざけたり、裏返したり太陽にかざしてみたりした。
その姿はまるで奇妙なものを始めて見る探検家のようで、しかしその表情は渋かった。こころは仮面を片手に持ち替え、力強く頷いた。
そしてフリスビーの要領でそれを投げ飛ばした。それも生半可な回転ではない。仮面は猛回転しながらそのまま茂みのなかに消えていった。
「気持ち悪い」
「いやあんたのだから捨てんなそれ!」
吐き捨てるように言うこころに霊夢が思わず突っ込みをいれる。気持ち悪い、というかいい感情を持てないところには概ね同意な霊夢だが、希望の面に関わる異変をついこの間解決したばっかりである。その苦労は繰り返したくない。
「あんな気色悪いの私のなわけ無いじゃない」
「あれがなきゃ大変なことが起きるの! さっさと拾ってきなさい!」
「えー」
「えーじゃない!」
鬼気迫る霊夢の気迫にこころが折れた。面倒くさそうに、本当にめんどくさそうにこころが仮面を探し始める。
最初は魔理沙を見て真似しだしたのかと思った霊夢だが、こころの振る舞いはどう見ても素だ。しかも、希望の面云々でこころ自身も大変な思いをしたはずだ。そう簡単に捨てられるものじゃない。
これは早く解決しないといけない、そう霊夢は決心した。
そうと決まれば出発だ、というところで、エプロンドレスの端が霊夢の目にとまった。彼女の名を呼ぼうとするが、とてつもない違和感が霊夢を支配する。
「……? ……、……名前なんだっけ」
目の前の黒白な少女の名前が出てこないのだ。何年一緒にいるかわからないほど一緒にいる親友のはずなのに、なぜだろうか、霊夢の完全に頭から抜け落ちてしまっている。
「おいおい冗談がきついな、私の名前は……なんだっけ?」
「あんたも一緒じゃないの」
自分の名前さえ思い出せないのは明らかに異常である。霊夢はツッコミをいれながら微かに不安を感じ、彼女の名前を自問してみる。だが、紅白の巫女である彼女も同じ結果に陥ってしまう。
落ち葉を燃やしたときに発生する黒い煙のようなモヤモヤが霊夢の胸に溜まる中、霊夢は自分の傍にある物体が浮遊していることに気がついた。
「なにこのモノクロ」
半分ほどで曲線に白黒が分けられた模様をしている球体が、ぴったりと霊夢にくっついてくる。いわゆる陰陽玉という霊夢のオプションなのだが、彼女の目にはまったく未知な存在として写っている。
指でつついたり握ってみたりドリブルしたりするが、いまいち用途がわからない。試しに投げたりぶつけてみたりしようと思っても、もしかしたら爆発するかもしれないという恐怖のため、なかなか手を出すことができず、霊夢は扱いに困っていた。
「ま、いっか」
いくら思い出そうとしても欠片も思い出せないので、そのうち霊夢は思い出そうとすることをやめた。
「お茶でもいれましょ」
そして自分が今さっきまでしようとしていたことすら忘れ、社務室に向かうのだった。
「ちょっとお待ちなさいな霊夢」
「うわぁ!」
その行く手を阻むように、空間が横に裂けた。比喩でもなんでもなく、三次元世界に二次元が存在するような異質。そこから導師服のようなドレスを来た金髪の少女が姿を現した。
「だ、誰よあんた! ていうかなんでそんなところから人が!?」
「誰よとは失礼ね、八雲紫よ! あと私は妖怪! ついでに言えばパートナーみたいなもので……」
「いやいきなりベラベラ喋り出されてもあんたのことまったくわからないんだけど?! 上半身だけ見えてる人とか関わりたくない部類なんだけど!」
「漫才してる場合じゃないの! とてつもない異変が起きてるわ。早く解決しにいかないと」
どうやら紫のことを忘れ去ってしまっている霊夢は、目の前にいる紫を奇人、もしくは理解の外に存在する魔物と判断してしまっている。紫の言うことを聞く気がまったく汲み取れない。
無理もない、と紫は思うものの、焦らざるを得ない。魔理沙や霊夢だけでなく、至る所で同様の現象が起きていることを紫は知っているからだ。記憶が、経験が、次々と消えているという全く恐ろしい事態が。
例えば紅魔館のお嬢様が使用人や親友の顔を忘れて暴れまわったり、紫の式が彼女の顔を忘れてひどい仕打ちをしたり、三途の川の死神が仕事そのものの存在を忘れていたり、白狼天狗が将棋のルールを忘れたり、地獄烏が八咫烏が憑いていることを忘れていたりという異常事態が。
「異変? なんで私がそんなのに付き合わないといけないの」
「あ な た が 博 麗 の 巫 女 だ か ら で し ょ。もう既にそんなことも忘れたの?」
「うーん……まったく心当たりがないわね」
「……まずいわ」
紫がいよいよ頭を抱え始めた。肝心の霊夢がこれではいつまでたっても異変が解決できない。辛うじて紫は持ちこたえているものの、この幻想郷を巻き込んだ異常に絡めとられ、いつ自分の記憶が消え始めるのかわからず、早くこれを解決してしまいたい、と彼女は焦っていた。
「ともかく、これを見なさい」
紫がスキマから完全に身を出すと、その中を指差した。霊夢は不審に思いつつも、そっと覗きこんだ。
「……どういうトリック?」
霊夢は、自分がまったく別の場所を見ていることに疑問を抱いた。彼女が今見ている景色は、湖の畔、なにやら綺麗な石なんぞが集まっているところだった。
「……やっぱりそこから説明が必要なのね」
空間と空間を繋げただけのことではあったのだが、今の霊夢には理解ができていない。しかも、繋がった先の場所のことまで覚えていない。重症だ。
紫は、霊夢が納得するかは別として簡潔に説明を始めようとする。
「あ、なんか浮上してきた」
しかし、霊夢はそんな紫を無視してスキマの中を覗いている。霊夢たちの向こう側、霧の湖に動きがあったようだ。それに彼女が興味を持ったらしい。霊夢もとりあえずスキマへの怯えを捨て、そこに写る光景に集中することにした。
人目につきにくい霧の湖の一角の水面が揺れる。魚のような、人間のような、どちらともつかないシルエットが一直線に泳いでいる。
ついに水中に漂う影がだんだんと濃くなり、青髪の少女が頭を出した。
「スー、ハー」
少女が肺の中身を入れ換えるように深呼吸をする。そしてキョロキョロと辺りを見回し、首をかしげた。
「……ここどこかしら」
水面に浮かぶ少女はなにか目的を持ってここに来たはずだが、その用事も思い出せていない。というか、彼女の見覚えに無い場所だ。しかし、
「なにこれ!」
少女が嬉々とした声色で叫んだ。辺りから隠されたような地形で、あまり動物も立ち寄らなそうなこの場所に自分好みの綺麗な石がこれでもかというほど集められていたのだ。
彼女はわかさぎ姫。頭からヒレのようなものが生えていて、緑の着物の下から出ている足はまるで魚。いや、完璧な魚。そう、彼女は人魚なのだ。
わかさぎ姫は色々な石を手にとって、その感触を確かめる。表面が水に削られ極限まで丸くなり艶が出た石、形は歪だが透き通るような淡い色が光に照らされ浮き上がっているように錯覚される石、人の顔に見えなくもない変な形の石。
頬擦りをしたり、撫でたり、頭にのせたり、仰向けになってお腹にのせてみたりして十分楽しんだ後、
「すごい! 今、私すごい幸せよ!」
目を輝かせながら大声をあげた。
いずれもその少女がどこかで見たような気がするようなものばかりだが、そんなものは関係ない、といった具合に石をかき集める。
さて、そろそろ回収した自慢のコレクションになるだろう品々を保管するためにわかさぎ姫が自分の保管庫に戻ろうとしたその時、
「……どこだっけ?」
そう呟いた。
わかさぎ姫は家というものを持ってはいないが、大切な石をしまっておく場所は確保してある。盗まれないように慎重に場所は厳選したはずなのだが、それがどこなのか、すっかり頭から抜け落ちて住まっている。
そして実際は、本当は、自分のコレクションを並べておく場所だったこのスペースを呆然と眺めて、思い出せないという恐怖に思わず目を潤ませるのだった。
「おーいなにしてるのー、えーっと……」
あと少しで目尻から涙が溢れ落ちるというとき、わかさぎ姫に、彼女の頭上から声がかけられた。わかさぎ姫が反射的にそちらを見ると、つやつやの赤黒いような茶髪に、頭に生えた獣耳、動きにくそうなロングスカートをがくっついているドレスを着た少女が崖の上からわかさぎ姫を覗きこんでいた。彼女の名は今泉影狼というのだが、
「あ……」
わかさぎ姫の友人で、よく会っているはずなのに、わかさぎ姫の口から咄嗟に名前が出てこない。だが、それは影狼も同じなようだ。手を振ろうとして挙げられた影狼の腕が中途半端に止まり、しきりに首を傾げたり、必死に頭を巡らせて視線を遥か中空に投げ掛けている。
とっさに名前が出てこずに詰まる二人だが、影狼が崖を駆け降りてきた。その間も必死にわかさぎ姫の名前を思い出そうとしているのだが、どうにも浮かんでこない。
互いに指を指して、酸欠状態の魚のように口をパクパクと動かしているが、声を出すことができずにいる。
影狼は痺れを切らし、とりあえず勘を頼りにわかさぎ姫の名に辿り着こうとした。
「……マタタビ姫?」
「なんか猫が群がってきそうな名前ね。違うわよ」
「逆巻き姫?」
「何に逆らってるのよ。その痛みに反逆しますとかそういうのかしら」
しかし、ヒントも無しに正解を導き出すことは難しかったようだ。
「そんなに言うならそっちこそわかってるんでしょうね」
影狼がわかさぎ姫を睨む。
「……勿論。小泉卓郎でしたっけ」
「誰よそれ! というかそれ女の名前じゃないし!」
「今隅一夫だったかしら?」
「どうして男性の名前ばっか出てくんの! そっちこそやっぱりわかってないんじゃない」
わかさぎ姫が堂々と間違え、影狼が呆れたように肩をすくめた。
「な、なによー!」
それを見てわかさぎ姫がムッとなった。
「ぐぬぬ……!」
影狼もそれに応える。しかし、端から見ると、彼女たちの可愛らしい容姿と雰囲気も合わさって、じゃれあっているようにしか見えなかった。
「……こう、いまいち緊迫感がないというか、かわいいっていう感想しか持てないんだけど。あと人魚っぽいわねあの青い方。獣耳は……コスプレかしら」
「……いや人魚ですし、もう片方も人狼ですし」
霊夢が紫の方に振り返って言う。前半は紫も同じ感想だったため、あまり言い返すことができない。
「ちょっと場所が悪かったわね、じゃあここならどうかしら?」
と紫が言ってスキマに触れる。するとスキマの中が一瞬暗くなり、数多の目玉が一斉に見開いた。
「ひっ……」
霊夢が肩を震わせる。目玉が相当怖かったのだろう。それを横目に見て紫は一つため息をついた。
「さ、早く」
紫が、見えるものが切り替わったことを合図しても霊夢は小さく震えるだけでスキマに近づこうとしない。
しょうがないわねぇ、と紫はスキマを広げ、霊夢が動かなくても大丈夫なように調節する。向こうで見られている方にも気づかれやすくなるリスクはあるが、今はかれこれ言っていられない状況だ。
スキマの向こうには、人里から少し離れた森の中の道を歩く人影があった。
彼女の背は、萎れてしまっているかのように縮こまっている。手は重力に従いぶらぶらと垂れ下がり、その足取りは重い。
おかしい、何かがおかしいと、彼女、赤蛮奇は違和感を感じていた。首が隠れるほどの襟を持つマントに問題はない。黒い服と赤いスカートになんの異変もなさそうだ。つまり、服装が原因というわけではない。
「でも……なんというか、こう安定感がないというか、頭が宙に浮いてるみたいな感じがしてるんだけど……」
一歩一歩踏み出す度に体が蛮奇の脳に異常を訴えてくるのだ。酒を飲んだ後のような、二日酔いのような、平衡感覚がおかしくなっているのか、どうにも地に足が着いていないような錯覚に彼女は陥っている。
たまたま立ち寄った甘味処の店主が自分の注文をすっかり忘れていて、その事に激怒して飛び出してきた蛮奇だったが、自分も何か大事なことを、自分の根幹に関わることを忘れている気がしてならない。その大事なものがなかなか出てこないことと、どうにもならない空白感に、蛮奇は苛立ちを覚えていた。
「ああもう! とっとと出てきなさいよ、このバカヤロー!」
気持ちが高ぶり頭を掻き毟らずにはいられない。自分で自分の記憶に突っ込むを入れる姿は少し痛いものであったが
「おーどーろーけー!」
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAA!」
「ひぃっ!」
木々に留まっていた鳥たちが逃げ出し、人里にまで届こうかという悲鳴。精神的に参りかけていた蛮奇は、紫色の地に大きな目玉がついている光景に心底驚き、腰を抜かしながら叫ぶしかなかった。
驚かせた張本人、全体的に水色で淡い印象を受ける衣服を着た多々良小傘も、相手の悲鳴に逆に驚かされ、両手をあげ左足をあげたままという妙な格好で固まってしまっている。
蛮奇が人里を出た時点で尾行し始めていた小傘。強そうな奴、例えば異変を解決するような人間や、大妖怪を驚かすことは、丸裸になり猛獣の檻の中にタレも添えて寝転ぶようなものとわかっていた彼女は、何となく弱そうな相手を探していた。
そして蛮奇に目をつけた小傘だが、やはり小心者というか、これまでの経験から自分が驚かそうとしていることが相手にわかっているんじゃないかと疑心暗鬼になり、どうにもチャンスを見出だすことができなかった。
そして蛮奇が叫んだことにより、彼女が自分の潜伏を見破った、と勘違いした小傘が出ていったところ、どういうわけか成功した、というわけだ。
実際は、自分に記憶を引き出したがっていた蛮奇と、やけくそになって出ていった小傘と、互いの思惑は食い違っていたわけだが。
へたりこんでいる赤蛮奇に変なポーズで固まっている小傘という非常にシュールな光景、しかし悲劇はこれで終わらなかった。
ポロリ
蛮奇が転んだ衝撃で、彼女の頭が一回転しながら、ドサリと二人の間の地面に落ちた。落下した勢いでさらにもう一度回転。
時間が制止したような空白が辺りを支配した。緩やかな風が吹き、木々がその葉を擦り合わせると、小鳥が一羽飛び立った。
「」
「」
声にならない声。小傘は人の形をしたものの頭が取れるという異常事態に、蛮奇は急に視界が斜めに回転したかと思うと、首から上が無くなっている自分の体らしきものを見ているという不思議体験に。
蛮奇の体の腕が、ぎこちない動きで自分の頭があるべきところを掴もうとする。もちろん空を切る。今度は手を伸ばして自分の頭を持ち上げると、ずっしりとした重みを蛮奇の体は感じた。
小傘の本能がこれ以上の閲覧は精神に異常をきたすと判断したのか、彼女は白目を向きゆっくりと後ろに倒れこんだ。
蛮奇はほんの少し冷静だった。
「ああなるほど、今まで感じてた違和感はこれか。なーんだ、私の頭ってとれるんだー、へー……夢でしょ、これ」
実際は冷静を装って完全に混乱していたわけだが。
自分がろくろ首であること、自分の首が取り外し可能だということ、自由にそれを操れること、赤蛮奇はすべてを忘れていた。
蛮奇は自分の頭をそっとあるべき所に戻し、道のど真ん中で寝転んだ。そして、まるで湖を映したような澄んだ青空を眺め、流れるように浮かぶ雲の感触を想像しながらそっと目を閉じ、静かなる現実逃避への旅に出るのだった。
「ひ、人の頭が、とれた! なにあいつ妖怪?!」
霊夢が頭を抱えてその場にうずくまり、ガタガタと震えだした。
「だから人じゃなくて……結論があってるから突っ込みがしにくいじゃないの! とにかく霊夢、こういった異変が起きてるのよ!」
紫が霊夢の首根っこを掴み無理矢理立ち上がらせる。
「人外がこんなにいたらそりゃ異変だわ!」
「そうじゃなくて、みんなの記憶が失われているのよ! あなたも、私も! そこにいる黒白の鼠も! さっきのやつらもね!」
八卦炉を研究するのをやめ、今度は自分の帽子の中身を漁りだした魔理沙を紫が示す。形容しがたい形のキノコを見つけた魔理沙が、おもむろにそれを片手に持ち、掲げた。
「それをなんで私に言うのよ!」
そんな彼女を無視して、険しい形相の霊夢が紫に怒鳴り返す。
「あなたが博麗の巫女で、異変を解決する義務があるからよ!」
紫が霊夢の眉間にビシッと指を立てた。
霊夢は、よくわからない現象が立て続けに起きた挙げ句、それを自分に解決しろと強要されているようにしか思っていない。得体の知れない恐怖に不安が大きくなり、なぜこんな理不尽なことになっているのか、と叫びたい気分になった。
「だいたいね、気づいてるんだったらあんたがやったらどうなの? なんかできない理由でもあるのかしら?」
突きつけられた指を握って霊夢が言い返す。
「それは……」
紫はすぐさま反論するかと思いきや、急に言い淀んだ。言い返さなければならないのはわかるのだが、記憶を辿ってみても、なぜ霊夢でなければならないのかさっぱりわからないし、さっきまで必死に霊夢を焚き付けていたのが何故なのかすらわからない。
だんだんと自信を無くしていく紫の表情を見た霊夢はほらね、といわんばかりに得意気な顔をし、紫の指を放した。
「さて、お茶でも飲んでリラックスしましょ」
背伸びをして、呑気にここから立ち去ろうとする霊夢。
「ま、待ってっ」
慌てて紫が引き留めようとする。その視界に、奇妙なものが写った。
「ヒッ……」
紫から変な悲鳴が上がった。
空間が割れている。その向こうに、どこともつかない景色が広がっているのだ。正体を言えば紫のスキマだ。しかし、紫の頭からすでに自分の能力すら消えかけている。だから紫はそれがなんなのかわからない。
紫はスキマを怯えた目で見ながら、それを避けるように少し後ずさると、霊夢の後を駆け足で追った。
ロングドレスという格好のせいで走りにくかったが、紫はなんとか霊夢の背に追い付き、肩を掴み、彼女の名前を呼ぼうとした瞬間、不思議な音色が聞こえてきた。
チリン……
なんでもない鈴の音だ。しかしそれは、まるで脳に直接響いたかのような錯覚を霊夢と紫に引き起こさせた。霊夢はゆっくりと肩越しに、紫は反射的に体を振り向かせて鈴の音の出所を見る。
ミャーオ
「あらかわいい」
霊夢が頬を緩ませた。
「……?」
紫は呆然とその姿を見つめる。目に飛び込んできたものはどんなものであるかは理解でき、かわいいのは認めるが、なぜそれがここにいるのか理解できない、という風なものが入り交じったな表情だ。
猫がそこに座っていた。思わず抱き締めたくなるような白い毛並み、背中の橙色の模様、首にはなんの変哲もなさそうな首輪があり、そこに小さな鈴がつけられていた。
ミャーオ
猫が小さく鳴いた。
霊夢が猫を抱こうと近づくが、猫は霊夢に尻尾を向け走り出してしまう。残念そうに肩を落とす霊夢だが、猫は少し離れたところで立ち止まり霊夢と紫の二人を振り返っていた。そして今度は力強く鳴く。すると鈴を鳴らしながらてくてくと歩き始めた。
「ついてこいって言っているのかしら?」
紫が怪訝そうに呟いた。猫の後ろ姿、素振りはまさにそう言っているようだ。しかし確証が持てない。
「言われなくてもついていくわ」
霊夢は迷うことなく猫を追いかけ始めた。猫の言いたいことが伝わったのではなく、自分が猫を愛でたいから、という理由なようだが、猫はそれでも満足したように堂々と歩いている。
神社をぐるりと回るように歩き続ける一行。神社の社殿を通り過ぎ、いくつか独立した建物が見えるようになると、猫が歩く速度を上げた。自然と霊夢たちも小走りになる。
猫が、ある蔵の入り口の前で歩みを止めた。猫が振り向いて二人を見ると、入り口を塞ぐ木の戸を爪でガリガリと引っ掻き始めた。
「開けてほしいの?」
歩いているうちに猫が自分達に何かをやらせたがっていると勘づいた霊夢。彼女が猫に聞くと、猫はグゥ、と喉を震わせて戸から離れた。
特に鍵はなさそうだったが、霊夢は取っ手に手をかけると微かながら戸の中で何かが動いた音がした。戸がロックされたのかと思い一瞬固まるが、慎重に開けてみるも何かに引っ掛かったりつっかえたりと、霊夢が戸を開けるのには支障をきたさなかった。
ずいぶんと埃っぽい部屋だ。肉眼でも宙に塵が舞っているのがわかる。中は薄暗く、其処ら中に貼られたお札もなんとも言えない不気味さを引き立たさせる演出になっている。
霊夢がその薄気味悪そうな空間へ入るのを躊躇っていると、猫はその足を潜り抜けてそそくさと奥に潜り込んでいってしまった。霊夢は仕方なく、重い足を踏み出した。紫も霊夢に続いて蔵に入っていく。
「うっわ埃臭っ」
「……ゲホッ」
ミャーオ
壁や棚、天井のみならず床にも古びたお札がその存在感を誇示し、また蔵に納められている物品もそのほとんどに封印が施されている。黒い箱、割れた急須、カタカタと震える巻き軸。紫にはこれがどういったものであるかピンと来ているようだが、霊夢にとってここは恐ろしい異界にしか思えない。猫のためとはいえども、ここから早く出たいなぁと霊夢はうんざりしていた。逆に紫はどこか感慨深そうな、あるいは感動を覚えているような目で辺りを観察していて、霊夢はそんな彼女に子供みたい、という感想を抱いた。
時々足元に落ちている骨董品につまずいたり、面白そうなものを二人が手にとって鑑定ごっこをしたり、猫が二人のくるぶしをパンチして叱ったりなどを経て、蔵の奥深く、最深部に到着した。猫が霊夢の目線と同じ高さの棚に登ると、そこにある壺をペシペシと叩いた。
「……!」
「これは……」
霊夢と紫は、中を見ずともわかる悍ましさに思わず後ずさる。禍々しい瘴気が壺の口から溢れ出してきているのだ。
二、三歩下がったとき、霊夢の踵に固いものが当たった。それを拾って見てみると、丸い取っ手がついた蓋らしきものだった。お札のような紙も張り付いている。
しばらく蓋を霊夢が見つめていると、猫が低い呻き声をあげた。霊夢がビックリして猫を見ると、壺の口に触れるか降れないかぐらいで手を招いているのが見える。
もしかして、と霊夢が蓋を壺にのせ、お札を壺に押し付けた。
ミャーオ
それを見た猫は満足そうに鳴くと、淡い光を放ち始めた。
「え!?」
「いったい何が?!」
紫と霊夢が驚愕に目を見開く。猫は二人にお辞儀をするように頭を下げ、たちまちお札の中に吸い込まれていってしまった。
ガタガタと大きく壺が揺れ、中から苦しそうな呻き声が上がる。だがそれも束の間、しばらくもしない内に蔵の中は静けさを取り戻した。
霊夢たちは呆然とそれを眺めていたが、だんだんとパズルが組み上がっていくように記憶が戻り始めた。
お互いの顔を見合わせ、紫、霊夢、と名前を呼び合う。
その後霊夢たちはとりあえず蔵から出て新鮮な空気を肺に取り込み、まだ高いところにある太陽を拝んだ。そして遠くから、霊夢ー、と元気よく叫ぶ声が二人の耳に入り、これで異変が解決したのか、とようやく霊夢たちは悟った。
こうして、恐るべき猛威を振るった忘却異変は幕を下ろした。
「いやー、まさか私が原因だったとは……」
霊夢が机に突っ伏したままくぐもった声をあげた。故意ではないにせよ、自分が原因であったことに罪悪感を覚え、落ち込んでいる。
「蔵に探し物をしててそのはずみに封印が解かれて、速攻でその記憶を失うとか全く笑えない話だな」
魔理沙が人を小馬鹿にしたように笑いながら煎餅をかじる。
「もう影響はほとんど残っていないし、一段落ですわ」
紫が疲れに眉を下げながらお茶をすすった。
遥か昔に封印された強力な妖怪の影響で、個人の持つ経験や記憶がなくなってしまっていたこの一件、被害は大きかったものの、その結末はあっさりとした方だ。
あの猫は解かれてしまった封印が実体化したもので、あの蔵は博麗の巫女しか開けることができず、それで霊夢に再封印をお願いしたかったのだろう、と紫は記憶を取り戻しながら分析した。
その後賽銭箱の前で涙目になって霊夢を探していた魔理沙の頭をはたき、事情を説明した後、今こうして三人はまったりとしている。
スキマを通してわかさぎ姫や赤蛮奇の状態を確認したところ、わかさぎ姫と影狼は無事お互いの名前を思いだし、見事草の根妖怪ネットワーク崩壊の危機を脱した。赤蛮奇と小傘はというと、道中通りすがった命蓮寺の面子に拾われ、その後小傘が赤蛮奇に弟子入りをするというまさかの事態となったが、こちらも問題はなさそうだ。
「しっかし今まで呼吸をするようにしてたことが一瞬でできなくなるって怖いな」
「そうねー、もし異変の犯人が狂暴なやつだったとしたら、そいつと戦えたのかすら怪しいし、そもそも弾幕を出せるかどうかもわからなかったわ」
「間一髪ってところね」
あははは、と三人が明るく笑った。ずいぶんとご機嫌なようだ。
紫が何気なく口を開く。
「ところでお二方、私が来る前もう一人いなかったかしら?」
紫の言葉に、魔理沙と霊夢はそういえば、と漏らした。そして記憶を遡り大変な思いをしたときを思い浮かべ、次いである少女の顔が脳裏に浮かび上がると、素早く立ち上がった。
『こころを忘れてた!』
二人は大慌てで仮面の少女の捜索を始めるのだった。
「希望の面どこー……グスン」
その頃こころは、背の低い木々の隙間や、草むらを掻き分けて探しながら、自分の犯した過ちを、無表情ながら今にも目から涙をこぼしそうになりつつ猛省していた。
彼女のつけている仮面は、悲壮感溢れ、また何かを懇願しているように情けなく歪んでいるのだった。
その足が地面に着くと、可愛らしい音が響いた。
賽銭箱の前に座り込む霊夢の膝に、猫が一匹。フワフワな毛にはオレンジ色の模様が柔らかく浮き出ている。
ミャーオ
鳴き声は低めで、しかし間延びしたような響きは霊夢の膝が相当心地良いのだろうと簡単に想像できた。
そんな猫の頭を、霊夢は微笑みながら背中まで毛繕いするかのようにゆっくりと撫でる。猫が気持ち良さそうに身じろぎをする度に、首輪についている鈴が軽く音を立てる。
このほんわかとした昼下がり、黒髪の巫女が猫と触れ合うという絵になる光景を、つまらなさそうに見つめる二人がいる。
「まったく、霊夢がそいつに夢中なせいでどうにも盛り上がらん」
黒白の衣装にトレードマークのとんがり帽子はあまりにも有名、魔理沙は霊夢の真正面に仁王立ちしていた。多少階段があるせいで霊夢から見下ろされる位置だが、触ろうと思って手を伸ばせば霊夢の頭に当たってしまいそうな程近い。
霊夢は、魔理沙の不機嫌そうな声色を聞いても猫を愛で続ける。魔理沙は、かなり長い付き合いのある友人がパッと出の猫に盗られていたように感じて面白くない。
そしてもう一人。
「魔理沙が来たからにはなにか面倒事が起きるんじゃないかと楽しみにしてたのに……まさかこんな方向で面倒になるなんて」
無表情、仮面を顔の傍や体の周りに浮かべ、腕を組み嘆息するのはこころだ。魔理沙の肩越しに霊夢を見ている。仮面は分かりやすく、口をへの字にしていかに機嫌が悪いか一目瞭然になっている。
「仕方ないじゃないの、可愛いは正義なのよ」
霊夢が顔を上げずに言った。ミャオンと猫が小さく鳴くと、そんなに気持ちいいのかーとにやけていた頬をさらに緩めておどけて見せた。猫の柔らかい肉球が霊夢の頬を撫でるように叩く。それに対して霊夢は一段と笑みを深める。そんな一人と一匹を見て、魔理沙とこころは肩を落とした。
なぜ霊夢がこんなに猫にご執心なのか、そしてこの猫はいったいどこから来て何者なのかを単純に言えば、迷いこんだとしか言いようがない。霊夢が境内を箒で掃除しているところに魔理沙が遊びに来て、最近宴会もなく退屈でそわそわしていたこころが便乗して合流した。
しかしそうそう問題が起きるわけも、魔理沙が面倒事を運んでくるわけもなく、こころは落胆した。霊夢はいつもの事となにも感じず、いつも通りまったりとお茶をいただく時間にしようかと思った矢先に、猫が現れた。
霊夢はその猫を一目見て大層気に入ったらしく、人を見ても逃げようとしないその猫を優しく抱きかかえ、じゃれ合い始めてうちに現在に至る。
魔理沙とこころの二人が霊夢に白い目を向けるが、特段霊夢が悪いわけではない。約束をしていたわけでもないし、緊急の用事があるわけでもないただの暇潰しに二人が来ただけだ。自分勝手ではあるが、強引に霊夢の気を引かせることをしないだけましと言えるだろうか。
「ハァ……それじゃあそろそろ私は出ていくぜ」
「あら、もう帰っちゃうの?」
魔理沙が霊夢に背を向けると、霊夢は意外そうに魔理沙に聞いた。このときは魔理沙の背を見ていた。
「猫と戯れる霊夢を見ても面白くないし、さとりとババ抜きやってる方がましだと思ったからな」
「ふーん、あっそう」
霊夢はそれを聞くと、魔理沙に興味を失ったのかすぐさま猫に視線を戻した。
魔理沙は振り向かないが、霊夢の様子を察したのだろう、肩を落としながら複雑そうに視線を泳がした。
「まあしょうがないよ、また来たら?」
こころが魔理沙を励ますように言う。魔理沙はこころに力無い笑顔と軽薄な敬礼で返し、箒にまたがると、地面を蹴り、大空を飛び回
ることはなく躓いたように前のめりになり、受け身を取ろうとしたときにはもう遅く、地面と熱い口づけをするはめになってしまった。
「わぶっ!」
「大丈夫魔理沙!?」
「ちょ、魔理沙!」
派手に転んだ魔理沙に、さすがの霊夢も猫を膝から下ろしこころと一緒に魔理沙に駆け寄った。
「いてて……別になんともないぜ」
ムクリと魔理沙が起き上がる。唇が切れていたり、おでこが赤かったりするが、それ以外に大した外傷もないようだ。
「ちょっと、どうしたの。見たところ飛行魔法に失敗したようだったけど」
こころが魔理沙の頬についた砂利を払いながら言う。その仮面は獅子口に変わっていて、動揺を示している。
「飛び方でも忘れたのかしら?」
さっきまで心の底から魔理沙を心配しているように必死な表情だったのに、霊夢はいつもの通りだ。魔理沙がこんなことではへこたれないということが分かっているからだ。そんな霊夢だが、魔理沙の唇の傷から滲む血を拭き取ろうとポケットからハンカチを取り出した。
しかしその魔理沙は、尋常じゃない様子で自分の手を見て、そして自分の足元を見る。そして小さく指を振り、指先をじっと見つめる。こころは無表情で、霊夢はそれを怪訝そうに見つめる。
「ま」
『ま?』
「魔法って、どうやって使うんだっけ?」
それは、音も無くやってきた。
「な、何を言っているのかしら魔理沙。冗談ならともかく、あんたほんとに空の飛び方忘れたの?」
「い、いや、空の飛び方だけじゃない。細かい魔法類も全部ダメだ」
魔理沙が声と肩を震わせる。その目は不安と恐怖に見開かれていた。
霊夢の背に嫌な汗が流れる。こういうときに限って、あるものが働き始める。博麗の巫女としての勘。異変を解決するために動き出す、その合図。
魔理沙がポケットから八角形のものを取り出した。いつも魔理沙が肌身離さず持ち歩くそれは、魔理沙の半身と言ってもいいものだ。しかし、
「えーっと、これ、なんだっけ」
「……八卦炉でしょ」
「なんで霊夢が知ってるんだよ」
「なんで魔理沙が知らないのよ、おかしいでしょ。あんたの宝物でしょ?」
「そりゃそうなんだが……これもどうやって使うんだっけ……」
「……」
魔理沙はそのまま八卦炉に夢中になり、霊夢のことを眼中から追い出してしまった。
霊夢の注意を引くためのジョークかもしれないし、一時的に魔理沙の脳が混乱していると捉えることもできる。とはいえ、霊夢もこれが単に魔理沙が頭を強く打っておかしくなったと片付けるつもりはない。巫女としての勘がヤバイと囁いているのを霊夢は聞いたからだ。
もしかしたら魔理沙だけではないのかもしれないから、早めにここを出発しなければならなさそうだ、と霊夢は心に決める。
「ちょっとこころ、魔理沙を頼むわよ」
霊夢がこころに真剣な眼差しを送る。今の魔理沙を放っておくのが霊夢には不安で、こころという心強い護衛をつけておきたかった。
「……」
だが、そのこころも、嫌な雰囲気を纏っていた。勿論霊夢のとって嫌な、という意味である。
「……こころ?」
「むむむ……」
「なに自分のお面を不思議そうに見つめてるのよ。……やめて欲しいんだけど、そういうの」
自分の回りに浮かぶ無数の面の一つを手に取り、面に穴が開くのではないかというほど見つめるこころ。この面、作者の顔に似せて作ってあるらしいが、もう少しマシにならなかったのかと思うほどひどい造詣だ。まあ辛うじて面影は残っているが、誰も聖徳王が作ったものだとは思わないだろう。
こころはそれを近づけたり遠ざけたり、裏返したり太陽にかざしてみたりした。
その姿はまるで奇妙なものを始めて見る探検家のようで、しかしその表情は渋かった。こころは仮面を片手に持ち替え、力強く頷いた。
そしてフリスビーの要領でそれを投げ飛ばした。それも生半可な回転ではない。仮面は猛回転しながらそのまま茂みのなかに消えていった。
「気持ち悪い」
「いやあんたのだから捨てんなそれ!」
吐き捨てるように言うこころに霊夢が思わず突っ込みをいれる。気持ち悪い、というかいい感情を持てないところには概ね同意な霊夢だが、希望の面に関わる異変をついこの間解決したばっかりである。その苦労は繰り返したくない。
「あんな気色悪いの私のなわけ無いじゃない」
「あれがなきゃ大変なことが起きるの! さっさと拾ってきなさい!」
「えー」
「えーじゃない!」
鬼気迫る霊夢の気迫にこころが折れた。面倒くさそうに、本当にめんどくさそうにこころが仮面を探し始める。
最初は魔理沙を見て真似しだしたのかと思った霊夢だが、こころの振る舞いはどう見ても素だ。しかも、希望の面云々でこころ自身も大変な思いをしたはずだ。そう簡単に捨てられるものじゃない。
これは早く解決しないといけない、そう霊夢は決心した。
そうと決まれば出発だ、というところで、エプロンドレスの端が霊夢の目にとまった。彼女の名を呼ぼうとするが、とてつもない違和感が霊夢を支配する。
「……? ……、……名前なんだっけ」
目の前の黒白な少女の名前が出てこないのだ。何年一緒にいるかわからないほど一緒にいる親友のはずなのに、なぜだろうか、霊夢の完全に頭から抜け落ちてしまっている。
「おいおい冗談がきついな、私の名前は……なんだっけ?」
「あんたも一緒じゃないの」
自分の名前さえ思い出せないのは明らかに異常である。霊夢はツッコミをいれながら微かに不安を感じ、彼女の名前を自問してみる。だが、紅白の巫女である彼女も同じ結果に陥ってしまう。
落ち葉を燃やしたときに発生する黒い煙のようなモヤモヤが霊夢の胸に溜まる中、霊夢は自分の傍にある物体が浮遊していることに気がついた。
「なにこのモノクロ」
半分ほどで曲線に白黒が分けられた模様をしている球体が、ぴったりと霊夢にくっついてくる。いわゆる陰陽玉という霊夢のオプションなのだが、彼女の目にはまったく未知な存在として写っている。
指でつついたり握ってみたりドリブルしたりするが、いまいち用途がわからない。試しに投げたりぶつけてみたりしようと思っても、もしかしたら爆発するかもしれないという恐怖のため、なかなか手を出すことができず、霊夢は扱いに困っていた。
「ま、いっか」
いくら思い出そうとしても欠片も思い出せないので、そのうち霊夢は思い出そうとすることをやめた。
「お茶でもいれましょ」
そして自分が今さっきまでしようとしていたことすら忘れ、社務室に向かうのだった。
「ちょっとお待ちなさいな霊夢」
「うわぁ!」
その行く手を阻むように、空間が横に裂けた。比喩でもなんでもなく、三次元世界に二次元が存在するような異質。そこから導師服のようなドレスを来た金髪の少女が姿を現した。
「だ、誰よあんた! ていうかなんでそんなところから人が!?」
「誰よとは失礼ね、八雲紫よ! あと私は妖怪! ついでに言えばパートナーみたいなもので……」
「いやいきなりベラベラ喋り出されてもあんたのことまったくわからないんだけど?! 上半身だけ見えてる人とか関わりたくない部類なんだけど!」
「漫才してる場合じゃないの! とてつもない異変が起きてるわ。早く解決しにいかないと」
どうやら紫のことを忘れ去ってしまっている霊夢は、目の前にいる紫を奇人、もしくは理解の外に存在する魔物と判断してしまっている。紫の言うことを聞く気がまったく汲み取れない。
無理もない、と紫は思うものの、焦らざるを得ない。魔理沙や霊夢だけでなく、至る所で同様の現象が起きていることを紫は知っているからだ。記憶が、経験が、次々と消えているという全く恐ろしい事態が。
例えば紅魔館のお嬢様が使用人や親友の顔を忘れて暴れまわったり、紫の式が彼女の顔を忘れてひどい仕打ちをしたり、三途の川の死神が仕事そのものの存在を忘れていたり、白狼天狗が将棋のルールを忘れたり、地獄烏が八咫烏が憑いていることを忘れていたりという異常事態が。
「異変? なんで私がそんなのに付き合わないといけないの」
「あ な た が 博 麗 の 巫 女 だ か ら で し ょ。もう既にそんなことも忘れたの?」
「うーん……まったく心当たりがないわね」
「……まずいわ」
紫がいよいよ頭を抱え始めた。肝心の霊夢がこれではいつまでたっても異変が解決できない。辛うじて紫は持ちこたえているものの、この幻想郷を巻き込んだ異常に絡めとられ、いつ自分の記憶が消え始めるのかわからず、早くこれを解決してしまいたい、と彼女は焦っていた。
「ともかく、これを見なさい」
紫がスキマから完全に身を出すと、その中を指差した。霊夢は不審に思いつつも、そっと覗きこんだ。
「……どういうトリック?」
霊夢は、自分がまったく別の場所を見ていることに疑問を抱いた。彼女が今見ている景色は、湖の畔、なにやら綺麗な石なんぞが集まっているところだった。
「……やっぱりそこから説明が必要なのね」
空間と空間を繋げただけのことではあったのだが、今の霊夢には理解ができていない。しかも、繋がった先の場所のことまで覚えていない。重症だ。
紫は、霊夢が納得するかは別として簡潔に説明を始めようとする。
「あ、なんか浮上してきた」
しかし、霊夢はそんな紫を無視してスキマの中を覗いている。霊夢たちの向こう側、霧の湖に動きがあったようだ。それに彼女が興味を持ったらしい。霊夢もとりあえずスキマへの怯えを捨て、そこに写る光景に集中することにした。
人目につきにくい霧の湖の一角の水面が揺れる。魚のような、人間のような、どちらともつかないシルエットが一直線に泳いでいる。
ついに水中に漂う影がだんだんと濃くなり、青髪の少女が頭を出した。
「スー、ハー」
少女が肺の中身を入れ換えるように深呼吸をする。そしてキョロキョロと辺りを見回し、首をかしげた。
「……ここどこかしら」
水面に浮かぶ少女はなにか目的を持ってここに来たはずだが、その用事も思い出せていない。というか、彼女の見覚えに無い場所だ。しかし、
「なにこれ!」
少女が嬉々とした声色で叫んだ。辺りから隠されたような地形で、あまり動物も立ち寄らなそうなこの場所に自分好みの綺麗な石がこれでもかというほど集められていたのだ。
彼女はわかさぎ姫。頭からヒレのようなものが生えていて、緑の着物の下から出ている足はまるで魚。いや、完璧な魚。そう、彼女は人魚なのだ。
わかさぎ姫は色々な石を手にとって、その感触を確かめる。表面が水に削られ極限まで丸くなり艶が出た石、形は歪だが透き通るような淡い色が光に照らされ浮き上がっているように錯覚される石、人の顔に見えなくもない変な形の石。
頬擦りをしたり、撫でたり、頭にのせたり、仰向けになってお腹にのせてみたりして十分楽しんだ後、
「すごい! 今、私すごい幸せよ!」
目を輝かせながら大声をあげた。
いずれもその少女がどこかで見たような気がするようなものばかりだが、そんなものは関係ない、といった具合に石をかき集める。
さて、そろそろ回収した自慢のコレクションになるだろう品々を保管するためにわかさぎ姫が自分の保管庫に戻ろうとしたその時、
「……どこだっけ?」
そう呟いた。
わかさぎ姫は家というものを持ってはいないが、大切な石をしまっておく場所は確保してある。盗まれないように慎重に場所は厳選したはずなのだが、それがどこなのか、すっかり頭から抜け落ちて住まっている。
そして実際は、本当は、自分のコレクションを並べておく場所だったこのスペースを呆然と眺めて、思い出せないという恐怖に思わず目を潤ませるのだった。
「おーいなにしてるのー、えーっと……」
あと少しで目尻から涙が溢れ落ちるというとき、わかさぎ姫に、彼女の頭上から声がかけられた。わかさぎ姫が反射的にそちらを見ると、つやつやの赤黒いような茶髪に、頭に生えた獣耳、動きにくそうなロングスカートをがくっついているドレスを着た少女が崖の上からわかさぎ姫を覗きこんでいた。彼女の名は今泉影狼というのだが、
「あ……」
わかさぎ姫の友人で、よく会っているはずなのに、わかさぎ姫の口から咄嗟に名前が出てこない。だが、それは影狼も同じなようだ。手を振ろうとして挙げられた影狼の腕が中途半端に止まり、しきりに首を傾げたり、必死に頭を巡らせて視線を遥か中空に投げ掛けている。
とっさに名前が出てこずに詰まる二人だが、影狼が崖を駆け降りてきた。その間も必死にわかさぎ姫の名前を思い出そうとしているのだが、どうにも浮かんでこない。
互いに指を指して、酸欠状態の魚のように口をパクパクと動かしているが、声を出すことができずにいる。
影狼は痺れを切らし、とりあえず勘を頼りにわかさぎ姫の名に辿り着こうとした。
「……マタタビ姫?」
「なんか猫が群がってきそうな名前ね。違うわよ」
「逆巻き姫?」
「何に逆らってるのよ。その痛みに反逆しますとかそういうのかしら」
しかし、ヒントも無しに正解を導き出すことは難しかったようだ。
「そんなに言うならそっちこそわかってるんでしょうね」
影狼がわかさぎ姫を睨む。
「……勿論。小泉卓郎でしたっけ」
「誰よそれ! というかそれ女の名前じゃないし!」
「今隅一夫だったかしら?」
「どうして男性の名前ばっか出てくんの! そっちこそやっぱりわかってないんじゃない」
わかさぎ姫が堂々と間違え、影狼が呆れたように肩をすくめた。
「な、なによー!」
それを見てわかさぎ姫がムッとなった。
「ぐぬぬ……!」
影狼もそれに応える。しかし、端から見ると、彼女たちの可愛らしい容姿と雰囲気も合わさって、じゃれあっているようにしか見えなかった。
「……こう、いまいち緊迫感がないというか、かわいいっていう感想しか持てないんだけど。あと人魚っぽいわねあの青い方。獣耳は……コスプレかしら」
「……いや人魚ですし、もう片方も人狼ですし」
霊夢が紫の方に振り返って言う。前半は紫も同じ感想だったため、あまり言い返すことができない。
「ちょっと場所が悪かったわね、じゃあここならどうかしら?」
と紫が言ってスキマに触れる。するとスキマの中が一瞬暗くなり、数多の目玉が一斉に見開いた。
「ひっ……」
霊夢が肩を震わせる。目玉が相当怖かったのだろう。それを横目に見て紫は一つため息をついた。
「さ、早く」
紫が、見えるものが切り替わったことを合図しても霊夢は小さく震えるだけでスキマに近づこうとしない。
しょうがないわねぇ、と紫はスキマを広げ、霊夢が動かなくても大丈夫なように調節する。向こうで見られている方にも気づかれやすくなるリスクはあるが、今はかれこれ言っていられない状況だ。
スキマの向こうには、人里から少し離れた森の中の道を歩く人影があった。
彼女の背は、萎れてしまっているかのように縮こまっている。手は重力に従いぶらぶらと垂れ下がり、その足取りは重い。
おかしい、何かがおかしいと、彼女、赤蛮奇は違和感を感じていた。首が隠れるほどの襟を持つマントに問題はない。黒い服と赤いスカートになんの異変もなさそうだ。つまり、服装が原因というわけではない。
「でも……なんというか、こう安定感がないというか、頭が宙に浮いてるみたいな感じがしてるんだけど……」
一歩一歩踏み出す度に体が蛮奇の脳に異常を訴えてくるのだ。酒を飲んだ後のような、二日酔いのような、平衡感覚がおかしくなっているのか、どうにも地に足が着いていないような錯覚に彼女は陥っている。
たまたま立ち寄った甘味処の店主が自分の注文をすっかり忘れていて、その事に激怒して飛び出してきた蛮奇だったが、自分も何か大事なことを、自分の根幹に関わることを忘れている気がしてならない。その大事なものがなかなか出てこないことと、どうにもならない空白感に、蛮奇は苛立ちを覚えていた。
「ああもう! とっとと出てきなさいよ、このバカヤロー!」
気持ちが高ぶり頭を掻き毟らずにはいられない。自分で自分の記憶に突っ込むを入れる姿は少し痛いものであったが
「おーどーろーけー!」
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAA!」
「ひぃっ!」
木々に留まっていた鳥たちが逃げ出し、人里にまで届こうかという悲鳴。精神的に参りかけていた蛮奇は、紫色の地に大きな目玉がついている光景に心底驚き、腰を抜かしながら叫ぶしかなかった。
驚かせた張本人、全体的に水色で淡い印象を受ける衣服を着た多々良小傘も、相手の悲鳴に逆に驚かされ、両手をあげ左足をあげたままという妙な格好で固まってしまっている。
蛮奇が人里を出た時点で尾行し始めていた小傘。強そうな奴、例えば異変を解決するような人間や、大妖怪を驚かすことは、丸裸になり猛獣の檻の中にタレも添えて寝転ぶようなものとわかっていた彼女は、何となく弱そうな相手を探していた。
そして蛮奇に目をつけた小傘だが、やはり小心者というか、これまでの経験から自分が驚かそうとしていることが相手にわかっているんじゃないかと疑心暗鬼になり、どうにもチャンスを見出だすことができなかった。
そして蛮奇が叫んだことにより、彼女が自分の潜伏を見破った、と勘違いした小傘が出ていったところ、どういうわけか成功した、というわけだ。
実際は、自分に記憶を引き出したがっていた蛮奇と、やけくそになって出ていった小傘と、互いの思惑は食い違っていたわけだが。
へたりこんでいる赤蛮奇に変なポーズで固まっている小傘という非常にシュールな光景、しかし悲劇はこれで終わらなかった。
ポロリ
蛮奇が転んだ衝撃で、彼女の頭が一回転しながら、ドサリと二人の間の地面に落ちた。落下した勢いでさらにもう一度回転。
時間が制止したような空白が辺りを支配した。緩やかな風が吹き、木々がその葉を擦り合わせると、小鳥が一羽飛び立った。
「」
「」
声にならない声。小傘は人の形をしたものの頭が取れるという異常事態に、蛮奇は急に視界が斜めに回転したかと思うと、首から上が無くなっている自分の体らしきものを見ているという不思議体験に。
蛮奇の体の腕が、ぎこちない動きで自分の頭があるべきところを掴もうとする。もちろん空を切る。今度は手を伸ばして自分の頭を持ち上げると、ずっしりとした重みを蛮奇の体は感じた。
小傘の本能がこれ以上の閲覧は精神に異常をきたすと判断したのか、彼女は白目を向きゆっくりと後ろに倒れこんだ。
蛮奇はほんの少し冷静だった。
「ああなるほど、今まで感じてた違和感はこれか。なーんだ、私の頭ってとれるんだー、へー……夢でしょ、これ」
実際は冷静を装って完全に混乱していたわけだが。
自分がろくろ首であること、自分の首が取り外し可能だということ、自由にそれを操れること、赤蛮奇はすべてを忘れていた。
蛮奇は自分の頭をそっとあるべき所に戻し、道のど真ん中で寝転んだ。そして、まるで湖を映したような澄んだ青空を眺め、流れるように浮かぶ雲の感触を想像しながらそっと目を閉じ、静かなる現実逃避への旅に出るのだった。
「ひ、人の頭が、とれた! なにあいつ妖怪?!」
霊夢が頭を抱えてその場にうずくまり、ガタガタと震えだした。
「だから人じゃなくて……結論があってるから突っ込みがしにくいじゃないの! とにかく霊夢、こういった異変が起きてるのよ!」
紫が霊夢の首根っこを掴み無理矢理立ち上がらせる。
「人外がこんなにいたらそりゃ異変だわ!」
「そうじゃなくて、みんなの記憶が失われているのよ! あなたも、私も! そこにいる黒白の鼠も! さっきのやつらもね!」
八卦炉を研究するのをやめ、今度は自分の帽子の中身を漁りだした魔理沙を紫が示す。形容しがたい形のキノコを見つけた魔理沙が、おもむろにそれを片手に持ち、掲げた。
「それをなんで私に言うのよ!」
そんな彼女を無視して、険しい形相の霊夢が紫に怒鳴り返す。
「あなたが博麗の巫女で、異変を解決する義務があるからよ!」
紫が霊夢の眉間にビシッと指を立てた。
霊夢は、よくわからない現象が立て続けに起きた挙げ句、それを自分に解決しろと強要されているようにしか思っていない。得体の知れない恐怖に不安が大きくなり、なぜこんな理不尽なことになっているのか、と叫びたい気分になった。
「だいたいね、気づいてるんだったらあんたがやったらどうなの? なんかできない理由でもあるのかしら?」
突きつけられた指を握って霊夢が言い返す。
「それは……」
紫はすぐさま反論するかと思いきや、急に言い淀んだ。言い返さなければならないのはわかるのだが、記憶を辿ってみても、なぜ霊夢でなければならないのかさっぱりわからないし、さっきまで必死に霊夢を焚き付けていたのが何故なのかすらわからない。
だんだんと自信を無くしていく紫の表情を見た霊夢はほらね、といわんばかりに得意気な顔をし、紫の指を放した。
「さて、お茶でも飲んでリラックスしましょ」
背伸びをして、呑気にここから立ち去ろうとする霊夢。
「ま、待ってっ」
慌てて紫が引き留めようとする。その視界に、奇妙なものが写った。
「ヒッ……」
紫から変な悲鳴が上がった。
空間が割れている。その向こうに、どこともつかない景色が広がっているのだ。正体を言えば紫のスキマだ。しかし、紫の頭からすでに自分の能力すら消えかけている。だから紫はそれがなんなのかわからない。
紫はスキマを怯えた目で見ながら、それを避けるように少し後ずさると、霊夢の後を駆け足で追った。
ロングドレスという格好のせいで走りにくかったが、紫はなんとか霊夢の背に追い付き、肩を掴み、彼女の名前を呼ぼうとした瞬間、不思議な音色が聞こえてきた。
チリン……
なんでもない鈴の音だ。しかしそれは、まるで脳に直接響いたかのような錯覚を霊夢と紫に引き起こさせた。霊夢はゆっくりと肩越しに、紫は反射的に体を振り向かせて鈴の音の出所を見る。
ミャーオ
「あらかわいい」
霊夢が頬を緩ませた。
「……?」
紫は呆然とその姿を見つめる。目に飛び込んできたものはどんなものであるかは理解でき、かわいいのは認めるが、なぜそれがここにいるのか理解できない、という風なものが入り交じったな表情だ。
猫がそこに座っていた。思わず抱き締めたくなるような白い毛並み、背中の橙色の模様、首にはなんの変哲もなさそうな首輪があり、そこに小さな鈴がつけられていた。
ミャーオ
猫が小さく鳴いた。
霊夢が猫を抱こうと近づくが、猫は霊夢に尻尾を向け走り出してしまう。残念そうに肩を落とす霊夢だが、猫は少し離れたところで立ち止まり霊夢と紫の二人を振り返っていた。そして今度は力強く鳴く。すると鈴を鳴らしながらてくてくと歩き始めた。
「ついてこいって言っているのかしら?」
紫が怪訝そうに呟いた。猫の後ろ姿、素振りはまさにそう言っているようだ。しかし確証が持てない。
「言われなくてもついていくわ」
霊夢は迷うことなく猫を追いかけ始めた。猫の言いたいことが伝わったのではなく、自分が猫を愛でたいから、という理由なようだが、猫はそれでも満足したように堂々と歩いている。
神社をぐるりと回るように歩き続ける一行。神社の社殿を通り過ぎ、いくつか独立した建物が見えるようになると、猫が歩く速度を上げた。自然と霊夢たちも小走りになる。
猫が、ある蔵の入り口の前で歩みを止めた。猫が振り向いて二人を見ると、入り口を塞ぐ木の戸を爪でガリガリと引っ掻き始めた。
「開けてほしいの?」
歩いているうちに猫が自分達に何かをやらせたがっていると勘づいた霊夢。彼女が猫に聞くと、猫はグゥ、と喉を震わせて戸から離れた。
特に鍵はなさそうだったが、霊夢は取っ手に手をかけると微かながら戸の中で何かが動いた音がした。戸がロックされたのかと思い一瞬固まるが、慎重に開けてみるも何かに引っ掛かったりつっかえたりと、霊夢が戸を開けるのには支障をきたさなかった。
ずいぶんと埃っぽい部屋だ。肉眼でも宙に塵が舞っているのがわかる。中は薄暗く、其処ら中に貼られたお札もなんとも言えない不気味さを引き立たさせる演出になっている。
霊夢がその薄気味悪そうな空間へ入るのを躊躇っていると、猫はその足を潜り抜けてそそくさと奥に潜り込んでいってしまった。霊夢は仕方なく、重い足を踏み出した。紫も霊夢に続いて蔵に入っていく。
「うっわ埃臭っ」
「……ゲホッ」
ミャーオ
壁や棚、天井のみならず床にも古びたお札がその存在感を誇示し、また蔵に納められている物品もそのほとんどに封印が施されている。黒い箱、割れた急須、カタカタと震える巻き軸。紫にはこれがどういったものであるかピンと来ているようだが、霊夢にとってここは恐ろしい異界にしか思えない。猫のためとはいえども、ここから早く出たいなぁと霊夢はうんざりしていた。逆に紫はどこか感慨深そうな、あるいは感動を覚えているような目で辺りを観察していて、霊夢はそんな彼女に子供みたい、という感想を抱いた。
時々足元に落ちている骨董品につまずいたり、面白そうなものを二人が手にとって鑑定ごっこをしたり、猫が二人のくるぶしをパンチして叱ったりなどを経て、蔵の奥深く、最深部に到着した。猫が霊夢の目線と同じ高さの棚に登ると、そこにある壺をペシペシと叩いた。
「……!」
「これは……」
霊夢と紫は、中を見ずともわかる悍ましさに思わず後ずさる。禍々しい瘴気が壺の口から溢れ出してきているのだ。
二、三歩下がったとき、霊夢の踵に固いものが当たった。それを拾って見てみると、丸い取っ手がついた蓋らしきものだった。お札のような紙も張り付いている。
しばらく蓋を霊夢が見つめていると、猫が低い呻き声をあげた。霊夢がビックリして猫を見ると、壺の口に触れるか降れないかぐらいで手を招いているのが見える。
もしかして、と霊夢が蓋を壺にのせ、お札を壺に押し付けた。
ミャーオ
それを見た猫は満足そうに鳴くと、淡い光を放ち始めた。
「え!?」
「いったい何が?!」
紫と霊夢が驚愕に目を見開く。猫は二人にお辞儀をするように頭を下げ、たちまちお札の中に吸い込まれていってしまった。
ガタガタと大きく壺が揺れ、中から苦しそうな呻き声が上がる。だがそれも束の間、しばらくもしない内に蔵の中は静けさを取り戻した。
霊夢たちは呆然とそれを眺めていたが、だんだんとパズルが組み上がっていくように記憶が戻り始めた。
お互いの顔を見合わせ、紫、霊夢、と名前を呼び合う。
その後霊夢たちはとりあえず蔵から出て新鮮な空気を肺に取り込み、まだ高いところにある太陽を拝んだ。そして遠くから、霊夢ー、と元気よく叫ぶ声が二人の耳に入り、これで異変が解決したのか、とようやく霊夢たちは悟った。
こうして、恐るべき猛威を振るった忘却異変は幕を下ろした。
「いやー、まさか私が原因だったとは……」
霊夢が机に突っ伏したままくぐもった声をあげた。故意ではないにせよ、自分が原因であったことに罪悪感を覚え、落ち込んでいる。
「蔵に探し物をしててそのはずみに封印が解かれて、速攻でその記憶を失うとか全く笑えない話だな」
魔理沙が人を小馬鹿にしたように笑いながら煎餅をかじる。
「もう影響はほとんど残っていないし、一段落ですわ」
紫が疲れに眉を下げながらお茶をすすった。
遥か昔に封印された強力な妖怪の影響で、個人の持つ経験や記憶がなくなってしまっていたこの一件、被害は大きかったものの、その結末はあっさりとした方だ。
あの猫は解かれてしまった封印が実体化したもので、あの蔵は博麗の巫女しか開けることができず、それで霊夢に再封印をお願いしたかったのだろう、と紫は記憶を取り戻しながら分析した。
その後賽銭箱の前で涙目になって霊夢を探していた魔理沙の頭をはたき、事情を説明した後、今こうして三人はまったりとしている。
スキマを通してわかさぎ姫や赤蛮奇の状態を確認したところ、わかさぎ姫と影狼は無事お互いの名前を思いだし、見事草の根妖怪ネットワーク崩壊の危機を脱した。赤蛮奇と小傘はというと、道中通りすがった命蓮寺の面子に拾われ、その後小傘が赤蛮奇に弟子入りをするというまさかの事態となったが、こちらも問題はなさそうだ。
「しっかし今まで呼吸をするようにしてたことが一瞬でできなくなるって怖いな」
「そうねー、もし異変の犯人が狂暴なやつだったとしたら、そいつと戦えたのかすら怪しいし、そもそも弾幕を出せるかどうかもわからなかったわ」
「間一髪ってところね」
あははは、と三人が明るく笑った。ずいぶんとご機嫌なようだ。
紫が何気なく口を開く。
「ところでお二方、私が来る前もう一人いなかったかしら?」
紫の言葉に、魔理沙と霊夢はそういえば、と漏らした。そして記憶を遡り大変な思いをしたときを思い浮かべ、次いである少女の顔が脳裏に浮かび上がると、素早く立ち上がった。
『こころを忘れてた!』
二人は大慌てで仮面の少女の捜索を始めるのだった。
「希望の面どこー……グスン」
その頃こころは、背の低い木々の隙間や、草むらを掻き分けて探しながら、自分の犯した過ちを、無表情ながら今にも目から涙をこぼしそうになりつつ猛省していた。
彼女のつけている仮面は、悲壮感溢れ、また何かを懇願しているように情けなく歪んでいるのだった。
メモやメールやTo Doリストという外部記憶装置に頼れる外の世界では、ここまで危うい事態にはならなかったことでしょう。その点幻想郷らしい異変とも言えます。
ともすればミスマッチになって浮きかねない組み合わせですが、うまく調和していたように思います
単純ながら実際に起こると恐ろしいものです。
以前、別の方の作品に「忘暇異変」と名付けたものがありましたけど、そっちの方も忘却としての意味合いでは恐ろしく感じました。ちなみに長編連載型で未完結です。
こころちゃんが報われない...。